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その時某氏は、
私に教えられた折伏を使って逃げた。それがたまたま、「時に叶った」様にも見えるが、それが本当に、日蓮大聖人様の御正意だったとは思えない。
「折伏」は自分や信心の筋目から、逃げるために行うものでは無い。「折伏」は、何処までも相手を思う慈悲から起こすものである。無論最初から、誰もがそんな高尚な命を持てないのも事実である。
時に叶ったものは叶ったものとして。また功徳は功徳として。
それはそのまま日蓮大聖人様へ御奉納されて然るべきであろう。しかし、やり残した内部固めを、いつまで放置して良いものでも無い。
「折伏」は「折伏」としてやり続けながら、やり遺された「内部固め」も同時に進行させなければ、本当に誰もが羨む、気持ちの良い妙相寺支部とはならない。
心に偽りを抱えたまま、
広宣流布など出来ないし、
してもいけないのだ。
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