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恋愛シナリオ
携帯の画面に西日が差し込み反射してメールの文字が見えなくなった。校門に背もたれていた私は軽く舌打ちをして携帯を閉じ、顔を上げると、校舎は夕焼けで赤く染まっていた。
時計塔を確認する。もう少し待たねばならない。まだ家に帰る時間ではない。ホッと胸を撫で下ろした時、吹奏楽部がG線上のアリアを演奏し始めた。
二階の音楽室から荘厳なメロディーが学校を包み込む。都内屈指の実力だけあって音に歪みがない。澄んでいる。
私は顔を顰めた。何故こんな悲しい曲をこんな寂しくなる時刻にいつも演奏するのだろう。人を悲しくさせる為に生まれて来たようなアリアの旋律を私は憎んだ。この曲を聞くといつも死にたくなる。土足で心の奥深くに踏み込まれ、陵辱された感覚に苛まれる。
吹奏楽部が毎日最後の音合わせに演奏する楽曲アリアは、学校中の生徒へ部活の終了を知らせる時報でもある。演奏が終わって暫くすると沢山の生徒が下校を始め、私の前を通り過ぎて行く。
中学生のように……いや見栄はよそう。小学生のように小柄な私の姿が珍しいのか自然と注目が集まる。大人っぽく見せる為に髪を脱色して軽く茶髪にしてみたが、まるで効果がないようだ。化粧をすればこの童顔も少しは大人びて見えるのだが、それでは学校に来れない。
俯いて彼らの視線を逸らし、やり過ごして、そして下校する生徒も疎らになった頃「ゴメン! 遅くなって」と息を切らせ俊夫が駆けつけて来た。
「待っただろ?」
ハァハァと中腰になって息を整え微笑んだ俊夫は、少しおどけて手を合わせ、私に謝った。
「いいよ、気にしないで、君を待つの好きだから」と、私は答えたが、本当のところは『いいよ、気にしないで、もっと遅くていいのに』だった。
そもそも君でなくても誰でもいいの。家に帰るのを遅らせる理由が出来ればそれでOK。家に帰えるのが嫌だから街で時間を潰すってのはリアル過ぎて駄目。いつか本当に自殺してしまう。だから君を待つって理由で時間を潰してるだけなの。利用してゴメンね俊夫君。だから君は私に謝らなくていいんだよ。幼馴染の俊夫と一緒に家に帰るのは小学校や中学校の時から続いてることで、それが高校生になっても続いてるだけ、それだけのことなんだ。
勿論、そんな言葉が私の口から出ることはなかった。
好きだからって私の言葉に照れたのか、俊夫は少し顔を赤らめて「そ、そう」と嬉しそうに返事をした。
綺麗だなとそんな彼を見て思う。顔が整ってるし、身嗜みも完璧で清潔感はあるし、声は澄んで落ち着いてるし、身長だって高いし、何より自分のように心が歪んでない。
でも私は好きという感情を彼に対して持てなかった。持ちたくなかった。
私は恋愛を意識し始める年齢になると、自分の心を覗かれることを酷く怖れるようになった。心の美しい人なら相手に知られる程、関係が深まり愛が生まれるのだろうけど、私のように心の穢れた人は相手に知られる程、嫌われてしまうだけではないか。
自分を変えればいいとポジティブに考え実行しようとしたこともあった。でも駄目だった。どう変わろうとしても心の奥底で、それはお前ではなく偽りの自分だという声が聞こえた。
確かにそうだ。私は恋愛なんて出来るような人間ではない。彼が本当の私を知れば幼馴染の関係すら壊れると思う。一人は寂し過ぎる。俊夫にはいつまでも私に都合の良い友達でいて欲しい……。
だから私は今まで一度も彼に何かを頼んだことがなかった。何かを頼めば何かを頼まれることもある。少しずつ距離が縮まってしまう。
でも今日はどうしても彼にお願いしたいことがあった。
「待つのはいいんだけど……。ねぇ、俊夫って吹奏楽部の部長だよね?」
「うん、他の部員より上手いって訳でもないのに、何故か投票で選ばれちゃったんだよ」
そう言って少し照れる俊夫。ルックス良し、性格良しの彼は吹奏楽部の女子全員から好かれているに違いない。吹奏楽は殆どが女子部員なので投票で部長が決まるなら俊夫になるのは当然といえば当然のことだと思う。
「最後の演奏、いつもの曲、アリアだっけ、あれって俊夫の選曲なの?」
「あれは顧問の先生、アニメオタクなんだよ。あの曲が流れるアニメが好きで、だから最後に演奏させるんだ」
自分の好みしか興味を示さず、他人に好みを無理に押し付けるのがオタクというもので、私はそういうタイプの人間を、よーく知っていた。だからもう自分の希望が叶えられないだろうことは薄々分かったが、一応最後まで話してみることにした。
「俊夫、お願いがあるんだけど」
「うん? 何?」
「先生に言ってあの曲を別のに変えて貰えないかな? 毎日、最後はあの曲ってどうかなと思うんだ、他の曲も聞きたいなって」
俊夫は長い間思案をめぐらせていたが「実は以前、吹奏楽の音を合わせるのに不向きな選曲なので変えようって意見が部員の中から出たことがあったんだけど、先生がね……。明日お願いしてみるけど無理だろうな……」と申し訳なさそうに言った。
期待はしてなかったが、私は落胆した。明日も明後日もズッとあの悲しい曲を夕刻に聴かねばならないのかと思うと憂鬱になった。
