「SAPIO」平成19年5月9日号に八木秀次氏の「「雅子妃問題」で天皇の本質的要素たる「宮中祭祀」が危機に瀕しつつある」と題する記事がある。
この記事において,八木氏は「皇太子ご夫妻離婚論」について3つの立場を示している。
------引用開始-----
ひとつは,キャリアウーマンとして活躍してきた雅子妃らしい生き方を取り戻して欲しいという立場からの離婚説である。もうひとつは,男系を維持するために離婚していただき,皇太子殿下が新しく迎える妃に男子を産んでいただこうという立場からのものだ。紀子妃ご懐妊前に一部の男系維持派からよく聞かれた声である。
------引用終了------
「紀子妃ご懐妊前に一部の男系維持派からよく聞かれた声である」などと他人事のように言っているが,八木氏にしていたところで,離婚説を口にしていた。
すなわち,「AERA」平成18年1月16日号において,「雅子妃「離婚説」の策謀」と題する記事があり,ここで八木氏は以下のように述べている。
------引用開始------
発信源はむしろ皇太子ご夫妻側ではないのか。深刻さを訴えて同情を誘い,これからの皇室改革を自分たちの都合良く進めようとしているようにも見える
------引用終了------
これは今回の「SAPIO」の記事で示された3つの立場とは異なるものであり,八木氏独自の4つ目の立場ということができるであろう。
若干話がそれてしまったが,今回の記事の目玉として,八木氏は3つ目の立場として,以下の主張を行う。
-----引用開始-----
もしこのまま雅子妃が宮中祭祀を受け入れられないなら,皇后としての資質に疑念を抱かざるを得ず,宮中祭祀,すなわち皇室の皇室たるゆえんを守るために離婚もやむを得ないということだ。
-----引用終了-----
そして,小賢しくも皇后についての離婚の規定がないことに着目して,「御代代わりの前に離婚という事態も想定せざるを得ないということだ」などと言い立て,さらに,「皇太子殿下が離婚という事態を受け入れるとは思えない」とした上で,以下の驚くべき主張を行う。
-----引用開始-----
現皇室典範第3条は<皇嗣(注・最も嫡系に近い皇族男子)に,精神若しくは身体の不治の重患があり,又は重大な事故があるときは,皇室会議の議により,前条に定める順序に従つて,皇位継承の順序を変えることができる>と定めている。
現在,皇太子ご夫妻よりも秋篠宮ご夫妻の方が,天皇皇后両陛下を深く理解し,皇族としての強い責任感を抱き,将来の天皇,皇后に相応しい資質を持つとの見方が広がっている。とすれば,宮中祭祀を守る立場から,皇室典範第3条にある<重大な事故>を拡大解釈し,皇位継承権第1位の座を皇太子殿下から秋篠宮殿下に移そうとの議論が生じてもおかしくない。
------引用終了-----
「生じてもおかしくない」と結んでいるが,自分で生じさせようとしているのではないか,と言いたくもなる。
それにしても,八木氏というのは,運動家としてはともかく,学者を名乗るに相応しいのだろうか,と思わざるを得ない。
「皇嗣」について,「(注・最も嫡系に近い皇族男子)」という注釈をわざわざつけているが,不正確だし意味のない注釈であると言わざるを得ない。
「皇嗣」というのは皇位継承資格者が複数存在する中で,次期皇位継承者お一人を指すものである。
皇室典範第8条においては,「皇嗣たる皇子を皇太子という」と定められているが,例えば徳仁親王殿下も文仁親王殿下もともに「皇子」ではあるのだが,「皇嗣」は徳仁親王殿下お一人を指すものであるので,皇太子は徳仁親王殿下お一人に定まるのである。
八木氏の注釈では,文仁親王殿下までもが皇太子ということになりかねず,同時に皇太子が複数存在するという訳の分からない話になってしまう。
さて,これは細かい話ではあったが,皇室典範第3条の「重大な事故」について,宮中祭祀の問題を当てはめようとするのは,法理論としてもあまりに無理があるであろう。
天皇の公務として明記されているのは憲法上の国事行為があるのみである。
