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真珠湾奇襲とインテリジェンス  それはルーズベルトの陰謀だったのか? その1

 真珠湾奇襲とインテリジェンス  それはルーズベルトの陰謀だったのか?
いまだに論争になっている真珠湾奇襲に関する米英の陰謀説。日本と米英の歴史研究の温度差を押さえつつ、この問題をインテリジェンス研究の視点で解読してみよう。そもそも1930〜41年当時の米インテリジェンス機関とその内情は、いかなるものだったのか。

インテリジェンスで見る真珠湾奇襲
我々の歴史認識は人それぞれ異なる。それは歴史が「動かぬ証拠」として存在するものでなく、過去に起こった事実が「ある解釈を通して理解される」からであろう。
例えば、過去の事実を無数の点とすれば、その点が不規則に結ばれることにより一つの形(ここでいう歴史解釈)をつくることに似ている。不規則であるが故に、その形は変幻自在というわけである。歴史認識というものは、新事実となる史料の発見や新証言が公表されるたびに修正されることが、ごく一般的である。太平洋戦争に対する歴史観も日米開戦から六十八年近く経てもなお助長、または修正されることが時折ある。
1941年じゅうにがつなのか1H本時間用か一早
朝、南雲忠一中将率いる空母六12月7日(日本時間8日)早朝、南雲忠一中将率いる空母6隻を基軸とした機動部隊(第一航空艦隊)が日本から約5,500㎞離れたハワイの真珠湾に在泊する米海軍太平洋艦隊を攻撃した。米太平洋艦隊の主力であった戦艦8隻(沈没3隻、2隻それぞれ転覆・座礁、3隻損傷)、駆逐艦・巡洋艦それぞれ3隻とその他の補助艦艇4隻に打撃を与え、また航空機164機を破壊、128機に損傷を与え、少数の民間人を含む米国側の死者は2,403名、1178名が負傷した。
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この事実は米国史上海軍にとって最大の汚点として記録されることとなる(統計は『オックスフォード第二次世界大戦の手引きに』による)。統計的な誤差はあるにせよ、奇襲という形で決行された日本軍による真珠湾攻撃は、それまで反戦を望んでいた米国民の感情を「リメンバーーパールハーバー」として奮い立たせ、連合国の一員として米国の参戦を望んでいたフランクリンールーズベルト米大統領の思惑と一致する結果となった。これらは動かぬ事実であることに疑いはない。
この真珠湾奇襲の解釈において論争の的となっているのが、「米国は奇襲攻撃の計画を事前に知っていたのか?」ということである。いわゆる正統派史観を持つ研究者は、「ルーズベルトは知っていた」とする修正主義の主張を「真珠湾の検証」や「真珠湾の真実」などと題して論破する試みを行っているが、論争に終止符を打つまでには至っていない。ある正統派の歴史研究者は「(対置する修正主義が主張する)陰謀説が時折亡霊のように現れる」というが、記憶に新しい田母神前空幕長による論文もどちらかといえば修正主義の部類に属するといえるだろう。
「ルーズベルトは知っていた(=ルーズベルト陰謀説)」とする修正主義の主張は、日本の外交・軍事通信が傍受・解読されていたという論拠に支えられているものである。その陰謀説とは、「打倒ドイツを掲げ、欧州戦線への参加を望んでいたルーズベルトは、日本軍による真珠湾奇襲計画を通信傍受していながら、米太平洋艦隊を囮にすることによって日本との戦争を利用して裏木戸から大戦に参戦した」というのが大筋である。
また、ウィンストン・チャーチル英首相に関する陰謀説も存在し、これは「米国の欧州戦線への参戦を望むむチャーチルが暗号解読によって日本軍の奇襲計画を知りながら、ルーズベルトには知らせずに黙っていた」というものである。つまり、どちらにしても「日本軍の奇襲計画は通信傍受・解読され、ルーズベルト、チャーチルの.両者もしくは一方の思惑にはまった」ということになる。
これまでの日本における議論は肝心なインテリジェンスに関する検証が断片的であるため全体像の把握が難しく、結果として水掛論となっている感が否めない。よって本稿は真珠湾奇襲を体系的にインテリジェンスの観点から考察し、米英の情報収集や分析などのインテリジェンス能力とその利用方法、またインテリジェンスの成功と失敗について検証する。
紙面の制限から、言及できる真珠湾奇襲論争の争点は数点に絞り、また歴史的背景の記述は極力抑えざるをえなかったことを留意されたい。
 
真珠湾論争と修正主義
インテリジェンス活動の解剖を行う前に、真珠湾論争に関わることの中でも特に重要な数点に触れておく必要性を感じるため、退屈と思われるかもしれないが、簡潔に述べておきたい。
