2010年03月02日

更新を終了します

5年あまり続けてきましたが、このブログは更新を終了します。思ったことを書くということはけっこうおもしろいし好きなので、どこかでまた書くのではないかと思いますが、このブログは以降、更新をしないことにします。

こんなブログでも、多くの方に読んでいただき、いろいろな人とお会いすることができました。どうもありがとうございました。またどこかで書き始めた際には、ぜひよろしくおねがいいたします。

koukokugyokai at 01:07|PermalinkComments(24)TrackBack(0)

2010年02月21日

副産物の設計

以前はアナログレコードやCDをお店に買いに行っていた。いつの間にかそういうことをしなくなり、ネットで見かけたPVや、amazonでのおすすめを見ながらダウンロード購入したり、ネット経由でCDを買うようになった。買ったCDは届いてすぐにiTunes/iPodへ入っていつでも聞けるようになる。便利だけど、ひとつ残念なのは、いわゆる「ジャケット」のアートワークを楽しむことが減ったことだ。自分はアートマニアではないし、ジャケ買いもそんなにしない方だったけれど、機会が減ればそれなりにさびしい。

インターネットというのは元々は軍事技術で、アメリカが当時のソ連に対する分散型の情報システムを構想することからはじまっていたようだ。軍事技術というのはいろいろな副産物を生んでいて、Wikipediaをみるとコンピュータ、原子炉、GPSといった重要な技術も軍事技術発祥のものとして挙げられている。じゃあ、先端技術を開発したいなら仮想敵を作って、軍事技術開発にいそしめばよいのだろうか。

好きな言葉に「情けは人のためならず」がある。結果として生まれる、他人への「情け」は、もともと他人のためにあったものではない。自分のためにやった純粋なことが、結果として他人のためにもなるという話。ここから発展して、結果を効率よく得るために、最初からひとのために行動しましょうという発想もできる。しかしこういうものは逆算して再生産をしようとするとおかしなことになる。市場経済にも似たようなところがあって、個々人が自分のためにがんばると「神の手」が機能するけれど、神の手だけを取り出そうとしてあとからプログラムを書こうとしても、そうはうまくいかない気がする。

何か行動するときには目的があって、行動した結果として目的が達成されたりする。でも行動で生み出されるものはひとつだけではないから、必ず副産物が生まれる。もともとのイメージでは、副産物は5%とか10%なんだけれど、実際はそんなことはなくて、50%くらいはあるように思う。この副産物をうまく使うことが重要で、行動する本人がたいして副産物を意識していないときに、いい結果がうまれるように思う。

老人ホームの活性化アイデアに、美容師を連れてきて化粧をしてもらうというものがあった。素晴らしいアイデアだと思った。化粧をすれば、それをした自分の姿に意識をして、他人の目も意識するようになる。自分に自信もつく。その結果、活性化につながる。化粧することによる副産物が活性化。

いわゆるタバコ部屋コミュニケーションも似ていて、みんなはタバコを吸うことを目的に部屋に来る。タバコを吸っていると、ほかの喫煙者もいて、そういうつもりはなかったけど何か話したりする。この副産物が、なにか大切な、純粋な情報を伝えるのに役立つこともある。

似たような話はいくらでもある。前に書いたけれど、徒弟制。師匠は教えず、弟子に我慢を強いるだけ。副産物として覚悟のない弟子をふるい落としたり、自ら学ぶ力をつけたり、理屈ではない身体感覚を身につけさせることにつながっていく。このケースでは、副産物と主目的がほとんど一体になっている。

経営者は、売り上げを上げ続けることを目的に仕事をしている。そのときに、どのような副産物を使うか。以前に成城石井について書いた文章では、目標を「いいあいさつをすること」に置いていた。言い挨拶をしようと思うと、その過程で自信のある品物を仕入れるとか、お客さんをよく見るとか、いろいろな行動がうまれていくる。結果として、売り上げが上がる。いいあいさつをすることの副産物が、売り上げだと理解することもできる。

