信夫淳平、といっても、ご存じの方はあまりおられないだろうが、このサイトをご覧になっている方々の中には、ご存じの方がおられるかもしれない。 昭和の外交史家、国際公法学者(以下「国際法学者」と略記)で、1871年、茨城で出生、一橋大学及び、日本の国際法学者の草分けである有賀長雄(陸軍大学校の国際法教授、日清、日露戦争において国際法の顧問として出征、後に袁世凱の国際法顧問を務める。1912年に「仏文日清戦役国際法論及仏文日露陸戦国際法論」が、第2回帝國學士院恩賜賞(※)に選ばれる。(ちなみに、本論とは関係ないが、この時、高峰譲吉がアドレナリンの発見で、帝國學士院賞を受賞している。)対華21箇条要求に反対して、政府と対立)に学び、1917年まで外交官を務めた後、国際法学者となる。 海軍大学校の国際法教官を務め、第一次上海事変(1932年)の際は、第三艦隊(海軍の中国方面担当部隊)の国際法顧問の幕僚として出征した。(日露戦争、日中戦争にも、国際法顧問として出征したらしいが詳細は不明。) 1943年に、著書の「戰時國際法講義」(全4巻 丸善 1941年)が、帝國學士院恩賜賞に選ばれ、1944年に、国際法学者としては2人目の帝國學士院會員に選出される。早稲田大学で教鞭をとり、1962年に死去。 偕行社の「南京戦史」「南京戦史資料集」に著作が引用されている。そのためか、ネットの世界では、戦前の国際法学者として、比較的よく言及されている。 ※帝國學士院恩賜賞:1910年に創設、帝國學士院(戦後は日本学士院)の人文科学部門、自然科学部門からそれぞれ1件以内で帝國學士院賞(戦後は日本学士院賞、「明治43年【1910年】に創設され、学術上特にすぐれた論文、著書その他の研究業績に対して授賞を行っています。(中略)過去の受賞者には、木村栄、高峰譲吉、野口英世をはじめ、後にノーベル賞を受賞した湯川秀樹、朝永振一郎、福井謙一、江崎玲於奈、小柴昌俊、野依良治がいます。」(「日本学士院」のウエブサイト(http://www.japan-acad.go.jp/japanese/activities/index.html)より引用【】内筆者注記)より推選される。 信夫淳平について、確認できたのは、この程度であるが、「ウィキペディア」によると、信夫淳平は「戦時国際法の権威」だそうである。 「ウィキペディア」であるから、誰が、何を参考にして書いたのか、いかなる根拠で「戦時国際法の権威」と評価したのか、一切不明である。ちなみに「ウィキペディア」に記載されている「国際(公)法学者」の中で「○○の権威」と書かれているのは、信夫淳平のみである。(但し、「国際私法学者」には何人かいる。) これを、信夫淳平が、高く評価されている証拠とみるか、あるいは、信夫淳平が、高く評価されているように見せかけたいという、何者かの作為が働いている証拠とみるかは、あなたの自由である。 さて、「戦時国際法の権威」とされている信夫淳平であるが、実は、国際法に関する著作は、「上海戰と國際法」(全1巻 丸善 1932年)、「戰時國際法講義」(全4巻 丸善 1941年)、「戰時國際法提要」(全2巻 照林堂書店 1943年、1944年)、「海上国際法論」(全1巻 有斐閣 1957年)の4冊しかない。(信夫淳平の著作に関する書籍データは、ネットの書籍検索等を利用して調べた結果であり、検索漏れ、ないしは知られていない国際法関係の著作がある可能性はある。) このうち、「海上国際法論」は、海戦、艦船(軍艦、武装商船)といった戦時国際法の主要な項目が無いため、戦時国際法の解説書とは言えない。(「戰時國際法講義」、「戰時國際法提要」には、該当項目が存在している。)従って、戦時国際法を扱った著作は「上海戰と國際法」、「戰時國際法講義」、「戰時國際法提要」の3冊であり、全て戦前、戦中のものである。 その上、「上海戰と國際法」は、「國際法關係の問題のみに限らず、戰鬪の經過や上海の將來觀などにも」(「上海戰と國際法」前がき)言及しており、純粋な戦時国際法の解説書ではない、また「戰時國際法提要」は「『講義【「戰時國際法講義」】』の大凡十分の四程度に要約したもの」(「戰時國際法提要」序言)で、「戰時國際法講義」のダイジェスト版でしかない。 つまり、まっとうな戦時国際法の解説書は「戰時國際法講義」しかないのである。 加えて、戦後の著作は、前述の「海上国際法論」と「国際法講座 第3巻」(国際法学会 有斐閣 1954年)にある「陸戦」の項目だけしかない。しかも、この「国際法講座 第3巻」では、「戦時国際法」の「海戦」「空戦」の項目は、榎本重治(海軍大学校教官、海軍の国際法顧問、将官待遇の海軍書記官、後述の「戰時國際法規綱要」を編纂、東京裁判において海軍軍務局局長岡敬純中将の弁護を担当)が担当している。 国際法学会は「戦時国際法の権威」に対して、「戦時国際法」の「陸戦」だけしか任せていないのである。信夫淳平が「戦時国際法の権威」であるのなら、隨分、奇妙な扱いである。 信夫淳平の経歴については、この程度にして、次に、信夫淳平の著作の中身を見てみよう。 まず、信夫淳平の最初の戦時国際法の解説書である「上海戰と國際法」を見てみよう。これは、前述のように、第一次上海事変(1932年)における日本軍の行動とその国際法的解釈を検討するために書かれたものだが、「便衣隊の處分」に関して以下のような記述がある。 