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[25570] 分析魔に恋して
Name: 久能宗治◆74cd043f ID:a251b5d3
Date: 2011/01/23 19:26
彼女は泣きそうになりながら、真夜中の住宅街を足早に歩いていた。
時刻は午前2時で、真っ暗な歩道には彼女以外、誰もいなかった。
一体なぜこんな目に遭うのか。彼女には全く理解ができなかった。
 彼女の名前は吉村佳苗。
高校2年生。
成績はかなり優秀なほうで、今日も日曜日だというのに、朝から塾で物理と化学と数学の講義を受けてきたところだった。
塾からの帰り道に、幼馴染で親友の田中瑠璃と数名のクラスメイト達に遭遇し、カラオケボックスに連れ込まれて4時間ほど軟禁されたが、これはよくある事であり且つ、まだ我慢することが可能な許容範囲内であった。
ありえないのは、駅前に止めておいた新品同然の自転車が、チェーンロックだけを残してどこかにテレポートしていたことであった。

佳苗は我が目を疑った。

泣きっ面に蜂とは、まさにこの事だった。
 今から五日前に購入したばかりの42000円の自転車を止めておいたはずの場所には、420円のチェーンロックが無残に切断されて、アスファルトの上で小さく丸まっていた。
「バイク用の極太チェーンにしとけばよかったあああああーあーあ」
度重なる疲労とあまりの理不尽さに、佳苗は生まれて初めて独り言を吐き出しながら歩いていた。
駅から歩き続けて10分ほど経った頃だった。
佳苗は暗闇の中、古い鳥居の前を通りがかった。
薄暗い電灯と古ぼけた階段が目の端に留まり、ふと足を止め、佳苗は少し迷ったが、やはり近道をすることにした。
鳥居の横手にあるこの小汚い階段を登れば、約400メートルの回り道がカットされることになるのだ。
この階段は恐ろしく古くて、近所の老人ホームで「黄泉への階段」と呼ばれているほど急で登りにくい危険な代物だったが、今の佳苗にそんな背景事情はあまり関係なかった。
佳苗は何に代えてでも、一秒でも早く今夜というものを終わらせたかったのだ。
しかし運命はこの数秒後、佳苗の意思と希望とは裏腹に、実に独走性豊かな展開を繰り広げるのであった。
80段ほどもある階段を半分くらい登った時だった。
突然、佳苗の左手の神社の中から金網のフェンスをすり抜けて、無数の「人魂」が漂ってきた。
そしてそれらは佳苗の顔の前までくると、音も無くふっと消えた。
「うわっ!」
いくら苛立っていたとはいえ、これには佳苗も心の底から驚き、危うく崖のような階段から足を踏み外してしまうところだった。
必死で錆びた手摺りにしがみつきながら、反射的に金網の向こうを見ると、暗闇の中に、やけに大きな狛犬のシルエットが見えた。
そしてさらに奇妙なことに、その不気味な狛犬の周りには、先程の人魂達がおびただしい数で漂っているのだった。
人魂は自ら発光してはおらず、まるで周りの空間から光を吸収しているかのように、薄ぼんやりと見えた。その姿は地味で影は薄かったが、逆になんともリアリティーがあって、より一層佳苗をぞっとさせた。
佳苗は恐怖で身動きが取れなくなり、へなへなと階段の上に座り込んでしまった。しかも、目を逸らすこともできず、ただじっと見つめ続けている内に、佳苗の目は意思に反してだんだんと暗闇に慣れてきてしまい、ぼんやりだったその輪郭が、刻一刻とシャープになってくるのだった。
どんなに恐ろしいものが見えてくるのか、佳苗は震えながらそのときを待った。しかし、「それ」をはっきりと認知した瞬間、佳苗の頭から恐怖という2文字は、盗まれた自転車の如く完全にパッと消えて無くなり、代わりにもう一度、先ほどのあの濃厚な苛立ち感が静かにリターンしてくるのを、彼女は全身で受け止めなければならなかった。
「あなた、何考えてるの?」
 佳苗は階段の上で立ち上がり、見覚えのある「彼」の横顔を直視しながらそう言った。
「・・明日、物理の小テストがある。エネルギー保存しなくっちゃ」
「彼」は明後日の方向を見ながらそう言って振り向き、佳苗をキリッとした目つきで見つめ返した。
佳苗は目を瞬いた。
全く会話になっていないではないか。
「は? ・・耳、聞こえてる?」
 佳苗が聞くと、彼は小さく頷いた。
「ええ、もちろん聞いていましたよ。今、僕が何を考えているかでしょう? ちゃんと答えましたよ。何か文句でもあるんですか?」
 彼は何故か、気の抜けたような敬語で呟くようにそう言った。
「・・意味分かんないんですけど」
 当惑した表情で、佳苗もつられて丁寧な口調で答えた。
冗談抜きで本当に全く理解できなかった。
こんな気分は、塾でうっかり間違えて、東大数3コースの特別クラスに紛れ込んでしまった、中学2年のあの日以来だった。
佳苗から見て彼は今、神社の中にいる。
もっと正確に言うと、境内左側にある狛犬の頭の上に、背中を丸めて座っている。
そして死んだような目でシャボン玉を飛ばしている。
そんな彼のことを佳苗は呆然としたまま、フェンス越しにじっと見つめている。
  もう既に、さっきまでの佳苗の苛立ちは、どこか彼方へ吹き飛んでしまっていた。
目の前には異次元の世界が広がっている。
「あなた、名取 由一君でしょ?  学校のクラスの・・」
「そういう君は・・えーっと、吉・・・さん」
 由一は初めて普通の口調でそう言った。
「吉村佳苗よ。・・そこで何してるの? 」
「シャボン玉っす」
由一は、今度は気さくなチンピラみたいな口調でそう言うと、佳苗に向かってシャボン玉を吹いた。
 佳苗はしばらくの間、石鹸水の香りと共に全身をシャボンに包まれた。
 先ほど佳苗を転落死させかけた地味な人魂の正体は、このシャボン玉だったのだ。
 佳苗は自分の体の中で、何かがゆっくりと萎んでいくのを感じた。
「なぜコマイヌの上に座っているのかについて聞いてるんだけど。しかもこんな時間に」
「ここが監視カメラの死角だからさ」
 由一はさも当然のように即答した。
「そうなの?」
 佳苗は思わず辺りを見回した。
「ああ、このポイントが死角さ。人工衛星『浅草』からのね」
由一はサラッとそう言って、再びシャボン玉を吹いた。
佳苗はキョロキョロするのをやめ、しばらく足元の地面を見つめることにした。少なくとも、そんな名称の人工衛星がありえないことだけは分かる。
「・・・そう」
 佳苗は深呼吸をして心を落ち着かせ、再確認することにした。
 現在時刻はAM2時2分。
 見間違いではない。
 私は今、近道をするために通った神社脇の細い階段の、下から数えて40段目くらいの所に立っている。目線の高さは狛犬の上に座っている私のクラスの優等生、名取 由一とほぼ同じで、私達二人の距離は、フェンス越しに約1.5メートル程。名取 由一はシャボン玉を吹いている。動機は不明。ネジが外れている恐れあり。
「・・私はこれから家に帰るところなんだけど、やけに胴の長い狛犬がいるなーと思って、ふと見たらあなたがそこにいたのよね。・・驚いたわ。二つの意味でね。心臓が止まるかと思った。今、午前二時なんですけど。明日、学校よ? しかも、なんでシャボン玉なの? いつからそんなキャラになったの? 」
佳苗は腕時計を見ながら、早口で一気にそう言った。
「昼間だと、こんな所に座っていたら見つかって箒で叩き落されるだろうし、神主さんの家から木魚が飛んでくる可能性も、完全には否定できないだろう? 少しは神主さんの身になって考えてみたらどうだい? 」
 由一は穏やかな口調でそう言い返し、意味無く微笑んだ。
「・・・・・・・」
二人はしばらく見つめあった。
佳苗は少し不安になってきていた。由一はクラスでは大人しく、成績もよい。・・・こういう場合は、それらは逆に致命的な状況悪化条件となる。
「・・ねえ、本当に大丈夫? 頭が飛んでるとしか思えないんだけど・・まさか、クスリでもやっっちゃってるわけ?」
 佳苗が心配そうにそう言うと、由一は鼻で笑った。
「はっ、まさか。狛犬の上に座ってシャボン玉飛ばしてるだけで薬の疑いかい?  大げさだよ。君だって今までに一回くらいは、交差点のど真ん中に寝転んで転がってみたいとか思ったことあるだろ? えーっと、吉本さん?」
 由一は無邪気な笑顔でそう言った。
 佳苗は不覚にも少しドキッとしてしまった。
 佳苗が由一のこんな笑顔を見るのは、5年前の中学入学式の日から数えて、これが始めてだった。*(注)*(佳苗と由一が通っているのは、私立の中高一貫校)*
(記念すべき第一回目って奴だ。相棒)佳苗の疲れた頭の中で、どこかの誰かがそう囁いた。
「無いわよ。そんな変な願望。それで車に跳ねられたらギネス級のマヌケじゃない。・・それから、私の名前は吉村だから」
「君も座りたいなら、右のが空いてるけど。どう? 長い人生の中で、一度くらい狛犬の上に座ったからって、誰も悪く思ったりしないよ」
 由一は今度はシリアスな口調でそう言って、もう一匹のコマイヌを指差した。
「私が座りたい? ・・そこに?」
ここでついに、佳苗は全てにおいて完全に訳が分からなくなってしまった。
 そして、もう考えるのをやめようと思った。
 今日は本当に地獄だったのだ。
 日曜日だというのに、朝の11時から夜の9時半まで塾で悪夢のような授業があった。
 それからその後、友達の瑠璃やエミ達に拉致され、行きたくもないカラオケボックスに4時間も強制的に軟禁された。
 やっと開放され、駅に着くと、乗ってきたはずの自転車が蒸発していた。
 精神的にも肉体的にも、もう本当にへとへとになって、私は今、ここに到る。
 よって、クラスメイトの一人や二人が狛犬に乗ってシャボン玉していようがしていまいが、そんなこと私には全く関係ないに決まっている。・・学級委員の山本さんなら、ここで金網を乗り越えてでも由一をコマイヌの上から引きずり下ろすべきなのだろうが、誠に残念なことに、私はただの掲示係なのだ。
「じゃ、お大事にね」
 佳苗は本日最高の笑顔でそう言い、右向け右をして階段を登り始めた。
「また明日ね」
由一も明るく爽やかにそう答え、佳苗は再び足を踏み外しそうになった。
 しかし、本当に疲れている佳苗は、そのまま振り返らずに階段を登ることにした。