お代替わり時の儀式として,皇室典範第24条と第25条において,それぞれ「即位の礼」と「大喪の礼」についての定めはあるが,宮中祭祀を行うこと自体は,国家的な公務ではなく,皇室内の事項に過ぎないのである。
皇室内の事項,それも信仰にかかわる事項をもって,皇位継承の順序という国家的な身分の変更を行おうとすることは,内心の自由の侵害であろうし,憲法違反と言わざるを得ないであろう。
もっとも,いわゆる保守派の中には,宮中祭祀は公務なんだと主張し,皇室には信仰の自由はないのだと主張する立場もある。
憲法学者としては出来損ないであると思うが,思想的な主張としては,そういう主張も分からないでもない。
ただそういう論者というのは,自らの主張の大きな落とし穴に気づいていないようである。
すなわち,国民主権原理の下で,宮中祭祀を国家的公務と位置づけるということが,むしろ祭祀の尊厳性の確保を危うくするという問題である。
国民主権原理下の国家的公務であるならば,その遂行は国民によって監視されることになる。
そうなれば,祭祀王の権威も何もあったものではないであろう。
皇室典範第3条を拡大解釈するという八木氏の主張も,要するに宮中祭祀の遂行状態を皇室会議という国家機関がチェックした上でということになるのであろうが,その時の政権次第によっては,祭祀の場がすっかり暴露されてしまい,女性皇族のプライバシーも踏みにじられることにもなりかねない。
宮中祭祀が皇室の伝統として守られていくためには,皇室の手に委ねるのがもっとも適切であるのであって,国民主権原理による介入の道を安易に開くべきではないのである。
大嘗祭の問題は,またちょっと別であるとは思うのだが。
筆者としては,この辺りが,やたらと女性皇族の生理にばかり着目する原武史氏の魂胆であろうと推測しているが,そういうことにも気づかずに,安易に乗っかろうとするところが,いつもどおり,八木氏の八木氏らしいところではある。
なお,八木氏はこの記事の最後において,以下のように述べている。
-----引用開始----
今は何よりも雅子妃のご快復を願う。だが,一皇太子妃のご病状快復と歴史上連綿と続いてきた宮中祭祀が天秤に掛けられるようであれば,離婚ないし皇位継承権の変更を想定せざるを得ない事態になると思われる。
-----引用終了----
「今は何よりも雅子妃のご快復を願う」などと述べているが,筆者としては,八木氏には願ってもらわなくてもよいと思う。というのも,「何よりも」などと言いつつ,その直後に「天秤に掛けられるようであれば」などと述べている点で,支離滅裂であるし,あからさまに嘘くさいからである。
それにしても,「歴史上連綿と続いてきた宮中祭祀」とは,一体何のことを指しているのであろうか。
かつての皇室令で定められた祭祀のことを指しているのであろうか。
そうであれば,明治になって整備されたものが多いわけだし,意外に新しいものであるわけで,何か勘違いをしているのではないかと思われる。
歴史的には熱心な天皇もおられたし,それほどでもない天皇もおられたし,子どもでも知っているように仏教に傾倒された天皇もおられたしであり,宮中祭祀が「皇室の皇室たるゆえん」というのは,当たらないのではないか。
それに忘れてならないのは,宮中祭祀を行う資格の継承者は天皇であり,皇后ではない。
祭祀を執り行う主役はあくまで天皇であり,皇后はサポート役といったところであろう。
であれば,皇太子妃として,祭祀が十分にできないからといって,廃太子の主張を行うというのは,夫婦の役割分担を平等にするべきというような思想的立場にでも立たない限り,やはりおかしな話である。
今の天皇皇后両陛下においては,いつもご一緒というイメージがあるし,また皇后陛下の存在感が非常に強いために八木氏のように思い込んでしまう人も出て来るのであろうか。
さて,いろいろ批判を並べたが,ただ,お嫁さんについては,嫁ぎ先のしきたりにしたがうべきだという意識が,今どきの世間でもなお根強いことは,筆者も認めるところである。
宮中祭祀を盾にとっての皇太子妃殿下バッシングが行われることには,そのような背景があるのであろう。
