連合赤軍あさま山荘事件





【事件概要】

 大菩薩峠事件や、「よど号」ハイジャック事件などで幹部の多くを失った赤軍派はもがきながら抵抗していた。やがてリーダーに森恒夫が祭り上げられ、山岳アジトにおいて軍事訓練が行なわれ、過激派・京浜安保共闘と合同し、「連合赤軍」と名乗るようになった。だが、山岳アジトにも警察の捜査の手が伸び、相次いでメンバーが逮捕された。
 72年2月19日、最後まで逃げ続けていた5人が、軽井沢の別荘地内にある河合楽器保養所「あさま山荘」に立てこもった。 →SIDE-B「連合赤軍リンチ事件」


「連合赤軍」
坂口弘
坂東国男
吉野雅邦
加藤倫教
M



【連合赤軍 ―新左翼史から―】

 一口に「連合赤軍」とは何だったのかを説明するのは難しい。多くの事件の影響と、様々なグループの分裂・合同を繰り返して、たどり着いたものだったからである。戦後からの左翼の動きを簡単にまとめた。


▽1945年10月4日、GHQの「人権指令」により、治安維持法などで勾留されていた思想犯など2500人が釈放。出獄した旧共産党幹部により「日本共産党」が初めて合法政党として誕生した。

 ▽46年、第22回国会総選挙で、日本共産党は初めて5議席を獲得。

 ▽49年、下山、三鷹、松川事件起こる。いずれも左翼勢力による犯行という見方が強く、松川事件では大量の日共党員逮捕(後に無罪)。

 ▽50年9月18日、「全学連(全日本学生自治会総連合)」結成。30万人が参加。

 ▽50年7月、レッドパージ始まる。マスコミ関係者を皮きりに、日共中央委員24名、参議院議員7名が公職追放。また人員整理は共産党員を第一に行なわれ、民間企業、各官庁・公共企業体を問わず多くの1万人以上が解雇された。労働界では起こらなかったレッドパージ反対闘争は、学校の教授を守るためにと、学生たちによって行なわれたりした。、
 その影響からか、日本共産党は徳田球一の「所感派」、宮本顕治の「国際派」などに分裂を始める。徳田の「所感派」は「軍事方針」と呼ばれる武装闘争を目指す。

 ▽51年10月、日本共産党、第五回全国協議会(五全協)で「山村工作隊」、「中核自衛隊」を建設。武装闘争方針を具体化した。山村工作隊は農村部でのゲリラ活動(各地の交番火炎瓶焼き討ちなど)を行う部隊。しかし、この方針は世論から批判を浴び、52年の総選挙では全員が落選することとなった。後年、同党は「五全協は一部の極左冒険主義の誤り」としている。

 ▽52年7月4日、共産党、社会党、労働組合の他、知識人、言論界で反対の動きを見せたなか、政府は「破壊活動防止法」を制定。暴力主義的破壊活動行為を行なった団体の規制(活動制限や解放)を目的としたもの。
 
 ▽55年2月、日本共産党第六回全国評議会で武装闘争路線を撤回。この方針転換は山村工作隊、中核自衛隊として運動していた活動家らに混乱をもたらす。

 ▽56年10月、ハンガリー闘争。首都ブダペストでの反政府(反共産党政権)デモが起こり、ソ連が軍事介入。日本共産党がこれを支持したことで、全学連や学生党員らが反発。離反の要因のひとつとなる。

 ▽57年1月、元・日共党員らが「日本トロツキスト連盟」結成。10月には「革共同(日本革命的共産主義者同盟)」に改称する。革共同はのちに「革マル派」や「中核派」に分派。

 ▽58年12月、日本共産党を除名された全学連主流派の学生党員を中心に「共産主義者同盟(第1次ブント)」結成。

 ▽59年、60年安保闘争始まる。安保条約(日米安全保障条約)の改定をめぐり、国論が二分。史上最大の大衆政治運動として盛り上がりを見せた。

 ▽60年6月15日、安保改定阻止第2次実力行使に総評・中立系580万人が参加、国会構内に突入した。警官隊との衝突の中で東大生・樺智子が死亡。政治闘争での初めての死者だった。
 ▽同6月19日、「樺智子全学連追悼集会」を、「犠牲者を出した責任はトロツキスト指導部にある」とした日本共産党がボイコット。
 ▽同7月4日、全学連第16回大会で、安保闘争の総括をめぐってブントが内部対立し、3つに分裂。第1次ブントは終りを迎えた。

