飲む(アルコール)・打つ(賭博やギャンブル)・買う(性風俗)について、ワタクシは日本が世界でもっともゆるい国の一つだと思うのです。まあ文化的な背景もありますから、いい悪いはべつにして、我々はそういった異質性をある程度きっちり認識しておかないと、議論が間違った方向へ行ってしまう危険があると思います。 この飲む・打つ・買うという表現はやや普通より乱れた生活を表現するものだと思うのですが、これらを政策的に推し進めれば、その国民は堕落し、国力が弱まる、ということだろうと思います。 打つ:日本はおもてむき賭博禁止なんでカジノを作るためには法改正が必要らしいんですが・・・ http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101217-00000119-san-pol カジノ合法化って、え?日本はすでに合法化していると思ってました。日本のパチンコ屋はれっきとしたスロットマシーンを大量に擁するカジノでしょう。警察がきっちりとコントロールして繁華街の真っ只中で朝から晩までやってますし、子供だっていっぱい事実上うろうろしてますし、勝負に勝てば換金可能であることは皆さんご存知でしょう。景品交換所(換金所)は、下手すると出口のまん前にありますぞ。この状態がカジノ合法といわずして、何が合法?まあカジノよりもゆるいぐらいですね。違いといえばレート。大量に一気に賭ける仕組みがない、というだけでしょうか。 個人的にもギャンブルは嫌いではないので、カジノを促進するというアイデアそのものには基本的には反対ではないのですが、今の日本のこうした賭博というものへの考え方を一度きちんと整理してからのほうがいいのではないかと思います。せっかくカジノの合法化を議論するなら、パチンコ店がなぜ今これほどまで大っぴらに認められていて、そうしたものが日本の社会に与えた影響はどうだったのか?と言ったことを、「国益」も含めてきちんと再検討する必要があると思います。世界でも珍しいある意味「自由」である意味「恐ろしくいい加減」な国になっていると思います。これまで行った国で、通勤客が頻繁に利用する鉄道駅の周辺にこれほどまでカジノが林立している状態が普通となっている国はまずないと思いますので。 買う:最も日本が特異だとおもうのは、性表現の自由さ(と不必要なまでの過激さ)です。スポーツ新聞(ってこれもまた特異なカテゴリー)やタブロイド紙などで堂々と性的な話題が大見出しと写真入りで表示され、それが女性や子供が大量に乗っている通勤電車内で臆面もなく広げられているという事実。週刊誌(これもまた独特なメディアですね)が表紙のグラビアで露出度の高い女性の写真を大量に載せて、これもまた満員電車のなかで臆面もなく広げられていますし、中づり広告の過激さ(と低レベルさ)は今に始まったことではないのですが、ほとんど嫌がらせに近いと思います。どこの国でもポルノは制限されています。昔ソ連時代のロシアに行ったころ、ガイドが日本の空港で厳しく注意していましたが、日本の通常の週刊誌はほとんどロシアでポルノ認定され下手すると拘束されかねないから、捨てていくように、と言っていました。まあ今はそこまででないにしても、同じレベルの雑誌は海外ではほとんどアダルト扱いになると思います。 ギャンブルは個人的に嫌いではないと申し上げましたし、自分は人並み以上にスケベだと思いますけれど、子どもや社会に与える影響を考えた場合、一般論として社会がきちんとコントロールできるのかどうか改めて考え直す時期に来ていると思います。 最近話題になっている東京都の青少年保護育成条例の件で、批判を恐れずからんでみようと思います。たとえ漫画であっても過激な性的表現を含むコンテンツを子どもが自由に閲覧できる仕組みはあまり好ましいとはいえません。この改正案は当初描かれる対象が児童ポルノ同等の年少者である場合に性的表現を禁止しようとしたものと理解していますが、結果的に様々な議論を経て、ややあいまいな形になってしまったようですが、それはさておき。 こどもは一般的に未熟で、そういう柔らかな精神がそうした強烈な刺激に極めて弱く、大人がそれをしっかりと守るべきだと思います。漫画の規制の話は、確かにどこまで規制されるか、というあいまいさは残りますが、あいまいだから規制しなくていいというものでもありません。そして、ワタクシの理解する限り、規制と言っても陳列場所などを制限して18禁にするというだけで、発行そのものが禁止されるわけではない。 もちろん、表現の自由が原則として自由であり、より制限的でない規制に服すべきだというのは一般的に正しい。その根拠の一つは、結局のところ「言論」を戦わしてより正しい結論に導くのが民主主義の根幹としてあるからその一部の言論でも事前の規制にかからせることはバイアスとなって正しい結論への道が阻害されることになり、人々や社会にとって不都合である、というところにあります。もう一つは、表現行為そのものが「自己実現」に密接に関係しており、人としての大げさにいえば幸福追求にかかわる話だから、といえます。後者については、自己実現が他人の幸福追求を阻害しない限りにおいて、という制限が当然つけられるでしょう。前者は多少難しいですが、あくまで判断力をもち政治過程に影響を及ぼしうる有権者への情報到達が阻害されていない限り、問題はないはずです。 だとすれば、児童に悪影響を与えかねない表現は、他人の幸福追求を阻害する可能性があり、一方で大人がきちんと入手して判断できる仕組みが阻害されていない限り、制限に服すことはあり、と考えています。もちろん、その範囲が恣意的に決められる懸念はのこります。しかしその場合は事後的に堂々と争えばいいのではないでしょうか?作品を堂々とさらして、これが問題ありますか?と改めて世に問えばいいのです。萎縮効果、っていいますが、そんなヤワな表現者ならはじめからやめればよろしい。 