「交戰者は、非交戰者の有せざる特権を有する。例へば敵に捕へられたる場合に於て俘虜としての取扱を受け、戰時重罪犯(War crimes)として處罸せらるゝなきの特權の如きである。戦時重罪犯とは、敵国の交戰者若くは非交戰者に依りて行はれ我軍に有害なる結果を興ふる所の重罪性の犯行で、(中略)戦時重罪犯の下に概して死刑、若くは死刑に近き重刑に處せらるゝのが戦時公法の認むる一般の慣例である。 便衣隊は間諜よりも性質が遙に悪い(勿論中には間牒兼業のもある)。間諜は戦時公法の毫も禁ずるものではなく、その容認する所の適法行爲である。(中略)然るに便衣隊は交戦者たる資格なきものにして害敵手段を行ふのであるから、明かに交戦法規違反である。その現行犯者は突如危害を我に加ふる賊に擬し、正當防衛として直ちに之を殺害し、又は捕へて之を戦時重罪犯に問ふこと固より妨げない。」(「上海戰と國際法」P125〜126) ここで、問題がある。「戦時重罪犯の下に概して死刑、若くは死刑に近き重刑に處せらるゝのが戦時公法の認むる一般の慣例である。」とあるが、便衣隊(「便衣隊」のような行為に対しては、通常「戦時叛逆」という用語を使うのが、当時の国際法の解説書では普通である。当時「戦時叛逆」という用語を使わず、「便衣隊」とだけ書いている国際法学者は、信夫淳平だけである。)を始めとする戦時重罪犯の処分には、国際法上、審問(裁判所等が書類または口頭で当事者や利害関係のある人などに陳述の機会を与えて聞くこと)が必要なのであるが、ここでは、それに触れられていない。 戦時重罪犯の処分には、審問が必要なことについては、例えば、戦前の代表的な国際法学者の1人である、立作太郎(1907年から東大教授、1920年に、国際法学者として初めて帝國學士院會員に選出、1941年、国際法学会が財団法人になった(国際法学会自体は1897年の設立)時点で、国際法学会の理事)の「戰時國際法」(有斐閣書房 1913年)には 「戰時重罪人ハ軍事裁制所又ハ其他ノ交戰國ノ任意ニ定ムル裁判所ニ於テ審問スヘキモノトス然レトモ審問ヲ爲サスシテ處罰スルコトヲ得サルヘキナリ」(「戰時國際法」P50)とある。 これは、第1次世界大戦前に、既に、戦時重罪犯の処分には、審問が必要であることが、国際法として成立していたことを示している。 これが、その後、変わっていないことは、例えば、1937年、前述の榎本重治が編纂し、海軍大臣官房が配布した「戰時國際法規綱要」(当時の海軍次官、山本五十六の名前で配付された海軍の公式文書。主に海戦に関する戦時国際法の解説書であるが、海軍は、陸戦隊を持ち、陸戦を行う場合もあったため、陸戦に関する戦時国際法の解説も含まれている。)では、戦時重罪の処罰として 「(1) 戦時重罪ハ、死刑又ハ夫レ以下ノ刑ヲ以テ處断スルヲ例トス。 之ガ審問ハ、各国ノ定ムル機關ニ於テ爲スモノナルモ、全然審問ラ行フコトナクシテ處罰スルコトハ、慣例上禁ゼラルル所ナリ。」(「戰時國際法規綱要」P53) としており、戦時重罪犯の処分には、審問が必要であることを明快に示している。 また、前述の立作太郎は、1938年出版の「戰時國際法論」において 「凡そ戰時重罪人は、軍事裁判所又は其他の交戰國の任意に定むる裁判所に於て審問すべきものである。然れども全然審問を行はずして處罰を爲すことは、現時の國際慣習法規上禁ぜらるる所と認めねばならぬ。」(「戰時國際法論」 立作太郎 日本評論社 1938年 P49) としており、国際法に変化がないことを示している。 以上のように、当時の他の国際法の解説書と比較すると、1931年出版の「上海戰と國際法」において、戦時重罪犯の処分には、国際法上、審問が必要なことに触れていないのは、読者に誤解を与える、重大な問題である。 このように誤解を生みやすい「上海戰と國際法」であるが、「便衣隊の處分」の前に、便衣兵の処分例として、「日露戰役」において 「我國は明治三十八年の日露戰役の末期に於て、一種の便衣隊を露兵の間に見出したことがある。(中略)我軍の之を虜にせるもの百六十を算し、中にありて情状の重きもの百二十名ほどは、交戰法規の容認せざる、即ち交戰者たるの資格なきに敢て交戰行動を執りて我軍に敵抗したとの理由の下に、軍事法廷に於て之を銃殺の刑に處した。」(「上海戰と國際法」P122〜123) と、実際の戦時重罪犯の処分は、「軍事法廷」において、裁くことが前提であることを記載している。 また、「便衣隊の處分」の直後に「多少は玉石混淆」として、 「たゝ然しながら、彼等は暗中狙撃を事とし、事終るや闇から闇を傳つて逃去る者であるから、その現行犯を捕ふることが甚だ六ケしく、會々捕へて見た者は犯人よりも嫌疑者であるといふ場合が多い。嫌疑者でも現に銃器弾薬類を携帯して居れば、嫌疑濃厚として之を引致拘禁するに理はあるが、漠然たる嫌疑位で之を行ひ、甚しきは確たる證據なきに重刑に處するなどは、形勢危胎に直面し激情昂奮の際たるに於て多少は已むなしとして斟酌すべきも、理に於ては穏當でないこと論を俟たない。」(「上海戰と國際法」P126) と、証拠無しに処罰することの不当性について記載している。 