成功事例の分析には落とし穴がある。結果からそのまま逆算すると、副産物の経路を見落とす可能性が高いということだ。目的や意図と、行動と、そこでの副産物をしっかり観察しないといけない。

アートをもっと盛り上げるためにCDのジャケットを思いついたり、先端技術開発のためにあえて仮想敵国を作ってみたり、老人ホームの活性化のためにお化粧を思いつくような、そういうアイデアマンになりたいと思う。

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2009年11月14日

ナントカ感の正体

仕事をしていると、たまに謎ワードを聞くことがある。「登場感が欲しい」とか。これはかなり謎だ。わかるようで、わからない。登場感、何となくわかるような気がするが、じゃあそれを作るためには何が必要なのかと考え始めると苦しい。これに限らず、ナントカ感、とつくような言葉がある。スピード感、緊張感、劣等感・・・「感」がつくことによって、どういう変化があるのだろう。

女性が言う、もてる男の条件に「清潔感」というものがある。これは清潔とは違う。単に風呂に入り、歯磨きをしてもだめだ。清潔感にはおそらく二つ条件がある。ひとつは、「手入れをしていることがうかがえる感じ」。無精ヒゲとか、衣服のしわ等がマイナス要因になる。無造作ヘアというのは、ぼさぼさ髪と紙一重だけれど、手入れをしている感じがうかがえればOKだ。もう一つは、「健康であることの表示」。適度な日焼けや、吹き出物などがない肌というのがポイントになる。これらは正直、清潔さとはほとんど関係がない。でも、清潔感とは深い関係がある。

あるウェブサイトを見ているとき、感心したことがある。スピードを表現しているのだけれど、サイトが非常に軽い。大画面の映像で、スピーディーな表現をやろうとすると、たいてい重たいサイトになってしまう。しかし、このサイトではスピード感を表現していた。よく見ると、表示はコマ送りでしかないのだが、一つ一つのコマは静止画ではなく、動いている残像のコマなのだ。コマ送りでしかなくとも、残像が入っていることによって、人間はスピード感を感じることができる。スピードではない、スピード感の表現。

もっと抽象的に、自由と自由感の違いというものもありそうだ。自由というのは、何にも妨げられないで主体的に振る舞えることだと言える。では、何もない画用紙に、好きに自分を表現する、というのは自由だろうか。客観的には自由かもしれないが、頼りどころがない。子供だったら、塗り絵の枠線が書かれている方が自由だろう。Twitterは、好きにつぶやけと言う。そのとき、140字の文字制限がある。好きにつぶやけというのは不安を感じさせるけれど、140字の限定は自由感をもたらす。あるサイズの限定は自由ではないかもしれないけれど、自由感を生む。

バックパックを背負って海外に出かけていたころ、マレーシアのなんだかわからない街に泊まったことがある。長距離鉄道に乗っていて、たまたまそこで降りただけ。観光地でもなく、日本人も見あたらない。そんな街に、ほとんど誰も泊まっていない宿があった。一泊、百円くらいだったその宿には、窓にガラスはなく、シャワーも水しかでない。じゅうたんもなく、布らしきものはベッドの上にしかない。備品と呼べるものは灰皿くらいで、この灰皿だって何かの食品の缶詰が置いてあるだけで、ほかには豆電球が部屋に一つ。そんな宿だったが、気持ちは非常に自由だった。こんな状況で感じる自由は、自由というより自由感だろう。

「感」がつくとき、その概念は人間のカタチになっている。わかるようでわからないこの「ナントカ感」を把握することが、表現やコミュニケーションにおけるコツなのかもしれない。

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2009年10月04日

一方ロシアが鉛筆を使うには

ちょっと好きなジョークがある。
アメリカのNASAは、宇宙飛行士を最初に宇宙に送り込んだとき、無重力状態ではボールペンが書けないことを発見した。
これではボールペンを持って行っても役に立たない。
NASAの科学者たちはこの問題に立ち向かうべく、10年の歳月と120億ドルの開発費をかけて研究を重ねた。
その結果ついに、無重力でも上下逆にしても水の中でも氷点下でも摂氏300度でも、どんな状況下でもどんな表面にでも書けるボールペンを開発した!!
一方ロシアは鉛筆を使った。
実話ではないらしいが、なにか、重要なことが含まれているような気がする。

