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ナチス要人を暗殺せよ イギリス特殊作戦執行部SOE 1

ナチス要人を暗殺せよ イギリス特殊作戦執行部SOE
ナチス・ドイツの侵攻により欧州大陸の足場を失ったイギリスは、官僚・軍事組織から独立した秘密機関SOEを設立した。彼らは各地のパルチザン支援作戦、そしてハイドリヒやヒトラーの暗殺作戦を練り、実行する!
1942年5月27日午前10時半、ドイツ第三帝国の親衛隊(SS)最高幹部であり、べーメン・メーレン(ボヘミア・モラビア)保護領総督代理のラインハルト・ハイドリヒを乗せたメルセデス・ベンツのオープンカーは、職場であったプラハ城へ向かう途中、傾斜するヘアピンカーブに入るために徐行した。当時、保護領を支配する立場にあったハイドリヒはドイツの秘密警察組織を束ねる国家保安本部(RSHA)長官も務めていた。その日の午後から数日間ベルリンヘ滞在する予定であったハイドリヒは通常行動を共にするSSの護衛を先に発たせ、家族との団簗をいつもより長く楽しんだ後、部下が運転するメルセデスの助手席に乗り、プラハ郊外のブレツァニーの自宅を出ていた。
ヘアピンカーブの先にはプラハ郊外に延びる路面電車の停留所があり、その手前の歩道には男が1人立っていた。その男はハイドリヒを乗せたメルセデスを確認すると、脇に丸めて抱えていた新聞を反対の脇に抱え直した。すると、イギリス製のステン短機関銃を手にした別の男が路面電車の停留所から飛び出し、ハイドリヒを乗せた車の前に立ちはだかり、向かってくるメルセデスヘ向けて引き金を引いた。しかし男が持つステンはジャミングを起こした。
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ハイドリヒは運転手に止まるよう命じ、抵抗する無礼者を捕えようとピストルを手にし、急停止したメルセデスから飛び降りた。その直後、第3の男が路面電車の停留所から姿を現わし、手にしていた手榴弾をハイドリヒヘ目がけて投げた。手榴弾はメルセデスの右側面に当たり、ステンの男を追っていたハイドリヒの背後にあった道路脇の浅い溝で炸裂した。数歩前進した後、ハイドリヒは地面に崩れ落ちた。2人の〃無礼者〃は自転車で走り去り、合図を送った男も足早にその場から消え去った。
ハイドリヒはすぐにプラハ市内の病院に運ばれたが、約1週間後の6月4日、敗血症のため同病院で息を引き取った。このハイドリヒの死因には様々な憶測があり、中には手榴弾の内部にイギリスが開発した生物兵器が混入されていた説などがあるが、戦時中のプラハ郊外の衛生管理、とくに道路の排水溝などは決して良くなく、手榴弾の破片に付着していた汚物などがハイドリヒを死に至らすのには十分であったと考えられる。
SS長官のハインリヒ一ヒムラーは右腕であった直属の部下への襲撃を報告されるや否や、直々に命令を下し、少しでも怪しい行動をとる者はその場で射殺するよう指示した。また地下活動組織と関連していると思われる者は即座に逮捕された。
総統の主要死刑執行人であったハイドリヒを死に追いやった復仇はそれだけに留まらず、ヒトラーは6月9日に指令を出し「〃無礼者〃を匿っている」との名目で、見せしめとしてリディツェとレジャーキなど小さな村が完全に破壊された。リディツェを例に挙げれば、198名の男性は射殺、184名の女性がラーフェンスブリュック強制収容所、11名の女性が刑務所に送られ、98名の子供がレーベンスボルン(「命の泉」計画)に従って誘拐された。復仇の犠牲者は少なくとも5000名にのぼるという記録が残っている。
一方、2人の〃無礼者〃はプラハにある教会の地下室に穴を掘り、身を潜めていたが、約6時間に及ぶ銃撃戦の末、6月18日、SSの手に落ちる前に自ら手榴弾の安全装置を外して命を絶った。
このドイツ第3帝国の次期総統と噂されたハイドリヒの暗殺計画「エンスラポイド作戦」は、ロンドンに亡命中のエドヴァルド・ベネシュ大統領に承認されたもので、作戦の総指揮は、在ロンドン・チェコ亡命政府の秘密情報機関の長官フランチシェク・モラヴェッツ大佐によって執られた。
作戦を遂行した20代後半の2人の〃無礼者〃(ヨーゼフ・ガブツィクとヤン・クビシュ)は母国をドイツの支配から解放するため、自ら作戦への参加を志願していた。そして2人のチェコ戦士は、英国の秘密機関である特殊作戦執行部(SOE)で訓練をうけ、作戦決行の約半年前に英空軍RAF(No138特別任務)によって占領下の母国の大地へ武器と共にパラシュート降下していたのであった。
SOE(特殊作戦執行部)の誕生
SOEは、ウィンストン・チャーチルが英首相に着任して間もなく誕生した。
1939年9月の欧州戦線の勃発から1940年5月のドイツ軍によるフランス侵攻まで、英仏連合軍首脳部の対ドイツ戦略は第1次世界大戦の経験をふまえて練られていた。
それは、第1次大戦と同様にフランス・ドイツの国境付近にあるマジノ線でドイツ軍を足止めし、長期にわたる消耗戦を想定したもので、英国の対独戦略は英国陸軍がドイツ陸軍より劣ることを考慮し、次の3本柱によって構成されていた。
第1に、空軍で欧州大陸の直接攻撃を狙い、ドイツの都市に対して戦略爆撃を行うこと。第2に、海上から海軍による経済封鎖を行うことでドイツ経済を消耗させ、ドイツ国民の士気とナチス・ドイツ政府への信頼を低下させること。そして、3つ目の柱は破壊工作によりドイツ経済を停滞させ、ゲリラ戦でドイツ軍の戦争能力を撹乱させることであった。
この3つ目のゲリラ戦は「最悪の事態」、すなわちドイツ軍による「フランスの陥落」を想定した英国軍の参謀本部が発案したものであった。地上戦で劣ると予測した参謀本部は、弱者が強者に対して歯向かう常套手段であるゲリラ戦でドイツ軍と交戦するつもりだったのである。そして英国がドイツに勝利するには第1次世界大戦同様、「米国の軍事介入が必要」であると判断し、ゲリラ戦は軍事活動を支援する〃第5列〃(敵対勢力の内部に紛れ込み、後方撹乱を目的に活動する者)の役割になると確信していた。
この戦略に沿うように国防省と外務省、そして秘密情報機関(M16)はプロパガンダの宣伝工作によってレジスタンス運動を煽動し、破壊工作や国家転覆などを企てるゲリラ戦を專門に実行する機関をそれぞれ設置したのであった。
しかし1940年6月、早くも参謀本部が想定した「最悪の事態」が起こることになる。連合軍戦略のカギであったフランスの防衛線がドイツ軍の電撃戦により突破され、瞬く間にパリが陥落してしまったのである。
英国は孤立無援になり、その状況のなかでドイツ軍と戦うこととなった。そして、フランスの敗北により英国遠征軍が欧州大陸から撤退したことで欧州大陸はナチス・ドイツによって完全に支配され、大陸で活動していたM16とそのネットワークは完全に遮断されてしまった。また、プロパガンダによる宣伝工作やゲリラ戦などの反ナチスのレジスタンス活動を行う地下紐織などへの支援は組織間の相違からまとまりがなく、実りのある結果はでていなかった。
同年5月10日に戦時内閣の首相を辞任したネヴイル・チェンバレンの後を引き継いだウィンストン・チャーチルは、首相の権限を利用し、現存する官僚・軍事機関から完全に独立した秘密機関、SOEを設置することを決定する。当時、チャーチルは北欧侵攻の際のドイツ軍の〃第5列"の働きが大きな役割を果たしたと信じていた。また、英国社会やメディアも英国内に潜伏する(と思われていた)ドイツの〃第5列〃の存在を最大の脅威として騒ぎ立て、国内の世論と防諜機関M15はパニック寸前の狂乱状態になっていた。
チャーチルのドイツの〃第5列〃に対する認識(実際には誤認識)とその解決への期待は秘密機関の設置へ向けて大きく作用し、彼が首相に着任してから約2か月後の1940年7月19日に「特殊作戦執行部(SOE)」が誕生したのであった。チャーチルは創設当時、〃欧州大陸に潜む反ナチスの地下組織の妨害活動、宣伝工作や破壊工作、国家転覆を含むすべての秘密活動を全面的に支援し統括する〃ことを目的としたSOEの存在理由とその作戦に対する期待を込めてこう語っている。「さあ、ヨーロッパ大陸を火の海にしてやろう。」