でも今、こんな気分だと今日一日が持たない。
「そっか、ううん、気にしないで、何となく思っただけだから」
私はそう言って早々に別の話題に切り替えることにした。それからは他愛のない話を沢山して、俊夫から沢山元気を貰って、そしていつもの分かれ道で彼と分かれた。
俊夫と別れると私の足取りは途端に重くなった。高々と聳え立つ自宅の高級マンションの前まで来ると吐き気がしてくる。なんとか我慢して居住者カードをスキャナに通して暗証番号の誕生日を入力した。何故、私は生まれて来たのだろう……。
エレベーターで五階に上がり部屋のドアを開けると母が鬼の形相で立っていた。いつものように派手な化粧と衣装、キツイ香水、TVドラマに出てくるヤクザの情婦そのままの姿で、実際、母はヤクザの女房だった。
それも抗争相手の組の幹部を殺して四年前から服役しているヤクザの女房で
つまり、私は
人殺しの子だった。
「アンタねぇ、今日は七時からハイクラスの予定が入ってるから早く帰れって言ったでしょ? 今何時だと思ってるのよ!」
いつもの甲高くヒステリックな声で母は私を怒鳴りつけた。
「ごめんな、さい……お母……さん」
上手く喋れなかった。母が怖かった。
殴られると思って身を引き締めようとしたが、体が竦んで動かなかった。
母はそんな私の情けない姿に呆れたのか、半笑いになって「化粧はいいから早く着替えて、ヒルトンの1514、これからタクシー呼ぶから。あとアンタ、薬が残り少ないって言ってたから新しいの貰って来たよ。出来ちゃったら後が面倒だからさぁ、ちゃんと毎日飲みなよ」と言ってピルの錠剤が入った箱を私に渡した。
私は箱の中から今日の分の錠剤を取り出して口に含んで台所へ行き、冷蔵庫から牛乳を取り出して紙パックのままゴクゴクと喉の奥へと流し込んだ。
現役女子高生の私を母は安売りしなかった。とはいえ一晩500万は金持ちの道楽のレベルを超えている。相場の百倍以上だ。でも多くのハイソが自分達の見栄や度量を示す為、そして話のネタにする為に私を買っていった。
売春はもう何年も続いて、慣れてしまった。
ただ今夜は少し不安だった。
上流しかいない客の中で母がわざわざハイクラスと言ったのだ。名の知れた実業家や芸能人が相手でも母はそんな言葉を今まで使ったことがなかった。もしかしたら組関係の人なのだろうか。
私が稼いだ金の全ては母へ渡り、その金の殆どが父のいた組へと流れる。母は父が出所した時の為に組の若頭に金を渡していた。
組長に心酔していた父は鉄砲玉になることを自ら志願したそうだが、組の為に人を殺しても今の時代、幹部にはなれない。暴力に対する報酬を取り締まる法律が出来た。だから新しく組を作る。組に金を渡してシマを切り取りして貰う。その為にはもっと金が必要だったし、人脈も必要だった。
私は今までヤクザに抱かれたことはなかった。覚せい剤を打たれるのが怖かったし、なにより母のような人間になりたくなかった。
以前、ヤクザを相手にするよう母に言われた時、それだけは嫌だと半狂乱に泣いて断った。私が自殺をするとでも思ったのか、それとも薬物注射で腕に傷の付いた娘は商品価値が下がるとも思ったのか、その両方なのか、私には分からないが、その時は、母は別の少女を私の替え玉にしてくれた。
しかしヤクザにもピンからキリまである。広域組織の上層との繋がりが出来るなら母は喜んで私を差し出すだろう。そしてもうそれでもいいと私は思っている。もう疲れた。少しでも楽になるなら麻薬でも自殺でも、何をやってもいいじゃないか。
でもそんな私の杞憂は外れる。私がヒルトン1514の部屋のドアをノックして、それに答えて、どうぞとドアを開けたのは上半身裸で刺青のヤクザではなく、とても優しそうな目をした紳士だったのだ。
シックなグレーの高級スーツに身を包み葉巻を銜えている。部屋へ通される時、すれ違った男のスーツからは香水をふり掛けているのか清々しい香りがして心が静まった。男はパタンと静かにドアを閉め、奥のソファーに座りなさいと、私に言った。
クリスタルのテーブルを挟んで、男と私がソファーに座って相対する。
男は新しい葉巻をシガーケースから取り出し、パチンと奇妙な挟みで葉巻の端を切ると、シルバーのライターを胸から取り出し火を付け葉巻を口元へ近づけ、そしてようやく対面に座る私の顔を見た。
すると男はとても驚いた表情をして、火を付けたばかりの葉巻を灰皿に置き、マジマジと私の顔を眺め始めた。
なんなのだ……。
そういえば私は今日、化粧をして来なかった。自分のことは不細工ではないと思うが、しかし期待外れだったのだろうかと申し訳ない気持ちになった。
たまにだが、ガッカリだよとズケズケと言う客もいる(そうは言っても全員、私を抱いた)そりゃそうだと思う。一晩で500万円なんて馬鹿げた金額に吊り合うとは自分でも思っていない。
何分過ぎただろう。
男は私が戸惑ってることにようやく気付き、そして「いや失敬。君は私の娘に似ている。似すぎている。まるで生き写しだ」などと言い始めた。
