日本人として戦った朝鮮兵

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「日本人(兵)は残酷だ!!」とか「韓国人が上官で日本兵を率いて戦争すれば世界最強の部隊が出来る」とか
 戯言をいう韓国人に対して日本軍で日本人として働いた朝鮮兵についての画像など集めてみました。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog190.html
より(一部抜粋)

もう一つは、韓民族が戦争中に見せた、日本と一体となって戦い抜く姿勢である。その筆頭は日本の陸軍士官学校を出て、めざましい働きをした軍人たちである。まず陸軍中将まで栄進した洪思翊。日本人部隊を率いて抜群の勲功を立て、軍人として最高の名誉の金鵄勲章を授与された金錫源・陸軍大佐。戦後、大統領となった朴正熙は、陸軍士官学校を出て、終戦時は満州国軍中尉だった。


 こうした人々の活躍に刺激されて、昭和18年には6千3百人の志願兵募集に対して、実に30万人以上の青年が応募し、倍率は48倍にも達した。血書による嘆願も数百人にのぼり、希望が入れられずに自殺までした青年も現れて、総督府を困惑させた。大東亜戦争に軍人・軍属として出征した朝鮮青年は合計24万人にのぼり、そのうち2万1千余人が戦死して靖国神社に祀られている。

悲劇!靖国神社に眠る朝鮮人「洪思翊」の遺言の詩!

 一命を捧げた人々の中には朝鮮出身者でありながら特攻戦死した金尚弼ら14人、戦後に日本軍人らと共にインドネシア独立軍に身を投じた梁七星、報復裁判で戦争犯罪人として処刑された軍人、軍属147名などがいる。これらの人々はまさに日本の軍人と同じ悲劇を共に歩んだのである。

「(日帝は)戦争協力のため韓国の人的・物的資源の収奪に狂奔した」と韓国の高校国史は書くが、目立った反乱もテロもゲリラ活動もストライキもなく、これだけの戦意の高揚を見せつけられれば、それをすべて日本軍国主義の強制によるものと見なすのは事実として難しい。

世界の要人らの靖国より
http://photo.jijisama.org/YasukuniY.html

http://photo.jijisama.org/YasukuniG.html

中国が首相の靖国参拝に反対するのは多少なりとも理解できる(甚だ内政干渉だが・・・)
しかし、韓国が靖国参拝に遺憾の意を表すことほど厚顔無恥なことはないのです。
また、靖国に合祀されている韓国人は志願兵です。

首相の靖国参拝に抗議して指を詰める韓国人。
http://www.npo.co.jp/hanshin/pinky.htm
↓↓
志願兵について
(南北朝鮮が主張する強制徴兵への反論資料など)
↓↓↓


創氏改名で朝鮮人の名前を奪い、農村から人々トラックに詰め込み、男を日本の強制労働所に送り、女を軍の性奴隷にしたはずなのに

当時の首相だった大隈重信に、優秀だったため表彰された日本憲兵隊員たち
しっかり朝鮮名で表彰されてますね。


★アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp/

朝鮮工場労務者内地移住幹施に関する件 (大日記甲輯昭和15年)
レファレンスコード:C01001832500

在済南居留民の被害に関する件(昭和3年 「陸支密大日記 第2冊」)
レファレンスコード:C04021696900

邦人惨殺死体発表の件(昭和3年 「陸支密大日記 第2冊」)
コード:C04021700300

日帝は強制連行し、残虐行為を行ったという韓国の高校教科書に反する資料です。
特に、朝鮮工場労務者内地移住幹施に関する件の5〜6画像目などは注目の資料です。

http://www.jacar.go.jp/search/search_frame.html
ここでJPEG選ぶとDivuをインストールしなくても見れます。


徴兵を希望する人や工場での勤務を希望する人への解説書・・・
(非常に丁寧で事細かに書いてある。これを見る限りにおいては農村から人々トラックに詰め込み、男を日本の強制労働所に送ったなどという背景は想像できない。)
昭和18年には6千3百人の志願兵募集に対して、実に30万人以上の青年が応募し、倍率は48倍にも達した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog190.htmlより

日本人として大東亜戦争に参加した朝鮮志願兵


師団長の前線視察(李氏朝鮮時代の皇帝の王子)