 ▽63年4月、革共同が議長・黒田寛一派と書記長・本多延嘉派の対立から、黒田の前衛党建設を優先する「革マル派(革命的共産主義者同盟マルクス主義派)」と、本多の形成する大衆闘争重視の「中核派(革命的共産主義者同盟全国委員会)」に分裂。革共同第三次分裂。

 ▽65年3月、社会党の下部組織「社青同」から「社青同解放派」が分派。67年10月にその政治組織として「革労協(革命的労働者協会)」が結成される。
 ▽65年4月、「ベ平連」発足。正確には「ベトナムに平和を!市民連合」。作家・小田実らを中心に結成された。戦争反対とアメリカの介入反対を望んだこの運動は、左翼政党や労働組合によるものではない市民の運動で、全国に広がる。
 ▽同7月29日、沖縄・嘉手納基地から飛び立った米軍機52機がベトナムを爆撃。ベトナム戦争である。反戦運動と反安保運動が盛り上がる。なお、この戦争は73年1月、サイゴンに北ベトナム軍と南ベトナム解放戦線が入り、パリで「ベトナム和平協定」が宣言されて終わりを迎えた。

 ▽66年12月17日〜19日、全学連再建大会で「中核派」、「社学同(ブントの学生組織)」、「社青同解放派」の、「三派全学連」が成立。共産党・民青系と革マル系の3つの組織がそれぞれ全学連を名乗ることとなった。

 ▽67年、10・8(じゅっぱち)羽田闘争。三派全学連2500人が佐藤栄作首相の南ベトナム等への訪問を阻止しようと羽田空港に集結、突入する。機動隊との衝突で京大生・山崎博昭が死亡。また、学生運動で初めてヘルメットと棍棒のスタイルがとり入れられ、既成左翼とは違う、新左翼の登場を印象づけた。

 ▽68年1月17〜21日、米空母エンタープライズ寄港阻止佐世保現地闘争。北ベトナムに向かう米原子力艦隊に対する野党、学生、労働団体による抗議集会。
 ▽同3月、「警鐘」は「神奈川左派(日本共産党左派神奈川県委員会)」と組織合同。「神奈川〜」は中国のプロレタリア文化大革命を支持して日共を除名されたグル―プ。

 ▽69年1月19日、安田講堂事件。18日から東大の安田講堂に立てこもっていた全共闘派に機動隊8500名が投入され、放水などで実力排除開始。19日に屋上に最後まで残った学生が逮捕され終焉。2日間で631名が逮捕される。この事件の後、全共闘は縮小していった。
 ▽同4月12日、「神奈川左派」から「革命左派」が分裂。革命左派は「日本共産党」の名がつくものの、日本共産党は「無関係」と主張。
 ▽同4月28日、4・28沖縄デーに対して、中核派とブントに破防法が適用され、計5名が逮捕される。
 ▽同8月14日、「革命左派」の大衆組織「京浜安保共闘」結成
 ▽同9月、「赤軍派」は、秋季武装蜂起に使う武器調達のため、大阪、東京で派出所や警察署を襲撃。(「大阪戦争」「東京戦争」
 ▽同11月5日、「赤軍派」が大菩薩峠の福ちゃん荘で、首相官邸占拠のための軍事訓練中、53人が逮捕される。(「大菩薩峠事件」)。

 ▽70年3月31日、よど号ハイジャック事件起こる。赤軍派・田宮高麿(当時27歳)をリーダーとした9名が北朝鮮へと渡った。
 ▽同12月30日、「赤軍派」と「革命左派」が埼玉の旅館で初めて接触。

 ▽71年2月17日、「革命左派」の吉野、寺岡、中山が、真岡市の塚田銃砲店から散弾銃10丁、散弾2000発など大量の銃器を強奪、店主を負傷させた。
 ▽同7月15日、「共産主義者同盟赤軍派中央軍(第2ブント)」と「革命左派」が合同して「赤軍(統一赤軍)」が発足。
 ▽同12月20日、榛名ベースで「青年共産同盟」、日本共産党を離党した毛沢東路線の武闘派新左翼集団「京浜安保共闘」と合同し、「連合赤軍」として正式結成される。