由一は佳苗の足音が聞こえなくなるまで、動かずにそのままの姿勢でシャボン玉を飛ばし続けていた。
数分後、シーンとした静寂の中、由一は狛犬の頭から静かに飛び降り、欠伸をしながら背伸びをした。
暗闇の中で一人、深呼吸をして冷静に考えてみると、正直な気持ち、クラスメイトに見られたことは誤算だったと思った。
 そもそも、なぜ午前2時のこのタイミングで高校のクラスメイトとばったり出会うんだろうか。
 心臓麻痺になった瞬間に雷に打たれて息を吹き返すのと同じくらいの確率ではないのか?
 由一はさらに思った。
しかもつい調子に乗って、余計な訳の分からない態度までとってしまった・・。
 このままでは、おそらく明日以降の俺は、良くてあだ名が「コマイヌ」となり、悪くて夢遊病者などという最低な噂が流れ、最悪の場合、気が付けば背中に「変態」と書かれたプリントが貼り付けられていて、柄の悪い奴らにカモられる可能性が跳ね上がるだろう。しかし・・・
「ま、いいや」
 由一はそう呟き、最後のシャボン玉を飛ばした。
 別に大した事ではない。
 もともと空虚で死ぬほど退屈だった学園生活が、少し斜めにヒップホップする程度の話だ。
  コーラをシェイクするくらいの被害さ。逆に楽しくなるかもしれない。それに、もしも誰かに見られた場合、端から今夜のことは
「夢でも見たのかい?」
で、押し通すつもりでいたのだ。
 本当かどうか分からない、意味不明な内容の話など、どこの誰が信用するものか。
 目撃者本人の吉本・・吉村佳苗ですら、明日になれば今夜のことは夢だったのか、現実だったのか、全く分からなくなるに違いない。
 由一はそう確信した。
「よし」
 由一はそう呟き、一応賽銭箱に10円玉を投げ入れ、深呼吸をしながら鳥居をくぐり、まっすぐ帰宅した。




[25570] 平和な学校
Name: 久能宗治◆74cd043f ID:a251b5d3
Date: 2011/01/23 14:58
 名取 由一は、偏差値60以上の勉強好きが集まる、とある進学高校の2年生である。
昨日のアレは由一にとって、単なるちょっとした遊び心というやつだった。
少し一人でふざけてみただけなのだ。
べつに現代社会の過剰ストレスによって頭の線がぶち切れたわけではないし、2万光年先の宇宙と交信していたわけでもない。
由一は今日も朝から遅れず学校に来て朝礼を受け、数学、物理、現代文、英語、と午前の難解コンボ授業を居眠りもせずに真面目に受け、昼食は読書をしながら教室の真ん中で一人で堂々と食べ、今は5時間目の存在意義のよく分からない催眠術のような古典の授業を、半分眠りながら真剣に受けている真っ最中だった。
 由一は今日、何度か椅子に座ったまま左右に体をねじり、簡易柔軟体操をしていると見せかけて、さりげなくチラチラ盗み見ていたが、吉村佳苗は昨日のことをまだ誰にも話していない様子だった。
もっとも、どうやって雑談の中に自然にミックスすればよいのか、形容テクに困る内容の出来事でもあるのだし、話の現実味も限りなく0に等しい訳だから、下手をすれば逆に彼女自体がアホになったと誤解される可能性も多少はあるわけで、それは当然と言えば当然のことでもあった。
 放課後の掃除当番も、由一はこのまま、そ知らぬ顔で済ませてしまうつもりだった。
月曜日である今日の掃除メンバーは由一と、よりによっての吉村佳苗、佐藤B子、山下A夫、津川M子の5人だった。
 6時間目終了のチャイムが鳴り、担任のS先生が戻ると、ざわざわしていた教室が比較的静かになった。
終礼の後、由一は真っ先にゴミ袋を二つ持って教室を出、ゴミ捨て場へ向かった。由一は重度の埃アレルギーだった。
4階の教室から1階のゴミ捨て場と用具室を回って教室に戻ると、たいていの場合、掃除は終わっていた。
由一はいつもこうして、埃舞い散る教室から避難しているのだ。
クラスメイト達もそのことは知っていて、黙認しているというか、幸いなことに由一に少し同情気味だった。

「コマイヌ君?」
 ゴミ捨て場にゴミを投げ入れた時だった。
由一は背後で吉村佳苗らしき燐とした声を聞いた。
「さて…と」
 由一はとっさに気付かないフリをし、そのままスタスタと歩き去り、用具室へ向かった。
昨日の事は、あれはもう完全に幻だったのだから、などと考えながら。

コマイヌ?  

…ああ、神社の横に置いてあるあの意味不明な不気味なやつね。
確か、魔除けのためだとか何とか聞いたことがあるような無いような…。

「Mr.コマイヌ、無視しないでよ」

 由一は用具室の棚からゴミ袋1パックを取り出して、チェックリストにクラス名と自分の名前を書き(コマイヌと書きそうになった)、再び気付かないフリをしながら階段へ向かおうとした。
あと何回無視すればこのバカ女は素直に夢だったと思ってくれるのだろうか。
由一の予想では、あと2.5回だった。
つまり、三回目の発言の途中で
「あれ、もしかして」
となるのだ。
「昨日ごめんね。変質者とか言っちゃって」
 佳苗は悪びれる素振り一切無しに、そう言った。
骨折をさせてしまった相手のお見舞いに行き、折れた部分をデコピンしながら『大変申し訳ありませんでした』と笑顔で言っているような口調だった。

というか、そんなダイレクトには言われていない。

由一は密かに思った。
「え? 何のこと?」
 由一はここで初めて佳苗の存在に気付いたかのようなフリをした。
 佳苗は爽やかに白い歯を見せて、ニコッと爽やかに微笑んだ。
「昨日私、あれから家に帰って、かなり笑っちゃったんだ。何か無性にめちゃくちゃおかしくなって。実は今も噴出しそうなの。あははは…あはははは…。コマイヌ君って、いつもあんなことしているの?  あんな真剣な顔して?  あははは…」
佳苗はそう言いながら、体をくの字に折り曲げて笑い出した。
昨日とは取って代わって、今度は由一が彼女をポカンとした表情で見つめる番だった。
こいつって、こんなキャラだっけ? 
「大丈夫? コマイヌ? 夢でも見たんじゃないの?」
「あー、大丈夫よ。誰にも言わないから。言っても誰も信じないだろうし。まさか教室でクール決めてる読書家の名取君と、よりによってあんな出会い方するなんて夢にも思わなくてさー。時間が時間だったし、ウケ狙いではないよね。ストレス解消か何かなの?」
佳苗は早口にそう言った。
今もその好奇心旺盛な彼女の瞳が、由一の顔の手前30センチのところで爛々と光り輝いている。
由一は何やら話が妙な方向に突き進んでいくのを肌で感じた。しかし、同時に面白いことを思いつき、由一は瞬時に態度を変えた。
「俺、昨日は両親と一緒に熊本にいたぜ。おばあちゃん家に行ってたんだ。こっちに着いたのは今朝の5時だ」
由一は実際に熊本のおばあちゃん家を笑顔で訪れている自分を思い浮かべながら、真剣な、それでいて何気ない口調でそう言った。
しかし、熊本ではなく九州と言うべきだったと思った。
「じゃあ、これは何かな?」
佳苗はそう言って、ポケットから携帯を取り出し、ムービーの再生ボタンを押した。
見ると、そこには由一によく似た少年がコマイヌの上から降りて、シャボン液片手に伸びをしているところが、金網越しにバッチリ撮られていた。
「さあ、何だろ?」
由一は冷や汗を逆流させながら眉をひそめ、真剣に分からないフリをした。
「コマイヌからの景色って、けっこう爽快なの?」
佳苗は携帯を閉じながら笑顔で言った。
由一はもう面倒くさくなり始めていた。
「さあね・・コマイヌに聞けば?」
由一は邪険にそう言って佳苗をスルーし、いい加減に用具室を出ようとした。
一歩、二歩、三歩、その時。
「流すよ?」
後ろからボソッと小さく呟くように、そう聞こえてきた。
由一はピタリと止まって、開けかけた引き戸をゆっくりと閉め、回れ右をした。
「流すって何を…ああ、来週流しソーメン大会だっけ?」
「別に? 昨日熊本に行ってた人には全く関係ないことだから、全然気にしなくていいよ。」
「…うん…そうだね」
由一は悟った。
少し押されている。
このまま続けても事態の改善は見られそうにない。
由一はそれから20秒ほど真剣に考え、どうでも良くなり、諦めた。
「一体何が望み? つるし上げ? …学校新聞のコラムに載せるとか?」
 由一は捨て鉢にそう言った。
「まさか。そんな無意味なことするわけないじゃない」
佳苗は再び爽やかな笑顔で爽やかにそう言った。
「じゃあ何が目的? …ああ、駅前のフルーツケーキかい? あんまり甘いもの食べると太るよ? それにこの近くに駅なんて無いしな。バス停はあるけど、バス停前にあるのは居酒屋だろ?」
由一が早口にそう言うと、佳苗はまた笑い出した。
「んなわけないじゃん。名取君って、パソコン持ってる?」
「持ってるけど、それが何? あげないよ?」
「いらないわ。じゃあーはい、これ。今日中に連絡して。流されたくなかったらね」
佳苗はそう言って一枚のメモ用紙を由一の目の前に差し出した。
  http//www.xxxxxxxxxxxxxxx.xx.xxx.kanae.html
メモに書かれているのは、どうみてもURLだった。
「なにこれ?」
由一が聞くと、佳苗はにっこりして爽やかに走り去った。
由一は呆気に取られ、しばらく呆然としていた。
ふと、メモの裏面を見てみると、そこには一言、こう書かれていた。

「続きはここから。あ=A、い=I、か=K1、き=K2、コマイヌ=K5M1IN3」

 教室に戻ると、掃除はもう終わっていた。
由一は息を止めながらゴミ箱にゴミ袋をはめ、いつも通りに戸締りをチェックしていった。
吉村佳苗や他の連中は、既に帰る準備をしている。
佳苗は教室を出て消え去るまで、由一と目を合わせようとはしなかった。
しかし、「なんか、流しソーメン食べたくない?」と、津川と佐藤に嬉しそうに話しているのを由一は聞いた。
由一は最後に教室の鍵を閉め、鍵を職員室に戻して校門を出た。