まず、日本と米英の真珠湾論争には多少なりとも隔たりがある。米英間においても温度差があることは確かだが、日本との差ほど大きくはない。これは歴史研究者の数と人手可能な文献の量に比例するものであると思われ言語的な問題も大きく影響していることは容易に判断できる。
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真珠湾奇襲に関しても一般的な歴史研究の例外ではなく、日本軍に関することは日本で行われている研究、米英に関することは米英の研究が入手可能な歴史史料や関係者証言なども含めて他国より優れ、より詳細であるのは言うまでもない。つまり「ルーズベルト、もしくはチャーチルは知っていた」という真珠湾論争の争点は主に米英が主体となっており、米英の研究の方が日本より進んでいるのが実情である。
真珠湾論争に関連する英文文献は数多く存在しているが、日本で行われている真珠湾論争の盲点は、主に日本語で刊行された文献に固執しがちであり、言語的な障害が立ちはだかっていることである。特に出版業界の諸事情などから、優れた専門的な研究文献は翻訳されず、より広範囲な読者にアピールできる書物が翻訳される傾向にある。つまり、察しのよい読者なら気づくと思うが、英文から日本語へ翻訳されているいわゆる真珠湾モノは、ほとんどが陰謀説を示唆するものに偏っており、一般読者向けにインパクトを与えるものが好まれて翻訳されている。このことが日本の真珠湾論争において陰謀説を助長する火種となっているといえる。
陰謀説を示唆するこれらの書物の多くは歴史書としての信憑性は疑わしいのにもかかわらず、例えば米国などでベストセラーとして一般受けしたものが鳴り物入りで翻訳され、日本で「歴史書」として刊行されるパターンがほとんどである。つまり、100%とは言わないまでも、「ベストセラー=歴史研究が優れている」という方程式は成り立たない。
次に、上記の文献の欠如や偏りに関連するが、日本と米英の真珠湾論争の温度差はインテリジェンス研究の発達の差と比例していることが挙げられる。米英ではインテリジェンス研究は学術的に確立しているが、日本では未発達な研究分野である。それによって同分野の研究者の数が桁外れに違うのである。インテリジェンス研究の認知度が低い日本では、肝心であるインテリジェンスに関する論争が「解読されていたか否か」つまり「Oか100か」に焦点が当てられ、表面的な議論が堂々めぐりしている。
インテリジェンス研究において、(情報収集の段階のミスは致命的であるが)インテリジェンスの失敗は主に情報分析やインテリジェンス利用者へ伝達されるまでの段階で起こるケースがほとんどであると認識されている。また、その利用者が提供されたインテリジェンスを有効活用することによって初めてその目的が達せられることは、読者ならご存じであろう。

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見抜けなかった独裁者の意図 なぜクウェート侵攻は防げなかったのか5

政策とインテリジェンスの関連性
当時の米国家戦略が対ソ構造であったため、ブッシュ政権がイラクの重要性や危険性を軽視する傾向にあったことは明らかである。情報収集に関しては先に述べたが、政府の政策に比例して情報分析の優先事項もそれによって振り分けられていた。
後の政府記録(1980年代後半から1990年)によると、軍事情勢や危機を担当していたDIAでは42名がベトナム戦争によるPOW/MIA(戦争捕虜・戦争行方不明者)の分析を行っていた一方、イラク情勢に関して常勤で分析を行っていたのはたった2名であった。
この政策方針はプッシュ政権だけを責められるものではない。POW/MIAは当時の社会問題であったため米議会からの政治的な圧力が働いており、また米議会上院がCIA長官就任の承認において、1980年代後半からイラクの軍備拡張といった潜在的危険性を唱えていたロバート・ゲイツ(元CIA副長官)を却下したことがイラク軽視傾向の外的要因として働いていた(ビル・ブラッドリー上院議員はゲイツの方針を「ソ連の脅威を軽視するもの」と非難していた)。
これらの背景から、イラクのクウェート侵攻の可能性に関してCIAやDIAが揃ってフセインの意図をはっきりせぬまま警報を発していたことは、ブッシュ政権にとっては雑音でしがなかった。
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一方、国務省のINRが「イラクの軍事行動はブラッフであり、外交的な手段によって解決可能」といった見解を示していたことは、事態を穏便に済ませたい政権にとっては好都合であったといえる。後に機密解除された外交通信によると、DIAやCIAが警報を発していた最中、グラスピー駐イラク米大使によるフセインとの25日の初会談(大使がイラクのクウェート侵攻を黙認するともとれる「アラブ間の地域問題に関しては特別な見解は持たず、米国政府はイラクとの友好的な関係を望む」と語ったもの)は、当時の国務省と大統領の見解が一致したうえで、外交的手段による解決のみに専念していた事実を明らかにしている。
