天承学園高等部の二階廊下――。
硬い床の感触が靴底から伝わってくる。こつこつと音を立て……。
一人の少女がまるで西部劇のガンマンのような気分で歩いている。
小柄な体躯。ぷくぷくのほっぺ。小さな鼻。いつもならへにゃっとハの字に下がっている眉は今やきりりとつり上がり、小さな唇はぎゅっと閉じられていた。
小動物のようだった少女の雰囲気は消えうせ、獲物を狙う猛禽類ぽいっ。
さっきまでいたはずの生徒たちの姿がぱったりと消え、静寂が訪れた。
憎っくき石井麻子はこちらに背を向けている。短く切った髪。高い上背。引き締まっていながらも、見事に整っているプロポーション。背を向けているために表情は窺えないが、整った顔立ちは凛々しく。並みの男子では尻尾を丸めて逃げるしかないだろう。女子たちから人気があるのも頷ける。敵ながら大したものだ。
開けられていた窓から風が通り過ぎていく。
ふんわり後ろで纏められているポニーティルが揺れる。
――チャーンス!
一年の高木 萌は手に持ったナイフを構えて、石井麻子に向かって突き進む。
――うらぎりものぉ~!
ドンッとぶつかった瞬間、木製のペーパーナイフはペキッと乾いた音を立ててまるでお菓子のごとく折れてしまう。
「いたっ! もお~萌ちゃんたら、またペーパーナイフを持ち歩いて、だめだよ。おしおきだぁー、うりゃあ!」
麻子は萌の小柄な体を抱えてぎゅうぎゅうと締め上げている。
「あわわ、た~す~け~て~」
情けない声をあげ、助けを求める萌。身長149cmの萌と168cmの麻子では体格に差があり、さらにはプロポーションにも圧倒的な差があった。泣きそうな萌の顔が麻子の大きな胸の中に埋もれ、窒息しそうなぐらい押し付けられている。
騒ぎを聞きつけた教室の生徒たちが廊下に顔を出してくる。
「いいなぁ~萌ちゃん。石井さんにあんな風に抱きしめられて」
「さすが、我が一年B組のアイドルコンビだよ。かわいいな!」
とは、男子の声。
「きゃあ~、萌ちゃんハムスターみたい」
「わたわたしてる」
小動物を愛でるかのような目で見てくる女子たち。
一通りおしおきがすんだのか、威風堂々とした麻子に小脇に抱えられて、萌は教室の中へと戻っていった。
実はこの二人、幼馴染である。家も隣同士。保育園から小学校、中学ときて、高校も同じ所へと進学し、一年の現在でも同じクラスであった。
時刻は変わって放課後。
「麻子ちゃん、麻子ちゃん。一緒に屋上へいこう!」
萌は元気な声で、麻子を屋上へと誘う。しかしながら麻子は怪訝な顔で萌を見つめた。
――まずい。あたしの思惑がばれてしまったの?
萌は内心冷や汗を掻き、鼓動がバクバク早鐘を打つ。
「別に良いけどさぁ~。萌って確か、高所恐怖症だったよね? いいの?」
――が~ん。しまったどうしよう……。
すっかり忘れていた事を思い出してしまった。中学の時に麻子に連れられ、昇ったエレベーター。外の景色が見えるために足が竦んでしまい、必死になってしがみついたのは、苦い思い出である。
――屋上から落っことす完璧な計画がこんなところで躓いてしまうなんて~。
「あ、ああ~落ち込まないで。一緒に駅前のお菓子屋さんに寄ってこ」
がっくり落ち込んだ萌を慰める麻子。
ふたりはてくてく駅前まで、歩いていく。
美少女二人組にすれ違う人々――主に男たち――が見惚れ、時には振り返りながら通り過ぎていった。
現在、執拗に麻子の命を奪おうとしている萌ではあるが、萌と麻子は、もう一度繰り返すが、幼馴染である。
最初からこうだった訳ではない。幼い頃から麻子ちゃん、萌ちゃんと呼び合い。いつも一緒に遊んでいた仲だ。
近所でも有名な仲良しさんであった。そんな関係は小学校、中学校と続き、この学園に入っても続くと思われた。
実際、入学初日はそうであった……。
そんな関係が一変したのは、麻子に誘われて入った茶道部。
凛々しい麻子とかわいらしい萌は上級生、女生徒達のハートを撃ち抜き、メロメロにしてしまう。
特に萌は部室に入った瞬間から、女生徒達に取り囲まれ、子猫のように可愛がられてしまった。かわいい、かわいいと愛でられて抱きしめられ、キスをされ、挙句の果てにはスカートを捲られて、胸まで揉まれてしまったのだ。過激なスキンシップ。セクハラとも言う。
「麻子ちゃん、助けて~」
必死になって助けを求めたが、麻子も一緒になって萌を弄んだ……と、萌は思い込んでいる。
実際のところは助けてくれたのだったが、見ていた麻子も思わず――今まで我慢してきたのが悪かったのか――萌にキスしてしまった。
これがトドメとなった。
――麻子ちゃんはあたしの体が目当てだったんだ。大好きなのに~っ!
