選考委員

写真森村 誠一氏

埼玉県熊谷市生まれ。青山学院大卒。9年間のホテル勤務を経て、「高層の死角」で江戸川乱歩賞、「腐蝕の構造」で日本推理作家協会賞を受賞。「人間の証明」「青春の証明」「野生の証明」の「証明」三部作で現代日本を代表する推理小説作家に。その後も歴史・時代小説、ノンフィクションなどへも作品の幅を広げ、精力的に執筆活動を展開している。



写真夏樹 静子氏

東京生まれ。慶応大学英文科在学中に「すれ違った死」が江戸川乱歩賞の最終候補に。NHKの「私だけが知っている」のシナリオ執筆を笹沢左保氏らとともに務め、「ガラスの鎖」で作家デビュー。「天使が消えていく」が江戸川乱歩賞次席、「蒸発」で日本推理作家協会賞、「第三の女」はフランス訳され、冒険小説大賞に。女流推理作家の草分け的存在。


写真北方 謙三氏

唐津市生まれ。中央大学法学部卒。「明るい街」で作家デビュー後、純文学作品を発表。『弔鐘はるかなり』で初めてエンターテインメント作品を書き、人気作家に。『眠りなき夜』で第1回日本冒険小説協会大賞と吉川英治文学新人賞、『渇きの街』で日本推理作家協会賞、『明日なき街角』で日本文芸大賞、『破軍の星』で 柴田錬三郎賞など。


第14回九州さが大衆文学賞 笹沢左保賞受賞作
お試し期間 水城亮
 
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 あるとき、真琴がガラスコップを床に落とし、割れた破片の上に転び落ちそうになったことがありました。私は両腕を差し出して、真琴の身体を受け止めました。幸い、真琴は無傷でしたが、私の腕にはガラスの破片がいくつか突き刺さりました。私は痛みを堪えなから、真琴に微笑みかけました。真琴は、しばらく何も言わずに、私の血まみれの腕を見つめていましたが、いきなり私に抱き付いてきたかと思うと、声を放って泣き出しました。私も、そんな真琴を力一杯、抱きしめてやりました。この日を境に、真琴は少しずつ、私に心を開いてくれるようになりました。
 一方で、瀬川との仲は、いよいよ冷えていきました。しかもこの間、私は恐ろしい事実を知ってしまいました。瀬川が、自分の会社を興した際の資金。それは、あなたのご両親を騙して手に入れたものだったのです。ある夜、瀬川は酒に酔いながら、自慢話でもするかのように、愉快気に私の前でそのことを語ったのです。あなたから概略を聞かされていた私は、あなたのご両親のことだと、すぐに気付きました。私は、因縁の連鎖に驚き、瀬川を一層、憎悪しました。
 そんな瀬川に、天罰が下ったのでしょうか。結婚して一年が過ぎたころ、彼は突如、病に倒れました。胃癌でした。それから日をおかずして、他界しました。瀬川が死んだ日の夜、私は独り、涙を流しました。あんなに憎悪し、軽蔑していた男なのに、なぜなのか、自分でも分かりませんでした。
 どういうつもりだったのか、瀬川は遺産の全てを、私に相続させるという遺言書を残していました。私自身、お金に執着はありませんでしたが、いずれは真琴が受け継ぐものなのだから、それまで預かっておくつもりで受けなさいという、谷本さんのお言葉に従いました。谷本さんは、高潔な倫理観と信念に基づいて行動される、立派な弁護士さんです。以前、たまたま知り合う機会があり、それ以来、個人的にお付き合いさせていただいていました。私の周りでただ一人、信頼のできる方でした。
 ところが、なんの運命の皮肉か、瀬川に続いて、私までが死病に取り付かれてしまったのです。医師から余命わずかと宣告されたとき、私は死の恐怖におののきながら、それ以上に、独り、残されることになる真琴のことが気掛かりでなりませんでした。あの娘はすでに、私の最愛の娘でした。真琴をまた、孤独の闇底に突き落とすことになるのかと思うと、自分の死など瑣末なことのように思えるほどに、悩み、苦しみました。
 母を亡くした私には他に親類がなく、瀬川の親族といえば、妹の須山佐那子さんしかいませんでした。しかし、率直にいって、私は佐那子さんが信用できませんでした。佐那子さんは、兄の瀬川によく似た、利己的で、自分勝手な女性でした。瀬川と結婚したときも、財産目当てだろうと私を白い目で見て、事あるごとに嫌味を言うような人でした。似た者同士は憎み合うの言葉通り、兄妹でありながら、瀬川も、佐那子さんに対しては終始、冷淡でした。瀬川が亡くなったときも、佐那子さんはひたすら遺産分けの苦情のみを、私に言い立てました。いくら仲が悪かったとはいえ、実の兄の死を少しも悼まない、そんな女性だったのです。

