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[17818] 魔法少女リリカルなのはTREIZE The 13th Numbers   オリ主 原作アフター
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/12/02 22:58
 今回から初めてこちらに投稿させて頂くことになりました、作者の「毒素N」でございます。拙文でお見苦しい事この上ないことかも知れませんが、読者の方々には何卒寛容な心で読んでもらえればと思っております。
尚、私はこことは別のサイトでも同一のPNでタイトルを少し変えて投稿させて頂いております。現在あちらのサイトはメンテ中ですが、いずれは掲示板内で告知する予定ですので、ご安心ください。

 タイトルからお察しの通り、本作品は「13番目のナンバーズ」と言う架空の存在が居たとしてのIFモノであります。

 注意点

 ・基本的にアニメ、及びサウンドステージに準拠した設定としております。
 ・オリ主ですが、ひょっとしたらチートかも知れません。その点は作品を進める中で徐々に修整を掛けて行くつもりです。
 ・時系列はStSのTV本編の後、SSXよりも三ヶ月後と言う設定になっております。
 ・所謂アフター物でもあります。なので原作の設定を引き継ぎながらも多々オリ設定が垣間見えますが、仕様だと受け流してもらえれば幸いです。
 ・主人公なのに余り目立ってないかもしれません。
 ・主人公とは別に名有りオリキャラが重要ポジに居ますが、そちらは本作のキーパーソンではありません。
 ・Q.どうして題名になのはさんの名前が?/伝統です(キリッ

 本編に関する注意点は以上です。読後は何かしらの感想を頂ければと思っておりますが、作品に対する過剰且つ執拗なまでの批判……俗に言う荒らし行為は控えてもらいます。そうでなければ、私は読者である皆様の意見なども元にして誠心誠意連載を続けて行く所存です。
 どうか最後までお付き合いください。





12/02 この先更新が不定期になる恐れがありますが、執筆に対する意欲が低下したとかではなく、一身上の都合によるモノですので悪しからず。あくまで、「そうなるかも知れない」と言うだけなので、胸の内に留めておくだけで結構です。



[17818] 序章 
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/04/01 17:31
 ミッドチルダ、新暦75年9月19日―この日、次元犯罪者ジェイル・スカリエッティ博士が機動六課の手によって逮捕されたことにより、首都クラナガンを始めとするミッド全体を震撼させた世に言うJ・S事件は幕を閉じた。

 首謀者のスカリエッティは第9無人世界グリューエン軌道拘置所に無期懲役の収監、12名の存在が確認されていたナンバーズの内4名は事件の捜査に非協力的であったために同じく別々の軌道拘置所に収監。この件とは別にNo.2ドゥーエは地上本部総司令レジアス・ゲイズ中将を殺害の後にその場に居合わせたゼスト・グランガイツによって機動停止、管理局によって処分が決定。

 共犯者ルーテシア・アルピーノは魔力封印処置を施された後、第34無人世界マークラン第1区画にてメガーヌ・アルピーノと共に隔離処分。残りのナンバーズ7名は捜査に協力的、保護後は海上更正施設へと編入し、現在はギンガ・ナカジマ陸曹協力の元で更正プログラム受講中。プログラムに目立った支障などは無く、このまま問題無く受講が進めば社会復帰も――



 新暦78年11月6日―時空管理局本局・次元航行部隊所属XV級艦船「クラウディア」艦長、クロノ・ハラオウン提督執務室にて……。

 「J・S事件の第五次報告書、確かに受け取ったよ。仕事が早いのは相変わらずだな。こちらとしては嬉しい限りだが、あまり無理はするなよ?」

 「どういたしまして。こっちも仕事でやっていることだし。て言うかいつも山の様に仕事を盛り付けているのは義兄さんじゃない。特に無限書庫はいつも火の車だってユーノも言ってたんだから」

 「あそこは次元世界やロストロギアの資料請求に必要不可欠だからまだ良いとして……。そんなに僕は請求する仕事量が多いか?」

 「職場で『クロノ・ハラオウン』って言えば入り立ての職員以外は9割が泣きつくわ」

 「……聞きたくはないが後の10%は何だ?」

 「良くて辞表、悪ければ発狂するって噂よ」

 汚れ一つないデスクの上でクロノは盛大に溜息をついた。前々からユーノに似たような事は言われて自分なりに自覚はしていたつもりでいたが、改めて身内から同じことを聞かされるとやはりどうにかしなければと思えてしまう。しかし、こちらとて何も嫌味でやっている訳ではない。執務官になり、提督へと身を上げてからはほぼ毎日が書類にサインを振る始末。さらに自分には次元航行部隊を率いて指揮する艦長としての務めまである。年間で数回以上もの次元世界の調査・探索には無限書庫の情報は不可欠であるし、その情報を得てからも書類を片手に各部署への資料提出の催促を行わなければならない。部署の者達には申し訳ないが、こちらも良心が痛むなどと言っている暇は到底ない。

 「僕だって出来ることならなるべく無理の無いようにはしてやりたいさ。しかしJ・S事件から間を置いたとは言え、先のマリアージュ事件のことが尾を引いているのが原因で今このミッドチルダはこれまでに無い混乱期に突入している。はっきり言ってやる事が山積みなのは仕方がないんだ。むしろこれ以上の災厄が無いことを祈るより他はないよ。分かってくれ、フェイト」

 「うん……。ごめんね、クロノだって忙しいのは同じなのに我儘言っちゃって」

 「いや、いいんだ。上に立つ者としてこれ位の苦情でへこんではいられないからな」

 目の前の執務官、義妹フェイトの言い分はもっともだ。やはり事件が多発しているのを人員酷使の理由にはこれ以上できない。管理局の体制に欠点があるのかも知れないが、それは最早誰の所為と言う訳でもないのだから。

 「……そう言えば」

 「うん?」

 「ナンバーズの面々はどうなった? 引き取り先で何か問題は?」

 「特に何も。協調性が懸念されてたノーヴェも他の姉妹やギンガのフォローでナカジマ家でも上手くやっていけているし、この間もスバルと一緒にシューティングアーツの訓練をしていたわ」

 「そうか……」

 「そういえばシャッハが『これほど教育のし甲斐があるのはロッサ以来です』って……」

 「セインか。なんと言うかその……第97管理外世界ではこう言う心境を何と言い表すのだったかな」

 「『ご愁傷様』ね」

 今頃彼女は教会の仕事をサボってシャッハの鉄拳制裁ならぬ「ウィンデルシャフトの裁き」を受けているのだろうが、フェイトは苦笑するより他なかった。陸戦AAAランクの打撃はベルカの騎士でしか耐えられないが、彼女なら上手い具合に手加減してくれるだろう……多分。

 「そうか、更正組は何も問題なしか……」

 「スカリエッティの方で何かあったの?」

 「何も問題がないのが問題なのさ。事件解決から3年経った今になっても敗者の矜持云々で一向に協力姿勢を示さない。残りのナンバーズも更正組からの呼びかけには一切応じず、未だに収監中だ」

 チンクからディードまでの7名は管理局に恭順したのに対し、Dr.スカリエッティ、ウーノ、トーレ、クアットロ、セッテの5名は自らの意地を貫き通し、3年の月日を経た今でも拘置所にて身柄を拘束されている。

 「上層部の連中にとっては彼の有能な『無限の欲望』に鎖を繋いで手元に置いて飼い馴らすいい機会だろうが、あのジェイル・スカリエッティが素直に頭を垂れる訳が無い。こちらとしては彼に関してだけ言えば今の拮抗状態が続くことを願っているよ。だが、管理局と彼の間の些事に彼女らを巻き込み続けるのは得策ではない……何としても首を縦に振ってもらいたいのだが」

 戦闘機人――旧暦より続く忌わしい禁忌の産物は未だに彼女らが意識せぬ所で彼女らを縛り続けている。自分達が戦闘機人であると言う認識が強すぎるあまりに人間としての生き方を捨て、自らを戒め続ける。それはとても残酷だが、同時にどうすることもできないことだ。

 「ミッド全体にあったスカリエッティの研究所もついこの前検挙したのでもう17つ目。その内回収したレリックは全部で8つ……。本人は何も言わないけど、きっとまだあるはず」

 「だろうな。引き続き調査及び報告を頼んだぞ、フェイト・T・ハラオウン執務官」

 「はい!」

 姿勢を正し一礼した後、フェイトは金の長髪を靡かせて退室。あとには数分前の静寂が戻っていた。

 改めて書類に目を通すと、先程話していた研究所の写真が貼り付けてあり、そこに映るシリンダー型の培養槽には何も入ってはおらず、報告書にも同様の記述が見られた。

 「今回も空……か」

 過去に検挙した研究所は全て戦闘機人を生み出すだけの設備があったにも関わらず、そこに認められたのは研究データと予備のレリックだけで培養槽に個体が入っているケースは一度としてなかった。恐らくスカリエッティ自身はナンバーズ以外の戦闘機人は生み出してはいなかったのだろう。

 「僕としてもこれ以上の厄介事は御免だから丁度いいのかも知れないが……」

 どうも腑に落ちない。

 長年この仕事をしているとカンと言うものが冴えてくるのか、クロノは心のどこかで密かに考えていた。「この事件はまだ終わってはいないのではないか」と。

 「…………いけないな、どうも深く考えすぎてしまうな。最後に海鳴に行ったのはいつだったか……カレルとリエラは元気にしているだろうか。クリスマスのプレゼントは何が良いかな」

 遠き地で平穏に暮らしているはずの我が子に思いを馳せながら、クロノは報告書に確認のサインを記した。

 数か月後に控えた次元航行のための山積みの資料に目を流すと「今日もオーバーワークか」と諦観の苦笑を浮かべてその一つを手に取る。

 「そう言えば、ユーノに頼むのを忘れていた資料が――」



 この時クロノは忘れていた。自分が常日頃言ってきた「世界はこんなはずじゃなかったことばかりだ」と言うことを……。

 そしてその事態がもうすぐ迫っていることなど、誰も予想してはいなかった。










 第9無人世界グリューエン軌道拘置所第1監房――その監獄施設の一室にその人物は居た。

 「…………そろそろか」

 艶のない紫紺の髪に透けるような白い肌、そして爬虫類を幻視させる気だるくも鋭い眼光を放つ金色の瞳。アルハザードの技術の結晶、ジェイル・スカリエッティが独房の中で微笑んでいた。



 その僅か2時間後、彼に一人の面会者が訪れる。










 「これはこれはフェイト嬢、こんな落ちぶれたテロリストのために遠路はるばる……。執務官の仕事はいいのかな?」

 「その『落ちぶれた』人間に会う為にわざわざ来てやった。それと、お前はテロリストじゃなくて科学者じゃないの」

 「フフ、いかにも。しっかり分かっているようで安心したよ」

 両脇に大柄の護衛官を待機させてフェイトは目の前の重犯罪者を凝視する。フェイトの実力を考慮すれば護衛などは不要に等しいのだが、一応場所が場所なので形式上はこうして付き添う担当者が居なければ直接面会は出来ないシステムになっている。もっとも、相手のスカリエッティは3年前に身柄を拘束されて以来それまでの強情さはどこへやら、脱走する気配はもちろんのこと、獄中で暴れるなどと言った愚行はまずしないことは目に見えていた。

 「ついさっき看守から聞かせてもらったよ。また私の古巣の一つを見つけたとか……。結構なことだ、後始末に困って放置していたのを君たち管理局が次々に片づけていってくれる。私個人としては実に結構なことだよ」

 厳重な魔力コーティングが施された分厚いガラス壁の向こう側ではパイプ椅子に腰かけた元科学者が口元に不敵な笑みを浮かべている。かつて3年前に研究所に単身で殴り込み、対峙した時に見たあの瞳……。何も変わってはいない。唯一変化があるとすればそれは、昔着ていたのは科学者が着る白衣だったが今着ているのは囚人が着ることを強制させられている薄汚れた白服と言うことだけ。何も変わらない……。

 「できれば貴方自身の口から残りの研究所の在り処を話してもらいたい所だけれど」

 「度重なる熱心な要求に頭が下がる思いだが、それは無理な要求だ。私は完成されたモノと自ら破棄したモノには深く拘らないのだよ。故に、過去の遺物は早々に脳裏から消し去ることにしている。それに人間と言う生物は元来『忘れる』生き物なのだよ。自らの欲望が求めないないことは消去し、欲望の飢えを満たすためにさらなる高みへと臨む……その道程に過去の遺物など不必要だとは思わないかね」

 「極論ね。私は言葉遊びをしにきたくてここに来た訳じゃない……あなた自身も、自分の研究の残滓が他人に悪用されるのが気に喰わないのなら、出来るだけ早い内に捜査に協力しなさい」

 「人聞きの悪いことを……それではまるでこの私がわざと君たち管理局の足を引っ張っているみたいじゃないか。それに、私が駄目ならば君の所で世話になった私の娘たちに聞けば良かろう。チンクに聞けば大抵のことは分かるはずだが」

 「現在発見された研究所の内の10件は全てあの子たちの情報提供のお陰よ。貴方のことだからミッドだけでもまだ未発見の施設があるはず……知っているのはもう貴方たちしかいないのよ」

 「ならば私の優秀なウーノに聞けば良い」

 「彼女は貴方が動かない限り絶対に動じない。分かり切っていることよ」

 「君たちの選択肢には『ナンバーズを人質にして情報提供を強制させる』とか、『私を人質にしてウーノに情報提供を強制させる』と言うものは無いのかね? この3年間それが不思議で仕方無かったんだが」

 「例え出来たとしても、少なくとも私はそんなことはしようとも思わない。自分たちの利益の為に、私はそこまで非情にはなれないから……」

 「優しさは時として罪だ……かつて君の『母』も優しかったが故に『娘』の復活に固執し、自らの道を踏み外した」

 「……言うな」

 「そちらこそいい加減に割り切ったらどうだね? 君には我々の『敗者の矜持』が理解できぬかも知れないが、私にとっても君たちの生温いやり方はとても遺憾に思うよ。でなければ、やがて君も自分の『母』と同じ運命を――」

 「……黙れ!」

 すぐ後ろに護衛官が居ることも忘れ、フェイトは自分の周囲に殺気を撒き散らせた。狭い空間が一瞬で張り詰める。しかし、殺気の矛先であるスカリエッティ本人は他人事のように涼しい顔をして変わらぬ不敵な笑みを湛えている。そのことがさらにフェイトの神経を逆撫でし、魔力変換資質によって生み出された微弱な電撃が金色の長髪を滑って椅子に小さな焦げ目を刻み込んだ。

 その状態が約30秒続き、護衛の二人が命の危機を感じ始めたその時――

 「失礼します」

 小さなノックと一緒に看守の一人が入室して来た。そのことで緊張していた空間に心理的な緩みが生じ、フェイトの理性に冷静さを取り戻させた。

 「執務官、少しよろしいですか」

 大柄な看守はそう言って彼女に歩み寄ると、その耳に何かを口伝えた。

 「……そう、分かった。ありがとう」

 要件を済ませた看守は一礼した後に退室し、先程まではないが再び面会室を緊張が走った。

 「今本局の査察官から連絡があったわ。18つ目の施設を発見したそうよ」

 「ほう、知らぬ間に優秀になったものだな。おめでとう、立派なことだよ。それで、どこの研究所を発見したのかね?」

 「本当に覚えてないの。発見されたのは――」



 






 少し時を遡る……

 第69管理世界コクトルス――。ミッドチルダとは違い一年中雪が降り積もり大地が氷に覆われるこの地では生物の姿は欠片も見当たらず、現地の住人たちでさえ地球で言う赤道周辺でなければまともに暮らすことは適わぬ、確認されている次元世界の中では五指に入るほどの劣悪環境を誇っていた。厚さ数百mにも達する永久凍土は如何なる植物の根の進行を許さず、陽光の大半を海上の氷壁に遮られた海の底ではエネルギー消費の少ない極小の微生物しか蠢いてはいない。かつて旧暦の頃は次元航行を行う程に発達した世界だったらしいが、過去に起こった魔力暴走による天変地異が原因で気候変動が発生して今に至る。その余りにも劣悪極まりない世界故に新暦40年代から時空管理局で正式に物資援助などの支援活動などを行い、現在まで交流が持続している。管理局の方針では近い内に全住民をミッド及びその他管理世界へと移住させる案が出されているらしい。

 その白銀の大地の北方、ヒトが安全に住める境界線を遥かに越えたその地点では数人の人影が散開し、各々が何か言葉を口走っている。

 その内の一人、周囲の現地人たちとは違う長身の男性の足元にベルカ式魔方陣が展開された。

 「御苦労さまです。後はこちらに任せて、あなた方は少しだけ下がっていてください。ここから先は何があるか分かりませんから」

 そう言った彼……ヴェロッサ・アコースの足元に濃緑色の魔力に彩られた魔犬『無限の猟犬(ウンエントリヒ・ヤークト)』が数頭出現していた。彼は着込んでいた防寒着のフードを取り去ると、自らの足元に手を置いた。

 「なるほど、上手く騙してある。今まで見つからないはずだよ」

 手のひらから地面に向けて結界解除の魔力を流し込むと、すぐに隠れ蓑は剥がれた。それまで幾重にも掛けられていた迷彩効果を持つ結界魔法に歪みが生じ、屋外設置型の無骨なエレベーターが姿を現した。

 「願わくば、ここが最後の施設であることを祈ってるよ」

 魔犬の一頭が金属製のドアを引き剥がし始めた。



 地下およそ200メートルの深さに位置するその研究施設はエレベーターからラボまで一直線で、これまで検挙してきたものに比べると単純な造りをしていた。

 「所有者の名はハルト・ギルガス。新暦61年にスカリエッティとの個人的接触有り。彼の代理、もしくはサポートで研究施設の管理をしていた疑い……か」

 『無限の猟犬』は既にその姿をくらまし、安全と確認したヴェロッサは単独で施設内へと足を運んだ。内部空間は外に比べて温暖で、施設全体が凍土層に埋もれているのが嘘のようにも思えた。

 歩きながら彼はここの所有者の調書に目を通していた。今頃その人物は本局に移送中だが、彼は友人であり自らの上司でもあるクロノからこれまでと同じように施設の調査を頼まれてここに来ている。上手くすればここには戦闘機人の製造データやJ・S事件の中核となったレリックなどが保管されているかもしれない訳であり、前者なら自分が責任を持って、後者であったならば自分とは別に本局からの担当官が処理するだろう。3年前ならばロストロギアの担当部署は機動六課だったのだろうが、試験運用期間が終了して解散した今では古代遺物管理部からの迅速な人手は余り期待できそうになかった。

 だが、過去に検挙した17の施設の中にレリックが保管されていた件数はたったの8件。上層部はもちろん、ヴェロッサ自身もレリックが発見されることは無いのではと薄々考え始めていた。

 「まぁ、油断は禁物と言うからねぇ。僕も気を引き締めた方がいいのかな」

 狭く簡素な通路を進むと、目の前にスライド式のドアが見えて来た。所有者のハルトから押収した施設の見取り図によれば、ここから先は研究設備が詰まったラボになっているはずである。今更トラップやAMFの類は無いだろうが、それでも一応は警戒しておくのが筋だろう。

 「…………良し、問題ないかな」

 扉越しに軽く探査を掛けてみたが怪しい気配などは感じられず、AMFも展開されてはいなさそうであった。

 少し下がると彼は再び『無限の猟犬』を発動、厳重に閉ざされていたドアに風穴を開けるべく突進させた。



 






 所変わって……

 「第69管理世界? 初耳だな、私は知らんぞ」

 「何を惚けているの! 貴方がハルト・ギルガスと接触があったのは管理局の捜査で分かっている、いい加減に……!」

 「ん? 待て、ハルトとか言ったな? ……確か……」

 それまでずっと気だるそうな態度だったスカリエッティはその名を耳にした瞬間に昔のマッドサイエンティストの眼を垣間見せた。

 「あぁ、居たなトレディア・グラーゼと同じような理由で私に近づいてきた輩が。そうか彼か……」

 「やっと思い出し……」

 「あんな不便な所に潜んでいたとはな」

 「え? どう言う……」

 フェイトは思わず我が耳を疑った。今の彼の言動から察するに、今回発見された施設の所有者とスカリエッティ自身は直接的には何の関わりも無いらしいのだから。

 「懐かしい名前だな……。そう言えば、あの時私が断腸の思いで貸与してあった『アレ』はどうしたのだろうか……?」

 過去を懐かしんで遠い目をするスカリエッティ。しかし、そのさり気なくも不明瞭な単語を若手の執務官は聞き逃さなかった。

 「『アレ』? アレとは何!? 知っているなら、覚えているなら答えろ!」

 「ククク、もし3年前に『アレ』が私の手元にあったなら、『聖王のゆりかご』はどうなっていただろうか。考えただけでも欲望をそそられる」

 そこには先程までの萎えきった人物は居なかった。かつての、もしかしたらそれ以上の狂気を再び身に纏ったその姿にフェイトは身震いした。10歳の頃から幾多の死線を掻い潜り続け、本局では親友である高町なのはや八神はやてと並んで賞され、一部では『管理局の黒い稲妻』とまで異名を冠する程にまでに強力な魔導師に成った彼女が、目の前の爪牙を抜かれて矮小なけだものへと身を落としたはずの相手に確実に恐怖していた。

 いや、正確には彼に恐怖していたのではない。彼の纏う狂気、その向こう側に潜む“何か”に怯えていた。この3年間で一度たりとも何一つ興味関心を示さなかったスカリエッティ、唯一気に掛けていたのは自分の造り出した娘に当たるナンバーズたちのことだけだったが、それでさえ『気に掛けていた』程度のものであってかつての狂気を取り戻させるまでのレベルではなかったはず。一体何が彼を再び狂気と欲望の渦に駆り立てるのか、今のフェイトには理解できず、その謎が彼女を際限ない恐怖に陥れていた。

 「あぁ……もしかしたら、例えIF想定の空想であったとしても……私はあの究極のサンプルを……“13番目”をこの目で見てみたかったなぁ」



 






 「これは……!」

 いつもの飄々とした態度が瓦解するほどの衝撃がヴェロッサを襲った。

 ラボに突入してすぐに視覚神経を通じて脳に届いた映像は――

 「戦闘機人!?」

 人の身長を二周り大きくしたシリンダー型の培養槽に収められていた人間だった。しかし、酸素吸入マスクも付けずに培養液の充満した容器に全裸で入れられているような人間は彼の知り得る知識と記憶の範疇には一種しかいなかった。

 ナンバーズ達とは違って膝を抱えて背を丸めて浮かんでいるその姿はまるで母胎に閉じこもった胎児にも見えなくもない。ラボにはこの培養槽とその周囲に散在する制御装置らしきものしかなく、やはりここは研究所と言うよりかは保管庫の意味合いの方が強く思えた。

 「もう発見されることは無いと思っていたのですが……。まさかこんな辺境世界に安置されていたとは」

 改めて中に入っている人物を確認する。

 蹲っている所為で正確な身長や顔立ち、外見年齢などは分からなかったが、恐らくは現在聖王教会で活動している同じ戦闘機人のセイン、後発組の他のナンバーズと身長と外見年齢は同じだと踏んだ。しかし、すこしだけ驚いたことがもう一つだけあった。それは――

 「この戦闘機人、男なのか?」

 髪が短いのはともかく、少し垣間見える胸板や背中のがたいは女性のそれとは明らかに違い、男性であることを容易に確認できた。スカリエッティの製造した戦闘機人、ナンバーズ達が全員女性タイプだったのはその胎内に彼のコピーを宿すことを前提にしていた訳で、その理屈から考えれば男性タイプの機人は不必要なはずだった。それが何故?



 と、ヴェロッサは中の人物と唐突に『目を合わせて』いた。



 余りにも不自然なくらいに自然だった視線の交差は彼の思考を一時的に停止させた。数瞬遅れて気付いた時には中の人物は戦闘機人特有の金色の瞳と両腕を静かにヴェロッサに向けていた。

 「ま、待て! 今出すから」

 我に返った彼の行動は早かった。折り畳んで持っていた防寒着を放り捨てると装置の一つにとっかかって培養槽の排水作業に取り掛かった。



 






 「“13番目”!? 究極のサンプル!? 何を隠しているの!!」

 「心外な、何も隠してなどはおらんさ。ただ単に……そう、忘れていただけのことだよ」

 「忘れて……?」

 「先程も話をしたように、私は完成したモノと廃棄したモノは研究対象として見成さずにそのまま消去する。簡単な話が諦めていたのだよ。17年前に『アレ』を明け渡した時点で『アレ』に対する研究意欲は諦観によって打ち砕かれていたのかも知れん。故に忘れていたのさ」

 「だからっ! アレって何のことを……!」

 「一つだけ注意しておこう。長年私の手を離れて今はそこに有るかどうかすら怪しいが、『アレ』には決して近づくな。もし仮にも『アレ』を不用意に起動させれば――」



 






 「大丈夫かい? これを着ると良いよ」

 ヴェロッサは少年に自分の防寒着を羽織らせた。上ほどに気温が低い訳ではないが、少年は全裸に加えて液に体を濡らしていた為の一応の配慮だった。

 「…………え……れ……」

 「ん? 何だい」

 「お前、誰……ここ、どこ? ここ、ドクター、居ない」

 文字通りの濡れ羽色となった紫苑の髪の先から培養液を滴らせ、少年はヴェロッサを見上げていた。金色の眼には表情が宿っておらず、ヴェロッサは知る由もないがその表情と感覚はナンバーズのセッテに似通っていた。片言で喋るそれはあどけなさには程遠く、名状し難い何かしらの威圧感を放っていた。

 「僕かい? 僕はヴェロッサ・アコース、一応本局の査察官だよ」

 「査察官……本局…………時空管理局、か」

 「そうだよ。ところで、君がさっき言ったドクターって言うのはここの所有者のハルト・ギルガスのことかな?」

 「違う。ハルト、ただの、くぐつ。俺のドクター、ジェイル・スカリエッティ、だけ。……ドクター、どこに居る? 俺、ドクターと、他のナンバーズに、合流する」

 「? 君は3年前のJ・S事件のことを聞いていないのかい?」

 「3年前、何があったか、知らない。俺、ここで待ってた、それだけ」

 少年は抑揚が無くも毅然とした口調で話す。そこには嘘偽りなどと言ったものは何一つ感じられず、わざわざ思考捜査をするまでも無く感じられ、実際そうだった。

 「そうか、ならこのままミッドに移送しても混乱するだろうから、大まかな事情説明だけしておこうかな。今の年号は新暦78年――」



 






 「起動させたら……どうなるの?」

 先程とは違った緊張感にフェイトは心身ともに疲弊しつつあった。そして尚且つ彼女の本能が叫んでいた。何かとんでもない事態が起こる、いや、起きてしまうと。

 高濃度AMF展開下の状況に置かれたかのように体が重く、嫌な感覚の汗が滂沱の如く湧き出ては顎先を伝って数滴床に落ちてゆく。対するスカリエッティは変わらぬ冷笑を湛えていたが、それは見かけだけのものであり、俗に言う『目が笑っていない』表情をしていた。

 張り詰めた緊張の糸が切れそうになり、フェイトが叫び声を上げそうになったその時――

 「失礼します」

 ノックと一緒に入ってきたのはさっきの大柄な看守だった。そしてこの時、フェイトはここに来て初めて彼に心の中で感謝の意を伝えた。

 「執務官、少し……」

 「何でしょうか?」

 始めに来た時と同じようにしてフェイトの耳に必要なことだけを伝えて、その看守は退室した。

 「………………今日はこれで……」

 「おや、もう帰るのかね。戻ったところで退屈なデスクワークしか待っておらんだろうに」

 「面会時間が過ぎてる。それに、たった今良くない知らせが届いたわ」

 「ほう、実に興味深いな。何だったのだね?」

 椅子から立って踵を返し、スカリエッティに背を向けるようにして立っていたフェイトは顔も向けずにただ事実だけを包み隠さず簡潔に伝えた。

 「施設の調査に当たっていた査察官が現地で意識不明の重体に陥った。……それだけよ」



 






 足元で昏倒しているヴェロッサには目もくれず、少年は装置のコンソールから膨大な情報を引き出してゆく。その体にはかつてナンバーズ達が着用していたものと同じ紺色の防護ジャケットを着こなし、左手には黒い立方体を握りしめていた。双眸が見つめる画面にはこの施設だけでなく、かつてここの所有者だった者がスカリエッティから譲渡された技術情報まであり、一般人には理解できそうにもない記号や画像、専門用語だらけの文章がほぼ数秒にも満たないうちに出現と消失を繰り返すが、彼は瞬きもせずに眼球だけを動かし視神経を通じて脳細胞に刻み込んでゆく。

 そうして情報をかき集めること約五分、少年の目はある一文で止まった。

 それは培養槽に入った自分の写真の傍に記されてあり、少年の名前を示しているらしかった。

 「……………………行こう、皆が居る所へ」

 装置の電源を落とし、少年は上にヴェロッサから奪った防寒着を羽織った。そして、やはり地面に這い蹲っている本人には一瞥もせずにラボを出ると、そのままエレベーターがある場所まで歩いて行く。

 その目にはやはり人間としてのあらゆる感情の光が映し出されてはおらず、ただ金の瞳が爛爛と照明を反射していただけだった。

 「No.13……“13番目”の戦闘機人…………」

 エレベーターの前で彼はブツブツと呟く。呪詛のように連ねるその言葉にすら、よく聞けば何の感情も宿っていないのが分かる。

 「…………No.13、『トレーゼ』……それが、俺の名前」

 首元に掛けられた金属製のチョーカーに刻まれた刻印は「XⅢ」。かつてスカリエッティによって捕獲されたギンガに与えられた製造番号と同じ13……。しかし、同じ数字でも少年――トレーゼと彼女とでは明らかに意味合いが違っていた。

 「…………行こう、急いで。皆を探して、見つけ出そう」

 エレベーターが到着するのと、彼の足元に真紅のテンプレートが展開されたのはほぼ同時だった。










 ラボにただ一人取り残されたヴェロッサ。その周囲にはトレーゼが用済みとなって無造作に捨てた研究記録誌が散逸し、何枚かが排水された培養液に浸ってしまっていた。

 その一枚、そこに書かれていたその単語は――





 『戦闘機人――No.13“Treize”。

 起動テストにてIS(インヒューレントスキル)の発動を確認。

 危険レベルAA+に付き、培養槽にて封印処分。実戦投与の予定無し。

 ――新暦62年1月16日』



[17818] 来訪者
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/04/02 00:34
 その日、八神はやては一年で片手の指の数くらいしか取らない有給休暇の申請をしていた。

 表向きではワーカーホリック気味なのを部下や年齢的に上司であるゲンヤに注意されたからとしているが、実際のところの理由は違った。

 「ロッサ、大丈夫やろか……?」

 「あいつのことだから心配しなくても大丈夫なんじゃねーか?」

 吐く息が白く凍りつく程の気温に満ちたクラナガンの街並みを、はやてとヴィータは分厚いコートに身を包んで並んで歩いていた。行先は先端技術医療センター、ここにヴェロッサが入院しているのだ。

 つい3日前に意識不明の重体となって任務先から帰還した彼が目を覚ましたと言うのを聞いたのは、つい数時間前のことだった。知り合って以来、ずっと兄のように慕ってきた者の一大事に気が気でなかった彼女はかなりの立場的な無理など(具体的にはコネ)を通し、半ば強制的に休暇の申請を許可させる形になってしまったが、本人にとってはこれほど重要なことはない。

 「まぁ、ヴィータに分かり易く言うとやな、明日から八神家の炊事はシャマルの担当になるってのと同じくらい大変なことや」

 ここへ来るまでにヴィータにそう説明すると、「そりゃ大変だ!」と言って血相を変えてはやての付き添いでセンターに同伴することとなった。ここに来るまでに何度も「早くしねーとシャマルの産業廃棄物がテーブルに並んじまう!」と、意味を履き違えていたが。ちなみにヴィータの休暇申請は事後承諾。



 






 「やぁ二人とも。ちょっと見苦しいかもしれないけど、来てくれて嬉しいよ」

 「おぉ! 美味そうな林檎! ひとつもらうぞ」

 ベッドの上でヴェロッサははやてとヴィータを笑顔で迎えてくれた。死装束……と言ったら縁起でもないが、彼の着ている服は病院で患者が着用を強要されるバスローブのような白い服で、ベッドから上体を起こしているところだけ見ると元気そうではあるものの、上半身の至る所には心電図計測に使う電極のようなものが貼り付けられていた。

 「ほ、ほんまに大丈夫なん? ロッサ」

 「ピンピンしてる……と言いたいところだけど、まだまだだよ。はやてが来るちょっと前に体が起こせるようになったんだけど、下半身は全くさ」

 そう言いながら彼は読書をしていて、書名は『女性に人気! ケーキ類ベスト100特集』だった。

 「聞いたで……。全治二ヶ月やってな」

 「ごめんね、はやてが楽しみにしていたクリスマスのケーキ、今年は作れるかどうか分からないよ」

 「ううん、無理せんといて。今はただ現場に復帰することだけ考えてくれたらえぇ」

 「僕としては、このままここではやてと話をしたいんだけどな」

 「なんやぁ、思うたより元気やないか。後でシャッハさんに言うたろ」

 「ハハ、ご冗談」

 いつも通りの会話を交わすぐらいには問題無いことに安心したはやては、備え付けの椅子に腰掛けてそのまま親しい間柄の会話に華を咲かせていた。いつのまにかヴィータはヴェロッサの隣に置いてあった籠盛りの中からもう一つ林檎を取って先に病室を抜け出していた。あの様に見えて一応気のきく一面もあるのだ、と言うのは烈火の将の談。



 






 「それで、どんな奴にやられたん?」

 丁寧に林檎の皮をナイフで剥きながらはやてが聞いてきた。彼は査察官と言う立場上、あまり前線には出張らないが一癖も二癖もある管理局魔導師達と引けを取らない程の実力の持ち主だ。隙を突かれた、油断していた、その程度のものでここまでの事態に陥ると言うのは考え難い。だが……。

 「あれは本当に危なかったよ。まさか気が付いたらリンカーコアが衰弱していたなんて、悪い意味で夢のようだった」

 リンカーコア――。ミッド式、ベルカ式問わずに魔力を応用する者ならば誰しもが有する魔力精製機関。外界から魔力を取り込むこの部分は未だに謎が多いが、ただ一つ分かっていることは、この機関が何らかの理由で衰弱すると生命の危機に瀕する可能性があると言うこと。かつてはやての親友なのはは常人では遠く及ばないレベルの魔法を多発、酷使した所為で自らの命を縮め、一時は魔導師生命を危ぶまれた時もあったほどだ。

 「僕の場合は魔力が根こそぎ奪われていたらしい。別に魔法を使い過ぎた訳ではないはずなんだけど……」

 「気が付いたらって、それまでは何ともなかったん?」

 細かく切り終えた林檎を楊枝で突き刺すと、はやては慣れた手つきでそれをヴェロッサの口へ持って行く。

 「ありがとう。――――うん、さっきの質問だけど……ちょっといいかい?」

 「はえ?」

 ヴェロッサがもうちょっと近くに寄るようにとはやてを誘った。念話と言う手段もあるのだろうが、今の彼には体の負担になるだけなのでこうして所謂、耳打ちする形で要件を伝えるしかなかった。とは言ってもこの体勢、丁度ヴェロッサがはやての肩に顎を乗せて彼女がそれを抱きかかえる状態となってしまっているため、当のはやてとしては気恥かしいことこの上ないが。

 「(何や? 堂々と言うたらあかんの?)」

 「(ひょっとしたら僕が思っているよりも事は重大かも知れないからね。それに……この件にはあれが関わっている)」

 「(何や?)」

 「(戦闘機人だ)」

 「え……?」

 思わず声を上げてしまいそうになるが、そこはやはり若いながらも歴戦の魔導騎士。理性がすぐに働いてそれを抑える。

 「(先にここに来てくれたハラオウン執務官に一応報告はしたけど、相手が戦闘機人であることは上層部には伏せてもらうことにした)」

 「(そんなっ! 今の今まで見つからへんだのに、どうして……!)」

 「(詳しいことは後で執務官に直接聞いておいて欲しい。最高評議会が無き今でも戦闘機人をダシにして伸し上がろうとする連中は多い。よほど大きな事件にならない限りは表沙汰にはできないんだ)」

 「(うん……分かってる)」

 「(本当かい? 君はおっとりした口調に似合わずに無茶するから、今回も僕が倒れたって聞いて大慌てだったんじゃないかい?)」

 「(い、今そんなん関係ないやん! 何言うてんの)」

 「(冗談だよ。でも……さっきも言ったように、長い間査察官をやってきたけど、予想よりも大事になってしまう気がしてならない。はやてには今の内に予防線を張っておいて欲しいんだ)」

 「(ロッサ……)」

 いつになく真剣な彼の声色にはやての方も少し気を引き締める。職業柄、勘と言うのは良くも悪くも当たることを彼女は充分に理解していた。それに、彼はこんな場面で冗談は口にはしない、それは騎士カリムやシャッハと同じくらいに断言出来ることだ。

 「(……了解や、すぐに口の固いモン集めてチームを編成させる。だから、心配せんでもええからな。私がしぶといの、よぅ知っとるやろ?)」

 「(ありがとう。釘を刺しておかないと、君は何を仕出かすか分からないからね)」

 「(いらんお世話やて。…………なぁ、ロッサぁ)」

 「(うん? 何だい)」

 「肩痺れてきた……。ちょっと退いてぇな」



 






 「んなコトがあったのか。あれ? それをあたしに教えてくれたってことはよぉ……」

 「勘がええなぁ、ヴィータは。もちろん協力してもらうで。報酬はもちろん、ギガウマなアイスを――」

 「いや、流石のあたしでも真冬にアイスは……。いくらギガウマってもよぉ」

 先端技術医療センターを出た二人は来た道を戻って行く帰り道の途中でそんな会話を交わしていた。時間帯は昼過ぎ、クラナガンの中央区画は溢れる様な人だかりでごった返していた。冬の寒さもこの人数の前では息を潜めるかのように、ちょっとはマシに感じられるから不思議なものである。

 「でも戦闘機人か……。3年前を思い出しちまう」

 ヴィータの呟きが白い水蒸気の吐息となって虚空に消える。と、同時に彼女は澄み渡る青空を仰ぎ見た。

 3年前、この空には古代兵器“聖王のゆりかご”が浮かび、大小様々なガジェットが進軍する中で一際異彩を放っていたのが、たった12人の少数精鋭機人部隊「ナンバーズ」。今でこそ彼女らは個々人の人間として社会に溶け込んでいるが、スカリエッティの私兵だった頃は本局の手錬の魔導師をも軽くあしらい、一度は地上本部すら壊滅させた実力者たち――。通常の手術を受けて機人となった訳ではない彼女らは純粋に戦闘行動に特化し、その目的の為だけに造られた哀しい戦闘者――。

 「また……あんな事件が起こっちまうのか……」

 「そんなことにならんようにする為に、私らが解決せな……な?」

 「そだな。そうだよな」

 「そうやって。あ、そう言えばお昼まだ何も食べとらんだなぁ。どっかで軽食でも入ろか?」

 「けーしょく? あんな紅茶がおまけのチミチミしたのなんか性に合わねー。ギガウマなデカ盛りがいい!」

 「りょーかい」

 さり気なく財布の中味を計算してからはやては快く頷いた。大丈夫、万が一赤字になろうとも八神家の家計簿は彼女が握っているので、こっそりヴィータの小遣いから差し引けば良い。世の中そんなに甘くはないと言うことを身を以って知るハメになりそうである。



 ――――――――。瞬間、交差する影と影――。



 「あれ?」

 「んあ? どうしたんだよ、はやて」

 背後を振り向いたまま往来に止まってしまったはやての袖を引っ張るヴィータ。何か面白い物が見えたのかと思って同じ方向に目を凝らすが、人の波以外は特にこれと言ったものはない。

 「は~や~て~! 何かあったのかよ」

 「いや……さっきすれ違った人……」

 「どいつだよ、もう見えねえぞ」

 「…………ロッサに買ってあげたコートと同じやつ着とったなぁ」



 






 ミッドチルダ東部――森林地帯の某所にて。

 時空管理局地上本部担当の管理及び厳制監視区域、ここにかつての狂科学者ジェイル・スカリエッティの最後のアジトがある。今現在ここは管理局の管轄下にあり管理局保有の施設として使われているが、許可を得た一部の執務官でしか入ることを許されてはいない。地下ラボに蓄積されていた研究資料、並びに戦闘機人の製造データやレリックは逮捕直後に全て押収されて殆どが抹消、一部が地上本部にて厳重封印されている。

 警戒には本局の魔導師ではなく、ラボから押収したガジェットに改良を加えて製造された小型の監視用のものが使われている。アイカメラから捕えた映像と集音マイクから拾った音声はほぼリアルタイムで担当部署に繋がれ、万が一の事態には即時対応できるシステムとなっていて、ガジェット自身にも不埒な侵入者程度なら撃退できるくらいの簡易装備は取り付けられている。それがラボ上部から下部に渡っておよそ30機ほど待機して監視を続行していた。



 ≪――――――――?≫

 入口付近に浮遊して警戒に当たっていたガジェットの一機が目の前の木々の茂みに反応した。何かが移動する音を集音マイクが捕えたようなのだが、カメラからの視覚情報には何も映ってはいない。簡易AIの自己判断によりカメラを赤外線によるサーモグラフィーに切り替えようとしたその時――、

 ≪??????――$@%&%#$+*#$@≫

 浮力を失ったガジェットはカメラを明滅させて混乱の色を示しながら地に落ちて行く。外からでは分からないが、今ガジェットのプログラムは不可視の浸食――ジャミングを受けており、視覚と浮力に異常をきたしている。この程度ならば自己修繕によって数分で回復するので、担当部署の方はさして気にも留めないだろう。例え壊れたとしても補充が効くので実質問題無いのと一緒だった。

 その横を人影が悠々と通り過ぎる。今の季節にはぴったりな厚いコートに身を包み、フードを目深に被り込むその少年の姿は街中ならどこでも見かける当たり前の格好だ。

 「…………」

 しかし、フードの隙間から見え隠れする金色の瞳は常人とは違うモノを映しているように思えてしまう。それは戦場に生きる兵士の眼でも、獲物を狙う猛禽類の眼でも、ましてや飢えた狂人の眼でもない。“何も”映してはいなかった。ヒトとしての何物かが大きく欠落しているその瞳は地下に続く洞窟の口を静かに捕捉し、離さなかった。

 「……マキナ、解析」

 『Yes,my lord.』

 少年の声に掌中の黒い立方体が電子音で答える。すかさず少年の瞳孔に幾何学的な紋様が浮かび、施設全体のレーダー情報が示される。立体的に映し出されるその索敵範囲図には赤い光点が30個点滅し、警戒用ガジェットであることを認識させた。

 「……哨戒用小型機、進路上に、およそ15機……。各機の巡回ルート、及び、有視界範囲の計算、算出」

 『Got,it.』

 眼球に映る施設の3Dマップの一部がズームアップし、各ガジェットの予測軌跡と捕捉視界が色つきで表示される。

 「…………対象の、知覚混乱後、移動」

 『About 28.3%(約28.3%)』

 「超高速移動による、レーダー追尾を、振り切り、走破」

 『About 56.9%(約56.9%)』

 「後者を、実行する」

 少年――戦闘機人トレーゼがフードを脱ぎ取った。紫苑の毛先と日光を知らない白肌が寒波に晒されるも、彼は身震い一つしない。

 「IS……発動」

 『Start up.』

 真紅のテンプレートが足元に現れた。



 






 ティアナ・ランスター。年齢19歳、職業は本局執務官、武装隊での階級は三等陸尉に相当する陸戦魔導師であり、かつて『奇跡の部隊』機動六課スターズ分隊のフォワードの一角を担っていたやり手。J・S事件の際にナンバーズ3名を確保し、事件解決に大きく貢献した功績が認められ、今ではフェイト・T・ハラオウン執務官に次ぐ武装執務官として局内では名を馳せている。

 そんな彼女は今、資料室に置かれているコンソールの前である情報を探していた。画面にはクラナガンの往来を行き来する山の様な数の人々、そしてそれらの間を走り周る円形のロックアイコンが映っていた。別に仕事サボってシューティングゲームに興じている訳ではなく、立派な“人探し”をしているのだ。

 その時、――

 「っ!?」

 電灯すら点けていない空間、彼女は自分の背後に不審な気配が忍び寄って来ているのを察知した。振り向くことなく誰かがここに入って来たのを確認すると、静かに懐にある待機状態のクロスミラージュに手をやる。

 「誰ッ!!」

 先手必勝、迅雷の如き瞬速で自らの相棒を構えると、足首・腰・首の回転を活かしてコンマ数秒で相手を視界に収め――、

 「ティアナ、私だよ!」

 「て、あれ……。フェイトさん?」

 背後数メートルに立っていたのは自分の上司であり、かつて共に闘った戦友、フェイト・ハラオウンだった。

 「すみません、つい……」

 「ううん、ティアナがあんまり真剣にやってくれてるから声掛け辛くって……。ごめんね、邪魔しちゃった?」

 「いえ、そんなことは! こちらはもうすぐ終わりますけど、やっぱり該当者は居ないみたいです」

 「ミッド東部の監視システムにも居なかったわ。この3日間のうちにミッドに来た人たち――観光・移住問わずに――を探ってみたけど、どこにも居ない」

 「アコース査察官の証言通りに、外見的特徴を検索条件に当て嵌めてみましたけど……。すみません、見つけることは……」

 「どう言うことなの…………まだこっちには来ていない? でもアコース査察官の言っていることが本当なら、ナンバーズを回収しようと真っ先にミッドに来るはず……。なのにどうして…………?」

 フェイトは思索する。

 謎の戦闘機人――。ナンバーズの13番目を自ら名乗り、ヴェロッサ・アコースを撃破する存在。IS不明、実力未知数、現在位置も特定できず……。人類の歴史において不可視の存在ほどに恐ろしく、脅威となるものは無い。

 「あの……フェイトさん? 獄中のスカリエッティに接触は出来たんでしょうか?」

 「私が3日前に面会してからは行ってないけど、多分口を割ろうとはしないと思う。それに、今まで発見できたどの施設でも“13番目”に関する情報なんてどこにも無かったから、今押収されてる資料や情報から実態を掴むのは――」

 「不可能、ですよね。コクトルスの施設にあった資料は全部事前に抹消……紙媒体の物も培養液に浸って大部分が薬品の影響で印刷の劣化が激しく、解析には時間が……」

 「アコース査察官に口止めされて上層部からの援助は出来ないし、かと言ってJ・S事件の中核に居たナンバーズが『12人』と言う上層部の暗黙の決定事項を覆せば――、」

 「本局の一部はその方面に力を入れて他の部署や管轄の対応が遅れる……。もしそうなれば、最悪の場合には質量兵器密輸に関わる違法組織の隠れ蓑になってしまう…………ですよね?」

 「考え過ぎと言うこともあるかもしれないけど……」

 「あらゆる事態を予測し、対応するのもまた管理局の責務……ですよね?」

 ティアナの蒼い瞳が静かな熱意を帯びる。六課を解散し、補佐官時代を経てなお変わらぬ正義感に、先輩であり、戦友であるフェイトは感心して「そうね」と一言肯定の意を示した。

 画面では検索条件に掛らなかったシステムが『Not found』の文字を明滅させていた。



 






 『Not found,my lord.』

 ラボに電子音が発する人語が響いた。

 今この場所、スカリエッティのラボには人間が一人しか居ない。ガジェットも監視カメラの類も何一つだ。その他には押収されずに残された培養槽や巨大なⅢ型ガジェット程度しか無い。

 もちろん、それには理由がある。先述したように哨戒用ガジェットのカメラ映像は管理局の担当部署にリアルタイムの直通でリンクされている。ラボには物理的サイズや情報量、保管所の関係で押収し切れなかった設備やロストロギアにⅡ型以降のガジェットが大量に安置されている。仮に時空管理局に技術横流しを画策するスパイ等が潜んでいたとしよう。横流しの相手はもちろんテロリスト等々……。そのような不埒者が万が一にも居ないとは限らず、そいつらが映像データからスカリエッティの技術を盗み出す可能性は極めて高い。

 ならばどうすればいいのか? 答えは至極単純にして明快、見せなければ良いのだ。ラボ内部の立ち入り禁踏区域と定めた領域にはガジェット並びに如何なる情報収集機能を持つ物の持ち込み及び設置を全面禁止したのだ。故に、アジト全体でも特にここは仮設最高評議会の許可で認可されない限りは調査担当の執務官ですら進入を許されてはいない。魔法とは違う完全な物理的封鎖空間が見事に作られていた。

 しかし、転送魔法を使用すれば即刻感知されるほどにまで警備が行き届いているこの空間でさえ、あくまで『魔法面』で完璧と言うだけだ。純粋に科学的・物理的・力学的に侵入すれば問題は無い。もちろん、生身の人間でこれを実践出来る訳がない。ヒトでありながら『人間』と言う枠組みから外れた機人、その存在は常人の及ばぬところに位置する。

 現に彼――トレーゼはこうしてここに居る。そしてコードを打ち込んで開けた秘密の収納スペースに何も入ってはいなかったことに一人で違和感を感じていた。

 「ない? 何故、ない? 固有武装も、ファクターサンプルも……。あるのは、既存の武器データ、だけ」

 壁際から迫り出した収納スペースには何も収められてはおらず、文字通り読んで字の如くもぬけの殻だった。本来は何かしらの重要な物が置いてあったのかもしれないが、ここの持ち主スカリエッティが逮捕されたことによって押収、封印処分を受けてしまったのだろう。ともあれ、彼の求めるものがあるのはこの次元世界には一ヶ所にしかないことは自明の理であった。

 「…………時空管理局地上本部」

 『Administrative Bureau Midchilda Central Office.』

 「取り戻す、今すぐ」

 『Information is lacking.(情報が不足している)』

 「なら、入手すれば、いい。それだけ。…………IS、発動」

 『Start up.』

 真紅のテンプレートが発生し、ラボを紅く照らし出すが、警報システムは作動しない。使われているのは魔法ではなく、あくまで科学的なものだからだ。

 トレーゼの周囲に立体的光学キーボードとホログラム画面が展開される。すぅ、と両手を上げると鍵盤を弾く奏者のようにキーボードに指を滑らせていく。『運命』か『トッカータとフーガ』を演奏するかのような素早い指の動きによって画面にある一人の人物が導き出されてきた。

 「…………」

 その人はクラナガンの街の一角で連れと一緒に食事を楽しむ管理局員だった。試しに局内の登録簿データベースに外部アクセスしてみると、それなりに上位に位置する人間だと言うのが見て取れた。憶測だが、権力や人脈と言う名のパイプラインで少しぐらいの融通が効くタイプの者であるとトレーゼは踏んだ。

 「……IS『――』による、本部潜入成功確率は?」

 『About 78.1%(約78.1%)』

 「遂行、する」

 目を閉じ、胸の前で両腕を静かにクロスさせる。すると発現していたテンプレートの半径がさらに大きくなった。

 「任務内容……本局へ潜入、目的物の奪取、そして脱出」

 両目が見開かれ、機械眼球がX線受光モードへと切り替わる。扉の向こうにいる哨戒用ガジェットは全部で6,7機程度である。彼にとっては抜けない数ではなかった。

 「目標、時空管理局地上本部…………マキナ」

 『Yes,my lord. Release limitation,ignition(了解。出力、限定解除)』

 その瞬間、彼の足元に小さな亀裂が入った。体内で生成された莫大なエネルギーが熱に変換されて体外に放出されるが、その総量は他のナンバーズの比ではなかった。

 右足を前、左足を後ろにしてそれぞれの地を固く抑えてスタート体勢を取った。

 「……任務、開始」

 『Full drive.(全速前進)』



 

 ほんの数瞬後にはそこにトレーゼの姿は無く、代わりにタイヤの滑走痕のように黒く熱くなった跡が一本、真っ直ぐ伸びて途中で消えていた。しかし、侵入者が居たと言う明確なこの証拠も誰の目もないこの場所では意味を成さなかった。外に居たガジェットたちも、カメラ視覚とレーダーで知覚できない速度の物体には意を介することなど到底不可能だった。名も無き機械たちに出来たのは、自分たちの哨戒ルートの壁や床と天井にいくつか小さなタイヤ痕の様なコゲ跡がいつの間にか増えていたと言うのを確認できただけだった。しかし簡易AIは自己判断により、そのことを非常事態として認識することなく見逃すより他なかった。

 洞窟から少し距離をおいた森林には明らかに獣道とは違い、重機が薙ぎ倒したかのように草木が圧し折れて引き千切れ、かつて“聖王のゆりかご”が浮上して更地となった地面にも溝を形成する形で通過痕が刻まれていた。

 そして、その真っ直ぐ一直線に伸びた襲撃者の足跡は遥か西に見えるクラナガンの街並み、管理世界の法の塔「時空管理局地上本部」へと伸びていた。



 新暦78年11月9日、午後13時46分の出来事だった。



[17818] 第二次地上本部襲撃事件 Act.1
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/04/02 17:44
 11月9日、午後13時58分――。クラナガンで東部から西部に掛けて瞬間最大風速31.9メートルが記録された。突風は極一部の区画で発生したものであることがその後の調べで分かり、その場に居合わせた人々の証言によれば「まるで大型車両がすぐ横を通り過ぎたかの様だった」と言う内容のコメントが多かった。



 






 その日、地上本部災害担当課の港湾警備隊・防災課特別救助隊セカンドチームに所属する防災士長のスバル・ナカジマ陸曹は同じナカジマ家の姉妹であるノーヴェと一緒に訓練室にて格闘技術の洗練に勤しんでいた。

 空戦魔導師でも使用が可能である造りをしているこの空間は現在、空色のウィングロードと黄金色のエアライナーがある所はクロスし、ある所は螺旋状に入り混じっており、この二色のコントラストが訓練室を美しく彩っていた。その中で相対的な二つの影が高速で互いを打ち合っている。よく目を凝らして見れば、それは人、10代後半の少女達だ。

 「はぁあああっ!!」「おりゃぁあああ!!」

 空色の翼の道をスバルが、黄金の突撃者の道をノーヴェが激走する。一瞬の交叉で頑強な拳と光速の蹴りが激突し互いを牽制、接触するスピナーの回転数が跳ね上がり、両者の力が数瞬拮抗した後にすれ違い、道が続いて行く。この間僅かに1.029秒。一方はリボルバーナックルと左拳によるコンボ、もう一方は脚部ジェットエッジの加速による一撃打法。殴打を脚で捌き、蹴りを拳で受け流す、相反するも互角の実力を有する彼女らの戦いは終わりを見せずさらに白熱の様子を見せる。

 「うぅうおおぉおおぉおおおッ!!!」「うりぃやあああぁぁあああぁあッ!!!」

 道を通るのではなく、通った跡が道となる。この言葉をここまで正確かつ忠実に体現しているのは管理世界広し言えどもスバルとノーヴェ、そしてナカジマ家長女のギンガぐらいなものであろう。そして、ナカジマ家最強の実力者であるギンガが不在のこの場では誰も介入することなど出来る訳がなく、純粋に戦いの終わりを告げるゴングが鳴らされない限りは決して終わることなどありえないことだった。



 ジリリリリリリリリリリッ!!!!!!



