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2100-01-02

警告!

当サイトは、所属組織を隠し実名を明かしていない官僚(=webmaster)が書いたテキストを掲載しております。当サイトに掲載されているテキストは、客観性・中立性を装いつつ、明示されることなく、webmasterの所属組織あるいはwebmaster自身の利害を反映している意見・主張を含んでいる可能性があります。そうした能動的な欺瞞行為がなされていない場合であっても、掲載すべきデータを掲載しない等の方式でwebmasterの所属組織あるいはwebmaster自身の利害を反映し、客観性・中立性を意図的に欠けさせる形での不作為による欺瞞行為がなされている可能性があります。さらに、以上のようなwebmasterの意図による欺瞞行為がなされていなくても、webmasterが無意識に有するバイアスにより、客観性・中立性が損なわれている可能性があります。当サイトのテキストは以上のような危険を有することに十分留意の上、それらにお目通しいただきたく存じます。

魚 2010/12/26 07:08 この季節だと、地球温暖化問題はあまり話題に上がりませんね。マスコミは、危機感をいたずらに煽るだけ。そのための危機管理より、経済観念をもとに、世界を平和にすることが、日本のできることなら、いい事だと思います。

2100-01-01

当サイトをご覧いただくに当たって

  • 当サイトは、bewaad institute@kasumigasekiミラーサイトですとして発足しましたが、現時点ではこちらに暫定的に移行しております。
  • 当サイトのエントリは本サイトのテキストをそのままペイストしており、はてな記法での記述にはなっていないため、本サイトとは異なって表示される部分があります。
  • 当サイトでコメント・トラックバックを受け付けておりませんることといたしました。それらは本サイトにお願いいたします
  • 他方、本サイトは負荷のためサーバが極めて重いのですが、当サイトははてなダイアリーを使用しているためそのようなことはなく、快適に閲覧可能となっております。
  • 以上を踏まえ、本サイトと当サイトの使い分けとしては、コメント等をする場合は本サイトを、ROMで概要を押さえたい場合は当サイトを、という形でいかがでしょうか。

#以上、2008/3/26に修正。

2010-12-26

高橋洋一「バランスシートで考えれば、世界のしくみが分かる」

休筆前の最後の連載を多忙にて再開できず、誠に申し訳なく存じます。今般、とある中傷を受け、このままでは不当な評価が定着するおそれがあることから、自らの約束に反し本来すべきでないことは承知の上、この中傷関連に限定して、連載ではないエントリを書かせていただきます。

法律は普遍の自然法則ではない

 ブログを開いているある覆面官僚が、労働保険特別会計について同じような言い方で私を攻撃してきました。「高橋は、特別会計の資金は他に使えないという法律も知らないで、埋蔵金があるなどと言っている」というものです。

 この人物はこうした法律の話をよく持ち出してくるのですが、冗談ではありません。労働保険特別会計の埋蔵金が法律を変えなければ、他に使えないということは百も承知です。承知しているからこそ、その法律を変えたらどうかと提案しているのです。その官僚は、私が法律の知識を持ってないと言いたい、あるいは思わせたいようです。これは官僚が使う常套手段です。

高橋洋一「バランスシートで考えれば、世界のしくみが分かる」, pp63, 64

ここで対象とされているwebmasterのエントリを部分的に転載します。

―この2200億削減をめぐって診療報酬が削られたりと、現場にしわ寄せがきているため、どう工面するかで毎年苦労しています。

 全くもって単純な話です。約5兆円の“埋蔵金”が厚労省の中にあるのですから、それを使えばいいのです。厚労省の一番大きい埋蔵金は、雇用保険特別会計です。今まで余ったストックが5兆円くらい、フローベースで来年度余る繰越金の8000億円があります。これを2200億円に充てればよいだけの話で、それでも余っていますよね。一般会計を削ったということにして、特別会計の余り金を充てる。このやり方なら、シーリング目標である財政再建にも反しないでしょう。おまけに財務省が見逃していて気付かなかったものですが、一般会計から雇用保険に2000億円の繰り入れまでしていたのです。さすがに最近は気付いて渋るようになりましたが、これを社会保障費に回すことだってできますよ。

■「厚生」「労働」壁をなくせ

 では、余った雇用保険特別会計で何をしていると思いますか。「私のしごと館」などを造っているわけです。あんな役に立たない箱物を造るぐらいなら、何とかしてほしいと叫ばれている2200億円に充てればいいでしょう。厚労相の一声でできますよ。
 「厚生労働省」とはいえ、実際の中身は合併前のセクショナリズムが働いているので、「なぜ『労働』の財源を『厚生』に回さなければいけないのか」という声が労働側から上がっていて、できないのでしょう。でもそんなことは外部からしたら関係ない話だから、あえて言います。「厚生労働省」という一つの組織の中でなぜできないのか。全くおかしな話です。

 もっとも、注意しなければならないのは、2%台を予想されていた名目経済成長率が07年度で0.6%、08年度では0.3%ぐらいまで下がっていて、そのせいで税収が落ちています。「骨太の方針2006」で5年間シーリングが決まっていますが、このままでは達成できないので、本来は「2008」の内容は変えなければなりません。その意味では変な状況が続いているということです。税収が落ちている時に2200億円を削るか削らないかという議論があってしかるべきですが、2200億円よりさらに削減額が増えたとしても、ストックが5兆円あるでしょ(笑)。それに回せばいいだけなのに、2200億円でどうこう議論しているなんてばかばかしい話です。

医療介護CBニュース「厚労省は5兆円の“埋蔵金”を出せ」

これはあんまりです。デタラメとしかいいようがありません。以下具体的に。

その1。雇用保険料は「雇用保険事業に要する費用に充てるため政府が徴収」したもの(雇用保険法第68条第1項)なので、それを社会保障費2,200億円に厚生労働大臣の一存で充当することは法律違反です。「厚労相の一声でできますよ」って、できませんってば。

その2。では法律改正をすればできるのかといえば、形式的にはできますが、それをすべきかどうか。雇用保険料は端的には失業した際にある程度の収入を保障してもらうために支払われたものです。つまりは問題は、一定の受益を約して負担されたものの目的外転用の是非であり、そのような法的観点を捨象して経済的観点に絞っても、雇用者・被雇用者から自営業者・非労働者への所得移転の是非です。素直に考えれば、余っているなら料率を下げろということですし、現に昨年の法改正で料率は下げられています。そうしたことに触れもせず、旧厚生省と旧労働省のセクショナリズムに問題を矮小化するのは、わかっていてやっているならきわめて悪質な印象操作ですし、わからずにやっているなら勉強不足といわざるを得ません。

以下略

http://d.hatena.ne.jp/bewaad/20080817/p1

ご覧いただければ一目瞭然かと存じますが、高橋先生のご指摘は、次のとおり正しい事実を何ら含んでおりません。

  1. もともとの高橋先生のテキストには、法律を改正せよとは一言も出てきておりません。「厚労相の一声でできる」とありますが、日本において法律改正は国会議決を経ねば不可能であり、大臣(行政府)の判断で可能だと高橋先生が事実誤認をしていらっしゃらない限り、元のテキストには法律改正せよとのご主張の一片たりとも見出すことはできません。今般のご指摘については、「厚労相の一声でできる」とおっしゃったことに対して、それは法律でできませんと申し上げたわけですが、そうした前提の下でなされたwebmasterの指摘を不当に一般化して批判されていらっしゃいます。
    #わざわざ、「法律を変えなければ、他に使えないということは百も承知です」とおっしゃっているのですから、当時とご意見を変えられたのでない限り、大臣の判断で法改正が可能だと事実を誤認をしていらっしゃっるのでしょうけれども。
  2. 当時、これで終わりにしてもよかったのですが、仮に法改正をするのならば、と高橋先生の「厚労相の一声でできる」とのご主張の難点をwebmasterは勝手に改善した上で、その是非を論じております。すなわち、当時有りもしなかった「その法律を変えたらどうかと(の)提案」を善解して対象に据えた上で論じたわけですが、今般の高橋先生のご指摘では、こうした事実関係はなかったこととされ、webmasterは法律に書いてないからできないとしか言っていない論者だと印象操作されております。

#一点だけ、「その官僚は、私が法律の知識を持ってないと言いたい、あるいは思わせたいようです」というのはおっしゃるとおりで、webmasterが、高橋先生が法律の知識を持ってない(と推察される)、と申し上げているのはご指摘のとおりです。法律を定められるのは国会であって政府(大臣)ではない、とは中学生レベルの知識ですので、かくwebmasterが思うのも故なきことではないと考えております。

 なぜこんなやり口が罷り通るかといえば、日本のマスコミが官僚のこんな低レベルの詭弁さえ見抜けず、質問も反論もしないので、どうせ誰にも分かりはしないと舐めきっているからです。だから官僚たちは涼しい顔をして、「それはいまの制度では使えません」などと言っているのです。

高橋洋一「バランスシートで考えれば、世界のしくみが分かる」, pp63, 64

webmasterの主張を不当に歪めての印象操作に加え、「官僚が使う常套手段」などと人の属性に事寄せた中傷をする前に、ご自身が書かれた上の文章がご自身に当てはまることがないか、お考えになられた方がよろしいのではないでしょうか、高橋先生。

2010-08-29

アリフレ政策の鑑

(続く)

#とある方のご助言をいただき、当サイトのホームページの最初に表示されるエントリに、当サイトの危険性に関する警告を掲載いたしましたので、ご覧いただければ幸いです。

ここまで論じてきたように、webmasterはリフレ政策が好意的に受容される可能性は低いと認識しています。そうした状況下でどのようなリフレ政策なら実現可能性が高いのか、ということろ論じたいわけですが、その前に、リフレ政策の実現可能性が高まっている、との観察に触れておきたいと思います。そうした観察は、概ね、

