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ナチス要人を暗殺せよ イギリス特殊作戦執行部SOE 6

結び
第2次世界戦後、あらゆる特殊作戦を執行したSOEは、平時の民主国家にとってその存在理由はないとして廃止された。米大統領のトルーマンも同様に、自国のOSSを〃米国のゲシュタポ〃として即時解散させた。両組織の活動は事実上幕を閉じたが、しかしこれが話の終わりではない。
SOEで特殊作戦の計画・執行を行った元M16工作員は古巣であるM16へと戻り、また、SOEで主要な働きをした要員はM16へ引き抜かれ、SOEの流儀は広く受け継がれることになった。ここに、M16が情報を収集するだけの機関ではなく、破壊工作を行うまでの機関となった原点が見られる。
また、本文でも触れたように、SOEが戦時中に行っていた手法は、まだ発達段階にあったOSSがそれを学び、後にOSSはCIAとして姿を変え、ソ連との冷戦を通して世界各国で秘密工作を展開する組織へと発展することになる。その一部として知られるのが、1953年のイランのクーデター工作、100を超えるキューバのフィデル・カストロ議長の暗殺計画、また近年では反体制グループを利用したイラクの前大統領サダム・フセインの暗殺である。
そして、秘密工作は暗殺や破壊工作のみでなく、政治的に内政干渉を行う外国政府への資金援助も含まれる.これは第2次世界大戦中にSOEがフランスのド・ゴールやユーゴスラビアのチトーヘ行ったものと何ら変わりない手法で、現在の国際政治でも同様に行われている。ただ、ほとんどのケースが表面化されないだけである。
【参考文献】
* Operation Foxicy: The British Plan to Kill Hittler (Kew: The National Arvhives, 1998)
* British Security Coordination: The Secret History of British Intelligence in the Americas 194045 (London: St Ermins,1998)
* Ian Dear, Sabotage and Subversion: The SOE and OSS at War (London: Arms & Armour, 1996)
* M.R.D. Foot. SOE in France (1966)
* M.R.D. Foot, SOE: an outline history of the Special Operations Executive 1940-1946 (London: Pimlico, 1999)
* Callum MacDonald, The Killing of SS Obergruppenfuhrer Reinhard Heydrich (New York, 1989)
* W.J.M. Mackenzie, The Secret History of SOE: The Special Operations Executive, 1940-1945 (London: St. Ennins Press,2000)
* Denis Rigden, Kill the Fuhrer: Section X and Operation Foxley (Stroud: Sutton, 1999).
* Mark Seaman, The Bravest of the Brave (London: Michal OMara, 1997)
* Bradley F. Smith, The Shadow Warriors: OSS and the Origins of the CIA (London, 1983)
* (BSC)
* David Stafford, Secret Agent: The True Story of the Special Operations Executive (London: BBC, 2002)
* David Stafford, Camp X: SOE and the American Connection (London: Viking)