 目覚ましが鐘を鳴らすような古典的なブザーが鳴り響いたその直後、互いの拳と爪先が接触するすんでの所で二人は戦意を収めた。

 「これで34戦34分けか。いい加減にどっちが強いのかハッキリさせたいな」

 「そんなコトいいじゃん別に。こうやって二人で互いに鍛え合って、実戦とは違うやり方で強くなるのに勝ち負けなんかいらないって」

 二人同時に地面に降り立つと、ウィングロードとエアライナーが彼女らの走行した後から消えてゆく。スバル蒼い髪とノーヴェの赤毛が互いに色彩的に自己主張し、当人らの性格までもがそれに呼応するかのように対照的である。ノーヴェが好戦的なのに対して、スバルはどちらかと問われればまだ落ち着きと多少の余裕が見て取れる。年齢的にはノーヴェの方が上なのだが、この姉妹を初見した者は十人中九人がスバルを姉だと思い込んでしまうらしく、良くても双子と言う認識を持たれてしまい、ノーヴェ本人としては実力とは別であっても自身が下に見られるのは気に喰わない。

 「いいことあるか! あたしら地上本部襲撃した時に一回殺り合っただけでそれから全然だし、あれだってチンク姉が割って入ったから結局引き分けみたいなモンだったしさ!」

 「え~、だってあれって勝負って言うのかな? 自分から攻撃した私が言っちゃうのもナンだけど……」

 「うるせぇ! 一度受けた戦いには必ず決着をつけろって、お前んとこの桃色髪の騎士が言ってたんだよ!」

 「またシグナムさんは余計なこと言うんだから……。分かったよぅ、そこまで言うんだったら後一回だけだよ? もうお腹空いて早く食堂に行きたいんだから」

 そう言ってスバルはマッハキャリバーに制限時間を三分に設定するように頼んだ。長年コンビを組んできてくれた足元の相棒は快くそれを引き受けてくれると、右腕のナックルを操作してカートリッジをロードする。

 「ちぃ! そっちはカートリッジシステムがあっから便利だよな」

 「そうとも限らないけど……。だったらノーヴェもシャーリーさんに頼んで専用のデバイス造ってもらったら?」

 「バーカ、あたしら戦闘機人は魔力使わねーし、使えねぇから意味ないんだよ! ISがあるからそこいらの魔導師なんかより強ぇけど、普通に手術で機械骨格ブチ込んだだけの機人は基本的に『常人よりちょっと体が丈夫』ってだけなんだよ」

 「嘘!? 戦闘機人って皆私やノーヴェと同じだと思ってた!」

 「てめぇ……これ確か更正施設に居たときにチンク姉が教えてくれてたよな!?」

 「え、そーだっけ? ごめん、覚えて無いや……」

 ――瞬間、ノーヴェの頭の中で何かが物理的且つ心理的に切れる音が響いた。彼女にとってチンクの存在は単なる姉妹のそれとは大きくかけ離れた絆で結ばれている。その敬愛するチンクがわざわざ教えてくれたことを簡単に忘れてしまうと言う愚行はノーヴェにとっては屈辱以外の何物でもなかった。

 「オーケー、三分だったな? 三分でケリつけてやるよ。かかってこい!」

 「かかって……って、さっきから挑んでくるのはノーヴェじゃん……」

 「問答無用ッ!!!」

 『試合開始!』

 ノーヴェの右手のガンナックルが火を噴くのと、マッハキャリバーの電子音が響いたのは全く同時だった。



 






 午後14時5分、地上本部の正面玄関に一人の妙齢の女性が足を運んでいた。

 建物の内部に入ると通りすがりの管理局員の何人かが挨拶をして行く。それに対し彼女は微笑んで会釈し、そのまま通り過ぎて行く。防寒着を外し、その下に着用していた制服を露わにする。その胸元に見えるのは武装隊階級「二等陸佐」を表すバッジが煌いているのが見て取れた。

 と、その視線の先、連絡通路の遥か先からこちらに何かが向かって来るのが見えた。いや、正確には何かがこちらに飛来してくるのだ。30センチ程のそれは道行く人々を縫うようにしてこちらに急接近すると、その勢いを衰えさせることなく慣性の法則に従って彼女に激突――、

 「はやてちゃ~ん! 戻ってたんだったら連絡ぐらいしてくださいですぅ!」

 人間の子供よりも小さな小人――リィンフォースⅡは女性の胸をボカスカと叩きつけた。管理局が確認している数少ないユニゾンデバイスである彼女は宙に浮遊しながら目の前の自分の主人(ロード)、八神はやてと同じ目線で猛烈に叱り飛ばし、一気に捲し立てる。

 「全くもう! はやてちゃんが急に休暇申請した所為で、わたしがずぅーっと代わりに書類の片付けをしてあげてたんですからねっ!」

 「……ごめんな、リィン」

 「ほんっとに大変だったんですよ! お仕事の途中でアギトが目の前で花火を破裂させるし、ナカジマ姉妹が暴れて訓練室壊して三回も変える手続きに時間が掛かるし……!」

 「うん……うん……。大変やったな、リィン、ご苦労さん」

 「? はやて……ちゃん?」

 ここで初めてリィンは自分の主の様子がおかしいことに気が付いた。いつものように自分に優しく微笑み掛けてくれているその顔にはなんだか元気が無いように思えてしまったのだ。現にさっきから彼女が返してくれる返事にはいつものハキハキとした感が全く無く、その視線はこちらを見ていてくれているはずなのに自分を見ていない気がしてならない。

 「どこか具合でも悪いですか……? もしそうだったら、シャマルを呼びますけど?」

 「ううん、大丈夫や。心配あらへん、ちょっと疲れが、溜まってるだけやから」

 「そう……ですか。ならいいのですけどぉ……。あれ、そう言えばヴィータちゃんはどうしたのですぅ?」

 「……ヴィータは、先に帰ったよ」

 「え~! ヴィータちゃんの休暇申請は事前の報告がされていないのにぃ~! 事後承諾がどれだけ迷惑を掛けるのか分かってないんですか~!」

 「ヴィータには、後で私が言い聞かせておく。……御苦労さま、リィン、今からは、私が業務を引き継ぐ」

 「了解ですぅ! あれ?」

 「? ……どうしたん?」

 「そのコート、確か入院中のヴェロッサさんに買ってあげた物ですよね、リィン覚えてるです」

 そう言ってリィンははやての手に包まれたよれよれのコートを指差す。彼女の言うとおり、そのコートは肌寒くなってきた10月の中旬頃にはやてが日頃世話になっているヴェロッサの為に買った物だった。あの時の彼女の嬉しそうな表情は今でも忘れてはいない。

 「これは……ヴェロッサから預かったんや」

 「あぁ~、入院中は着れませんもんね。納得です」

 「……………………」

 「あ! ご、ごめんなさいです! 余計なこと言ってしまって……。私はフェイトさんに呼ばれてるので失礼します。お仕事頑張ってくださ~い」

 そう言うと小さなユニゾンデバイスは手を振りながら豪速球で過ぎ去って行ってしまった。

 「……………………」

 はやてはそれを無言で見送った後、再び歩を進め始めた。

 壁際の表札には赤い字で大きく矢印と一緒に「管理世界次元犯罪管理部・押収物品管理課・保管庫」と記されていた。



 






 同時刻、管理局の第二食堂にて。

 「てめぇ……バスターは……ディバインバスターはやめろ。あれは零距離で喰らわせるモンじゃねーだろ……」

 食堂のテーブルでノーヴェは伸びていた。所々焦げ目が目立つ紺を基調とする防護ジャケットを着たまま着替えもせず、疲労困憊となっている彼女の背中からは、こころなしか煙が上がっているようにも見えなくもない。

 「あはは……ごめんね。ギン姉には出力抑えてって言われるんだけど、どうも魔力の調節が上手くできなくって」

 その目の前にはバリアジャケットから局の制服に着替え終わったスバルが既にカレーライスを五皿も平らげており、今こうして話している内にも六皿目を食べ終わろうとしていた。

 「くそぉ~! せめてドクターが用意してたって言う新装備があれば、蹴り技一辺倒ってのはしなくていいのに……!」

 「え? スカさんって新しい武装造ってたんだ」

 「おうっ! ガンナックルとは別に製造されていたやつで一回見せてもらったけど、見た目はおめーのリボルバーナックルとあたしのジェットエッジを改良したやつに見えた」

 「へ~、凄いねスカさん」

 「結局、戦闘のデータ蓄積と肉体増強レベルの不足がダメで取り付けてもらえなかったけど……。両手にリボルバーナックルは正直にキツい」

 「うわ、スカさんも無茶するな~」

 「……てゆーか、『スカさん』って何だよ? 多分ドクターのことなんだろーけどさ」

 「そだよ。って、ノーヴェも何か食べないと! すいませーん、『ナカジマ家特注特盛りカレーセット』くださーい。あ、食券料は後で払いますから」

 「食えるかっ!!!」

 悪いことは言わない。戦闘機人の常識で考えてもギンガとスバルの食事量は尋常なものではないのだ。



 






 午後14時8分、管理世界次元犯罪管理部・押収物品管理課――。ここには過去に次元犯罪に関わり、事件解決と共に管理局に没収された物が年代ごとに保管・安置されている。主に管理外世界から密輸された質量兵器などが置かれているが、最近になってここには新たにスペースを消費する物体が増えた。

 「…………」

 ガジェットである。大半はⅠ型で中にはⅡ型もちらほらと見かけるが、精々標本のように数機置かれている程度だ。ちなみに本来の数量はここにある比ではないのだが、押収された物の殆どは技術開発研究部へと回されて小型哨戒機へと改造、量産に向けたサンプルとして提供している。近いうちに管理局ではⅡ型ガジェットを解析・改良・量産化し、人材不足に悩む航空武装隊に配備させる計画が上がっている。

 その中にそれら質量兵器とは一線を画す物体がガジェットらの後方のガラスケースに安置されているのが見えた。計12個のその押収物は内5つが武装、残りの7つは分類不明として位置付けられていた。

 「…………」

 武装に分類分けされた物には、リボルバーナックルとジェットエッジに酷似したものがそれぞれ両腕両脚に装着する為に二つずつと、正直武装かどうかも怪しい表裏純白のマントが一枚だった。それとは別に非武装として分類された物は試験管のような物体に見え、実際そうだった。7本のガラスの試験管にはそれぞれ「Ⅵ」から「XⅡ」までの番号が振られており、これが何を意味するのかについては今のところ分かってはいなかった。

 「……見つけた」

 ケースの眼の前に立つ人影はそう静かに呟くと周囲一帯を確認した。幸か不幸か、この庫内でこの場所は今労働中の管理局員からは死角となってしまっている。元々敵方から取り上げただけの物をただ単に置いておくだけの部署に過ぎなく、前々から職務怠慢が見受けられていたので当然と言えば当然だった。

 「……奪取後の、逃走経路、確保」

 『It already.(既に計算済み)』

 「地上本部、見取り図の、展開」

 『Yes,my lord.』

 瞬時に手前の虚空にホログラムで本部全体の見取り図が表示される。地下通路の細部から展望台、さらには屋外にある演習場までもがくっきりと映し出されている。

 「……脱出ルートは、Bプラン。タイミングは、Fで実行する」

 『Got,it.(了解)』

 ホログラムが消えたその直後、袖口から両刃の鋭利なナイフが飛び出した。かつてNo.5チンクが使用していた物と全く同じ投擲用のナイフ、『スティンガー』が握られていた。

 「IS『――』、腕部限定、発動」

 『Action.』



 






 一方その頃、第9無人世界グリューエン軌道拘置所の面会室にて――。

 「やぁ、ジェイル。何年振りかね、こうして貴様のしょぼったれたツラを見るのは」

 「相変わらずだな。その他人の神経を逆撫でするような言動は……。なぁ、ハルト・ギルガス」

 強硬ガラスで区切られた空間の片方に居るのはDr.スカリエッティ。つい3日前にフェイトが面会に来た時のように薄汚れた白い囚人服の出で立ちで、備え付けのパイプ椅子にだらしなく座っていた。しかし、今日面会に来ているのはフェイトではなかった。面会の許可を出してそのように取り計らったのは彼女の義兄だが、来ていたのは全くの別人で、いやに身長が低い白髪の老人がガラス向かいの空間に居た。同じように白い囚人服を着て椅子の上で両膝を立てて座っており、左右別の方向を向いている斜視はどちらも相手を視界に収めてはいなかった。この男こそ、過去にスカリエッティに自ら接触して一部設備や戦闘機人のデータを譲り受けた違法科学者のハルト・ギルガスであった。

 「で、何故に儂はこんなところへと連れてこらされたのか全く分からんのだが、知っとるかね?」

 「私の『知り合い』の執務官が、以前君に貸与した例のサンプルについて知りたがっていてね。そこに古風な録音機があるだろう? 我々の供述が欲しいのだろう」

 スカリエッティの指差す方には確かにあからさまに小型のマイクが置かれており、ここで話された事柄を逐一管理局に教えることになることは容易に想像できた。

 「はんっ! 貴様の知り合いなんぞロクな者がいないな」

 「それは自分もカミングアウトしていると言うことかな?」

 「何を言っとる! 儂はただ単に自分の研究意欲の為だけに、あくまで一時的に貴様を利用していただけのこと。故に――」

 「故に、ここで自分が何をどう喋ろうと私には関わり無い……そう言いたいのだな?」

 「ふはは、相も変わらず察しが良いな。…………良いさ、教えてやろうじゃないか。管理局の脳無しどもにな」

 「私は何も話さんよ。ここに入る時にそう宣言しているからな」

 「好きにせい。さて……どこから話したもんかのう」

 「痴呆か? 良くないな、脳細胞の衰弱と欠如は。どこから話すなど、決まっている事柄のはずだ」

 「そうだったな。はてさて、儂が貴様からあのサンプルを借りてからもう既に17年か……。時が経つのは早いものだ」

 この時、ハルトの斜視だったはずの両目が一瞬で眼前のスカリエッティを捉えた。その目に宿るのは同じように在るべき道を踏み外した者がもつ狂気の輝きがあった。



 






 時を遡ること約数分前――。地上本部中央管制室にてそれは始まりを告げた。

 『緊急警報発令! 緊急警報発令! 本部内にて火災が同時多発! 一般局員は避難経路に従って本部の外へ避難してください』

 突然のアラートと共に管制室全体に異常を報せる警報が響き渡った。ここだけではない、今頃は本部の建物の全区画に放送されているはずだ。

 「火災が多発だと!? 一体どこでだ!」

 対応の年配の室長がすぐにオペレーターの一人に現状の報告を急がせた。一挙手一投足の動きが遅ければ事態は悪転してしまう。

 「K-12区画第7連絡通路にて二ヶ所! H-34区画第3研修室にて一ヶ所!」

 「馬鹿な、その周辺はガス管など通っていないぞ! 警備員は何をしていた!」

 「それが……現場周辺の担当の報告によると、寸前まで爆発物及び可燃性の物体は全く見受けられなかったとのことで……」

 「火の気の無い所に爆炎が出る訳がないだろう! スプリンクラーを作動、直ちに消火活動に入るように伝えろ」

 「了解しました」

 火の手が上がったのは三ヶ所、映像で確認したがそれほどに大きなものではなかったので、すぐに鎮火できることだろう。



 そう、考えていた。



 「これは……! スプリンクラー作動しません!」

 「何だと!?」

 「どの緊急コードも受け付けてくれません! あぁ、くそ! 制御不能!!」

 「現場周辺の局員の退避は出来ているな。防火シャッターを降ろせ! K-12区画とH-34区画を閉鎖しろ!」

 「駄目です! 局全体の防災システムに異常発生! 消火用水道と空調装置停止、シャッター動作不全、局全体のガス管全開! このままでは……!」

 映し出されるモニター映像には、既に消火器や特大バケツなどでは追いつかない勢いにまでに成長した炎が通路全体を蹂躙している様子が無情なまでに映っていた。巻き込まれた人間はまだいないようだが、ガス管に引火するのも時間の問題だろう。

 「偶然などではない……。これは第三者の意図が、悪意がある…………テロだ」

 既に管制室は今いる人員では間に合わず、その間にも火の手は勢いを増す。被害報告の間隔はやがてその誤差をゼロにし、毎秒ごとに件数を残酷なまでに増殖させてゆく。

 だから気付かなかったのだろう。押収物品管理課からも警報が発せられていたことに……。

 そして、既に保管庫からは次なる火の手が上がっていたことに。



 






 「え! 何、火事!?」

 職業柄、スバルの危機感知能力は高い。食事中にも関わらずにスプーンを放り出すと直ぐに通信を飛ばす。

 「管制室、こちら防災課のスバル・ナカジマ陸曹です! 報告をお願いします!」

 「って、おい! ちょっと待てって!」

 目の前の食事分を放置して食堂を全力疾走して抜け出すスバルの後にノーヴェも急いで駆ける。既に通路は警報のアラートが鳴りっ放しで、魔法が使えなかったりランクが低い一般局員は我先にと避難しようとして逆に混乱の極みを表していた。

 「えぇ!? もうそんな場所まで! 了解です、今すぐ現場に急行します。――マッハキャリバー!」

 『分かっています、相棒』

 首に掛けてあった蒼いネックレスを掲げると一瞬のうちにバリアジャケットとローラーブーツ型インテリジェントデバイス『マッハキャリバー』を装着し、混雑する人々の間を縫うようにして大衆とは逆向きに移動して行く。もちろん、そのすぐ後から紺色の防護ジャケットを身に付けたノーヴェもジェットエッジを加速させて追い付き、並走する。

 「おい、火事って一体どこでだよ!」

 「K区画とH区画が発生源だけど、もう間に挟まれた区画は全焼したって言ってた!」

 「これからどうするんだよ!」

 「私は今から消火活動しに行くから、ノーヴェは避難経路の確保に行って!」

 「消火って……! 天井から水出ねーのかよ!」

 「良く分からないけど、防火シャッターも降りないって言ってた!」

 「はぁ!? まぁいい、あたしは群れてる奴らの整理をすればいいんだな?」

 「お願いね」

 「チンク姉やディエチと違ってあんまし器用なマネは出来ないけど……。やってやる!」

 「ありがと! これが終わってまだ食堂が残ってたら今度こそ特製カレー奢ってあげるから」

 「いらねぇよ!」

 そう言ったのを最後に、二人は十字路で左右に分かれて行動することにした。しっかりと別れ際に互いの拳を打ち合わせたのはほんの一瞬のことだった。



 






 局員が、人々が、男女入り乱れて逃げ惑う。

 既に数メートル先では紅蓮の炎が垣間見えているこの状況では、誰一人として自らの冷静さを保っていられるはずがなく、自分たちの身の安全を第一に考えるだけで精一杯だった。

 しかし、唯一人だけは違った。通路の曲がり角で静かに現状を解析、混乱に対しても全く動じることなく周囲を静観し続けていた。その姿は良く見れば異常なことだったのかも知れなかったが、やはり誰もそのことには気付くはずもなかった。

 「…………第二陣、発動」

 『Over Detonation.』

 懐から電子音が返事を返す。すぐに変化はなかった。

 しかし、変化が訪れないわけではなかった。



 






 その頃、資料室では――。

 「フェイトさん! 早く避難しないとここも危ないですって!!」

 「うん……ちょっと待って」

 オレンジの長髪を振り乱し、ティアナは必死に脱出を促す。だがフェイトは先程から、正確には火災状況を確認しようとして画面に地上本部の見取り図を展開した時からずっと、そこを一歩も動こうとはしないのだ。今彼女らが居るのはE区画、いつ火の手が迫って来るとも分からないこの状況でフェイトがとっているのは明らかに自殺行為だった。

 『緊急警報! A-39、N-21、O-40、R-54の計4区画で新たに出火が確認!』

 「え!? フェイトさん、挟まれました! 何してるんですか、いい加減に早くしないと私たち焼かれ死にます!」

 「待って! お願い、後もう少しだけ時間をちょうだい」

 そう無理を言ってフェイトはまたしても画面を食い入るようにその紅の眼で見つめだす。既に映し出される立体図では建物内部の殆どが全焼を表すように赤く塗り潰されていて、二人がいる資料室の数十メートル手前まで劫火は堰を切って迫ってきている。確かにこのままではティアナの言うように数時間後には焼死体になってしまうことは確実だった。

 「発火場所は全てランダム……。防災システムに異常があるのは……誰かが内部からハッキングを掛けているから? でも誰が? いいえ、それは問題じゃない。問題は…………もし相手が本部内に居るのなら、混乱を引き起こしてからどうやって逃げるのか……」

 既にフェイトの鋭い勘は今のこの事態がテロ、もしくはそれに準ずるものであると分かっていた。しかし、相手の意図が読めない。ここまで火災の勢いを強めれば自身も危険に曝されかねない。例え相手が単独犯であったとしたとしても、最外区画であるA区画にまで手を付けた以上は逃走経路は自然と限られてくる。既に外ではなのは率いる教導隊が訓練を切り上げて消火と混乱する人々の整理に回っている頃だろう。もし仮に不審な人物が飛行して逃げようとするものならば、彼女が見逃すはずがない。かつて一度とは言え地上本部襲撃事件の教訓は伊達ではなく、侵入を許してしまったからにはみすみす逃走などと言う失態を犯すのも考え難い。

 「分からない、犯人の思考が……。一体何を…………?」

 フェイトが考え、ティアナが慌ただしくする中で火の手はさらに拡大し、蹂躙を続けている。防災システム自体に復旧の目途はなく、スプリンクラーも防火シャッターも完全に停止しているこの状況ではもう死人が出てもおかしくない事態だった。

 「足りない……犯人の足取りを決定付ける何かが足りていない」

 だがしかし、今あるこれだけの情報ではその“何か”を突きとめるのは困難を極めた。脳裏に異様に引っ掛かるそれを振り払い、この場に居ることにとうとう限界を感じた彼女は踵を返してティアナと共に逃げ出そうとした。いざと言う時の為に待機状態のバルディッシュを握りしめて。

 その時――、



 






 中央管制室――。

 「これは……!」

 「どうした、今度はどこで火災が発生した!?」

 「いいえ! 違います!! 本部上空に高熱エネルギー反応が感知されました!」

 「何だと!?」

 すぐにモニタ-に外部から地上本部全体を映した特殊処理映像が出された。確かに中央展望塔よりも遥かに高い位置でエネルギー反応を表す様子が一点から示されていた。レーダーに円形の波紋のように映し出されるそれは徐々にその半径を拡大させ、それはエネルギー量が極大増加していることをいやでも理解させた。

 「信じられません、予測物理影響レベル推定オーバーS! もしこれが純粋な攻撃か何かであれば本部の三分の一は……!」

 「そんな馬鹿なことがあってたまるか! 外の高町一等空尉に繋げ! 報告を急がせろ!!」

 「りょ、了解!」

 すぐにオペレーターが通信回路を開く。すると別窓の小モニターに『SOUND ONLY』と表示された。

 『こちら戦技教導隊教官、高町なのは一等空尉です。現在私の教導隊の一部を消火及び救援活動に当てています』

 「空尉、貴官は今外に?」

 『はい』

 「ならば丁度良い。そこから本部上空に何かを確認できないか? 何でも良い、目に付いた物があればすぐに報告を願う!」

 『え? 空、ですか……? いいえ、こちらからは何も確認できません!』

 「何ぃっ!? エリアサーチは掛けたのかね!?」

 『駄目です、レイジングハートも何も発見できないとしか……』

 「そんなことがあるものか!! こちらのレーダーでは既にエネルギー反応が感知されているのだ、残っている空戦魔導師を総動員して早期発見に移れ!」

 『でも、もうこちらで割ける人員は……』

 「そんなことは聞いてはいない! 今は非常事態だ、四の五の言っている時間があれば迅速に――、」

 度重なる事態に混乱していた室長は声を荒げて画面越しに若き一等空尉を怒鳴り散らす。非常事態なのは誰もが把握していることだが、本部にはただでさえ空戦に特化した人材は少ない。その少ない人数で被害阻止に当たっているのだ、そこから下手に人間を引き抜けば大事になる恐れがある。火災状況は今局に居る防災課の面子だけでは手に負えない上に、民間の組織に増援を依頼していたのでは時間が掛かってしまう。とても今のこの状態では現状を打破するのは無理難題に等しかった。

 その時だった、モニターにもう一つ『SOUND ONLY』と表示された小窓が出て来たのは。通信相手は……。

 『管制室、こちら八神はやて二等陸佐であります』

 『はやてちゃん!? 今日は休暇申請してたんじゃ……?』

 「八神二佐か。今は知っての通りの現状だ、報告ならば後にしてくれたまえ」

 室長は素気ない態度で通信のはやてを突き離した。前々からだが、局内では彼女のことを快く思ってはいない者が多く、恐らくはこの室長も同じなのだろう。

 『いえ、火災現場には私が消火に向かいます。ですので、現在内部で活動中の空戦魔導師の6割を一等空尉の指揮下に移すことを提言します』

 「何を言って……そうか、八神二佐の魔法は氷雪系が主力だったな……。過去の空港火災の際にも消火活動に一役買っている…………となれば、断る理由は無いか」

 『いかがですか? 現在こちらは現場に移動中ですが』

 「うむ、では八神二佐、大至急現場に急行してくれたまえ」

 『了解しました。では、報告は後ほど……』

 そう言い残し、はやては通信を切断した。後に残ったのは同じく通信を繋いだままだったなのはだけだった。

 「と言う訳だ、一等空尉。貴官も至急調査に移行してくれ。すぐに君の教導隊の一部がそちらに戻ってくるはずだ、頼んだぞ」

 『……分かりました、現場に急行します』

 小さく了承の旨を伝えると、大空のエース・オブ・エースは与えられた職務と命令を実行するべく通信を切った。数分後には目標ポイントに到着して報告が入ることだろう。火災現場にもSSランク魔導師の八神はやてが向かっている、良くすれば数時間で火災は尾を引くだろう。

 午後14時23分の出来事だった。



 






 所変わってグリューエン――。ミッドの地上本部とは打って変わってここは静かを通り越して無音に近かった。

 「あの時の貴様はまだ四体しか戦闘機人を完成していなかったな。今でも覚えているな、あのときの衝撃は。あの時代であれだけの生体改造技術を持っていたとはな」

 面会室ではガラス越しにハルトが一方的にその皺だらけの口から言葉を紡ぎ、対するスカリエッティはただ静かにその言葉を聞いているだけだった。

 「当時は儂も様々な違法研究に手を染めていた。その中には当然機人製造も含まれていた、満足のいくモノは造れなかったがな」

 「そんな時に、この私と出会った……そうだな?」

 「人のセリフを取るな。……そう、完全なモノを造りたいと言う自己の欲求を満たす為だけに儂はジェイル、貴様に接触したのだ」

 そう言って彼は関節が浮き彫りとなった節だらけの指でスカリエッティを指差した。そのすぐ横には事情聴取用の録音機が既に作動しており、先程から彼らの証言を一字一句逃さずに録音している。

 「そこで儂は驚嘆した。まさか! そんな! こんなことが有り得るのか! ……とな。旧暦より様々な科学者たちが追い求め、敗れ去っていった完全なる生体技術の完成。それをたった一人の手で完成し、形にしてみせた……その事実が、儂には衝撃以外の何物でもなかったのだ」

 「たった四体じゃないか……」

 「だが結果として貴様は13体造り、うち12体を己が計画の為に使った。まぁ、結局のところは管理局の阿呆どもに負けたがな」

 「誰の所為だと思っている?」

 「さてな、儂ぁ知らん。ともあれ、あの時儂は思った。どうにかしてこの技術を、この力を、この能力を自分のものにしたいとな。今思えば浅ましいことこの上ないことだ、自ら道を求めるのが科学者の第一だと言うのを信条としていた儂が他人の能力を妬み、あまつさえ――」

 「この私から半ば強制的に“13番目”を譲り受けた……そうだな?」

 「……そうだな……そうだったな。かつて君の元に居た他の戦闘機人たち…………あー、名は何と言ったかな?」

 ハルトは自分の白髪まるけの頭を少しばかり申し訳なさそうに掻いた。

 「…………No.1、ウーノ。No.2、ドゥーエ。No.3、トーレ」

 「そう! そうだった、思い出したぞ、確かにそんな名だったな。すまんな、どこかの誰かさんと一緒で名前には拘らん主義でな」

 「それは珍しい、一体誰のことだね?」

 互いに微笑みを浮かべてはいるが、やはり目が笑っていなかった。元来、「笑う」と言う動作は肉食獣が獲物に牙を剥く行為を表している。不敵に笑う二人の間には心理的にはもちろん、物理的にも割って入ることはできなかった。

 「…………まぁいいがな。あの時はまだこの位で可愛らしかったが……三人ともどうしたね?」

 そう言うとハルトは床から100数センチの所に手を翳した。 

 「ウーノとトーレはこことは別の拘置所に居る。ドゥーエは…………」

 「何だね、差し詰め計画の遂行中に無様に野垂れ死んだか?」

 「……………………何も言うな」

 たった一言。それだけだがハルトの口を塞ぐには充分だった。憤怒、悲哀、無情……数ある感情のどれでもなく、また全てを内包するかのようにスカリエッティは静に、されど強く言い放った。

 「まぁそう言うな。当時の彼女たちには悪かったが、貴様の秘蔵っ子だった“13番目”、即ちNo.13『トレーゼ』を求めた。自らの研究を更なる高みへと昇華させる、その礎とする為にな」

 「私は渋ったがな」

 「結果として、儂は“13番目”を貰い受け、最重要サンプルとして自分の古巣へと持ち帰った」

 「第69管理世界コクトルス――」

 「儂は嬉々とした、この上ない程にな! これで自分はもっと上に臨める、体良く言い表すなれば進化するのだとな」

 「…………それで?」



 「――失敗した。挫折したのだよ」



 この時、ハルトの左右の眼が再び別々の方向を向いてしまった。先程まで嫌でも感じさせていた狂気の渦は消え去り、代わりにどうしようもない虚無感が滲み出ていた。

 「ほう、何故?」

 「『真の進化』と言うものを見せ付けられたからだよ。全く恐ろしいものだ……恐ろしくあり、同時に儂自身が愚かに感じて仕方がなかった。あれは儂が求め描いていた理想とは全く違い、儂の理想よりも遥か高みにいたからな。こんな小さな高みを目指していた自分が急にバカらしくなってしまった……」

 もう既に彼からは瘴気の残滓も感じられず、ただただ虚しさと自身の愚かしさを吐露しているだけの惨めな存在に成り下がっていただけだった。

 「だから……儂は研究を止め、“13番目”を封印したのだ」



 






 ミッド地上本部、午後14時26分。災害判定第一線区域にて――。

 「くっ!! 駄目だ、これ以上の消火は無理だ! ナカジマ陸曹、ここはもう無理です! 一度後退して控えの魔導師と合流しましょう!」

 前方の劫火を前にして防災課の隊員の一人がスバルにそう提言した。外部から給水されてくる水量では燃え盛る火の手を消すことはおろか、遮ることすら出来ずに熱で水分が蒸発してしまうだけだった。防火シャッターの代わりに周囲の壁や天井を崩して炎の行く先を封鎖すると言う方法もあるのだろうが、この閉所でその強行手段をとれば最悪の場合は生き埋めになりかねなかった。それ以前に彼女は近接戦闘特化のベルカ式魔導師、射撃を得意とする親友や砲撃を主力とする師とは違ってその行為は通常以上に危険が伴ってしまう。

 「ダメ! 後ろのA区画は消火出来たって聞いたけど、活動に当たってた魔導師の殆どが外に出て行ったって報告があった! ここで引き下がっても頭数は変わらないかも知れないし、合流するまでに被害が増えちゃうかも知れない!」

 「しかし! 現状戦力では耐え切れなくなるのも時間の問題です!」

 「大丈夫、もうすぐこっちにはやてさ……八神二佐が来るって報告があったから、あの人なら何とかしてくれる!」

 「八神……? あの八神はやてですか!?」

 この場にはかつての空港火災で活躍した者もいる。その者達には若き二等陸佐の実力が充分に分かっていた。そして、それを聞いた全員の心に安堵の波紋が広がっていくのが手に取るように分かった。彼女の手に掛かれば鎮火など容易いものに違いないと、誰もが信じて疑わなかったからだ。

 「だから皆、あともう少しだけ頑張って!!」

 スバルの檄が飛ぶ。今まで過酷な災害現場に立ち会い、中には自分たちが死に直面したこともあった。その度に彼女はこうして仲間たちを励まし、時には叱咤して困難を乗り越えてきた。これは防災課ではある種の儀式のような意味合いを持っていると言っても過言ではなかった。

 「了解です、こちらは現状戦線を維持、八神二佐が到着するまでの間持ち堪えてみせます!!」

 「ありがとう! …………ノーヴェもあっちで頑張ってくれてる、私だって頑張らないと!」

 右腕を前方に大きく構えたスバルはリボルバーナックルのカートリッジをロードする。二つのスピナーが高速で回転し、腕周りに魔力を纏った風が渦巻くと彼女は腰を捻り、大きく打ち出しの構えを取った。

 「リボルバー……シュートッ!!!」

 自らの目の前の虚空に拳を打ち出すと、高圧の旋風弾丸が劫火を押し返しながら通路を突き抜けた。常識で考えれば風が吹くことで炎が飛び火し、被害が拡大するのだろうが、ガジェット数機を軽々と吹き飛ばすだけの風圧の前では劫火も風前の灯火に等しかった。しかし、この方法では時間が掛かる上に誰でもやれる訳ではなく、文字通りの「焼け石に水」でしかなかった。せいぜいこの区画限定での時間稼ぎにしかならないだろう。

 「今だ! 放水、前へ出ろ!」

 隊員たちが周りに足止めの水を撒きながら突き進む。スバルが風圧で押し返し、他の隊員たちが放水しながら火の手を遮る。実際この方法でしか有効な手段はなく、彼女としてもなんとか目標の位置まで押し返したいところだった。

 ≪――バ……ル…………スバル、聞こえてる? 返事しなさい、スバル!!≫

 「え? ティア……?」

 ナックルに予備の弾装を込めようとした時、ふと脳裏に直接親友の声が響いてきた。念話を使って話しかけてきているようである。

 ≪どうしたのティア、そんなに慌てて? 何かあった?≫

 ≪私の方はなんとか大丈夫。それより今どこに居るの?≫

 ≪どこって……防災課の皆と消火活動中だけど……≫

 ≪今すぐに手を空けて! 向かって欲しい所があるから!!≫

 親友のとんでもない発言にスバルは目を剥いた。今のこの状況が分かっていながら何を言っているのかと、思わず本人かどうか確認しそうになってしまった。魔力の周波帯はティアナ本人のものだと分かっていたのでそうするまでもなかったが。

 ≪バカ言ってんのは私が一番分かってる。でも言うとおりにして! 早くしないと取り返しのつかないことになるかも知れない!≫

 ≪ティア……≫

 ≪スバル、私を信じて。……お願い≫

 顔は見えないがスバルには嫌でも親友の緊迫した表情が目に見えた。伊達に訓練校以来の付き合いではない、彼女が嘘や冗談を言わないのはスバルが一番良く理解していた。

 ≪分かったよティア、すぐに私が行く。こっちの指揮は別の人に任せておくから≫

 ≪ありがとう。いい? 一度しか言わないから良く聞いて! 私はもうフェイトさんの指示で向かってる、今すぐに――≫



 






 午後14時30分、本部地下大型搬入通路にて――。

 「……………………」

 コツ、コツ、コツ、コツ――。

 無機質で硬質な音を足元から響かせながら一人の人影が非常階段の一つから降りてきた。一定秒数で規則的に歩いているその姿はまるで二足歩行に優れた機械か何かに見えないこともないが、歴とした人間の形をしていた。

 「……………………」

 上の騒動や混乱とはかけ離れた静けさの中でその影は確実に歩を進めて行く。この搬入通路は元々本部内に大型の設備や物資などを入れる為に使われていたのだが、技術の発達によって設備の小型化や一つで多くをこなす多機能機器などの導入が増え、その影響で現在では年内でも数える位にしか使用されてはいない場所の一つとなってしまっていた。

 「……………………」

 もちろんこの一本道の先は地上に繋がっており、大型車両が丸々一台は余裕で通れる寸胴型の通路となっている。地下への出入り口は土地の関係で本部の敷地より少しばかりの距離を置いた所に位置していて、上空を警備している魔導師の目が全て本部を向いている今では大きな死角となっている。おまけに空戦魔導師の大半は地上本部の遥か上空で意味の無い警戒を続けている。今ここで地下を通って逃げおおせたとしても、誰も気付くことはないだろう。

 そうして歩いていると重々しいシャッターが見えて来た。この通路はこうして一旦途中で区切られていて、ここを越えれば地上へは文字通りの一直線だ。

 「……………………」

 そっとシャッターの前に立つとその表面に手を添えた。金属のひんやりとした感覚が伝わっているはずのその手は黒く、指沿いの赤いラインと鋭利な五指の鉤爪が目立っていた。その形状やデザインはキャロやルーテシアが使うブーストデバイスに酷似していたが、彼女らのものとは違って武装としてのイメージが強かった。

 すると、接触面がら紅く淡い光が発生し始めた。傍からでは分からないだろうが、今その掌中には膨大なエネルギーが集束しており、その人物はそのエネルギーを一点に集中・爆散させることでシャッターを粉砕しようと試みているのだ。やがて目標を破壊するに事足りるだけの物理的エネルギーが集まると、少し表面から手を離し、勢いをつけてその高濃度エネルギーを叩きつけようとした。



 「――そこまでよ」



 刹那、その手がシャッターの数センチ手前で急停止する。声は後ろから聞こえてきたが、あえて振り向かない。後頭部あたりから武器を介して相手の殺気がひしひしと伝導してきているからだ。

 「一応局法で非殺傷設定にはしてあるけど、当たれば凄く痛いわよ」

 カチリ、と撃鉄を起こす小さな音をその人影は聞き逃さなかった。銃器型のデバイスを使用しているのは間違いないだろう。そうして静止しているうちに後ろから声の主はゆっくりと接近し、その距離を詰める。足音からして互いの距離は1m余り、何か不穏な動きをすれば瞬く間に封じ込まれる間合いだ。

 「抵抗しないなら、大人しくここで連行されなさい」

 腰に届きそうなオレンジの長髪を揺らし、管理局の制服を着こなすその女性――執務官ティアナ・ランスターはクロスミラージュの照準をしっかりと後頭部に当てていた。

 「あなたを逮捕するわ」



[17818] 第二次地上本部襲撃事件 Act.2
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/04/02 22:03
 最低限の照明器具しかない薄暗いこの空間でティアナは最大限に警戒意識を高める。今目の前に背を向けているこの相手は危険だと、自分の本能が告げているからだ。過去にナンバーズ総動員による襲撃事件に匹敵するだけの混乱をたった一人で起こし、あともう少しで逃走まで許してしまうところだったのだ。警戒しない方がどうかしている。

 「……………………」

 「何でここが分かったのか教えてあげるわ。と言っても、先に気付いたのは私の上司だけど」

 そう言いつつもクロスミラージュの銃口は決して標的からは離さない。しかし絶対に直接は突き付けない。もしそうすれば己と相手の正確な距離を教え、そして最悪の場合には一瞬の隙に得物を奪われる恐れがあるからだ。

 「出火場所は全部が適当なランダム、多分これには特に意味はないはずよ。強いて言うなら、上の階の局員を混乱させるのが目的」

 足元に橙色のミッド式魔方陣が展開される。一応威嚇して相手の戦意を削がなければいけないからだ。見た限りでは相手は手甲型の武器しかなく、彼女にとってはまだこの距離内ならば銃で対抗できる自身があった。

 「始めは事故を装ったテロに見せかけて本部内を焼き払って、どうやってこの建物から逃走するのか見当もつかなかったわ。最外区画にまで火を起こして退路を切断して、外にはなのはさんに鍛えられた航空戦力がウジャウジャと居るのに逃げるなんて不可能に等しいはずなのに、あえてそんな行動に出たのか理解できなかった……。でも、それは私たちの目を騙す為のトリックだったんでしょう?」

 魔力を溜めるとオレンジの光球が銃口に発生する。彼女の言ったように非殺傷設定にはしてあるが、頭部にまともに当たれば昏倒するのもまた事実だ。

 「空に高エネルギー反応が出た時に気付いたのよ。地上はどこもかしこも火が上がってるのに、地下だけは手付かずだったことにね。普通の無差別テロならそんな選り好みなんかしないはず……。そして、空に偽の反応を検知させたのも、ここに居る局員の目を地下から逸らす為のフェイクに過ぎない……違う?」

 「……………………」

 「……このままダラダラ話しても無駄ね、両手を上げなさい! ゆっくりよ」

 タネ明しをしても何のリアクションの無い相手にティアナは痺れを切らし、早急に連行しようと語気を強めた。すると相手の方はいやに大人しく手を引っ込めると、これまた大人しくこちらに体を向けて来た。

 「手を上げろって言ったのよ。まぁいいわ、取り合えず今度はその鬱陶しいフードを取りなさい。薄気味悪いったらありゃしない」

 そう言うと、少しの間があったが、相手は分厚く大き目なコートのフードに手を掛けた。袖口から見える黒い金属質の両手はどうやら装着型のアームドデバイスに見えたが、不思議なことに魔力の類が何一つ感じられないのだ。もしこれがデバイスなのだとすれば、無用の長物も良いところだ。どんなデバイスも魔力との親和性が無ければ只の機械や鉄屑に成り下がってしまうからだ。

 そんな所に目を向けているうちに目の前の人間はフードを脱ぎ、自らの顔面を晒して見せた。

 その顔は自分達ミッド人とは少し違った作りをしていて、どちらかと言えば、そう――、かつて世話になった部隊長に似て……。

 「なっ!!?」

 その瞬間、ティアナは今日一番の衝撃を味わうことになった。自らの眼球に飛び込んできたその映像に彼女は柄にもなく大声を上げてしまう。

 驚くのも無理はなかった。目の前でコートに身を包んだその人物は何を隠そう、元機動六課創設者にして部隊長その部隊長八神はやてだったのだから。手を伸ばせば届くこの至近距離でまさか他人と身違うはずもなく、ティアナのまともな精神は驚愕の事実の前に瓦解寸前となっていた。

 だから、自分でも知らぬ間にクロスミラージュの照準を外してしまい、震える足取りで眼前の「彼女」に接近してしまった。

 「は……はやてさん…………何でこんなこと――」

 途切れる声で問いかけても、彼女は虚ろで空っぽな瞳を向けるだけで何も答えようとはしなかった。



 ――刹那、風が薙いだ。



 人間の動作は五感を司る感覚器官から刺激を得て脳が対処することで起こる現象だ。人によって差異はあるが、感覚器官→脊髄→脳→脊髄→末梢神経と言うプロセスを完全に経るにはおよそ0.2秒掛かると言われており、反応できない0~から0.2秒までの時間は無意識の時空となってしまっているのだ。訓練を受けていない者が基本的に銃弾を回避できないのは、この無意識の隙を突かれるからに他ないからだ。音速を超えて飛来する物体を人間の感覚が捉えるのは容易いことではない。

 この瞬間にティアナの感覚が感知できたのは目の前から急にはやての顔が消えたように見えたこと。そして、自身の左側から迫る殺気に研ぎ澄まされた第六感が反応したことだけだった。しかし、たったそれだけでも彼女が危機を脱するには充分だった。

 「――ッ!!」

 一瞬の油断が死を招く……この時身を以って感じたこの教訓をティアナは決して忘れないだろう。六課時代に鍛えた肉体の一部、背筋を利用してほんのコンマ1秒で逆海老反りに身を引いた。少し格好のつかないこの体勢も、相手の神速の蹴り上げを回避するには致し方ないこと。目の前には明確な敵意と悪意、そして殺意を身に付けた鋼鉄の足先がほんの数ミリ手前まで迫っていたからだ。

 そして同時に気付いたことがあった。そう、蹴り上げを喰らいそうになった時のたった一瞬でだ。

 「くっ!!」

 腹筋と背筋のバネを最大活用し、宙返り、その勢いで敵との距離を開ける。そして気付いたこと……。

 “八神はやては武闘派ではない”と言う事実だった。確かに彼女の職業上、多少の護身術などをヴォルケンリッターなどから教わっていたのかも知れないが、少なくともここまでアクロバティック且つアグレッシブな攻撃をしてくるなど見たことも聞いたこともなかった。それに、局でも彼女は魔力的・物理的問わずに近接戦闘を不得手としていたのだ、だから……。

 こんな八神はやてを、ティアナは知らない! だが、相手からは全く魔力反応が感じられない。例え変身魔法を使っているのだとしたら、多少なりともそれに対する魔力が感じられるはずが、皆無なのだ。だからとて、相手が八神はやてである可能性は今この一瞬でゼロとなっている。常識では考えられないことだった。

 既にいつの間にか敵は再びフードに顔を隠し、悠然とこちらを向いていた。着込んでいるコートは明らかにサイズが合っておらず、垂れた状態では袖に両腕が完全に隠れていて、足元の方もすっぽりと隠れ掛けていた。そして、僅かなその隙間から見える足は……。

 「何よ、その足……」

 何が見えたのか? どうと言うことはない、別に足が無くて宙を浮いていた訳でもなく、しっかりと地に“四輪の足”を付けて立っていた。

 『マスター、あの者の武装……キャリバーに酷似しています』

 「言われなくても見たら分かるわよ。クロスミラージュ、バリアジャケット!」

 『了解、マスター』

 一瞬の輝きの後、ティアナは純白のバリアジェケットを身に纏い、右手にしか持っていなかった自分の相棒を両手持ちに切り替えた。すぐさま銃口を再び向けるが、当の相手は全く動じようともせず、むしろ構えようともしなかった。単純に戦闘意識が無いのか? いや、先程の鋭い蹴りは間違いなく脳髄へのダメージを狙っていた。あのまま直撃していたならば、頭蓋骨の一つや二つは軽く粉砕されていたのもまた間違いない。

 「……顎に当てて脳震盪、行けるわね?」

 『もちろんです』

 かつてのヴァイスが戦闘機人ディードに対してやったように、彼女もその行動のシュミレーションを頭に思い浮かべる。そして確信。行ける、この距離、この角度、この体勢、自分が魔力陣を展開して弾丸を形成、人差し指による引き金の動作、それによって相手が怯んだその隙を突く。大丈夫、実行可能だ、決して無茶ではない。どんな人間、いや生物でも脳に直接衝撃を与えれば効果は必ずあるのだ。

 そう確信すると、ティアナは数秒の間を置いた後――、

 「――せいっ!!」

 足元に魔方陣を展開、照準を合わせ、魔力弾の形成、引き金を引く。この間およそ0.4秒。訓練を受けていない常人ならば対応する術など無く撃ち抜かれる速度である。

 殺った。ティアナは声には出さずにそう胸中で呟いた。彼女には既に弾丸が着弾し、その体をぐらつかせるヴィジョンが目に見えている。伊達に長年ガンナーをやってはいない、この確信は既に今この瞬間に必勝事項と成ったのである。



 否、――



 相手の体に吸い込まれるようにして飛襲したはずの魔力弾は目標の僅か手前で消滅する。手品? 奇術? 幻術? いいや、確実に今、ここでこの瞬間にそれは『魔法』のように消え去ったのだ。その証拠に先程まで健在していたはずの弾丸の魔力はこの空間から無くなっており、代わりにある一点を中心にして粘つくような感覚が広がっているのをティアナは感じていた。

 その感覚を彼女は嫌と言う程に知っていた。目の前の敵の直ぐ眼前で波紋状に展開されているその不可視の壁は3年前の戦いで知ったもの。間違いない、全ての魔導師と騎士の天敵と成り得る高位魔法――、

 「AMF? そんな、さっきまで魔力反応なんか無かったのに……!」

 しかし、そう言い聞かせても現に目の前で起きていることは事実だ。肌で感じ取る限りでは、前方から放出されるそのAMFの濃度はかつてのガジェットⅢ型の出力に匹敵しているのではないかと思えてくる。今こうしているうちにも肉体が重苦しい枷をはめられている感覚を強いられているのだ。でも、それだけではない、魔力とは違った何かがティアナの背を悪寒と共に駆け抜ける。

 「何よ……何なのよ。あんた一体…………」

 前言撤回、こいつは“危険”なんてレベルじゃない!

 先程は経験で察知していた彼女はその判断基準を生物としての最高ランク、「本能」へと切り換えた。でなければ勝てない。僻みや謙遜などとは決して違う、違うのだ。

 「こうなったら先手必勝、強行手段、行くわよ!」

 『了解』

 そう言うと、ティアナの周囲にさっきと同じオレンジの魔力弾が大量に出現する。言わずと知れた彼女の十八番、【クロスファイアシュート】だ。弾丸の一つ一つが精密極まりない誘導弾であるこの弾丸もまた、先程と全く同じ威力を持ち合わせている。一点突破が難しいならば、手数で押し切られた隙を狙ってバリアを引き裂く、それが彼女の導き出した答えだ。

 「クロスファイア――、」

 クロスミラージュがカートリッジを消費する硬質な音が響いた後、

 「シューートッ!!!」

 駆けるは魔力を伴った流星の尾、狙う標的は唯一人。弾数は全部で16発、いくらこの空間が広いと言えども局内の訓練室ほどではない以上、逃げようにもスペースが無い。もう既に次弾の装填準備が出来ている彼女は着弾と同時に第二陣を発射、第一陣で怯んでいるその隙にタイミングをずらして弾丸と共に生身で特攻するのだ。そして、間合いに入ったその瞬間にダガーモードの魔力刃を使って表面に展開されているであろうAMF層を切断、さらに近距離からのチャージショットでのノックダウン、それが現状で最も有効な策だと彼女の脳は判断した。あとは実行するだけ。

 第一陣弾幕と敵の距離は現在およそ2m、それでいてなお、相手は地に根を下ろしたかのように微動だにしない。諦めたか? ならば好都合と言わんばかりにティアナは第二陣発動の準備を行った。

 だが、そのとき彼女は見てしまった。

 深く被られたフードの奥で金色に怪しく光る何かを――。

 「…………IS、No.5『ランブルデトネイター』発動」

 『Over Dtonation.』

 着弾の瞬間に何かが聞こえたが、同時に空間を揺らした強烈な爆音に掻き消されてしまった。

 鼓膜を爆音が殴打したのをティアナは感じた。通常、特別な細工を施さない限り魔力弾はこんな風に爆発したりなどは決してしないはず。そう、有り得ないことなのだ。

 「くぅ……何が……?」

 予期せぬ事態に思わず耳を塞いでしまったが、その分体勢の立て直しも当然早い。濃灰色の爆煙が漂う前方にすぐ照準を掛け直すと、煙が沈静化するのを待った。決して自分からは飛び込まない。視界がうまく保てないこの状況では危険な行為だからだ。やがて煙は勢いをなくしていき、周囲はなんとか視界が保てる状態にまで回復してきたその時――、

 爆煙の中心、敵が佇立していた所から一閃、ティアナの足元へと何かが飛来した。

 「!?」

 それはナイフ、無骨な金属製の両刃のナイフが彼女の二本の足の真ん中の地点に深く突き刺さっている。放り投げただけではここまで深くは刺さらないだろう。

 「何よ、ただのこけおどし…………っ!?」

 そう思った時、ナイフの柄に真紅の小さな環状テンプレートが光輝いた。その輝きは地下空間全体を紅く照らし出し、クロスミラージュが膨大な熱反応を感知したことを主に告げる前にそれは内包していたエネルギーを余すことなく外界に向かって全力で解放させ――、



 

 何が起きたのかティアナには全く分からなかった。

 いや、正確には幾つか分かっていることがある。まずは自分の状態、爆発したナイフから離れようと後方に飛んだものの、予想以上の威力で生み出された爆風に体重の軽さが災いして地面に激突、軽傷ではあるが所々を擦り剥いてしまった。そしてもう一つは敵の状態、仰向けの体勢からなんとかして上体を起こして見ると、目の前には変わらず佇立するその姿があった。しかし、その周囲にはさっき自分の足元に投擲されたものと同じナイフが多数空中で浮遊しており、こちらを威嚇するかの如く刃先がティアナの心臓を狙っていた。だがこれでもなお魔力は一切感じられなかったが、魔方陣の代わりに見覚えのある紋様がその足元に浮かび上がっていた。

 「それ……まさか!?」

 見違えようはずもない。足元で輝く幾何学的な多重円形紋はかつて3年前に自分達……いや、地上本部の魔導師たちを苦しめた戦闘機人ナンバーズが自らのISを発動させる為に使った疑似魔方陣と全くもって同じものだったからだ。ヴィータのベルカ式魔方陣よりも紅いその紋様は規則的に回転し、既に空中のナイフ全てにも環状テンプレートが展開されている。推測だが、目の前のナイフ全てが先程と同じだけの威力を有していたとすれば、この地下空間はただでは済まされないだろう。

 「金属物の操作、爆発……。スバルのところのチンクって人と同じ能力ってことね……。どうりで魔力を感じないはずよ、戦闘機人だったなんて」

 口で言葉を紡ぐ最中にも自身の肉体の状況確認は怠らない。脚部に激痛が走るが、幸いバリアジャケットのおかげで重傷を免れるのには成功し、両手のデバイスも問題なく動かせる。そうと分かれば彼女の行動は素早かった。

 「せいっ!!!」

 銃口向け、カートリッジロード、撃鉄起こし、魔力弾の大量形成、照準合わせ――、射抜く!

 この一連のプロセスを雷挺の如き速度をもってして一気に成すと、再び発生したオレンジの弾丸はまたもや宙を駆けた。狙うは敵の得物、空中に浮かぶナイフだけ。武器さえ取り上げてしまえばこちらのもの、あとは爆煙など無視してAMFを貫き通す砲撃を放ってやれば良い。

 弾道の一つ一つはしっかりとナイフを狙っている。大丈夫、今度こそ……!

 痛みを抱えた足に鞭打ち、なんとか体重を支えると両腕のクロスミラージュを構える。カートリッジをロードする暇など無いが、この距離ならば現状の彼女の最大攻撃【ファントムブレイザー】は難なく通るはずだった。すぐにミッド式の環状魔方陣を展開し、着弾するまでの短い時間にできるだけのパワーを溜めようとした。



 だからなのか。集中していたからこそ――眼前に迫っていた鋼鉄の拳に気が付いていなかったのだろうか。



 「え――?」

 衝撃、震動、視界の反転、再び衝撃、……そして激痛。明らかに人体から生み出される威力ではないその殴打に彼女の肋骨は耐え切ることなどできなかった。胃が締め付けられる感覚を覚えた後に粘性のある血反吐がジャケットと地面を濡らす。両胸の痛みからして肺に骨が刺さっていることが容易に想像できた。肺だけではない、実際は内臓の幾つかも既に損傷を受けていることだろう。両手に握っていたはずの相棒も殴り飛ばされた時の衝撃で弾き飛んでしまっていた、もう拾いに行ける距離ではない。

 「がほ……!! ぐぅ……」

 肺の一部が潰れた今、まともに言葉を発することまで不可能となり、ティアナはただ呻き声を上げることしか出来ずにいた。このまま処置無しに放置されれば、吐血されるはずの大量の血液が肺胞に流れ込み、やがては窒息性のショック死を迎えるのも時間の問題だろう。これでは敵の逃亡をみすみす見逃すことになってしまう。

 だがその心配は無用だった。およそ10数メートル離れた壁際まで吹っ飛ばされた自分の元まで相手はあちらから接近して来たのだ。両足首には紅いエネルギー翼が展開されており、コートの間からスピナーの回転する高音が響いていた。

 「IS、No.3『ライドインパルス』、解除」

 『Yes,my lord.』

 誰に命令したのか、懐からの電子音が聞こえた直後、エネルギー翼は消失して展開されていたテンプレートも同じく消えた。両足四対のローラーで地面を走行し、停止。ティアナのすぐ前から見下ろしていた。いや、フードの奥から見える金色の双眸は睥睨しているのではない、“観察”しているのだ。

 「……な、何よ、見てんじゃないわよ!」

 自他共にボロボロの状態だが、それでいてなお彼女は威嚇する。

 しかし、それは決して生来の負けん気からきているものではない。生命の危険を肌で感じたことによる明確なる“拒絶”の意思に他ならない。

 「……対象の、損害状況、確認。危険度、レベルEに、低下」

 金色の瞳は獲物を見定めるようにしてティアナを見つめているが、既に相手にとって彼女は何の危険対象でもなくなったのだ。その証拠に先程まで感じていた敵意や殺意は嘘のように消え、今はただ耐え難い苦痛が全身を襲っているだけだった。

 『My lord,break a her device.(対象のデバイスを破壊せよ)』

 「承認。構造解析後、直ちに行動する」

 電子音との会話を終えた相手はティアナから目を離すと、視線を数メートル先の地面に放置されていたクロスミラージュへと向け直した。行動対象を確認するとすぐにローラーを回転、爆発の影響が色濃く残る地面を滑走した。そして、物言わぬ機械となってしまっているクロスミラージュを手中に収めた。そうすると、またもやその足元に真紅のテンプレートが発現し輝きを増した。

 「何するのよ……それをこっちに返しなさい!」

 さっきとは別の種の危険を感じたティアナは思わず立ち上がろうとしたが、骨折した肋骨の痛みがそれを冷酷に拒んできた。動けば動くほどに骨片は心肺や内臓を抉る、この痛みは限界であるのと同時に肉体側からの警告なのだ。無理に酷使しようとすれば本当に命に関わり兼ねない。

 「くぅ……!!」

 目の前で相手が良からぬ行動を起こそうとしていると言うのに、自分は無様に地面に伏せているだけしか出来てない。それが堪らなく悔しく、とても腹立たしくて彼女は怨嗟の眼差しで睨みつける。常人が視線で人が殺せるなら彼女の場合は滅ぼしかねない勢いだった。

 「デバイス系統、及び魔力運用方式、ミッドチルダ式に、ベルカ式カートリッジシステムの融合。武装タイプ、射撃及び砲撃型。……マキナ、解析」

 『Yes,my lord.』

 クロスミラージュを持つ鋼鉄の手甲の表面に紅いラインが走り、足元にも真紅のテンプレートが再度光り輝いた。それと同時にクロスミラージュをからノイズ塗れの音声がティアナの鼓膜を打ってきた。

 『マ、――マス……ター…………!?』

 インテリジェントデバイスにはAIが搭載されているだけのただの機械だが、その機械の心が自らの苦痛を瀕死のマスターに訴えていた。人とは違っても、その声には肉声以上の緊迫感が込められているのが容易に分かる。途切れ気味のその音声も徐々にノイズの濃度が高まり、もはや聞こえてくる音は言語として成り立ってはいなかった。

 「クロスミラージュ……? どうしたの、何が起きてるのよ! あんたも一体何をしようとしてるのよ!!」

 ティアナが激しく問い詰めるも、テンプレートの回転は加速し、それにシンクロするかのようにしてクロスミラージュのクリスタルの明滅するテンポが速度を増してゆく。

 『@+*>%$=――!#{|?**&”$~――――――…………』

 そして、奪い取られてからおよそ数十秒後、ノイズ音を発していたクロスミラージュは遂に完全に沈黙し、オレンジ色のクリスタルもその輝きを失ってしまった。次の瞬間にはクロスミラージュを掴んでいた手から紅いラインが、足元に浮かんでいたテンプレートがほぼ同時に消え去った。

 「マキナ……データの、バックアップは?」

 『Already. But,not accession practical use stage yet.(完了。しかし、実用段階には至らず)』

 「問題、無い。データさえ取れれば、あとはどうにでもなる……」

 『Now,break a it.(では破壊せよ)』

 「実行に、移す」

 突如、スピナーの鋭い回転音が袖の中から響いてきた。それと同時にデバイスを握る手の圧力が一気に高く上昇し始めた。傍から見ただけでは分からないが、少なくともデバイス一基は高層ビルからの自由落下にも耐え得るだけの堅牢さを兼ね備えているのだが、その屈強な基礎フレームで造られているはずのクロスミラージュの表面には手との接触面から深く長い亀裂が走っており、今こうしている間にもその亀裂は白銀のボディを蹂躙し続けている。

 「ちょっと……何するのよ、止めなさい!」

 自分の脳裏を過った不安に怯えたティアナは強靭な精神だけを頼りにして怒声を飛ばす。しかし――、

 「その要求は、受諾できない」

 声色一つ変えずに即答、それだけ言い放つと再び掌中の圧力を高める。もう外部フレームは無様にへし曲げられ、押し広げられた亀裂の隙間からも中味である極小機器やデバイス用疑似魔力回路などを覗かせていた。所々から電光が走り、もう既にこの状態でクロスミラージュが限界を迎えていることは誰の目から見ても明らかなはずだった。それでもなお敵は標的を圧殺する手を緩めようとはしない。

 「止めて……止めなさいったら! ……お願いよぉ、止めて!!」

 大声を上げたその瞬間に肺に折れた肋骨の一部が食い込み、さらなる激痛を生み出す。だがそんなことはどうでも良かった、自身と共に死線を潜り抜けてきた半身とも言える相棒がこのまま只の物言わぬ金属の塊にされるのを黙って見ているのが我慢ならなかった、理由はそれだけで充分だった。

 しかし、当然のことながらそんな言葉に相手が耳を貸そうとするはずもある訳もなく――、



 次の瞬間、ティアナの両耳に届いたのは何かが潰れ圧壊する鈍い音、そして――数瞬遅れて砕かれた細かい欠片が落ちて響いたシャープな音だった。



 「あ……ああぁ……ああああああああああっ!!!」

 もはや痛みすら忘れるほどの絶叫。喉から血泡が吹き出て声が掠れるが、たった今眼前で起きた光景から与えられた絶望にくらべれば大したことではない。

 「データ採取、及び破壊完了」

 ブンッと言う空を切る音の後に『何か』が相手の握り拳から放たれる。その『何か』はティアナの頬を掠ると無機質な耐衝撃壁に激突、ついには粉々に四散した。 まるで角砂糖か何かのようにしていとも簡単に……。

 「ぁ……あああ……………………あぐぅ!!」

 滂沱の如き涙を流し呆然とするティアナ、そんな彼女の頭を凶暴な鋼の手が髪ごと掴み上げた。その力はやはり戦闘機人と言うべきか、彼女の肉体を片手で軽々と自分と同じ目線まで容易に吊り上げて見せた。

 「対象の、“破壊”を、実行する」

 「え? ……い、今なんて…………あぁ!!」

 呟くようにしてフードの奥から聞こえたその言葉にティアナはやっと正気を取り戻した。だがそれと同時に自らの頭部を鷲掴みにしていた手の力が強化された。

 「ケース1、酸素の供給経路の完全遮断。

 ――ケース2、脳幹含む中枢神経の破壊。

 ――ケース3、肉体を構築する全細胞の死滅……」

 次々と口から箇条書きのように紡ぎだされる項目の数々、始めは何を言っているのか見当がつかなかったが、それらがある一つの共通項を持っていることを知った時にティアナはこれまでの半生で一番の恐怖を経験した。

 「ケース4、心肺の強制停止。

 ――ケース5、頸部の切断及び破壊……」

 それは『生物に確実且つ純粋な死を与える』行為であると言う事実に他ならなかったからだ。

 「以上の五つの行動ケースから、現段階において、実行可能なケースは――」

 次に彼女の視界に映り込んだのは灰色の地面、人間の認識速度を明らかに超越したスピードで叩きつけられたことに気付いたのはその直後だった。だがしかし、当のティアナ自身にはもう抗うだけの肉体的余力は残されているはずもなかった。

 「――選択ケース5。推定所要時間、およそ0.1秒~0.6秒前後。行動に支障無し」

 顔面を含む肉体前面を食い込む程に押し付け、両腕を後ろ手に引き伸ばす。肩と肘が互いに鈍い悲鳴を上げるが、相手の狙いは手足の無力化などではなく殺すことなのだ、そんな無駄な行動をするはずなどなく、これはただ単に獲物の抵抗と逃走を許さない為の策に過ぎないのだ。

 重力に従って垂れていたオレンジの長髪をもう片方の手で冷酷且つ俊敏に吊り上げると、丁度彼女の上体は逆海老反りの体勢に固定されることとなった。もう彼女の上体は一部破れた肺から空気が漏れだし主要血管が急激に圧迫されたことにより、充分に酸素が届かぬ組織が紫色に変色してしまっていた。例えこの状況で肺の空気を外に排出したとしても、高等医療魔法による治療無しでは直に変色している部分を中心にして壊死が進行し、最終的には当然のことながら死に至る。しかし、これだけでも充分過ぎるのに対し、敵は“確実に”“今”息の根を止めようとしてそれを中断する気配など毛頭無かったのだ。

 「切断……開始」

 「あ――あぁ、あ……!」

 機械仕掛けの死神による死刑宣告――。

 同時に回転速度が一瞬で音速に達する四輪のローラー。意識が朦朧としているティアナの鼻腔を摩擦によって発生したコゲ臭い匂いが刺激する。必死に首を振ってはいるものの、それはとうの昔に無駄な抵抗となってしまっている……。

 やがて音も無く脚が首切り斧のように高く上がり、一気に振り下ろされ――、



 






 「しかしまぁなんだね、君の発明品は聞けば聞くほど実に魅力的この上ない。儂も一度会ってみたかったものだ」

 「発明品ではないよ、今や彼女らは誰一人欠けることなく私の“娘”さ。と言うか、クアットロとチンクに限って言えば17年前に目にしているはずだが?」

 一方、グリュ-エンの拘置所ではスカリエッティとハルトの供述が続いていた。と言っても、ハルトだけが一方的に喋っていた先程とは違って今回はスカリエティ自身も口を動かしており、供述も事件とは関わりの無い半分世間話のような状態になっていた。

 「あー、あの髪の長い憎たらしいツラした嬢ちゃんと綺麗な銀色の髪した可愛い子か……」

 「そうだ。確かにクアットロは外見だけでなく性格にも難が有るがな。今でも彼女には私の因子を与え過ぎたのではないかと思えて仕方なくてね……。まぁだからこそ“ゆりかご”の番人と言う最重要ポジションを任せられたのかも知れないのだがな」

 「会ったと言っても、あの時は二人揃って培養槽の中で調整中だったはずだが? 儂の記憶が正しければ言葉すら交わしとらんはずだぞ」

 白髪頭をポリポリと掻きながらハルトはそう確かめた。

 「うむ、確かにそうだったな。こちらとしてはいずれ外に出てくる娘に醜悪な人面をみせずに済んだから良いが」

 「誰のことを言っている?」

 「想像にお任せするとしよう。それはさておき、君はさっきからトレーゼ……即ち“13番目”を究極のサンプルとして定義付けていたな?」

 「あぁ、それがどうかしたか?」

 「実を言えば…………」

 ――あれはまだ不完全な初期段階なのだよ。



 






 何が起こったのか、ティアナには分からなかった。分かっていることがあるとするならばそれは……。

 「生き……て…………いる?」

 体を起こそうとして――断念。痛みももちろんあるが、誰かが優しく両手で制してくれているのだ。いつの間にか仰向けになっていた彼女は霞む目を凝らすと――。

 「ごめんね、ティア。こんなになるまで来れなくて……」

 「……ス……バル?」

 上から自分を覗き込んでいたのは紛れもなく自分とは切っても切れない腐れ縁で結ばれた友人、スバル・ナカジマ本人だった。純白のバリアジャケットに身を包む彼女は悲しげな表情でこちらを見つめている。少し痛みが和らいでいるのは覚えたての治癒魔法を使ってくれているからなのだろうか、微々たるものかも知れないが今はそれでも充分にありがたく感じる。

 「喋っちゃダメだよ! 肺に骨が入ってるし、色んな所が潰れてるから!」

 「待……て…………あいつは?」

 「大丈夫だよ、ティア。あいつなら……ほら」

 スバルと同じ方向へと目を向けると、そこには壁に背から激突し力無く項垂れたまま気絶している敵が居た。かなりの力が働いたのか、接触面には巨大な亀裂が放射状に伸びているのが分かる。

