鞆の隠れキリシタン
安芸・備後藩主の福島正則(在任期間、1600〜1619年)はキリシタンに対して友好的であり、妻子は洗礼を受けたと言われる。海駅であった鞆の浦には、そうした藩主の中でキリシタン文化が広まった。
福島正則 |
福島正則
1561年、尾張国で誕生する。桶屋の息子であったが、母が豊臣秀吉の実父の妹という縁あって、秀吉に預けられる。織田信長が本能寺の変で倒れた後、1583年、次期天下人を決める賤ヶ岳の戦いで七本槍の筆頭となる武功を挙げ、天下に名を知らしめる。その後、豊臣政権の中で確実に出世を果たす。1600年関ヶ原の戦いでは、東軍につき安芸、備後国を与えられ、49万石の大名になる。しかし、晩年は居城広島城の無断改修等を理由に川中島2万石という改易に近い命令を受け、川中島で生涯を終える。享年64歳。
短所…広島城主時代のあるとき、備後産の名物畳表を将軍に献上したところ、岡山産の畳表より品質が劣っているので、恥をかいた。正則は広島に帰って、鞆ノ浦に上陸、問屋の主人を畳表の上に座らせると、自ら槍をふるって刺し殺してしまったという。このように短気な部分が正則の最大の特徴でもあり、欠点でもあったのだろう。
長所…あるとき、正則は近習に罪ありとして城内の櫓に押し込め、餓死させようとした。しかし、この近習にかつて恩をうけた茶道坊主が近習に密かに食料を送り続けた。正則が、いくら月日が経っても近習が飢え死にしないばかりか、顔色も変わらないことを不審に思い、近習に食料を与えているものはいないかと調べさせた。すると、茶道坊主が自白し、かつて罪を着せられた近習に恩を受けて、その恩に報いんがための行為であると、訳を話すと、正則はかつて、自分も空腹で倒れているところを食料を与えられて、なんとか命を繋ぐ事ができ、その恩として、今何十年たっても扶持米として、その恩人に贈っていることを思い出し、茶道坊主、近習ともに助けた。
正則は心荒く、人を誅することを好むと噂されたほどであったが、このような一面も持っていたからこそ、家臣から慕われたのであった。
また、正則は入信こそしなかったが、キリシタンを積極的に保護したり、幕府がキリシタンの禁令を出したときも、宣教師たちに数々の好意をよせるなど、キリシタンに強く関心を示していたという。
改易時…正則が安芸、備後両国を没収されるという噂が国元に伝わると、国元では主君の生死もはっきりしていないので、全員で籠城して主君の生死をただそうという空気に包まれた。そんな中籠城に遅れたものがいた。遠方にいたため、籠城の集合時間に遅れたのだ。しかし、集合時間に遅れたという理由でどれだけ弁解しても城にはいれさせてくれなかった。その者は自分の志をわかってもらうためについには切腹をしてしまった。これは正則が常日頃から家臣を厚く待遇した証拠であろう。
正則が改易となったとき、幕府の軍勢が広島城を引き取りに来た時、籠城している家臣達は正則の直接の命令書がないと城は渡せないと幕府の要求を頑として呑まなかった。しかし、幕府が籠城兵の言い分を聞き、正則の直接の命令書を届けると、整然と城を明渡した。その広島城の明渡しは「福島の城渡し」と言われる程、後の模範となったという。
山の中腹に見えるのが医王寺(826年、空海開基) | 慈徳院(山門の奥に見えるのが本堂) |
年 | 出来事 | |
804 | 空海が唐に留学し、都でネストリウス派キリスト教の教えを学んだと推測される。 | |
826 | 空海によって鞆の浦に医王寺が開かれる。 | |
1549 | 旧暦8月15日にフランシスコ・ザビエルが鹿児島(現在の鹿児島市祇園之洲)に上陸。日本にキリスト教公伝。 | |
1550 | 京を目指したザビエルが岩国から堺まで海路で航行した可能性が高いことから、鞆の浦に寄港した可能性大。 | |
15xx | 1990年発行の歴史研究資料集(新学社)によれば、信長時代のキリスト教日本初期布教期に鞆の浦に教会堂が建立。 | |