  • 昨今の円高を受け、日銀に政策対応を求める声が高まっていること、
  • デフレ脱却議連の結成のように、政治の場でリフレ政策を求める勢力が現れていること、

に基づいているものとwebmasterは考えておりますが、それぞれ、

  • 現在の円高は実質実効為替レイトで見れば、名目値とは異なり過去最高というような水準には達していませんし、過去にはもっと厳しい経済状況があった(例えば2002年末〜2003年前半。にもかかわらず、当時においてすらリフレ政策は実現しなかったので、現状程度の経済状況がそれほどのドライヴィングフォースになるとは思われない)、
  • リフレ論者が政治的にもっとも力を有していたのは郵政解散選挙直後、すなわち圧倒的リーダーシップを確立した小泉総理(当時)の最側近2名が政府・党の要職(竹中経済財政政策・郵政民営化担当大臣(当時)、中川(秀)自民党政調会長(当時))を占めていた時期であり、それに比べれば現在のデフレ脱却議連の政治的プレゼンスは劣る(にもかかわらず、当時においてすらリフレ政策は実現しなかったので、現状の政治状況がリフレ政策実現近しといえるものではない)、

と考えられ、リフレ政策の実現可能性は、そのリフレ政策が従来よく提唱されてきたもの(本連載でいえば、「アリフレ政策の経」でまとめたもの)に止まる限り、それほど高いものだとはwebmasterは思っていないのです。

というわけで、リフレ政策の実現可能性が低いことを前提に、その可能性をどのように高めていくかを考えてみます。前提として、政策決定過程について、「交換」のモデルを導入します。どういうことかといえば、経済において、「市場」で自らにとって限界効用が低いものを売り、高いものを買うという「交換」を通じてパレート最適が実現されるように、政治においては「アリーナ」で「アクター」が自らにとって限界効用が低いリソースと高いリソースを「交換」することを通じて、多くの「アクター」が許容する政策パッケージが実現していく、というモデルに基づき、考察を進めていくこととします。

リフレ政策の実現可能性が低いとは、リフレ政策に反対する「アクター」がそれなりにいて、賛成する「アクター」よりも多いということと考えられますが、リフレ政策と一口にまとめることなく、その中でより反対が強い部分を抜き出すことができれば、「交換」により実現可能性を上げることが可能です。俗っぽく言えば、「あなたがこれが嫌だというなら、それは取り下げるから、残りは問題ないでしょ?」ということです。これが、とにかくデフレ脱却がダメなのだ、ということならば「交換」は不可能になってしまうわけですが。

リフレ政策の何が問題だとリフレ政策に反対する「アクター」が考えているかについては、次の福田先生の論述がもっともよくまとまっているでしょう。

歴史にもしもは禁物だが、もしも当時の日銀がヘリコプター・マネーを大量に供給したならば、デフレは解消され、インフレが発生した可能性は高いといえる。しかし、それと同時に、日銀の中央銀行としての信認もおおいに揺らぎ、貨幣均衡の効率性が失われるリスクは高まったといえる。当時発生していた緩やかなデフレによってどれだけの社会的なコストが発生していたのかはコンセンサスが必ずしもあるわけではないが、少なくとも貨幣均衡の効率性が失われることによるコストよりははるかに小さかったといえる。したがって、かりに中央銀行に対する信認が失われる可能性が少しでもあるならば、ヘリコプター・マネーの大量供給は、社会的に望ましい政策とはいえない。

http://www.carf.e.u-tokyo.ac.jp/pdf/workingpaper/jseries/61.pdf

白川日銀総裁も財政マネタイズに由来するインフレを懸念しているとはかつて書いたとおりですし、その他、「資源配分への悪影響、中央銀行の財務状態をへの配慮等を無視してよければ、デフレの克服はたやすい」という植田先生のご指摘(を引用した飯田先生を孫引きしております)も同趣旨といえるでしょう。

そもそも、リフレ政策の柱である期待の転換に依拠すれば、サージェントの4大インフレーション分析のように、財政マネタイズが継続すると皆が信じる状況では、金融引締めにいそしんでもインフレーションは止まらないわけです。デフレ期待を転換したはいいけれど、転換先が財政マネタイズ期待になってしまうようでは、前門の虎後門の狼なわけで、そうならないような仕掛けは考えて当然ではあります。

通常のリフレ政策パッケージでは、「そうならないような仕掛け」とはインフレターゲットの上限指定ということになるわけですが、それで納得が得られるならばこうした議論の流れになっているはずもないので、もう少し妥協しないと「交換」が成立しないのでしょう。本来、財政マネタイズとは関係ない(むしろそれへの対抗策となり得る)インフレターゲティングにつき、日銀は財政マネタイズ等をやれといっても通らないからターゲットを持ち出し、それを達成せざるを得ないために植田先生のいう「たやすい」デフレ克服策=財政マネタイズを日銀に自主的に採用させようとしているのだと器具を抱いたと上川先生は分析されています(上川龍之進「小泉改革政治学」p290)。

この分析はwebmasterは妥当だと思いますし、妥当であるならば、財政マネタイズが生じないような枠組みを構築すれば、日銀はインフレターゲティングに反対する理由もなくなります。福田先生や植田先生にしても、財政マネタイズへの懸念が払拭されるなら、デフレを是認していらっしゃるわけでもなければ、インフレターゲティングについても、せいぜいが無害無益だというぐらいで、積極的に反対されているわけでもないのですから、財政マネタイズのおそれがないリフレ政策であれば、許容される可能性は決して低くないとwebmasterは考えます。

#「あの」毎日新聞が、「『デフレ脱却や持続的成長の実現まで』などと超低金利の長期化を約束」するというある種のインフレターゲットについて、「課題」として「金利低下の余地が乏しく、円高抑制効果は限定的」という点だけしか掲げていないというのは、ある意味象徴ではあります。

こうした考えの支えとなるのは、「アリフレ政策の政」でご紹介したCroweとMeadeの分析です。それによれば日銀の独立性は強い方から数えて86位とのことでしたが、分野別に見ると、

  • 総裁等任用(appointment):27位
  • 政策形成(policy formulation):79位
  • 政策目標(policy objective):63位
  • 対政府信用制限(limits on CB lending to government):90位

と、政府に対する資金供給において独立性が低い、乱暴に言えば政府に財布として使われやすい点こそが、国際的に見て日銀の独立性が低いと判断されることの原因ですので、日銀等の懸念は決して杞憂とは、少なくとも制度的には言えません。逆に、対政府信用制限のスコアが上がるような施策を講じるならば、それは財政マネタイズの可能性を低めるでしょうから、それを懸念する「アクター」に対する「交換」材料としては格好のものと考えられます。

これらに加えて、デフレ脱却後(あるいは一定の名目成長達成後)の政府としての財政再建策の明示も、将来的における日銀への国債消化圧力が生じる可能性を減らすものなので、有効ではないかと思われます。これらは、通貨発行益の使用を意図しないこととほぼ等価ですから、リフレ政策の内訳としては、期待の転換一本に絞り込むこととなります。

では、どのように期待の転換を図るべきでしょうか。期待の転換とは、将来、金融を引き締めるべき状況になっても引き締めないとのコミットメントによってなされるとは、以前申し上げたとおりです。既に行ったことがある、とは導入のハードルを下げるものですから、日銀が過去に行ったことがあるコミットメントを見ると、量的緩和に際して導入した、

新しい金融市場調節方式は、消費者物価指数(全国、除く生鮮食品)の前年比上昇率が安定的にゼロ%以上となるまで、継続することとする。

http://www.boj.or.jp/type/release/zuiji/kako02/k010319a.htm

日本銀行は、金融政策面から日本経済の持続的な経済成長のための基盤を整備するため、消費者物価指数(全国、除く生鮮食品。以下略)の前年比上昇率が安定的にゼロ%以上となるまで、量的緩和政策を継続することを約束している。日本銀行としては、このコミットメントについては以下のように考えている。

  • 第1に、直近公表の消費者物価指数の前年比上昇率が、単月でゼロ%以上となるだけでなく、基調的な動きとしてゼロ%以上であると判断できることが必要である(具体的には数か月均してみて確認する)。
  • 第2に、消費者物価指数の前年比上昇率が、先行き再びマイナスとなると見込まれないことが必要である。この点は、「展望レポート」における記述や政策委員の見通し等により、明らかにしていくこととする。具体的には、政策委員の多くが、見通し期間において、消費者物価指数の前年比上昇率がゼロ%を超える見通しを有していることが必要である。
  • こうした条件は必要条件であって、これが満たされたとしても、経済・物価情勢によっては、量的緩和政策を継続することが適当であると判断する場合も考えられる。

http://www.boj.or.jp/type/release/zuiji/kako03/k031010b.htm

をベースとすべき、というのがwebmasterの考えです。ただし、このコミットメントによってはデフレ脱却ができなかったのですから、改めるべき点は改めるべし。

改めるべき点とは、まずは、植田先生がおっしゃ(り、岩本先生もご賛同なされ)る「消費者物価指数(全国、除く生鮮食品)の前年比上昇率が安定的にゼロ%以上となるまで」中の「消費者物価指数(全国、除く生鮮食品)」を「消費者物価指数(全国、除く食料(酒類を除く)及びエネルギー)」とする(いわゆるコアではなくコアコアを使う)ことと、「ゼロ%以上」を「1%以上」とすることです。内容の前に「交換」の観点からすれば、反/非リフレ政策支持者からの提案なのですから、実現可能性が高いことが最大のメリットでしょう。

内容については、「コア」ではなく「コアコア」とするのは、食料だけでなく特殊要因でぶれやすいエネルギーもまた、物価水準全体の動向の判断からは除くことが合理的だからです。「ゼロ%以上」を「1%以上」とするのは、ゼロ%台ではネガティブショックでデフレにすぐに戻ってしまうおそれがある上、消費者物価指数が統計的に不可避に上方バイアス(実際よりも数値が上ぶれすること)を持っているため、より安全を見込んだ数値とすることが望ましいからです。

