千里は、こまめに電話をくれた。手紙も、何十通と寄越した。私も返事は書いたが、それも千里の十通に対し一通も返せばいいところであった。電話も、私の方からかけたのは、せいぜい五回に一回といったところだった。どうして、わざわざ疎遠な態度を取るのか、自分でも、よく分からなかった。もどかしくてならなかった。
千里の母親は、すっかり身体が弱ってしまっていて、入退院を繰り返しているとのことだった。それは、彼女が簡単には故郷を離れられないことを意味していた。ならば、私が千里に会いにいけばいいだけのことだった。しかし、私には、そんな簡単なことができなかった。仕事が忙しいとは、言い訳にすぎなかった。なりふり構わずに、彼女を求めればいい。分かっているのに、私の中のなにかが、激情の奔流に制御をかけていた。結局、私たちは、大学を卒業してからは数えるほどしか会う機会がなく、それもすべて、千里が無理を押して上京してきた場合に限られていた。
大学を卒業してから二年が過ぎたころ、千里の母親が亡くなった。千里は電話口で、彼女らしく気丈に、平素と変わらない声で、その事実を私に告げた。が、私には、電話口の向こうにいる、彼女の涙が見えるようだった。不器用な私は、そんな千里に慰めの言葉ひとつ、掛けてやることができなかった。私は、ただ一言、
「落ち着いたら、こっちに戻ってこないか」 といった。それは、千里を想ってというよりも、私のわがままであった。千里を傍に置いておきたいと願いながら、自分からは行動に移せないために、彼女に決断を迫ったのだ。それは、母親を失ったばかりの千里には、残酷すぎる要求だった。私は、誠実さのかけらもない、卑劣で狡い男だった。
千里は、長い沈黙の後、静かに返事をした。否、であった。私も、それ以上は求めなかった。
さらに、一年が過ぎた。
千里から、電話があった。いつもの気ままな談笑だと思っていた。事実、最初のうちはそうだった。他愛のない会話が続いた。
一区切りついたところで、千里がいった。「私ね、結婚するの」
ありふれた世間話のように、抑揚のない、淡白な言い方だった。私は息をのみ、しばし言葉を失った。正直にいえば、衝撃のあまりに口がきけなくなっていた。それでも千里は、容赦なく話し続けた。
「私が勤めている会社の取引先の人でさ。母さんのことでは、いろいろとお世話になったの。式は三か月後。会社は辞めることになると思う」
私は、黙って聞いていた。最初の動揺は薄れ、なぜか、奇妙なくらいに穏やかな心持ちだった。来るべきものが来た。そんな気がしていた。
「なにか言ってくれないの」
「おめでとう」
私は、情感のこもらない声で言った。
「本気で言ってるの」
「他に、なんて言えばいいんだ」
「自分で考えなさい」
耳元で千里の笑い声がした。いつもの彼女らしい、おおらかな笑い声。
「駄目だったね、私たち」
千里は、ぽつりと呟いた。そう、駄目だった。お試し期間は終わったのだ。
「私は、不良品だったわけだ」
「違う。不良品は俺の方だ」
「馬鹿ね」
千里が、いつもの調子でいった。私には、それがひどく懐かしく、そして遠く聞こえた。
「ねえ、聞いてもいい?」
「ああ」
「どうして、こっちに来てくれなかったの」
千里は、製品の説明書の不明な点を確かめるように、いった。
「会いにいって、おまえに返品されるのが怖かった」
半分冗談で、半分本気だった。
「意気地なし」
千里の批評は、相変わらず辛辣だった。そして、的確だった。
「そうやって、いつまで同じところで足踏みしてるつもりなの。一度くらい、怖がらずに前に出て、ぶつかってみなさいよ」
「分かってる」
「ちっとも、分かってないわよ。こうやって、きみに小言をいうのも最後なんだから、おしまいくらい、ちゃんと聞きなさい」
「聞いてるよ」
千里の、深い溜め息が聞こえた。
「私って、損な役ばっかり」
「すまなかった。だが、それもお役御免だ」
「そうよ。今日でおしまい」
千里は、からりといってのけた。
「せいぜい頑張りなさい。じゃあね」
千里が受話器を置こうとする気配に、私は、ちょっと待ってくれ、と言葉を継いだ。
「なに」
「もう一言だけ言わせてくれ」
「なによ」
「幸せにな」
「それ、皮肉」
「そうじゃない」
「それなら一応、ありがとうといっておくわ。そうだ、私からも最後に一言あったっけ」