いきなりこの男は何を言い出すのだろうか。私の思考は暫く停止したが、あぁ、つまりコイツは父娘プレイというのをご所望でプレイは既に始まっているのだと、ようやく気付いた。
なかなかこの真面目そうな親父も好き者のようだ。娘が本当にいるかどうかは分からないが、つまりは血の繋がり要素を含んだロリコンなのだ。
『平気です、大丈夫です、以前、中年のオタク野郎にアニメを二時間みせられ台詞を覚え、自分の声をヒロインの声色に近づけるボイストレーニングを三時間もやらされてから行為に及んだこともあるのです。だから娘好きの変態といっても気にすることはないです。私、頑張って完璧に演じますわ』
そう言いたくなったが、言ってしまえば興が覚めてしまう。
取り合えず『お父さん』と言ってみようかと、そう思った時、男は嗚咽を漏らして「すまん、娘は7年前に、丁度、君くらいの年に癌で死んでしまったんだ」と言った。
ややこしいことになった。
それから暫く男の嗚咽が続いた。こんな年配の男性がここまで悲しみ、泣く姿を私は見たことがなかった。演技なのか本当のことなのか分からなくなって、私はどうしたら良いのか分からず、ただ無言で男の背中を擦ってあげた。
暫くして少し落ち着いた男は「すまなかった、お嬢さん夕食はまだかい? 私は泣いたからか、お腹がペコペコなんだ。ご一緒して頂けるかな?」と私をヒルトン最上階のレストラン月光へと誘った。
今、私は夜景を眺め、男と共に食事をしている。
店内のBGMは平均律第1巻第1番のプレリュード。
東京には星がないが人々の暮らしの明かりが星の代わりとなる。つまり金を出さないと星すら見えない。私は改めてお金の大切さを実感した。
体を売った金は母へ振り込まれるが、たまにお客がお小遣いをくれることがある。それをコツコツと貯めてもう200万くらいにはなった。今は未成年で部屋を借りれず、職も満足に見つけられないが、高校を出たらこの金で誰も自分を知らない何処か遠くの街へ行って、そこで部屋を借りて真面目に生きようと思う。
それが私の夢であり、生きる希望だった。
何かになりたいという夢ではない。両親のようにはなりたくはない、ただそれだけだった。結婚もしたくない。子供なんて絶対に欲しくなかった。
私は小さい頃から両親に虐待され続けた。
TVで心理学の教授が「幼い頃に虐待を受けた子は自分が親になった時、自分の子に虐待をするケースが多い。虐待は負の連鎖をするのです」と話しているのを聞いた私は、その場で吐いた。
絶対に両親のような生き方はしない。虐待なんて絶対にしない。
しかしどうだろう。今の生活は……。
もしかしたら母も若い頃は、私と同じように体を売る仕事をし、今の私と同じように親のようにはなりたくないと考えていたのかも知れない……。
あぁ、ウンザリする……。
「どうかね、ここの料理は不味いだろ?」
「えっ! いえ、あの、その、えぇ……まぁ……」
いつもの憂鬱な思考に耽っていた私は男から急に話し掛けられ吃驚してしまった。
料理なんて味わいもせずに口に運んでいたが、でも確かにそう言われればこのスープは不味いと思う。
味付けは悪くない、香りも悪くない、温度も悪くない、ただ何か欠けてるような……何だろう……。いや、ていうか何で、わざわざ不味いと思うレストランへ招待するんだ、爺!
「高い値段で美味しい料理を出す店ならどこにでもあるが、高い値段で不味い料理を出すところはそうないものだ」
それは私への皮肉かとムッとすると男は「私の娘がね、ここから見える夜景が好きでね……」と言い出すので口に含んだスープを噴出しそうになった。
そうか、まだ父娘プレイが続いてたのか。やはり本当の話だったのか。
死んだということであれば、この方の娘さんを演じるのは冒涜となるだろう。しかしこの男は、娘と来たレストランに私を連れてきた。それは娘さんと、私を重ねているということだ。
つまり私は不完全にこの人の娘さんのように接しなければならない。
それは凄く面倒なことに思えた。半分自分で半分彼の娘になる。素の自分も出さなければならない。見せ掛けの人格を望んでるのではなく、ある面は本物であらねばならない。
面倒臭い。でも金を貰ってる。それもかなりの大金なんだろう。仕方ない、やるか。
私は取り合えず爺の娘さんについて会話を広げ、それを糸口にして彼女の人格をある程度掴み、表面上は彼女風の人格を偽装して、話の程度によって素の自分を出すという戦術を練ってみた。
そして考えを纏めた私が『お嬢様、ロマンティストでしたのね、小父様』と切り出して男への橋頭堡を築こうとしたとき
「私の格好悪いところを見せたんだ、君のカッコ悪いところも見せてくれないか。話してくれ、君のことを」と、男が言い出して、私の出端を挫いた。
何百万も払って、私のことを知りたいのかコイツ。折角、私は娘さんと似た容姿なのだ、娘と一緒にいるかのような甘美な錯覚に酔えば良いのだ。昔を懐かしむもよし、背徳の関係を望むもよし、色々と楽しめるだろうに。
私は少しガッカリした。私の素性を知りたいという客は過去に何人もいたが、その全てが例外なく下らない人間だった。