できるだけ波風を立てないためには,皇太子妃殿下においても,宮中祭祀には取り組まれた方がよいのではないかと,それは筆者にしても思うところである。
この記事において,八木氏は「皇太子ご夫妻離婚論」について3つの立場を示している。
------引用開始-----
ひとつは,キャリアウーマンとして活躍してきた雅子妃らしい生き方を取り戻して欲しいという立場からの離婚説である。もうひとつは,男系を維持するために離婚していただき,皇太子殿下が新しく迎える妃に男子を産んでいただこうという立場からのものだ。紀子妃ご懐妊前に一部の男系維持派からよく聞かれた声である。
------引用終了------
「紀子妃ご懐妊前に一部の男系維持派からよく聞かれた声である」などと他人事のように言っているが,八木氏にしていたところで,離婚説を口にしていた。
すなわち,「AERA」平成18年1月16日号において,「雅子妃「離婚説」の策謀」と題する記事があり,ここで八木氏は以下のように述べている。
------引用開始------
発信源はむしろ皇太子ご夫妻側ではないのか。深刻さを訴えて同情を誘い,これからの皇室改革を自分たちの都合良く進めようとしているようにも見える
------引用終了------
これは今回の「SAPIO」の記事で示された3つの立場とは異なるものであり,八木氏独自の4つ目の立場ということができるであろう。
若干話がそれてしまったが,今回の記事の目玉として,八木氏は3つ目の立場として,以下の主張を行う。
-----引用開始-----
もしこのまま雅子妃が宮中祭祀を受け入れられないなら,皇后としての資質に疑念を抱かざるを得ず,宮中祭祀,すなわち皇室の皇室たるゆえんを守るために離婚もやむを得ないということだ。
-----引用終了-----
そして,小賢しくも皇后についての離婚の規定がないことに着目して,「御代代わりの前に離婚という事態も想定せざるを得ないということだ」などと言い立て,さらに,「皇太子殿下が離婚という事態を受け入れるとは思えない」とした上で,以下の驚くべき主張を行う。
-----引用開始-----
現皇室典範第3条は<皇嗣(注・最も嫡系に近い皇族男子)に,精神若しくは身体の不治の重患があり,又は重大な事故があるときは,皇室会議の議により,前条に定める順序に従つて,皇位継承の順序を変えることができる>と定めている。
現在,皇太子ご夫妻よりも秋篠宮ご夫妻の方が,天皇皇后両陛下を深く理解し,皇族としての強い責任感を抱き,将来の天皇,皇后に相応しい資質を持つとの見方が広がっている。とすれば,宮中祭祀を守る立場から,皇室典範第3条にある<重大な事故>を拡大解釈し,皇位継承権第1位の座を皇太子殿下から秋篠宮殿下に移そうとの議論が生じてもおかしくない。
------引用終了-----
「生じてもおかしくない」と結んでいるが,自分で生じさせようとしているのではないか,と言いたくもなる。
それにしても,八木氏というのは,運動家としてはともかく,学者を名乗るに相応しいのだろうか,と思わざるを得ない。
「皇嗣」について,「(注・最も嫡系に近い皇族男子)」という注釈をわざわざつけているが,不正確だし意味のない注釈であると言わざるを得ない。
「皇嗣」というのは皇位継承資格者が複数存在する中で,次期皇位継承者お一人を指すものである。
皇室典範第8条においては,「皇嗣たる皇子を皇太子という」と定められているが,例えば徳仁親王殿下も文仁親王殿下もともに「皇子」ではあるのだが,「皇嗣」は徳仁親王殿下お一人を指すものであるので,皇太子は徳仁親王殿下お一人に定まるのである。
八木氏の注釈では,文仁親王殿下までもが皇太子ということになりかねず,同時に皇太子が複数存在するという訳の分からない話になってしまう。
さて,これは細かい話ではあったが,皇室典範第3条の「重大な事故」について,宮中祭祀の問題を当てはめようとするのは,法理論としてもあまりに無理があるであろう。
天皇の公務として明記されているのは憲法上の国事行為があるのみである。
お代替わり時の儀式として,皇室典範第24条と第25条において,それぞれ「即位の礼」と「大喪の礼」についての定めはあるが,宮中祭祀を行うこと自体は,国家的な公務ではなく,皇室内の事項に過ぎないのである。
