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2010年3月20日朝日新聞夕刊紙面より
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1963年12月27日付夕刊5面(東京最終版)

当時、育児機器会社社長の葛西さんは、ひと晩で著作権譲渡の書類600枚に実印を押した。「手塚さんが『僕がお金に変わる』と言っていたように、彼自身が会社の資本だった。著作権が散逸したら再建どころではなかった」

葛西さんが「この人、ほんまの天才や」と思った出来事がある。債権者集会に葛西さんが事情を説明しに行くときのことだ。「一度くらい顔を出して頭を下げなさいよ」と言うと、手塚は「僕は漫画を描くことでしかお金を返せませんから」と、ホテルの別室でずっと仕事をしていた。

手塚は88年、体調を崩して入院、胃がんと診断された。

葛西さんが話す。「天才も、努力家もいる。でも、命も財産も投げ出した努力家の天才は手塚治虫だけです」

手塚漫画の根底に、勤労奉仕中に遭遇した大阪大空襲などの戦争体験があることは知られている。ただ、倒産騒動は、世間と人間の裏側を手塚に教えた。「手塚番」として手塚の人生を間近に見てきた元雑誌編集者が振り返る。

「指を詰めろという暴力団からの脅しや、友人の裏切り、手形の偽造など、なんでもありのありさまでした」

アトムの正義感を愛する大衆と、その奥に潜む闇。73年の「ブラック・ジャック」で経済的に復活した手塚は、それ以降、「三つ目がとおる」「ネオ・ファウスト」「アドルフに告ぐ」など、より人間の本質に迫る漫画を描き始めた。

(石川雅彦)

証言

手塚治虫さんの長女で、プランニング・プロデューサーの手塚るみ子さん

◆作品貫く子どもへの愛

父は子どもを怒れない人でした。たぶん「怒る」ということは、その子の可能性をひとつ消すことだという信念を持っていたように思います。

20歳の誕生日の夜に、とつぜん父が私の部屋にやってきました。「親にはうそをつくな。これからは大人として扱うから」。そのころ、毎晩うそをついて遊び回っていた私は、「知っていたのか」と恥ずかしいやら、照れくさいやら。でも、怒らない。

母からはいつも「お父さんからガツンと言ってくださいよ」と言われていましたが、父は決して怒鳴らなかった。

父を身近に見てきた人間として思うのは、手塚マンガを貫くのは、子どもへの愛です。アトムにしても常に子ども目線で、主人公はやりたいことを好きなように、思う存分楽しんでいる。失敗したら本人がそこで考える。仕事でも、家庭でも、子どもの可能性、将来性を訴え続けた偉大な思想家だと思います。

24歳のときには、私が家を出たいという騒動がありました。「ふたりだけで話がしたい」と、和食の店へ誘われました。てっきり「まだ若いからやめろ」と反対されると思っていたのに、父の口から出たのは、「1回、家を出てみるか」という言葉でした。

後にも先にも、父とまじめに話したのはその2回。たった2回の会話で、私は導かれたと思います。

(更新日:2011年01月06日)

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