表現者が純粋な気持ちで規制に反対するのはとっても良くわかるのですけれど、反対しておられた著名漫画家の方々の良質な作品など、到底そういう規制の対象にはならないでしょうし(そうなったらワタクシだってデモでもやりますよ)だれもそんなこと考えないでしょう。問題はそうでない、あきらかにどうでもいい悪影響しかないものが野放しで存在するということです。区別が恣意的になるって?そんなもん、検察審査会とおなじで、無作為で選んだ大人の8割ぐらいがそう思うなら、それはダメ、ということにでもすればいい。検察審査会なんて、人を死刑にすらできる。本来の芸術が見逃される?今の世代で認められず後世で認めてくれるかもしれません。我々現役世代はその都度それを判断すべきであり、将来の可能性は将来の方々にゆだねればよろしいというそれだけのことです。えーえー、どうせ見る目がないんですけれど、見る目のなさを処罰する法律はありません。 最終的に反対論は「そうした規制対象となるべきものの区別が恣意的になる」というところに尽きるのだとおもいますが、やはり子どもを持つ大人の多くが「有害」とまで判断するばあいはそれは大人の権利・義務として規制していくべきなのだと思います。性犯罪との因果関係がないとかあるとか、青少年の発育を阻害することの学問的知見がないとか、そういう議論は極めて矮小な議論です。問題は子どもとそれを育てる社会の「精神」の問題です。何十年もかかってから後悔するようなそういう次元の話です。ワタクシは親としてひどいと思い子供に見せたくないとい思うものは規制したいと思います。そして昔からの社会の知恵は、子どもにポルノを見せるな、ということであり、それは別に学問的研究以前の問題でしょう。大体この分野で青少年の発育を阻害することについての専門家の実証研究ってそもそも可能なんですか? 判断する組織の構成の仕方など成立後もまだまだ議論は続くのでしょうけれど、大いに議論して詰めてもらいたいし、不満な人はこれからも堂々と争ってもらいたいと思います。大島渚監督は愛のコリーダ事件で堂々と戦い、無罪を勝ち取りました。作品の芸術性や表現力が規制に勝ったということです。規制ともいえない今回のような規制を事前にがたがた言うより、表現者はその作品の内容で堂々と勝負してはいかがでしょうか?そしてどこまでが我々は社会として許容できるか、という一種のコンセンサスを作り上げることができれば、この規制の意味はあると思います。 話が広がりすぎましたが、日本が飲む打つ買うにたいして少なくとも先進国の中では国際的に寛容すぎるぐらい寛容な社会であるという事実を認識し、そのすそ野として今回対象となったような分野が成長していることを考えると、それについての再検討を行う時期に来ているのかもしれません。同時にこうしたことによって、多くの人の意見が政治や規制の場に反映されていないことを改めて認識するきっかけになるのかもしれないですね。 |
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円高で日本は瀕死らしい。笑
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ロンドンで怠惰な生活を送りながら日本を思... 2010/12/22 03:07 |
内 容 | ニックネーム/日時 |
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諸外国に比べて「緩い」というのはおっしゃるとおりでしょう。しかし問題はそういった「緩さ」がどのような実害を招いているかということです。 |
周平 2010/12/19 01:08 |
いわゆる「良識」を社会に反映させるのは難しい。 |
きん 2010/12/19 14:17 |
>大体この分野で青少年の発育を阻害することについての専門家の実証研究ってそもそも可能なんですか? |
学生 2010/12/19 22:50 |
東京都条例に関するコメントは,拍手喝采という感じです。実証的研究だけでは説明しきれない,社会の規律や道徳はありますよ。それを,価値観の持ち込みだ,立証されていない,等々といって,排除しようとする動きのほうが,社会の基盤を切り崩そうとする,憂慮すべき傾向なのではないかと思います。日本のこうした緩さは,将来高くつくと思いますね。というか,既にその代価を支払いつつあると思います。 |
いや 2010/12/20 23:11 |
周平さんコメントありがとうございます。今回のような表現の問題は、性犯罪云々ではないもう少し深い精神のような部分への影響ではないか、と思います。インターネットのようにすでに後戻りできないようなレベルまで事態が勝手に進んでいるようなものでも、それが長期的に人々の精神や社会へどのような変化の圧力をかけていくのか、わからないままやっているという怖さはあります。有害だという統計がないということは、必ずしも是認すべきということと同義ではないと思います。悪い可能性があるものは逆に安全性が確認されるまでとりあえずやめておく、というのは食べ物でも言えることだからです。 |
厭債害債 2010/12/20 23:24 |
性を否定しているのって、キリスト教みたいな一神教だけじゃないの?良識じゃなくて、単に教義の問題じゃないかと思ったりしていますが。まあ、グローバルスタンダード=キリスト教文化だと言われてしまえば、それまでですが。 |
うん 2010/12/22 00:03 |
いつもはROM専門で更新を楽しみにしています。 |
ばすくりん55 2010/12/23 23:22 |
うん、さんどうもです。確かにそういう面はありますが、やはり若年層と性の問題は慎重に扱うのが吉で、その経験則が多くの宗教での抑制につながっているという気がします。日本でも基本は「オヨメにいくまでは・・・」ですしね。(古いか)。 |
厭債害債 2011/01/21 00:19 |
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