そこには闇が蹲っていた。
闇の中に霞む様に、にも拘らずはっきりとわかる闇がそこにはあった。
夜の闇の中になお暗い闇が、ただただあった。
文明の利器が、夜の世界から闇を駆逐して久しい。
煌々ときらめくネオンの光、行き交う車のヘッドライトの群。
すでに夜の都市部には、暗闇の存在する猶予などありはしない。
闇が人々に恐れられるのは、何故だろうか?
闇の中に存在すると噂される物の怪の存在故だろうか?
少なくとも、闇があれば、人の目ではその奥に何者が存在するか見通す事ができずない。
周囲の確認を視覚に頼る人は、本能的に見えないと言う事に、恐怖するのだろう。
故に、人は、闇への恐怖ゆえか、その存在を執拗に、妄執的に排除してきたのだ。
にもかかわらず。
やはり、闇は、ビルの谷間に、街角の街灯に、それでも街の至る所に点在した。
そんな街角の闇。昼日中には多くのビジネスマンが行き来するオフィス街。
それでも、夜の遅くの時間帯になれば、人々の息遣いは耐え、ひっそりと静まり返る。
人の営みがなくなれば、自然とそこに闇は広がっていく。
目をよくよく凝らしてみれば、そこはすでに人の生活領域ではなく、百鬼夜行の跳梁跋扈する姿が見えるのかもしれない。
その異形なるもの達が実際に存在しているか否かは、別の議論だ。
存在の証明は「いる」事と「いないこと」の証明を必要とするのだ。
この場にての議論は不毛な結果に終わる可能性が高く、またその知見も少ない故に結論を下すのには時間がかかるのだから。
それはともかく。
オフィス街のビルの屋上に、蹲る闇が何者か、それは誰もその答えを知る者は居ない。
だが、闇の中に闇がわだかまっている……、はっきりとは解らないが、そうとしか言えないのだから仕方ない。
夜の闇よりもさらに濃い暗闇……その雰囲気をまとうものが、ビルの屋上から眼下の風景を見下ろしていた。
蹲る闇の背後に、新たなる闇が出現した。
否、それを闇と言っては失礼かもしれない。
現れた瞬間に『その男』の存在感は圧倒的だった。
巌のような体躯の大男が、突如何もない空間から出現した。
赤い色の槍を肩に担いでいる。
男のみならず、その槍も明らかに強い力を放っている。
その姿、誰もがこの男が優れた戦士であるという事を想像させた。
そしてその想像は、おそらく間違いはないのだろう。
「見つけたか?」
声音は力強く、しかし声色は限りなく優しい。
聞く者は、その太く優しげな声に、安堵を感じるのだろう。
そして、その闇が静かに首を振った。否、それは闇……ではない。
偶然だろうか?
男が闇に向かって問いかけたその時、雲間から差し込む月明かりがその暗闇を照らし出した。
黒い外套を身にまとった小柄な影は、おそらく人間。
外套を身にまとった外見からすれば、背丈はそれ程高くはない。
むしろ子供か少女ぐらいの身長だろうか?