情報畑のプロパーではないが、元DCIであったジョージ・H・W・ブッシュは.歴代の大統領の中で最もインテリジェンス能力と限界を理解していた人物であったといえる。特にヒューミントとシギントの欠如によって、フセインの意図は推測の域をでていなかったという大統領の指摘は的を射ていた。
そして、一貫性に欠ける米インテリジェンス・コミュニティの結論は政策決定者にとっては不確かに映ったのも確かである。一方、大統領は元DCIの経験を生かし、独自のネットワークによってある確証を得ていた。それは大統領が同アラブ諸国の国家元首であるエジプトのムバラク大統領とヨルダン国王と直接電話で話し、フセインから直接聞いた話として「フセインのクウェート侵攻は脅し」であると伝えられていたことである(両国家元首はイラクの軍事行動は「ただの脅し」だと本当に信じていたようである。これはフセインが先手として打った偽装工作の一つであった)。
イラクのクウェート侵攻が示すこと
激動の国際情勢において、敵国に対して常に完全な情報収集を行うのには限度がある。
特にヒューミントやシギントによって敵の正確な意図を得るのは容易なことではない。今回のイラクによるクウェート侵攻の場合、インテリジェンス・コミュニティは政策決定者に警報を与えていたものの、最終的にはインテリジェンスが有効活用されずに終わった。その裏には、「フセインの意図」という決定的な情報が欠如していたため、分析の多様性を求める性質をもつ米インテリジェンス・コミュニティの分析は(当然ながら)一統されず、理論的かつ合理的な分折が逆に仇となり誤った結論を導くこととなった。
国家機関の一つとしてのインテリジェンス・コミュニティの役割とは、インテリジェンスを政策決定者に提供することである。つまり、情報収集から分析に至る過程がいかに優れていようとも、最終的な結論はインテリジェンスを利用する政策決定者に委ねられる。今回のケースでは、インテリジェンス機関は政策決定者に警告を行うといった役割を果たしたものの、最終的に政策決定者がインテリジェンスを活用しなかった典型的な例であるといえる。

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見抜けなかった独裁者の意図 なぜクウェート侵攻は防げなかったのか4

情報分析の限界
上記のように今回のケースでは、危機を察知することにより政策決定者に警報するという意味で、インテリジェンス機関はその役割を果たしたといえる。
現に機密解除された1997年の報告書は、CIAが政策決定者に対して行った事前の正確かつ迅速な警報を称えている。しかし、ブッシュ大統領が指摘したように提供したインテリジェンスが完全でなかったことも確かである。欠けていたインテリジェンスがフセインの意図であったために、当初はイラクの軍事行動が威圧外交の手段なのか、それとも本当に攻撃する意図があるのかどうかといったことが争点であった。また、最終的には攻撃がクウェート領内のルメイラ油田やブビヤン島を占領するだけの「限定的なもの」か、それとも首都であるクウェート市を含む「全面的な占領」なのかといったことが分析の焦点となっていた。
イラクがクウェートを攻撃する意思があるであろうということは、偵察衛星によるイミントとNSAによるエリントによって米インテリジェンス・コミュニティは比較的早い段階でフセインの攻撃を予測できていた。厳密に言えば、CIAとDIAはほぼ正確に予測していたが、国務省の情報調査局である(INR)は最後までイラクの軍事活動は「ブラッフ(=まやかし)」として譲らなかった。ここにグラスピー駐バグダッド米大使が「インテリジェンスの失敗」と証言した原因がみられる。
しかし、CIAとDIAの正しかった分析の中でも、その軍事行動が「限定的なのか、全土の侵略なのか」といった争点は米インテリジェンス・コミュニティを二分し、実際には誤っていた「限定的であろう」という前者の見解が圧倒的多数を占めていた。その理由は、導き出した推論が皮肉にも「理論的かつ合理的」な情報分析であったからである。
本題である情報分折の争点に入る前に、米インテリジェンス・コミュニティを二分することになった情報分析の要因、つまり情報の欠如によって情報分析が袋小路となった問題を指摘しておく必要がある。
