(ハムケ)横浜だより  NO87  2008.12.12発行

 もう一つの国籍条項―外国人教員・公務員採用と在留資格― 信愛塾スタッフ  大石 文雄

 <ナヌムの家>からアンニョンハセヨ!(こんにちは!)    近藤 和枝 

 心を澄まして―韓国スタディツアーに参加して―        片山 美乃



もう一つの国籍条項  ―外国人教員・公務員採用と在留資格―

信愛塾スタッフ 大石 文雄

 父母が中華街で料理人として働いている人の子どもが教員採用試験に受かった場合、はたして学校の先生として採用されるのか?

 ここ数年、信愛塾ではこの問題が大きな課題になっていた。
今年の9月、神奈川人権センターの主催で県内自治体との交流会がもたれた。せっかくの機会だったので質問という形でこの問題を投げかけてみた。ところがこの問いにまともな答えは一つも返ってこなかった。自治体の関係者にはこの問いが意味しているところがよく理解してもらえなかったようだ。96年に川崎市が公務員採用における国籍条項を撤廃し指定都市や県においても任用制限付ではあるが外国籍の人も受験が出来るようになったということは多くの人が知るところである。ところがこの募集要項の中に今ひとつの国籍条項ともいえる在留資格条項が付けられていた。それは「日本での就労が制限されている在留資格の人は採用されません」という一文である。これは教員採用においても同じであった。
例えば父母が外国料理の料理人として入国した人は「技能」という在留資格を与えられる。入管法上では「産業上の特殊な分野に属する熟練した技能を要する業務に従事する活動」と記されている。そしてその子どもたちは「家族滞在」という在留資格になる。問題は「家族滞在」や「留学生」や「研修生」などの在留資格では日本での労働が制限されているため、就職したくても「働いてはいけない」という人間の生存権を否定するような入管法上の制約下に置かれていたのである。
 
 96年当時、いわゆる「ニューカマー」と言われる人々の問題は勿論存在してはいたが、公務員や教員の受験という具体的な問題には直面していなかった。ところがそれから10年を経た今、状況はまったく一変してしまった。それは在日外国人の「質」の変化、つまり在留資格という法的地位上の変化である。70年代・80年代において在日外国人と言えばそのほとんどが特別永住資格を有した朝鮮半島や台湾にルーツをもつ人々を意味していたが、今や215万人を超す在日外国人のその大半は80年代の末からアジアの近隣諸国や南米から日本にやってきた人々である。信愛塾に来ている子どもたちを見ても在日韓国・朝鮮人の子どもたちのほとんどが大学生以上の年齢で、今通ってきている大学生・高校生・中学生の多くは在日歴1年から20年の「ニューカマー」の子どもたちである。そして今やこの子たちが就職の時期を迎えるようになったのである。そこで最初に掲げた質問が出てくるのである。
 
 実はこの質問を今から3年前に横浜市教委に投げかけたことがあった。すると当時の人権担当のある係長がこれを真剣に受け止めてくれて次のような回答を示してきた。それは教員採用試験に合格したら採用見込みの証明書を出すので、これを持って出入国管理局に行き在留資格の変更手続き(例えば家族滞在→教員)を行うことによって教員として採用されるというものであった。(そしてそれ以降これが横浜市教委の正式回答となった。)
 
 ところが問題はそこだけで終わらなかった。そこにはもう一つの疑念が残っていたからだ。それは入国管理局が実際問題として在留資格の変更をそう簡単に認めてくれるかどうかということであった。そこでこの9月に東京入局管理局に問い合わせをしてみた。ところが、驚くべき回答が返ってきた。公務員や教員の採用試験に合格した場合、在留資格の変更は(混んでなければ)2週間ぐらいででき、教員の場合は「教員」という在留資格に、公務員の場合は(大卒資格が前提ではあるが)「国際人文」という在留資格に変更が出来るというのである。(東京入国管理局就労審査部門回答)
 