第一回の朝鮮志願兵に対する市街戦闘の演習の写真

ソウル鐘路通


朝鮮銀行前


見学女生徒の将士に対する感謝の黙祷 >>ごちゃまぜ歴史写真さんより・・

1938.2 朝鮮 志願兵制度(対日本人への徴兵は1872.明治6より)
1939.9〜1942.1 募集制期間
1942.2〜1944.8 官斡旋期間
1944.9〜1945.3 国民徴用令(対日本人への国民徴用令は1939.7より)
1944 朝鮮、徴兵制開始
1939〜1945.9間の朝鮮系日本人の本土増加人数 120万人
 内訳
 出稼ぎ渡航者とその家族 63万人
 官斡旋、徴用後 自由労働者となった者 25万人
 官斡旋、徴用等「移送計画」によるもの 32万人
1945.8 終戦時点での 人員数 200万人
うち、32万人が官斡旋、徴用等「移送計画」による残留者であった。
1946.末 迄に32万を優先し140万人が日本政府の計画送還(運賃無料、 荷物制限230kgまで)で帰国。
60万人が自己の意志で日本残留。朝日新聞1959.7.13によれば戦時中に徴用労働者として来たその時点での残留者は245人にすぎない
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/6646/vol8.html

南北朝鮮では「強制的に徴兵された」とか大東亜戦争をまるで被害者のごとく糾弾しますが、
朝鮮に徴兵制が敷かれたのは1944年秋。閣議決定が4月であり、その前の朝鮮兵はすべて志願兵なのです。

また、年表をよく見て頂ければ気づくと思いますが、在日の方たちがよく言われる「強制連行」論についてはコチラコチラ

参考

<参考>台 湾 の 志 願 兵 『 高砂義勇兵 』
[注意] 戦争を美化する意図は全くございません。
あくまでこういった方々がいらっしゃったというご紹介です。

当時の資料から
↓↓↓


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>>赤線のない画像が欲しい人はコチラから

旧日本陸軍の朝鮮兵に対する注意書き

『朝鮮軍司令部1904〜1945』古野直也著 国書刊行会より

↑クリックで大きく表示

>>赤線のない画像が欲しい人はコチラから

笑えないブラックコメディー

「独立記念館の拷問の蝋人形で、(やってもいない)拷問をする憲兵は朝鮮人自身」
>>詳しくはコチラ

事実を知ってしまった韓国人の複雑な心境

お爺さん。お婆さんは嘘をついていたのです。赦してあげましょう。

自爆か?自縛か?「親日行為究明法」を創った辛基南ウリ党議長の父も親日派(日本軍憲兵(↑の蝋人形の人))だった!


戦前は「親日」を装い、戦後は「反日」を装う優柔不断さ(事大主義)

下の絵は中国で暴虐を尽くし、「ニ鬼子」(2番目の鬼)と呼ばれ、日本人以上に憎まれた自称日本人(朝鮮人)に惨殺される中国人の絵です。(KOREAN∞SPIRAL)

・万宝山事件が発生(中国人と朝鮮人の水の奪い合い)  
・怒った朝鮮人が半島で中国人を大量に虐殺!  
・張学良(張作霖の息子)は激怒する!「満州に朝鮮人を1人も入れるな!」  
・中国人の憎しみが増幅し、「自称日本人(朝鮮人)VS中国人」の構図が発生。

「自称日本人(朝鮮人)VS中国人」の構図に日本軍が引きずり込まれる。


↓↓↓↓↓ ↓↓

※中国の紛争が泥沼化し、日本がアメリカに敗戦する。

(その真偽は別として)
韓国は日本に対して南京事件をまるで被害者のごとく糾弾しますが、朝鮮兵の多くが事件に関わっているのです。
誤解を恐れず書くが、(当時)日本人と朝鮮人の関係は上官と部下の関係がほとんどです。

日韓併合前後 朝鮮半島写真館より
http://photo.jijisama.org/IHall.html
http://photo.jijisama.org/china.html
http://photo.jijisama.org/731.html

戦前・戦中の朝鮮人
http://bbs.enjoykorea.naver.co.jp/jaction/read.php?id=enjoyjapan_2&nid=68889&work=search&st=writer&sw=masairyu&cp=1

フィリピン「日本の占領下で最も残虐だったのはコリアンだった」
http://www.net-ric.com/advocacy/datums/95_10irohira.html