 「思いっきり蹴り飛ばしてやったから、しばらくは起きないと思う。……これで良しっと! ティア、立てる? ちょっと頑張ってね」

 そう言ってスバルは丁度ティアナに肩を貸して抱える形で立たせた。下手に負えばティアナの肋骨をさらに圧迫することになるので、これが最善策には違いない。

 「よいしょっと。いくよ、出来るだけ足は浮かせて、ローラー使って移動するから」

 足元でマッハキャリバーが低い唸り声を上げる。ローラーが回転し、すぐに加速して脱出する。



 ――はずだったのだが、



 「ごめん、ティア……………………捕まっちゃった」

 「え……?」

 スバルの謝罪とキャリバーのローラーの盛大な不調音が聞こえて来たのはほぼ同時だった。何事かと思って自分の周囲へと目を向けると、そこには……。

 「何よ……何なのよ、これ」

 まず視覚情報として眼球の網膜に焼き付いてきたのは地面に発生した多数の小型テンプレートだった。一つ一つの直径が人の頭程の大きさがあるそれからは太さが指一本分しかない細い魔力の糸が一本しか伸びていないが、元々の数が半端ないだけに空間そのものを埋め尽くしてもなお足りなかった。

 「バインド……!?」

 魔力糸の全てがマッハキャリバーのローラーに絡みつき、その回転を強制停止させるそれはやがてスバルの体にまで伸びていく。しかもその表面からは対魔力フィールドであるAMFがふんだんに発生しているのが肌で感じ取れた。

 「AMFバインド……」

 すぐ背後からの声、振り返るとそこには瓦礫を撥ね退けながらゆらりと立ち上がる敵の姿があった。蹴り飛ばされた時の衝撃でコートの両袖は無残に破れており、そこからリボルバーナックルに酷似したデバイスが完全に姿を見せていた。両腕のスピナーやカートリッジ機構までがスバルやギンガのものと寸分違わずに同じものであり、ただ一つの相違点を上げるとするならばグローブ部分の鉤爪だけだった。

 「対象B、確認。危険度、レベルAと、断定。同時に、カテゴリーNに酷似した存在として、厳重処分する」

 そう言った直後、足首に真紅のエネルギー翼が展開、残像も残さぬスピードをもってして二人に接近し、攻撃を仕掛けてきた。

 「ティア!!」

 瞬間、スバルの悲痛な叫びをティアナは確かに聞いた気がした。



 






 「不完全? 不完全とはどう言うことだ?」

 拘置所の面会室にてハルトはガラス越しにスカリエッティに捲し立てた。

 「まぁ落ち着け、私は何もあれが失敗作とは言ってはいない。あれはまだ『発展途上』なのだと言ったまでだ」

 「? ……どう言う意味だ、ちゃんとこの老いぼれにも理解できるように喋ってもらわんとな」

 「都合の良い時だけ自称年寄りか……………………いいか、君の言ったように彼はいずれ進化を遂げて完全態へと移行する。これには何も間違いは無い、むしろ予定ではこうであるはずなのだからな」

 強硬ガラスの向こう側では頷きながらもどこか腑に落ちないハルトが居た。それを見てスカリエッティはさらに狂気の笑みに顔を歪める。

 「だが、逆にこう考えるのだ。進化すると言うことは、『少なくとも今はまだ限界の状態では無いと言うこと』なのだと。精神的にも肉体的にも限界を迎えていないと言うことは、『まだ進化の可能性を秘めていると言うこと』なのだと……!」

 「…………なるほどな、そう言うことか」

 スカリエッティの狂気じみた熱の籠った発現を聞いているうちにハルトは彼の真意を知った。確かにもし彼の言う通りなのだとすれば、これほど恐ろしくなるものはない。

 「“無限の進化”……かつて貴様が言っていたのはこう言うことだったのか。恐ろしい……しかし、恐ろしくもあり同時に興味深くもある。これはもう科学者の性と言うやつだな。こんな薄汚い所に居なければ是非とも残りの12体も目に収めておきたかったよ」

 「彼女らには悪いが、所詮彼女たちは各々の得意分野に一芸特化した存在でしかない。完全態へと変貌を遂げるはずだった“13番目”の汎用性には遥かに劣る予定だ」

 「ほぅ、それはどのようにかね?」

 「飽くまで予定だったものだ。サンプルそのものが無い今となっては幾ら語っても、稚児の夢想にも劣る。それで構わんのなら聞けば良い」

 「構わん、どうせ儂らは常人には理解出来ぬモノを追い求めて飽くなき研究に溺れる……そう言う種族なのだよ、我々科学者とはな」

 「そうか……。私の予定では彼は……

 ――頭脳ではウーノを

 ――電子戦ではクアットロを

 ――統率力ではチンクを

 ――隠密性ではセインを

 ――索敵範囲ではディエチを

 ――機動性ではウェンディを

 ――他のナンバーズとのコンビネーションではオットーとディードを

 ――空戦ではセッテを

 ――陸戦ではノーヴェを

 ――総合戦闘力においてはトーレを軽く凌駕する、文字通り“最強のナンバーズ”として成すはずだったのだよ」



 






 天変地異――。目の前の出来事を名状するにはその言葉しか無かった。

 「スバル……?」

 陥没してその奥から千切れた電線などがはみ出る地面。その淵からは見覚えのあるリボルバーナックルが覗いてはいたが、問いかければ答えを返してくれるはずの友人の声がいつまで経っても聞こえなかった。

 「聞こえてるなら……返事しなさいよ」

 ティアナは信じていた。つい一瞬前には危険を察知して自分を突き飛ばしてくれたあのバカな親友の陽気な声が必ず聞こえてくるはずだと。ナックルの鉄の指には鮮やかな血液が大量に付着していても、それは相手の返り血であって彼女自身は無傷だと。

 だから――、陥没していた地面の淵からスバルの右腕『だけ』が転げ落ちてきた時、彼女の中で何かが大きく瓦解したのだ。

 「え……? 何よ、それ。え、えぇ?」

 切断面からはザクロ色の血肉と機人特有の複雑な機械骨格が見えていて、繋がっていたはずの本体がどこにも見当たらなかった。その時、瓦礫を押し上げて出てくる人影があった。

 「対象Bの、脅威レベル低下。接触時に、IS因子の反応を、確認。これより、サンプル採取に、移る」

 出てきたのはスバルではなく敵の方だった。もう既にフードだけしか残ってはいないボロボロのコートを未だに身に纏い、その左手には血液採取用の注射器と何か見覚えのある塊が握られていた。注射器をセットする傍らでその二つの『塊』からは同じように滝のように血液が溢れ出ており、何かから無理矢理引き千切ったことを容易に想像させた。

 「この武装は、不要」

 そう言って彼はそれをティアナのすぐ目の前まで投げて寄越した。見覚えがあったのは間違い無かった、それは彼女の親友が両足に装着しているローラー型のデバイスだったからだ。見事に本体から離れている――



 ――足首から切断された状態で、だが。



 「あああぁああああぁぁっ!!!」

 もう確実だった。眼前の窪みでは恐らく四肢を切断された親友が無残に横たわっているのだ。だが、自分には助けに行くだけの余力など残されてはいなかった。やがて成すべき目的行動を終えたのか、敵はゆっくりと立ち上がった。その手には血液で満たされた新たな試験管が握られているのが分かる。

 「採取完了。対象Bの、生命反応、低下。脅威レベルFと判断し、放置」

 彼はそう呟くと、陥没した地面から抜け出して今度はティアナへと向き直った。

 「対象A、脅威レベルE。戦闘意思の、確認出来ず、殺害の必要性は、限り無くゼロ。よって、放置」

 たったそれだけ言い残しただけで彼女を一瞥もせず、防火シャッターへと歩みを始めた。再びシャッターの冷たい表面に手を合わせると、スピナーが回転、掌中に莫大なエネルギーが集中して紅く光出した。そして体の勢いをつけると――、

 「リボルバー……キャノン」

 空間全体を揺らす威力を以って、障害の物理的破壊を成し遂げてみせたのだった。



 あとに残されたティアナは陥没した地面の中心で横たわる親友スバルの名前を必死に叫んでいることしか出来なかった。瀕死のスバルは友の言葉に気付くことなく、目を開けようとはしなかった。










 所変わってグリューエンでは二つに区切られた面会室に新たな影があった。それはハルト側の扉を開けると真っ直ぐにこちらへと歩を進め、二人の科学者は怪訝な顔をした。

 「これはこれは看守殿、何か御用事かな? 面会時間が切れたのか」

 「いや、一つ伝えておくことがあるだけだ。心配するな、それが済めば私の業務に戻る」

 「いやはや仕事熱心大いに結構。で、何かね?」

 「管理局の意向でハルト・ギルガスは以後この拘置所の独房にて生活。詳細は追って通達する」

 「あー、分かった分かった。管理局様のご命令には従うさ、老骨に鞭打ってな」

 「それでは、引き続き供述願います」

 大柄な看守は半ば一方的にそう伝えると、さっさと面会室をあとにして行った。かなり急いでいたようにも見受けられた。

 「…………」

 「…………」

 「……これは、何かあったようだな」

 「だな」



 






 薄汚れた電灯に照らし出された搬入通路をジェットエッジのローラーで駆け抜けるトレーゼ。袖の無いコートの隙間からは紺色の防護ジャケットが見えており、時折腰の小型収納ケースから戦利品であるガラスの試験管も見え隠れしていた。透明な液体が入った七本とスバルから採取した血液が入ったものだ。

 しばらく行くと眩く網膜を刺激するものがあった。地上の光である。予定より大幅に遅れたが外に大部隊の気配は無く、最終目的である脱出は無事に達せられたのだ。

 しかし、彼は出入口付近まで来ると何故か失速、停止してしまったのだ。そしてその双眸が目の前の事態を捉えるのに、そう時間は掛からなかった。

 「よう、遅かったな。半分待ちくたびれたよ」

 地上からの逆光を背に受けて立つその姿に彼は自然と攻撃の構えを取った。

 「そうこねーとな。スバルに言われて仕方なくここで張ってたけど、意外とホネがありそうなんだな、お前。鈍ってた体にはイイ訓練器になるかもな」

 そう言ったその瞬間、少女の両足首でスピナーが凶悪な唸り声を上げ始めた。構えていないだけで少女――ノーヴェはとっくの昔に臨戦態勢へと突入していたのだ。

 「いくぞぉ!!」

 一瞬で回転速度がマッハを軽く突破したローラーは硬い地面を容易に抉り、一直線に得物を強襲した。

 「く……」

 顔も見せぬままトレーゼは右手のナックル一本でその蹴りを受け止めてみせた。こちらも負けじと同じくスピナーを猛烈に回転させて逆に押し返す。

 「やるな! けど……こいつはどうだッ!!」

 片足立ちの体勢から一転し、今度は至近距離で右腕のガンナックルが火を噴いた。

 「ふん……!」

 ライドインパルス――。視覚情報の認識速度を遥かに飛び抜けたスピードで一気に距離を置き、再び構えを取り直した。

 「なっ、IS!? だけど何で! そのISはトーレ姉の『ライドインパルス』じゃねーかよ!」

 「…………No.3、トーレを知っている?」

 「あぁ!? まぁんなことはどうでもいい! こうなったらアレだ、早いとこ捕まって盗品返しやがれっての!!」

 IS発動、『ブレイクライナー』!

 目にも止まらぬ速度で黄金のテンプレートを展開し、エアライナーがトレーゼの無防備な影を見事に捕えてみせた。

 「捕まえた、喰らえ!!」

 地面を走る倍以上の速度で突っ込んで来たノーヴェは自身が持てる限りの渾身の一撃を以ってして腹部を蹴り上げた。建物の隔壁を余裕で破壊する蹴りは肉体に詰め込まれている精密機器を粉砕、直に相手は気絶する。――はずだった。

 「返答せよ。何故No.3を、知っている?」

 「な……!?」

 爪先はほんの数ミリ手前で発生した真紅のプロテクションによって遮られてしまっており、衝撃も相殺されていた。

 「返答せよ」

 「う、うるさい!」

 危険を感じて彼女は一旦距離を離したが、不思議と相手からは殺気が完全に消え失せていたのだった。

 「あたしは元ナンバーズ、トーレ姉も元ナンバーズだからだ! これが理由だよ!」

 「ナン……バーズ?」

 「余所見するんじゃねぇ!!」

 訳の分からない相手の顔面に蹴りを炸裂させるノーヴェ。しかしやはり寸でのところで回避されてしまう。

 「……同じナンバーズなら、戦う理由は無い」

 「はぁ? 訳の分からねーこと言ってんじゃねー。今お前はあたしの敵、ブチ壊すには充分過ぎる理由なんだよ!」

 先程から一転して今度は彼女の攻撃を防ぎもせずに回避だけに専念するようになってしまった敵に対し、ノーヴェは徐々に苛々を募らせていった。やがてそれは時を経た活火山の如く胸の内を焦がし、ついには――、

 「うぉおおおおおおおおおりぃやあああああああああああああああ!!!!」

 一瞬の隙を見せたその瞬間に、必殺の一撃を横薙ぎに見舞ったのだった。数瞬の経過の後、硬直してした影は横に薙いだ箇所を中心にして一刀両断されて、地に落ちていった。本来ならば敵を仕留めたことに喜ぶべき場面なのだが、彼女は全くもって喜ぶ節を見せなかった。

 「……やろう…………!」

 むしろ苦々しく顔を歪めるその視線の先には相手が着用していて今は上下に分断されたボロボロのコート『だけ』が風に揺らめいていた。

 「逃げやがった……!」

 地上へと続く地面にはノーヴェのものとは違うローラーの滑走痕が刻まれており、既に標的が遠くへと逃げおおせたことを静かに意味していたのだった。

 「あいつ……なんなんだよ」



 






 午後14時53分、ミッドチルダ北西部海上にて――。

 周囲を完全に青い海に囲まれた絶海の小さな孤島。周回およそ3㎞しかないこの島には少なからずも緑が生い茂り、鳥のさえずりが耳をくすぐった。

 そんな森の中を一人の少年が細かい木々を踏み鳴らしながら突き進んでいた。邪魔な大木に手をやると、いとも簡単にそれを圧し折り先を急ぐ。

 「検索一件、該当、有り。No.9『ノーヴェ』」

 道を急ぐその脳内ではつい十数分前に肉弾戦を演じた赤髪の少女に関する情報が纏められていた。

 「推定肉体改造レベル、AAA。陸戦特化型と、推測」

 やがて邪魔だった木々を退かすと、そこには森林の中には似合わない金属製の重々しいドアが見えてきた。明らかに人為的なものであることは目に見えて分かっていた。

 「重要戦力に、なる」



 

 ドアを抜け、地下へと降りればそこは簡素な造りをしたラボだった。まだ管理局に発見されてもいないのだろうが、本当に必要最低限の設備しか見当たらなかった。その設備の一つ、電気椅子のようにガッチリとしたその椅子のすぐ横にはこれまた巨大な針を持つ注入機が構えられていた。

 「ファクターサンプルの、インストールは、一気に行う。交戦した、対象Bの血液の分析は、同時進行で」

 『Yes,my lord.』

 黒い金属立方体をデスクのスリットに収めると、トレーゼはケースから八本の試験管を取り出した。そのうちの一本、スバルの血液を封じたものを伸びてきた機械のアームに渡して分析と精製を急がせた。後の七本は椅子の隣に設置されてある注入機、その操作盤の蓋を開けるとそこに連続して空いていた穴に一本ずつセットしてゆく。全てをセットし終えると急いで椅子に座り、体勢を整えた。

 「セット、完了。ファクターサンプル、インストール、開始」

 『Got,it.(了解)』

 電子音と共に注入機が大きくマウントし、先端の針がトレーゼの首筋を捉えた。やがてその鋭利な先端が白い皮膚の表面に接触、刺し貫き、傷口から血液が少しだけ流れ出た。

 「……………………注入」

 ガラス張りの針の中を液体が移動、そのまま彼の体内へと注がれていった。彼は眉ひとつ動かすこともなく、ただじっとして成り行くままにしているだけだった。

 「ドクター……待っていてください」

 一瞬、トレーゼの金色の目が電子的な輝きをもった気がしたが、本当に一瞬の出来事だった。



 この日、ミッドの記録に新たなる事件名が記されることとなった。俗に「第二次地上本部襲撃事件」と称されるようになったこの事件は、事件の首謀者が奇しくも新暦75年に起こった同質の事件「地上本部襲撃事件」と同じナンバーズによるものであると言う事実によって名を馳せることになる。その規模はJ・S事件に並ぶ大事件へと発展することも、後の記録に記されることになったのである。

 そして、この事件が投げ掛ける波紋を彼もナンバーズも管理局はもちろん、スカリエッティですら予測は出来ていなかったのだった。





 「No.13、トレーゼ。始動」

 『ignition.』



[17818] 日常のセカンド・コンタクト
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/04/03 01:12
ティアナ・ランスター本局執務官並びに、防災課所属スバル・ナカジマ陸曹の二名重傷を負う。ランスター執務官は肋骨の骨折及び肺の一部を損傷、両足にも軽傷を負い現在車椅子による移動手段を取っている。所有していたミッドチルダ式デバイス『クロスミラージュ』は破壊、現在シャリオ・フィニーノ一級通信士の元で緊急修理中。完全復旧の目途無し。ナカジマ陸曹に関しては左腕を除く四肢を切断され、リンカーコアが著しく衰弱。現在医療センター集中治療室にて厳重入院中。現場復帰の可能性は極めて低いことが懸念されている――。



 「状況は芳しくない……か。歯痒いもんやね」

 地上本部から送られてきた第二次地上本部襲撃事件の報告書に目を通しながら八神はやては溜息をついた。窓から差し込む心地よい日光も、今だけに限って言えば無性に虚しく思えるだけである。

 「ですね。自分も今このような状況でなければと、そればかり考えてしまいます」

 室内に居るのははやてだけではない。自らの身長には不似合いな銀の長髪を靡かせて彼女のすぐ目の前に座るその人物ははやて以上に落ち着いており、朝のコーヒーを嗜んでいた。左目をこれまた不釣り合いな大きな黒い眼帯で隠しているその姿は、どこかしら外見年齢に合わない威圧感を放っていた。それは少女――チンク・ナカジマ自身が苛立っていたからなのかも知れない。

 「自分の妹が心配なんは分かるけど、もうちょっと落ち着いた方がええよ」

 「すみません、自分でも分かってはいるつもりなのですが……」

 「分かっているだけでもマシや。それに、どの道こんなとこに詰め込まれとったんやったらやることも出来へんわ」

 報告書の束を纏めると、彼女はそれを脇に置いて再び窓の外へと目をやった。窓の向こうでは鳥たちが自由を謳歌して羽ばたいているが、その視界に不自然極まりない物が同時に映っていた。長方形のガラス窓を縦に四つに分断するそれは冷たく硬質であり、簡単には取り外せないことを示していた。陽光を遮って室内に影を落とすそれは“鉄格子”、そしてそんなものがはめられている空間などかなり限定されている訳であり……。

 「いつになったら出られることやら……」

 「そうですね……」

 チンクとはやては揃って溜息をついていた。

 見ての通り、今現在二人とも絶賛謹慎中だった。

 ミッドチルダ、新暦78年11月11日の出来事である。










 何故この二人がこの様な事態に陥っているのかと言うと、それには事の経過を説明する必要があった。それはつい先日に起こったことだった――。

 「納得出来ません!」

 会議室に金髪紅眼の美女、フェイトの怒声が響き渡った。その前の席には数名の中年男性たちが座って構えており、皆それぞれがレジアス中将亡き今では管理局内でもかなりの発言力を有している面子ばかりだった。

 「君が何と言おうと、これは既に厳正なる審議によって出された結論だ。君一人の意向では覆らんよ」

 男性たちの丁度中央に座っていた重鎮がそう静かに言い渡した。それに同調するかのように他の男たちも頷いた。

 「ですから! 状況証拠だけではなく、現場検証に基づいた調査の上で審議するべきだと……!」

 「では問うが、ハラオウン執務官殿。君自身ここに映し出されているモノをどう捉えるのかね?」

 「そ、それは……」

 そう言って一人が差し出してきたホログラム映像にフェイトは言葉を詰まらせた。実際これがあるからこそ如何ともし難いのだ。

 そこに映っていたのは紛れもなく自分の親友の八神はやてに他ならなかったからだ。身長に合わないコートを着込もうとして映像に固定されているその顔は限り無く無表情に近く冷たいが、間違うはずもなかった。

 「当時この区域周辺の監視システムには一切の魔力反応が検知されていなかった。これが何を意味するのか聡明な執務官殿なら分かるはずだ」

 「……」

 魔力反応が無い。それはつまりは単純にその場所において魔法が使用されなかったことを意味しているのだ。通常どんな小さな魔法であれ、使用したのであればそこには痕跡が残るはずなのだ。例え変身魔法であったとしても……。

 「つまりは変身魔法すら使われていないと言うことは、暗にここに居たのが八神二佐本人であることを表している他ならぬ事実なのだよ」

 「左様、この魔法技術が普及し発展しているミッドにおいて、わざわざ変身魔法ではなく整形手術によって顔を変える道理が無い。手間は掛かるし、おまけに多少の危険も伴うのだからな」

 「それに押収物品保管庫を担当していた局員も、直に彼女が本人であることを確認しているし、君の部下のランスター執務官も魔力は一切感知できなかったと報告しているではないか。…………以上が大まかな理由だよ、八神二佐を無期限謹慎処分にする、な」

 「ですが! 事件発生当日のこの時間帯は、八神二佐はクラナガンの街に居たことが同伴していたヴィータ教導官の証言でハッキリしています。事務局の方でも、彼女らの休暇申請は確認されています!」

 フェイトの言う通り、この日のこの時間には二人とも街中で食事をしていたのだ。しかし――、

 「ヴィータ教導官は八神二佐の守護騎士だ。言わば彼女の身内や直接の部下と言っても差し支えがない。身内の擁護発言を安易に鵜呑みにするのはおかしな話でしょうに」

 「もっともだ。それに彼女には『闇の書事件』での前科がある。多少なりとも大袈裟にならなければ意味が無いのだ」

 「ですが……」

 「それとも何だね、公正な執務官殿は彼女が親友であると言うだけで擁護しようとしているのか? それは職務上どうなんだね」

 「…………八神二佐については了解します」

 「何か含みのある発言だな、感心せぬな」

 フェイトの心中を察した一人が追い打ちをかけた。彼女は湧き上がる怒りを必死に抑えながら、静かに言葉を紡いだ。

 「謹慎処分者のリストに『チンク・ナカジマ』の名前があることが理解出来ません……」

 「あぁ、なるほどな。説明不足だったか、これは失礼した」

 「うむ、知っての通り、今回の事件は爆破とそこから派生した二次被害の火災を狙ったテロ行為であることが局員全般の共通認識となっている」

 「はい……」

 「火災発生現場には不思議なことに、通常出火の原因となるような物は全くもって発見されなかったのだよ。マッチ一本、ライター一個もな」

 それは聞いている。確かに不思議なことであり、当初は管制室もその問題で混乱していたのだ。

 「そう、通常有り得ないことだ。だから我々は徹底的に調査に調査を重ね――」

 そう言って男の一人がプラスチックケースをフェイトの前に差し出してきた。そこに収められていた物は元は一つの形を保っていたのだろうが、完膚無きまでにボロボロに劣化しており、どうにか破片をかき集めて復元したのが見て取れた。それはかつてフェイト自身も資料などで見たことがある代物であり、納得すると同時に愕然とした。

 「これを全ての火災発生現場で発見した」

 復元された両刃のナイフ――スティンガーは所々で鈍く輝いていて、未だに凶器としての主張を保っていた。

 「ここまで言えば分かると思うが、このナイフに限らず、何の変哲も無い只の金属を爆発物に変えられるのは局で確認されている限り彼女をおいて他にはおるまい」

 「待ってください! それでは余りにも安直過ぎます、小型の質量兵器の存在も視野に入れるべきかと――」

 「現場には火薬を含む一切の質量兵器の確認はされていない。もちろん、魔力反応もだ」

 「そんな……」

 「では逆に質問しよう、ハラオウン執務官。君は彼女以外にその様な能力の持ち主に心当たりがあると? このミッド……いや、この数ある管理世界のどこかに居ると言うのかね?」

 「…………」

 当然のことながら答えられるはずもなく、フェイトにはただ単に口を真一文字の形に締めることしかできなかった。

 「……では、これにてこの議題は終了とさせてもらおうか」

 「そんな……!」

 「当然だろう、我々管理局は管理世界の法と秩序を守ると言う大義がある。それはもちろん生半可な覚悟でやれるものではないし、当たり前のことだがそれを賄う為の資金とて馬鹿にならん」

 「金はともかく、我々には時間の浪費まで許されている訳ではないのだ。……分かったのであれば自らの持ち場へ戻り給え。何なら今ここで休暇申請を出しても構わんぞ? 昔のこととは言え、六課時代の部下が重傷を負ったとなれば居ても立ってもおられんだろうに。今なら医療センターの方でも空きがあるはずだ」

 男は暗にスバルの見舞いに行くことを勧めているようだが、ただ単に今すぐこの場から彼女を追い出したいだけにも聞こえた。

 「いえ、結構です……。失礼します」

 あえて胸の内を曝け出すことを避け、フェイトは一礼すると踵を返してドアへと手を伸ばした。

 「ふむ、義兄のハラオウン提督と同じく仕事熱心だな。感心したよ。君が変わらず管理局に忠誠と従事を誓うのなら、上のポストへの移行も早いだろうな」

 「…………失礼します」

 一瞬魔力変換によって生み出された高圧電流がドアノブを握っていた手から漏れ出そうになったが、何とか堪えて凌いで見せたのだった。

 これがはやてとチンクが謹慎処分を喰らっている理由であり、事の顛末だった。



 






 本部のラウンジではある三人の人間が一堂に会していた。いや失礼した、正確には三人と“一頭”である。三人が座っているテーブルのすぐ下で大人しくしているその大型犬は道行く人々の注目を集めるのかと思えば、逆に誰もが見慣れた光景として特に目をやることなく仕事に従事していた。

 椅子に座っていた三人はいずれも見目麗しい女性であり、内二人が局員の正装である制服を着用しているのに対して、もう一人は清潔感溢れる白衣の出で立ちだった。

 「…………」「…………」「…………むぅ」

 三人が三人とも揃って無言を徹していたが、明らかに一人だけ、三人の中でも外見年齢が特に若い少女が苛立ちを見せていた。本人は努めて悟られぬようにしているつもりらしいが、どうやらこんな所で無駄な時間を食っていることに腹を立てている訳ではなさそうだ。

 「おいヴィータ、いい加減にしたらどうだ。見ているこちらがみっともなくて仕方がない」

 「そうよ。こんな所で私達がどうこうしたって、上の決定は変わらないわ」

 「うるせぇ! んなことは分かってるよ!」

 鮮やかな桃紅色の長髪とブロンドの短髪を持つ二人が諌めようとするものの、当の本人はまるで聞く耳を持とうとはしていなかった。そればかりか、逆に神経を逆撫でした模様であり、手がつけられなかった。

 「子供じゃあるまいし、駄々を捏ねればいいのではないのだぞ」

 「シグナム! お前ははやてが謹慎喰らって何にも思わねーのか! 何もしてないのに……!」

 「お前の怒りは理不尽とは言わん。ただ、良く考えろ、ここで例えお前が上層部に殴り込みに行ったとしても事態は好転しない。それどころか、主はやての沽券に関わるのだ。……それだけは避けたい」

 「それも分かってるよ!」

 「今はテスタロッサが掛け合っている頃だろうが……ハッキリ言って見込みは薄いな」

 「上の方は未だに『闇の書事件』で私達を毛嫌いしている人も居たから、こじつけるには良い機会なのよ……」

 湖の騎士シャマルもいつになく気弱な発言をしてしまい、それがさらにヴィータを苛立たせた。

 『それ以上の発言は控えた方が良い。どこで誰が聞き耳を立てているか分からんからな』

 このままでは身内での内輪揉めになりかねないと判断したのか、足元の犬――ザフィーラから静かに決定打となる言葉が念話で届いてきた。伊達に女性ばかりで姦しい八神家の大黒柱の代わりをやっている訳ではなく、その一言で三人は再び無言の状態へと戻ったのだった。

 どれだけその沈黙が続いただろうか。しばらくそうしていると、向かいの通路に目を向けていたシグナムがこちらに向かって来る人影に気が付き、軽く会釈した。その人物は乾いた笑みでそれに応えると、静かにシグナムの前、シャマルの隣に腰掛けた。

 「……それで、どうだった?」

 「ごめんなさい、やっぱり上層部の決定は変わらなかった……」

 金髪の女性――フェイトは申し訳なさそうに項垂れるとただ静かに結果だけを伝えた。予想していた答えにシグナムは「そうか……」と短く相槌だけ打っておいた。

 「主はやては無期限謹慎処分……恐らくこれを機に反八神派の連中が勢い付くだろうな」

 『うむ。我々も今はこうしていられるが、何時反対勢力の矢面に立たされるか分かったものではない。良くも悪くも、主は局内では力を持っていた方だ。その局内での勢力の一角が落ち、尚且つそれが反対勢力を多数抱えているものならば、下についている我々は良いように利用されるのがオチだろう……』

 「現状はただ流されるままにするしかない……と言うことね」

 「ちっ! だから組織は嫌いなんだ。公明正大を謳っときながら、肝心なところは姑息でコソコソして……」

 「ヴィータ」

 「分かってるって!」

 そう言うと不意にヴィータは懐から小さな手鏡を取り出し、それをシャマルへと渡した。この手鏡自体は何の仕掛けも無くて、見ての通り年頃の女性が顔の身嗜みを整えるのに使う普通のものだが、彼女は化粧をする振りをしてさり気なく鏡を傾けて隣のフェイトの視線を誘った。

 「見えるかしら、私の後ろに二人組の局員が居るのだけれど……」

 鏡の反射角度を利用してフェイトはシャマルのすぐ背後へと目をやった。確かに後ろの方では局の制服を身に纏った男性二人が談笑しながら協力して書類仕事に励んでいるのが分かった。恐らく同じ部署の同僚同士なのだろうが、シャマルから聞こえてきた単語はフェイトの予想を簡単に裏切ってくれた。

 「今回の件で派遣された監視員よ」

 「え……!?」

 思わず耳を疑って聞き直してしまう所だったが、確かに良く見れば時々その視線はこちらに注がれ、その鋭さはただ単にこちらが目についたと言うだけでは説明出来ないものがあった。

 「でも何で……? 今回の件で処分が下されたのははやてとチンクの二人だけのはずじゃ……!?」

 「分かんねーのか。上のお偉方にとっては『ヴォルケンリッターは人間じゃない』ってのと、『ヴォルケンリッターは八神はやての“所有物”』って二つの暗黙の考えがあるんだよ。万一はやてが問題起こして責任を取らされる場合、ヴォルケンリッターの指揮権の一部は管理局に強制剥奪されちまうんだよ」

 「私達自身、元を辿れば闇の書が生み出した守護騎士プログラムの一端に過ぎない。けど、人間の姿形をしている以上は“人質”として充分過ぎる効果を持ち合わせているわ……。私達ははやてちゃんの拘束期間中は人質であると同時に上層部の良いように使われる体の良い働き手ってことなの」

 「つまり彼ら監視員は我々が反逆せぬようにと上層部が掛けた保険と言うことだ。そのような要らぬ心配をしてまで、上は優秀な戦力確保をしたいのだ。いつもは目の敵にしているのにな」

 『だが、我々は主はやてが管理局に反旗を翻すなどとは考えてはおらん。きっと何かの間違いだ』

 「でなけりゃ、ハメられたんだ!」

 ダンッ! 

 ヴィータの両手が渾身の怒りと共にテーブルを叩いた。背後の監視員以外に何人かの注目を集めてしまったが、この理不尽に対する彼女の怒りは最早そのようなこと程度で自制心を取り戻せはしなかった。

 「ヴィータ、落ち着いて」

 「これが落ち着いてられっか! もういい! こんなトコで燻ってられるか!」

 そう言い放つと彼女は席を立ち、猛然と早歩きで立ち去ろうとした。

 「どこに行く」

 「うっせ、訓練室だよ! アイゼンの試し撃ちしてくるだけだ!」

 シグナムの静止も聞き入れず、彼女はさっさと肩を怒らせながら道を急いだ。その勢いは他の道行く人々が思わず避けて通る程のものだったが、フェイトにはその後ろからしっかり監視員が後をついて行くのが見えていた。

 「まったく……。いかんな、常人より長く生きていると言うだけでは。駄々を捏ねる赤ん坊と何ら変わらん」

 『言うてやるな、あいつは優し過ぎるだけだ。その優しさを踏み躙られるのが、あいつには我慢出来ぬのだろう』

 「ザフィーラの言う通りよ。それに……私達だってそんなの耐えられないもの…………」

 重苦しい沈黙が再び彼女らの間に横たわった。足元のザフィーラでさえ掛ける言葉が見つからないのか、大人しく項垂れるより他なかった。

 「…………」

 「…………」

 「…………」

 ――ピピッ! ピピッ!

 「? あぁ、ごめんなさい、私です」

 通信が入ったのを知らせるアラームが鳴り、フェイトが一旦席を立った。すぐに彼女はスクリーンを開くと通信を寄越してきた相手と話し始めた。しばらく画面側の相手と会話をしていたが、数分後には再びテーブルまで戻って来た。

 「皆さん、ちょっといいですか? 一緒に来てもらいたいんです」

 「ん? 私は別に構わんが、ヴィータを呼び戻さなくて良いのか?」

 「時間がありません。急いでください」

 事態が急を要すると察したのか二人と一頭は殆ど二つ返事でフェイトの後に続いて行くこととなった。もちろん、すぐ後ろから監視員が来ているのだろうが、別に疚しいことをするつもりではないので構わないのだが。

 「そう言えば――」

 「どうかしましたか?」

 「今日は一度もなのはちゃん見掛けませんね。無限書庫の方でも司書長が珍しく休暇申請をしたとかで噂になってましたよね」

 「高町とスクライアが同時に……? 大方久し振りに逢瀬にでも行ったのだろう」

 「デートですか……。ちょっと近いですね」

 『知っているのか?』

 フェイトは優しく「えぇ」と一言だけ微笑むと――、

 「今日はヴィヴィオの学芸発表会なんです」










 ここセント・ヒルデ魔法学院はミッドでも有数の教育機関である。管理世界でもメジャーな宗教である聖王教の直接の庇護下にあり、経営そのものも本部である聖王教会の直轄で行われていることもあって生徒数は年々増えつつある傾向があった。宗教自体も非常にオープン且つ淡白な為、地球で言うところの新興宗教などとは違って胡散臭さは欠片も無く、別にそこで教育を受けている子供達に主義・思想に悪影響を及ぼすようなこともないことが人気の秘訣の一つでもある。

 だが、この学校も宗教が関わっている以上は細部で宗教的なものが介入してきていることも当然のことながら有り得ている。

 その一つとして挙げられるのが、地球でのキリスト教などで言う所の聖歌隊のような集団である。





 Ah~♪

 聖堂全体に澄み切った歌声が響き渡る。いかにも宗教的な神聖さを表す色鮮やかなステンドグラスが目立つ天井から差す陽光、木製の長椅子には所狭しと聴衆たちが座っており、皆一様に目の前の光景に注目していた。

 それは歌い手たちである。学院の制服を着て歌う彼らは全て学院で日々を学ぶ生徒たちで、大半は立候補した者によって成り立っているのだ。中にはちらほらと大人たちの姿も見え、一緒に歌っているのが分かる。歌の内容は聖王教らしく古代の聖王を讃える讃美歌であり、今は長きに渡る戦いの末に古代ベルカを平定した章を歌っている所だった。

 皆が静かに歌声に耳を傾けていると、どこからか歌声とは別に耳に突く声が聞こえてきているのが分かる。耳を澄ませてみると……。

 「セイン~! こっち向くッス~! あ、オットーにディードも映りたいならこっちを向くッスよ~!」

 どう考えても場違いなその声に対し、遠くに居る者は無視、近くに居る者は盛大に顔を顰める羽目になった。この場においては雑音扱いされかねないその声の主は幸いにも端の方の席に収まっていたが、周りの身内らしき人達が幾ら言い聞かせてもビデオカメラ片手に席から身を乗り出すと言う愚行を止めようとはしなかった。

 「おいウェンディ! チンクが居ないからって調子に乗るな。ケガするぞ」

 「むぅ、パパりんは壇上で歌ってる三人の勇姿をカメラに収める私の仕事を邪魔するッスか!? そ・れ・に! 謹慎の所為でここに来れないチンク姉の為にこうしてカメラ回してるんスから」

 「ならせめてちゃんと席に座って撮れ! 他の奴らの迷惑ってのを考えろ!」

 「だって~、オットーもディードもぜーんぜんこっち向かないんスよ~。って言うか、あの目立ち屋がりのセインまで目も合わせようとしないってどう言うことッスか!」

 背中の口まで届きそうなワインレッドの髪を頭の後ろで束ねた少女――ウェンディは父親である白髪の壮年男性の言い分も聞かずにカメラを回し続けている。どうやらこれが始まった時からずっとこの調子らしく、他の聴衆たちの誰もが諦観の表情を浮かべていた。

 「かぁ~っ! ディエチも何か言ってやってくれ、俺一人じゃ手に余る!」

 「ゴメン、私の力じゃもう無理。ノーヴェに任せるよ」

 「…………知らね。バカに関わってたらこっちまで同じ目で見られるからヤだ」

 「この薄情者! 初老の俺に寄って集って鞭打ちやがって……」

 娘達の親――ゲンヤ・ナカジマは現状を大いに憂いでいた。長女であるチンクに直接頼まれたと言う大義名分がある以上はウェンディは今の行動を止めはしないだろうし、実際止める気配が全く無かった。正直、ゲンヤは妻であるクイントが逝去した時と同じ位に泣きたい心境に陥っていた。

 そして、もういい加減にこちらが諦めようかと盛大に溜息をつきそうになったその時、 

 「父さん、ここは私に任せて」

 「ギンガ……」

 実の娘から助け舟。20歳になり、より一層大人の魅力に磨きが掛かった彼女の笑顔は、遺伝子上当然だがやはり亡き妻の面影が感じられる。

 「任せてってお前……ここで左手のドリル使うなよ?」

 「そんなことしなくても、平和的且つ早急に片付けるから安心して」

 そう言うと彼女はニコリと微笑んで見せた。そしてそれを見たゲンヤは、昔クイントが自分が浮気をしていると勘違いした時に見た笑顔と同質の雰囲気の「何か」をその裏に垣間見てしまった。もちろん、彼は昔も今も妻一筋であることに変わりは断じて無い。

 ギンガは丁度ウェンディの真後ろに座っているので、ちょっと身を乗り出せばすぐに彼女の耳元へと辿り着くことが出来る。

 「ねー、ウェンディ、私のお話聞いてくれる?」

 「ダメッスよ。いくらギン姉の頼みでも、私の中の序列はチンク姉の方が上ッス。そのチンク姉の頼みがある以上はそっちの方を死守するのが今の私の義務ッスよ」

 「ウェンディ、私は何もカメラを回すなとは言ってないわ。ただ、今貴方がやっていることは私達含め他の人達にも迷惑だから、せめてちゃんと席に座って撮って欲しいだけなの。言ってること分かるかしら?」

 「それでもダメなものはダメッス! いい加減にして欲しいッスよ!」

 決定打。この時のことを後にゲンヤとディエチは互いにこう語る。「最終通告を無視してなお意固地になる敗残兵の姿を見た……」と。

 「ねぇ、ウェンディ、あそこに居る人が見えるかしら?」

 そう言ってギンガは自分達よりも前方に座っている女性を指差した。艶のある長髪をサイドポニーの形で束ねているその女性は、隣に座る同年代の優しそうな男性と一緒に生徒達の歌声に耳を傾けており、時折その男性と楽しそうに会話をして微笑んでいた。

 「なのはさん、見えるでしょう?」

 「それがどうかしたッスか……?」

 「私が今ここであの人に念話を送れば、間違いなくウェンディは後でレイジングハートを構えたなのはさんと“お散歩”させられるわよ。出来ることなら、避けたいわよね~?」

 「お、脅しッス、そんなの。それにわかってるんスよ。あの人の隣に居る人、無限書庫の司書長さんッスよね?」

 確かに、大空のエース高町なのはの隣の席に腰掛けている人物は地上本部で一番忙しい男として有名な無限書庫の司書長、ユーノ・スクライアである。彼女の魔法の師であり、今現在彼女が公私共に最も親しく接している異性でもある。余談だが、既に局内では二人の少年時代からの仲は局員全体に知れ渡っており、本人らはどう思っているかは知らないが、今や二人は管理局公認のカップルになりつつある。『エースオブエースが戦術以外で勝てない相手』としても彼は有名で、最近では何を勘違いしたのか武装隊からの移籍勧誘が絶えないらしい。

 「あの彼氏さんが近くにいると無敵のなのはさんも感覚が鈍るッス。今ここでギン姉が念話で呼びかけても反応するかどうか……」

 「ウェンディ――」

 「は、はい……! 何でしょうか?」

 ギンガの纏う空気が急激に変化したのを察知したのか、ウェンディは思わず丁寧語になってしまった。そして、自分が地雷を踏み抜いたことも半ば理解しつつあった。

 「今から三つの行動を提示するから、良く聞いてなさい」

 「はい……」

 「一つ目、三分待っても言うこと聞かなかったら私の左手が唸るわよ。いい? 三分間待ってあげる」

 「待ってって……もう回転してるッス」

 「黙って聞きなさい。二つ目、私が全力全開でなのはさんの注意を向けるわ。知らないわよ、娘のヴィヴィオちゃんの晴れ舞台を邪魔したのがバレたら。ディバインバスターぐらいは覚悟した方が良いわ」

 「うぅ……」

 「三つ目、今すぐここでカインのフルスイングを受け止めること」

 「ごめんなさい! 私が悪かったです、許してくださいッス!!」

 号泣しながら許しを乞うウェンディを見てギンガは満足そうに笑い、「分かれば良いのよ」と優しく頭を撫でていた。さり気なくカメラを取り上げてその隣で震えているディエチに渡すと、自身はすぐに席に戻った。

 その横では顔の右半分を包帯で隠した男性が目深に被ったフードから彼女に笑顔を向けていて、ギンガもそれに微笑み返していた。



 彼女らが全力で騒いでいるのと同時刻、少しばかり距離を置いた別の席では一人の少年が腰掛けて聖歌隊の歌に聞き入っていた。

 いや、正確には聞きながら読書をしているのだ。紫苑の短い髪を揺らすことなく静かに無の境地に達するようにして、静かに読んでいる。別にそれを不謹慎と言って咎めることは誰もせず、皆少年がそこに居ないかのように扱っていたのだった。

 「……………………」

 真冬の寒風によって冷えた手でページを捲る。一応本の題名に目をやると、『君はあの事件を覚えているか! J・S事件編 ~故中将の秘書官が語る事件の真実とは~』と言うものだった。民間の報道記者の記録を一冊の書物にしたものであり、そこに書かれている誹謗中傷の数々が大衆のエゴを刺激するのか、ミッドにおいては大ベストセラーのシリーズとなっているものだった。今までに『P・T事件編』や『闇の書事件編』などが刊行され、その他にも管理局の不祥事などを赤裸々に綴ったゴシップ的なシリーズがある。

 「……ファクターサンプルの、インストール率は?」

 『No.Ⅶ,No.Ⅷ,No.Ⅹ,No.XⅠ,and No.XⅡ are complete. But,No.Ⅵ and No.Ⅸ are yet.(No.7、No.8、No.10、No.11、No.12は完了。しかしNo.6とNo.9は未だ完了ならず)』

 「把握した。現在、どこまで、インストール済み?」

 『No.Ⅵ is about 56.3%. No.Ⅸ is about 78.4%.(No.6は約56.3%。No.9は約78.4%)』

 「採取した、未確認ファクターの、分析は?」

 『Analysing now.(現在解析中)』

 「把握した。引き続き、作業を継続、せよ」

 『Yes,my lord.』

 他の者には聞こえていないのか、電子音との一通りの会話を終えると少年はすぐに目を紙面に、耳を歌声の方に集中させた。しかし、すぐに聴覚はそこから切り上げ、一言だけ感想を述べた。

 「雑音……。感性の、理解不能」



 






 その数分後、無事に何事も無く学芸会は終了。学院の責任者でもあるカリム・グラシアの閉会の辞と共にお開きとなったのだった。

 その後は毎年恒例なのか、局の仕事に戻ろうとしたカリムを民間の報道業者が捕まえ、昨今の地上本部の模様について質問攻めにあっていた。一応付き人のシャッハが睨みを効かせたはずなのだが、そこはやはり相手連中も引き下がる訳が無く、小型マイクやペンを片手にインタビュー。とうとう痺れを切らしたセインが文字通り足元から救出し、何とか難を逃れることには成功した。しばらくは両者の息が続く限り壁や床の中を潜ってやり過ごすことだろう。幸いにも記者達はそこまで執拗ではなかったようで、カリム本人が居ないと分かった途端にゾロゾロと帰って行った。

 「ふぅ……。後もう少しで肺が潰れるかと思った。大丈夫ですか、カリムさん?」

 「大丈夫よ。伊達に騎士を名乗ってはいないもの、これ位まだ平気よ」

 壁からいきなり出現した二人は少しばかり周囲の目を引いたが、以前からセインの能力を知っている者も居たのか、そこまで騒ぐことはなかった。代わりに見覚えのある顔触れがこっちに手を振りながらやって来るのが分かった。思わずこちらも全力で振り返す。

 「セイン~! 元気にしてたッスか~!」

 「こんにちわ。セインがお世話になってます」

 「やっぱりお前さんは元気だな」

 ナカジマ家の面々である。ゲンヤを始めに、自分の姉妹達の再会にセインは……。

 「みんな~! お姉ちゃんだよ~!!」

 全力疾走。しかし――、

 「ウェンディ、パス!」

 「断固辞退するッス! ノーヴェ!」

 「だが断る! ギン姉ぇ!」

 「私ってレズに見えると思う? 遠慮するわ」

 全員から拒絶意思の一斉表明。それらの言葉の棘がセインの耳に到達する頃には既に彼女の心を見事に折っていた。

 「うぅ……みんなして酷い。久し振りの再会にその対応は無いよ」

 「軽い冗談だってば。機嫌直して、セイン」

 悪意は無かったのが唯一の救いである。半分涙目な彼女をすぐに心優しいディエチが慰める。

 これがいつもの姉妹のコミュニケーション、と一人で納得していたカリムの前にすっと近づく人物があった。ギンガである。

 「お久し振りです、グラシア少将」

 「プライベートで階級は気にしなくて結構ですよ、ギンガさん」

 「そうでしたね、カリムさん。では改めて、お久し振りです」

 「はい。ゲンヤさんも、お元気そうで何よりです」

 そう言ってカリムはギンガの後ろで白髪頭を掻いていたゲンヤにも挨拶した。

 「いやぁ、お前さんも年取る度に綺麗になっていきやがるな。教会の深窓でデスクワークさせとくには惜しいな」

 「父さん!」

 「ギンガさん、良いんですよ。またゲンヤさんお得意の社交辞令ですから。今日はヴィヴィオちゃんの……?」

 「あぁ、そうだ。高町の奴に誘われてな。この歳になると局の業務も暇になってきてな、丁度良いと思って娘達と一緒に来させてもらった」

 「そうですか。そう言えば、こうして直接お話しさせて頂くのはいつ以来でしたっけ?」

 「ん~、確か…………あっ、そうだった、思い出した。ウチのギンガの見合い以来だったな」

 「そうでしたね。そう言えば、カイン君は今どちらに?」

 「あ? そう言えばあいつどこに……って、居た。おーい、カイン! んなトコで油売ってないでこっち来い」

 周囲を軽く見渡したゲンヤは目的の人物を発見したのか、その人間を大声で呼んだ。その人物は学院の生徒ら――主に学院寮に戻って行く子供達――に対して優しく手を振って挨拶していたが、ゲンヤに呼び出されたのに気付いてこちらに駆けて来た。それは先程の学芸会の時にギンガの隣に座っていた男性で、やはり顔の右半分を包帯で覆い隠していると言う痛々しい出で立ちをしていた。

 「と、父さん!? 何してるの、恥ずかしい!」

 「別に恥ずかしくはないだろ? “婚約者”を呼んでるだけなんだからよ」

 そう言ってニヤリと笑うゲンヤの後方から目的の男性が到着した。近くで良く見ると、包帯は顔だけでなく袖で隠れた右肩からその指先にまで巻かれており、大層な大怪我であることを容易に想像させた。

 『お久し振りです、騎士カリム。と、我がマスターは申しております』

 カリムの方へと向き直った彼の腰辺りから合成電子音が挨拶をしてきた。良く見ると、腰の左右にスティック型に待機したデバイスが大人しく控えているのが分かる。どうやらそちらが故合って喋れない彼の代理で話しているようだ。

 「はい、お久し振りねカイン。孤児院で生活していた頃が懐かしいわ、あの頃に比べて見違える程に成長して……」

 『いいえ、まだまだ自分は未熟です。と、我がマスターは申しております』

 「謙遜しなくても良いのよ。それで、挙式はいつだったかしら?」

 「はい……。春先にはこちらで挙げさせてもらう予定です」

 短く、しかしハッキリとギンガはそう答えた。その頬が赤く染まって見えるのは気の所為ではないはずだ。

 「そうでしたね。その際には是非とも盛大に皆で祝いましょう。六課の皆と、セイン達も」

 「はい、よろしくお願いします」

 『カリムにはまた世話になる。と、我がマスターは申しております』

 カインと呼ばれた青年は包帯で巻かれた右手で静かにギンガを自分の方へと抱き寄せた。言葉こそ一言も発しないが、行動の端々から彼女に対する深い愛情が滲み出ているのが分かる。

 「始めはあんなに嫌がってやがったのに、最近じゃこっちが恥ずかしいくらいにベタベタするんだよな」

 「まぁ、それは御盛んですね。ゲンヤさん、決して二人の邪魔をしてはいけませんよ?」

 「誰がするかよ。クイントの娘ながらあいつも強情でな、『カインの失語症を直してあげるのは自分に課せられた役目』って言い張るんだ」

 「彼女ならいつかそうしてくれるでしょう。私やはやてには出来ませんでしたから……」

 そう言って彼女は少し遠い目をして寒風吹く青空を見上げた。かつてあった過去の、今は過ぎ去ってしまった出来事に想いを馳せているのだろうか。

 「――あ、そう言えば!」

 『どうかしましたか? と、我がマスターは申しております』

 「えぇ。つい最近、はやてが教えてくれた地球産の占いを覚えたのだけれど、折角だからこの際に占ってみようかしら」

 「占い? そんなことしなくてもお前さんにはそれ関係で立派なレアスキルがあるじゃねーか」

 「『預言者の著書(プローフェンティン・シュリフテン)』のことですか? あれは月の魔力の関係で一年に一回しか使用できなくて、以前言いましたけど、せいぜい『良く当たる占い』程度なんです。おまけに日常レベルでの細かなことは占えませんし……」

 「あー、そう言えばそんなことも言ってたか。で、そちらの方は?」

 「今の所は的中率99%ですね。以前ロッサが統計を取ってくれました」

 「…………もう、レアスキルじゃなくてもそっちで占えば良くないか?」

 「言わないでください、気にしてるんですから。それで、誰か占って差し上げますけど……?」

 そう言って彼女はポケットから小さなカードの束を取り出した。ぱっと見ると60枚近くはありそうなそのカードを見事に捌くと、ゲンヤ達に勧めた。しかし――、

 「いや、俺はオカルトなのは基本的に信じないんだ。悪いな」

 「私も気になって仕方なくなりそうですし……。遠慮しときます」

 『こちらも同じです。と、我がマスターは申しております』

 三人とも断られてしまった。

 「じゃあ仕方ないですね。またの機会に――」

 「あーっ! それってタロットだよね、カリム」

 カードを仕舞おうとしたカリムの手が止まった。どう言う経緯があったかは知らないが、ウェンディの下半身をISで壁に埋め込んだままこちらに走って来た。そしてそのままカリムからカードを取り上げるとすぐに姉妹達の方へと戻って行った。

 「セイン、それ何ッスか?」

 「トランプか何かのカードゲーム?」

 「チッチッチ、違うんだな、これが。これはちゃんとした占いの道具なのさ。良く見てろ~」

 そう言うとセインはカードを規則正しく並べてゆく。全てが裏を向いたカードを時々位置を変えながら手順通りに進めて――、

 「ここをこうして、これをこう…………良し! これだ」

 そう言って彼女は一枚のカードを引いた。すぐにそれを皆に見えるように地面に置く。そこには何やら古めかしい塔のようなものの絵が描かれており、それ以外は何も記されてはいない簡素なカードだった。

 「……これが何か意味あるの?」

 「うん、これが出たってことは……………………こっちか!!」

 そう言って彼女はディエチの質問にも答えずに壁に向かって全力疾走、足元に水色のテンプレートを出現させるとそのまま一気に潜行しようと試みた。が、しかし――、



 ガンッ!!!



