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最近ブログなどに一見さんがグルメ評論家きどりで
クレームとしていろいろとブログ上でご批判を承りますが、
ご批判は店主に氏名を名乗った上で直接お申し出を
taylorsofharrogate@po29.lcv.ne.jpまで
隠れての書き込みは心の狭い人間または頭の足らない人間
人生経験の少ない心狭い人間と認識いたします。
誹謗及び中傷・批判がひどい場合には弁護士と相談の上法的な処置を
させて頂きます。
■ブロガーの批判誹謗中傷による為に削除を
余儀なくされました。
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最近ブログなどに一見さんがグルメ評論家きどりで
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17世紀始めに茶がヨーロッパにもたらされるが、ほぼ同時期に中東から珈琲が入ってきた。
その後およそ150年ほどの歴史経過のうちに西ヨーロッパにおいて茶と珈琲が日常の飲み物となった。
ヨーロッパ大陸が珈琲国民に落ち着いたのに対して、茶は英国民を代表する飲み物となったオランダとのアジア貿易の競争に勝った英国は中国茶の輸入を独占する事となりついにはインド、セイロンにおける茶のプランテーションをはじめ、紅茶の生産国になった訳である。
そして、いわゆる英国紅茶の飲み方は大英帝国の国内、領土に広がってった。
英国系移民と並んで茶を愛好する歴史の古いオランダ系移民の勢力が強かったアメリカはカナダと同じように紅茶愛好国になる可能性を持っていた訳だが、ボストンティーパーティーボストン茶会事件 を契機として珈琲愛好国への道をたどったのである。
ヨーロッパが海路による中国茶の輸入に依存したのと異なり、ロシア圏は中国から陸路のキャラバンによる茶の飲用から出発した。
紅茶が出回る以前運搬に効率の良い紅磚茶からおそらくロシアの飲用方法は始まったものとおもわれる。
煮出すといっても良いくらい濃茶を出すロシアの飲み方は磚茶を煮出す伝統をのこしているのかも知れない。ヨーロッパのようにミルクを入れて飲むという事をせず、サモワールとガラスのグラスを使用する独自の飲み方を発達させたが、それはシベリア経営に伴って、紅磚茶をロシア式に飲む、ロシア圏の中の変異形として発達させたに過ぎない。
19世紀におけるロシアの南下政策に伴い、古い時代から茶を知っていたと推測される西アジアの諸民族が本格的に茶を飲みだすようになったときの飲茶の風習に影響を与えたと思える。
「茶になぜミルクをいれたのか?」
茶や珈琲にミルクや乳製品を混ぜて飲用する事は、家畜の乳搾りを行う牧畜文化と関連性を持つ乳搾り分布圏に属するチベット、モンゴルでは茶とミルクを混ぜて飲むのに対して、中国、日本は牧畜文化ではなかった事に起因するのであろう。
日本では労働に利用した牛はいたが、乳牛としての牛の家畜化は近代によるものである。
「宗教との関連」
茶と珈琲の飲用普及については宗教の関係がよく言われる。
すなわち、仏教でもイスラム教でも聖職者は飲酒を禁じられていたために酒の代替品として茶や珈琲が用いられたとか、聖職者の修行の目覚まし効果を持つ飲み物として、宗教と結びついたと言われている。我が日本の飲茶の普及を考えてみても、仏教寺院のはたした役割は大きい。
「茶の文化」より 監修 梅沢忠夫氏 による
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都市では不況とテナント代の高さと押し寄せるアメリカナイズされたジャンキーフードの店に淘汰され喫茶店の数もめっきり減っています。
これは自由主義の経済下ではもういたし方ない事なのでしょう。
フランスなどでは昔からある由緒正しき喫茶店やレストランなどは国がその文化性を認め国の補助あるいは国営という店も数多くあります。店員は国家公務員という事になります。
日本とは文化の認識度が違うのでしょうか?