黒い外套の隙間から僅かに見える白磁の肌、真一文字に結んだ桜色の唇。
凡俗な言葉になってしまう事をあえて承知の上でその存在を表現するならば、そは月の女神であろうか。
この存在が男の問いかけに対して、僅かに反応するのは、その人物に意思というものがあるのか、あるいは条件反射か。
その反応に、いずこからか出現した男は僅かに表情を曇らせる。
一言で言えば落胆。確かに期待はしていなかったが、僅かながら心の片隅にはすがるような切望があった。
刹那、それを隠す事に失敗した男だったが、すぐに表情を引き締める。
外套の人物は、背後に出現した男の心のうちをまるで気にする風でもなく、その視線を、夜の街並みに注いでいる。
それ故に、実際には男がどのような表情を浮かべたのかは知る由もないのだが。
男にとって、自らの落胆をこの人物に悟られるのは望ましくないのだろう。
男は、その端正な顔を引き締めた。
しかし、この二人の人物。何を探しているのだろう。
いや、それ以前に何者であるのだろうか。
男は、まるで少女に気を使うかのように静かにその背後に直立する。
その姿はまるで、可憐なる乙女を守る騎士の様。
実際に、男の身にまとうは西洋の鎧にも似た、騎士甲冑そのものである。
フルプレートと呼ばれる全身を覆う鋼の防壁を、まるで苦にする風でもなく容易くその身にまとっている。
その手に持つ彼の獲物も決して、軽いものではない。
おそらく、その身を守る甲冑を脱げば、その下には見事な肉体が出現するに違いない。
端正な顔立ちと相俟って、惚れ惚れとする様な偉丈夫であった。
そんな偉丈夫が、ピクリと眉を吊り上げる。
「ふぇふぇふぇ、そうも簡単に見つかったら、苦労はせんて」
男達のいる場所とは別の方向から声が聞こえた。その声に大男が盛大に舌打ちをする。
先程とは違い、嫌悪の表情を隠す事はしない。
そこには、灰色の外套ですっぽりと全身を覆い隠した人影が出現していた。
しわがれた声、そして、腰の辺りから曲がっている姿を見ると、かなり高齢の人物のようだ。
その手には、先端が二重に分かれた蛇を模した杖を握っている。
まるで、物語の中から抜け出してきた魔法使いの老婆のようだった。
今すぐにでも白雪姫の元へと飛んでいき、毒林檎を差し出しそうな人物だった。
「長老殿か、言ってくれるな。しかし、姫の探知に引っかからぬとは、未だ活性の兆しは見えぬのか?」
「ふぇふぇ、確かに活性化しておらねば、いくら姫でも見つからぬのも道理じゃが……」
乱杭歯の様な口が笑みの形に歪む。
男の顔は、しかめっ面に歪む。
「では……」
「否、活性化はしておるよ、昨今、この街周辺での奇妙な魔力反応は感知しておる。姫君も僅かなれど反応はしておられたであろう。されど、詳細な位置までは、完全には探知できぬ……やはり……」
「なるほど。姫の力が、未だ十分ではないと言う事か」
「欠損した姫の力では、感じるだけで精一杯じゃろうて。せめて姫君の『視覚』の範囲内で、『あれ』が力を使うか、魔力を喰らうかしてくれればまだしも。姫君とて努力はしておられるのじゃ、責めてくれるな、騎士殿」
「誰も責めてはおらん。だがしかし不便なものだな」
「うむ、姫の力が戻れば、例え不活性状態であっても容易に探知して見せようものを。ましてや、活性化しておれば、過つ事なく察知して見せようものじゃが。やはり、姫の力を取り戻すのが先決じゃの。じゃが、その為にも、『あれ』を回収せねばならぬ。その為の我等じゃて。それに主殿も『あれ』の回収をまずはお望みとの事じゃ」
「姫の力を取り戻すためにも『あれ』が必要だと、されど、それを捕縛する為の姫の力は期待できぬ、か。ちっ、堂々巡りって言うわけかい……くそっ……あの……」
「その言葉、そこでやめておいたほうが無難じゃの。主への不忠は騎士の恥、盲目の忠義こそ騎士の誉れじゃて。己の失言で失墜した騎士のなんと多き事よ。おぬし程の騎士がその様な凡百の騎士のような末路を辿る事もあるまいて?まして、姫君の前でその発言、いささか不遜と言うもの。そのように無駄に首を落とさずとも、姫君が、そうと望めば、おぬしは自ら差し出すであろうがの?」
ふぇふぇふぇと笑い声を立てる老婆。ちっっと舌打ちをする槍の騎士。
騎士として、主への忠義を盾にされては致し方ない。忠節を尽くしてこその騎士の存在である。
逆に言えば主に忠節を尽くすからこそ騎士と呼ばれるのだ。
それはいかなる世の中にあっても、いかなる世界であっても変わらない。
だが、それはやはり、使えるべき主の人格が……否、やはり使えるべき主が別人であったらと考えるのは、不忠の極み。
彼は、脳裏に浮かんだ『とある』考えを即座に打ち消した。
「不満そうじゃな?」
ふぇふぇふぇと壊れた笛の様な笑みを浮かべる老婆。
だがしかし、この老婆の言う事もあながち過ちではない。
いかなる思惑があるにせよ、主に使えてこその騎士なのだ。
それに、現状は、彼の目的と主の目的はそれ程、かけ離れてはいる訳ではない。
「今は、姫の為。そう思って我慢するしかあるまいて。それに現状は主殿と我等の目的は一致している」