また、だいぶ後であるが「支那の抗議に理由無し」として 「斯の如く我が軍憲に於て便衣隊を射殺したのは、孰れも我が軍民に對する狙撃の現行犯の場合に非ずんば現行犯者又は嫌疑者の逮捕護送中、又はその檢束中、集團結束して抵抗し、少數の監視兵にて他に取るべきの道なき急迫の場合のみと承知する。而して他は審問の進むと共に、情状の輕き者は將來を戒めて之を釋放し、相當處分を要すべきかと認めたるものは之を共同租界當局に引渡してその處分に任せたもので、當面の措置としては大體に於て間然する所なかつたものと認められる」(「上海戰と國際法」P135) と、第一次上海事変の際、審問せずに、戦時重罪犯の処刑をしたのは、正当防衛に該当するケースに限られることを、記載している。 従って、注意深く読めば、戦時重罪犯の処分には、審問が必用であることが判る可能性はあるが、そのことを明確に書いていないため、誤解を生じやすく、戦時国際法の解説書としては、明らかに問題である。 また、信夫淳平は、 「然るに便衣隊は交戦者たる資格なきものにして害敵手段を行ふのであるから、明かに交戦法規違反である。」 と書いているが、これが、正しいかどうかについても、疑問がある。 松原一雄(中央大教授)は、「國際法要義」(有斐閣 1943年)において、以下のように、戦時叛逆は、間諜と同様に、国際法違反ではないと書いている。 「「間諜」又は「戰時叛逆」は之を使用する交戰國に取つて適法行爲であるが、對手交戰國に取つては當該行爲者を捕へたとき、之を處罰し得べき行爲である。戰時叛逆とは敵軍の作戰地帶内に於て自國軍の爲に鐵道の破壞を企つるが如きを云ふ。間諜と同じく、當該行爲に從事する者が敵に捕へられれば、戰時犯として處罰せられる。」(「國際法要義」P344) 戦時叛逆が、当時の国際法に違反する行為かどうかについては、これ以外に、コメントしている国際法学者が見つからないため、判断が出来ない。 従って、戦時叛逆が、当時の国際法に違反する行為かどうかは、今のところ、不明である。 次に、信夫淳平の代表作で、事実上、唯一の戦時国際法の解説書である「戦時國際法講義」を見てみよう。 (本論とは関係ないが、この「戦時國際法講義」は大作である。全4巻で、1巻あたり、1,000ページを越え、総ページ数は5,092ページに及ぶ。既に用紙統制が始まっていた、1941年に、よく出版できたなと思う位の大部の書物である。但し、大作と雖も優れた書物とは限らないのは言うまでもない。) 「戦時國際法講義」の中で、信夫淳平は、 「現代にありては、(中略)加害手段に特定の制限を加へ(中略)戰闘の箴規と爲し、之を無視して行ふを許さずといふのが現代の陸戰法則の眞髓となつてある。」(「戰時國際法講義」2巻 P8) 「現代の交戰法則の根幹を成すものには少なくも三つある。之を要約すれば、(一)戰闘の目的は敵の抵抗力を挫くにあるから、苟もこの目的を達するに絶封必要なる限りは、如何なる種類の武器にても、將た加害手段の何たるを擇ばず、之を利用するに妨げないことである。」(「戰時國際法講義」2巻 P9) と書いているが、両者は明らかに矛盾している。しかも、ページ数から判るように、この両者は、連続しているといってもいい程、近くにある。信夫淳平は、この矛盾に、どうして、気付かなかったのだろうか。何にせよ、こういう論理矛盾は専門書としては、致命的な欠陥である。 ちなみに、前者は、一般的な国際法の解説であるが、後者は、いわゆる「戦数」(※)説に基づいたもので、当時の国際法の解説としては正しくないのみならず、非常に奇異な解説である。 ※戦数:ドイツ語の「Kriegsraeson」の訳、第一次世界大戦前に、ドイツの国際法学者が主張した学説で、日本では、なぜか「戦数」と呼ばれている。 戦時に於いては、戦争目的の達成が最優先され、国際法は、戦争目的の達成を妨げない範囲でしか適用されないという説で、ドイツ以外では、「戦數説ノ要旨ハ戦争法規ニ拘泥スルトキハ戦争ノ目的ヲ達スルコト能ハサルカ又ハ緊急ノ危険ヲ免ルルコト能ハサル場合ニハ戦争法規ニ據ラス掠奪、燒燬、一般的破壊等ノ如キ最モ野蛮的ナル行動ヲモ爲スコトヲ得ト云フニ在リ是レ目的ハ手段ヲ正當ニスト云フ俚諺ノ極端ナル適用ナリ」(「国際法提要」遠藤源六 清水書店 1933年 P315)のように、「戦争に勝つためなら、何をしても構わない。」という趣旨であると理解されて、受け入れられなかった。日本も採用していない。 第一次世界大戦の敗戦後は、ドイツでも捨てられ、現在は勿論、1940年代でも、その悪名が残るだけで、完全に死んだ学説である。 また、信夫淳平は、 「間諜は戰時國際法の毫も禁ずるものではなく、その容認する所の適法行爲である。(中略)然るに便衣隊は、交戰者たる資格なきものにして害敵手段を行ふのであるから、明かに交戰法則違反である。その現行犯者は突如危害を我に加ふる賊に擬し、正當防衛として直ちに之を殺害し、又は捕へて之を戰律犯に問ふこと固より妨げない。」(「戰時國際法講義」2巻 P82-83) と書いている、前著「上海戰と國際法」の問題点である、戦時重罪犯の処分には、国際法上、審問が必要なことに触れていない点、戦時叛逆が、当時の国際法に違反するという主張、通常使われる「戦時叛逆」という用語を全く使わず、「便衣隊」とだけ書いていることは、改善されていない。 