加えて、webmasterとしては、「安定的にゼロ%以上」の具体として、「数か月均してみて確認」するということを、「12か月均してみて確認」とすることを提案したいと思います。上記コミットメントに基づき、日銀は2006年3月に量的緩和を解除しましたが、その際には、「数か月」=4ヶ月という運用がなされました(2006年3月に公表された同年1月のコア消費者物価指数で、前年11月から4ヶ月連続で前年同月比で「ゼロ%以上」となりました)。やはりこのときの失敗に鑑みれば、より時間をかけてじっくり判断すべきでしょうし、その際の基準として、1年を通じて1%以上である、というのはひとつの目安となるのではないでしょうか。

#テクニカルな話をすると、用いる消費者物価指数は連鎖方式によるものであるべきでしょう。一般論として、連鎖方式の方が上述の上方バイアスが小さいということに加え、上記の2006年の量的緩和解除の際の4ヶ月連続「ゼロ以上」は2000年基準により判断されましたが、解除直後の基準年の2005年への切替え後のコア消費者物価指数では「ゼロ以上」は達成されていなかった、ということがあります。2005年基準での4ヶ月連続「ゼロ以上」だと2006年10月解除となりますが(同年5〜8月で、8月のものが公表されるのが10月)、同じ「ゼロ以上」といっても水準は低く、解除されなかった可能性もあります。連鎖方式であれば基準年の切り替えがないので、こうした問題を考慮する必要がありません。

ただし、この基準の問題は、バブル期に当てはめると引締めが遅れることで、その実際の善し悪しを措いて、「バブルは防げません」という基準では、世の中通らないと考えられます。バブル期の日銀の引締めは1989年5月の公定歩合引上げから始まりましたが、1年以上コアコア消費者物価指数が1%以上なら引締め可、という基準で引締めが可能となるのは、1989年10月からです(1988年8月のコアコア消費者物価指数は前年同月比0.9%で、同年9月以降1年間1%以上が継続したと確認できるのは1989年8月の計数が公表される同年10月、ということです)。

この点については、日銀が実際にしたコミットメント中、政策委員の見通しで対処可能とするのが一案でしょう。「政策委員の多くが、見通し期間において、消費者物価指数の前年比上昇率がゼロ%を超える見通しを有していることが必要である」というものを、たとえば「2%を超える見通しを有している」場合には、1%以上が1年続かなくても引締め可能だ、と。

ただし、あくまで「1年続かなくても」であって、1%以上であることは必須です。というのも、期待の転換には既述のとおり「金融を引き締めるべき状況になっても引き締めない」ということが必要であり、1%に届かなくても引き締めるべきだと判断したら引き締める、ということでは物価に関わる期待の転換が望めません。たとえば、「消費者物価指数が前年同月比1%以上となり、かつ、前年同月比の数値が上昇を続け、かつ、政策委員の多くが(略)2%を超える見通しを有している場合には、12か月均してみての確認に先立って解除することも検討する」といったものが適当ではないかとwebmasterは考えます。

webmasterは以上の修正を考えていますが、もっと修正が必要だとのご指摘はあるでしょう。とりわけ、コミットメントが守られるかどうかについては、日銀は常に引き締めたがっているのだから外的な強制力が必要だ、との意見はリフレ政策支持者の間でも多く見られます。しかし既述のとおり、少なくとも量的緩和解除に係るコミットメントと実際の解除を見ると、日銀は具体的な条件は何一つとして違えていません。まったく前例がないというのであればさておき、実際に自らのコミットメントをきちんと守ったのが日銀なのですから、コミットメントの内容をリフレ政策的にまっとうなものにすれば、内心がどうであれそのコミットメントを守るとの期待は形成され、すなわち期待は転換されるとwebmasterは考えています。

というわけで、webmasterが実現可能と考えるリフレ政策、すなわち「アリフレ政策」をまとめると、次のようなものとなります。

  1. 期待転換策
    • 次のいずれかが満たされるまで、ゼロ金利政策等の金融緩和政策を継続する。
      1. 連鎖式コアコア消費者物価指数が12ヶ月連続で前年同月比1%以上となる。
      2. 連鎖式コアコア消費者物価指数が前年同月比1%以上であり、かつ、その数値が毎月上昇を続け、かつ、政策委員の多くが、当年度及び翌年度(見通し期間)において、同消費者物価指数の前年同月比が2%を超える見通しを有している。
  2. 財政マネタイズ防止策
    • 物価あるいは名目GDP成長率にリンクした財政再建策(プライマリーバランス黒字化等)にコミットする。
    • 国際的に標準といえる定性的なマネタイズ防止策(買入れ国債の期限のルール化等)を策定する。

財政マネタイズ防止策を講じることにより、仮に期待転換策が十分な効果を発揮しなかった場合の通貨発行益の活用の手を縛るのは痛し痒しですが、通貨発行益活用手段を政策パッケージに含めることで、期待転換策すら実現できなくなってしまっては元も子もない、とwebmasterは考えます。期待値のような考え方ですが、たとえば実現可能性が10%の100点の政策パッケージの期待点は10点で、可能性が90%の50点のそれは45点となり、内容だけを取り出せば半分のものでも、実現可能性が高ければ高い点を与えるべきではないでしょうか。そして、本エントリで縷々述べてきた状況に照らせば、やはり財政マネタイズ防止策とセットでないと、リフレ政策の実現可能性は低いものに止まらざるを得ないでしょう。

とはいっても、単に実現可能性が高い、と言っているだけでは説得力があるはずもなく。具体的にどうすれば実現できると考えられるか、そこを掘り下げていきましょう。

(続く)

2010-08-25

お詫び

休筆すると宣言したのに、いつまで書き続けているのだ、とのご指摘をいろいろといただいております。webmasterにとってのリフレ論の集大成(=「アリフレ」連載)を仕上げて白鳥の歌とする、との方針にはまったく変更はなく、現時点では、

  1. アリフレ政策の鑑(どのようなリフレ政策が実現可能性が高いと考えられるか)
  2. アリフレ政策の途(そうしたリフレ政策をどうしたら実現できると考えられるか)
  3. アリフレ政策の議(他のリフレ政策及びその実現に向けた議論との比較)

の3回で完結する見込みです。

「アリフレ」連載のほか、最近、それに付随する話題(とwebmasterが考えたもの)についてエントリを書いてきましたが、「集大成」だけ書いて休筆するとの宣言に反しているとのご指摘に接すれば、確かに書くべきではなかったかと思います。

したがって、以後は「アリフレ」連載の完結に注力し、その他のエントリは書かないこととする旨、お詫びとともにお約束させていただきます。自ら申し上げたことも守れず、大変失礼いたしました。

2010-08-24

馬鹿馬鹿しくなってきたなぁ。

ところで田中秀臣玄田有史も「自覚した覚悟あるデマゴーグ」だと思っている。彼らはたぶんどちらも自らの信じる公益を実現すべく頑張っている。その意味では世を欺いているわけではない。ただし手段は選ばない。理性的な討論や説得にはそれほど期待していない。つまり「デマゴーグ」。

http://twitter.com/shinichiroinaba/status/21751347493

「そういうデマゴーグは、たとえ自覚的であろうとも長期的には有害だ」という批判は確かに相当程度正しいとは思うのだが、昨今は「原則には例外がつきもの」との悪魔のささやきがよく聞こえる。

http://twitter.com/shinichiroinaba/status/21751535205

地獄に堕ちるのを覚悟の上で、「悪魔のささやき」に惹かれてしまうご自身の業を引き受けていらっしゃるのかと思いきや。

shinichiroinaba えらすぎる//追記乙です。

http://b.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20100822#bookmark-24257630

地獄には堕ちたくないから念仏を唱えていらっしゃったとは。ま、投げ散らしたウンコを拾ってくれる人がいるのだから、ウンコ投げを止める必要性はお感じにならないんですよね!

2010-08-20

アリフレ政策の世

(続き)

#前回のエントリ(アリフレ政策の政)に関して2点。

  • Journal of Economic Perspectivesを査読誌と申し上げましたが、誤りとのご指摘をいただきました。申し訳なく存じます。
  • 上川龍之進「小泉改革政治学」を入手し、取り急ぎ第7章「日本銀行はなぜ金融政策を転換したのか―金融政策の政治学」に目を通しましたが、政治学者の分析においても、前回書いたwebmasterの分析を補強する以下の点が挙げられていたのにはほっとしました。今後書こうと思っていることについて、3点の裏づけが得られたのも励みとなります。とまれ、webmasterのような素人の床屋政談ではなく政治学者による分析が様々になされ、この辺りの状況が専門的にさらに掘り下げられていくことに期待したいです。
    • 独立性とは、法律で書かれているから確保されるものではなく、運用・環境に左右されること
    • 日銀の政策決定は、世論を大いに気にしながら行われていること
    • 小泉総理(当時)は、世論は物価上昇を望んでいないとの認識の下、日銀総裁人事等の判断していたこと

さて本題ですが、potato_gnocchiさんがご紹介フェルドマンの論考に触発され、前回エントリを書いていた際に想定していた論旨とは異なる内容のエントリといたします。具体的には、さらっと流すつもりだった、デフレ脱却を厭う心情とはどういうものかについての論考を掘り下げることにします。

フェルドマンは、webmasterと同様に「1998年に、日銀法の改正が施行された。現在、日銀法を改正しようという政界の動きもある。だが、何となく勢いがない。どこか社会の根底に、社会選択としてデフレを好んでいる向きはないだろうか。日銀の受動的な態度は、社会が選んだことではないだろうか」との認識をお示しの上、この「社会選択」とは具体的には次のようなものであると説きます。

デフレは、日銀が選んだものというより、デフレを好む人が多く、嫌う人が少ない、民主主義国家の日本社会が選んだ、という可能性もある。デフレを好む人は誰かというと、景気が悪くなっても名目収入が安定的に入り、物価が下がれば実質収入が上昇する人の事である。即ち、年金生活を心配する高齢者である。