 「~~~~~っ!!!!?」

 壁に頭から激突し、墜落。頭を抱えたまま地面をのたうち回る羽目になった。

 「やっと見つけましたよ、シスター・セイン!」

 「げぇっ! シャッハ!?」

 激痛の残る頭を擦りながら声の主を見つけると、そこには仁王立ちの天敵シャッハ・ヌエラの姿があった。

 「ついさっき建物全体に障壁を張っておきました。これでもう逃げられませんよ!」

 「い、いや、これはその……姉妹の涙の再会ってことで……」

 「オットーもディードも自分の仕事を終わらせてから会うつもりだと言うのに、貴方と言う人は……! ちょっと来なさい、灸を据えてあげます!」

 「えぇ!? ちょ、それだけは勘弁……!」

 「問答無用!!」

 「アッー!!!」

 セインは教会が誇る武闘派シスターであるシャッハに連れ去られてしまった。当然のことながら、自業自得なのと誰も逆らえないのが相乗して皆無言で見送るしかなかった。

 「じゃあ、ここは私がタロットについて説明するわ。もちろん、実演も交えてね」

 そう言うとカリムは待ってましたと言わんばかりにウェンディ、ディエチ、ノーヴェの三人の所へとやってきた。カードを拾い直すと、数回シャッフルした後でまたそれを地面に並べ直し始めた。

 「はやての受け売りだけど、タロットって言うのは第97管理外世界で一部流通してる占いの道具でね、起源はハッキリしていないのだけれど、始めはトランプと同じようにカードゲームとしての意味合いがあったらしいわ」

 説明しながらカードを並べる手際の良さはさっきのセインよりスマートで鮮やかなものがあった。恐らく彼女にこれを教えたはやてはもっと手際が良かったはずだ。

 「寓意的な意味を持つ22枚のカードでその人の運勢や人格、持って生れて来た自身の意味を見出すとされているわ。これでいいかしら……」

 規則正しく円形にならんだカードを見て満足気に微笑むカリム。

 「じゃあ、まずはディエチさん?」

 「はい?」

 「どれでも構いませんから、一枚だけ好きなカードを引いてください」

 そう言って少し戸惑っているディエチにそう促した。カリムに勧められて、恐る恐るその手に取って捲って見ると――、

 「第五番『法王』の正位置……貴方にはぴったりね」

 カードに記されていた絵柄は法衣を身に纏った古代の僧侶であり、背景から神々しい後光が差しているのが特徴的な一枚である。

 「それはどー言う意味があるんスか?」

 「『法王』のカードが表すのは“包容”。平たく言えば、全ての事象を認め、許容して、包み込む優しさを示しているの」

 「確かにディエチは優しいッス! この間も電車に乗った時にも席譲ってくれたッスよ」

 「あれはウェンディが疲れたって我儘言ったから……」

 「謙遜しなくても良いのよ。貴方が優しいのはセイン達からも聞いているもの。それが貴方の持つ本質なのよ」

 頭を撫でられて満更でもなさそうだが、元の気質がシャイな一面もあって彼女の顔は真っ赤になっていた。

 「ちなみに、セインが引いた第十六番『塔』は“身に降り掛かる災難”を表しているわ」

 「あー、納得した。どうせあいつソレしか引いてなかったりするんだろ?」

 「……良く分かったのね」

 「本当かよ……」

 「じゃあ今度はこっちが引くッスよ!」

 ウェンディはそう言うと、いつのまに壁を破壊したのか腰回りからボロボロと破片をばら撒きながら近づいてカードを引き当てた。どうでも良いが、修繕費用は教会から負担してもらえるのだろうかと、ゲンヤはこっそりと考えてしまっていた。

 「んあ? 何ッスか、このカード?」

 彼女が掲げたそれには崖の上で大袈裟なポーズを取る男性が描かれており、ぱっと見ただけでは何を表しているのか全く分からなかった。

 「えーっと……これは第零番『愚者』の正位置ね」

 「“ぐしゃ”って何ッスか? 何か潰した時の擬音ッスか?」

 「愚者……。簡単に言えば、バカな人ってことだよ」

 「ウェンディにはお似合いだな」

 「むかー! それって私が馬鹿ってことッスか!!」

 「そう言ってるじゃん」

 「いいえ、そうでもないわ。これはこれでレアなカードなのよ」

 「?」

 「『愚者』が示しているのは“変化”。常に周囲の状況に囚われること無く、自分から改革を起こそうとする柔軟な考えがあることを表しているのよ。だから、決してバカって意味だけではないのよ」

 「ざまぁッス!」

 自らの馬鹿説が否定された為かウェンディは非情に得意気に笑って二人を指差した。

 「ちなみに、なのはさんは第七番『戦車』だったわ。あらゆる戦いにおいて常勝無敗、“勝利”を体現しているカードよ」

 「うわ、ピッタリだ」

 「オットーとディードは二人とも第十八番『月』が出たわ。二人の似通っている“曖昧”な所が合っていたのかも知れないわ。えっと次は……ノーヴェね。カードを引いて」

 「あたし、こんなの興味無いんだよな……。ほらよっと、これでいいだろ?」

 ぶっきらぼうにカードを一枚取ってカリムに投げて寄越すと、自分だけどこかへ行こうとして立ち上がったのだった。

 「あれ? どこ行くッスか?」

 「喉渇いただけだ。すぐ戻る」

 そう言って彼女は振り向きもせずに一人でさっさと自販機を探しに行ってしまった。元々姉妹以外の誰かと慣れ合うことを極端なまでに避ける性格をしている為か、ナカジマ家においては未だに局でも親しい者が居ないのは彼女だけだった。

 「すまないな、あいつもあぁ見えても根はイイ奴なんだ」

 気をきかせたゲンヤがすぐにフォローを入れるが、当のカリム自身は慣れっこなのか全く気にした様子も無くニコニコしていた。

 「いいえ、あの子も悪意はないのでしょう。それはそうと、もうお帰りになるのですか?」

 カリムがそう訊ねるとゲンヤは「あぁ……」と短く返答。その後ろにはギンガとカインも並んでいる。

 「スバルが入院していてな……この後で見舞いに行く予定なんだ」

 「そうでしたか……。そう言えば二日前の本部での騒ぎの最中で重傷を負ったとか…………そうとは知らずに長々と引き留めてしまって……」

 『お気になさらないでください。と、我がマスターは申しております』

 「そうですよ。あの子も子供じゃないですし、きっとすぐに元気になると信じてます」

 「仲が良いのですね。分かりました、では道中お気をつけてください」

 「あぁ。ウェンディ達はオットーとディードに会ってから帰宅するように言っといてくれないか。あいつらも会うのを楽しみにしていたからな」

 「はい。それでは、またお会いしましょう。今度は春に結婚式場で」

 その言葉を交わした後、ゲンヤ達一行は騎士カリムに別れを告げて学院の敷地を後にした。彼のすぐ背後ではギンガとカインがしっかりと手を繋いでいるのが後ろから見えていた。

 「あっ、そう言えばノーヴェの引いたカードは何だったかしら?」

 カリムはずっと手に握っていたその一枚を表向けると、思案の表情となった。カードの絵柄は相対的な男女の絵が描かれており、それが何を意味するのかは彼女しか分かる者は居なかった。

 「第六番『恋人』の正位置…………。指し示す未来は……“出会い”、“友情”、“選択”、“決断”……。初めて見たわ、このカード」

 そう言って彼女は何事も無かったかのようにそれをポケットに仕舞い込み、ウェンディとディエチにお茶を御馳走する為に二人の名を呼んだ。



 そんな彼女らの脇を、一筋の影が通り過ぎた。確実にそこに居るはずの“存在”に誰も気付くことなく、限り無く黒いその影は音も無く目的の場所へと移動を続けた。



 






 その頃、ノーヴェは自販機の前で独りだけで缶入りの飲料物を空けていた。中味はホットではなく、本人の嗜好から炭酸飲料だった。

 「…………」

 いつになく物静かな彼女の双眸には道行く人々の顔が映っていた。皆一様に笑顔であり、中には親子連れも多々見受けられている。その光景は限り無く「日常」であり、今自分はその日常の中に居るのだと実感させられていた。それはまさに、一言で言い表すなれば――、

 「平和……か」

 少なくてもここは、つい二日前の地上本部の騒動など嘘だったかのように平和だった。火の手の代わりに緑の草木が生え、人々の悲鳴の代わりに幸せな笑い声が聞こえる。彼らはそんな「非日常」など知らない上に知る必要も義務も無く、恐らくは一生知らずに過ごす者が殆どだろう。ただ平凡に、それでいてただ平和に一生を終えるのだ。それが彼らの人生であり日常、不変の事実なのだ。

 だが、彼女は時々考えてしまう。「自分はここに居て良い存在なのだろうか?」と。何が“普通”であり何が“日常”なのかは人によって相違がある。つい3年前まで彼女らは他人の日常を侵し、脅かす侵略者でしかなかったし、本人らもそれが自分達にとっての「日常」だったのだ。何も疑問を感じることもなく、ただ単に命令を遂行して計画成就の為に使われる駒――それが自分達なのだ。

 それが今はこうして平然と社会に溶け込んでいる。更正施設で刑期を終え、ちゃんとした審議の結果として自分達はそれが正当に許されたのだろうが、ノーヴェには今の自分の状況が不自然極まりなかった。ひょっとしたら自分は……いや、自分達は本当は社会にとって好まれない存在なのではないか? 社会から抹消……とまでは行かなくても、捕縛されたあの時に全員スカリエッティのように更正の余地無しと判断されて監獄に身を置くべきだったのではないのかと、考えてしまうのだ。以前、ここには居ない敬愛する姉にこのことを相談したこともあったが、その時彼女は「もう終わったことなのだ。いつまでも引き摺るべきではない」と言って喝を入れてくれた。しかし、それでもなお彼女には理解出来なかった。

 そして同時に恐ろしいのだ。今自分は幸せだ、人並みの日常を、平和を、幸福を享受出来るのだから。だが、もしもその幸せが今だけのものだったなら? もしこれから予期せぬ事態に陥ってその幸福が瓦解する――。

 そのことが彼女にはどうしようもなく……

 「怖い……」

 思わず口をついて出てしまった言葉に気付くことも無く、彼女は空になった缶をゴミ箱に入れ込んだ。現在、彼女の妹分でもあるスバルは重傷を負って入院中である。この心配が何時現実のものになってもおかしくはなくなっているのだ。そして、こんな不安を感じるくらいならいっそ――と思ってもしまうのだった。

 そんな不安を全身全霊で振り切った彼女は喉の渇きも潤したことで、早く姉妹達の元へと急ごうと踵を返した。その時――、

 「ねぇ君さ、ちょっとイイかな?」

 一人の男性が愛想笑いを浮かべながらこちらに接近して来た。両手にそれぞれペンとメモ帳を携えているその姿をノーヴェは嫌と言いたくなる程に知っていた。

 「……またかよ」

 記者である。それも三流記事の紙面でゴシップなものしか書かない類のライターだとすぐに分かった。

 「君ってアレだよね~? ほら、J・S事件で有名な! ちょっと二つ三つぐらい答えてもらいたいんだけどなぁ……」

 始めに断っておくが、民間の機関には彼女らナンバーズの情報は顔なども含めて全て秘匿されている。では何故こうして彼女らのことを知っているものが居るのか? 答えは簡単だ、単に些細な情報漏れである。管理局も組織である以上は全ての統括を完璧に行っている訳ではない。必ずそこには人間が引き起こす必然的なミスもあるのだ。そして、それらのお零れに反応して嗅ぎ付けてくるのが……。

 「悪いけど、急いでるから……」

 「そんなこと言わずにさぁ。すぐ終わらせるから」

 このような人間と言うことである。今までにも同じ人間が接触してきたことはあったが、その時はナカジマ家の人間と一緒であったし、何よりチンクが居てくれた。接触してきた何人かはチンクがうまいこと言って追い返してはいたが、今回は一人である為に下手には動けない。この場合は無視しておくのが妥当だろうと思って先を急ごうとしても――

 「手間は取らせないよ」

 そう言って回り込まれてしまうのだ。そして、余りにもしつこいと、自他共に認める程に気が短い彼女の堪忍袋はすぐに限界を迎えてしまい、手が出てしまう。それが相手の思惑通りになるとは知らずに。

 「うるさいなぁ! しつこいんだよっ!!」

 「おぉっと……危ないなー。良いのかい? 僕にこんなコトして」

 「あぁん!?」

 ノーヴェが軽い威嚇のつもりで蹴り上げた小石を避けて、記者は意地悪くそう言ってきた。

 「僕らにはね、報道の自由が許されているんだよ。余り過剰にしない限りはこうしたインタビューも当然許されているんだ」

 「それがどうしたよ!」

 「だけど君は折角僕が低姿勢にお願いしているのに、それを暴力で返してきた…………それって社会的にどうなると思う?」

 「そ、そんなこと……!」

 「知らないなんて言葉じゃ世間は認めてくれないだろうね。残念だけど、僕は今ここで起こったことをメモ帳に書き残して会社に提出させてもらうよ」

 「な……!?」

 そんなことをされれば間違いなく彼女は、いや、彼女に関わる全ての人間に多大な迷惑がかかってしまうだろう。

 「やめろ!!」

 「おっと、君こそ止めた方がいいよ。これ以上僕に近づけば、僕はさらにここに書く事柄を増やすことになるからね。記事の見出しは……そう、『J・S事件の元実行犯、フリーの記者に白昼の暴行か!?』で行こうかな」

 わざとらしく芝居がかったその言動に、ノーヴェは歯軋りしながらも目の前に居る相手に手が出せない苛立ちに苛まれていた。だがこのまま放っておけば確実にメモ帳のネタは投函され、明後日以内には世間の知れる事態に発展するかも知れなかった。

 「止めてくれ……」

 「始めに大人しく応じてくれなかったのは君の方だよ。元犯罪者らしい行動にビックリ……いや、この件でまた犯罪者になった訳か」

 口元に卑しい笑みを浮かべながらもペン先は止まらない。もう二枚分は書いたはずだった。

 もう強襲してでも阻止するしかない――。そんなことをノーヴェが本気で考え始めたその時、

 「な、何だ君は!? おい! 止め……ぐあっ!!」

 一瞬だが何が起きたのか分からなかったが、すぐに彼女は現状を把握する。

 目に入って来たのは紫苑の髪と、一目で少年と分かる程に引き締まった背中。年齢は恐らく自分と同じ位だというのもすぐに予測した。その少年がゴシップ記者の手を思い切り捻じり、その手からメモ帳を奪い取ったのも見えた。

 「ちょ! 君、一体何を……って、あぁ~!?」

 記者の止めるのも聞かず、その少年は端をホチキスの針で留めてあるだけの簡素なメモ帳を両手でいとも簡単に引き裂いて見せたのだった。後はそれらの残骸を風に乗せるだけで――

 「……処理、完了」

 「何をするんだ君は!? 良いのか、こんなことをしておいて! 許される……と…………でも?」

 少年に面と向かったその記者は徐々に尻すぼみになってしまった。その金色の瞳に見入られ、彼は自分の心に一筋の悪寒が走るのを覚えたからだ。

 「こ、今回は大目に見よう! ま、また、次の機会に会いましょうかね!」

 半分震えた声になりながら、逃げるようにして二人の前から、そして学院の敷地外へと去って行くのだった。

 「…………え?」

 余りに唐突な出来事にノーヴェの思考は始めは追い付かなかったが、目の前に突然現れたその少年が今度は何も言わずに立ち去ろうとした時には思わずその腕を掴んでいた。

 「待って! 待てってば!」

 「……何か?」

 振り向き様に合った目にノーヴェは何かしらの既視感を覚えながらも、まずは礼を述べなければと思って言葉を紡いだ。

 「さっきはその……ありがと。どこの誰かは知らないけど、お陰で助かりマシタ……?」

 敬語に慣れていない彼女はしどろもどろになりながらも、最後まで言い切った。微妙に気恥かしいと感じるのは対人関係の苦手さが影響しているからなのだろう。

 「…………」

 「…………」

 「……トレーゼ」

 「はい?」

 しばらく続いた気まずい沈黙を先に破ったのは少年の方だった。金色の瞳でノーヴェを捉え、白磁の肌を持つ彼は静かに単語――自分の名前を口にした。

 「『どこの誰か知らない』と言った。だから、名前」

 「あー! そうデスね……。あた――じゃなかった、私は……」

 「無理、するな」

 「え?」

 「自分に、出来ないことは、しない。その方が、良い」

 「…………あっそ、じゃあそうさせてもらおっか」

 すぐに柔軟に対応したノーヴェは飾った口調をすぐに止めると、少年――トレーゼに真正面から向かい合った。普段の他人を毛嫌いする彼女からは考えられない行動だった。しかし、彼女は直感で感じていたのだ――

 「あたしはノーヴェ。ノーヴェ・ナカジマ。助けてくれて、ありがとう」

 彼が自分と同じ感じをしていることに――。

 「…………トレーゼ。ただの、トレーゼ」

 「ふぅん、変わってるな、お前。でも悪い奴じゃねーよな!」

 「……何故、そう思う?」

 「さっきも言ったろ? あたしを助けてくれたじゃん、理由はそれで充分過ぎるだろ?」

 こう言うセリフを素面で吐ける程に他人付き合いは良くないはずの彼女だが、さっきから感じている既視感と親近感が後押しして、何故か笑みが浮かんでくるのだった。

 「あ、その本……!?」

 しかし、彼のポケットに収まっていた小さな本に目が行くと、それの題名が鍵刺激となったのか――

 「ちょっと寄越せ!」

 「……何をする?」

 「うるせ! こんなモン、こうしてやるんだよ!!」

 それは恐らく彼が読んでいたものであろう書物であり、自分達が関わったJ・S事件のあることないことが書かれているゴシップ物だった。彼女はそれを取り上げると、あろうことか足蹴にしてビリビリに破いてしまったのだった。

 「あ……」

 「胸糞悪いったらありゃしねー! こんなモン、こうしてやって当然だ!」

 傍にトレーゼが居るのも忘れて、彼女は鬱憤を発散させてしまった。だから、我に返った時……

 「あ!? …………その、ゴメン、ついイラッとして……」

 もちろん許される訳ではない。他人の所有物を勝手に処分してしまったのだ、当然だろう。しかし、彼は全く怒った様子もなく、破れた紙面の一つを手に取ると、それをノーヴェの前に差し出した。それは以前に流出したのであろう、J・S事件の実行犯として彼女の顔写真が載っているページだった。プライバシー保護で両目を黒線で隠してはあるが、本人を前にして見ると嫌でも同一人物だと分かってしまう。

 「……これ、ノーヴェ?」

 「そ、それは…………!?」

 「同じ、違わない」

 「…………あぁ、そうだよ」

 半ば無愛想に言い放つと、彼女はその紙片まで取って破り捨てた。風に乗ってそれらは空へと上がって行ってしまった。

 「……次元犯罪者ってヤツさ」

 「社会の、基準では、そうなる」

 「幻滅したろ? さっきお前、あたしを助けてくれたけどさ、本当はあんなことされても文句言えねーんだよな……」

 「だが、過剰に、誹謗中傷がなされている」

 一応フォローしているつもりなのか、トレーゼの途切れ調の言葉が何故か耳に染み入るように思える。

 「優しいんだな、お前」

 「『優しい』? 分からない」

 「…………」

 「…………」

 「……プ! アハハ、変な奴だな、トレーゼって!」

 「?」

 「皆あたしらの言うことなんか信じちゃくれないのに、気遣ってくれたのは初めて……」

 「ノーヴェ、嘘は言いそうに、ない」

 そう言ったのを最後に彼は彼女に背を向けた。

 「もう帰るのかよ?」

 「『帰る』? 違う、行くだけ、帰らない」

 「ふーん、あ、そう。じゃあ、さよなら」

 「……さよなら」

 たったそれだけ言うと、彼は何の惜し気も無さそうに歩き出した。決まった歩調で歩くその後ろ姿はまるで良く出来たロボットのようでもあった。

 ノーヴェ自身もこのまま別れるつもりだった。しかし――、



 「……………………っ!」



 何故だろうか、彼ならば自分が常に抱えている不安を、この感情を受け止めてくれるのでは、と甘く下らない妄想が頭を過ったのだ。たった一瞬のことだったが、次の瞬間には自分でも知らぬ間に彼女は再びトレーゼの腕を掴んでいた。

 「ま、待ってくれ!」 

 「……何?」

 「……………………」

 「……?」

 「……あたしの言うこと…………信じてくれるか?」

 「?」

 「無理なら無理で良いんだ! ……ただ、誰かに……聞いて欲しいだけで…………」

 後半は生来の対人関係の苦手さが災いして尻すぼみ。さっきは記者を心の中でバカにしていたが、自分も全く同じ状況に陥っているのを自覚して今更恥ずかしくなってきてしまったのだった。

 「…………いい」

 「へ?」

 「聞こう、ノーヴェ、言いたいこと」



 後に彼女は語る。あの時ほどに他人と接して嬉しかったことはない、と。  



 だが、彼女はこの時は未だ気付かない。彼とは既に接触していたことを。これが二度目の邂逅だと言うことを。

 そして――、そのことに気付いた時に、新たな波紋を投げ掛けることになるのも…………まだ知らない。





 「ありがとうっ!!」

 彼女は生まれて初めて、精一杯の笑顔を湛えた。



[17818] 守護騎士-Wolkenritter- VS “13番目”
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/04/03 13:58
「うまいッス! 生きてて良かったッスよ」

 ウェンディとディエチの二人はセインやオットーとディードが仕事を終わらせるまでの間だけカリムの事務室に招かれていた。秘書であるシャッハが淹れてくれた極上の味を持つ紅茶を堪能しながら、談笑していた。

 「このお茶ってどこの葉を使っているんですか?」

 「確か第24管理世界で旬に収穫された物を使用していたはずよ。市販でも売られているから、覚えれば誰でも簡単に淹れられるわ」

 「こんな美味しいお茶が飲めるのに、ノーヴェはどこ行ってるんスかね?」

 「さっき誰か見掛けない方と一緒に学院のベンチに座ってお話してましたけど……」

 「へぇ、珍しいこともあるんだね」

 姉妹のことを完全に信用し切っているのか、稼働時間では姉に当たるディエチでさえも今は放任していた。優雅に紅茶を口に含むその姿は限り無く画になる。

 「…………ねぇ、ディエチ、ちょっといいッスか?」

 「何?」

 「もし私達姉妹に“兄弟”が居たら、どんな子になってたッスかね?」

 「兄弟? 男性体のナンバーズってことだよね?」

 「そうッス。あー、ピンと来ないなら聞き流してもいいッス、こっちも不意にそう考えただけッスから」

 「そう……」

 結局何を突き止めたかったと言う訳でもなく、その話題はこれでお開きとなった。ディエチの方もウェンディが唐突な事を言い出したりするのは今に始まったことではないので、このことも軽く放置した。

 そんな二人を尻目にカリムは窓の外に広がる寒空を見上げて物想いに耽っていた。カップに入っている紅茶もとっくに湯気が収まって冷めてしまっていたが、本人はそんなことは気にせずに呟きを漏らしていた。

 「もうすぐ『預言』の時期ね……」

 ミッドの天文情勢では数日以内に二つの月が最接近する予定だった。彼女の持つ古代ベルカのレアスキル『預言者の著書』は月の魔力が上手い具合にシンクロしなければ発動せず、どのように頑張っても発動周期は一年に一回が大原則である。そして、今年はこの季節に巡って来たと言う訳だ。

 「叶うなら……何事も起こりませんように」

 果たして、彼女の切なる願いを見知らぬ神が聞き届けてくれるのか、誰にも与り知らぬ所だった。



 






 丁度その頃、ノーヴェは学院の敷地内に設置されていたベンチに腰掛けていた。その隣にはつい先程知り合ったばかりであるトレーゼも座っているのが分かる。その片手には水の入ったペットボトルが握られており、これ自体は金を持っていなかった彼の為にノーヴェが奢ってあげた物である。

 そして、彼女は全て話した。もちろん、自分達の過去も暴露した上でだ。

 ――自分が今の現状に不安を抱いていること。

 ――自分がここに居て生活しているのは、本当は不自然ではないのかと思っていること。

 ――自分は……本当はここに居てはいけない存在なのではないかと言うこと。

 全て話した。途中で「他人に話して何になるのか」とも思ったりしてしまったが、それでも彼女は言い切って見せた。その間、トレーゼは一言も口を挟むことなく無言で聞き入ってくれていた。





 「――ってことなんだ」

 「…………把握した」

 話し終えた時には既に彼のボトルの中身は空になっており、言い終えたのを機に彼はそれをゴミ箱目掛けて放り投げた。流線形の軌道を描いてそれは見事に箱の中に入り込み、それを確認した後で彼は再び口を開いた。

 「俺は、ノーヴェが何を考えているか、分からない」

 「へ?」

 「正確には、『ノーヴェ』は『俺』ではない……と言う事実。人間に限らず、この世界に存在する全ての、存在は、自己とは違う他者を、真には理解、出来ない」

 「……? 何か良く分からないな」

 「平たく言えば、結局俺は、ノーヴェを理解することは、不可能、だと言うこと。もし仮に、俺が、ノーヴェと、同じ環境にいたとしても、他人である以上は、完全に分かり合うことは、出来ない」

 「そんな……」

 トレーゼの口から発せられた言葉に彼女は愕然とするしかなかった。やはり、直感などに頼って見ず知らずの他人にこの様なことを話しても結局は無駄だったのかも知れなかった。

 だが、そんな風に力無く項垂れる彼女をどう思ったのか、隣のトレーゼは再度口を開いて言葉を紡いだ。

 「だが……ノーヴェが、自分で何を望んでいるのかを、聞くことは出来る」

 「え?」

 「だから――教えろ、ノーヴェは、何がしたい? 自己の判断に、委ねろ」

 トレーゼが金色の瞳でノーヴェの同じく金色の瞳を凝視した。それと同時に彼女は会った時に感じた既視感を再び感じていた。どこかで出会った――もしくは、自分の知っている誰かに似ているのではないか、と。

 「返答せよ」

 彼が何の抑揚も無しに言うセリフもどこかで聞いたことがあるような気がしていた。しかし、当の彼女はそんなことよりも、ただ素直に嬉しかった。まだ相手は自分のことを許容してくれる、まだ少なくとも自分のことを理解しようと努力してくれている。その事実が心に染みた。

 「……あたしは……ただ、今の幸せが続いて欲しいだけ……」

 「――――『しあわせ』とは、どんな状態?」

 「スバルと一緒にギン姉からシューティングアーツ習って、ウェンディが馬鹿やってんのを笑って、ディエチやチンク姉から注意されたりして…………」

 「――――それで?」

 「うん……。こうやってたまに教会に来てセインとかオットーとディードに顔合わせたり、いつかドクター達が帰って来るのを待って……帰って来てくれてまた皆で笑っていられたら、あたしはそれでいいんだ」

 「――――それだけか?」

 「それだけ。昔のあたしならどんなコト考えてたのか知らないけど、今はそれだけでイイんだ。戦うことにも……何か疲れたってゆーかさ、思えばバカやってたなって今なら思えるし……」

 「……………………」

 ノーヴェが胸の内を吐露する間、やはりトレーゼは無言で彼女の言うことに耳を澄ませてくれているようだった。ただただ無言で聞き入るその姿はまるで彫像のように微動だにせず、その姿を見たノーヴェはすっかり彼に気を許していた。

 「はは、こんなコト言っても分かんないよな。でも、何でだろ? トレーゼとあたしって今日初めて会ったんだよな?」

 「…………あぁ」

 「前にどっかで会ってない? それもつい最近に……?」

 「……いや、こちらの都合で、つい先日、ミッドへ来たばかり」

 「ふーん、そっか。なんだか知らねーけど、他人みたいに思えねーんだよなぁ」

 「……気のせい」

 そう言う彼の目は限り無く冷めた感覚であり、雲一つ無い空を見上げているはずなのに何も映していないようにも思えた。だが、そんな目も彼女にとっては限り無く澄み切ったように見えていて、全ての汚れないものの象徴に見えていた。それほどまでにノーヴェはトレーゼと言う存在に心を許し切っており、それは彼女にさらに他人とは思えない感覚を抱かせるには充分だった。

 そんな二人の前に――、

 「ノーヴェさん、こんにちわ」

 一人の少女が近づいてきた。見た目は十歳前後で、眩い金髪と左右色違いのオッドアイが特徴的なその子供はノーヴェの良く知る人物だった。

 「おー、ヴィヴィオ。今帰り?」

 「うん! ママぁ~! ユーノさーん! こっちこっち」

 少女――高町ヴィヴィオは来た道の方を振り向くと大きく手を振った。その先では茶色の長髪をサイドポニーで束ねた女性とその隣に付き添う細身の男性が手を振り返していた。

 「……ヴィヴィオ?」

 「ん? あぁ、さっきあたしが話したのと同じ奴さ。“聖王の器”とかって呼ばれてたけど、今じゃ完璧にあの人の子供になってる」

 「…………そう」

 トレーゼはそれだけ聞くと後は興味無さ気に淡白に返しただけだった。

 「ヴィヴィオ~、一人で先に行っちゃダメだよ」

 「なのは、ヴィヴィオもいつまでも子供じゃないんだから、そんなに心配しなくても……」

 そう言いながら愛しい娘の元へと近づいて来たのは管理局の生きた伝説、不屈のエース・オブ・エース高町なのはであった。今日は恐らく愛娘の学芸発表会にわざわざやって来たのであろう、つい二日前には局で起きたテロ騒動の鎮圧に尽力していた一人だったのがその疲労を物ともせずにこうしているのだ。無限書庫の司書長であるユーノの方は友達繋がりで一緒に来たのだろう。

 「何言ってるのユーノ君、いつ何が起きてもおかしくないんだから。特にヴィヴィオのような小さい子供の周りは危険が一杯なんだからね」

 「フェイトのことを過保護って言ってたけど……こうして見ると君の方も結構過保護だよね」

 「そ、そんなことないってば。私はただ……本当に心配なだけで……」

 「分かってるって」

 傍から見れば新婚夫婦に見間違われるようなテンションの二人ではあるが、互いに歴とした未婚者である。だがヴィヴィオからすればなのはは戸籍上も心理的にも完全に親子であり、それと同時に最も接する機会が多いユーノも一番“父親”と言うものに近い人物であった。だから既に周りが何と言おうとも幼い彼女にとってはこの三人は立派な家族であることに間違いはなかった。

 「ママ! ユーノさん! 喧嘩しちゃダメなんだよ!」

 「ご、ごめんね、ヴィヴィオ……」

 「も~、ユーノ君の所為で怒られちゃったよ。……あっ、ノーヴェちゃん! 久し振り」

 「うぃっす、久し振り。ヴィヴィオも久し振り、元気にしてたか?」

 「うん! 元気だよ。……ねぇ、ノーヴェさん、その人だれ?」

 そう言ってヴィヴィオはノーヴェの隣に座っていたトレーゼを指差した。

 「…………」

 大してトレーゼの方は特に気にした風もなく、その光の宿らぬ双眸でじっと彼女の方を見つめていた。

 「こいつの名前はトレーゼって言うんだ」

 「トレーゼさん? ノーヴェさんのお友達?」

 「……いいや、今さっき、知り合った」

 「そうなんですか。でもすごい仲良くしてたし……やっぱりお友達ですか?」

 「……『友達』と言うモノは、理解できない」 

 「?」

 トレーゼの発言が分からないのか、ヴィヴィオは首を傾げるばかりだった。

 「ヴィヴィオ~、そろそろ行くよ」

 「は~い! じゃあまたね、ノーヴェさん! あっ、来週にもまた発表会があるから来てください!」

 「行ってやるよ、またな!」

 なのはに呼ばれたのを機にヴィヴィオは来た時と同じように手を振りながらノーヴェ達に別れを告げた。母の元へと走るその後ろ姿はどこまでも元気なもので、それはいつまでも変わることはないだろう。

 「…………」 

 再び二人きりになり、ノーヴェは間をもたせるつもりが逆に変な沈黙を流し込んでしまった。相手は特に気にしてはいないようではあるが、このままでは彼女自身の決まりが悪く思えてしまう。

 しかし、意外にもその沈黙を破ったのはトレーゼの方だった。

 「少し、外す」

 それだけ言うと彼はベンチから腰を浮かし、少し距離を置いた所まで離れて行った。

 「?」

 しばらく懐から出した端末のような物を弄っていたが、三分もしないうちに彼女の元まで戻って来るなりこう言った。

 「急用が、出来た。そろそろ、行く」

 「へ? ……あぁそっか。悪ぃな、引き留めたりして……」

 「問題無い、今からでも、間に合うから……。じゃあ」

 「ん。またな!」

 「…………あぁ、近いうちに……いずれ」

 最後の方は小声で聞こえなかったが、ノーヴェとトレーゼはそれだけの言葉を最後に――、

 「……あいつ、やっぱりイイ奴」

 別れた。



 






 「第二地下ラボに、向かう、航空戦力?」

 『Hurry up.(急行せよ)』

 「了解。念の為、ガジェットドローン試作Ⅴ型の、起動準備を」

 『Yes,my lord.』

 「敵性戦力の、解析。移動速度、相対距離、魔導師ランク……全て」

 『Analysing now.(現在解析中)』

 「こちらも、情報の大半は、入手成功。最重要サンプル、“聖王の器”及び、最重要警戒対象の視察、同時終了。No.9『ノーヴェ』に関しては…………」

 『My lord?』

 「……現段階においては、不要。恐らく、計画に恭順する、意思は無い」

 『Disposai.(処理せよ)』

 「しかし、現状において、No.9ほどに、戦力となり得るナンバーズは、存在しない。入手した情報には、肉体増強レベルSランクは、No.3『トーレ』と、No.7『セッテ』のみ。現在、この二人は無人世界にて、入獄中……。ドクター、No.1『ウーノ』、No.4『クアットロ』に並び、救出は極めて、困難。現状での最大戦力は、陸戦特化型ナンバーズであり、肉体増強レベルAAAの、『ノーヴェ』のみ。故に、処分は見送る」

 『Give her a brain wash to recommend.(彼女に対する洗脳を推奨する)』

 「……いや、現段階では、不可能。もう少し、接触を重ね、心理的に距離を詰める必要性、有り。所詮、今日は、この為に接触しただけ、ただの足掛かりに、過ぎない」

 『On ready at the completion,carry into action.(では準備が整い次第実行せよ)』

 「承認」

 『How do you cope a caution target of supreme importance?(最重要警戒対象の対処はどうする?)』

 「作戦は、既に立案済み。問題は無い。それよりも、現在は、敵性戦力の、排除が最優先事項…………。マキナ、空戦態勢」

 『Yes,my lord.』

 「――ナンバーズは、所詮は機械。所有者であり、創造主であるドクターの、“道具”。道具に、自分の意思なんか、不要。ただ使われ、用済みになれば、抹消される……それが、俺達の、存在意義」



 






 時を遡ること十数分前――。地上本部の一室にて。

 「それで、話しとは何ですか? 通信では言えないとか……」

 フェイトとヴィータを除くヴォルケンリッターが一堂に会する中、呼び出した張本人は椅子から立つこともなく忙しく作業をしていた。

 「えぇ、急を要しましたから。忙しいのにいきなり呼び出してしまって……」

 「前置きはいい。それで用とは何だ、フィニーノ」

 椅子に座って黙々と作業を続けていた女性――シャーリーことシャリオ・フィニーノは眼鏡を上げながらフェイト達に向き直った。

 「実はたった今マッハキャリバーの修理が終わりました。それで、皆さんに……特にフェイトさんには伝えておきたいことがあるんです」

 「私に……? もしかして、例の解析結果がもう……!?」

 「そのこともですけど、実は話があるのはマッハキャリバーの方なんです」

 「え?」

 シャリオがそう言ったのと、彼女が懐から蒼いクリスタル型に待機したマッハキャリバーを出したのは同時だった。元々足を切り離されただけでクロスミラージュに比べて損傷が少なかったこともあり、そのフォルムは既に傷一つなく修理されていた。

 『実は戦闘中に幾つか敵の情報を入手しました』

 「敵方の情報をか? しかし、それならば我々ではなく上層部に提供すべきではないのか? 少なくとも、あちらの方が情報を欲しがっているはずだ」

 『いいえ、私の独断でこの情報は貴方達に知らせた方が良いと思ったのです』

 「どう言うことなの?」

 『それは話すよりも実際に見てもらった方が早いでしょう。シャーリー、お願いします』

 「わかった」

 シャーリーの細い指先がコンソールのキーを打ってコードを入力してゆく。すると目の前にホログラムスクリーンが表示されて見覚えのある場所が映し出された。

 「ここって……」

 「地下大型搬入通路?」

 確かにそこに映っている薄暗い光景はつい二日前にティアナとスバルが激闘を繰り広げ、そして撃退された場所だった。

 『この映像は私のAIがバックアップで残しておいた11月9日の映像です。今映しているのは相棒が救出に向かっている最中のものです』

 視界に映る壁や天井が高速で動いているのはスバルが高速で移動しているからなのだろう。しばらく同じ光景が続いた後に、やっと最後の角を曲がり目的地へと辿り着いた。

 そして、視界に入ってきたのは地面に這い蹲る傷だらけのティアナと、今にも彼女の首を切り落とさんとする敵の姿だった。それを認識した瞬間に映像が大きくぶれて、次に正常に映った時には既に敵は壁に強く叩き付けられていた。親友の危機にスバルが間に入って蹴り飛ばしたと言うのがすぐに把握出来た。そこからは報告にもある通り、スバルがティアナに対して応急の治癒魔法を使って彼女の救出に当たった。

 「報告ではこの直後に……」

 フェイトがそう言うのとほぼ同時に映像が切り替わって視界のすぐ横にティアナが映り込んだ。スバルが肩を貸して移動しようとしているところなのだろう。すぐに録音音声に入っていた四輪の駆動音が画面からも聞こえてきている。

 だが、次の瞬間にはタイヤの回転を無理矢理止められて不調を訴える音が耳を突いてきた。場面はそのまま周囲の状況確認へと移り替わり――、

 「!? シャーリー、一旦止めて!」

 「は、はい!」

 フェイトの大声で映像が停止した。

 「どうしたのだ、テスタロッサ?」

 「これを見て。拡大して」

 そう言われてシャーリーはすぐに指摘された部分の映像を拡大、解像度を上げることも忘れない。徐々に解像度の率を上げてゆき、そこに何が映っているのかがハッキリしてきた。彼女が指摘した箇所に映っていたもの……それは――

 「これは……!?」

 「魔方陣? ……いや、テンプレートか!」

 そこに映っていたのは見覚えのある幾何学的紋様、三年前までは敵同士であったナンバーズの面々が固有能力ISを発動させる際に発現させた疑似魔方陣だった。網膜細胞を刺激する真紅のテンプレートからは一筋の光の糸のような物が伸びていて、一目でそれがバインド系の魔法だと言うのも分かった。しかし、その真紅のテンプレートから放出されるそれにフェイトは見覚えがあった。

 「……かつてスカリエッティが使用したものと同系統の魔法!? 何故敵がそれを使用出来る?」

 「ううん、問題はそこじゃないわ。私もティアナの治療には携わったけれど、生身の人間がたった一発の殴打で人の肋骨を粉砕骨折できると思う?」

 「つまりは何が言いたいのだ、シャマル?」

 「現場には一切の魔力反応の検出は無し……明らかに人外レベルでの身体能力とIS…………これだけ言えば分かるはずです」

 「戦闘機人……。それもスカリエッティの製造理論によって生み出されたものか」

 シグナムの呟きが皆の耳に届く。

 全ての機人がISを使える訳ではない。ISとは即ち先天固有技能、それは読んで字の如く遺伝子上の関係で生まれながらに持ち合わせる所謂レアスキルの類である。ナンバーズのものはもちろんのこと、スバルの振動破砕然り、ヴィヴィオの聖王の鎧然り、フェイトやエリオがもつ魔力を電力に変える変換資質然り、アギトやシグナムの炎熱変換なども言うなれば一種の先天固有技能に当たる。これらは全てDNAに含まれる特殊な遺伝子が作用し発現することで能力として開花するのだが、彼女らナンバーズの場合は創造主であるスカリエッティが独自に編み出した生命工学と戦闘機人製造方法に基づいて造られている。そしてその方法によって生み出された機人達は皆例外なく活性化された特殊遺伝子を組み込まれており、その結果としてISを使用出来るに至るのだ。つまりは今画面に映っている敵方も彼女らと同じくその理論に基づき製造された可能性が限り無く高いと言う結論に至る。

 「このことを上層部には……?」

 「通達出来る訳がない。テスタロッサも、そのことで懸念しているのだろう?」

 「はい……」

 「そうですか。そうですよね…………映像、続けますね」

 そう言ってシャーリーは映像を再生させた。続きはスバルが敵のバインドに掛かってしまい、猛襲を掛けてきた敵からティアナを庇って彼女を突き飛ばした所からだった。しかし、そこから先はすぐに映像にノイズが走って二度と映ることは無かった。

 『あの後で相棒は一瞬の隙を突かれて昏倒、四肢を切断されてしまい私のAIも一時的に停止してしまいました。ですから、私がお見せ出来るのはここまでです』

 「いいや、敵の正体が知れただけでも大きな違いだ。礼を言うぞ、マッハキャリバー」

 「それなんですけど、これとは別件でフェイトさんに知らせておかないといけないことがあって……」

 「何なの、シャーリー?」

 フェイトが問うと彼女はすぐにデスクの引き出しから一枚の書類のようなものを取り出してきた。

 「以前頼まれた写真の解析処理の結果です。取り合えず写真の方を重点的にしたんですけど、薬品の浸食が意外に激しくて完全には処理し切れませんでした」

 彼女が渡したのはつい数日前に彼女が秘密裏に解析を頼んでおいたものであり、ヴェロッサが任務先で検挙したコクトルスのラボにあったものである。培養液の薬品によって劣化していた為にやむなく時間を掛けて解析することにしていたのだ。

 「これが……アコース査察官が言っていた……」

 そこに載っている写真には無表情極まりない一人の少年の顔が映っていた。確かに身体的特徴は以前彼が証言してくれたものと全く同じだった。金色の瞳と紫苑の短髪、そして陽光を知らない白磁の肌――全てが言っていた通りのものである。

 「…………この顔……」

 しかし、初めて見る顔のはずなのに彼女は強烈な既視感を覚えていた。以前――過去に何回か――それも極々最近に、自分は酷似した人間と顔を合わせている…………直感ではなくて本当にそう感じていたのだ。しかも何故だろう、その人物を思い出そうと記憶を探ると同時に強烈な苛立ちを覚えてしまうのだ、まるで、自分はその人間のことを無意識に避けているかのように……。

 「ん? どうかしたのか、テスタロッサ?」

 「いえ……何でもありません」

 「ならいいが……」

 『待ってください、得ることに成功した情報はこれだけではないのです』

 「まだあるの?」

 「はい。実はティアナの証言だと交戦中に敵がAMFを……それもかなり高濃度で強力なものを使用していたみたいなんですけど……」

 それはフェイトも直接彼女から聞いてはいる。カートリッジをロードしていなかったとは言え、彼女の魔力弾を一瞬で無効化して掻き消すレベルともなれば相当なものであるのは容易に想像がつく。

 「正確には……AMFに酷似した魔法を使用していたらしくって……」

 「酷似? AMFとは違うってこと?」

 「はい。ちょっと待ってくださいね」

 そう言ってシャーリーがマッハキャリバーの記録とは別に映像を映し出す。それはある規則的な波線形を描くグラフで、ここに居る全員は一目でそれがAMFの魔力波長を表したものであると勘付いた。

 「知ってると思いますけど、AMF――アンチ・マギリンク・フィールドは従来の魔導師や騎士たちが使用する魔力波長と全く正反対の波長をぶつけることで魔力結合や魔力効果発生を無効化するAAAランク魔法防御です。上手い具合に波長がぶつかり合えば、より効果的に相手を無力化して、理論上はリンカーコアに多少の影響を及ぼすことも出来るんですけど…………」

 さらに彼女はもう一つのグラフ映像を出してきた。

 「これは何とか生きていたクロスミラージュのAIから交戦のデータを取り出して解析を加えたものなんですけど……。もう、分かりますよね?」

 「あぁ……」

 皆が一様に頷く。そこに映っていたグラフは先に表示されたAMFのものに比べて乱雑で、規則性の欠片もない波長を示していたからだ。

 「これが交戦中に敵が使用した『AMFに酷似した魔法』の魔力波長です。一見別物の魔法に見えますけど、大まかな波長の振れ幅や仕様が共通していて全くの別物ではないんです」

 「明らかにガジェット等の機械が起こした単調なものではなく、人為的に出力調整がなされているな。下手に大出力で迫る機械共に比べるとこう言う奴は余計に性質が悪い」

 「あと……もう一つ気になる点が……」

 「まだあるんですか?」

 「はい。通常のAMFと大きく異なる点があって……。さっきも言いましたけど、通常のAMFは相手の魔法を無効化する為に魔力を外部に向けて放出、相殺させるのが目的の高位魔法です。それがこの場合、不思議なんですけど……魔力ベクトルが内側に向かって作用しているんです」

 「内側だと!? 外側ではなくて内部に向かって作用するなどと言うことがあり得るのか?」

 「いえ、もちろん外側に向かって作用している部分もあるんですけど、全体魔力量の約70%以上が内側のベクトルを向いています。おまけにこの魔法は解析していて判ったことですけど、常時微弱展開されていて、ティアナの魔力弾のように指向性のある攻撃がなされた場合にのみその方向へ出力を集中させることまで可能なようなんです」

 映し出された映像はマッハキャリバーのものに特殊処理を施したもので、不可視の魔力に着色処理が掛けられているものだった。ティアナを救出する場面の映像では敵の体の周囲を薄い真紅の魔力壁が覆っており、それが展開されている魔法だと分かる。

 「つまり、ガジェットのように垂れ流しにするんじゃなくて出力調整を行うことでエネルギー効率を改善しているってことかしら。だとすればこの戦闘機人にはAMFを展開させる為にガジェットと同じように魔力結晶が……?」

 「いいえ、現在解析されている限りでは体内に魔力結晶が埋め込まれている様子はありませんでした。代わりに内包している魔力値がとんでもなく大きかったですけど……。恐らく、ギンガやスバルみたいにリンカーコアを持ち合わせた人造魔導師的な存在なのではないかと」

 「やっかいな相手だな……。相手が戦闘機人、それもスカリエッティ製のものとなると迂闊に上層部に通達するわけにもいかんからな。かと言って、ここまで大事になってしまったからには秘密裏に捜査を進めると言うのも難しい話ではあるが……」

 手っ取り早い話が現状では下手に動かずに様子を見るより他ないと言うことだった。今はただ静かに相手の出方を静観するしかない。

 『…………すまないが、少し良いか?』

 すると今までずっと沈黙を保ってきたザフィーラが念話で言葉を投げ掛けてきた。

 「どうしたの、ザフィーラ?」

 『うむ、先程の……コクトルスで査察官を襲ったと言う奴の写真を見せてもらえぬか?』

 「構わないけど……」

 フェイトはすぐに守護獣形態の彼に見えるように腰を屈めて写真を見せた。改めて見ると写真は所々が薬品の効果が抜け切らずに滲んでいる箇所がまだ目立っていた。しばらくその写真を見つめた後、彼は今度はシャーリーに向き直った。

 『マッハキャリバーの映像をスバルが急襲された所まで早送りしてくれ』

 「あ、はい」

 ザフィーラの要求に彼女も素直に応える。すぐに映像を問題の場面まで進ませる。

 「これでいいですか?」

 『いや、もう少し……あと数秒程…………そこだ!』

 彼が最終的に停止したのはスバルが倒したはずの敵を目視、ティアナを突き飛ばした場面であった。

 「ここがどうか……?」

 『そこだ! そこの敵のフードの隙間を出来るだけ拡大してくれ』

 そう言われてすかさずその部分の拡大に移る。拡大した始めはモザイク画のような映りとなっていたが、すぐに解像度処理がかかりその部分の詳細が明らかとなり――、

 「これは……!?」

 「まさかな……」

 『やはり、そうであったか』

 そこに映っていたもの、フードの隙間から覗く金色の眼光と紫苑の髪――紛うことなくそれは写真の人物そのものだったのだ。



 そしてその場に居た全員が驚愕の相を示したのと、シャマル以外のヴォルケンリッターに管制室からの招集命令が下ったのはほぼ同時だった。



 






 そして――、時と場所は移り変わる。

 クラナガンから離れた廃棄都市区画。今では使われることもなくなってしまったビルが立ち並ぶこの場所は、かつて何度も戦いの場所にもなっていた所だ。既に放棄された場所なので全壊した建物は修理されることもなく、当時の爪痕を生々しく残したままだ。

 そんな灰色砂漠の上空に人の形をしたものが三つ確認できた。いや、それらは本当に人間の姿をしており本当に両足を地に着けることなく地上から離れた空の上で直立していたのだ。三人が三人とも変わった意匠の服に身を包んでおり、唯一の男性を除いては二人とも手に武器を構えていた。

 「それで? 問題のエネルギー反応があったのはどこなんだよ」

 その内の一人、一番年格好が幼い少女がぶっきらぼうに聞いてきた。目に痛い程に強烈なスカーレットの衣装――バリアジャケットを着込み右手には無骨な彼女のアームドデバイスである『グラーフアイゼン』が握られている。

 「管制室からの指示ではこの辺りで反応があったらしいが……。その反応自体が途中で途切れているらしい」

 「ようするに、尻切れトンボってことか。上の奴らの索敵なんてたかが知れてるな」

 「口には気をつけろヴィータ。我々の精神リンクは主はやてではなく局のシステムに直結されている。ここでの会話は全て管制室に届いているのだぞ」

 唯一非武装の男性は徒手空拳の手錬なのか両手に重々しい篭手が装着されているのが分かるが、それよりも目を引くのが肌色の皮膚の代わりに蒼い毛が生えて先端が尖っている獣の耳だった。どうやら偽物ではないらしい。

 最後の一人は白銀の長剣を腰に差した麗人だった。束ねられた桃色の長髪が風に揺れている姿が古代の戦乙女を連想させる美しさを醸し出す。

 彼らこそ最後の闇の元保有者にして夜天の主、八神はやてに忠誠を誓いし人の形をした人成らざる者達――守護騎士『ヴォルケンリッター』である。数百年の長きに渡る悠久の時を存在し続けてなお人間の心を持つ彼らからは歴戦の戦士としての威厳と風格が漂い、ここが古代ベルカの戦場ならば間違いなく敵味方問わず畏敬の眼差しを以て見上げられていたはずだ。

 しかし、今や彼らは主であるはやての指揮下から強制的に外され、半ば互いに互いを人質にされた状態で上層部の都合の良い駒へと成り下がってしまっている。

 「んなこたぁ分かってるって。さっさと潰すモン潰してはやてが一日でも早く帰ってこれるようにするよ」

 「さすれば、今やらねばならぬことは一つだ」

 「あぁ。今はただ大人しく、それでいて迅速且つ正確に与えられた任務をこなす。それが今の我々の成さねばならぬことだ」

 だがそれでも彼らの固い結束と主に対する熱い忠誠心まで譲った訳ではない。闇の書が消滅して、プログラムではなくなってその肉体は徐々に人間に近付く度に昔に比べて脆弱になってしまってきたいるが、そこまで落ちぶれる程にまで地に堕ちた訳ではないのだ。

 「管制室、指定ポイントはここで間違いないか?」

 すぐにスイッチを切り換えてシグナムは地上本部の管制室に連絡を取る。既に現場周辺に到着してから十分が経過してその間ずっと探知魔法や探索を行ってはいるが、出動前に通達されたようなエネルギー反応は何一つ感知出来なかった。

 「おいおい、まさかカラ出撃でしたなんてオチじゃねーだろーな?」

 「だが局はこの廃都市区画で正体不明の反応を検知したと言っている。まさか嘘は言わんだろう」

 ザフィーラの言う通りだ。いくら彼らが局内で毛嫌いされているとは言えここまで露骨ないやがらせはしないだろう。



 しかし――、



 「――ん、おい! 管制室、応答せよ。こちら首都航空隊第14部隊副隊長、シグナム二等空尉だ!」

 「どうした、シグナム?」

 「おかしい……本部との通信が途絶えた」

 「はぁ? ……………………ほんとだ、繋がらねぇ。何でだよ!?」

 突如として地上本部との通信が完全に遮断されてしまったのだ。何の前触れも警告も無しに唐突にだ。通常有り得ることではない、何かあったのではないか。

 「控えの後続部隊とも駄目か……。取り合えず、ここは私が一旦様子を見て来よう。お前たちは引き続きここで警戒と探索を頼んだ」

 シグナムが髪を翻し、空中で踵を返す。ここから後続部隊が控えている所まではざっと数百メートル、彼女のスピードならばものの数分で急行出来るはずだ。

 いざ行かんと彼女が足元に推進用の魔力を集中させたその瞬間、

 「シグナム! ヴィータ! 散開しろ!!」

 響くザフィーラの怒号、それと同時に三人は一斉にバラバラの方向へと飛び跳ねた。

 ――そして、彼らが回避したのと、その間を天空から降り注いだ真紅の破壊光が貫いたのは同時だった。

 「何者だ!」

 「敵に決まってんだろ!」

 「だが、探知魔法には何も……!」

 三人は混乱しながらも一斉に攻撃が飛来してきた上空を仰ぎ見た。始めはどこに居るのか分からなかったが、目を凝らすことによってようやく対象を確認することができた。

 それは荒野を歩く死神の如く全身を黒く巨大な布で包み隠した人影であり、その隙間から見える足首には紅いエネルギー翼が展開されていた。そして一番目立つのが相手が構えている長大な武装だった。明らかに自分よりも大きくそして重量もあるはずの黒光りする砲身を片手だけで持ち上げており、こちらに向けられている銃口からはまだ熱い煙が吹き出ているのが分かる。

 「あいつ……何モンだ」










 「IS、No.10『ヘビィバレル』、解除。指定区域全域に、プリズナーボクスを、発動」

 『Yes,my lord.』

 少年の持つ巨大な砲身から電子音が聞こえてきた。次の瞬間にそれは黒い金属立方体へと変貌し、その手に収まってみせた。とてもあれだけの質量とサイズが収まっているとは思えない程の変わりぶりだが、今はそんなことを指摘している場合ではない。

 「敵性戦力の、魔導師ランクと、戦闘スタイルは?」

 『Near“S”. Battle style is“BELKA ”. (ニアSランク。戦闘スタイルはベルカ式)』

 「……純粋接近戦特化型。現状では、直接戦闘は、得策ではない。マキナ、作戦変更、第二地下ラボは、破棄する」

 『Are you OK?(よろしいのですか?)』

 「代わりに、ガジェット試作Ⅴ型は、第一ラボへ転送。転送魔法発動まで、ここで抑えれば、いい」

 『Estimate the required time is about ten minute.(推定所要時間は約十分)』

 「問題無い。マキナ、『フローレス・セクレタリー』、『ライドインパルス』、『シルバーカーテン』、『ツインブレイズ』……この四つは、常時発動。高濃度AMFも、展開。後は、状況に応じて、使用する」

 『Yes,my lord.』

 立方体がそう電子音で応えるのと同時に少年はマントの下から二振りのスティックを取り出した。構えると同時にエネルギーが集中し、紅いレーザーの刀身が伸びるそれはかつてナンバーズNo.12のディードが使用していた武装と全く同種のものだった。

 「No.13『トレーゼ』、目標を、『眼前敵の完全沈黙・または制限時間までの耐久』と、設定。ストレージデバイス、『デウス・エクス・マキナ』に、リンカーコアの、第一拘束制限術式の限定解除を、申請する」

 『Approval.“――”limit releace.(承認。『――』の制限を解除する)』

 空中で待機するその足元に真紅の多重円形幾何学紋様が展開される。その足首から発生している鋭利なエネルギー翼が同じようにして両手首にまで発生、凶悪な空を切る音が辺りに響く。

 「交戦、開始」

 『Drive ignitio』










 一方では構えた黒衣の敵を下方から凝視していたヴォルケンリッター達が相手が構えの取ったのを見て、こちらも臨戦態勢へと突入した。

 「今は相手が何であろうと構わん! この状況で敵対する意思を見せるなら、それは敵だと言うことだ!」

 「そうだな! いっちょ、やるか!」

 ザフィーラが拳を握り締め、シグナムとヴィータがそれぞれ『レヴァンティン』と『グラーフアイゼン』を構えてカートリッジをロードした。周囲に廃気孔から吐き出された白い蒸気が充満する。

 「行くぞぉ! 夜天の主に仕えし守護騎士、ヴォルケンリッターが一角! 『盾の守護獣』、ザフィーラ!!」

 「同じく、『烈火の将』シグナムと、我が魂『炎の魔剣レヴァンティン』!!」『お任せください、我が主!』

 「同じく! 『紅の鉄騎』ヴィータと! 『鉄の伯爵グラーフアイゼン』!!!」『了解した』

 三者三様、十人十色。明確な宣戦布告を以て、今――、

 「「「参る!!!!!」」」

 戦いの火蓋は切って落とされたのだった。



 






 同時刻、先端技術医療センターの集中治療室にて。

 「あの、ヴァイス陸曹……本当に良かったんですか?」

 「ん~? 何がだ?」

 センターを訪れていたヴァイス・グランセニックとティアナ・ランスターは、現在二人きりでこの空間に居た。密室で二人の男女が……と言うと何やら雲行きが怪しく思えるが、別に逢瀬でこんな殺風景な場所まで来る訳も無く、ここに来た理由は……

 「わざわざ私の検診に付き添いで来て頂いて……」

 「良いってことよ、気にすんな。こっちもJ・S事件やマリアージュ事件が解決しちまって、武装隊としてもヘリパイロットとしても仕事が全然なくて暇だったんだ。それに、お前もこんな体じゃ満足に動けないだろ?」

 そう言って笑うヴァイスは今、彼女の丁度背後に立っていた。ただ立っているのではない、車椅子に座っているティアナを後ろから支える為にこうして手を貸しているのだ。二日前に彼女が怪我を負って、その翌日には無理を押して復帰した時からずっと付き添いでサポートを行ってくれている彼は自分の時間の大半を彼女の為に費やしてくれていた。実際彼が言うように武装隊の仕事は殆ど無いに等しいのだが、パイロットの仕事はそうでもない。物資や要人警護に犯人の護送などがあり、やることは山積みなはずなのだ。それなのに献身的に支えてもらっており、ティアナ自身としては感謝してもし切れないばかりだった。

 「でも……ラグナちゃんは放っておいたりしていいんですか?」

 「それなんだよな~。実はさ、お前が大怪我したってのを知ったら、あいつ凄い剣幕で俺に怒鳴ってきたんだよな~」

 「何て言われたんですか?」

 「ん~とな……家に帰って早々、『ランスターさんの所に行かないでどうして戻って来たの!!』って言うんだ。一応見舞い代わりに顔は見せたって言ってやったら、『そんなのじゃなくてちゃんと傍に居なきゃダメでしょ! ランスターさんは体が不自由なんでしょ? だったら付き添いとかしなきゃダメ!!』ってよ……」

 「は……はぁ?」

 「『私よりも、お兄ちゃんはランスターさんを大事にしてあげて!』だってよ。どーゆー意味かさっぱりなんだけどよ~、あいつってあんなにお前に懐いてたっけ?」

 「さぁ? 何度かラグナちゃんには会ってますけど、別に嫌われた様子は全然ありませんでしたけど……」

 「だけど、『私よりもランスターさん』ってのが引っ掛かるんだよな。この前もお前と一緒にツーリングしに行く予定だったときも、朝叩き起こされたしな」

 「そ、そうですか……。それは……まぁ、災難でしたね……」

 ティアナはここには居ない彼の妹に賛辞を述べた。そして思う、彼女は歳の割には出来た子であるとしみじみ感じた。彼女の想い人はそれ位してもまだ自分の『本心』に気付いてくれない程の朴念仁なのだ。思い出すだけで何故か涙が出て来てしまうのは花も恥じらう乙女の今までの苦労が密かに語られているのを示していた。

 「ん? どうした、具合でも悪いのか?」

 「いいえ……何でもありません…………」

 つい今までのことを振り返って涙してしまったが、なんとか悟られずにすんだ。そして、小さく誰にも聞こえないように「バカ……」と呟いたのだった。

 「さぁ~てと、検診も終わったことだし、そろそろ戻るか」

 「あ、待ってください。まだスバルの面会が残ってますから、そっちを済ませてからにしてください」

 「そうだったな。ほらよっと!」

 「うわわ!? もう少し丁寧に動かしてくださいよ!」

 「わりぃ、ちょっと加減間違えた」

 「もう……」

 ヴァイスに車椅子を押してもらい目的の場所まで二人は一緒に行くことにした。だが車椅子に乗っている彼女からしたらすぐ背後に想い人が居てくれているのは安心出来るのと同時に常時緊張状態に陥ることでもあり、自分でも血圧と脈拍が急上昇しているのが手に取るように分かってしまっていた。彼はどう思っているのかは知らないが、少なくともこちらとしては気恥かしさがピークに達したままで、このままではどうにかなってしまうのではと本気で考えてしまう。途中で誰でも良いからすれ違わないかと思って周囲を見渡しても……

 (何でよ…………)

 本日晴天なり。窓からは眩い陽光が差し込んでさえずる鳥たちも見えているのに、何故かこの通路には誰一人として居なかったのだ。いつもは忙しく医療スタッフが行き来しているはずなのに……

 (どうしてこう言う時に限って……!)

 途中で階を移動するのに乗り込んだエレベーターですら当然と言わんばかりに二人きり。もうこのまま面会時にまで二人きりだったら血圧上昇で古傷が開いて入院……などと考えていた時に、

 「お? 先に来てる奴がいるな」

 神は居た。面会ルームに入ると、そこには三人の先客が居たのだ。それも三人とも良く知っている人物ばかりだった。

 「なんだ、お前らも来てくれていたのか」

 「ティアナじゃない。会うのっていつ以来かしら?」

 『久し振りだなランスター。それとグランセニック。と、我がマスターは申しております』

 白髪頭の壮年男性――ゲンヤ・ナカジマ。深い藍紫色の長髪を靡かせて微笑む女性――ギンガ・ナカジマ。そして彼女の婚約者にして陸士108部隊のエース――カイン・ヤガミ。ナカジマ家の見知った面々を目にして、ここに来て初めて彼女は真の落ち着きを得ることに成功したのであった。

 「はい、お久し振りです。ゲンヤ・ナカジマ三等陸佐、ギンガ・ナカジマ陸曹、カイン・ヤガミ一等陸尉」

 「お前さんも相変わらず固い奴だなぁ。仕事場じゃねーんだからイチイチ名前に階級付けて喋らなくて良いんだぞ?」

 「いえ、やはり直接ではないとは言っても上司ですから」

 「ま、いいけどな。ここに来たってことは……お前さんもうちのスバルの見舞いに来てくれたってことか?」

 「はい……」

 「ありがとうね、ティアナ。私達よりも、やっぱり友達が来てくれた方があの子も喜ぶかも知れないわ」

 そう言ってギンガの視線がある一方を向いた。それに伴って全員が同じ方向へと目を向ける。その方向には壁に大きなガラスが嵌め込まれており、この部屋全体が隣の部屋の様子を一望できると言う造りのもので問題の隣室からは電灯の光が溢れていた。その部屋をもう少し良く見てみると、様々な機器が清潔感ある白い空間を所狭しと占領しているのが分かり、その中心に――、

 「スバル……」

 白いシーツの敷かれたベッドの上で昏睡する藍色の髪の少女――スバル。微動だにしない彼女の口元には酸素マスクが取り付けられており、マスク内にこもる吐息が水蒸気となっているために彼女が辛うじて生きているのが見てとれる。しかし、眠っている彼女のベッドから少し距離を置いた位置に安置されている強化ガラス製の密閉ケースには本来彼女の四肢を担っていなければならないはずの物体――手足が入っていた。腐食などが進まないように右手と両足がそれぞれ液体保存剤の中に封入されているが、切断面からは骨ではなくて機人特有の金属と機械のフレームが生々しく飛び出していた。恐らくは彼女の体のほうの切断面も同様のことになっているのだろう。

 「…………だから俺は入局には反対だったんだ」

 ゲンヤの苦々しい呟きが耳朶を打つ。しかし、そんな彼の呟きもガラス越しの娘にまでは届くはずもなく、二日間生死の境を彷徨っている彼女の精神を覚醒させるには至らなかった。

 「……担当医さんの話しだと、峠は越えたらしいんだけど……目覚めるにはまだ時間が掛かるって……」

 「……そうですか。…………やっぱりあんたはバカよ、格好つけて私なんか庇ったりするから……。先に戦ってた私より、助けに来たあんたの方が重傷って…………」

 あの時、自分が苦戦などしていなければ……。

 そう考えるティアナは傷口が痛むのも忘れて静かな怒りと自責の念から拳を強く握り締めた。

 『四肢の件については第一優先で治療が進められてはいるらしいが、ハッキリ言って完全復帰の見込みは限り無く薄いそうだ。と、我がマスターは申しております』

 「え!? それってどう言う……?」

 「これが普通の人間の手足なら時間を掛ければ問題ないんだ。……ただ、スバルやギンガのように生身の部分と精密機械がここまで緻密に融合してると、完全な再生は凄く困難らしい」

 「単純に肉体医療と機械工学の両面から考えても、機械部分の部品交換や修理、切断された血管とか神経も正確に繋げて、その上で基礎フレームの電気信号を伝達させる為の電子回路まで完璧に接続させるって言うのは…………今のミッドの技術では限り無く不可能だって言われてるの」

 「それじゃあ……もしこのまま目が覚めても、スバルは……」

 「一生左腕だけだろうな。義肢は付けるのかも知れんが、どの道そんな体じゃ防災課のチームからは確実に降ろされるな」

 災害を未然に防ぎ、それで困っている人間を救う――。それはスバルが何にも譲れない望みであると同時に目標だったはずだ。それが叶えられ、彼女は大きく羽ばたいている長い道程の最中だと言うのに、その努力はこんな所で無残にも断たれてしまおうとしているのだ。腐れ縁の親友として、共に戦い抜いた戦友として、そして彼女を一番近くで見てきたティアナにとって、その事実は我が身に起こった出来事のように辛く彼女の心を蝕んでいた。

 「……お前さんが気にした所でどうしようもねぇ。そんなことよりも、今はあいつに感謝してやってくれないか。その方があいつも喜ぶからな。…………ところで、傷は大丈夫なのか? さっきから気にはなっていたんだがよぉ……?」

 「あぁ、はい。一応大丈夫です」

 「一応……?」

 ゲンヤ達が怪訝な顔をしたままなので、口で説明するよりも実際に見てもらった方が早いだろうと言い、彼女は行動に移した。いきなり胸元のチャックに手を掛けると、それを下手に刺激しないようにゆっくりと降ろし始めたのだ。思わず倫理的に目を逸らさなければいけないように感じてしまうが、問題は制服の下に隠されていたものだった。

 「まぁ、こんな感じです」

 彼女の両胸はブラジャーではなくて、素肌に直接包帯を巻き付けた所謂サラシの状態となっていた。それはそれで扇情的ではあるが、注目すべきはそこではない。その胸部の丁度中心に輝いているのは魔方陣――鮮やかな青磁色をした掌大のベルカ式魔方陣がゆっくりと回転しているのだ。その光を見ていると疲れが無くなるように感じるのはこの魔法が強力な治癒魔法だからだろう。

 「シャマルさんのお手製です。なんとかこれで痛覚を誤魔化して細胞を活性化させて無理のない自然治癒を行っている最中なんです。たまにちょっと痛い時がありますけど……」

 「心配すんな。その為に俺が付いてるんだからよ」

 すぐ後ろからヴァイスが「任しとけ!」と言わんばかりに胸を張る。こう言うときは頼りになると分かっているので彼女は素直に任せることにした。伊達に六課時代に背中を預けた訳ではないのだ。

 「とにかく、こいつが目ぇ覚ましたらどうするかだ」

 『いくら根が明るいポジティブさがあるとは言え、自分の夢が潰えたとなれば立ち直れるかどうか分からん。と、我がマスターは申しております』

 確かに彼らの言う通りだ。如何に底抜けに明るい性格のスバルとは言え、今度ばかりは大丈夫でいられるかどうかは自身がない。

 そんな中で、ティアナはさっきからずっと黙って妹の様子を見ているギンガへ目が行った。いや、良く見ると彼女はじっと自分の左手を穴が開く程見つめているのだ。

 「どうかしたんですか? 具合でも……?」

 ヴァイスに車椅子を押してもらって彼女に接近すると、ギンガのほうからおもむろに手を差し出されてきた。余りに唐突だったので一瞬仰け反りそうになってしまったが。

 「ところで、私の左手を見て。これをどう思うかしら?」

 「すごく……綺麗です」

 確かにギンガの手はデバイス上の関係から両腕をかなり酷使するはずなのに、シミや汚れ一つ見当たらない。単に綺麗好きなのか戦い方が上手いのかのどちらかだろうが、今この場面でそんなことを聞いてくる理由が分からなかった。

 「ありがとう。……………………やっぱり、あの人しか居ないのね……」

 「え……? それってどう言う意味ですか?」

 ギンガの呟きをティアナは聞き逃さなかった。すぐに彼女の口から発せられた「あの人」と言う単語が引っ掛かる。

 「…………ひょっとしたら、スバルの手足……完全に治せるかも知れない」

 「何だって!?」

 「おいおい! それは本当か、ギンガ!?」

 今度はゲンヤとヴァイスも同時に反応した。それに彼女は今何と言った? ――スバルの手足を治せる可能性がある、と言わなかったか!? だが彼女はこんな状況で嘘や冗談を軽々しく口にするような人間ではないことは重々承知している。何の根拠も無しにこの様なことを喋った訳ではないだろう。

 しかし、ミッドの医療技術と機械工学の粋を決したとしても困難極まりないと言うのに、「完全に」治せる人間がこの世に居るはずがない。所詮は苦し紛れの戯言なのかと失望しそうになっていたが、その時カインも進み出てくるなりこう言ったのだった。

 『奇遇だなギンガ、実は俺にも一人だけ心当たりがある。と、我がマスターは申しております』

 「それマジかよ? 一体誰なんだ?」

 「…………確証が無い上に、今はミッドには居ません」

 「他の次元世界に居るってことか? なら管理局権限とか何とかで呼び出せば……」

 『いや、今となってあいつに頼るのはかなり難しい問題だ。下手をすればミッドの治療で完全治癒するのと同等に困難だろうな。と、我がマスターは申しております』

 「そうね……。せめて、はやてさんの助けがあれば……」

 そう言って再びギンガは自分の左手を見つめ直した。

 かつてナンバーズに切断され、今は傷一つ無く再生した自分の左手を……。

 『…………義姉さん、貴方はこんな所で潰える人間ではない。と、我がマスターは申されております、はやて様』



 






 「ラケーテン……!!」

 アイゼンの先端、鎚の部分が変形して無骨な推進機構が露わになった。魔力を燃焼させて出る強力なジェット噴射で一気に加速・回転して小さな体躯から生み出される莫大な遠心力の全てを突貫力へと変換させて――、

 「ハンマァアアアアアアアアアアアアアーーーーーーーーッ!!!」

 ベルカ墨付きの破壊力を誇るヴィータの十八番、【ラケーテンハンマー】が大炸裂。ひび割れたアスファルトの大地を完全に崩壊させるには充分過ぎるエネルギーを周囲にブチ撒けて見せた。

 爆音にも似た轟音の後で撥ね上がるアスファルトやコンクリートの細かい瓦礫、そして辺りを覆い隠す程の砂煙。それだけで彼女の実力の一端が覗える。

 しかし、灰色の煙を引き裂いて一筋の影が飛び出てきた。それは空中を鼠花火か何かのように複雑な軌道を描きながら高速で移動し、彼女との相対距離を離す。

 「くっそ! ゴキブリみたいにチョロチョロしやがって!」

 「開戦から既に数分……相手にただの一撃も与えられていないぞ」

 「分かってるけど、あいつがすんげぇ速く動くから……」

 「確かにそうだな」

 ヴィータの言い訳も無理はない。黒衣の敵は二本のブレードを構えてこそはいるが、一撃必殺の威力をかまして来るヴィータの攻撃を全て寸前の所で回避し、自身は精々いなす程度にしか武器を使ってこないのだ。そして一番の問題はその回避速度である。単に素早いだけではないことはもちろん、単純なその速度は戦士として鍛え上げられたヴォルケンリッターの視認速度を遥かに凌駕していた。現時点では辛うじてシグナムが追える程度であるが、彼女もまた相手のスピードは周囲の音を置き去りにしていると既に感付いていた。ベルカの騎士として生きて長いが、その長い戦いの人生において音速を超えた者は数える程しか居らず、その中には自身の生涯の好敵手であるフェイトはもちろん、彼女の息子分であり自身の一番弟子でもあるエリオも含まれている。だが――、

 「あれはもうエリオのソニックムーブの域を超えている。…………ならば」

 興奮して息巻くヴィータの前にシグナムが進み出て、その手にレヴァンティンを構える。かつて十余年前に当時9歳だったフェイトと刃を交えた自分ならばと、代わりに臨戦態勢を取る。

 「邪魔すんなよ、シグナム!」

 「落ち着け。お前はこの間奴と刃を交えていると言うのに気が付かないのか?」

 「何がだよ?」

 本当に分からないと言いたげなヴィータの表情にシグナムとザフィーラは盛大に溜息をついた。

 「いいか? 相手を良く見てみろ」

 「ん~? ……がたいからして、男だな」

 「そうではない。今こうしていても相手は全く仕掛けて来ないだろう?」

 言われて初めて彼女はその事実に気付いた。確かに敵は常に自分達と一定の距離を保ち、一応警戒はしているようだが決してあちらからは手を出しては来ないのだ。

 「あの手の敵の真の狙いは決まっている。時間稼ぎだ、自分の目的を終えるまでのな。恐らく、目的を終えると同時に姿を暗ますだろう」

 そう言いながらシグナムはカートリッジをロード、レヴァンティンの白銀の刀身に魔力を含んだ劫火が纏わりつくのを確認すると静かに攻撃の構えを取る。周囲に満ちる冬の寒波を押し切る程の熱エネルギーが素肌を痛く照らし出す。

 「一撃のもとに屠ることが出来ぬなら、回避出来ぬ速度と手数を以て――」

 集中、狙い定め、捕捉、駆ける!