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真珠湾奇襲とインテリジェンス それはルーズベルトの陰謀だったのか?その5

真珠湾奇襲が示すこと
米史上唯一四選し、任期を全うすることなくこの世を去ったルーズベルトは回顧録を残しておらず、残念ながら歴史研究の確証となる史料が不足しているのが現状である。しかし米国の情報収集・分析能力や組織対立、そして大統領との関係からみたインテリジェンス研究では、「ルーズベルトは真珠湾攻撃を予測できなかった」とする見解が主流であり、シギントヘの軽視や日本に対する過小評価がルーズベルトの判断に大きな影響を及ぼしたと考えられている。
インテリジェンスを有効活用するには、情報機関の役割である情報の収集と分析を正確に行い、そしてそれを政策決定者へ滞りなく的確に届け、それが利用されることである。情報機関による情報収集と利用者へ届ける課題は組織的に解決が可能であるが、情報分析はそう簡単に克服できる問題ではない。
それは情報分析が人間の分析官によって行われており、訓練を受けた専門家でさえ人間本来が持つ先入観や心理的な要因によって左右されるものだからである。また、それ以上の問題は、インテリジェンスを利用する側(政策決定者など)がある思い込みによって、整合しないインテリジェンスの受け入れを拒むことである。
1941年12月7日に起こった真珠湾奇襲は"現在の安全保障国家としての米国を生む転換点になるほどの汚点であった。真珠湾奇襲直後から原因究明するための調査が行われ、戦後まで総計八つの調査委員会が設置された。また、ルーズベルトの後任として大統領に昇格したハリー・トルーマンは「第二の真珠湾奇襲を防ぐため」1946年の大統領令と47年の国家安全保障法により米インテリジェンスを総括する長官のポスト(DCI)と省庁間から独立した情報収集`分析を行う中央情報局(CIA)をそれぞれ新設した。
「省庁間の確執がなければ日本軍による真珠湾攻撃を予知でき、悲劇は回避できた」というのがトルーマンの判断であった。この判断に論争はあるにせよ、彼の判断は確かに正しく、日本軍の真珠湾攻撃以前ではインテリジェンスをめぐる省庁間の権益争いがプラスに働かなかったことは確かである。しかし、その後の冷戦中も省庁間の確執は絶えることなく、現在でもインテリジェンスに関連する競合的な組織文化に変化はみられない。

