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風塵山荘
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388.映画が、90分ったら・・・・ 返信  引用 
名前:法太郎    日付:2月7日(月) 23時3分

・・・90分ったら・・・・・

入浴料が8000円で、サービス料が、15000円で・・・・

ま、ええか。

 

386.八日目の蝉 返信  引用 
名前:法太郎    日付:2月7日(月) 22時52分
Original Size: 433 x 247, 18KB Original Size: 592 x 324, 25KB Original Size: 592 x 324, 25KB


「武士の一分」で銀幕デビューを果たした檀れい≠ウんが昨年NHKの10ドラに主演して好評を博した「八日目の蝉(原作・角田光代)」が映画化されるようである。


不倫の子供を流産した檀れいさんが、不倫相手の男性の妻が生んだ子供を見たくて家に侵入し、泣いた子供を抱き上げたときの子供の笑顔にひかれ、そのまま誘拐して、五年半の逃亡生活を経て逮捕されるというストーリーなのだが、


NHKでは270分という時間を使って演技や、シチュエーションを作ることが出来たが、これを見たあとで90分程度の映画が、どのていどの作りになるだろうか。


五歳で実母のもとに帰った娘役が成長した役は「北乃きい」さんで、なかなか乾いた演技がよかった。やはり不倫をして妊娠し、「不倫で妊娠して中絶するって、これって、あの人(檀れい)と同じだよね」と実母に話すシーンは、


たんたんと与えられた宿命にじゅんずることがあたりまえのように、一種の感動さえおぼえた。


ジャーナリストの友人と、自分が幼い逃亡の生活を過ごした「巡礼の旅」が結≠フ部分なのだが、子供のとき、つないだ手の温かさは覚えているのに、最後のときにあの人≠ェなんと叫んだのか思い出せなかった。


岸谷五郎さんが、渋い役所を演じていて、日本アカデミー賞の助演男優賞≠あげたいくらいである。なかなかカッコいい男≠演じていて、カメラワークも最高の出来だった。ワンカットのシーンで、観ているものが心の流れを理解できるのである。


最後の記憶をたどる心の旅・・・母と同じ運命の皮肉を体現した娘が・・・誘拐した母との別れの最後に叫んだ言葉を思い起こす旅がテーマである。


なお、ギャオで、「八日目の蝉」のダイジェスト版が六話とも放映されている。いま、ひととおり観たが、感動がよみがえってきた。

DVD買おう。



387.童神
名前:法太郎    日付:2月7日(月) 22時59分

「八日目の蝉」のエンディングテーマが「童神(わらびがみ)」なのだが、

♪天からの恵み 受けてこの地球(ほし)に♪生まれたる我が子 祈り込め育て

イラヨーヘイ イラヨーホイイラヨー 愛(かな)し思産子(うみなしぐわ) ..

・・・どうも、夏川りみさんの歌ではないような気がするのだが・・・


385.おお、管理人諸氏に感謝、 返信  引用 
名前:法太郎    日付:2月7日(月) 21時40分

たいへんなことになっているようだな。

管理されている諸氏に感謝いたします。

今後ともよろしくお願いいたします。

法太郎・敬白。
 

384.三十四箇事書の紹介、(三)、 返信  引用 
名前:法太郎    日付:2月7日(月) 21時39分
七 本地無作三身の事 付本門

本地無作三身とは、最初成道の仏の三身を以て無作三身と云ふこと常の如し云云。今は云く、本地無作と云ふ事、能く能く意得べきなり。本地無作三身とは、必ず最初成道の時の証得の三身の限りに非ず。無始本有として一切の諸法は皆三身の妙体なり。仏の作に非ず、修羅・天人の作に非ず。

法爾自然にして、三身の法に非ざる無きが故に、我等念々の妄想は報身般若の全体、四儀遷移は応身随類の体、苦道重担は法身万徳の体なり。正報既にかくの如し。依報またしかなり。桜梅桃李等の或いは曲がり、或いは直(なお)き、様々無尽なるは、応身の体なり。

また花葉無尽に色相の雑々(しなじな)なるは、念々不生の所成の故に報身なり。曲直、念々所生の体、法爾として具するは法身なり。依報・(正報)既に三身なり。ただ正報は正報乍ら三身なり。依報は依報乍ら三身なり。これを改めて三身と云ふには非ず。ただ正報乍ら三身の徳を具し、依報乍ら三身の徳を具するなり云云。

また最初成道と云ふ事、能く能く心得べきなり。先づ最初成道とは、これも迹なり。実には衆生己心の体理に、仮りに成道の名を唱ふる故に。次に久遠と云へるは、実にはただ衆生の心なり。心は無始無終なり。ここを久遠と云ふなり。習うべきなり。真実に大事の法門なり。輙く思作すべきに非ぎる事なり。能く能くこれを思うべし。



八 理開三身の事 付本門

理開の三身とは、爾前・迹門に施設する所なり。仏も本門寿量に久遠成道と説くも、昏仮(け)の施設なり。それ実には、如来蔵理には本より成・不成を論ぜず、始中終の差別無し。何ぞ久遠と今日とを論ぜん。然りと雖も、利益衆生の為に、起信の為に、五百塵点と説くなり。

