「平等の不平等」ということばがあります。
「平等」ほど「不平等で理不尽なこと」はない、という意味です。
人には、生まれながらにして備わった環境、条件、能力というものがあります。
いわゆる世間で言う「家柄の良い家」に生まれて、大した苦労もせずにいい暮らしができる人、反対に幼いときから過酷な試練に直面し、艱難辛苦の人生を余儀なくされる人、幼少の頃から大人顔負けの天才的な能力を発揮する人…さまざまです。
人と人との間には必ず「差異」が生じます。これは実は必要があってのことで、自分自身がその「差異」を生み出す「因」を作っているのです。ただ、それに気がついていないだけ。
前政権の行き過ぎた市場競争原理の導入によって、格差社会が生まれてしまいました。ひいては教育格差にまで広がってしまい、この国の将来が危ぶまれています。新政権は、必死にその調整をやっています。
これは、すべて人間が考え出した社会システムでの出来事です。
政治によって、相当程度、人間らしい生活ができるようなにることは事実です。
しかし、「不平等」は、どこまでいっても解消されないでしょう。
「不平等」とは、人の心の中に巣食う差別意識の産物だからです。
野に咲くタンポポは、ひとつとして同じものがありません。大きなタンポポ、小さなタンポポ、しおれたタンポポ…
でも、それぞれ違ったタンポポが集まっているから、生き生きとした野原ができあがるのです。これが、まるで同じ規格品のようなタンポポばかりだったら、考えただけで、ぞっとします。空から見たら、草の緑とタンポポの黄色をまぜあわせた色紙のようです。味も素っ気もありません。
人も同じ。
お金持ちの人、そうでない人、容姿の美しい人、そうでない人、勉強のできる人、できない人…
でも、いろいろな人がいて活気のある楽しい社会ができ上がっています。
お金持ちの人は、そうでない人に「お金持ちになれる秘訣」を教える喜びがあります。教えてもらう人は、自分がお金持ちになっていく喜びと教えてくれる人に感謝する喜びがあります。
容姿の美しい人は、どうやったらより美しくなれるか伝授したくなります。容姿のそれほど美しくない人は、ちょっとの工夫で見違えるほど綺麗になった自分に自信を持ち感謝します。
勉強のできる人は、そうでない人に教えてあげることで教科書で学べない勉強ができます。勉強のできない人は、「やればだきる」と自信をつけてくれた人に感謝する喜びを与えられます。
私の子供の頃は、子供同士、認め合って楽しく遊んだことを覚えています。
運動神経は抜群だけれど、家が貧しくてお小遣いがもらえない子供には、みんなで毎回、カンパして仲間に入れていました。
勉強のできる子供は、勉強はできないけれど人笑わせるのが上手なので、しょっちゅう連れまわしていました。
ヘンなモノサシを子供たちには偏見はありません。あるのは「どんなアイデアを出したら、みんなで楽しく遊べるか」、これだけです。
「格差」というモノサシを教えるのは大人です。
これと同じ、社会も、ある特定の人たちが「格差」というモノサシをたくみに操って無用な競争を煽るのです。得をするのは、この特定の人たちだけです。
「格差も時には必要だ」と言い放った元総理がいました。こうした愚劣な政治家が行った「ある勢力を利するための改革」によって、人の心もすさんでしまいました。
「この特定の人たち」がどんな人たちなのか、このブログを読み進めていくうちに、お分かりになると思います。
こうした「愚劣」と皆から鼻をつままれるような人間でさえも社会は受け入れ、必要としているのです。真面目に努力する人に試練を与え、いっそう鍛えるという役目を持っているからです。
そもそも最初から「平等」などはないのです。
「平等」という概念は人々の間に争いを生み出すべく仕掛けられたウイルスなのです。心を蝕む細菌兵器なのです。
生まれながら併せ持った「差異」を認め合い、互いに学びあう、ということから進歩が始まるのです。
生まれつき体や脳に重大な生涯を持った子供がいます。そうした子供に限って、明るく生命力に溢れ、聡明なのです。
こうした子供は、生まれてくるときに使命を持ってこの世に生を受けます。同じような心持ちの両親に引き寄せられるかのよう縁を結び生まれてくるのです。
私たちは、こうした子供の生き方を見て、学ばせていただき、その子供の存在そのもの感謝することが大切です。
こうした子供たちを支える心は必要ですが、同情する心は邪魔になります。同情する心は、「哀れみの心」がその原点です。むしろ、「哀れみの心」は自分自身にむけるべきです。無知ゆえに、差異の必要性を理解できず、やがては自分の心を蝕んでいくからです。
