心を澄まして
ー韓国スタディツアーに参加してー2008.10.12〜10.15
片山 美乃
10月12日(日)
13:30成田発アシアナOZ101便で16:00仁川(インチョン)に到着。そのまま高速バスで約1時間、もうソウルの中心地。YMCAバス停で降り鐘路(チョンノ)タワー近くのホテルへ。
ここは曹渓寺(チョゲサ)の隣であり、夜遅くまで静かに読経する声が聞こえ厳かな気持ちになり、朝は5時にもなるとまた読経が始まりちょっと目が覚めかけるホテルである。なぜかお寺の周辺には怪しい人々がウロウロ。食事に行くと大通りにはパトカーが一晩中チカチカ。「何だろう?」と思っていたが、2日後にはこれが明らかになる。
10月13日(月)
この日は忙しかった。
朝食を済ますと、すぐに富川(プチョン)へ向かった。ソウル駅から京仁(キョンイン)線に乗り、一路富川へ。景色は華やかな都会からだんだんと下町風に。「川崎みたいね」と言っていたら、川崎市とはずっと交流しているそう。中小の工場も多く、労働者・普段着の人も多い。
駅まで迎えに来てくれて、案内されたのは真新しい明るい建物だった。ここで「富川市民連合とは?」という話を聞いた。
この会は20年の歴史を持つそうだ。約20年前、各地域で運動が起こり、それが10年ほど前に「連合」となったそうだ。ここでは「学童保育」のような活動をしていた。肩書きのある人はともかく、担っているのは30代の女性たちだった。活動は「学童保育」をしながら、女性の人権・日本軍「慰安婦」の問題・水曜集会参加・ミヤンマー井戸掘り支援・・・・と多岐にわたっている。
昼食をはさんで、次に行ったのが地平教会の行っている「脱学校(日本で言う『不登校』)の子のための学習施設。
7人の中学生と若い先生がいた。中学卒業の資格試験を受け、資格を取るらしい。ほとんど話す時間も無く部屋を出たが、その広々とした学習室の隣も広々としていて「いいチャンゴ」が山積みされていて「いいプク」も何個もあった。時々演奏しているのかな?学習室は地下だったので階段を上がって行き、教会(礼拝堂)に案内された。「無限朝鮮」の文字がある。あの中学生たちも無限に挑戦し、テレビ番組の「無限挑戦」からは資金援助をしてもらっているそうだ。
韓国でも脱学校(不登校)の子は増えているらしい。日本より教育熱心と聞くが、子供たちの心に何が起こっているのだろうか?この問題ももっと話し合ってみたかった。
次に訪れたのは「外国人労働者の家」。
休みであるにもかかわらず私たちのために出勤してくれた女性は親切に説明してくれた。88年オリンピックの頃からは外国人が多くなった。政府が力を入れているのは結婚した女性にかたよっている。女性たちはロシアや東南アジアから結婚のために来ている。韓国人にはなるが彼女たちの母国の言葉・習慣などがそんなに尊重されていないようだ。山本すみ子さんと顔を見合わせる。「あれっ、(鶴見で私たちが出会った人々に)似ていますね。」オーバースティの人々が年々増えている。3年契約で入国するが、入国するのにかかる金が3年では返済できず、オーバースティになる人が多い。中には子供のいる人もいるが、バレるのを恐れて親が学校に行かせたがらない。学校に行かせても、韓国の教育熱心さに適応できない子が落ちこぼれになりやすい。・・・・そしてここも短時間の訪問に終わった。(14:00〜14:30)
ソウルに戻る。江辺(カンビョン)−バスー広州(カンジュ)−タクシーーナヌムの家。
富川で交流している間に時間はどんどんたってしまい、ナヌムの家に着いたのは日が落ちてから。予定では3時までに着いて、夕飯を一緒にし、5時からはハルモニたちと会食をすることになっていたのだが・・・・。既に暗くなっていたが、展示ケースに入った7人のハルモニの写真と年齢・プロフィールが歴史館の壁にかけられていて、ガラス越しにしっかりと見ることができた。今年の初めには9人だったが、2人亡くなったとのこと。ハルモニの声(叫び)を聞き、訴えをしかるべきところへ届けさせるのも時間との戦いであることが身にしみて感じられた。