米インテリジェンス・コミュニティの他国に類をみない最強の情報収集能力とは、科学技術を利用したインテリジェンス(=テキント)である。特に偵察衛星よりリアルタイムで衛星画像がデータ送信されることにより、クウェート国境付近でのイラクの軍事行動の変化を定期的に分析できたことは、半世紀の間、上空からソ連の核開発状況をテキントによって監視してきたインテリジェンスの賜物であるといえる。
しかしインテリジェンス機関が獲得できなかった情報は、「サダム・フセインの意図」であり、偵察衛星は現在進行中の動向をリアルタイムで送信することが可能であるが、未来を写すことはできない。よって、衛星画像を分析して未来の動向を予測するのは分析官である人間の領域である。
一方、未来を伝えるインテリジェンスは、諜報活動によって獲得するヒューミントと通信傍受によるシギント(正確には前述したコリントの意味)がある。つまり敵の真意となる意図を探るには、側近などをリクルートして得るヒューミントか、秘密裏に敵の通話を傍受するシギントである。今回のイラクのケースでは、前述したように厳重なる監視下によってCIAのヒューミントを得る活動は限界があり、唯一の望みは米インテリジェンス・コミュニティ最大の規模と人員を誇るNSAのシギントであったといえる。しかし、今回のイラクの軍事作戦において、NSAも同様に通信傍受によって得られる情報は限られており、意図を掴むことはできなかった。
この背景には、1980年代前半のイラクとの密接な関係が深く影響している。
イラン・イラク戦争において米国はイラクにインテリ.シエンスを提供していたと先に触れたが、敵国の情報収集に対する防諜(=カウンター・インテリジェンス)についても同様であった。サダム・フセインをはじめ、イラク軍将校は米国の情報収集能力を把握する一方、その対策としてクウェート侵攻の軍事作戦の発動を掴まれないために偽装工作を行っていた。つまり米国が意図を掴めなかった裏には、特にクウェート侵攻作戦において実際に指揮をとっていた共和国親衛隊司令官のアルラワイ中将(Ayad Fulayyih Khalifa al-Rawi)の功績が大きいといえる。
イラク軍将校たちは米国によってソ連の偵察衛星からの監視を逃れる術を学んでいたが、これだけの軍事作戦を隠蔽することはできないことを悟っていたようだ。代わりにイラク軍が行ったことは、傍受される可能性が高い無線交信などは極力控えることによって厳重な通信保全を敷き、1980年代以降に米国に察知されることなしに敷設された安全な陸上通信線を利用したことである。万が一暗号化された通信が傍受されても軍事作戦の意図が路程しないように努めた厳重な通信保全は、米国が誇るNSAの通信傍受能力を完封したといえる。
これを可能にさせた背景には、米インテリジェンスの情報収集能力と限界を把握し、そして8年間に及ぶイランとの交戦によって培われた経験があったのである。ウィリアム・O・ステユードマンNSA長官(当時)は、イラクに分があった事実を後に認めている。
敵国に関する決定的な情報(今回の場合、イラク軍事行動の意図)を掴んでいなければ、情報分析官は秘密情報と公開情報(=オシント)を要とした推測に頼らざるをえない。情報分析の共通理念は「理論的かつ合理的な推測」であるが、米インテリジェンス.コミュニティを構成している主要省庁の情報機関がそれぞれ異なる分析結果を生むことは珍しいことではない。つまり理論的かつ合理的な推論の裏には、各省庁の組織文化が創りだす連帯感や、意識・無意識的に働く各省庁の組織理念が深く影響しているからである。
今回のケースの典型的な例は、常に外交努力によって戦争を回避させようとする理念を持つ国務省のINRが、フセインの軍事行動は脅しであると最後まで譲らなかったことである。その省庁間の分析見解の差異を是正するのが各省庁から独立しているCIAの役割であるが、それでも情報分析の限界は存在するといえる。
次項で述べる政策とも関連することであるが、国家情報分析は国家という枠組みから生まれ、そして、いくら専門的な訓練を受けた分析官でさえ認知心理学的な素因から人間が持つ認知バイアス(=心理作用による偏見)から逃れることは不可能である。
米インテリジェンス・コミュニティの分析能力の欠陥として度々指摘されるミラーイメージング(白分の価値観や合理性で相手をみてしまうこと)であるが、その原因となるのは分析官による偏見(在外経験や言語能力の不足から生まれる見解)などといった改善可能なものから、異なる文化や政治理念、そして不合理な暴政を行う独裁者の心理を読み間違えるといった改善不可能に近いものも含まれる。今回のケースでは、アラブやイスラム文化、そしてイラク・中東情勢に精通している者でさえ、独裁者であったサダム・フセインの意図を予測することは不可能であった。