最近のニュースで象徴的なことがありました。
思考能力は人一倍優れており、感受性も豊かな小学生の女の子の話です。
この女の子は脳に障害を持っており、車椅子の上でこれまでの人生の大半を過ごしてきました。
この女の子が学区の公立中学に進学する際、入学を拒否された、というのです。体育の授業をみんなと同じように受けることができない、という理由でその学区の中学校と教育委員会が受け入れを拒否したのです。
このことに義憤を感じた父親は裁判を起こしました。「自分の娘に、みんなと同じように中学校に上げてやれない自分のふがいなさ」を子供に詫びながらも、打開策を模索していたのでした。まだ小学生の子供に「大人に醜い都合」など教えたくない、とぃったんは躊躇したものの、勇気を持って訴訟を起こしたのです。
判決は、「問題なく公立中学校に進学できる」というものでした。
裁判官は「何ができないか、ということばかり考えるのではなく、何ができるのか、を考えるべきだ」という「教育者としての原点」に触れた判決を言い渡したのです。
この女の子の中学入学を拒否した中学校の校長、教頭、そして教育委員会。
こんな人間たちは教育の現場にいてはならないのです。極悪、といっても言い過ぎではないヤカラです。
「標準以上の子供たちだけを集めてスタンダードなカリキュラムだけを消化する」のであれば、教師などいらないのです。職場放棄、仕事放棄にも等しいこうした教育者たち。もはや「教育の目的」さえも喪失してしまったかのようです。
学校こそ「不平等の素晴らしさ」を学ぶ格好の場所なのです。
「平等の不平等」。平等が却って不平等を生み出している、とでも言っているようです。
タンポポはやがて枯れて種子をつけた綿毛になります。この綿毛が風や鳥によって運ばれて、別な土地で再び花が開く。まるでタンポポの生まれ変わりですね。
これをひたすら繰り返しながら自然を構成しているのです。これが自然界のオキテです。
人間も、ひょっとしたら、このようにしてこの世に生を受けるのではないか。輪廻転生と言ったりしていますね。カルマと因果律によって、あるべきところに生まれ出てくる。
だから、三歳にして突然ピアノを引き出したり、10歳にして数学の天才と言われたり、こうしたことも過去世の何代にもわたって、ひとつのことを学習し続けてきた結果に過ぎないのではないか。
よく天才児のことを「突然変異のなせるわざ」などといったりします。
確かに医学的に見ても特別な染色体を持っていたりします。
西洋占星術師などにホロスコープを作ってもらうと、これも確かに「天才の星の配置」になっているのです。
でも、こうした現象は「因」があって、それが反映しているだけなのです。自然界の「しるし」です。
こうした天才児が、その後の人生において満足のいく幸福な人生を歩んでいるか、というと、そうでない場合のほうが多いようです。
人を管理したがる「ある種の人たち」は、「平等」という虚構をあたかも素晴らしいことのように喧伝し、人々の心に刷り込んでいくのです。
繰り返しますと、「平等」などは人間のご都合主義で人工的に創作されたものです。最初から「平等」などというものは存在せず、ただの幻影にすぎません。
「不平等」が本来のあるべき姿で、これを歪曲し、あたかも「いけないこと」のような教えてきたのです。
「不平等」が自然なのに、「平等」という檻の中に閉じ込めてしまう不自然。やがては活力をなくして病気になってしまうでしょう。今の教育の現場、家庭がまさにその危機に瀕しているのです。
それぞれが違うもので、違うからこそ厄介で、その厄介さの必要性を理解し工夫して付き合っていくこと。これが人間の智恵というものではないでしょうか。
これを心底理解することによって「不平等」という概念も虚構であることに気づき、何より「不平等」という「罠」の恐ろしさが分かるのではないでしょうか。
つまり、「平等」は虚構。「不平等」という概念も「差異」を人間の都合のいいモノサシで言い換えものに過ぎません。
「差異」、「違い」の素晴らしさが本当に理解できたときに、「不平等」という言葉自体もなくくなるでしょう。
あるのは「違い」だけ。「違い」から学べるのは知恵者。「違い」を利用するのは悪人。この「悪人」からさえ学ぼうとする者は聖者。
こんなこと、私には到底無理なことです。一生凡俗で結構。それはそれなりに楽しく生きていきます。心の中で感じるしか「手」はないです。