日本は生活自体が文化であるから世界唯一文化の育たない国と言われています。その結果文化(絵画、骨董、彫刻、陶芸)はその価格の高さに人を呼び、家に飾る絵画はなく、そのかわりに銀行でもらったカレンダーが掛けてあります。
文化を鑑賞する時間もなく働くご主人、TVワイドショーにかじりつく奥様達、知識も文化も丸暗記の子供達、に喫茶文化は必要がないのでしょう。
生きる目的に迷う少年少女、子育てを忘れた子供の大人、残り少ない人生をベッドにくくりつけられて、体の自由と誇りを取り上げられた老人達にこそ、ゆとりのティータイムを、、、。
私利私欲の国会議員様、性欲を抑えきれない公僕の皆様、企業倫理を忘れた社長様悪い事象だけを報道する尻をぬぐわないマスコミの方々様、不況で泣く芸術家の皆様ここはひとつ、「美味しい紅茶」でも召し上がって良く考えましょう。
すべての日本人に「ティータイム」を、、、。
人々が気軽に集まる、そして文化が集まる、がしかし現在は資本主義の合理性から喫茶空間が消えつつある。
教養を捨て、ブランドに着飾る人々の集団が日本を淘汰し、金というものに支配され、TVはガキの文化に照準をあて、必要のない携帯電話は宙を飛ぶ。
この現状は捨てたゴミのように中身の無いものが残るだけかも知れない。一体人は文化を忘れ、どこへ行こうとしているのだろう。
本来の自由主義というものはこう言う事だったのか、?。
一杯のお茶代でじかに他人と親しく話せて、そこには音楽も絵画もあり穏やかに流れる時間の中で見つめなおせる自分がいる。そんな喫茶文化を見直す日はもう来ないのだろうか。
「喫茶文化よ永遠なれ」 DADA |
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「TAYLORS OF HARROGATE TEA」 |
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「TAYLORS OF HARROGATE TEA」
Fortnum&Mason Japanがこれから三越系列及びユーハイムにて全国展開するにあたっては全国どこでも紅茶が手に入りやすくなることでしょう。今回の出荷停止はFM紅茶の長年にわたる顧客にはあまりにも突然の事で配慮を欠いた出来事でした。本来ならば半年前にまず予告し、顧客の今後の入手方法について公告してから出荷停止をするべきものであり、商品の予約をして数日後に「突然一切の出荷を停止します」というメールだけとは企業倫理を疑う次第です。その他にも予約と違う商品が入り替わり入っているとか問題は以前にもありましたが、、、。という訳で今回の事で私ども顧客には不信感を懐かせた問題でした。
さていろいろと今の英国現代社会の紅茶情報を調べたところ、Fortnum&Masonよりも質実で実績のある紅茶が見つかりました。「TAYLORS OF HARROGATE TEA」という紅茶ですが、日本ではあまり知られていませんが英国ではFortnum&Masonよりも有名で着実に英国庶民に愛されている紅茶です。全品試飲しましたが南アフリカを中心にミルクティーにするとどれもまろやかで美味しい紅茶でした。英国人の生活の一部としてのミルクティーに重点を置いた紅茶です。ロンドンのピカデリーの店頭に並ぶ観光日本人の行列とは相反するヨークシャーの美しい景色とともに嗜む紅茶と思います。
この会社「TAYLORS OF HARROGATE TEA」は缶入り、紙箱入り、量り売りなどあり、まずは缶入りを買い求めその後計り売りを買うシステムは無駄な資源を使わずにすむ方法をとっています、そんな英国人の質実性に共感を覚えた次第です。
当店では今後「TAYLORS OF HARROGATE TEA」に移行し、本来の茶会の楽しみ、美味しさを求めて行きたいと考えています |
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紅茶の水色・(すいしょくと呼ぶ)紅茶を淹れたカップの中の色を見る時に呼ぶ評価の言葉であるが、一般的にたとえて言えばアッサムは「水色が明るく深い紅色である」などと表現したりする。これは一般的とは言いながら、当然カップの色が問題である。
