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2010-05-04 私立桜が丘高校軽音楽部日記
■[志村貴子][マンガ]「放浪息子」の中で、本当に心が放浪し続ける少年マコちゃんの話。
「放浪息子」10巻、普通って何?ぼくはおかしいの? 〜マイノリティの距離感と、非情な身体〜
以前も「放浪息子」10巻の記事を書きましたが、どうにも自分の中で昇華しきれないもやもやがあるので、ここに「もやもやするんだよ!」というのを記述して残しておきます。
いずれ答えがくるのかはぼくもしらない。でも記すこと自体に意義があると信じて。
何かと言うとマコちゃんの話です。
●おんなのこになりたい●
正直。
本当に正直なところ、カラーページでのコレにどれだけ心臓を握られた事か。
マコちゃんが女装している姿です。
簡単に説明しておきます(マンガ既読の人は読み飛ばしてください)。
主人公の二鳥君は女装をする楽しさにめざめ、かわいくありたい、女の子になりたいと思っている少年です。とはいえ、女装の壁は厚く、男装をしても笑われない女の子と違い、女装をすることでいじめに近い状態を受けることになります。
その最大の理解者であり、もう一人の「女の子になりたい」と願う少年がこの、有賀誠くん、通称マコちゃんです。
二鳥君が当然主人公ですから、彼の心の葛藤が物語のメインとして描かれていきます。
それを支えるサポート役、よき理解者、共に道を歩むモノとしての位置にマコちゃんがいます。
マコちゃんを含め、女装趣味に対して多くの理解者がいるということは、二鳥君にとって本当に幸せなことでしょう。
二鳥君が辿る「性」の迷走は、女装が軸になっています。
要するに、服装なんですよね。周囲がどうこうとかではなく、自分と服装との関係の中で、どのように「性」と立ち向かっていくかが本題になっています。
この作品で最も興味深いところだと思うんですが、二鳥君は女の子になりたいんですが、女の子のことが好きなんですよ。
あんなちゃんというもうそりゃーかわいい彼女までできて(現在絶賛微妙な距離中ですが)、まさに「好き」という事に対しては割とさっくりしているんですよね。
かわいいものが好き。だから自分はかわいくありたい。だから女の子になりたい。
かわいい人が好き。だからあんなちゃんが好き。
まあここだけ抜き出すと語弊もありますが、二鳥君は実は結構ストレートに生きています。
自分のやりたいことを、やるんですよ。やれるんですよ。もちろんその反動として勇気も求められますし、同時にいじめにもあっているので、絶対的に幸福とは言えませんが……でも動けるんです。
ところがそれには大きなひとつの原動力があります。
これは、ほんとのこと言うと言葉にしたくない。なぜなら自分が傷つくから。やーい逃げだよ逃げ。
でも書く。
二鳥君は、かわいいんですよ。見た目が。
最初は自分も「二鳥君女装でかわいいなー、えへへ」なんて思ってましたが、これがいかに恐ろしいことなのか、マコちゃんが出てくるまで気づきませんでした。
そう、二鳥君の女装はかわいい。それでいい。彼が可愛くて愛しい、それでこの作品の読み方として間違っていることはなにもないんです。ないはずだと、思い、ます。
しかし、最初にあげたマコちゃんの女装。
マコちゃんだって「かわいくなりたい」んです。
二鳥君みたいに、可愛い格好をして歩きたいんです。可愛い女の子になりたいんです。
だから二鳥君の悩みや苦痛を受け止めてくれます。
そして同時に、悲しいほどの現実を突きつけてきます。
自分は、女装をしても女の子のようにかわいくはなれないと。
●二鳥君とマコちゃんの違い●
絵的にはマコちゃんの女装、正直かわいいと思いますよ。上に引用した絵、かわいいと思います。
でもそうじゃない、そうじゃないんですよ!
