ナチス要人を暗殺せよ イギリス特殊作戦執行部SOE 1
ナチス要人を暗殺せよ イギリス特殊作戦執行部SOE
ナチス・ドイツの侵攻により欧州大陸の足場を失ったイギリスは、官僚・軍事組織から独立した秘密機関SOEを設立した。彼らは各地のパルチザン支援作戦、そしてハイドリヒやヒトラーの暗殺作戦を練り、実行する! 1942年5月27日午前10時半、ドイツ第三帝国の親衛隊(SS)最高幹部であり、べーメン・メーレン(ボヘミア・モラビア)保護領総督代理のラインハルト・ハイドリヒを乗せたメルセデス・ベンツのオープンカーは、職場であったプラハ城へ向かう途中、傾斜するヘアピンカーブに入るために徐行した。当時、保護領を支配する立場にあったハイドリヒはドイツの秘密警察組織を束ねる国家保安本部(RSHA)長官も務めていた。その日の午後から数日間ベルリンヘ滞在する予定であったハイドリヒは通常行動を共にするSSの護衛を先に発たせ、家族との団簗をいつもより長く楽しんだ後、部下が運転するメルセデスの助手席に乗り、プラハ郊外のブレツァニーの自宅を出ていた。
ヘアピンカーブの先にはプラハ郊外に延びる路面電車の停留所があり、その手前の歩道には男が1人立っていた。その男はハイドリヒを乗せたメルセデスを確認すると、脇に丸めて抱えていた新聞を反対の脇に抱え直した。すると、イギリス製のステン短機関銃を手にした別の男が路面電車の停留所から飛び出し、ハイドリヒを乗せた車の前に立ちはだかり、向かってくるメルセデスヘ向けて引き金を引いた。しかし男が持つステンはジャミングを起こした。 ハイドリヒは運転手に止まるよう命じ、抵抗する無礼者を捕えようとピストルを手にし、急停止したメルセデスから飛び降りた。その直後、第3の男が路面電車の停留所から姿を現わし、手にしていた手榴弾をハイドリヒヘ目がけて投げた。手榴弾はメルセデスの右側面に当たり、ステンの男を追っていたハイドリヒの背後にあった道路脇の浅い溝で炸裂した。数歩前進した後、ハイドリヒは地面に崩れ落ちた。2人の〃無礼者〃は自転車で走り去り、合図を送った男も足早にその場から消え去った。 ハイドリヒはすぐにプラハ市内の病院に運ばれたが、約1週間後の6月4日、敗血症のため同病院で息を引き取った。このハイドリヒの死因には様々な憶測があり、中には手榴弾の内部にイギリスが開発した生物兵器が混入されていた説などがあるが、戦時中のプラハ郊外の衛生管理、とくに道路の排水溝などは決して良くなく、手榴弾の破片に付着していた汚物などがハイドリヒを死に至らすのには十分であったと考えられる。 SS長官のハインリヒ一ヒムラーは右腕であった直属の部下への襲撃を報告されるや否や、直々に命令を下し、少しでも怪しい行動をとる者はその場で射殺するよう指示した。また地下活動組織と関連していると思われる者は即座に逮捕された。 総統の主要死刑執行人であったハイドリヒを死に追いやった復仇はそれだけに留まらず、ヒトラーは6月9日に指令を出し「〃無礼者〃を匿っている」との名目で、見せしめとしてリディツェとレジャーキなど小さな村が完全に破壊された。リディツェを例に挙げれば、198名の男性は射殺、184名の女性がラーフェンスブリュック強制収容所、11名の女性が刑務所に送られ、98名の子供がレーベンスボルン(「命の泉」計画)に従って誘拐された。復仇の犠牲者は少なくとも5000名にのぼるという記録が残っている。 一方、2人の〃無礼者〃はプラハにある教会の地下室に穴を掘り、身を潜めていたが、約6時間に及ぶ銃撃戦の末、6月18日、SSの手に落ちる前に自ら手榴弾の安全装置を外して命を絶った。 このドイツ第3帝国の次期総統と噂されたハイドリヒの暗殺計画「エンスラポイド作戦」は、ロンドンに亡命中のエドヴァルド・ベネシュ大統領に承認されたもので、作戦の総指揮は、在ロンドン・チェコ亡命政府の秘密情報機関の長官フランチシェク・モラヴェッツ大佐によって執られた。 