大多数の見解であった理論的かつ合理的な推論とは、要約すれば「イラクのクウェート侵攻は政治的なリスクを伴うが、万が一そのような行動に走っても、クウェート全土を攻撃するような侵略はあまりにも無謀である」といった見解や、「歴史的にアラブ諸国間での紛争は全て外交努力によって解決されており、フセインの過去の言動(イラン・イラク戦争ではアラブ民族の一.致団結を掲げて異民族であるイランと交戦)を考慮すると同民族であるクウェートに対する全面的な軍事攻撃は考え難い」といったものであった。
結果論からすればこれは間違った分析なのだが、エジプト、サウジアラビア、クウェートといった同アラブ諸国の見解や、当時のソ連でさえも「フセインの軍事行動は脅しである」と信じていた事実がある。そして、結果的に国際社会を敵に回し、第一次湾岸戦争や経済制裁を引き起こす根源となったフセインの侵攻は(論争はあるにせよ)政治的な判断ミスであったといえる。このような.小合理な判断ミスは、結論として導き出される理論的かつ合理的に行われた分析では予測不可能である。
無論、過去に事例がないから未来でも起こる可能性は少ないと断言はできない。しかし、多数で構成される米インテリジェンス・コミユニティの中では、過去の事例があるからこそ妥当な分析結果として政策決定者に進言されることとなる。7月31日に米インテリジェンス・コミュニティ全体によって結論された情報分析は、「イラクのクウェート侵攻の可能性は濃厚。クウェート側からの経済的譲歩が目的と予測されるため、攻撃はルメイラ油田やブビヤン島などといった限定的なものであろう」という見解であった。
実際に正確な分析を行っていたのはアレンを含む少数派の見解であった。その1人である当時気鋭のDIA分析官であったウォルター・Pーランによれば、大多数が誤った見解の理由は「政策の希望的観測に影響された視野の狭さ」であったとしている。

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見抜けなかった独裁者の意図 なぜクウェート侵攻は防げなかったのか3

イラク軍の動向とクウェート侵攻の警告
インテリジェンス・コミュニティの役割とは、必要かつ正確な情報を政策決定者に提供し、国家運営のための助力となることである。特に国際情勢の動向を監視することにより危機を察知し、警報することはインテリジェンス機関の使命であるといえ、それによって政策決定者に対策を講じる猶予を与えるものである。
1973年第4次中東戦争の勃発により、米下院情報問題常設特別調査委員会は「歴史的にみてもインテリジェンス`コミュニティの危機探知能力が欠如している」と指摘、1979年のDCI指令によってコミュニティ内に警戒警報担当国家情報官のポストが新設された。80年代後半には、警戒警報担当国家情報官であったチャールズ・E・アレンが、イラン・イラク戦争後もイラク軍の軍備縮小はみられず、生物化学兵器の開発が着々と進んでいたことに注目していた記録が残っている。
また、後にアレンはイラク軍のクウェート侵攻を警報することになるが、彼が危険を察知するに至った理由は、1990年2月にフセインがOPECの割当て量以上に石油の増産を続けるクウェートとUAE、冷戦終結後に大量のユダヤ人入植政策を行っているイスラエルとそれを支持する米国を公然と非難、そして親米政策をとっているアラブ諸国に対してもその非難の矛先をむけていたからであった。同年3月の時点で、米インテリジェンスーコミュニティはイラクのスカッド・ミサイルがイスラエルとシリアを射程内に収めるという情報も入手しており、KH-11がイラクの西部地域を定期的に観察していたようである。
1990年5月初旬、イラクの軍事行動に関し、最初に警報を発したのはCIAであったことが記録に残っている。それはCIA独自の中東の情報源が「イラクがクウェートに関心を示している」という内容であった。フセインの真意は定かではないものの、これによって米インテリジェンス・コミュニティは優先事項である情報収集の標的をソ連からイラクヘと移し、7月までにKH-11、4基をイラクとクウェートの国境上の極軌道に載せ、1988年に打ち上げられたレーダー衛星のラクロス一機もイラクに標準を合わせている。
これによって一連の偵察衛星は、定期的にクウェート国境上を循環することによってイラクの動向を監視することになったのである。
同一の標的にこれだけの偵察衛星が集中するのは、米史上初めてとされる。
7月17日、最初にイラク軍の行動が偵察衛星によって確認された。イラクの革命記念日でもあった同日、フセインは演壇でクウェートとUAEを再度非難。これによって、クウェート軍は警戒態勢を敷くこととなり、この異常事態はクウェートに駐在しているリエゾンから国防総省の国防情報局(DIA)に伝達された。翌日、中央軍は行動を起こすための準備にとりかかり、多くのイミントの収集を要請した。