若し多機不同なるが為に、彼に相応しては、五百とも六百とも乃至百千万とも説くべし。皆これ仮説なり。故に本門成道と云ふも、皆仮説なり。また今日始成の仏も、久遠成道と説くべし。機の為に施設する故に。

本より実相には始中終無し。三世常住・無始無終・本有所具の故なり。始成正覚の仏は今日始めて顕はる(に似たれ)ども、所顕の実相は始顕に非ず、久顕に非ず、三世に非ず、不三世に非ず、不生不滅なり。既にこの実相は己心の所具なり。何ぞ機の為に説かざらん云云。

問ふ、理開とは意いかん。答ふ、事の成道は、爾前も迹門も本門も皆仮説なり。本より平等法界の中に、三身の成道を論ず。故に理開の三身なり。能く能くこれを思うべし。



九 本迹二門三諦同異の事

間ふ、本迹二門の三諦の同異いかん。答ふ、迹門の三諦をば理の三諦と云ひ、本門の三諦をば事の三諦と云ふなり。その故は、迹門は理が家の三諦なり、故に理の三諦と云ふ。本門は事が家の三諦なり、故に事の三諦と云ふ。ただし事理と云ふ事、能く能く心得べきなり。

理とは、諸法差別なりと雖も、如々の故に一に帰するなり。事は万法差別有りと雖も、理に於て全く差別無し。諸法を泯(びん)ずるなり。事とは諸法を泯せず、自体にして常恒なり。故に迹門は諸法を泯ずる故に、円融妙理の三諦なり。本門は諸法を泥せず、ただ当体を衆生と云ひ、乃至仏と云ふなり。

故に事とは、法体を改めず、仮と云ひ、空と云ひ、中と云ふ。全く泯・不泯を論ぜざるなり。この故に本門の三諦は迹門の三諦に超過す云云。

己心に於て思想念々の妄想四儀の体、諸法無尽の体は皆これ仮なり。諸法無尽なりと雖も、互に具足するはこれ辺無く、各(おのおの)具足するが故に無自性空なり。互に具足する体と各施徳(の体)と、倶(とも)に常住なるは中道なり、ただし仮と云ふ事、能く能く尋ぬべし。諸教の仮は、万法森羅なりといへども、皆因縁に依って仮和合するを仮と云ふ。全く常住無きなり。

一家の仮はしからず。万法常住の故に仮常住なり。水常住なれば波常住なり。事常住なれば仮常住なり。爾前の円の三諦とは、本よりただ一理なり。然りと雖も、一理の所に縁に随って諸法と転ずる徳性これ有り。

譬へば一杖の金はただ金なりと云へども、匠に遇はば無尽の形に変ず。然りと雖も、皆これ金の体なり。或いは鬼と転じ、或いは人と転ずとも、皆本体はただ一杖の金の縁に随ってかくの如く顕はるるなり。この時を仮と云ふ。故に諸教の仮は常住に非ず。

随縁の法は皆自性無きを空と云ふ。ただ諸の形像をば捨てて、全て金に帰するに、全く恐怖(くふ)無きなり。像を縁とする時こそ恐怖有る故に、性は恐怖無きなり。万法の仮を縁とする時は、貪瞋痴の煩悩を起す。一真如を緑とする日は、全く違愛無し。性に縁起の謂れを置く故に、一分の円融なり。然りと雖も、相を捨てて性に帰する故に、隔歴に似たり。故に法華の事理不二は、彼と異なる。

別教の三諦とは、真如は本より清浄なりと云ひて、縁起の謂れを置かざるなり。真如は清浄なれども、妄法に薫ぜられて変作するなり。全く真如の咎に非ず。妄法の咎なりとて、妄法をば皆亡じウシナウなり。故に諸法は本意に非ず、真如は本意なり。能く能くこれを思うべし。
 

382.削除、その他もろもろ 返信  引用 
名前:第三管理人    日付:2月7日(月) 20時57分

不遜な投稿はすべて削除しました。

沖浦氏の投稿はたんなる荒らしと判断して

アクセスを禁じます。

あーー、忙しかった。



383.荒らしのみなさん。
名前:第三管理人    日付:2月7日(月) 21時21分
だんだん持っているリモホが少なくなってきましたね。

ぼくたちは平気ですよ。60件までアク禁できますから。

して、発言者は、れいなさんと法太郎氏だけで十分ですので、

いくらでも攻撃してきてください。いくらでもアク禁にしますのでね。

381.謀略サイト・富士宗学研究と降魔の剣≠ノついて、 返信  引用 
名前:法太郎、    日付:2月7日(月) 20時44分

法華講員よりメールを頂いたので、答えられる範囲において回答したい。と云うのは、この問題は未だに進行中の事柄であるからであります。場合によっては私自身、宗門と檀信徒関係の解消ということも視野においているものごとであります。


