七 本地無作三身の事 付本門
本地無作三身とは、最初成道の仏の三身を以て無作三身と云ふこと常の如し云云。今は云く、本地無作と云ふ事、能く能く意得べきなり。本地無作三身とは、必ず最初成道の時の証得の三身の限りに非ず。無始本有として一切の諸法は皆三身の妙体なり。仏の作に非ず、修羅・天人の作に非ず。
法爾自然にして、三身の法に非ざる無きが故に、我等念々の妄想は報身般若の全体、四儀遷移は応身随類の体、苦道重担は法身万徳の体なり。正報既にかくの如し。依報またしかなり。桜梅桃李等の或いは曲がり、或いは直(なお)き、様々無尽なるは、応身の体なり。
また花葉無尽に色相の雑々(しなじな)なるは、念々不生の所成の故に報身なり。曲直、念々所生の体、法爾として具するは法身なり。依報・(正報)既に三身なり。ただ正報は正報乍ら三身なり。依報は依報乍ら三身なり。これを改めて三身と云ふには非ず。ただ正報乍ら三身の徳を具し、依報乍ら三身の徳を具するなり云云。
また最初成道と云ふ事、能く能く心得べきなり。先づ最初成道とは、これも迹なり。実には衆生己心の体理に、仮りに成道の名を唱ふる故に。次に久遠と云へるは、実にはただ衆生の心なり。心は無始無終なり。ここを久遠と云ふなり。習うべきなり。真実に大事の法門なり。輙く思作すべきに非ぎる事なり。能く能くこれを思うべし。
八 理開三身の事 付本門
理開の三身とは、爾前・迹門に施設する所なり。仏も本門寿量に久遠成道と説くも、昏仮(け)の施設なり。それ実には、如来蔵理には本より成・不成を論ぜず、始中終の差別無し。何ぞ久遠と今日とを論ぜん。然りと雖も、利益衆生の為に、起信の為に、五百塵点と説くなり。
若し多機不同なるが為に、彼に相応しては、五百とも六百とも乃至百千万とも説くべし。皆これ仮説なり。故に本門成道と云ふも、皆仮説なり。また今日始成の仏も、久遠成道と説くべし。機の為に施設する故に。
本より実相には始中終無し。三世常住・無始無終・本有所具の故なり。始成正覚の仏は今日始めて顕はる(に似たれ)ども、所顕の実相は始顕に非ず、久顕に非ず、三世に非ず、不三世に非ず、不生不滅なり。既にこの実相は己心の所具なり。何ぞ機の為に説かざらん云云。
問ふ、理開とは意いかん。答ふ、事の成道は、爾前も迹門も本門も皆仮説なり。本より平等法界の中に、三身の成道を論ず。故に理開の三身なり。能く能くこれを思うべし。
九 本迹二門三諦同異の事
間ふ、本迹二門の三諦の同異いかん。答ふ、迹門の三諦をば理の三諦と云ひ、本門の三諦をば事の三諦と云ふなり。その故は、迹門は理が家の三諦なり、故に理の三諦と云ふ。本門は事が家の三諦なり、故に事の三諦と云ふ。ただし事理と云ふ事、能く能く心得べきなり。
理とは、諸法差別なりと雖も、如々の故に一に帰するなり。事は万法差別有りと雖も、理に於て全く差別無し。諸法を泯(びん)ずるなり。事とは諸法を泯せず、自体にして常恒なり。故に迹門は諸法を泯ずる故に、円融妙理の三諦なり。本門は諸法を泥せず、ただ当体を衆生と云ひ、乃至仏と云ふなり。
故に事とは、法体を改めず、仮と云ひ、空と云ひ、中と云ふ。全く泯・不泯を論ぜざるなり。この故に本門の三諦は迹門の三諦に超過す云云。
己心に於て思想念々の妄想四儀の体、諸法無尽の体は皆これ仮なり。諸法無尽なりと雖も、互に具足するはこれ辺無く、各(おのおの)具足するが故に無自性空なり。互に具足する体と各施徳(の体)と、倶(とも)に常住なるは中道なり、ただし仮と云ふ事、能く能く尋ぬべし。諸教の仮は、万法森羅なりといへども、皆因縁に依って仮和合するを仮と云ふ。全く常住無きなり。
一家の仮はしからず。万法常住の故に仮常住なり。水常住なれば波常住なり。事常住なれば仮常住なり。爾前の円の三諦とは、本よりただ一理なり。然りと雖も、一理の所に縁に随って諸法と転ずる徳性これ有り。
譬へば一杖の金はただ金なりと云へども、匠に遇はば無尽の形に変ず。然りと雖も、皆これ金の体なり。或いは鬼と転じ、或いは人と転ずとも、皆本体はただ一杖の金の縁に随ってかくの如く顕はるるなり。この時を仮と云ふ。故に諸教の仮は常住に非ず。
随縁の法は皆自性無きを空と云ふ。ただ諸の形像をば捨てて、全て金に帰するに、全く恐怖(くふ)無きなり。像を縁とする時こそ恐怖有る故に、性は恐怖無きなり。万法の仮を縁とする時は、貪瞋痴の煩悩を起す。一真如を緑とする日は、全く違愛無し。性に縁起の謂れを置く故に、一分の円融なり。然りと雖も、相を捨てて性に帰する故に、隔歴に似たり。故に法華の事理不二は、彼と異なる。
別教の三諦とは、真如は本より清浄なりと云ひて、縁起の謂れを置かざるなり。真如は清浄なれども、妄法に薫ぜられて変作するなり。全く真如の咎に非ず。妄法の咎なりとて、妄法をば皆亡じウシナウなり。故に諸法は本意に非ず、真如は本意なり。能く能くこれを思うべし。
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