* Heather Williams, Parachutes, Patriots and Partisans: The Special Operations Executive and Yugoslavia, 1941 71945 (London: Hurst, 2002)

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ナチス要人を暗殺せよ イギリス特殊作戦執行部SOE 5

アメリカン・コネクション
第2次世界大戦後に設立された中央情報局(CIA)の前身、戦略諜報局(OSS)の工作員が大戦中に極東・東南アジアなどで大規模な対日工作活動を行っていた事実は広く知られている。
しかし、全OSS工作員が「キャンプX(エックス)」と呼ばれるSOEの〃特殊作戦〃養成所から巣立ち、CIAがOSSの人員と手法をそのまま引き継ぐかたちで諜報活動の基礎を築いた事実はあまり知られていない。
北米五大湖のうち最小の湖、米ニューヨーク州と面するカナダのオンタリオ湖の畔に隠れるように設置された「キャンプX」は、後に米インテリジェンスの父として知られるウィリアム・〃ワイルド・ビル〃・ドノバン(当時、情報調整官(HCOI)であった彼は、少人数で諜報活動を行っていた。これが1942年にOSSとして編成される)と彼の部下に秘密工作の手法を教える目的で真珠湾攻撃の2日後に設けられた。しかし、真珠湾攻撃を受け、米国が参戦したことによりその役割は拡大し、1944年に閉鎖されるまでOSSだけでなく、米国土保全を担う連邦捜査局(FBI)やカナダの王室騎馬警察(RCMP)も「キャンプX」の特殊訓練に参加していた。
卒業生の中には後のCIA長官アレン・ダレス、30年もの間CIAの要としてソ連KGBと諜報戦争を行っていたジェームズ・アングルトン、そしてイラン政権を転覆させた「アジャックス作戦」(1953年)の総指揮者、キム・ルーズベルトなど鐸々たるメンバーが含まれていた。
日本軍による真珠湾攻撃からノルマンディー上陸作戦のDデイまで、SOEは「キャンプX」で参加者に破壊工作やプロパガンダ、そしてゲリラ戦のノウハウを教え、M16とM15はスパイ技術や対諜報・防諜などの諜報活動の根本方針などを叩き込んだのである。OSSの卒業生はビルマや東南アジアでの対日工作のみでなく、敵地で後方撹乱の目的で前線に赴き、ある者はフランスやオランダなどで秘密工作を行い、また別の者はユーゴスラビアのパルチザン活動に参加した(因みにダレスはスイス、アングルトンはイタリアで活動していた。)FBIは枢軸国の大使館にスパイを潜入させる技法を学び、後に西半球の米大陸においてナチスの諜報網を一網打尽するまでに成長する。
この第2次世界大戦における英米のインテリジェンスのめざましい発展には、英国の諜報機関が得意とする技法のうちのひとつが効果を発揮した。
それは、英インテリジェンスがマークする米国本土で活動する敵国の諜報活動をFBTなどにリークすることにより、急速に米上層部の信用を勝ち取っていくというもので、結果、SOEは大戦中〃ロンドン協定〃を基にして多くの秘密作戦をOSSと共に行うことになった。この〃ロンドン協定〃とは英米で戦域や各自の利益に沿って担当地域の境界綿を引き、英国ゾーンではSOEがOSSの秘密作戦を指揮し、英米共有ゾーンでは連携をとりつつ独自の作戦を行っていくというものである。このようにしてSOEはOSSに〃非紳士的な戦争〃のやり方を植え付けたのであった。
ヒトラー暗殺計画「フォックスレイ作戦」
1993年にSOEに関する政府史料が機密解除され、ロンドンにある国立公文書館で一般でも閲覧が可能になった。その史料は莫大な量であるが、それでも1970年までに約87パーセントの機密文書は廃棄されてしまったという。
その一部として記録に残っているのが、ドイツ・オーストリアを担当したセクション「x」による、ヒトラー暗殺計画「フォックスレイ作戦」であった。英国各メディアがセンセーショナルにこの史料公開を扱った騒動は、「フォックスレイ作戦」が完全な〃トップシークレット"であった事実を物語っているといえよう。