先ず、富士宗学研究と称する謀略サイトが、降魔の剣におけるれいな氏#謗のすべてを、私にふっかけているということに関しては、何故に、れいな氏誹謗が一者≠ゥら出ていると判断したのであるか、ということを考えるべきである。


つまり、樋田さんの降魔の剣≠ノおける、れいな氏誹謗は富士宗学研究によるものである。あのものどもが降魔の剣に微細にアクセスしていたことは云い逃れは出来ないのだ。私は、れいな氏の許可を得て「dion.ne.jp」のリモホで、れいな氏をからかう投稿をした。たった二行である。法華講員であれば、れいな氏のサイトへ云って聞いてみるがよい。


これで、富士宗学研究と称する謀略集団が降魔の剣にアクセスがあり、しかもれいな氏の写真を入手して謀略投稿をつづけていたことは推測できることとなった。もしやつらが本物の法華講であれば、「法太郎と創賊が」となるほうが自然である。


しかし、やつら自身は知っているのである。降魔の剣で、富士宗学研究以外のものでれいな氏を誹謗しているものはいなかった、ということが。これも云っても良いと思うが、昨年の12月20日からの降魔の剣における投稿傾向をみてみるべきである。


私は、れいな氏に頼んで連絡の取れる関係者に、一週間ほど書き込みを自粛してくれるようお願いした。私は連絡の取れる範囲で投稿者に連絡をとり、投稿の自粛をお願いしたのである。連絡の取れなかった伽羅℃≠ニ沖浦氏と、そうとは知らない謀略投稿が行われたのである。(笑)、この話題はまだ公開出来ないので、そのうちに、れいな氏のサイトで法華講員のみに公開することとする。


もうひとつは、降魔の剣にエロ画像を貼り付けた、との疑惑である。これは、私も、れいな氏もあずかり知らぬものである。云うには、エロ画像を貼り付けて、自爆的に降魔の剣を落とし込み、結果として「強制管理」にもっていったということらしい。


しかし、これもまた大きな勘違いである。私は、降魔の剣が宗務院の監視対象となっていたことは既に知っていたのである。昨年の投稿自粛には、これもおおきく絡んでいるのである。(詳しくはまだ云えないので・・・)


降魔の剣≠ェ宗務院の監視対象となったのは、富士宗学研究に関与した本物の法華講員が宗務院に、私の投稿を訴え出たタレコミがあったからで、エロ画像はまったく無関係であります。

その原因はオマエの汚い表現であろう!といわれれば、その通りであります、が、直接の原因は、再度云いますが宗務院に訴え出たものがいて、そのタレコミが原因であるということを云っておきたい。


おかげで私は書き込み表現の是正勧告≠受けるはめとなり、始末書を書くハメとなったのである。(笑)、まあ、この場合はだ、「始末・書太郎」ということになる。(爆笑)、


ところで、この関連について、謀略サイトの富士宗学研究と、この本物の法華講員は、現在はつながりは無いはずである。「久遠のバカ居士」が、今後はこきちと自分は掲示板に無関係と云ってるようだが、すでに創賊とふたりっきりとなったネットの浮浪者である「久遠のバカ居士」が、くやし紛れに発したハッタリであろう。(苦笑)、


ともあれ、「久遠のバカ居士」が、掲示板からの撤退発言をしたと云うことは、おそらくハンネを変えて謀略にうつつを抜かすのだろうが、れいな氏の大勝利である。(笑)、

 

379.削除二件、 返信  引用 
名前:第三管理人    日付:2月7日(月) 20時34分
おきうら氏と松木を名乗った投稿を削除しました。

負けで結構です。今後はあく禁をもって対処することとします。

376.沖浦氏の大ホラについて、(二)、 返信  引用 
名前:法太郎    日付:2月7日(月) 20時7分

(三)、宗祖における本覚思想の受容と展開について伺いたい。

沖浦氏の回答
----------------------------------------------------------------
 大聖人は、本覚思想ではなく、本迷思想ですね。 一切衆生が迷っている。 何に迷うか? 自身が、南無妙法蓮華経如来だと言うことを知らないで、迷っている。 これが大聖人の思想元ですよ。
----------------------------------------------------------------


※あきれ果てた増上漫≠ナある。宗祖の本義が本迷≠ナあれば、「開示悟迷」ではないか。宗祖の思想に本覚思想≠ェ受容されていることは、上記『十法界事』に明白である。語用は大乗起信論における本と覚りて≠ェ主依されるが、『仁王般若経』に、「自性清浄を本覚性と名づく、即ち是れ諸法一切智」と説かれており、大乗仏教の基本的な思想でもある。

沖浦氏の愚論は仏教学とも云えない附仏教・学仏法成の狂乱義であると指摘しておく。さらに、「自身が、南無妙法蓮華経如来だと言うことを知らないで、迷っている」と云うのであれば、迷ひ≠ゥら仏道修行に入り、さらに迷ひ≠ノ入れば永遠に不成仏となり仏道修行の意味は喪失するのである。