【闘いのなかで】

 赤軍派が葛飾公会堂で旗揚げ大会を開いた前日の69年9月3日午後9時50分、赤坂のアメリカ大使館の霊南坂に沿った塀にはりつくようにして立っている2人の男を警備の赤坂署員が発見、職務質問のために近づこうとした。その時、男の1人がカバンから火炎瓶を取り出し、マッチで火をつけ、警官の方へ投げつけた。男はさらに道路に投げ、もう1人が大使館の庭に2本の火炎瓶を投げ込み、鉄柵を乗り越えようとした。2人は放火未遂の現行犯で逮捕された。
 その2分後では、1.5km南のソ連大使館正門で火炎瓶を持った男を突進してくるのを立ち番中の麻布署員が発見、男を取り押さえた。火炎瓶は炎上したが、まもなく消えた。
 この当時、新左翼のあいだで、沖縄と北方領土について話し合うため訪米、訪ソする愛知外相の出発を阻止しようとする動きがあった。この男たちも新左翼勢力であるように見られたが、ほとんど何も話さず、正体はしばらくわからなかった。男の1人は「反米愛国」と書かれた布を腹に巻きつけていたので、当初は「右翼ではないか」という見方をする人もいた。この男たちは「京浜安保共闘」とわかり、これが同組織初の過激行動だった。

 先に書いたように京浜安保共闘は、「日共革命左派神奈川県委員会」を母体にするもので、革命左派はこの年の4月に結成された。
 表向きには横浜国立大・石井勝を常任委員長に、妻の石井功子を副委員長にすえていたが、実際は社学同ML派から転向した東京水産大卒の川島豪ら指導していた。他に労対に坂口弘、機関紙に柴野晴彦(上赤塚派出所襲撃事件で死亡)、大衆組織に東京水産大・中島衝平(真岡・猟銃強盗事件で逮捕)が分担していた。この常任委の下には「日本青年共産同盟神奈川県委員会」(青共同)と、秘密組織の「軍事委員会」が置かれていた。
 京浜安保共闘は8月14日に、青共同の行動部門として組織されたもので、青共同の議長を兼ねる坂口が指導者となって、「京浜労働者反戦団」「学生戦闘団」「婦人解放同盟」「反戦平和婦人の会」の3組織に共闘体制をとらせたものだった。さらに救援対策組織として「神奈川人民救援会」があった。京浜安保共闘は赤軍派に比べ、石井、川島の妻や、坂口洋子など、女性の台頭が目立つ組織だった。
 京浜安保共闘に過激路線を吹き込んだのが軍事委員会で、キャップ・内藤(後に脱落)、石井勝、坂口、柴野ら超過激派で固め、「米軍基地などを攻撃目標にして反米愛国闘争をすすめねばならぬ」と、「反米愛国行動隊」が編成された。その中には坂口や吉野雅邦、後に連合赤軍リンチ事件で殺害された寺岡恒一らがいた。米、ソ大使館同時火炎瓶襲撃はその第一戦であり、ソ連大使館を襲ったのが寺岡だった。
 9月1日夜、反米愛国行動隊の10人は東京水産大の寮の一室に集まり、米・ソ大使館襲撃のほかに、外相出発の4日朝には羽田空港に突入するという作戦が幹部から隊員に打ち明けられていた。羽田襲撃には、海から空港へという作戦のため、泳ぎのできる5人が選ばれた。
 坂口ら羽田襲撃組5人は、3日夕方の五反田で開かれた「外相出発阻止前夜集会」に出席、夜になると電車とタクシーを乗り継いで空港近くの平和島に向かった。そこのボウリング場のレストランで食事をとり、昭和島に移動、ここからヘドロの海を泳いで渡って京浜六区に向かった。ここからもう一度滑走路の埋立地に潜入した。そこには土管があり、その中に潜んで浮き袋に乗せて運んでいたリュックから材料を取り出し、20本近い火炎瓶を作った。そして朝まで待ち、襲撃をかけた。「反米愛国」の旗を持ち、外相が乗っているであろう特別機に向かって走り出す。特別機は滑走路に向かってゆっくり移動しかけていたが、火炎瓶の黒煙が舞い上がったために緊急停止。5人は逃げようともせず逮捕された。この闘争で一気に名を挙げた京浜安保共闘には、他の新左翼は一目置いたりもした。この後、川島や石井勝ら幹部が次々と逮捕され、壊滅に近い状態に落ち込んだが、壊滅はしていなかった。残存メンバーは上赤塚交番襲撃事件などに関わり、柴野の死後、石井や川島の妻が地方に追いやられ、永田、坂口、吉野といったメンバーが台頭していった。


