茶色い硝子の瞳が、じっと私を追っている。
 振り向けば物憂い溜め息と共に逸らされるが、気がつくとまた部屋の隅から、長椅子の上から、丸まったこの背へ注がれている。
 狂騒な口がすっかり何の宣託も下さなくなった事も、私を不安にさせていた。

 陰魔羅鬼が解体された夕刻。
 伯爵は諏訪署へ連行され、昭和5年当時から事情を察していたという山形や栗林は再度の取調べのため残された。残りの人間は警察の車で宿まで送られる事になったが、私は辞退してもう一晩だけここに残らせて欲しいと申し出た。守り続けた主人を失った老執事が心配だったのだ。知った人間が死ぬのはもう沢山だ。
 驚いたのは榎木津も残った事だった。
 アレなりに君を気遣っているんだよ、と京極堂は云った。
「ああ見えて彼は君が思うより遥かに君の事を考えてくれている。昔からね」
 仕事を終えた陰陽師は、車に乗り際ふと真顔を見せて呟いた。
「榎木津は気に入った人間しか構わない。ただ表現を知らない馬鹿だから感情の出し方を加減できないだけなんだ。もしかしたら僕なんかよりずっと君を……あれはあれで…苦しんでいる」
「苦…ってどういう意味だい!?」
「それは──ああ楢木さん、待たせて済みません。関口君、僕は明朝聴取を済ませたら迎えに来る。榎さんも病み上がりで可也精神的に疲れている筈だから少しばかり我侭な表現をするかもしれないが、今夜くらい付き合ってやってくれ給え」
 瓦斯燐臭い埃と共に取り残されて、私は呆然と巨大な玄関に立ち竦んだ。

 私にとって榎木津とは神でも帝王でも憧れの先輩ですらもない。
 変人というだけである。
 ただ、そういうレッテルを貼って理解できない部分に対し思考停止してきたのだと云われれば否定もできない。榎木津が何を考えているか。自分をどう思っているか。そんな事は考えてもみなかった。美貌も才能も兼ね備えた彼が自分などに向けるものは憐憫と鬱憤くらいのものだろうと思っていたからである。
 しかし。
『僕なんかよりずっと』。その言葉を残した男は時折私を尋常ならざる行為に誘う。それは感情云々というより多分に私が彼の嗜虐心を煽る存在だからではないかという事だけはうっすら理解しているが。ならばその彼よりも榎木津はずっと───何だというのだ。
 唐突に眩暈がして、先刻自分へ向けられていた物憂いまなざしが蘇った。
 学生時代と少しも変わらない、蜂蜜色のうっとりするような。それが常に注がれていた事に気づいてなかっただけだと。
 馬鹿馬鹿しい。
 汗ばんだ顔をばしゃばしゃとシャワーで洗い流した。
 みっともなく屈んだ矮躯を湯が嘲笑っていく。
 榎木津が、この貧相な体に向けられぬ愛情で苦しむなど有り得ない。
 強面の木場や京極堂でさえ時に翻弄するあの台風のような奇人が。
 否。もしかしたらあの二人の故か。友人以上の絆への、義理立て。そう言えば、こうして二人だけで夜を明かす機会も今まで無かった。まさか。
 あらぬ妄想が巡らす自己嫌悪で、考えるだけ眩暈が酷くなった。こうなるともう一晩だけとはいえ同じ部屋に寝台を並べているのも気が重い。時間は遅いが、居残りの警官とメイドに云って何とか部屋を替えてもらおう。駄目なら毛布だけ持って広間で寝たっていい。そう決心して湯当たり寸前で風呂を出て、自分の寝床をめくって凍り付いた。
 榎木津が、私の寝台で寝ている。しかも全裸だ。
 先刻山形との面談から戻ってきて見た時には、自分の毛布に潜り込んで眠っている様子だったのに。
 非の打ち所のない線を描いて横たわる背。仄暗い洋燈に白く輪郭を見せる引き締まった尻。西洋画で見る熾天使のような美貌が枕に半分埋ずもれて。
「ぼうっと見てるくらいならここへ来たらどうだ助平」
 目が覚めているとは思わなかったから飛び上がった。
「え、榎さん、裸のままで…いやその前に何で僕の所で」
「もうそっちでなんか寝てられない。我慢も…限界だ」
 この男とは思えぬ、何かを辛抱するような掠れたような声だった。榎木津の裸など、本当は銭湯や温泉で慣れている。こんな照明で突然見たから。私は必死で平静を繕おうとした。
「い…いいよ。じゃあ僕はそっちで…」
「ここへ来い、タツミ」
 隣の寝台へ行こうとした腕が掴まれ、ぐっと引かれる。
 乱れた髪の間から、切ないほど熱っぽい硝子の瞳が強く見つめていた。
「……それとも…僕と寝るのは厭なのか」
 頭が焼けきれると同時に暗い灯りがぐらりと回って、私はついに榎木津の上へ倒れこんだ。長湯がたたったのだ。
 大慌てで巨大な寝台の端へ逃れて目をつぶったが、湿った肌の感触がぐるぐると熱く脳裏を駆け巡る。波に揺られるかの如き眩暈。否、柔らかすぎるバネが榎木津の気配を伝えて実際私の体を翻弄している。
 ゆらり、と一際体が傾いて、彼が近くへ来たのが判った。
「どうした、
顔が真ッ赤でますます猿だぞ」
「こ、これは湯中りしたから…」
「そうか、それなら脱がして文句はないな」
 筋肉質の長い腕が腰へ回ったかと思うより早く、転がされて湯着を引き抜かれた。
「え…榎さん!!」