本覚法門についてはもっと述べたいが、これを論じはじめると止まらなくなるのでこの辺でやめておく。(笑)、


(四)、宗祖遺文における、本初・元始・元初についての語用における相違と使用例からの史的考察を伺いたい。

沖浦氏の回答
----------------------------------------------------------------
 興味がございませんね。 そう言うことを知っていて一体何になるんですか? 無意味な、知識自慢ですよ。
----------------------------------------------------------------


※現在、一般日蓮宗において大石寺門流の教義を破るために喧々囂々と論じられているタームに対して反論不能の回答を為すは、沖浦氏自身が、日蓮正宗の御法主並びに能化以下の宗徒に及ばない下根≠ナあると認めたものと談ずる。であれば乏しい知識で余乗に造形が深い正宗僧団に対して不遜な暴言を吐くものではない。

そもそもである。正宗信者の末端にある三流信者たる私ごとき駆け出し者の提題にすらまともに回答出来ない愚昧がなぜに仏教学の専門家である正宗僧侶と互角以上の議論ができようか。ものの道理も覚知し得ない粗食者の妄言は此くの如し。


(五)、宗祖における還滅門と流転門について伺いたい。

沖浦氏の回答
----------------------------------------------------------------
 それも、興味がありません。 悪しからず。
----------------------------------------------------------------


※答えれば物知らず≠呈し、聞き慣れない仏教用語がでれば「興味がない」で議論が終了出来るものではない。これを、法論では「反論不能」といい、敗残者≠ニなり、奉じる宗旨は邪教≠ニ決判されるのである。

還滅門・流転門≠ヘ御義口伝に説かれた法義であるが、宗祖が積極的に、仏教を還滅門と流転門の二方向から分類するという思考は見あたらない。これに対し、明治期に仏教を本覚門と始覚門の二方向から分類すべきであると論じた島地大等氏の思考とは、あきらかに相違するものと思う。なお、仏教思想を還滅門と流転門の二方向で捉えようと熱病にうかされたのが正信賊の諸師である。


【結論】

今般、沖浦克治氏は日蓮正宗の御法主・能化以下日蓮正宗には、沖浦氏にかなう論者はいない、と大ホラを吹いたが、仏教学の基本的ないくつかのタームに対し、なんらまともな回答が出来なかったばかりか、回答不能の体を呈して無知蒙昧をさらけ出したのである。

もし、沖浦氏が恥じを知る人士≠ナあれば、ネットを去って勉学に励み再度の挑戦をはかるべきであり、己の信ずる創価学会の名誉を挽回すべきである。

もし、恥知らずにも論点のすり替えで、なおも愚論をまき散らして掲示板を荒らすのであれば、管理人の協議対象となるであろう。私は、沖浦氏が賢明な判断を為されることを信ずるものである。


以上。
 

375.沖浦氏の大ホラについて、(一)、 返信  引用 
名前:法太郎    日付:2月7日(月) 20時7分

さて今般、創価学会の「沖浦克治」氏が、日蓮正宗の御法主・能化以下、自分と法論≠して勝てる人物は、日蓮正宗にはいない、と大ホラを吹いたのである。

宗門教学とは、大聖人の正統なる血脈相承のうえから二種の学的方途を以て教義≠研鑽しているのである。即ち「宗乗」と「余乗」である。日蓮正宗に限らず、日蓮宗界の大勢として宗教と云えば五綱(教・機・時・国・序)≠いい、宗旨≠ニいえば三箇(本門り本尊・戒壇・題目)≠以て宗是≠ニ為すのである。

この程度は初心者でも知っている常識≠ナある。こと「法論」といえば、宗旨・宗史・余乗(仏教学)に至るまでの広範な学識のもとに論理が構成され、無知蒙昧は痴犬の遠吠えとして排されることとなるのである。

さて、沖浦克治氏は今回、日蓮正宗を敢然と貶める言を発したのである。即ち日蓮正宗には自己に以上に仏教学に対する深い造詣を持っているものはいない、と。

これが沖浦氏の暴言なのか、事実なのか、沖浦氏の仏教学に対する研鑽の程度を伺うために五箇条の基本的仏教学の問い≠発した。以下に回答を得られたので、その実力を評価してみたい。



(一)、一念三千を構成する経典と理論との三大構成について意見をうかがいたい。

沖浦氏の回答
----------------------------------------------------------------
一念三千は、法華経ですが、三世間はこじつけみたいな物です。別に殊更取り上げて大騒ぎするほどのことはございません。そう言小理屈より、現実の功徳が第一ですね。 三大構成などに興味がありませんので、悪しからずです。
----------------------------------------------------------------


※まったく、この程度の知識でよくまあ日蓮正宗の僧団に対し届かないネットでのヨタとはいえ、ホラを吹けるものであると感心するのである。ネットの世界というのはやはり、書き捨て≠フゴミ箱に過ぎないのかと暗澹となるのである。

さて、沖浦氏は一念三千とは法華経であると論じているが、初っ端から無知蒙昧を披露して悦に入っているようである。一念三千を構成する三大要素とは法華経∞華厳経∞大智度論≠ナあることは天台学の初門である。