「平等」ほど「不平等で理不尽なこと」はない、という意味です。
人には、生まれながらにして備わった環境、条件、能力というものがあります。
いわゆる世間で言う「家柄の良い家」に生まれて、大した苦労もせずにいい暮らしができる人、反対に幼いときから過酷な試練に直面し、艱難辛苦の人生を余儀なくされる人、幼少の頃から大人顔負けの天才的な能力を発揮する人…さまざまです。
人と人との間には必ず「差異」が生じます。これは実は必要があってのことで、自分自身がその「差異」を生み出す「因」を作っているのです。ただ、それに気がついていないだけ。
前政権の行き過ぎた市場競争原理の導入によって、格差社会が生まれてしまいました。ひいては教育格差にまで広がってしまい、この国の将来が危ぶまれています。新政権は、必死にその調整をやっています。
これは、すべて人間が考え出した社会システムでの出来事です。
政治によって、相当程度、人間らしい生活ができるようなにることは事実です。
しかし、「不平等」は、どこまでいっても解消されないでしょう。
「不平等」とは、人の心の中に巣食う差別意識の産物だからです。
野に咲くタンポポは、ひとつとして同じものがありません。大きなタンポポ、小さなタンポポ、しおれたタンポポ…
でも、それぞれ違ったタンポポが集まっているから、生き生きとした野原ができあがるのです。これが、まるで同じ規格品のようなタンポポばかりだったら、考えただけで、ぞっとします。空から見たら、草の緑とタンポポの黄色をまぜあわせた色紙のようです。味も素っ気もありません。
人も同じ。
お金持ちの人、そうでない人、容姿の美しい人、そうでない人、勉強のできる人、できない人…
でも、いろいろな人がいて活気のある楽しい社会ができ上がっています。
お金持ちの人は、そうでない人に「お金持ちになれる秘訣」を教える喜びがあります。教えてもらう人は、自分がお金持ちになっていく喜びと教えてくれる人に感謝する喜びがあります。
容姿の美しい人は、どうやったらより美しくなれるか伝授したくなります。容姿のそれほど美しくない人は、ちょっとの工夫で見違えるほど綺麗になった自分に自信を持ち感謝します。
勉強のできる人は、そうでない人に教えてあげることで教科書で学べない勉強ができます。勉強のできない人は、「やればだきる」と自信をつけてくれた人に感謝する喜びを与えられます。
私の子供の頃は、子供同士、認め合って楽しく遊んだことを覚えています。
運動神経は抜群だけれど、家が貧しくてお小遣いがもらえない子供には、みんなで毎回、カンパして仲間に入れていました。
勉強のできる子供は、勉強はできないけれど人笑わせるのが上手なので、しょっちゅう連れまわしていました。
ヘンなモノサシを子供たちには偏見はありません。あるのは「どんなアイデアを出したら、みんなで楽しく遊べるか」、これだけです。
「格差」というモノサシを教えるのは大人です。
これと同じ、社会も、ある特定の人たちが「格差」というモノサシをたくみに操って無用な競争を煽るのです。得をするのは、この特定の人たちだけです。
「格差も時には必要だ」と言い放った元総理がいました。こうした愚劣な政治家が行った「ある勢力を利するための改革」によって、人の心もすさんでしまいました。
「この特定の人たち」がどんな人たちなのか、このブログを読み進めていくうちに、お分かりになると思います。
こうした「愚劣」と皆から鼻をつままれるような人間でさえも社会は受け入れ、必要としているのです。真面目に努力する人に試練を与え、いっそう鍛えるという役目を持っているからです。
そもそも最初から「平等」などはないのです。
「平等」という概念は人々の間に争いを生み出すべく仕掛けられたウイルスなのです。心を蝕む細菌兵器なのです。
生まれながら併せ持った「差異」を認め合い、互いに学びあう、ということから進歩が始まるのです。
生まれつき体や脳に重大な生涯を持った子供がいます。そうした子供に限って、明るく生命力に溢れ、聡明なのです。
こうした子供は、生まれてくるときに使命を持ってこの世に生を受けます。同じような心持ちの両親に引き寄せられるかのよう縁を結び生まれてくるのです。
私たちは、こうした子供の生き方を見て、学ばせていただき、その子供の存在そのもの感謝することが大切です。
こうした子供たちを支える心は必要ですが、同情する心は邪魔になります。同情する心は、「哀れみの心」がその原点です。むしろ、「哀れみの心」は自分自身にむけるべきです。無知ゆえに、差異の必要性を理解できず、やがては自分の心を蝕んでいくからです。