日本が敗戦した途端・・・








はだしのゲンの一場面


台湾人が見た終戦直後の朝鮮人

■台湾人SAI KONSANの著書


「台湾人と日本精神」

〜日本人よ胸を張りなさい〜

から抜粋。

※著者は岐阜の航空学校に所属していた。


◆1945年8月15日・・・

1945年8月15日、日本は敗戦した。
山奥での作業中に年輩の日本兵(教官)が「負けた!」と隊からの伝令を話したまま、呆然と立っていた。
我々(台湾人生徒)は何が起こったのか全く分からなかった。
(中略)
しかし隊長の青ざめた表情は自体の深刻さを表現していた。
しばらくして、敗戦の事実が我々、台湾人生徒にも正式に伝達された。
悔しさと無念の気持でいっぱいになり、溢れる涙で頬を濡らした事を鮮明に覚えている。
無性に悔しかった。
他の台湾出身生徒も同じ心境だった。
しかし、朝鮮出身の生徒達は、その日から食糧倉庫、衣服倉庫を集団で強奪していた。
滅茶苦茶な暴虐・強奪の有様だった。

我々は複雑な心境でそれを眺めていた。
(中略)
敗戦は、それまで1つだった国民を3つの国民に分けてしまったのだ。


◆1945年8月17日・・・

そして8月17日の夕方、連合軍の命令で武装解除が始まり、日本人は復員する事が決定した。
(中略)
しかし日本人がいなくなると、武器倉庫や飛行機etcの警備が出来ない。
そこで連合軍が来るまでの約2ヶ月間、「学校・練習場・格納倉庫・武器倉庫・飛行機」etc・・・全ての軍の施設を我々40名の台湾人生徒が守る事になったのだ。
「朝鮮人は信用できない。だから君達(台湾人)が守ってほしい」・・・そう言い残して日本人上官は去った。
台湾人生徒はこれまでの経験に照合し、了解した。



◆帰国の為に汽車で日本の九州へ・・・

急な日本の敗戦で、私は心の切り替えが出来なかった。
日本兵の軍服で汽車に乗っていた私は、周囲からは敗戦で消沈した日本人に見えたのだろう。
8月15日から急に横暴になった朝鮮人に嫌がらせされた。
座席に置いた新品の飯盒を朝鮮人に盗まれた。
取り返そうとすると、「お前はなんだ!朝鮮人を侮蔑したな!降りて来い!」と、たちまち数人に囲まれてしまった。
一人と多数・・・勝てない・・・。
「ごめんなさい。私の勘違いでした」と謝り、ピンチを逃れる事しか出来なかった。
それから佐世保に到着するまでの30時間・・・朝鮮人は執拗に私と日本人乗客を苛め続けた。
若い女性がトイレに行こうとすると通路を塞ぎ、「次の駅で窓から降りろ!」と命令し、苛めていた。
朝鮮人の酷すぎる情けない行為
を、私は内臓が沸騰するような怒りを感じながら眺めていた。
黙って見ているしか出来なかったのだ・・・。
(中略)
佐世保のキャンプで私は面白い場面に遭遇した。
あの朝鮮人たちが、「中華民国台湾青年隊」の腕章を着けた我々にお世辞を言いながら擦り寄ってきたのだ!
それは中華民国が連合軍の一員であったからだ。
弱者には傲慢で、強者には媚びる・・・。 
そんな朝鮮人の極端な習性を私は目撃したのだった。

しかし、大国の狭間で生存しなければならなかった環境が、そうした民族性を育んだのだから、今更、それを責めても仕方が無いだろう・・・

直江津駅リンチ殺人事件(1945年12月29日)
信越線黒井駅でヤミ米ブローカーの朝鮮人3名が列車の窓ガラスを割って乗り込もうとしたところ、ある日本人乗客に拒まれて乗り込むことができず、デッキにぶらさがって直江津駅まで行った。彼らは直江津駅でその日本人乗客に対し、
「乗降口から乗れないので、仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのになぜ妨害した」と詰め寄ったが、日本人乗客が「窓から乗り込むという方法はない」と反駁したので、「朝鮮人に向かって生意気だ!ホームに降りろ!殺してやる!!」と叫んで、その乗客をホームへ引きずり出して、パイプやスコップで滅多打ちにして殺害した。朝鮮人3名はその後逮捕されたが、全員逃走してしまい、結局うやむやのうちに終わってしまった。なお余談ではあるが、この種の鉄道内の不法行為を防止するために、急遽設けられたのが「鉄道公安官」制度である。                   
愛すべきニッポンの隣人達から)

中国残留孤児はいるのに半島残留孤児がいないのはなぜだ?

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