遠藤千里が、私のアパートを訪ねてきた日以来、私たちは、急速に親しくなっていった。千里は、人前でも憚らずに、私のことを「翔」と呼んだ。いかにも親密な関係をうかがわせるその呼び方に、周囲は自然と、私たちのことを恋人同士と解釈した。
確かに、私たちは付き合っていたといえるかもしれない。彼女ほど深く、長く関わった異性はいなかったし、千里も同じだったと思う。かといって、私たちは、あらたまって、お互いの愛情を確かめ合うようなことはしなかった。私も、千里も、相手の心の奥深くに入り込んでいくことに、なおも、逡巡があった。相手を想う気持ちとは裏腹に、どこかで相手を疑っていた。そのことをお互いに分かっていたからこそ、私たちはうまくいっていたのかもしれなかった。
私たちの場合、毎日会い、デートを重ねるといった、普通の恋人たちのような付き合いはしなかった。私と千里は、学部が異なっていたために、大学で出会う機会は少なかった。かといって、私たちの仲が悪かったというわけではない。会えば、どちらからともなく誘い合い、食事をしたり、映画を見たり、コンサートを聴きにいったりした。しばらく会っていないと気にかける頃になると、たいていは千里の方から、絶妙のタイミングで私のアパートにやってきた。私たちは、よく喋った。最近読んだ本のこと、一緒に見た映画のこと、大学での出来事、仲間のこと、世間話。話題には、こと欠かなかった。それでいて、肝心なことは、どちらも口にしなかった。そういう意味では、いっさいは虚構といえた。が、二人とも真剣だった。
男である以上、私の方から言い出すべきだったのだろう。千里も、待っていたのかもしれない。しかし、私は卑怯であった。千里が、自分にとって、なにものにも代えがたい存在となっていることに気付いていたにも関わらず、それを正直に認めることができなかった。信頼した相手に裏切られ、無惨な終わり方をした父母を思い出すと、同じ轍を踏みたくないという恐怖が、一歩、前に踏み出そうとする私を竦ませていた。傷付くことを恐れずに、前に進もうとする勇気。臆病な私には、それが欠けていた。
そうしているうちに、時は瞬く間に過ぎていった。
大学四年の夏、私は千里から一緒に花火を見ようと誘われた。その日の彼女は、異様なほど、無邪気にはしゃいでいた。八時から打ち上がった花火は、色とりどりに夜空を染めた。千里は、打ち上がる度に、周囲の人達と共に、感嘆の声を上げた。私はそんな彼女を、時折、横目で見ていた。それだけで幸福な気分になれた。
すべての花火が打ち終わり、見物客の大半が引き上げた後、私たちは川沿いの道をゆるやかに歩いた。闇夜の中、二人だけの時が流れていた。祭りの後の静けさというのか、しみじみとした静寂が辺りを包んでいた。千里は、私の前を歩いていた。
「私、卒業したら、故郷の金沢に帰ることにしたわ」
千里は、私に背中を向けたまま、その重大な決意を、彼女らしく、淡々と告げた。前触れのない告白に、私は困惑した。何と答えればいいのか、咄嗟には浮かばずに、黙り込んでしまった。
「母さん、このところ、身体の具合がよくないらしいの。心細いんでしょうね。この前、電話したら、私に戻ってきてほしいって、泣きながら言ってた」
「そうか」
私が感情を押し殺していうと、千里は足を止めて振り返り、私と向き合った。
「やっぱり、母親だからね」
千里は、そういって私を見つめた。
「そうだな。そうした方がいい」
私は、ことさらに平然といった。本音とはかけ離れた台詞だった。
「そうよね」
千里は、寂しそうに笑った。
「翔は、こっちで就職するんでしょ」
「ああ」
「そっか。卒業したら、こんな風に会えなくなるかな」
「そうかもしれない」
「私たち、それでおしまいなのかな」
千里の端整な顔が、暗く沈んだ。
「そんなに深刻になることじゃないだろう。外国にいくわけじゃないんだし。狭い日本、会おうと思えばいつでも会えるさ。電話だってあるし、手紙だって書ける」
私は、わざと軽口を叩いた。
「そうよね」
「そうさ」
千里は、顔を上げて笑った。が、その目は笑ってなかった。彼女は知っているのだ。人の心というものが、いかに脆く、うつろいやすいものなのかを。
「ねえ、翔」
「なんだ」
「試してみようか」
「試す?」
