辛い2010年が終わり、辛い2011年が来る
暮も押し迫って、もうあと10日余り。
2010年も終わる。
半世紀生きて、もはや社会的人間として「終わっている」状況下。
だからと言って積極的に動く訳でもなく、擬似的世界のネットに時間を奪われ為す術もない日々。
先日、知り合いの子供の姿を久しぶりに垣間見る。1歳半になって急激に「人間らしさ」が身についてきた。
暫く観察していると、もはや基本的人格の基礎はこの時点で出来上がりつつあるのだと。
大人とは所詮、その部分を覆い隠しているだけで、基本は1歳半と同じなのだ。
特に就職、結婚、出産、子育てという「通過儀礼」を経ない大人はそうだ。
ちょっとしたことですぐ「1歳半」に戻ってしまう。
つまり、あらゆる面で「自立」が出来ないまま歳だけとって、中身は子供のままの恐怖。
依存するものを失えば、たちまち1歳半の赤子のごとく、泣き喚き、よだれを垂らしてオシメにお漏らしだ。
そんな50代がいたら、もう目も当てられない。
でもこれからの絶望独身男性はこの運命から逃れられないのだ。
子育ては困難を伴うが、子供の成長は無限の可能性と未来を保障する。
己に寿命が来ても希望は子供に託せる。親は子供と共に育ち、人生は何たるかを悟り、安心して老いていける。
いや、老いすら自覚しないだろう。
生きるとはそういうことだ。
逆にそのような「通過儀礼」を経ない人間はただ恐怖と不安が付き纏い、1日として安心する事が出来ぬ。それを「自己欺瞞」によって覆い隠しているだけ。
それでも蓄えがあればその「自己欺瞞」を十分肥やし、「現実」から目をそらすことも可能だろう。
しかし、貯蓄が殆どない絶望独身男性は恐ろしい漆黒の闇しか待っていないということ。
人は老いからは逃れられない。
「子育て」をせずに、老いを迎える絶望独身男性はこの先、惨めな恐怖が控えているだけだ。
大抵の絶望独身男性は資格も技術もないから、もはやまともな職なんかない。
たまにスーパーのレジにいる初老の男性パートが居るが、辛くて目を背けてしまう。
大の男がエプロンしてレジ打ちだぞ!
それもパートのおばさんより仕事が遅いので客もそのレジにはあまり並びたがらない。
接客する相手はバリバリ働いているキャリアウーマン。
その客に向かって「レジ袋はご利用ですか?」なんて聞いている。
嗚呼、死んだほうがマシだ。
惨めの極みだ!あらいるプライドを捨てて、泥に塗れて這い蹲って、それでもこの男性に明るい将来なんかないのだ!
ただ、死ぬまでの繋ぎとしてレジに立っているだけなんだ。
自分が子供の頃は、こんな男性は居なかったのにいったいどうしたというのだ!?この日本は。
恐ろしい!恐ろしい!
こんな人間にはなりたくない!
だけどもうこんな人間になるしか選択肢はないんだ!
恐ろしい!恐ろしい!
身体も動かせず、体力気力も衰え、ただ「社会のお荷物」として存在するよりも、いっそまだ元気なうちに己の信念を貫かんための捨石になったほうがいいとまで思うことがある。
たとえば、自爆テロ要員として己を虐げている「敵」と刺し違えるとかね。
だが、この日本にはそんな人間を雇う「最終就職先」たる武装テロ組織も、使える武器も、手立ても用意されていない。
挙句、ネットの匿名掲示板に「擬似テロオナニー」して己を慰めるだけ。
なんと惨めであろうか。
哀れ、哀れ、哀れの極みである。
1歳半の子供はニコニコ笑う。
でも目の前に居る50代独身絶望男性に未来がない事をその子供は知らない。
自分が子供の頃、目の前の大人がどんな不幸や絶望を背負っているかなど解らないのと同じだ。
昭和40年代、自分が幼い時、親族の集まりでよく大人の親類に遊んでもらった記憶がある。
「きゃっきゃきゃっきゃ」叫びながら親族のおじさんにお相撲でじゃれたりしてたし、そのおじさんたちも親しげに相手にしてくれた。
その親族も大抵は結婚し子供も居た。
当時は、まだ中産階級は健在で、未来の失われた不幸な大人など存在しなかった。
しかし2010年の今、状況は一変する。
親族の集まりに顔を出しても老人ばかり。子供の姿はもちろんない。
50〜80代ばかりだ。
70代以上は年金で悠々自適。しかし50代で結婚していない親族は、そこに居る意味がない。
老後もなければ残すべき未来もない。
あるのは孤独で絶望に塗れた死あるのみ。
嗚呼、辛い辛い。
いやだいやだ。
何も残せずに、ただ無益な犬死が待っているだけのこれからの人生。
1歳半の子供の微笑がズキズキと心に突き刺さる。
己の乗った「泥舟」はいよいよ浸水し、わらに縋って荒れた大海に流される時が近づいてきた。
2011年は、もはやその縋る藁すら四散する。
辛い辛い、嗚呼辛い。