説教をして優越感に浸ろうとする輩、自分の素性も話して情を交わした気になりセックスの快楽をより引き出そうとする輩、まぁ、この男の目的は分からないが、私は客にこう聞かれた時の為に用意した想定問答を思い出し、答えた。
この答えに嘘は混って無い。ハイソは変態で性格の悪い奴が大半だが馬鹿ではない。嘘はたちまち感づかれてしまう。30分掛けて自分の身の上を話終えると、暫く男は真顔で何かを考え、そして携帯を取り出して「今日は外で泊まるから、家には帰れない」と何処かの誰かと話をした。
なんだやっぱり抱くのかと、私はまた少しガッカリした。
部屋に戻ると男は先にシャワーを浴びた。私も一緒に入るのかと思ったら、後で入りなさいとのことだった。暇なんでバッグから携帯と避妊具を取り出す。
ピルを飲んでるが、それだけで完全に避妊出来る訳でもないし、病気になる恐れもある。しかし男性用の避妊具は相手が付けてくれないかも知れない。この売春は金額が異常に高いのでノーマルな行為で終わることは少ない。
だから私は女性用の避妊具をシャワーの後にコッソリと付けることにしている。しかしこれでは避妊は出来ても病気は防げない。でも、それでもいいやと思う。自分はもうどうでもいい。相手が病気になるリスクを考えずに私を求めるなら、私もリスクを考えることなく相手を受け止めようと思う。
携帯を弄ってると男がバスルームから出てきた。白いガウンを着ている。続いて私が入ろうとすると「今日中に仕上げたい仕事が少しあるんだ。君はシャワーを浴びたらベッドに入って待っててくれ、眠くなったら寝ていい」と言って奥の部屋へと消えていった。
男に言われた通り、シャワーを浴びて、髪を乾かし、避妊具を付け、裸でベッドに入って待っていたが、何時間経っても男は奥の部屋から出て来なかった。
夜中の0時を過ぎると私は寝てしまった。
頬にチクチクする感触に目が覚める。背中から男に抱きしめられ頬に男の口髭が当たっていた。背中に密着した男の体が暖かい。お尻に男のペニスが当たっている。どうやらまだ勃起していないようだ。
何時なのだろう。部屋は真っ暗で、闇しか見えない。
暫くして「恵美……」と男が言って嗚咽し始めた。
じっとしていようと思ったが背中を抱きしめるのは悲しすぎる。ゆっくりと身を捻って私も男を抱きしめた。黙ってお互いを抱きしめ合い、そして暫くすると男の嗚咽が寝息に変わった。
恵美お嬢さんの夢を見れればいいなと思う。でも私は何の夢を見ればいいのだろう。男の髪の毛を撫でながら、ここまで親に愛される恵美さんに少し嫉妬した。
翌朝、男は部屋に居なかった。メモが置いてあった。
『仕事があるので帰ります。可愛い寝顔の貴方を起こせなかった。ありがとう』
私は顔が赤くなった。
何なのだろうこの感覚、まさかあんなのに? そんな馬鹿なと思う。そもそも彼が愛してるのは私じゃなく恵美さんだ、そしてその愛は彼の死んだ娘への親としての愛情だ。
なんでそんな……と考えてみたら、なんのことはない簡単なことだった。簡単過ぎて涙がポロポロと零れ落ちた。そうか、そういえば私はまだ一度も親に愛して貰ったことがないじゃないか。彼の娘への、私への愛情ではない偽りの愛情が、私にとって初めて感じることが出来た親の愛なんだ。
自分が余りにも惨めに思えた。
彼と抱きしめ合った時に感じた幸福感が頭の中に焼付いて離れない。多分、一生忘れることはないだろう。まるで麻薬じゃないかと思った。
それから数日後の朝、俊夫と一緒に学校へ登校して昇降口で別れ、教室に入るとクラスメイト達は妙に余所余所しく、私の方をチラチラと見た。訳が分からず席に着くと隣の小沢さんに「ちょっと、アンタ大変なことになってるよ、コレ、25ページ」と声を掛けられ週刊誌を手渡された。
ペラペラとその雑誌を捲ると、日本最高価格の超絶美の援助交際少女とか、弊社は売春価格世界一をギネス社に申請したとか下らない記事が続き、最後に目の部分に薄く黒い斜線の入った写真が載っていた。私を知ってる人が見れば一目瞭然だろう。
「アンタが売春をしていると騒いでた生徒がいてさ、そいつが持ってた雑誌なんだよ。だから取り上げたんだけど、噂はもう学校中に広まってる」
私は小沢さんとは余り話もしたことが無かった。雑誌のことよりクラスで人気者の彼女が私なんかの為に何かをしてくれたことの方が驚きだった。
「そっか……ありがとう小沢さん」
礼を言って雑誌を返そうとすると「いやいいよ、捨てときなよ」と言って、彼女は少し赤くなって小声で「私もさ、昔、エンコーしててビデオ撮られたことあるんだ。隠し撮りでさ、今でもネットにあるんだ。自分の顔は出さない癖に私の顔は隠さずに……そういう卑怯者が許せないんだよ」と私に囁いた。
「アイツの名前や住所が分かったらボッコボコにしてやるんだけど、よく分かんないし……アンタどうなの? 知ってる奴なの?」
どうだろう、そういえば一ヶ月程前、携帯で何枚か寝顔を撮った客がいたことを思い出した。消すように頼んで、メモリの削除を確認したつもりだったが、もっと注意すべきだったと後悔する。
今日帰れば母にこの件について相手の名を聞かれるに違いない。私は母に逆らえない。喋るだろう。そうなったらあの客がどうなるのか容易に想像が付いた。
