他者を押しのけ肥大する自我
      
 最近、子供による残酷な殺人事件が増えている。恐ろしいことだと思う。
 人を殺すことの恐ろしさを知らないというのは、無知の極みである。

 社会経験が浅いのだから、殺人の恐ろしさを知らないのは仕方がないという考えもあるかもしれない。しかし、ならばなおさら、なぜ短い人生のうちに残酷な方法で人を殺すような世界観が形成されてしまったのか、疑問が残る。

 長崎県佐世保市の小学校で同級生を殺害した6年生の女児などは、友達の首をカッターナイフで切り裂いたという(2004年6月)。なぜそのような恐ろしい手口を知っていたのか不思議に思う。42人の中学生が殺し合いをする映画のビデオを自分ひとりで借りて観ていたというが、その映画が影響したかどうかは不明だ。しかし、中学生が殺し合いをする映画を観たいと望んだその心とは、いったいどういう状態だったのだろう。

 わたしならば、アクションとかホラーとか、明らかにエンターテインメントとして楽しめるようにつくられた映画なら観たいと思うが、子供が殺し合う映画を観たいとは思わない。なぜなら、わざわざ子供の殺し合いを表現として使うということは、テーマがかなり重いということが想像できるからだ。よほどの問題意識がないかぎり、わざわざ観ようとは思わない。疲れる。
 そのような映画を小学生がわざわざ観たいと思うということは、それなりにせっぱ詰まった暗くて重い状況があったのかもしれない。それにしても、そんな状況に付き合わされてしまった被害児童と家族はたまったものではない。

 考えてみれば、子供に観せたい映画というのは難しいものだと思う。子供が認識している世界は狭い。他者というものの認識もできていないし、映画と現実の区別も曖昧なところがあるのではないだろうか。
 加害児童に接した精神科医は「表現力の乏しさ」「対人関係の未熟さ」「事件の重大性についての認識の欠如」などを特徴としてあげているという。やはり「外部」とか「他者」を認識できていないのだと思う。

 子供がたいへんなところというのは、自我の形成が未熟で不安定なところなのではないだろうか。つまり、どのように自分をコントロールして世界や他者との関係を築いていけばいいのか、迷いが大きいのだと思う。

 自分の小学生の頃を振り返ってみれば、わたしもいいことばかりではなかった。イジメられたこともあったし、仕返しをしたこともあった。朝、家を出るとき「さあ、戦争だ」と自分に言い聞かせたこともあった。子供の世界はけっこうあからさまに「弱肉強食」だ。わたしにもそういう暗い時代はあった。自分のことで精一杯で、自分の狭い世界を突き放して他の世界の可能性を知ろうとする余裕などなかった。

 それでもなんとか暗黒の時代を無事に通り抜けることができたのは、遊び上手な友達をはじめ、いい本や音楽や映画との出会いがあったからこそだと思う。少しずつ自分の引き出しが増えていき、なんとか世界を楽しむ術を心得ていったことが大きい。時には心から笑って生きられるようになっていった。

 人間は、言葉やイメージによって世界をとらえている。言葉やイメージが貧しいと、その人の世界も貧しいものになる。つまり、その人の考え方によって世界はまったく違ったものになってしまう面があるのだ。
 軽んじられがちだが、いい本を読み、いい映画を観、いい音楽を聴き、いい人々と触れ合い、いい経験をすることは、人間にとってかなり大切なことだと思う。

 佐世保の加害児童も、たとえば大人であれば映画『リトル・ニッキー』(※1)や『フル・モンティ』(※2)などのおバカ映画でも観て「バカだ、ほんとにバカだ。でも、世の中には愛せるバカもいるのだ」と笑って生活できる余裕があれば、人を殺すなどという考えにとらわれることなどなかったと思う。「笑い」は自分のコントロールに重要な役割を果たす。

 上質な「笑い」は「知性」である。「笑い」とは、自分や事象を突き放して見る(笑う)ことができる視点のことである。つまり、人は自分の外に出て外部の視点をもつことによって笑うことができるということだ。
 別の言い方をすると、人間は限界のある生き物である。たいていの場合「笑い」は、その限界点に触れたときに起こる。
 限界を笑うことができるということは、同時に無限に触れているということなのだ。

