創価学会会長・秋谷栄之助様
前略
私は創価学会員(関西創価学園卒)で、藤重栄一と申します。現在の創価学会が、教学面においても、組織制度の面においても、未だ近代化されるに至っていない現状に危機感を抱き、今回、事態の改善を求めるべく筆を取ることに致しました。
教学面につきましてはすでに私のホームページで私見の一部を述べているのですが、今回は特に松戸行雄氏の件について申し上げたいと思います。私は松戸氏の主張を全面的に肯定する者ではなく、むしろ、松戸氏の試論には修正が必要だと考えていますが、松戸氏が学会教学の近代化に先鞭をつけられたことの意義は非常に大きいと考えます(西山茂「内棲宗教の自立化と宗教様式の革新―戦後第二期の創価学会の場合―」『沼義昭博士古稀記念論文集 宗教と社会生活の諸相』(隆文館、1998年)のpp.136-137を参照されたい)。末木文美士氏も『鎌倉仏教形成論』(法蔵館、1998年)の中で松戸氏について言及されておられます(p.380)が、このような状況の中においても、当の創価学会の内部においては、松戸氏の主張は未だ完全に黙殺されています。本日の聖教新聞(「わが友に贈る」)にも「言論の自由は大切」とありましたが、残念ながら、現在の創価学会には、伝統教学(代々会長の見解を含む)について批判的に議論する自由は「全く大切にされていない」と言わざるを得ない状況です。
また、西山・末木の両氏は、創価学会が日蓮正宗から決別したことを好意的に評価されておられるようですが、大石寺の板曼荼羅と創価学会の関係についてはそれぞれ以下のように指摘しておられます。
創価学会が日蓮正宗から「心身ともに」独立するには、大石寺にある弘安二年一〇月一二日付の板曼荼羅(モノ本尊)への信仰と決別しなければならないが、これができないところに創価学会の究極の悩みがある。その意味で、創価学会の宗教様式の自立化は、いまだ未完である、ということもできる。
(西山前掲論文、p.138)
こうした伝統教団の孕む問題に対して、伝統との訣別を徹底したのは創価学会である。創価学会は伝統的な日蓮正宗の在家信者組織として出発したが、教団側との争いの末に、教団との関係を絶ち、純粋に日蓮系の新宗教として再出発した。それは一つの徹底した現代の仏教の方向であるが、では、他の伝統的教団もそのような方向を取るのがよいかというと、必ずしもそうも言えない。創価学会自体も、本尊の曼荼羅の権威の由来という点から、なお正宗との関係に歯切れの悪さが残っている。
(末木前掲書、p.413))
私は、宗門との関係をキッパリ(歯切れ良く)断って、宗門からの自立化を内外に分かりやすい形で早く完成して欲しいと念願致します。そのためにも、創価学会はこのような議論を真正面から早く受けとめ、自由な議論を開始すべきだと思いますがいかがでしょうか。
次に組織の制度上の問題に関してですが、これについては「民主的な制度になっていない」の一言に尽きます。以下にカール・ポパーの言葉を引用しておきます。
また実際、主権のパラドックスを免れた民主的抑制の理論が展開できることを示すことは困難ではない。私の念頭にある理論は、いわば多数派支配が本来良いとか正当であるという教説から出発するのではなく、むしろ専制政治が悪いということから出発するのである。もっと精確に言えば、専制政治を回避しそれに抵抗しようとする決定、ないし提案の採用に基づくのである。
というのは、統治の二つの主要な類型を区別してよいからである。第一の類型は、流血なしに――例えば総選挙で――排除できる政府から成る。すなわち、被支配者が支配者を解任できる手段を社会制度が与え、またこれらの制度が権力の座にあるものによって容易に破壊されないように社会の伝統が保証するのである。第二の類型は、被支配者が革命成功の場合を除いては――すなわち大ていの場合には全然――排除できない政府から成る。私は第一の型の政府の略号として「民主制」という言葉、第二の型には「専制政治」または「独裁制」という言葉を提案する。
(カール・R・ポパー『開かれた社会とその敵 第一部』、内田詔夫・小河原誠訳、未来社、1980年、pp.129-130)
民主制(先に提案した意味でこの略号を用いたとして)は政治制度の改革のための制度的枠組を与える。それは暴力使用なしの制度改革を可能にし、それによって新しい制度を設計したり古い制度を調整する際に理性の使用を可能にする。
(同上、p.131)
最後に一つお願いがあります。創価学会の「会則」(および改正の履歴)を送付して頂けないでしょうか。80円切手3枚を同封しておきますが、もし不足であればご連絡下さい。よろしくお願い致します。
草々