現在位置:
  1. asahi.com
  2. 社説

社説

Astandなら過去の朝日新聞社説が最大3か月分ご覧になれます。(詳しくはこちら)

2011年2月7日(月)付

印刷

このエントリをはてなブックマークに追加 Yahoo!ブックマークに登録 このエントリをdel.icio.usに登録 このエントリをlivedoorクリップに登録 このエントリをBuzzurlに登録

名古屋選挙―次は、働く議会を作ろう

衝撃的な結果である。愛知県知事選、名古屋市長選、議会解散の是非を問う同市の住民投票の投開票がきのうあった。河村たかし前市長の率いる勢力がそろって勝利した。いったん辞めて[記事全文]

春場所中止―土俵の信頼取り戻せるか

浪速の街に本場所の始まりを告げる小気味いい触れ太鼓が、この春は響かない。大相撲の三月場所が中止されることになった。日本相撲協会は八百長問題の解明に時間を要することなどか[記事全文]

名古屋選挙―次は、働く議会を作ろう

 衝撃的な結果である。

 愛知県知事選、名古屋市長選、議会解散の是非を問う同市の住民投票の投開票がきのうあった。河村たかし前市長の率いる勢力がそろって勝利した。いったん辞めて再立候補した市長選、市民に呼びかけた住民投票、連動させた知事選でも盟友を押し上げた。

 これまで票をたばねてきた政党や労組、業界は、大きく力を失ったように見える。いまやこうした組織を見限った個人が、河村氏へ吸い寄せられていった、という図である。

 河村氏は「市民税減税が政策の1丁目1番地」と強調する。だが、街頭でみるかぎり、議員報酬半減の提案をはじめ、徹底した議会との対決姿勢が強く市民に受けていた。

 政権交代後の混迷もあり、社会の閉塞(へいそく)感は強まっている。市民は、議会と激突する河村氏に喝采を送った。

 市民の側から「議会を守れ」という運動がほとんど広がらなかったのが象徴的である。むしろ特権にあぐらをかいていた議員が攻撃され、右往左往するさまが格好の見せ物になった。

 議員は高い報酬を得ながら地域の暮らしにどう役立ってきたのか、多くの市民に実感させられなかった。

 山口県防府市長が議員定数半減を提案したのをはじめ、議会と対決する首長が各地に現れている。リコールの要件を緩めたり、住民投票をやりやすくしたりする地方自治法改正の動きが進んでいるが、現状では対立を激化させる道具にならぬか心配だ。

 だが、忘れてはいけない。こんな議会を許してきたのもまた市民である。4年前の統一地方選で市議選のあった全国の15の政令指定都市のうち、名古屋市の投票率は最低の39.97%だった。平均より10ポイント近く低かった。

 冷静に考えてみよう。議員報酬を半減させたところで、浮くお金はせいぜい6億円だ。小さいとは言えないが、河村氏がいう10%減税に必要な200億円に遠く及ばない。

 では行政改革で財源が本当に生み出せるのか。市民サービスが削られないか。いまこそ行政への監視が必要なときだ。市民の代表である議会を攻撃するだけでは結局、市民が損をする。

 住民投票で議会解散が決まり、3月に出直し選挙がある。報酬問題について市民の判断はもう明らかだろう。

 次は議会にどのような人材を送り、どう再生するか、である。

 各党、各候補者に知恵を問いたい。地域政党を率いる河村氏も「壊す」の次に「作る」方策を見せてほしい。

 全国の有権者も考えよう。あなたの街の議会もふがいないかもしれない。だが、攻撃し、個人で留飲を下げるだけでいいか。議会は社会が連帯し、公の問題に取り組む場所だ。主権者として、議会をもう一度働かせよう。

検索フォーム

春場所中止―土俵の信頼取り戻せるか

 浪速の街に本場所の始まりを告げる小気味いい触れ太鼓が、この春は響かない。大相撲の三月場所が中止されることになった。

 日本相撲協会は八百長問題の解明に時間を要することなどから、場所を開くことは困難と判断した。

 角界は本場所を最も大事にし、戦時中も途絶えさせず、土俵を守り抜いてきた。不祥事による中止は初めてだ。

 大相撲の歴史に汚点を残す、未曽有の事態である。

 協会の特別調査委員会は3日間かけて、関与が疑われる力士ら14人に聴取をした。だが、八百長の深い闇に光を当てるのは容易ではなかった。

 協会幹部が描いていた青写真は「力士らの処分を発表した上で春場所は開催する」だった。まず春場所開催ありき、の思惑である。

 だが、その認識は甘すぎた。

 放駒理事長はきのうの記者会見で「謝っても謝り切れない」と謝罪した上で、こう話した。「ウミを完全に出し切るまでは土俵上で相撲をお見せすることはできないと考えている」

 調査委は14人に携帯電話や過去の通信記録、預金通帳の提出も求めた。きょうからは十両以上の力士全員への聴取を始める。納得できる調査内容を公表しない限り、五月場所の開催さえおぼつかないだろう。

 八百長は昔からあった――。今、そうした声が多く聞かれる。しかし、相撲のすべてをおとしめてはならない。

 大相撲は神事として始まった。その歴史から、様式美を含めた伝統芸能的な要素も愛されてきた。

 相手が勝ち越せるかどうかといった瀬戸際にあるとき、手を緩めることを「人情相撲」と呼ぶなど、一種独特な角界の「空気」も含めて大相撲だと受け止めてきた向きがあった。人情相撲を題材にした落語や歌舞伎もある。

 だが歴史的な経緯とは別に、アマ相撲が純然たる競技として発展し、学生や社会人のトップが挑む最高峰として大相撲が存在するようになった。

 伝統芸能とスポーツの要素を併せ持つ特異な存在が大相撲と言えるが、相撲競技の頂点でもあるのだから、やはり八百長は許されない。「そんなものさ」と切り捨てて済む話ではない。欧州などからの力士も多数おり、日本情緒豊かな競技として海外でも人気があることも忘れてはならない。

 八百長への関与を認めた竹縄親方は囃子(はやし)歌「相撲甚句」の名手として知られた。相撲のよき伝統の一つを担いながら、一方で土俵を汚していたという事実が、何とも寒々しい。

 大相撲は存亡の危機にある。伝統のあしき部分をぬぐい去り、最高峰の舞台としての誇りをどう取り戻すか。

 角界にかかわるすべての人々に今、そのことが問われている。

検索フォーム

PR情報