戦時重罪犯の処分には、審問が必用であることを明確に書いていないため、誤解を生じやすく、戦時国際法の解説書としては、問題であること、戦時叛逆が、当時の国際法に違反すると述べているが、それが正しいかどうかは不明であることといった問題については、既に述べたので、ここでは繰り返さない。 次に問題となるのは「交戰者の資格」として、 「交戰者は獨り正規兵に限らず、特定の條件を具備する民兵及び義勇兵、竝に謂ゆる民衆軍をも亦交戰者と認めるといふことにした」(戰時國際法講義2巻 P50) と書いているのであるが、ここで「民衆軍」の定義について触れることなく、いきなり、ハーグ陸戦法規の第1条の説明に入ってしまう。 これでは、郡民蜂起にまで、ハーグ陸戦法規の第一条が適用されるかのような、誤解を与えかねない。 前著「上海戰と國際法」においては、 「現交戰法規の上に於て認めらるゝ交戰者は、第一には正規兵、第二には民兵(Militia)及び義勇兵團(Voiunteer Corps)、(中略)第三には、未占領地方の人民で敵の接近するに方り(中略)、公然兵器を携帯し且戰時の法規慣例を遵守して抗敵行動に出づるといふ謂ゆる民衆軍即ち Levee en masse で、以上の三者が交戰者としての有資格者となつてある。」(「上海戰と國際法」P114〜115) として、「民衆軍」の交戦者としての条件を書いているにも係らず、「戦時國際法講義」においては、何故かこの説明を省いている。 郡民蜂起に関する説明は、ずっと後ろに、「第二項 民衆軍」として、別項を立てて説明している。当時の戦時国際法の解説書では取られない、極めて、特異な説明の仕方である。その上、どうして、こういう説明の仕方をするのかに関する説明は無い。 ちなみに、ここで書かれている「民衆軍」は、普通は「郡民蜂起」と呼ばれるものである。信夫淳平もそのことを知っているが、「稿者は『民衆軍』が然るベしと見、この語を慣用する。」としている。(前述のように「上海戰と國際法」でも、「郡民蜂起」を「民衆軍」と呼んでいる。)しかし、何故「『民衆軍』が然るベし」なのかの説明はない。 この件といい、前述した「戦時叛逆」という通常使用される用語に関する説明を全くせず「便衣隊」という俗語のみを使用することといい、信夫淳平の本は、専門的な解説書としては、かなり問題がある。 更に問題なのは、「郡民蜂起」の説明で、明らかな誤りがあることである。 「斯の如く民衆軍は既に敵軍の占領地となれる所に於ては適法の交戰者と認められざるのみならず、(中略)未だ完全に占領地となるに至らずして單に敵軍の侵入地たる所にありても、民衆軍は認められず、その認めらるるのは敵軍の接近するといふ程度の所に於てのみに限らるるのである。随つて占領地に於ては勿論、敵軍の既に侵入したる所に於ては、彼等の敵對行動は當然戰律犯【戦時重罪犯のこと】に問はれ、敵手に落つれば俘虜とせられずして直ちに殺害せらるべきものとなる。」(「戰時國際法講義」 2巻 P75-76【】内筆者注記) まず、 「未だ完全に占領地となるに至らずして單に敵軍の侵入地たる所にありても、民衆軍は認められず」 であるが、これは、間違いである。 「郡民蜂起」に関する、当時の国際法学者の解説を以下に引用してみよう。 「ハーグの陸戦條規の交戰者として認めたる不正規兵の第二種は(中略)、所謂群民蜂起の場合である(中略)陸戰條規は、是等の者が公然兵器を携へ且戰爭の法規慣例を遵守するときは、(中略)之に交戰者たる特權を認むるのである。(中略)地方の人民が、眼前に敵兵の近づくを見て、相集まりて家郷の爲に防戰せんとするは、情状の諒とすべきものあるを以て、特に戰時重罪を以て論ずることを宥恕せんとするのである。 (中略) ハーグの陸戰法規條約の前文に於て、(中略)未占領地の人民の蜂起せる者につき、寛典を勸奨するの意を含むと解すべき言明を存することは、前に之を指摘せる所である。」(「戰時國際法論」立作太郎 P58〜59) 「(二) 敵國軍の侵入を受けた地方の住民であつて、團體を組織し統率者を選ぶ時間の餘裕無くして侵入軍に向つて抵抗を企てるもの(群民蜂起 Leveeen en masse)に交戰資格を認める。第二の例外は、敵國軍の侵入を受けた地方の住民が郷土愛に基いて敵國軍に抵抗する事は人情の自然に出で、之を戰時犯罪人として處罰するは酷に過ぎる、と言ふ人道的考慮に基づく。但し此の場合にも武器を公然と携帶する事、及び其の行動に就き戰爭法を遵守する事は必要とせられる(二條)。又此の交戰資格は、侵入軍が該地方を完全に占領して軍政を布き、事實上統治の權力を把握すると同時に消滅する。」(「國際法学大綱 下」田岡良一 巌松堂 1947年※ P211〜212) ※「國際法学大綱 下」の初版は、1939年の出版であるが、残念ながら、初版を見つけることは出来なかった。 引用したのは、1947年出版の第9版であるが、「第九版の序」に、「國際法學大綱下巻は昭和十四年に初版を出してから未だ改訂を加へて居ないから、今囘の終戰を期として全部的に書き改めて見たいと思つたが、最近の印刷事情に基き、本書のやうに大部で且つ色々の活宇を用ひて印刷の複難なものを、全部的に組直すことは甚だ困難であるといふ意見が、出版書肆から出たので、この度は改訂を断念して、たゞ巻末に、國際聯合による紛爭處理に關する附録を付加へることにした。」