作戦を遂行した20代後半の2人の〃無礼者〃(ヨーゼフ・ガブツィクとヤン・クビシュ)は母国をドイツの支配から解放するため、自ら作戦への参加を志願していた。そして2人のチェコ戦士は、英国の秘密機関である特殊作戦執行部(SOE)で訓練をうけ、作戦決行の約半年前に英空軍RAF(No138特別任務)によって占領下の母国の大地へ武器と共にパラシュート降下していたのであった。 SOE(特殊作戦執行部)の誕生 SOEは、ウィンストン・チャーチルが英首相に着任して間もなく誕生した。 1939年9月の欧州戦線の勃発から1940年5月のドイツ軍によるフランス侵攻まで、英仏連合軍首脳部の対ドイツ戦略は第1次世界大戦の経験をふまえて練られていた。 それは、第1次大戦と同様にフランス・ドイツの国境付近にあるマジノ線でドイツ軍を足止めし、長期にわたる消耗戦を想定したもので、英国の対独戦略は英国陸軍がドイツ陸軍より劣ることを考慮し、次の3本柱によって構成されていた。 第1に、空軍で欧州大陸の直接攻撃を狙い、ドイツの都市に対して戦略爆撃を行うこと。第2に、海上から海軍による経済封鎖を行うことでドイツ経済を消耗させ、ドイツ国民の士気とナチス・ドイツ政府への信頼を低下させること。そして、3つ目の柱は破壊工作によりドイツ経済を停滞させ、ゲリラ戦でドイツ軍の戦争能力を撹乱させることであった。 この3つ目のゲリラ戦は「最悪の事態」、すなわちドイツ軍による「フランスの陥落」を想定した英国軍の参謀本部が発案したものであった。地上戦で劣ると予測した参謀本部は、弱者が強者に対して歯向かう常套手段であるゲリラ戦でドイツ軍と交戦するつもりだったのである。そして英国がドイツに勝利するには第1次世界大戦同様、「米国の軍事介入が必要」であると判断し、ゲリラ戦は軍事活動を支援する〃第5列〃(敵対勢力の内部に紛れ込み、後方撹乱を目的に活動する者)の役割になると確信していた。 この戦略に沿うように国防省と外務省、そして秘密情報機関(M16)はプロパガンダの宣伝工作によってレジスタンス運動を煽動し、破壊工作や国家転覆などを企てるゲリラ戦を專門に実行する機関をそれぞれ設置したのであった。 しかし1940年6月、早くも参謀本部が想定した「最悪の事態」が起こることになる。連合軍戦略のカギであったフランスの防衛線がドイツ軍の電撃戦により突破され、瞬く間にパリが陥落してしまったのである。 英国は孤立無援になり、その状況のなかでドイツ軍と戦うこととなった。そして、フランスの敗北により英国遠征軍が欧州大陸から撤退したことで欧州大陸はナチス・ドイツによって完全に支配され、大陸で活動していたM16とそのネットワークは完全に遮断されてしまった。また、プロパガンダによる宣伝工作やゲリラ戦などの反ナチスのレジスタンス活動を行う地下紐織などへの支援は組織間の相違からまとまりがなく、実りのある結果はでていなかった。 同年5月10日に戦時内閣の首相を辞任したネヴイル・チェンバレンの後を引き継いだウィンストン・チャーチルは、首相の権限を利用し、現存する官僚・軍事機関から完全に独立した秘密機関、SOEを設置することを決定する。当時、チャーチルは北欧侵攻の際のドイツ軍の〃第5列"の働きが大きな役割を果たしたと信じていた。また、英国社会やメディアも英国内に潜伏する(と思われていた)ドイツの〃第5列〃の存在を最大の脅威として騒ぎ立て、国内の世論と防諜機関M15はパニック寸前の狂乱状態になっていた。 チャーチルのドイツの〃第5列〃に対する認識(実際には誤認識)とその解決への期待は秘密機関の設置へ向けて大きく作用し、彼が首相に着任してから約2か月後の1940年7月19日に「特殊作戦執行部(SOE)」が誕生したのであった。チャーチルは創設当時、〃欧州大陸に潜む反ナチスの地下組織の妨害活動、宣伝工作や破壊工作、国家転覆を含むすべての秘密活動を全面的に支援し統括する〃ことを目的としたSOEの存在理由とその作戦に対する期待を込めてこう語っている。「さあ、ヨーロッパ大陸を火の海にしてやろう。」 |