客の中ではまだ若く30前後、人懐っこい笑顔の可愛い人だった。あの人は私に嘘を付いた卑怯者なのかも知れないが、根っからの悪人ではないと思う。まだまだやり残したこともあるだろう。
父だけでなく母も殺人なんか何とも思わない。今までに組員を使って自殺に見せかけ殺した人の数は……いや、もうこれ以上考えるのはよそう。頭がオカシクなりそうだ。
ホームルームが終わると私は担任に呼ばれ、校長室へ連れて行かれた。
私のクラスを担任しているのは教職に就いてまだ数年の若い女性で、彼女はいつも明るくハキハキとして、お喋りで、クラスの生徒から人気の先生だったが、今は緊張した面持ちで校長室に入るまで一言も喋らなかったし、私の顔を見ることもなかった。
彼女はドアをノックし私を先に部屋へ入れた。薄暗い部屋の中に、学年主任と教頭、その真ん中に校長が座って、全員冷ややかな目で私を見下していた。耐えられず私が視線を横に逸らすと、壁には歴代校長の写真がズラリと並んでいた。誰も彼もが私を蔑視しているように感じた。
暫くして学年主任が前に出てきて、手に持っていた雑誌をバサリと机に投げ置いた。
「これだが、お前はもう読んだのか?」
さっき私が読んだのと同じ表紙の雑誌だった。
「読みました」
「単刀直入に聞くがこれはお前に間違いないか?」
「はい」と答えると、教師達は皆絶句した。校長は頭を抱えた。
「き、君は一体生徒にどういう指導をしているんだ! 売春など……」
教頭が私にではなく、私の隣で真っ青な顔をしている担任に叱責を始めると「ちょっと待て!」と、校長が叫んで教頭の言葉を遮り、そして席を立ち、机の雑誌を持って、私の方へゆっくりと歩み寄って来た。
「森澤優子さんだったね」
「……はい」
校長は私の写真が載っているページまでペラペラと雑誌を捲って、何度も写真と私の顔を見比べ、そして雑誌を私の目の前へ突き付けた。
「森澤さん、この写真よーく見てね。これ君に似てはいるけど、私にはちょっと違うような気がするんだが……どうかね?」
「……」
「私はね、この学園にそんなことをする生徒がいないと信じてる。都内有数の進学校で去年は東大に30人も合格してる。君の成績もさっき見せて貰ったが実に素晴らしい。このまま行けば東大も合格圏内だ」
「……」
「でも退学したら受験出来ない。輝ける希望に満ちた将来はパーだ! 何もかもパー」
「……いえ、私、進学するつもりない……です……」
その私の言葉を聞いて校長は教頭へ振り返り「この子、ちょっと疲れてるみたいだ」と言うと、教頭は「軽い受験ノイローゼでしょう」と応じ、ニヤニヤとしたサディスティックな表情を浮かべ私の方へ早足で近づいて来た。そして私の胸倉を掴んで引き寄せ、押し出した。小柄な私の体が前後に大きく揺れ、壁に叩き付けられる。
「これ君じゃないんでしょ? 似てるからちょっと自分だって思っちゃったんだよね? そうなんだろ?」
怒鳴りつけられ、私は恐怖で声が出なかった。
「オイ聞いてんだよ! 本当は違うんだろ!」
また胸倉を掴まれ体を揺さぶられる。私は母の虐待がフラッシュバックして訳が分からなくなった。
「すみません、すみません、ごめんなさい、違います、私じゃありません、ごめんなさい、違います」
鼻水を流してボロボロに泣き、いつものように何度も謝罪の言葉を繰り返す。
教頭そんな私の姿を見て満足そうに「そうか、わかった」と言って手を離した。
校長は軽く頷き、椅子に座り「森澤さんは体調が優れないようだから、今日はもう早退しなさい」と言って、何処かに電話を掛け始めた。
床に蹲っていた私は学年主任と担任に抱えられ退室した。
落ち着くまで保健室のベッドで寝ていた私は、昼休みになるとやっと起き上がれるようになって、顔を洗って教室へ戻った。昼食中だったクラスメイトの視線を一身に浴びながら鞄に教科書を入れた。
「気にすることないから」と小沢さんが言ってくれたのは救いだったが、ありがとうと返そうにも、声が出なかった。
いつも帰宅を遅らせていたので、夕暮れ時でもないこんな時刻に校門をくぐるのは久しぶりのことだ。これからどうしようかと思う。家に帰りたくない、でも学校にもいられない。
ポロポロと涙が零れ落ちた。
本当にどうしたらいいんだろう。
次第に足取りが重くなって、完全に足が止まったとき「優子!」と呼ぶ声が聞こえた。
「俊夫!?」
俊夫は前かがみになってハァハァと息を整え「教室行ったら、お前が帰ったっていうから、急いで追いかけたんだけど、追いついてよかった」と言って微笑んだ。
「何で……俊夫、まだ授業あるじゃない。部活だって……」
「俺らいつも一緒に帰ってるジャン。だから今日も一緒なんだ」
「馬鹿……」
私は微笑んで、そして泣いた。
いつもの分かれ道で別れず、そのまま真っ直ぐ進んで、街を縦断する川まで二人で歩いた。川岸の階段に二人腰をかけ、川を眺める。口数を減らす彼なりの配慮なのだろうか、俊夫は黙って煙草を吸っている。
「俊夫、煙草吸えたんだ」
「カッコいいだろ?」