 高校に入学したときから通学は行きも帰りも、いつも一人きりだった。
教室でも、由一は貝のようになっていて、誰かに話しかけられるまでは自分からは話さなかった。
入学式の日、全ての休み時間を有効的に使えば、高校卒業までに休み時間だけで300冊以上の学術本を読むことが出来るという些細な事実に気付いたからだ。
教室での由一は「比較的に親切で、少し暗めのデミ優等生」、という感じだった。成績は上の下くらいで、特に仲のいい人間はいないが、逆にこれといって邪魔な人間もいなかった。
「今まではね」
 合コンも文化祭もコンサートもお祭りもカラオケもデートもファーストキスも初体験談も、ここ3年ほどの由一には全く無縁のものだった。
そんな退屈な青春を紛らわすために、料理(たまご系)をしたり、真夜中にランニングをしたりする。
そして時々、本当に50回に一回くらいの頻度で、魔が差す。
メレンゲを1時間ほどかき回し続けてビーチボールほどの大きさにしてみたり、2日間絶食してみたり、意味も無く3日間徹夜してみたり、自転車で家から約200キロ離れた名古屋城に出向いてみたり、ハトに餌をやったり、窓からミニ紙飛行機を飛ばしたり、コマイヌの上に座ってみたり、コンビニで5円チョコを箱買いしたり、千羽鶴を折ったり…。
それに、一見頭のおかしな行動と思えるようなことが、結果として新たな発見を生み出すことが少なくなかったのだ。
メレンゲの時には右手の握力が2キロもアップしたし、自転車で日帰り名古屋旅行をしたときには、何回か車に惹かれそうになって人生の走馬灯が見られたし、体重もその日一日で5.7キロもやせた(ほとんど水分だったけど)。
絶食した後の食事は今までの人生のなかで一番おいしく感じられたし、三日間の徹夜によって睡眠の重要性を体で思い知ることが出来た。
千羽鶴は集中力の訓練。
ハトは意外と可愛かった。
由一は思った。
考えてみれば今までのお茶目で唯一失敗だったのは、クラスメイトに見られてしまった昨日のコマイヌ事件だけなのだ。
それについても、数年ぶりにクラスの誰かとまとまった会話をするという精神安定剤的な特典だと無理やり考えれば、捨てたものではないのかもしれない。
異性との会話は脳細胞の活性化にも繋がるし。
何事もプラス思考で考えるのが重要だ。
失敗というものは本当に取り返しの付かないことをしてしまうことであって、それ以外の失敗とは、その後の考え方と行動によって、いくらでも修復可能どころか、逆に努力次第で吉に変える事だって出来てしまうのだ。
これが名取 由一(16)の持論だった。
だてに読書はしていないのだ。
バス停でバスを待つ3分間が暇だったので、由一は吉村佳苗について考えることにした。
今まで一人ぼっちでコツコツと読んだ本の知識を総動員して彼女を簡単に分析してみることにしたのだ。
何事も、ゲームだと思えればやりやすいのは何故なのだろうか? 
(好みじゃないけど、顔は結構かわいい。女優を100としたら80・・9点くらいか? ・・たいていの奴ならあの爽やかな笑顔でイチコロだな。身長は俺より少し低いだけだから170くらいか。・・高いな。どうでもいいけど。・・スリーサイズの仕組みは俺には分からない。興味も無い。けどスタイルはさっき見た限りではいい。性格は・・・不明。いくらでもネコかぶれるだろうし、心理学的に厳密に言えば人の性格はもともと一つではないし。ただ、クラスで見ている限りは、明るくて親切で爽やかな人気者キャラだ。男子全員を君付けで呼んでいるからな・・。それから・・金銭への執着は特に無し、か。たしか、勉強の成績とIQは俺よりも遥かに上だったはず。中一の頃に一度、そんな噂がたった。将来性や本質的な頭の良さはもちろん俺より下に決まってる・・特に根拠は無いけど。・・家庭環境は順調そうな気がする。友達は男女問わず、俺の20倍はいるだろう。それから、さっきの態度から推察するに、パソコンが比較的得意らしい・・・あとは・・・)
独特な分厚いエンジン音と共に、バスが近づいて来た。由一は考えるのをやめ、バスに乗り込んだ。



[25570] 窓越しの会話
Name: 久能宗治◆74cd043f ID:a251b5d3
Date: 2011/01/25 00:22
自宅に着くと、由一はキッチンから持ち出したお菓子を片手に、さっそくさっきのメモ用紙に書かれていたURLにアクセスしてみることにした。
ファイルを開けた途端にウイルスが雪崩込んできてクラッシュする可能性も少しだけ考えてみたが、ポップアップバーを外すとページは正常に開かれた。
由一はアイスココアを一口飲み、ウィンドウ内をよく観察してみた。

変わったホームページだった。

画面全体がセピア色で、ほとんど何も書かれていなかった。
画面のあちらこちらに汚いシミのような模様が付いていたが、意味が分からなかった。
嫌がらせだろうか?
第一印象は『ザ・不愉快』だった。
しかも、いくら待っても一向に何かが起こりそうな気配がない。
由一はなんだか嫌な予感がして、今日はこのくらいにしておこうと思った。
もう十分頑張った。
マウスを動かして、そろそろリセットボタンを押そうとした。
そのとき突然、カタカタと音がなって、ウィンドウ上にアルファベットが打ち出された。
同時に由一は画面全体が古い羊皮紙を表現しているのだということに気が付いた。

【ANNG5UH1、T5K4T1? N1N2K1UT2K5NND4M2T4】

 メモ帳のヒントから察するに、「暗号は解けた? 何か打ち込んでみて」と言う意味だろう。
解けるも何も、オランウータンじゃあるまいし、あんなもの解けない人類はいないだろう。
由一は馬鹿馬鹿しくなって、暗号化せずにそのままの文字で返事を打つことにした。
しかしどうした事か、どうやっても「かな文字入力」は受け付けられなかった。
どうやら、使用文字が全角英数のみにプログラムされているらしい。
考えつく全ての方法で試してみても、一切変換できないのである。
嫌がらせだろうか?
「手の込んだことを・・」
由一はイライラしながらそう呟き、仕方なく暗号で「最近太ったね」と打った。
先ほどと同じくカシャカシャというタイプライターの音が鳴り、すぐにその下の行に返事が打ち出された。
どうやらリアルタイムでチャットが出来る仕組みになっているらしい。
由一は首をかしげた。
ファイル共有か何かの仕組みなのだろうか? 
由一はプログラムに関しては全くのド素人だった。

【ここのURLの存在は私たち二人意外には誰も知りません。あなたのインターネットはもちろん繋ぎたい放題よね?】

【そう】

 由一はそっけない返事をした。
打つと、またすぐに返事があった。

【無駄話をするつもりは無いの。あなたには何か、ユーモアのセンスがあると思ったから、こうしてわざわざプログラムを組んだの。まあ、大した手間じゃなかったけど。だから、ここで何か楽しい会話をしましょう】

「・・・ふーん」
 由一は考えた。
これは非常に面倒くさいが、もしかしたら何か有益な関係を築けるのかもしれない、と。
誰も知らないホームページだという事を信用するわけにはいかないが(もしかしたらクラス全員がウマイ棒を食べながら見ているかもしれないのだ)、調子に乗って自分の致命的秘密等を公開しなければ全く問題は無い。
楽しい会話…。
ユーモアのセンスを磨くには丁度良い環境を手に入れたと考えるべきだ。
早朝にこれをやれば、頭の体操にもなる。
由一はココアを飲みながら返事を打った。

【プログラミング得意なの? 】

【うん。パパがプログラマーなの】

由一は再び考えた。この二つのセリフのやり取りに続く何か面白いセリフはないものか…。
5秒以内に思いつかなければ会話のテンポを失う。
3秒考えたが、この時点で高次元の笑いを導くことは不可能に思えた。
由一にとっての佳苗の父親とは、見たことも無い、どこぞの見知らぬ中年男性なのだ。
ハゲているのかどうかすら知らない。
メガネかどうかも知らない。
知りたくもない。
そんな抽象的な人物について、いきなりつっこむことは出来ない。
由一は会話を続けた。
なにか二人が共通して認知できるものを引き出さなくてはならない。

【暗号まで使ってるってことは、誰にも知られたくないってことだろ? 学校では今まで通りの、ただの無関心極まりないクラスメイト関係を保つわけかい?】

【あなたがその方がいいと思ってね。なんとなく】

よく分かってるじゃないか。 と、由一は思った。

【まあね。でも、このチャットは一日1時間以内にしてくれないか。それ以上は出来ないよ】

【いいよ】

【それから、出来れば朝の6時からか、夜の10時からかにしてくれ】

【いいよ】

【できれば朝の6時からがいいな】

【いいよ】

 やけに素直だな、と由一は思った。
本などによる一般的な情報によると、この年頃の女子は好きな男に対して以外は、ズボラでガサツで図々しいという恐ろしいイメージが強かったのだが…。
まあ、たまには例外もいるということだ。

【それに、ド○えもんのポケットみたいに何かポンポン楽しいお話が飛び出してくるみたいな幸せな期待をしているようだけど、しばらくは無理だと思うからそのつもりでいてね。このややこしい形式なら尚更。「笑い」って言うのは、お互いに認識できる何らかの一般的な状況(べつにカツラが吹っ飛ぶとか、前の席の奴の背中に応募シールが5枚くらい張り付いているとかといった、特殊な状況でなくて良い)を何気なく共有することが、まず最低限の必要条件だからね。今のところ、君と俺が共有している事といったら、あのコマイヌだけだけど、同じ事を二回以上繰り返すのは、ひつこさを強調して、それにタイミングよく突っ込む形でしか笑いを得る要素は有り得ないから。しかもそれは第三者に対してであり、一対一でやっても寂しさがこみあげるだけだ。君が頑張って一人二役するなら、まあ話は別だけど。OK? 】

 由一は一気にこれだけ打ち、ココアをポッキーでかき混ぜながら、しばらくぼんやりと返信が来るのを待った。
これであのコマイヌ倶楽部の話は、もう二度と出てこないだろうな、などと考えながら。
しかしそれから数分間、佳苗からの応答は無かった。
少しイライラし始め、由一は宿題をやりながら待つことにしようと、学校の鞄からノートと筆箱を取り出した。
まず手始めに軽く数2の復習をしようと教科書のページをめくった所で、ようやくカタカタと音が鳴り、少し興奮気味の爽やかなお返事が表示された。

【やっぱり、あなたって天才よ。もう既にめちゃくちゃ面白いじゃない。よくこんな何も無いところから面白い文章を引き出してこれるね。すごい才能よ。どうして今まで誰とも話さなかったの? こういう風に】

 由一は急いでマウスを動かして、先ほどの自分の文書をもう一度注意深く読み直してみた。しかし、何がそんなに面白いのか、全く理解できなかった。
たしかに少し皮肉った文体に仕上げたつもりではあったが、そこまで笑わせようと思って書いたものではない。

何が面白かったのだろうか? 