 これを受けて自治体職員採用については県や横浜市や川崎市に、教員採用においてはそれぞれの教育委員会に回答を求めた。その結果11月末に県教委から「採用は可能」という正式回答が届いたのである。「就労制限の外国人」においても「採用試験に合格の証明書を持参して入国管理局で在留資格を変更すれば教員採用が可能」(12月1日付神奈川新聞)になったのである。

 ただこれでこの問題が全てクリアーされたと言える状況にはまだなっていない。横浜市や県の自治体職員採用についての正式回答はいまだ届いていないからである。多くが完璧なバイリンガルでもある優秀な人材を、企業であれば真っ先に確保しようとするのに、いつまで経っても採用すら出来ないのが今の自治体の現状である。はっきり言って自治体の姿勢が厳しく問われ続けているのだ。在日外国人との「共生」は共に生きる、つまり共に働くことをなくしてはあり得ないのに・・・である。

                         



<ナヌムの家>からアンニョンハセヨ!(こんにちは!)


近藤 和枝 

★今ナヌムの家に滞在しています。今年の4月末に初めて来てから5回目の訪問で、今回は2週間滞在します。ここでの様子と感じたことをお伝えします。
2008年12月8日(月)

 <ナヌムの家>は太平洋戦争末期、日帝<日本帝国主義>によって性的犠牲を強いられた元日本軍「慰安婦」の被害女性たちが集まり生活している場です。1992年10月、ソウル市西橋洞で初めて<ナヌムの家>開院式を行うことになりました。以後、明倫洞、恵科洞での活動を経て、1995年12月、京畿道広州市退村面に高齢者居住福祉施設を新築しました。 (パンフレットより)


11月29日(土)
 金浦空港から地下鉄5号線、2号線で江辺駅へ。そこからバス、タクシーを乗り継いでナヌムの家に午後7時過ぎ到着。Aハルモ二が「遅かったね。ご飯は食べたの」と言い、立ち上がって自分の部屋に帰る。そっけない感じで話すが、実はさりげなく心配して待っていてくれたのだ。(ハルモニ…おばあさんと言う意味。親しみと尊敬の意味をこめてハルモニと呼ぶ。) 

11月30日(日)
 冷え込むと聞いていたけれど、オンドルのお陰で気持ちよく眠れた。けれど外は畑に霜が下り、水溜りは凍っている。久しぶりの食後の片付けはスムーズに進んだ。次は掃除だが、日曜の朝から掃除機をかけたらうるさいだろうからちょっと休むことにする。9時半頃、ソウルで働き時々ボランティアに来る日本人Hさんが到着。一緒に掃除と犬のタンギョル(団結という意味)の散歩をする。
 午後はBハルモ二が入居。荷物整理を手伝う。一段落したところへ他のハルモニが早速訪問。故郷が同じと言う二人は笑顔で手を取り合い、抱き合う。見ている私も嬉しくなる。夕食でも皆が歓待し会話が続いていた。
 夕食前後、ほんの少し事務所でお手伝いをする。7時にHさんはソウルへ。アンニョン(さようなら)。約一ヶ月半ぶりの再会だった。

12月1日(月)
 師走初日。朝はマイペースで皿洗いと掃除。合間にCハルモ二の話を聞く。兵役代わりに仕事に来ている学生たちがゴミ集めをしてくれた。昼は近所のオモニ4人が食事の準備と片付け。皆さん本当にありがとう。昼食後は事務所で名刺整理をする。
 Cハルモニの姿が見えないと思っていたら、証言会に出るため済州道へ出かけたとのこと。調子が悪く食事がのどを通らなくても証言会には出かけていくハルモニ。戻るとまた寝込んでしまうこともある。自分の身に起きた話をすることがどれだけ辛いことなのか、、、。自分たちと同じ辛い思いをさせたくない、平和な世の中であってほしいという強い願いがあるからだ。