ハルモニたちの住まいの一角にある素敵な六角形の三階屋に泊めていただくことになった。私たちが話していると一人のハルモニがやってきた。悲春姫(ペチュニ)ハルモニである。悲春姫ハルモニは昼間外出して疲れていたのに、われわれの夜のミーティングに参加してくださった。丸くなって座っているところにゆったりと現れた。誰かが懸命に韓国語で話そうとすると、「日本語いいよ」(あとで伺ったのだが、日本に30年も住んでいたのだそうである。)私たちのあちこちに飛ぶ話もゆったりと聞いてくださり、「大東亜戦争は間違っていたね。」「今はいろんな物があるけど、昔は情で生きていたね。」と穏やかに話す。何回も2週間ずつボランティアに来ている近藤和枝さんが「歌が上手なのよ。」というと、嬉しそうに笑って、「でももう遅いから今日は歌えない」と。美声が聞けずちょっと残念だった。ハルモニと話している途中で、仕事が一段落したと言って、二人の若者が話に加わってくれた。一人はここに3年いる研究員の村山一兵さん、もう一人はピースボート交換留学生のNさん(女性)、若い世代が前向きに生きている姿もすがすがしいものでした。
1時間ほど歓談して、ハルモニは部屋の方に戻った。プロフィールには絵も歌もプロ並み。ナヌムの家の庭にはハルモニが描いた作品が敷き詰められている。歌を愛し仏様を信じるハルモニ・・・・とありました。
10月14日(火)
静かな朝。はっとして眼を覚ますと誰もいない。(7時)近藤さんはハルモニたちの住まいのお掃除などせっせと働き、他の人々は数人ずつで周囲の畑の道を散策。心静まる中にナヌムの家はあったのです。
もう一度ハルモニたちの写真・プロフィールを見に階下へ。私たちの身体に刻みつけたくて一人一人見ていく。81歳のカン
インチュル ハルモニから90歳のパク オンリョン ハルモニまで、みな高齢であり、私の母の世代である。この後ろに2000名の名乗りでた女性。その後ろに何らかの事情で名乗り出られない女性たちがいる。みな80歳に近いか、80歳を超えていることであろう。
朝食後、歴史館の見学。村山一兵さんの説明は建物の名前についてから始まった。自分の意思で「慰安」させたのではなく、「性奴隷」として日本軍に強制されたのが真実である。しかし、「従軍慰安婦」という一般に流布した言い方がある中で、「日本軍慰安婦」で落ち着いたこと等が話された。ここから「日本軍慰安婦歴史館」の見学は始まった。
地図に示された「慰安所」。1991年8月「ここに慰安婦にされた人間がいます。・・・・16歳の私をかえしてください。」と、金学順(キム
ハクスン)ハルモニが名乗りでた当時の写真と言葉にここでもう一度出会った。軍が関与した証拠。金(かね)として渡され、戦後紙切れとなった軍票。戦争を起こした人々は無責任であった。再現された「慰安所」は板の間にベッドと手を洗う洗面器のみ。窓も家具も花も無い。
最後に行ったのは、ハルモニたちの作品が展示してある空間。「絵は説明しません。」自分で感じることをすすめられた。ハルモニたちの作品に接すると、一枚一枚から、つらい体験から昇華しようとするものが私にも伝わったのです。美しいのです。
一時間半かけて見学し外に出ると、ハルモニたちがいろいろな形で見送りに出てくれていた。ボランティアの女性の方と日向ぼっこをする形で、二階でゆっくり外を眺める形で、悲春姫ハルモニは石段に座って「何日も泊まっていけばいいのに。」ありがとうございます。さようなら。
来た道を逆に辿り、江辺へ。ここからは夕方まで自由行動。
・夜ー韓国併合に激怒した国務大臣が身の丈ほどの剣で腹をかっ切って自害した剣と衣服の像。
・朝ー3.1独立宣言した人々の絵。