まあ、このセリフを小学4年生くらいの生意気そうなメガネ少年が、ペンギンか何かの動物系着ぐるみをかぶって、メガネを中指で押し上げながらぺらぺらペラペラ喋り始めたとしたら少しは面白いかもしれないが…。
由一は思った。
…ということは吉村佳苗にとって、俺はこういう身の丈以上の知識と雰囲気を持った、インテリぶったクソ生意気な天然オタク少年なのだろうか?
確かに女性のほうが男性よりも精神の成熟は早いらしいが…もしかして「かわいい」とか、そういう風に受け取られているのだろうか? まあ別にいいけど。

【そりゃどうも。でもこんな文章がパッと書けるのはいつも本を読んでるからだ。友達と遊び倒していると、こうはならないだろう。人生、そう上手くは行かないさ】

【確かに。あなたっていつも本読んでるよね。さっき思い出したけど、一年の避難訓練の時にも本を読みながら避難してて没収されてたよね】

そういえばそんな事もあったな、と由一は少し懐かしい気持ちで思い返した。
実を言うと、あれは緻密な計算に基づいた計画的な犯行だった。
優等生(中学時代は今よりももっと成績が良かった)がいつも一人でいると、回りから何かと顰蹙を買う恐れがある。
そこで、たまにこうして規則や教師に堂々とボケて逆らうことで、意外にちょっと抜けてる奴なんだ、と思わせ、皆を安心させておく必要があったのだ。
思えば、けなげな努力をしていたものだ。

【ああ、あれね。よく憶えてるね。丁度あの時読んでた本も災害がテーマだったんだ。まあタイトルは『カリスマ火事場泥棒とカリスマ主婦によるベンジャミン・フランクリン解読』だったけど】

 由一は全く存在しないであろうありえない本の名前を即興で作り、チャットに打ち込んだ。

【よく考えれば、あなたって実はあの時から天然ぽくって、結構面白かったんだよね。そういえば、埃を吸い込んで先生の顔面にフルーツジュース吹きかけたりもしてたし・・。教室でいつも一人で難しい本読んでるから、気付くのは不可能だったけど】

【君のほうこそ、こんなプログラムを作ったり、そんな積極的な奴だったなんて知らなかったよ。爽やかなだけじゃなかったんだね。何クラブだったっけ? 生徒会?】

【いいえ。どこにも入ってないわ。勉強に忙しくて帰宅部よ】

由一は『一緒に帰ろ? 』というキャッチコピーで一人の文科系女子高生(真横から撮影。うつむき加減。微笑)が儚げに映っている帰宅部のポスターが一瞬だけ脳裏に浮かんですぐ消えた。

【一日どれくらい勉強してる? 】

由一は死ぬほどどうでもいい事を質問してみた。

【私は塾に行ってるんだけど、平均すると一日6時間ね。学校を除いて。あなたは?】

由一は普通に驚いた。
本当に一日6時間も勉強している学生がこの日本に存在するのか、と。
由一は本ばかり読んでいて、実際に学校の勉強などほとんどしていなかった。
学校の勉強とは、授業を真面目に聞き、宿題を昼休みに済ませ、予習復習をバスの中でし、後は適当に気が向いたときに単語帳を見たり、眠れない夜に教育テレビの再放送を見たり(意外と分かり易い)、そんな風に気軽に行うべきだと思っていた。
第一、あんなものはそれで十分だ。
学勉なんて退屈極まりないものに本気で付き合っていたら、それこそ本当に気が狂うだろう。
何かを学ぶとは、本当はとても楽しい行為なのだ。
だから読書は素晴らしいのだ。
由一は強くそう思い、さっそくその事をズラズラ書き連ねてやろうと、キーボードに向かった。
しかし、完成した800字程度の小論文をもう一度冷静に読み返してみて、由一は思わず冷や汗をかいた。
昨日初めて口を利いたクラスメイト吉本佳苗に対して、何故いきなりこんなマニアックな重い説教を垂れなくてはならないのか?
由一は急いでデリートキーを連打し、改めてあたりさわりの無い文章を打ち直し、エンターキーを押した。

【宿題と予習復習を出来るだけ素早く済ませるだけだから、授業を除けば1時間くらいかな。計ったことないから分からないけど。でも、俺は6時間なんて絶対ムリだな。ロープで椅子に縛りつけられて拷問されてもムリだ】

【たしかに。勉強って、なんでこんなに疲れるのかな?】

【まあ、興味が無い人間にとっては知的拷問以外の何モノでもないよ。好きなことなら、時間を忘れて打ち込めるだろ? 】

【でも、やらなきゃいけないもんね。脳みそに直接インストールできればいいのにね。相加相乗平均の定理とか】

【ああ。本当に素晴らしいよな。一体どうやったらX軸を中心に秒速コサインZで回転する半径3の円Pの軌跡を求めなければいけない状況に出くわすんだか。フラダンスを数学的に踊る時かな? それともシンプルに宇宙開発か? 年間、一体どれだけの人間が宇宙開発に携わるんだろうな。なぜテレビ局はこんな疑問をほったらかしにして、住宅街に迷い込んだサルの子供なんかを追い回していられるんだろうな。あれ見てたらムカつくのは僕だけなのかな? 次もどうせペンギンか何かが脱走するんだろ? 短い足をフル回転させて逃げる後ろ姿とスタジオのコメンテイターの微笑が目に浮かぶよまったく。ほんと、可愛いよな。


撃ち殺してやろうか】

【ほんと不思議よね。へロンの公式とか、どうしてもそれが必要なときだけ教えて欲しいよねー。必要なときなら記憶にも残るだろうしさあ。第一、人の名前なんて関係ないと思うのよね。アボガドロ係数だろうがアボガド係数だろうが、知ったこっちゃないよね。なんでそんなに細かく覚えて欲しいわけ? 物理だって、ややこしい公式は撤去して、まず概念だけを教えてくれればいいのに。重力加速度が9.8なんて数字で書かれても、ピンとこないしね。抽象的にもほどがあるよね。計算するときにはそりゃあ便利だけど。まあ私は全部覚えたけど】

【重力加速度とか、微分積分とか、大砲の弾道計算をするときに大いに役立ったそうだ。…大砲。ドカーン。ふーん。この先、大砲の弾道予測をする機会に恵まれる幸運な日本人が何人いるかな? でも、海の底より暗い気分になるから、この話題はそろそろ変えよう。何か最近、楽しい事なかったかい? 】

由一は話の流れを、無理やり直角に変えた。

【楽しいことね…。お小遣いが1500円アップッしたわ。この間の中間テスト、3教科100点だったから。…それくらいね。悲惨な話なら山ほどあるけど】

100点?

由一は再び少し懐かしい気持ちになった。
由一が最後に100点を取ったのは、中学一年一学期の英語の中間テストだった。
ディス イズ ア ペン.
アイ アム ジョンソン. 
センキュー ベリーマッチ.
キル ユー? 
 
【僕も悲惨な話なら沢山あるよ。例えば、去年の夏休みは3日間だけしか外出しなかった。全国高校生クイズの開会式を見たときには、ちょっと涙がでた。崩れ落ちそうになったんだ。親戚の叔母さんにはニートだと思われたし、9月1日の始業式には一度も話したことの無いクラスメイトに突然肩をたたかれて「奇跡の白さだね」って言われた】

【そう言えばあなた一人だけ、蛍光灯並みに白かったよね。今年もまた太陽の光は浴びない予定なの?】

【たぶんね。明るい話は?】

【私、塾へは自転車通学だったんだけど、昨日、見事に盗まれたわ。5万円もして、まだ2回くらいしか乗ってないのに。しかも今朝、親に怒られたわ。なんにも悪くない私が。しっかりしなさいって】

暗くなる一方だった。

【遠隔操作で自爆させられればいいのにな】

【あ、それいいかも。私、昨日の夜は、盗んだ奴のことばっかり考えてたわ。あなたのことも考えてたけどね。どんな顔だったのか、どんな服装だったのか、年齢はどれくらいで、趣味は何なのかって】

 由一は暗黒魔界の森で、奇跡的にもランプを入手することに成功した。
この素晴らしい会話の流れから察するに、おそらく佳苗は自転車なんて盗まれてはいないのだろう。
ただこの話に上手く繋げろといっているのだ。
つまり、これはネタである可能性が極めて高いと言える。
由一は瞬時にそう判断した。
佳苗は楽しい会話をしたいと言っていたが、まさかネタフリまでしてくれとは、由一は夢にも思っていなかった。
ここまで素材がそろっているなんて、直接わき腹をくすぐるのと大差ないではないか。

【きっと、身長は150センチくらいの小男で、動きがすばしこい。色黒で、木登りと鉄棒が上手い】

 由一はスラスラ打ったが、ふと、あまりピンとくるものが無いことに気が付いた。
はっきり言って、それほど面白くないような気がする…。
ツボにはまれば笑えるだろうが…
ポッキーを嘗めながら、由一は初めて、少し不安な気持ちで返事を待った。
しかしそれから約2分後、佳苗からの英語の長文問題よりも長い、鬼のような返信が来るのを見て、由一はそんな心配は全く無用だったと思い知ることになった。
カタカタカタカタと鳴り続けるタイプライターの擬音がうるさかったので、由一はパソコンの音量レベルを1に設定した。

【身長はもっと強調しなきゃだめよ。102センチってとこね。幼稚園の年少さん並み。で、その小男には2メートルの相棒がいるの。名前はカタカナでピエール=ハットリ。ピエールは普段は動きが遅いんだけど、ピアノで「ネコ踏んじゃった」を引くときだけは誰よりも早いわ。何故そうなのかは本人にも分からない。バカだから。短気な小男はピエールにはいつも偉そうな態度をとるの。でもピエールは素直に小男に従ってるの。そんなピエールも、一回だけ小男を窓から投げ飛ばしたことがあるわ。ピエールは見ているテレビの前を3回連続で横切られると、ぶちキレる性格なの。小男は飛びながら思ったわ。先に言えよって。で、その2日後に私の自転車を盗んでくれたの。チェーンロックをボルトクリッパーでちょん切るなんて、ほんと最高よね。二人はとてもいいコンビよ。折りたたみの地図を全開にして、道に迷って立ち尽くしているアホ満点を演じるピエール(本当は演じるまでも無いけどね)の影で、小男はテキパキと動き回るの。犯行時間は5秒足らずね】

 もしかして佳苗は本当に自転車を盗まれているんじゃないか、と由一は密かにそう思った。
そうとう頭にきていないと、こんな文章はパッと書けないだろう。怨念のようなものを感じるのだ。この文字列からは。
由一は慰みの文章を打つことにした。
しかしその時…

【ごめん。エミから電話かかってきちゃった。今から軽く1時間は付き合わされるわ。また明日。ちなみに今日の君との会話で、私たぶん400キロカロリーは消費したと思うわ。笑いすぎて。じゃあ次は明日の朝6時。 起きれたらだけど。じゃあね】

 最後にカシャカシャと音が鳴り、to be continued という文字が右下に流れ、しばらくして画面が砂嵐になった。嫌がらせだろうか?
「…テンション高いよ」
 由一はそう呟いて、少し呆れながらザーザー鳴っているパソコンの電源を落とした。



[25570] ユーモア理論?
Name: 久能宗治◆74cd043f ID:a251b5d3
Date: 2011/01/25 22:17
翌朝、由一は鳴り響く目覚まし時計を左手で静かに止めた。
ゾンビのような動作でベッドから這い出て部屋のカーテンを開け、あくびをしながら背伸びをして制服に着替え、洗面所へと向かった。