1576 | キリシタン武将で足利義昭(足利幕府最後の将軍)の側近である内藤如安が義昭とともに鞆の浦へ来る。 | |
1582 | キリシタン最大の被護者である織田信長が足利義昭の策略により襲殺される。 | |
1587 | 豊臣秀吉がキリスト教を禁止する「伴天連追放令」を発布。これより後、キリシタン迫害の歴史が始まる。 | |
1600 | 関ケ原の合戦の武功により、毛利氏に代わり福島正則が安芸・備後二国の領主として入封。 | |
1602 | 福島正則を大檀越として鞆の浦に大悲山慈徳院(キリシタンゆかりの寺)を松雪得松が開山すると伝えられる。 | |
1604 | 福島正則の支援もあって、アントニオ石田が伝道者、説教師、司祭として十五年間、広島で活動する。安芸と備後では宣教の実り大。 | |
1607 | 広島で1250人が洗礼を受け、1609年から11年の三年間に武士だけで720人の洗礼があった。 | |
1607 | 心光山阿弥陀寺(キリシタンゆかりの寺)を鞆城城山西脇より現在場所へ移す。 | |
1610 | 福島正則は宣教師たちに対して保護者となることをイエズス会の管区長に約束した。 | |
1612 | この頃から徳川家康のキリシタン迫害の厳しさが増してくるが、福島正則は修道者たちの味方であった。 | |
1613 | 福島正則は安芸在留のイエズス会神父に常に好意ある態度を示し、多大の喜捨をした。広島に癩病院が建てられた。 | |
1613 | 安芸・備後以外の日本の他の諸国では迫害が多くなった。(江戸で浅草の小屋“病院のような物”にいた22人のキリシタンが殉教) | |
1614 | 1月、「伴天連追放文」(慶長の禁教令)公布。幕府より福島正則のもとにも達しが来る。 | |
1614 | 2月、福島正則は江戸から神父たちに対し、長崎へ行くよう命じる書を送り、家康には命令を実行したと報告。 | |
1614 | 広島の役人たちは若干のキリシタンを投獄し、他を俵につめて曝(さら)した。数日後、福島正則は迫害を中止させた。 | |
1614 | 後半、広島で160人の成人が洗礼を受けた。この時点でも福島正則は宣教師たちに好意を寄せていた。 | |
1614 | 秋、2月にアントニオ石田神父が長崎へ半強制移動となるが、一人の有力な身分の婦人が長崎と連絡して広島へ帰ることが出来る。 | |
1614 | 11月6日、かつて足利義昭に仕え、鞆幕府を支えていた内藤如安がフィリピン・マニラへ追放された。 | |
1615 | 大阪夏の陣の時、城内から脱出したジョヴァンニ・バッティスタ・ポッロ神父はキリシタン武士に助けられ、広島へ行き石田神父と会う。 | |
1615 | 石田神父は安芸と備後をはじめ中国地方の国々を歩きまわって、キリシタンたちの司牧にあたった。 | |
1617 | 春、石田神父が逮捕された。 ※下に詳述 | |
1619 | 安芸・備後の領主・福島正則は徳川幕府の策略により所領を没収され追放された。 | |
1619 | 8月11日、石田神父は突然牢から釈放。福島正則が改易され、町奉行が更迭されたためである。牢を出るとすぐ長崎へ赴いた。 | |
1619 | 備後福山藩に福島正則に代わり徳川家康の従兄弟である水野勝成が領主として入封。 | |
1629 | 踏み絵(キリシタン狩り)が始まる。11月14日、長崎の大村にいた石田神父が逮捕された。 | |
1632 | 9月3日、石田神父が他5人の神父と共に火刑。最後の言葉は「キリストへの信仰、万歳!」。 | |
1637 | 島原の乱を平定のため、九州以外の藩では福山藩が唯一出兵。水野勝成以降の福山藩によるキリシタン弾圧は過酷を極める。 | |
1690 | 「備後国沼隈郡鞆商売人切支丹宗信次女本人…、旦那寺同所禅宗慈徳院ニ而土葬ニ取置…」の文書(芸備キリシタン史料) | |
1867 | 教皇ピオ9世により、石田神父そして彼と一緒に殉教した神父たちを福者の列に加えられた。 | |