最近のニュースで象徴的なことがありました。
思考能力は人一倍優れており、感受性も豊かな小学生の女の子の話です。
この女の子は脳に障害を持っており、車椅子の上でこれまでの人生の大半を過ごしてきました。
この女の子が学区の公立中学に進学する際、入学を拒否された、というのです。体育の授業をみんなと同じように受けることができない、という理由でその学区の中学校と教育委員会が受け入れを拒否したのです。
このことに義憤を感じた父親は裁判を起こしました。「自分の娘に、みんなと同じように中学校に上げてやれない自分のふがいなさ」を子供に詫びながらも、打開策を模索していたのでした。まだ小学生の子供に「大人に醜い都合」など教えたくない、とぃったんは躊躇したものの、勇気を持って訴訟を起こしたのです。
判決は、「問題なく公立中学校に進学できる」というものでした。
裁判官は「何ができないか、ということばかり考えるのではなく、何ができるのか、を考えるべきだ」という「教育者としての原点」に触れた判決を言い渡したのです。
この女の子の中学入学を拒否した中学校の校長、教頭、そして教育委員会。
こんな人間たちは教育の現場にいてはならないのです。極悪、といっても言い過ぎではないヤカラです。
「標準以上の子供たちだけを集めてスタンダードなカリキュラムだけを消化する」のであれば、教師などいらないのです。職場放棄、仕事放棄にも等しいこうした教育者たち。もはや「教育の目的」さえも喪失してしまったかのようです。
学校こそ「不平等の素晴らしさ」を学ぶ格好の場所なのです。
「平等の不平等」。平等が却って不平等を生み出している、とでも言っているようです。
タンポポはやがて枯れて種子をつけた綿毛になります。この綿毛が風や鳥によって運ばれて、別な土地で再び花が開く。まるでタンポポの生まれ変わりですね。
これをひたすら繰り返しながら自然を構成しているのです。これが自然界のオキテです。
人間も、ひょっとしたら、このようにしてこの世に生を受けるのではないか。輪廻転生と言ったりしていますね。カルマと因果律によって、あるべきところに生まれ出てくる。
だから、三歳にして突然ピアノを引き出したり、10歳にして数学の天才と言われたり、こうしたことも過去世の何代にもわたって、ひとつのことを学習し続けてきた結果に過ぎないのではないか。
よく天才児のことを「突然変異のなせるわざ」などといったりします。
確かに医学的に見ても特別な染色体を持っていたりします。
西洋占星術師などにホロスコープを作ってもらうと、これも確かに「天才の星の配置」になっているのです。
でも、こうした現象は「因」があって、それが反映しているだけなのです。自然界の「しるし」です。
こうした天才児が、その後の人生において満足のいく幸福な人生を歩んでいるか、というと、そうでない場合のほうが多いようです。
人を管理したがる「ある種の人たち」は、「平等」という虚構をあたかも素晴らしいことのように喧伝し、人々の心に刷り込んでいくのです。
繰り返しますと、「平等」などは人間のご都合主義で人工的に創作されたものです。最初から「平等」などというものは存在せず、ただの幻影にすぎません。
「不平等」が本来のあるべき姿で、これを歪曲し、あたかも「いけないこと」のような教えてきたのです。
「不平等」が自然なのに、「平等」という檻の中に閉じ込めてしまう不自然。やがては活力をなくして病気になってしまうでしょう。今の教育の現場、家庭がまさにその危機に瀕しているのです。
それぞれが違うもので、違うからこそ厄介で、その厄介さの必要性を理解し工夫して付き合っていくこと。これが人間の智恵というものではないでしょうか。
これを心底理解することによって「不平等」という概念も虚構であることに気づき、何より「不平等」という「罠」の恐ろしさが分かるのではないでしょうか。
つまり、「平等」は虚構。「不平等」という概念も「差異」を人間の都合のいいモノサシで言い換えものに過ぎません。
「差異」、「違い」の素晴らしさが本当に理解できたときに、「不平等」という言葉自体もなくくなるでしょう。
あるのは「違い」だけ。「違い」から学べるのは知恵者。「違い」を利用するのは悪人。この「悪人」からさえ学ぼうとする者は聖者。
こんなこと、私には到底無理なことです。一生凡俗で結構。それはそれなりに楽しく生きていきます。心の中で感じるしか「手」はないです。