大聖人は『十章抄』に、「止観と申すも円頓止観の証文には華厳経の文をひきて候ぞ。又二の巻の四種三味は多分は念仏と見へて候なり。」(新編四六五頁)といわれ、同じく「止観一部は法華経の開会の上に開会せる文なり。爾前の経々をひき、乃至外典を用ひと候も爾前・外典の心にはあらず。文をばかれども義をばけづりすてたるなり」(新編四六六頁)と御指南されているのである。

沖浦克治氏の無知蒙昧にはあきれ果てるばかりである。三世間(五陰世間・衆生世間・国土世間)は大論に説かれる原理であるが、この三世間がこじつけであれば、一念三千が成り立たず、一念三千の法義そのものがこじつけ程度のものとなるのだ。

そも、日蓮大聖人が三世間をこじつけ≠ニ決判した御抄などひとつも無い。この程度の仏教知識で正宗の僧団に法論で勝利するなど考えられない妄想といえよう。


(二)、宗祖の曼陀羅義における、文永期・建治期・弘安期における沿革について伺いたい。

沖浦氏の回答
----------------------------------------------------------------
 曼荼羅は、わかりませんね。 わからなくても功徳がでているので、私は満足しています。 一つだけはっきりしているのは、戒壇本尊が特別ではないと言うことです。
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※沖浦氏の無知蒙昧はここでも立派にひけらかされている。「わからないのであれば、答えるな」、宗祖の曼陀羅法門は、初歩の文永期から弘安期に至るまで、中央の首題(南無妙法蓮華経)に対し、御名乗り(日蓮)と御判が左右に分かれ、弘安に至る道程において除々に近づき、建治期の後半から首題・御名・御判が一致してくる。

これは法・報・応の三身の一致とされており、弘安期になると完全に一致して曼陀羅法門の完成度は高くなってくるというのが日蓮宗一般の学説である。法華経の真髄は久遠実成≠建てることにあり、久遠には久遠の本法があり本門の救主が厳然と存するのである。これに対し調機調養≠フために熟脱の機に対するヘ化は迹門の談道と為すのである。

大聖人は『十法界事』に「迹門には但是始覚の十界互具を説きて未だ必ずしも本覚本有の十界互具を明さず。故に所化の大衆・能化の円仏皆是悉く始覚なり。若し爾らば本無今有の失何ぞ免るゝことを得んや。当に知るべし、四教の四仏則ち円仏と成るは且く迹門の所談なり。是の故に無始の本仏を知らず。故に無始無終の義欠けて具足せず。又無始色心常住の義無し」(新編一七八)

と御指南され、無始の本仏を以て円仏≠ニ決判されているのである。即ち無始の本法所持の本仏こそ南無妙法蓮華経如来であり、事法によって顕発された本門戒壇大御本尊≠アそ久遠元初の自受用報身如来の御当体である。

また、沖浦氏の暴言は「わからなくても功徳がでているので、私は満足しています」に極まるであろう。大聖人は『唱法華題目抄』に、「但し法門をもて邪正をたゞすべし。利根と通力とにはよるべからず」(新編・二三三頁)と仰せになられ、利根を以て本≠ニ為すものは邪義≠ナあると決判されている。

373.この掲示板は仏法と時事を語る仏教者の掲示板です 返信  引用 
名前:副管理人    日付:2月7日(月) 16時49分
ここは「仏法と時事を語る仏教者の掲示板です」としておるよう、法義研鑽を主たるテーマとしております。

程度の低い現世利益を語り、またそれを正当化する場所ではございません。

不愉快と感じる諸氏がおられましたら、どうぞご自分で、それに相応しい掲示板を探しカキコをお願い申し上げる次第です。

平たく申しますと、阿呆・脳足りんは不必要ということです。

真面目な法論は大歓迎です。大敗した「三島の住人」氏に匹敵する、いや、それ以上の論客がおられましたら、創価学会、正信会、顕正会、身延、顕本法華宗・・・を問わず歓迎いたします。

367.沖浦氏のカキコを削除いたしました。 返信  引用 
名前:副管理人    日付:2月7日(月) 11時46分
まだお分かりにならないようで、自己正当化に終始した書き込みを削除いたしました。

364.宇佐さまの投稿を削除させていただきました。 返信  引用 
名前:第三管理人    日付:2月6日(日) 21時5分
れいな先生を法友として結束しているぼくらとしては
盟友の法太郎氏をもまきこむ微妙な話題とおもわれ

かつ御宗門もからんだ話題ですので、確実な情報以外と
公開の可否にかかわる問題と思いますので削除して
れいな先生と法太郎氏におまかせするのがすじみちと思われますので
ご了解ください。

連絡は携帯にメールをいれましたので届くでしょう。

363.沖浦氏とその他を削除。 返信  引用 
名前:第三管理人    日付:2月6日(日) 20時55分
沖浦氏の自慢話は、オーナーの趣旨に反する邪教宣揚と判断して
削除させていただきました。
こんなことは初めてですが、管理人会議にかけて、れいな先生や
法太郎氏に叱られても自分の意見として言わせていただきます。