「なんだ」
「この大馬鹿野郎」
千里の叫び声を最後に、電話が切れた。
受話器を手にしながら、私はしばらくの間、ぼんやりとした。終わった。それだけを思った。寂しくもあった。後悔もあった。なによりも、哀しかった。
それからまもなく、私は会社で上司と口論となり、思わず相手を殴った。会社は、上司側にも非があったことを考慮して、懲戒処分とはしない代わりに、私に依願退職を勧めてきた。私はおとなしく従い、退職した。私は、単に辞める口実がほしかっただけかもしれない。それまでの自分を壊して、新しい自分を手に入れたかった。が、そんなことをして、何が変わるはずもなかった。千里の言う通り、私は正真正銘の大馬鹿野郎だった。
その後、私は職を転々としながら、意味もなく、だらだらと生きてきたのだった。
真琴が、私のところに来るようになってから、まもなく半年になろうとしていた。
日曜日。いつもの時間になっても、真琴は私のアパートに来なかった。ひょっとして、病気にでもなったのかと気を揉んでいるところに、電話が掛かってきた。私は、すかさず受話器を取った。
「鷹山さんのお宅でしょうか」
礼儀正しい男の声だった。
「そうですが」
「突然、お電話を差し上げまして恐縮です。私、弁護士の谷本と申すものです」
「弁護士?」
私には、およそ縁のない人種であった。
「どのような御用件でしょうか」
「あなたは、遠藤千里さん。旧姓ですが。ご存じですね」
私は息をのんだ。その名を聞かなくなってから、まだ三年しか経っていないのに、遠い過去のように感じられた。
「知っています。しかし、彼女とは三年ほど前から、連絡をとっていません」
「実は、遠藤千里さんの遺言書のことで、お話ししたいことがあります。鷹山さんにとっても、大変、重要な内容ですので、ご足労をおかけしますが、私の事務所までお越し願いませんでしょうか。本来ならば、こちらからお伺いしたいところなのですが、あなたにお引き合わせしたい人もおりますので」
「遺言書といいますと」
私は、頓狂な声を発した。
「ご存じありませんでしたか。千里さんは、半年前に亡くなられました」
刹那、意識が遠くなった。時が止まった感触があった。私の中で、何かが音を立てて崩れた。今まで、その重大な事実を知らずにいた自分が、ひどく滑稽に思えた。
「もしもし、聞こえますか」
男の声に、私はかろうじて我に返った。
「聞こえてます」
「いかがでしょう。よろしければ、これからでもお越し願えれば助かるのですが」
「ちょっと待ってください。確かに、私と遠藤千里さんとは旧知の仲ですが、まったくの他人です。その彼女の遺言と、私がどう関わるというんですか。それに、彼女が亡くなったのは半年前とおっしゃいましたが、だとしたら、いまさら遺言書の話というのは、おかしくありませんか」
「その通りです。その辺りのことも含めて、じかにお会いして、詳しくお話ししたいと思います。おいで願えますか」
谷本と名乗る男は、弁護士らしく、一語一語、抗うことの出来ない力強い声でいった。私は、了承するほかはなかった。
受話器を置いた。悲しみが、じわじわと私の身体に染みわたっていった。二人で歩いた、最後の夏の夜を思い出していた。千里が、もうどこにもいない。私の両眼から涙の粒が膨れて、やがて頬を伝って流れ落ちた。
事務所は神田にあった。白亞のビルの三階に上がり、谷本法律事務所と書かれたガラス張りの扉の前に立った。ノブに手を掛けようとしたそのとき、扉が乱暴に開かれて、一人の中年女性が飛び出してきた。女性は険しい顔付きで、私を一瞥すると、そのままエレベーターに乗り込んだ。どこか陰湿な印象の女性であった。私は小首を傾げながら、あらためて扉を押し開けた。
受付の女性に来意を告げると、奥の応接室に案内された。
部屋の入口で、ストライプのスーツに身を包んだ、五十歳くらいの恰幅のいい男性が、私を迎えた。
「鷹山さんですね。わざわざご足労いただきまして、恐縮です。私が、さきほどお電話を差し上げました、弁護士の谷本です」
丁寧な挨拶に、私も頭を下げた。
「さあ、どうぞ」
招かれるまま部屋に入ると、左側のソファに小さな先客が座っていた。少女は、私を見るなり、嬉しそうに笑い掛けてきた。
「翔」
「真琴じゃないか」
私は、驚きのあまり声をあげた。