奇妙な事に、なんだか体が軽い感じがした。

洗顔を済ませてリビングルームへ行くと、由一の両親はもう既に身支度を整え、お互い忙しくニュースを交代で見て教えあっていた。
最後に天気予報を確認し、それから二人は互いの荷物をチェックしあい、それぞれ由一に
「おはよう。行ってくる」
「今日はきっと夕飯作るわね」
と言って、あわただしくそれぞれの職場へと出かけていった。
由一は玄関の鍵を閉めながら、小さくため息をついた。
有名大学を出てエリート街道を進み、地元でも会社内でもそれぞれ尊敬される地位にあるのが、偉大なる由一の両親だった。
そんな彼らから見れば由一は、思いっきり不出来な失敗作でしかなかった。
幼稚園の知能テストで平均以下の数値を取り、私立の小学校の入試に失敗したその時点で、両親の由一に対する愛着や意識はため池に投げ込んだ入浴剤のように薄まっていた。
自分たちの期待を激しく裏切ったことが彼らにとっては人生最大のショックであり、それらの負の思念はトゲのように、まだ幼かった由一に向かって突き刺さっていた。
しかも普段は本ばかり読んでいて、たまに意味不明の奇行に走ることがあると分かってからは、

 頼むから犯罪者にだけはならないでくれ

というような哀願だけが彼らの目の奥に潜むようになって、由一は10歳になる頃には、両親に対する尊敬心やら思慕の念やらといったものを、完全に失ってしまっていた。
由一はそれらのことに関してどうこう考えるのは、とうの昔にやめることにしていた。
完全に諦めていたのだ。
訳の分からない先祖から引き継いだ意味不明のキ印の血統に恵まれ、一人で本ばかり読んで過ごした少年期が、由一の性格なりものの考え方なりと言ったものを完全に決定付けていた。
世の中にはどうにもならないことが沢山あるのである。
たとえ、幼少の頃の凡庸さが、実はアレルギー体質によるハンディーキャップによるものだったとしてもだ。

 キッチンでトーストを焼きながら、洗面所で一応生えている髭をそり、スプーンで紅茶を混ぜながらテレビのニュースを10分間ほど眺めると、時刻は6時5分となった。
由一はトーストとミルクティーを持って自分の部屋に戻り、パソコンの電源を入れた。
新たにページを開くと、昨日までの文章は消えていた。そして驚いたことに、もうすでに新しい文が打ち込まれていた。

【おはよ。早起きね】

 これでもしも僕が返事をしなかったらどうなるのだろうか…と、由一は一瞬そう思いながら返事を打った。
それにしても、まるでドラマか何かのヒロインの台詞のようだ。
寝ぼけているのだろうか。
一度言ってみたかったのだろうか。

【俺はいつも通りだけど。で、どうするんだい? 完全に昨日の続きから始めるのかい? 】

【昨日って、なに話してたっけ? 】

 由一は思った。
やはり佳苗は少し寝ぼけているようだ。
あの傑作を忘れるとは。

【ピエールが自転車かっぱらった話】

【ああ、あれね。別に? 笑えれば何でもいいと思うけど。面白ければ勝ちよ】

「別に?」 の ?マーク が、由一の心の琴線にやさしく触れた。
同時に由一は悟った。
やっぱり本は正しい。
佳苗は由一のことを、目覚めに一発のお笑いアトラクションか何かの一種だと認識しているようだ。
由一は思わず笑みがこぼれた。
いい機会だから実験してみるとしよう。
人は笑い過ぎて呼吸困難に陥り、失神してしまうことがあるのかどうか。
由一は少し乗り気になってきている自分に気が付いた。
これは一種の攻防戦なのだ。
とりあえずアゴでも外してやろう。

【じゃあ、君の笑いのツボを教えてくれないか。
君は一体どういうものに対してユーモアを感じるんだ? 
具体的な状況を挙げながら何がどう面白く感じるのか、詳しく書き出してくれ。
今までの人生で一番笑えた事はどんなことだった? 
別に少しくらい倫理に反していても構わないよ。
笑いなんて、大体そんなもんだから。恥ずかしがらずに言ってごらん】

 まずこの質問から始めるべきだったと、由一は思った。
どうせ笑わせるのだったら狙い撃ちできるほうが楽しいし、その方が効率的だ。

【そんなこと言われても、急には分からないわ。
笑いのツボって言われても、そんなの言葉で説明できるの? 】

由一は真剣に考えた。
とにかく佳苗のツボが分かればいいのだ。
自分で分からないのなら、炙り出してやろう。

【じゃあ、テレビの大災害ニュースを見ていて、大笑いしてしまった経験はあるかな】

【あるわけ無いでしょ】

【一番好きなギャグ漫画は何?】

【漫画は読まないの】

【クラスメイトの中で、一番面白い顔をしていると思うのは誰? 】

【言えないわ。その子と仲いいから】

 この返事には、由一のほうが笑ってしまった。

【今から3年以内に顔に落書きをされたことはある? 】

【あるわ。去年、額に『殺』って描かれた。ルリに】

ここまでは単なる時間稼ぎだった。
これからの質問が本番だ。
由一は頭の中でまとめた質問を、しっかりと確かめながら打ち込んでいった。

【じゃあ次の4つのうち、どれが一番面白いか5秒以内に答えてくれ。
1、卒業式の日に、クラス全員で黒縁メガネをかけて、髪形を七三わけに統一(仕草、表情なども統一)して足を跳ね上げて歩く軍隊式歩行で入場。
2、みんなが徹夜で作ったドミノ倒しに、悪ガキが横からヘッドスライディングをかます0.2秒前の静止画像。
3、回転しながら起立、着席する頭の悪そうな生徒。
4、ハワイに旅行している間に、台風で家が飛ばされて跡形も無くなった、気の毒な親戚のおじさん。
さあどれ?】

【文章的には3ね。でも、実際にやってみて一番笑えるのは1か2ね】

 佳苗は即答した。
由一はもしや、佳苗は実は相当頭が良いのではないかと思った。
それとも単に笑いに対して厳しいだけなのだろうか。

【次のうち、18歳の誕生日に貰って一番笑えるものは? 
1、コケシ。
2、そろばん。
3、牛乳瓶のふた200枚。
4、ひまわりの種。
5、ハチミツ】

【5のハチミツね。コケシも捨てがたいけど。3と4は笑う前に本気で怒ると思うわ】

 由一は微笑んだ。
さてと、どうやって昇天させてやろうか。
由一はワードを立ち上げ、そこに暗号で次のようにメモを打った。

『吉村佳苗のツボ・・・シンプルで、わざとらしくない、さりげないイボのような物に対して、ユーモアを感じる。
常に真剣さ(よく考えること)を忘れないバカ正直な性格も使える。
基本的に、直接笑わせようとするよりも、一度何かを経由して間接的に狙うほうが効果的である。
シンプル系反射型のツボの持ち主。
さらに幸いなことに、本人自身も笑いに対してかなり積極的。
頭はいいけど実はバカという残念なタイプ』

【最後の質問。君の部屋には何が置いてあるか、出来る限り詳しく説明して欲しい】

 しばらく間が空いた。
その間に、由一はトーストを食べ終え、食器を片付け、学校へ行く準備をした。
約5分後、セピア色のディスプレイに長い文章が打ち出された。

【家は2階建てで、二階にある私の部屋は洋室で、広さは5畳半。
形は長方形で、一方の長いほうの辺の中央に窓があって、その窓にはブラインドをかけてある。
机はその窓の右側、ドアから最も離れた場所。
床はフローリングで、天井と壁紙の色は白。
机の上にはパソコンと本棚とスタンド、時計、プリンター、あとは小物。机の後ろにはベッドがあるわ。ドアを開けるとベッドの裾からはみ出したかけ布団がドアに巻き込まれて捲りあがる。
机から見てドアの右には棚と、その前に小さなテーブルが置いてあって、テーブルの上にはミニコンポが置いてある。
あとはクーラーがあって、クローゼットがあって、ゴミ箱と鞄が3つにクッションが2つ床に放置されているわ。
人形の趣味は無いけど、シルバー系の飾りがいくつかあるわ。そのくらい。引き出しの中身も知りたい?】

 ほぼ由一の予想通りだった。
小物とクッションが余計だが、それを除けばほとんど男子の部屋だ。
昨日の会話から考えても、佳苗は少し男っぽい。
背も高いし、女子にモテるタイプだろう。
しかし上品だ。
おそらくプログラマーの父親が遺伝的にきれい好きなのだろう。
由一は先ほどのメモの最後に、こう書き加えた。

『下ネタは敬遠。しかし、もし言ったとしても、おそらく皮肉的な表現が返ってくる程度である』

 由一は書いたメモをもう一度見直し、ふと思った。
佳苗とはいい友達になれるのかもしれない。
佳苗は常にプラス思考の出来る人間だ。
この人種と友達になってトラブルに巻き込まれる確率は非常に少ないと言える。
こちらがあまりにも破天荒な態度をとらない限りは、友好的に楽しく過ごせるだろう。

【わかった。出来るだけ楽しく会話できるように努力するよ。
でも、教室で俺の顔を見て、いきなり吹き出したりしないでくれよ】

【約束するわ。で、考えたんだけど、何か「お題」を決めない? 
いくらあなたが変態でも、普通の会話だけだと限度があると思うのよね。
どうかな? 】

変態って言われた…と、由一は思った。
しかしそのまま流すことにした。

【お題って、笑点やトーク番組みたいに? 】

【いや、もっと具体的な方が良いと思うわ】

由一はパソコンの前で首をかしげた。
彼女は何が言いたのだろうか?