12月2日(火)
 掃除の途中Dハルモ二の部屋でミニ交流があった。中国語、英語、韓国語、日本語あり歌あり笑いありの楽しいひと時を過ごした。
 名刺整理をしていると日本の多方面から見学に来ていることが分かる。夕方にも名古屋から4名。ここに来られない、もしくはここを知らない人たちにどう伝えていくかが大きな問題だ。 
 午後、Cハルモニが戻る。日々の生活では声高にものを言うわけではない。けれども強い思いを抱え、だからこそ体に鞭打ちながらも活動を続けているのだ。ハルモニたちの傍にいるとその思いを痛いほど感じるときがある。例えば、体の具合を話すときに出る言葉が「でも私は200歳まで生きるよ。日本政府が謝罪するまでね。」。日本政府が時間稼ぎしていることを見抜いている!

12月3日(水)
 水曜集会。今年から冬の間ハルモニは参加しない。ということで、ナヌムの日本人研究員村山一兵さんとソウルへ向かう。途中の江辺まで、故郷に行って来るEハルモニと同行。バスの中で話しかけると、故郷や兄弟のこと等を日本語交じりでこたえてくれた。私の手をとって自分の手を合わせ、もう一方の手でさすりながら笑う。(私たち同じだね)というように。お土産のいっぱい入った大きなバッグを背負い、しっかりした足取りで次のバスへと向かっていった。心はもう故郷へ飛んでいるようだ。チョーシマセヨ(お気をつけて)。
 日本大使館前は中学生が大勢参加し賑やかだった。自作のパネルを掲げ歌ったり踊ったり、、、大使館から車が出るとプラカードを振ってキゃーッと叫び、、、5月のろうそくデモを思い出すひとこまだった。ハルモニたちが強制連行されたのはこの年頃、ハルモニがいつも言う言葉「若い人たちが再び被害を受けない平和な世の中に」を想う。この集会はハギハッキョと同じ年1992年に始まり、16年間ほとんど毎週開かれ、今日現在で842回になる。ハギハッキョは、いまだ偏見と戦うなど困難を抱えてはいるけ
れど、時間の積み重ねとともに子供たちがお互いを認め合い新しい世界を作っていく方向が見えてきている。水曜集会も広がりを見せ、日本人や若い世代が増えているようだ。ではハルモニたちの願いはどうだろう。日本政府に謝罪を求めるのは、事実を認め、同じ過ちを繰り返さないで欲しいからだ。けれどまだ解決していないのだ。参加して分かったことだが、ここでは水曜モイム(集会)ではなく、水曜シーウィ(示威・デモ)と言う。解決を目指す固い意志が伝わってくる。
 ナヌムの家に戻ると、ハルモニが「今日は暖かいから行けたのに。寒いと具合が心配だとか言って、、。」とぶつぶつ言う。行きたかったんだよね。

12月4日(木)
 朝から雨。朝食を食べにこないハルモニを呼びに行くが返事がない。しばし考え思い当たる。昨日夕食の場で口喧嘩した人と顔を合わせたくないのだ。一緒に暮らしていれば衝突もある。でもまたすぐに回復する。文句を言い合いながらも、お互いの意見を尊重しながら生活している。今日も夕方には元通りの食事風景になった。
 昼に美容のボランティアが訪れる。美容師の資格を取った主婦たちがナヌムの家などを回っているそうだ。髪をカットしてもらったハルモニたちは会う人ごとにイェップダ!(かわいい!)と言われ、顔がいっそう輝く。本当に可愛い。

12月5日(金)
 体の芯まで寒さがしみる。誰もが挨拶より先にチュオッ、チュオッ(さむさむっ)と言うくらいだ。今頃になって「掃除をしますか」ではなく「掃除しますね」の方がいいと気付いた。ハルモニは遠慮するから。できるだけ話しかけるようにし、かかわりが増えると楽しい。なんだかんだで10時過ぎまでかかった。初めのころはコチコチだったなあ。私が変わったからハルモニも心を開いてくれたのだと思う。
 ここでは様々な形のボランティアがあり、食材を持ち込みで料理し、ともに食べ、片付けをして帰る人々もいる。その中に日本語を話す人がいた。80歳、子供の頃学校で田中先生、佐藤先生から習ったという。私の横座りを見て、日本の座り方ねと笑う。話が弾んだが、植民地時代は辛かっただろうと思うと、チクリと胸が痛い。ここにかつての歴史事実につながるものがある。「日本語がお上手ですね」で終わらせず、早く話せるようになって沢山の思いを聴けるようにしたい。

