2009-07-05 15:17:36
焚書坑数
テーマ:形式主義
【問題1】
1+1はなぜ2になるのか聞かれたとする。
・書記長
体の公理からと答える。
体の公理とは何なのかわからないし、自然数は体ではない。
体とは、四則演算を可能にした数学的対象のことであって、加算だけが問題になっているときに持ち出すような代物ではない。
・生兵法
1+1は2でも3でもよいと答える。
間違えてはいないが、何も言っていないに等しい。
・初学者
2に決めたからと答える。
正しいが、話がそこで終わってしまう。
・学
1+1について説明する。
誠実だが、嫌われる。
・無学
【問題2】
1+1は、とだけ聞かれたとする。
・凡夫
しばし逡巡の後、2と答える。
・生兵法
なんでもいいと答える。
・初学者
1+1と答える。
・学
・無学
2
【問題3】
n+mは?
・初学者
・学
n+m
・無学
2
【焚書坑数】
十分な時間のなかで、必ずや人間は数学を弾圧する。
踏み絵の前で「1+1を、旦那さまのお望みのとおり、2にも3にもしてご覧にいれましょう。」と生き延びようとする者も見られるだろうし、英雄主義的に殉死してみせる初学者も見受けられるだろう。一方、無学はそうと気付かれずに生き延びていく。
【意味=外=非存在】
齋藤正彦著「数のコスモロジー」を手にとったとき、目をこすって表紙を見直した。見直してみても、表紙には、コホモロジーではなく、コスモロジーと書いてあった。「数とことばの世界へ」という本に、文庫化にあたって、改題増補等を施したもののようだが、過度にスノッブな表題に比して、その内容たるや危険思想書そのものである。
私のような「自然言語主義の絶対の敵」に対して、その形式言語への信頼と《没意味性》を補強せしめ、《規則に違反する創造性》をして、「拡大された規範」によって生成される諸概念をもって自然言語を攻撃することを正当化する。
【見えない敵と戦おう】
数学に対する弾圧は、数学全体に及ぶことはないし、全体に対すること自体が不可能だ。それは、「俗流アカデミズムの発する臭気」の追放という形で、世俗主義的道具主義的策動として、近代の最後を飾る一大イベントを形成する。
ここにおいて、意味主義は、その憎むべき「形式」を悉く破壊し去った後に気付くだろう。自分たちは、虚空と戦っていたのだということを。
見えない敵と戦っていたことを認めた瞬間、意味主義は敗北する。それは同時に、意味主義が自分自身を「主義」に過ぎないと認めることである。意味主義とは敵の側からの呼称であることを補足しておく必要があるかもしれない。
【近代は終焉しない】
終焉しないことを宣言されたとき、近代は終焉する。
近代はいっぺんに終焉するのではない、あらゆる場所で近代は終焉しつつあるのみである。
数学は近代を経験した。そして、数学の「現代化」について、改めて想いを馳せるべきだ。
「ポスト近代」とは、近代でない何かになることではない。近代の意味の追究をやめることである。
【近代のあとで】
言うまでもないが、ヴィクトール・フランクルは、結果として、従来宗教家であったと同時に近代宗教家であった。意味の宗教は、彼をはじめとする近代人がもたらした新宗教であり、従来宗教を悉く陳腐化せしめる威力を有した。
近代人は、作業仮説のかわりに意味を手に入れた。それは、とても、とても不幸な事件だった。
アウシュヴィッツのあとで詩を詠むのは野蛮であり、オスフィエンチムのあとで詩を詠むのは無意味である。
【現代宗教】
近代後に《意義》は忘れられる。
意味主義は、《意味》として厳密性に包含される。(要考察)
宗教は、信仰によって生成される。
信仰は、形式言語によって記述される。
現代宗教においては、作業仮説そのものが記述され、個々の作業仮説はその内に消える。
現代宗教においては、意味そのものが記述され、個々の意味はその内に消える。
近代において繰り返された宗教の意味付けは、相対化された宗教に対する作業仮説である。
信仰は仮説ではない。
宗教現象は《意味》でなく《関係》において記述される。
文化現象としての宗教とは、宗教現象の《意味》である。
1+1はなぜ2になるのか聞かれたとする。
・書記長
体の公理からと答える。
体の公理とは何なのかわからないし、自然数は体ではない。
体とは、四則演算を可能にした数学的対象のことであって、加算だけが問題になっているときに持ち出すような代物ではない。
・生兵法
1+1は2でも3でもよいと答える。
間違えてはいないが、何も言っていないに等しい。
・初学者
2に決めたからと答える。
正しいが、話がそこで終わってしまう。
・学
1+1について説明する。
誠実だが、嫌われる。
・無学
【問題2】
1+1は、とだけ聞かれたとする。
・凡夫
しばし逡巡の後、2と答える。
・生兵法
なんでもいいと答える。
・初学者
1+1と答える。
・学
・無学
2
【問題3】
n+mは?
