Kunio Suzuki
鈴木 邦男
1943年福島県生れ。産経新聞社を経て、72年民族派の「一水会」を結成し代表となる。民族主義は穏やかな郷土愛に基づくボランティア的な活動に戻るべきだと論じる。著書に『これが新しい日本の右翼だ』など。
鈴木 邦男 さん(評論家)
右翼と聞いて何を思い浮かべるだろう。街宣車でがなり立てる怖い人。正直なところ「なんだかおっかない人たち」というのが、だいたいのイメージではないだろうか。「一水会」代表の鈴木邦男さんはそうした印象を持たれがちな右翼の中では異彩を放っている。歴史教科書問題が世の中を騒がせている今、鈴木さんは歴史をどう考えているのかお聞きした。
ええ、ハイジャックや連合赤軍といった立て籠もりに関する事件、偏向した歴史を教えていますよ。僕が歴史教科書を書くのなら、自虐的で立て籠もりの歴史を書きたいな。どだい、ひとつの歴史観で史実を学べというのは無理だし、それで解決つくとは思わない。
だから中国や韓国に日本の歴史教科書を書いてもらうのもいい。皇国史観や反日教科書だとか、そういうのがあっていい。
それなりに評価しています。というのも、いろんな教科書があっていいと思うから。ただ僕はそんなに日本はりっぱな国だと思わないし、そんなに無理して「日本はりっぱだ」と言わなくていいと思う。
日本なんてくだらない国だったし、いろんな間違いも起こしてきた、けれど健気にがんばってきた。そう思ったほうがいい。
そう、「自虐的だ」と言われるんだけどね。でも、よく考えれば大化改新の頃の文化なんて、ほとんど中国・朝鮮のものでしょう?大仏を作る技術だって、仏教だってみんな中国や朝鮮から来たもの。国が中国風になったり朝鮮風になったり、日本なんかなかったんじゃないかと思うような時代がいくつもあったわけです。
それにくだらない戦争もしたし、侵略もした。でも、なおかつ健気にやってきたわけです。人の人生を考えてもそうでしょう。自伝を書いたとして、最初から最後までりっぱだったわけじゃない。万引きもしただろうし、ずるいこともしただろう。でも、なんとか今生きている。そう正直に言ったほうが元気になるんじゃないかな。だから、自虐的な歴史でかまわないと思う。
うん、まあ、それは、理不尽な高校時代を過ごした集大成と言えるかもしれないね。
一言で言えば、地獄です。ミッションスクールで賛美歌を歌わせられたりした。共学だったら少しは楽しいけど、男だけで賛美歌歌っても楽しくもなんともない。
新約聖書の順番を暗記させられたりといった、くだらない授業が多かった。中でも、いちばんいやだったのは、体罰だったね。
神の愛を説きながら殴るわけです。それに「おまえらは県立に行けない落ちこぼれだから、次の大学受験でがんばるしかない」と復讐心をあおり立てる。そういうのに耐えられなくなって、高校3年の卒業間際に先生を殴って、退学になった。半年教会で懺悔して復学しましたが、ほんと「カノッサの屈辱」ですよ。
その点、今の高校生は自由だし、男女共学だし、楽しいだろうな。悔しいなあと思うよ。けど、欲望が満足させられてしまう世の中は案外つまらないのかもしれない。僕らの頃はものすごく男女関係に厳しかった。宮城県は男女共学校がひとつもなかった。町を女の子と歩いていただけで退学させられた子もいるし、お姉さんや妹と歩いてもダメ。がまんがまんで、ほんと戦中みたいな生活でした。そのことで世の中楽しいことばかりではない、がまんすることを思い知らされた。
早稲田大学は在野精神があるなんて言われていたので入った。その当時の風潮からすれば、在野精神といえば、まあ左翼学生になるのが筋なんです。けど、母親の影響で高校時代に「生長の家」の集まりに顔を出していたんです。高校には不満があって、しかも反発している教師は左翼的だし、だから「お前らが言うことは本当か」という思いがあった。比べて「生長の家」にはいい人がいたし、おまけに女の子もいたしね(笑)。