そばに自分より遥かにかわいく女装できる男の子がいることのプレッシャー。そして自分はそんなにかわいくなれないと悟った時の絶望感。
自分で自分を見つめた時の、やりきれなさ。
二鳥君の存在も、マコちゃんにとっての救いではあるんです。マコちゃんもまた一人で抱えていた悩みを共有できる親友ができたわけですから。
しかし、現実は残酷だ。
マコちゃんは冷静ながらも内向的な性格のため、二鳥君のようにストレートに自分を出すことがあまりできません。
割と出せている方だとは思います。理性的で、きちんと物事を考え、指針を与えることのできる支え役のようなキャラです、思いを言葉にはできるんです。
しかしマコちゃんが一歩踏み出すのと違い、二鳥君はものすごい勢いで自分の遙か遠くまで行ってしまうのもわかっているんです、彼は。
いつも行動を一緒にしている親友に対して、マコちゃんが本心を打ち明ける重大なシーンです。
割と衝撃的でもあり、ああ、そうだよね、と納得もさせられる……自分にとっては恐ろしいシーンでした。たぶんマコちゃんはこの言葉を言うのにどれだけの勇気を要したかを考えると辛くなります。
かわいい二鳥君。
かわいくなれないマコちゃん。
思い切って飛び出し、好きなことをできる二鳥君。
思い切ることができないマコちゃん。
顔がかわいいかどうかは、正直あまり深く考えたいことでは有りません。
「かわいい顔」でなければ、「女の子になりたい」と願う権利はないのか?
「かわいい顔」でないから、耐えるしか無いのか?
そうは思いたくないですよ。
見た目がかわいいかどうか。それが本人の「心」を左右する一番重要なことだとは考えたくないですよ。
ないですけども……だけど、現実的にそうなんだよ。
左右されるんだよ見た目で。
マコちゃんが二鳥君くらいかわいい顔だったらどうなっていたのだろうか。
二鳥君があまり女装の似合わない男臭い顔だったらどうだったのだろうか。
想像しても仕方ないのですが、今回はたまたま二鳥君はかわいくて、マコちゃんは自分のことを「かわいい」とは思っていない。
すぐ飛んで渡れるハズの距離なのに、どこまでも深くて底の見えない溝が二人の間に存在します。
先程の「服装」がひとつの軸であれば、こちらは「身体」という、性を考える上で欠かせない軸。この点においては見た目の差でマコちゃんは大きなコンプレックスを抱えたままで、決してそれは解決されない、むしろどんどん男らしい体型に成長することで絶望的なまでに「女の子になりたい」欲求から遠ざかる悲しみを湛えています。
●二鳥君とマコちゃんの決定的な違い●
しかし、本当の二人の間の違いはそこだけではありません。
二鳥君は、女の子になりたい欲求を持ちつつ、女のが好きです。
しかしマコちゃんは違うんです。
男の人が好きだから、女の子になりたいんです。
自分がいたいと願うポジションが実は決定的に違います。
もちろんマコちゃんも「かわいくなりたい」という欲求があるから、女の子になりたい気持ちが強い部分はあります。しかし彼は男らしさへの漠然としたあこがれが非常に強い子です。
自分のことをかわいくないと卑下するマコちゃんに対して、二鳥君はそう言い放ちました。
マコちゃんはかわいいよ!と。
二鳥君、上記にも述べたようにとにかく何に対してもストレートなんですよね。
だから、マコちゃんはちゃんとわかっています。二鳥君が慰めのためにそう言っているんではなくて、自分が女装した姿をかわいいと思ってくれているということを。
まさに彼の心の迷走はここにあります。
そして、この作品のテーマも関わってくる部分だと思います。
●さまよえる「性」●
性別って、「性」であり、「別」なんですよね。
揺ぎ無い、絶対的な自己としての「性」というものがありつつも、それを判別して理解するのは他人との違い、「別」であることの認識です。
ヘンリー・ダーガーが実際の女性の裸を見たことが無く、雑誌やチラシで見る少女たちの美しさに憧れて「非現実の王国で」という膨大な量の絵と文章を書き残しました。
そして、そこに出てくる少女ヴィヴィアンガールズは、彼自身が孤独であったが故に、ペニスを持っています。
つまり、他者との差異が分からないからこそ、「性」の違いが理解できていない、ただひたすらに美しいものに憧れていたため、このような作品が生まれました。ペニスを持った少女たちは、他と自分の境界線のない「性」として描かれました。
つまり、自分の中で悶々と自己を否定し続けることが続く限り、その否定されたものが「性」になってしまいます。
しかし、他者との関係の中で「自分はこうなんだ」と理解することで、「性別」「個性」は全く別種のものに変化します。
マコちゃんの中では、二鳥君といる時間が楽しくもあり冷静そうに見えて、実は自己をかわいくないと否定し続けることが彼の性になってしまっていました。
その彼の凝り固まりかけていた性を打ち破ったのが、二鳥君の上記の一言でした。
マコちゃんはかわいいよ!