「離れ離れになっても、私たちの関係が続くかどうか」
千里は、挑むような目で私を見た。が、すぐに、いつもの軽妙な口振りで話し出した。
「ほら、よくあるじゃない。買う前に、本当に必要なものかどうか、実際に使って試してみるってやつ」
「お試し期間」
「そう、それ」
「俺たちは、通信販売の商品か」
「なにしろ、下手をしたら一生、お付き合いしなくっちゃいけなくなるわけだからね。お互い、慎重に選ばないと」
千里はそういって、くすくすと笑った。
「そうだな」
私は頷いてみせた。
半年後、私たちは大学を卒業し、千里は故郷の金沢に帰っていった。私は東京に残り、中堅の電気メーカーに就職した。
あの雨の日以来、真琴と名乗った少女は、日曜日になると必ず、私のアパートを訪ねてくるようになった。私は、彼女がやって来るたびに、昼食として、スパゲッティ、カレー、オムライスといった、不器用な手料理を食べさせた。真琴は、どれもおいしいといって、夢中で食べた。初めの頃、あまり口を開かなかった彼女も、次第に打ち解けて、ぽつぽつと話しをするようになった。
私は、真琴との会話が増えるにつれて、彼女の利発さと、その年齢にしては、大人びた口をきくことに驚かされた。いくらか気の強い面があるが、情が濃やかで、気持ちの優しい少女であることもわかった。折り目正しく、物静かで、洗練された物腰から、良家のお嬢さんといった匂いがあった。
真琴は、子供らしく他愛のない話に敏感に反応し、時折、声を立てて笑うようにもなった。ところが、自分のことになると、急に、貝が口を閉ざすように、なにも言わなくなってしまうのである。名前と、年齢が八才であること以外は、住まいも、学校も、家庭環境も、誰に私のことを聞き、どうして私のところに来たのか。いずれも話そうとはしなかった。それだけでも、深い事情があることは察せられた。が、私は、無理に聞き出そうとは思わなかった。それが真琴との黙契でもあった。
日を経るにつれ、むしろ私の方が、真琴の訪問を待ち侘びるようになっていた。真琴がやってくる日曜日は、必ず部屋にいるように心掛けていた。真琴がノックする音を聞くと、急いで駆け寄って扉を開けた。真琴は、私が買い与えた本を読んだり、テレビを見たり、私とお喋りをしたりして、時を過ごした。そして夕方になると、憂いを感じさせる表情を見せて、悄然と帰っていった。せめて途中まで送っていってやりたかったが、それは、真琴の方が望まなかった。
ある日曜日のことであった。
設営の仕事は、当然ながら肉体労働が中心であった。会場内の装飾、椅子、テーブル、器材などの運搬、照明や音響機器の設置、等々、朝から夜まで、みっちりと働かされた。要領は分かっているし、身体を酷使することには慣れているから、さほど苦にはならなかったが、終わった頃には、さすがにくたくたになっていた。
アパートに着いたのは、夜の十時を過ぎていた。重い足取りで、部屋の近くまで歩み寄ると、ドアの前でうずくまっている、小さな影が見えた。
真琴だった。
両足を床に放り出し、頭をいくぶん右に傾けさせて、口元を薄く開き、ドアにもたれ掛かって、眠り込んでいた。
「真琴」
驚いた私は、慌てて駆け寄り、その肩をゆすった。真琴は、うっすらと目を開けて、焦点の定まらない瞳で、私を見た。
「こんなところでうたた寝をしたりして、風邪をひくじゃないか。だいたい、こんな時間まで、何をしているんだ。張り紙をしておいただろう。見なかったのか」
私が詰問すると、真琴は恨めしそうに唇を噛み締めながら、地面に落ちているぐしゃぐしゃに丸められた紙屑を指さした。確認するまでもない。私の書いた張り紙だ。真琴は、今日も私が待ってくれていると信じてやってきた。それなのに、間抜けな私は留守にしてしまっていた。それでも真琴は、私に会いたい一心で待っていたのだ。
真琴は、無言のまま、いきなり私に飛びかかってきて、その小さな両拳で、私を何度も叩いた。その両眼からは、大粒の涙があふれ、零れ落ちていた。私は、無抵抗で真琴の殴打に身をまかせた。やがて、真琴は疲れたように、泣きじゃくりながら、私に抱きついてきた。
「ごめんな」
私も、真琴を強く抱きしめた。愛しさが、激しく突き上がってきた。私は、真琴のぬくもりを感じながら、かつて千里を抱き止められなかった後悔を思い返していた。