 71年、赤軍派は大菩薩峠事件の総括を踏まえ、「PBM作戦」を呼号し、そのなかで特にM作戦に全力を注ぎ始めた。

※P作戦・・・・ペガサス作戦。国外要人を略取し、それを人質として塩見議長を奪還するというもの。
※B作戦・・・・ブロンコ作戦。アメリカの「ペンタゴン突入」、日本の「霞ヶ関占拠」という2つの闘争を同時に行なう。
※M作戦・・・・マフィア作戦。活動資金獲得のために金融機関を襲撃する。


 M作戦の代表的なものに松江相銀米子支店襲撃事件がある。
 71年7月23日、午後1時30分頃、鳥取県米子市の「松江相互銀行米子支店」に、赤軍派4人が盗難車でのりつけ、そのうち3人が猟銃やナイフを持って店内に押し入って行員を脅し、現金600万円余りを強奪した。
 鳥取県警は直後県下全域にに緊急配備を発令、銀行から逃げ去った車両は国鉄乗り換え駅付近に放置されているのが見つかり、犯人達は列車に乗って逃走したものと見られた。
 その後、黒坂署員が県境の最寄駅から列車内検索を行なったところ、逃走犯の1人と見られる男を現行犯逮捕した。他にもタクシーで逃走中の1人も発見された。他の2人も検問にひっかかり、24日未明に逮捕された。4人は「松浦部隊」と呼ばれる実践部隊。これにより赤軍派と京浜安保との共闘が証明された。

 こうした過激派の動きを受けて、71年秋頃から警察の「アパート・ローラー作戦」が展開された。(→関連 「三億円事件」)この作戦で、都内では20万棟のうち85%が調査され、メンバーはアパートのアジトを出ることを余儀なくされた。新たなアジトは丹沢、榛名、妙義山といった東京から比較的近い関東北部の山岳地帯だった。連合赤軍は武装訓練に励むようになった。


 元々、赤軍派は資金力はあったが、武器がなく、大量の検挙者を出して弱体化していたため、豊富な重火器を所有する京浜安保共闘との団結が必要だった。思想的には赤軍派は「世界同時革命論」、京浜〜は「反米愛国、一国革命」と隔たりはあったが、「唯銃主義」の貫徹という点で両者は合同した。

 71年に発刊された機関紙「銃火」には次のような一文がある。
「われわれはすでに武装した。敵から奪った銃を敵の心臓に撃ち込むことできたえられ、敵から奪った銃を味方のぶきとし、団結する軍隊である」


【追い詰められた連合赤軍】

 72年2月、京浜安保共闘のアジトが群馬県伊香保町の榛名山中の奥地にあることがつきとめられた。14日には群馬県警機動隊が動員され、アジト捜索が開始された。
 この時、指名手配されていたのは同幹部の坂口弘(当時25歳)、永田洋子(当時26歳 強盗致傷、爆発物取締法違反)で、他の有力メンバーもアジトに出入りしていると見られていた。