R・コペンハーゲンなどは素晴らしい陶器であり評価も価格も高いのだが、そのカップ自体の素材の色はグレーに近い、色の白と言っても何万通りもあるのでここでその色を断定する事は出来ないが、グレーなのである。と言うことは紅茶の水色も暗くなる。
ここで私が一番紅茶の水色が判る器はやはり「ボーンチャイナ」だろう。
「ボーンチャイナ」は皆さんご存知だろうが、あえて紹介すると陶器の土の中に牛の骨の灰を入れて焼く、焼き上がりの収縮率が20パーセントを超えるので割れやすく大変難しい器である。さて、紅茶の水色が大変暖かくはっきりと判るのはどのメーカーに限らずこの「ボーンチャイナ」であると思う。その色は温かみのあるアイボリーホワイトなのである。 |
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今、日本では英国庭園流行りであるが、よく観察してみると日本人という人種というのはなぜか-ひとつのものに集中しすぎて周りが見えないでいるようだ、と言うのは花を愛でていろいろと花々を植栽したり、英国庭園とうたわれる場所に観光バスまで設えて行ったりする。観光名所のひとつになっているのである。その英国庭園というもの、はたして観光バスまで設えていくものだろうか?、まっそれは置いておこう、その有名な英国庭園で出されるスコーンや紅茶は首をかしげる物が多い、ここから1時間ぐらいのドライブで行けるローズガーデンなどは自動給湯装置で紙のコップでお茶が出てくる。一般家庭の庭園?も皆さん花に集中して花だけを見ているが、本来その花々を愛でながら、ティータイムを庭で楽しく時間を過ごすという事が抜けているのではないかと思う。
NHKの一般家庭、庭園見学でもそうである。テーブルでインタビューをするのだが、残念ながらその前には茶も菓子もなくただ苦労話を聞かされるだけである。あのテーブルにセッティグされたティーポットとカップ、それにスコーンや手作りのケーキを食しながらいろいろな話が聞けないのだろうか、人間の楽しみのひとつとしてゆとりのと優雅な時間を過ごす、という事つまり綺麗な手作りの庭園の中で是非とも紅茶に限らず、ティータイムを毎日楽しんで欲しいと思う日々は続く。 |
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今では世の中の若者の概念として「紅茶」と言えば自動販売機に並んでいる清涼飲料水としての「紅茶」がイメージとして定着し始めている。さて、この清涼飲料水としての「紅茶」は果たして「紅茶」だろうか?それは否である。飲んで見ても渋味が抜いてあり、さっぱりとした紅茶もどきの液体である。
いろいろな紅茶会社は何故か本来の紅茶の茶葉を売らずして清涼飲料水の紅茶もどきに力を注ぐが理由は利益が茶葉よりも上がるのだろう。しかしこの清涼飲料水はブームというものがあり、中国茶が流行ればいろいろな会社の中国茶に似た清涼飲料水が並ぶ。
さて、このような「紅茶もどき」の紅茶を本来の紅茶と勘違いし、紅茶専門店で提供される紅茶が「異常に渋い」とか「苦くて飲めない」などとクレームがきたりする。
言っておきたいのだが、本来の紅茶はその渋さが美味しさであり、ミルクをたっぷり入れて嗜むものであって清涼飲料水ではないという事。それに清涼飲料水としての紅茶は紅茶として似て異なる物であるという事を言わせて頂きたい。
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「紅茶を飲む環境」はどんな環境でも良いと思うのだが、より落ち着いて紅茶の香り、水色、コクや味を堪能出来る最良の環境というものが存在する。
確かに、英国人は10時になると労働者など道路工事をしている道のかたわらで「茶」を楽しんでいる。いろいろな場所でそれなりに「茶」は楽しめる。それはそれで大変良いと思うが、紅茶を提供する場としては考えてしまう。店の壁にお薦めのメニューが張ってあったり、洗濯物が干してあるのが目に見えたりすると美味しさも半減してしまう。これは紅茶を飲む時にはその人が「日常」から「非日常」へと精神状態が変化する為だと思う。
「一杯の茶」というものはその「日常」から「非日常の世界」へ瞬間的に変えてくれるのだろう。そこで紅茶環境として必要なものとして絵画及び音楽が相乗効果として加えられるのだが、絵画にしてもポスターやカレンダーは心を静めるに関してはあまり効果がない、音響装置にしても音が鳴っていればいいような安いスピーカーから流行のポップスなどが流れていてはこれまた心の落ち着きが半滅する。