12月6日(土)
 初めてチンジルバンへ。近くに行くのだと思ったら、なんと旅行案内書にも出ている利川のミランダホテルだという。車内を流れる音楽に合わせて隣のFハルモニとリズムを取るうち、いつの間にか手をつないでいた。それからずっと一緒に行動する。大きな風呂や休憩室を十分に堪能した。ハルモニ5名、運転や介助をする人が7名、そして私、総勢13名のちょっとした団体旅行&裸の付き合いだった。帰る途中で夕飯を取ったが、食後また車に乗ったのでハルモニたちは疲れたようだ。
  
12月7日(日)
 朝8時頃から雪が降り始めた。年末恒例の「ナヌムの家支援者の集い」がソウルで開かれるのに大丈夫だろうかと心配になる。早めに昼食を取って出発し、鍾路にある曹渓寺に向かう。信愛塾韓国スタディツアーで泊まったサモーモテルの隣だ。雪は止んでいる。一部は一年間の報告とお礼、二部はキムドンウォン監督の新しいドキュメンタリー映画「終わらない戦争(63years on)」を見る。証言者の話とともに映し出される映像には目を背けたくなる生々しい場面があった。しかし、私たちは目を逸らしてはいけない。歴史事実をしっかりと受け止め、考え、行動していかねばならない。けれども参加したハルモニにとっては堪えがたいものではなかったろうか。現に一人気分が悪くなったようだ。会場では、スタディツアーでお会いした金英丸さんに再会できた。4時開会、7時前終了。また雪が降っていて、1cmくらい積もっている。その後食事をし、帰ってきたときは9時近かった。連日の遠出でハルモニたちはさすがに疲れた様子だ。でもお互いへの労りを忘れず支えあって歩く。お疲れさまでした。

 日々の暮らしは穏やかに過ぎています。ハルモニたちは今を一生懸命に生きています。ただ、自分で選んだのではない、強いられた過去があり、今もその痛みは続いているのです。納得できない部分をきちんと明らかにしたいと言う願いは、人として当然の要求ではないでしょうか。また、歴史事実を教えられない子供たちも不幸です。例えば国際都市横浜を目指すなら、正しい認識のもとに他国の友達と付き合うことが必要だと思います。
 「小さなことでも、自分のできることから始めよう」「平和に向けて連帯しよう」。これは活動を始めている朴菖煕先生(ハムケ横浜だよりNo.85)や金英丸さんの言葉です。ナヌムの家の人々ともに、自分にできることを始めている人とともに、これから始めようとしている人とともに、連帯して行くつもりです。
 ハルモニが「今度いつ来るの」と聞きます。来年また来ます。
皆さんもご一緒しませんか?一人でいらしても、言葉が不自由でも大丈夫です。人と人として付き合うからです。ぜひハルモニたちに会いにきてください。
  
 <ナヌムの家・日本軍'慰安婦'歴史館>
 連絡先:大韓民国京畿道広州市退村面元堂里65
 ホームページ:www.nanumu.org
 電話: 事務所 +82−(0)31−768−0814 
     研究員 村山 一兵さん +82−(0)10−4229−1980 




