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2010年10月16日朝日新聞夕刊紙面より
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1970年6月27日朝日新聞朝刊経済面(東京最終版)

しかし、73年に「料金を下げても潮がひくように客足が遠のいた」というミヤボウルはオープンから3年で清算。土地と建物は、愛知県内のスーパーマーケットに売却された。全国ではボウリング場が過剰になり、73年末のオイルショックで、消費者は「節約」志向に転じた。ブーム時、1レーンあたり全国平均で1日72ゲームがおこなわれたが、74年には採算ラインの35〜40ゲームを下回り、15ゲームへと落ち込んだ。

ディスカウントストア「ロヂャース」を経営する北辰商事(東京都武蔵野市)の社長太田実さんも、72年に旧浦和市内に2階建てのボウリング場を開いた。「土地、建物、施設の費用13億円を3年で回収できると考えていた」と明かす。東京都練馬区内に2軒目のボウリング場建設を計画していたが、1年後に中止した。

負債の返済額は月1千万円。ボウリング場の1階で、洗剤など日用品を低価格で販売して息をついた。2階のボウリング場も売り場に変えた。この転換がディスカウントストアへの布石となった。「ボウリングは手軽に楽しめたが、逆に複雑でない分、飽きられるのも早かった」と太田さんはみる。

戦後、日本人には「遊びは罪」とする価値観が根強かったが、60年代後半からの大衆レジャー時代を代表するボウリングによって「余暇も大事だという考えに変わった」と宮田さんは分析する。

レジャー白書によると、昨年、ボウリングを楽しんだ人はスポーツの中で3番目に多かった。しかし、ゴルフ、テニス、登山……と多様化。「子どもからお年寄りまで楽しめるボウリング。それぞれのライフスタイルに取り入れられ、地域でよくおこなわれるスポーツとして根付けるか瀬戸際です。ブームとは異なる歩みです」と宮田さんは話す。

(平出義明)

証言

女子プロボウラーの草分けとしてブームをけん引した中山律子さん

◆2時間サインの日々

ボウリングと出会ったのは20歳すぎ、ブームの兆しが現れた1965(昭和40)年ごろでした。中学、高校、実業団とバレーボールで鍛え、ボウリングのボールがよく走ったので、大会への出場を誘われました。いい成績を出したくて早朝ボウリングに通いました。68年にプロを目指して上京。翌年、須田開代子(かよこ)さんらとともに女子第1期プロボウラーになりました。ブームに背中を押され、夢中でボウリングに打ち込みました。

70年に1ゲームすべてストライクのパーフェクト(300点)を女子プロで初めて達成。テレビで放送され、「元気をもらった」と言われることが多かったです。シャンプーのCMにも出て顔が知られ、電車で移動中の2時間、乗客にサインをしたり、ボウリング場のオープン記念式にも呼ばれたりしました。

経済成長によってスポーツや娯楽を楽しむ余裕が庶民に生まれ、本当にいい時代でした。ブームに陰りが生じても、いずれよくなると楽観的に考えてきました。

現在は日本プロボウリング協会会長として年約20大会で優勝者らの表彰をします。自らも週1回ボウリングを楽しみ、200点前後は出していますよ。少子化や人口減がボウリングに影響することに危機感を持っています。仲間づくりと健康にボウリングを勧めファンを増やしています。

(更新日:2011年02月02日)

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