1868 | 「浦上四番崩れ」により捕縛された、隠れキリシタン婦女子67名が福山藩に移送の途上に鞆の寺で一泊、その後、拷問される。 | |
1873 | キリスト教国である欧米諸国からの抗議により、明治政府が迫害弾圧をやめキリスト教解禁。 | |
1941 | 大東亜戦争勃発により、キリスト教は鬼畜米英の宗教として事実上弾圧される。鞆の浦の地でも特攻警察の目がひかる。 | |
1945 | 敗戦、そしてマッカーサー来日により、キリスト教が事実上解放される。 | |
2000 | 鞆の浦にある福禅寺の屋根改修工事で“隠れキリシタンの十字架入り厨子”が屋根裏より見つかる。 |
※1617年に「佃事件」が起こり、石田神父が逮捕された。幕府が大阪方の武将明石掃部ジョアンの嫡男・明石内記パウロを追求する中で彼を匿った佃又右衛門の屋敷に住んでいたからである。佃一家と、同宿のシモンおよび二人のキリシタンは処刑され、石田神父は牢屋に入れられた。牢屋からの石田神父の手紙によれば彼は九人の囚人が同室であり、部屋が狭いために二階に住んでいるが、その天上の低いことは机の小さな抽斗に押し込まれたとでも想像してほしいと言っている。いつも体を腕で支えなければならず、肘が固くなった。悪臭や害虫にも悩まされたが、そのすべてを神の特別な慈愛のしるしとして受け取り、御主に感謝していると述べている。彼は牢屋の小窓を通して数人の人に洗礼を授け、二百人以上の人に告解の秘蹟を授けた。
福禅寺本堂(改修工事で屋根がきれい) | キリシタン厨子 | 福禅寺客殿・対潮楼(海岸より見上げる) |
福禅寺のマリア観音
左の写真が厨子の表側でマリア観音 写真右が裏側で隠し扉の奥に十字架 |
20世紀末、鞆の浦にある福禅寺に対して改修の為の助成金が認可された為、屋根の改修工事をした所、屋根裏から江戸時代の遺物とみられる表にマリア観音をデザインした厨子が発見されました。マリア観音の裏側には写真にあるように十字架があります。当時の鞆の浦の隠れキリシタンたちが人目を忍んで礼拝していたものと思われます。
で、そのマリア観音の写真をご覧下さい。ある霊能師に霊視していただいた所、太陽のようなまぶしい輝きを放っていて、普通に目を開けて見る事が出来ないそうです。それもただまぶしく光っているのでは無く、神々しい光を放っているそうです。何故この写真から、そのような光を放つことが出来るのか、自身の感性で考えてみられたらよろしいかと思います。
続いて、下にあるキリシタン灯篭のアップ写真をご覧下さい。この写真も霊能師の先生に霊視して頂いたところ、カトリックの女性信徒が頭につけるベールを身につけた女性の霊魂が写っているそうです。丁度、イエス・キリストの像あたりの高さで像の左側に写っているそうです。江戸時代に迫害された隠れキリシタン女性が、この灯篭に向かってお祈りを捧げていたと思われますね。
弥陀寺のキリシタン灯籠
鞆の浦の浄土宗心光山阿弥陀寺にキリシタン灯籠と云われるものがある。これも、備後藩主・福島正則のキリシタン擁護のなごり。これらの遺物からもわかるように、いかに鞆の浦の地に耶蘇教信者(当時のキリシタンを指す呼び名)が存在したかが理解出来ると思う。
弥陀寺山門、奥に本堂 | 弥陀寺本堂 | キリシタン灯籠(↑クリックで別角度拡大写真) |
マリア観音…豊臣秀吉のバテレン追放令や江戸時代のキリシタン禁止令で弾圧を受けた者達によって造られた観音菩薩像を模した聖母マリアの像。キリシタンに対する弾圧から逃れる為に、菩薩像に似せたマリア像などを造って偽装し、隠れキリシタンとして信仰の灯を絶やさぬよう神へ祈りを捧げていたという。1873年(明治6年)になり、禁教令が解かれるまでこの状態は続いた。マリア観音といっても、その形状は地域によってさまざまである。