【主要参考文献】
*The Oaford Companion to World War II (OUP, 2005).
*John Prados, Combined Fleet Deceded (Annapolis,Maryland: Naval Instittale Press. 1995)
*Christopher Andress, For the Presidents Eyes Onjy(Nev York: HarpetCollins, 1995)
* Rhodri Jeffteys-Jones, FBI: A History (London:Ncw Haven. 2111117)
* David Homer, High Command: Atsstralia and AlliedStrategy, 1939-1945 (Sydney: George Ailco & Unwin,982)
.* F. Hinsley et al British Intelligence in the Second World War, vol.1 (London: HMSO. 1979)
*D. Kahn, The Codebreakers: the Story of SecrotWrtting (NY: Scriboer. 1996)
*Bradley F. Smith, The Ultra-Magic Deals (Novalo,Ca.: Presidio, I 993)
*R. Wohlstetter, Pearl Habor: Wamirng and Decision(Stanford UP. 1962)
* Richard I, Aldrich. Conspiracy or Confusion? Churchill. Roosevelt and Pearl Hahor. lntciligenee and National Secunty(INS).7/3(l992),pp.335~346.
* B. Bruce-Briggs, Another Ride on Tricycle'. INS. 7/2(1992), pp.77-100
* Ralph Lee DeFalco Ill. Blind to the Sun: US Intelligence Failures 1~fore the War ~vith Japan, ln~eroational Joumal of Intelligence and Counterintelligence (UICI). 16(2003). pp.95- 107.
* John Fems. From Broashvay House to Blctchley Park: the diary of Caplaut Malcolm Kennedy, 1934-46. INS,4/3(1989), pp.
* Philip Jacobsen, Radio Silence and Radio Deception: secs~cy insurance tor the Pearl Harbor Strike Force.INS, 19/4(2004), pp.695-718.
* David Kaiser. Conspiracy or Cock-up? Pearl Habor Revisited, INS, 9/2(1994). pp.354-372.
* B. Kahn, Roosevelt MAGIC, and ULTRA, CRYPTOLOGIA. 16/4(1992). pp.
* Fredetick D. Parker. The Unsolved Messages of Pearl Harbor', CRYPTOLOGIA, 15/4(1991). pp.
* Thomas F. Tiny, The British Assault on J. Edger  Hoover: the Tricycle Case. UICL 3/2(1989), pp.I 209.
* Brian Villa & Timothy Wilford. Signal, Intelligence and Pearl Harbor: the State of the Question', INS, 21/4 (2006), pp.520-556.

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真珠湾奇襲とインテリジェンス それはルーズベルトの陰謀だったのか?その4