親友の裏切りにショックのあまり、女の子同士にあるまじき思いに囚われたまま今に至る。
それ以来、思い出したように麻子をなきものしようとしては失敗する萌と、なにくれとなく面倒を見続ける麻子の姿が見受けられるようになった。
学園に入学して1週間、4月も半ばのことであった。
◇ ◇
――恋ってなんだろう。
朝、洗面所の鏡を見ながら、石井麻子は考えていた。
恋愛小説は嫌いじゃない。映画だってそう。中学のとき、同じクラスの女子が男と付き合っているなんて話も聞いてきた。
その……Hな事もしていたらしい。でも、自分が男とそんな事をするなんて想像も出来ない。男嫌いかと聞かれれば、どうなんだろう? はっきり言って分からない。中学に入ってから急に伸びだした体は今では大人のようになった。胸も人並み以上に膨らみ、手足も伸びた。クラスの男子がじろじろ見てくるのは……不快だ。街中で見てくる男も嫌だ。
じっと鏡を見ていると、それなりに整っていると思われる自分の顔が映っている。
麻子ちゃんは、もてるからいいね。なんて言われた事もあった。
実際に麻子にも声を掛けてくる男は大勢いた。同い年からかなり年上までだ。
でも、誰とも付き合う気にはなれないまま、断り続けている。
さて、ではどうして誰とも付き合う気になれないのか? 男たちの視線が不快だからだろうか?
じーっと考え込む。
――好き。うん。まず、好きって?
好きかぁ~、そう考えてみる。本は好き。お菓子も好き。遊ぶのも……。これは違うよねぇ。対象が人じゃないし。両親は好きだろう。飼っている犬のぽちも好きだな。ああ、違う。
対象は男の人。そう考えて、同い年ぐらいの男子を思い浮かべてみた。ピンと来ないなぁ。
さらに対象を大人から芸能人にまで広げてみたが、いまいちピンと来ない。素敵な王子さまが、なんて考えているわけじゃない。取り立てて理想が高い訳でもないと思う。でもどの人も嫌いではないが『好き』とまではいかないのだ。
ふいに――萌。高木 萌の顔が浮かぶ。そして入学当初、向かった茶道部でキスをしたことも思い出す。
「萌ちゃん。うん、好きだ」
そう、大好きといっていい。幼い頃から仲良しで、どこへ行くにも一緒だった。あの時も他の女の子たちが萌にいたずらしていたのが、羨ましくて、自分にはできなくて、もやもやしていたのだ。それがついに嫉妬のあまり爆発してしまい。思わずキスしてしまった。
小さくてかわいらしくて、人懐っこい萌ちゃん……。
自分の唇を指でなぞってみる。
鏡の中にへらっと崩れた表情が映った。
――ああ、そうか。わたしは萌ちゃんが『好き』なんだ。
こうして石井麻子の『萌ちゃん恋人化計画』が始まった。
『その小さな花びらを……』
第1話 『動き出した恋心』
「いってきまぁーす」
何かを吹っ切ったような元気のいい声を上げて、麻子は家から飛び出していく。
目的地はお隣、高木家。見上げれば抜けるような青。燦々と降り注ぐ春の日差しが祝福してくれているようで心地いい。
――ああ、お空が綺麗。そらってこんなにも綺麗だったんだ。
昨日までとはまったく違うように見える。
「萌ちゃん、学校に行くよぉ~!」