マコちゃんがそれを聞いて感じたのは「自分はかわいくていいんだ」ではなく、「そのように言い、行動できる二鳥君がかっこいい!」というさらなる迷走。
ここで「にとりん*1には分からないよ!」でもなく、「そうか、これでいいんだ!」でもなく、全くあさっての方向に行ってしまうあたりが逆にリアルすぎて、ホント見ていて切なくて仕方ない。
そうなんですよ。マコちゃんは「男らしさに憧れている」子なんです。だから二鳥君のまっすぐに前進する姿に「男」を感じてしまうんです。
ややこしいですね。自分よりも女の子みたいに見えて、本当にかわいい二鳥君。だけど自分よりも真っ直ぐで男を感じさせる二鳥君。
マコちゃんの脳内はパンク寸前でしょう。
このコマ、ちょっと面白いなあと感じました。
極端な話、男の子として、男の子の二鳥君が好きになってもいいわけじゃないですか。
そうじゃないんですよ。彼女気分なんですよ。
マコちゃんは男性への憧れが強いが故になのか、逆に「それに対して女の子でありたい」と願う子であることがここではっきりと示されます。
さて、一番の問題になってくるのは本当にマコちゃんは男性が好きなのかという部分です。
先に言っちゃいますがおそらく答え無いです。だってそれでマコちゃん悩んでるんだもの、こっちがどうこう決め付けようがない。というかなんだろう……決めつけてはいけない気がしてならないんです。うわー、わかんないよ!
最初一読したあと、わからなくなって全巻読み直したんですが、マコちゃんの男の人への「好き」は、いわば強烈な「男性」への憧れの変形なのかな?と思っていたんですよ。
そう受け取った方がすんなり読めますし、大人が子供を見る視点で成長過程の迷走だなーと理解もしやすいんです。
でも本当にそうか?
そもそも好きってなんだ?
マコちゃんは「自分は男の人が好きなんだ」と言います。そして二鳥君の中にかっこよさを見つけたとき、「ぼく、にとりんがすきなのかも……」と言います。
マコちゃん自身、もう何が何だか分からないんだと思います。それを「憧れだよ」の一言で片付けてしまうのがどうにも躊躇われるんですよ。
だって、その「好き」は「好き」であって、それ以上でもそれ以下でもないわけです。ただそこに「好き」があるんです。
もう一つ、困惑しているのは彼がポジションをやたら気にしていることです。
先程の「にとりんの彼女」という表現もそうですが、「男性」に対しての「女性」でありたいという思いがとても強いんですよね。「男性」に対するには「女性」でなければいけない、という思いもあるのでしょうか。それともこれは単に自分が「少女でありたい」という思いゆえなのでしょうか。いずれにしても「男」に対しての「女」がバランスがよい、ととらえている部分は少なからずあります。
そもそもマコちゃん本人がわからんものが読者にもわかる訳はありません。推測はできても、真意ははかりかねます。
本当の意味で放浪しているマコちゃんの「性」は、表に出さない分二鳥君のような苦痛を負うこともありませんが、同時に一人で抱え込むしかなく、ある意味とても悲しい立場でもあります。
それでも。
告白して友情を壊してしまったと悩んでいたマコちゃんでも、いつの間にか友情が復帰しているあたりがもうどうにもならないくらいクるんですよ。
いや、このシーン本当にどうでもいいカットというか、劇的な何かが起きたわけじゃなくて単に二鳥君が悩みをマコちゃんに相談しているだけのシーンなんですが、さりげなく、いつの間にか定位置に二人が戻ったという、何も無いが故に、現実の持つ優しい側面を描いた秀逸すぎる瞬間なんです。
告白後に何かがあったわけじゃありません。一応友人越しに色々なやりとりはありますが、特に何事もなく気づいたらこのコマですよ。