とあることから、中身については1939年の初版と変わっていないものと判断して、1947年出版の第9版より、引用している。 「即ち未だ占領せられざる地方の人民にして(故に既に占領せられたる地方の人民の敵對行爲は別問題である)(1)公然兵器を携帶すること、(2)戰爭の法規慣例を遵守することの二條件を備ふれば「交戰者」と認められる。」(「國際法要義」松原一雄 有斐閣 1943年 P337) ご覧のように、当時の代表的な国際法学者3名は、一致して「未だ占領せられざる」ことのみを、「郡民蜂起」が交戦者として認められる条件としている。中でも、田岡良一(1942年当時、東北大教授、1964年に国際法学者として、4人目の日本学士院会員に選出)は、「交戰資格は、侵入軍が該地方を完全に占領して軍政を布き、事實上統治の權力を把握すると同時に消滅する」と述べている。これは、逆に言えば、侵入軍が、その地方を完全に占領し、軍政を施行するまでは、「郡民蜂起」は交戦者として認められるということになる。 「郡民蜂起」が「地方の人民が、眼前に敵兵の近づくを見て、相集まりて家郷の爲に防戰せんとするは、情状の諒とすべきものあるを以て、特に戰時重罪を以て論ずることを宥恕せんとする」もの(ちなみに、信夫淳平も「敵兵が眼前に近寄る場合に於て、その土地の民衆が自發的に兵器を執りて防戦する(中略)を戰律犯に問ふのは、人惰に戻るや大なりといふ思想に出でたもの」(「戰時國際法講義」P72)と書いているので、この点に於いては、両者の解釈は一致している)であり、「ハーグの陸戰法規條約の前文に於て、(中略)未占領地の人民の蜂起せる者につき、寛典を勸奨するの意を含むと解すべき言明を存する」であるならば、「單に敵軍の侵入地たる所にありても、民衆軍は認められず」という、信夫淳平の解釈は明らかにおかしい。 敵が侵入した時点で、「郡民蜂起」が交戦者でなくなるとしたら、「土地の民衆が自發的に兵器を執りて防戦する(中略)を戰律犯に問ふのは、人惰に戻る」という、この規定の趣旨が生かされないのである。 次に、「敵軍の既に侵入したる所に於ては、彼等の敵對行動は當然戰律犯に問はれ、敵手に落つれば俘虜とせられずして直ちに殺害せらるべきものとなる。」と言う部分を見てみよう。 前半については、既に間違いであることを、説明したので、ここでは繰り返さない。 後半の「敵手に落つれば俘虜とせられずして直ちに殺害せらるべきものとなる。」であるが、これも間違いである。捕虜であればもちろんのこと、たとえ、戦時重罪犯であっても、審判無しで処刑することは、国際法に違反することを既に述べたので、ここでは繰り返さない。 問題となるのは、以上にとどまらない。信夫淳平は「未占領地人民の單獨抵抗」として 「二囘の海牙平和會議に於ても、尚ほ取殘されたる二つの重要なる未決問題がある。一は未占領地の人民にして單獨に侵入軍隊に抗敵するものの地位如何で(中略) 陸戰法規慣例規則(現)第二條にある『人民』は、原佛文にては"La population"で、英譯文にては"The inhabitants"であり、(中略)抗敵者の複數の民衆たるを意味すること言を侯たない。故に(中略)隊伍を成さざる個人が個々に兵器を手にして侵入軍隊に抗敵する場合は如何といふに、これには交戰者たるの資格を認めずといふのが定解のやうである。獨逸の『陸戰慣例』には『軍事的見地よりすれば(中略)抗敵者が個々の人々たる場合にありては、之を匪賊とせずして適法の交戰者として取扱はんとするには、彼等が一の組織的團體に屬することの立證あるを要すべく、この要件を抛棄するは不可能なり。』とある。(中略)南阿の役【ボーア戦争】にも、ボア側には組織的隊伍を成さざる個人の抗敵者が相應に活躍した。而して英軍にては、これ等の輩を捕へると俘虜としないで"Marauder"として死刑に處した。」(「戰時國際法講義」2巻 P73-74【】内筆者注記) と書いているが、この記述は、かなりおかしい。 そもそも、「陸戰法規慣例規則(現)第二條にある『人民』は、原佛文にては"La population"で、英譯文にては"The inhabitants"であり、(中略)抗敵者の複數の民衆たるを意味すること言を侯たない。故に(中略)隊伍を成さざる個人が個々に兵器を手にして侵入軍隊に抗敵する場合は如何といふに、これには交戰者たるの資格を認めずといふのが定解のやうである。」という説明はどう見ても無理がある。 これが成り立つならば、戦時重罪犯の英文は、"War crimes"(「上海戰と國際法」信夫淳平 P125)で、複数形であるから、集団ではない個人の国際法違反は、戦時重罪犯に該当しないという理屈も成り立ってしまう。 また、この記述の中に事例として出てくる、ドイツの「陸戦慣例」について、信夫淳平は、 「獨逸の『陸戰慣例』は、(中略)その指導原理としたる所のものは謂ゆる戰時無法主義(クリーグスレイリゾン)【戦数説のこと】で(中略)、海牙條約の要求する人道主義の如きは感傷性且女々しき惰念(中略)と斷じ、軍事的必要の至上主義を極度に力論したるものである。陸戰法規慣例條約は附属の該『規則ニ適合スル訓令ヲ發スベシ』と命ぜるが、獨逸の『陸戰慣例』は啻に之に適合せざるのみか、随所に該規則を冷嘲し、随所に之を打消す反對の規定が設けられてある。」