私は吸い込まれるように、ひたすら傾聴しているしかなかった。
「つまり、私は、自分を生み育んでくれた、一番近しい人間すら、信じられない女なのよ。だから、いつも他人とは一歩隔てて付き合ってきた。それでも、人付き合いはわりとじょうずにやってきたつもりなんだけどね。友達もできたし、男の人とも適当に付き合った。でも、自分から垣根をつくっておいて、心を通わす相手ができるわけがないわよね。だから、私は一人でいるのが好きなの。それでいいと思ってた。なのに、この頃、なんだか、そういうのに疲れちゃった」
千里は、そういって深く息を吐いた。
私は、ここに至って気付いた。彼女に感じた、茫漠とした親近感。彼女は、私と同類だったのだ。誰かを愛し、愛されたいと願いながら、誰も信じられない人間。
「聞いてる」
千里が私の顔色を窺うように、尋ねてきた。
「聞いてるよ」
「おかしな女だと思ってるんでしょ。知り合って間もない人に、こんなこと、べらべらと喋るなんて」
「そんなことはない」
「なんだか、きみには話しておきたかったのよ。どうしてなのか、分からないけど」
私は、俯いた彼女の整った顔を見つめた。再び、沈黙が流れた。
今度は、私が沈黙を破る番だった。
「過去のわだかまりをふりほどくのは、簡単なことじゃない」
彼女は、顔を上げた。
「俺も、両親がいないから」
「そうなんだ」
「きみと違って、最初は二親、揃っていたけどな。小学生のとき、二人とも、立て続けに亡くした。いろいろとあってね」
「そう」
「この頃、両親の顔まで、朧気になってきている。薄情なのかもしれない」
「それって、なんとなく、分かる気がする」「どんな形でも、親はいる方がいい」
「そうかな」
「時間がかかるだろうけど、いつかきっと、分かりあえるときがくる」
「血は水よりも濃い」
「月並みだけどな」
「本当」
千里は、乾いた声で笑った。
また、しばしの沈黙があった。やがて、千里は立ち上がった。
「帰るわ」
「ああ」
「ねえ、お願いがあるんだけど」
「また、金を貸してほしいのか」
「馬鹿」
千里は、頬を膨らませた。
「これからは、きみのこと、翔って呼んでもいい?」
私は一呼吸置いてから、答えた。
「いいさ」
「好きなのよ。きみの名前の響き」
千里はそういって微笑みながら、部屋を出ていった。
次の日曜日。
私は、気だるい身体を起こした。十時。習慣とはおかしなものだと、いつも思う。必要がないのに、時間になると、身体が勝手に覚醒してしまうのだ。
私は、テーブルの上に残されていたパンの一片を口の中に放り込むと、窓を開けて首を突き出した。どんよりとした曇り空。予報でも、今日は雨になるといっていた。降り出す前に、食料を買い込んでおこうと、外に出た。
出掛ける前から、予感はあった。
アパートを出たところで、例の視線を感じた。やはりと思った。視線の先に、あの少女が、先週のリプレイのように、物陰からじっと私を見つめていた。
「なにか、用か」
私は、わざと突き放すようにいった。が、少女の小さな唇は、彼女の意思を示すように、固く閉じられていた。
私は、その可愛げのない態度に、さすがに腹が立ってきた。こんなおかしな娘は、知らん振りするに限ると決め込んだ。私は、少女を振り切るように歩き出した。この前とは違って、少女は付いてこなかった。
が、近所のスーパーで買い物をしながらも、私の頭から、少女のことが離れることはなかった。どうして、これほどまでに気になるのか、自分でもよく分からなかった。
戻ってくると、案の定、少女が先程と寸分違わぬ場所に立っていた。あれから、ずっとその場を動かずにいたのだろう。私は、少女の強情に驚嘆せざるをえなかった。が、それだけに、余計、少女の事情に立ち入ることがためらわれた。
「いつまで、そうしているつもりなんだ」
私は、意識的に厳しい口調でいった。が、少女は、私の威嚇になんの反応もみせず、鋭い目付きで、黙り込んだまま、私を睨み据えているだけだった。
「なにも言わないなら、放っておくぞ」
勝手にしろと思い、私は少女をおいて、アパートの中の自分の部屋に入った。テーブルの上に買い物袋を置くと、部屋の中央に寝転んだ。少女のことが頭に浮かんだが、すぐに打ち消した。私にはなんの関係もない。放念してしまえばいいのだ。私は目を閉じ、やがて、まどろんだ。