米インテリジェンスとルーズベルトの分析能力と情報共有の問題
真珠湾論争の論拠の多くは事後検証されたため、「日米交渉中に外交断絶を示唆する暗語「ウインド・メッセージ」が傍受されていた」「南雲司令官が率いる機動部隊が単冠湾から真珠湾へと向かう際に無線封止を破った」「暗号の解読はなくとも無線交信を傍受し方位測定することにより真珠湾攻撃の予知は可能だった」など、様々な憶測が憶測を呼び事実との混乱を招き、「ルーズベルトは真珠湾攻撃を予知できた可能性が高い」との短絡的な見解を示す者も少なくない。
しかし、これはあくまで事後の推測(結果論)にすぎず、陰謀説を信じる修正派は暗号解読などによって真珠湾奇襲を示唆する情報が少しでも存在、もしくは整合すれぱ「ルーズベルトはインテリジェンスを利用して日本を欺き先制攻撃を仕掛けさせた!」と結論するのであろうが、残念ながらこれまでの研究とそれを支える史料は修正派の解釈に対して否定的である。
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英国のインテリジェンス・システムが1939年に統合されるまで、ナチス・ドイツに対する英国の情報分析能力が麻痺していたように、省庁間で統合されない米インテリジェンスの分析能力も例外なく機能不全に陥っていた。
それは情報共有だけの問題ではなく、各省庁が政策決定者に対して独白の分析力を意識的にも無意識的にも誇張する傾向にあり、完全に不正確なインテリジェンスを提供していたからである。例を挙げれば、41年当時、ほぼ正確にドイツの軍事力について把握していた英国の分析評価と比較すると、米海軍によるドイツUボート艦隊の規模が二分の一大きく、米陸軍によるドイツ空軍力は250%英国のものより上回っていた。欧州戦線において友好国の米国の助けが何としてでも必要であった英国は、この米の情報力の貧弱さを改善すべく、1941年5月末に英国海軍情報長官のジョン・H・ゴッドフリー大将が部下のイアン・フレミング中佐を伴いワシントンを訪れ、情報調整官のCOIというポストをドノバンに着任させるようにルーズベルトに進言するのだが、COIは新設されたものの、米インテリジェンスの分析評価能力は向上したとはいえなかった。
情報調整官であるドノバンが扱うインテリジェンスは通信傍受したシギントを含まず、またそのシギントを取り扱う陸海軍の対立は両軍間で情報共有を困難にしていたことは先に触れたが、日本軍による真珠湾攻撃当時でも米インテリジェンスのシステムは統合されていなかった。それぞれのインテリジェンスは各機関から米軍の最高司令官である大統領へと届くのだが、統合されることのないインテリジェンス・システムは、それぞれ情報源が異なるため必然的に各機関の分折評価は統一されないままであることを意味し、政策決定者が独断と偏見でインテリジェンスを利用する結果を招く。つまり、ここでは最終的にインテリジェンスの分析評価とその統合は大統領の理解能力に委ねられていた。
それではルーズベルトのインテリジェンス観はどうであったかといえば、同分野の権威であり、歴代米大統領とインテリジェンスの関係を研究したケンブリッジ大学クリストファー・アンドリュー教授は「前任者達よりインテリジェンスに関心を示す傾向にあったものの、ルーズベルトは最も重要視されなければならない敵国の暗号を解読したシギントではなく、スパイ活動や秘密工作などを好む傾向にあった」と指摘している。また、暗号解読によってもたらされたシギントを「金の卵」と称していたチャーチル英首相の姿勢を少しでも共有していたのならば「日本軍の真珠湾攻撃の結果は違うものになっていたかも知れない」とコメントしている。
これらの指摘の裏付けは、真珠湾攻撃以前、ジョージ・C・マーシャル陸軍参謀総長が「値が付けられないほど価値があるもの」としていた国家最高機密扱いのマジックのコピーがホワイトハウスのゴミ箱から発見され、マジックの重要性を軽視している大統領に対する憤りから陸軍は一時的にルーズベルトヘのマジック提供をストップするという措置をとったことや、ルーズベルトが欧州で諜報活動に専念しているドノバン情報調整官に対して必要以上に関心を示していた事実からも窺い知ることができる。また、同教授によれば、シギントに無関心な大統領に対し、皮肉にも「ブラック・チェンバー」を非倫理的として閉鎖したスティムソン陸軍長官がマジックの重要性を説くといった状況であったという。
そして特筆すべき点は、陸海軍の間に生じた極度な確執が政策決定者に適切なインテリジェンスを提供するという本来の目的を失わせていたことである。
陸海軍の一方がシギントを独占しないために両軍が合意したことは、通信傍受・暗号解読活動において陸軍は偶数日、海軍は奇数口に通信傍受・暗号解読を行う一方、海軍が偶数月、陸軍が奇数月に大統領ヘマジッタを届けていた。このように陸海軍それぞれの「手柄」に対する執着はかなりのものであったにもかかわらず、日曜日は必ず休日扱いとなり、任務はいったん停止、もしくはそのまま放置されていた。
この摩詞不思議な非協力的で官僚的な作業分担は、陸海軍双方にとってシギントによる全体像の把握をより困難にさせ、またタイムリーなインテリジェンスを政策決定者に迅速に供給できずにいたという。アンドリュー教授によると、ルーズベルトはこのような手順に異議を挟まず、平日の夜や日曜日にシギントを受け取るための特別な枠組みを設けるような試みもせず、日本軍の真珠湾攻撃まで続いたという。全ての通信傍受記録に対して個人的に目視することを要求していたチャーチルであれば、このような常軌を逸した手順は決して認めるはずはなかっただろうと指摘している。
また、米国の暗号解読作業とその能力についてだが、日本文化に精通しておらず語学力不足も否めない暗号解読者の誤訳が太平洋戦争勃発へ導いたのではないかと指摘(小松啓一郎著『暗号名はマジック』KKベストセラーズ、2003年)されているが、裏を返せばこれも当時の米国の分析能力の手薄さを表している例といえるであろう。
 