人間面白い事に一度入った店の環境を聞いてみるとどこに何が飾ってあったか、何が音楽として流れていたか覚えている人は少ないのだが、潜在的に認識している環境は「落ち着いた空間とか、素敵な空間」といった事の概念でしか感じてはいないのである。
しかしその潜在的な感覚というものは絵や音楽がどうであれ、気持ちの良い空間を認識している。その空間創造の中で飲む「紅茶」は味覚とともに美味しくさせるスパイスである事はまちがいがないと思う。
是非「紅茶」を召し上がる時には庭に咲いた花を一輪飾る、自分に合った静かなCDをかける、あるいは好きな本をゆっくり読む、という事を心がけると「紅茶」の味は格段美味しくなるに違いない。心を落ち着かせて、ゆっくりとした気持ちで召し上がって欲しいと思う。 |
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海外トピックス 紅茶会報より
Tea&coffee Trade Journal November 2005
NEWYORK HI TEA |
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■ニューヨークの水辺で
絶えず鳴り響く自動車のクラクション、お土産の売り上げを増やそうと客の呼び込みに大声をあげる露天商人の声、建設工事の労働者がコンクリートを打ち壊すのに使っているジャックハンマーの耳を劈くような音、これらの騒音が充満する騒々しくてせわしい動きを見せるニューヨークだが、その真ん中にあるリッツカールトン/バタリーパークに一歩足を踏み入れると瞬時にして静穏さに満たされた世界が開ける。
このホテルは2002年1月開業以来ニューヨーク市で唯一豪華な水辺ホテルとなった。自由の女神像が目の前に見られる景観、一部客室には望遠鏡が備えつけられ、更に二つの舞踏室を含め、12000平方メートルもある会議室などの施設を持つホテルの中で、
リッツカールトン/バタリーパークは、ニューヨーク市内で最高と評価される伝統的な英国式ハイティーを提供しているのである。
この英国式ハイティーでは、伝統的なティーメニューの他に特選ティーのメニューからも選ぶことが出来る。
お茶の淹れ方はアメリカ、アジア、イタリア、フランスk方式など、いろいろな居れ方が混じっている。
ここで使われているティーはすべて「テイラーズ オブ ハロゲイト」から仕入れた物でその中にはここのホテル専用のブレンドもある。
リッツは、イングリッシュブレックファースト、アールグレイ、マンゴ、フルーツ・ティー、カモミール、ペパーミント、テイザン、などを含む伝統的なティーを提供しているが、同時に最も珍しいタイプの紅茶も何種類かを提供している。
それらの中に緑茶のインペリアル「ガンパウダー」がある。このお茶については「この丸められた茶葉にお湯を注ぐと、茶葉が爆発するように開いて、優雅で透明な素晴らしく甘いアロマを持った琥珀色の茶液の中にその淡緑色をした茶葉の全形が浮かぶように現れてくる。」との説明がつけられている。
■ティーメニュー
このホテル専用にブレンドされた、ブルーサファイヤアフタヌーンティーはスリランカの茶葉である。
軽くて優雅な香味を特色とするティー、そのフラワリーチャピーオレンジペコのブレンドには青色のヤグルマギクの花弁が少量ながら添加されている。
リッツはまたテイラーズ オブ ハロゲイト社オリジナルのヨークシャーティーを提供しているが、このティーはスリランカ、インド、アフリカなどの品質の高い茶をブレンドしたもので爽快な味を特色としている。この他にハジューアエステートのティッピィアッサムがあるが、このお茶はインド北東部のプラマプトラ渓谷で栽培され、7月から9月にかけてのセカンドフラッシュの時期に摘まれたものである。このブレンドは強く、コクのあるフレーバーと暗赤色の色、素晴らしいアロマを持っている。