キリシタン灯籠…戦国時代末から江戸時代のキリシタン弾圧が厳しかった時代に、各地の隠れキリシタンがひそかに信仰の対象物として設置。明治政府によるキリスト教解禁の後、大正時代末にキリシタン灯籠と呼ばれるようになった。さおの上部のふくらみが十字架を表し、イエス・キリストを表す像も彫刻されている。
浦上四番崩れ…長崎県で江戸時代末期から明治時代初期にかけて起きた大規模なキリスト教信徒への弾圧事件をいう。1868年6月7日、太政官達が示され、捕縛された信徒の流罪が示された。信徒の中心人物114名を津和野、萩、福山藩へ移送することを決定した。以降、1870年まで続々と長崎の信徒たちは捕縛されて流罪に処された。彼らは流刑先で数多くの拷問・私刑を加えられ続けたが、それは水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前でその子供を拷問するなど、その過酷さと陰惨さ、残虐さは徳川幕府以上であった。配流された者3,394名、うち662名が命を落とした。生き残った信徒たちは流罪の苦難を「旅」と呼んで信仰を強くし、1879年、故地浦上に聖堂(浦上天主堂)を建てた。
雲仙教会 | 雲仙地獄、殉教碑 | 雲仙地獄 |
長崎県・島原半島の閑静な山あいに雲仙教会があります。日光に反射する赤レンガが特徴です。この教会は1627年、雲仙地獄で長期間の拷問(幕府の禁教令に従ってキリスト教を棄教させるため、なんとこの熱湯煮えたぎる地獄にキリシタンを浸けては引き上げるという非道な行為)に耐えた後、長崎にある西坂の丘で火あぶりの刑に処せられた殉教者・アントニオ石田神父らに捧げるため、1981年に建てられました。毎年5月には殉教祭がおこなわれ、多くの巡礼者や観光客が訪れて、静かに祈りを捧げています。
アントニオ石田神父…元亀元年(1570年)、肥前島原の石田家に1人の男児が生まれた。洗礼時の名はアマドル、後にアントニオ石田という名で神父となり、禁教下で迫害され殉教した。
戦国時代の島原半島は、群小領主が互いに争っていた。それでも、次第にいくつかの大名に統合されていった。有馬氏や大村氏がその代表で、肥前佐賀の龍造寺隆信(1529〜84)が盟主であった。しかし、天正12年(1584)3月、九州制覇を目指して北上する島津氏と島原半島で雌雄を決する戦いが行われた。この戦いに勝利した島津氏によって九州全体が統一されようとする矢先、天正15年(1587)、豊臣秀吉が20万の大軍を率いて島津征伐に乗り出した。結局、剛勇を謳われた島津勢も秀吉の前にほとんど抵抗できず、降伏した。この結果、九州地方の諸大名は秀吉の命令によって再配置された。と同時に、秀吉はキリスト教を禁止する『伴天連追放令』を発布した。
秀吉の『伴天連追放令』
豊臣秀吉の伴天連追放令 |
1549年に日本へ伝来したキリスト教は瞬く間に広まって行った。島原での布教は遅れて永禄6年(1563)に開始されたが、最初の数カ月で「上流で富裕な700人以上」の信者を得たと報告されている。領主の有馬義貞が天正4年(1576)に洗礼を受けるとさらに加速し、島原半島だけで10万以上の信者を数え、1村全部がキリシタンという所も出現した。これは、豊臣秀吉の『禁教令』以後も衰えなかった。
それでも、安土や京都にあったセミナリオやコレジオといったイエズス会の諸学校は移転・統合せざるを得なかった。これら学校の移転先が島原半島の口之津、加津佐、有馬といった土地であった。特に加津佐にはセミナリオ・コレジオと印刷所が移転して置かれ、キリスト教文化の中心地となったのである。加津佐のセミナリオにおける1588年の学生名簿の中に「アマドル石田」18歳の記述があるという。セミナリオは3年課程で、日本語・日本文学、ラテン語とポルトガル語基礎、修辞学、倫理学、宗教学を学び、コレジオはその上の大学課程で神学を学ぶことになっていた。