 たぶん、自分の限界を認識できない人々は、上質の「笑い」を知らない人々なのだと思う。
 自分の限界を認識できない人々とは、「自己愛性人格障害」「サイコパス」の人々のことである。彼らは自分の限界を知らないがために他者を認識できず、他人の迷惑を考えることができない。「愛」は他人に向けるものではなく、自分に向けるものだと思っている。「愛」はあるけれども他人を気づかう「心」はない。恐ろしいことだ。

 いわゆる「もの心がつく」前の子供というのは、ある意味恐ろしいものなのかもしれない。また、いつまでたっても「もの心」がつかない、他者を認識できない大人も恐ろしいものである。
 自分がそのような恐ろしい人間にならないよう気をつけるには、いくつか言葉を知っている必要があると思う。言葉は、自分のモヤモヤした気持ちを整理するためにも重要な役割を果たしている。
 知っておいた方がいい言葉とは「自我の肥大」「選民意識」「自己中毒」などである。

「自我の肥大」とは、自分への関心が病的に肥大して誇大感をもってしまうことだ。
 つまり、自分は特別な万能の人間であり、すべてが自分の都合のいいように事が運ぶはずで、多くの人に賞賛されるべきであると思い込むことである。さらに妄想が進むと、自分は超能力的な力をもっていて、現実を思い通りに動かす事ができると思ってしまう。かつてのオウム真理教の人々も、このような妄想にとらわれていたのだと思う。

「選民意識」とは、自分は選ばれた特別な人間で、一般の人々とは違うのだと思い込む意識で、普通に生きている人々を軽蔑し、自分より優れたものを認めようとしないことだ。
 これは哲学を専攻している人が陥りがちな意識である。自分は悟った、あるいは悟るべき人間であり、そこらへんの人とは違うようなことを実際に著作で繰り返している人もいる。
 悲しいことに、心が弱っている人は、そのように何の根拠もないのに自信ありげで偉そうな人にひかれる傾向にある。このような弱い人々のことを「信者」という。

「自己中毒」とは、自分は特別だという妄想に自分で酔ってしまうことである。
 自分で自分をコントロールできなくなってしまい、気持ちいいことだけを目的として行動するようになる。麻薬中毒と同じである。
 で、悲しいのは、人間にとって「暴力」をふるうという行為は、ときには快感(興奮)をともなうということである。脳内に快感物質ドーパミンが垂れ流しになってしまう場合があるのだ。
 他者を認識できず、世界は自分の思い通りになると思い込んでいる人間は、平気で虐待や殺人を犯すことができるのである。

 幼女連続殺人犯や神戸の児童殺人犯などは、事件当時を振り返って「まるで夢の中の出来事のようだ」と言っていたそうだが、佐世保の加害児童も、やはり同じように振り返っている可能性もあると思う。
 わたしは、佐世保の加害児童は友達が憎くて殺害したのではなく、ただ誰かを殺したかっただけだったのだと考えている。「ムシャクシャしてやった。誰でもよかった」ということである。意識が外部へ向かわず過剰に自分に向けられ堂々めぐりをして「自己中毒」を起こした可能性も考えられるのではないだろうか。

 で、なぜ自我が肥大しドーパミン垂れ流し状態になってしまうかというと、それは「自分は優れた人間である」という強迫観念がある場合が多いそうだ。で、逆に「劣った自分」に耐えることができず、もろい自分を守るために必要以上に他者を攻撃するという。その攻撃性が暴走してしまうと殺人にまでいってしまうことがあるらしい。

 もちろん、殺人を犯してしまうのは、そのような傾向にある人々のごく一部だが、そのような傾向にあり他者を必要以上に攻撃する人々を見ると、なんで自分の優位性にそこまでこだわるのかと、気の毒に思うことがある。イジメの問題も、根底にはそういうことがあるのかもしれない。
 人より優れていることが、そんなに重要なことなのかとつくづく思う。

 人間にとって重要なのは、他者とまともにコミュニケーションすることができ、普通にまっとうに仕事ができることなのではないだろうか。
 人より優れているとか劣っているとか、そんなことはどうでもいいことだと思う。優れていようと劣っていようと、そんなものはお互い補いあって、みんなでのんびり暮らそうよ、と思う。

 なぜ、どうして、いつのころから、優れているとか劣っているとかという価値観がまかり通るようになったのだろうか。
 たとえば、今でも老人が若者に「人の上に立つ人になれ」などと言っているのを見るとギョッとする。人に上も下もあるわけがないではないか。