トヨタだったか、彼らは「なぜ?」を5回繰り返すという。徹底的に考えて、カイゼンを進めていく。この徹底した態度は重要だ。しかしこれとはまた異なる、デザイナーの考え方が好きだ。彼らは、「なぜ?」から入っていって、最後は「もし〜だったら」で出てくる。

冒頭のジョークでいうと、無重力状態でボールペンが書けないというところで「なぜ?」がはじまる。このまま「なぜ?」を繰り返すと、インクが無重力では機能しない、というところへ行き、そこからインクの液体としての特性がどうのこうの、という方面に解決を求めていくのだろう。でも、「なぜ?」を繰り返すと、袋小路に入っていくことがある。どこかで、「もし」を使わないといけない。「もし、ペンでなくてもよかったとしたら」。

コロンブスの卵も、似たところがある。あの話は、周りの人が「そんなことだったら俺にだってできたよ」という反応に対する「最初にやることが重要なんだよ」という教訓のようだが、おそらく別の教訓がある。つまり、卵を割って立てることが重要なのではなくて、卵を割ってもいいという前提をつくりだせるかどうか、が重要なのだと。「もし、卵を割っても良かったとしたら」。

仕事で、客先の偉い人と対面することがある。偉い人物はたいていおもしろい。彼らのおもしろさは、世界に対する仮定にある。自分が思いもつかなかった前提で世界を見ている。実際に彼らの口から出てくるのは、その前提に立った上での世界に対する感想なのだけれど、おもしろい前提がそこから透けて見えてくる。彼らのすごさは、前提のすごさだ。言い換えると、「もし」のすごさだ。

アインシュタインのこの言葉が好きだ。「問題をつくりだした時と同じ考え方では、その問題を解決することはできない。」ここでいう「考え方」というのは、前提となる世界観、「もし」のことだと思う。もし、卵を割ってもいいのだとしたら、もし、リンゴは落ちているのではなくて引っ張られているのだとしたら。もし、宇宙空間で使うのがボールペンでなくてもいいとしたら。

もし本当に画期的なアイデアだったら、背景となる知識・経験が他人とちがったものになっているはずなので、しゃべっても絶対に理解してもらえないから大丈夫。
自分の考えたアイデアを内緒にしたがるひと - はてなポイント3万を使い切るまで死なない日記
仮説思考が重要だ、ということがよく言われる。仮説を持つことで、無駄な作業が減るし、考えがシャープになる。しかしそれだけではなく、「なぜ」だけでは袋小路に入っていくし、個別最適な解決になってしまうことを防ぐ「もし」の重要さもあるはずだ。強力な「もし」は、汎用性があるし、コピーされにくい。すぐれた商品やサービスの背景には理論があるし、その理論の背景には「もし」という名前の世界観がある。真にコピーすべきは、そこなのだろう。

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2009年10月01日

牛型の情報収集

牛には4つの胃がある。食べたものを胃に送って、また口に戻して噛んで、それを何度か繰り返して最終的に消化する(反芻する)ようだ。なぜそんなことをするのか気になったが、食べ物をたべる時間がない中で、消化の悪い草をなんとかして栄養にしなければいけなかったから、らしい。敵がいないうちにムシャムシャ草を食べ、その後で警戒しながら反芻する、というイメージだろうか。勝手な話だけど、これはネット以降の情報収集スタイルに近いのではないかと思う。

インターネット以降は、利用できうる情報量が圧倒的に増えた。しかし持ち時間そのものが増えたわけではないので、情報はたくさんあるのに時間は足りないということがよくおきる。しかも、情報源もさまざま、単なる個人だったりすることも多いので、信用していいものかどうか、あるいは自分と関係のある情報かどうかもわからなかったりする。どうやって役に立てればよいのだろう。