翌1589年、天草島のイエズス会修練院にアマドル石田以下12名の若者が入学した。修練院はノビシャドと言われ、イエズス会員になる人の教育を担当する教育施設である。1591年、修練院での課程を終えたアマドル石田は選ばれてコレジオへ進んだ。イルマンの中から優秀な人材を選び、司祭の候補者として一層修行させるのである。同級生の中には、天正遣欧少年使節としてローマを訪れて帰国したばかりのマンショ伊東もいた。
同じ年、イエズス会の日本巡察使ヴァリニャーノ神父はインドのポルトガル副王使節の資格で豊臣秀吉と会見した。もち論、禁教令の撤回または緩和を願ってのことである。しかし秀吉の許可は得られず、イエズス会の諸学校はひっそりと運営された。1592年から始まった朝鮮侵略、慶長3年(1598)の秀吉の死、1600年の徳川家康の制覇と世は大きく動いた。この間、アマドル石田はアントニオ石田と名を変え、秀吉死後に山口にあった教会の修道士に任命された。正式に聖職者としての献身生活に入ってわけである。
1603年、アントニオ石田はマンショ伊東・ジュリアン中浦らと共にマカオへ渡り、コレジオでの上級課程へ進学した。数年で帰国したアントニオ石田は再び中国地方で布教活動に従事した。関が原の合戦後に広島から萩に押し込められた毛利輝元とその広島へ転封されてきた福島正則がキリシタン宗に好意的であったからである。徳川家康が幕府を開いたとはいえ、大坂には豊臣秀頼がおり、また豊臣恩顧の諸大名が多く残っていたために、徳川氏の支配はまだ完全なものではなかったからである。したがって、アントニオ石田らの活動により、1年に数百人あるいは千人を越える新たな信者を獲得できた。
慶長18年12月(西暦1614年2月)、徳川幕府は幕府領に限定していた『キリシタン禁教令』を全国に向けて発布した。神父や修道士たちは長崎に集められ、5隻の船で追放された。しかし慶長19年秋、神父としてアントニオ石田は広島へ戻り、密かに布教活動を続けた。
日本管区長カルヴァリュ神父のローマ宛報告書に次のようにある。
雲仙地獄切支丹迫害図(長崎市教育委員会蔵) |
「この迫害は、日本の状態が変わりやすいし、支配者(家康)が既に高齢に達しているので、余り長くは続かないだろう。もし彼が死ねば、その嫡子(2代秀忠)も一緒に亡びるか、あるいは少なくとも、彼は諸侯の間で好まれていないから、支配者になることができないであろう。しかし、そのとき支配者となるだろうとみなされている人(豊臣秀頼)は、我々の希望どおり、われらとキリスト教に好意を持つ見込みがある」
キリシタン武士は、ジョアン明石掃部を総大将として2千人以上が豊臣方に加担して大坂城に入った。しかし慶長19年(1614)の「大坂冬の陣」、翌元和元年(1615)の「大坂夏の陣」によって豊臣氏は滅亡した。大坂の陣の後もアントニオ石田神父は中国地方で活動したが、豊臣氏滅亡後の徳川幕府の禁止令には抗し得ず、元和3年(1617)春、広島において逮捕された。
「アントニオ神父は、2年間、非常に苦しい獄舎生活に耐えねばならなかった。最初の数カ月は首に鉄の輪をはめられ、野獣のように鎖につながれたのである」とイエズス会の歴史書は伝えている。ところが元和5年(1619)夏、アントニオ石田神父は釈放された。これは布教が公認されたのではなく、広島城主・福島正則が処罰され、転封されたための機械的処置である。
寛永6年(1629)、アントニオ石田神父は長崎の隠れ家で捕縛された。そして長崎奉行自らあるいは儒者らが棄教を勧めたが、神父の信仰を変えることはできなかった。結局、アントニオ石田神父は棄教他の聖職者・信者と共に雲仙岳に連れて行かれ、煮えたぎる火山性の熱湯を掛けられるという、耐え難く無残な拷問を受けた。アントニオ石田神父は拷問に対して強い信仰心によって33日間も耐え、棄教しなかった。
1632年9月、ついに幕府は棄教させることを断念し、アントニオ石田神父を含む6名の聖職者・信者を火刑に処したのである。彼らは火で少しづつ焼かれながら、「キリストへの信仰、万歳!」と叫んだと報告されている。
キリシタンの迫害・殉教 (内容に関してはキリシタンの迫害の内容で、鞆の浦に限定したものではありません)