リッツカールトン/ばたりーパークのレストランマネージャーであるアレンスミス氏は同ホテルのティーメニューについて次のように語っていた。すなわち「レストランでメニューに沢山の特別料理が掲載されている時には、お客さんとウエイターとの間で多くの会話が交わされるがそれと同様にウエイターたちはお茶についても詳しく説明する容易をしている。しかし、お客さんはお茶の違いを覚えようとしてくれない、そこで茶のタイプやそれらの味の特徴を書いたメニューを用意しておく事は実際に役立つことなのである。という。また、「私達が遭遇したくないと思っていることは、ワインが同じように、美味しいと思わないがそうかと言って別のものを注文するというのも煩わしいと思うようなお茶をお客さんに飲ませることである。私たちはお客さんに選択の当初から正しい決定をしてもらいたいので、手持ちの情報を提供している。と付言していた。
ホテルでは紅茶や単なるカモミールを含め、メニューには伝統的なティーを沢山揃えておきたいと思っているが、スミス氏はウエイターとの打ち合わせや毎月の営業報告によって、どの茶か売れ、どの茶が売れないのかを知る事が出来る。動きの無いお茶を在庫のまま放置しておきたくないというホテルのレストランでは料理は季節により変わるが、お茶は変わらない。しかしながら将来の復活の可能性まで取り上げないという。
中略
■リッツカールトン/バタリーパークはこのティーサービスについてまったく宣伝をしていない。ただリッツはティーと関係している事が知られておりその評判に依存しているという。世界中にティーを提供しないリッツカールトンはないからである。
テイラーズ オブ ハロゲイトの茶を使用していることについて、スミス氏は「自分はその製品も包装も好きだし、いまだかつて茶についての品質の苦情を受けたことがない。品質は常に一定して決してばらつきは無くいつでも手に入るし今までそれを入手するのに問題を覚えた事は一度も無かった。一歩外に出れば15種類ぐらいの高級ブティックティーを探すのは簡単なことかも知れないがリッツカールトンでは売主の間で強い信頼関係を築いており、終始一貫したものが維持されている。
われわれはあらゆるものについて、誰から買うかという事に非常に注意深い」と語っていた。
貴方が生まれてから今日までニューヨークに住んできた人であろうとリッツカールトンのハイティーは伝統的なティーを通じて満足を与えてくれ、本当にお薦めである。
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海外トピックス
Tea&coffee Trade Journal November 1999
■ 1999年7月号掲載記事 /ヨークシャー・ティー |
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TEA and COFFEE Trade Journalより
■ 1999年7月号掲載記事 /ヨークシャー・ティー
Introduction:
1998年3月11日、ロンドン商工会議所では、Bettys and Taylors of Harrogateがロンドンティー・オークション最後の入札を行いました。最後のオークションの前半に、ダージリンのマーガレッツホープ茶園の茶をいくらか購入しており、ジョナサン・ワイルド(Bettys and Taylorsの会長)は最後となる44kgのスリランカ、ヘルボッド茶園の茶を確保するため、Tetleys, Brooke Bond, Twiningsらより、高値をつけました。呆然とするような記録的な高値、1kgあたり_550です。トータルでは、_24,000にもなりました。この売買から生まれた利益は全て、チャリティーへ寄付されました。紅茶取引慈善基金などへです。クリス・ピンフォールド氏(BETTYのバイヤー)はこのように語ります。「Bettys and Taylors of Harrogateは今なお英国に残る、数少ない家族経営の茶商の一つです。ですから、茶貿易の300年以上の歴史の象徴となる茶の入札を行ったことは、本当に正しいことであったと思います。私達は単に、お客様に、歴史の一部分を味わってもらいたく、その思いに抵抗できなかっただけです。これは、非常に素晴らしい色と、実に大きな葉、そして独自の豊かな深みを持った最高のセイロン茶です。」