この階段の踊り場は、マコちゃん、二鳥君、高槻君達にとって、自分たちの「身体」「女装・男装」への戸惑いを語り合えるとても大切な場所です。
マコちゃんの、自分がかわいくないことに対するコンプレックスも、「好き」の迷走故に困惑し続ける悩みも、この狭い空間が許してくれるんですよ。
自分は、マコちゃんの迷走に対しての解答を全く持ち合わせていません。
無責任ですし、大人としてはお恥ずかしい限りですが、もう本人も「どうしようもない、諦めるしか無い」と思って結論を出してしまっているように、諦めるしかビジョンが見えてこないんです。
彼は、自分は「かわいくなれない」と自覚していて、女装はするけどそこを超えて「女の子」になりきることは決してできません。悔しいよ、歯がゆいよ、あさっての方向を向いてため息をつくしかないよ、そして諦念するしかないよ。
それでいいの? いいわけないじゃん。でもそうするしかない。
それが現実なんだ、と言われたらもうどうにもなりませんが、せめて「諦める」ではなくて「切り替える」スイッチが欲しいと願ってしまうのは、往生際が悪いのでしょうか。
うん、たぶん往生際悪いですね。
でもぶらさがって落下しそうな少年たちをこの踊り場は受け入れてくれます。
狭くて、誰にも見つからないような隠れ場。たとえ他の人が馬鹿にしようとも、二鳥君を、高槻君を、マコちゃんを、そして千葉さんや佐々ちゃんやちーちゃんや……迷走し続ける少年少女たちをこの場所は受け止めてくれます。
もしかしたら本当に諦念しなければいけない日が来るかもしれません。
でも何度か書いていますが「それしかないよ」と「それでいいよ」の差は大きいんです。
マコちゃんに必要なのは、「それでいいよ」と受け止めてくれる場所だと思います。
千葉さんが高槻君にバッサリ言い切ったように、二鳥君とマコちゃんに言ってくれる人が現れるのもいいかもしれませんが、今はただ、ボロボロになった少年達が一旦休めるクッションがあることを願うばかりです。志村先生はそれをきちんと描いてくれるからこそ、その分現実が残酷であってもキャラ達は乗り越えていけます。
マコちゃんの心の放浪は、どこに向かうんだろう。
マイノリティに対する「変」という言葉が、否定できないこともあるんだよ。「放浪息子 9巻」
放浪息子アニメ化! 不安と期待と。〜志村貴子先生作品はきれいなだけじゃない〜
「放浪息子」10巻、普通って何?ぼくはおかしいの? 〜マイノリティの距離感と、非情な身体〜
「放浪息子」はもちろん基本的に主人公の二鳥君目線で一通り読める作品です。
しかし同時に、男装したい少女の高槻君目線、それを冷静な目とヒステリックな感情で見守る千葉さん目線、今回のように冷静なようで一番苦しそうなマコちゃん目線、全員を遠くから見守る大人目線、みんなが仲良く合って欲しいと願う佐々ちゃんや「普通」を保ちつつなんとか理解しようと困惑するあんなちゃん目線、どう接すればいいか迷いつつも優しいお姉ちゃん目線と、様々な角度からの目線が一同に介しているとんでもないモンスターのような作品だとも思います。
群像劇のようでもありつつ、最終的に二鳥君の物語に戻ってくる。なかなかできないマンガ体験ができる作品なので、どこからどう語っていけばいいのか時々こっちも戸惑います。クリティカルに心臓をえぐるような生々しい描写も飛び込んできて、冷静に向きあいづらい方も多い作品だと思います。
「青い花」もそうなんですが、それが、面白い。
いずれ、お姉ちゃん目線で読み直してみたいところです。
*1:二鳥君の愛称
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