・初学者
・学
n+m
・無学
2
【焚書坑数】
十分な時間のなかで、必ずや人間は数学を弾圧する。
踏み絵の前で「1+1を、旦那さまのお望みのとおり、2にも3にもしてご覧にいれましょう。」と生き延びようとする者も見られるだろうし、英雄主義的に殉死してみせる初学者も見受けられるだろう。一方、無学はそうと気付かれずに生き延びていく。
【意味=外=非存在】
齋藤正彦著「数のコスモロジー」を手にとったとき、目をこすって表紙を見直した。見直してみても、表紙には、コホモロジーではなく、コスモロジーと書いてあった。「数とことばの世界へ」という本に、文庫化にあたって、改題増補等を施したもののようだが、過度にスノッブな表題に比して、その内容たるや危険思想書そのものである。
私のような「自然言語主義の絶対の敵」に対して、その形式言語への信頼と《没意味性》を補強せしめ、《規則に違反する創造性》をして、「拡大された規範」によって生成される諸概念をもって自然言語を攻撃することを正当化する。
【見えない敵と戦おう】
数学に対する弾圧は、数学全体に及ぶことはないし、全体に対すること自体が不可能だ。それは、「俗流アカデミズムの発する臭気」の追放という形で、世俗主義的道具主義的策動として、近代の最後を飾る一大イベントを形成する。
ここにおいて、意味主義は、その憎むべき「形式」を悉く破壊し去った後に気付くだろう。自分たちは、虚空と戦っていたのだということを。
見えない敵と戦っていたことを認めた瞬間、意味主義は敗北する。それは同時に、意味主義が自分自身を「主義」に過ぎないと認めることである。意味主義とは敵の側からの呼称であることを補足しておく必要があるかもしれない。
【近代は終焉しない】
終焉しないことを宣言されたとき、近代は終焉する。
近代はいっぺんに終焉するのではない、あらゆる場所で近代は終焉しつつあるのみである。
数学は近代を経験した。そして、数学の「現代化」について、改めて想いを馳せるべきだ。
「ポスト近代」とは、近代でない何かになることではない。近代の意味の追究をやめることである。
【近代のあとで】
言うまでもないが、ヴィクトール・フランクルは、結果として、従来宗教家であったと同時に近代宗教家であった。意味の宗教は、彼をはじめとする近代人がもたらした新宗教であり、従来宗教を悉く陳腐化せしめる威力を有した。
近代人は、作業仮説のかわりに意味を手に入れた。それは、とても、とても不幸な事件だった。
アウシュヴィッツのあとで詩を詠むのは野蛮であり、オスフィエンチムのあとで詩を詠むのは無意味である。
【現代宗教】
近代後に《意義》は忘れられる。
意味主義は、《意味》として厳密性に包含される。(要考察)
宗教は、信仰によって生成される。
信仰は、形式言語によって記述される。
現代宗教においては、作業仮説そのものが記述され、個々の作業仮説はその内に消える。
現代宗教においては、意味そのものが記述され、個々の意味はその内に消える。
近代において繰り返された宗教の意味付けは、相対化された宗教に対する作業仮説である。
信仰は仮説ではない。
宗教現象は《意味》でなく《関係》において記述される。
文化現象としての宗教とは、宗教現象の《意味》である。
1 ■このエントリを読んで
君が意味主義を射程に捉えたのが偶然に過ぎなかったと確認できて本当に安心した。
数学の真の害悪の一つを葬り去れなかったことは残念だったが、あの一撃程度ならば意味主義はなんら揺らぐことはない。俺は今日から安心して眠れる。