1940年11月に設置されたセクション「X」(44年10月以降は、「ドイツ総局」)は、他のセクションとは異なりごく少人数で構成され、当初、活発な特殊作戦は行われなかった。それはナチス政権の完全な支配によってドイツ・オーストリア内における実質的な地下活動を行うことに無理があったためと、その可能性に対してSOEのみでなく、英国の上層部までもがナチス政権を〃難攻不落〃として悲観的であったためであった。
また、1941年半ぱに陸軍省、参謀本部、そして外務省からヒトラー暗殺の〃計画"に対してゴーサインは出たものの、上層部はハイドリヒを暗殺した「エンスラポイド作戦」の後にみられたナチスの報復を目の当たりにし、「フォックスレイ作戦」の実行を躊躇していた。
1944年6月、英米軍によるノルマンディー上陸作戦は成功したものの戦争の終結とは程遠く、東部及び西部戦線を戦っているドイツ軍による抵抗は強靭であった。この現状を打破するため「フォックスレイ作戦」の実行計画が真実味を帯びて再考された。作戦司令官のガビンズの要請により、ヒトラーの日常生活や個人情報、警護状況や側近にいたるまで、ありとあらゆる情報がセクション「X」へ集められた。それらはSOEに限らず、可能なすべてのチャンネルを通したもので、M16や通信傍受を含む、連合国軍すべての諜報機関を利用し、戦争捕虜や元ナチス党員などを情報源として収集された。しかし、もつとも収集困難な情報は、ヒトラーが何時何処で何をするかという、スケジュールの把握であった。
「フォックスレイ作戦」の実行のために、総統専用列車の爆破などの様々な案が出されたが、その中でももっとも可能性が高かったものは、ヒトラーの別荘であるバイエルン州南部のベルヒテスガーデン近郊のベルクホーフでの暗殺計画であった。
この計画には3つの選択肢があり、ひとつはドイツ軍の山岳猟兵になりすました1、2名がヒトラーが建物から朝食を採るティーハウスヘ向かう途中を遠距離から狙撃するというものであった。この試みが失敗した際、バックアップ班が、英軍の対戦車郷弾投射器(PIAT)、もしくは米軍のバズーカ砲によってティーハウスを吹き飛ばす計画まで練られていた。第2の計画は、ベルクホーフを発つヒトラーを襲撃するというもので、ヒトラーを乗せた自動車部隊もろとも、PIATかバズーカ砲によって吹き飛ぱすことであった。そして第3は、空襲を装って英特殊部隊SASのパラシュート部隊が急襲するという計画であった。
また同時にナチス首脳部を暗殺する「〃リトル〃フォックスレイ(フォックスレイ皿)作戦」も企てられた。その標的リストには、SS長官のヒムラーやその幹部のオットー・スコルツェニー、宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルスや党官房長のマルティン・ボルマン、そしてハイドリヒの後任であったRSHA長官のエルンスト・カルテンブルンナーなどの名が挙がっていた。しかし、「フォックスレイ作戦」同様、正確な情報でも作戦決行時にはその情報は既に過去のものとなるため、常に情報はアップデートされている必要があった。
これらの一連の暗殺計画は、1945年4月に全面的に中止となる指令が通達された。政治的な配慮が働き、暗殺計画はナチス上層部の〃逮捕〃計画へと方向転換することとなった。それは、ヒトラーやナチス上層部を暗殺するより、無条件降伏と共に生け捕りにしたほうが連合国側にとってはるかに都合が良かったからである。

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ナチス要人を暗殺せよ イギリス特殊作戦執行部SOE 4

ユーゴスラビア
ユーゴスラビアは第2次世界大戦中、もつとも激しく大規模にゲリラ戦が行われた国であったが、ここでもSOEが深く関与している。地中海からインド洋を結ぶ大英帝国の戦略的な要であったバルカン半島の情勢は、そこが中東の北部に位置するという意味でも、大英帝国の存続を揺るがす危険性があった。そのため、1941年4月のドイツ軍のユーゴスラビア侵攻以前から、M16の「第9(通称D)」セクシヨンと国防省の「MI(R)」、そして後にこれらを吸収合併したSOEは、ユーゴスラビアがナチス・ドイツの手中に落ちることを阻止するために精力的に秘密工作をおこなっていた。つまり、ユーゴスラビアが枢軸国としてではなく、連合国として参戦することを促す政治活動を水面下で行っていたのであった。
