昭和30年代はのんびりした良い時代だった。 当時、まだ三里塚町というのは存在しなくて、成田空港周辺は 「ちろりん村」という名前で、呼ばれていた。 駐在所で育った私は、父が見回りにいくときに、留置所の中のやくざさんに私のお守りを頼んでいたそうだ。 その人は、行徳の親分さんで、ブルーフィルム(ポルノ映画)を、工事現場の人に見せていつもつかまっている 「松五郎」という人だったらしい。 親分はいつも、キャラメルやチョコレート、コーラなど、当時にしては珍しいお菓子を大量に抱えて、駐在所を遊びに? きたそうだ。 といっても、私は親分の顔を覚えていない。覚えているのは、きらきらのセロファンのかかったキャラメルやチョコの箱や包み紙だったりする。 それと筋肉でごつごつだけれども、大きくて暖かい背中や腕。 父の話では、親分は私のよだれで腕をべたべたにしながらいったそうだ。 おじさんは、やくざだが、 仁 義 はきっちりと守っている。 筋を通すから、極道…つまり極めた道を歩いてるんだ やくざですら、 仁義 を守る かたぎさんは、尚のこと 仁義 を守らなければいけねえよ お前は、大きくなったら立派に仁義をきる人間になれ 外道になるな と 私は筋を通した。 |
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