「うん、でも医者の息子が煙草なんてお父さんに怒られるよ……」
「いや親父ヘビースモーカーなんだ……。それより優子、大切な話がある」
ドキリとした。あぁ、やはり雑誌のことを聞くのか。うん……仕方ないよね、私達長い付き合いの友達だ。でも売春をしてるって事実を隠してたこと、俊夫、怒るだろうな……。
怖かった。長い付き合いだからこそ私達の関係が壊れる予感がした。都合のよい友達として付き合った罰が当たったんだと思った。
しかし、俊夫の口から出た言葉は意外なものだった。
「あのさ、俺、学校辞めて働こうって思うんだ」
「……」
「何処か遠くで、誰も知らない所で、だから、その、もし良ければ優子も……」
「俊夫……」
「うん?」
「それって私が売春をしてたことを知ったからなんだよね?」
「……」
「駄目だよそんなの、一時の感情で一生を棒に振るようなことしちゃ、俊夫は進学してお父さんの病院を継いで頑張んなよ、そしたら私なんかよりズッと俊夫に相応しい人、見つかるって」
「優子、俺は今、プロポーズしてんだよ」
「えっ……」
「お前が好きだった。前からだ、小学校の頃にお前と出会ってからだ。覚えてるか? 俺が公園の隅で一人で泣いてたら、お前が俺に声を掛けて来たんだ。引っ越して来たって、友達になろうよって、それからズッと好きだったんだ」
「うん……覚えてる」
「俺のこと嫌いか?」
私は頭をフルフルと横に振った。
「嫌いな訳ないじゃない……でも俊夫にそんなこと……」
「俺のことよりお前はどうすんだよ。体売ってるのって好きでやってる訳じゃないんだろ? あの親に無理やりやらされてるんだろ? このまま続けるのか? 二人で一緒に暮らそう。貧乏な暮らしだろうけど絶対にお前のこと幸せにするから」
俊夫がわたしと同じ夢を語ってくれたのが本当に嬉しかった。二人暮らす生活を思い描いてみる。今まで私が思い描いていた夢よりも色鮮やかに頭にイメージされ、心が暖かくなった。
でも最後、俊夫が言った、幸せ、という言葉に私は一瞬で現実に引き戻された。
私と一緒になって俊夫が幸せになれる訳が無いじゃないか。いつか私も私の両親のようになるに違いない。子供に虐待を加える腐った人間になるに違いない。
殺人犯の両親を持ち、ギネス記録申請中の娼婦の私が、どう俊夫を幸せにすると言うのだ。不幸せにするだけじゃないか……。
「ありがとう俊夫。嬉しかった。でも一緒にはなれない。俊夫のことは友達としか考えられない」
俊夫はわたしをジッと見つめ、そして視線を落とした。
「そっか……ふられたか」と照れておどけた口調で返す。
私は立ち上がった。
俊夫はまだ座ったまま俯いている。
コンクリートの階段に俊夫の涙がいくつも落ちていた。
いつの間にか夕刻となり、私は家に帰った。母はまだ週刊誌の記事について知らないのかリビングでのんびりTVドラマをみていた。
私はホッとして、自室に入ろうとすると「優子、今日の予定変更になったから。プリンスホテルじゃなくてヒルトンの月光ってレストランに9時。この前のハイクラスのお客を覚えてるだろ? あいつ」と、母はTVを見ながら面倒臭そうに言った。
彼か……。二人で抱き合った夜のことを思い出して顔が少し赤くなる。
でも予定が変わるなんてこと今まで無かったことだ。
「うん、わかった……でもハイクラスってどういう人なのかな? 政治家なの?」
私がそう恐る恐る聞くと、母は呆れ顔でこちらに振り向いた。
「アンタ本当に馬鹿ね。相手の素性なんて知らないわよ。それが私に何の関係があるって言うの。ハイクラスってのは私にお金を沢山払ってくれる人達って意味よ。普通より多く払ってくれるからハイクラスなの」と吐き捨て韓流ドラマの続きを見る。
そうだ、私は馬鹿だ。一体何を私は思い違いをしていたのだろう。確かに相手のことなんて関係ない。娼婦と客の繋がりはお金しかないのだ。いや、そうあるべきなのだ。
ヒルトンホテル最上階への直通エレベータの中は私一人だけだった。音も無くスルスルと上昇を続ける。ガラスの向こうの街の夜景が非現実で幻想的なものへと変わっていく。
彼とセックスがしたかった。
そうすることで彼に与えられた親の愛を打ち消せる気がした。
俊夫を失った喪失感も埋められる気がした。
今夜、もしこの前のように抱き合うことがあったら、そのまま彼を篭絡して結ばれようと思う。いくら娘を思う親でも健全な肉体を持つ男であれば誘惑出来る筈だ。行為の後は嫌われるだろう、軽蔑されるだろう、でも構わない。私は娼婦なのだ、愛されようとは思わない。
セックスで結びついた愛なら何とか抑えられる。でも親の愛は抑えられない。彼にのめり込んでしまう。もう心の奥底に沈んでいる脆弱な私が傷つくのは嫌だった。
ドアが開く。眩しい程に明るい。
レストラン月光へ向かう。華やかに着飾った紳士淑女が笑顔で会話をして幸せそうに不味い料理を食べている。BGMはパルティータ第2番。
ボーイに私の名を告げ、席へと案内される。彼は虚ろに外の夜景を眺めていた。
「こんばんわ、ご指名ありがとうございます」
私はそう素っ気無く言って席に着く。
ガラスに映った私を眺めていた彼は、静かに目を閉じ「君は私の娘だ」と言った。
