きょうのコラム「時鐘」 2011年2月10日

 雪を相手の日々に、「今年の冬はどんならんじゃ」という言葉があった。連載「里山賛歌」で、宝達山のふもとで葛(くず)を作る人たちが、そう漏らしていた

どうにもならぬ、と気取って済むような雪ではなかった。言葉を縮めるのは、何も江戸っ子の専売特許ではない。「どんならん」と語気を強めて嘆きながら、それでも、「どうにかせんならん」と頑張った

気持ちが高ぶった時には、つい土地の言葉が出る。テレビから流れる共通語に浸されているからなおのこと、暮らしに根付いた言葉こそが自分の身の丈にぴったり合うことにあらためて気付く

長年、能登半島の方言の記録と研究を続けている人から聞いた言葉を思い出す。「私の仕事は、いわば言葉の星座作り」。尾根を越え谷を隔て、岬を巡るごとに違う言葉が現れる。同じ言葉が不思議な道筋を介してつながることもある。遠い平安や鎌倉の昔に生まれた古語がいまも光るという発見もあるそうだ

大雪だ、ドカ雪だ、という言葉に慣れたが、大事な星を無視してはならない。あれは「どんならん雪」なのである。里山は大切なものを伝えている。