信頼されているからこそ管理人に指名された立場から判断しました。

沖浦様には、ごじしんを発揚できる場所を探してくださるように
おねがいいたします。

361.無銭屋さん、今日は 返信  引用 
名前:沖浦克治    日付:2月6日(日) 17時20分
 ご要望ですので、お答えいたしますが、私は私の信念がありますので、それにしたがって書きますが、お気に召さないかもしれませんね。

(一)、一念三千を構成する経典と理論との三大構成について意見をうかがいたい。

 一念三千は、法華経ですが、三世間はこじつけみたいな物です。
 別に殊更取り上げて大騒ぎするほどのことはございません。
 そう言小理屈より、現実の功徳が第一ですね。
 三大構成などに興味がありませんので、悪しからずです。

>(二)、宗祖の曼陀羅義における、文永期・建治期・弘安期における沿革について伺いたい。

 曼荼羅は、わかりませんね。
 わからなくても功徳がでているので、私は満足しています。
 一つだけはっきりしているのは、戒壇本尊が特別ではないと言うことです。

>(三)、宗祖における本覚思想の受容と展開について伺いたい。

 大聖人は、本覚思想ではなく、本迷思想ですね。

 一切衆生が迷っている。
 何に迷うか?
 自身が、南無妙法蓮華経如来だと言うことを知らないで、迷っている。
 
 これが大聖人の思想元ですよ。

>(四)、宗祖遺文における、本初・元始・元初についての語用における相違と使用例からの史的考察を伺いたい。

 興味がございませんね。
 そう言うことを知っていて一体何になるんですか?
 無意味な、知識自慢ですよ。

>(五)、宗祖における還滅門と流転門について伺いたい。

 それも、興味がありません。
 悪しからず。



366.Re: 無銭屋さん、今日は
名前:無銭屋    日付:2月6日(日) 21時32分
>ご要望ですので、お答えいたしますが、私は私の信念がありますので、それにしたがって書きますが、お気に召さないかもしれませんね。

私の要望に対し、真摯な姿勢でお答え頂きありがとうございます。
お礼を申し上げます。

356.好き・好き、クロカンスキー、 返信  引用 
名前:法太郎    日付:2月5日(土) 22時50分
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午前中は、来週の札幌国際スキーマラソンのコース作りにボランティアをやってきた。来週、世界中のスキーランナーたちが、世界のスキーマラソンの中でも過酷で知られた札幌スキーマラソンにやってくる。

このコースは、札幌でも伝統のある「チロルスキー山岳会」の岳人たちが関与してつくったもので、札幌市内であるために、札幌ドームを起点として、周辺の林野からゴルフコース、自衛隊の演習場、札幌遊歩道等を、苦心惨憺のおもいでつないだコースで、距離こそ北海道のクロカンスキー大会では短い部類だが、アップダウンが激しい過酷なコースとして知られている。

法華講の先輩がスキー連名の役員をやっている関係で、ときどき作業員≠ニして出動を要請されるのだ。(苦笑)、支給されるのは弁当のみという、過酷な条件!?で、(笑)、ひと様のアソビのために労働することは、・・・バカくさいのダ!!(内緒)


午後からは、札幌のモエレ沼公園のクロカンコースを歩いてきた。なんとも、ここちよいコースで、無理なく自分の実力にそった歩きが出来ることが、楽しいコースである。

この公園は、札幌の観光コースにもなっていて、無料の貸し出し自転車があるくらい広大な公園で、中国の皇帝の庭園をおもわせるつくりで、野球場あり、サッカー場あり、サイクリングロードあり、遊歩道あり、軽登山もできる人工山が二つあり、かの彫刻家である「イサムノグチ」の遺作でもある。

この場所は、札幌の役人が、イサムノグチを連れて公園建設の候補地をまわった時のひとつであるが、候補外としてとりあえず札幌市の公園建設の意向にそって案内したのだが、ゴミ捨て場だったこの場所を、イサムノグチは選んだのである。

ゴミの山である。世人であれば汚らしいこの場所は、イサムノグチには、無限の創作のキャンバスと映ったのだろう。仏教でもひとつのものごとを見るとき、十界の衆生では映り方が違うという。

恒河を、餓鬼は火と見るが人は水と見る。世人のゴミ場を、天才のイサムノグチは人々の平安の場≠ニ見たのであろう。

画像右はモエレ沼公園で、左が本日整備した、札幌国際スキーマラソンのコース

 



358.Re: 好き・好き、クロカンスキー、
名前:法太郎    日付:2月5日(土) 22時54分

まちがった。画像の説明は逆で、左がモエレ沼で、右が札幌の西岡公園を通る、札幌国際スキーマラソンのコースの一部であります。

 

343.沖浦殿 返信  引用 
名前:水戸黄門    日付:2月5日(土) 15時45分
どうやら貴殿はまたまた遁走大敗されたようです。
貴殿は言葉で遁走しているのですね。
大口を叩いていたのでしょう。

既に頭が割れている可能性がございます。
精神科に一度見てもらうことをお勧めいたします。

貴殿の詭弁を保存させて頂きます。
http://www.c-player.com/ad89243/message



345.Re: 沖浦殿
名前:佐助    日付:2月5日(土) 15時52分

>法主が出てきたら、私はね、加持祈祷で勝負致します。

沖浦氏は「日蓮正宗にはね、法主能化以下、私と法論して勝てる人はいませんよ」といいましたね。

ところが、法太郎氏が仏法理論を出すと今度は加持祈祷で勝負だという。

これはすり替えどころか卑劣な逃げではないですか!