皇室内の事項,それも信仰にかかわる事項をもって,皇位継承の順序という国家的な身分の変更を行おうとすることは,内心の自由の侵害であろうし,憲法違反と言わざるを得ないであろう。
もっとも,いわゆる保守派の中には,宮中祭祀は公務なんだと主張し,皇室には信仰の自由はないのだと主張する立場もある。
憲法学者としては出来損ないであると思うが,思想的な主張としては,そういう主張も分からないでもない。
ただそういう論者というのは,自らの主張の大きな落とし穴に気づいていないようである。
すなわち,国民主権原理の下で,宮中祭祀を国家的公務と位置づけるということが,むしろ祭祀の尊厳性の確保を危うくするという問題である。
国民主権原理下の国家的公務であるならば,その遂行は国民によって監視されることになる。
そうなれば,祭祀王の権威も何もあったものではないであろう。
皇室典範第3条を拡大解釈するという八木氏の主張も,要するに宮中祭祀の遂行状態を皇室会議という国家機関がチェックした上でということになるのであろうが,その時の政権次第によっては,祭祀の場がすっかり暴露されてしまい,女性皇族のプライバシーも踏みにじられることにもなりかねない。
宮中祭祀が皇室の伝統として守られていくためには,皇室の手に委ねるのがもっとも適切であるのであって,国民主権原理による介入の道を安易に開くべきではないのである。
大嘗祭の問題は,またちょっと別であるとは思うのだが。
筆者としては,この辺りが,やたらと女性皇族の生理にばかり着目する原武史氏の魂胆であろうと推測しているが,そういうことにも気づかずに,安易に乗っかろうとするところが,いつもどおり,八木氏の八木氏らしいところではある。
なお,八木氏はこの記事の最後において,以下のように述べている。
-----引用開始----
今は何よりも雅子妃のご快復を願う。だが,一皇太子妃のご病状快復と歴史上連綿と続いてきた宮中祭祀が天秤に掛けられるようであれば,離婚ないし皇位継承権の変更を想定せざるを得ない事態になると思われる。
-----引用終了----
「今は何よりも雅子妃のご快復を願う」などと述べているが,筆者としては,八木氏には願ってもらわなくてもよいと思う。というのも,「何よりも」などと言いつつ,その直後に「天秤に掛けられるようであれば」などと述べている点で,支離滅裂であるし,あからさまに嘘くさいからである。
それにしても,「歴史上連綿と続いてきた宮中祭祀」とは,一体何のことを指しているのであろうか。
かつての皇室令で定められた祭祀のことを指しているのであろうか。
そうであれば,明治になって整備されたものが多いわけだし,意外に新しいものであるわけで,何か勘違いをしているのではないかと思われる。
歴史的には熱心な天皇もおられたし,それほどでもない天皇もおられたし,子どもでも知っているように仏教に傾倒された天皇もおられたしであり,宮中祭祀が「皇室の皇室たるゆえん」というのは,当たらないのではないか。
それに忘れてならないのは,宮中祭祀を行う資格の継承者は天皇であり,皇后ではない。
祭祀を執り行う主役はあくまで天皇であり,皇后はサポート役といったところであろう。
であれば,皇太子妃として,祭祀が十分にできないからといって,廃太子の主張を行うというのは,夫婦の役割分担を平等にするべきというような思想的立場にでも立たない限り,やはりおかしな話である。
今の天皇皇后両陛下においては,いつもご一緒というイメージがあるし,また皇后陛下の存在感が非常に強いために八木氏のように思い込んでしまう人も出て来るのであろうか。
さて,いろいろ批判を並べたが,ただ,お嫁さんについては,嫁ぎ先のしきたりにしたがうべきだという意識が,今どきの世間でもなお根強いことは,筆者も認めるところである。
宮中祭祀を盾にとっての皇太子妃殿下バッシングが行われることには,そのような背景があるのであろう。
できるだけ波風を立てないためには,皇太子妃殿下においても,宮中祭祀には取り組まれた方がよいのではないかと,それは筆者にしても思うところである。