カット
 その佐那子さんが、果たして真琴のことを慈しんでくれるだろうか。私は不安でなりませんでした。そんなとき、あなたのことに思い至ったのです。
 あなたなら、真琴のことを受け止めてくれる。なぜなら、私も、あなたも、真琴も、同じだから。人は信じられないと心を閉ざしながら、真から信じられる人を求めている。あなたなら、きっと真琴のことを理解できるに違いない。私は、そう思いました。
 それでも、あなたに真琴をまかせることには、一抹の懸念というのか、ためらいはありました。ひとつは真琴が、あなたのご両親の敵である瀬川の娘であること。あなたは、それだけで真琴に対し、拒絶反応を起こすかも知れない。もうひとつは、あなたの性格です。私の最後の頼みだと知れば、たとえ敵の娘でも、あなたは、真琴のことを無理にでも受け入れようとするでしょう。しかし、それではいけないと思いました。背景にある事情などは全て排除した上で、一人の娘としての真琴を、あなたが愛してくれなければ意味がないと思いました。それに、あなたには失礼になるかもしれませんが、真琴にも、あなたという人を見定める機会を与えたかったのです。別に、あなたがどうこういうのではありません。ただでさえ、真琴は人見知りのひどい娘ですし、人には、相性というものがありますからね。果たして真琴が、私の願い通りに、あなたのことを慕うようになるかは、私にも予想がつきませんでした。
 そこで私は、あなたと真琴の二人がお互いをよく知り合う機会を作るべきだと考えました。そうして思い付いたのが、かつて、私たちが実行したお試し期間でした。私は熟考を重ねた末に、遺言書を二通、それぞれ日付をずらしたものを作成することにしました。そして、日付の古い一通を、私が死んだら開封するようにと谷本先生にお預けし、日付の新しい一通はこの手紙と一緒に封筒に入れ、真琴に預けておくことにしました。二通の遺言書の内容は、この手紙を読んでいるあなたは、すでにご存じでしょう。遺言書の真の目的は、あなたたちに、財産ではなく、半年というお試し期間を贈ることだったのです。
 真琴には前もって、あなたの名前と居所を教え、私が死んだら必ず会いにいくように話しておきました。ただし、あなたに会っても、自分のことは名前以外、なにも喋ってはいけないとも言い含めました。その上で、あなたが受け入れてくれるまでは、絶対にあきらめてはいけないと言い聞かせました。
 あなたも、突然、素性の知れない少女が訪ねてきて、さぞ驚かれたことでしょう。あなたのことだから、初めは冷たくあしらったのかもしれませんね。それでも、真琴は、私によく似た意地っ張りですから、私の言い付けどおり、あなたが受け入れてくれるまでは、しつこく通い続けたことでしょう。
 そうして、あなたと半年を過ごし、それから先も一緒に暮らしていきたいと願うなら、預けておいた封筒をポストに投函しなさい。そうすれば、ずっとあなたと一緒にいられるようになるからと真琴に教えました。もし、真琴があなたを嫌い、封筒を投函しなければ、日付の古い方の遺言書がそのまま有効となり、佐那子さんに真琴を任せることになるはずでした。でも、あなたはこうして、私の手紙を読んでいます。真琴は、あなたを選んだのです。そして、あなたも今では、真琴のことを愛してくれているはずです。真琴は賢い娘です。あなたの愛情を知った上で、あなたについていくことを決めたのでしょうから。
 どうか、真琴をよろしくお願いします。真琴は、瀬川の娘です。けれども、そんな過去に拘泥することはないでしょう。しがらみは全て断ち切って、真琴と新しい道を歩んでください。あえて敵の娘と共に生きることで、あなたの中のわだかまりも、消えていくものと信じます。私も、遂げられなかった想いを、真琴に託し、残していきます。あなたが、私のことを少しでも想っていてくれたのなら、その分も真琴を愛してあげてください。
 最後になりましたが、遺産の半分はあなたに譲ります。もともと、あなたのご両親のお金を基に築いた財産ですから、あなたにも遺産を受け取る権利があります。
 あなたと真琴、二人の幸福を、心よりお祈りして筆を置きます。
 ありがとう、翔。そして、さようなら。
千里」