>祈りの強い私が絶対に勝ちますから。

沖浦氏は「私と法論して勝てる人はいませんよ」といったのですよ。

なんですかこの人は。これはただの板荒らしではないですか?。

完全に人格破綻であり頭破七分の現証でしょう。

哀れ!創価の現証!!


362.Re: 沖浦殿
名前:沖浦克治    日付:2月6日(日) 17時21分
 水戸黄門さん

 ご自由にどうぞ。
 私ね、痛くも痒くもございませんよ。
 
 貴方も、無意味なことがお好きですね。


368.Re: 沖浦殿
名前:八百屋の長兵衛    日付:2月7日(月) 12時34分
> 加持祈祷の件で、皆様方に誤解があるようですね。

かじ‐きとう〔カヂキタウ〕【加持祈祷】
一般に、病気・災難などをはらうために行う祈祷、または、その儀式。
印を結び、真言を唱え、いくつかの象徴的器具を用いて行う。
(大辞泉)


かじきとう[かぢきたう] 【加持祈祷】
密教の行法に始まり、民間にも広まった祈祷の形態。
神仏の加護を求める行法を修し、病気平癒や災いの除去などの現世利益を祈ること。
(大辞林)



> 特に、佐助さんは、大聖人御書を学ぶべきです。
> (種種御振舞御書)


真言律宗・良観の加持祈祷に対して大聖人が破折の言をおっしゃった
御書をわざわざ出すなんて(笑)

自分で自分の頚(くび)を斬り落とす沖浦さんって、本当におちゃめな
御方ですね(大笑)


>佐助さん、貴方ね大聖人を真言密教だと言ってますね。

沖浦さん、「加持祈祷で勝負致します」と言ったのは貴方ですよ。
創価学会では「加持祈祷」を教えてるのですか?
幹部の指導を受けた方がいいですよ。


>大聖人を真言密教と弾じる、大謗法の人です。

「加持祈祷で勝負致します」と言ったのは沖浦さんですよね。

佐助さんは「沖浦さんの加持祈祷は真言密教(趣意)」と断じたのですが、
沖浦さんは、いつの間に「大聖人」になっちゃったのですか?(笑)

339.法太郎さん、おはようございます 返信  引用 
名前:沖浦克治    日付:2月5日(土) 6時43分
 ご質問ですが、お答えできかねますね。

 もし、ご不満なら、法主か能化を出してください。

 衆人環視のなかで、5分で木っ端微塵にいたします。
 貴方のご質問はね、質問のための質問です。
 電子レンジね、どれほど眺めててにとって、分解して、科学者がより集まって論議して研究しても、何をするもの理解が困難です。
 
 仏法はね、人が生きるための法です。
 御書にありますね。
 でね、人は恒に動いています。
 時間と空間を前に前に進んでいます。
 その人の行い以外に仏法は顕現いたしません。
 これも、御書にあるんですよ。

 ですのでね、限定された法論など、無意味なんですよ。
 法主が出てきたら、私はね、加持祈祷で勝負致します。

 何時でもお相手いたしますよ。

 祈りの強い私が絶対に勝ちますから。

 



341.Re: 法太郎さん、おはようございます
名前:無銭屋    日付:2月5日(土) 9時42分
沖浦さん、おはようございます、無銭屋と申します。

>もし、ご不満なら、法主か能化を出してください。

>衆人環視のなかで、5分で木っ端微塵にいたします。
>貴方のご質問はね、質問のための質問です。
>電子レンジね、どれほど眺めててにとって、分解して、科学者がより集まって論議して研究しても、何をするもの理解が困難です。

当該掲示板で勉強している者です。
いろいろと感情的なご不満はあろうかと思いますが、沖浦さん独自の仏法の見解には、興味をもっております。ぜひとも法太郎さんが提示した質問にお答え頂き、理解の一助にいたしたく存じます。よろしくお願いします。


342.Re: 法太郎さん、おはようございます
名前:北山博    日付:2月5日(土) 12時17分
ロムしているものですが、 この人物は常に言い逃れに終始する性格です。

