提供:絵文録ことのは
2011年01月18日18時54分
民主党・小沢一郎元代表が、
政治資金規正法違反事件で月内にも強制起訴される見通しが
強まっている。
これに対して、強制起訴された場合、
民主党内の菅首相を始めとする反小沢派は「離党」を求める方向であり、
自民党の逢沢一郎国対委員長は辞職勧告を検討すると報じられている。
私はこの流れについて大きな疑問を持っている。
それはこの一点。
「起訴はまだ有罪とイコールではない」
からである。
裁判が結審するまで、「無罪の推定」は貫かれねばならない。
その原則を崩して「訴えられた=被告人だから議員をやめろ」というのでは、
法治国家の原則が崩れてしまう。
「起訴された(被告人)」≠「犯罪者」である以上、
「強制起訴」の時点で小沢一郎氏に離党や辞職を求めるのは誤りである。
「起訴」と「無罪の推定」
「起訴」というのは、刑事事件において検察側が「この人は罪を犯した」と考え、
裁判を起こすことにした、ということである。
しかし、検察側が調査した結果が正しいかどうかは
裁判の中で明らかにされる。
起訴されたからといって有罪と確定したわけではなく、
最終的に無罪判決となればその起訴は誤りだったということだ。
最近では厚生労働省元局長の村木厚子さんが
郵便不正事件で逮捕・起訴されたが、無罪判決が確定したという例もある。
起訴された人は「被告人」になるが、そこで法律の専門家として弁護人が付く。
弁護人はよく誤解されているように別にその犯罪を「擁護」するとか、
悪人を善人に仕立て上げるのが仕事というわけではなく、
事実関係を明らかにし、バランスのとれた判決のために
被告人に有利な証拠などを提示するわけである。
もちろん、被告が無実/無罪を主張しているのであれば、
それに沿った弁護方針となるだろう。
この両者の提示した証拠や証言などをもとに、裁判所が判決を下す。
その判決に不服があれば、
日本では最高裁まで3回の裁判を受けられることになっている。
もちろん、途中で「上告/控訴断念」という場合もある。
いずれにしろ、それ以上裁判をやらないと決まった時点で、
判決が確定する。
ある人物が「有罪」となるのはこの瞬間だ。
そして、それまでの間は、「この人は犯罪者ではないかもしれない」という
「無罪の推定」原則が貫かれなければならない(→推定無罪 -
Wikipedia
)。
世の中では、逮捕された人に対して
犯罪者であるかのように騒ぎ立てる人たちがいるが、
それは「無罪の推定」を知らない無知な人たちである。
そして、起訴された人は「被告人」ではあるが、
この時点でも犯人と決めつけるのはやはり無知であると
言わねばならない。
もちろん、当事者である小沢氏の側が
「起訴される、すなわち疑いを持たれるような状況になったことは、
わたくしの不徳の致す限りでございます」
と言う分には構わないだろう。
しかし、検察から疑いを持たれ、起訴された、という段階で
他者が有罪扱いしてその処遇を云々することは、
法治国家としてはおかしなことだし、
そういうことを言う人は法治国家の原則を崩そうとしている
ということにもなりかねない。
私は別に小沢氏支持でも不支持でもない。
ただ、「起訴」を条件に離党や辞任を求めるのは
法治国家としておかしいだろうという、その一点で今回意見を述べている。
言い換えれば、もし小沢氏の「有罪判決」が確定したならば、
離党を求めたり辞任を求めたりするのは勝手だ。
http://news.livedoor.com/article/detail/5279279/
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この文章を読みながら、何故か私は小学生の頃の出来事を
思い出していた。
昭和30年代の初めの頃の出来事だった。
昔は十五夜が近づくと村では青年も少年も山へ
「つる(木にまとわりついている蔓)」を取りにゆく習慣があった。
「つる」は十五夜の催しに行なわれる村あげての「綱引き」の
「綱」の芯になる貴重な材料である。
いつ行くかは村の「ガキ大将」の呼びかけで いつになるかは
その時にならないと解らないのである。
ある日、村の子供の間で妙な噂が流れている事に気づいた。
「●●(私の事だ)は 「つる取り」をサボっていた」
「家の近所で遊んでいたのを見た」
というのである。
その日、私は母親と一緒に隣村にある祖父母の家を訪れていて
自宅には居なかったのだが。
親しい友達にいくら説明しても納得しないのである。
「▼ちゃん(ガキ大将)が そういうのだから逆らえない」
と言うのである。
バカらしくて弁解するのを止めたが、不在を証明する事ほど
難しい事は無いことを知った。
逆に「居る」事は近所の人に尋ねれば「アリバイ」が成り立つ事が多い。
明らかに濡れ衣であった。
何となく、この記憶は今の小沢氏の冤罪に通じるところがある。