ルーズベルトは真珠湾攻撃を予測できたのか
陸海軍間の軋櫟が消化不良を起こしがちであったが、日米関係の悪化に伴い1941年後半にはマジックがもたらすインテリジェンスはルーズベルトに日本との開戦を予測させていたといえる。特に12月6日(土曜日)の夜に特例として届けられた、交渉打ち切りの最後通牒である「対米覚書(通称、パイロット・メッセージ)の14部のうち13部を目にしたルーズベルトは「これは戦争を意味する!」と正確に認識していた。しかしそのターゲットが自国の真珠湾であるとは想定外であったようである。
事後検証では、当時の米インテリジェンス能力を含めた通信傍受の全体像を無視するケースが多い。最優先事項として扱われていたマジックは真珠湾攻撃をピンポイントで示唆していないと先に指摘したが、8月1日から12月6日までにマジックに含まれた船舶通航に関する真珠湾の言及は、アンドリュー教授の言葉を借りれば「たった20回のみ」であった。因みにフィリピンの言及が59回、パナマ運河が23回であった。
また、マジックは日米交渉の進行中に日本の南進政策と日本軍の動向を明らかにしており、ルーズベルトは日本の意図が筒抜けであると認識していた。特に、日本の政策と軍事行動はマジックが頼りの綱であっただけに、ルーズベルトの「日本が行動を起こすとしたらフィリピンやインドシナなどへの南進に違いない」という固定観念は整合するマジックにより強固になり、日本軍による真珠湾攻撃の第一報がルーズベルトを驚樗させたことは不思議ではない。この事実は、フィリピンに置かれていた米極東陸軍司令部が「日本軍による(フィリピンヘの)奇襲のおそれあり」として警戒態勢をとっていたことからも裏付けられる。
ごく少数派の主張ではこの時、米英は日本海軍のJN−25bを解読しており、12月2日に山本五十六司令長官が連合艦隊へ発信した暗号文「ニイタカヤマノボレ一二〇八(「開戦日は12月8日に決定。予定通り行動せよ」との意)」は解読されていたと指摘されている。
しかしこの論拠の当事者である前出のエリック・ネイヴ一(自称、当時FECBの日本担当暗号解読貝であるが、後の歴史家による検証によりネイヴ中佐はこの時既に日本担当ではなかったと指摘されている)の主張は信感性がなく、またルーズベルトやチャーチルヘこの暗号文が到達した記録は現在のところ見つかっていない。万が一、米英がJN−25bの解読が可能だったとしても、それはごく断片的なものであったと思われる。
日本に対する固定観念に関していえば、これはルーズベルトのみならずチャーチルや当時の米英の情報分析官にとっても同様で、当時の米英では日本人は「イエローモンキー」と称され、人種差別的な日本軍に対する過小評価という先入観も関係しているといえる。
このような人種差別的な先入観を当時の米国人が(無意識的であったにしろ)持っていた例を挙げればきりがないが、一つ代表例を挙げれば、極東陸軍司令官のダグラス・マッカーサーがフィリピンで空母に積載された航空艦隊による真珠湾攻撃の第一報を受けた際「操縦士は雇われた白人にちがいない」と自身の耳を疑い、「日本人にそのような偉業が成し遂げられるとは考え難い」と含蓄されているのは言うまでもない。
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英国の通信傍受機関GC&CSで日本の暗号解読チームを率いていたマルコム・ケネディの日記によると、英国にとっても日本軍が「12000マイル以上離れた真珠湾に空襲」を仕掛けたという一報は「完全な驚き」であり、それはシギントによって知らされたのではなく英国国営放送のBBCであったと記されている。英国陸中情報長官のフランシス・デビッドソン少将は日本の真珠湾攻撃を振り返り、日本に対する先入観に関して「日本軍が二面戦争に踏み切り、またその能力を持ち合わせているとは思わず、米国に対して攻撃を仕掛けるとは思わなかった」と後に自身の先入観が想像力を妨げていたことを省察している。
また、オルドリッテ教授は、真珠湾攻撃前の丸2日間、米国を連合国として参戦させる企てを模索していた英参謀総長のアラン・ブルック陸軍元帥も日本軍の真珠湾攻撃が想定外であったことを記している。

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真珠湾奇襲とインテリジェンス それはルーズベルトの陰謀だったのか?その3

陸海軍の暗号解読能力と「マジック」
当時の米インテリジェンス機関の中で最も重要な情報源は、日本の機密外交暗号文を傍受・解読していた陸海軍の通信傍受部門であったことに疑いの余地はない。しかし、この最も重要な組織の活動はごく少数の者を除き、閣僚や議会そして他の官僚機関の目から完全に逃れる形でそれぞれ孤立して行われていた秘密活動であった。しかし、そのために日米開戦以前、両軍の通信傍受部門はごく小規模であり、人材・資金難に悩まされていたことは日本の真珠湾論争ではほとんど話題に上がらない。
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ワシントン軍縮会議に関連する日本の外交電文が米国の通信傍受機関(通称、ブラック・チェンバー)によって傍受・解読されており、外交交渉が日本にとって不利に働いたことは周知の事実である。しかしその後の1929年、新任のヘンリー・L・スティムソン国務長官は「紳士は互いの手紙を盗み見ることはしない」として国務省が行っていた通信傍受の活動停止を命令。国務省との共同で通信傍受を行っていた陸軍は、ブラック・チェンバーの閉鎖によって秘密裏に独自で通信傍受・暗号解読を行った。
これにより後の日本の機密外交暗号を解読することになる陸軍G−2の通信情報部(Signal Intelligence  Service=SIS)は1929年に設置され、ブラック・チェンバーにも関与していたロシア生まれの暗号理論専門家ウィリアム・F・フリードマン(陸軍大佐待遇)により率いられることとなる。
一方、海軍N−2の通信保全課(OP−20−G)は陸軍SISより5年ほど早く独立して設立され、日本海軍の暗号解読を先導したのがローレンス・F・サフォード海軍中佐であった。米国家安全保障文書館の上級研究員、ジョン・プラドス博士によると、海軍公式記録の統計ではOP−20−Gの規模は数十名であったが日中戦争と欧州戦線の勃発に伴い拡大され、1941年初頭には約2倍の90名、同年6月下旬は135名、42年には231名であったとされる。一方、陸軍SISの.止確な規模は把握できないが、英ウォリック大学リチャード・オルドリッチ教授は海軍OP−20−Gの規模が常に陸軍SISの数倍であったと指摘している。
機密暗号通信の定期的な変更・修正は世界各国の鉄則であり、頻度の差はあるものの、外交・軍事を問わず暗号解読をする側とされる側とはイタチごっこのようなものである。
日本外務省の暗号機B型(97式欧文印字機。米のコードネーム「パープル」)が1939年2月下旬の導入以来、ブラック・チェンバーの経験をもつSISが先導しOP−20−Gが支援を行うという前例のない苦肉の策の末、約1年半後の40年9月25日、日独伊三国同盟が調印される2日前に最初の暗号文が完全に解読された。回転ローター式のドイツのエニグマ暗号機と異なり、同時代では独自の手法で暗号化を行っていたパープルの解読はより困難であったに違いないと研究者の間では意見が一致している。この通信傍受・解読によって得られた機密外交通信文は解読成功以降、暗号名で「マジック」と呼ばれるようになる。
フリードマン率いる暗号解読班が日本の機密外交暗号の仕組みを解読すると同時に、パープルの複製を作製した。1941年春にはこの複製機4台が活動しており、1台がフィリピン、2台がワシントン、そして残る1台が、当時パープル解読に苦心していた英国の暗号解読機関であるGC&CS(政府暗号学校。通称、ブレッチェリー・パーク)にあった。第二次世界大戦中の米英両国の情報共有の関係を詳細に綴ったブラッドリー・F・スミスの著作によると、米国によるパープル複製機の提供(国家機密を他国へ暴露するという行為)は、英国が暗号解読に成功していたドイツのエニグマ情報を引き出すこととなり、国家機密の共有という非常に繊細な問題は多事多難であったが、結果的に両国は大成功を収めたと結論している。
因みに41年6月までに米国は2台目のパ−プル複製機を、シンガポールを拠点とし通信傍受活動していた英国極東統合局(FECB)に提供しており、第.一次世界大戦を勝ち抜くために自国の国家機密を他国へ暴露するという身を切り売りする行為が、現在の米英の「特別な関係」の発端となったと言われている。後に、両国は通信傍受によって得た国家機密であるインテリジェンスを共有する英米通信傍受協定(BRUSA)を43年5月17日に結んだ。これが現在、通称エシュロンと呼ばれる世界通信傍受ネットワークの基となっている。
このマジックと真珠湾奇襲に関しては多くの出版物が存在するため、本稿で詳細に言及することは省くが、インテリジェンス研究者で一致している見解を要約すれぱ「マジックは日本軍の標的が真珠湾であると示唆していなかった」ということである。1962年に出版されたロベルタ・ウールステッターの精細で非常に重要な研究の中で、マジックと真珠湾奇襲の関係を「ノイズとシグナル」と表現し、その結論は「慎重な情報分析を行っていれば日本軍の真珠湾攻撃は予知できたかも知れないが、真珠湾攻撃を示すシグナルは別のことを暗示する多くのノイズによってかき消され、当時は正確な情報を見極めるのは困難であった」との結論に至っている。
 