「ふぇふぇふぇ、おのが目的のためには主殿も利用するかの?その様な小賢しい猿知恵などおぬしには到底似合わぬ。それを考えるのはお主ではなく、わしの役目じゃろうて……」
「まったく、俺を何の考えもなしの馬鹿だとでも思っているのかね……それはそうと、長老一人か?彼奴はどこに行った?」
「おお、忘れておった。あやつめには別の仕事を頼んでおいた。合流はいま少し遅れるぞ」
「おいおい、それは……」
「まて、姫が何かを感知したようじゃ」
抗議をしようとする男を、老婆が手と言葉で制した。
老婆の言葉に男は、あの黒い外套の少女を振り向える。
屋上の床に座り込んでいた小柄な影はいつの間にか立ち上がっていた。
すっと、街の一箇所を指し示す。
「見つけたか……」
言葉に混じる愉悦の感情を男は隠しきれていない。そして、にやりと槍の騎士が獰猛な笑みを浮かべる。
それは、猟犬が獲物を見つけたときに浮かべる笑みそのもの。明らかに戦いを娯楽として捕らえる者の表情。
「あまり力は感じぬが、まぁ、散々待たせられたんだ。せめて憂さ晴らしぐらいの強さであって欲しいものだが」
「やり過ぎぬ様にな。いくら『あれ』とて我等の求めるものじゃぞ?」
「解っている、流石に『あれ』を破壊はするものかよ!」
「どうだかの。お主がそんな物騒な笑みを浮かべているときは、まったくもって信用がならん。それはともかく、転送をかけるぞ」
「ああ、やってくれ!」
男の言葉に、老婆がこつん、こつんとコンクリートの床を杖で何度か叩く。
男の足元に円と正三角形を組み合わせた魔法陣が浮かび上がった。
その山のような体躯が淡い緑色の光で包み込まれる。
「気をつけよ、この世界、魔導士は存在せぬものと思っておったが、おかしな魔力反応が点在しておる」
「よもやベルカの騎士か?」
「うむ……単に素質を持つものと言うだけであれば『ニエ』にしてくれようと思ったが…これは違うな。明らかに魔導士か騎士の反応よ。近くに一つ、遠方に二つ……いや三つか。『目』も幾つか、まるで食い扶持を探す野良犬のように嗅ぎ回っておるわ!自らが『魔力』と言う餌を撒き散らしておるとも気がつかずにな!」
「なるほど、だから『あれ』が活性化したか…しかし、なにものだ?よもや管理局とかいう連中か?たしかこの世界は奴らの言う管理外世界と言うものではなかったのかね。管理外世界が聞いて呆れるが……。それにしても余計な手間をかけさせてくれるものよ。だがな、今は放っておくしかあるまいがな」
「ふぇふぇふぇ、まぁ、それがよかろうよ。されど、おぬしの事じゃ。横槍を入れてきたら……」
「ああ、『あれ』共々に吹き飛ばしてくれる」
「くれぐれも勢いあまって、消炭にしてしまわぬようにな。『断章(あれ)』の回収こそ我等の使命ぞ?念の為に、そなたを転送したら周辺に防御結界を張り巡らす。案ずる事はない、おぬしが敗れても、その槍は形見としてわしが回収してやる」
「長老、誰に向かって物を言っている?」
「心配はしておらぬよ、信用もしておらぬがな?」
「言ってくれるわ!さっさと転送しろ、この似非魔導士!」
「ふむ、転送に事故はつき物じゃ。あまりに急くと、文字通り『塁壁の騎士』になってしまうぞ?」
流石に、その言葉には、怖いもの知らずの騎士もたじろいだ様な表情を浮かべた。
「おいおい、気をつけてやってくれよ?」
「かかか!このわしが失敗するとでも?すでに座標は割出済みじゃて、多分じゃがな。多分成功するであろうよ。そんなことよりも、まさかでも損じる事がなきよう、気を引き締めていくのじゃぞ?」
「はん!何度も言うがこの俺が、敗れるとでも?……って、おい待て、こら!多分って何だ、多分って!」
「安心するのじゃ、少なくとも、ここ最近は失敗した事はないわ」
「以前ははあったのかよ」
「かか!なんの、わしが魔法を失敗した事なんぞ、記憶にまるでないわ!」
「忘れちまったのかよ!この耄碌婆!忘れねーぜ、あんたの儀式魔術の大失敗を!あんときゃ、俺たち全員が危うく氷付けになるところだったじゃねぇか!!」
「そんな事もあったかもしれんのう。爺さんや、昼飯はまだかのぅ?」
「呆けたか、クソババァ!てか、誰が爺さんだ、誰が!ったく……姫の事は頼んだぜ?」
「解っておるわ。すぐにあやつも駆けつけてくる。こちらの心配は無用じゃ」
魔法陣が、輝きを帯び、男の身体が透き通り始め、瞬間、男は光の粒子となって消滅した。
転送の魔法が発動したのだ。
今頃は、転送先に出現している事だろう。
その証拠に、老婆は自らの生み出したサーチャー、探査用魔力スフィアで、確かに男の出現を感知した。
それを確認した魔女は、杖を天に突き上げるように振り上げる。
『閉じよ』
こつん。
コンクリートの床をただ一度だけ、手に持った杖で打ち鳴らす。
そして、彼女を中心とした広大な結界が、街を包み込んだ。
半径にして数キロメートル。それも瞬きをする程度の時間もかける事無く、である。
驚くべきはその魔力。
僅か一動作、僅かに一言、僅か一瞬。
都市の全てを包み込む巨大な結界が僅かそれだけで完成した。
私達の根源(はじまり)は、何だったのだろう?