その翌日、ヨークにある、この会社が運営するティールームでは、お客達は、今まで出されたであろう茶の中で、最も高級な紅茶を、無料で楽しみました。カティ・スクワイアー(Bettysの代弁者)は、こう言います。『これは軽く、素晴らしい花のような芳香のする茶であると私達は聞かされています。しかし、お客様はそのように感じるか、その反応を見ることが必要です。うれしくも、みなさん、大変おいしいとおっしゃってくれました。』彼女は、会社はあの44kg分の茶を、一袋_10で売る予定だと語ってくれました。しかし、残りは後世に残すため、保存しておくということです。
歴史的にも意味のある1チェストのセイロン茶を獲得したことは、この会社にとって、また別のある象徴となりました。この会社は、ヨークの温泉地であるハロゲートで小さなお店から始まり、その後、ティールームをチェーン展開するに至った会社で、そこでは、パンも販売し、また、最高品質の紅茶、コーヒーを数多くそろえ、また、メイルオーダーによるケーキやビスケット、詰め合わせギフトや、ディナーPartyのギフトセット、チョコレート、クリスマス・プディング、紅茶、コーヒー、それを飲むためのセット、その他多くのギフトを世界中に販売し、成功をおさめているのです。
フレデリック・ベルモントの発想:
物語は、世紀が変わる頃、フレデリック・ベルモントがスイスアルプスにある家を出、菓子職人として、パリへ列車で向かったときに始まります。自分のビジネスを始めるという、夢に駆られ、彼は海峡を越え、南岸のイースロボーン或いはボーンマウスへ定住する予定で、イギリスへ渡りました。しかしながら、彼は一言も英語を話すことが出来なかったため、彼はまったく間違った駅から、まったく間違った列車乗ってしまい、その数時間後に、(驚愕して)自分がヨークシャーに居ることに気づいたのです。彼が予定していた場所から、はるか北の土地でした。しかし、ゴツゴツした丘、うねりのある田舎景色、澄んだ空気、これらが、彼の故郷スイスを連想させ、彼は、この地に住むことに決めます。
ベルモントは1919年に、最初のBettysカフェ・ティールームを開店しました。しかし、このBettyとはいったい誰なのでしょうか?真実が明かされることは決してないでしょうが、何年もの間に、いくつかの逸話がうまれました。ちょっとセンチメンタルな物語、医者の娘であったベティ、彼女は肺結核で亡くなってしまいました。その父の開業所、ハロゲートのケンブリッジクレッセントが、のちに、最初のベティのカフェ・ティールームになった、というお話です。また、別の説では、女王の母、エリザベス・ボウズ・リオンは世紀が変わる頃に生まれ、彼女がこのネーミングの由来だろうといわれています。多くの人々は、ベティ・ラプトン、“ハロゲート・ウェルズの女王”がベティの元祖である、またその一方では、このカフェの名前は、その当時有名であったミュージカルショウにちなんだものであるとも言われています。しかし、最も真実に近いと思われる説は、フェデリック・ベルモントの遠い親戚であった、少女、ベティ・ローズ。彼女は、最初の重役会議の通訳をし、会社は彼女の名をカフェにつけたのだといわれています。しかし、本当のベティについての秘密は、家族の中にしまわれており、また、カフェのメニューにはこのように書かれています。『たくさんの逸話や説が生まれていますが、神秘なものは、明かされない方が、よりいいのです。』
フェデリック・ベルモントの社交的で、温かみある人柄は、王室の愛顧と地元の人々の賞賛を得ました。1922年、新たにパン屋が建てられ、そこには、果樹園が併設されており、ベティ−のケーキやチョコレート、パンなどの売れ行き増大に寄与しました。『ヨークシャー・イブニング・ポスト』は次のように書きました。『大変素晴らしいケーキがあるのだが、その名前を説明するのに、通訳を雇わなければならない、Bouton dユOrs, Batenbergs, Ganache Meringues などなど。もしあなたが、このベティへ行って、バンを注文したとしたら、彼らはきっと警察を呼ぶでしょう。』
このカフェ・ティールームは1920年代に、瞬く間に広がり、その客層は、ヨーロッパからの“スマート・セット”と呼ばれる人々で、彼らは定期的にハロゲートへ水を取りに尋ねて来、その午後をベティで過ごしたのでした。アフタヌーンティーも、優美なケーキや上等のルーズリーフティーと共に出され、ロンドンでも、最も洗練されたホールから選ばれた、四重奏者の伴奏が、その華を添えました。1929年代30年代を通して、さらにカフェが、他のヨークシャーの町にオープンしました。しかし、ヨークの店が、この会社の一番重要な店でした。