 榛名山中で発見されたアジトと見られる山小屋は前年暮れから正月にかけて建てられたらしく、若い男女9人ほどが出入りしていた。2月7日未明に小屋を焼いて撤収。

 
 1972年2月16日、山梨・埼玉・長野の各県警が大規模な山狩りを行なった。
 午後、群馬県の妙義山中の妙義湖畔の林道で、ぬかるみにはまって動けなくなったライトバンがトラックで引っ張ってもらっているのを捜索中の署員が目撃し、職務質問した。傍にいた3人の男は逃走したが、残る2人の男女は車の中に閉じこもって、署員の話に耳を貸さずにラジオを聞いたり、食事したり、「インターナショナル」を歌い、果ては女も尻を出して排泄するなどしていた。このため署員は車を押して、500m先の人家のあるところまで運んだ。それから以前にアジトに出入りしていたのを目撃した地元の人を呼び寄せて、2人の顔を見せたところ、どうやらこの男女は赤軍メンバーらしいことがわかった。車内の2人は山小屋を作るのに国有林を切ったとして、同夜逮捕された。男女は連合赤軍のメンバーで横浜国大生・杉崎ミサ子(当時24歳)と慶大生・奥沢修一(当時22歳)と判明した。

 翌日も大規模な捜索は続いた。
 17日午前9時半頃、逃げていた森恒夫(当時27歳)と永田が妙義湖近くの山の岩場にひそんでいるのが見つかり、機動隊員10人が近づくと、森はアイクチを抜いて「近寄ると殺すぞ」と怒鳴ったが、隊員の1人が3発威嚇射撃をすると同時に取り押さえられた。実はその前に洞窟に戻る途中だった2人は機動隊員とばったり出会っていたが、「東京から来た俳優です。ロケに来ました。危ないのなら引き返します」と言って逃れていたが、引き返さずにまたもばったり出会ってしまっての逮捕だった。2人の身なりは汚く、垢まみれで匂いが漂っていた。

 最高幹部を逮捕された連合赤軍は追い詰められ、さらに19日には残党・植垣康博(当時23歳)、青砥幹夫ら4人が逮捕された。
 メンバーの男女4人は午前8時前に軽井沢駅に着き、小諸までの切符を購入した。1人は待合室の売店で新聞とタバコを買ったが、この時店員が不審に思って駅員に知らせた。4人はいずれも若く、薄汚れたアノラックに長靴姿で、顔や手も泥などで汚れていたためだ。
 4人が乗りこんだ長野行きの汽車が発車すると、通報を受けて張りこんでいた警察官に職務質問され、ピース爆弾、鉄パイプ爆弾、猟銃の散弾、登山ナイフなどを持っていたため火薬類取締法違反で現行犯逮捕された。
 
 残る逃走メンバーはあとわずか。組織壊滅の日は近かった。


【あさま山荘1972】

 2月19日午後2時40分頃、長野県北佐久郡軽井沢の別荘地レイクニュータウンを県警機動隊員5人が捜索していた。そのうち一軒の空別荘の雨戸を隊員の1人が開けると、いきなり中から発砲があり、大野耕司巡査長が顔と、左手に散弾を浴び、3週間の重傷を負った。中にいた数人の男は裏口から山中に逃げ込み、隊員らも後を追ったが、銃を乱射しながらの逃走であったため見失ってしまった。

 逃げたのは坂口弘、坂東国男(当時25歳)、吉野雅邦(当時23歳)、加藤倫教(当時19歳)、加藤の弟で高校1年・M(当時16歳)の5人であり、彼らは空別荘から500mほど離れた河合楽器保養所「あさま山荘」に押しかけ、管理人の妻・牟田泰子さん(当時31歳)を人質にとり占拠した。
 1時間後、雪の足跡を追ってこの寮に近づいた永瀬洋一巡査(当時24歳)が腰に散弾を受け1週間のけがをした。

 「あさま山荘」は敷地630u、2階建(一部3階)の建物で、まもなく警察に包囲され、拡声器による説得が行なわれたが、返ってくるのは猟銃の発射音だけだった。

 
―20日―
・3階バルコニーに畳10枚のバリケードが敷かれる。
・泰子さんの夫・郁男さん(当時36歳)が呼びかけ。反応なし。
・午後9時過ぎ、警視庁の投光車が到着し、浅間山荘を照らした。メンバーはブラインドを閉めきっていたが、3階から明かりがもれていた。