(「戰時國際法講義」 2巻 P21-22【】内筆者注記) と、「陸戦慣例」が「戦数説」に基づく、ハーグ陸戦法規とは、完全に対立する規則であることを、同じ「戰時國際法講義」に書いている。 そのようなものを、ハーグ陸戦法規に未規定の問題を考察する際に参考として使うというのは、どう見ても、間違っている。というよりも、それ以前に、どうして、1918年の帝政ドイツの敗北とともに消滅した規則を、20年以上も経ってから、参考事例として引っ張り出してくるのかが、さっぱり判らない。 わからないと言えば、もう一つの事例として出てくるボーア戦争も同様である。時系列で言うと、ボーア戦争は、ハーグ国際平和会議前の出来事である。(第一次ボーア戦争は1880年から1881年、第一回ハーグ国際平和会議は1899年、第二次ボーア戦争は1899年から1902年、第二回ハーグ国際平和会議は1907年)ハーグ国際平和会議で結論のでなかった問題について検討する際に、会議以前の事例を持ってくるというのは、どうにも理解できない。 1907年から1941年までの間に、全く戦争がないというのであれば分からないでもないが、実際は、第一次世界大戦(1914年-1918年)を初めとして、幾つもの戦争がある。そういった事例を無視して、30年以上も前の、しかも、会議以前の事例を持ってくるというのは、理解に苦しむ。 更に、奇妙なのは、信夫淳平が「未占領地人民の單獨抵抗」を問題とする意味である。信夫淳平によれば「單に敵軍の侵入地たる所にありても、民衆軍は認められ」ないのであるから、「未占領地人民の單獨抵抗」も当然、認められないはずである。 「未占領地人民の單獨抵抗」が、国際法に違反するかどうかが、問題になるのは、「未占領地人民の「集団」抵抗」すなわち、群民蜂起、信夫淳平の言うところの「民衆軍」が、国際法上、合法である場合に限られる。 つまり、信夫淳平の主張は自家撞着しているのである。付け加えれば、「未占領地人民の單獨抵抗」を未解決の問題としているのは、当時の国際法学者の中では、信夫淳平だけである。 率直に言って、「未占領地人民の單獨抵抗」について「交戰者たるの資格を認めず」という結論を出したいが為に、無理矢理に問題をでっち上げ、適当な事例を捜してきて当てはめ、強引に結論をこじつけたとしか思えない。 では、次に、事実上、最後の戦時国際法解説書である「戦時國際法提要」(照林堂書店 1943年)を見てみよう。 これは、前述のように、「戰時國際法講義」のダイジェスト版であり、中身は殆ど変わらない。従って、「戦時國際法講義」の持つ問題点は、そのまま引き継いでいる。 しかし「戦時國際法提要」は「戰時國際法講義」の完全なダイジェスト版ではなく、若干ではあるが、新たに付け加えられた項目もある。その一つが「戦陣訓」に関する項目である。 この中で、信夫淳平は、 「『日本軍隊の國際法尊重は日露戰役を以て最後とし、その後の日本は舊獨逸の戰時無法主義【戦数説】の忠實なる信徒となれり。』とは英米國際法學者の口よりして往々出でし評言であつたが、この誤解(又は曲解)を一掃するには、この戰時訓は少なくとも最有力の一武器たるに相違あるまい。」(「戦時國際法提要 上」 P359【】内筆者注記) と書いている。 「日本は舊獨逸の戰時無法主義の忠實なる信徒となれり」という部分は、1941年当時、日本が国際的にどう見られていたかに関する、同時代の興味深い証言であるが、一方、「誤解(又は曲解)を一掃するには、この戰時訓は少なくとも最有力の一武器」という部分には、困惑せざるを得ない。 何しろ「戦陣訓」は、あの有名な「生きて虜囚の辱を受けず」(「戦陣訓」「本訓 其の二 第八 名を惜しむ」)で、捕虜になることを禁じているのである。無論、自国の兵士に捕虜になることを禁じることは、国内問題であり、国際法違反ではない。 しかし、自国の国民の正当な権利を否定する組織が、他国の国民の権利を守ると言ったところで、信用されないのは当然であるし、仮に組織の上層部は、その積もりであっても、降伏を禁じられ、戦場で使い捨てにされる末端の兵士が、その指示を守るかどうかについて、疑念を抱かれても仕方がない。そういう意味では、「戦陣訓」は、日本に対する不信感を高めるものでしかない。 それに、そもそも、戦争の最中に、こんな通逹を出すということは、そんな禁令を出さねばならない程、犯罪行為が横行しているということを意味している。つまり「戦陣訓」は、その存在自体が、日本に対する不信感をかき立てるものでしかない。 脱線するが、当時の日本軍の基本的な問題の一つは、国際法に関する教育が不十分なことにある。 下士官、兵士には、国際法の教育は、殆ど行われていない。(例えば、海軍の撃墜王として有名な坂井三郎特務中尉は、その著書の「大空のサムライ」の中で、太平洋戦争初期、当時下士官だった坂井三郎が、日本軍の感覚では不名誉な捕虜になった連合国のパイロットが、快濶なのを見て、不思議に思ったことが書かれている。) さすがに、士官に対しては、養成課程(陸軍士官学校、海軍兵学校)で一応教育されていたようであるが、殆どの士官は、国際法を忘れてしまったようである。