「わかりました。じゃあ、貴方をお父さまとお呼びします。私の名は好きに付けて下さい」と答えると、男は外を眺めるのを止め、私の方を向いて「優子、君は私の娘だ」と言った。
何を言ってるんだろうと思った。貴方が私の父親な訳がないだろう。あの親の子でありたくないと何度役所に行って戸籍を調べたことか。そう私は養女でもなく正真正銘、人殺しのヤクザの実子なのだ。
「貴方は私の親じゃないし私は貴方の娘でもない、でも貴方が望むなら貴方の娘として振舞います。私を買ったのですからその時間をどう使うか貴方の自由です。私は貴方の望むまま何でもします。だって私は娼婦なんですもの」
彼は私を見つめるばかりで何も喋らなかった。店内のBGMがロ短調ミサ曲に移る。彼はボーイを呼んでワインといくつかの料理を注文し、葉巻を吸い、大きく煙を吐き出した。
「分かった。じゃあ今夜は私の話を聞いて貰おう。長い話だ。退屈かも知れないが最後まで聞いてくれ。先ず恵美の話からだ」
恵美は癌だった。骨肉腫の悪性で発見が遅れ、恵美が若かったというのもあって進行が速くて見つかった時にはもう手遅れだった。全身に転移して処置できるものでは無かった。でも私はそれを受け入れられなかった。
この子が死ぬという現実が非現実的に思えた。助けられる筈だと思い込もうとした。必死にやれば奇跡が起きると思った。医者である私が自分の娘の病を見過ごした罪悪感、自己嫌悪もあって正常な判断が出来なかった。
何度も大きな手術をして癌細胞を一つ残らず取ろうとした。メスを入れられない箇所は臨床試験も済んでない強力な抗がん剤を外国から取り寄せて使った。
恵美はやつれてね、髪の毛も抜け落ちて、娘の治療をしているのか娘を痛めつけているのか分からなくなってしまった。私は恵美に残された貴重な時間を奪ってしまった。
もう殆ど恵美の時間が無くなった時、ようやく私は治療を止めた。恵美の為に何でもしてあげようと望みを聞いた。そしたらこのレストランで家族と食事をしたいと言うじゃないか。随分と昔、あの子の母がまだ生きてた頃、家族全員で一度だけここで食事をしたことがあったんだが、それを覚えていたのだろうな。
私と恵美と小学生になったばかりの息子の3人でこのレストランのこの席で食事をしたんだ。恵美は苦しそうだったが最後まで笑顔だったよ。ここの不味い食事をオイシイ、オイシイと。もう味も分からなかったろうに。
食事が終わると恵美の衰弱が激しいので部屋をとってホテルに泊まることにしたんだ。明日の朝、あの子の体調が良くなってから家に帰る予定だった。部屋に入ると恵美は食べた物を全て吐いた。モルヒネを打って痛みを和らげようとしたが、あの子は拒否した。話があるって言って、ベッドに横になって私と息子に語り始めるんだ。
それは家族との思い出だったり、今日の食事の話だったり、弟である息子や私への感謝の言葉だったり、叱咤激励であったり、長い話だった、最後に私達の手を強く握って何を言いたかったのか、それは私にも息子にも聞き取れなかった。
私達は冷たくなった娘の体を擦って暖かくしようとしてね、必死で話しかけてね、そしたら生き返ると思って、ほんと私は医師失格だ。
今日、川岸の階段で君が息子と話をしているのを見た。君とゆっくり話がしたくて学校の外で私は君を待っていたんだが、息子に先を越されたという訳だ。勿論、何を話してたかまでは知らない。だがこの年になると何となく察しは付く。
息子は君に姉の姿を重ねている。あの子は幼い頃から姉が大好きでね。年の離れた姉を母のように慕って、いつもくっ付いて離れなかったよ。甘えん坊なんだ。あいつは姉が死んだ悲しみで心を閉ざしてしまった。それを開けたのが君だ。姉の面影を君に感じ取ったのだろう。
君が息子と恋人まで関係を進めなかったのは、自分がいつか自分の親と同じになってしまうという恐れと、娼婦という現実にあったのだろうと私は思う。
でも、君だけが心の中に闇を持っていたのではないのだよ。
息子も君と恋人まで関係を進めなかったのは、君を思う気持ちは、君に姉を重ねているからで、つまり君じゃなく姉を愛しているだけなんじゃないかという恐れがあったからだ。
息子は本当に甘えん坊でね。出来の悪い子ほどに可愛いという言葉があるが、私は息子が付き合ってるという幼馴染の少女が、本当に息子に相応しい人物か否かを見定めようとした。探偵を雇って君の素行を調査させた。君の情報を週刊誌に売ったのは彼だ。私に情報を渡すだけでなく、週刊誌にも高く売れると思ったのだろう。君には申し訳ないことをした。すまないと思ってる。
彼が持って来た君の写真を見て、私は吃驚したよ。死んだ娘とそっくりだったからね。まさか息子の幼馴染が君のような子だとは思いもしなかった。
あいつ黙ってたんだよ。家にも連れて来ない。息子は私に姉とそっくりな彼女がいると知られたくなかったのだろうな。恥ずかしいのか、それとも私に盗られると思ったのか、まぁ、愚息のことなど、もうどうでも良かった。
君に会いたかった。どうしても、もう一度、娘に会いたかった。