・北村(プクチョン)でー韓国併合に抗議して自害した白(ペク)氏の遺跡と次々と歴史を垣間見るところに遭遇した。
10月15日(水)
仁寺洞(インサドン)の通りをちょっと横に入ったところにその建物はあった。そこで、金英丸(キム
ヨンファン)氏と交流。一目見たとき、お互いどこかで会っていると感じた。私はトイレに入り落ち着くと、数日前の新聞(朝日新聞「在日」という未来K)で写真を見て知ったつもりになっていたことに気づいた。しかし、金英丸氏は「オモニ、どこかの集会で会っていませんか?」最後まで日本で会ったと言う。きっと似た人がいたのであろう。話していると私たちのよく知る在日とは「オンニ」「弟」と呼ぶ仲であることもわかった。
金英丸氏が今取り組んでいるのは「平和博物館建設」であった。彼は日本語が堪能で通訳が全く必要なかった。日本語で書かれたレジュメを渡され、北海道の遺骨収集から帰ってはじめたのは「平和の感性を育てる運動」であるという。2000年前後に始まった「ごめんなさい、ベトナム」運動が出発点であったという。ー私は全く知らず恥ずかしかった。韓国軍がベトナムに参戦していたことぐらいしか知らなかったのであるから。※帰国後、元兵士の証言集を読んだが、ポツリポツリと語るのは戦場に借り出された兵士がベトコンかどうかもわからず、殺さなければ自分が殺されると思い犯してしまう(殺してしまう)姿であった。
現在、良心的兵役拒否者は約1000名いる。(多いですね)宗教的信条(エホバの会)からの人が多いが、そうでない人も出てきている。※これは韓洪九「韓国現代史」に詳しく書かれていた。
彼は「平和の種」と表現するが、元日本軍「慰安婦」被害者の二人のハルモニ(ムン ミョングム、キム オクジュ)の寄付が平和博物館建設の一つの出発点になっているという。とても心に響くことであった。現在も幅広く活動しているようである。その日展示してあった絵も「広く見れば平和につながる」作品であった。「子どもの本」巡回展も全国で行っているという。そして、それだけではなく、私たちが「えっ。」と驚いたのは統一部の許可があれば、北朝鮮へも行き来ができるということ、現に平壌(ピヨンヤン)に3泊4日で250人も行っているという。年間でいうと3万人もの人が北朝鮮を何らかの形で訪れているという事実。また、韓国の家を朝出て北朝鮮の開城(ケソン)で1日(8時〜5時)働いている人たちがいるという事実。「統一」に向けて地道な努力は続いているのだなあとしみじみ思った。
「反戦平和」の中心に韓国人原爆被害者の人権に目を向けた活動も入っていた。時代を動かしていく視点、そしてその底にある「人」に優しいまなざしを感じたのです。
話が終わると、曹渓寺を突っ切り、水曜集会へ。
ところがここで警察に追われながらテントに篭城している青年たちに会ったのです。韓国では寺は警察の入れない聖域。そのため周りで私服がウロウロ。私たちのホテルの前までウロウロだったのです。「ガンバレー」「ガンバッテネー」と日本語で言っても、そこは気持ちが通じて、中からは「オー」と反応が返ってきました。政府が狂牛病の肉を輸入したときの反政府行動の中心的人物と目された人たちが追われているのだとか。
いよいよ水曜集会へ。私は初めてだったが山本さんは何回目かのようだった。住職とともにしっかりと座って日本大使館に向かっている7人のハルモニたち。大勢の支援者の中にはシスターも外国から来た人たち(日本人の団体も)もいて、次々と発言。そして、金英丸氏の案内で仁寺洞近くのクッパとチヂミのおいしい店へ行き、腹いっぱい食べました。マシッソヨ。
14:30 仁川国際空港行きのバスに乗り、17:10発アシアナで成田へ。
4日間とも雨に遭わず、秋のすがすがしい空の下での行動でした。
⇒スタディツアーの写真をこちらに掲載しています。
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