折々のバカ4
続/雅子さん・皇太子婚約会見
訂正と校閲のあいだ
終章:全力で お守りします 社のメンツ
「はい、こちらは社会部卓上です」
「私、おたくの新聞の読者ですの」
「あ、どうもありがとうございます。で、きょうのご用件は何でしょう?」
「私、文句があってお電話したんですの。一体どういうことなの? きょうの朝刊に載っていた皇太子殿下と雅子さんの婚約会見の記事は! あんな恥ずかしい間違いを平気で掲載するオタクの神経、本当に信じられないわ」
「あのう、それはもしや『振り返れる』のことですか? 」
「そんなことじゃないんですっ! 私が文句を言いたいのは、おたくの新聞が見出しにも使っている『雅子さんを一生全力でお守りします』のくだりよ。どこが間違っているのか、たった今、よぉ〜く読んでみなさい!」
「は、はい。ええと、あ、ここだ。『殿下から、雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますからというふうに…』」
「げっ!」
「…、やっと気づいたようね。念のためにどこが間違っているのか、説明してくださらない?」
「は、はあ。ここにある『申し上げて』というのは本来なら、『言って』という自らの行動をへりくだって使うものですから、この場合は明らかに間違った用法です」
「そうですわね。ここでは、雅子さんが皇太子さまに対して使っている言葉でしょう? それならここでは何を使えばいいか、お分かりになって?」
「はあ、通常なら『おっしゃって』です…」
「その通り。もしこれを子供たちが読んだら、間違った日本語を覚えます。この間違いについては、もちろん訂正を出すんでしょうね」
「私には何とも言えません…」
「なぜですか? こんな間違いをしたのに、訂正を出さないって言うの? もし訂正を出さないのなら、私はオタクの新聞をとるの、やめてもいいんですのよ!」
「はあ、それは私の一存では決められないことでして…」
「な、何ですって!」
「これから私、今件に関する社としての見解を確認いたします。その上で、あらためてそちら様にご連絡いたしますので、お名前と電話番号をお教えいただけませんか」
「分かりました。私の名前は××。電話番号●●●の●●●●です」
「では、今しばらくお待ちくださいませ」
(いったん電話を切る)
「▲▲デスクぅ〜。俺も細かく読んでなかったから気がつかなかったんですけど、婚約会見の記事、『殿下が申し上げた』ってのはヤバイですよぉ〜。PTA系とおぼしきご婦人が、訂正出せって息巻いてますよ」
「そうか、やっぱり苦情が来たか。まあこうなることは、昨日のうちから分かってはいたんだけどな…」
「ええっ? 分かっていたなら直せばよかったじゃないですか」
「でも雅子さん本人がそういうふうに“申し上げちゃって”いるんだよ。だからそのまま載せるより仕方がないだろう!」
「う…、雅子さんが、“申し上げちゃった”んですか…」
「そうなんだ。それで社としてはあの言葉を直すべきかどうか、校閲担当を交えて話し合ったんだ。で、悩んだ末の結論として、直さないままでいくことにしたんだよ」
「うう〜ん、でもですねえ、いくら雅子さんの言葉だとしても、読者は新聞社が間違った日本語を使ったと誤解しますよ。新聞社の見識を疑われます。こういう場合は『当社は雅子さんの話した言葉を尊重し、間違っていてもそのまま掲載しました』って但し書きをつけたほうが良かったんじゃないですかねえ」
「アホ! 人の話し言葉をねじ曲げずに書くのが新聞社として当然のことなのに、そんなことをしたらそれこそ見識を疑われるじゃないか。ましてやそんな但し書きを付けたら、雅子さんの恥を増幅させることになるだけだ。だからウチとしてはさりげなく、さりげな〜くそのまま載せることに決めたんだ。それにこれはウチだけじゃなくて、他の新聞社も似たような対応を取っているはずだ」
「とにかくですね、読者から今まさに、抗議がきてるんです。先方は社の見解を求めてます。電話番号を聞いておきましたから、デスクからウチの考え方を説明していただけませんか」
「最後まで責任を持って、お前が対応してくれ」
「ええ〜っ? だって俺、たまたま居合わせて社会部の電話に出ただけですよ。泊まり勤務の写真部員に、そんなことまでさせるんですかあ?」
