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2011年1月29日(土)付

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国債格下げ―「疎い政治」への重い警告

新年度予算案や税制改革について国会論戦が始まりつつある時に、場外から強烈な警鐘が響いた。米格付け会社のスタンダード・アンド・プアーズ(S&P)が日本国債の格付けを引き下[記事全文]

君が代判決―少数者守る司法はどこへ

数々の演劇賞を受賞した永井愛さん作・演出の喜劇「歌わせたい男たち」(2005年初演)は、卒業式の日を迎えた都立高校が舞台だ。教育委員会の指示通りに式を進めようと必死の校[記事全文]

国債格下げ―「疎い政治」への重い警告

 新年度予算案や税制改革について国会論戦が始まりつつある時に、場外から強烈な警鐘が響いた。

 米格付け会社のスタンダード・アンド・プアーズ(S&P)が日本国債の格付けを引き下げた。財政懸念が高まるスペインよりもひとつ下というランクは、日本の財政に対する国際的信用の危うさを示すものだ。

 格付け会社は世界金融危機に適切な警告を発せられず、批判を浴びた。だが残念ながらこの格下げに異論をはさむ余地は少ない。日本の国と地方の借金総額は国内総生産(GDP)の2倍にのぼり、先進国で最悪。政府は税収より多額の借金に頼らねば、毎年度の予算さえ組めないのだから。

 市場の信認低下で国債発行が難しくなってもおかしくない。にもかかわらず、日本が巨額の国債発行を続けてこられたのは世界最大の対外資産をもち、経常黒字国だという事情もある。国債の引き受け手の大半が国内投資家だというのも強みだ。

 しかし超高齢化で現役世代が減れば貯蓄率の低下や経常黒字の縮小もありえよう。国内投資家が日本国債を見限るようになるかもしれない。巨額発行を続けられる保証はない。

 とりわけ深刻なのは、S&Pの格下げ理由に日本の政治状況があげられたことだ。ねじれ国会のもとで野党が対決色を強め、税と社会保障の一体改革は協議入りもかなり難しい。新年度予算案の関連法案が成立しない可能性さえある。その懸念が国債の格付けに響いているのである。

 日本の消費税率は先進国で最も低く、まだ引き上げ余地がある。日本政府はいずれ増税に踏み切るだろう。市場にはそういう期待と確信があった。だが日本の政治は重い腰を上げられないでいる。いまや市場から不信感が突きつけられたのだ。

 一体改革に「政治生命をかける」と言った菅直人首相が格下げについて聞かれ、「そういうことに疎い」と答えたのは情けない。「改革で、財政再建も経済成長も必ず成し遂げます」と、力強く言うべきだった。

 だが、首相の言葉尻を問うことが本質的な問題ではない。財政危機への対処よりも政権を解散・総選挙に追い込むことにこだわり、一体改革についての協議に応じる姿勢を見せない自民党などを含む政治全体の機能不全が、今回の格下げの根底に横たわる。

 「財政はまだ当分は大丈夫だろう」という無責任な楽観論が、増税論議に入ろうとしない与野党議員たちの胸の内にあるのではないか。

 与野党は打算を超えて国民の利益のため、持続可能な財政へ向け超党派の議論を始めるべきだ。その強い意思を内外に示さない限り、日本国債の信用も政治への期待も沈むばかりだ。

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君が代判決―少数者守る司法はどこへ

 数々の演劇賞を受賞した永井愛さん作・演出の喜劇「歌わせたい男たち」(2005年初演)は、卒業式の日を迎えた都立高校が舞台だ。

 教育委員会の指示通りに式を進めようと必死の校長。君が代斉唱の時、起立しないと決めている教師。そんな葛藤があることを知らぬまま、ピアノ伴奏を命じられた音楽講師……。

 根はいい人ばかりなのに、みな消耗し、傷つき、追いつめられていく。

 芝居の素材になった都立高校で働く教職員ら約400人が、君が代の際に起立斉唱したり伴奏したりする義務がないことの確認や慰謝料を求めた裁判で、東京高裁は請求をすべて退ける判決を言い渡した。「起立や伴奏を強制する都の指導は、思想・良心の自由を保障した憲法に違反する」とした一審判決は取り消された。

 極めて残念な判断だ。ピアノ伴奏を命じることの当否が争われた別の訴訟で、最高裁は07年に合憲判決を言い渡している。高裁はこの判例をなぞり、斉唱や伴奏を命じたからといって個々の教職員の歴史観や世界観まで否定することにはならない、だから憲法に違反しないと結論づけた。

 判決理由からは、国民一人ひとりが大切にする価値や譲れぬ一線をいかに守り、なるべく許容していくかという問題意識を見いだすことはできない。「誰もがやっているのだから」「公務員なのだから」と理屈を並べ、忍従をただ説いているように読める。

 それでいいのだろうか。

 私たちは、式典で国旗を掲げ、国歌を歌うことに反対するものではない。ただ、処分を科してまでそれを強いるのは行き過ぎだと主張してきた。

 最後は数の力で決まる立法や行政と異なり、少数者の人権を保護することにこそ民主社会における司法の最も重要な役割がある。最高裁、高裁とも、その使命を放棄し、存在意義を自らおとしめていると言うほかない。

 近年、この問題で都の処分を受ける教職員は減っている。違反すると、罰は戒告、減給、停職と回を追って重くなるうえ、定年後の再雇用が一切認められなくなるからだ。そんな脅しと損得勘定の上に粛々と行われる式典とは何なのか。いま一度、立ち止まって考える必要があるように思う。

 国旗・国歌法が制定された99年、当時の有馬朗人文相は国会で「教員の職務上の責務について変更を加えるものではない」と言明し、小渕恵三首相も「国民の生活に何らの影響や変化が生ずることとはならない」と述べた。

 ところが現在、教職員ばかりか、生徒や保護者、来賓の態度をチェックする動きが各地で報告されている。

 今回の高裁判決が、こうした息苦しさを助長することのないよう、社会全体で目を凝らしていきたい。

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