インターフォンを勢い良く押して、ガチャッという音が聞こえた瞬間、開口一番声を張り上げる。
受話器の奥でくすくす笑う、おばさんの声。
――あいかわらず、元気ね。麻子ちゃん。
「はっはっは……」
朝の挨拶をかわしているうちに、玄関からほんの少し寝ぼけ顔の萌が姿を現す。
ホニーティルがメトロノームのごとくゆらゆら揺れる。
いつもの萌だ。
にこにこ笑って迎えた。
「おはよう!」
「おはよう~」
まだ眠そうな萌を引っ張って麻子は歩き出す。
萌は昨日、何か大事な出来事があったような気がしたが、一晩寝たらすっかり忘れてしまい。まあいいかと思いなおして麻子と手をつなぐ。なんといっても萌は麻子のことが大好きなのだ。にこにこ満面の笑みを浮かべる。
海辺の町、天木市海晴町は昔からの古い家が立ち並んでいる。それも物凄く古い家が多い。江戸時代から建っているそうだから、いっその事観光地にでもすれば人が寄ってきそうである。
駅を挟んで北側には明治の頃からの家々が並んでいる。南は江戸時代だ。
麻子と萌の家は北側にある。明治とまでは言わないが、それでも大正十年に建てられたそうだから、これまた古い。そういったら、大正浪漫といえ。とお祖父さんに怒られた。どうやらこだわりがあるらしい。まあ造りはしっかりしてるし、ここまで古いとかえってなんと言おうか、不思議な味というものがでてくるみたいだ。赤煉瓦の壁が美しい。麻子の家と萌の家は同じ赤煉瓦の洋館だ。小さい頃にはお化け屋敷と言われた事もある。
古い町並みを眺めながら駅まで徒歩15分。麻子としてはちょっとしたデート気分だ。てくてく歩きながら、萌に話しかける。
「今日のお弁当は、なに?」
「う~んとね。いつもの玉子焼きと菜の花のお浸しと高野豆腐。あっ、おむすびの具はね。おかかなんだよ」
「へー、おかか大好き」
「えへへ、昨日お出汁を取ったかつお節が溜まってきたから、ふりかけを作ったの」
萌は小学校のときからおばさんに教えて貰ってきただけに料理上手である。というよりも今どき、昆布やかつお節から出汁を取る一般家庭も珍しいだろう。麻子の家はだし入りの味噌を使っている。じゃなければインスタントの粉末だしだ。
「萌はあいかわらず、料理上手だね」
「そ、そんな事ないよう……お母さんの方がもっと上手だもん」
萌の顔が真っ赤になった。照れ隠しか、ぺしぺし叩いてくる。その度にしっぽが揺れ、思わず引っ張ってみたくなる。
小学校の頃にやって泣かせてしまったのは一生の不覚であった。麻子は今更ながら後悔していた。
「わたしも萌ちゃんのお弁当食べてみたいなぁ……おいしいんだろうなぁ」
麻子は気を引くように小声で訴える。目をぱちくりとさせた萌はもうしょうがないなぁ、といった感じで頷くと、
「じゃあ、一緒に食べよう」
と麻子とお昼を一緒に食べる約束をかわす。
麻子は内心、狂喜乱舞である。やったぜ! とばかりに小さくガッツポーズを決めた。
麻子を応援するようにすずめがちゅんちゅん鳴いている。
◇ ◇
学校までは駅で三つ。満員電車に揺られながら向かう。
いつもは、あ~あ憂鬱だなあ、と思いながら乗るのではあるが、今日からは違う!
萌を守らなければならないのだから!