私を眠りから覚ましたのは、雨が激しくガラス窓を打つ音であった。時計を見ると、午後一時を過ぎていた。いつの間にか二時間近くも寝込んでしまっていた。どうやら、本格的に降り出してきたようだなと、私は呑気に、ぼんやりとした頭で考えていた。
雨。
頭によぎるものがあった。まさかと思った瞬間、私は部屋を飛び出していた。
やはり、いた。
少女は一歩も動かずに、雨の中を佇んでいた。雨に打たれ続けたせいで、頭のてっぺんから爪先まで、文字通りのずぶ濡れになっていた。冷えきっているのだろう。小さな身体が、小刻みに震えていた。少女は、傍に駆け寄ってきた私を、青ざめた顔で、恨めしそうに見上げた。
「ずっと、そこにいたのか」
私はあわてて、着ていたジャンパーを脱ぐと、少女をくるんで抱きかかえ、さらうようにして自分の部屋に運び込んだ。すぐに、びしょ濡れの少女の服を脱がせ、代わりにバスタオルを頭から被せて、ごしごしと拭いた。その間、少女は抗うことはせず、私に身をまかせていた。
「いったい、どういうつもりなんだ」
私は少女の目を見つめながら、大声を出した。このように感情を露にしたことは、久しくなかった。少女は、びくっと身体を震わせた。そして、窺うような目付きで、私の顔を見た。
「なにも喋らないのは勝手だが、こんなことしては駄目じゃないか」
私がわめくと、少女は視線を落として、ようやくに蚊の鳴くような声を発した。
「怒ってるの」
少女は、ぽつりといった。私は少女を睨み付けた。
「ああ、怒ってるさ」
「私が、迷惑だから」
「そんなことをいってるんじゃない」
少女は顔を上げた。
「心配したといってるんだ。風邪でもひいたらどうするんだ」
私がそういうと、少女は意外そうな顔をして私を見た。そのとき、それまでぴんと張りつめていた少女を取り巻く空気が、ふいとゆるんだように感じられた。
私は少女の服を洗って、室内に吊した。少女には、とりあえず私のシャツを着せた。シャツは当然、少女には大きく、裾の部分が膝の辺りにまで達していた。私は、バスタオルを少女の肩から掛けてやった。さらに、押し入れから、古いヒーターを引っ張り出して、少女の傍らにおいた。
しばらくすると、少女の頬に、少しずつ赤みが戻ってきた。私は、ほっと一息をついた。と同時に、急に空腹を覚えた。昼時はとっくに過ぎていた。少女も同じはずだ。
「お腹が空いてるだろう」
とりあえず、買い置きのスナック菓子を少女に与えた。その間に、私は、買い物袋から食材を取り出して、炒飯を作り始めた。私の数少ないレパートリーのひとつだった。
フライパンに油をひき、適当に刻んだ具を、炊飯器に残っていた冷飯と一緒に放り込んで炒める。塩、こしょうを振り、頃合をみて、醤油を回し入れた。少女は、私が与えた菓子を少しずつ口にしながら、おとなしく私のすることを見ていた。
炒飯が出来上がると、手早く皿に盛って、少女の前に置いた。インスタントのスープも付けた。
「さあ、食べろ」
私に促されて、少女は、ためらいがちにスプーンを手に取って、炒飯をひとさじすくい、口の中に入れた。少女は目を見張って、私の方を見た。
「おいしい」
少女の顔が初めて、年齢相応のあどけないものになった。
「そいつは、よかったな」
私も、思わず相好をくずした。
「そんなに嬉しそうに食べてもらえると、作った甲斐があったというもんだ。さあ、どんどん食べろ。お替わりもあるからな」
私がいうと、少女は独り言のように、小声でいった。
「しょう、優しい」
その一言が、私の心をほのかに温めた。永く忘れていた感覚だった。
「もう、なにも聞かないから、ひとつだけ教えてくれ」
少女の目に、警戒の色が浮かんだ。私は、微笑んでみせた。
「名前、何ていうんだ。それが分からないと、なんて呼んでいいか困ってしまう。それくらいはいいだろう」
私が穏やかにいうと、少女は素直に頷いた。
「まこと」
「まこと、か。いい名前だな。どんな字を書くんだ」
少女は、真実の真に楽器の琴だと、すらすらと答えた。
「名字は」
と尋ねたが、この問いに対しては、なぜか少女は口を閉ざした。
「名前以外は、秘密なのか」
私は溜め息をついてから、吹き出した。
「いいよ。名前だけで十分だ」
少女が、姓まで隠そうとする理由が何なのか、思い付かなかった。が、そんなことは、どうでもいいように思えてきた。少女が持っている、名状しがたいなにかに、私はすでに囚われていたのかもしれない。孤独で、哀しげで、投げやりで、頑な。少女は似ていた。
遠藤千里に。