19日、最新の衛星画像によって、CIAの画像分析官はイラク軍がクウェート国境へ向け南下していると米インテリ.シェンス・コミュニティへ報告した。DIAを介して画像写真とともに報告を受けたコリン・L・パウエル統合参謀本部議長(当時)によると、衛星写真によって共和国親衛隊の印であるソ連製のT72戦車部隊が「驚くほど明確に確認できた」と自身の回顧録で語っている。
21日、新たな衛星写真は、イラク軍がクウェート国境付近で集結しつつあるのを確認。DIAは偵察態勢過程を示すWATCHCONシステムを、WATCHCONW(=平時状態)からWATCHCON皿(=重要な脅威レベル)に引き上げた。同様に、アレンはペンタゴンを拠点として情勢の危機を分析している彼の部下より、「最初の共和国親衛隊がイラク南部のバスラに到着した」との報告を受ける。
23日、アレンはCIAとDIA分析官との協議の末、DCIやCIA副長官を介して政策決定者に警報される緊急報告書の作成を部.トに指.小。同時にCIA分折官を利用して、フセインの動機や心理状態などを分析した報告書も添付するように命令する。この不透明な危機を確証させる裏付けとして、アレンは英国の情報当局により「バグダッド・バスラ間を約3000を超える軍用車輌が移動中。フセインがクウェートへ侵攻する可能性あり」という情報を受け、彼独白の見解を強めた。
24日、数万人規模の兵員と戦車輸送車などの車輌がKH−11によって確認されたという報告により、DIAはWATCHCONⅡ(=死活的な脅威レベル)へと引き上げる。また、同日までに米インテリジェンス・コミュニティは、クウェート当局へ「共和国親衛隊のハムラビとメディナの1個師団がクウェート国境付近に集結している」旨を伝えている。
またアレンとDIA分析官は、ペンタゴンに警報を送った。
同日、DCIであるウィリアム・ウェブスターCIA長官はホワイトハウスに赴き、共和国親衛隊の2個師団が南下している衛星画像をブッシュ大統領に見せ、ブリーフィングを行っている。
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25日、それまでイラク軍との交戦を想定して度重なる軍事演習(想定は理論的なものであり、実際の情勢とは異なる)を行っていた中央軍は、アレンとDIAからの報告を受け、イラク軍によるクウェート侵攻を抑止するための準備的な軍事行動を考案した。
インド洋のディエゴ・ガルシア島近郊での訓練のためにマラッカ海峡を運航中であった米海軍第7艦隊の空母インディペンデンスは訓練後、北アラビア海に向かう予定であったが、予定を切り上げペルシャ湾へ向かわせる案、ディエゴ・ガルシア島の米軍基地に既に配属されている海上事前集積船隊を利用し、戦車を含む重装備物資をサウジアラビアのペルシャ湾に近い都市であるアルジュベールヘ輸送する案、あるいは空軍の1個飛行隊(F−15
など)をサウジアラビアへ向かわせる案などであった。中央軍は抑主力として、また万が一のイラク軍の侵攻に対応するために米軍の軍事行動が必要として、これらの案の実行許可を仰ぐ要請を提出した。
しかし、同日、エイプリル・グラスピー駐イラク米国大使がフセインと初会談をしており、外交手段によって事態を解決することを望んでいたブッシュ政権は、国務省の働きかけもありペンタゴンの要請を却下した。
一方、同日にアレンが「戦争の警告」と題したコミュニティ内部文書を作成。それによると、「イラク軍は既に軍団規模の作戦展開が可能で、クウェート軍を壊滅し、ほぼ全てのクウェート領土を占領できる軍事能力」があると指摘。そして「イラク軍が侵略行動を起こす可能性は、60%以上」と記されている。
27日夜、.連のイラクの軍事行動がクウェートに対する単なる外交的な圧力ではなく、実際に侵攻する意思があると思われる重要な鍵となる徴候を見つける。赤外線システムを搭載した偵察衛星は、イラクの軍用トラフクがクウェート国境近くに待機している軍隊に対し、弾薬、水、燃料といった兵軸支援を行っている現場を捕らえたのである。そして通信傍受を行っていたNSAも同様に鍵となるエリントを傍受する。電波放射によって、イラン・イラク戦争後ほぼ全面的に機能を停止していたレーダー施設の再稼働を確認したのである。
このインテリジェンスによって、イラク軍の侵攻に懐疑的であったウェブスターCIA長官とパウエル統合参謀本部議長は、「可能性あり」として認識することになった。