その頃の私は、自らを不幸のどん底にいるのだと思い込んでいた。
ある意味それは、正しい事だったのだが、世の中には私程度の不幸な人間なんていくらでもいたのだ。
けれど、色々と辛い事が連続して起こったばかりで、幼い自分の心が押し潰されそうになっていたのだ。
理解(わか)ってはいる。それがただのいい訳だという事は。
その頃の私は、それでも自分は大人だと思い込んでいたのだから、なお始末が悪い。
孤独でいられる『ふり』をする事と、一人であると言う事は決して同義語ではない。
一人では生きていけない事を自覚せずに『一人』でいるつもりでいるという事は、まったく身勝手で幼稚な事だったのだ。
でも、現実にその事に気がつくのは実は、とても難しい。まして、『子供』でしかなかった私には、とてもではないが理解できる事ではなかった。
だから最初はその『出会い』に驚くばかりだったけど。
私達の出会いは、突然だったと。記憶している。
彼女と私の出会い方は、ある意味突然で、刺激的で、幻想的で、破天荒だった。
今にして思えば、私の常識からは、考えられない出会いをしたものだ。
万に一つの偶然、いや、億に一つだったのかもしれないその出会いは、運命と言う言葉で表してしまえるほど陳腐なものではないと思っている。
それは、この世界で何度も繰り返し行われる『出会い』の中のひとコマに過ぎないのかもしれない。
しかし、私の中にある『何か』を変えてくれた大切なひとコマには違いがない。
頑なだった、氷の様な心を溶かすのは、やはり心でだった。
その事に気がつくまでに、かなりの長い時を要してしまったけれども。
それを気づかせてくれたのも、また彼女だった。
そんな風に思えるようになったのは、もっと、ずっと、ずっと後になってからの事だったのだけれども。
だが、今は、出会えた事に、出会えた運命に感謝を捧げよう。
特別な理由なんていらない。
私達の運命の歯車は、いつまわりだしたのか?
時の流れの遥かな底から、その答えを拾い上げるのは、今となっては不可能に近い……。
いや、思えば、出会ってしまったその瞬間から。
私達を結ぶ運命の糸車は、意地の悪い運命の女神によって廻されていたのだろう。
だが、確かにあの頃の私達は、多くのものを愛し、多くのものを憎み……。
お互いを傷つけ、お互いに傷つけられ……。
何度も立ち止まりながらも、それでも風の様に駆けていた……。
青空に、笑い声を響かせながら……。
これは今更語るまでもない、私達の過去の物語。
それでも、今となっては懐かしい物語……決して帰ってこない思い出の中の物語。
これは、私『やがみ はやて』と彼女『やがみ はやて』の物語。
あとがき
はじめましての方ははじめまして。
東壁堂と申します。
これは、魔法少女リリカルのなのはA’sとStsの空白期の物語。
夜天の書の主『八神はやて』とヴォルケンリッター達がであった
もう一冊の魔導書と、その守護騎士達の物語です。
投稿はゆっくりとになりますが、楽しんでいただけると幸いです。