―21日―
・夕方、東京からヘリコプターで駆けつけて来た坂口、吉野の母親がマイクで説得。呼びかけに反応はなかった。 


―22日―
・吉野と坂口の母親が2度目の説得。

「マーちゃん、もし中にいたら聞いてちょうだい。私達はね。警察に呼ばれて来たのじゃないのよ。警察のためではないの。誤解しないで。親として見ておれないのよ。私は親だから、どうしても生きてもらいたいの。今のままじゃ、あんた達が浮かばれないと思うの。あんたたちにもプライドはあると思うのよ。格好悪いかもしれないけど、できにくいと思うけど、頼むから出てきて欲しいのよ、マーちゃん。私はあんたたちの一途な気持ちが誤解されるのが悔しいのよ。このままじゃ凶悪犯人と同じじゃないの。世の中、社会を思って、自分を犠牲にして一生懸命やってきたのじゃないの。世の中を良くするためにやってきたんじゃないですか。このままでは、あなたたちが浮かばれない気がするの。せめて最後は凶悪犯と違うところを見せて欲しいの。このままじゃ誤解されっぱなしよ。母親は子どもが生きてさえいればどこにいてもいいの。でもね、私はあきらめたわ。どうか最後は立派に死んでちょうだい。雅邦、私がこんなところで大きな声を出すのが、あなたのプライドを傷つけるかもしれない。かんべんしてちょうだい。でも、もう気が狂いそうなの」(吉野の母)

「申し上げます。これ以上、無理をなさらないで。みんな心配しています。命を大切にして下さい。いさぎよく武器を捨てて、奥さんを返して下さい。代わりが欲しければ、私が行きます。まわりはみんな囲まれているのよ。親はただ、子供の命さえ助かればいいいんですから」(坂口の母)
 これに対して2発の威嚇射撃があった。

・さらに午前12時7分、新潟市のスナック経営者・田中保彦さん(30歳)が、人質身代わりと人質への果物差し入れを志願して近づいたところ、後頭部を狙撃される。
 田中さんは赤軍派とも、管理人夫妻とも、もちろん警察とも関わりはなかったが、報道で事件を知り、義憤を感じて説得にかって出ようとしたという。病院に運ばれたが、8日後の3月1日に死亡した。のちのMの証言によると、田中さんは次のように接触を試みたという。
「赤軍さん、赤軍さん、私も左翼です。あなた方の気持ちは、判ります。中へ入れてください。私も昨日まで留置場に入っていたんです。私も警察が憎い。私は妻子と離縁してきた。私は医者をやっております。新潟から来たんです」


―23日―
・5日目に入っても膠着状態は続く。
・午後2時半頃、長野県警警備車が前進。偵察班は三方から進んだ。警備車は玄関先へ近づくと、「人質をわたしなさい」と説得したが反応はなかった。
・この日は警察のライフル銃部隊、大型警備車4台、高圧放水車2台が初めて配備された。


―24日―
・夜明けから郁男さんの呼びかけが続く。
・午前9時ごろ、滋賀から到着した坂東の母(当時50歳)が呼びかけ。

「国ちゃん、母ちゃん心配してやってきたで」

「みんな、みんな、いい子ばかりや。人を痛めたら自分も痛めつけられんならん」

「あんたらはエエ子ばっかりや。立派なところもあるし、けっして悪いことばかりしていたのではありません。みんなよくわかってるんやから。・・・・みんな良い人ばっかりです。悪くなったのも、ハタ(傍)が悪かったんです。政治が好きなら、世間を騒がせるようなことはやめ、政治家になればいいんや。あんた達が考えていたように、世の中も変わってきています。中国とアメリカのニクソンさんが握手してたんやから、あんたらの主張するようになった。あんたたちの役目は終わったんやから、早く家に帰ろう。あんたたちを温かく迎えるように警察の方々と約束できています。お母ちゃんと一緒に自動車で家に帰りましょう。ネコ、イヌ、タヌキ、クマのように、よく耐えて苦労したね。その勇気があれば世の中を渡っていける。鉄砲を撃つのは野蛮です。警察の人も、撃つのは野蛮な人です。両方が怒って喧嘩したら、喧嘩両成敗や。両方ともアホやなあと思います。アホなこと言うとると思ったら、見下してちょうだい。泣いたり、笑ったり、おかしいわ」

・午後4時25分、高圧放水開始。さらに騒音テープによる「音攻め」を行なう。山荘の内部にはかなりの水が入ったと見られ、反撃の発砲10数発。さらに屋根への投石、発煙筒が投げ込まれる。