 「押し切るっ!!」

 推進用魔力を足に纏いて加速、空を駆ける一陣の風となりて戦乙女は眼前の敵に迫った。当然相手は回避体勢を取るが、既にその身は彼女の制空圏へと入り込んでしまっている。

 劫火を纏いし炎の魔剣を振りかざし、シグナムは必殺剣を放つ。

 「紫電……一閃!!!」

 “動くこと雷挺の如し”。しかし、その実態は雷にあらず。纏いし炎は赤竜の火炎よりも熱く、その剣捌きは煌く光の如し。天の雷に匹敵する威力とその眩い閃光に似た刀身の輝き――それこそが彼女の必殺剣、【紫電一閃】の真髄なのだ。切っ先が擦れただけでも大木は消し炭となり巨岩は両断される……そんな攻撃を真に受ければ如何に鋼鉄に並ぶ防御を以てしても、完全に威力を殺し切るのは至難の業だ。

 しかし、

 「くっ……!」

 彼女は現状に苦々しい表情をした。それもそのはず、切れぬ物など無しと自負していたレヴァンティンの刃は、あろうことか敵の手に鷲掴みにされて逆に捕えられてしまっていたのだから。その力は凄まじく、歴戦の戦士である彼女が両手で踏ん張ってもビクともしないのだ。

 「…………マキナ、解析」

 『Yes,my lord.』

 「!?」

 突如耳についた敵方の声と奇怪な電子音。何を言い表しているのかは分からなかったが、危険を察知してすぐに身を引こうとする。

 「逃がさない」

 だが、敵の腕力は想像以上に強く、彼女の全力でも全く動じようとはしてくれない。そればかりか逆にその圧力をどんどん高められているのだ。レヴァンティンの刀身からは枯れ枝でも折るかのようにミシミシと嫌な音が容赦なく響き、それは当然シグナムの耳にも届いている。

 「くぅ! この……離せ!」

 『My lord,finish to analysis.(解析が終了した)』

 「報告、せよ」

 微動だにしないまま、敵は自分のことなど眼中に無いかのように事を進めて行く。良からぬことを企んでいるのは確実だが、自分だけではどうすることも出来ない。

 「シグナム! 待ってろ、すぐに……!」

 背後からヴィータとザフィーラが助太刀せんと接近する気配を感じた。敵同士でも一対一の決闘形式を重んじるシグナムではあるが、窮地の今となってはそんな流儀を意固地になってまで通す訳にはいかない。ここは素直に感謝すべきだろう。



 「AMFバインド」

 『Yes,my lord.』



 囁くような声と共に背後から届く重苦しい感覚。瞬時に彼女の肌が、かつてホテル・アグスタ防衛戦において敵のⅢ型ガジェットと相対した際にその身に感じたモノと同質の魔法であると解析する。しかし、それが分かった時には既に手遅れだった。

 「何だよ、このバインド!」

 「魔力糸がAMFで構築されているだと!? 不味い! このままでは……!」

 「ヴィータ! ザフィーラ!!」

 背後では全身を紅い拘束糸によって緊縛された二人が徐々に力無く高度を下げていっているのが見えた。虚空に浮かんだ多数の小型テンプレートから伸びる大量のバインド、一本一本が強力なAMFで構築されているそれを真に受ければ周囲に纏った魔力は分解・無効化され、やがては地に落ちるだろう。いくら人間離れしているとは言ってもこの高さから落下するのだけは避けたい。

 だが、背後の仲間の危機に注意を向けてしまっていた気付かなかった。

 その眼前から鋼鉄の鉤爪が迫っていることに……。

 「ぐあっ!!?」

 突然頭を襲った衝撃に戦乙女は悲鳴を上げる。明らかに人間の力を凌駕したその圧力に、シグナムの頭部の奥からも嫌な悲鳴が上がるが、右手にレヴァンティンを構えたままでは抵抗のしようがない。両手でも大地の割れ目に刺さってしまったかのようにビクともしなかったものが、今更片手だけで対処出来るはずがないのだ。

 「この……っ!!」

 冷たく嫌な金属の感覚から必死で逃れようと首を振る。だが、黒腕の五指から生えた鉤爪が頭髪と頬に食い込み、それを許さない。

 こうなれば最終手段。騎士であり正々堂々を旨としている彼女には有るまじき選択だったが、マントを纏った敵の胴体に渾身の足技を見舞ったのだ。剣ばかり振るっているイメージこそあれど、何も鍛え上げられているのは両腕ばかりではない。数多の戦場を駆け抜けた両脚こそが彼女にとっての騎馬であると同時に槍なのだ。空中で片足立ち体勢の後、太腿の筋肉のバネを最大活用し、一気に前方敵の腹部目掛けて放った。

 しかし――、

 「な……に!?」

 確かに自分は黒衣の奥にある肉体に蹴りを入れ、手応えもあった。だが……

 「……腹部に、物理的ダメージ。行動に支障、無し」

 硬いのだ。常人ならば触れた瞬間に慣性の法則に従って吹き飛ばされる程の威力で蹴ったにも関わらず、マント越しに足先を伝ってきた感触は限り無く硬い鉄のようなモノで、聞こえて来た相手の声も何事も無かったかのような口振りだった。

 「マキナ、『あれ』を発動」

 『Yes,my lord.“Drain-Magilink-Field”,invoke.(ドレイン・マギリンク・フィールド、展開)』

 「な、何を…………ぐぅああっ!!?」

 シグナムは自分の頭を押さえる敵の掌中から不審な魔力を感じた次の瞬間、何と一瞬で放出されていた魔力が一気にベクトルを反転させるのを感じた。その勢いは凄まじく、相手側が放出していた分はもちろん、あろうことか接触面からリンカーコアに干渉し、シグナムの分の魔力まで吸い取ろうとしているのだ。かつて闇の書の蒐集を受けた時と同じように急激に干乾びる彼女の魔力核はすぐにレッドラインへと突入し、薄れ行く脳裏に警鐘を鳴らすが、既に肉体末端の魔力回路は枯れた井戸水の如く消失しているのが分かった。

 (このままでは……!?)

 窮鼠何とやら。消失寸前の体力と魔力、そして全体重を再び脚に込めて、敵の腹部へと撃ち放った。

 「む……」

 小さな声と一緒にレヴァンティンと頭を鷲掴みにしていた手の握力が揺らぐ。

 その隙を彼女は逃さない。さらにもう一発蹴りを入れて距離を離し、方向転換、そして急降下。何とかギリギリではあったが、バインドを全て切り伏せて地面に接触する直前に二人を助け出すことに成功した。

 「ありがと、シグナム」

 「礼には…………及ばん……」

 一旦三人は地面に降り立ったが、シグナムが思わず片膝を付くのを見てザフィーラは駆けよって肩を貸した。

 「すまない……」

 「何があった? お前らしくもない」

 「…………魔力を……触れただけで持って行かれた」

 「はぁ!? 蒐集じゃねーんだぞ、んなコトあるもんか!」

 「詳しいことは……分からんが、あの時…………敵の魔力ベクトルが反転した。恐らく、その時に魔力が共鳴反応を起こして……」

 「魔力ベクトルの反転……紅いテンプレートに、シグナムの蹴りでも応じない肉体……そしてあの腕力…………シグナム」

 「あぁ、間違いない……顔こそ見えんが、奴は戦闘機人……それも二日前に地上本部を襲撃した者と同一人物と見て間違いはないだろう」

 一同は再び上空の敵に向き直る。やはり相手からは仕掛けては来ないが、逆に逃亡もしない。じっとこちらを警戒しているようだ。

 始めにテンプレートを目にした時からもしやとは思っていたが、この短い期間でここまでの共通事項が上がれば全くの他人であると推測する方が無理がある。だが、もし相手が同一の人物だとすれば、ティアナとスバルに重傷を負わせたのも……

 「……一つ聞こう!」

 ザフィーラが上を仰ぎ見て声を張り上げた。もちろん、詰問の相手は黒衣の敵だ。

 「二日前、地上本部を襲撃し、テロ行為に及んだのはお前か!」

 怒号にも似たその問いに対し――、

 敵はナイフの投擲で返してきた。地面に突き刺さったそれの柄に瞬時に環状テンプレートが出現、光り出すと同時に膨大な熱エネルギーをばら撒き出す。

 「!!」

 「くっ!!」

 「な!?」

 強烈な物理的衝撃と共に三人はすぐさま回避と受け身を同時にこなす。急に攻撃に転じてきた相手に戸惑いながらも、体勢を整え直すと、ヴィータの方は猪の一番にアイゼンを振り回し、【シュワルベフリーゲン】の応酬で叩き返した。

 「でりゃぁあああ!!」

 打ち出された四つの魔力球は弧を描き、敵を撃墜せんと飛襲する。だがそれらの攻撃は敵の片手に張られたシールドによって阻まれ、シグナムを襲った時と同じく魔力を掻き消されて虚空に消滅してしまった。

 「……吸収、及び、解析完了。マキナ、スティンガー大量配置」

 『Yes,my lord.』

 黒衣の周辺に虚空からナイフが大量に転送されてくる。それらの切っ先は全てがヴォルケンリッターを狙っているのが分かる。

 「……発射」

 瞬間、舞い飛ぶこと飛燕の如し。ただ一直線に、それでいて音速を突破して迫るそれは一切を駆逐する矢羽の如く飛来する。

 「こんなモン、弾き落としてやらぁ!」

 すぐにヴィータが進み出てアイゼンを回転、時間差も無しに飛んできた凶器を全てバラバラの方向へと弾き飛ばす。

 「へ! こんな安っぽい攻撃で……」

 「バカ者! 避けろ!!」

 シグナムに襟首を掴まれ、ヴィータは大きく後方へと引き摺られた。

 そんな彼女の足元へ弾き飛ばしたはずのナイフが一斉に突き刺さる。アスファルトを余裕で貫通するその鋭利さに驚愕するが、今はそんな所を気にしている場合ではない。さらに、刺さったはずのナイフの柄に再び環状テンプレート、てっきり爆発するのかと思ったが、次の瞬間にそれらは独りでに地面から抜けると空中で矛先を変え、また飛来してきたのだ。その切り替えの素早さはかつてのフェイトの得意魔法【フォトンランサー】にも匹敵していた。

 「……IS、No.7『スローターアームズ』」

 敵の声を合図に、ナイフの刃先から耳をつんざく高音が響いてきた。編隊飛行を続ける刃はそれによって切れ味を格段と上昇させ、進路上に存在していたコンクリートやアスファルトを切り裂き、貫通しながらも速度を落とすことなく飛襲を続けてくる。

 「高周波振動……!? あいつが操っているのか」

 「爆発、遠隔操作、魔力吸収…………滅茶苦茶だ!」

 ビルとビルの間を縫うようにして飛行しながら三人は回避行動を続ける。が、その背後からは銀影煌かせてナイフの群れが接近しつつあった。ザフィーラの【鋼の軛】の隙間を掻い潜り、ヴィータの【シュワルベフリーゲン】までもかつてのⅡ型ガジェットを上回る回避性能で一発も当たらない。明らかに敵が操作しているのは明確だが、ここまで正確且つ長時間に渡る操作はなのはレベルの実力者でなければ説明がつかなかった。

 「ヴィータ、ザフィーラ! 一旦散開するぞ! 各自でこの攻撃をやり過ごす!」

 「その後はどうする! 策があるのか?」

 「正直策などには頼りたくはなかったが……仕方が無い!!」



 「……騎士から摘出した、魔力と、デバイスのデータ、解析は?」

 『It already. Accession practical use stage already.(完了している。既に使用可能段階にも到達)』

 灰色砂漠の上空で佇む彼は自身のストレージデバイスと現状の確認に移った。纏ったマントの奥で光る金色の両目は眼下に広がる廃棄ビルを睥睨し、時々左手で空を切るような動作を見せた。

 彼の足元では真紅のテンプレートが一定速度で回転している。使用しているISは物理的遠隔物体操作能力『スローターアームズ』、かつてナンバーズの数少ない空戦担当だった個体、“空の殲滅者”No.7セッテが使用していたものである。武器――特に投擲関連の武装を自在に操り、制御するこの能力はただ単にスルーアンドリターンだけではない。このように一度に大量の武器を制御下に置き、全てを時間差操作することこそがこの能力の真髄なのだ。

 「……三方に別れた? …………追尾する」

 相手の行動にも眉一つ動かさずに対応し、すぐにナイフ群を操作・分裂させて追尾を続行させる。操作する理屈こそなのはのブラスタービットと同じ理論だが、あれだけの物量ともなれば指示を下す脳に多大な負担が掛かり、制御だけでもかなりのエネルギーを消費する。だが彼は表情筋すら動かすことなく指揮者の如く左手を振り、三陣に分かれたナイフ陣を操作し、徐々に敵影を追い詰めて行く。

 と、その時――、



 ほぼ同時にバラバラの三つの地点から空間と大気を震わせて響く爆音、そして視界には爆音の数と同じだけの爆煙の柱が上がっているのが捉えられた。



 あのナイフには全てランブルデトネイターの効果が付与されていた。スローターアームズで追尾し、着弾と同時にランブルデトネイターによる爆撃によって仕留める算段だったようだが、仕掛けた当の本人は凍り着いた無表情のままで少し首を傾げた。

 「対象が、全て同時に、撃墜?」

 『Confirmating now.(現在確認中)』

 いかに敵方がこちらの能力に驚愕したとは言え、あれだけの実力者らがそうそう簡単に墜ちるとは考え辛かったのだ。それも同時ともなればあちら側に何か策を練られた可能性が非情に高い。だとすれば、警戒レベルが上がるのも必然と言えよう。

 しかし、その警戒心もデバイスから異常無しの報告を受けると同時に瞬時に退いていった。

 「…………本当に、撃墜された? なら、現時点より、この戦闘区域より、離脱。第一ラボへと、移動する」

 『Yes,my lord.』

 ライドインパルスのエネルギー翼が大きく唸りを上げ、次の瞬間には彼はさらに高く上昇していた。廃棄ビル群も豆粒ぐらいの大きさにしか見えない。

 「では、行くか」

 展開していたテンプレートを収め、風にはためく黒マントをきつく締めると一気に速度を上げて――、



 「やられたと思ってんのか?」



 頭上に影、そして声。

 見上げた瞬間に彼が目にしたものは、眩い真冬の陽光と、それを背にしてデバイスを構え迫る紅の騎士の姿だった……。

 「バカにすんじゃねーよ……あんなナイフ、全部叩き潰したに決まってんだろ!」

 逆光で顔は影になって見えないが、その語気は静かな怒りを帯びていた。ハンマー型アームドデバイス、グラーフアイゼンがジェット推進し、今度は敵を叩き潰さんとする撃鉄と化す。

 すぐに回避しようとするが、既に自分のいる座標は彼女の制空圏内、今できることは一つ……衝撃に備えて防御体勢を――

 「吹っ飛べぇーーーーっ!!!」



 






 渾身の力を以て敵の体を弾き落としたヴィータのアイゼンは余剰魔力を排出し、周囲に白い水蒸気が溢れ出た。

 ≪ヴィータ、仕留めたか?≫

 遠くから様子を見ているシグナムから思念通話が飛んで来た。もちろん、通信が無いだけでザフィーラも無事である。散開したのは捲く為ではない、一度に大量のナイフを相手にするのではなく、散開して群が分裂して数が少なくなった所を各個撃破する為だったのだ。その方が効率良く処理でき、例え全弾命中したとしてもそれ程度の数量ならば防御魔法でも防ぎ切れる自身があったのだ。

 「いや、あいつ……アイゼンが接触する寸前にすんげぇ固ぇプロテクション張りやがった。多分まだピンピンしてるはずだ」

 そう言うヴィータの眼下では屋上に大きな穴が開き、衝撃で大きく傾いたビルがあった。当然初めからこうなっていたのではない、さっきのヴィータの【ラケーテンハンマー】をまともに喰らった敵はそのまま衝撃と威力を相乗して慣性に従い落下、その勢いはビルの天井に当たってなお留まらずに、さらに外壁を貫通してその体を内部へと消え去ったのだ。

 ≪そうか。ならば、分かっているだろうな……?≫

 「分かってるって。気絶してれば良し、してなくて抵抗の意思を見せるんならブッ潰す……だろ?」

 ≪決して深追いはするな。刃を交えて分かったが、奴は相当出来る。もし仕留められなかった時は――≫

 「言われなくても分かってるつってんだろ。心配しなくても、あいつが本当に地上本部襲った奴なら、スバルとティアナの借りはきっちり責任持って返してやるさ」

 再びアイゼンを構え直すと、ヴィータはカートリッジをロードして虎穴へと足を運んだ。上から見やると天井を突き抜いた穴は相当深くの階まで続いていて、密かに彼女のアイゼンの威力を物語っていた。

 「覚悟してろよ……!」

 小さき紅の鉄騎はいざ行かんと縦穴へと足を踏み入れて行った。その姿はすぐに淵から隠れてしまい、辺りには束の間の静寂が訪れたのであった。

 ただ、それが安寧の静けさなのか、嵐の前のものなのかまでは誰にも分からなかった。



 






 「それでな、チンク姉! そいつが今までの奴と違っててさ!」

 ウェンディとディエチに遅れてカリムの事務室へとやって来たノーヴェは差し出された紅茶には目もくれず、備え置きの電話を見つけると引っ手繰るかのようにそれを自分の元へと引き寄せたのだった。

 通話の相手は彼女の最も敬愛する姉、チンク・ナカジマだ。今は簡易拘置所にてはやてと一緒に謹慎中だが、何も面会などの接触が許可されていない訳ではないのだ。元々が状況証拠ばかりで罪を確定させられたこともあり、時間帯や許可された範囲内での接触なら許されてはいるのだ。それの一部がこのように電話での会話である。

 もしこれが故レジアス・ゲイズ中将が仕切っていた管理局時代ならばこうはいかなかっただろう。彼が殺害されたことによって局の上層部でも一部では人員的な改革が起こされ、彼が存命だった頃のような強硬な姿勢を取る体制も一部では徐々に改善されつつあるのだ。それでも彼女ら二人の謹慎処分まではどうしようもなかったのだが……。

 「むぅ~、ディエチ、ノーヴェはチンク姉に何を話してるッスか?」

 「なんかついさっき知り合った人が凄く親切だったんだって。ここに来るのが遅かったのも、その人と話をしてたからだってさ」

 「ノーヴェが私ら以外の他人とッスか? 不思議なこともあるもんスね~」

 それだけで二人はノーヴェの話題から離れ、また取り留めない談笑に華を咲かせ始めたのだった。

 そんな彼女らのすぐ近くでノーヴェは――

 「なんかさ、もう言葉とかじゃ言えねぇぐらいにイイ奴だったんだ! 初めて知り合ったあたしを助けてくれたし、あたしの悩んでたことも聞いてくれたし……」

 『そうか、お前が他人とまともに接するようになりとはな……姉は嬉しいぞ、ノーヴェ』

 「あたしだってやる時はやるんだよ。心配しなくても大丈夫に決まってるじゃん」

 『そうか……そうだな。人は誰でも成長する、お前もその時期か』

 「あぁ! …………ところでさ、チンク姉」

 『ん? 何だ?』

 「そいつ……トレーゼのことなんだけどさ、なんか知らないけど一緒に居て落ち着いたってゆーか……息が合うってゆーのか……何か良く分からねーけど、本当に悪い感じはしなかったんだ。この感覚、今まで感じたことなくて……あたしには分からなくて……チンク姉なら知ってんじゃないかなってさ」

 『ほぅ……ノーヴェ、それはな、“友”と言うものだ』

 「友……?」

 ノーヴェは良く分からないと言う風に首を傾げた。実際彼女には「友」と言うものがどんなものなのか理解できていなかったのだから、当然と言えば当然でもある。

 『友とは良いものだ。今は亡き騎士ゼストもかつてはそう言っていた……お前の身の回りにも、親友を持つ者は沢山いるぞ。スバルやティアナ……八神殿やハラオウン執務官に高町教導官……エリオとキャロはどちらかと言えば、より親密だがな。友は人生において一番重要なんだ、私自身も持つべきは唯一無二の親友だと思っている』

 「本当にいいモンなのか……?」

 『うむ、真の親友とはな、常に互いを支え合うものなのだ。一方が辛い時はその辛さを安らげ、一方が喜んでいる時はその喜びを分かち合う……そうして人間は誰かと互いに喜怒哀楽を共有し、成長するのだ』

 「ふ~ん…………ゴメン、やっぱ良く分かんない」

 『いずれお前も分かるさ。ノーヴェはまたその者に会いたいのか?』

 「会いたいけど……他人なのに何度も会えるのか?」

 『ノーヴェがその者を他人と思っている内はダメだな。だが――友なら、親友と思っているのなら、いつかまたどこかで会えるさ』

 自身に満ちた姉の言葉にノーヴェの方も無性に嬉しく思えて、本当にそうなるような感じがしてきたのだった。

 『友とはそう言うものなのだ。……お、もうそろそろ時間だ。看守に注意される前に切らねば』

 「うん、じゃあな、チンク姉」

 『うむ、私が無事に帰るまでちゃんと大人しくしているんだぞ?』

 「ガキじゃないんだからさ、心配し過ぎだって。……じゃ、また今度な」

 そのやり取りを最後にして、ノーヴェは受話器を置いた。謹慎中の姉に電話できるのは一日に一回、次に電話できるのはきっかり24時間後となるだろう。

 しかし、今の彼女の胸中には、今度最も親しい姉に何の話題を振ろうかではなく、ついさっき知り合った人物――トレーゼのことが渦巻いていた。

 「…………友達、か」

 “友達”……。言葉で言い表せばたった四文字で済んでしまうが、それが内包している意味はとても深い。ノーヴェ自身、19歳と言えどそれは戸籍登録上の年齢でしかなく、実際は製造が完了して培養槽から出て来た年数はたった10年程しかない。そんな彼女が今まで自分が経験したことのないモノに興味を抱くのは至極当然だが、今回のようにここまで強い衝動に駆られるのは初めてだった。

 その衝動はかつて戦場に身を置いていた頃に感じていた戦闘衝動とは違い、風前の灯火のように控え目で、それでいて何故か強くハッキリと胸の奥底で熱を持っていた。今までに感じたことのないそれに、彼女は戸惑いながらも手を伸ばすのだろう。

 「今頃何してっかな…………トレーゼ」

 窓の外から見える太陽はさっきよりも少し地平線に接近して、今日もまた一日の「日常」が終わりを告げようとしていた。



 






 「……状況、報告」

 『No problem. Not obstacle to action.(問題無し。行動に支障は一切無い)』

 「ガジェット試作Ⅴ型の、転送は?」

 『Already. Retreat from this battle area.(既に完了。現戦闘区域から撤退せよ)』

 「それは、不可能。周辺を、囲まれた」

 『What shall I do?(ならばどうする?)』

 「目標の変更。『耐久』から、『完全殲滅』へと、移行させる。どの道、地上本部のことが、知れているとなれば、顔も割れている可能性が、高い。ここで排除、する」

 『OK,approval. Into action at once.(承認。直ちに実行に移せ)』

 「了解」





 廃棄ビルの薄暗がりの中で、彼は纏っていたマントを引き剥がした。もはや姿を隠す必要はない、今すぐここで排除してしまえば自分を「見た」者は居なくなるのだから。

 「マキナ、セットアップ」

 『Form of“Cross Mirage ”. Mode of“Dagger Mode”.』

 足元に何度目かの真紅のテンプレートが輝いた。高速で回転するその光を真下から受け、周りの空間と彼の顔が露わになる。紅い光を跳ね返す金色のその瞳はただ前方の視界を見つめているだけであり、まるでこの世の全ての事象に興味が無いかのように感じられる無表情を湛えていた。

 しかし、絶対零度のその眼から発せられているものは冷気などではなく、純粋なる「敵意」と「殺意」、そして



 限り無く虚ろなる「無」だけだった。



 「目標、敵対する全対象の、『殺害・破壊』。

 ――開始する」



[17818] 雷、墜つ
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/04/03 22:37
 じゃり……!

 崩れかけの空間を一人の少女が移動する。真っ赤なバリアジャケットに身を包んだ彼女の手には無骨で巨大な鉄槌が握られており、いつでも対応できるように臨戦態勢は万全だった。当然のことながら彼女自身も周囲に対する警戒を怠ったりはしない。聴覚と視覚を司る神経を最大限に張り詰め、120°の視界と20~20000Hzまでの可聴音域をフル活用させて行動に当たっているのだ。しかし、それでもなお相手の姿を確認出来てはいなかった。

 「……………………」

 鉄槌を構えた少女――ヴィータは電灯すら無い廃棄ビルの廊下を出来るだけ静かに歩く。探索魔法は使わない、あの魔法は発動中は移動せずに行うことが前提の魔法であり、万が一にも使用中に襲撃を受けないとも限らないこの状況下では控えた方が良いのだ。ヴィータ程の手錬にもなれば移動しながらでも使用はできるが、それでは効果範囲が限られてしまう上に彼女自身の注意力も散漫になってしまう恐れがある為、やはりこのように原始的な方法で探すしか手立てが無かった。

 だが、彼女に限らず全ての魔導師や騎士は、元々このような原始的な方法による戦闘をあまり得意とはしていない。「魔法」と言う文明の利器のもたらす効能を日夜享受しているこの世界の人類にとって、このような手段を取らねばならない状況とは通常縁遠いからだ。よっぽど限られた場合でしかこんな戦法は取らない彼らにとって、今のこの状態は非常に危険極まりなかった。

 「聞いてるか、黒づくめ! 居るんなら返事しろ!」

 ここで彼女は見えない敵に対して大声を張り上げた。常識で考えれば自分の位置を教えると言う自殺行為にも見えるが、もちろん彼女の狙いは別にあり、むしろそれによって相手が攻撃して来る方が好都合だったのだ。この全意識を戦闘に向けている状況では一度彼女の制空圏へと入ってしまえば、後はこちらのもの。例え背後や足元、頭上からの強襲にあっても今の彼女は全てに対応し切れる自信があったのだ。

 「おめーが地上本部を襲ったのはバレてんだ。いい加減に出て来い! 言っとくけどな、外に逃げたって無駄だ! シグナムとザフィーラが張ってる、逃げ場なんか無ぇぞ!!」

 まるで人の気配が無い空間にヴィータの怒声が木霊する。無論、返って来る言葉など無く、それは相手がこちらの挑発に簡単には反応しないことを指し示していた。

 それでも彼女は時折壁を壊して室内を睨みつけながらも気長に敵が尾を出すのを待っていた。今の所は外で見張っている二人からは何の連絡も無い、敵がまだ絶対この建物の中に潜伏しているのは明確だ。あとはヴィータがそれを見つけ出せるかが問題なだけである。

 しかし、さっきにも言ったようにここへ進入してから既に約十分が経過し、屋上からもうかなり離れた下の階層まで来てもなお人の影も形も見当たらない。いや、見当たらないだけならばまだしも、気配すら感じることがないのだ。重ねて言うが彼女とてヴォルケンリッターの一員、今までにも数多の戦場を駆けて死線を潜って来た彼女が敵の殺気を全くもって察知出来ない訳があるはずないのだが、今回ばかりは違った。鋭く研ぎ澄まされた視覚と聴覚を以てしても無音の暗闇に閉ざされてしまったかのように敵の行動が、思考が、全く読めないのだ。ヴィータは今更ながらにシグナムの警告を思い出すが、完全に不可視且つ無音の敵が相手では下手に動きようがない。

 ヴィータの頬を嫌に冷たい汗が流れ、顎を伝って流れ落ちる。たまに音がしてその方向へ首を振っても、大抵は崩れた壁の表面から落ちた瓦礫の音であったりするので緊張の糸が切れそうになってしまう。しかし、すぐに気を引き締め直すと再び歩を進める。

 「よくもウチのヒヨッ子どもを可愛がってくれたな……礼は百倍返しにしてやる、釣りも取っとけ」

 彼女自身、ぶっきらぼうだが情が無い訳ではない。スバルやティアナの重傷具合は見舞いに行った時に充分知っているし、スバルに至っては回復の見込みが無いことも認めたくはないが知っている。二人はなのはの教え子であると同時に自分の教え子でもある、そんな二人があそこまで手痛い仕打ちを受けてもじっとしていられる程にヴィータは冷徹ではない。すぐにでも見つけて引き摺り出し、同じ目にしてやりたくて内心は怒り心頭なのだ。しかし、怒りに身を任せていても事態は好転しない。ここは迅速に、それでいて尚且つ慎重にならなければ逆にこちらが狩られてしまいかねない。それでは本末転倒もいい所だ、騎士の名折れだけにはなりたくはない。



 その時、鼓膜を揺らして聴神経を刺激する音を、ヴィータの耳は感知した。



 「っ!!」

 鉄槌構え、カートリッジロード。足音を立ててはしまうが、魔法を使う相手に対して飛行魔法を使用すれば魔力反応で勘付かれてしまう恐れがあるため、面倒ではあるが早歩きで目的の位置まで接近する。歩く度に足元で煩い瓦礫や砂利をこれ程までに恨めしく思ったことは無く、いっそ外部から建物ごと【ギガントハンマー】で圧壊させたい衝動を必死に堪えながら徐々に音の発生源へと近付いて行く。

 そして、遂にその足がある一室の手前で止まった。壁に身を寄せて隠れながら耳を澄ませると聞こえてくる音がある。何かが大きくはためく音……ヴィータは真っ先に敵が羽織っていた黒衣のマントを脳裏に思い浮かべた。確かにドアの無いその室内からは建物の外から吹いているのか微風が頬を撫でるのを感じる。

 風の流れと微かに聞こえる音――それらの限られた情報から大まかな室内の様子を脳内で描き出すと、ヴィータは口元に笑みを浮かべた。いつもはやてや他のヴォルケンリッターに向けているような優しくて人懐っこいモノではない、己の狩り場にて獲物を射程圏内に収めた狩人……いや、肉食獣が牙を剥く瞬間に他ならなかった。

 「下手こきやがったな……管理局の一兵卒でもやらかさねぇぞ、こんな初歩的なミス」

 自然とアイゼンを握る圧力が上がる。音の大きさからして相対距離は約4メートル、対してヴィータの最大攻撃圏は腕とアイゼンを足して約2メートル前後、そこに彼女自身の爆発的な踏み込みが合わされば――、

 行ける!

 そう確信したヴィータは大きく振り上げの体勢を取った。そして足首を捻り、右脚を屈折、左足のアキレス腱を引き伸ばし、爪先で大地を踏み締める。爆発的な瞬発力は下半身の筋肉と人体の要である腰の連動によって生み出される。純粋接近戦特化型である古代ベルカの騎士にとって相手の間合いに瞬時に踏み込むことは即ち戦いの初歩であり極意、その一瞬にも満たない刹那のやり取りが勝敗を決し、食うか食われるかの雌雄までも決めると言っても過言ではない。もう既に目で見えないとは言え彼女は敵を襲撃し取り押さえる過程を描いていた。後はそれを実行に移せばいいだけの話だ。

 「……行けるな? アイゼン」

 『もちろん』

 無骨なアイゼンは血の気の多いレヴァンティンとは違って口数は少ないが、戦場に無駄口は必要ない、ただ忠実に主について来るだけで事足りる。壁越しの相手からは殺気は伝わって来ない、幸いにも敵の方はこちらに気付いてはいないようだった。さすれば……!

 「でやぁあああああああっ!!!」

 既にボロボロの壁を叩き壊すと慣性によって弾き飛ばされた瓦礫と共に雄叫びを上げ、先陣を切るバーサーカーの如く突貫した。

 そして――、










 一方、外で待機警戒していたシグナムとザフィーラはビルの中から轟音が響いて来たのを捉えていた。

 「この震動……どうやら先に仕掛けたのはヴィータのようだな」

 「あぁ、万事うまく行ってくれるとありがたいが」

 今の所は建物周辺に張っておいた探知魔法に中から逃げ出す者の気配は無く、敵は確実に中に潜伏していることも分かっている。その状況でアイゼンを振り下ろす音が聞こえてきたと言うことはつまり、ヴィータが敵を発見し撃墜しようとしたことに他ならない。問題は敵方が大人しく倒れてくれるかどうかである。

 「その時は我々が動くしかないがな」

 「うむ……そうだ……な」

 「シグナム……?」

 彼女の異常に気が付いたザフィーラは心配して声を掛ける。実際、シグナムの顔色は悪く、貧血でも起こしているかのように上体はフラフラとなって足元も覚束ない風になっていた。恐らく、さっき交戦した時に魔力を奪われたことによる体力低下が原因であろう。しかし、彼女がここまで弱体化するとなれば深刻な問題である。一体どれだけの量を奪われたのか……。

 「心配いらん、すぐに回復する……」

 「そうか、なら良いのだが」

 「それよりも……気になることが一つある……」

 「何だ?」

 そう言って改めて彼女の方へ意識を集中させると、なるほど、リンカーコアの魔力がかなり落ちているのが分かる。これが常人ならばとっくに失神しているレベルだ。それでもなお彼女が立っていられるのは戦場で培った気力と騎士としてのプライドがあるからなのかも知れない。

 「先程、刃を交え……接触した時に魔力を奪われたと言ったが…………奴に頭を掴まれた瞬間に、別の『何か』を感じた」

 「別の『何か』? 一体何だそれは?」

 「分からない。吸い取られているはずなのに……逆に何かが頭の中に入り込んで来る感覚を覚えた。脳髄を蠢くような何かを……」

 「入り込んで来た…………? 何が何の為に?」

 「それも分からん。だが、良からぬことなのは確かだろう。嫌な予感がしてならない……敵も、この一連の事件も……」

 戦士の勘は当たる。しかし、二人とも、互いにこの時程に自分達の予感が外れて欲しいと願ったことはなかった。










 ヴィータは瞬時に自分の今の状況を整理し、そして把握した。「ハメられた」と。

 手応えはあった。目標を叩きつけた感覚が痺れるように残っている。

 罠はなかった。今現在、彼女の身には何の変化も無い。

 彼女の視界に映るのは、アイゼンの猛攻によって見るも無残に引き裂かれた敵の黒マント。そして……

 それだけだった。

 目の前にあるのは途中から鉄槌の威力でポッキリと折れたコンクリートの柱と、彼女を誘き寄せる為にそこへ掛けられていた黒マントだけだったのだ。ガラスの外れた窓から吹く風がマントを揺らし、その音に反応して足を運ばせる……つまり、一見何のブービートラップも無い空間だが、

 ヴィータが音に反応してここへと足を運んだその時点で、既に彼女は罠に嵌っていたのだ。

 狩人には二種類存在している。猟銃を構えて自ら野山を駆けて獣を追う者と、罠を仕掛けて気長に待つ者の二つである。後者の場合、罠を仕掛けたからには獲物が掛るのを待たなければならない。捕縛用の罠では獲物は絶命せず、最後の息の根を止める為に常に罠の傍には狩人が居なければならないのだ。

 つまり――、

 既にヴィータは誘い出され、敵の術中に嵌った。この後起こり得るであろうプロセスはただ一つ……

 罠に掛った獲物を狩人が仕留めに来る――その狩人は近くに居るはずであり、常に目を光らせているはずなのだ。

 「!?」

 その時、背後から肌を刺すような強烈な感覚、殺気が飛んできた。意図せずとも冷や汗が流れ出て心臓の鼓動が速くなって行く。逆に首は言うことを聞かず、背後を振り向けずにいた。戦士としての勘ではなくて、生物としての本能が後ろの捕食者を忌避しているからだ。それはまさに『蛇に睨まれた蛙』の状態を表していた。

 微動だに出来ないヴィータとは違い、背後からは殺気の主が接近して来るのが分かった。瓦礫を避け、砂利を踏みつけながらゆっくりと、しかし確実に接近して来るそれは死神の宣告をもたらすべく背後から自らの武器を構えてきた。

 「……!」

 首筋に微かな痛覚、そして左目の視界の隅から見える紅い刀身。ヴィータの記憶が正しければ、これは先程の戦闘で敵が使用していた武装に違いなかった。如何に彼女らヴォルケンリッターが元は人間ではないとは言え、首を切断されれば絶命は確実だ。敵もそれを狙っている。

 (ちくしょう!) 

 ヴィータは姑息な罠に嵌められたと言う事実に歯軋りした。長い戦いの人生においてここまでの屈辱を感じたことは無かったからだ。

 だが敵からすればこれはむしろ当然のやり方だろう。正々堂々を旨とする古代ベルカの騎士とは時代が違う、より賢くそして確実にと言うのが現代のやり方だ。その意味では間違った戦法ではない。ただ彼女はこんな所で潰えるのが我慢ならなかったのだ。



 しかし、古代ベルカの戦いの神は彼女を見離さなかった。



 光刃が一旦首筋から離れたのだ。どうやら首と胴を切り離す為に勢いを付ける動作を行っているらしい。

 この一瞬にも満たない僅かな時間の隙を、ヴィータが見逃すはずがなかった。一旦離れた刃が再び首に接触、頸動脈と脊髄を一刀のもとに切り伏せるのにコンマ数秒も掛からないだろう。ならば、ここで起こすべき行動はただ一つ……。

 相手の速度を上回るスピードを以てして――、

 「甘ぇっ!!!」

 押し切るのみ! 発想はバトルマニアであるシグナムのそれだが、現状では最も有効な策であることに違いは無かった。既に外で戦った時に相手の大まかな身長は算出している、後はアイゼンの鎚をその頭部へと叩きこめば良いだけだ。殺す必要はない、脳震盪によるショックで昏倒・気絶させればそれで事足りるのだ。足首と腰、人体の二大スイング関節をフル稼働、一気に薙ぎ払いを掛けてみせた。

 「予測内、対処する」 

 「な……!?」

 アイゼンを握る手に固い感触、しかしそれは相手に攻撃を喰らわせたものではない。

 驚愕に目を見開く彼女の視覚が捉えたモノは二つ。敵が着用している紺色の見慣れた防護ジャケットと、その右手に握られてアイゼンを防ぐ漆黒のデバイスだった。

 「ぐあっ!!?」

 次の瞬間には反撃すら許されないままに腹部に重い衝撃。蹴られたと言うのが理解できたのは小さい背中が壁に激突してからだった。

 「くっそぅ……!」

 激痛の走る腹筋に鞭打ち、愛鎚を杖代わりにして立ち上がり、敵を眼中に収めた。バリアジャケットも腹部が少し破れていた。本来術者の身を守る為に発動させるバリアジャケットは魔力的にも物理的にもあらゆる衝撃に対して筆舌に尽くし難い防御性能を誇っている。そのバリアジャケットが機人とは言えたった一度の蹴りで、それも攻性魔力を全く付与しない純粋物理衝撃だけで破られたとなれば敵の脚力、並びに攻撃力が如何ようなものか容易に想像がつくだろう。

 それよりも、問題は敵の姿である。体躯の逞しさから性別は男、身長と外見年齢はスバルやティアナとほぼ同じ位、紫苑の短髪に白磁の肌、不気味な程に光を宿さぬ金色の瞳……そして何よりも目を引くのが、その身に付けた防護ジャケットである。紺を基調としたデザインのそれは間違いない、かつては機動六課を敵に回して苦戦を余儀なくさせ、現在は管理局に一部恭順して共に戦う仲間となった戦闘機人『ナンバーズ』――彼女らが着用している物と同じ物だったのだ。

 「お前ぇ……その防護服」

 「…………」

 既に出撃前にシグナムからは地上本部を襲った目の前の敵がスカリエッティの製造理論に基づいて生み出された可能性が高いことは聞いていた。しかしこれではまるで……

 「まんま、ナンバーズじゃねーか……」

 直立不動、見るからに攻撃意思が皆無に見える程に構えてすらいないが、非武装ではないのは当然だった。両腕両脚に装着されて唸りを上げて回転するスピナーが特異的なその武装は腕はスバルとギンガのリボルバーナックルに、脚はノーヴェのジェットエッジに酷似していた。足の裏の四輪のローラーも寸分違わず、互いに唯一の違いを上げるとするならば、ジェットエッジに当たる武装にも足首の少し上辺りにカートリッジ機構が取り付けられており、リボルバーナックルには黒い鉤爪の付いた手甲が両手に装着されていると言うことだけだった。

 だが、彼女が一番驚いたのは別にあった。

 「何で……何でだよ。何でお前がそれを持ってんだよ!」

 彼女が指差すのは少年の右手に握られたモノ。左手にある紅いブレードは外での戦いで既に目にしているが、逆にそちらの方は彼女の予想を遥かに大きく裏切ったのだった。

 それは拳銃。しかし管理局法で使用が禁止されている火薬式の質量兵器ではない。それには見覚えがあった、かつて三年前、機動六課が設立されて間もない頃になのはが鍛え上げた教え子が使ってモノ――執務官となった今でも使っている愛銃、そう、それは……

 「『クロスミラージュ』を!」

 色こそ漆を塗ったかのようにメタリックな黒一色だが、全体的にL字型のフォルムは彼女ら元六課のメンバーにとっては見間違えようが無かった。しかし、何故それを敵が持っているのか、それだけが分からなかった。ティアナの持っていたクロスミラージュは完膚無きまでに破壊されてしまったはずなのだ。

 「答えろ!」

 「クロスミラージュ、違う。これは、ストレージデバイス、『デウス・エクス・マキナ』」

 「ほざけ! んなことは聞いてねぇんだよ!!」

 『ラケーテンフォルム!』

 怒号を合図にアイゼンの先端が変形し、再びジェット機構と四角錐のスパイクが露わになる。爪先を軸に高速で回転し、一気に離されていた距離を埋め直した。

 「でやぁあああああ!!!」

 「く……マキナ、モードツー」

 『Yes,my lord.』

 接触と同時に両者の足元の地面に亀裂が走る。互いに相手にGを掛け合いながら鎬を削るその姿はまさに真剣勝負さながらのプレッシャーを魔力と共に周囲に撒き散らしていた。壁のヒビがさらに拡大し、崩れかけの天井からもコンクリートの欠片が落ちて来る。それでもなお両者の鍔迫り合いは続き、とうとう足が陥没を始めた地面に埋まるまでになっても拮抗は終わらなかった。

 「ダガーモードまで……!!」

 ヴィータのアイゼンを受け止めるのはグリップ状の魔力刃が展開されたクロスミラージュ。この形態も数あるこのデバイスの持つ機能の一つだ。魔力刃の色彩がティアナのそれとは違い真紅だが実際の違いはそれだけではない、実際に彼女と刃を交えた訳ではないので分からないが、その強度は明らかにティアナよりもワンランク硬いのだ。武装局員の中でも屈指の突貫力と破壊力を誇るヴィータの鉄槌を真正面から受けてなお拮抗していることが何よりの証拠である。

 その時、彼女は見た。敵の首、そこに掛けられている金属製のチョーカーに刻まれている『XⅢ』の刻印を。

 「13……? うわっ!?」

 だがその瞬間、拮抗の崩れは唐突に訪れた。

 「な、何だよ、こいつ! 急に……!」

 しっかりと腰を据えて地面に喰い込ませていたはずのヴィータの両足が少しずつ後方へ押し退けられて行くのだ。おかしい、地上と空中の違いこそあれど一度目の接触ではいとも簡単に叩き飛ばされた相手が二度目には耐久、三度目には凌駕……何故初めからこれだけの力を出さなかった!? 隠していたからか? 否、眼前敵を前にして全力を隠す道理など無いはずだ。いまこうしている間にも自分の自他共に認める小柄な体躯が丸ごと押し退けられて行くのが嫌でも分かる。それもただ単に押し退けられている訳ではない、【ラケーテンハンマー】の莫大な推進力をさらに両腕の筋肉で起こした遠心力に乗せて放った一撃が押し返されているのだ、並大抵の力で成し得る所業ではないことは想像に難くない。それもヴィータが両手を使って精一杯なのに対して相手はその細い片腕だけで対抗、押し返す……。彼女は体躯こそ局員の中でも小さい方だが、単純な腕力は戦闘機人であるスバルやギンガをも凌ぐ強さがある。訓練中に彼女らを吹っ飛ばした回数など多過ぎていちいち覚えてなどいない程だ。そんな彼女にとって自らの全力の一撃を片手で受け止めただけに止まらず、あまつさえ押しやられると言うこの現状が理解出来なかった。

 「対象の、ハザードレベル、測定完了。レベルAAと、断定」

 「な!? しまっ――!」

 相手は右手のクロスミラージュだけで対応していた。それ即ち……

 残った左の腕が狙って来ることに他ならない!

 対してヴィータは両腕が塞がれた状態、頭上を見上げた彼女の視界に映ったのは、今まさに振り下ろされんとする真紅のブレード。それはまさに、機械仕掛けの死神による死刑宣告だった。



 






 その頃、管理局中央管制室にて。

 「どうなっている! 先遣と後続隊はまだ接触出来んのか!」

 「通信も回復していない、報告急げ!」

 「余計な事は言わんで良い! 今はただ現場で起こっている詳細だけを伝えろ!!」

 正体不明のエネルギー反応が検出された廃棄都市区画へと調査を兼ねて先遣隊であるヴォルケンリッターを送り出し、連絡が途絶えてから既に十数分が経過していた。管制室では予期せぬ事態に混乱の相を極めており、現在は分断された先遣と後続をどうにかして接触させようと躍起になっている所である。しかし、現状は芳しくは無く、先遣のヴォルケンリッターとはもちろん、その周辺を固めて待機している後続隊とも何らかの外的要因なのか通信が阻害されている模様だった。

 「現場の上空からの映像、入ります!」

 オペレーターの一人がコンソールのキーを打ち込み、急遽派遣された航空部隊が送ってきた映像をスクリーンに映し出す。別ウィンドウで表示されたそれは初めはノイズが走っていて何が起こっているのか分からなかったが、解析が進むと徐々に何が映し出されているのかがハッキリしてきた。

 「これは……!?」

 「結界か!」

 所狭しと並び立つビルによって生み出された灰色砂漠、その他の建築物が全く無いはずのその場所に一際目を引き、尚且つ一目で明らかにそこにあるのが異常と分かるモノが映っていた。

 それは半透明な薄紅色の立方体型のクリスタルのようなモノだった。周囲の建築物と比較すると、その大きさが良く分かる。一見しただけでも数百メートルの規模はありそうだ。職業上の関係で多種多様な魔法に精通している局員たちはこれが結界の効果を持つ物だと推測する。しかし――、

 「いえ、映像解析では魔力反応、一切無し! 純粋な力学エネルギー干渉による虚軸位相空間発生を利用した障壁との結果が出ました!」

 「バカな、どこの世界の技術に魔力を使わず科学だけでそれ程のモノを発動させられると言うのだ!」

 「現在、解析班とこちらで位相空間の中和方法を模索中ですが、障壁表面のエネルギー比率が随時変化しています。完全に解析が完了するのには時間が……!」

 「待ってください! たった今こちらで障壁表面の解析が終了しましたが、後続部隊の魔導師では突破不可能です!!」

 「どう言うことだ!?」

 「ですから! 後続部隊の魔導師では総力を決してもあの障壁を打ち破るのには力不足なんです!!」

 怒声にも似た報告の後、スクリーンに新たなウィンドウが提示され、全員の目がそこへと集中する。

 魔法学校はもちろん、歴とした養成機関や管理局系列の訓練校ではもちろんの如く結界魔法の行使方法、及びに対処法なども当然教えられる。その基本となる教えが、「どれほどに高度且つ緻密な結界魔法であっても、構成術式に干渉すれば対処出来る」と言うものである。知っての通りミッド式・ベルカ式問わずに管理世界で確認されている『魔法』は全て精密な魔力計算と構築によって得られる一種の『技術』である。射撃・砲撃魔法、斬撃などの魔力付与魔法、バリアジャケットを始めとする防御魔法、空中移動に多用される飛行魔法……これらは全て、魔導師が魔力を供給し、デバイスが出力計算を行うと言うプロセスで行って初めて実現出来るものなのだ。特に、結界魔法等の広域に渡って発動させる系統のものになるとさらに難易度は増す。広範囲になってしまった分だけ、計算・発動・維持などの過程も引き摺られて大規模になるからだ。しかし、互いの術者の力量にも左右されるが、発動して維持するのに比べると干渉して突き崩す方が意外にも簡単なのだ。方法も至って単純、敵の魔法構築術式に魔力的干渉してノイズを仕込めば良いだけなのだ。たったそれだけで場合によっては結界に歪みが発生、術者の力量によっては完全に崩壊させることも可能である。その為、通常で結界魔法を行使する時はその欠点を補う為に複数の魔導師による役割分担と連携によって簡単に崩されないように工夫していると言う訳だ。

 しかし、この場合は違った。相手が発動させているのは魔力に頼らない完全物理的封鎖空間、もちろん突き崩すことも可能なのかも知れないが、その為にはこちらも魔力では無く純粋な物理的衝撃を以て干渉しなければならなかった。

 だが――、

 「現状の後続部隊の戦力では、全員のデバイスに物理破壊設定を許可したとしても……火力不足です」

 ウィンドウに表示された二つの数値は後続部隊の総合火力と、エネルギー障壁の予測耐久力を表していたが、その差は歴然過ぎた。誰の目から見ても二つの数値には開きがあり過ぎるのが分かる。

 「ではどうすれば良いと言うのだ! 高町一等空尉を呼び戻そうにも、彼女は現在聖王教会へ『預言』の聴取の為にハラオウン提督、並びにスクライア司書長と共に出頭中だぞ!」

 「室長、八神二等陸佐の砲撃魔法であれば放つまでの時間を抜きで考えても充分に――」

 「二佐は現在謹慎中だ! 上層部の許可を取っていてからでは事態が悪転する恐れがある!!」

 地上本部の件で謹慎中の八神はやてを仮出動させるには上層部に対して何重にも許可を取らねばならない。場合にもよるが、今から対応していたらはやてが来るのは数十分後になってしまうだろう。

 「障壁内のサーチはどうなっている!」

 「駄目です、内部からの魔力反応は完全遮断! 先遣のヴォルケンリッターのリンカーコア反応も全く感知されません!」

 「サーモグラフィックス、電磁波、赤外線サーチ、音響探知……全ての物理エネルギーも魔力面ほどではありませんが、大部分が遮断されています。外部からでは解析のしようがありません」

 「やはり、どの道どうにかして内部へ進入しなければならないと言うことか……。だが、現状の現行戦力では……!」

 彼の有名な『ベルリンの壁』は東西ベルリンの市民達が一斉決起、手に手に武器を持って完全に人の力だけで崩壊させられた。それは何故か? 単純に蜂起した大衆の圧力が抑圧の象徴であった壁の耐久力を上回っただけに過ぎない。統率力の有る羊の群れは時に狼ですら駆逐する、と言う故事をまさに忠実に体現していると言えるだろう。

 しかし、この場合は違う。如何に後続隊が優秀でも、計算上彼らと障壁との間に横たわる絶対値を克服することだけは無理だったのだ。彼らがマスケット銃を構えた兵士ならば、目の前の障壁はさしずめ城壁……相手が、相性が限り無く悪過ぎた。

 管制室では早くも全員が諦観の相を露わにし、現状を見守るしかないと誰もが口に出さずとも脳裏で一致していた。



 その時、一人の影が音も無く管制室を後にしたことを、その場の誰も見てはいなかった。










 「はぁ……はぁ……くそっ、下手こいたのはこっちってことかよ……!」

 完全に闇に閉ざされた空間の中をヴィータは行く。右手にはアイゼンを携えてはいるが、体の至る所に怪我を負ってしまったのが祟って半ば引き摺るようにして移動を続けていた。

 今彼女が居るのはビルの地下階である。相手の攻撃を頭上から受けた彼女は刹那の瞬間にシールドを発生、何とか難を逃れたものの、その暴力的なまでの物理的衝撃に彼女の足元のコンクリートの地面が耐えられるはずがなく、遭えなく崩壊。着地の受け身を取った時には既に地下階へと叩きつけられていたと言う訳である。

 だが、彼女自身も敵の攻撃を防いだとは言え全くの無傷だった訳ではない。シールド越しに届いた衝撃は彼女のスカーレットのバリアジャケットを左肩口から脇腹にかけて大きく引き裂き、そこから垣間見える肌からも僅かながら血液が流れ出ていた。

 一見すると彼女らのバリアジャケットはデザインばかりのお飾り的なモノに見え勝ちだが実際は違う。魔力による砲撃戦を想定してプログラムされているミッド式のバリアジャケットとは違い、彼女らベルカ式……それも純粋接近戦を主とする古代ベルカの騎士のジャケットは武器としているデバイスの性質上、物理的ダメージに対して効果的な性能を誇っている。少なくとも小型乗用車両との正面衝突程度ならば余裕で耐え切れるはずの甲冑とジャケット部分が物理衝撃だけでこれほどまでにボロボロになると言うのは、ハッキリ言って有り得ないことだった。

 「……ここまでか……」

 ヴィータは一旦来た方角を見直した。暗闇が広がって視覚では分からないが、大丈夫、敵の気配はかなり遠くに離した。ここまで攻めて来るのには少し時間を掛けなければならないはずだ。

 「一旦外に出て……シグナム達と合流するしかねぇか…………」

 敵との相対距離を確認した後、彼女は転移魔法を行使すべく足元に赤い三角魔方陣を展開させた。瞬時に脳内に周辺一帯の座標を表示すると、外に居る二人の魔力を探知、それを目印に魔力計算とプログラムの構築直後――、



 彼女の頬を真紅の刃が掠った。



 「……!?」

 すぐに意識を集中するのを停止したヴィータだったが、時は既に遅かった。

 「あぁっ!!」

 アイゼンを握っていた右腕に激痛、気付かぬうちに自らの愛鎚を取り落としてしまった。暗黒の空間に響く金属の鋭く大きい音……そして、その音の向かった先からこちらへと接近する影がある。目を凝らせばまるで当然かのようにして暗闇からあの少年の姿が浮かび上がってきた。足元のローラーを回転させながらこちらへと徐々に、しかし確実に近付いてくるその姿はかつて十数年前になのはと相対し、彼女の実力を思い知った時と同質のモノを醸し出し、あらゆる戦場を潜り抜けたはずのヴィータを恐怖させた。

 「悪魔かよ、お前……!」

 歯軋りする彼女の視線は現在、自身の右腕と敵の手元へと向いている。戦場で利き腕を攻撃されるのは即ち「死」を意味している。しかし、今気になっているのはそんなことではなかった。

 真紅のブレードは見事に腕の筋組織と骨を砕き貫き、その切っ先は彼女の背後の壁に突き刺さっていた。こう描写すると、まるで投擲されたブレードが驚異的な命中率と貫通力を以て刺し貫いた、もしくは、高速で接近した敵が目にも止まらぬ速度で攻撃してかのように思えるかも知れない。しかし、実際はそのどちらとも違った。

 「反則だろーがよ……刀身が伸びるなんて、聞いてねぇぞ」

 そう、ブレードは投擲された訳でもなければ、持ち主自らが急接近した訳でもなかったのだ。

 ただただ、

 至極単純な現象……

 ブレードの光刃部分を伸縮させ、対象とのレンジを操ると言う接近戦武器の概念を根底から覆す暴挙に出ただけだったのだ。

 実際、二人の距離はおよそ4メートル……その両端のヴィータの右腕と敵の左手を真紅の刃が結んでいるのが分かる。先述したように、腕を貫通したブレードの切っ先はその延長線上の壁に深く刺さり込んでおり、まさに今の彼女は文字通りの「釘づけ」状態に陥ってしまっていた。

 「ツインブレイズは、体内で発生させた、エネルギーを放出し、刀身に凝縮、使用する武装だ」

 「つまり、エネルギーの出力を上げれば……元々がエネルギー体の刀身が伸びたりデカくなったりするってことか」

 「そうだ」

 「良いのかよ? 敵にそんなこと喋ってもよぉ」

 「問題無い、すぐに、処分する」

 そう言った彼の周囲に紅い魔力弾が大量に発生した。いや、魔力は微々たるものしか感じなく、代わりに離れていても肌を焦がすような熱を帯びていた。恐らく、魔力は弾丸を形成する為にしか利用されておらず、純粋なる熱によって肉体組織を焼き殺すのが目的なのだろう。流石の守護騎士言えども、細胞そのものを直接死滅させられては一溜まりも無いことは目に見えている。だが、ヴィータにはその魔力弾を使用する魔法を良く知っていた。

 「その魔法…………ティアナの!?」

 色彩と使用しているエネルギーに違いはあるものの、見紛うはずがない、空中に大量に弾幕を配置して一斉発射するこの射撃魔法はティアナの得意技の【クロスファイアシュート】である。何故それを敵が使えるのか、一瞬分からなかったヴィータだったが、すぐに予測はついた。

 「それがおめーのISか……他人の魔法を喰らうか、見るだけでモノにするなんてよ。ふん! 大したことねーな」

 そう、一見すると大層な能力に思えるかも知れないが、実際は彼女の言う通りで、特筆に値するものではないのだ。現代でこそ それほどの力量を持つ者は少ないが、戦乱渦巻く古代ベルカにおいては敵の動きを完璧に真似、自らの流派の技として洗練して体得する猛者も少なからず居たのだ。現になのはの愛弟子であるスバルは師の最も得意とする砲撃魔法【ディバインバスター】を自ら近代ベルカ式に改造し、ミッド式には遠く及ばないにしろ同じベルカ式としては他に類を見ないロングレンジ魔法へと発展させている。彼女の才能が高いこともあるだろうが、魔法の模倣自体はそう大したことではないのだ、極端な話だが、仕組みさえ理解出来れば素人にも形だけは体得できる。

 そうして相手をあからさまに挑発するヴィータだが、 彼女は密かに敵の視線が自分の右腕から逸らされているのを確認していた。意を決して握り拳を作ってみると、当然のことながら傷口から鮮血が吹き出て痛みが走った。思わず顔を顰めるが、彼女の頭の中では既に一つの突破策が浮かび上がっていたのだった。

 (やっぱ……これしか無いよな……!)

 手段など選んではいられない。もう既に相手は真正面からこちらに向けて照準を合わせている。引き金を引かれれば空中の弾丸全てが間違いなくヴィータの急所を狙い、細胞を焼失させ、死に至らしめるだろう。守護騎士として、一人の局員として、そして何よりもスバルとティアナの為にも、それだけは断じて許せなかった。

 もう一度、周辺を確認する。ブレードが刺さっているのは右腕だけで、あとは五体満足だ。得物のアイゼンは少し離れてはいるが、敵に奪われてはいない。

 良し、行ける!

