選考委員

写真森村 誠一氏

埼玉県熊谷市生まれ。青山学院大卒。9年間のホテル勤務を経て、「高層の死角」で江戸川乱歩賞、「腐蝕の構造」で日本推理作家協会賞を受賞。「人間の証明」「青春の証明」「野生の証明」の「証明」三部作で現代日本を代表する推理小説作家に。その後も歴史・時代小説、ノンフィクションなどへも作品の幅を広げ、精力的に執筆活動を展開している。



写真夏樹 静子氏

東京生まれ。慶応大学英文科在学中に「すれ違った死」が江戸川乱歩賞の最終候補に。NHKの「私だけが知っている」のシナリオ執筆を笹沢左保氏らとともに務め、「ガラスの鎖」で作家デビュー。「天使が消えていく」が江戸川乱歩賞次席、「蒸発」で日本推理作家協会賞、「第三の女」はフランス訳され、冒険小説大賞に。女流推理作家の草分け的存在。


写真北方 謙三氏

唐津市生まれ。中央大学法学部卒。「明るい街」で作家デビュー後、純文学作品を発表。『弔鐘はるかなり』で初めてエンターテインメント作品を書き、人気作家に。『眠りなき夜』で第1回日本冒険小説協会大賞と吉川英治文学新人賞、『渇きの街』で日本推理作家協会賞、『明日なき街角』で日本文芸大賞、『破軍の星』で 柴田錬三郎賞など。


第14回九州さが大衆文学賞 笹沢左保賞受賞作
お試し期間 水城亮
 
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 たまたま彼女が顔を上げたところに、私の視線があった。が、私は会釈もせずに、そのまま通り過ぎようとした。
「きみ」
 いきなり、彼女が声を掛けてきた。が、私は最初、その声が、自分に掛けられたものだということに気付かずに、足を止めなかった。
「ねえ、きみってば」
 彼女はもう一度、声を掛けてきた。私は、ようやくに歩みを止めた。
「俺のこと」
 私が言うと、彼女は呆れたように、手を大きく振って見せた。
「他に誰がいるのよ」
「なにか用かい」
 私が尋ねると、彼女は無遠慮に右手を差し出してきた。
「お金、貸してくれない」
 今度は私が呆れる番だった。
「どうして」
「財布をなくしたみたいなのよ」
「探さないのか」
「面倒くさいじゃない」
 やはり変わった女だと、私は心の中で溜め息を付いた。
「二次会の会場に行けば、友達がいるんだろう。引き返して、その娘に借りればいいじゃないか」
 私が言うと、彼女はひどく機嫌を損ねたようだった。
「冗談じゃないわよ。せっかく苦労して抜け出してきたっていうのに、わざわざ引き返したくなんかないわ」
 私は、ゆっくりと息を吐いた。
「いくら」
「えっ」
「貸してほしい金」
「ああ」
 彼女は吹き出し、ようやくに表情をゆるめて見せた。
「きみって、変わってるね」
「あんたほどじゃないだろう」
「あら、そう」
「少なくても、俺は、初めて口をきく相手に、借金の申し込みはしない」
 私が言うと、彼女は声を忍ばせて笑った。
「それもそうね」
「それで、いくら」
「千円でいいわ。それだけあれば、電車で帰れるから」
 私は上着から財布を取りだし、千円を抜き取って彼女に渡した。
「ありがとう」
「それじゃ」
 立ち去ろうとする私を、彼女がまた呼び止めた。
「ちょっと、待って」
「まだ、あるのか」
「ついでに、あれ、おごってよ」
 彼女は、道端に置かれた自動販売機を指さした。
 妙なことになったと思いながら、私は請われるままに、自動販売機のボタンを押して、コーヒーを二缶、買い求めた。
 私たちは、先刻、彼女が腰掛けていた石段に二人並んで腰を下ろし、缶コーヒーを飲みながら話をした。
「きみ、下の名前、なんていうの」
「えっ」
「名前よ、名前。鷹山くん」
 彼女は、くすくすと笑った。言われてみれば、コンパの席での自己紹介では、姓しか名乗らなかったな、と思い返していた。
「翔だけど」
 と、私はつっけんどんに答えた。
「私は、遠藤千里」
 彼女は自分も名乗ると、私の顔を覗き見るようにして見つめた。
「しょう、か。響きのいい名前ね」
「そうかい」
 私は、呟くようにいった。自分の名前の韻律など、考えたこともなかった。
「今日のコンパ、どうして参加したの」
「友達に誘われたから」
「私も、そう。強引に引っ張り込まれたんだけど、やっぱり来るんじゃなかったな」
 私は、コンパの席での、彼女の不機嫌な顔を思い浮かべていた。
「きみも、嫌々、参加したんでしょう」
「そんなことはない」
 私は嘘を言った。が、すぐに分かってしまったらしい。彼女は、からかうような含み笑いをした。
「それにしては、ぎこちない笑い方、してたわよ」
 私は、どきりとした。似非笑いには自信があったのに、こんなにあっさりと見抜かれたのは初めてだった。
「きみ、人間が好きじゃないのね」
「どうして」
「私も同じだから、分かるのよ。もっとも、私はきみほど重症じゃないけどね。一人の方が気楽っていう程度」
「俺にだって、友達くらいいる」
「私にも、いるよ。でも、一人でいる方が好きだな」
「だったら、どうして他人の俺に、声を掛けたりしたんだ」
「さあ、どうしてかな」
 彼女は、からかうように私を見た。私はその目から逃れるように、顔を背けた。
「電車賃に困っていたからか」
 私は、心にもないことをいった。が、彼女は怒ることなく、それどころか、いかにもおかしげに笑った。
「きみって、本当に人付き合いが下手ね」
「すいませんね」
 私は、拗ねたように口を尖らせた。
「まあ、電車賃に困っていたというのは、本当だけどね」
 彼女は立ち上がると、ぱんぱんと、腰の辺りを掌で叩いて埃を払った。
「そろそろ、行くわ。これ、ごちそうさま」 彼女は、手に持っていた空の缶コーヒーを、宙でぶらぶらと揺らしてみせた。
 私も立ち上がった。
 彼女は、私の正面に向かって立った。
「きみって面白い人ね」
「あいにく、生まれてこの方、面白い人間だなんて言われたことは一度もない」
 私がぶっきらぼうに言うと、彼女は声を立てて笑った。
「やっぱり、面白い」
 彼女は、ひとしきり笑うと、軽く右手を挙げた。
「じゃあね」
 彼女は、駅に向かってすたすたと歩き出した。私は、しばらくその場に立ち尽くしたまま、彼女の背中を見送っていた。
 それだけのことだった。
 後日、一度だけ、大学のキャンパスで偶然、彼女と出くわしたことがあった。が、お互い、目礼をしただけで、一言の言葉も交わさなかった。もし、このままであったなら、私は、彼女のことを大した苦労もなく、忘れ去ってしまっただろう。
 私が、遠藤千里と再び言葉を交わしたのは、初めて会った日から、一か月以上も経ってからだった。