心を澄まして

ー韓国スタディツアーに参加してー
2008.10.12〜10.15

片山 美乃

10月12日(日)
 13:30成田発アシアナOZ101便で16:00仁川(インチョン)に到着。そのまま高速バスで約1時間、もうソウルの中心地。YMCAバス停で降り鐘路(チョンノ)タワー近くのホテルへ。
ここは曹渓寺(チョゲサ)の隣であり、夜遅くまで静かに読経する声が聞こえ厳かな気持ちになり、朝は5時にもなるとまた読経が始まりちょっと目が覚めかけるホテルである。なぜかお寺の周辺には怪しい人々がウロウロ。食事に行くと大通りにはパトカーが一晩中チカチカ。「何だろう?」と思っていたが、2日後にはこれが明らかになる。

10月13日(月)
 この日は忙しかった。
朝食を済ますと、すぐに富川(プチョン)へ向かった。ソウル駅から京仁(キョンイン)線に乗り、一路富川へ。景色は華やかな都会からだんだんと下町風に。「川崎みたいね」と言っていたら、川崎市とはずっと交流しているそう。中小の工場も多く、労働者・普段着の人も多い。
 駅まで迎えに来てくれて、案内されたのは真新しい明るい建物だった。ここで「富川市民連合とは?」という話を聞いた。
この会は20年の歴史を持つそうだ。約20年前、各地域で運動が起こり、それが10年ほど前に「連合」となったそうだ。ここでは「学童保育」のような活動をしていた。肩書きのある人はともかく、担っているのは30代の女性たちだった。活動は「学童保育」をしながら、女性の人権・日本軍「慰安婦」の問題・水曜集会参加・ミヤンマー井戸掘り支援・・・・と多岐にわたっている。
 昼食をはさんで、次に行ったのが地平教会の行っている「脱学校(日本で言う『不登校』)の子のための学習施設。
7人の中学生と若い先生がいた。中学卒業の資格試験を受け、資格を取るらしい。ほとんど話す時間も無く部屋を出たが、その広々とした学習室の隣も広々としていて「いいチャンゴ」が山積みされていて「いいプク」も何個もあった。時々演奏しているのかな?学習室は地下だったので階段を上がって行き、教会(礼拝堂)に案内された。「無限朝鮮」の文字がある。あの中学生たちも無限に挑戦し、テレビ番組の「無限挑戦」からは資金援助をしてもらっているそうだ。
 韓国でも脱学校(不登校)の子は増えているらしい。日本より教育熱心と聞くが、子供たちの心に何が起こっているのだろうか?この問題ももっと話し合ってみたかった。
 次に訪れたのは「外国人労働者の家」。
休みであるにもかかわらず私たちのために出勤してくれた女性は親切に説明してくれた。88年オリンピックの頃からは外国人が多くなった。政府が力を入れているのは結婚した女性にかたよっている。女性たちはロシアや東南アジアから結婚のために来ている。韓国人にはなるが彼女たちの母国の言葉・習慣などがそんなに尊重されていないようだ。山本すみ子さんと顔を見合わせる。「あれっ、(鶴見で私たちが出会った人々に)似ていますね。」オーバースティの人々が年々増えている。3年契約で入国するが、入国するのにかかる金が3年では返済できず、オーバースティになる人が多い。中には子供のいる人もいるが、バレるのを恐れて親が学校に行かせたがらない。学校に行かせても、韓国の教育熱心さに適応できない子が落ちこぼれになりやすい。・・・・そしてここも短時間の訪問に終わった。(14:00〜14:30)
 ソウルに戻る。江辺(カンビョン)−バスー広州(カンジュ)−タクシーーナヌムの家。
富川で交流している間に時間はどんどんたってしまい、ナヌムの家に着いたのは日が落ちてから。予定では3時までに着いて、夕飯を一緒にし、5時からはハルモニたちと会食をすることになっていたのだが・・・・。既に暗くなっていたが、展示ケースに入った7人のハルモニの写真と年齢・プロフィールが歴史館の壁にかけられていて、ガラス越しにしっかりと見ることができた。今年の初めには9人だったが、2人亡くなったとのこと。ハルモニの声(叫び)を聞き、訴えをしかるべきところへ届けさせるのも時間との戦いであることが身にしみて感じられた。
 ハルモニたちの住まいの一角にある素敵な六角形の三階屋に泊めていただくことになった。私たちが話していると一人のハルモニがやってきた。悲春姫(ペチュニ)ハルモニである。悲春姫ハルモニは昼間外出して疲れていたのに、われわれの夜のミーティングに参加してくださった。丸くなって座っているところにゆったりと現れた。誰かが懸命に韓国語で話そうとすると、「日本語いいよ」(あとで伺ったのだが、日本に30年も住んでいたのだそうである。)私たちのあちこちに飛ぶ話もゆったりと聞いてくださり、「大東亜戦争は間違っていたね。」「今はいろんな物があるけど、昔は情で生きていたね。」と穏やかに話す。何回も2週間ずつボランティアに来ている近藤和枝さんが「歌が上手なのよ。」というと、嬉しそうに笑って、「でももう遅いから今日は歌えない」と。美声が聞けずちょっと残念だった。ハルモニと話している途中で、仕事が一段落したと言って、二人の若者が話に加わってくれた。一人はここに3年いる研究員の村山一兵さん、もう一人はピースボート交換留学生のNさん(女性)、若い世代が前向きに生きている姿もすがすがしいものでした。
 1時間ほど歓談して、ハルモニは部屋の方に戻った。プロフィールには絵も歌もプロ並み。ナヌムの家の庭にはハルモニが描いた作品が敷き詰められている。歌を愛し仏様を信じるハルモニ・・・・とありました。