28日早朝、DCIのウェブスターは大統領にデイリー・ブリーフィングを行うため、ホワイトハウスを訪れる。前日のイミントは決定的な証拠であり、f断を許さないと判断したウェブスターは、通常ではDCIが行う.ブリーフィングを同日は主なブレーンを伴って報告を行っている。その一団のメンバーは、情報収集を担当するリチャード・F・ストルツCIA作戦本部長(DDO)、CIA筆頭の近東専門家、2人の衛星画像分析官、そしてチャールズ・アレン警戒警報担当国家情報官であった。そして、CIA分析官によって用意されたフセインの動機を政治心理学的に分析した内容もブリーフィングされた。
しかし、ブッシュ大統領はブリーフィングを受けた後も懐疑的のままであった。それは、この警報には「フセインの意図」という肝心なインテリジェンスが抜けていたのである。
つまり、フセインは「本当にクウェートを侵攻」するつもりなのか、そして侵攻があるとするのならばそれは「いつ」で、その規模や侵攻の範囲はどれほどのものなのかといった問題が解決されぬまま残っていたのである。
31日午前6時45分、実際にイラクがクウェートへ侵攻する約18時間前、偵察衛星はイラク軍の攻撃を示唆する最新のイミントを提供する。アレンによれば、イラク軍はクウェート国境から2㎞以内において、機甲、機械化歩兵旅団と砲兵大隊が攻撃隊形に配置されている動向と、イラク空軍攻撃機がクウェート近郊の飛行場へ移動し、約50機の攻撃ヘリが集結していたことを確認した。
これによってアレンは、新たな「戦争の警告」を作成し、「イラク侵攻の可能性は、最低でも70%以上」と引き上げた。同時に、ペンタゴンは偵察態勢を最高レベルであるWATCHCONI(=戦時状態レベル)とし、DIAがC工Aに代わって国家情報指令の全権限を譲り受けた。
DCIのウェブスターは最新のインテリジェンスを持参してホワイトハウスを訪れ、ブレント・スコウクロフト国家安全保障問題担当補佐官にブリーフィングを行っている(この時のイラク軍の地上侵攻部隊は、共和国親衛隊の3個重師団を含む8個師団であった)。
ウェブスターはスコウクロフトに対し、「イラクはクウェートを24時間以内に侵攻する」と警報した。
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一方、この時点ではパウエル統合参謀本部議長や中央軍総司令官H・ノーマン・シュワルツコフ大将もイラクのクウェート侵攻が現実であると信じていた。同日午後、パウエルとディック・チェイニー国防長官は、フセインヘの警告を大統領へ進言することを決定。
しかし時すでに遅く、「外交的警告を行う前に、8万人のフセインの親衛軍が国境を超えクウェート市に向かった」とパウエルは後に語っている。

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見抜けなかった独裁者の意図 なぜクウェート侵攻はふせげなかったのか2

米のインテリジェンス機関とイラクに関する情報収集
バグダッドを拠点として活動していたCIAは、人的情報(=ヒューミント)を利用することによってイラクの大量破壊兵器の開発状況や、関連施設の場所などの情報収集を独自に行っていた事実が後の政府委員会の記録で明らかになっている。しかし、当時の対ソ中心の国家戦略が.心すように、バクダッド支局で活動していたCIAの人員と活動は限られており、そして80年代後半からの両国間の関係の悪化によってイラクでのCIAの活動は、ほぼ機能が停止状態にあったといえる。
中東情勢専門の元CIA分析者であり大統領特別補佐官であったブルース・リーデルによると、在バグダッド米大使館に出入りする全ての者はイラクの治安当局によって完全な監視下にあったとされる。両国の関係が悪化した80年代後半以降、CIA職員がイラク当局により身柄を拘來されたうえ、砂漠の真ん中で解放されたり、CIA支局長が利用する乗用車のミラーやアンテナなどが折られたりしたことも多々あったようだ。
また、バグダッド市外へ出るには治安当局からの許可を必要とし、イラク国内の移動ルートを事前に報告することが義務付けられていたという。つまり市外でも、治安当月であるムハバラットの尾行と監視が行われ、前出の駐イラク米国大使でさえ移動許可を得るのは困難であり、「許可を得たとしても当局による監視に悩まされた」と米上院外交関係委員会の公聴会で語っている。ブルースーリーデルが経験したあるエピソードによると、市外で道に迷って運転手が現地民に道を尋ねた後、尾行していた治安当局がその現地民を連れ去る場面がバックミラーに映ったという。後にリーデルは、「不幸な彼の身に何が起こったかは神のみぞ知る」と語っている。これらの証言と独裁者が治安当局を利用して徹底した恐怖政治を行っていたことを考慮すると、CIAが収集していたヒューミントは極めて限られていたことが推測できる。
