2004年の新宿御苑の園遊会において、当時、東京都の教育委員を務めていた将棋棋士の米長邦雄氏が天皇に「日本中の学校に日の丸君が代を徹底させるのが私の使命です」と言上したのに対し、天皇は「強制にならないことが望ましいですね」と返したのだ。しかし、天皇を敬愛してやまないはずの米長氏も石原知事も、なぜかこの天皇発言は無視、これ以降も強制し、従わない教職員の処分を続々と行ったのである。
このように、一度制定された法律は、往々にして権力者の都合のいいように曲解される。本来の趣旨から外れた運用がなされるのだ。
池澤夏樹氏の言葉を聞け
この高裁判決について、作家の池澤夏樹氏は、朝日新聞(2月1日夕刊)に「歌わない自由 少数者の居場所を残せ」という文章を寄稿している。その中から、少しだけ引用しよう。
(略)では、歌いたくない者はどうすればいいのか?
より正確に言えば、歌わない自由もあるということを教師はどうやって生徒に教えればいいのか? 国歌を歌わない者は非国民である、というドグマを東京高裁は本当に支持するのか?
そして、ヒトラー・ユーゲントの少年がリードするナチス賛歌に唱和することを拒否するユダヤ老人の例を挙げ(映画『キャバレー』のワンシーン)、その後でこう続ける。
国民が一致団結している方が国は強い、と為政者は考える。彼らの理想は軍隊のような完璧な上意下達の組織だ。基本にあるのは国家のための国民という考え(大型トラックか戦車を運転しているような気分なのだろうが、その力の源はエンジンであって、為政者自身の筋力ではない)。
それが民主主義は多数決という欺瞞と重ねて使われる。小学生のころからこの欺瞞を何度聞かされたことか。
(略)教師は生徒の全人格とつきあう。歌わない自由もまたその人格に含まれる、とぼくは考える。それを押しつぶす教師を都教委は作り出してはならない。
美名に飾られた悪法
石原都政といえば、最近「東京都青少年健全育成条例」なる美名の条例が、大きな反対の声を無視して都議会を通過してしまった。
この条例は、簡単にいえば、過激な性描写や公序良俗に反する描写のある漫画を規制しようというもの。しかし、その規制対象をどう判断するのか、公序良俗に反する描写とはどういうものか。そのようなどうとでも取れるような内容を、都の官僚が恣意的に判断することの危険性、などが指摘され大きな反対運動につながった。
昨年の12月6日に行われた「都青少年健全育成条例改正を考える会」のシンポジウムに、私はパネラーのひとりとして招かれた。そして、その会での民主党都議の発言のあまりの幼さに、私は呆然としたのだ。
その都議は「前回の条例案には反対したが、今回の改正案に関し都側へ8項目の質問をする。その質問への回答が納得できるものであれば、私は賛成するつもりだ」という趣旨を述べた。
地方議員であろうとも、少なくとも政治家であるなら、一度制定された法律がどのような道筋を辿るのか、少しは学んだほうがいい。これが「国旗国歌法」と同じような経緯を辿って、表現の自由を抑圧する手段として使われかねないおそれを、なぜ感じないのか。
幼さと人の良さがにじみ出ているような若手議員だったが、これでは石原知事や海千山千の都官僚たちに、簡単に騙されてしまうだろう。制定された条例は、やがて本来の趣旨からは外れた強面に変わる。