 読み終えて、私はしばしの感慨に耽った。 学生の頃よりも、ずっと多くのことを千里と語り合った気がした。もっと以前に、こうして全てをさらけ出して語りあっていたならば、彼女とのことも、違う結果になっていたのかもしれない。そう思うと、悔悟はあった。が、それも、もういい。私の傍には真琴がいる。それで充分だった。
 長く縛り付けられていた鎖から、解き放たれたような気分だった。これまで抱えてきた、憎悪も、悲哀も、不信も、こだわりも、全て溶け去っていく実感があった。これも、千里の思惑通りかと思うと、ちょっと癪な気もしたが、しょせん、私は千里には勝てない宿命なのだろう。
 私は近々、真琴を連れて、横浜の伯母を訪ねようと思った。伯母には随分と無沙汰をしてしまっている。いきなり、娘を連れていったら、伯母はどんな顔をするだろう。私は一足飛びに、そんなことをうきうきと思い描いていた。
「いかがですか」
 頃合を見て、谷本弁護士が話しかけてきた。
 私は、静かに笑みをたたえる谷本弁護士の顔を見つめた。とぼけたふりをしているが、この件に彼が一枚、噛んでいることは明白だった。が、それを認めることは、立場上、彼にはできないだろう。故意に遺言書を二通、作成することを、千里に示唆していたことが知れれば、訴訟問題にもなりかねない。
「私は、遺産を受け取れません」
 私は、明然と答えた。
 谷本弁護士は、私の返事を予測していたかのように、その表情を変えなかった。
「真琴には遺言書の通り、遺産の半分を相続させてやってください。私が受け取ることになっている残り半分は、真琴の叔母さんに譲ります。それならば、あちらも納得されるでしょう」
「佐那子さんに遺産の半分をお譲りになる。本当に、それでいいのですか」
 私は、ためらうことなく頷いた。
「分かりました。そのことは、私がうまく処理しておきます。ところで、真琴ちゃんの後見人の件はどうなさいますか」
 真琴が不安そうな顔をして、私を見上げていた。私は微笑みながら、真琴の髪を撫でた。
「真琴、本当に俺と一緒に暮らしたいか」
「うん」
 真琴は躊躇することなく、首を縦に振った。不安顔は消え、いつもの明るい顔になる。
「どうして」
 私が聞くと、真琴は、小首を傾げて思案顔を見せてから、答えた。
「だって、翔が作ってくれる御飯、叔母さんのよりも、ずっとずっとおいしいんだもの」
 私は、口を開けて哄笑した。そして、谷本弁護士に、そのままの笑顔を向けた。
「こういうことです。先生」
 谷本弁護士は、口元を綻ばせて頷いた。
「翔」
 真琴が、私の腕に絡みついてきた。翔。いい響きだ。私は生まれて初めて、自分の名前が好きになっていた。
(了)

 
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