 その日、私はすることもなく、一人、六畳一間のアパートで、空疎な時間を過ごしていた。ドアをノックする音がした。開けてみると、そこにはあの遠藤千里が立っていた。白のブラウスにジーパン。初めて会ったときと同様、あっさりとした服装だった。
「こんにちは」
 千里は、まるで十年来の友人のように、気安い声でいった。私は、そのあまりのなれなれしさに、口もきけずにいた。が、彼女は、意にも介していないようだった。
「前のコンパで知り合った、きみのクラスメイトから、きみのアパートの住所を聞いたのよ。それにしても、きったない部屋ね」

カット
 千里は、私の肩越しに部屋の中を覗き見た。
「なにか用か」
 私は素っ気なくいった。が、千里は少しも気にする様子がなく、
「中に入れてよ」
 と、私の返事を待たずに、無遠慮にずかずかと部屋に入り込んできた。私はやむなく、散らかった部屋を手早く片付けて、彼女のためにコーヒーをいれた。
 千里は、私が出したコーヒーを一口含むと、そうそうといって、ショルダーバックから財布を取り出すと、千円を抜き取って、私の目の前に置いた。
「この間、借りた千円」
「こんなことのために、わざわざ来たのか」 私は、あ然とした。
「この前、大学で会った時に返してくれればよかっただろう」
「あのときは、すっかり忘れていたのよ。今になって思い出したら、今度は一刻も早く返したくなったの」
「ふーん」
 私は無造作に千円を拾い上げると、折り畳んで、胸ポケットにしまった。
「確かに、返してもらった」
「それで、おしまい?」
「領収書でも書いてほしいのか」
 私がいうと、千里は口を開けて笑った。
「変わらないね、きみ」
「人間、そんな短期間に変わるもんか」
「そうね、そうよね」
 千里は急に、真顔になった。
 それからしばらく、私たちは黙ってコーヒーを飲んだ。静寂が部屋を包み、風で揺れる窓ガラスの音が、小さく聞こえた。
 やがて、その沈黙に耐え切れなくなったかのように、千里が語り出した。
「ねえ、聞いてくれる?」
「なにを」
「私のこと」
 それは、他人のことに深入りしないという私の教義に反する行為だった。それなのに、私は反射的に頷いていた。
「私、父親がいないの」
 唐突な告白だった。
「離婚したとか、病気で亡くなったとかじゃなくて、産まれたときからいないのよ。私の母は、いわゆるシングルマザーというやつで、独身のまま私を産んだの。物心ついたころから、何度も母に、父のことを問いつめたわ。でも、母は何ひとつ教えてくれなかった。私も次第に聞かなくなった。私は、いまだに自分の父親が誰なのか、顔も、名前も、生きてるのかどうかすら知らないわ」
 千里は、いささか自棄気味にいった。
「母にも、いろいろと事情があったのでしょう。だけど、こういうのって、子供にしてみれば、たまらないわよね。世の中には、同じような理由で、片親しかいない子供は、たくさんいるでしょうけど、当事者にしてみれば、やっぱりつらいものよ。性格が屈折するのも仕方がないじゃない」
 私は無言で、耳を傾けていた。
「私、ことあるごとに母に反抗したわ。その度に、母は言い訳ひとつしないで、ごめんねって謝るのよ。私は、そんな母をいっそう責めたわ。母が悪いわけじゃないことは分かっているのに、どうしても母が許せなかった。そんな大事なことを、ごまかそうとする母が信じられなかったのよ。でもね、どんな訳があるにしても、母親に不信感を抱く娘なんて、最低よね。自分で自分が嫌になったわ」
 どきりとした。まるで自分のことを指摘されたように、千里の言葉が私の胸に深く突き刺さった。
「私、母から離れたくて、わざわざ東京の大学を受けて、一人、出てきたの。母はなにも言わずに泣いたわ。ひどい娘だと自分でも思ってる。それでも、どうしようもなかった」
 
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