 そう彼女が確信した次の瞬間――、

 「…………シュート」

 真紅の凶弾が一斉に彼女に向かって牙を剥いて来た。

 「くそ……!!」

 迷っている暇など無い、思い立ったが何とやらだ。そう自信を奮い立たせると、彼女は両脚と腰周り、そして上腕筋の全てに力を込めた直後に――、

 思い切り振り上げたのだ。

 「!?」

 「あぁああっ!!」

 刃と反対の向きに向かって腕を引いたその瞬間、まずヴィータの中枢神経が末梢神経から送られて来た衝撃に驚愕し、それからコンマ数秒遅れて神経と筋組織が切断されたことによって発生した激痛が脊髄を侵し、彼女の大脳へと大々的な危険信号を打ち鳴らした。右腕は斜め半分に切断され、なんとかあとの半分の骨と筋肉で繋がっている状態だったが、切断面からは血管を断たれたことによって鮮やかな動脈血がまるで激流か何かのように溢れ出ており、痛みそのものも半端ない。だが、あの状態から脱するには自らの腕を丸ごと犠牲にするだけの覚悟が無ければどの道無理だったことに変わりは無い。流石に命には代えられない。

 敵の魔手から辛くも逃れたヴィータは飛襲して来た魔力弾を間一髪で回避、そのまま地面を小さな体躯を活かして転がり込むようにして移動した。常人ならばここまでで失神するか一歩も動けなくなってしまうかのどちらかだが、彼女を動かしているのは最早常人を超えた強靭なる精神力だけだった。

 そして最終的にヴィータが到達したのは、愛鎚であるアイゼンが横たわる場所。素早く両足で体勢を整えた後、健在な彼女の左手に赤い光が灯った。熱は感じないが、代わりにかなり高濃度の魔力を内包しているのが分かる。

 「でやぁ!!」

 それを敵に投げつけるのかと思えば、彼女はその光球を天井スレスレまで高く放り上げたのだ。この行動に相手は思わず身構えるが、この魔法が攻撃魔法ではないと知った時には既に遅かった。

 「へへっ! 覚悟しろよ!」

 右腕が使えないのですぐに左手で地面のアイゼンを掴むと、その先端の鉄槌部分を落下してくる光球へと狙い合わせて――、

 「吠えろ! グラーフアイゼン!!!」

 接触のその瞬間、暗闇で支配されていた地下階を強烈な光と爆音が埋め尽くした。



 






 「やはり我々では力不足か!」

 一方その頃、ヴォルケンリッター達から約数キロ離れた地点では後続隊の面々が苦い顔をしていた。原因は今彼らの眼前に聳え立つ巨大なエネルギー障壁だ。立方体を象るそれの一辺の長さはおよそ数百メートル、かつて廃棄ビルを丸ごと包囲したオットーの疑似結界の数倍以上は大きく、強度もまた本職の結界担当の魔導師のそれよりも遥かに高い。魔力を一切使用せずに純粋な物理的エネルギーでのみ構築されたこれを突破するにはこちらも出来るだけ物理的破壊力を以てして臨まなくてはならない。

 しかし、現状は見ての通り。後続隊が使用している支給品の杖型のストレージデバイスの出力と、何よりも彼ら自身の魔力値では太刀打ち出来るはずも無く、まさに焼け石に水となっていた。

 「隊長、やはりここは本部からの増援を待った方が……」

 「だが上からの対応を待ってからでは遅すぎる! 既に先遣隊が隔離されてからもう既に十数分、未だに増援どころかまともに通信すらに取れんのだぞ」

 「ですが! これ以上は……!!」

 隊員たちは既に全員が疲労困憊の表情をしていた。無理も無い、彼らは先遣と分断されてから今までずっと結界突破の為に尽力していたのだ、とっくに体力も気力も底をつき掛けていても何ら不思議ではない。

 誰もが絶望の陰に顔を曇らせていた、その時――、

 「隊長! こちらに向かって高速で接近する詳細不明の機影があります!」

 「機影? 技術開発研究部が造った試作量産型ガジェットⅡ程度の火力ではたかが知れているぞ。一体何機居る?」

 「それが……確認出来ている限りでは一機のみで……………………なっ!? 速い! これは……ガジェットではありません!!」

 「何だと! レーダーを見せろ!」

 報告してきた隊員のあまりの慌て様に只ならぬモノを感じた隊長は虚空に映し出されていたホログラム映像に目を剥いた。映し出されている立体映像は後続隊を中心として半径約十数キロに渡って広域探知魔法が掛かっている範囲内の様子を余すことなく伝達しており、周囲一帯に乱立するビル群までも忠実に映していた。映っているのは青い光点で表示された自分たち後続隊と、赤い色で彩色された巨大なエネルギー障壁……そして、自分達の遥か後方から猛スピードで接近して来る黄色い光点が一つだった。確かに速い、都市部のリニアレールが全速力で走ったとしたとしてもここまでの速度は出ないだろう。

 その光点は宙に浮かんで待機している後続隊よりも高い位置を飛行しており、レーザーか何かの様に真っ直ぐこちらへと向かって来たいた。

 「間もなく、肉眼捕捉可能域に進入します!」

 その言葉に、その場に居た全員の視線が一斉に後方上空へと注がれた。

 初めは青空に何も見えなかったが、ものの数秒もしない内に雲一つ無い空の向こうから小さな点のようなものがこちらへ近づいて来るのが見えてきた。

 ガジェットではない、形や大きさがまるで違う。しかし、そのスピードは飛行戦闘に特化したⅡ型ガジェットのそれを大きく上回っていることだけは実物を見ただけで分かった。

 やがてそれは接近して距離を縮めると、その全容が徐々に明らかになり……

 「あれは……まさか!?」

 全員がその姿を確認出来た次の刹那には、「それ」は彼らの頭上を通過した後だった。










 大地を揺るがす爆音の後、廃棄ビルから小さな影が飛び出すのをシグナムとザフィーラの優れた動体視力が捉えた。

 「ザフィーラ! 今だ、やれ!!」

 赤い小さな影――ヴィータは空中で待機していたザフィーラに向けて大声で合図した。

 「承知した!!!」

 空を蹴るとザフィーラは一気にアスファルトの地面に向かって急降下し、右拳を構えた。肘関節を折り曲げ、二の腕の筋肉のバネを最大限に圧縮、そしてその剛腕の鉄拳に膨大な魔力を上乗せする。

 「鋼の軛!!!!!」

 鋼鉄よりも堅剛な拳が地面を穿ったその瞬間、そこから派生した亀裂の一筋が急激に伸び、彼の前方、ヴィータが戦っていた廃棄ビルへと走った。地表を猛スピードで走るその亀裂はまるで地中を何か巨大なモノが移動しているようにも見え、実際そうだった。

 「はああぁぁああっ!!!」

 亀裂がビルの外壁に到達したのを確認した彼はさらに魔力を増幅させた。この魔法の最後の大仕上げに取り掛かったのだ。

 彼の咆哮の直後、ビルを中心とする周囲の地面が大きく波打ち、その次の瞬間――、

 一瞬にして廃棄ビルが内側から爆散した。低い階層の壁は残ったが、上の階は完全に消し飛び、消滅したコンクリートの代わりに実体化した白銀の魔力の尖角塔が一本、大きくそびえ立っていた。これぞザフィーラの十八番、攻防一体のベルカ式魔法【鋼の軛】である。

 同時にこれは彼ら三人の作戦の一つでもあったのだ。ビルの中に叩きつけた後はヴィータが先行し、気絶していれば捕縛、そうでなければ戦闘で押し切った後に当然捕縛。だが、万一彼女の実力を以てしても止められなかった場合は建物内部にて足止めの後、ザフィーラかシグナムの手によってビルごと破壊して敵を丸裸にすると言う算段だったのだ。とは言っても、これはあくまで最終手段として考えていたのだが、まさか実際にここまで戦況を引き摺られるとは誰も予測してはいなかった。

 突き上げられて粉砕したコンクリートの外壁や瓦礫が落下して来るのが収まった後、周囲に存在していたのはヴィータ、シグナム、ザフィーラの三人と、ビル丸々一棟を破壊した【鋼の軛】だけとなっていた。

 「おい、ヴィータ、その腕……!?」

 「気にすんな、どうってコトねーよ。こっちは腹をブチ貫かれたことだってあるんだ、腕が半分切れたぐらい直ぐに治るって」

 そう言うヴィータの肘から下の腕の切断面からは未だに滝のように血液が溢れ出している。完全に切れてしまった訳ではないのでなんとか手や指先は存在してはいるが、筋肉が完全に分断された今となっては動かすことはもちろん、アイゼンを握ることなど到底不可能となっていた。実際彼女は口でこそ何とも無いように喋ってはいるが、その顔は苦痛の表情で歪み、脱出するまでに見掛け異常に大量の血を失った所為で皮膚も青白くなってしまっていた。

 「襲撃事件で負傷者が居なければ、シャマルを連れて来るべきだったな。ともかく、今は応急だけでも……!」

 「あぁ、サンキュ。でも……あいつはどこ行ったんだよ? 流石に手加減したから死んじゃいねーとは思うけどさ」

 包帯できつく腕を締めながらヴィータは辺りを見渡した。完膚無きまでに粉砕されたビルの周辺には彼女と相対していた敵の姿が見えず、瓦礫の山だけが積み上がっているだけなのだ。一応周辺一帯に探知魔法を掛けてはみるが、探知妨害でも掛けられているのか全く以て反応が無い。やはり肉眼だけを頼りにする他なさそうだ。

 しかし、いくら探せど人っ子一人見当たらず、一旦地上に降りて捜索しようとしたその時――、

 『上空だ!!』

 シグナムの腰に差さっていたレヴァンティンが声を張り上げた。

 それに伴って三人の目が一斉に空中へと向いた。空にはエネルギー障壁の所為で紅く染まっており、網膜を容赦なく刺激するその中で、ただ一点だけ影が確認出来た。

 「……どうやら、相手は高い所からこちらを見下すのがかなり好きらしいな……」










 「IS、No.11『エリアルレイブ』、発動」

 『Form of “Riding Board”.』

 トレーゼのデバイス、デウス・エクス・マキナは無骨な漆黒の大型プレートに変形し、口数の少ない主を足元から支えていた。そのプレートの直下にはISの発動を示す真紅のテンプレートが回転し、彼が今発動させているISの影響でデバイスごと宙に浮かんでいられるのだ。

 「マキナ、最大速力で、現領域から離脱。このまま、第一ラボまで、振り切る」

 『Yes,my lord.』

 足元からの電子音と同時に大型プレートが大きく方向転換、次の瞬間には見えない波に乗るサーフボードの如く虚空をジグザグに高速飛行を開始し始めた。

 ナンバーズ11番、ウェンディが使用していた固有武装『ライディングボード』。元々この武装はDr.スカリエッティが空戦能力を持たないナンバーズ、もしくはその他の戦闘機人が限定的に空戦能力を得られるようにと開発した代物であり、その浮遊・飛行機構は少々複雑だ。ボードを中心とし、主に重力の働く下部を重点的にして重力の影響を緩和させる反重力を発生させると言うのは開発者がジェイル・スカリエッティだからこそ成せる業でもある。推進力はそのままダイレクトに使用者である機人が体内にて貯蓄、もしくは発生させたエネルギーを回すので問題は無い。実際に難しいのは反重力の出力計算である。浮遊してから、飛行、上昇、下降、カーブ、旋回、停止……これほどのプロセスの間に行わなければならない重力制御計算は並大抵のものではなく、それを本来ならばたった一人の使用者がこなさなければならないのだ。故に、この固有武装を使用する者の脳はそれだけの処理能力を得る為に、高速計算に特化した疑似脳細胞やシナプスなどを埋め込み、増殖させることでそれを解決している。

 しかし、そのシステム自体は空戦魔導師の飛行魔法を模倣したものである。単純に、使用されている力が「魔力」か「物理的エネルギー」かで、計算をするのが「デバイス」か「使用者」の相違だけに過ぎないのだ。

 初速の時点でレーシングカー並みの速さで飛ばしたボードは後方のヴォルケンリッターを置き去りにし、さらにその速度を上昇させる。当然ながら、背後から追跡してくる気配があるのだが、如何せんこちらの方が速いために追い付かれる心配など皆無だった。それに彼らは重ねて言うが古代ベルカの騎士であるため、ミッド式魔法とは違ってそれほど精密な射撃を行われることもない。このまま一気に振り払ってしまえば後はこちらのものである。

 乱立するビルの間を蛇行してある程度距離を離した後は急上昇し、上空のエネルギー障壁の天井へと一直線に駆けあがって行く。地上およそ数百メートルに到達する頃には後方の三人の姿も豆粒のように小さく見え、充分過ぎる程に引き離しには成功したことを示していた。

 このまま行けば無事問題無く脱出出来る。

 『My lord! Caution! Caution!(警告! 警告!)』

 そう思っていた矢先だった、足元のデバイスが警告音を発してきたのは。

 射撃や砲撃魔法は飛んできてはいない。だとすれば、誰かがこちらに向かって急接近していると言うことだ。しかし、背後の三人は完全に振り切っているだとすれば一体どこから……?

 その答えは自らの頭上、薄紅色の障壁の遥か向こうの上空から「強襲」して来た。

 「あれは……何だ?」

 『“Unknown”. But,the most danger.(未確認物体。しかし、極めて危険)』

 自分よりも遥かに高い上空から降下して来る「それ」はただ一直線にこちらに接近し――、



 音の壁とエネルギー障壁を同時に突破した。



 「この速度……このパワー……!」

 外側からは難攻不落を誇ったエネルギー障壁が、たった一度の接触だけでまるで石を投げつけられたガラスか何かのように粉砕された事実に彼は初めて驚愕に目を見開いた。障壁を突き破り音速に達した「それ」は巨大な自分の得物を振り上げると、接触するその寸前に――

 「はぁぁぁあああああああーーーーーッ!!!」

 トレーゼをボードごと弾き飛ばし、慣性とエネルギー保存の法則に従って彼の体は刹那の瞬間にアスファルトへ叩き戻したがなお足りず、衝突によって発散されなかったエネルギーはさらに彼の体を引き摺り、既にボロボロのアスファルトにさらなる傷痕を刻み込むに至る程だった。

 上空から飛来したその人物が握るは黒き雷の大剣、しかし手に持つ武器に反してその足元に展開する魔方陣は煌びやかな金色の円形のミッド式魔方陣。黒いバリアジャケットに身を包み、その背中に揺れるのは付属の純白のマントと絹のように輝く二つに分けられたプラチナブロンドの長髪、そして紅い瞳。

 「バルディッシュ、サーチして」

 『分かりました、サー』

 デバイスから吐き出された白い蒸気を身に浴びながら本局屈指の武装執務官、フェイト・T・ハラオウンは今――

 戦場に降り立った。










 すぐに彼女の元へとヴォルケンリッターの面々が接近してくる。

 「テスタロッサ! 来てくれたのか?」

 「はい。でも……実は出動許可をもらってなくて……」

 「どう言う意味だ? まさか管制室から直にこちらへやって来たのではないだろうな?」

 「実はそうなんです……」

 本人はまるで近くに寄ったついでに足を運んだとでも言うように話しているが、実際これは重大な問題である。管理局の武装局員は言わば軍隊や警察組織と同じなので、有事の際の出動には正式な許可がいるのだ。中には独自行動を上層部から許されている者も居るが、それも局内では片手で数える人数しか居らず、フェイトもこの中には入ってはいなかった。その規則を破ったとなれば、如何に優秀な人材である彼女とは言え、始末書の数枚は書かされるだろうことは目に見えていた。

 「何でそんな強引に?」

 「上層部の部署を幾つも通して許可の判子をもらって大部隊増援を送るのと、許可なんかもらわないでさっさと出動して後で始末書書くのとどっちが早いのか考えたんです」

 「あぁ……なるほどな」

 フェイトの言いたいことは概ね理解した。機動六課が存在しない今、地上本部は大組織故のジレンマに再び陥ってしまっている。団体や組織が大きく成長すればするほどにその対応や行動には遅れが生じてしまう、もし彼女が局法を無視して増援に来なければ今頃とっくに敵を取り逃がしてしまっていたのは自明の理だったに違い無い。

 何はともあれ、今は増援に感謝せねばならない。彼女の構えるデバイス――バルディッシュは現在ザンバーフォーム、これで弾き飛ばされたとなれば相手は相当の痛手を喰らったはずだ、しかし、あれ程の実力を持つ者がそれだけで終わるはずがない。すぐに四人は一斉に探知魔法を発動させ、その居所を探り出そうとした。だが――、

 「おかしい、確かに探知範囲内には存在を確認できるが……」

 「速ぇ……! 捉え切れねーぞ!」

 彼女らの言う通りだった。既に敵の影は落下地点には無く、もぬけの殻だった。問題はその後だ、探知魔法には効果範囲内にその存在が居ることが確認出来るだけで、その正確な位置や座標は全くもって掴めないのだ。時折思い出したかのようにして引っ掛かることもあるが、瞬きした後には反対側に現れると言う人知を超越した神速で翻弄し続けるそれはもはやエリオのソニックムーブの域までも超えている程だった。

 しかし、ヴォルケンリッターの三人がうろたえる中で……

 「……………………」

 フェイトだけは違った。彼女は目を閉じると全意識を自分の周囲に向け、ただじっと待つ。

 「……………………」

 三人の声は聞こえない。代わりに鼓膜を打って聴神経を刺激するのはもっと微細な音波、大気の流れを肌で感じ取り、その流れを発生させた原因を探り当てようとする。もはやそれは原始的と言う言葉では言い表せない程で、ある一種霊感的なモノを感じさせていた。

 自身を中心とし、不可視のプレッシャーを放ち続ける。

 その刹那――、風が薙いだ。

 「……っ! バルディッシュ!!」

 『イエス、サー!』

 目にも止まらぬ瞬速でカートリッジをロード、大剣型のザンバーフォームを操作して湾曲した魔力刃が特徴的なハーケンフォームへと変形させると、それを自分の背後に向けて大きくスイングさせた。

 瞬間、二つの物体が真正面からぶつかる音が盛大に鳴り響いた。

 「な……?」

 「捕まえた」

 雷光の刃がその切っ先に捕えたのは紫苑色の髪を持つ敵の姿だった。顔の表情筋こそまるで凍り着いたかのように微動だにしないが、その黄金色の双眸は驚愕に見開いていた。しかし、やはりその剛腕振りは変わり無く、ライディングボードから形を変えた漆黒のデバイスを片手にフェイトの斬撃を受け止めていた。流石に格が違うのか、ヴィータとは違って弾き飛ばされるようなことにはならずにいた。

 「やっぱり、その防護ジャケット……精密機器を埋め込んだ眼球……それに、そのチョーカーの番号……。貴方、スカリエッティ製の戦闘機人!」

 フェイトの紅い目が眼前の少年を睨んだ。写真や映像で確認したものと寸分違わず、氷の結晶のような光を宿さぬ瞳がこちらを見返してきている。外見年齢と背格好は被害に遭ったスバルやティアナと同世代と踏んで見ても間違いなさそうだが、彼女が気になって仕方が無いのはその容貌の方だった。

 (この顔……誰かに似ている。でも一体誰に? どこで会ったの?)

 写真を見た時に感じた強烈な既視感がまたもや彼女の脳裏を過った。そして確信した、「自分はかつてこの少年に似た人物に直接会っている」と。

 だがしかし、肝心なその人物が頭に現れないのだ。やはり自分はその人物を知っていると同時に限り無く無意識に忌避していることも実感していた。

 と、その時――、

 「該当データ、検索……。一件、『プロジェクト“F.A.T.E”』の、完成体」

 「っ!? どうしてそれを!」

 「処理、する」

 「うわぁああ!!?」 

 フェイトの質問に少年は答えず、次の瞬間にバルディッシュと鎬を削っていた右腕が急激に力を増してきた。おかしい、さっきまではこんな腕力は無かったはずなのに急にこれだけの力を出してくるのは不自然だ。これではまるで――

 (急激なスピードで強くなってる!? そんなことが……!!)

 そんなことがあるはずがない!

 確かにスカリエッティ製の戦闘機人は戦闘能力の向上が異常に早い。だがそれは彼女らナンバーズ同士の間で行える「動作データの共有」と「データ蓄積」の二つのシステムの加護を受けて初めて成せる現象だ。しかもそのシステム自体も、二人以上の戦闘機人が存在し尚且つ互いのプログラムが直結している場合のみに有効なだけで、もしそうでない場合には全くの無用の長物に成り下がってしまうのだ。少なくとも、発見済みのスカリエッティのラボから押収された研究記録や後発組みの長女であるチンクらの供述には目の前の少年に関する情報は一切皆無だった。だとすれば、彼はナンバーズではなく、ナカジマ姉妹のように別の人間がスカリエッティの製造理論を用いて生み出したとしか考えられなかった。

 だが、紺を基調としたデザインの防護ジャケットに、四肢に装着されているキャリバーに酷似したアームドデバイス、背から伸びる白いマント……そして何よりも、首元で鈍く輝く金属のチョーカーに刻み込まれた『ⅩⅢ』の文字がどうしても無視できなかった。

 そして、そこから記憶が派生し、呼び起されるのは面会室でスカリエッティが言った言葉…………究極のサンプル、“13番目”。

 「くぅうっ! バルディッシュ!!」

 高速思考の最中でも敵は容赦無く、攻撃の手は緩めない。対抗する為に彼女は自身の持てる限りの魔力をデバイスに注ぎ込んだ。

 「これは、何を……?」

 少年も接触している所から魔力を感じ取ったのか少し身構えた。しかし、フェイトが魔力を集中させたのは愛杖のバルディッシュの出力を上げる為ではなく、他にあったのだ。

 「管理地区内での許可されていない魔法の行使……局員に直接攻撃などの公務執行妨害…………今なら、自首したら間に合います。すぐに武器を収めて投降してください」

 「拒否する。まだ俺は、目的を、達成していない」

 「そうですか……残念です」

 戦場において最終通告を無視された場合、取るべき行動は一つ……。

 迅速かつ正確に――!

 相手を無力化することだ。

 「はぁぁあぁああぁあああああっ!!!」

 彼がどこから自分のデータを引き摺り出して来たのかは知らない。だが、彼は重大なミスを犯していることに気付いていなかった。

 一つは、フェイトはミッド式の魔導師でありながらも自身の魔力変換資質「電気」を利用した高い近接戦闘の能力を持っていると言うことを知らなかったこと。

 もう一つは――、



 その彼女に対して近接戦闘を挑み、不用意に間合いに進入してしまったことだった。



 デバイス同士が接触した部分から高圧電流に変換されたフェイトの魔力が少年の肉体へと一瞬で侵攻を果たした。電流は紺色のジャケットの表面を這いながら、その下に隠れた神経系統や精密機器を刺激し、狂わせてゆく。その威力に流石の敵も苦悶の表情を浮かべていた。

 「くぅ……! がぁっ!!」

 獣の咆哮にも似た叫びの後、少年は空を蹴ってフェイトの間合いから逃れた。

 距離を空けられてしまったが、改めて相手の全体像を確認出来るチャンスにはなった。

 足元には真紅の多重円形紋が光輝いており、その両足首からは同じく紅いエネルギー翼が唸りを上げていた。フェイトはこのISに見覚えがある、かつてナンバーズの実戦リーダーだった者が持っていた能力だ。一度使用されればその速度は音の壁を突破し、常人の視認許容速度を遥かに超えるスピードで強襲される脅威的な能力だが、フェイトはその一瞬の不意打ちを見事に受け止め切ってみせた。

 当然相手は彼女がヴォルケンリッター同様、自らの速度について来るとは思っていなかったのか、少し動揺しているようにも見えた。

 「何故、防御出来る? 人造魔導師とは言え、素体は、人間…………視認速度を、超えた速さに、対応は不可能、なはず」

 「少なくとも、私は自分と貴方以外に音速を超えられる人間を二人知っている。それに……貴方のスピードはトーレよりも劣っているわ」

 そう、目の前の少年が発動させているIS『ライドインパルス』は確かに常人の認識速度を遥かに超越してはいる。しかし、魔導師最速を誇るフェイトにとっては追い付ける範囲内に充分収まっていたのだ。加えて彼女が言った「トーレよりも劣る」と言ったのも嘘ではない。実際彼のスピードはラボで戦ったトーレのそれに比較して微妙な差異ではあるものの、遅れを取っているのをフェイトは感じ取っていたのだ。対してナンバーズ最速のトーレが全力を出しても勝利出来なかった相手に、それよりも遅い相手が太刀打ち出来る道理が無かった。

 「貴方はスカリエッティとどう関係しているの? “13番目”とは、貴方の事なの?」

 「…………」

 「答えなさい! 目的は、一体何をするつもりなの!?」

 フェイトが距離を詰めようと構える。

 「下手に近寄んな!!」

 「ヴィータ……?」

 「そいつに見せた魔法は皆そいつにパクられちまうんだ! それに、そいつのデバイスだって……!!」



 「マキナ、セットアップ」

 『Yes,my lord. Form of “Laevatein”.』



 「っ!!?」 

 フェイトは再び襲い掛かって来た気配に無意識に回避行動を取った。慣性の法則でその場に留まろうとした長髪の先端部分が一閃、そのまま重力に従って落下していった。

 「マキナ、行動を再開。現戦闘区域より、離脱する」

 そう言った瞬間、少年の体が一瞬で上空へと遠ざかった。その右手に握られているのはやはり漆黒のデバイス、しかし、その形はヴィータの見た銃器型の物ではなくなっていた。

 鋭い切っ先に長く真っ直ぐな刃渡り、全体的に無骨でありながらも全く無駄のないそのフォルムは至高の芸術品にも劣らぬ美しさを秘めていた。しかし、色彩は違えどその形状は見紛うはずがない。

 黒き炎の魔剣――

 「レヴァンティンだと!? いつの間に……!」

 「くそっ! 遅かった! 初めにシグナムと戦った時に……!!」

 「あの時にか!?」

 そう言われてシグナムはほんの数分前の出来事を思い返した。確かにあの時、彼女の得物は敵である相手に強奪されかけた。もしレヴァンティンのデータを採取しコピーするのだとしたら、あの瞬間でしかあり得ない。

 幸いにも、ヴィータの言っていることが正しければ、敵は自分で見て体感した魔法しかコピーして使えないはずだ。だとすれば、地上本部襲撃事件の時を累計すれば彼が習得した可能性のある魔法はティアナの射撃魔法、ザフィーラの【鋼の軛】に、ヴィータの【シュワルベフリーゲン】ぐらいのものだろう。一応ヴィータの【ラケーテンハンマー】もコピーされている可能性もあるのだろうが、あれはアイゼンがあって初めて成せる技だ、見る限りではアイゼンまでコピーされた様子はない。フェイトの雷撃も、あれは彼女が自身の魔力変換資質によって編み出したものであるため、資質を持たない敵にはコピーするのは不可能である。つまり少し早計かも知れないが、敵はそれ程に脅威となる恐れのある魔法は持っていないことになるだろう。

 だがそうして思案しているうちに少年は上空へと逃走して行く。彼の向かうその延長線上には、フェイトが突破したことによって大穴が開けられたエネルギー障壁の天井があった。

 「待ちなさい!!」

 すぐさま逃走するのを防ぐべくフェイトが飛び立つ。しかし、相手も必死なのか距離はどんどん離されてしまい、このままでは逃げ切られてしまうと焦燥感を感じたその時――、

 敵が障壁の突破穴で急停止した。

 「な!?」

 こちらの予想を大きく裏切る行動にフェイトは思わず空中で停止してしまった。だがこちらに恭順する意思が無いことは分かる、そうでなければ逃走を図ろうとする動機が無い。

 地上数百メートル、少年はこちらを睥睨しながら得物のレヴァンティンを模倣した漆黒のデバイスを静かに彼女の胸元へと向けてきた。

 まるで、「お前たちとは付き合っていられない」と言いたげに……。










 『How do you do?(どうするつもりですか?)』

 黒いレヴァンティンの刀身にある紅いクリスタル部分から電子音が次の行動を伺って来た。

 「目標の、変更……『証拠隠滅』に、移る。この区画ごと、第二ラボを、消滅、させる」

 『Into action.(実行せよ)』

 「了解。マキナ、フォームチェンジ」

 『Yes,my lord. Mode of “Bogenform”.』

 トレーゼの手からデバイスがひとりでに離れる。すると、刀身がいきなり二つに割れたかと思えば次の瞬間には全く形状の違う武器が彼の手に握られていた。

 「ストレージデバイス、『デウス・エクス・マキナ』に、リンカーコアの、第二拘束制限術式の解除を、申請する」

 『Approval. Limit releace.(承認。解除する)』

 全体的に半月形で鋭角的なその武装は、さっきまでの長刀とは明らかに使用用途が違うことをハッキリと周囲に知らしめていた。半月形の両端を結ぶ紅い魔力の糸、そして左の手を独特な形で添えて構えるその武器は――、

 弓! レヴァンティンの隠された能力の一つのボーゲンフォルムがその手の中にあった。

 虚空に純粋な魔力で構築・実体化された黒い矢が出現し、右手に収まると彼は間を置かずにそれを弦に絡ませて構えを取る。リンカーコアから常人ならざる莫大かつ高純度の魔力が弓と矢に注がれ、足元ではテンプレートが目にも止まらぬ速度で回転している。

 最早彼の双眸は何も捉えてはいない。フェイトも、ヴォルケンリッターの三人も、何もかもその視界には映ってはいなかった。彼が今その氷の眼で見ているモノはただ一つ……それは

 「魔力、圧縮充填、完了。発射する」

 『Flying falcon,“Sturmfalken”.(翔けよ、隼。シュツルムファルケン)』

 純粋なる作戦行動の完遂……ただそれだけだった。

 「使用出来る魔法が、『見た』モノだけとは、一言も、言っていない」



 刹那、破壊の矢が解き放たれた。



 






 下方に位置していた彼女らは全員が驚愕の表情を顔面に凍らせていた。いきなり敵が周囲の空間を歪める程の膨大な魔力を集中させたかと思った矢先に、シグナムのシュツルムファルケンを構えたのだ、驚くのは当然とも言える。だが、何故だ? 如何なる術者も実物を目の当たりにしなければ模倣など出来ようはずがないのだ。それを何故……!?

 「おい……マジかよ、そんな……嘘だろぉ!?」

 「シュツルムファルケンだと!? 馬鹿な、私はあの魔法を使った覚えは…………………まさかっ!」

 記憶を手繰り寄せたシグナムの脳裏にある一つの出来事が浮上した。ここへ来て隔離されてから初めて相手と刃を交えた、あの時――。

 あの時彼女は魔力を吸収される時に頭を掴まれた。腕でも首でもなく“頭”を掴まれたのだ。そして、魔力吸収の瞬間に感じた違和感……確か自分は言ったではないか、「何かが頭の中に入り込んで来る感覚を覚えた」と。

 つまり、その時に――、

 「私の“記憶”を……盗み出したと言うのか!?」

 それならば説明がつく。【シュツルムファルケン】を見せていない以上、敵がその魔法の全容を確認出来るのは彼女の記憶しかあり得ない。記憶の集積する場所は即ち脳、魔力を吸収すると同時にその記憶を解析すれば魔法の使用方法も当然分かって当たり前である。故に記憶に進入する為に敵は頭に接触したのだ。そうとしか考えようがない。だがしかし、どうやって他人の記憶に入り込んだと言うのか?

 「今はそれよりも、出来るだけ遠くへ……!!」

 「うむ!全員、プロテクトを最大に展開しつつ散開! 攻撃範囲外へ逃げ切るぞ!」

 幸か不幸か、敵のファルケンの矢じりはこちらではなく遥か下方のアスファルトへと向いている。こちらを直接狙っていなければ、まだ離脱できる可能性はある。それに、もし仮に敵の攻撃がシグナムのものと同じだけの威力があるとすればこの一帯は壊滅するだろう。かつて闇の書の防衛プログラムの障壁の一枚を破ったあの威力なら……。

 無駄口は叩かない、すぐに四人は各々の方向へと空を蹴って飛行し、予測攻撃範囲内からの離脱を図った。

 「っ!!」

 逃走行動に出てから間を置かず、フェイトは自分の背後に魔力の塊が下方に向かって通過するのを感じ、さらに飛行速度を上げた。魔力を感知すると他の三人も同じように速度を上げたのが分かった。

 目の前に薄紅色の障壁が迫って来る。再びバルディッシュを大きく構え、突破口を開こうとし……



 強烈なエネルギーの奔流が空間を『破壊』した。

 ミッドの太陽が地に落ちる、午後15時39分の出来事。



 






 時は少し遡り、午後15時30分。所も同じく変わって、視点を一度聖王教会の事務室へと移そうと思う。

 ミッドの冬は日が短い。ついさっきまでは陽光が燦々と照っていたのが、一時間後にはすっかり暗くなってしまうと言う現象が日本同様に起こることも多々あったりする。俗に言う「釣る瓶落とし」とか言うモノだ。

 ここも当然例外ではない。窓から差し込む光は既に暖かみを失いつつある西日へと変わり、その所為で全ての物の影が長く地面に黒溜まりを作っていた。そして、その部屋には現在三人分の人影があった。

 「それでね、ヴィヴィオが歌ってるのを見てたら本当に可愛いなぁって」

 「ふっ、何を言っている。うちのカレルとリエラも良い子で頑張っていてな、俺がたまの休暇に海鳴へ帰ると『お帰り』って…………あれが一番の至福の時だ」

 「ふーん。だけどヴィヴィオはもっと凄いんだから。この間なのはの家に夕食に呼ばれて行った時も、『ユーノさん、お仕事お疲れ様』って言ってくれたんだ」

 「ほぅ。なかなかだが、うちの二人には程遠いな」

 円卓では三人の人間、なのは、ユーノ、クロノが腰を落ち着けており、談笑……もとい、自分の子供自慢に華を咲かせていた。傍から見ていればまるで茶番だが、見ていて無意識に頬が緩むのはその雰囲気がとても穏やかだからだろう。

 「もう、二人とも、いい加減それ位にしないと。もうすぐカリムさん来る頃だから」

 「あっ、ゴメンね、なのは。ついつい夢中になっちゃって……」

 「分かってくれれば良いの」

 そう言ってなのははユーノの頭をまるで幼子にするかのように撫でた。もちろん、撫でられた本人は気恥かしそうに顔を赤らめながらも、悪い気はしないのか成されるままに大人しくしていた。

 その一見微笑ましい光景に隣のクロノはと言うと……

 (甘ったるい!! 口から砂糖を吐きそうだ! 早く……何とかしなければ、この万年バカップルが!)

 二人はJ・S事件が解決した辺りから殆どこんな調子で、そのくせ交際しているのかと聞けば互いに、「友達だよ」としか返さない。見ているこっちが歯痒くもあり恥ずかしい。

 ちなみに、クロノは甘い物が大の苦手である。

 彼が痺れを切らして「いい加減にしろ」と言いそうになったその直前――、

 「あの~……ひょっとして、お邪魔でしたか?」

 神が現れた。事務を終えて戻って来た金髪の麗人、カリム・グラシアが扉を開けてこちらを見たまま半分固まっていたのだ。手には三人分の紅茶を乗せた銀盆を持っている。

 「いや、構わない。むしろ待ち焦がれていたぐらいだ!」

 「は、はぁ……?」

 状況が把握できていないカリムではあったが、クロノの方が切羽詰まっている雰囲気だったのを感じ取って戸惑いながらもすぐに入って来た。そのまま三人の向かいに座って持って来た紅茶を配った。

 「すみません、急に呼びつけたりなどしてしまった上に待たせてしまって……」

 「いいんですよ、どうせ休暇申請で暇でしたから」

 「ヴィヴィオちゃんはどうしたんですか? 一緒に帰宅したはずでしたよね?」

 「ヴィヴィオは一旦アイナさんに預けて、その後すぐに出頭要請があってトンボ返りして来たんです」

 「本当なら局の方から担当局員が来るのだろうが、二日前の件で誰も手が空いていなくてな……。急遽、休暇申請をして暇な奴で、尚且つ信用できそうな人員を見繕った結果が二人と言うことだ」

 「私は三年前に立ち会ったけど、ユーノ君は初めてだったよね?」

 「うん。知り合いに預言解析班の方がいるから色々聞いてはいるけど、実際に見るのは今回が初めてだよ。でも、何だっていきなり……」

 「えぇ、私にも分からなくて……。確かに月の魔力は日を追うごとに強くなってはいるんですが、昼間には全く発動の兆しは無かったのに……」

 カリムの表情が思案に陰った。彼女が言っているのは自分が保有している古代ベルカのレアスキル、『預言者の著書』のことである。ミッドチルダ上空に存在する二つの月の魔力を利用し、最大で数年先の未来に起こるであろう出来事を詩文形式で知らしめる一見利便性の高そうな能力だが、月の軌道関係や魔力のシンクロが問題で基本一年に一回しか使えない諸刃の何とやらだ。基本、術者であるカリムは一年間365日を通していつ預言の時期が来るのか大まかに把握しており、その時期が近づくと地上本部から担当の執務官などが派遣されて来て預言を持ち帰り、預言解析班がこれを解読すると言う一連のシステムを辿っているのだが、今回は違っていた。

 「確かにここ一ヶ月の間に月は互いに接近し、この一週間で最接近する予定ではあったが……何故だ? たった数時間そこらで急に発動が促進されるのは前代未聞だぞ」

 そう、彼女のレアスキルは月が満ち欠けるようにして発動可能時期が巡って来る。天体と言う大自然の産物を利用した魔法……即ちそれは、急激なサイクルの変化はまず起こらないと言うことだ。一体何が原因でそのような事態が起こっているのかは理解は出来ないが、今重要なのはそこではない。

 カリムが「そろそろ……」と言ったのを皮切りにして四人は部屋のカーテンを閉め始めた。『預言』は地上本部においては最重要機密にも匹敵する程に重要度が高く、他人はもちろん、派遣された者以外は同じ管理局員であっても立ち会うことは許されてはいないのだ。

 「では……」

 椅子から立ち上がったカリムはそのまま円卓から離れると精神を集中、懐から取り出した紙片の束に魔力を込めた。

 そこから先は三年前に見たのと全く同じ、彼女の周囲を数十枚の輝く紙片が取り囲み、その内の三枚が着席しているなのは達の手前まで飛んで来た。長方形のその小さな紙面には前回と同じく預言の詩文が書き記されており、その文はこれから先の未来で起こり得るであろう事態を明確に――、

 「あの……読めません」

 「右に同じくだ」

 解読不能。当然だ、紙片に書き記されている詩文は古代ベルカの言語で記されている為に、一般人にはまず読める訳が無かった。なのはとクロノは少し申し訳なさそうに頭を下げる。

 「ご、ごめんなさい。いつもは解読班の方が来られるものでしたから、つい……」

 「あぁ、大丈夫です、僕が読めますから。これでも古代ベルカ関係の遺跡調査で解読能力はある程度身に付いてますから」

 そう言うとユーノは目の前の紙片を手に取ると、眼鏡を掛け直して解読に掛った。伊達に遺跡研究のプロフェッショナル、スクライア一族の出身を名乗ってはいない、既に彼は小さくブツブツと何かを呟いては解読を完了させようとしていた。

 「やれやれ、危うく本部から解読班を呼びだす手間を取られる所だった」

 「にゃはは……。それで、ユーノ君、もう解読出来たの?」

 なのはが隣の幼馴染にそう問い掛けると、凍り着いたかのように固まっていた彼はそっと……



 「『法の塔は二度倒れる――』」



 その言葉から始めた。





 『旧き結晶の力を身に宿した“13番目の使徒”が中つ大地に降り立つ時――、法の塔は虚しく倒れる。

 統治者は彼の者を許しはしない。彼の者を打ち砕かんとするのは、“星”、“雷”、“翼”……そして、袂を分かった“使徒”である。

 彼の者の力は強大也、されど、闇にあらず――。彼の者は忠実、されど盲目也――。彼の者は始原にして終極――。彼の者は守人にして掠奪者也。

 やがて、彼の者は仕えるべき主を失うだろう。度重なる戦いにその器は干乾び、彼の者は標を見失う。

 彷徨える彼の者と結託する者あり。其即ち“裏切りの使徒”也。

 二つの使徒はやがて中つ大地を離れ、遠き彼の決戦の地へと流れ着く。

 されど、統治者は二つの存在を許しはしない。彼の者達は“星”、“雷”、“翼”、そして“使徒”らを拒絶する。

 遠き決戦の地で“13番目の使徒”は汚れ無き翼に身を纏い、掠奪した力を以て敵意の刃を向ける。彼の者が“裏切りの使徒”の造りし道を通る時、決戦の地は紅く染まる。 

 ――“裏切りの使徒”が小さき結晶を宿し、彼の地が聖なる白に染まる時――、

 大いなる戦いは終端を迎える』



 






 午後18時43分――、ナカジマ宅にて。

 「……ごちそうさん」

 「ん? 何だノーヴェ、もう食わなくていいのか?」

 基本ナカジマ家では仕事関係で忙しくない限りは家族揃って食事をするのが習わしだ。初めの頃は一家三人で、J・S事件があった最中は殆ど一堂に会して食事と言うのは出来なくなってしまっていたが、解決すると同時に家族の人数が一気に7人に増えて騒がしくなったこともあって今では局内でも指折りの大家族となっていた。さらに最近では一家の胃袋を満たす為の調理担当にカインが就いたこともあり、実質8人での食事風景に収まっている。

 ちなみに、戦闘機人はほぼ例外無く胃袋が常人よりも大きい。普通の人間とは違って肉体を構成するモノの大部分が機械骨格や精密機器である為、それらを支える筋肉などに消費するカロリーが必然的に多くなってしまうのだ。ナカジマ家においてはゲンヤ以外は全員が機人な所為で一家の年間の食費はバカにならない。特にスバルとギンガの姉妹はその他の機人も驚愕するレベルで食べるのでたまったものではない。

 それらの事項はナンバーズの九女、ノーヴェももちろん例外では無い。総量こそスバルやギンガには及ばないが、それでも彼女はいつもは椀に必ず三杯以上は米を食べている。もちろんおかずのお代わりも当然忘れない。

 だが、今日の彼女は何かおかしかった。いつも食事中は常に他の姉妹に会話を吹っかけている陽気な彼女はどこへやら、食事を始めてからさっきまでずっと表情が上の空であり、時折思い出したかのようにして椀を突くが、またすぐに半ば放心状態……。そして、彼女はたった今食事を終えて席を立ったが、食器の上にはまだ食べ物が残っていた。

 「うん……。なんか食欲なくってさ……」

 「風邪か?」

 「う~ん……何か違うかな。気分もそんなに悪くねーし」

 「そうか。なら良いんだがな……」

 「じゃ、寝るよ」

 「おいおい、寝るってお前さん、そんな時間でもないだろう。せめて風呂入ってからに――」

 ゲンヤの言葉を無視するようにしてノーヴェはドアを開け、居間を後にしてしまった。ドアを開ける姿も何だか力無く見え、実際に彼女が通ったドアは閉め切っておらずに半開きとなっていた。

 「どうしたんスかね、ノーヴェ? 電柱の陰で拾い食いでもしたッスか?」

 「ウェンディ、犬じゃないんだからそれはないよ。あと、食事中に下品なことを言わないの」

 『少なくとも賞味期限が切れた食材は使用してはいない。と、我がマスターは申しております』

 「まぁ、あの子のことだから多分大丈夫ね」

 いつもと調子が違う彼女は心配ではあるが、たまにはこう言う珍しい事もあるだろうと一家の面々はそれほど深入りはしなかった。見た所それほど重い病気にかかったと言う訳でもなさそうだったからだ。

 「本当に大丈夫かぁ~?」





 ナカジマ家の寝室はゲンヤを除いて相部屋である。無駄にスペースを取らない為に俗に言う「二階建てベッド」が全部で三台置いてあり、その内の一つに紅い髪をした少女が無造作に寝転がっていた。

 「…………」

 眠ってはいない。金色の瞳が暗闇の中で光っているので分かるが、ノーヴェは全然寝入ってはいなかったのだ。その表情は何故かいつもと比べて元気が無く、そのくせまるで何かを考えているかのように眉を顰めてしかめっ面なんかしていた。

 「…………」

 言葉は無い。その所為で窓の外から冬の静かな雨音が鼓膜を執拗に突いた。ミッドの天気は今夜から明日の昼にかけて雨がふる予報が出されている。折角ベッドに入ったが雨音が煩くて眠れないのだろう。

 「…………」

 本当は眠くもないし、調子もそんなに悪くはなかったのだ。食事だって続けられたし、風呂にだって入ろうと思えば入れた。だが――、

 「熱い…………!」

 体に掛けていた毛布を放り捨てると彼女はベッドの上に大の字になった。真冬だが部屋には暖房はついてはいない、それでも彼女は毛布を掛け直さない。顔は既に熱で赤く染まっており、それほど重症でもないはずなのにノーヴェは徐々に意識が遠退いて行くのを感じ始めていた。自分でも異常だとは分かっているつもりだが、何故だろうか……

 全身の感覚神経を犯そうとしているその熱はどことなく――

 「あ、つ……い………」 

 甘美な温もりを持っていたからだ。

 薄れ行く意識を手放した瞬間、ノーヴェは安らかな表情を浮かべてベッドの柔らかみに体を預けた。



 






 同時刻、ミッドチルダ北西部海上の孤島にて――。

 「IS、No.13『――――』の、個体接続を、確認した。接続率、およそ37%。予測接続適合率より、高い数値を、記録。ヴェロッサ・アコースから、取り込んだ、『思考捜査』も、完全に、インストール完了」

 地下ラボにて少年――トレーゼはそう呟いていた。足元には真紅のテンプレートが回転していたが、やがてそれは静かに消え去った。

 「マキナ、例のファクターサンプルの、解析は?」

 『It's already.(完了済み)』

 「IS因子の、検出及び、精製は?」

 『It's already too.』

 トレーゼは壁から迫り出してきた収納スペースに収められていた試験管に目をやった。二日前に交戦した少女から採取した血液を解析・精製して作った物で、そのガラスの容器には『Type-0 2nd』の文字が記されているのが分かる。

 「ドクターと、同じ理論で、生み出された、違うコンセプトの、戦闘機人、タイプゼロシリーズ……。計画には無いが、摂取しておいても、支障は無い」

 彼はその試験管を手に取るとそれを椅子のそばの注入機へとセットした。すぐに自分は椅子に腰を降ろすと、近くで待機しているデバイスに向かって実行の命令を下した。

 すぐに注入機の巨大な針がその白い首筋に突き立てられ、液を注入し始める。二日前に注入した時とは違い、今度はまるで海綿が水分をどんどん吸収するのと同じようにして肉体に馴染む感覚が全身に広がっていくのが感じられた。

 「……インストール速度が、上がっている……これも、“進化”の、影響なのか?」

 『Infusion complete.(注入完了)』

 「だが……F.A.T.Eの完成体、あれは、計画実行の、支障になる。現状では、対抗策は、無い」

 彼の脳裏に蘇るのは障壁内で戦ったあの金髪の管理局員だった。自分達と同じように……それもドクターの編み出した理論を利用して造られた存在でありながら、創造主に仇成すあの存在が彼にとってはとても疎ましかった。しかし、現状の自分の『段階』では太刀打ち出来るかどうかも怪しい上に、格が違い過ぎるのだ。

 「せめて、あの魔力変換資質を、取り込むことが出来れば…………」

 彼は目を閉じた。脳細胞をデバイスとリンク、膨大な量子情報の中に自分が今探し求めているモノは無いかと、意識を集中させた。そして――、

 「該当一件…………昼間の騎士に比べれば、ランクは、劣るか」

 対象に関するデータから当てはまる人物を見つけ出すことに成功した。この人間と接触し、因子を奪い取ればあの魔力変換資質に対抗するだけの免疫が体内で構成されるはずである。だがその人物に関するデータを閲覧していると分かったことが一つあった。

 「この人間も……プロジェクトF.A.T.Eの、産物?」

 データにあったその人間は昼間に交戦した女性と同じように『造られた』存在であることがそのデータベースには記してあった。偶然ではないだろう、恐らくF.A.T.Eの技術を利用して生み出された生命は先天的にこの変換資質が身に付く可能性が高いのだろう。

 後でマキナにその仮説を記録させようと思考していると、小さな痛みと共に注入機の針が首筋から抜かれた。それと同時に彼は立ち上がると自身の手足を確認する作業に移った。軽い運動の後で四肢に問題が無いことを認めた彼はすっと両拳を握ると構えを取った。

 「動作テスト、及び、ISの発動確認」

 そう言ったトレーゼの眼の前に丸い巨体が特徴的なⅢ型ガジェットが進み出て来た。攻撃設定はしていない、これは直に廃棄処分になるからだ。

 「IS、No.0、発動」

 拳を構えた彼の足元に再び円形紋が浮かび上がった。それと同時に、足元の地面が体重も魔力も掛けていないのに突然亀裂が走ったのだ。トレーゼは少し驚いた風に目を開いたが、すぐに前へと向き直る。

 四肢と腰のバネを最大限に活用し、破壊力を込めた一撃を機械の塊に向けて解き放った。



 接触した瞬間、巨体と堅牢さを誇っていたガジェットの躯体は見るも無残な鉄屑へと一瞬で変貌を遂げた。



 「接触兵器型、純粋近接戦闘型……か。使用用途は、限られるが、近接戦闘では、強力なISとなるか」

 『What is set a name?(IS名はどうする?)』

 「四肢に、高速振動を発生させ、共鳴振動で、破壊する…………IS、No.0『バイブレートクラッシャー(振動粉砕)』と、設定」

 『Yes,my lord.』

 トレーゼはただの残骸と化したガジェットを一瞥した後、痛覚刺激を感じた右腕へと視線を移し変えた。所々の皮膚が裂けて血液が出ていて、地面に少し小さな血溜まりを作ってしまっていた。振動粉砕は近接戦においては脅威的な力を持つ反面、自身もダメージを負う可能性が非常に高い。特にそれを素手で発動させたならば論外だ、体内の精密機器を一斉に取り換えなければならなくなりそうである。

 しかし、彼の表情が痛みに歪むことは決してなかった。まるで、人体の危険信号である痛覚など無視しても、さして問題は無いと言う風に。

 「…………まだだ、まだ、計画は、第一段階すら、終了していない。完遂の為に、俺は計画を、忠実に実行するだけ…………」

 右腕の血液を拭うと、痛々しい裂傷が露わになった。しかし痛みに震えはしない、彼が何を成そうとしているのかは誰にも分かりはしないだろうが、恐らく、彼はそれぐらいのことでは自らの行動を止めはしないだろう。

 「この一週間が、計画遂行の、最重要期間……。失敗は――



 ――許されない」



 金色の瞳が不吉な色を湛えた。それは純粋な“決意”でもあり……

 その他には何も無かった。



[17818] 重なる再会
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/04/04 01:36
 新暦78年11月11日、午後19時31分――。クラナガンから少し離れた地方都市の一角にて……。



 街のとある住宅地の一件に二人の人影が足を運んでいた。一人は初老の男性で、もう一人は全身黒ずくめの若者のようだった。男性はこの周辺の住宅や土地を管理している不動産の事務員で、今日もこうして物件の紹介にこの部屋を当たったと言う訳だった。

 しばらく部屋の様子を吟味した若者は、男性の元へ寄るとサインを振る為の契約書を求めて来た。どうやらこの物件を購入するらしい。

 「承知しました、ありがとうございます」

 恭しく頭を下げた彼は依頼主である若者の右腕に視線が行った。冬にも関わらず袖が異様に短く、そこから見える肌は血管が通ってないかのように真っ白だった。

 だが、右腕の方は違った。肘と手首の間を埋め尽くすようにして包帯が巻き付けられており、まともに止血していないのか、血の紅で滲んでいたのだ。男性はすぐにゴロツキ達が良くやらかす抗争を思い浮かべた。この周辺一帯では縄張りや闇ルートの占拠の為にそう言ったガラの悪い連中がそうした馬鹿な命のやりとりを頻繁にするのだ。もちろん、意図せずに巻き込まれてしまう者も多々居る。この若者もこうした抗争に巻き込まれてしまったのか、それとも単に事故か何かなのか。

 そう男性が思考していると、若者が視線に気付いたらしく、

 「……何か?」

 と問うてきた。抑揚の無い声が聞こえてきて少し驚いたが、男性はすぐに愛想笑いを浮かべると顔を上げて契約書を渡した。

 「いえいえ、何でもありません。では、こちらにサインを……」

 紙を渡してから彼が氏名を書き終えるまでにそう時間は掛からなかった。その間ずっと若者は一言も喋る事無く黙々としており、実際事務所を訪れてからここへ来るまでも二言三言しか男性は彼の声を聞いていなかった。

 やがて必要な筆記を終えると、若者は挨拶も無しに部屋を後にし、夜の街へと消えて行った。結局最後までどんな人物だったのか推し量れなかったが、職業柄、そのような事には首を突っ込まないことにしているので、正直どうでも良い事ではあった。

 部屋に一人で取り残された男性は自分もさっさと事務所に帰るべく部屋を出ると、鍵を閉めて徒歩で住宅街から離れて行った。

 夜はさらに更ける。










 新暦78年11月13日、午前9時15分――。クラナガンから少し距離を置いた区画を通過するリニアの車両にて……。



 「もうすぐかな……。ほら、起きて」

 とある一車両の席に腰掛けていた少年は自分の隣で寝入ってしまっていた同乗者に声を掛けた。少年の外見年齢はおよそ十代前半で、地球で言う所の小学校高学年か中学生に入り立ての子供と言った感じで、隣の少女も同じ位に見受けられた。二人ともかなり遠方からやって来たのか疲れの色が濃く、少年の方は体力があるのか血色も良いのだが、少女の方は目元に少し隈が目立っていた。多分寝ていたのも疲れていたからなのだろう。

 「うぅ~ん……待って……あと五分だけ…………」

 隣の少女は肩を揺さぶられながら完全に寝ボケ口調で、精神の半分近くをまだ涅槃に置き去りにしていた。揺らす度に淡白な桃色の髪が小さく揺れるのだが、一向に起きる気配が無い。

 仕方が無い、目的地に着くまでにはもう少し時間はある。それまでは眠らせておくことにしよう。

 少年は素直にそう割り切ると、少し乱れていた彼女のコートの襟元を直し、自分の席に座り直した。窓の外に目をやると、発展したミッドの街並みが一望され、真冬の澄んだ空の少し遠くには地上本部の巨大なタワーが聳え立っているのも見えていた。吐く吐息がガラスに白い曇りを作り、少年はそれを丁寧に拭き取る。することが無くて暇なのか、だいたい数分はその行動の繰り返しだった。時折思い出したかのようにしては隣の少女が席からずり落ちてしまわないように気を付けて、その小さな体をちゃんと座席の真ん中へと戻してあげている。

 ガサ……! 

 「あれ?」

 何やら物音が聞こえたのでそちらの方に視線を移すと、少女が肩に掛けている少し大き目のバッグから音が出ていることが分かった。いや、良く見るとそれだけではなかった。

 ガサ、ゴソ……!!

 動いている。少女の膝の上で微妙にだが揺れ動いているのだ。もちろん、手足など生えてはいない。初めてこの光景を目にした人間ならどこぞのB級ホラーのようなリアクションを取るのだろうが、彼は少し微笑むとそのバッグを自分の所へ引き寄せ、蓋を外した。中には取り合えず財布とかホットティーを入れた水筒などが入っており、ここまでは何も異常はなく普通の人間の持つバッグ事情と何も相違は無かった。そう、ここまでは……。

 バッグの面積の大半を占めていたのは何やらせわしく蠢く白い塊、人の頭程の大きさがありそうな「それ」はバッグから這い出ると少年の前に這い寄り、自らの体を大きく広げた後に――、

 「キュクル~」

 あくびをした。

 出て来たのはトカゲのような面構えをした奇妙な生物だった。トカゲの「ような」と言うのは、厳密にはその生物が我々の良く知る爬虫類の類とは似て非なるものだったからだ。少し大きな胴体に、硬い甲殻で覆われた頭部には真っ赤な小さな目が光っており、細い脚で二足歩行、そして何よりも目を引きつける上に爬虫類との決定的な違いがあった。

 それは羽。本来あるべき前脚の代替として備わっているそれは、明らかに空中を飛行する為のモノであり、今にも飛ばんとバサバサと羽ばたいていた。

 「おはよう、フリード」

 少年はその生物を優しく抱き上げると、再び窓の外の風景へと目をやった。

 もうここまで言えばお分かり頂けただろうが、バッグの中に潜んでいた生物と、そう、「竜」である。魔法文化がある世界において竜とはまさに生物的脅威であると同時に絶滅などが危惧されている希少種でもある。例え子供の幼竜であったとしても、何故そのような貴重な生物を隣の少女が所有しているのか?

 それは彼女――辺境自然保護隊所属の保護官、キャロ・ル・ルシエ一等陸士が時空管理局では数少ない竜使役スキル持ちの魔導師だからである。

 そしてその彼女の傍で景色を眺めている赤毛の少年は、同じ保護隊に所属している近代ベルカ式魔法の騎士であるエリオ・モンディアル。同じく階級は一等陸士である。

 彼らこそ、かつての「奇跡の部隊」、機動六課ライトニング分隊の誇った槍騎士とその後衛魔導師にしてフェイトの愛弟子、そして、六課フォワード陣の大切なメンバーの一人であった。

 二人を乗せたリニアはもうすぐ終点であり目的地へと辿り着くだろう。

 ――ミッドチルダ最大の都市にして首都、クラナガンへと。










 結論から言えば聖王教会の朝は早い。真冬でも日の出と共に起床して、聖堂の清掃から教会内各所の点検まで幅広く作業を行い、それら全てを多くの信者達が参拝に訪れるまでに済まさなければならないのだ。当然、それをやるのは教会のスタッフ一同だ。全員の心と行動を一つにし、協力しなければならないこの試練……断じて誰一人とも欠けることは許されはしないのだ。そう、決して、一人たりとも――。



 「待ちなさい! シスター・セイン!!!」



 小鳥がさえずる静寂な早朝を打ち破った怒号が廊下全体に木霊した。あまりの衝撃に窓ガラスは震え、その異常事態に樹上の鳥たちは一斉に危険を察知して空へと飛び去ってしまう程だった。一瞬、深き永劫の眠りについてしまった幼き古代ベルカの王ですら目を覚ますのではないかと思ってしまったが、流石にそれはなかったようだ。代わりに声が響いてきた方向とは逆の方角から全力疾走してくる影があった。

 「はぁ、はぁ……!」

 廊下を命からがら疾走し、淡い水色の髪を揺らしているのは教会の新米シスターである少女、セインだ。一応、身元引受人がシャッハである以上、彼女の姓名は「セイン・ヌエラ」になるのだろうが、ここでは親しみを込めて「シスター・セイン」と呼称することにしたいと思う。彼女は今とても切羽詰まっていた。何故ならば、彼女の背後十数メートルからは彼女が最も忌避するモノが追い掛けてきているからだ。逃げ切らねばならない! 何としても、今日こそは……!! あのモノの魔の手から!!!