名を馳せたヨークの店:
ヨークのベティの店でお茶を飲む人は誰もが、その優雅なアール・デコの様式に、心を奪われずにはいられませんでした。1930年代の代表的なデザイン、世界でも最も有名な汽船の一つ、“クウィーン・マリー”、発明、スピード、洗練などの、新しい時代を象徴していた船、これに影響を受けたデザインです。クナードの代表として作られ、1936年3月27日の、処女航海の準備が整っていた船。最初の乗客200名の中には、フェデリック・ベルモントと彼の妻クレアも含まれており、大成功を収めていたカフェの仕事のため、ほとんど取ることの出来なかった休暇を、大いに楽しむことになっていました。ベルモントはその船のデザインに、大変感銘を受けまたのです。最先端のデザイナーによる設計、著名な芸術家による絵画や彫刻に飾られ、50種を越す木によって作られたパネルや柱など。彼は、ニューヨークに上陸するまでに、すでに、彼の中の大いなる計画は始まっていたのです。彼は、ヨークの中心地、セント・ヘレナズ・広場に、カフェを作ることを決心していました。そしてそれは、クウィーン・マリーのエレガントさとスタイルを併せ持ったものにすることに決めたのです。
ヨークにはすでに多くのカフェやティールームがあり、ベルモントが選んだ建物は、荒れ果てた家具屋で、大変な修復作業が必要でした。にもかかわらず、彼は、その新しいカフェを今までで一番のものすると決め、費用は惜しみませんでした。ロンドン一の大工がヨークに招かれ、ベルモントがクウィーン・マリーで憧れた、木のパネルと柱を作りました。そして、1937年6月1日、(ちょうど、ベルモントがクウィーン・マリーがら降り立ってから1年後)、4階建てのお店がオープンしました。その店には、地下にオークルームがあり、店とカウンターが一階に、二階にはベルモントの部屋、そして最上階にはボール・ルームがありました。
ベルモントの甥、ヴィクター・ワイルドは、その開店当時14歳で、そのときのことを次のように覚えています。『それは大変豪華なものでした。みんな正装し、ロンドン市長や市の高官は、金の鎖を身につけていました。パーティーがボール・ルームで行なわれ、お昼であったにもかかわらず、クリスタルのシャンデリアや、やわらかな光のドーム型天井、サテンのカーテンなどの美しさを引き立たせるために、ヴェネチア風のブラインドがおろされていました。シャンペンやスピーチ、拍手喝さいやざわめき、そして輝かんばかりの優雅な人々に溢れていました。
1940年代以降:
大戦中は、ベティ−にとって様々な出来事のあったときでした。ヨークの店では、焼夷弾が屋根を突き破りましたが、地元の消防士によって、建物は守られました。
ベティ−のメニューも、戦争を反映していました。配給制度のおかげで、人々は変わったメニューを楽しみました。フィッシュケーキやコーン入りビーフハッシュなどです。ヨークティールームの地下のオークルームには、大変大きな鏡があります。(残念なことに、空襲によって被害を受けてしまいましたが。)その鏡には、戦争中ベティで紅茶やコーヒーを飲んだ、600人近くのアメリカやカナダの戦士の名前が彫られており、彼らは、危険な戦場へ出発する前に、こうして鏡に名前を彫ったのです。 1960年70年は、会社にとって、とても躍進的な時期でした。1962年、ベティはコーヒー紅茶会社を、ライバル社であったTaylorから買い取りました。今日、このTaylors of Harrogateは、ベティへ選び抜かれた紅茶やコーヒーを卸し、繁栄しています。
Taylors of Harrogateは1886年にチャールズ・テイラーによって設立されました。彼は、ロンドンの紅茶会社の間に立つエージェント時代、紅茶取引の経験の富みを得たのです。彼は、多くの水の違いに気づき、そしてそれが紅茶の出かたに深くかかわっており、その土地にあったブレンドをすることが最も重要であると、気づきました。ベティがカフェの運営に専念していた一方で、テイラーは土地の水にあったブレンドを作り上げることに、決意しました。ここから、英国でもトップ銘柄である、“ヨークシャー・ティー”が生まれ、この銘柄は現在、毎日8万カップも飲まれています。
