小正月に和服を着たのは木場の義務感に過ぎない。
亭主の形見だが着てみないかと階下の老人が年末出してくれた物を、逗子の始末やらでごたついて結局そのままにしていた。
そういう義務感である。
主義主張はアナクロな木場だが、誰かと違って和服など普段滅多に着る事はない。戦後に袖を通したものと云えば精々警察の汗臭い剣道着くらいだ。それでも綴の帯が腹を締めると常と違う気合が入ったようで気分がいい。白茶の紬と鼠の羽織は大柄な木場にも充分な丈で、老婆は、連れ合いの若い時に似ているとしきりに喜んだ。顔はともかく図体は確かに似ていたのだろう。遠縁というのは爺さんの方だったのかもしれない、などと思いながら一番ましな下駄を突っ掛けて出た。
中野の晴明社で「どんど焼き」があるから全員キモノで来い、でないと汁粉を食べさせないぞという珍妙な号令を榎木津が出したのは一週間ばかり前だった。
汁粉とは、戦前に町内の氏子が正月飾りと一緒に餅だのを持ち寄ってやっていた炊き出しの事らしい。砂糖の統制が解けた昨年から復活したのだそうだ。無論汁粉が食べたかった訳ではないし、神社でやる以上祭主は京極堂のはずだから馬鹿の思いつきに従う気も更々無い。ただ先の義務感を果たすいい機会だったというだけである。
そんな訳でわざと昼過ぎに着いた。鳥打帽に襟巻で絣の角袖という明治時代の岡っ引のような鳥口と、紺のセルに灰の袴を履いた学生臭い青木が火の始末をしている処だった。
「遅いですよう。汁粉は神事の前だったんっすよ」
「婆ぁ子供じゃあるめぇしそんな甘ッたるいモン喰うか。それより榎の馬鹿はどうした」
「大将は風邪がこじれたとかで唸ってます」
そう云えば逗子でひいたような事を云っていた。
「首謀者欠席じゃ意味ねえだろが。大体青木、下宿の手前ぇがそんな衣装持ちたぁ何だよ。コケシ通り越して市松人形みてぇだぞコラ」
「いや、それがですね…」
「御免なさい、本当は私が榎木津さんにお願いしたんです」
淡い朱鷺色の梅小紋が横からひょい、と出た。京極の妹だ。
「服飾雑誌をやってる知人から男性の着物姿がどうしても欲しい、って頼まれちゃって。最近はお正月でも和装が少なくなっていい写真が撮れなかったそうなんです。でも善かった、青木さん達には兄貴のが何とか合ったんですけど、木場さんが着ておいでじゃなかったらどうしようって心配してました。凄く素敵です」
そう云って敦子は鳩のように笑った。その唇へ薄く引かれている紅に気づいて、木場は矢庭に狼狽えた。日頃は『女』を意識しないで済む娘だが、格好が違うだけで途端に対処できなくなる。
「じ…冗談じゃねえ、天下の警視庁刑事が雑誌に面ぁ晒せるか!」
「そりゃ無いっすよう、僕らだけでカメラマン兼モデルなんて」
「京極はどうした奴こそ年中和装だろが!」
「兄が厭がったからこうなったんです、第一あんな死神モデルになりません」
「御免だね。それに御神域でこんな馬鹿騒ぎを許した覚えもない」
さらり、と衣擦れの音がした。
真っ白な浄衣に烏帽子。
初めて見る、神主としての京極の姿だった。
あの呪いを吐く禍々しい姿とは真逆の、別人のように近寄り難い清浄さに木場は一瞬ひるんだ。
「旦那。愚妹の我侭に付き合う必要はないが、折角来たなら少し手伝って貰えませんかね。自宅から持ち出してきた物を戻したいんです」
云うなり妹の抗議を無視してすたすた裏へ周った。
社務所兼倉庫の横には椀や杓子の入った箱、汁粉の残りと思しき鍋などが積んである。確かに非力なこの男では一度に持てないだろう。
「お、おい、これを運びゃいいのか」
神主はすでに振り返りもせず鍋を提げ石段へ向かっている。
その後姿がやはり他人のように思えてしまう。
「どうしたんです旦那。何か今日は余所余所しいな」
「そ…そりゃお前さんの方じゃねえか。何となく壁を感じるぜ」
「祭服で砕けた態度は憚られますからね。原因はこの衣装でしょう。旦那は外見に縛られ易い。壁を作っているのはあんた自身の遠慮なんですよ。まさか神職に対して善からぬ邪念は、とかね」
庭へまわりかけて噎せた。玄関を潜った横顔が嗤っている。お見通しだ。
確かに木場は、偏見などとは違う意味で形に縛られる。己れが外側だけの存在だからだろう。相手に対しても形に応じた箱になろうとするから、変えられると途端に迷う。正に今、この白い襟元に血迷っているが如くに。
