妻がいつ出掛けたのか覚えていない。
 昼前、小豆粥を啜るなり炬燵へ潜り込んでまた寝てしまった。
 気がつくと日当たりの悪い茶の間はすっかり翳って既に夕刻にさしかかっている。幾分腹が減っているのを感じたが、粥は食べてしまったし蜜柑などとっくに無いからどうしようもない。
 京極堂の細君と映画に行く、と云っていたか。
 そういえば坂の上に行くなら餅をもらってこいというような事も聞いた気がする。
 そうだ。小正月なのだから京極堂の神社で汁粉を炊くのは今日だったのだ。榎木津が和服を着て来いなどと訳の判らない号令を出したので、億劫のあまり忘れていた。もう済んでしまっているだろう。
 呆然と周りを見回せば、書斎の壁へ正月に着た灰緑の和服が掛けてあるのが見えた。寝ぼけた色だ。妻が用意して行ってくれた物を自堕落に無駄にした自分が厭になる。もう炬燵から出る気もしない。このまま餓死したら乾いて木乃伊になるだろうか、などと埒もない妄想に浸っていると、がらがらと玄関を開ける音がした。
「京極堂」
「案の定じゃないかね関口君。雪絵さんに餅を取りに来るよう云い遣っていただろうに、お蔭で僕は敦子や旦那達に振り回されて境内と自宅を何度も往復した挙句にここまで来なきゃならなくて、大忙しだ」
 自分が行かなかった事とそれらに何の関連性があるのか皆目不明だったが、多分ぶりぶり怒るための枕詞のようなものなのだ。とりあえず、済まない、と謝る。
「え…榎さんが妙な事を云うから…」
「榎木津なら風邪で寝込んでるそうだ。気にせず普段着で来れば善かったのに。今からでもどうだい、敦子と鳥口君はまだいるぜ」
 否。面倒だっただけではなく。
 以前、自分で和服を着たらどうにも様にならず、雪絵にまで笑われた。何を着ても見栄えのしない男なのだ。しかし皆着飾ってくる中で一人だけ平服では惨めだと思う。童話の灰被り姫だ。そう云い訳すると京極堂は、慣れの問題だなと鼻で一蹴した。
「君は帯の位置がいつも高すぎるんだ。それで前屈みだから前も肌蹴て猫背の猿回しみたいになる。男物は女と違って着付けの手間はないが、そのぶん様になるにはそれなりのコツがいるのさ。どれ、一張羅は出してあるようだから指南してやろう」
 云うが早いか、書斎に引きずり込まれた。否も応もなく脱がされる。
「き、京…!」
「ああ、さすがに襦袢に紐が付けてある。雪絵さんも苦労するなあ。しかしこれなら…」
 後ろから腰に腕を廻してごそごそされると、撫で回されているようで変な気持ちになる。
 否、確かに必要以上に手が動いていないか。
 さらさらと脇腹を袖が行き来する。付紐を通すために空けてある脇縫いから這入った左手に胸元を探られて、思わず息をつめた。
「あっ……」
「妙な声を出すなよ。ほら、中々善い御召だから襟合わせをこう閉めればそう貧相でもない。冴えない若旦那みたいだがね」
 揶揄を含んだ嗤いが束の間後退して、すぐにより近くへ絡みついた。
「帯はこう、下腹に廻して腰骨で締める。前はここぐらいが丁度、」
 痩せている癖に強い指が、帯を擦る際微妙な処を掠めた。膝が砕ける。
「あっ…き、君こそ変な場所をそう何度も…」
「しまった、手拭いを挟むのを忘れたな。二本拝借できるかね」
 何を云っても聞いてない。これはどう考えても甚振られている。遣い物だけの為に態々足を運ぶ訳がないと、最初に気づくべきだった。
 この男はいつも、自分に対して関口が友人にあらざる異常な願望を抱いている事を知っていながらそれを肯定も否定もせぬ態度で玩弄の種にする。関口はもしやそこに僅かでも愛情というようなものがありはせぬかと浅墓にもずるずると快楽に嬲られては、毎度手酷く放り出されて憤慨するのだ。
「も…もういいよ、後は自分で出来るから…」
 台所へ行った声から逃れるように、這って足袋を掴む。
「おいおい、そんないい加減に突っ込んだだけじゃ爪先に弛みができる。ちゃんとこうして」
「ああっ!」
 骨ばった指がぐい、と足指の股へ押し込まれたと感じた途端、思わぬ刺激が鼠脛部まで駆け上って腰が抜けた。そんな処に物が這入って来る感覚がこんな風に感じるとは思ってもみなかったから虚を突かれた。さらり、さらりと袖音を立てながら指はゆっくりとそこから縫い目をなぞり足首のこはぜを留めていく。這い登る刺激に既に半勃ちになり始めた物を持て余して、関口は身を捩った。
「た…頼むからもう…!」
「もう、何だね?君の嗜好で変になるのは自由だが、これから出掛けようというのにそんなでは困るな。はっきりし給え」