2010年も終わる。
半世紀生きて、もはや社会的人間として「終わっている」状況下。
だからと言って積極的に動く訳でもなく、擬似的世界のネットに時間を奪われ為す術もない日々。
先日、知り合いの子供の姿を久しぶりに垣間見る。1歳半になって急激に「人間らしさ」が身についてきた。
暫く観察していると、もはや基本的人格の基礎はこの時点で出来上がりつつあるのだと。
大人とは所詮、その部分を覆い隠しているだけで、基本は1歳半と同じなのだ。
特に就職、結婚、出産、子育てという「通過儀礼」を経ない大人はそうだ。
ちょっとしたことですぐ「1歳半」に戻ってしまう。
つまり、あらゆる面で「自立」が出来ないまま歳だけとって、中身は子供のままの恐怖。
依存するものを失えば、たちまち1歳半の赤子のごとく、泣き喚き、よだれを垂らしてオシメにお漏らしだ。
そんな50代がいたら、もう目も当てられない。
でもこれからの絶望独身男性はこの運命から逃れられないのだ。
子育ては困難を伴うが、子供の成長は無限の可能性と未来を保障する。
己に寿命が来ても希望は子供に託せる。親は子供と共に育ち、人生は何たるかを悟り、安心して老いていける。
いや、老いすら自覚しないだろう。
生きるとはそういうことだ。
逆にそのような「通過儀礼」を経ない人間はただ恐怖と不安が付き纏い、1日として安心する事が出来ぬ。それを「自己欺瞞」によって覆い隠しているだけ。
それでも蓄えがあればその「自己欺瞞」を十分肥やし、「現実」から目をそらすことも可能だろう。
しかし、貯蓄が殆どない絶望独身男性は恐ろしい漆黒の闇しか待っていないということ。
人は老いからは逃れられない。
「子育て」をせずに、老いを迎える絶望独身男性はこの先、惨めな恐怖が控えているだけだ。
大抵の絶望独身男性は資格も技術もないから、もはやまともな職なんかない。
たまにスーパーのレジにいる初老の男性パートが居るが、辛くて目を背けてしまう。
大の男がエプロンしてレジ打ちだぞ!
それもパートのおばさんより仕事が遅いので客もそのレジにはあまり並びたがらない。
接客する相手はバリバリ働いているキャリアウーマン。
その客に向かって「レジ袋はご利用ですか?」なんて聞いている。
嗚呼、死んだほうがマシだ。
惨めの極みだ!あらいるプライドを捨てて、泥に塗れて這い蹲って、それでもこの男性に明るい将来なんかないのだ!
ただ、死ぬまでの繋ぎとしてレジに立っているだけなんだ。
自分が子供の頃は、こんな男性は居なかったのにいったいどうしたというのだ!?この日本は。
恐ろしい!恐ろしい!
こんな人間にはなりたくない!
だけどもうこんな人間になるしか選択肢はないんだ!
恐ろしい!恐ろしい!
身体も動かせず、体力気力も衰え、ただ「社会のお荷物」として存在するよりも、いっそまだ元気なうちに己の信念を貫かんための捨石になったほうがいいとまで思うことがある。
たとえば、自爆テロ要員として己を虐げている「敵」と刺し違えるとかね。
だが、この日本にはそんな人間を雇う「最終就職先」たる武装テロ組織も、使える武器も、手立ても用意されていない。
挙句、ネットの匿名掲示板に「擬似テロオナニー」して己を慰めるだけ。
なんと惨めであろうか。
哀れ、哀れ、哀れの極みである。
1歳半の子供はニコニコ笑う。
でも目の前に居る50代独身絶望男性に未来がない事をその子供は知らない。
自分が子供の頃、目の前の大人がどんな不幸や絶望を背負っているかなど解らないのと同じだ。
昭和40年代、自分が幼い時、親族の集まりでよく大人の親類に遊んでもらった記憶がある。
「きゃっきゃきゃっきゃ」叫びながら親族のおじさんにお相撲でじゃれたりしてたし、そのおじさんたちも親しげに相手にしてくれた。
その親族も大抵は結婚し子供も居た。
当時は、まだ中産階級は健在で、未来の失われた不幸な大人など存在しなかった。
しかし2010年の今、状況は一変する。
親族の集まりに顔を出しても老人ばかり。子供の姿はもちろんない。
50〜80代ばかりだ。
70代以上は年金で悠々自適。しかし50代で結婚していない親族は、そこに居る意味がない。
老後もなければ残すべき未来もない。
あるのは孤独で絶望に塗れた死あるのみ。
嗚呼、辛い辛い。
いやだいやだ。
何も残せずに、ただ無益な犬死が待っているだけのこれからの人生。
1歳半の子供の微笑がズキズキと心に突き刺さる。
己の乗った「泥舟」はいよいよ浸水し、わらに縋って荒れた大海に流される時が近づいてきた。
2011年は、もはやその縋る藁すら四散する。
辛い辛い、嗚呼辛い。
テーマ : 過ぎ去った時間、そして、これから・・・
ジャンル : 独身・フリー