【萬物相】大韓帝国の義兵隊長・閔肯鎬のやしゃご
「わたしが日本に投降すれば、日本の支配下で地位が高まり、その富は8逆賊(日本に服従した大韓帝国の8官僚)に並ぶことになると知らないわけではない。しかし、国権を奪われ、国民が塗炭の苦しみ(泥にまみれ火に焼かれるような苦痛)をなめている今、わたしの意志は国を取り戻すことにある。倭(日本)と戦い勝てなくとも、たとえ土の中に埋められることなく魂が大海をさまよおうとも、みじんも後悔しない」
日本による強制併合の直前、江原道の観察使(長官)が帰順を勧めると、閔肯鎬(ミン・ジョンホ)義兵隊長はこれを拒否し、上の通り述べた。閔隊長は高宗の時代に設置された近代的地方軍隊「鎮衛隊」の軍人だった。日本が1907年に軍隊解散令を下すと「国に兵士がいなければ何をもって国といえるのか。解散命令に従うことはできない」として兵士300人を率い、江原道原州市で決起した。
閔隊長は江原道・忠清道・慶尚道を行き来し、日本軍と100回以上も戦闘を繰り返した。隊長は1908年2月に日本軍に捕らえられ、雉岳山の麓、原州市講林面に護送された。その晩、義兵約60人は隊長を救出しようと日本軍を急襲、隊長はこの機に脱出しようとして日本軍に銃で撃たれ殉国した。政府は1962年、閔隊長に建国勲章の大統領章を追叙した。講林面には地元住民が建てた「義兵隊長・閔肯鎬戦跡碑」がある。
4日、カザフスタンで行われた冬季アジア大会のフィギュアスケート男子シングルで、デニス・テン(17)が同国の選手としてはこの種目で初めて金メダルを手にした。テン選手の祖母は閔隊長の外孫だ。閔隊長の夫人は閔隊長が殉国した後、幼い兄弟を連れ北満州に行った。そこで安重根(アン・ジュングン)の助けを借りた。しかし、安重根が逮捕されると、沿海州に避難。旧ソ連が1937年に沿海州の高麗人(旧ソ連領内に住む韓国系の人々)らを現在のカザフスタンやウズベキスタンなど中央アジアに強制移住させたため、閔隊長の家族もカザフスタンに追いやられた。
韓国も何度も訪れているテン選手は「僕は半分は韓国人で、もう半分はカザフスタン人です。ひいひいおじいさんの祖国のファンが送ってくださる熱い声援は忘れません」と語った。大会に出場すると、選手紹介のたびに「テン選手の高祖父は韓国の有名な義兵隊長・閔肯鎬」という言葉を必ず入れてほしいと頼むという。亡国の悲しみの中、流浪を繰り返さざるを得なかった義兵隊長の子孫が、表彰台の一番上に立つ姿を見ると、胸が熱くなり、じんと来るものがある。
金琅基(キム・ナンギ)論説委員