大相撲は未曾有の危機に突入
「朝青龍問題」実は「日本相撲協会」問題 − 朝青龍の発言封じの真相− 朝青龍問 題で、日本中が大変な騒ぎになっている。 いつしか、問題の本質の論議は、すっかり抜け落ちて、「やめさせろ」、「イジメだ」、「かわいそう」、「やりすぎ」などの、無責任な世論が形成されつつあ る。 JanJan(日本インターネット新聞)では、モンゴル外務省の釈明を踏まえて「アジア蔑視」あるいは「日本人の品性」の問題として、朝青龍を擁護するよ うな首を傾げたくなる視点が登場するなどしている。 このような烏合の衆のごとき「世論」とそこに火に油を注ぐごとき「一部のジャーナリズム」の加熱した報道振りは、本多勝一氏の言を借りて表現すれば、「メ ダカ社会とジャーナリズム」を彷彿とさせ、それはまた日本社会の民主主義の未成熟という「貧困なる精神」を象徴しているかのように見える。日本人は、こん なレベルの議論で満足して、朝青龍の動向ばかり凝視していいのかと思うのである。事の真相は明確にそんなところには存在しない。 プロローグ 日本における世論形成の一般モデル 日本人が、社会事件に遭遇した時において、メダカのようになって右往左往しながら、ひとつの世論が形成され、それが収束していくまでの過程をモデル化すれ ば以下のようになる。 <日本における世論形成の一般モデル>
@ 事件発生(NHK、民放)→<驚き>
A 報道(一般 新聞、NHK、民放)→<ひとまずの社会面の記事などへ掲載> B 論評(一般 新聞、NHK、民放)→<社説などへの掲載など> C 憶測(ス ポーツ系日刊紙、週刊誌)→<推測記事の多発化>→ D 報道加熱 (民放、日刊紙、週刊誌)→<推測記事をエスカレートして放送> E 事件収束 (NHK、一般新聞、民放)→<小さく報道> F 報道沈静 (報道ほとんどなし) G 報道消滅 (材料あっても報道せず) 何故、このようなことをするかと言えば、世の中が現在どの次元で、この朝青龍事件を捉えているかということを、客観的にチェックしておくためである。 一般に事件が発生し、一定の世論が形成され、収束に向かい、まったく興味が持たれなくなって、Gで完全にニュース性が消滅し、ほとんど報道されなくなる。 現在、07年8月8日、現在、おそらく朝青龍問題は、CからDに移る過程にある。だからまだ、どんどんと、報道はエスカレートすることが予想されるのであ る。ちなみに、朝鮮総連と緒形元公安調査庁長官の詐欺事件は、おそらくEの事件収束のレベルになると思われる。 そこで今回は、この世論形成のモデルを頭に置いて、朝青龍事件の本質とは何か。何が問題なのか。その一点に絞って、問題を考察してみようと思う。 1 「朝青龍問題」実は「日本相撲協会問題」 まず最初に言って置きたいのは、今回の問題の本質は、朝青龍個人の問題というよりは、「日本相撲協会」という古式蒼然たる旧組織の体質の問題だというこ と。これ以外にないと言ってもよいほどだ。 もっと言えば、入門から一貫して相撲界の常識をはみ出した行動を取る「朝青龍」という力士に対して直属の上司(師匠)である高砂親方も、相撲協会も、横綱 審議会も含めて、まったく抜本的な解決をできないという「ガバナンス(組織統治)の問題」なのである。 おそらく、日本相撲協会という組織を経営分析すれば、日本社会もっと言えば、日本社会の旧制度(アンシャン・レジューム)を改革できないまま、ズルズルと ここまでやってきたのだと思う。 では、なぜ、ここまで、度重なる「朝青龍」という力士の甘えた行動が許されてきたのか。それは第一に、朝青龍の出世が早く、協会や部屋で行われるはずの、 力士教育が、不十分で、朝青龍にしてみれば、どこまでが許され、どこまでが許されないかの境界線が、曖昧のままに、横綱まで昇進してしまったというのが、 正直なところだろう。 それは厳しく言えば、協会の力士教育システムが、現代の力士を指導教育して組織として「統治」できうるレベルに達していないことを物語っていることにな る。 同時にそれは、相撲協会が、大きな時代の変化を受けて、組織を現代日本に適合する組織に脱皮させるための改革を怠ってきたということを如実に物語っている ことになる。 