「今日は駄目だよ。関口が来なかったから後で餅を持って行かなくてはならない。どうせ細君達が映画に出かけて夜まで戻らないから、正月気分のまま怠惰に寝こけているに違いないんだ」
何が駄目なんだこの野郎。暇潰しと称して不座化た関係を持ちかけて来るのはいつもそっちじゃねえか。わざわざ細君が戻らない事まで匂わせやがって。
去年の秋、少々感傷的になっていた勢いでこの男と寝てしまったのは間違いだった。以来、悪い火遊びに何度か振り回されている。振り回す自体が楽しいのだとしか思えない。汗の出てきた顔を隠して台所へ箱を置いていると、後ろの座敷で衣擦れが聞こえた。
「おっおい、何で脱いでんだよ」
「脱ぐさ。神事は済んだし、倉庫に仕舞う前に少し干…あっ」
持って行こうとして衣装を踏んだのか、京極が上体を崩した。
咄嗟に抱えた。津軽塗りの座卓の角で脛を打つ。縺れて転んだ。
「てえ」
「…旦那。有難いが放してくれないか」
痛みで思わず腕を締めていたらしい。骨張った体が苦しげに吐息を漏らす。襦袢にも見える白い単衣の裾が乱れて、肉のない腿が露になっていた。白足袋が目に焼きつく。脳味噌も、焼けついた。
「旦那、」
起き上がりかけていたのを押し倒す。
裾へ強引に手を差し入れた。内腿に掌を這わせると、怒りの声音が上がった。
「駄目だと云うのに」
「こんな態とらしい誘い方があるか。態とらしすぎて引けねえじゃねえか」
白い襟を口で引き開けて浮いた骨を噛んだ。今度は殺した息だけが漏れる。木場の手が下着を剥がしてそこへ辿り着いたからだ。木場自身も裾が肌蹴たのをいいことに、拒む脚へ膝を割り入れる。着衣のまま深く素肌が合わさるのは慣れない感覚だったが、それがまた妙に新鮮だった。唐突に、常にない事をしてみたいという気分に駆り立てられた。
厭がる素振りとは逆にはっきりと反応を始めた京極のそこを腿で弄りながら、そのまま片脚を無理矢理上げさせ押し入った。
「旦…!」
痩せた指が木場の羽織紐を引き千切った。苦痛なのは判っている。しかし止まらない。白い衣を汚してはと思いつつも、その清浄な身を犯すという妄想が止まらない。深々と挿れた互いの部分が裾の合わせから見え隠れするのも堪らなかった。
辛さで上体を横へ捻るしかなくなった京極に代って腰を支えながら、空いた方の手で再び前を弄る。ああっ、と押し殺した悲鳴が上がる。
善かった。一度放ってからは滑りやすくなった中を掻き回し、何度も抽挿した。
顎を食い縛っているようだが、熱い吐息と湿った中の音が、この意固地な男自身も善いのだと白状している。僅かに腰を使っている気さえする。
「おい…善いんだろ。声出せよ。でないと…何だか知らない男同士で犯してる気分に…」
「…馬…!!」
昼の座敷に白々と浮いた袖の陰で一瞬朱に染まった顔を見た途端、木場は立て続けに達した。
「何と云う暴虐だ。一方的に妄想の捌け口にされるなど言語道断極まりない」
天井が落ちるかと思うほど散々に罵ったあげくに、京極は紙巻の箱をぱん、と座卓で鳴らして一本抜いた。滅茶苦茶に着崩させてしまった単衣は、縞の木綿にすっかり着替えられている。
「全く…する方はともかく、この僕が知らない男に犯されるのが善いとでも思ったのか?中へ出されたから余り汚れなかったのだけが不幸中の幸いだ」
直接な事を云われて木場の方が赤面する。
結局、あんまり酷くしすぎたせいでこの男はいけなかったらしい。
「たまには違う服装もいいなどと思ったのが馬鹿だった。こんな状況を作った榎さんにも恨み言を言っておこう」
「ばっ…あ、あの馬鹿にばらす気か!?」
「冗談ですよ。しかしいずれあれは“観る”からなあ。二人で旦那を懲らしめるのも善いかもしれない」
血の気の引いた木場をちら、と目で嗤って京極は襟巻を巻いた。
「さて。猿君もいい加減腹が減って起きてる頃だろう。撮影隊も押しかけてきたようだし」
云うと同時に玄関が喧しくなった。さすがにこんな直後では何かが顔に出ない自信がない。退散の潮時のようだ。硝子戸を開け放って意味もなくばたばたと扇いだり、上がった時のままの縁側の下駄を拾いかけ、ふと気づく。
「お、おいお前さんは」
「別に欲求不満だったりしませんよ。御心配には及ばない」
戸を閉めさらりと流しながらも性悪な気配が混じっていたようなのは気のせいか。
もしかしたら。
気の毒な事になるかもしれない関口に、謂れのない申し訳なさを感じて木場は裏木戸で大きく溜息をついた。