 「逃げるな、止まりなさい!」

 「じゃあ追っかけるのをやめてくれ~!」

 「貴方が逃げるから追っているんです!」

 「追っかけて来るから逃げてるんだよ!」

 聖王教会の珍名物、『シスター・セインの逃走劇』がおよそ十分前から開幕されていた。追うのはもちろん、セイン曰く、「暴力シスター」ことシャッハ・ヌエラである。陸上スプリンターも驚愕の足の速さを持つ二人はほぼ互角のスピードで走っているが、このような事態になったのにはもちろん理由があり、彼女の言動などが発端なのだが……。

 「朝は6時に起床してそれから窓拭き、トイレ掃除に廊下のモップ掛け! 全部貴方の仕事ですよ、シスター・セイン!!」

 「だから何さぁ~!」

 「貴方は今朝、何時に起きましたか!!」

 「8時ッ!」

 そう言ってグッと親指を立てるセイン。 

 振り向いたセインのその無駄に爽やかな笑みがシャッハの神経を盛大に逆撫でした。もうこうなってしまったらセインの冥福を祈るしか無い、既にシャッハの手には待機中の彼女のデバイスが握り潰さんとばかりに構えられているのだから。

 「げぇっ!? ヤバイ!」

 機人として鍛えられた彼女の本能が警鐘を鳴らした。すぐさま彼女は足元に疑似魔方陣を展開するとさらに走行速度を上昇、大きく息を吸い込んで肺に蓄積したその直後に足腰の筋肉を最大活用して床へダイブ、階段の落下速度を利用して無機物で造られたその場所へと――、

 「ヴィンデルシャフトォーーーッ!!!」



 午前8時54分、ミッド北部のベルカ自治領にて小規模の地殻の揺れが感知されたが、別にこの自然現象とシャッハは何の関わりも無いことをここに明記しておく。










 「ふぅ、ちょっと仕事を止めて一休みしてたぐらいで何であそこまで怒らなくても良いじゃんか」

 ディープダイバーの能力で何とか窮地を脱したセインは現在教会の中庭の茂みにて息を潜めていた。真冬の中庭は気温的に少し堪えるが、背は腹に変えられない、中に入ってしまえばたちまちシャッハの探索範囲網に捉えられてしまうだろう。もう少し様子を見て、ほとぼりが冷めた頃に戻るしかなさそうだ。

 「って言うか、良いのかな? あれ思いっきり階段とか壁を壊したよな~? ……あれって修理費用出るの?」

 確かに、あまり必死だったから背後は確認出来てはいないが、あの時は轟音と共に色んなモノが壊れる音が鼓膜に響いて来ていたのを覚えている。柱の一本や二本は軽く粉砕されたのではないだろうか? だとすれば、修繕費は当然地上本部あたりから出されるのだろうが、場合が場合だからもしかしたら出ない可能性の方が高い。

 「大丈夫です、もし出なかったとしても、セイン姉様の給料から差し引くようにしてますから」

 「なぁんだ、それなら心配な…………いっ!?」

 突然背後から聞こえて来た声に数瞬遅れてから振り向くとそこには、艶やかな茶色の長髪を風に美しく流し、セインと同じく教会の正装に身を包んだ少女が居た。外見年齢はおよそ十代後半、寒風に吹かれながらも清楚な佇まいを崩さないその姿はまるで山茶花の様でもある。しかし、そんな彼女のセインに向けられている視線は限り無く冷やかであり、半ば呆れも含まれているのが見て取れた。

 彼女こそ、元ナンバーズの一人にして現在はシスター兼修道騎士の――、

 「ディード!? 何でこんなトコに!?」

 「はい、私ですがいけなかったでしょうか?」

 「い、いやいや、別に居ちゃいけないってコトはないけど…………はっ! まさか、お姉ちゃんを捕まえてシャッハに引き渡すつもりだな!? そうなんだな!?」

 身の危険を感じたセインはしゃがみ体勢から素早く立ち上がると、 迂闊に背を向けないようにゆっくりと後退し始めた。今この状況下ではディードの能力は危険過ぎだ、少しでも隙を見せれば一瞬でお縄を頂戴する羽目になってしまうことは目に見えている。

 「いえ、私は別にセイン姉さまが何をしていようと、何も関わりはありませんから……」

 「嘘だ! そんなこと言ってお姉ちゃんを騙そうったって、そうは行かないぞ! 伊達に早く生まれちゃいないんだ!」

 そう言いながら彼女は後退を続け、自分の後ろにある教会の壁に向かって少しずつ距離を詰めて行った。壁は無機物で構成されている、このまま壁に潜り込んでやり過ごすしか手立てはなさそうだった。中に入ってしまったらシャッハに感付かれてしまうかも知れないが、そこは壁や天井などを潜行して逃げるしかない。

 思い立ったが何とやら! 一気に腹を括った彼女は自分の歩行速度をほんの少しだけ速くした。

 と、その時――、

 「んあ? 何か踏んだぞ?」

 右足の裏に何やら固い感触。細長い形のそれに対してセインは一瞬木の枝か何かを思い浮かべたが、すぐにそれが間違いだったことを身を以て知る羽目になってしまった。



 刹那――、天地が逆転した。



 「うぉわぁあああ!!?」

 セインは突然全身を襲った謎の衝撃と、自分の頭上に地面が広がっていると言う不思議光景に初めは混乱したが、瞬時に自分が一瞬で追いやられた現状を把握した。

 逆向きになってしまったのは自分自身の方だったのだ。重力に従って下方向へと垂れ下がるスカートを手で押さえつつ、自分の吊り上げられた右足へと目をやった。自分が踏んだ木の枝とばかり思っていたモノは実は良く見ると……

 それはロープだった。それも、重量のある荷物を吊り下げる為に使われるような丈夫な代物であり、機人の腕力を以てしてもビクともしなかった。縄を辿って行くとすぐ傍の樹上に仕掛けられているのが見え、当然、植物の繊維を縒り合せて作った縄は有機物なのでディープダイバーでは抜け出すことは不可能である。

 「卑怯者~! こんな罠なんか仕掛けるなんて~!!」

 「いえ、そのトラップは私ではなくて、オットーが用意しておいたモノです」

 「へ? オットーが……? 何でさ」

 意外な名前が出て来たことに少々驚きを禁じ得なかったセインだが、すぐにその訳を逆さまの体勢のままで問い詰めた。あの寡黙だが何を考えているか分からない妹のことだ、きっと対不法侵入者迎撃用に設置しておいたとか言うオチに違いない。

 「万が一、誰かが仕事をサボった場合にはここで引っ掛かるようにと――」

 「あるぇ~!? マジメだった!!?」

 全体的に顔を「(;・3・)」なデフォルメな感じにしながらセインは樹上で釣り上げられた小魚の如く暴れ回った。しかし、悲しいかな、やはり頑丈この上ないロープから脱するには誰か他の人の手を借りるしかなさそうだ。

 「あ、あのさぁ、ディード……お姉ちゃんを降ろすのを手伝ってくんないかな?」

 「さっきも言いましたけど、私はセイン姉さまがどのような状況下に陥っていても“一切”認知しませんので……」

 「そんなぁ~! お願いだよディード! ここから降ろして!!」

 「じゃあ、私が降ろしてあげます」

 「おぉ~! どこの誰かは知らないけど、ありが…………とうっ!!?」

 釣り下がった状態から体を捻ったセインは背後の人物を視界に収めたその瞬間に思わず目をひん剥いた。何故なら、そこに鬼の形相を湛えながら立っていたのは――、

 「御苦労様です、シスター・ディード。お陰で手間が省けました」

 「いえ、私は何も。セイン姉さまが勝手に掛かってくれただけですから」

 いつの間に建物の捜索を終えたのか、天敵シャッハの姿がそこにあった。顔には一応笑みを浮かべてはいるのだが、何故かその表情からは絶対零度にも肩を並べるのではないかと思える程の冷たく強烈な怒気が放出されているのを、セインは肌で感じ取っていた。玉のような脂汗が次々と流れては額を伝って流れ落ちて行く。

 「そうですか。……では、さっさと降ろしましょうか」

 「あの~……シャッハさん、どうして私一人を降ろすのにワザワザどうしてデバイスを構えるんですか……?」

 セインの眼の前でシャッハが愛用のトンファー型のデバイスを構えて見せた。しかも何故だか知らないが、カートリッジまで込めて準備は万端な様子でもある。

 「いえ、見た所とっても丈夫そうなロープですから、これ位しないと切れないのではと思って……」

 「さ、さよか……」

 「あと、先に言っておきますが、ひょっとしたら手元が狂ってあらぬ所に当たるかも知れませんが、それは自己責任と言うことで我慢してください。と言うか、我慢しなさい」

 「待ってぇえええええっ!! お願い、それだけは止めてぇっ! 原型保っていられるかどうか心配だかr――」

 「問答無用!!!」

 「アッーー!」










 教会の寒空にセインの断末魔が大きく響き渡り、やっと落ち着きを取り戻していた小鳥たちを再び空へと追いやる羽目になってしまった。そこから先の出来事をディードは知らない。と言うよりも、自分の姉のことながら毎度毎度バカらしいので、興味を失しただけだ。

 「…………」

 取り合えず、朝の警備の続きと言うことでいつもの巡回ルートを練り歩く。正門の方からは熱心な信者の方々が早くも参拝に訪れている気配があった、直にその数は増えることだろう。古風なデザインの時計塔へと目をやると、長針と短針が見事に90°の角度に開いた状態で午前9時丁度を示していた。太陽はとっくに東の地平線を離脱して徐々に南の空を目指して上昇している。

 「……あと二時間」

 澄み切った空を流れる雲を眺めながら彼女は静かに呟いた。たまにこうして見つめていると、雲よりも低い空を時折ヘリなどが通り過ぎて行くのが見えている。その殆どが地上本部の物だ。

 きっと今頃、あのヘリの中のどれかに……。

 ≪ディード、聞こえてる? ディ-ド?≫

 「聞こえてる、オットー」

 通信で脳裏に届く声の主は、彼女と遺伝子を共有した双子のオットーからだ。今彼女が居るのは恐らくカリムの事務室だろう、ああ見えて実はボディーガードとして結構腕が立つのだ。

 ≪もうすぐ待ち合わせの時間だけど……そっちは何も問題無い?≫

 「セイン姉さまのサボり癖が永遠に治りそうに無いと言うことが判明しただけで、何も問題無いないわ。予定通りに行けそう」

 ≪そう、じゃあ数分後には出発するから、準備しておいて。あと、セイン姉さまのサボり癖は、『判明』じゃなくて、『再確認』だと思うんだ≫

 「そうだった、忘れてた。今度から気をつける」

 ≪じゃあ、2、3分後に……≫

 その言葉を最後に、オットーからの通信が途絶えた。再びディードは巡回を始め、青い空の向こう側へと目をやった。

 「…………やっと来るのね……」

 正門の向こう、遥か先にはミッドの首都であるクラナガンの街並みが見て取れる。地上本部の塔の周辺をヘリが忙しく飛び交い、行ったり戻って来たりを繰り返しているその風景は平和そのものでもある。その中で、彼女は風に揺れる髪を手櫛でかきながら、そっと感概に耽っていた。

「あまり関わった思い出は無いけど……姉妹だもの」

 午前9時5分、聖王教会の正門にて――。










 午前9時8分、ミッドチルダ地上本部のとある事務室にて――。

 「また君は派手にやらかしてくれたな」

 「その件については、弁明はしません」

 若き執務官、フェイト・T・ハラオウンは義兄であり上司でもあるクロノを前にして頭を垂れていた。二日前に無断で出撃した彼女は先日は一日中謹慎処分を受けていたのだが、ようやく解放されて今現在クロノの元へと呼び出されたのだ。そんなフェイトに対して、肘掛椅子にドッカリと座って溜息つくクロノの表情はどことなく呆れ半分、疲労半分と言った微妙な顔をしていた。

 「管制室に断りも無しに勝手に出撃し、許可無しに空戦……そして、あろうことか主犯を取り逃がしてしまった、か。これはイタいぞ」

 「責任は私一人で負います。全て自己責任で行動しましたから……」

 「だがまぁ、一応現場で立ち往生を解消してもらった後続隊の隊長並びに隊員達から感謝の意と陳情が僕の元に届いてな……こちらも上層部に無茶を承知で掛け合ったところ…………」

 クロノの手がデスクの引き出しの一つに届き、その中から大量の紙束を取り出して彼女の手前に置いた。それを手に取ったフェイトの顔がどんどん青褪めていった。死刑宣告を喰らった囚人にも勝る顔色の悪さ……それを引き起こす原因となっているモノとは!?

 「始末書だ。君が本来籍を置く本局から、中央管制室に、ミッド航空部署、廃棄都市担当のあらゆる部隊に対してのモノだ。結構あるぞ」

 「正直、中学校のプリント配布以来です……紙の束が重いって感じたのは……」

 「だろうな。だが、逆にこれだけで済んだんだ、贅沢言うなよ?」

 「その件については本当にありがとう、義兄さん」

 事務室には二人を除いて誰も居ない為に、兄妹水入らずでいつの間にやらフランクな口調になっていた。別にクロノはそれを咎めるつもりもないし、むしろ本人も堅苦しいと思っていたようなので丁度良かったみたいだった。

 「やれやれ、どうして僕の身の回りには無茶をする奴しか居ないのかな。君と言い、なのはと言い……」

 「あはは……本当にゴメン……」

 苦笑いを浮かべながらフェイトは頬を掻いた。どうも年齢的にも立場的にも、彼女は目の前の義兄には頭が上がらないのだ。それでいて自分達にとっては筆舌に尽くし難い程に助力を惜しまず、今まで何度も世話になっている。きっと、これからも今まで通りに続いて行くのだろう。

 「ははは……所でだ、フェイト――」

 クロノは椅子から立つと背後の窓のカーテンを閉め始めた。途端に部屋の明度が下がり、空間の雰囲気が変わるのをフェイトは敏感に感じ取った。

 「例の件……どうなった?」

 「…………シャーリーに頼んで解析してもらった写真……」

 フェイトが懐から取り出して渡したものは一枚の写真、つい二日前にシャーリーが解析した物を印刷したものだった。顔写真には紫苑の短髪と白磁の肌、猛禽類のように輝く金色の瞳を持つ少年が写っており、その無機質な顔立ちはまるで精巧な蝋人形か何かにも見えてくる。

 「そして、こっちが廃棄都市区画で交戦した時の映像……」

 次に虚空に展開されたのは立体映像。恐らく、バルディッシュが残した記録から抽出したものだろう。そこに映っていた人物は全部で五人……一人はフェイト、内三人は先に出撃していたヴォルケンリッターの面々……そして、最後に映り込んでいたモノは――、

 「同一人物だな。綺麗に一致している、これを他人と言う奴は居ないだろう」

 「いままで検挙してきたどの資料やデータベースにも無い、全く未知の戦闘機人…………今分かっているのは、この子が“13番目”ってことと、凄く危険と言うことだけ……」

 「第一線で活躍している実力派魔導師の君が『危険』と言うか……。確かに、ヴォルケンリッターの前衛担当が束になって掛っても結局は仕留め切れなかった程の実力者……聞いただけでも鳥肌モノだな」

 「近いうちに、もう一回スカリエッティに情報提供させることにしてる。多分……理由は分からないけど、チンク達は絶対に彼の事を知らないと思うから」

 「あのマッドサイエンティストがそうそう簡単に口を割るとは思えないな、何せ三年間も黙りを決め込んでいた男だからな……」

 「それでも、何とかして情報を聞き出すしか方法が無い……。早くしないと、取り返しのつかないことになるかも知れない」

 「熱心なのは良いことだが、そんな君に良くない知らせがある」

 そう言うクロノの表情は硬く、非常に思い詰めた感じだった。それを見たフェイトも何か嫌な予感を感じていた。

 「僕は、今回の件を上層部に正式に報告することにした。J・S事件に続く新たな戦闘機人の事件としてね」

 「そう……」

 少し俯き加減にフェイトは小さく返した。義兄の言う通りだ、病床のヴェロッサは局の管理体制の偏向を恐れて、まだ規模が小さい内に手を打っておきたかったようだったが、予想以上に敵方の動きが早過ぎたのといきなり地上本部の襲撃に当たられたことが結果的に相乗効果をもたらし、少数有志では対処出来ない状況へと悪転してしまったのだ。

 「体制偏向を懸念していたアコース査察官には悪いが、今は事件の早期解決が優先される。最早、悠長な事を言ってこれ以上事態を悪転させる訳にはいかない。それならばいっそ、人海作戦で物量押しして、一気に解決するより他無い。……敵の数が一人の今の内にな」

 「分かってる……」

 「ロッサは倒され、はやては策に嵌められ……守護騎士たちと君は敵を取り逃がした…………。次は無いんだ」

 クロノの言葉にはフェイトに対する棘は一切無かった。むしろ、提督と言う上に立つ者としての自責の念が強く込められていた。

 それから少し無言が続き、落ち着きを取り戻すと雰囲気は再びフランクなモノとなった。職業柄、切り換えは早い方が良い、いつまでも引き摺っていては業務にも差し支えるからだ。

 「そう言えば機人関連で思い出したが、本日付けで『あちら』から一人、こっちへと移送されて来るらしい」

 「うん、聞いた。えっと……確か……『7番』だったけ?」

 「そうだ。それにしても、こっちへ連れて来るのには骨を折ったよ。なかなか首を縦に振ってくれなかったものだからな」

 「元々、あの子は事件への関連性が薄かったから、丁度良かったのかもね。到着する頃にはナカジマさんの所と、教会からも面会に行くって言ってた」

 「それが良い。なにせ久し振りの再会になるからな」

 クロノは懐から出した書類に目を通した。そこには今日中に管理局のとある施設へと移送されて来るはずの人間に関するデータが記されており、予定ではあと二時間足らずで到着するはずだった。もちろん、管理局のヘリに乗ってだ。

 「かなり無理矢理な事をしたって聞いたけど……本当?」

 「まぁな、どちらかと言えば、半強制的に連れて来たようなものだ。だが、ハッキリ言えばあのようなタイプの者はもっと早期にこうするべきだったと僕は思っている」

 「どうして?」

 「僕自身、今まで様々な次元犯罪者を摘発し、中には取り調べの過程で直接面会した者も居たが……経験上、複数で行動していた輩は二種類に別けられる」

 「“主犯”と“共犯”……」

 フェイトの言葉にクロノは頷いた。複数の人間で構成された組織的犯行ならば大抵はその二つに判別されるのは自明の理と言うものだ、それは素人ではない彼女にも充分分かっている。

 「そして、“共犯”側の人間はさらに二種類に別けられる……。自らの意思で“主犯”の人間の考えや思考に同調して行動する者…………そしてもう一つは――」

 クロノの手から調書が数枚デスクに落ちた。そこには囚人の顔写真と全身を写した二つの写真が印刷されており、その人物の全体像の詳細が書かれていた。

 「――自らの自己意識無くしてただ単に盲目的に“主犯”側に付き従う者。…………『彼女』は間違い無く後者だ」

 写真の人物はまるでガラス細工のような目を寸分の狂いも無くカメラ目線で向けて来ており、無表情ながらも他者を近づけさせない頑なさを醸し出していた。ちなみに、ガラス細工と言う表現は目が綺麗だからと言うのでは無い、単に全く以てヒトとして感情が籠っていない空っぽな状態を言い表して言っているのだ。

 自主性を持たない人間ほどに恐ろしいモノは無い。特にそれが犯罪に手を染める者ともなれば尚更だ、自らの意思を持たずに命令だけに従って動く者は他者には害悪を、自身には決定的破滅しかもたらさないからだ。

 『彼女』の場合は、そうならなかっただけでも幸福と取るべきなのだろう。



 Pi――♪



 「開いている、入室を許可しよう」

 室外からのインターホンに対し、クロノは瞬時にスイッチを切り換え、完全な仕事口調で入室者を出迎えた。フェイトの方も姿勢を正して直立不動の体勢へと戻る。

 「失礼します……次元犯罪総括部捜査課からの者ですが……」

 入って来たのは細身に亜麻色の髪をした女性局員だった。新人なのか、提督であるクロノを前にして少し怖気づいているような節がフェイトには見受けられていた。

 「ん? 捜査課だと? おかしいな、何も事前連絡が無いのだが……」

 「はぁ……? ですが、私は提督殿にJ・S事件の第五次報告資料の請求は既に成されているとしか…………」

 「まぁいい、単なる行き違いだろう。第五次報告書だったな、確かここに……」

 クロノはそう言いながら席を外すと、近くに設置してあった金庫に歩を進めた。金庫の前に立つと、懐からカード型に待機中だったストレージデバイスの『デュランダル』を翳した。すると、重鎮な金庫の表面から小さなレーザー光線のようなものが伸びて、デュランダルのクリスタル部分へと到達、解析を始めた。

 金庫の中には許可無しには閲覧出来ない重要書類などが山ほど保管されている。故にこうして持ち主であり預かり主である者のデバイスに登録してある暗証認識が無ければ決して開かない仕組みとなっているのだ。

 「ふむ……。これだ、確かに渡した」

 「はい。第五次報告書、確かに預かりました。それでは、失礼します」

 紙の束を受け取ったその女性は丁寧にお辞儀をした後に、無駄口叩く事も無く早々に退室して行った。その後ろ姿を見ながらフェイトは――、

 「頑張ってるなぁ……」

 「君もそんな事言っている余裕があるのなら、早く自分の持ち場へ戻らないか。何なら……その手にある始末書を倍増してやっても良いぞ?」

 「ハラオウン執務官、これより通常業務に復帰します!」

 やはり切り替えの早さは職業柄だった。フェイトは額に汗を浮かべながらも敬礼した後、金の長髪を振り乱しながら半ば逃げるようにして義兄の事務室を退室して行った。ハラオウン家に養子として迎えられたその時から、彼女は彼に対してだけはどうも頭が上がらなく、それは十年以上経った今でも変わり無いようだった。

 「やれやれだ……。我が妹ながら毎度毎度冷や冷やさせられる。…………教育方針を誤ったか? だとすれば大変だな、あの歳であの落ち着きの無さはハッキリ言って色んな意味で命取りだ。母さんじゃないが、正直言って『貰い手』が現れるかどうかも――」

 自分一人だけの空間でクロノはブツブツと呪詛のような呟きを漏らしていた。ただ純粋に義妹の将来を案じているだけなのかも知れないが、傍から見れば単なる不審者と思われても不思議は無い程だった。

 ちなみに、それから十分後に事務室を訪れた局員によると、インターホンを幾ら鳴らしても反応が無かったので入室したところ、真剣な目つきで何かを思案している提督の姿があった為に出直したらしい。










 「情報収集は完了したわ。後はよろしくね――マキナ」

 『Yes,my lord.』

 通路を歩く亜麻色の髪をした女性の言葉に、懐のデバイスは電子音で返事を返してきた。広い通路の角でもたれ掛かっているその人物に、道行く者達は特に気にした風も無く、すれ違ったり追い越したりしていつも通りに仕事に勤しんでいた。

 ふと、一瞬だけ目を離した次の瞬間――、

 「同時に、管理局データベースに、精密ハック。ハッキング用の、回路を、開け」

 そこにさっきまでの女性の姿は無く、代わりに一人の少年がそこに居た。地上本部の局員が着用するカーキ色の制服を違和感無く着こなし、胸元の小さな階級章へと目をやるとそこには小さく『一等空曹』と記されているのが分かった。口調もついさっきまでは完璧な女性のそれだったのに対し、変身を解いた今では完全に素の喋り方へと戻っていた。

 変身魔法ではない。局内の建物の中では許可されていない場合と空間においては如何なる魔法の使用も御法度とされており、それは変身魔法も同じことだった。これこそ、彼――トレーゼが使用するISの一つ、『ライアーズ・マスク』である。顔面から頭髪、足の爪先に至るまでの身体的特徴などを完璧に偽装する為のこの能力は、シルバーカーテンが電子戦に特化した対軍用に使用されるモノだとするならば、まさに対人や潜入用には持って来いの能力だった。肌や髪の色彩は勿論、本来あるはずの無い胸元の膨らみもこの偽装の成せる業と言えよう。

 彼が来ている制服も独自のルートで調達した物ではなく、これも普段着用している防護ジャケットの表面だけをライアーズ・マスクの力を応用して『見せ掛けて』いるだけに過ぎない。

 では、そんな彼が何故身の危険を冒してまでこの時空管理局地上本部の一角へと足を運んだのか?

 否、『危険』など最初から冒してはいなかったのだ。

 「現状では、公式にも非公式にも、俺の存在は、管理局には、知られてはいない……」

 そう、管理局――特に上層部と一般局員ら――は、彼の存在を全く『知らない』からだ。。

 通常、管理世界において罪を犯した者はその規模の大小によって様々な分類分けをされるのだ。例として挙げられるのは、かつてのスカリエッティのような広域指名手配犯などがある。彼の場合は、管理局員であるヴェロッサを昏倒させたことによる公務執行妨害罪……地上本部襲撃の際の同時多発爆破による公共物破損罪に、同じく局員であるスバルとティアナを再起不能寸前にまで追いやったことによる傷害罪……そして、つい二日前に廃棄都市区画での許可されていない危険魔法の武力行使等々…………。実にそこら辺で小型の質量兵器の売買をしている違法組織の末端に比べてもかなりの罪状の数になる。

 しかし、彼の場合は違う。罪状の発生はおろか、指名手配すらされてはいないのだ。重ねて言うが、彼の存在は『確認されて』いない、管理局上層部にも、民間にも、だ。確認されていない以上、そこに彼に対する罪は生まれない上に、こうして灯台下暗しよろしく、局内を闊歩していても何も問題無い。。

 何故確認されていないのか? 

 ――然るべき人間が然るべき所へ知らせていないからだ。

 ヴェロッサ・アコースが――、 

 八神はやてが――、

 ヴォルケンリッターが――、

 ティアナ・ランスターが――、

 ハラオウン兄妹が――、

 彼らは皆総じて慎重にコトを運ぼうとしていた。そうすることで過度な混乱を避けようと奔走していた訳であり、かつてのJ・S事件の二の舞を未然に防ごうとしたのだ。

 だが彼らは慎重に『なり過ぎた』のだ。慎重になり過ぎた余りに行動が後手に回り、こうして自らの陣地に再び侵入を許してしまうと言う大失態を犯してしまった。まさに敵方にとってはこれ以上の隠れ蓑は無い。

 しかし――、

 「マキナ、回路構築率は?」

 今回の彼の目的は『侵入』ではなく、どうやら『潜入』にあったようだ。その証拠に、先程休憩所に着いて椅子に座ってから何も不審な行動は起こしておらず、まんまと提督から掠め取った資料に目を通すだけだった。一応、いつの間にテーブルに置いたのか、漆黒の立方体の自分のデバイスが卓上で時折輝いてはいるのだが、それだけで他に変化は全く無い。当然のことながら、人間やガジェットと違って手足の無いデバイスに物理的単独行動などさせられるはずもなく、今は単により詳しい情報を収集する為だけにここへと足を運んだようである。

 彼が目を通しているモノはJ・S事件について管理局側が入手したありとあらゆる情報を詰め込んだ代物で、正式名称を『J・S事件第五次報告資料』と言うモノだった。事件解決からこの三年間で首謀者であるスカリエッティが関わったとされるあらゆる企業・組織・次元世界に対して調査を行った重要資料で、最新版のこれにはその情報がふんだんに盛り込まれていた。

 だが、彼はそんなものなどには目もくれず、次々とページを捲って行く。彼が求めているのはコネでは無い、そんなものは目的を無事達成出来た後で幾らでも繋がりを作ることは出来る。今は重要なことではないのだ。

 「…………」

 彼が得たかった情報……それは、自らの兄妹であり、今は別世界で幽閉されている同胞達のデータだったのだ。

 「…………」

 通路からの喧騒を完全に無視すると、彼はさっきとは打って変わって静かに紙面を読み始めた。ゆっくりと、吟味するように……。

 まず一番初めに目に映ったのは、全ての計画の指揮官であり自分達の創造主である男。もう少し伸ばせば肩まで掛かりそうな紫紺の髪と、爬虫類を彷彿させるその金色の目つきの持ち主――、

 「ドクター……我らナンバーズの、偉大なる創造主にして、計画の頂点に、立つ御方……」

 次にページを捲ると、そこには口元に笑みを浮かべた妙齢の女性が居た。薄紫の長髪は流麗に背中へと流れ、一見優しげな表情の奥から古参としての確かな威厳を醸し出すその女性は――、

 「ウーノ……ナンバーズの、頭脳にして、ドクターの右腕……」

 次に見たのは後ろ髪を二つに分けて結び、度の入っていない伊達眼鏡を掛けた少女。愛想笑いのそれは表面だけだと言う事が見ただけで分かるその少女は――、

 「No.4『クアットロ』……ドクターの因子を、受け継いだ、最後のナンバーズ……」

 そして、右手の指が次のページを開いた時、彼の視線が……ほんの少しだけ揺らいだように見えた。それはたった一瞬の出来事だった為、誰一人として気付くことは無かったが。

 彼の眼球が捉えたモノ――、それは一人の女性の写真だった。艶やかな飴色の長髪はウーノのそれとは違ってストレートに伸びており、口元に浮かべていた笑みには不敵かつ妖艶な感覚が含まれていた。だが、そんな彼女の写真のすぐ横には、ある単語が記されているのが見て取れた。

 『死亡』、と。

 「…………ドゥーエ……計画から、離脱」

 トレーゼは表情筋一本動かすことなく、冷酷なまでに事務的な口調で、かつての同胞の死を憐れむこともなく戦線からの離脱を宣告した。そこには慈悲や感情など一切入り込まぬ、まさに“絶対領域”を体現していると言えた。

 その指は最後のページを捉え、ゆっくりと一律の速度で開いて行き……

 「………………あぁ……」

 最後の人物、それは先の三人とは様々な点で違っていた。まずはその体の作りからして違っていた、他のメンバーが基本的にスレンダーな体つきに対して、彼女は衣服の上からでも一目で分かってしまう程の筋肉質なボディをしていたのだ。もちろん、元の素体が女性なので男性と比べれば大したモノではないのは分かる。それでいてなお、彼女の肉体は明らかに戦闘……それも接近戦に長けた作りをしていることを認識させられた。

 濃い暗紫色の短髪に、精密部品を埋め込まれた金色の瞳に宿る鋭い眼光、そして肉体増強による副作用にも思える程の長身――、

 「トーレ……全ての、戦闘における、最重要存在……俺の、“――――”」

 静かに目を閉じるトレーゼ。その白い指先が初めて紙面の文字列から離れ、写真に映る人物に伸びてその表面をゆっくりと撫でた。

 その一瞬だけだった。表情や感情らしきものをまるで持っていないかのように見えていた彼が、感概に耽るかのような仕種を見せたのは。

 「…………」

 次に彼に対して注意を向けた時には、既に彼は資料冊子を閉じ込んでおり、テーブル上で沈黙していた自分の得物を掴み上げていた。先程まで忙しく明滅を繰り返していたそのデバイスもとっくの昔に作業を終えたらしく、AIを埋め込まれていないストレージらしく黙って主を待っていたようだった。

 「マキナ、データベースへの回路、開いたか?」

 『Already.(完了した)』

 「シルバーカーテン全開……。俺の存在を、隠蔽しつつ、管理局データベースの、第二層までの情報を、ハッキングする。ハック後は、入手した量子情報群を、デバイス内の、記憶端末に蓄積」

 『Yes,my lord.』

 忠実な機械である彼のデバイスはインテリジェントとは違い、無駄口など一切叩かずに命令を実行に移す。誰が言ったかは知らないが、ストレージデバイスはAIによる意思を持たない代わりにその処理速度が速く、特にこの様な事務的且つ単純作業については人格型のデバイスには出来ない芸当をやってのける節があった。故に彼のデバイス、『デウス・エクス・マキナ』も例外ではない。現に開始から約数分後には既に難攻不落を誇るはずの時空管理局のデータベースに風穴を開け、量子情報を横流しする為の連絡通路を構築してしまっていた。もちろんこれには持ち主であるトレーゼが今発動させているIS、『シルバーカーテン』による電子偽装効果が後押ししている所為もあるだろう。しかし、管理局の全てが詰まっているデータベースに侵入すると言うことは、分かり易く言い表すならば、隙間が全くない鋼鉄の城壁に裁縫針で穴を開けて突破しようとするのと同義なのだ。つまりは“不可能”、かつて何人もの次元犯罪者達が管理局の転覆を狙い、その外堀を埋める為にとハッキングを試みたことが多々あったが、そのどれもが鉄壁のプログラムを看破することは適わなかった。

 だが彼は違っていた。過去にデータベースに手を出した次元犯罪者達に共通していた事項は、「一気に本丸を狙おう」としたことだった。事を急いた彼らは充分な段取りが出来ていない内に行動に移り、その結果として逮捕された…………その様なヘマを、ここまで来た彼がするはずも無い。

 全部で七層から成る管理局のデータベースは奥へ侵入する毎にその警戒プログラムのレベルが桁単位で跳ね上がっていく仕組みになっている。森林の奥地へ進めば進むほどに埋没している数が増える地雷原を想像すると分かり易いだろう、不用意に走り切ろうとすれば即刻“お陀仏”と言う実にシンプル且つ確実な方法だ。数あるプログラムの中にはウイルスを入れ込まれた時の為に、逆に送り主に対してそれ以上に強力なウイルスを構築して送り返すと言った手の凝ったモノもまである。

 それに引き換え、彼の侵入した第二層は登録してある情報の重要度の比較的低さから警戒レベルも低く、精々管理局に籍を置いている局員の誰がどの部署のどこの課に勤めているのか……武装隊なら手持ちのデバイスは何かと言う程度にしか分からなかった。第四層かそれ以上先へ行けばそこいらの成り立ての執務官などではアクセスすることが出来ない情報が入手出来るはずで、彼の能力を以てすれば時間は多少掛れど不可能ではないはずだろうに、何故そのような回りくどいことをしなければならないのか……それだけが不明だった。

 『My lord,collection assignment information at the complete(指定された情報の収集を完了した)』

 「把握した。コード169に対応した『ボム』を、設置……。その後、侵入回路と、痕跡を、消去せよ」

 『Practicing now.(現在実行中)』

 現在するべき事柄を全て終えたのか、彼はここへきて初めて椅子の背もたれに寄り掛かった。表情こそ変わりは全く無いが、かなりの体力を消耗したらしく、少しの間だけ眠るようにして目を閉じていた。

 「………………………………!?」

 どれ位の間そうしていたのかは分からないが、彼は突然跳ね上がるようにして飛び起きると、卓上の資料冊子を再び開き出した。最初に開いた時とは違い、ページの隅から隅までを全力で一気に捲り立てて必死に何かを探していた。だがしかし、やがて自分の求めていたモノが無いことを知ると、彼は一言だけ――周りに聞こえない位小さな声でこう呟いた。

 「……一人、足りない……?」



 同時刻、提督クロノ・ハラオウンの事務室にて――。

 「――――――ん? しまった、僕としたことが……!」

 長きに渡る思考の海から帰還していた彼は、部署からの届け出があった大量の書類にサインを振っている途中であることに気がついた。すぐに彼はデスクの引き出しから数枚の資料を取り出してそれを卓上へと置いたのだが……

 「困ったな……さっきの捜査課から来た彼女にこれを渡すのを忘れてしまっていた。渡そうにも名前は分からんし……課の方に直接届けようにも僕自身暇じゃないし、どうしたものやら」

 溜息が一つ。クロノはそれらの紙面をまじまじと眺めながら、どうやってこの重要書類を届けようかと言う議題に頭を悩ませていた。

 「完全にこちらの不注意だな……。拘置所から移されて来るものだから、つい冊子から除外してしまっていた」

 彼が持っている紙面は、本来ならばさっき訪れた捜査課の女性に渡すべき資料冊子に含まれている物であり――、

 彼の義妹、フェイトに見せた物と同じ物だった。



 午前9時21分の出来事であった。










 午前9時34分、地上本部正面玄関前にて――。

 「へっきし!」

 赤毛の短い髪を揺らして一人の人影が盛大にくしゃみを放った。あんまりにも大きな声だったので、通りがかりの局員らの何人かが振り向いたが別に大した異常ではないのですぐに見て見ぬふりをして通り過ぎて行く。そんな薄情な人達を尻目に、彼女はポケットから出したチリ紙で鼻から飛び出していた分泌物を拭き取っていた。

 「寒ぃ~! あ~ぁ、早く来て損した」

 玄関前でブツブツと悪態をついているのはナカジマ家の一員にしてナンバーズの九女、ノーヴェ・ナカジマだった。冬らしく色の濃いカジュアルな長袖の服装に身を包み、手には手袋、首にはマフラーと言った完全防備な出で立ちは彼女が寒さを苦手としていることを暗に示していた。それに加えて彼女の鼻からは先程からずっと風邪でも引いたのか赤らんでおり、厭に水質性な鼻水を垂らし続けていた。

 彼女は誰かを待っていた。既に玄関前にやって来てから十分近くが経過し、それでいて尚中へ入ろうとしないその姿は誰の目から見ても人待ちの様子だと言うのが分かる。しかし、彼女以外にナカジマ家の人間は全く見当たらなかった。謹慎中のチンクと入院中のスバルはさておき、家長のゲンヤを始めとし、長女のギンガと婚約者のカインも、生真面目な姉のディエチや陽気な妹のウェンディも……彼女以外は全く以てその姿がなかったのだ。まさかこのタイミングで全員が下の用を足しに行ったと言うのも考え難い訳であり……

 「ったく、皆で揃ってスバルの見舞いに行っちまいやがって……。あー、くそっ! もう待ち合わせの時間過ぎてるってのに!」

 鼻を啜りながら悪態を呟く彼女は右掌を自分の耳に当てると、意識を集中させた。

 「オットーに聞いてみっか。いい加減遅ぇんだよ」

 脳神経に外部からの電気刺激を与え、大脳内に埋め込んである通信端末を起動させると、彼女は登録してあるメンバーの一人を脳裏にイメージすることでアクセスに成功した。機人の長距離通信の仕組みは科学的エネルギーに頼っているかそうでないかだけで、基本的なプロセスは魔導師が行う念話と大して変わりは無い。

 「あー、オットーか? ……そうだよ、何やってんだ、集合時間過ぎてんだっつってんだよ!! …………はぁ!? ……え~っと、つまり、『セインが逆さ吊りのままでケツをアームドデバイスで往復殴打させられたから、回復するまで待ってろ』ってことか?」

 妹からの連絡で頭に思い浮かぶのはウェンディ並みに陽気で少しバカな姉の顔だ。またあの姉が懲りずに厄介事を発生させたと知って、ノーヴェは怒りよりも呆れの方を強く感じていた。

 「分かったよ…………へ? 風邪引いてんのかって? あぁ、二日前に毛布も何も被らねーで寝ちまったから鼻の調子が悪ぃーんだ。…………は? 違うって! 暑かったんだよ、あの夜は! 本当だっての!」

 何か気に喰わないことでも言われたのか、彼女は風邪気味の顔をさらに赤くして数キロ以上離れた所に居る妹に対して怒鳴り散らした。道行く人々の視線が突き刺さったが別に気にせずに会話を続行する。

 「ズズッ………とにかく、セインのバカは蹴り飛ばしてでも連れて来い。こっちは寒いってのに朝っぱらから早起きして集合場所まで来てやってんだよ! じゃあな、切るぞ」

 半ば一方的に通信を切断した後、ノーヴェはさっさと管理局の建物の中へと入り込んだ。ミッドの寒風は彼女の防寒装備を以てしても防ぐことは出来ず、寒がりな上に風邪を引いているノーヴェの体には酷だったのだ。中へ入ると、外とは打って変わってすぐに暖房の温風が彼女の体を包み込んで体温の上昇に貢献してくれた。もうここまで来れば手袋とマフラーは必要無い、彼女はすぐにそれらを外すと、手袋はポケットに仕舞い込み、マフラーは小さく折り畳んで腕に挟んだ。

 「暇だなぁ……。訓練室使おうにも、あたし一人でやってたって何の練習にもなんねーし……」

 しつこく流れ出ようとする鼻水を数秒置きに吸い上げながら彼女は奥へと向かって行く。途中で顔を見知った局員らの何人かがこちらに挨拶してはくるが、ノーヴェは会釈のように軽く頭を下げるだけであり、すぐにそっぽを向くと足早に通り過ぎて行ってしまう。ゲンヤが言っていた対人関係に難有り……と言うのはあながち間違ってはいないようだった、一種の照れ隠しか何かから去来するしかめっ面の所為で、先に挨拶してくれた方が逆に怯えてしまい、意図せず先方に負の印象を与えてしまっていた。自分と反対方向に去って行くその姿には目もくれず、彼女は暖かみを求めて先へと進む。意図していないとは言え、人から避けられるのはもうとっくの昔に慣れていたし、自分は外交的な姉や人付き合いが得意な妹とは違ってそう言うのが得意ではないことも充分に理解していた。だから、今更ショックなどは受けない。

 どれ位歩いたのか、やがて彼女はシフトを終えた局員らが集まる休憩所へと足を踏み入れた。適当に空いている席を見つけるとそこの背もたれにマフラーを掛け、ホットコーヒーを淹れるべくすぐ近くの給湯ポットへと向かった。

 「はぁ……」

 寒風吹き荒れる中で数分以上も待たされていたノーヴェの体温がコーヒーを流し込んだことで胃の奥から上昇してきた。

 改めて脳内の通信端末を開き、見舞い中の姉妹から連絡は無いかと思って確認して見ると――、

 「やっとこっちに来るのかよ。遅ぇんだよ」

 電波信号による連絡はディエチからのもので、たった今医療センターを出てこちらへ向かって来ていると言う内容だった。

 妹のスバルは未だに昏睡中だ。とっくの昔に峠を越えたにも関わらず、左腕以外の四肢を断絶された彼女の意識は戻って来てはいなかったのだ。担当医師の話によれば、彼女の肉体自身がこれ以上の負荷や疲労を蓄積しないように、自動的に一種の冬眠状態に陥らせることでそれを解決していると言うのが見解らしい。戦闘機人には肉体の酷使によるフレームや回路の劣化を防ぐ為の措置として自己オミット機能がプログラミングされている。恐らくスバルもそれが働いているだけだろうから、四肢の傷さえどうにかしてしまえば自然と目を覚ますはずだ。

 「それが出来れば苦労しねーんだよ……」

 文字通り自分と血肉を分けた姉妹の姿を思い浮かべながら、ノーヴェは苦々しく呟いた。実を言うと、彼女は一度もスバルの見舞いには行っていないのだ。管理局に籍を置いているとは言え、元次元犯罪者の彼女ら『N2R』は一部では疎まれている節もある為緊急時以外ではそれほど出動要請は無い。その為、ノーヴェ自身が多忙で行けないと言うのではなく、単純に彼女自身の意思で行かないだけなのだ。

 「あいつは……あんなコトぐらいでくたばっちまうタマじゃねぇ……! 絶対に…………!」

 そう、彼女は信じていたのだ。かつては敬愛する姉を追い詰め、完璧な統制の取れていたはずの自分達姉妹を完全に敗北へと引き摺り下ろした…………そんな彼女がこれ位の苦難で潰えてしまうなど、到底考えられず、考えた事も無く、同時に考えたくなかったのだ。

 それに、彼女は襲撃のあったあの日、一度見てしまったのだから…………










 「スバルっ!? おい、どうしたんだよ! 返事しろっての! スバルッ! スバルッ!!」

 時を遡り11月9日――、地下搬入通路の真ん中に開けられたクレーターの中で、ノーヴェは必死に妹の名を呼んでいた。抱きかかえた妹の顔面は既に彼女が駆けつけるまでに大量の血液が抜け出てしまった所為か蒼白であり、半開きになった両目には生気が宿ってはいなかった。それでもノーヴェは一心不乱にスバルの上体を揺らし続ける。その姿を見れば誰もが彼女が混乱していると言うのが分かっただろう。

 「ノー……ヴェ……」

 「え……? ティアナ? 何だよ、今話し掛けてくんじゃねぇ! スバルが……スバルが……!!」

 直ぐ近くの壁際ではオレンジの髪を血に濡らしたティアナが擦れた声でノーヴェの名を呼んでいた。彼女もスバル程ではないが、両脚は所々に裂傷が入り、今でこそ血液の流れは収まってはいるものの、足元の血溜まりは傷の深さを無言で語っていた。それでもなお彼女は折り曲げそうになる膝を鞭打ち、ノーヴェの元へと歩を進めて来た。腕に何かを抱えているようだが、そんなものは今のノーヴェの眼にはハッキリ見えてはいなかった。

 「落ち着きなさい! 一度しか言わないから良く聞きなさい! 良いわね、あんたは今からスバルを背負って上の階に行きなさい。上に行ったら誰でも良い、最優先で医療班を呼ぶのよ!」

 「え、うぇ……!?」

 「一度しか言わないって言ったでしょ! さっさと行くのよ」

 「でも、それじゃあお前はどうなんだよ!?」

 「今の現状見て分からないの! 私とスバル……どっちが重傷なのか、見ただけで分かるでしょ!!」

 「うぅ……」

 いまこうしている間にも、腕の中の妹の体温は徐々に低下して行き、呼吸も浅くなっているのが嫌でも分かっていた。最早事態は一刻の躊躇も許されはしない状況へと陥ってしまっていたのだ。

 「分かったなら……『これ』も一緒に持ってくのよ……」

 「な、何だよ、それ…………ひっ!?」

 ティアナから差し出されて腕に捻じ込まれたモノ……それは、鋭利な刃物か何かで寸断されたスバルの手足だった。思わずノーヴェは胃がむせ返る感覚に口元を手で覆う。戦闘機人である彼女は今まで多くの人間に危害を加えてはきたが、正直ここまで残酷な事はしたことが無かったし、見たことも無かった。そのため、災害現場で働く者とは違って耐性の無いノーヴェは本体から分断された手足を見た瞬間に、生物として生来持ち合わせている生理的嫌悪感に襲われてしまった。

 「あ……え、あぁ……!」

 「何ボサっとしてんのよ!? 早く行きなさい!」

 「で、でも――」

 「良いから早く行けって言ってんのよ!! 撃たれたいの!!」

 いつまでも混乱状態に陥ったままのノーヴェに痺れを切らし、遂にティアナは彼女の鼻先に魔力弾を向けた。

 「ッ!!?」

 オレンジ色のそれは普段彼女が連発しているものに比べるととても弱々しく、半径も当然と言わんばかりに小さなものだった。既に気絶していてもおかしくない状態で作り出したものなので、今にも消えそうだったが、混乱していたノーヴェの意識を正常へと戻すには充分だった。

 「…………分かった、行って来る。必ずお前も助けに来るから、待ってろよな!」

 ノーヴェが立ち上がるとスバルを抱きかかえていた腕から溜まっていた血液が流れ落ちた。急がねば! 階段を駆け上がっている余裕はもう無い。建物の構造図を一瞬で脳裏に展開した彼女は頭上に向けてほぼ垂直に黄金の道を発現させた。

 「うぅぉおおおりゃあああああっ!!!」










 あの直後、医療班を捕まえて応急処置後、現在スバルはなんとか一命を取り留めることに成功した。だからなのかも知れない…………ノーヴェはもう一度妹のあの姿を見てしまったら、今度は信じられるかどうか不安だった。他人からすれば只の身勝手だろう、自分のエゴの為だけに身内の安否すら気遣ってやれないと言うのは一見酷な話であることは間違いない。

 だが、勘違いしてはいけない。彼女は戦闘機人なのだ、つまりは『生み出された』存在……。これが外界の人間社会での経験が高いチンクや、元々対人用に開発された今は亡きドゥーエあたりならば綺麗に割り切ることが出来たのだろう。しかし、彼女らは違った。先発組の五人とは違い、生み出されて間もない後発組みは総じて常人とは良くも悪くもかけ離れた考えをしているのだ。それに彼女らも元々は戦う為だけの道具として造られ、それ以上も以下も以外の意義は持ち合わせるはずはなかったのだ。つまり、彼女らは自らの心に完全にセーブを掛けることが出来ないでいるのだ、一度親しくなった者が傷つけば、簡単に割り切る事も出来ないし、普通の人間よりも深く考え込んでしまう。

 「…………ごめん、スバル……今はあたしの勝手で見舞いには行ってやれねぇ……。でも、必ず……必ず……!」

 右手のカップにヒビが入る。明らかに常人の倍以上の握力が掛かっているのが分かり、彼女の表情筋も怒りによって引きつっていた。脳裏に浮かぶのはあの日、自分を出し抜いてまんまと逃げ果せた顔も分からぬ敵の姿……。

 「あいつをブチのめすまで待ってろよ」

 改めて決意を固めた彼女は心中を表すかのようにして一気にコップの中身を飲み干した。かのじょの胸中に渦巻いているのは炎だ。かつてチンクを傷付けられた時に精神を満たした怒りの炎、ドス黒く熱い憤怒の感情が再び彼女の心を焼き焦がし始めていたのだ。そして、その炎はノーヴェ自身が目的を完遂するまで消えることは無いことも、明らかだった。

 充分体も温めたことで同時に暇つぶしにもなった彼女は、席を立つと再び玄関前へと戻ろうとした。もうすぐ見舞いに行っていたゲンヤや姉妹達が来ている頃かもしれない、教会のセインについてはさっきの通りに叩いてでも連れて来るように言っておいたのでそちらも問題は無いはずだ。チンクが未だに謹慎命令に服していると言うのは彼女にとっては腹立たしいことこの上無かったが、敬愛すべき姉が取った行動は尊重する主義だ、今更どうこう言うつもりはない。

 「……あれ?」

 マフラーを巻き、手袋も付けた彼女の視界に何かが留まった。すぐに頭の中の膨大な記憶の海から『それ』に関する情報を掻き出すと、あてはまる一つの事項を発見することが出来た。

 それは『人物』……もちろん、自分の知っている人間だ。でなければ自分の記憶にあるはずが無い。

 その人物は休憩所の片隅に佇んでおり、自分に背を向けていた。何やらテーブルの上で作業に勤しんでいるようだったが、如何せんこちらからでは見えなかった。その後ろ姿に少し躊躇いを覚えながらも、ノーヴェはそちらへと足を運ぶことにした。

 ゆっくりと後ろから接近するが、相手は集中していてこちらには気付いておらず、振り向きもしない。そんな相手に彼女は少しずつ距離を詰め、やがて数十センチの所まで来るとその腕を伸ばして……

 「よっす! ティアナ」

 「あぁ、誰かと思ったら……」

 肩を叩いた。その女性はオレンジの長髪をなびかせるとこちらを振り向き、手にはさっきノーヴェが飲んでいたものと同じコーヒーを入れたカップを持っていた。執務官ティアナ・ランスターはテーブルに備え付けの椅子ではなく、医療センターから貸し出されている車椅子に腰掛けており、ここからでは見えないが制服の下の両脚は包帯で何重にも包まれていた。

 「この時間って仕事じゃねーのか?」

 「まぁね……。本当ならそうなんだけど、怪我人待遇って言うのかしら……普段ちゃんと仕事に従事してると、こう言う時にちょっとは融通してもらえるようになってるのよ」

 「ふーん……あ、そ。隣いいか?」

 「嫌なら今頃あんたが話し掛けて来ても無視してるわよ」

 お互い少し捻くれている者同士、何か通ずる所でもあるのか、思いの外この二人は公私共に接点が多い。純粋にティアナ自身がスバルを始めとするナカジマ家の面々との接点があることもあるのだろうが、ノーヴェがスバルと訓練をする場合には殆どティアナも一緒にやらされている事が多いのだ。もちろん、ティアナのシフトが空いた時にやるのだが、いくら武装執務官とは言え苛烈な仕事の合間に戦闘訓練は正直キツイ訳で、いつも愚痴を漏らしてはいたが。

 「んあ? お前、いつも車椅子押してるあの男はどこだよ? 便所か?」

 「男……? あぁ、ヴァイス陸曹ね。あの人なら、早朝から西部の地上支部に出向中よ、ヘリで海上更正施設まで運んで欲しい人が居るんですって」

 「ふーん……」

 「ちょっと大変だけど、慣れれば簡単な腕のトレーニングになるわよ、これ」

 「遠慮しとく……」

 あらそう、と言ってティアナは飲み掛けのコーヒーを口に含んだ。彼女の嗜好からか、砂糖抜きの完全なブラックモーニングではあるが、どこかの“超”が付く位に甘党な統括官とは違い、強烈な苦みに表情一つ変えること無く喉に流し込んでいる。後で聞いた話によれば、元々眠気覚ましに飲み始めたらしいのだが、毎朝飲んでいると自分でも気付かぬ内にハマってしまったらしい。

 「……………………」 

 そんな彼女の姿を目にしながら、ノーヴェは何だか良く分からぬ居心地の悪さを感じていた。いつもはここにもう一人居るはずなのだ、バカに見えても実は努力家で誰よりも頑張りを見せているもう一人が…………今はここには居ない。いつも三人で居ることが多かった為、それが当然だと思っていた。その所為か、たった一人欠けてしまっただけでもその穴が途轍もなく大きく感じられてしまうのだった。今こうして居るのだって、本当は神経が磨り減る思いなのだ。

 だが――、 

 「……そんなショボっ垂れた顔してたら、こっちまで辛気臭くなるからやめなさい」

 「っ!? …………やっぱ分かっちまうよな……」

 「当然よ、こっちだって伊達に執務官やってないんだから。それに、あんたはあいつに似て単純だから、顔見ただけで何考えているかなんて分かるわよ」

 「さり気なく好き勝手に言いやがって……」

 「事実でしょう? でもね……これだけは言っとくわよ」

 「な、何だよ……?」

 わざわざ車椅子の車輪を動かして自分の方に顔を近づけて来たティアナに只ならぬ雰囲気を感じ取ったのか、ノーヴェは少し身じろぎながらも彼女の目を見つめて耳を傾けることにした。元来、生真面目と言う言葉を体現している彼女は冗談を殆ど言わないし、言ったとしても区切りを持っている。さっきは少し冗談が入ってはいたが、今度のそれは一部の冗談や隙が無いのは目に見えていることだった。

 「あんたがスバルのことで思い詰めているのは分かる……仲間だし、家族だし、何よりも姉妹なら当たり前よ。それをどうこう言うことは私にも出来ない……けどね、余りいつまでも引き摺ってたら元も子も無いんだから」

 「? ……どう言う意味だよ」

 少し納得がいかないノーヴェの表情にティアナは一瞬だけ瞳を曇らせたように見えた。何か自分の奥底にも引っ掛かるモノがあるのだろうか、そう思ってノーヴェが問おうとすると――、

 「昔ね……一人の女の子が居たの……」

 「え?」

 「その子はね、平凡な……そう、街に行けば何処にだって居るような普通の子供だったのよ。でもね……ある日突然その子の耳に、たった一人の肉親だった兄が死んでしまったって聞かされてきたの……。それでね、気付いちゃったのよ……自分の兄が自分にとってどれだけ大きな存在だったのか、ってね……」

 静かに語りながらティアナは右手のカップをグルグルと回していた。しかし、その表情は悲しみの静寂に満たされているのが分かった。既にコーヒーは飲み干され、中に微量に残っている分が重力に逆らう事無く底面を流れている。

 「だからね……その子は自分の兄と同じようになりたかったんだと思うの。兄が居た場所に行きたくて、兄が目指した何かを追い求めようとしていた……」

 「それが……あたしとどう関係あるんだよ」

 「話はそこからよ。その子は年を重ねるごとに成長していった…………訓練校を首席で卒業して、兄の居た管理局へ入局……」

 「へぇ、どこの誰か知らねえけど、良かったじゃん」

 「でもね、失敗したの」

 「え……?」

 ティアナの口から聞こえて来た言葉にノーヴェは一瞬だけ硬直した。“失敗”……? 何を言っているのだ、さっきまでは何事も無く、むしろ順風満帆で行けているような口振りだったはずだ。それが何故?