考えてみれば、昔の力士であれば、中学生時分から、相撲部屋に入って、それこそ掃除洗濯からちゃんこ作りまで、徒弟制度のようにして、厳しく仕付けられて きた。相撲というものを体で覚えて行ったのである。それが最近では、小さな頃から、部屋に入って修行する者が居なくなった。ちなみに、去る7月場所前に行 われたの新弟子検査では、史上初めて検査を受けた者がゼロという体たらくである。大学出の力士は確かに多い。引退後のことも考えて、親は大学にこだわるの もよく分かる。親もまたなるべく相撲部屋に小さなうちから入れて苦労をさせたくないというのが正直なところだろう。良い意味でも悪い意味でも、戦後の民主 主義教育が、相撲界全体に影響を与えているのだ。 こうなると、協会は、否応なしに海外出身の若者に目を向けざるを得なくなった。最初にやって来たのは、トンガやハワイ勢であったが、トンガはその文化や風 習の違いから、相撲界に若者を供給しなくなり、ハワイ勢もまた横綱ふたりを輩出した後は、武蔵丸の引退を最後に、日本の相撲界から姿を消してしまったので ある。 最近の相撲取りで、その躍進振りが目立つのは、何と言っても横綱朝青龍と白鵬に代表されるモンゴル勢である。当初、モンゴル勢のトップリーダーは、旭鷲山 であったが、朝青龍は、2003年7月場所で、この大先輩と土俵上でにらみ合い、けんか腰の態度で切れたのか、土俵で相手のマゲを掴んで横綱として史上初 の反則負けをした。またこの敗北に怒りの収まらない朝青龍は、先輩旭鷲山の車のサイドミラーを引きちぎる騒ぎを起こし、この時には、高砂親方が、修理代を 弁償し、誤って事なきを得たこともあった。 更には酒癖が悪く、酔って、部屋の玄関が深夜開いていないことに腹を立ててこれを破壊するという騒動もあった。また相撲総見の場で、新米力士を散々に土俵 に叩きつけるなどして、休場に追い込むなど、横綱審議委員会の再三再四のクレームにも、協会側もまた親方も抜本的な対策や指導を施すことなく、言わば横綱 という立場故にか、見逃してきたことが、積もり積もって今回のようなことに発展したことは、誰の目にも異論のないことであろう。 それに今回の問題以前に、相撲界には、週刊現代の報道に端を発した朝青龍に絡む八百長疑惑裁判という爆弾を抱えていることも忘れてはならない。またその伏 線としては、旭鷲山の突然の引退がある。この唐突な引退劇は、実は暴力団絡みの金銭トラブルがあったというもっぱらの噂がある。旭鷲山は、日本とモンゴル の架け橋となるという信念の下に、早稲田大学の人間科学部の通信教育を受けるなどしていただけに、その唐突な引退はどうもすっきりしないものがある。 思えば、戦後日本の相撲というものは、NHKのラジオ放送そしてテレビ中継によって、数少ない戦後の日本人娯楽として、人気がでたものである。その中で、 名横綱、栃錦や若乃花は「栃若時代」(1958年ー1959年)、それに続く大鵬と柏戸は「柏鵬時代」(1962年ー1969年)などと呼ばれ、国民的な スポーツとなって行ったのである。 しかし昨今、日本人の趣向も変化し、相撲人気は翳りを見せるようになっている。例えば、年六場所のうち、昔は、ほとんど土俵の上に、「満員御礼」という垂 れ幕が下がっていたものだが、とんとこの幕が見られなくなった。東京の場所は、まだいいが、地方場所の場合は、ほとんど満員御礼が下がらない。ハイビジョ ンで見ると一目瞭然であるが、後ろの席はガラガラの状態だ。観客の推移を示す数字があれば、話しは早いが、NHKでも、野球のように、今日の入場者数など は、公表していない。はっきり言って公表するのが恥ずかしいような数字であることは確かなはずだ。 相撲界は、朝青龍問題以前に、収益構造的な大問題を抱えているのである。単純に言えば、現在の部屋の数や力士の数で、相撲協会に入る全収入を比較してみれ ば分かることだ。しかしながら、その辺り、相撲界には、極めて不透明で日本的な「相撲茶屋制度」や「タニマチ」と呼ばれる後援者「制度」(?)があって、 なかなか、その改革に踏み込めないところがある。 2 朝日新聞の報道から見える相撲界の構図 最近の朝日新聞(2007年07月15日)にこんな記事が掲載された。 「白鵬に従う太刀持ちはモンゴル