―25日―
・幹部会議で泰子さんの健康状態を考慮し、27日以降の突入をする方針を固めた。
・現場では午後から土嚢積みが始まる。


―26日―
動きなし。


―27日―
・吉野の母親と、寺岡の父親が最後の訴え。
・山荘南側には3台の警備車が横づけされ、土嚢も二重、三重に積み重ねられた。また輸血用の血液も近隣の病院に運び込まれるなど、突入の準備が進められた。


―28日―
・午前5時頃、騒音テープや屋根への投石開始。
・同5時50分頃、郁男さんと警察隊の呼びかけが始まる。
・同6時40分、山荘周辺に融氷剤が撒かれる。
・同10時7分、15分、山荘内から発砲。
・同10時35分頃、放水開始。
・同10時53分、クレーン車から吊るしたビル解体用の巨大鉄球が3階を直撃。50cmほどの穴が開いた。その穴に向けて、放水が続く。
・同11時15分、1階階下に機動隊12人が潜り込む。
・同11時29分、「決死隊」が突入開始。赤軍メンバーは3階と屋根裏から銃撃や手榴弾で応戦し、警視庁特科車両隊の高見繁光警視と、警視庁第二機動隊隊長・内田尚孝警視の2人が死亡。警察側の攻略は一時中断。
・同12時47分、SBC(信越放送)のカメラマン(当時36歳)が右足を撃たれる。

 日が暮れた頃、警察による山荘攻略は再開された。
 メンバーは放水とガス弾によって「いちょうの間」に追い詰められた。布団の中から発砲し続けていたが、午後6時15分にようやく全員が取り押さえられた。救出された泰子さんはメンバーから貰ったという「善光寺」のお守りを握りしめており、予想以上に元気だったという。
 泰子さんの証言によると、はじめの2日間は手足を縛られていたが、それからははずされたという。食料についてはメンバーが作って持って来たが、最後の3日間は食べ物が尽きたため、コーラで我慢させられた。またメンバーらは「アサマ(坂口)」「フジサン(吉野)」「タテヤマ(坂東)」「アカギ(加藤兄)」「キリシマ(M)」などと山の名前で呼び合っていたこともわかった。この事件というと、この日にハチマキを巻いて山荘から顔を出す坂口と吉野の写真がよく見られるが、坂口はこの時初めて目の前の浅間山を見て、山荘の名前を納得したという。

 結局、この「あさま山荘」事件では、3人が死亡、16人が重軽傷を負った。(この死者は、連赤側の誰による発砲によるかはわからないが、山荘が破壊される当時、屋根裏の銃眼から坂東と加藤倫教が警察と対峙していた)
 坂口は警官2人がすでに死亡したというラジオニュースを聞いて、前線で戦う他の4人に「やった!警官を殲滅したぞ」と伝えた。

 連合赤軍の5人が玄関から出てくると、報道陣や機動隊から「この野郎、部長を返せ!」「人殺し」「なんでおめおめ出てきたんだ」という罵声が飛び出した。


 この日の8時間前後の攻防は、NHKが連続放映、民放局も番組を変更、CMを削減し中継。視聴率の累計は最高で98.2%に達した。日本じゅうがテレビの前に釘づけとなっていたことを意味する。また現場には1200人ほどの報道陣が詰め掛けていたと言われる。
 ちなみにあさま山荘はその後10年ほど観光名所となり、観光バスのコースにもなるほどだった。

 また「あさま山荘事件の最後の被害者」とも言うべき死者が、救出直前の午後6時前に出ている。滋賀県大津市に住む坂東国男の父(51歳)である。父は中継のテレビを消すと、部屋から出て、裏庭の物置で首を吊った。


 彼らがあさま山荘に立てこもった日と同じ2月19日、すでに逮捕されていた永田洋子が弁護士に「山で大変な闘争があった」「森さんにあの事は言ってはならないと伝えてくれ」と話した。
 まもなく、事件の前後に逮捕されたメンバーの自供から大量のリンチ殺人が行なわれていたことが発覚した。

→SIDE-B「連合赤軍リンチ事件」


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