大学に入って、左翼のほうが理論的に正しいとは思ったけど、「生長の家」に行けば、「彼らは学費値上げ反対運動と言っているが、実は共産化を狙っている」なんて言われる。そういうのは、誰が言うかによって信じる内容も変わるんです。で、右翼になっちゃったわけです。
そうです。根が単純なんです。左翼の連中もそうじゃないかな。各団体の新聞を読み比べるとかじゃなく、デモに女の子がいて、つい誘われて入ったとか。だんだん仲間になって、理論を学ぶうちに活動を始めたとか。やっぱり包容力や人間的な良さがないと、理論的な正しさには誘われない。理論なんかどっちかといえばどうでもよかった。
今、よど号をハイジャックした田中義三が帰ってきてますけど、彼もすごくいい人なんです。僕が学生時代に彼に誘われていたら、ハイジャックして北朝鮮に行ったかもしれない。
でも、国家の行く末といった大きなことを考えて青春を過ごせたのは、よかったのかもしれない。今の子はそういう環境にないでしょう。確かに今の子をうらやましいと思うことはありますよ。すぐエッチできるとか…、その程度ですら悔しいと思う(笑)。
でも、世の中変えようとか、革命だとか、そういうことに酔うことができたのはよかったなと思います。
予備校や専門学校に来る子の中にも、「もっと日本は国家の誇りを持つべきだ」とか、「南京大虐殺はなかった」と言う子もいる。でも、そう言いながら授業中に携帯するだとか、人に迷惑をかける。そういう人が日本の誇りをしゃあしゃあと言うわけです。
そんなのなくてもいいから、迷惑をかけないことのほうがいいんじゃないか。だから思想性ではなくて、その人間性が大切なんですよ。国の誇りを教えれば、子どもたちがそれでよくなるというわけではない。
右翼活動を30年やった中で出会った人は、いい人もいましたけど、圧倒的にくだらない人間が多かった。運動を利用して金儲けの材料にしている奴もいれば、企業からのカンパは手段であったはずなのに、それがいつのまにか目的になったのもいる。世の中の価値観と接点がないと、麻痺してくるんですよ。
僕もそうだった。「左翼けしからん。朝日新聞許せない」と、同じ価値観を持つ仲間の内にいれば、居心地はいい。しかし、他の人からどう思われているのかがわからなくなる。こんなことしていたら世間の人から軽蔑される、一般の人のわかる言葉で説明しないといけない、と思ったんですね。
日本のやったことはすべて正しかった。朝鮮を植民地にしなかったらロシアになっていた。だから日本はいいことをしたんだ。そうした論調がありますよね。でも右翼の中でもそういう意見に反対している人もいます。
「あの戦争をやったおかげでアジア諸国が独立した」。それは日本人が言うことではない。すごく思い上がっているし、謙虚さがない。それを言うと「自虐的だ」と言う。
でもね、日本の文化はものを贈るときも「つまらないものですが」とか愚息や愚妻という言い方をしてきたわけです。だから日本も「愚国」くらい言ってもいい。本当の自信があれば謙虚になれるはずですよ。
「愛国心がある」だとか、「国のため」だとか、そういうことを声高に言う人は偽物だと思いますよ。心の中で持っていればいい。そんなもの論議しても仕方ないし、声の大きい人間に決意があるわけじゃない。謙虚さを持っている人のほうが決意を持っているのですからね。
Kunio Suzuki
鈴木 邦男
1943年福島県生れ。産経新聞社を経て、72年民族派の「一水会」を結成し代表となる。民族主義は穏やかな郷土愛に基づくボランティア的な活動に戻るべきだと論じる。著書に『これが新しい日本の右翼だ』など。