三島の住人氏の方がよほど、手ごたえがあり面白かったです。 


344.Re: 法太郎さん、おはようございます
名前:佐助    日付:2月5日(土) 15時45分
>法主が出てきたら、私はね、加持祈祷で勝負致します。

加持祈祷であれば真言密教の教義ですね。

仏教理論はまったくだめ、口さきだけのほらふき功徳。

正体が出ましたね。

338.沖浦さんへ、 返信  引用 
名前:法太郎    日付:2月4日(金) 23時9分

>日蓮正宗にはね、法主能化以下、私と法論して勝てる人はいませんよ。


※(笑)、大きく出ましたな。では、あなたに仏教上の問題で基本的な問題を少々伺いたい。


(一)、一念三千を構成する経典と理論との三大構成について意見をうかがいたい。


(二)、宗祖の曼陀羅義における、文永期・建治期・弘安期における沿革について伺いたい。


(三)、宗祖における本覚思想の受容と展開について伺いたい。


(四)、宗祖遺文における、本初・元始・元初についての語用における相違と使用例からの史的考察を伺いたい。


(五)、宗祖における還滅門と流転門について伺いたい。


以上、よろしく回答を願う。
 

337.水戸さま、 返信  引用 
名前:法太郎    日付:2月4日(金) 22時19分

>御両名の法論を謹んで保存させて頂きました。

http://www.c-player.com/ad89243/thread/1100100670987



※ありがとうございます。お手数をおかけしますが、よろしくおねがいします。

法太郎・敬白。

 

336.三十四箇事書の紹介、(二)、 返信  引用 
名前:法太郎    日付:2月4日(金) 22時18分

四 別教三身の事

別教の三身とは、無相の三身なり。歴別の三身なり。先づ無相の三身とは、法身は色に非ず、声に非ず、乃至法に非ず、ただ無相の真如なり。無相の真如は、色心の二法を離るるが故に、真如の所には縁起の性を置かず。

真如には縁起・不縁起を云はず。然りと雖も、無明の薫に依って、始めて諸法と転ず。全く法身真如の体には、縁起の謂れ無きなり。ただ無明に薫ぜられて、かくの如く変異す。爾前の円は、性に縁起の理を置く故に不同なり。

また歴別の三身とは、法身の所には余の応報無し、報身の所には法応無し、応身の所には法報無し。ただ応身も、この応身を捨てて法身に帰すと云ふなり。報身も、かくの如し。故に歴別の三身なり。

問ふ、性徳の名、名は別教に通ず。別教には性徳の語有りと雖も、三皆(みな)性に在りて、互融せず。故に別義を成ず(文)。この文は、不融と雖も、性に三身これ有りと聞えたり、いかん。答ふ、互融せずと云ふを以て、意得(こころう)べきなり。性は縁起の謂れ無けれどむ、無明に薫ぜられて、始めて諸法顕現す。故に性は一味なりと雖も、無明に薫ぜられて諸法現ず。

また修を以て性に帰す。故に三皆性に在りと云ふ。全く一所に三有るべからず。ただ前後を尋ねて三と云ふなり。能く能くこれを思うべし。



五 事開三身の事 付本門

事開の三身とは、爾前・迹門の意は、始成正覚の仏を説く。爾りと雖も本門の意は、実に久遠成道の仏、利益衆生の(為の)故に、垂迹してかくの如く始めて覚る様を示すなり。実には久遠成道の如来なり。全く今日始成の仏には非ぎるなり。経文の如きは、これを事開の三身と云ふなり。

間ふ、事開の三身とは、意いかん。答ふ、昔に成道するは事なり。今日に成道するも事なり。昔の事の成道を以て今日の事の成道を開会す。故に事開の三身と云ふなり。昔も三身の成道を唱へ、今日も垂迹して三身の成道を唱へて、終(つい)に本に帰する故に、事開の三身と云ふなり。能く能く習うべき事なり。



六 常同三身の事 付本門

常同の三身とは、爾前・迹門に垂迹する所の三身は、垂迹の仏には非ず。ただ本門の法身・本地の仏なり。本門の意は、ただ法身は一体なれども、無尽の徳に随つて三の名有るなり。体各別に有るに非ざるなり。譬へば、天月の体は全く三つも四つも無けれども、一切の水に宿るが如し。故に一体上の三(名)なり云云。

垂迹の仏を見るに、ただ本地の仏なり。水中の月を見るは、天月を見るなり。愚人は、これを知らず。その故は、眼も清浄なり、水も清浄なり、月も清浄なり。三つ乍ら映徹して眼の水に移り、水より伝へて月に移り、眼次第に伝へて、月の位に在って月を見るなり。

全く水に移る月を見るに非ず、直ちに天月を見るなり。迹門の仏、かくの如し。垂迹の仏とて別にこれ無し、ただ本仏なり。本より天月を見れども、愚人は水中の月を見ると思ふが如し。本迹殊なりと雖も不思議一の釈、この意なり。本迹と云ふと雖も、全く体一なるを不思議一と云ふなり。

この意を以て案ずるに、一切の諸仏、井びに諸経論は当体を改めず、併(しか)しながら本門神妙の体、本地不思議の妙理なり。故に一切を本門と習ふなり。また鏡に移して影を見るは、自身の全体を見るなり。別に鏡の影像を見るに非ず。一切法を見るは、ただ己心を見る。実に甚深なり。これを秘すべし。
 

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