【例えば? 】

【例えば、いきなり「夏」とかをお題にして面白い話をするのは、かえって難しいと思うの。
由一君、昨日言ってたでしょ? 
ユーモアはお互いに認識できる状況をさり気なく共有することが最低限の必要条件だって。
つまり、笑いの果実を収穫するフィールドが必要なわけよ。
そのフィールドに二人で立って、話をするの。
で、単純に考えてそのフィールドは一つよりも、二つ三つのほうが収穫量は増えるでしょ? 
だから、お題という名の状況設定をするのよ。
「センター試験の前日にボーリング場で合コン」とか、
「夕日のまぶしい屋上で一人考え事をしている誰かの後ろをわざと通り過ぎる」とか。
できるだけ複雑な状況のほうが良いと思うんだけど。どうかしら? 】

 由一は考えてみた。
そして、これにはかなりの状況把握力と想像力が必要になるだろうと思った。
「センター試験前日にボーリング場で合コン」の場合ならば、これは親か教師の立場から呆然と彼らを見ている誰かを、さらに一歩後ろから第三者の立場で眺める必要がある。このとき、その親か教師の表情をリアルに想像できるかどうかがミソだ。
「夕日のまぶしい屋上で~」の場合ならば、考え事をしているのは世の中を理解している思慮深い人間でなくてはならない。
少なくとも、通りすがりの誰かに見られたことを恥ずかしく感じられなければ、まったく話にならないだろう。
吉村佳苗はどこまで把握しているのだろうか?
いや、この二つの状況を例として設定してきたことで、少なくとも「把握」までは完全に出来ていると言える。
それを分析する能力があるか無いかは、現時点ではまだ分からないが…。
そこまで真剣に考えたところで、由一は自分自身に対して吹き出してしまった。

…僕は一体何をしているのだろうか? こんな朝から。

それは誰にも分からない問題だった。

机の前の窓からは清々しい真っ白な朝日が差し込んでいた。
今日も快晴だった。

【言いたいことは良く分かったよ。ただ、考え方がまだまだ甘いね。
どうせなら、「笑いそのものを分析する」という姿勢で話を進めるべきじゃないかな。
そのほうが効率的だ。
自分だけじゃなくて、他人の笑いの思考も統括的に考えるんだ。
なぜ一つのギャグで、笑う人と、大笑いする人と、全く無反応な人が出るのか。
しかし、100人中99人が笑ってしまうパーフェクトなユーモアも確かに存在する。一体なぜか。
それを詳しく分析する。そして実験として、君の言うタイトルつかみ的なフィールドを設定し、活用する。
まず仮説を作って、フィールドで検証していくんだ】

由一は冷静に戻ってそう打ち込んだ。

【なるほど。難しそうだけど面白そうね。さっそくやりましょう。
えー、まず何から始めればいいのかしら? 
ユーモア理論の仮説作成? 】

すぐさま反応があった。
由一はなんだか面白くなってきて、どんどん話を前に進める事にした。

【いや、現時点でそれは不可能だろ。まずは現存する技の分析だな。
例えば、「ボケ」と「つっこみ」。
他にも命名はされては無いけど、そうだな。この際、適当に仮定しとこうか。
「チェケラッチョ」「重ね」「反復」「強調」「未知との遭遇」「冷静」「間隔」「極度」「擬態」「特徴」「ワープ」「素」「例題」「言い換え」などなど、名付けられそうなものは他にも沢山ある。
こいつらを分析して一つでも多くの事例を挙げ、全ての「笑い要素」を種類別に把握できるように分類するんだ。
で、関係を洗っていき、法則を抽出する】

しばらく間があった。
おそらく「チェケラッチョ」「反復」「擬態」などの意味を真剣な顔で考えているのだろう。
由一は適当に命名したこれらが、果たして伝わるのだろうかと思った。
この文章がどの程度伝わるかによって、今後の会話のテンポが大きく変わってくる。
とは言っても、そんなに深く考える必要は全く無いが。
呆れるほどに。

【擬態は「激似さん」とかモノマネのことでしょ? 
それから反復は繰り返し。間隔、特徴、強調、言い換え、・・・それに「冷静」もなんとなく分かるけど、それ以外は分からないわ。
「極度」って何? 
「重ね」は? 】

佳苗の質問に対して、由一は例を挙げて説明することにした。
まずは最低限これらを大体理解してもらう必要がある。

【まず「重ね」って言うのは、同時にかぶること。
どこか静かな空間で、突然2人が全く同じタイミングでくしゃみをしたらちょっと笑えるだろ? 
「極度」っていうのは「いやいやいやいやっ」って空中で往復ビンタを素振りしながら叫びたくなるようなことだ。織田信長を落とし穴にハメるとか、朝礼中に校長先生のズボンをずり下ろすとかかな。強いて言えばね。
「素」は「天然」、あるいは「不意打ち」かな。
それから「未知との遭遇」は、「完全に理解できないこと」だ。
幼稚園児に微分積分を教えているところを想像してみたまえ。頭の上にクエスチョンマークが飛んでいるのが見えるだろ? 
「ワープ」は、流れを一瞬で変えることだ。これは口では説明しづらい。
強いて言うなら、会話でも態度でも何でもかんでも、一定の流れのあるものは緊急方向転換をしたら面白い場合があるってことだ。
「例題」は、主に文章中でのテクニックだな。真面目な政治経済などの話の中で、「たとえば、君の兄が下着マニアだとして、好みのパンツの種類を中心極限定理に掛けると、色とボーダーラインの相対性が極限値を求めて発散してコンパイルするから…」などといった楽しい例題を設定する。
ただそれだけのことだ。
「チェケラッチョ」は単純におちょくってるって意味だ。
大体分かった? 
こんなのテキトーでいいんだよ。
僕も真剣に考えたわけじゃないし】

【なんとなく分かったわ。で、さっそく考えたんだけど、「断定」ってどうかな? 】

 由一はしばらく考えた。

断定…断定…

ズバリそうでしょう…。

【残念。「断定」は「強調」の一種だね】

【あ、そっか。じゃあ、「並列」は? 】

 並列? 

由一は首をかしげた。

【なにそれ? 】

【たとえば、何かの隣に有り得ないものを…って、それは「極度」っていうのか。
ごめん。今のナシ】

全然面白くないノリつっこみが炸裂した。

由一は時計に目をやった。
時刻は6時55分。
あと5分で学校に行く時間だった。
これより早く出てもバス停で待たされる事になるし、これ以上遅く出ても、バス停までの10メートルほどを小走りになる必要があった。
由一にとってはどちらも不快なことだった。
由一はバス停までは普通にゆっくり歩いて、そのまま歩みを止めることなく、並んでいる人たち(約12名)が歩き出すその流れに沿って、バスのドアをスムーズにくぐり抜けることに命を懸けていたからだ。
バスはいつも、等速直線運動で歩いてくる名取由一を乗せた0,5秒後にドアを閉め、由一が座席に着くと同時にブルルンと発進していた。
由一にとっては、この背もたれにもたれかかった瞬間のブルルンが毎朝の楽しみの一つだったのだ。

【今日はこれで終わりにしよう。また明日】

【分かった。じゃあね】

再び画面が砂嵐になった。

由一は今度、この不吉な締めくくり方をやめてくれるように言おうと思った。
2回やられると腹が立つ。
というか、一体どういうセンスしてるんだろうか?
本人はおそらく、『やったった』みたいな顔してるんだろうが。

由一はパソコンを閉じて上着を羽織り、学校へ向かった。



[25570] 回想 ―佳苗編―
Name: 久能宗治◆74cd043f ID:a251b5d3
Date: 2011/01/26 23:29
今まで、吉村佳苗にとっての名取 由一とは、単なる影の薄い穏やかな男子生徒以外の何者でもなかった。
どうにも記憶に残っていなかったので、佳苗は昨日の晩、中学の頃のアルバムを開いて、じっくりと再確認してみることにした。
すると驚いたことに、中一、中三と、由一と佳苗は同じクラスだった。
しかも由一は、黒縁の度のきつそうなメガネをかけていた。
いつの間にコンタクトに変えたのだろうか?
佳苗は頭をフル回転させ、大脳新皮質から記憶をひねり出そうと努力してみたが、全く思い出すことができなかった。
実質3年以上も同じクラスにいながらパッと思い出せる事と言えば、クラス中が笑った由一の失敗的行動の2,3回くらい(その頃には既にコンタクトになっていた)と、三日前のコマイヌ事件だけだった。
佳苗は内心、信じられない気持ちでいた。
こんなにも変質的センスのある人間なら、クラスでも頭角を現していて当然である。
楽に人気者になれただろうに。
何か理由があるのだろうか?
聞いてみてもいいのだろうか?
それとも、人気や目立つことにあまり興味がないのかもしれない。
なんだかそんな気がする。
よく考えてみると、由一はどうもわざと自分の影を薄くしているような、そういう節も見うけられる。
佳苗は3つ手前に座っている由一の猫背を眺めながら、5時間目の保健の授業中、ぼんやりとそんな事を考えていた。

「そういう性格か…」

「何が? 」

隣の席に座っている幼馴染の田中瑠璃に聞かれ、佳苗は我に返った。
思わず声に出てしまっていたのだ。
「いや、なんでも。うちのグッピーが・・・ね? 」
 佳苗はとっさにそう誤魔化した。
「グッピー飼ってた? 」
「…この間、買ったのよ」
「へえ。今度見せてよ」
「あ、いいよ」
 佳苗は笑顔で喋りながら、近くにペットショップがあったかどうか考えた。
しかし瑠璃の記憶力を考慮すると、それほど心配する必要も無いと思った。
瑠璃の脳みそは、授業中に起こった出来事すべてを、チャイムと共に完全に消去する性質があるのだ。
便利なのか哀れなのかは、まあ、本人の考えかた次第である。

 今日は水曜日で、佳苗にとっては一週間で最も平和な時間割が組まれた日だった。
水曜と木曜は塾もなく、佳苗はこの二日間のことを、『台風の目』とよんでいた。

「ね、帰りにマック寄らない? 」

 6時間目終了のチャイムと共に、瑠璃がひそひそ声でそう言ってきた。
(この学校では、下校中に遊ぶことは禁止されている。
発覚した場合、その生徒は自分が最も苦手とする教科の教科書を丸々一冊、手書きで写し取らなければならない。
しかし、生活指導室がはりきっている割に、検挙率は5%未満だった。
それに万が一見つかったとしても、塾への腹ごしらえとでも言っておけば、楽にクリアできたのだ)
佳苗は快くOKした。
 佳苗は今日、二時間目の休み時間中、トイレから出て来たところで由一とパチッと目が合った。
半径7メートル以内には誰の気配もなかったので、佳苗はにっこりして話しかけようとした。
しかし由一は目をそらし、意味不明の念仏のようなひとり言をぶつぶつ言いながら通り過ぎ、男子トイレの中へと吸い込まれていった。
そして二度と出てくる事はなかった。
(教室に戻ると、普通に着席していた)

パソコンでの会話を始めて今日で三日目となったが、佳苗から見て、由一の学校での態度に変化は全く見られなかった。
由一は常に一人で、常に猫背で、常にどこか遠くのほうを見ていた。
しかし佳苗の方はというと、由一との会話が楽しくて仕方がなかった。
たった三日間で、このクラスで将来最も大物になるのは由一なのかもしれないと思うまでなっていた。
それどころか実際、高校在学中に、世界中の科学者達を出し抜いて、人間の「笑い」についての完全な法則を発見し、「ユーモア理論」なるものをどこぞの学会に発表するのではないかと、佳苗は密かに期待していた。
それほど由一の繰り出す文章は佳苗のツボに来ていた。
毎回ページを立ち上げるたびに、佳苗は腹筋が割れる思いだった。
今朝の文章も相変わらずの業物だった。
笑いすぎて、今でも少しわき腹が痛い程に。