1980年代90年代はベティが注目され、賞賛を集めた時期でした。ベティが様々な栄誉ある賞、最優秀ティープレイス、最優秀菓子&ベーカリー、全国トレイニング賞、カイトマーク(英国標準企画協会)投資家賞などを受賞したのです。そして、ベティが創作焼き菓子賞を受賞した際には、400種以上もの菓子が、伝統的な手作り法で作られました。毎日、ケーキ、ビスケット、チョコレート、パンなどが、目を引くベティのトラックで、ヨークシャー全域の店に出荷されました。パン職人が、伝統的なヨークシャーのパンや大陸風のパンなどを作り、その一方で、菓子職人が、フルーツケーキ、マフィン、スコーン、ビスケット、メレンゲ、ヴァニラスライス、塩味のものなどを作りました。
ベティとテイラーは、フェデリック・ベルモットの子孫が経営しており、スイスの影響が色濃く残っており、スイスのLUCERNEには菓子学校であるリシェモンカレッジがあります。今日では、Harrogate, York, Ilkley, Northallertonなどにカフェティールームがあり、また、テイラーのティールームも、ヨークのべティーの店からすぐのところにあります。
1990年、Taylors of Harrogateは世界中に1万本の木を植えると、約束しました。会社は、ゴールへの道を順調に進んでおり、環境保護団体の、OXFAM, World Vision, 英国自然保護基金、ナショナルトラスト、などの援助を受けていました。ヨークシャーティーを愛飲している人々のおかげで、茶やコーヒー生産国である、エチオピア、インドネシア、インドなどの国、そして英国に、木が植えられました。毎年、この会社は_1000,000を森林保護団体などへ寄付しています。Taylorsは常に、自らが持つ地域への責任を認識し、毎年、従業員達はその次の12ヶ月間、支援したい団体の投票をするのです。多硬化症協会、スターライト子供組織、地元の病院やホスピスなどが過去に選ばれました。毎年、会社は約_30,000の寄付を選ばれた基金へしています。
慈善活動に付け加えて、Taylorsは地元の小学校、中学校、特別学校、大学などに専門技術を提供し、役立てています。小さい子供用には、バン工場のツアーを企画し、パンやお菓子が実際に作られる様子を、見ることが出来るよう、そして、食べられるようにしています。
また、地域のスポーツ活性化に関しては、ヨークシャー・クリケット・クラブのスポンサーとなりました。ヨークシャーティーは、2000年の終わりまで、このクラブの正式スポンサーなのです。
ベティーは、今日、その大変独創的な組み合わせ、伝統的なものと大陸風のもの、で、とても有名です。そしてまた、その、素晴らしい紅茶とコーヒーとでもです。彼らは、自分達の成功は次のことを最も重要だと考えていたからだといいます。「もし、私たちが、正しく適切にしたいのなら、自分たちでしなければならないということである。」
お客たちはとてもはっきりと、その品質を見極め、そこからまた、いくつかの記憶に残る言葉が生まれてきました。
『ヨークシャーには、いくつものカフェがあるが、ベティほど、ケーキやティーブレドが夢で溢れたカフェは他にありません。』
私と友人は、ベティが何か、がっかりさせるようなものを出すことがあるのか、確かめようとチャレンジしました。しかし、そのヨークシャー滞在中、私たちは、そこに日に何度も食事を取ることになったに過ぎませんでした。専門家は、ベティは完全なティールームの形に最も近い、と認めています。
『ベティを訪れることは、あなたの英国を呼び起こします。そこに座り、窓の外を眺めると、あなたは、赤いツリウキ草、白のペチュニア、青のロべリアのハンギングバスケット越しに、人生を(生命を)見つめることが出来るでしょう。この花たちは、世界を色づかせ、クリームティーを頂いた後に外へ出てみれば、全ての刺々しさがほんの間、和らぎ、薄れていくでしょう。そして、古き良き日の英国の美が、豊かにとけあい、洗練された華麗さとなって、そして、様々に調和し、あなたの元に戻ってくるでしょう。それは、もう二度と戻らないと思われていたものなのです。』
ヨークシャーゴールドヨークシャーゴールド |
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