10月14日(火)
 静かな朝。はっとして眼を覚ますと誰もいない。(7時)近藤さんはハルモニたちの住まいのお掃除などせっせと働き、他の人々は数人ずつで周囲の畑の道を散策。心静まる中にナヌムの家はあったのです。
 もう一度ハルモニたちの写真・プロフィールを見に階下へ。私たちの身体に刻みつけたくて一人一人見ていく。81歳のカン インチュル ハルモニから90歳のパク オンリョン ハルモニまで、みな高齢であり、私の母の世代である。この後ろに2000名の名乗りでた女性。その後ろに何らかの事情で名乗り出られない女性たちがいる。みな80歳に近いか、80歳を超えていることであろう。
 朝食後、歴史館の見学。村山一兵さんの説明は建物の名前についてから始まった。自分の意思で「慰安」させたのではなく、「性奴隷」として日本軍に強制されたのが真実である。しかし、「従軍慰安婦」という一般に流布した言い方がある中で、「日本軍慰安婦」で落ち着いたこと等が話された。ここから「日本軍慰安婦歴史館」の見学は始まった。
 地図に示された「慰安所」。1991年8月「ここに慰安婦にされた人間がいます。・・・・16歳の私をかえしてください。」と、金学順(キム ハクスン)ハルモニが名乗りでた当時の写真と言葉にここでもう一度出会った。軍が関与した証拠。金(かね)として渡され、戦後紙切れとなった軍票。戦争を起こした人々は無責任であった。再現された「慰安所」は板の間にベッドと手を洗う洗面器のみ。窓も家具も花も無い。
 最後に行ったのは、ハルモニたちの作品が展示してある空間。「絵は説明しません。」自分で感じることをすすめられた。ハルモニたちの作品に接すると、一枚一枚から、つらい体験から昇華しようとするものが私にも伝わったのです。美しいのです。
 一時間半かけて見学し外に出ると、ハルモニたちがいろいろな形で見送りに出てくれていた。ボランティアの女性の方と日向ぼっこをする形で、二階でゆっくり外を眺める形で、悲春姫ハルモニは石段に座って「何日も泊まっていけばいいのに。」ありがとうございます。さようなら。
 来た道を逆に辿り、江辺へ。ここからは夕方まで自由行動。
 ・夜ー韓国併合に激怒した国務大臣が身の丈ほどの剣で腹をかっ切って自害した剣と衣服の像。
 ・朝ー3.1独立宣言した人々の絵。
 ・北村(プクチョン)でー韓国併合に抗議して自害した白(ペク)氏の遺跡と次々と歴史を垣間見るところに遭遇した。