【(前略) で、あるからして、君は以上の18個のワラ技(人を笑わす技法)に対して、満遍なく笑うことができる。
どのワラ技が好き、という問題ではないのだ。つまり重要なのはテクニック、すなわち組み合わせ方と表現方法だということ。
この二つによって、笑いは多様化していくと言える。
まず、何の変哲もない状況を想定して、そこにワラ技をいくつか当てはめていく。
例えば、「誰かが学校の廊下を歩いている」というごく普通の状況を想定する。
これだけなら、誰でも何個でも思いつくことが出来る。
この『誰か』は、誰でもいい。
本当に誰でもいいんだ…。
そして次にその状況にワラ技を当てはめていく。
これは最初は適当でいいと思う。
今回は試しに、外し、強調、重ね、反復の4つをアトランダムに使うことにする。
まだ僕は君を笑わせる文章を考えついているわけじゃない。
今から文章を打ちながら考えるんだよ。
まず「外し」からだが、この意味は言うまでも無く常識を外すという意味だから、例えば登山用スパイクを履いて摺り足で歩いているとか、前方5メートル地点の曲がり角の死角にジャガイモが転がっているとか、学校の廊下というものから見て非常識でいて、かつ、それが起こる可能性が0%ではないものを候補として挙げる。(ジャガイモは理科の実験に用いるので、ちゃんと校内に存在している)
次に「強調」だが、これには数多くの選択肢があるだろう。
一体何を強調するのかで結果は千差万別だ。
スパイクの場合なら、摺り足をしているのが一人ではなく登山部員25名全員だとか、あるいはその歩いている姿勢を思い切り猫背の蟹股にして、腕を大きく振って行進しているなどにしても良い。
何か奇声を叫ばしてもいいな。
学校の廊下という条件自体を、もっと傷つきやすい法隆寺の板の間(国宝)などに変えてしまえば、被害の強調になる。
ジャガイモの方なら、廊下一面をイモで埋め尽くしたり、転び方をスピーディーにアクロバティックにしたり、カツラを装着中の校長(PTA会長も可)を転倒させたり、書類を山ほど抱えて急いでいる新米教師を低空飛行させてもいい。
残念ながら、「重ね」と「反復」は今回はあまり役に立たないな。
強いて言うなら、誰か(3人以上)が同時にイモを踏んで飛ぶんだろうが、これははっきり言って幼稚園児レベルのユーモアだと思う。
かわりに「未知との遭遇」を使おう。
基本的に言って、「外し」、「ボケ」と「未知との遭遇」は、相性がいい。両者共に『不可解』を共有しているからな。
「なんでこんな所にお芋さんが? 」
という風に真剣に考えている通りすがりの一年の女子なんてどうかな? 
生活指導の教師が廊下の床に無数の傷跡を見つけて、しゃがみ込んで不思議そうに指でなぞっている姿なんてのも、吹き出しそうになりながら、彼ら(登山部員)の行進の後ろ姿を指差して教えてやりたくなるはずだ。
きっと教師はまず目をこすり、しばらくして状況を把握して固まるだろう。
(ここでは「間隔」が使える)
さらにここから「ジャガイモ」に繋げるのもいいだろう。
何連鎖できるか試してみるのも面白そうだ。
近代マスメディアを代表するギャグはほとんどが単発か、せいぜい2連鎖だからな】

 佳苗は今朝この文章を読み終えたとき、危うく食べていたコーンフレークをキーボードの上に全部噴射してしまうところだった。
今でも注意していないと、クラス中に響き渡る声で大笑いしてしまいそうだった。
佳苗の学校でのキャラは、爽やかで上品で親切で歯の白いスーパー優等生だったので、自分の部屋に一人でいる調子で、転げまわって笑うことだけは死んでもできなかった。
もし佳苗が授業中に突然そんな行動に出れば、急性盲腸炎にかかったのだと勘違いされ、5分後には駆けつけてきた救急隊の人達に、深く謝罪しているだろう。
そしてその次の日から、佳苗は鳥取か島根の学校に転校する事になるだろう。
「どうしたの? ニヤニヤして。そう言えば最近、佳苗って元気だよね。いつも元気だけど、今週に入ってから特に。中間テストが近いから? 」
瑠璃は鞄に教科書を詰め込みながら、佳苗の楽しそうな横顔を見てそう言った。
佳苗は内心ドキッとしたが、顔には一切出さなかった。
「さては、ようやく彼氏でも出来たか? 」
瑠璃は佳苗の顔を覗き込みながら言った。
大きな両目が興味深深で佳苗を見ていた。
佳苗はもう一度ドキッとした。
「んな訳ないじゃん。でも、メル友なら出来たわ」
佳苗はあわててそう言った。
そして表情をごまかすために、鞄から取り出した紙パックのフルーツ・オレをストローで飲んだ。
「へえー、佳苗もそーゆうことするんだ? 相手どんな奴? 年上? 」
「ちょっと変態なんだけど、話が合うのよ。便宜上「彼」って呼んでるけど、彼には感謝してるわ。いつか、直接会って話してみたいかも」
佳苗はすぐ前にいる由一にわざと聞こえるような声でそう言って、鞄を肩にかけた。
そして瑠璃と一緒に教室を出る際、まだ席に座ったままの由一を、佳苗は何気なく見た。
由一は背筋をピンと伸ばして椅子に座っていた。
めずらしいことだった。
その後姿からは、姿勢を正されるような、「凛」とした空気が感じられた。
肩越しに見える机の上には真っ白なノート開かれており、そこには筆ペンでなにやら太い四文字熟語が一つだけ書かれていた。
硬く握り締められた由一の両手の拳の間に、その文字はあった。

 砂嵐禁止。

由一の隣の席の松本恵那(身長152センチ)が、「きれいな字だね」と褒めながら、「どういう意味? 」と首をかしげていた。

気付いた時には、佳苗は口に含んでいたフルーツ・オレを、一滴残らずルリの顔に向かって吹きかけていた。

だって仕方なかったんだもん。
佳苗はルリに首を絞められながら心の中で弁解した。

これは無理だよ。

すごい筆圧で書かれたことが一目で分かるその文字からは、
「いい加減にしてくれ」
という怒りのオーラがダイレクトに伝わってきたのだから。
そして最後の“。”には、波動砲クラスの問答無用さが込められていたのだから。

「ここではなにも聞かない事がチームプレイだ」
首をかしげている松本にそう言い残して、由一は窒息しかけている佳苗の横を悠々と通り過ぎて帰っていった。



[25570] 幼馴染と少年X
Name: 久能宗治◆74cd043f ID:a251b5d3
Date: 2011/01/29 00:25
「今度の中間テストだけど、あと6日しかないよね。
私、昨日は徹夜で勉強するつもりだったのに、気が付いたらなぜか布団の中にいたわ。
ぶっちゃけ快眠だった。
10時間も眠ったの久しぶりよー。
佳苗はまた普通に1位とか取るんでしょ? 
この間は風邪気味で500人中4位だったもんね。
ほんと、IQ高いって羨ましいな」
マクドナルドの窓際席で、瑠璃はポテトを食べながら、いつもの調子でぼやき始めた。
幼稚園のヒヨコ組の頃から聞かされている佳苗は、もう慣れっこだった。
「そんなの関係ないよ。私、勉強してるもん。塾にも週5日通ってるし」
 佳苗がそう言うと、瑠璃はため息をついた。
「私なんて、数式や英単語を見ただけで呪われているような気持ちになるんだけど。
もう努力とかそれ以前の話でしょ? 
なんでうちの学校って文系も理系も授業が同じなのよ。
理解できないわ。頭悪いんじゃないの? 
今度文部省に投書してやる。文部省ってどこにあったっけ? 
アメリカ? 」
 学生の理系離れがマスコミなどにも注目され始めてはや十数年。
佳苗たちの学校は前理事長の退職と同時に、いち早く文理統合政策を開始した。
佳苗も初めは自分の目を疑った。
高校2年の新しい時間割表に、なぜか物理、数学、化学、生物、の欄が記載されていたのだ。
それから3日後に受けた物理の洗礼は特に強烈なものとして記憶に焼き付いている。
授業を受けていて分かったことは、川村という先生が何か物理的なことを必死で話しているということだけだった。
おかげさまで週2日だった塾は、一気に週5日となった。
笑い事ではなかった。
「何とかなるよ、きっと」
「まあ、追試にならないように努力はするけどねー」
 それから瑠璃はバニラシェイクを一気に飲み、ナゲットをつまみ、フィレオフィッシュバーガーにかじりつき、約10分で全てを平らげてしまった。
相変わらずすごい食欲だなと、佳苗は感心しながら、オレンジジュースだけを飲んでいた。
瑠璃が静かなのは、メール中と睡眠中、それと食事中だけだった。
中学校までは睡眠中も十分うるさかったが、高校生になってさすがに気になり始めたのか、最近はイビキも静かにかいていた。
しかし、食欲だけは相変わらずである。
これだけ食べて何故太らないのか、佳苗はいつも不思議に思っていた。
瑠璃は確かに頭は良くないが、顔はかわいいし、スタイルも抜群だった。
しかし、彼女とまともに付き合えた男は未だかつていない。
みんなもって、せいぜい一週間が限度である。
最初の3日間は神経が麻痺しているために何も分からないが、4日目辺りで異変に気付き、6日目までに危機感を覚え、7日目には完全に目を覚ますのである。
今までの被害者数は佳苗の知っているだけで、8人にも上った。
瑠璃は生まれつき少しキレやすくて、かなり情熱的で、結構図々しい性格なのだ。
根はいい娘なんだけれど。
たぶん。
「また今度も佳苗の家に泊まってもいい? 」
 高校に入って以来、瑠璃はテストが近づくと、必ずと言っていいほど佳苗の家に勉強を教えて貰うために泊まりに来ていた。
最初の頃はイビキがうるさくて、佳苗は夜中に泣きながらリビングルームに避難していたが、最近は鼻息が少し荒いだけだったので、安心して一緒に眠ることが出来た。
実を言うと、由一とのチャットを暗号化したのも、この瑠璃が泊まりに来たときのための対策だったのだ。
瑠璃はもちろんプログラムのプも分からない。
存在自体知らないだろう。
アルファベットと数字の羅列など、プログラミングをしているとそう言えば、全く疑わずに納得する。
唯一の心配は、瑠璃がキーボードの上にココアをぶちまけないかということだけだった。
よくやるのだ。
「いいよ。いつもの事だし。もう用意もできてるわ」
「ありがとー!  命の恩人よあなたは。佳苗がいなかったら私、もう7回は死んでるわ。
テスト終わったら合コン行かない? もう予定入ってるのよね~」
 また新たな被害者を増やしに行くようだ。
佳苗は抱きついてきた瑠璃をスルーして、笑顔で首を横に振った。
「遠慮しとく。エミと彩香と三人で行ってきて」
 佳苗がいつものように断ると、瑠璃もいつものように眉をひそめた。
「何で彼氏作らないの? 男友達は多いくせに。佳苗、絶対モテるよ? 頭いいし、性格いいし、スタイルいいし可愛いし。もう完璧なのに。何で? 」
 佳苗は瑠璃と話すときはほとんど頭を使っていなかったが、このときばかりは少しだけ考えることにした。
どうしてなのか、自分でもよく分からないのだ。
怖いのかもしれない。
あるいは、変態の名取由一に魅力を感じる私もやはり、少し変わってるのかもしれない。