しかし、ドイツ軍によるユーゴスラビア侵攻後、SOEの活動はゲリラ戦を行う準軍事組織を支援するものとして変化した。ユーゴスラビアには2つの抵抗組織が存在し、ドラジャ・ミハイロヴィッチ大佐が率いるセルビア将兵で構成された武装抵抗組織「チェトニック」と〃チトー〃の通称で知られ共産主義者であるヨシップ・ブロズが率いる「パルチザン」部隊であった。この2つの抵抗組織によるゲリラ活動は、ドイツ軍に対してだけでなく、枢軸国として参戦したイタリア、そしてナチスの塊偶政権であるクロアチアを支配したウスタシ政権にも向けられていた。
しかし、2つの抵抗組織は共存を望まなかったため、ユーゴスラビア情勢はより複雑化していた。セルビア人で構成されるユーゴスラビア亡命政府は、大セルビア主義を掲げる「チェトニック」を支援し、ミハイロヴィッチは亡命政府の国防大臣として将官に昇格する一方、共産主義の国際組織コミンテルンの工ージェントとして、スペイン内戦中にパリを拠点として国際旅団の諜報活動を率いたチトーは、ソ連のNKVDから全面的な支援を受けていた。
したがって、ナチスからユーゴスラビアを解放して亡命政府を存続させる目的の「チェトニック」と、大戦を利用してユーゴスラビアに社会主義革命を起こすことを目指したチトーの「パルチザン」は大きく対立していたのである。
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バルバロッサ作戦によるドイツ軍のソ連侵攻以降も、共産主義を嫌った英国は政治的な配慮を働かせ、1941年から1943年8月まで独占的にミハイロヴィッチの「チェトニック」を支援した。しかし、後に英国は一転してミハイロヴィッチの支援を中断し、チトーの「パルチザン」を全面的に支援することになる。この政策の急転には戦略的な理由があった。
ミハイロヴィッチは独ソの東部戦線の戦況を伺いながら英米軍による上陸作戦に備えてユーゴスラビアを解放させようと、大規模な軍事作戦を行うための数千の兵力を温存していた。そのため、ドイツ軍による容赦ない報復で兵力を失うことを恐れ、直接ドイツ軍を攻撃することを拒んでいた。しかしその一方で、共産主義が戦後のユーゴスラビアの主要勢力となることを恐れたミハイロヴィッチはチトーの「パルチザン」を攻撃したのだった。チトーの「パルチザン」は活発に活動を続け、共産主義に対抗するすべての勢力にゲリラ戦で応戦していた。
ミハイロヴィッチの「チェトニック」を支援することは、東部戦線で行われていた対ソ戦のドイツ軍を間接的に支援することを意味したが、英国はドイツ軍が撤退した後のユーゴスラビア情勢を想定し、「チェトニック」が主要勢力となることを望み、引き続きミハイロヴィッチを支援した。SOEもまた、共産主義勢力によるユーゴスラビアの占拠に反対していた。
しかし、転機は通信傍受によるインテリジェンスがもたらした。バルカン半島で活動するSS部隊の通信傍受によるシギントは、ミハイロヴィッチがイタリア軍と内密に接触して協力関係を築こうとしている計画とドイツ軍が「チェトニック」ではなくチトーの「パルチザン」を過剰なまでに恐れている事実を明らかにしたのであった。
この時、英米軍はイタリア上陸作戦を進行中であったため、英軍の参謀本部はドイツ軍が少しでも長くユーゴスラビアのゲリラ戦で足止めされ、消耗することを望んでいた。そして、政治的な決定は上層部に委ねられ、チャーチルは共産主義者であるチトーを支持する決定を下し、ミハイロヴィッチヘの支援は完全に止められた。
圧倒的な強者であるドイツ陸軍を相手にチトー率いる「パルチザン」は地形を有効的に利用し、最終的に正規軍による軍事介入なしでゲリラ戦を成功させた。これは、第2次世界大戦におけるレジスタンス活動のなかでももっとも成功した例である。戦後、チトーの「パルチザン」はユーゴスラビアの主要勢力となり、ミハイロヴィッチと「チェトニック」の残党はチトーによって処刑された。