10月15日(水)
 
仁寺洞(インサドン)の通りをちょっと横に入ったところにその建物はあった。そこで、金英丸(キム ヨンファン)氏と交流。一目見たとき、お互いどこかで会っていると感じた。私はトイレに入り落ち着くと、数日前の新聞(朝日新聞「在日」という未来K)で写真を見て知ったつもりになっていたことに気づいた。しかし、金英丸氏は「オモニ、どこかの集会で会っていませんか?」最後まで日本で会ったと言う。きっと似た人がいたのであろう。話していると私たちのよく知る在日とは「オンニ」「弟」と呼ぶ仲であることもわかった。
 金英丸氏が今取り組んでいるのは「平和博物館建設」であった。彼は日本語が堪能で通訳が全く必要なかった。日本語で書かれたレジュメを渡され、北海道の遺骨収集から帰ってはじめたのは「平和の感性を育てる運動」であるという。2000年前後に始まった「ごめんなさい、ベトナム」運動が出発点であったという。ー私は全く知らず恥ずかしかった。韓国軍がベトナムに参戦していたことぐらいしか知らなかったのであるから。※帰国後、元兵士の証言集を読んだが、ポツリポツリと語るのは戦場に借り出された兵士がベトコンかどうかもわからず、殺さなければ自分が殺されると思い犯してしまう(殺してしまう)姿であった。
 現在、良心的兵役拒否者は約1000名いる。(多いですね)宗教的信条(エホバの会)からの人が多いが、そうでない人も出てきている。※これは韓洪九「韓国現代史」に詳しく書かれていた。
 彼は「平和の種」と表現するが、元日本軍「慰安婦」被害者の二人のハルモニ(ムン ミョングム、キム オクジュ)の寄付が平和博物館建設の一つの出発点になっているという。とても心に響くことであった。現在も幅広く活動しているようである。その日展示してあった絵も「広く見れば平和につながる」作品であった。「子どもの本」巡回展も全国で行っているという。そして、それだけではなく、私たちが「えっ。」と驚いたのは統一部の許可があれば、北朝鮮へも行き来ができるということ、現に平壌(ピヨンヤン)に3泊4日で250人も行っているという。年間でいうと3万人もの人が北朝鮮を何らかの形で訪れているという事実。また、韓国の家を朝出て北朝鮮の開城(ケソン)で1日(8時〜5時)働いている人たちがいるという事実。「統一」に向けて地道な努力は続いているのだなあとしみじみ思った。
 「反戦平和」の中心に韓国人原爆被害者の人権に目を向けた活動も入っていた。時代を動かしていく視点、そしてその底にある「人」に優しいまなざしを感じたのです。
 話が終わると、曹渓寺を突っ切り、水曜集会へ。
ところがここで警察に追われながらテントに篭城している青年たちに会ったのです。韓国では寺は警察の入れない聖域。そのため周りで私服がウロウロ。私たちのホテルの前までウロウロだったのです。「ガンバレー」「ガンバッテネー」と日本語で言っても、そこは気持ちが通じて、中からは「オー」と反応が返ってきました。政府が狂牛病の肉を輸入したときの反政府行動の中心的人物と目された人たちが追われているのだとか。
 いよいよ水曜集会へ。私は初めてだったが山本さんは何回目かのようだった。住職とともにしっかりと座って日本大使館に向かっている7人のハルモニたち。大勢の支援者の中にはシスターも外国から来た人たち(日本人の団体も)もいて、次々と発言。そして、金英丸氏の案内で仁寺洞近くのクッパとチヂミのおいしい店へ行き、腹いっぱい食べました。マシッソヨ。
14:30 仁川国際空港行きのバスに乗り、17:10発アシアナで成田へ。
4日間とも雨に遭わず、秋のすがすがしい空の下での行動でした。
⇒スタディツアーの写真をこちらに掲載しています。