幹部要員の高級士官に対しては、幹部養成課程(陸軍大学校、海軍大学校)において、再度、国際法の教育がされているのだが、これも、不充分なもので、「条約の内容をある程度でも記憶していた将校は例外的な存在で、(中略)陸大の国際法の講義で聞いて存在は知っていたというレベルか、あるいは、まったく知らないというのがほとんどである。」(立川 京一 「日本の捕虜取扱いの背景と方針」 2007年)という情况であった。また、条約の内容をある程度でも記憶していても、それが、どの程度実践されたかは、疑問である。 南京攻略戦(1937年)に参加し、南京占領後は、その治安維持にあたった第16師団の師団長、中島今朝吾中将の1938年1月23日の日記に以下のような記述がある。 「一、話中かっばらいの話あり 予ガ軽重機ノ分捕品ト小銃ヲ以テ装備強化ノコトヲ語リタルニ対シ、大将【中支那方面軍司令官松井石根大将、中島今朝吾の直属の上官】ハ其ハ軍ニ差出シテ呉レネバ困ルトイフ様ナコトヲ述ベタリ、此男案外ツマラヌ杓子定規ノコトヲ気ニスル人物ト見エタリ (中略) 家具ノ問題モ何ダカケチケチシタコトヲ愚須愚須言イ居リタレバ、国ヲ取リ人命ヲ取ルノニ家具位ヲ師団ガ持チ帰ル位ガ何カアラン、之ヲ残シテ置キタリトテ何人カ喜ブモノアラント突パネテ置キタリ」(「南亰戦史資料集」偕行社 P353) 最初の「分捕品」について、補足説明をすると、基本的に、捕獲兵噐は、上部組織に提出することになっている。 とは言うものの、現実には、装備や補給が不十分な部隊が、戦力を維持、強化するため、捕獲兵噐を使用するということは、よくあることなのであるが、違反は違反であるので、公然と言えるような話ではない。松井石根が咎めるのは当然であり、それを「ツマラヌ杓子定規ノコトヲ気ニスル」などと書く中島今朝吾は、組織の規律というものをどのように考えていたのか、疑問に思わざるを得ない。 また「家具位ヲ師団ガ持チ帰ル」というのは、国際法違反であることはもちろん、国内法的にも、陸軍刑法(「第九章 掠奪及強姦ノ罪 第八十六條 戰地又ハ帝國軍ノ占領地ニ於テ住民ノ財物ヲ掠奪シタル者ハ一年以上ノ有期懲役ニ處ス」)に違反する明白な犯罪行為である。 それを「国ヲ取リ人命ヲ取ルノニ家具位ヲ師団ガ持チ帰ル位ガ何カアラン」と、ネットにいる馬鹿が書くような、無茶苦茶な台詞を吐いて、開き直るというのでは、遵法意識も常識も欠落していると言わざるを得ない。 こういう馬鹿げた台詞を吐く人間が、下士官や兵士、百歩ゆずって下級士官であれば、日本陸軍にも、そういう馬鹿もいたという言い訳も出来ないことはないのであるが、現実には、天皇から直々に任命される師団長職にある陸軍中将閣下の台詞なのであるから、目も当てられない。 加えて問題なのは、中島今朝吾の経歴を見て貰えばわかるように、この男は、歴とした陸軍のエリートで、しかも憲兵(軍関係者の非違行為を取締る軍の警察組織)司令官だったこともあるのである。経歴からいって、国際法、国内法(陸軍刑法を含む)を知らないわけはない。 つまり、この時期の日本陸軍は、陸軍中枢を担うエリートが、「家具位ヲ師団ガ持チ帰ル位ガ何カアラン」と、犯罪行為を犯しても、そのことをまるで恥じる様子もない上、上官がそれを処罰することもできなかったのである。 こういう事例を見ると、当時の日本陸軍は、自浄作用を失い、組織として機能不全に陥っていたとしか言い様がない。 高級士官でも、国際法の知識は余りなく、たとえあっても、それを守る意志が無い場合があり、下級士官は、国際法の知識が殆ど無く、下士官、兵士に至っては、国際法自体を知らないのであるから、戦場に於いて問題が起こるのは当然であろう。そして、それが「戦陣訓」という一片の通逹で如何にかなるようなものではなかったことは、歴史が示すとおりである。 かなり脱線が長くなったので、話しを戻そう。 取り敢えず、「戦時國際法提要」にある、「戦陣訓」の記述は、相当に奇妙なものであることは、ご理解いただけたかと思う。 最後は、名実ともに、最後の戦時国際法に関する著作(前述したように、この後に書かれた「海上国際法論」は、戦時国際法に関する著作とは言えない。)である「陸戦」を見てみよう。 前述のように、これは、「国際法講座 第3巻」(国際法学会 有斐閣 1954年)の一項目で、14ページしかない。 この中で、信夫淳平は、 「文明の今日にありては、(中略)加害手段に特定の制限を(中略)不動の掟規とし、これを無視するを許さない、というのが現代の交戰法則の根本義となつてある。」(「国際法講座 第3巻」P135-136) 「現代の戰時國際法の基本的原則の中、交戰法則として少なくも三つの根本義がある。その(一)は、戰闘の目的は敵の抵抗力を挫くにあるから、この目的を達するに絶對必要なる限りは、如何なる種類の武器でも、また加害手段の何たるを擇ばず、これを利用するに妨げなきことである。」(「国際法講座 第3巻」P136-137) と「戰時國際法講義」と、殆ど同じ事を書いているが、前述の通り、この両者は矛盾している。繰り返しになるが、こういう論理矛盾は専門書としては、致命的な欠陥である。 しかも、この両者は、「戰時國際法講義」よりも、近くにある。信夫淳平が、この矛盾に、気付かなかったとは、考えにくい。矛盾を承知の上で、あえてこう書いたのではないかと思われる。(どういうことだと思われるだろうが、その考察については、長くなるので、後で述べることにして、ここは先に進む。) 