そうなのだ。小学、中学と徒歩で通ってきたために気にもしていなかったが、電車通学ともなれば痴漢という死んだ方が世のため、人の為になりそうな害虫とでもいうべき、邪悪な存在がいるのだ。
かわいい上におとなしく、被害にあっても泣き寝入りしそうな萌は痴漢どもにとっては格好の獲物だろう。
――そんな事は断じてさせる訳にはいかない!
痴漢などは二度とその指を使えないようにへし折ってくれる。
ぐぐっと握りこぶしを固めた麻子は萌を庇うように電車に乗り込んでいく。ちなみに萌はそんな麻子を見て、麻子ちゃんどうしたんだろう? と首を捻っていた。
「いい、痴漢に遭ったら、わたしにちゃんと言うんだよ」
「う、うん」
麻子の気迫に押されるように、こっくり頷く萌。
出口付近で萌を庇って電車に揺られる。一駅過ぎ、二駅過ぎて、萌が泣きそうな顔で麻子を見上げる。
「ま、麻子ちゃん……」
「萌ちゃん――」
消え入りそうな小さな声。麻子が萌の背後に視線を向ける。おしりの辺りでもぞもぞと動く手。
――おのれ、痴漢め!
とっさに萌を引き寄せてみれば、背後から現れたのは……同じクラスの晶だった。
――多田 晶。れっきとした女である。ちなみに中学からの友人であった。
「へい」
いつものからかうような口調の声。長めの髪をシニョンで逆立てるように折りたたんでいる。
「あ、晶ちゃん?」
自分のおしりを撫でていたのが、級友だと知ってショックを受ける萌。
「やー、あいかわらず小さくてかわいいおしりだねえ~」
「あ~き~ら~!」
「おや、どうしたのかね? 天承学園高等部一年生の王子様とも呼ばれる麻子様ともあろうお方が、そんなにこわーい顔をなさって?」
しらっとした顔でいう晶。その後ろからひょっこり顔を出す妹の亜貴。この二人は双子だった。
「きゃあ~麻子様~っ!」
妹の亜貴がこれみよがしに黄色い声を上げる。分かっててやってるとこが恐ろしい。
「萌ちゃん、今日のパンツは何色かなぁ~? お姉ちゃんにだけ教えて」
晶の言葉に麻子の額に青筋が……立つ。にまにま笑いつつ、亜貴も一緒になってセクハラを仕掛けた。
悪質な双子である。
「だめだめっ! 萌、言う事無いからね」
萌を抱きしめながら、麻子は双子を威嚇する。放っておけばどこまでエスカレートするか分かったものではない。
ぎゅっと抱きしめた腕の中で萌が身を震わせる。
小さく柔らかい。
その感触に至福という言葉が脳内を駆け巡る。
「ま、麻子ちゃん……ちょっと苦しい」
「あっ! ごめんごめん」
急いで腕を解く。その瞬間電車が駅に着いたのか、ぐらり体が揺れ、萌は晶たちに凭れかかってしまった。
「きゃっ」
「大丈夫? ひどい女だよね」
「うんうん、ひどいひどい」
萌を支えつつ、晶と亜貴が麻子の方をちらっと見て、舌を出す。
ぐぬぬ~、おのれ~!
わたしの至福の時を邪魔した挙句、萌にそんな事を言うなんて……どうしてくれようか?
怒りに震える麻子ではあったが、じっと見つめてくる萌の瞳が助けを求めている!
それに気づいたとき、麻子の心は勇気百倍。
とあっ! とばかりに邪悪なる双子を成敗しようとする。
しかし! その時、ぷしゅ~っという音と共にドアが開いて、降りる乗客に押し流されてしまう。
いち早く避難している双子。連れ去られてしまった萌。
「麻子ちゃ~ん」
「萌~」
引き離され、手を伸ばす麻子の目の前を悲しそうな瞳の萌が見つめたまま、去っていく。
「おーほほほほぉ~」
「あーはっははぁ~」
双子の邪悪な笑い声が麻子の耳に木霊していた。
あとがき。
少女の心には爆弾が眠っている。