 出掛けると云った覚えはない。必死で治めようとしても、緩慢にさらさらと上ってくる手の動きがそれを許さず、次第に息が上がる。
「それとも──『あとは自分でできる』と云うのは──そういう意味か?」
もう前合わせの下で隠しきれない形になったそこに友人の残酷な視線を確かに感じて、ついに涙が出た。
「そん…自分でできる…訳が」
 日が落ち深くなってきた翳りの中で、凶相が笑んだ。悪魔だ。
 小正月の晩に訪れるモノは鬼だと謂う。
 曰く、首切れ馬、夜行様、それらは全て遊行する歳徳神の異相だと。
 精進して迎える用意の小豆研ぐ音が、いつしか鬼の訪う前兆になった。
 さらり、さらりと音が裾を割る。逃げようと机に這い登った所で、寒気に晒され粟立った肌の、一番熱いその場所へいきなり触れられて思わず叫んだ。
「あ…ああっ!!」
 弄ばれはしても本気でそこへこの手が至る事は幾度も無かった。
 今日はされてしまう。思っただけで、いやらしい期待が激しく前へ突き上げ雫が友人の指を濡らすのが判った。羞恥で嗚咽した。
 根元から先へ行きかけては戻り、緩く扱かれて涙が零れる。背中を覆う衣擦れの音で急速に達しそうになって押さえた手を阻まれ、後ろへ向かされ唇を吸われた。硬い指先が滑った鈴口をゆるゆると辿っている。浮いた尻にそれが這入りこんできても、既にねだるような動きしかできないのが恥ずかしくて堪らない。何かを訊かれて首を振った。
「卑屈に待つ顔をされるよりたまにはちゃんと云って欲しいものだな。僕はいつでも…本気なのだから」
 耳元で、京極堂の声で、犯されるような卑猥な言葉を強制されて。
 もう自分がそれを云ったかどうか覚えていない。
 ただ、欲しかったものを呑み込むのに夢中だった。
 尻を押し広げて酷い圧迫感が這入って来る。熱い。京極堂のものがこんなになっている。
もっと奥まで欲しかった。ゆっくり、緩慢に動かされて、嗚咽が自分の耳を突く。否、それは突き入れられる程にいやらしく鳴く粘膜の音か、互いの帯が擦れ合う悲鳴か。
 裾は広げられ、自分のものが露になってそこも態と音をたてるように攻め立てられている。懐に這入り込んだもう一方の指先に胸の先が痛いほど嬲られて。何度も押し寄せる射精感で下肢は震え、もう机の上へうつ伏せている事しかできない。
 馬鹿のように、友人の名を繰り返していた気がする。淫らな言葉も何度も云わされた。
 この男にされている。気持ちが、善かった。

「…本当に君は…いつでも本気なのか。京極堂」
 本気でなくてこんな馬鹿をやれるかい、さては阿呆だな君は、と紫煙が渦を巻いた。
 改めて襦袢から着直す羽目になり灯りをつけたのはすっかり真っ暗になってからだった。
 日の暮れは素早いとはいえ坂の上で待つ敦子達にどう思われている事か。おまけに妻も帰って来る頃だと忘れていた。ずきずきする痛みと一緒に後悔が押し寄せる。
「いや…そういう意味じゃなくてだな」
「関口君。さっき君は小豆研ぎがどうとか口走っていただろう。あれは謎の音と歳神の習慣という本来別の物が一体として知覚される事で発生する怪だ。正体を分けてしまうと途端に存在の意味はなくなるし、また別の現象と共に知覚されれば違う怪となる」
 唐突に無関係な話をしながら、骨ばった手が手際よく帯を締め直していく。
「快楽も愛情もとどのつまりは己れの脳と細胞に起こる生理現象に過ぎない。愛と体の双方あって本気、というのがもし正解だとするなら、両者は表裏一体、不可分の物だという事になる。愛情のあるなしだけを論じてその場の快楽が本気かどうかを退けるのは愚かだと思わんかね?」
 それは───
 寸刻、反論を探してやめた。物凄くはぐらかされた気がするが、今の関口にはその咥え煙草の詭弁を覆す論がない。何しろ──事実、そんな事を考える余裕もなく──気持ちが善かったのだ。少なくともこの男は自分に対して本気で性的欲求を抱く場合がある。それだけは事実だと尻の痛みが認めているのだ。依然として答えを貰えない不安はあるにせよ。
「ああそうだ、ここへ来る直前に千鶴子から電話があったのだった。早く帰れそうなので雪絵さんと一緒にうちで夕飯を拵えるそうだ。ほら、着物も直ったからとっとと支度し給え」
 ついでのように真の用件を明かして、人でなしの友人は云うなり勢いよく尻を叩いた。
 本気で、痛かった。
                          (了)