デフレを嫌う人は、年金医療費などを支払うために財政赤字の請求書が回ってくる若者である。高齢化が他国より早く大きく進む日本は、高齢者がより多く、若者がより少なく、一番早くデフレ嗜好国になったことはわかる。これは、民主主義が完璧に各年齢層を代表してもそうである。

ただ、欧米もそうだが、民主主義が完璧に各年齢層を代表しているかどうかはいえない。即ち、都道府県間の一票の格差が高齢者を過剰に代表するならば、既にあるデフレ嗜好がさらに強まる。日米の比較をすると、驚く結果が出る。

(略)

即ち、日本の議会は高齢者を過大に代表し、若者を過少に代表している。デフレ嗜好の高齢者を過大に代表する国は、中央銀行に対して、デフレ脱却の優先順位を高くすることはないだろう。

http://allatanys.jp/B001/UGC020006320100812COK00612_2.html

しかし、webmasterは見解を異にしています。まず、高齢者は本当に「デフレ嗜好」なのでしょうか。年金は、制度がどうであれ本質的に現役世代の稼ぎから幾許かの扶持を分け与えてもらうものであり(仮に積立方式であったとしても、運用のリターンは現役世代の稼ぎからの分与にならざるを得ません。まして現行制度の賦課方式であれば、そうした関係性が赤裸々に表れます)、デフレにより自らの取り分が実質的に増加することは、年金制度の維持可能性を低めるものでしかありません。年金受給者が合理的に将来を見通すなら、デフレ脱却を推すことでしょう。

なぜそうでないのか、そんなに合理的に将来を見通せるはずがない、としてみましょうか。この場合、現状程度の金融政策で収まっていることの説明がつきません。時おり、国会では年金生活者のために利上げすべき、という質問が日銀等になされますが、名目金利を引き上げてデフレを深化させることは、年金生活者にとって(目先は)一石二鳥です。将来を合理的に見通せるならデフレ脱却を推し進めるはずですし、見通せないなら金融引締めを求める声がもっと多くて当然ですし、いずれにせようまく説明がつきません。

さらには、フェルドマンが指摘するとおり高齢者が過剰に代表されているとは、いわゆる一票の格差問題に由来しますが、その下で現実に行われている施策としては、たとえば公共事業の削減であり、たとえば地方公共団体間での水平調整の減少(地方交付税交付金の減少と自主財源の増加の組み合わせ)です。一票の格差があってもなおこのような政策が推進されてきている現状は、相対的に高齢者が多い地方の言い分が政治の方向性を左右しているとの解説とは、あまり整合的ではありません。

では、デフレ許容的な姿勢は何から発しているのでしょうか。webmasterが思うに、徳保隆夫さんが菅原琢「世論の曲解」を引きつつ論じられた

菅原さんは自民党の敗因にフォーカスしており、「有権者がどのような政策を期待しているのか」について歯切れの良い説明をしていない。けれども、求める答えは自民党が支持を失った理由から類推できて、それは即ち「構造改革」と「財政再建」である。

http://deztec.jp/design/10/03/09_politics.html

ではないでしょうか。近年の選挙を通じた選挙民の一貫して変わらぬ意思表示は、「構造改革」「財政再建」を進めよ、というものだと汲み取れるというのであれば、一貫して変わらぬ金融政策に関する嗜好もまたその文脈で理解可能と考えることには、それなりの蓋然性があるでしょう。

具体的にはいかなる文脈なのでしょうか。日本が本格的なデフレに陥って以来、実質GDP成長率は平均0.95%となっています(1998〜2008年。2009年は異常値として除きましたが、これを入れると0.44%)が、これをどう見るのかが鍵だとwebmasterは考えます。リフレ論とは、単純化すれば、デフレでなければこれがもっと高かったはず、との認識に基づいています。デフレで下がる理屈は「序」で書いたとおりですが、デフレでなければ2%台前半の成長が可能(デフレにより1%ポイント以上引き下げられている=デフレでなくなれば1%ポイント以上の引上げが可能)と考えているからこそ、デフレからは何が何でも脱却しなければ、と説くわけです。

他方、構造改革論と財政再建論はどうでしょうか。webmasterの認識では、構造改革論は、ムダなことを政府がやっていたりするから成長できないのだという認識に基づき、政府等のムダをそぎ落としていこう(ムダをそぎ落とせばもっと成長できるはず)という議論であり、財政再建論は、少子化等により日本の成長力は実現しているとおりに落ちてきていて、それを引き上げようなんてことは無理な注文なのだという認識に基づき、現状程度の経済成長で収支の合う政策運営を目指すべきという議論です。いずれにしてもデフレゆえに経済成長率が鈍ってきている、という考えとは相容れないので、そもそもデフレ脱却の必要性の認識に至りません。

こうしたwebmasterの推測が正しければ、構造改革論にせよ財政再建論にせよ、デフレは景気とは独立事象であるか、景気が悪いからデフレになると認識していることになります。積極的にデフレにすべし、といったようなことは思っていないので、上記のような「名目金利を引き上げてデフレを深化させ」よといった意見が少ないことの説明が可能です。ありていに言えば、デフレはそもそも視野にあまり入っていないのではないでしょうか。

それならば、リフレ政策が受け入れられないはずがないではないか(積極的に推進されないにせよ)、という疑問が浮かぶのは当然です。結論から先に書けば、デフレが望ましいからリフレ政策に反対なのではなく、デフレから脱却することに(積極的賛成とまではいかなくても)反対はしないけれどもリフレ政策が望ましくないと考えているから反対だ、というのがwebmasterが推測するその答え。リフレ政策そのものが望ましくないと考えられている理由(とwebmasterが考えるもの。以下、いちいち断りません)は、大きく2つあります。

ひとつめは、上記の成長率についての認識の違いです。平均約1%成長が現在の日本経済の身の丈にあっているという認識なのですから、景気対策を必要だと認識するとしてもそれ以下の水準ということになりますし、この水準を超えた成長を目指そうというのは、水ぶくれだとか上げ底だとか、そのように見てしまうわけです。バブル崩壊以後、速やかに抜本的対策を講ずるべきだったにもかかわらず、こうした水ぶくれ・上げ底な経済対策が講じられたがために茹で蛙となって長期低迷に至った、とはよく聞かれた言説ですが、これと同様に、リフレ政策は将来に付を回して抜本的対策(=構造改革or財政再建)から目を背けさせてしまう悪手だ、と認識されているのではないでしょうか。

ふたつめは、金融緩和という手法です。単に「水ぶくれ」「上げ底」批判というのならば、財政政策での景気刺激にも当てはまります。財政政策は公共事業批判と結びつきより直接的に構造改革論・財政再建論の標的になりますから、相対的にリフレ政策の評価が上がってもよさそうなものですが、それはそれで別の問題がありそうです。

というのも、今次のデフレ期間中においては、ITバブルの際やライブドア村上ファンド事件時、さらには直近のサブプライム問題・リーマンショックにいたるまで、「マネーゲーム」という言葉で「金余り」が批判されてきました。おそらく、こうした見解をもたらしているのは、「『古きよき日本』が『欧米に追いつき追い越せ』の時代を過ぎて『曲がり角』を迎えた際、『マネーゲーム』のもたらす『虚栄』に浮かれた結果、バブル崩壊という『天罰』を受けた」というようなバブルの総括でしょう。『古きよき日本』への郷愁も相俟って、『金余り』をもたらす金融緩和政策への風当たりは決して弱いものではありません。デフレ下でも削減が続いた公共事業に比べれば、確かに相対的には抵抗感は小さいのでしょうけれど、だからといって歓迎されているとは到底いえないでしょう。

以上のwebmasterの分析の前提となる徳保さんの分析は今年3月のものですが、7月の参院選を見れば、結果(蓮舫大臣の得票やみんなの党の躍進等)が妥当性を裏付けているとwebmasterは見ています。今なお「構造改革」「財政再建」は総体としての有権者の主たる関心事項と言わざるを得ません。リフレ政策の実現は、そうした状況を肯定的に見るにせよ否定的に見るにせよ、まずは所与のものとして認識した上でなければ、可能性は限りなく低く止まり続けることでしょう。

(続く)

2010-08-18

リフレ政策を巡る政治的な話に関してちょっと脱線

そのうち触れようとしていたことについて、議論が盛り上がっているので。

といった辺りについての話です。昼休み中に仕上げるため、取り急ぎ要点を。今進行中の一連のエントリで、もう少しきちんと論じようと思います。

BUNTENさんが「リフレ派の実体なんてねーよ、ただの呉越同舟に過ぎない。」とおっしゃっているわけですが、それで済むのはリフレ政策の実現がトッププライオリティだからこそ。小異を捨てて大同につく、とは大(=トッププライオリティ)を同じくするから成立する話で、大が同じでない人には当てはまらないわけです。BUNTENさんのご認識を言い換えれば、「リフレ派」とはリフレ政策の実現をトッププライオリティとすることが実体なわけで、セカンド以下のプライオリティは様々(=呉越同舟)だということでしょう。

リフレ政策の実現がセカンドプライオリティである人を想定します。トッププライオリティは、たとえば所得再分配の強化だとしましょう。これが逆の人であれば、リフレ政策が実現さえすれば、所得再分配が実現しなくても究極的には仕方がない、ということになりますが、所得再分配の強化がトッププライオリティであれば、リフレ政策が実現したところで、所得再分配の強化が実現しなければ、かなりの程度残念な思いをすることになります。

大同団結せよ、との呼びかけは、数多くの賛同者がいるという状況を現出させるために政治的リソースをよこせ、ということと同じです。リフレ政策の実現がセカンドプライオリティの人にとって、では、その政治的リソースを与えることの見返りは何なのでしょうか? リフレ政策の実現が所得再分配の強化につながるのであれば、ギブ&テイクだということになりますが、何ら無関係というのであればまだしも(それにしても、リソースの機会費用が生じます)、リフレ政策の実現がかえって所得再分配の強化の妨げになるならば、リソースを自らの望まぬ方向に費やされるわけで、踏んだり蹴ったりです。

