長野電鉄屋代線(須坂-屋代間、24・4キロ)の存廃問題で、同社と長野、須坂、千曲の沿線3市、住民らでつくる活性化協議会は2日、同線を廃止し、バス路線に転換することを14対11の多数決で決めた。約2年に及ぶ議論はこれで決着し、90年近い屋代線の歴史は幕を下ろす。同社は代替バスのコースなどが決まり次第、早急に国に届け出る方針で、早ければ年内に廃止される可能性もある。【福田智沙】
3市でつくる協議会事務局は昨年11月、屋代線を存続して実証実験を続ける▽休止して代替バスを運行しながら検討▽廃止して代替バスを運行--の3案を提示していた。
3市と同社は事実上廃止の方向に動いていたが、沿線住民らはこの時期の結論を「尚早」と反発。この日の協議会でも酒井登会長(長野市副市長)に、長野市若穂地区住民自治協議会の星沢重幸会長が議論の続行を求め、傍聴席から「そうだ」と拍手も起きた。
結局議論はかみ合わず、多数決に委ねられた。酒井会長を除く委員26人が無記名で投票し、廃止が過半数の14人。存続は11人で、1人は白票だった。
会見した酒井会長は「委員の協議の結果」と強調。笠原甲一・長電社長は「客に乗ってもらえないということは、(屋代線が)商品として認めてもらっていないということだ」と淡々と語った。
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協議会は地域公共交通活性化法に基づいて設置され、当初は屋代線の存続の方策を検討する目的とみられていた。しかし長野電鉄は赤字経営を理由に、存続に消極的な姿勢を強く示し続けた。これを見て、存続による費用負担増を懸念した3市も「廃止やむなし」に転換。活性化に向けた実証実験はわずか3カ月で打ち切られ、行政主体の事務局が廃止などの3案を突然示すなどし、住民らの反対を押し切った。
鉄道事業法では、鉄道事業者は路線廃止の1年前までに国土交通省に届け出る。笠原社長は「代替バス路線がある程度決まれば届け出たい。協議会で早急に決めてほしい」と議論をせかした。
同省によると、00年度以降に廃止された地域鉄道は33路線。代替バスが赤字に陥る路線も多い。
「存続のためにどうしたらいいか、住民の足を奪わないためにどうしたらいいか、という議論はなかった。なぜ協議会が住民の立場に立てないのか」
住民代表の一人、長野市若穂地区の星沢重幸委員は涙声で訴え、結論を急いだ長野電鉄と3市の姿勢を批判した。
沿線3市の住民を対象にした昨夏のアンケート結果によると、屋代線の利用目的は「娯楽・レクリエーション」が26・8%で最多。通勤22・6%▽通院13・7%▽買い物9・5%--など、生活に密着した利用も少なくない。廃止決定に、星沢委員は「まさかこういう結果とは思っていなかった。きわめて残念だ」と憤った。
週に3回ほど食料品の買い物などで屋代線を利用する長野市松代町の主婦(85)は「家の近くには買い物をできる店がなく、車も運転できない。廃止されては困る」と話す。沿線にある松代高校(長野市)によると、生徒600人のうち80人が、屋代方面からの通学などで、週4・5日以上利用している。生徒へのアンケートでは7割が「存続してほしい」と回答した。山下智教頭は「廃止されれば不安に思う生徒もいるはずだ」と懸念する。【光田宗義】
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■ことば
1922年開業。須坂から長野市東部を経て屋代までをつなぐ24・4キロ区間、13駅。現在、1日に上下計30本が運行。利用者数は65年度の330万人をピークに少子高齢化やマイカー普及で減少が続き、09年度は45万4000人。同年度の経常赤字は約1億7400万円で、累積赤字は50億円を超える。
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1922年 前身の河東(かとう)鉄道が屋代-須坂間を開通
26年 河東鉄道と長野電気鉄道が合併し、長野電鉄に
屋代と木島(飯山市)を結ぶ河東線の一部になる
77年 76年度に約1億9000万円の経常赤字
93年 92年度の利用者数が100万人を割り込む
ワンマン運行を開始
2002年 木島線の廃止に伴い、屋代線に名称変更
03年 02年度の利用者数が50万人を割り込む
08年 累積赤字が50億円を超える
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09年 1月 長野電鉄が沿線3市に協議を申し入れ
5月 3市と長野電鉄などが法定協議会を設置
10年 3月 10年度から3カ年の総合連携計画を策定
7月 増便などの実証実験を開始
10月 協議会で「代替バスの費用対効果が優位」と試算
11月 協議会事務局が廃止、休止、継続の3案を示す
12月 協議会が「多数決による決定」方針を決める
11年 1月 長野市若穂、松代地区の住民と同市議会特別委、
千曲市議会がそれぞれ存続を要望
2月 3市の議員連盟が存続を要望
毎日新聞 2011年2月3日 地方版