2010年の暮れ、ぼくは全日本フィギュアスケート選手権大会(以下「全日本選手権」)を取材した。場所は長野県にある長野市若里多目的スポーツアリーナ、通称「ビッグハット」。JR長野駅からはバスで10分ほどのところにある、1998年に行われた長野オリンピックではアイスホッケーの会場として使われた場所だ。
ぼくが長野入りしたのは、開会式が行われた12月23日だった。この日まで、全日本選手権は世間の大きな注目を集めていた。というのも、昨シーズンのオリンピック銀メダリストで、世界選手権の優勝者でもある浅田真央さんが、今シーズンここまで芳しい成績を残すことができないでいたからだ。このままでは、来年(2011年)3月に控えた世界選手権に、連覇はおろか出場することさえ危ぶまれていた。出場を果たすためには、この大会で優秀な成績を残すことが求められていたのだが、それができるか否かが、この大会の大きな焦点となっていた。
しかしながら、ぼくの取材はそれとは少し別のところに焦点を当てていた。ぼくの興味は、そうした注目を浴びる中で真央さんが、一体どのように振る舞い、またどのように演技に臨むのか、あるいはそこでどのような表情を見せ、どのようなことを言うのか――といったところにあったのである。
前回のコラムでも書いたのだが、ぼくが浅田真央さんを取材することの目的は、彼女の競技の成績やライバルとの関係などを見るのではなく、「なぜ彼女はこれほど多くの人々を魅了するのか」ということについて、その理由を探ることにあった。だから、彼女が世界選手権へ行くかどうかということについては、もちろん行ってもらいたいという気持ちはあるものの、たとえ行けなかったとしても、取材に対するスタンスには何ら変わるところがなかったのだ。
また、それとは別にもう一つ、彼女が世界選手権に行けるかどうかということについて、焦点を当てようとは思わない理由があった。それは、これも前回のコラムで書いたのだが、11月にパリでのグランプリ大会を取材した折、すでにNHK杯時の不調からは脱し回復の兆しを見せていた真央さんが、この大会ではさらに調子を上げてくるだろうことは想像に難くなかったので、素晴らしい演技を見られるだろうということについて、ワクワクした楽しみな気持ちがあったのである。それが、世界選手権に行けるかどうかということよりも大きかったので、結果についてはあまり注目していなかったのだ。
真央さんには、凛とした「けしきの良さ」があった
そうしてこの日、ビッグハットに到着したぼくは、夕方から始まった真央さんの非公式練習を見学した。すると、そこで強く印象に残ったことがあった。それは、練習に臨んだ真央さんの姿が、パリ大会に比べてより一層、「けしきの良さ」を感じさせるものであったということだ。
ぼくは、古美術鑑定家の中島誠之助さんが、優れた一品に接した際に好んで使う「けしきが良い」という言葉が好きで、古美術の凛とした佇まいをこれ以上なくよく表していると思うのだが、この日の真央さんからも、そんな古美術のような、凛とした美しさが感じられた。
真央さんの練習は本当に独特で、これは取材陣だけで独占しておくのはもったいないといつも思うのだが、凛とした風格と、泰然自若とした静けさというものが同居してて、見ていて飽きることがない。始まりは、いつもその日の調子をチェックするかのようにルーティンワークでリンクを何周か回るのだが、この間の真央さんは、まるで瞑想をしているかのような表情で、見ていて味わい深い。やがて身体が温まってくると、羽織っていた上着を脱ぎ、その日のテーマに取り組む。大会2日前のこの日は、ショートプログラムの演技を中心に、ジャンプの練習をくり返していた。
今シーズン、ここまでの真央さんは、試合でずっとトリプルアクセルを成功させられないでいた。だから、それができるかどうかというのが真央さん自身の焦点ともなっているようで、この日は、特にジャンプの練習を念入りにくり返していた。また最後には、ショートプログラムの曲に合わせた演技の練習も行っていたのだが、そこでも軽く流すのではなく、本番さながらの真剣さで、ジャンプはもちろんスピンもステップも全力で取り組み、終わると汗だくになるほどであった。
そうして練習が終わると、いつものように腰に手を当てたやれやれというポーズを見せながらも、リンクから降りると満面の笑顔をのぞかせていた。その様子から、この日の練習が充実したものであったことが窺われ、本番に向けてのぼくの楽しみは、ますますふくらんだのであった。
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