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ナチス要人を暗殺せよ イギリス特殊作戦執行部SOE 3

SOEの支援範囲と欧州戦線
初代長官のダルトンが「非紳士的な戦争」と例えたSOEの秘密作戦は、主にナチス.ドイツに対してレジスタンス活動を行っている地下組織を支援することであったが、国や地域の戦局、そしてレジスタンス活動の特色によってその支援の手立ては大きく異なった。
SOEがとくに関心を示したのは活発なサボタージュ活動やゲリラ戦を行う武装集団の地下組織であったが、西欧や北欧諸国ではゲリラ戦が行われなかった。ゲリラ戦が行われている唯一の激戦此域はバルカン半島のユーゴスラビアで、そこは大英帝国の領+を繋ぐ拠点である中東地域の北部にあたる。
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一方、1941年6月22日のバルバロッサ作戦によるドイツのソ連侵攻後、独ソ戦の東部戦線では激しいパルチザン運動が起こっていた。それらのゲリラ戦の裏ではソ連の諜報機関、NKVDと統合参謀本部の情報局(GRU)が指揮していた。ドイツの侵攻以前、東部戦線の広範囲に張り巡らされたNKVDの国境警備隊とGRUの諜報網「レッド一オーケストラ(Rote Kapelle)」は、対独の軍事作戦を有利に運ぶためにナチス・ドイツ占領下の地域において後方撹乱を行う活動を大規模に行い、勝利に一役買っていたのだった。
SEO首脳部は東部戦線で起こっているゲリラ戦に参戦することを望み、レジスタンス運動を支援する武器の輸送や、運動を操作・指示するエージェントのパラシュート降下がユーゴスラビアやデンマークを除いたほとんどの地域で英空軍RAFの空輸によって行われた。しかし、英国領土から東部戦線までは距離的な問題から直接空輸ができなかった。よって約1万トンの武器がSOEの支援によってフランスに投下され、その約倍の18000トンの武器がユーゴスラビアの地下活動に支給されたものの、スターリンがRAFによるソ連領土内での燃料補給を許さなかったことも手伝って、ポーランドには約六百トンが限界であった。因みに、ユーゴスラビアやデンマークヘの支援は海上を通して行われた。
ゲリラ戦は活発でなかったものも含めれば、欧州大陸のほぼすべての国(フランス、ベルギー、オランダ、デンマーク、ノルウェー、ハンガリー、ポーランド、チェコスロバキア、イタリア、そしてドイツとオーストリア、また中立国であったスイスやスペインなど)を巻き込み、レジスタンス活動を行う地下組織は「ベイカー・ストリート」を拠点としたSOEと共に作戦を実行した。また、イタリア南部やギリシャ、トルコ、北アフリカ、中東、そしてバルカン半島のレジスタンス運動は主にカイロの司令部(コードネーム「フォースー33」、後にイタリア南部のバーリに移転)が、極東や東南アジアはニューデリーの司令部(コードネーム「フォースー36」)が作戦を指導した。
欧州諸国の中でもっともSOEが力を注いだのは地理的にもっとも英国に近く、実質的に作戦が容易に決行できたフランスであった。しかし、SOEにはある種の〃困難〃が待ち受けていた。それはパリ陥落後、フランスには複数の〃非公式〃な政府が存在していたという政治的なもので、作戦をどう成功させるかという以前の問題であった。とくにロンドンで亡命政府を率いた「自由フランス」のシャルル・ド・ゴールとアンリ・ジローの対立はSOEの作戦決行をより困難にしていた。
この事態を打開すべく、SOEは「自由フランス」に対して「RF」セクションと連携する一方、SOEが独断で行動できる「F」セクションを設け作戦を実行するという策をとった。これは、英国政府はド・ゴールとの関係を「ド・ゴールが〃正式に〃一国の長となるまでは過剰なもてなしの必要なし」とする表れでもあった。因みに英米の連合軍がモロッコとアルジェリアに上陸した「トーチ作戦」(1942年11月8日)においても、作戦決行同日までチャーチルとアンソニー・イーデン外相はド・ゴールに上陸作戦を事前に通知していない(フランス領アルジェリアにおいては、SOEの「AMF」セクションが担当して活動した)。