「それも泊まり業務の一環だと思ってくれ。まあよろしく頼むよ」
「…」
(抗議の主に電話して事情を説明)
「という訳なんです」
「事情はまあ分かりましたけど、新聞社の対応としては、どうなのかしらねえ…」
「あのう、例えばですね、会見のもようはテレビでも放映されましたが、『申し上げてくださいました』の部分を修正したり、カットしたりした局はありませんでした。弊社もそれと同様にですね、リアリズムに徹した次第なんです。雅子さんに限らず、人の話し言葉をこちらの都合で、新聞社が勝手に手直しする訳にはいきませんから」
「テレビを引き合いに出されてもねえ…」
「まああの、今件では弊社だけでなく、多くの新聞社が同様の対応を取っていることと思います。という訳でございまして、弊社は訂正を出さない方針でございます。ご理解いただけるとありがたいのですが…」
「何だか釈然としないわねえ…」
「それではごめんくださいませ」
「ああ、ちょっとぉ!」
「ガチャ」
(机上に突っ伏し)
「どうだった? 先方のリアクションは」
「そりゃあ納得してないですよ、デスク。俺も一方的に説明して電話切っちゃいましたけど、今回の対応が最善の方法だったとは思えないんですけどねえ。本当に多くの新聞社がウチと同じような対応を取ってるんですか?」
「知らん」
「ひでーなあ。俺は電話でデスクの受け売りしちゃいましたよ。でも実際のところ、他社はどうしているのかなあ…」
(手元にあったX新聞を手に取り、会見記事に目を通す)
「げっ!」
「どうした?」
「デスク、X新聞は、雅子さんの言葉に校閲入れてます!! 『申し上げて』が『おっしゃって』になってます!!」
「…そうだったか…」
「俺、X新聞の見解を聞いてみます」
(X新聞に電話)
「はい、こちらはX新聞広報室です」
「(鼻をつまみ)あのな、わしゃオタクの新聞の読者なんじゃけどな、きょうの皇太子殿下と雅子さんの会見記事で、『雅子さんのことは一生全力でお守りしますからとおっしゃった』とあるじゃろう」
「はい」
「この場面、雅子さんは『申し上げた』と言ったはずじゃ。わしゃテレビではっきりそう聞いたんじゃ。オタクはなぜ勝手に雅子さんの言葉を直すんじゃ? オタクが人の言葉を勝手にねじ曲げる新聞なら、もうわしはとらなくたっていいんじゃぞ!」
「はあ、弊社といたしましても、この点は大いに悩みまして、社内で対応を話し合ったんです。その結論といたしまして、直すことにしました。もし話し言葉のままですと、弊社が間違えたのだと読者に誤解を与えますし、何より雅子さんに恥をかかせることにならないでしょうか。雅子さんにとっては今回が初めての記者会見で、緊張もひとしおだったと思います。一つや二つの間違いには、目をつぶってあげてもいいのではないでしょうか」
「うう…」
「それにテレビ映像の場合ですと、間違いを流してもその情報は、ビデオに録画しない限り消えてしまいます。でも新聞記事の場合は後々まで残りますから、その影響はテレビに比べて格段に大きいんです。ですから弊社は雅子さんの間違いをさりげなく、さりげな〜く直すことにしたんです」
「ううう…」
「これは弊社だけではなく、多くの新聞社が同様の対応を取っていると思うのですが」
「そんなことはない! ウチは違う!」
「ウチ?」
「あいや、まあなんだ。ウチでとっているもう一紙が、オタクとは逆の対応を取っている、ということなんじゃよ」
「はあ、そうですか。まあそれぞれに、考え方に違いもあるでしょうから、でも弊社としては、自分たちが取った判断に、間違いはないと思っています」
「…」
「よろしいでしょうか。では失礼いたします。ガチャ」
「負けた…」
雅子さんの「申し上げた問題」は、その対応の仕方で全国の新聞社を真っ二つに分ける結果となりました。そして、雅子さんの言葉を直した方が良かったのか、そのままでいった方が良かったのか、あれから9年近くが過ぎた今もなお、新聞業界では議論の対象となっています。とはいえ俺的には正直あのとき、X新聞の「大人の対応」に完敗したと思いましたね。何しろ当日は俺だけでなく、カイシャ全体が抗議の電話応対に追われまくりましたから。でもたった一つ、X新聞に勝っていたと思える部分もありました。文字の印刷品質だけは、ウチの方が良かったかな、と(T_T)。