 メイドが洗濯すると言われて洋服は下着まで籠に出してしまったから、湯着の下は素裸だ。榎木津の密やかな笑いが背中に零れる。
「ふふふ。尻も赤いかと思ったが結構愛らしいじゃないか」
 撫で上げられて悲鳴が漏れた。思いも寄らぬ自分の声の卑猥な響きに体が勝手に反応してしまう。自分は期待している。あの完璧な肉体に触れる事を、気紛れな神の狼藉を、そしていたぶられじりじりと欲望に炙られる倒錯を。
 血の通う希臘彫刻のように、榎木津の重みが背後で息づく。
 ぐい、と長い脚を割り込まされて、張り詰めていた私の体は限界に達した。
「あぁっ………榎…!!」
 どん、と背中に衝撃。
 縋りつこうとした敷布から転落して脇台でしこたま頭を打った。
 くらくらする視界で見上げたものは、私の湯着に包まれて寝台からだらしなくはみ出している神の足だった。突き飛ばした腕もそのままに、安らかな寝息を立てている。
「……えの…さん…?」
「…煩い…お前も早く寝ろタツミ」
 寝ろと言われても。
 さしもの大寝台もこう大の字で占拠されては座る隙さえ無い。再び突き落とされる可能性を考えると中途半端な気紛れに怒る気力も失せる。仕方なく元榎木津用の方の寝台に上がり毛布に潜り込もうとして、そこで私は三たび悲鳴を上げる事になった。
「な、何だって敷布が水浸しなんだ!!」
「煩いと言うのにこの吼え猿。風呂上りに裸で寝転んだらそうなったんだ!冷えたら気持ち悪くて寝られやしない。お前をそっちに追いやらなかったのがせめてもの神の恩だ!」
 …………どこの世界に布団で体を拭く神がいるというのだ。
 私は先刻打ち付けた頭を抱え、床にへたり込んだ。
 
 結局、着物を奪われ濡れ毛布では隣室で寝る事も適わず、一つ褥から榎木津に飽きるほど蹴落とされ続けた私が、翌朝迎えに来た京極堂に浮腫み顔を馬鹿にされた事は言うまでもない。

                        −了−
               ……つ、つまりこういう話だったんですうぅぅ!
                  お笑いで逃げたとか言わないで下さい〜〜(汗)