の龍皇、露払いは韓国の春日王。初の外国人力士だけの横綱土俵入りに「いい絵になったんじゃないですか」。白鵬は笑顔だった。
(中略) 今場所は外国人関取が史上最多の19人。一方、場所前の新弟子検査の受検者が初めてゼロに。この日 の光景は、外国人力士隆盛の象徴でもある。 北の湖理事長は「仕方がないよ。外国人だからというのは、もうねえ」という。 (中略) 立浪一門の幕内は大関魁皇を除き、モンゴルの安馬、グルジアの黒海、春日王と外国人ばかり。一門の日 本人の入幕がなければ、外国出身力士だけの土俵入りが珍しくなくなりそうだ。 「史上初なの? どうかなと思うよ。日本人も頑張って欲しいね」。辛口なのは、当の春日王だっ た。」 この報道からなにが分かるか。まず第一に、幕内力士の中で、外国人力士がますます増加していること。第二に、日本の若者から相撲界がそっぽを向かれている 現実。第三に、北の湖理事長が、他人事のように協会を見ていること。これは実はガバナンスの欠如を象徴するものである。第四に、外国人力士も、日本人力士 の退潮振りに、少々呆れていること、などである。 私は、既に相撲界が、企業体として、危険な状況になって来ているのではないかと危惧する。かつて古代ローマは外国人の傭兵たちが増えて、崩壊への道を辿っ たと言われる。外国人力士が、将来自分の部屋を持つことに夢を持てるような相撲界なら問題ないが、現在の北の湖理事長の場合は、経営改革をしなければ、協 会がおかしくなるという危機感がまったく感じられない。現理事長は、戦後、時津風理事長(双葉山)や二子山理事長(若乃花)自分の代では、何かひとつ経営 改革をして、次の代に伝えようという意気込みのようなものがあったと思うが、現理事長には、そのような迫力がまったく感じられないのが気になる。座して ローマの衰退の道を辿るのか、と言いたいのだ。 3 結論 「相撲協会の朝青龍隠し」に垣間見える「甘えの構造」と協会 の危機的体質 今回の朝青龍事件は、優勝した朝青龍が、疲労骨折の診断書を協会に提出し、夏の地方巡業を休むということになったにもかかわらず、テレビ報道などで、繰り 返し、祖国モンゴルで、あろうことが、疲労骨折で安静の診断書と相反するように走り回り体を倒してのキックなどでゴールを狙う動作をするなど、おそよ診断 書とかけ離れた行動を取ったことで、大騒動となったものである。 そもそも、相撲界において、横綱は神の化身とも考えられ、「心・技・体」を体得した品格ある生活態度が要求される役職である。まして、虚偽とも受けとられ かねない浅はかな行動を取ったとしたら、自らでその行動を釈明するのは当然のことである。それが今回の場合は、怪しげな精神科医(?)が登場し、「神経衰 弱」などという現在の精神医学では少々古くさ過ぎる症状を明かしたこともあって、報道が過熱したものである。 精神科医の香山リカさんは、精神医学が、相撲界の隠れ蓑的に使われてしまうのに違和感があるとしていたが、今回は、また相撲協会と親方が、朝青龍という力 士のわがままを結果として容認して、自らの言葉で、今回の経緯を一切語らない方向で収束しようとしていることは、土居健郎氏の名著「『甘え』の構造」の日 本人が、またゾロ顔を覗かせたなという気がしてならないのである。 土居氏の甘えの概念は、極めて難しいもので、単なる「甘え」というものではない。それは簡単に言ってしまえば、日本人が閉鎖的な古い組織との繋がりを第一 に考えて、非論理的、閉鎖的、私的に判断して、物事に対処してしまうという心的傾向である。 今回確かに、相撲協会は、またしても、朝青龍という力士である前に、一個の人格であるはずの若者の口を、怪しげな精神科医(実は精神科医ではないという) 人物に物事を語らせることによって、臭いものにフタをする態度に終始している。 そこで私たち市民は、事の本質を、朝青龍の語る何かを語らせず、ただ厳しい謹慎と二場所の休場という罰をもって物事を収束させようとする、相撲協会のガバ ナンスの欠如をこそ追求しなければならないのである。 |