次に、信夫淳平は、 「捕虜の合理的取扱のことも、なお研究を要する餘地があろう。(中略)捕虜取扱條約中には、實をいえば過度に人道主義に偏し、殆ど賓客扱にすべき條項も若干ある(捕虜を賓客視する故か、從來の官譯邦文では俘虜待遇條約としてある)。今少し實際の要求に副わしむるのでなくば、實際に臨んで一片の死文と化する懸念があろう。」 と書いているが、これは「戦陣訓」の場合のように、困惑せざるを得ない主張である。 確かに、「待遇」には、「人をもてなすこと」という意味があるが、同時に「ある地位に準じた取り扱いを受けること」の意味もあり、常識的に考えて「俘虜待遇條約」は後者の意味で使われているであろうことは明白である。 そもそも、「捕虜取扱條約中には、實をいえば過度に人道主義に偏し、殆ど賓客扱にすべき條項も若干ある」という主張自体、首をかしげざるを得ない。 「殆ど賓客扱にすべき條項」というのが、具体的に何を指しているのかが判らないし、信夫淳平も明示していない。本当に「實際の要求に副わしむる」必要があると思っているのであれば、修正すべき条項を明示すべきであろう。 そうせずに、ただ、「實際に臨んで一片の死文と化する懸念があろう」というのでは、単に、捕虜取扱条約に難癖を付けているようにしか見えない。 さて 信夫淳平の戦時国際法に関する著作を一通り見てきたわけであるが、それらには、論理矛盾や間違いや牽強付会といった、專門書としては致命的といっていい欠陥があることはお分かり頂けたかと思う。 論理矛盾や間違いがあること自体は、それほど不思議ではない。個人的な経験になるが、読んだ者が皆、支離滅裂で意味不明という意見で一致した経営学の本を書いた経営学の教授とか、例題の解答が間違っている会計学の教授とかの実例を知っているので、専門家といえども間違えることがあることは理解している。 しかし、信夫淳平の場合は、戦時国際法に関する著作全てに問題があるので、単に間違えたというような単純な問題ではないように思える。 いずれにせよ、信夫淳平の戦時国際法に関する著作は、戦時国際法に関する解説書としては、欠陥があり、これを根拠に使うことは、適切でない、もっとはっきり言えば、根拠にならないということは、ご理解頂けたのではないかと思う。 いつもであれば、これで終わりなのであるが、今回は、そうもいかない。 最初に書いたように「戰時國際法講義」は、1943年に、帝國學士院恩賜賞に選ばれ、信夫淳平は、恐らくその功績により、1944年に、国際法学者としては2人目の帝國學士院會員に選出されている。問題は、既に述べたように論理矛盾や間違いや牽強付会がある「戰時國際法講義」が、なぜ、帝國學士院恩賜賞に選ばれたのかということにある。 その辺については、若干の考察をしており、既に結論めいた考えもあるにはあるが、まだまだ、検討が必要であるし、このまま続けると、もういい加減長いのに、更に長くなるので、考察については、次回の更新に送ることにする。悪しからず、ご了承頂きたい。 参考文献 海本徹雄 新汎米主義と米洲國際法 日本外交協會 1943年 遠藤源六 國際法要論 増補版2版 清水書店 1910年 國際法提要 清水書店 1933年 大平善悟 信夫淳平『戰時國際法講義』書評 一橋論叢 1942年 (http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/4923/1/ronso0090500980.pdf) 信夫淳平 上海戰と國際法 丸善 1932年 戰時國際法講義 丸善 1941年 戰時國際法提要 照林堂書店 1943年 陸戦 国際法講座 第3巻 国際法学会・有斐閣 1954年 海上国際法論 有斐閣 1957年 田岡良一 國際法学大綱 巌松堂書店 1934、1946、1947年 空襲と國際法 巌松堂書店 1937年 戰時國際法 新法学全集 第32巻 日本評論社 1940年 國際法 ダイヤモンド社 1942年 新法学講話 戰爭法の基本問題 岩波書店 1944年 國際法論文叢書 立作太郎 戰時國際法 有斐閣書房 1913年 戰爭と國際法 外交時報社出版部 1916年 戰時國際法論 日本評論社 1931、1938年 立川 京一 日本の捕虜取扱いの背景と方針 2007年 (http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2007/forum_j2007_08.pdf) 中村進午 國際公法論綱 巌松堂 1929年 國際公法論綱 改訂版 巌松堂書店 1934年 松原一雄 最近國際法及外交資料 育成洞 1942年 國際法要義 有斐閣 1943年 國際法概論 21版 巌松堂書店 1943年 山名寿三 國際法論 改訂増補 訓明堂 1940年 横田喜三郎 國際法 有斐閣 1933、1934年 國際法 訂4版 有斐閣 1940年 わが国に於ける國際法の研究 東京帝国大学学術大観 法学部・経済学部 東京帝國大学 1942年 国際法 有斐閣 1950年 南亰戦史編集委員会 南亰戦史資料集 偕行社 1988年 参考ウエブサイト 日本学士院 (http://www.japan-acad.go.jp/) 防衛省防衛研究所(http://www.nids.go.jp/index.html) |
戻る |