海軍暗号JN−25は解読されていたか
真珠湾論争の一つの争点が「日本海軍の暗号は真珠湾奇襲以前に解読されていたか」どうかである。この論争の引き金になったのは歴史書というよりいわゆる陰謀論を唱える一般書であった。主にロバート・ステイネット(邦題『真珠湾の真実│ルーズベルト欺瞞の日々」文華春秋、2001年)やジェイムズ・ラスブリッジャー(エリック・ネイヴ共著、邦題『真珠湾の裏切り−チャーチルはいかにしてルーズベルトを第二次世界大戦に誘い込んだか』文華春秋、1991年)で、ステイネットは「米海軍OP−20−G」、ラスブリッジャーは「英軍FECB」が真珠湾攻撃の前夜まで日本海軍のJN25暗号を解読し、ルーズベルト、またはチャーチルが真珠湾攻撃を予知していたというものであった。
両著は一部のマスコミから「史実の根底を覆す」などと宣伝され、一時騒がれたが、歴史研究者は両著書の主張を検証し、両書の陰謀説論である論拠が不確かなものであると立証している。
しかし、日本海軍のD暗号(米英ではJN−25が完全に解読されていなかったかといえばそうではない。先に暗号解読はイタチごっこであると述べたが、日本海軍の暗号は戦前戦中を通して定期的に変更・修正され、それに伴いオランダを含む連合国の通信傍受機関が暗号解読に勤しむというパターンが繰り返されていた。米英主体の研究によると、日本海軍暗号JN25が1939年に導入され、シンガポールを拠点とする英国の通信傍受機関であるFECBが解読に成功、同様に英国より小規模ながら、ジャワ島のバンドンで活動していたオランダ軍も暗号解読に成功したとされる。
しかし、40年12月のJN25bというより高度な暗号システムヘの変更により、連合軍は暗号解読不能に陥り、オルドリッチ教授によれば、41年に入り日本海軍はJN25b7を導入、真珠湾攻撃直前にはJN25b8を導入しており、連合国の解読能力は日本海軍の暗号変更・修正頻度に追いつかなかった。
因みにその後の42年6月のミッドウェー海戦までに日本海軍の暗号が読まれていたのは周知の事実だが、その後42年の後半までは再び連合軍は日本海軍の暗号が解読不能になっている。無論、このイタチごっこの中で日本海軍のD暗号が断片的、もしくは.部の暗語などが解読されていても不思議ではない。
FECBのJN25に対する解読能力は主な公文史料などが戦時中に焼却され、定かではないが、著名な英国の歴史家が編纂した公式な英国インテリジェンス史によれば、FECBは米国のOP−20−Gより先にJN−25の暗号解読に成功していたが、JN25b以降の解読は困難であった旨を示している。また、太平洋戦争研究の権威であるオーストラリア国立大学のデビッド・ホーナー教授によると、FECBは米海軍OP−20−GのJN−25解読の助けを行っており、この点からも真珠湾攻撃以前にOP−20−GがFECBの暗号解読技術を上回っていたとは考え難い。
当時のOP−20−Gの暗号解読作業に関して理解すべきことは、暗号解読の優先順位と人員の担当範囲である。公式記録による真珠湾攻撃当時のOP−20−Gの人員が約200名であった事実は先に述べた。真珠湾に関する暗号解読の失敗を事後調査していた戦後の通信傍受機関である国家安全保障局(NSA)のフレデリック・D・パーカーによると、39年から41年にかけてOP−20−Gは1人から多くて5人がJN−25の暗号変換機の認識と暗号の解読にあたっており、41年の後半においてはJN−25bに対してその人数が増え、8人であったとしている。パーカーの結論によれば、もしOP−25−Gの最優先事項が.ハープルではなく、またJN−25解読により多くの人員を割り当てていれば「JN−25b解読は可能であり、真珠湾の奇襲を予測できた可能性は否定できない」としている。
イメージ 2