したがってフランス国土で作戦を実行したのは主に「F」セクションであった。『F」セクションでは少人数制で多くのグループが分散して各方面で活動し、その秘密作戦の内容は戦争能力に関連する軍需産業の妨害工作や宣伝工作、そして将来の軍事作戦に必要となる戦術的なインテリジェンスの収集や、時に破壊工作であった。
しかし、戦局が変化するにつれてレジスタンス活動もより活発になり、とくに「トーチ作戦」からノルマンディーに連合軍が上陸した「オーバーロード作戦」(1944年6月6日)時には、SOEが長期的に取り組んできたレジスタンス活動はピークを迎え、ナチスの保安警察や防諜機関の主要人物を次々と暗殺する後方撹乱を展開(「ラットウィーク作戦」)したのであった。これは他のオランダ、デンマークやノルウェーなどでも同様に行われた。
作戦の規模や手法は異なるものの、他の欧州諸国でのSOEの活動はフランスでの活動と類似していた。レジスタンス活動を行っていた地下組織はゲリラ戦を控えてはいたものの、その他の秘密活動は行っていた。破壊工作の成功例を挙げれば、冒頭のドイツ第3帝国次期総統と噂されたハイドリヒに対する「エンスラポイド作戦」やノルスク・ハイドロ社の重水炉を爆破した「ガナーサイド作戦」であろう。後者は1943年2月27日未明にノルウェーを担当する「SN」セクションがノルウェー南部のヴェモルクで決行したドイツの原爆製造につながる重水炉を爆破するという破壊工作の典型例である。

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ナチス要人を暗殺せよ イギリス特殊作戦執行部SOE 2

秘密機関のSOE
SOEは戦時中の英国にあった9つの秘密機関のうちのひとつであった。省庁から独立した機関であったが、名目上、経済戦争省の下に設置され、組織的な枠組みの中に粗み込まれた。しかしながらSOEの存在は英議会の中でさえ口にすることはご法度となっており、その予算は莫大なものであったが英国の伝統である〃秘密投票〃によって算出され、内閤を監査する役割のある英下院でさえも、〃秘密投票〃に口を挟むことはタブーであった。そして、当時経済戦争省大臣であったヒユー・ダルトン博士がSOEの指揮運営を監督(1942年2月以降はラウンデル・パーマー卿が後任)することとなる。
変則的なSOEの活動は正規の軍事作戦を執行するための〃助力〃として認識され、SOEの秘密工作は軍事戦略に沿って行われた。そのため、英軍の参謀総長は戦略の全体図を、ダルトンはSOE作戦の概要をお互いに伝え合うという関係ができあがり、SOEは常に英軍と連携しながら参戦するようになった。また、SOEの作戦計画と運営に対し、他省庁から全面的な支援が与えられ、前外務次官のロバート・ヴァンシッタートが政府の国際情勢首席アドバイザーとして政治、外交の両面からダルトンを補佐した。
それまで英国領土外の秘密工作を独占していた対外諜報機関M16であったが、ナチス・ドイツの支配下にある欧州大陸ではすでにM16ネットワークは壊滅状態であり、新たな策を必要としていた。そのためM16の長官はSOEの作戦計画や活動に対して口を挟むことが出来ず、SOEを完全に独立した秘密機関として容認し、全面的に活動を支援することになった。
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新組織であるSOEはゼロからスタートした。人員補強については他の政府機関から引き抜く権限が与えられ、各省庁の中でも攻撃的な武器となる組織はSOEに吸収合併された。まずドイツのオーストリア併合後に編成されたM16の破壊工作部門(「第9」セクション)は、SOEの「F」セクションとして編成され、当時活動していた50名のM16オフィサーがSOEに異動した。このM16のセクションは主に海外のレジスタンス運動を支援し、破壊工作や政府の転覆を目的とするものであった。
また、国防省のゲリラ戦を担当する「MI(R)」セクションと「エレクトラ・ハウス」、そして外務省の準秘密宣伝工作部門「EH(時に非公式にCSと呼ばれる。このEHは国防省の「エレクトラ・ハウス」と同名で頭文字を取ったもの)」がSOEの一部として吸収された(国防省の「エレクトラ・ハウス」と外務省の「EH」はプロパガンダ機関のため、右記に示す〃政治戦争執行部(PWE)"設立時に吸収合併された)。
