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永田死刑囚死亡:先鋭化、闘争の果て…「総括」同志ら殺害

永田洋子死刑囚=共同
永田洋子死刑囚=共同
浅間山荘に対する強行偵察で、山荘の谷側から近づく機動隊の装甲車。撃ち込まれた催涙ガスの煙が山荘を包む=長野県軽井沢町で1972年2月19日撮影
浅間山荘に対する強行偵察で、山荘の谷側から近づく機動隊の装甲車。撃ち込まれた催涙ガスの煙が山荘を包む=長野県軽井沢町で1972年2月19日撮影

 先鋭化した武力闘争で71~72年に起きた一連の連合赤軍事件の指導者、永田洋子死刑囚(65)が5日、静かに息を引き取った。銃と暴力で血塗られた革命思想は「総括」と称して仲間を死に追いやり、あさま山荘での壮絶な銃撃戦で途絶えた。事件から40年。かつての最高幹部の死は一つの時代の終わりを告げた。

 群馬県の榛名山や迦葉山の山岳アジトなどで12人の同志の命を奪った「山岳アジト事件」(71年12月~72年2月)。永田死刑囚は同志の指導者として次々とメンバーに「総括」の名の下に自己批判を迫った。総括はエスカレートし、他のメンバーに「総括援助」と称して暴力を加えさせるようになった。

 取り囲んで殴打し、緊縛して極寒の山中に放置した。死亡すると穴に埋めた。兄弟でアジトに潜伏した同志もおり、弟は兄を泣きながら殴った。妊娠8カ月で暴行を加えられて死亡した女性もいた。

 13人の殺人罪、1人の傷害致死罪に問われた。1審公判で非を認め、反省を口にしたものの、証人尋問で当事者を前に大声で笑い、判決では「人命蔑視の精神を表すものとして見逃すことができない」と指摘された。2審では「武装闘争は今後も起こる。連合赤軍の武装闘争の経験の総括も、今後の闘争に生かさなければならない」とも語っていた。

 裁判では「自分一人の責任ではない」と、元被告(獄中自殺)に責任をかぶせたが、82年には獄中で「十六の墓標」を出版し、革命家としての自身の半生を詳細につづった。獄中からの作品発表は多く、モデルにした映画も公開された。

 一方で、84年には控訴審公判中に椅子から滑り落ちて倒れるなど、脳腫瘍の症状が表れた。93年には「腫瘍の治療が行われていない」として、病院への移送と、国と手術した病院に慰謝料を求める訴訟も起こしていた。【石川淳一】

毎日新聞 2011年2月6日 2時31分(最終更新 2月6日 12時54分)

 

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