そうした懸念を有している人々に、そもそも呉越同舟なんだよ、小異を捨てて大同につこうという説得が効かないのは、当然ではないでしょうか。そもそも、ある人にとって「大」であることを、捨てることが可能な「小」だとみなすこと自体、反感を買いこそすれ、賛同を集めることに貢献するはずもないのです。

折にふれwebmasterが飯田先生はすばらしいなぁと申し上げているのは、多分、この辺りの機微に飯田先生は自覚的で、雨宮処凛さんや湯浅誠さんとの対談では、それぞれのトッププライオリティを相当程度尊重されています。勝手なwebmasterの思い込みではありますが、本田先生とのあれこれのやりとりからblog閉鎖に至った一連の経緯を飯田先生は重く受け止めて、今に活かされているのではないでしょうか。

偉そうなことを書きましたが、何よりも反省と自戒として。

2010-08-10

アリフレ政策の政

(続き)

これまで、リフレ論壇においては、リフレ政策が採用されない理由として、日銀がそれを望まず、かつその望まないという意思を貫徹できるだけの力(独立性)を持っているから、というものが挙げられることが多かったとwebmasterは記憶しています。たとえば、次の岩田(規)先生のご意見が典型でしょう。

―― 1998年に日銀法が改正され、日銀は独立性を保証されました。これにより、金融政策は日銀の専管事項となり、政府が口出すことが事実上、不可能になってしまっています。

岩田

中央銀行の独立性には2種類あります。一つは目標設定の独立性。もう一つが手段の独立性です。このうち、手段の独立性は認めるべきだと思います。しかし目標については政府が決める。もちろんその過程においては政府と中央銀行が相談するのは当然ですが、最終的には政府が目標設定を行う。中央銀行はそれに基づいて、自分たちの決めたやり方で目標を達成する。もし達成できない時は説明責任が生じますし、さらには進退を問われることになる。ところが現在は、目標設定、手段ともに日銀に独立性を与えてしまった。これは間違いでした。

http://column.onbiz.yahoo.co.jp/ny?c=bi_l&a=017-1256710553

しかし、法律に独立性があると書けばそのとおりになる、とは限りません。経済学関連で例を挙げれば、公正取引委員会には法律上独立性が付与されていますが、その独立性を実効性あらしめるためにどのような努力がなされてきたか、あるいは独立性に実効性が伴わずあるべき独禁政策が実現しなかった例があるかは、知る人も多いでしょう。では、日銀の独立性とはどの程度のものなのか、CroweとMeadeによる国際比較研究を見てみます。

#リンク先はきちんとした論文形式ではありませんが、CroweとMeadeはバリバリの査読誌であるJournal of Economic Perspectivesに同じ題材で論文を載せています(Crowe, Christopher and Ellen E. Meade, 2007, "The Evolution of Central Bank Governance around the World", Journal of Economic Perspectives, Vol 21(4), pp69-90)ので、その内容の客観性・妥当性には一定の信頼を寄せることができるとwebmasterは認識しています。なお、査読論文から引かなかったのは、査読論文には個別中央銀行についての計数が記されていなかったからです。

#上記のJournal of Economic Perspectivesに関する記述が誤りであるとのコメントを外野さんからいただきました。お詫びの上、本文が間違っていることを明記させていただきます(a要素がらみのテキストで、本文を直接訂正できず申し訳ないです)。(8/20追記)

この研究では、先行研究であるCukierman, Alex, Steven B. Webb, and Bilin Neyapti, 1992, "Measuring the Independence of Central Banks and Its Effect on Policy Outcomes", The World Bank Economic Review, Vol 6(3), pp353-398(以下、CWN論文といいます)で示された中央銀行の独立性を計る指標を更新する形で計測しています。具体的には、CWN論文では1980年代の独立性を計測していますが、CroweとMeadeは2003年時点でのそれを計測しました。日銀についていえば、CWN論文が旧日銀法、CroweとMeadeが新日銀法の下での独立性を計測しているので、図らずも格好の研究となっています。

CWN論文では、1980年代の日銀の独立性指標は0.18とされていますが、CroweとMeadeによる2003年のそれは0.38となっており(数字が大きい方がより独立性があることになります。念のため)、この指標を基数的に見るならば、2倍以上に独立性が強化されたということになります。やっぱり日銀の独立性は強固になったのだ、とは日本国内の時系列では確かなことではありますが、CroweとMeadeの研究のキモは国際比較であること。原データダウンロードして2003年時点での独立性指標が計測可能な99の中央銀行の中の順位を見ると、86位となります。独立性が強い順に並べて86位、弱い順なら14番目に弱いということ。実はこれらは、最も弱い独立性を0、最も強い独立性を1として指標化したものなので、0.38とは大して独立しているわけではない、ということを表しているのです。

#蛇足ながら、CroweとMeadeは透明性についても(これまた先行研究を更新する形で)指標化しており、こちらは2006年時点で指標化可能な39の中央銀行中、日銀は透明性の高い方から数えて5位という順位を記録しています。

全体としてそれほどの独立性があるわけではないのに、目標設定においては完全な独立性を実効的に確保しているとは考え難いところです。実際、確かに法律上目標について政府は設定権限を有していませんが、日銀の目標が不適当だと考えるならば、容易に対処可能です。たとえば、三権分立の下で司法の独立性は(中央銀行のそれよりも)先進国では強固に確立されていますが、アメリカの連邦最高裁に関して、大統領裁判官の任命を通じてその方向性を左右しているとは、よく知られています。経済史関連では、ニューディール政策を巡るものが有名でしょう。

ニューディール政策の内容は多方面に及ぶもので、かならずしも一貫性のあるものではなく、その性質をどうとらえるかには議論があります。しかし、ニューディール政策によって政府の経済的機能が著しく強化されたことには異論がありません。

連邦最高裁はこれらの施策のための法律のいくつかを、当初、違憲無効としました。たとえばシェクター事件(Schechter Poultry Corp. v. United States, 295 US 495, 55 S.Ct 837 (1935))では、鶏肉業者に対する規則を定める権限を全国復興局に与えていた連邦法が違憲無効とされました。この事件では、規則に違反した鶏肉業者が起訴されたのですが、その業務は一地方で鶏肉の販売をするだけのものだったため、連邦の権限は及ばないとされたのです。これはまた、“連邦憲法に列挙された事項だけが連邦政府の権限であり連邦議会が制定することの許された法律のすべてである”とする連邦制度を前提として、ニューディール政策の内容たる経済的な機能を広範に果たすことは、連邦政府に認められた機能ではない、としたことにもなります。

これに対抗してルーズベルトが、連邦最高裁の“詰め替え(court packing)”をしようとしたことは、米国連邦憲法史に有名なところです。連邦最高裁の裁判官は、大統領が指名して上院の承認の上で任命することになっていますが(連邦憲法2条2項2号)、連邦裁判所の裁判官の数を実質上15名まで増やすことによって(当時の定員は現在と同じく9名)、ニューディール政策を支持する裁判官を連邦最高裁に新しく送り込み、それによって判例を覆そうとしたのです。

米国の連邦裁判所の裁判官の任期は終身であり(連邦憲法3条1項)、原則として、死去するか自ら引退するまでその地位に止まります。しかも、最高裁裁判官さえも比較的若くして指名されることが多いために、実に長年にわたって(たとえば30年以上)最高裁に居続ける例がまま見られます。日本の最高裁の場合には、70歳の定年がある(憲法79条5項に基づく裁判所法50条)上に、かなりの高齢で指名されることが通常であるため、数年だけ待てば裁判官の殆どが入れ替わってしまいますが、それとは違うわけです。そのため、ルーズベルトとしては、自分のニューディール政策を実現するためには、裁判官の定員を増やして新しく最高裁裁判官を指名する必要があると考えたわけです。

連邦最高裁の裁判官の数は、連邦議会による通常の法律の形で決められています。当時、ルーズベルトは非常に高い支持率を集めていましたから、この法改正は必ずしも難しいこととは思われませんでした。しかし、結局この試みは失敗しました。連邦最高裁裁判官の定員は、当時も現在も9名です(ただしその前に一時的に10名だったことがあります)。

ルーズベルトにとって皮肉だったのは、憲法史に汚名を残してまで実行しようとしたこの試みに失敗したにもかかわらず、それから間もなく裁判官の引退および死去が相次いだため、現実には多くの最高裁裁判官指名の機会にめぐまれたことです。ルーズベルトは結局、詰め替え作戦の失敗から4年の間に実に6人の最高裁裁判官を指名する機会を得ました。

http://homepage3.nifty.com/nmat/E2-FUG.HTM

同様に、政府・国会は、総裁・副総裁・審議委員人事を通じて目標設定に影響力を及ぼすことが可能です。端的には、リフレ政策支持者を次々に送り込めば、過半数である5人を占めた段階で、事務方の意向がどうであれ、リフレ政策を実現することができます。しかるに実績はどうでしょう。中原(伸)元審議委員と岩田(一)元副総裁の2名が該当するのみに過ぎません。それどころか、福井前総裁の後任人事に当たっては、各会派から次のような見解が示されました。

中川正春君 民主党の中川正春です。

ただいま議題となりました国家公務員の任命につき同意を求めるの件につき、意見を申し述べます。(拍手)

まず、日銀総裁候補の武藤敏郎氏については同意をしない。同じく副総裁候補の白川方明氏については同意をします。また、同じく副総裁候補の伊藤隆敏氏については同意をしないということであります。

(略)

もし武藤氏がこれからも大量の国債買い切りオペを継続することで財政当局の国債管理を助けるとするならば、その判断は日銀トップにはふさわしくないのであります。日銀は、国債を買い支えることによって財務省モラルハザードを助長し、財政破綻の解決を先送りしているのであります。