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しかし、米インテリジェンス・コミュニティの情報収集能力とはCIAが行う諜報活動のみではない。特定の省庁ではなく、国家戦略に沿って通信傍受を行う国家安全保障局(NSA)と偵察衛星などの管理を担う国家偵察局(NRO)が存在する。両機関の人員は国防総省の管理下にあるが、これは形式および便宜的なもので、実際には国家情報機関であるため、その活動はCIAによって監督されている。NSAが信号情報(=シギント)、NROが画像情報(=イミント)を国家戦略に沿って収集するインプットの役割を担っているということになる。CIAによるヒューミントの欠如を埋めるかたちで、両機関がイラク国外や上空から情報収集を行っていたことが明らかになっている。
米インテリジェンス・コミュニティの中核として最大の人員と規模を誇り、世界規模で情報収集活動を行ってしているのがメリーランド州フォートミードに本部を置くNSAである。この機関はコミュニティの中でも最も機密レベルが高く、NSAは「No Suchagency(そのような機関は存在しない)」との略だと比倫されることもある。1948年の英米同盟(UKUSA)に基づき、英国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドと協力することによって世界盗聴網(俗称、エシュロン)を築き、組織的に対ソの通信傍受を行っていた。
特に、大英帝国として世界の大半の領土を保有していた歴史的背景から、英通信傍受機関である政府通信本部(GCHQ)の役割は大きい。中東地域において、GCHQはキプロス島の英国軍基地を拠点として中東全域と北アフリカを含む地中海沿岸の通信傍受を行っている。無論、GCHQキプロス支局内にNSA人員も派遣されている。
米インテリジェンス・コミュニティの科学技術を利用した情報収集研究の第一人者であるジェフリー・リチェルソン博士によると、NSA本部の信号情報作戦部(Pグループ)は管轄エリア別に分かれ、1990年当時はGグループ(ソ連・中国を除く同盟国を含ん
だその他の諸国を担当する課)の中東班であるG6がイラクに対して通信傍受をしていた。
そこでデータ解析といった暗号解読を含む情報処理が行われていたようである。
実際の通信傍受は、キプロス島を拠点としているNSA地上局のリスニングポストと宇宙空間を利用した衛星システム(前出Pグループ内Wグループの管轄)によって行われ、宇宙空間へ抜ける高い周波数(VHF、UHF、SHF、EHFなど)による国内外への軍事やビジネスを含む通信や、ラジオ通信などによる比較的低周波(ELF、VLF、LF、HFなど)を傍受しているとされる。Pグループは実質的なシギント作戦の総指揮官である副長官によって管理されるが、同グループ内の国家信号情報作戦センター一NSOCは国際情勢の動向を観察して危機を感知するため、警報は直接NSA長官へ伝達されることになる。
これらの科学技術を利用したシギントと呼ばれ信号情報(厳密に言えば、シギントはコリントと呼ばれる通信傍受とエリントと呼ばれる無線交信やレーダーからの電磁放射探知に分かれる)の収集は米国が得意とするものである。
その中でも、最も確実であり高レベルの通信傍受とは、海外で工作活動を行うCIAと技術提供するNSAが連携することによって外国内の陸上通信線に傍受機器などを設置することである。しかし、上記のようにイラクではCIA活動が極端に制限されていたこともあり、固定電話線などの通信傍受は不可能であったとの見方のほうがより賢明であろう。
インテリジェンス・コミュニティ内で国家戦略に従い偵察衛星を利用してイミントを収集するのは国家偵察局(NRO)の役割であり、今回のイラクの軍事行動やクウェート侵攻においても例外なく任務を遂行している。
また、NROはコミュニティ全体の衛星の開発と運用を行うため、イミント衛星だけでなく、通信傍受するシギント衛星であるライオライトなども運用している。先述したようにNROの所属は国防総省であるため、空軍の影響下にある組織として認識されるきらいがあるが、実際にはインテリジェンス・コミュニティの長であり、CIAの長官でもある中央情報長官(DCI)が議長を務める国家偵察執行委員会(NREC)が運営している国家情報機関である。
イミントを収集する手段は、戦略偵察機であるSR−71やU−2なども含まれるが、イラクの軍事行動については主に偵察衛星が観察していたことが記録に残っている。当時の偵察衛星はKH−11(通称、キーホール)が主体であり、その能力の特徴は、撮影された衛星画像はデータとして送信されるためリアルタイムで情勢の動向を観察することができ、早期に警告を与える役割を持つことである。

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