 そのような過剰な個人主義が、どれほど他者を疎外し、人間を孤立させ、自我を肥大させ、選民意識を増長し、自己中毒を起こさせるか、そろそろ注意して生きた方がいい時期に来ていると思う。
 子供が快楽殺人を行うようになってきている疑いもあるということは、けっこう危険な状況ではないだろうか。

 人間には限界がある。いくら努力してもダメなものはダメなのである。努力しないでダメなのはお話にならないが、努力してダメだった場合は「ま、いいか」「それがどうした」とみんなでうなずき合って笑うことができる余裕ある社会にならないものかとしみじみ思う。

「人間の可能性は無限だ」というフレーズはよく使われるけれど、「無限だけれど有限だ(限界もある)」という多面的な「知性」がなければ、世界認識が歪んだものになってしまうと思うのだ。


佐世保の小学生の事件は、ネット上で悪口を言われたため逆上したという解釈が多いようですが、わたしはそうは思いません。

亡くなった被害者のウェブサイトも見ましたが、人のいやがることをするような少女には思えませんでした。むしろ、加害者に自分のウェブサイトを荒らされたのにもかかわらず、騒ぎ立てずに加害者があきらめるのを待つ度量のある少女だと思いました。

お父さんの手記を読んでも、背中がかゆくなると「孫の手」ならぬ「お〜い娘の手〜」と呼ぶと、「はいはい」といつでも飛んで来る優しいユーモアのある少女だったようです。

心理学の研究も進んできている世の中ですし、そろそろ「殺人=被害者に対する怒り」という単純思考で事象をとらえるのはやめてもらいたいと思います。

【※1】
映画『リトル★ニッキー』2000年アメリカ
監督:スティーブン・ブリル
出演:アダム・サンドラー、ハーベイ・カイテル

ヘビメタをパロディにしたコメディ映画。地獄を支配する魔王一家の物語で、魔王の座をめぐって兄弟3人が地上や天国を巻き込んで権力闘争を繰り広げます。シカゴのレコードを逆回しにして悪魔のメッセージを聞いたり、オジー・オズボーンがコウモリの頭を食いちぎるエピソードとかが出てきて、ヘビメタ好きにはたまりません。

ヘビメタは悪魔崇拝の音楽というとらえかたをされていますが、ファンは本気で悪魔崇拝していたわけではなく、悪魔崇拝というファンタジーを楽しんでいたということがよく描かれています。いわゆる大人の余裕です。映画『パルプフィクション』『キル・ビル』の監督タランティーノがカメオ出演していていい味出してます。

coverリトル★ニッキー

【※2】
映画『フル・モンティ』1997年アメリカ
監督:ピーター・カッタネオ/出演:ロバート・カーライル

製作はアメリカの映画会社ですが、スタッフ&キャストはほとんどイギリス人です。舞台もイギリスのかつては鉄鋼業で栄えたけれど、今は寂れた地方都市。失業中の6人のおじさんたちが、人気男性ストリップチームの真似をして、ストリップで一儲けしようと四苦八苦する物語です。

美男でもないし、体がいいわけでもないおじさんたちのストリップなど誰が見に来るかというと、それは妻や近所のおばさんたちという愛のあるオチ。踊りは下手だけれども、そこは役者さんたち、ズボンを一瞬ではぎ取って見せるところや、おパンツをスッと抜くところなどは妙に揃ってなかなか様になっていて、思わず「ワァ〜ォ」。おじさんたちはフル・モンティ(スッポンポン)まで脱ぎますよ。

ストリップショーの400人の観客は一般から公募してエキストラを集めたそうで、役者さんたちが実際に脱ぐというので、みんなマジで興味津々な目をしているところが笑えます。若い女の子たちの「OFF! OFF!」というかけ声も絶妙。役者さんたちもちょっとテレ気味なところがまたいいです。観客は若い女の子からおばあさんまでいます。

トム・ジョーンズの「帽子だけは脱がないで」という曲にのってストリップをするのですが、役者さんたちも観客もノリノリで、実際にとても楽しんでいることが伝わってくる映画です。この映画を観て「よ〜し、お父さんも頑張っちゃうぞ〜」と「フル・モンティごっこ」を楽しんだご家庭も多いのではないでしょうか。

coverフル・モンティ
 
 

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