(略)

伊藤隆敏君については、これまでインフレターゲット論や日銀による長期国債買い入れ増額、ETFやREITの買い入れ等、日銀の金融政策として必ずしも有効性が担保されていない政策手段を積極的に主張し、今後も主張していくとの立場を変えていません。したがって、伊藤隆敏君についても同意することはできないということであります。

(略)

佐々木憲昭君 日本共産党を代表し、日本銀行総裁、副総裁の国会同意人事に対する討論を行います。(拍手)

(略)

また、武藤氏が財務次官だった二〇〇二年十二月、財務省が日銀に対し国債の買い入れ増を要請し、そのため、事もあろうに日銀券発行の歯どめを外すことを求めたのであります。財政規律から見ても、日銀の役割にも重大な疑問を投げかけるこの行為について、武藤氏は、デフレスパイラルを正すためにあらゆることをやる、真っ当だと言えないこと、異例だということをやることもあると述べたのであります。

(略)

なお、伊藤隆敏氏について言えば、経済財政諮問会議の民間四議員の一人として、財界代表メンバーとともに弱肉強食構造改革論を推進してきた方であります。また、インフレターゲットの導入を強く主張してきました。この主張は、日本経済を危険な事態に導きかねないものであります。したがって、伊藤氏を副総裁に任命することは到底認めるわけにはいきません。

白川方明氏は、日本銀行の理事として、ゼロ金利政策量的緩和政策の一端を担ってきた経緯があり、日銀、政府の金融政策への明確な批判的見地を見出すことができません。従来の枠を出ることが明白でない以上、副総裁として賛成しがたいものがあります。

(略)

阿部知子君 社会民主党の阿部知子です。

私は、社会民主党・市民連合を代表して、ただいま議題となりました同意人事案件につきまして、意見表明を行います。(拍手)

(略)

そもそも、武藤氏は財務省の責任者として、社会保障費の自然増を三千億円削減し、その後の五年間の毎年二千二百億円削減の先鞭をつけました。この削減策によって医療崩壊が進み、介護や福祉施策は大幅に後退を余儀なくされました。そもそも、日本銀行の最大の目的は物価の安定です。物価の安定は国民生活の安定に裏打ちされねばならず、社会保障の充実抜きに、国民生活の安定や、とりわけ重要な内需の拡大は実施し得ません。

また、日銀が行ってきたゼロ金利政策、量的緩和策によって預貯金者がこうむった逸失金額は、何と三百兆円を超えています。加えて、広がる地方の格差にも全く思いが及ばない方であり、日銀総裁にはふさわしくないと断言せざるを得ません。

(略)

伊藤氏は、インフレターゲティング論を今日も主張されています。極端な政策によってデフレを脱却させるというのは副作用も含めて考える必要があり、この点からも伊藤氏は副総裁にはふさわしくないと言わざるを得ません。

http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/000116920080313009.htm

要するにリフレ政策(っぽいこと)を志向する者は日銀総裁・副総裁としては不適格である、という理由で武藤総裁候補・伊藤(隆)副総裁候補は最終的に否決されたのです(手続的には、この衆議院本会議では可決されましたが、民主党が過半数を占めていた参議院(当時)で否決されて通らなかったことはご記憶のとおり)。これを、日銀は今よりもタカ派(引締め志向)であるべき、という政府・国会のメッセージだと受け取らない方がどうかしています。

というような話に対しては、

―― デフレの進行に手を打たない白川総裁の責任は大きいですね。トップが代われば、金融政策も変わるかもしれません。

岩田

白川総裁が辞めても、同じ考え方の人が総裁になるシステムが温存されていますから何も変わりません。もし違う考え方の人が総裁になろうしたら、日銀は全力で阻止しようとするでしょうね。

http://column.onbiz.yahoo.co.jp/ny?c=bi_l&a=017-1256710553

と、所詮審議委員等人事は日銀の思うがままといった趣旨の指摘があり、日銀が日銀に近い審議委員等を選んできたのだという指摘があるわけですが、これは疑問です。一例を挙げれば、上記の武藤総裁候補は、webmasterの意見が引かれているものなので面映くはありますが、

私自身は総裁になって欲しい方はいるが、上記の条件を満たすには至らない。いずれも弱い点があり、各種条件を総合判断すれば、武藤氏に軍配が上がるのが現実だ。これはしばらく前にbewaadさんがお書きになっていたように「webmasterが知り合いの日銀関係者から聞く限りにおいて、武藤副総裁は日銀プロパー職員からも高い評価を受けていることが非常に大きい」からだ。(後略)

http://hongokucho.exblog.jp/8159259/

と長らく日銀を取材されているbank.of.japanさんのお墨付きをいただいたとおり、日銀事務方にとって意中の総裁候補でした。にもかかわらず、結果は書いたとおりです。日銀事務方が有する審議委員等人事への影響力(現場の人々なのですから、影響力がゼロだとすればその方がおかしいです)は、その程度のものにしか過ぎないのです。

では、日銀が操っているのではないとして、なぜ政府・国会はこのような審議委員等の人選を続ける=リフレ政策を採用しようとしないのでしょうか。webmasterの考えでは、国民の多くがそう望んでいるから、ということになります。その手がかりは、以前のエントリでも引きましたが、日本経済学会におけるアンケート調査です。

経済学は本来「経世済民」の学であり、経済政策と密接に結びついて発達してきた。ところが、昨年実施された日本経済学会のアンケート調査によると、リーマン危機後の政策に、経済学が役立っていると答えた学会員が46.1%しかいない。また日本銀行の金融政策を是認する学者が34.7%、出口戦略を考慮すべきだという会員は、38.2%という調査がなされている。アメリカで同じ質問をしたら、90%以上のアメリカ経済学会会員がそうだと答えると考えられる「より一層の金融緩和を行うべき」という回答は17.7%に過ぎなかったという。

浜田宏一「経済学と経済政策の間/金融政策は無力なのか?」経済セミナー2010年8・9月号 pp62-68

webmasterは新聞記事のグラフから目分量で割合を読み取っていましたが、こちらではきちんと数字が出されています。で、経済学者を対象としたアンケートにおいて、最多数が日銀よりタカ派であり、次いで日銀と同じスタンス、その半分近くと大きく離れてハト派(≒リフレ政策支持者)という順。これが、バカな学者ばかりがタカ派で優秀な学者は皆ハト派、というのならば救いはあるのですが、その実態は、

金融政策の問題について、非常に頼りなく思うのは、というか不可解なのは、若手の、特に優秀な経済学者の反応である。

時間軸で考えると金融政策が効かない可能性もあるので、ターゲットは疑問とする学者があったり、日銀は世界の学者から国際会議で意見を聞いているのだから心配ないといった議論が見られる(日銀は世界の議論も困る議論は折り曲げるか、無視している)。また今有名なウッドフォードがその限定された道具立てで貨幣量 は効かないと断言したとうれしそうに語る若手学者もある。

優秀な学者の中には、日銀総裁が空白で福井総裁の後任を探していたとき、うれしそうに「白川さんがいい」といった優れた学者、デフレは困ったことですねと話しかけたとたんに「デフレは金融現象というより、構造的な要因で起こっている」と答えた人もいる。さらに、デフレのさなかなのに、今のように貨幣残高が多い と、いずれは大インフレになるのが心配だと語る、つまり出口を心配する。いずれも優れた学者である。これは貨幣の入ったマクロ経済学の基本が学者に理解されていないことを示す。

ibid.

という始末。「優れた学者」ですら「マクロ経済学の基本」を理解しておらず、リフレ政策に反対する者が多いというのであれば、優れていない学者や、まして学者でない一般の国民のそれ以上の割合の者がリフレ政策に反対するのは自然でしょう(逆に、「優れた学者」の方が一般の国民よりリフレ政策に理解を示さないというのであれば、経済学者の存在意義って何? ということになります)。そうした状況が変わらない限り、審議委員等に陸続とリフレ政策支持者が任命されるとは想定し難いですし、仮に一部で言われるような日銀法改正法案が国会に提出されたとしても、可決されることもまた想定し難いです。万が一可決されたとして、その改正日銀法の下で定められるインフレターゲットは、現状を大きく変えるようなもの(前回のエントリの用語を使えば、期待を転換させるようなもの)にはなるはずがありません。

#さらに言えば、「優秀な学者」の認識がそのようなものであるにもかかわらず、日銀事務方の認識が「優秀な学者」のそれを大きく上回る水準にあると考えるのも、あるいは「優秀な学者」のそれを大きく上回る水準であるべきと考えるのも、非現実的でしょう。高等教育を概ね海外(たとえばアメリカ)に依存している、ということでない限り、中央銀行を含め、一国の経済政策の水準は、当該国の経済学界の水準と大差が生じるはずもないのですから。

ここで若干脱線しますと、以上のようなwebmasterの現状認識を日銀擁護だとみなす向きがあるようです。政府・国会、ひいては国民が悪いのであって日銀は悪くない、といった主張と認識されているのかと察しますが、日銀だって悪いに決まっています。たとえて言うなら、わが子が学校のクラスの多数に同調していじめをしている場合、わが子のいじめを「多数に同調しただけだから」といって免罪すべきだというのでしょうか? 多数がどうであれ、いじめはよくないことだと叱るのが当然でしょう。ただ、わが子を叱っただけでクラスの多数を放置したままでは、いじめが止まないのもまた当然のこと。

ここでいう「わが子」が日銀で、「クラスの多数」が政府・国会、ひいては国民の謂であるのは容易にご理解いただけるでしょう。政府・国会や国民のあり様が今のままでは、仮にある日に突然奇跡が起こって日銀事務方がすべてリフレ政策支持者になったところで、政策決定会合の多数派が現状のままではリフレ政策は実現されません。そうした日銀事務方の説得により審議委員等が考えを改めたところで、任期切れの際に新たな反/非リフレ論者が審議委員等に送り込まれて元の木阿弥になってしまうでしょう。webmasterの趣旨は、日銀を批判すべきでないというのではなく(まして擁護できるというのではなく)、日銀だけを批判してもリフレ政策は実現できない、ということなのです。