パーカーの統計は内部の機密記録を利用しているため確証は取れないが、重要なことを示唆している。それは日本の意図を知るべく、パープルによってもたらされるマジックを最重要としてワシントンが捉えていたことであり、41年当時ワシントンにおいて日米交渉が行われていた際には貴重な情報源として扱われていたであろうことは容易に予測できる。
また、これはもっぱら対独交戦中であった英国の関心であるが、パープルがもたらすマジックは日本に関してではなく、それはナチス・ドイツ、つまりヒトラーの意図を明らかにする最も貴重な情報源であった。特に駐ドイツ特命全権大使の大島浩中将などからのマジックは、米英が全く情報を持たない独ソ間の欧州東部戦線の戦況や、ドイツ国防軍の防衛線の位置や軍隊の配置なども含まれていたのである。
無論、結果的にパープルによって日本の意図が探れると誤って認識していた米国が、既に解読が可能であった貴重な情報源のパ−プルを優先事項として扱うことは間違いとはいえないだろう。この優先事項の決定権は政策決定者であるホワイトハウスにあり、少なくとも大統領のルーズベルトに対する責任追及はいたしかたない。

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紫綬湾奇襲とインテリジェンス それはルーズベルトの陰謀だったのか?その2

米インテリジェンス機関とその内情
前置きが長くなったが、本題である.1941年当時の米インテリジェンスの実情を解剖していこう。日本の外交通信が米英によって傍受・解読されていたことは周知の事実であるが、まず当時の米国のインテリジェンス機関とその活動の概観を把握することから始めることにしたい。
米国はインテリジェンス後進国と時に椰楡されるが、20世紀の歴史を振り返り、当時の欧州各国などと比較すると、その指摘は決して間違ってはいない。1941年12月当時、米国には国家情報機関はなく、また省庁間にまたがる体系的な情報収集及び分析機関も存在していない。国家情報機関のCIA(中央情報局〕やNSA(国家安全保障局)などは終戦後に設立されたもので、陸海空軍が統合して軍事情報の収集と分析を行っているDIA一国防情報局一もまた戦後の産物である。
当時の米国の情報機関は主に陸海軍の情報部(陸軍G−2、海軍N−2)であった。米国の組織文化は省庁縦割り型で情報共有を現代の問題として抱えているが、この組織文化は当時から変化がない。陸海軍省は個別に独自の情報部を統率し、また両省の確執のため両情報部に協調関係はみられず、しばしば同じ標的に対して別々に情報収集や分析が行われ、限られた人員と労力を浪費させたうえ、両情報部間での情報の共有を拒否していた記録が残っている。G−2とN−2内には個々の通信傍受(=シギント)部門を維持しており、1941年には日本に対する暗号解読の共同作業を行っていた記録が少数あるが、陸海軍の関係は決して良好ではなかったのが事実である。インテリジェンスに関わる暗号解読と陸海軍の確執については後の項目で詳細に触れる。
1941年7月、ルーズベルトはこのような省庁間の確執や重複活動を改善するため、情報調整官(Co-coordinator of Information=COI)の機関を新設した。そして、第一次世界大戦で英雄として知られる元陸軍将校で、当時政治家でもあったウィリアム・j・ドノバンをそのトップとして起用し、従来の枠組みを超えた試みを行っている。この機関は、1942年6月に戦略諜報局(Office of Strategic  Services=SOS、CIAの前身)として編成され、第二次世界大戦中は統合参謀本部直属の情報機関として情報収集と分析、また破壊工作やプロパガンダ工作を指揮し、実行する組織として活躍することとなる。
しかし、日米開戦以前の段階ではCOIの役割はごく限られていた。その理由は、陸海軍の情報部が行っていた肝心なシギントはCOIの情報共有から除外され、情報調整官とは名ばかりのポストであったからである。また、国土保全を担う連邦捜査局(FBI)の長官j・エドガー・フーバーはドノバンを敵視しており、情報の協調とは程遠い状態であった。