類は類を呼ぶと言うし…

「分からないわ。なんとなくよ。キスとか、別にあんまり興味ないし…」
 それに比べ、瑠璃は既に小5の時に、学年一のハンサム君と佳苗の目の前でファーストキスを交わしていた。
あの頃の瑠璃は今よりもさらに行動力があり、佳苗は振り回されていた記憶があった。
まあ、それは今もあまり変わってないけど。
「好きな人が出来たらいつでも言って。きっかけなんて、一日5回は作ってあげるから。
じゃあ、さっそく今日から泊まっていい?  」
「いいよ。もう今から家来る?  」
 瑠璃はトレイに乗せた山盛りの紙くずとポテトの残骸をゴミ箱の中に雪崩れ込ませながら、笑顔で頷いた。
 
マックを出ると、外は既に夕焼けが広がっていた。
この時間帯に瑠璃と二人で歩いていると、佳苗はいつもなぜか小学生の頃を思い出した。
よく二人で遊んでいた、懐かしき無邪気な日々だった。
今から考えると笑ってしまうようなことを、毎日のようにしていた記憶がある。
一日に何人のクラスメイトを見かけられるかゲーム。
担任の教師を見つけて、どこまでも追跡ゲーム。(趣味はSMと判明)
繁華街キモ試しゲーム。
占い師観察ゲーム。
落し物追跡ゲーム。
無線盗聴ゲーム…などなど。
思えば、女子の遊び方としては少し変わっていたような気がする。
事実、小学校低学年までは、瑠璃はクラスでも少し浮いた存在だった。
彼女は早熟で、4年生にもなると、よく中学生に間違われた。
瑠璃に強制的にお洒落をさせられ繁華街に飛び出して、11歳の誕生日までに二人で何度ナンパされたことか。
佳苗は毎回心臓が止まる思いでいた。
5年生にもなると、瑠璃の女性としての魅力は徐々に加速し始め、この頃から瑠璃は浮いた存在から、男子の憧れの的へと鮮やかな転身をはたしていく。
中学3年生の頃がユリの人気の全盛期だったように思える。
しかし高校に入ってからは、なぜか瑠璃は行動を控え始めた。
ドラム役として所属していたセミプロバンドも抜け、銀色だった髪の毛(この頃の彼女のあだ名は『妖狐』だった)も、黒と茶色のマーブル模様になった。
(それでも普通と比べれば十分派手だった)
そして、あれは高校1年の2学期期末試験のとき。
瑠璃は佳苗に生まれて初めて勉強についての質問をしてきたのだ。
佳苗は最初、瑠璃は何かの罰ゲームにはまったのだろうと思っていたのだが、瑠璃は真剣に英語の時制法則について考えているのだった。
つまり、彼女はなぜか大学に進学する気になったのだった。
(瑠璃は小学校6年のとき、自分は宇宙一タレントの才能があると言っていた)
佳苗はこの奇跡に感動し、快く教師役を引き受けた。
そして少し嬉しくなって、つい口がすべり、「泊りがけで勉強合宿でも開こうか? 」と言ってしまったのが運の尽きだった。
最初の勉強合宿は佳苗にとって、トラウマものの修羅場と化した。
合宿初日の午前一時、瑠璃は二次関数がどうしても理解できず、癇癪を起こして佳苗に襲いかかった。
柔道二段だった佳苗は瑠璃を投げ倒しておとなしくさせたが、瑠璃はその衝撃で覚えていた(数少ない)英単語を全て忘れてしまったと言い張った。
佳苗は絶対に割に合わないと、理不尽な思いで泣きそうになりながらも、近くの24時間営業のファミレスで瑠璃にイチゴパフェをおごり、なんとかなだめすかしながら勉強を続けさせた。
寝不足とストレスによって、テストが終わる頃には、佳苗の顔には4つもニキビが芽吹き、体重は3キロも落ちていた。
(瑠璃が帰った後、それらの症状は2日で治った)
それから数日後のテスト結果発表で、一年生の校舎に激震が走ったのを、佳苗はよく覚えている。

―――推定M7,8。震源は1年2組の窓側前から4番目の席か―――

それがその日に屋上から撒かれた学校新聞の号外の見出しだった。
前回の中間試験で全教科0点(学校始まって以来の奇跡と謳われた)だったストロング・オフ・田中瑠璃(担任は激怒していた)が、なんと今回の期末で全教科60点越えというメイク・ミラクルを起こしたことで、地下の断層がずれたことが直接の原因だったと、後になってNASAの専門家はそう解説したとかしなかったとか…


家に着くと、佳苗はお気に入りのダテメガネを装着し、さっそくテスト勉強の準備を始めた。
ウォーミングアップとして3次式の因数分解を15問ほど解いた頃には、佳苗は既に教師モードに入っていた。
そして勉強開始25分後には、瑠璃は大学受験を決心したことを既に後悔し始めていた。
いつもこうだった。
佳苗は、瑠璃の1時間前までの勉強に対するやる気と情熱が、きれいな放物線を描いて急降下していくのを感じながら、不思議な気持ちでいた。
なぜこんなにも急激にやる気が失われていくのか。
佳苗には理解できなかった。
まるで穴の開いた風船だった。
もう少し、せめて3日間くらいは持ち堪えてくれてもいいのに、という言葉を呟きかけ、佳苗は慌てて口をつぐんだ。
右手にポテトがあった頃の瑠璃の目をダイヤモンドの煌きと仮定すると、今は死んだフナのうろこ程度の光沢を発している。
目蓋もドッキング体勢に近づいていた。
佳苗は活を入れた。

「ルリ? 公式は覚えてるよね? 」

「もちろん。バカにしないでよ。

…今から覚えるところ」

「はー…。まず公式が分からなければ、数学に関しては0点しか取れないわ。また」

「マジっすか? 」

「大マジよ。まず、解の公式は分かる? 」

「あー、面積を求めるやつでしょ? それくらい知ってるわ。基本よ」

瑠璃は自信満々にそう言った。
佳苗は思わず拍手をした。

「さすがっ!
やっぱり瑠璃はやる時はやるのよね。
やれば出来る子なのよ瑠璃は。
ただ、本気を出していないだけ…。
私は前から分かっていたわ。
見かけで人を判断するなんて、絶対駄目だよね。
だって人はみんな誰しも、素晴らしい可能性を秘めているのだから…



脳みそ腐ってる? 」

ルリははびっくりしたような顔をした。

しかし本当にびっくりしたのは佳苗のほうだった。

「解の公式は、2次方程式を因数分解できない時に用いる公式よ。
うん。
いや、そんな馬鹿なじゃなくて…
普通の式だからね?
エックスイコール2エー分のマイナスビープラスマイナスルートビー二乗マイナス4エーシー。
まずこの式と、この公式を見ながら30回繰り返し唱えてくれる? 
今日中にあと7個の公式を覚えられなければ、今夜は床の上で寝てもらいますから」
佳苗は融資を断る銀行員みたいな口調で、メガネを拭きながらそう言った。
「…はーい」
 最近の瑠璃は妙に大人しかったので、佳苗も安心して荒療治的な学習計画を進めることが出来た。
オペに例えるならば、脳腫瘍を摘出しながら肝臓を交換しながら心臓にペースメーカーを取り付けるついでに肺ガンをレーザーで焼切るというところだった。
結局その日、瑠璃は喉が枯れるまで公式を唱え、ペンだこができるまで計算式を書き続け、夜中の2時半、ようやく佳苗からベッドインの許可が下された。
「明日は瑠璃の得意な英語と日本史ね。
これはテストに出そうな重要なところをまとめるだけだから簡単ね。
数学の公式暗記の復習は学校で休み時間中に済ませておいて。
明後日からは物理と化学を集中的にするから。気合入れなきゃだめよ? 
体調に関する言い訳は聞かないからね」
「イエッサー…」
瑠璃は虚ろな目でそう言った。

電気を消して二人で布団に入ると、しばらくして回復してきた瑠璃が佳苗の右手を握ってきた。
「起きてる? 」
瑠璃は真っ暗な天井を見つめながら言った。
「なに? 」
佳苗は返事した。
「今日言ってたメル友ってさ、クラスの奴でしょ? 」
佳苗はラーメンを食べている最中に、いきなりエルボを喰らったような気分になった。
てっきり、「いい国つくろう平城京だよね? 」とか聞いてくると思っていたからだ。

「図星ね」

瑠璃は佳苗の脈拍をはかりながら言った。
彼女は頭はそれほどだったが、悪知恵だけは7歳の頃から天下無双だった。
「今から一人ずつクラスの男子の名前言ってくけど、どうする? 白状する? 」
ルリがニヤニヤしながらそう言っているのが佳苗には分かった。
そもそもが嘘のヘタな佳苗は、観念する事にした。

「名取由一」

瑠璃がベッドから落ちた。
佳苗は何が起こったのかと思った。
どうやったらあの体勢から落ちる事ができるのか?
「な、名取? 」
電気をつけると、床に尻餅をついた瑠璃が、驚愕の表情で佳苗を見上げていた。
「知ってるの? 」
佳苗は怪訝そうに聞いた。

まあ、クラスメイトだから知っていて当然なんだけど。本来ならば。

「小学校の時一緒だったじゃない。…あ、佳苗とはずっと別のクラスか…」
瑠璃は思い出しながら言った。
佳苗は驚いた。
そしてベッドから降りてクローゼットの引き出しを開け、中学校のアルバムの左に置いてある小学校のそれを引っ掴んで開いてみた。
「あ、ほんとだ」
6年3組の中断列に、まだあどけない表情の由一が写っていた。
最上段列の左端には金髪の瑠璃が仏頂面で写っている。
「あいつは変態だよ? なんでよりによって佳苗が…」
「何か知ってるの? 」
「知ってるも何も…あいつのせいで、5年生の時の担任は失踪したんだから」
佳苗は耳を疑った。
「どういうこと? 」
佳苗が聞くと、瑠璃はしかめっ面で目をそらした。
「まあ、うわさなんだけどね。
でも友達として忠告するわ。
あいつとは付き合わないほうがいいって。
みんなそう言うよ」
佳奈には瑠璃が本心でそう言っているのが分かっていた。

でも…

「今日のことは誰にも言わないで。約束して」
佳奈は真剣な顔でそう言った。
「いやいや…」
瑠璃は何か言いかけたが、佳苗の表情を見てあきらめた。
長い付き合いだった彼女たちは、お互いの強情さをお互いによく理解していたのだ。
「わかった。でも気をつけてね。
頭がいい人ほど、あいつには影響されるらしいんだ」
瑠璃は佳苗を見つめながらそう言った。
「…わかった」

二人はベッドに戻り、目を閉じた。
色々な思いが頭の中をよぎったが、睡魔の前では何もかもがぼやけていた。

佳苗はしばらくして意識を失った。


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