本題に戻って、webmasterの認識では、以上のように現状はリフレ政策の実現にとって極めて厳しいといわざるを得ません。しかし、何の望みもなく白旗を揚げるしか手がない、というほど厳しいわけではないとも思っています。希望の光は、CroweとMeadeの指標をさらに詳しく見たところに燈っているように感じられるのです。

(続く)

2010-08-07

アリフレ政策の経

(続き)

デフレ対策として古典的な政策手段は、財政政策です。古のケインズによる世界恐慌への処方箋として人口に膾炙した財政政策、すなわち政府支出の増加ですが、一般にデフレ下での財政政策への偏りは、金融緩和政策‐とりあえずここでは、金利の引下げとしておきます‐が無効であることと対比して語られてきました。前回書いたように、現金のまま持っておくという選択肢の存在ゆえに、金利はゼロまでしか下げられません。そして、デフレ下では、金利がゼロまでしか下げられないために、十分な引下げが行えなくなるわけです。たとえば年3%のデフレなら、ゼロインフレ時に3%の金利であることと同等なのですが、ゼロインフレ時とは異なり、2%や1%には下げられない制約が課せられています。

そこで登場するのが財政政策で、乱暴に言えば、民間で失業者があふれているなら、政府が雇えばいいじゃないか、ということになります。お金を借りるのが営利企業の算盤に適わないなら、非営利主体の政府がお金を借りて事業を行うべし、と。失業者がいなかったりお金が足りていなかったりするときに政府がでしゃばれば、労働者やお金の取り合いになり、対価を支払ってまで欲しがられる財・サービスを作り出す営利企業から貴重なリソースを奪ってしまうことになりますが、営利企業が使わずにいる労働者やお金でしたら、少々効率が悪かろうが使った方が世のため人のためとなるわけです。

ところが最近では、少々どころではなく効率が悪くなってきているようです。財政支出がもたらす効果(きちんと書けば乗数効果)についての実証分析された飯田先生は、財政政策の効果が金利上昇・円高により相殺されてしまうマンデルフレミング効果と、将来の増税への備えにより相殺されてしまう中立命題の2つをその原因として考えられる事象だとされています。どのような理屈で効果が落ちてきているのかはさておき、現にあまり効かなくなってきているのであれば、その即効性を活かしたカンフル剤としては依然として有力であり続けるのでしょうけれど、デフレ脱却施策の主力に据えるには分が悪そうです。

冒頭、財政政策を「古典的」と称しましたが、さらに古くさかのぼることができるのは、通貨発行益の活用です。といっても、これはデフレ対策として使われてきたものではなく、別の目的で使われてきた際に副作用としてインフレをもたらしてきたものです。

通貨発行益とは、紙幣等の額面と原価の差額となります。今、日本で流通している一万円札の原価は20円強だとのことで、つまり紙幣を刷って1万円の財・サービスを購入した場合、9,980円弱の利益が生じます。言い方を換えれば、(中央銀行を結合した広義の)政府は、手元に資産や税収の当てがなくても、紙幣を刷るだけで何でも買えるわけです(紙幣の印刷代は、当然ながら通貨発行益で賄うことができますので)。財政難の政府にとってこれほど美味しい話はなく、よって歴史上何度となく活用されてきました。

しかし、何の元手もないのに何でも買える、なんて話がうまくいくわけない、とは直感的に誰もが思うことでしょう。実際、過去のこうした試みは、紙幣等の価値が下がる=物価が上がる(インフレ)ことでことごとく頓挫しています。物価が上がるならばとどんどん紙幣を刷っていけば、行き着く先はハイパーインフレ古代ローマのインフレの際には銀貨の銀含有率が下がっており、ひょっとしたら通貨発行益の使いすぎによるインフレだったかもしれません。その他、高校世界史の教科書に載るほど有名なのはフランス革命後のアッシニア紙幣の乱発によるインフレですし、同じ頃の日本でも正貨準備不足の藩札発行によるインフレが起こっています。

かくして通貨発行益の活用は広く禁じ手とみなされ、戦後の先進国経済政策においては見られなくなりましたが、20世紀末の日本によみがえったデフレへの処方箋として現代的意義を与えられます。俗に「バーナンキ背理法」として知られましたが、要するに、どんどん紙幣を刷って中央銀行があらゆるものを買い占めていけば、必ずやインフレが起こるであろう(=デフレから脱却するであろう)、ということ。「必ずやインフレが起こる」とはあくまで経験則であり、厳密に証明されていないとの指摘もありますが、インフレが起きなければ世界中のあらゆるものを買い占めればよいだけのことで、そうなればデフレから脱却できなくてもよろずめでたしと言っていいでしょう。

この通貨発行益の活用以上に今般のデフレ局面において主役を張ってきたのは、期待の転換です。そもそも、日本のデフレ脱却論は、この期待の転換を主軸に据えた、It's baaack! 論文に代表される一連のクルーグマンの提言でした。期待の転換とは何かを説明するには、何故デフレ下では金融緩和政策が効かないかを振り返るのが早道です。

お金を借りる典型は、企業の投資です。今1億円借りて投資すれば、今の売上1億円が将来には1億1,000万円にまで伸びるので、金利を10%までなら支払ってでも、借りて投資した方が得だ、というわけです(金利以外のコストは捨象してます)。この将来の売上の伸びが性能の向上によるシェア拡大によるもの‐単価1万円のものが今は1万個売れていて、将来は1万1,000個売れる計算‐だとして、デフレで単価が9,000円に下がったらどうでしょう? 9,900万円しか売上を得られませんから、売れる量が10%(1,000個)も伸びる見込みが立つにもかかわらず、マイナス金利でないと利益が出ません。ところが既述のとおり、マイナス金利で貸す馬鹿はいないのです。

これは前回エントリの引用となりますが、「デフレで単価が9,000円に下がったら」「マイナス金利でないと利益がでない」と判断するのは、お金を借りようか(投資しようか)と悩んでいる時点においてです。デフレで単価が実際に下がって返せなくなりました、という話ではないので、「デフレで単価が9,000円に下がったら」とは、あくまで将来の予想なのです。

ここで、今はデフレだけれども、お金を返す際にはインフレになっている、と将来予想が変化したらどうなるでしょう? そう、今がデフレであっても、お金を借りて投資する判断を下すはずです。冒頭の「たとえば年3%のデフレなら、ゼロインフレ時に3%の金利であることと同等なのですが、ゼロインフレ時とは異なり、2%や1%には下げられない制約が課せられています」とは、厳密には「たとえば年3%のデフレ『を皆が予測している』なら、ゼロインフレ時に3%の金利であることと同等なのですが、ゼロインフレ時とは異なり、2%や1%には下げられない制約が課せられています」ということになるわけです。この将来予測、すなわち「期待」を転換すれば、「2%や1%には下げられない制約」を外すことができ、金融緩和政策の実を挙げられるようになるのです。

では、どのようにすれば期待を転換することができるのでしょうか。クルーグマンが挙げるのは、日銀による、将来インフレが生じてもなお金融緩和政策を継続するとの公約です。重要なのは、今の金融緩和ではなく将来の金融緩和。今、どれだけ金融緩和をしたところで、将来インフレが起きたら引き締められてしまうとの期待を持つなら、安心して借金はできません。ところが、インフレが起きても手を拱いて放置するとの期待を持てば、安心して借金できるわけです。

このほか、有力な期待転換手段とされているのが、為替レートについての公約です。物価は、たとえば円の(日本国内で取引される)財・サービス全体に対する交換比率のことですが、為替レートは、たとえば円のドルに対する交換比率のことですから、本質的には大差ありません。将来の円安を公約した場合、円安の達成には(国際的な資本移動を規制しない場合は)金融緩和政策が必要ですから、円安の公約とは、すなわち将来における金融緩和政策継続の公約となるわけです。

以上の政策パッケージを用いて見事にデフレを脱却した事例が、世界恐慌時の他ならぬ日本でした。俗にいう高橋財政とは、

公共事業等の拡充・満州事変による軍事費増大
財政政策
その財源としての国債の日銀引受
通貨発行益の活用
期待の転換
過度な円高相場をもたらしていた金本位制からの離脱(による実勢相場への円安誘導)
期待の転換

の組み合わせだったのであり、これらのデフレ脱却策は決して机上の空論ではないのです。

しかしながら、日本が15年以上にわたりデフレが続いているのは皆様ご承知のとおり。なぜデフレから脱却できないかといえば、既述のデフレ脱却策が功を奏さなかったからではありません。デフレ脱却策が十分に講じられてこなかったからです。

歴史上の実例があり、それに対する理論的研究も進められているにもかかわらず、では、なぜデフレ脱却策は十分に講じられてこなかったのでしょうか?

(続く)

2010-07-31

アリフレ政策の序

「アリフレ」とはa reflationの略で、リフレ政策を巡る議論に多大なる影響を与えた「ザモデル」に倣わんとすることがかく略する趣旨となりますが、「ザ」ではなく「ア」であることには当然意味があり、多数あり得るリフレ政策のあり方のひとつを示すものに過ぎないことを示すことにもまた、同じぐらい重く意図を込めています。加えて、webmasterはリフレ政策支持者ではないとご認識の方々におかれましては、「亜リフレ」と字を当てて、やはりあいつのリフレ政策はまがい物だと差別化していただくことも可能な名称となっております。

webmasterにとってのリフレ論の集大成を謳っていますので、多少迂遠ではありますが、なぜリフレ政策を必要と考えるかについて記すところから始めたいと思います。込み入った話は後にするとして、とりあえずリフレとはデフレ脱却であると簡単に定義して話を進めるなら、なぜリフレ政策を必要と考えるかとは、なぜデフレからの脱却が必要と考えるかとの問いかけと同義です。さらに言い換えるなら、なぜデフレは避けるべき現象であるのでしょうか?