方法はいろいろある。まずは従来からある方法で、よいとわかっている草を食べる。つまり、信用できる人を見つけて、その人からの情報を信頼して食べる。権威付けをするという意味では、みんなが食べている草を食べるというのも同じ考え方だ。

あとは、胃の性能を上げる。情報を仕分けして整理して、なるべく早く消化できるようにする。高性能なツールを使う。あるいは、自分の頭を良くして、素早く深く理解できるようにする。これは、なかなか難しい。

そして最後に牛のアプローチ、反芻である。なんどもなんども食べる。一見、効率が悪い。時間が余計にかかっているようにさえ見える。なぜ反芻する必要があるのか。

理由は明快で、1番目と2番目のアプローチは、視野が狭くなる可能性があるからだ。自分の欲しい情報や興味のある情報に最適化すればするほど、情報源が狭くなる。よくわからないけれど実は意味のあることだったり、いますぐにはわからないけれど自分にとって重要かもしれない情報というものが、漏れてしまう可能性がある。あるいは、全く分野は異なる情報でも、自分の興味範囲に応用できることがあるかもしれない。こういうものは、草に例えていうなら消化が悪い。しかし、幅広い情報を手に入れられる時代だし、せっかくなので生かしたい。そこで消化の悪い草にも効く、牛型の情報収集が必要になる。

牛型の情報収集における基本は、とにかく食べるということである。こいつは食べ物かもしれない、と思ったらとにかく食べる。つまり、少しでも気になったら、とにかくクリップする。明らかに賛成・反対だったり、もうわかりきっていることというのは確実な食べ物なので、牛型の情報収集からは外れる。よくわからないけど、何かひっかかりがある・・・くらいがちょうどいい。とにかく貯める。

この引っかかり、必ず理由がある。その理由が判明するのは、明日かもしれないし、1年後かもしれない。少なくとも私の経験では、なんだかわからないけどちょっと気になるものというのは、自分にとって重要なものだ。最初の時点でその理由がわかっている必要はない。理解する必要もない。そこで理解できてしまうなら、あえて貯めておくべき情報ではなかったということだ。

最初の消化においては、ちょっとした感想とか、なぜ気になったのかをわかる範囲で書いておくだけ。最初の消化となる。その後、1週間なりして、もう一度見る。ポイントは、自分の感想だけを見ること。最初の感想だけを見れば、何を見て書いたものかは十分に思い出せるし、重要なのは、なぜ自分がこれを気にしたのか、ということを理解することだから。このときに、感想をたくさん通して見ていくと、そのとき考えていたこと全体の輪郭が見えることがある。

ある程度消化できたら、考えたことをある程度まとまった形にして書き残しておくのがいい。ブログに書いてみるのが一番いいと思う。この文章もそうやって書いている。ブログに書いた時点である程度の消化はできているけれど、それに対する反応が返ってくると、さらに消化が進んだりもする。この時点で、自分だけでなく他人の胃を使って反芻をはじめることになる。

最後に、自分の書いた文章(上記でいうとブログ)を一気に通読する。最後の反芻になる。意味がないようにも思えるが、やってみると新鮮だ。一気にたくさん読むのが重要で、そこから見えてくる全体の輪郭というのが、最終的な消化だ。意外と深いことを考えている、自分の大きな問題意識みたいなものがわかると、気分がいい。ここでも内容それ自体ではなく、なぜ自分はこんなことを書いているのか考えることが重要だ。

数が多く、それぞれが細かい情報をうまく生かしていくためには、都度都度ではなく大きく理解することが重要だと思う。そのとき助けになるのが、自分の「なんとなく気になる、ひっかかる」という意識だ。そこには必ず理由があるし、それこそが自分がまだ把握できていない問題意識だ。人生訓ではないが、答えは自分の中にあることが多い。ネットを鏡のように利用して自分の考えを深めるために、牛型の情報収集が役に立てばいいなあと思う。

koukokugyokai at 01:42|PermalinkComments(0)TrackBack(0)