前線で活動するSOEメンバーは破壊工作や煽動活動を好むアウトロー出身者がほとんどであったが、中核となるメンバーはM16や英軍の将校はもちろんのこと、〃内輪"によるネットワークからも引き抜かれた。そのバックグラウンドは幅広く、ロンドン・シティーの金融界、ビジネス界、大学教授なども多く含まれていた。ダルトンはSOEの実質的な作戦司令官に元M16諜報員でインテリジェンス活動の経験を持ち、また保守党の政治家でもあるフランク・ネルソン(当時56歳)を起用し、M16長官スチュワート・ミンギスも諜報と防諜の世界を知るネルソンの起用に賛同した(ネルソンの後任は、チャールズ・J・ハンブロー、そして横浜生まれの陸軍大将コリン・ガビンズであった)。
SOEは三つの部署で構成されスタートを切った。
心理戦などの宣伝工作を担当するプロパガンダ部(HSOl。1941年に同部門は〃政治戦争執行部(PWE)"として外務省の管轄下となる)、破壊工作を実行する作戦実行部(SO2)、破壊工作を考案する作戦計画部門(SO3)である。
そして首脳部はロンドン・マリルボーン地区のベイカー・ストリート64番、探偵「シャーロック・ホームズ」の部屋の近くに拠点を置いた。M16の呼称が内部関係者のあいだで「ブロードウェイ」として知られるように、秘密作戦を行うレジスタンス活動家はSOEを「ベイカー・ストリート」と呼び、英政府のホワイトホールでは「公園の周辺」と呼ばれていた。
当初のSOEの目的は欧州戦線におけるレジスタンス活動の支援であったが、戦局が変化するにしたがって太平洋戦線の東南アジアや中国本土でも活動を行う地球規模の組織へと発展していく。情報収集も含む諜報活動など幅広い活動を行うことになったSOEは北アフリカ作戦戦域の司令部をエジプトのカイロに、太平洋作戦戦域の司令部をインドのニユーデリーとオーストラリアのメルボルンにそれぞれ置くまでになった。
英国にとって利益となるレジスタンス活動を支援し、様々な民族からなる組織とそれらの作戦を統括することがSOEの基本的任務であったが、占領下の敵地である欧州大陸でレジスタンス活動を行っている地下組織との接触や作戦を実行するエージェントのリクルートはSOE単独では無理があった。無からスタートしたSOEは手探りで作戦を計画し、実行していくしかなかったが、リクルートに関しては英秘密機関のひとつである防諜機関M15によって助けられた。
当時、欧州戦線の勃発により、大量の政治難民が大陸から英国へ流れ込み、その中から〃第5列〃や枢軸国のスパイを発見することがM15の役割だったからである。M15はSOE連絡官を常任させ、祖国を解放するために勇敢な志願者を政治難民から集めたのだった。
M15の協力を得たとはいっても、現実の世界は小説の世界とは異なり、SOEは多くの失敗を重ねた。しかし、作戦が失敗するたびにその原因を究明し、改善することによって技術と能力を着実に高め、特殊作戦を実行するには綿密な準備が欠かせないことを学んでいった。SOEは、まず勇敢な志願者に最高の訓練を受けさせることから始めた。SOEによってリクルートされたすべてのエージェントはSOEスタッフによって訓練を受け、秘密活動における鉄則を教え込まれ、1944年半ばには、SOEの戦力は約1万人の男性工作員と約3千名の女性工作員で構成されるまでになった。
SOEが重視した訓練は、彼(彼女)らをまず敵地の中でももっとも危険性が低い場所に正確な時間に配置させ、即応可能で安全な通信手段を常に保持させることであった。また、用心深い敵をはぐらかしながら任務を遂行させ、任務を終了した勇敢な愛国者を安全な場所へ避難させることにも重点をおき、敵地から彼(彼女)らを出国させる作戦は、秘密機関のひとつであるM19と連携して行った。
余談になるが、SOEスタッフの中にはプロパガンダエ作を専門とする訓練官がいた。その男こそ1941年9月にm16オフィサーとしてSOEを離れた〃ソ連のスパイ〃キム・フィルビーである。

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