デフレとは一般物価の下落(ちなみにインフレはその上昇)のことですが、本来的には、デフレであれインフレであれ、それ自体はいいことでも悪いことでもないはずです。たとえば物価が半分になるデフレが起きたとして、労働サービスの価格である給料が半分になったところで、買うもの等、支出先の価格もすべて半分になるのであれば、生活そのものは何の影響も受けません。逆もまた然り、です。

しかしながら、この「本来的」な議論には、重要な前提がひとつあります。それは、全ての財・サービスの価格が、一般物価と同じように動く、というもの。たとえば先の例で、労働サービスの価格はゆっくり動いて、それ以外の財・サービスの価格は早く動くなら、労働サービスの価格がそれ以外の財・サービスの価格に追いつくまでの間は、労働者生活水準はデフレが起きる前よりも高くなります。実際、労働サービス価格は、ゆっくりめに動くものの典型です。

では、多くの労働者にとって、デフレはいいことなのでしょうか。もちろん、現に労働サービスを提供し、その対価を受け取っている人々にとってはいいことに決まっています。だからといって、社会全体にとっていいとは限りません。腕が上がったわけでもなく単に調整スピードが違うということに源を発して、他の財・サービスと比べた相対的な価格が上がるとは、労働サービスが提供することができる価値以上の価格を受け取っていることに他なりません。逆から見れば、得られる価値よりも高い価格を払わないと労働サービスは買えなくなった=事実上の値上げ、ということです。

そんなものを買わされる雇用者はたまったものではなく、何か対策を講じるのは自然なことです。値下げ交渉をすればよいのかといえば、労働サービス価格がゆっくり動くとはそうした交渉に高いコストがかかる(契約が長期である、労働者保護法制が整備されている、等)ことに他なりません。結果、目先のコストが比較的安い部分にしわ寄せが行き(採用抑制、派遣労働等の短期契約の更新拒否等)、あるいはそうしたしわ寄せができず事業が継続できなくなることで職場が失われ、世の中には失業者があふれることになります。働ける人々が働かずに貯金や扶助を食い詰めていくとは、社会にとって明らかに不幸なことです。

労働者保護法制や派遣法制を改め、労働サービス価格の調整スピードを上げればよい、というご意見もあるでしょう。スピードが遅くてもいつかは調整が追いつくのだから、一時的な問題に過ぎない、というご意見もあるでしょう。webmaster個人としては、そう簡単に調整スピードが上げられるとも思いませんし、一時的だといって看過すべきものとも思いませんが、それらの実効性は措くとしても、労働サービス以外の全ての財・サービスについて、調整スピードを適切にチューニングすることは困難を極めるでしょう。仮に全ての財・サービスについて調整スピードを最適化できたとしても、なお問題は残ります。

その残る問題とは、金利に関するものです。金利とは、現在と将来のお金の価格に他なりません。金利1%でお金を貸すとは、代金100円を支払って、将来101円受け取る権利を買っている、ということになります。では、代金100円を支払って、将来デフレにより値下がりした99円を受け取る権利を買う人はいるでしょうか? 今の100円をそのまま手元においておけば、将来も依然として100円のままなのですから、そんな権利を買う人がいるはずもありません。つまり、将来のお金の価格の下限は今のお金の価格であり、金利で表現すれば0%です。

お金を借りる典型は、企業の投資です。今1億円借りて投資すれば、今の売上1億円が将来には1億1,000万円にまで伸びるので、金利を10%までなら支払ってでも、借りて投資した方が得だ、というわけです(金利以外のコストは捨象してます)。この将来の売上の伸びが性能の向上によるシェア拡大によるもの‐単価1万円のものが今は1万個売れていて、将来は1万1,000個売れる計算‐だとして、デフレで単価が9,000円に下がったらどうでしょう? 9,900万円しか売上を得られませんから、売れる量が10%(1,000個)も伸びる見込みが立つにもかかわらず、マイナス金利でないと利益が出ません。ところが既述のとおり、マイナス金利で貸す馬鹿はいないのです。

かくして、デフレ下においては、お金を借りるとは極めてハードルの高い行動になります。単に販売量等の拡大が見込めるというだけでは足らず、それが単価の減少を補って余りあるものであることが求められるのです。デフレでなければ行われていたであろう、世の中を少しずつよくする諸々が、お金が借りられない(借りても返せない)がゆえに行われないとは、これまた大いなる社会的損失です。

さて、これはデフレ下固有の状況ではあるのですが、同様の事態は他の状況においても生じます。すなわち、金利が高いときには、その金利以上の収益の伸びが見込めなくては投資が行われなくなるので、投資は抑制されます。金融政策として加熱した景気に冷や水をかけるために金利を引き上げるのは、そうした効果を念頭に置いてのこと。デフレで一般物価が下落しているときには、ゼロ金利であっても、その下落分だけ金利相当の負担が生じ、投資が抑制されることになるのです。いわば、景気動向にかかわらず、常に冷や水をかけつづけているようなものなのです。

その効果はいかほどか。かつてのエントリを引けば、2000年代前半のOECD諸国平均と日本の実質GDP成長率格差は約1%ポイント。この1%ポイントの差がデフレかそうでないかのみに依存していると仮定するなら、デフレであること=実質的に金利が引き締められていることにより、実質GDP成長率は1%ポイント引き下げられていることになります。たかだか1%ポイントと軽く見ることなかれ。昨年度の実質GDPは約531兆円ですが、日本平均のまま2050年度まで推移しても約2倍(約1,114兆円)までしか成長できない一方、OECD諸国平均で推移することができれば約3倍(1,627兆円)にまで達するのですから。

かくのごとくデフレは解消されるべき現象であり、デフレ脱却施策=リフレ政策は実現されるべきである、とwebmasterは考えております。さて、ではどのようにすればデフレから脱却できるのでしょうか。冒頭記したようにリフレ政策が多様であり得るとは、デフレ脱却のための政策手法は複数あり、それらをどう組み合わせるかで、さまざまな政策パッケージを考えることが可能だ、ということに他なりません。

(続く)

2010-07-28

高橋先生へ

前言を翻して新たなテーマでのエントリとなってしまいますが、一連の流れに照らしてお応えさせていただくべきかと思いました。

bewaadさん、無理に休筆することないでしょ。ばれても命とられるわけでなく、左遷させられるのもよし、それで気に喰わなければやめればよし。法律に自信があるなら当社政策工房にでもどうぞ。地震があっても、乗り遅れないでね。

http://twitter.com/YoichiTakahashi/status/19416778505

まず、当サイトでは高橋先生を批判的に取り上げさせていただくこともありましたが、にもかかわらず真心のこもったアドバイスをされる度量をお示しいただき、さらにはお誘いいただく程の評価をいただいたことに感謝申し上げます。

いただいたアドバイスにつきましては、webmasterは高橋先生よりも職場を好意的に、あるいは甘く評価しております。職場の方針・あり方等について批判的なことも書いておりますが、それがwebmasterの筆によるものと職場にばれたところで、それを理由に左遷させられるとは、その手の言論を公に行っている同業者の例に鑑みて、それほど高い確率ではないだろうと踏んでおります。

webmasterが懸念しているのは、むしろ外部との関係となります。一般的に言って、普通の企業であっても、上司への批判以上に取引先・クライアント等への批判の方が問題になり得るかと存じますが、それと同種の構造が霞が関にも存在している、というのがwebmasterの見立てなのです。

とまれ、こうしたwebmasterの認識が誤りで、職場に失望するようなことがありましたら、ひょっとしたら政策工房の門をたたくこともあるかもしれませんが、その際にはよろしくお願いいたします。高橋先生がお考えの公務員制度改革等には批判的ではありますが、それを承知でお誘いいただいているのですよね?(笑)

最後に、ご好意に甘えることをお許しいただけるならば、ひとつご教示いただけませんでしょうか。というのも、webmasterが高橋先生のご発言等を拝見する限り、高橋先生はリフレ政策よりも公務員制度改革を優先されているのでは、と思えてなりませんが、実際はいかがでしょうか? たとえば、最近では高橋先生は円売り・ユーロ買い介入をご提言ですが、他方、「埋蔵金」論争の文脈においては、外為特会の積立金をめぐり、あたかも財務官僚が省益のために外貨準備を膨らませており、為替介入は無用であった旨、おっしゃられていたと記憶しております。

これは、スヴェンソン論文や溝口・テイラー介入の影響等を踏まえれば、リフレ政策に為替介入は有益であるとご認識であるにもかかわらず、霞が関批判のために筆を枉げたということではないのでしょうか? 不躾な質問とは承知しておりますが、ご見解をいただくことができれば幸いです(一方的な問い合わせですので、もちろん、お気に障るようでしたらご放念ください)。

コメントをいただきました。

luke_randomwalker 2010/07/29 09:23

醜いなあ…晩節を汚すとはこのことですよ。

高橋氏の主張は「総額を減らせ」という話ではなく、「変なリスクを取るな=変な積立金(埋蔵金)を返せ」という話だったでしょうに。

財投債に関する
http://www.ichigobbs.org/cgi/15bbs/economy/1182/819-845
あたりの話と同じこと。

為替リスクが嫌なら、デフレ脱却に協力すれば円安になりますよw

http://d.hatena.ne.jp/bewaad/20100728/p1#c1280363003(webmaster注:強調はwebmasterによります。)

さて・・・。

一般論として、私は政府資産はいまより少ないほうがいいと考えていますので、まず、外為資金の圧縮を考えるべきです。借金してまで、政府が財テクをすることはないということです。次に、運用を積極的に行うとしても、現行の方式以外に方法はないのか考えるべきです。現行の方法で行うにしても、それに伴うリスクとリターンを考えて判断すべきです。

高橋洋一「この金融政策が日本経済を救う」p183(webmaster注:強調はwebmasterによります。)

(以上、7/31追記)