FBlと真珠湾論争
FBIは純粋な情報機関ではなく連邦警察である。そのため、対外的な軍事・外交情報の収集や分析などとは無縁であるが、真珠湾奇襲論争にも時折登場するのでここでFBIのインテリジェンスについて簡単に触れておく。FBIは国土の保全を一手に担う機関であり、その活動の中には外国諸国の諜報活動を挫くための防諜活動も含まれる。しかし、連邦法に抵触する犯罪者を取り締まる連邦警察であるため、逮捕権を有し、FBIの最優先の防諜活動は容疑者を起訴するための情報収集となっている。したがって防諜活動というよりは、むしろ破壊工作などの国士保全を脅かす危険分子に対する治安維持活動(地元警察などと連携した監視など)と表現したほうが的確であろう。
1936年8月、ルーズベルトはFBIに国家転覆などを企てる破壊活動分子に対する情報収集を要求し、それに応じる形でFBIは国民や議会への報告なしに破壊工作分子に関しての情報を収集する部門(General Intelligence Section)を設立している。これによりFBIの活動は拡大され、33年には191名であった捜査官数が、42年には約3000名、44年には4886名にまでふくれ上がったという記録が残っている。
また、日米開戦以前、欧州戦線の悪化・拡大に伴い、FBIの責任領域は合衆国のみでなく、ラテンアメリカ諸国を含むアメリカ大陸に及んでおり、開戦と同時に770名の日本人、戦時中に11万人の日系人が抑留された。そして、大戦中に幾度となく潜水艦で上陸したドイツの諜報機関員が即座に逮捕されたのは、このFBIの功績である。
真珠湾奇襲から遡ること数か月、同年3月から八月にかけてハワイの真珠湾に在泊する米艦隊に関する諜報活動を行っていた「ホノルルの領事館職員の森村正一(本名、吉川猛夫・海軍少尉)」はFBIと海軍N−2の防諜部にマークされ、監視下にあった記録が残っている。この時点で「フーバーは日本軍による真珠湾奇襲を予測できたのではないか」という主張が聞こえてきそうだが、軍事的な脅威が(現在でも)FBI(およびフーバー)の活動の対象外であることを考慮すれば、所詮結果論の憶測であるといえる。
この森村正の監視による縄張り争いと情報の共有(主に海軍情報部N−2がシギントの提供を拒んだ)を巡り、FBIと海軍情報部が敵対関係となったことは、米インテリジェンス史の専門家である英エディンバラ大学ロードリ・シェフリーズ=ジョーンズ教授が著作の中で指摘している。
真珠湾論争でのフーバーFBI長官に対する疑いは「フーバーは真珠湾奇襲を事前に知っており、それをルーズベルトへ報告したか」どうかである。
これは、英国の防諜機関であるM15が当時ドイツのスパイであったユーゴスラビア人のドウシュコ・ポポフを二重スパイコードネーム「トライサイクル(三輪車)」として抱え込み、ドイツ国防軍最高司令部へ偽情報を流していたことに端を発する。
紙面の関係からこの英国が行っていた戦略的欺瞞工作の説明は省くが、1941年8月にポポフはドイツの諜報機関より「米国で諜報網を築き上げ、米国の経済・軍事状況に関して情報収集をする」指令を受け渡米、その活動の一部として「ハワイの米軍事施設と備蓄品に関わる調査リスト」の情報のやり取りをしている。そのため、M15は英情報機関のニューヨーク支局(British Security Coordination、BSC=英国安全保障調整局。対外情報機関のM16、防諜機関のM15、特別作戦執行部のSOEで構成される)を介してFBIにポポフの活動(偽情報をドイツへ流すための工作活動)支援を要請した。
1974年に出版された回顧録の中でポポフは「(米英に対して)日本軍による真珠湾奇襲を警告した」と主張しているが、事後の検証によりポポフの主張は信懲性が薄いと判断された。また、ポポフが持参した軍事関連のリストは修正主義派の憶測を膨らませ、「日本軍がドイツの国防軍に要求したのではないか」といった憶説があるが、この論拠も信感性は薄い。ポポフのリストには日本軍が必要とした在泊する米艦隊の動向に触れる項目はなく、破壊工作の標的となる情報収集が中心であった。また、当時の真珠湾近郊には既に多くの日本人が移住している事実(また前出の吉川少尉によって米艦隊に関する諜報活動が既に行われている)から考察しても、修正派の主張のつじつまを合わせるのは難しい。
そして、ドイツは第一次世界大戦においても同様の手口で米国本土において破壊工作を企んでいたことから、ドイツ国防軍が独自で破壊工作のための調査に乗り出していたという考察が可能である。因みにポポフが持参した調査リストは、FBIを介して陸海軍の情報部へ伝達されているが、FBIの独占意識と軍事情報への理解不足、そして省庁問の確執により円滑には行われていない。
では、「ルーズベルトに知らせたのか知らせなかったのか」という疑問についてだが、後の入手可能な証拠はフーバーがポポフに対していいかげんな対応しかしておらず、ルーズベルトにも伝えていなかった事実を示唆している。他国の諜報活動に関して過剰なほどに拒否反応を示していたフーバーは、ポポフのことを米国に対して諜報活動を行っている英国のスパイと疑い、ジェフリーズ=ジョーンズ教授によると、ポポフが在住していたニューヨークのアパートにはFBIの盗聴器が仕掛けられ、ポポフは「ほぼ犯罪者同然」に扱われていたという。
このFBIの対応に関して、少なくとも戦略的欺瞞工作をロンドンで管轄していたJ・C・マスターマン卿、そして「暗号名イントレビッド」として知られるBSCニューヨーク支局長のウィリアム・S・スティーブンソン卿を含む5名の英国情報関係者は、貴重な二重スパイを犯罪者として扱うフーバーの思考回路と、二.重スパイを操作できない情報機関としてのFBIを非難している。
この事実が示すことは、FBIは治安維持を務める連邦警察であり、フーバーにとってドイツから英国の諜報機関へ転身した二重スパイのポポフは犯罪者、もしくは英国のスパイでしがなかったということである。また、他国が真珠湾の軍事施設に関心を持っているということを破壊工作の標的として理解したのであろう。以上のように考察すると、フーバーはポポフのリストに真珠湾の項目があったが気にも留めず、大統領へ通告するような必要性を感じなかったことが理解できる。

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