2011年2月10日
元中日・荒川哲男「高島平荒川整骨院」/引退後記
◆荒川哲男(あらかわ・てつお)1968年(昭43)4月27日生まれ。埼玉県出身。大宮東高では通算42本塁打を放ち、強打の内野手として期待された。86年ドラフト4位で中日入団。1年目の87年に山崎武司とともに米国に野球留学し、ルーキー・リーグに参戦。だが右肩の故障もあり、1軍出場なしのまま89年戦力外通告を受け現役引退。背番号は59。180センチ、77キロ。右投げ右打ち。
都営三田線の高島平駅を降り、団地の群れをすり抜ける。歴史あるベッドタウンは、迷わせない。壁面に住所番地が示されている。だが距離感は新参者には分からない。約束の時間を超え、荒川さんが院長を務める「高島平荒川整骨院」に入った。
申し訳ない気持ちでドアを開けると、荒川さんは「いえいえ」と優しく迎えてくれた。「私なんか原稿になりますか?」とまで言ってくれる。貴重な休診時間を預けてくれたことも相まって、恐縮はピークを迎えた。
スラッガーとして大きな期待を浴びた。高校通算42本塁打の記録を引っ提げ、86年ドラフト4位で中日入団。同2位は今も現役を続ける山崎武司だった。「僕と山崎で(移籍してきた)落合(博満)さんに付いた。すごいなと思いましたよ。体つきから違った」。移籍したばかりの大打者に、新人が帯同した。
打席ではなくホームベースの上に立ち、打撃マシンと正対してカーブを引きつけ打ち返す“秘密練習”にも同行した。はじき返さなければ硬球が体に当たる。「当時は分からずやっていた。呼び込んで手もとで打つということなんでしょうね」と振り返る。3冠王直後の教材が目の前にあった。
期待の表れだった。3月には米国へ野球留学する権利を得た。「それから半年いました。期待されているのは分かりましたけど、あまり完全ではなかった。(米国は)自主性、自己アピール(の風習)はありましたけど、逆に流されちゃって。自分でやれば良かったんですけど、トレーニングがうまくやれない環境もあった。体力的に落ちた感じになった」という。自由な空気にペースを崩した。
米国のルーキー・リーグからドミニカにも渡った。出場機会を求めてだった。「お客さん扱いだったのかな」は事実かも知れない。野球留学のハシリ、米国側もメジャーを目指す選手を優先的に起用するのも無理はない。「違和感がありました。打ち方も独特になる。素直に受け入れてしまった。(帰国後)中日のコーチは『なんだ?』と思ったでしょうね」と振り返る。
山崎武司は違った。荒川さんは「あいつは我を通せるタイプ。だからまだ残っているんだと思いますよ。僕は帰ってきても(チームに)気を使ったりする。なじむのにも時間がかかった」と分析した。右肩の故障もあり、持ち前の打撃も生かせない。89年11月、ファン感謝デー直後にナゴヤ球場のベンチ裏で戦力外通告を受けた。たった3年だった。
21歳の屈辱…。「ショックですよね。頭の中は真っ白ですよ」は当然だろう。通告の際、球団職員としての仕事を提示された。「どうかな、と。嘱託ですし、その後のことを考えた」と断った。球団幹部からは東京の広告代理店も紹介されたという。「1度面接に行きました。でもサラリーマンはピンと来なかった」という。
選んだのは治療家の道だった。「肩をケガしたんで治療には興味があった」。知人に名古屋市内の接骨院を紹介され、90年1月から修業に入る。翌91年には柔道整復師を目指し専門学校に入学。柔道の黒帯を取得するために道場にも通い、昼間は佐川急便の下請け会社でトラック運転手。夜は学校と多忙な日々を3年間送った。
94年に国家試験に合格し、治療家デビューを果たす。地元・埼玉に戻り、川口市内の整形外科で働き出す。途中、中日からトレーナーの話が来たという。「枠が空くからと言われたけど、結局、キャンプだけでした」。病院で1度出した退職届を、「もしなんなら来なさい」と撤回してくれたという。2000年まで、同グループの医院に身を置いた。
独立は01年2月だった。越谷市内に開業したが、2年で閉めた。「(開業して)半年ぐらいで、近くに整形外科が出来たんです」。腕があっても、患者が訪れなければ経営は成り立たない。03年9月に現在の「高島荒川整骨院」となる東京・高島平に移転した。「お年寄りが多いんで、その方たちのケアが基本。子どもも大分減ったけど、少年野球の子どもたちにいろいろアドバイスしてます」と目を輝かせた。
荒川さんにとってプロ野球界とはどんな世界だったのか。「自分の芯(しん)を持っていないと流されちゃう厳しい世界だと思います」。後悔は「もっと、ガムシャラにマジメに野球に取り組んでいたら良かった」という。今の夢は「土台になるここを安定させて、手広くじゃないけど接骨院と介護のトレーニングをする施設をやれないかなと。そこに行くまではかなり大変ですけど、一般的なスポーツのトレーニング(施設)も出来れば」と話す。
介護トレーニング施設の考えは、実母が病に倒れたことがきっかけだった。「患者の家族側から見てですけど、リハビリのメニューが削られるイメージがある」。社会復帰まで面倒を見たい。自らの手で未来をたぐり寄せたからこそ、人々の一歩先をエスコートできるのだろう。
「高島平荒川整骨院」
住所 〒175-0082 東京都板橋区高島平2の26の3の104
電話&FAX 03-3933-5119
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- 今井貴久(いまい・たかひさ)
- 1971年(昭46)3月25日生まれ。東京・神田出身。学習院大から94年日刊スポーツ新聞社入社。整理部を経て99年野球部へ。西武(99、03、04年)巨人(00~02年)遊軍(05、06年)阪神(07年)オリックス(08年)連盟(08年)横浜(09年)などを担当。09年11月電子メディア局(現メディア戦略グループ)に異動。通算乱酔は無数。月末は虎になる。
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