彼の長い話が終わった。料理もワインも手を付けられることはなかった。私は混乱していた。娘である恵美さんを失った親の悲しみというものがどんなに深いものかを知って今までの自分の言葉や行為に罪悪感を覚え、そして目の前の彼が俊夫の父親という事実と、俊夫が私に姉を重ねていたという事実にどう接すれば良いのか分からなかった。
「私を買ったのですからその時間をどう使うか貴方の自由です、私は貴方の望むまま何でもしますと、君は言ったね?」
彼はニヤリとした。
「は、はい」
私は上手く声が出なかった。
「じゃあ、明日から本当の私の娘になって貰おう。君はもう私が買い取った。昔なら身請けというのか、5億も掛ったよ。病院を親戚に売り払ったんだ」
「なっ……」
「養女としてではなく君には私の息子……いや愚息の嫁になって貰おうと思う。それなら君を他家に嫁にやることもないからね」
「ふ、ふざけないで。貴方はさっき俊夫は私じゃなく、お姉さんを私に重ね、お姉さんを愛してるだけだと言ったじゃないか。私に近親相姦の真似事、いやそもそも結婚させるって何なの? 貴方にそんなこと決める権利……」
「権利ならあるよ。君は私が買ったんだ。君の気持ちなんか関係ない、君を買い取った私が君の人生を決定するんだ。息子と結婚して、私を父さんと呼んで貰う」
「……」
「大丈夫だ、息子の嫁にまた裸で抱き合ってくれとは言わんよ」
私の顔が真っ赤になる。BGMがアリアに移った。私の一番嫌いな曲じゃないか、何でこんな時にこんな曲が流れるのだろう。私は頭を抱えた。
「この曲、恵美が好きだった。恵美はここの景色と音楽を愛していた。綺麗だと……。この曲はね、この店の最後に流れる曲なんだよ。もう閉店だ」
ニヤニヤしていた彼の顔が、スッと真顔になって、彼は灰皿に置いていた葉巻を手に取った。
「私も、もう長くはない。この煙草がね……。肺ガンでもう転移している。私は本当にヤブ医者だ。娘の後を追うには遅いが、もう死んでもいい頃だと思っていた」
私はショックで言葉が出て来なかった。
「でも君は娘の温もりを思い出せてくれた、掛け替えのない命というものの温かみを実感出来た、もう少し生きていたいと思った。君らの子供、孫の姿もみたいからね」
男は灰皿に葉巻を押し付け、火を消した。
「君らはまだ若い。私のように過去に囚われては駄目だ」
彼が酷く咳き込み始める。私は彼の背中を擦る為に立ち上がろうとすると、彼は腕を私の方へ伸ばし、手を広げ、もう少しなんだ、最後まで話させてやってくれ、聞いてやってくれと私に懇願した。
「息子は君に姉の姿を重ね、だから君に告白するのを躊躇った。そういう過去は確かにあった。でもな、そんなへタレが君へプロポーズしたんだ。これからは姉じゃなく君を好きになって行くんだよ」
彼がまた大きく咳き込む。苦しそうだった。口を押さえたハンカチに血が付いている。
「君もそうだ。親のような人間になるに違いないから人を愛せないとか、娼婦だったから駄目なんだとか、そんな悲しい考えはもう捨てろ。これからの君はそんな下らないものに引きずられることなく生きて行くんだよ」
アリアの演奏が終わろうとしている。
「お前達は私が無理にでも結婚させる。こんな他人に強制された下らない恋愛の始まりは嫌だろう。でもな、それもいつか過去の話になる。幸せになるか不幸せになるか、そんなのは私は知らん。それはお前達が築き上げるんだ」
それから私はお父さんの家で暮らすこととなった。
俊夫が結婚出来る年齢で無かったので籍にはまだ入ってなかったけど
小さな教会で結婚式を挙げた。
式には私と俊夫、お父さんと、あと小沢さんが来てくれた。
お父さんはその一年後に亡くなられ、二年後に私は妊娠した。
幼い頃に虐待を受けた子供が親になると子供を虐待するケースが多いと心理学者は言う。
虐待の連鎖が起きたらって心配は正直まだ私の心の中に少しある。
不安になったら私はアリアを聴く。
すると、あの月光で聞いたお父さんの言葉が蘇る。
お父さんに死んで欲しくないと願ったことを思い出す。
命の大切さを教えてくれたお父さん。
虐待を連鎖させない。
お父さんの言葉を子供に伝え
心を連鎖させるのだ。
了
この作品は某掲示板で行われた競作会の為に書いた小説です。
誤字・脱字が多く、手抜きの箇所も多かったので、推敲してこちらに投稿しました。
視点を三人称一元から一人称に変え、優子の心理描写を増やしてみました。
酷評でも構いませんので、感想を入れてくれたら嬉しいです。
ピルの使用方法が違うのではないかというご指摘を戴きましたので、内容に若干の修正を加えました。
ただ修正後であっても、実際のピルの正しい使用方法や効能が書かれている訳ではありません。
この物語はフィクションであり、物語に出てくる物や人や団体等は現実とは別の架空のものです。
物語の演出や物語世界の整合性を出す為、現実とは違ったものになっています。
この物語で書かれたこと、特にピルや女性用避妊具に関することを何かの参考とするのは絶対にお止め下さい。
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