 「どんなに頑張っていても、それは自分の為や、まして今近くに居る仲間の為でもなくって、もう居ない自分の兄へ近付こうとしている行為に過ぎなかったってことよ。自分以外の周りが見えていなかったその子は必死になって失敗の穴を埋めようとした…………けど、それでもまた失敗した……。理由は簡単よ、始めに言ったけど、その子は『平凡』な存在だったの。特にこれと言った才能や素質も無くて単純に努力しか出来なかったその子は、周囲の仲間達に引き離されそうに感じたのもあって、失敗の穴を埋めようとして別の失敗…………自分の失敗を許せなかったその子は責任を感じて自分を追い詰めて行ったわ……自滅寸前にね」

 「自滅って……」 

 まるで大した事無いとでも言わんばかりに軽く言ってのけるティアナの口振りに、暖房が利いているにも関わらずノーヴェは少し身震いしてしまった。対してティアナの方は特に大した変化を微塵も感じさせていなかったが、その双眸はどことなく悲しげに遠くを見つめているような気がした。

 「……それで……どうなったんだよ?」

 「結果的に言うと、その子は立ち直ったわ。周りの応援と上司の後押しが無かったら今頃どうなってたか分からないけどね」

 「あ、そ。それで? そいつとあたしがどう関係してんだよ」

 「分からない? 要は『いつまでも気持ちを引き摺ってるとロクな事が無い』って言いたいのよ。あんたは私と違って神経が太いから、そんな無駄な心配しなくても良いのかもしれないけど……」

 「一言多い上に余計なお世話だっての! もういい、行くぜ」

 「そうね、長いこと引き留め過ぎたかしら……。重ねて言うけど、あんまり気にしない方が良いわよ、本当に。じゃないと……その子みたいにとんでもない目に合うから。あんたの為に言ってやってるんだから」

 「ご親切にどーも。そいつがどこの誰かさんかは知らねぇけど、あたしはそこまで『バカ』じゃねーよ」

 「あらそう……。言っとくけど、その『バカ』な子は……もしかしたら案外近くに居るのかもしれないわよ?」

 そう言ってクスクスとわざとらしく微笑んでいるティアナに、とうとうノーヴェは明確な悪寒を覚え、頬を伝う冷や汗が滂沱のように流しながら脳裏にて静かにこう思った。

 (なんか……地雷踏んじまったかな……)










 午前9時48分、南口玄関付近の受付場周辺にて――。

 「あ~ぁ、それにしても、あと少しで松葉杖に乗り換えられるって言うのに、それまでは車椅子だなんて……」

 ノーヴェとの交流を経たティアナは「やれやれ……」と言いたげな表情で車椅子を両手で漕いで移動していた。さっきはノーヴェに対して「トレーニング」などと軽く言ってしまったが、実際はこれ、かなりキツイ。車輪を一回転させる度に腕の筋肉を振り絞るようにして力を出し、その度に体重を掛けている箇所が軋む音を立てていた。ちなみに、彼女の名誉の為に言っておくが、体重を掛ける度にギシギシと音が出ているのは彼女が重いからではない。例え重かったとしても、それは六課時代に鍛え上げられた鋼の筋肉の所為であり、断じて訓練の怠りから去来した贅肉などではない。

 彼女は下半身の怪我具合から他の者よりも遅い10:00からの勤務となっている。あと十分で勤務先まで戻らねばならないが、それまでにあと車輪を何回転させねばならないのかと考えると、限り無く憂鬱だった。

 「ヴァイス陸曹……早く戻って来てください」

 今は仕事でミッド西部へと向かっている想い人の顔を思い浮かべながら、ティアナは職場への道程を少しずつ漕ぎ出そうと再び両腕に筋力を集中させようとした。



 「ティアナさん――?」



 ふと、背後から耳に届いた聞き覚えのある声に、ティアナはすぐさま左右の腕を反対に動かして車椅子を回転、声の主を視界に収めた。

 「あら……」

 まだ声変りもしていない、少女と聞き間違えそうな高い声の発生源は“少年”だった。自分よりも年齢も身長も下の少年がこちらへ手を振りながら歩いて来るのが見えていた。記憶の糸を手繰り寄せるまでもない、彼女の良く知っている人物なのだから。

 一目で目を引く真っ赤な髪と、対を成す済んだ蒼い瞳のその少年は――、

 「エリオ? 久し振りじゃない。どうしたのよ、急にこんなとこまで来て」

 「どうしたの……って、それはこっちのセリフですよ! 地上本部が襲われて、スバルさんとティアナさんが大怪我したって聞いてどれだけ心配したと思ってるんですか!?」

 「えっ? いやでも……わざわざこっちに来てくれる程心配しなくても――」

 「僕…………来ちゃいけませんでしたか……? 本当に心配で心配で……キャロやフリードと一緒に保護隊の仕事を前倒ししてまで休暇作って来たんですよ……」

 「うぅ……!」

 エリオは良くも悪くも純粋な人間だ。そんな純粋な濁りの無い眼差しで訴えられたら何も反論出来ないと言うのが世の常であり、ましてやその視線が目元に涙を溜めていようものなら効果は抜群な訳で……。

 「あんたはいつまでもそのままでいてね、エリオ」

 「上手い事言って誤魔化そうとしてませんか?」 

 年長者らしくここは頭を撫でておくことにした。とは言っても、13歳にも関わらず長身なエリオに対してティアナの方は座った状態だったので、両者の身長差は殆ど無いに等しいから若干変な格好になってはしまったが。

 「そう言えば、キャロはどこなのよ? 一緒じゃなかったの?」

 「キャロはフリードと一緒にそこの休憩所の椅子で寝てます。向こうを朝一番で出立してきましたから……」

 「何もキャロまで一緒に連れて来なくても良かったんじゃないの?」

 「僕もそう言ったんですけど、半分無理矢理ついて来ちゃって……。ついこの間も希少種の竜の捕獲作業で無理させてしまったばかりなんですけど……」

 「大変なのね、あんた達も。言っとくけど、女の子一人大切に出来ないようなら、あんたもまだまだ未熟よ。しっかり守ってあげなさい」

 「な、何でそこでキャロだけを掻い摘むんですか!?」

 「あら? 私は別にキャロだけなんて言ってないわよ。女の子なんてどこにでも居るし……」

 「ティアナさんっ!!」

 からかわれた事に顔を赤くして怒るエリオを見てティアナは、やはりまだ子供だな、と実感した。機動六課時代から変わらない……エリオとキャロ、二人はどこまでも純粋だ。自分達の弟や妹のような存在だったこの二人――、

 (どうか……この二人がいつまでもこのままでいてくれますように……)

 未だに顔を真っ赤にしている彼を笑いながら宥め、ティアナは切にそう願っていた。彼女も例外無く、目の前の『弟』が可愛くて仕方が無いのは同じなのだ。










 「おーし! 全員居るなぁ?」

 数分前、正面玄関前の駐車スペースにてちょっとした人だかりが出来あがっていた。パッと見て10人は居るその集団は男性が二人しか居らず、あとは平均して全員10代後半の女性ばかりだった。やはり女と言うこともあってか、ざわざわととても喧しくしている彼女らに対して、一番の年長者である初老の男性が点呼を取ろうと号令を掛けた。

 「教会組は全員居るよ…………尻が痛い」

 淡い青の髪のシスター服姿の少女が自分の臀部を痛々しく擦っている。何やら頑丈極まりない何かで思い切り強打したようだが、ここはあえて聞かないでおこうと全員の意思が暗黙の了解で全会一致していた。そんな中でも、特に彼女の脇に居る長髪と短髪が対照的な二人の少女は揃って溜息をついており、その表情は殆ど呆れが入っていたりもした。

 『チンクとスバルを除き、ナカジマ組も全員集合している。と、我がマスターは申しております』

 「よぅし! じゃ、全員こいつに乗り込みな」

 そう言って白髪頭の男性――ゲンヤが指差したのは、明らかに中で一晩は過ごせるのではないかと思えるような特大サイズのワゴン車だった。運転席と隣の助手席に二人で、あとは後方の三人分×2で充分間に合う程だった。

 「あれぇ? パパリンってこんなデカい車持ってたッスか?」

 「いや、これは陸士部隊の部下が持ってる奴なんだがな、こんな大所帯で行くのにウチの車じゃ手に追えないってんで貸してもらったんだよ。あと『パパリン』はやめろ」

 そう言いながら彼は運転席に乗り込み、シートベルトを肩から掛けてキーを差し込んだ。燃料がエンジンに点火し、荒々しい音が辺りに響く。

 「取り合えず早ぇとこ乗れ。時間がねーぞ」

 「うぃーっす!」

 「分かった分かった……」

 「おじゃましまーす」

 そこから先はヒヨコの行列である。全員が乗り込んでドアを閉めると同時にゲンヤはアクセルを踏んでハンドルを切り、駐車場から抜け出した。取り合えず内部の様相はと言うと、運転席にゲンヤで隣の助手席にカイン……あとの女性陣は一列目にギンガ、ノーヴェ、ディエチで……あとのウェンディ、セイン、オットー、ディードは二列目ですし詰め状態となっていた。管理局の敷地を抜けるまではまだ少し走らねばならないが、車を動かすと同時にナンバーズ達はまたもや

 「ノーヴェ~、オットーから聞いたよ。布団被らないで寝ちゃったんだって~? バカみたいじゃん」

 「ケツの割れ目増やしたくなかったら黙ってろ、シスター・サボリ」

 「ひどっ!? お姉ちゃんにそんなこと言うの!?」

 「ディード、後でツインブレイズよこせ。ケツの割れ目十字にしてやっから」

 「とても遺憾なんですけど、教会に置いてきました」

 「ノーヴェ、あんまり女の子がそんな下品な言葉使ったらダメってチンク姉が言ってたじゃん」

 「どうでも良いけどよ……お前さん達もう少し静かにしてくれ、頼む。運転し辛いったらありゃしねぇ」 

 「はいは~い、あたしが悪ぅございましたよっと。ズズッ…………調子悪いんだから話し掛けてくんじゃねーよ」

 そう言って鼻を啜りながらノーヴェは窓際へと頭を寄せ、窓の外を流れる風景に目をやった。ギンガを挟んで座っているディエチはそんな意地っ張りな妹の機嫌を後でどうフォローしたものかと頭を悩ませている模様で、完全に顔にやつれた笑みを張り付けていた。チンクが家を留守にしている今現在、ノーヴェを抑えられるのはナカジマ家ナンバーズでは年長のディエチしか居ない訳なのだが、問題はその彼女の言う事ですら中々聞く耳を持とうとしてくれないのが悩みの種と言うことで……。

 そんな彼女を差し置いて、後方の教会組+ウェンディはカードゲームに興じるし、前方の男二人は所属部隊が同じな所為でさっきから仕事関係の会話しかせず、日常レベルで気苦労が絶えないギンガとディエチは目的地に着くまでに日頃の疲れを癒そうと仮眠に入ってしまっていた。退屈な状況に陥った時に取る人間の行動と言うのは大抵誰しもが同じな訳であり、ノーヴェも例外無く――、

 (眠ぃ…………あたしも寝よっと)

 自然と瞼が重くなり、視界に霞が掛かって来るのを感じながら、ノーヴェの精神は静寂の涅槃へとまどろみ始めた。窓に顔を寄せたまま眠ったら跡が残るだろうな、と考えつつも生理現象に逆らえるはずも無く、歩道を歩く人々を眺めながらとうとう最後の数ミリが閉ざされようと――、



 ――しなかった。



 「ストォォオオップッ!!!」

 ノーヴェの怒号が車内に轟いたその約0.4秒後、「ガンッ!!!」と言う何か固いモノがぶつかる盛大な衝突音と共に、二輪駆動の車両の推進力全てが一瞬のうちに隕石衝突の如く強烈なGとなって前方へと集中した。

 「あべしっ!!?」

 「アッーー!!?」

 すぐ背後からセインとウェンディの悲痛な叫びが聞こえて来たが、一番の被害者は何を隠そう、運転席のゲンヤに他ならなかった。どう言う訳かシートベルトの制止を振り切ってハンドルの中央に思い切り顔面をキスしており、起き上がって来るまでに少々時間を要していた。いくらノーヴェが急に大声を出したとは言え、自分でブレーキを人間が踏んだ人間がこの様な事になるなど考え難い。とすれば、踏んだ人間は他に居る訳で……

 「ったた……おい、カイン! お前なぁ……」

 『すまない、つい反射的に反応してしまった。と、我がマスターは申しております』

 助手席から伸びたカインの右足が代わってブレーキを踏んでおり、その所為でゲンヤがこの様な事態に陥ったらしい。

 さて、事の発端となったノーヴェはと言うと――、

 こともあろうに「ちょっとそこ行って来る!」とか何とか言ってそのまま引き剥がすようにしてドアを開け、ゲンヤの制止も聞かずに車外へと飛び出してしまっていた。足にジェットエッジこそはいてはいなかったが、陸上選手も仰天する速度で反対車線を走破すると歩道を歩いていた一人の人物に手を振りながら近付いて行くのが見えた。

 「誰だありゃ?」

 「さぁ……?」

 「誰ッスかね?」 

 その人物は遠目からなので詳しくは良く分からなかったが、どうやら男性で、年齢も今車内に居るナンバーズの面々と同年代らしかった。あと分かった事と言えば、カーキ色の制服は着ている者が地上本部に所属していることを表しており、その少年もまた管理局の一員だと言うことぐらいなものだった。

 しばらく両者はなにやら言葉を交わしていたようだったが、ふと、ノーヴェの方が皆の予測の斜め45度上を行く行動を取り――、





 数分後、ナンバーズの面々を乗せたワゴン車は海沿いの高速道路を飛ばしていた。本日晴天也、とは誰が言ったのか、まさに今日は寒風吹き荒れこそするが、外出には持って来いの日和には違い無かった。海の方へと目をやれば、空とはまた別の青で彩られた大海原が視界に飛び込み、水面から反射する日差しが眩しかった。

 ちなみに、彼女らを乗せた車内には行きとは違う変化が一つだけあった。

 それは……

 「……で……そいつは誰なんだ? ノーヴェ」

 運転席のゲンヤが妙に威圧感を纏った口調で後方の赤髪の少女に質問、いや、詰問してきた。もっとも、バックミラーから彼の顔を見ると額に大きなコブを作っているのが丸見えだったから威厳もクソもあったものではないのだが……。

 「だーかーらー、前に言っただろ。教会で知り合った奴が居たってさぁ。なぁ――――トレーゼ」

 そう言って彼女は自分に代わって窓際に座り込んでいた紫苑の短髪の少年、トレーゼの肩を景気良く叩いた。彼の方はと言うと、ノーヴェにいくら叩かれようが彼女の姉妹に背後から興味津々な視線を注がれようと、

 「…………」

 全く動じなかった。 

 大した反応も返さないその態度が気に喰わないのか何なのか、彼が乗り込んでからゲンヤの機嫌が明らかに悪くなっているのはノーヴェ以外の全員が肌で感じ取っていた。だがいつもの光景なのか、繊細なディエチは戦々恐々としてはいたが、ギンガは軽く受け流している上に助手席のカインに至っては既にどこ吹く風と言わんばかりに寝入っている始末だった。

 「あー、そう言えば私はディードから聞いたよ」

 場の空気を和まそうとしてか、後ろからセインが身を乗り出して来てトレーゼの頭をグリグリと撫でまわし始めた。一応仮にも彼女はナンバーズでは年長の方だった、だから場の空気を読むことも当然――、

 「ノーヴェの『彼氏』だってね」

 出来ちゃいなかった。一瞬で車内の空気が凍結――その後核爆発レベルの衝撃が全員の脳内を襲った。

 「な、なななな……違ぇよっ!!! 何言ってんだこんの――アホ花がぁあああああっ!!!!!」

 顔を羞恥の赤に染めたノーヴェが窓ガラスを揺らす程の怒声と共に鉄拳をセインの頭部に振り下ろし、明らかに人体のそれを叩いた程度では出ないはずの音が鼓膜に襲来した。

 「うぐぅぁあああ!!? 何するんだよ!?」

 「うるせぇ! 降りたら覚悟してろよ、ジャンクにしてやらぁ! それとオットー! ディード! 二度とこいつに余計な事吹き込むな!」

 「う、うん……分かった」

 「はい……ノーヴェ姉さま……」

 近接戦最強のノーヴェに対して誰も楯つく事など出来るはずもなく、あえ無くセインのスクラップは決定されてしまった。もっとも、下手すればオットーとディードも同じ運命を辿っていたかも知れない訳であり、頭を押さえて蹲る姉の隣で二人も密かに震えていた。

 そんな彼女らを余所に、今度はギンガがノーヴェの連れ込んで来たトレーゼに会話の種を振って来た。

 「ごめんなさい、トレーゼ君……だっけ? 局の仕事の途中じゃなかったかしら?」

 やはり周囲が私服の中でカーキ色の制服は目立つのか、ギンガが半分申し訳なさそうにして訊ねて来た。しかし、そんな彼女とは対照的に彼の方は――、

 「自分のシフトは、夜中……。仮眠も、既に取ってある。問題無い」

 「そ、そう……」

 「なぁ、トレーゼとか言ったな? 俺はあんたがうちのノーヴェとどんな関係なのかは知らねえが、別にノーヴェに誘われたからって無理に同行しなくても良かったんだぞ。何なら、今からでも適当なトコで降ろしてやろうか?」

 さっきからピリピリしていたゲンヤが、ギンガに対しても素気ない態度のトレーゼにとうとう痺れを切らしたのか、少しトゲの効いた言葉を口にした。元々雑把ながらも豪快な性格のゲンヤだけに、彼のような口数が少ない上に薄っぺらそうな性格の者が癪に障るのだろう。

 「ちょっと お父さん! いくらなんでも今のは失礼じゃないですか!」

 「い、いやな、俺は別にこいつをイジメようとかそんなんじゃないんだ! ノーヴェ! お前は分かってるよな!?」

 やはり愛娘には弱いのか、ギンガに注意された途端に彼は顔を少し青くしながらアタフタとハンドル捌きが乱れ出し、みっともなくノーヴェに助け舟を出してきた。

 だが――、

 「親父…………あとでケツの穴十個にするからな……」

 「んなっ!? 何そんなに怒ってんだよ!? そりゃあ、俺もお前さんが折角連れて来た友達さんにイキナリな物言いだったのは認めるけどよ……」

 「うっせぇ! バカにしやがって…………悪ぃな、トレーゼ、うちの親父ったらよー、空気読めねーんだ」

 「別に……問題無い……」

 「そっか、ならいいんだけどよ」

 ゲンヤに対して怒りを露わにしていたノーヴェは彼のその一言で素直に引き下がった。その様子を見ていた周りの反応――特に彼女との付き合いが長いナンバーズの面々は……

 「す、すげぇッス……!」

 「あのノーヴェ姉さまが……感情を尾を引かないなんて……」

 ノーヴェは単純故に、一端火が点いてしまえば誰にも止められるはずがなかった。日常生活においては一度始めた事柄は最後までやり遂げる固い主義を持っており、こと戦闘に関してだけ言ってしまえば、相手が息の根を止めてしまうまで戦い続ける程にまで刷り込まれているはずだった。その彼女が、たった一言――それもつい最近に知り合ったばかりで、それほど会話も交流も重ねていないはずなのにも関わらず、すんなり言う事を聞いてしまうと言うのは如何に驚愕に値するのか、想像には難くはないだろう。

 「やはぁ~、やっぱ彼氏の言うことは素直に聞くんだね~。お姉ちゃん、嬉しいよ。いつの間にそんな仲になったのか知らないけどさ」

 「カイン兄ぃ、あとでアリーウスかオリーウス貸してくれ! このアホは死なせなきゃ直らねぇんだよ!!」

 もっとも、セインの余計な一言でまた点火してしまったようだが……。

 そんな彼女は半分諦めがついたのか、中央座席の年長集団はとっくにトレーゼへの質問攻めに行動を切り換えていた。実はノーヴェがゲンヤに敵意を剥き出したあたりから既にギンガの猛烈な質問タイムが行われていたのだが(「所属はどこ?」、「何歳?」、「いつからミッドに住んでるの?」等々……)、たった今そのバトンがディエチへと手渡されたところだった。もっとも、彼女の場合はギンガとは違ってもっと緩やかなペースで入る上に生来の正確故か、とても物腰が低かった。

 「ディエチ・ナカジマ、よろしくね」

 「……あぁ」

 「ごめんなさい、うちのノーヴェが無理矢理…………」

 「問題無い。個人的に、興味があったから、同行することにした」

 窓の外の海を眺めながら彼女に目も合わせる事無く答えるトレーゼ。しかし、別に悪意を感じなかったのか、ディエチが機嫌をそこねた風もなく、変わらぬ様子で微笑みを湛えたまま会話を続けた。

 「今日はね、私達の姉妹を迎えに行くの。ちょっと無愛想だけど……良い子だよ。雰囲気敵にはトレーゼに似てるかな」

 「…………」

 隣でディエチの声が聞こえてくる。しかし、彼は何も言わないままで、金色の双眸は瞬きもしないまま窓の外の風景を眺めたままだった。そして、騒がしい車内の片隅で、誰の耳にも届かない小さな声で――、

 「知っている…………」

 とだけ呟いていた。

 同時に、彼女らを乗せたワゴン車が停止した。










 ――――夢を見た。

 いや、『見た』と言う表現はおかしい……自分は今も、現在進行形で夢を見続けていた。

 何故夢だと分かるのか? その理由の一つに、『自分はこの光景を以前見た記憶がある』と言うことが挙げられる。人間の睡眠中に見られる夢は総じて二種類に分類できる。『最も強くイメージした想像』と、『最も印象に残った記憶のリピート』だ。

 自分の場合は後者に当たった。

 それなりにスペースが取られているこの空間は訓練室だ、見覚えがある。今自分は両拳を構えて足腰を固めて臨戦体勢を取っている。目の前にはもう一人、自分と同じ位の長身の持ち主が、これまた似たような構えで相対していた。敵ではない、訓練相手であり、もちろん記憶にもある人物だった。『懐かしい』とは思わない……自分にはそう感じるようにプログラミングされてはいないのだ。別に違和感は無い、これが普通。

 やがて記憶のリピート……つまりは格闘訓練が完全に終了するまで五分も掛からなかった。結果は僅差で相手側に勝利の旗が上がった。こちらは息が上がってしまっているのに対し、あちらは全く疲労の色を見せず、こちらとの実力差を顕示していた。

 「午前はこれで一旦終了だ。充分に休息を取れ」

 「……はい」

 切り換えが重要だ、すぐに姿勢を正すと相手に敬礼せんばかりの返事を返した。組織においては上下関係がモノを言う、これも重要な事柄だ。

 だが、あの人はどう言う訳か何故か溜息をついた。半分呆れが入っていたその溜息に、ワタシは至らぬ点があったのかとそれまでの行動を回想し始めた。しかし、何も思い当たることが見当たらずにいると――、

 「お前は可愛くないな……」

 そう言ってあの人はワタシの頭を撫でて来た。何故そのような行動に出て来たのかは分からない、ワタシ自身も特に快不快は感じる事はなかった。何故なら……ワタシはそうやって『造られた』のだから。

 それなのに――、何故なのだろうか?

 「あいつと比べて……可愛くないな」

 あの人が言った『あいつ』……その言葉、それだけが脳髄に焼き付いて離れなかった。

 “あいつ”とは――

 誰ですか?










 「――きな、――――姉ちゃん、起きなっての!」

 声――。ワタシを仮初の幻想から現実へと呼び覚ます鈴の音……。目を開けると同時に網膜に映ったのは陽光と金属質の壁、そして成人男性の顔面だった。

 「うっす! 良く寝てたな、寝不足は体に毒だぜ。ほれよ、姉ちゃんが眠ってる間に俺がヘリでここまで連れて来といてやったぜ」

 「そうですか……」

 精神が完全に覚醒すると、起立。少し背伸びをしたい所だが、生憎とそのような時間は無い。ここまで一緒だったヘリパイロットを一瞥もせずにその女性は後部ハッチまで歩を進めた。外部からの風が腰まで届く桜色の長髪を吹き荒らすが、気にも留めないでコンクリートで出来た地面へと立ち臨んだ。

 「……………………」

 少し肌寒さはあるが支障は無い、大丈夫だ。頑強な金属の手錠で留められた両手を前に揃えながら、彼女は歩き始める。

 やがて見えて来る人影の集団があった。大部分は知っている者だったが、さっきも言ったように『懐かしさ』など微塵も感じない。あちらはどう思っていようと関係ないが……。

 一歩一歩を同じ間隔で歩き、そして停止。白い囚人服が風にはためくが気にしない。

 「……………………」

 こうして見ると皆様々な表情をしている。一様に笑顔に見えるそれも、良く見れば微妙に違いがあった。どれも、自分には無いモノだった。

 第一声はどうするか?

 考えるまでもない、そんなの決まっていることだ。

 背筋を律し、両足を揃えて繋がれた両手を正中線へ正すと、ワタシは言った。

 「ナンバーズ、No.7『セッテ』。本日付でここ、海上更正施設にて生活します」



[17818] ⅩⅢ+Ⅶ=?
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/04/04 13:09
 ミッドチルダ時空管理局地上本部――、その第一会議室にて。



 「……以上が、私が仮定する今回の一連の事件の全容です」

 照明を消した室内には巨大な長デスクが設置されており、そこには横一列に管理局を代表する重鎮たちの顔触れが所狭しと出揃っていた。激動を生き抜いてきた男女が入り混じってはいるが、皆一言も口を開かず、一様に重い沈黙が空間を支配していた。表情は差異はあれど皆が驚愕と不安に彩られた様相を浮かべており、その視線は全員が前方のスクリーンへと注がれていた。

 「終わっていなかったと言うのか…………あの忌まわしい狂科学者の起こした事件が……!」

 スクリーンに映し出されているのはつい二日前に廃棄都市区画にて勃発した戦闘行動の映像データだった。制止映像に映っているのは、遥か上空で黒鉄の弓矢を構えた今にも破壊の矢を放たんとする――、

 「ナンバーズ……! まさか13番目が存在していようとは!」

 紺色の防護ジャケットに純白のマント……そして、拡大画像に映された首元のチョーカーにある「ⅩⅢ」の刻印。かつてミッドチルダを席巻せんとした少数精鋭戦闘機人部隊『ナンバーズ』、その最後の一人……。

 「予想外のゲスト……と言って済ませるには、少々手痛い存在だな……」

 デスクに腰下ろしていた最年長の男性――現在の仮設最高評議会の議長がジョークと言うには余りにも雰囲気が重いが、彼の一言で周囲の人間達の口から自嘲とも取れる失笑が漏れ出た。しかし、それは一時の気休めのようなものでしかないことなど、ここに居る全員が承知でのことだった。

 「地上本部をたった一人で襲撃し、経験が浅いとは言え二人の局員に深手を負わせる……」

 「それだけに飽き足らず、八神二佐の戦術の切り札でもあるヴォルケンリッターを退けた上にこの有様とはな……」

 そう言ったと同時にスクリーンにピックアップされる画像があった。それは二日前の戦闘で外観を大いに変貌させてしまった廃棄都市のビル群の上空写真だった。ある一点を中心として、まるで空軍の爆撃にでも合ったかのように巨大なクレーターが口を開けていた。障壁から脱出する時に敵方が放った矢、一撃必殺の破壊力を有する【シュツルムファルケン】が残した爪痕である。

 「現在、戦闘行動中に右腕に重傷を負ったヴィータ教導官は八神宅にて療養中。本人の体の回復具合から、復帰には最低でも数ヶ月を要するかと……」

 スクリーンの脇に立ち、解説を入れる男性――クロノは手に持った資料に目を通しながら予め仕入れて置いた情報を口頭で伝えていく。時折映像を交えながら進めているこの会議は、既に十数分前から開かれている。

 「今はそんな事はどうでも良いのだよ、ハラオウン提督」

 「左様……。重要なのは敵方の詳細だけだ。聞く所によると、君の部下であり妹の執務官がわざわざ出撃許可も無しに交戦したにも関わらず、結局取り逃がしてしまったそうではないか?」

 「…………ヴォルケンリッターからの報告と彼らのデバイスに残されていた映像データから、相手はスカリエッティの製造理論に基づいて生み出された事は確実です。交戦中にも、ISの発動が複数確認されています」

 取り上げられた映像には足元に真紅の幾何学的多重円形紋を発現させる敵の姿があった。一枚ではなく、連続して数枚同時に表示されるそれらには全てにそうしたテンプレートを浮かび上がらせていた敵が映っているのが分かった。

 「交戦中に発動されたのは実際に使用されているのも含めると、推定でも五つ以上は使用されているものと推測出来ます。障壁外にて足止めを喰らっていた後続隊との通信が不調だったのも、発動中だったISによる双方向通信の阻害が原因かと思われます」

 「一人の戦闘機人に複数の固有技能だと!? そのようなことが有り得るのか?」

 「彼らスカリエッティ製の機人が各々保有している固有技能は全て、創造主であるジェイル・スカリエッティが高レベルの遺伝子工学によって人為的に付加させたものです。従って、然るべき手段や方法を以てすれば、肉体の細胞組織、染色体……ひいてはDNAに負荷を掛ける事なく複数の能力を得る事も充分可能です」

 「なるほどな。流石は廃れた禁忌の外法とは言え、狂気の天才が編み出しただけのことはあるな。人の形をした兵器人形が……!」

 「人形とは……言い得て妙な……」 

 「だとすれば、我々はよっぽど『人形』に振り回される数奇な運命にあるようだな。闇の書ではヴォルケンリッターと言う名の『人形』に仕打ちを喰らい、その十年後にはナンバーズと言う機械仕掛けの『玩具』に踊らされた……。もう沢山だ!」

 室内に集まっていた議員達の口から次々と悪態とも取れる雑言が流れ出た。列挙される事件の名はどれもかつて管理局が辛酸を舐めさせられたものばかりだ。彼らとしてもこれ以上の難事件は抱えたくはないはずだった。

 「それで? 何かしらの対策は立てられているのだろうな、ハラオウン提督?」

 「地上本部襲撃事件と廃棄都市での一件……この二つの事件の発生した間隔が短いことから、敵は未だこのミッドのどこかに潜伏しているものと推測されます」

 「つまり、このクラナガンを始めとするミッドの各所の警戒体制を底上げすると言う方法が――」

 「その件なのですが、そう一筋縄ではいかないかも知れません」

 「? それは一体どう言うことかね」

 議員の言葉に対し、クロノはスクリーンに資料映像を映すことでそれに応えた。映されたのは現在無人世界の軌道拘置所にて収監中のナンバーズ先発組の顔写真だった。いや、良く見ると公式では既に死亡扱いとなっているはずのNo.2のものまであるのが分かる。

 「先程申し上げたように、敵方は現在確認されているISを複数保有している可能性があります。映像を解析した結果、彼……ここでは便宜上、『“13番目”』と呼称しますが、彼が最も使用していた回数が多かったのが、このISです」

 そう言ってクロノは挙げられていた四人の顔写真の内の一つ、暗紫色の髪をした強面の女性の写る写真を拡大した。同時に全身を写したものも出される。全体的に無駄が全く無く引き締められ端正の取れた肉体を持つ彼女は、首元から掛けた識別札をカメラに見えるようにして掲げており、そこには本来記されているはずの名前は無く、代わりに『Ⅲ』とだけ記されていた。

 「No.3『トーレ』のライドインパルス……か。確か……肉体の増強組織と基礎フレームに流れるエネルギー出力を一定時間だけ増幅させ、爆発的な瞬発力と推進力を手に入れるISだったな。だがそれが後の三人とどの様な関係があると言うのかね?」

 「はい。高速移動による“13番目”の戦闘スタイルは彼女のものと酷似しています。この他にも、通信阻害にはシルバーカーテン、投擲武器の爆発と遠隔操作にはランブルデトネイターとスローターアームズ、接近戦剣撃にはツインブレイズなどが使用されているものと……」

 「御託はどうでも良い。結論だけ述べろ」

 「この他にも、敵の肉体周辺から感知されたエネルギー反応から、敵が主に使用しているISはナンバーズ上位四人……もしくはチンク・ナカジマを含む五人のものを中心とした複数のISです。つまり――」

 「つまり、敵が上位五人のISを修得し、尚且つそれらを熟練して使用出来ると言う事は、あのレジアス中将を殺害したNo.2『ドゥーエ』の完全変装のISも使えると言う訳だな」

 誰がその事実を口にしたのかは知らない。しかし、その発言が聞こえた直後、それまで納得がいかないと言いた気だった議員達の表情が一斉に驚愕の相に変貌し、その次の瞬間には見る見る内にその顔が青褪め出した。どうやら、クロノが言わんとしていることの意味がようやく理解できたようであった。

 「対軍用偽装のシルバーカーテンに……対人用偽装のライアーズ・マスク……。検挙や逮捕はおろか、発見することすら困難と言うことか」

 「闇雲に人員を投与するだけ無駄になるな。下手に人手を外回りへと集中させれば、地上本部は手足をもがれた蟹も同然だ、それだけは避けねばならぬ」

 「もっともな意見ではあるが、こちらとて只単に指を咥えて身に掛る火の粉を静観している訳にはいかんことも確かだ」

 「だとすれば、こちらが取るべき行動は二つに過ぎん…………『本部の人員を割いて物量で押し切る』か、『こちらへ足を運ぶのを待って一気に掃討する』かのどちらかだ」

 「敵の目的が分からない今現在、そのたった二つの選択すら、誤ってしまえば取り返しがつかないことになるぞ!」

 「ではどうしろと――!!」

 そこから先は雁首を揃えた議員達の野次や文句にも似た雑言の飛ばし合いだった。進展は無い、全員が全員自分達の保身しか考えてはいないからだ。

 クロノは密かに落胆する。現場を離れ、柔らかい椅子に座り続けた人間の物腰とはこれ程までに脆弱なモノなのかと、内心ではここに居る誰よりも悪態を呪詛のように呟いていた。親友のヴェロッサが懸念していたのは、どうやら管理局の体制偏向だけではなかったらしい。組織とは、やはりその大きさ故にままならない所があったようだ。

 「…………静粛にお願いします。今は内輪で混乱している場合ではないはずです」

 「ハラオウン提督! 君はコトの重大さを理解しておるのかね!? 君の方こそ、いつまでそのような悠長な事を言っていられると思っているのだ」

 コトの重大さ? そんなものはこちらとてとっくに承知している。ハッキリ言ってしまえば、クロノは今自分の目の前で椅子に構えている彼らに比べればよっぽど事件の重要性を認識しているつもりだ。それに――、



 既に対策は立案済みだ!



 だが……

 (はっきり言って……『これ』は僕らしくないやり方だ……。なにせ危険過ぎる! 下手をすれば、本当に取り返しのつかないことに陥るかも知れない……!)

 そう、既に……彼は既にフェイトを通じてヴェロッサから戦闘機人が関わっていることを聞かされてから……地上本部が襲われてから……そして、その戦闘機人がスカリエッティ製のものだと勘付いてから…………薄々ながらも「この方法しか無い」と感じつつはあったのだ。

 その時、クロノは脳裏にとある言葉を思い浮かべた。地球……それも東の海にはこんな諺がある……。

 『虎穴入らずんば虎子を得ず』。何事も危険を冒さずしては結果を望めないと言うことだ。

 さすれば、自分が取るべき選択など端から決まっている――。

 (やむをえまい……!)

 同じ危険なモノ同士を天秤に掛けるとは、何とも愚かな行為ではあるとは自覚している。だがしかし、今この状況を打破するには最早この手段しか残されてはいないのだ。

 「――静粛に!」

 クロノの静かな、それでいて大きく響いた声に議席についていた者達が一斉に口を閉じる。伊達に多くの戦場と次元の海を越えてきている訳ではない、彼の口から発せられる言葉の一つ一つには誰も無視できない威圧感が滲み出ていたのだ。

 「……皆さんは、先程『敵の目的が分からない』と仰いましたが……それは正確には誤りです」

 「なにっ!? では、既に君は対策を立てていると言うことかね?」

 「大まかに……ではありますが…………恐らく、これが最も有効且つ確実な手段ではないかと……」

 それを言ったその瞬間、議員達の顔が再び驚愕に変化した。しかし、今度のそれは先程の絶望に満たされたものとは違い、むしろその逆だった。

 「では! 早速メンバーを編成、すぐに行動に移したまえ!」

 お偉い方の反応は大抵決まってこうだ、自分達にとって都合の良い予兆が起きればすぐに飛びつく癖に自分達自身は高い所から命令するだけだ。これならかつてのレジアス・ゲイズの時代の方がよっぽどマシに思えてくる。彼には無理矢理な所があった分、こんな結論を先延ばしにするなどと言う愚の骨頂はしなかったはずだ。ある意味では惜しい人間を亡くしたと言えよう。

 「……………………」

 「どうしたのかね、クロノ提督?」

 何かを堪えているかのようにして押し黙ったままのクロノに議員の一人が怪訝そうに訊ねて来た。

 「……現段階では、実行不可能です」

 「な、何を言っているのだね!? こんな時に冗談は――」

 「現状では、明確な作戦を立案し、実行するには人員が枯渇しています。不可能です」

 嘘は言っていない、自分の考えたこの“作戦”は危険故に、行動に移すにはそれなりの準備と人材の確保が必要なのだ。それも――、

 「人手の件ならば君の望むだけ投与しよう!」

 「お言葉ですが……私が言っているのは単に“量”の問題ではなく、“質”の問題です。この作戦を実行するにあたり、必要不可欠な人材が欠けています」

 「君ほどの人間がそこまで言う程の実力を持った者が居ると言うのかね?」

 「はい……」

 「では遠慮無く……」

 クロノは大きく息を吸うと、この会議の『本題』とも言える言葉を会議室の全員に聞こえるようにハッキリと口にした。

 「八神はやて二等陸佐と、チンク・ナカジマ……両者の謹慎解除を要請します」










 海上更正施設、屋内レクリエーション空間にて――。

 見事に刈り揃えられた緑の芝生の真ん中で佇立する人影があった。腰まで届く桜色の長髪を肩から流し、直立不動のその様は何のヒネりも無い代わりに一切の無駄が無く、古代の女神の姿を模した石柱のような無機質な美しさを持っていた。

 「…………」

 先程まで両手の手首に嵌められていた重い金属の手枷は既に外され、セッテの四肢は完全に自由となっていた。

 囚人である彼女を拘束から解放して良いのかと思ってしまいそうになるが、ここは監獄でも無ければ拘置所でもなく、一介の“施設”である。その為、受刑者と言うよりかは寧ろ『更正の余地有り』と判断された者が集う場所である所為で人権的な配慮から手錠は掛けないようにしているのだ。もちろん、彼女も例外ではない。

 「…………それで?」

 しばらくの間だけ身体の自由を噛み締めた後、彼女はゆっくりと背後に目をやった。限り無く無機質な感覚を放つその瞳の輝きは足元の芝生でも清潔さを象徴した白い隔壁でもなく、自分の後ろに控えていた集団へと向いていた。

 「…………何か御用でも?」

 彼女の視線の先には、芝生の上で寝転がっている大量の……

 「あぁ~、懐かしい。つい三年前まで私達もここの芝生の上でゴロゴロと……」

 「セイン、そっち気をつけるッス。確か変な虫っぽいのが……!」

 「ここって虫なんかいたっけ、ディード?」

 「持ちこまれてはいないはずよ。ここは清潔に管理されているはずだから」

 「大方、ウェンディの節穴の目ん玉がゴミ屑か何かを見間違えたんだろ。……いや、そもそも始めっから節穴か」

 姉妹達。純白の囚人服を着込んでいるセッテとは違い、普通に私服に身を包んでいる彼女らは当然のことながら囚人でもなければ看守でもない。では何故この更正施設の芝生の上でダベっているのかと言えば……

 「お~い、セッテぇ~! そんなブスっとした顔してないで、一緒にここで寝転がろってば~!」

 「……その行動にどんな意味が?」

 「どんな……って、緑だよ、み・ど・り! こんな綺麗で居心地の良い所でこうやって体を休められるって、それだけで何て言うかこう…………癒されるって言うのかな……?」

 「…………はぁ……」

 「ほら! ここら辺じゃさ、かなり郊外まで行かないとこんなに植物生えてないでしょ? こう言う珍しいモノとかの触れ合いが良いんだってば」

 セインの熱弁に見た目は熱心に表情一つ変えずに耳を傾けているセッテ。だがしかし――、

 「全く理解不能です」

 「あ、ありゃ……?」

 「そんなことでは全身の筋力の低下を招きます。確かに休息も必要ではありますが、今の貴方がたの状態は本来あるべき姿とは程遠いことは断言できます」

 「本来あるべき姿って……何?」

 妹の言い回しを不思議に思ったのか、ディエチがセッテに訊ねる。先程までノーヴェやウェンディらと一緒に談笑していた彼女は足元の草を踏み締めながら、歩み寄り――

 『何の警戒心も抱かず』にセッテの“射程圏内”へと足を踏み入れてしまった。



 「え――?」



 刹那の瞬間、ディエチは自分の身に何が起きたのか正確に理解するまでに時間を掛けることとなった。ただ分かったのは、右腕が強い力に引っ張られたその数瞬後に自分の背中に大きな衝撃が襲い、視界に施設の無機質な天井が投影されていたことだけだった。

 「っな……!?」

 一瞬で全員の目がセッテへと注がれる。肉体増強レベルSの筋肉から生み出された強烈なスイングで地面に叩きつけられたディエチは背中の激痛にしばらく悶え、そんな彼女を見降ろしながらセッテはただ一言――、

 「堕落しましたね、ディエチ。以前の貴方ならこんな致命的な隙を見せませんでした」

 神速の背負い投げ一本。相手の腕と肩関節、そして自分の背筋の三点から生み出したテコの原理の力で敵を地に叩きつけるその技は、一瞬で相手を無力化できると言う点ではどのような技よりも優れている。それをまともに喰らった時、絶対的な隙が生じ、戦いにおいてそれは即ち『死』を意味していた。

 「セッテ……なんで…………」

 「『何で』? では逆に問います、ディエチ。私達は“何者”ですか?」

 一瞬、問われている側のディエチだけでなく、その場に居た姉妹全員が質問の意味が分からずに首を傾げた。セッテは冗談やはったりを言う性格ではないことは百も承知だ、だとすれば、必ず意味があるはずだ。

 「何って……ナンバーズっだよ、姉妹だよ。違うの?」

 表情を変えずに佇む自分の妹の姿にディエチは恐怖した。自分の言った事は間違ってはいないはずだ、自分達は血縁関係こそ無いが、寝食を共にして互いに支え合って生きて来た仲間であり姉妹だ。そこには何も相違など存在しないはずだった。

 だが――、

 「違います。貴方は間違っています、ディエチ」

 セッテの返した言葉は彼女らの予想を裏切った。平淡に、それでいて率直に、セッテは言い放って見せた。

 「ワタシ達は姉妹である以前に“戦闘機人”です。戦う為に造られたワタシ達が何のまともな訓練もせずにこうして堕落して行くと言うのは、生み出された我々の存在意義そのものを自ら否定することになります」

 「戦いって……もうドクターの計画は……!」

 「だから貴方はバカなのです、ウェンディ」

 「うなっ!?」

 脇から口を挟んできたウェンディを何の躊躇いも無く一蹴すると、セッテは自らの長身の正面を呆然としたままの姉妹達に向けた。一見、毅然としているようにも見えるその顔立ちは、単に何の感情も宿さない鉄仮面でしかなかった。氷の瞳は対象以外の存在は眼中に無く、瞬きもすることなく見つめ続ける……。かつてクアットロが「つまらない」と言ったのは、こうした正論ながらも歯に衣着せない物言いや、感情の排斥によって生み出された直接的行動の事を言っていたのかも知れない。

 そうしている内に、彼女はすっと両腕の拳を構えると、軽やかにステップを踏み始めた。タップダンスのような華やかなモノではない、現代における拳闘士……即ちボクサーが臨戦体勢を取る為のアノ動きだ。

 「セッテ……何を……!?」

 単純な数値では現代階においてノーヴェを超えて最強のセッテ。そんな彼女の突然の戦意表明に姉達は戦慄した。接近戦に自身が無いウェンディやディエチに至ってはすぐさま飛び退き、彼女のリーチの外へと逃げ果せた。逆に血の気の多いノーヴェは間を置かずに構えを取って威嚇する。

 「いえ、単純な格闘訓練です。軌道拘置所に居た間はロクに出来ていませんでしたから、丁度良い機会かと…………ノーヴェ、貴方が相手をしてくれませんか?」

 「おっ!」

 指名されたノーヴェは突然の事に驚きながらも、一度固めた体勢を緩めはしない。じっと相手の目を見据え、出方を窺うのだ。

 ゆっくりと自分の方へと距離を詰めて来るセッテを凝視するノーヴェ。只でさえ無表情で抑揚の無い口調をしている自分の妹…………元々会話を殆ど交わさなかった所為もあり、ノーヴェは彼女の真意が掴めなかった。いや、特に深い意味は無いのだろう、セッテ本人が稽古をつけたいと言っているのなら、それはあくまでそれだけの事であって悪意も何もそこには存在してはいないはずだった。

 ただ――、

 「……セッテよぉ、ひとつ聞いてもいいか?」

 「何でしょう?」

 「何でお前はそうやって楽しもうとしねーんだよ?」

 「は……?」

 予想していなかった問い掛けに、セッテの表情が初めて不思議そうなモノに変わった。

 「『楽しむ』? 何を“楽しめ”と言うのですか?」

 心底不思議そうに聞いて来るセッテを見て、ノーヴェは「はぁ……」と溜息をついた。まるで、とてもつまらなさそうに……。

 「何が不服なのですか?」

 「何って…………やっぱつまらねぇ奴だなって思っただけだよ」

 「つまらない? ……理解不能です」

 「だろうな。ま、いいけどよ。お前が稽古つけて欲しいって言うんなら、あたしは幾らだってやってやらぁ」

 そう言いながらノーヴェはギンガから教わった、機人格闘技であるシューティング・アーツの構えを本格的に取った。やるからには徹底的に……それが彼女の信条だ。手を緩めるつもりなど毛頭無い。

 「…………では、参ります」

 「いいぜ、いつだって。こう言うのは楽しんでやるもんだってのを教えてやっからよ」

 互いに拳を突き出し合い、触れるか触れないかの距離まで伸ばす。試合を始める前の合図だ。

 止めようとする者は居ない。今はゲンヤもギンガも所長に用があると言って、ここにはまだ来ていないのだ。居るのは同じ姉妹達だけ。そして、彼女らの中に二人を止められるだけの実力を持った者は居なかった。幸いにもノーヴェの方が特に気に障った風も無く、それだけが救いだった。もし、これでノーヴェの機嫌を損ねたならば、とっくに乱闘騒ぎとなってしまっていただろう。

 「…………」

 「…………」

 しばらくの間、ギャラリーが見守る中で両者は膠着し続けた。互いが体表から発する殺気で相手を牽制し合っているのだ。つまり、互いに手の内が粗方読めればその次の瞬間には――、



 「ッ!!」「フッ!」

 既に行動は始まっているのだ。





 (何と言うことだ……)

 空間の隅でコトの成り行きを静観していた“彼”は内心で愕然としていた。表情には出さない。いや、出さないのではない、『出せない』のであって、同時に出す事を知らないのだ。

 元々、ここへ同行している間にも違和感はあったのだ。そして、得た結論は――、

 (自覚が無い、無さ過ぎる。これでは、計画に、多大な支障が……)

 焦燥感が脳裏を静かに通り過ぎた。

 各々が自分が『何の為に生み出された』のか、『何の為に存在している』のかを全くもって理解している節が見受けられなかった。始めこそ、現在の状況下でなりを潜めているだけではないかとも考えたが、どうやらそうではなかったようだ……。

 (堕落…………言い得て、妙ではある)

 先程、“あの人”の教育下にあったと言う彼女の言葉を噛み締めながら、なるほどと納得する。

 (それを、『堕落』と、捉えるか……。No.7『セッテ』、やはり、お前は――)

 “彼”は確信する。そして安堵した。目の前で格闘訓練に勤しむ“彼女”の姿を凝視しながら生まれた、たった一つの確信……

 (やはり、お前は……優秀だ。流石は、“――”が直々に、教え込んだだけはある……)

 目の前で繰り広げられる拳と蹴りの応酬……。一見すると両者の実力はほぼ同等に見えるが、実際は違う。ノーヴェが一撃必殺の威力を以てパワーで押し切ろうとするのに対し、セッテの方は急所を狙っての鋭く無駄の無い攻撃を加えようとしている。防御面でも無駄が無い。セッテはノーヴェの攻撃を受け止めるのではなく、全て両足を軸にして体を回転し、受け流しているのだ。そうすることによって下手に威力の高い一撃を肉体で受け止めるよりかはダメージを喰らわなくて済むからだ。逆にセッテはノーヴェに回避も防御も許そうとはしない、素人が見ただけでは掠った程度の当たりでも、それらが積み重なって蓄積されたダメージの総量はやがて相手の肉体を鈍らせることは目に見えていた。

 だが――、

 (しかし……まだ、足りない。全体的な、動きのムラ……体躯故の、機動力の低さ…………何とか、肉体増強の効果で、総合戦闘力が高いものの、計画実行段階には、至っていない)

 “彼”にとってセッテが地上に降りて来たのは嬉しい誤算ではあった。しかし、現在の彼女は多少の技量こそ持ち合わせてはいるものの、大抵は自らの生来持っている力に頼っているだけでしかなかった。このままの段階で彼女を利用しようにも、規定値にまで実力が達していなければ単に足手纏いになるだけだ。

 (まだだ…………まだ俺のIS、『――――』に適合させるには、まだ足りない)

 古来より、何でも数が多ければ良いと言う訳ではない。戦争の歴史を見れば分かるように、たった数百の兵でその十数倍の物量の兵力差を覆したと言う事例は少なくない。と言うことは、その逆もまた然り、いくら個人の力量が大きい者が居ても、それとは別に己が能力を最大限に活かせるだけの技量が無ければ話にならないのだ。

 (……………………やはり、ここは、計画を早急に、遂行させるのを、優先すべきか。となれば、今はやはり…………)

 と、思案しているこの間およそ数十秒。ふと“彼”が視線を格闘訓練の方へと戻すと、いつの間に佳境を終えたのか、両者の決着はほぼ着き掛けていた。

 (予測通り……か)

 ノーヴェの方はとっくに息が上がっているのが分かった。このままでは隙を突かれて撃破されるのが関の山だろう。

 そう思いながら事の成り行きを静観していた。

 ――その瞬間!





 始めは優勢だと思っていた。いや、確かにこっちが優勢だったはずだ。

 同じナンバーズ……いや戦闘機人の中で自分に勝る者など居ないと自負していた、それが陸の上で戦うならば尚更だ。自分は陸戦型、肉体増強の面では確かにランクは劣るが、地に足を着けて戦うこのスタイルでは戦術的に負けるはずがないのだ。

 それがどうしたことか。

 (……何で……何だって当たらねぇんだよ!)

 ノーヴェは己の四肢を眼前の少女に振るい続けながら薄らとそう考えていた。攻撃が外れることによって自然と行動の全てが大振りとなってしまい、余計なエネルギーを費やしてしまっているのが自分でも分かる。それはまさに、陸で戦う事を目的として生み出された自分よりも、空中で対象を撃墜する為に生れたセッテの方が機動力に富んでいると言うことに他ならなかった。機動力だけではない、かわし切れずに手足で防御した一撃一撃がとても重く、防御の上からでも自分の肉体に埋まっている駆動フレームが悲鳴を上げている程だった。

 ノーヴェは悔しさに歯軋りした。一対一のサシ勝負……それも空中ではなく陸の上と言う、言わば自分の最も得意とするはずのフィールドでの劣勢は彼女の心に止め処無い焦燥感をゆっくりと、しかし確実に滲ませていった。既に息は完全に上がり、暖房が効いているとは言え疲労からの汗が大量に噴き出してもいた。体力を削られたのだ、見上げた精神力は健在でも、肝心の体自身がまともに動かなくては話にならない。

 「はぁ……はぁ……!」

 一旦距離を空ける。長身に似合わないセッテの鋭い攻撃が放たれる制空圏から離脱し、一度態勢を整え直すためだ。ジェットエッジを装着していない分、どうしても移動速度に難があるが、そこは持ち前の脚力でカバーするしかない。一度相手との距離を離してしまえば拮抗状態が生まれ、あちらとて下手には手出し出来なくなるはずだ。

 「間を空ければどうにかなるとでも? その選択は間違っています、ノーヴェ」

 「はっ! 勝手に言ってろ、折角こっちがこう言う事の楽しさを教えてやろうってのに、これじゃ本末……何だっけ?」

 「本末転倒ですね。やはり、言いたくはありませんでしたが、貴方はやはりその程度と言うことですか……」

 「言いたくねーんなら言うなや。あぁっ、クソ! こっちの方が早く生まれてんのに、調子に乗りやがって……!」

 純粋に悔しくて地団駄を踏みたくなるが、生憎とそれだけの体力も残ってはおらず、今はこうして静止して回復するのを待っているしかなかった。対してセッテ側の方は自分とは違って汗や息切れはおろか、呼吸の調子も手合わせを始める前とさほど変化が見受けられず、むしろこれまでの一連の訓練で鈍っていた自分の調子を完全に取り戻してしまってのか、動きのキレが最初よりも見える。もはやここまで来れば勝敗は既に決されているようなものだった。

 「早く生まれた遅く生まれたと言うのは性能差の理屈にはなりません。要は単純な話、経験値の差がモノを言うだけです。貴方とワタシでは戦いについて教わったことの差がそのまま自身の戦闘力の差に直結している…………ナンバーズ最強のトーレと後発組まとめ役のチンクとでは、教えることに差異があって当然です」

 「おい、ちょっと待て! それってチンク姉が弱いってことかよ!?」

 突然出て来た姉の名に驚きつつも、彼女は個人の強弱の件でいきなり敬愛する姉の名を引き合いに出されたことに敏感に反応した。それと同時に、彼女はチンクが間接的に侮辱されたのだと受けとっていた。

 「別に弱いとは明言していません。それに――」

 セッテが何を思ったのか、拳を降ろして自らの臨戦体勢を解いた。両腕を垂直に垂らし、完全に全身の力を抜いてしまっているその格好は、その場に居た他の姉妹達から見ても明らかに戦意喪失以外の何物でもなかった。

 「トーレとチンクでは稼働歴にも差があります。従って、チンクが弱かったとしても、それは自明の理と言うモノです」

 決定打。周囲の誰もが言ってはならない一言が今ここで放たれたことに震撼した。声帯の振動で生み出された“声”が空間の大気を震わせて伝播し、耳殻から外耳道を伝わって鼓膜を叩き、耳小骨によって増幅された音がうずまき管のリンパ液を振動させて聴神経を経由して脳へと届く。そのプロセスがノーヴェの中で完了するのに――、

 「今何て言いやがったぁぁっ!!!」

 レクリルームに轟くノーヴェの怒号。脱走防止用の強化ガラスがビリビリと震動し、足元の芝生の草の葉も大きく揺れ動く程の衝撃が彼女の体から発散させられた。

 瞬間、ノーヴェが跳んだ。ISは使っていない、この施設内では特殊加工した魔力波を常時放出させることで如何なる魔法・特殊能力をも無効化すると言う対策措置が成されている。収監中にセインのディープダイバーでも脱走出来なかったのはその為だ。故に、今のノーヴェは純粋な自分の脚力だけで足下の土を蹴り、セッテとの距離を縮めたこととなる。憤怒から起因した力は大きく、コンマ数秒と経たない内にセッテに接近した彼女は既にその鍛え抜かれた拳を端正な顔面の前に突き出していた。

 すぐさま、それまでコトを見守っていた周囲の姉妹達が制止しようと手を伸ばした。しかし、それは身内で争うと言う不毛な行為を諌める道徳心からの行動ではなかった。

 「…………っ!」

 セッテのそれまで無表情だった眼光に殲滅者としての鋭い光が走ったのを見逃さなかった。彼女は、突進して来たノーヴェの体躯が自分の制空圏に侵入する直前に、自分の右手に迎撃用の拳を握ったのだ。だがそれは見え透いたフェイクに過ぎず、本命はその左手にあった。

 「フン……ッ!!」

 左の手に見えるのは、真一文字に突き出された二本の指、たったそれだけだった。たかが指二本と侮るなかれ、人体三大急所の一つとも言われている鳩尾にも正確な角度と的確な速度で叩き込めば巨漢でも膝を着く……眼球を狙われれば最後、肉体的にも精神的にも多大なダメージを与えることが可能な、まさに人体最後の武器と言っても過言ではないのだ。今のノーヴェは姉を蔑ろにされたことによって冷静さを失っている、そんな彼女に例え真正面であっても右手のフェイクを見破るのは至難の業に等しいはずだ。大してセッテの方もまだ全力を出し切っている訳ではなさそうだが、彼女は加減と言うものを知っていない。「壊せ」と言われれば粉々になるまで叩きのめし、「待機していろ」と言われればまるで糸の切れた人形のように不動となる……そんな彼女にも、ノーヴェに手加減出来るとは到底思えなかった。

 だから止める!

 ディエチを筆頭にしてナンバーズ全員が接触寸前の二人に向かって駆ける。このまま見過ごせば事態はとんでもない方向へと悪転することなど目に見えている。

 だが悲しいかな、彼女らは両者の揉め事に巻き込まれるのを無意識に忌避するあまり、二人との相対距離を空け過ぎてしまっていたのだ。いくら彼女らが常人以上の俊足を誇っていたとしても、ISも使えず、ましてやノーヴェとセッテ両者の相対距離以上に離れてしまっている今、追い付くことすら儘ならない状況となってしまっていた。

 届かない! 全力で疾走しながら誰もが間に合わないことを感じてしまっていた。

 突貫するノーヴェの体がセッテの制空圏に入り、それを精密な鼠取り機か何かのようにして迎え撃とうとするセッテ。右の拳が放たれ、それを寸前でかわす。

 「ッ!!?」

 しかし、暗器と化した左手の指が人体の最も守護すべき場所、肋骨の隙間の奥にある臓器群へと発射された。ノーヴェの黄金の瞳がそれを捉える、しかし、右拳に意識を集中させていた彼女はとっさの状況判断に欠けてしまっていた。気付いた時には既に遅し、彼女の胴と指先の感覚はおよそ数十センチにまで縮められてしまっていたのだ。

 音の壁を突き破らんとする凶器の指先が、今得物を駆逐せんと彼女の腑を強襲した。










 人間、自分の身に目に分かる危険が迫った瞬間、感覚が以上に鋭敏になる。身近な例としては顔面に飛んで来たボールなどがスローモーションで見えることが挙げられるだろう。あれは人間の脳に掛けられた一種のリミッターが身に降り掛かった危険に対処する為に解放され、反射神経を人体が耐え得る極限にまで高めるから起こる現象である。だが大抵は極限にまで増幅された神経に肉体自身がついて来れず、結局は回避できるのは稀であるのだ。

 もちろん、ノーヴェにも同じ現象が起こっていた。直前にまで迫っていた危険に意識が拡大され、視界に映ったセッテの左手が遅く見えていた。周囲から止めに入ろうとする姉妹達の姿も、まるでビデオの特殊再生か何かのようにとてもゆっくりとしたものに見えたのだ。

 だがそれでも慣れない感覚に肉体が全く対応出来ておらず、頭では分かっていても体が言う事を聞いてくれなかった。

 このままでは殺られる! そう確信したが、今更ながらに冷静になってももう遅い。既に賽は振られてしまったのだから……。

 しかし――、



 「え――!?」



 一瞬の……いや、一瞬だったかどうかすら、“済んでしまった”今となっては分からない事である。

 さっきも言ったように、人間の感覚は危機が迫ると同時に鋭敏化され、飛来する銃弾は子供の全力で投げられたボールと同じ位の速度に、繰り出される拳は亀の行進のように遅くなる。野球のバッターが「ボールが止まっているように見える」と言うのは、その鋭敏化された感覚によって引き起こされる効果の一つだ。

 つまり、この鋭敏化したことによって引き伸ばされた感覚の中では、いかなる事象をも認知するだけなら出来ると言うことになる。

 では……

 何故なのか?

 「あ……あぁ……!」

 何故ノーヴェはいつの間にセッテとの距離を離された事に気が付かなかったのか!?

 彼女の顔に浮かんでいる表情は明らかに自分の身に何が起きたのかを理解していないモノだ。対するセッテの方も既に姉妹達に取り押さえられている状態だが、彼女自身も――、

 「なんと……!」

 自分がやったことではないのか、彼女も面喰らった顔だった。それだけではない、彼女に手を掛けているディエチや他の姉妹達も全員が驚愕の表情を浮かべてこちらをみているのだ。何が何だか分からなくなってくる。

 ふと、ノーヴェは自身の身に起こっていることに気がついた。

 「な、なな、な……!?」

 まず、彼女は自分が両足を地に着けていないことに気付いた。飛行魔法なんか使ってはいないし、もちろん彼女は魔法なんて使える訳がない。

 それに――、

 何だ、この体勢は!? 地に足を着いていないのに背中にあるこの柔らかくも丈夫な重量感と、両脚を支えてくれているこの安定感。それに、自分の体に掛かっているはずの重力のベクトルが何故“前方”から感じるのだ!? 星の上に立つ限り、重力の掛る向きは絶対不変だ。と言うことは……

 自分は今、仰向けになっていると言うことだ。

 では、何故地面に寝転がっている訳でもないのに仰向けなんかになっているのか? 

 「ななっ! な、な、な……!!」

 冷静になれば答えは簡単なことだった。地に足を着けずにこんな体勢になる状況なんて限られている、それも良く見れば自分一人で成せる業ではない訳で……

 「いつの間に……!」

 「おぉ~、おぉ~! お熱いこったねぇ」

 ノーヴェが地に足を着けていなかった理由……それは――、

 抱きかかえられていたからだ。

 誰に? 同じ姉妹達は全員ノーヴェの視界に収まっている。だとすれば、自分を支えてくれているのは第三者、全くの他人と言うことに――、

 「支障は、無いか? ノーヴェ」

 「ト、トレーゼ!? お前、何してんだよっ!!」

 「何……? では、離そう」

 「え!? ちょ、ま――だはぁっ!!!」

 素直に降ろしてはもらったものの、一メートル強の高さからの自由落下によって彼女の腰は思いっきり強打されてしまった。フライパンの上のイカの如くノーヴェがのたうち回るのは、ある意味では滑稽とも言えよう。

 「ま、まぁ取り合えず、姉妹喧嘩は体良く収まったってことでイイじゃん! はぁ~、一時はどうなるかと思ったけど、やっぱ男の子は違うね、いざって時には頼りになる。ノーヴェ~、この子、お姉ちゃんにくれよ」

 「ちょっとセイン、失礼だってば」

 「軽いジョークだってば。それにしても、トレーゼって走るの早いなぁ。全っ然目で追えなかったもん」

 「いいなぁ~お姫様だっこ。私にもして欲しいッス」

 「ウェンディ姉さまは重いから無理なのでは……?」

 「いや、それ言っちゃたら、ボクら皆体重70キロ前後あるよ? 機械だからさ」

 「はははっ! 残念だったね、ウェンディ。心配しなくたって今度お姉ちゃんがしてあげるって。セッテも落ち着きなってば。…………セッテ?」

 自分よりも背が高い妹の肩をバシバシと叩いていたセインは、そこでようやくセッテの様子がおかしいことに気がついた。いつもは貼り付けたかのような無表情な顔に、何故か大量の汗が滲んでおり、双眸は驚愕によって見開かれていたのだ。

 「そんな…………そんなバカなことが……」

 「んあ? どうしたのさ、セッ……て、ぅおあ!?」

 急に強靭な片手で肩を押されたセインはそのまま芝生の上に尻もちをついた。再び彼女らの間に戦慄が走るが、今度はそう長くは続かなかった。

 「……………………」

 「……………………」

 セッテの視線が見降ろす先にあるのは……

 「…………何か?」

 自分よりも頭一つ分小さな体躯の少年を見つめ……いや、睨みつけるかのように凝視するセッテ。最早その目つきは先程までノーヴェと組み手をしていた時の無関心なモノではなく、現状持て得る最大級の警戒心が発露していた。しかし、他の姉妹に背を向けている状態の今、その事に気付く者は目の前のトレーゼ以外にはいなかった。

 「…………」

 「…………」

 「…………名前は何ですか?」

 「トレーゼ……」

 「姓名は?」

 「トレーゼ・S・ドライツェン……。局員証に、記されて、いるが?」

 「失礼。……では、魔導師ランクは?」

 「総合Aランク――」

 「嘘です」

 「!?」

 それまで矢継ぎ早にトレーゼに対する質問を繰り返していたセッテは、その応答が彼の口から聞こえた瞬間にさらに距離を詰めて近寄って来た。そこまでくると周りの姉妹達もおかしいと感じ始めたのか、再びセッテに注意深く接近して来た。特に一番近くに居るノーヴェに至っては、視線で人を殺せるのではないかと思える程の眼光をセッテの背中にぶつけていた。

 しかし、そんなことで動じる彼女ではなかった。ナンバーズの切り込み係とも言える彼女は殊更戦闘に関して言えばスカリエッティが持てる限りの技術の全てを注ぎ込んだと言っても過言ではない。そんな彼女がこれだけの殺気、それも自分自身に向けられているものに勘付かないはずがないにも関わらず、まるで他のモノが全く見えていないかのような感覚で目の前の彼だけを注視しているのだ。

 「貴方のあの動き……直線移動にも関わらず、辛うじてワタシの眼で追えるか追えないかの範疇でした。後衛担当として造り出されたディエチやクアットロとは違い、前衛担当として造られた純粋戦闘機種であるワタシはあらゆる敵の行動に対して即座に反応出来るようにと、眼球を始めとし、全身の各反射神経系を極限にまで強化されています。……それにも関わらず、ワタシは貴方の動きを追えなかった」

 「…………何が、言いたい?」

 「貴方の動作は常人のモノではないと言いたいのです。ましてや、たかがAランク相当であのスピード……あり得ません」

 「ちょ、ちょっとセッテ! いくらなんでも失礼だってば!」

 「貴方は黙っていてください、セイン。……それで、どうなのですか? 貴方は……何者なのですか?」

 セッテがさらにトレーゼとの距離を詰めた。両者の間隔はもう然程離れておらず、少し荒く息をすれば吹き掛かるのではないかと思える程に近くまで来ていた。ただでさえ身長が大きい彼女の氷のような瞳で睥睨してくるのだ、並大抵の者ならば卒倒してしまう程の威圧感にとっくに気絶していてもおかしくないレベルだ。

 だが――、

 「…………じゅ……だ……」

 「?」

 「まだ、未熟だな」

 「は? 一体、何を――」



 刹那、セッテが“逆転”した。



 「――え?」

 天と地がおよそ『二回』入れ替わった時、彼女は自分の体が回転していることをようやく理解していた。そして――、

 「ぐあっ!!?」

 三回半回転した時、彼女の体は無様にも頭から地面に叩きつけられるのを全員が呆然として見つめていた。あまりに唐突だったのと、到底あり得ないこの出来事に誰もの頭がフリーズしていた。ただ一人を除いては――、

 「くっ……!」

 急速に体勢を立て直したセッテは自らに危害を加えた“敵”を迎撃すべく、両腕の増強筋肉をフルに使って回転を起こし、コンクリートの塊をも余裕で粉砕する蹴りの一撃を放った。危険を察知した他の姉妹達は一瞬で我先にと跳び退き、距離を離した。障らぬ機人に巻き添い無し、だ。

 しかし――、

 「戦いとは……常に、“選択”だ」

 「なにっ!?」

 セッテの渾身の蹴り技は通らなかった。否、触れることすら出来ていなかったのだ。何故ならば……

 「人が、人間が、人類が……進化する上で、最も、発達した部位は、脳以外にもう一つ……。それは、“腕”だ」

 トレーゼの途切れ口調が周囲に届く。それはもちろんセッテの耳にも入ってはいたが、彼女は蹴りを入れようとした体勢のまま微動だにしなかった。

 「確かに、蹴り技は、人体の持つ、有効な武器の一つ……。人類が、二足歩行と言う技術を獲得し、身体の体重を、脚部のみで、支えるようになったことで、筋力は自然と増加し、そこから生み出される、破壊力は、絶大だ」

 「…………」

 「だが、どれほど訓練を重ねても、殴打に比べ、蹴りは常に動作に、遅延がある。なのに、お前は、腕を使った、素早い『殴打』ではなく、強靭な脚部を使った、鈍重な『蹴り』を、“選択”した」

 セッテの額や頬に冷たい汗が流れた。いや、ひょっとしたら全身から吹き出ているのかも知れない。既に彼女の視線はトレーゼの姿ではなく、代わりに全く別のものが視界を埋め尽くしていた。

 「No.7『セッテ』……お前の、回し蹴りが、俺の両脚の機能を奪うのと……俺の指が、お前の視力を、ゼロにするのとでは、どちらが早い?」

 セッテの顎を伝ってとうとう汗が流れ落ちた。全身はガクガクと痙攣しているかのように小刻みに震え、両目はずっと見開かれていた。その眼が捉えているモノは……指。眼球の僅か数ミリ手前にまで迫った二本の指先が、今にも彼女の眼球を抉り取らんと照準を定めていたのだ。

 セッテの回し蹴りが狙っていたのは確かにトレーゼの脚部だ。しかし、彼とセッテの足の距離は目測で約60㎝、それに対してトレーゼの指先と彼女の眼球の相対距離は前述した通りである。最早誰の目から見てもそこからもたらされる結果など見えていた。

 「お前は……選択を、誤った。故に、お前は、未熟だ」

 「……………………」

 セッテの眼前から静かに指が離れて行く。たった一瞬にも満たない牽制戦はこのたった一動作で終了したのだった。

 「うわー、やっぱ男の子はやることが過激だね~。お姉ちゃん、思わず漏らしそうになったもん」

 「てめーは一生戯言垂れてろ、セイン」

 「それにしても、お強いのですね、トレーゼさんは」

 「そうだね、全然反応出来なかった……」

 「ほらほら、セッテも落ち込んでないで顔上げるッスよ。いつまでも『orz』な体勢は見ているこっちもヘコむッス」

 やっとの事で一段落ついたことによって、それまでずっと外野だった他のナンバーズもゾロゾロと二人の元へと戻って来た。皆一様にホッとした面持ちで、すっかり緊張感が緩んだようである。

 「ほーら、立つッス。いつまでもそんなことしてないで――」

 「離せっ!」

 「ぅわっと!? 何するッスか!」

 「どしたのー? って、なんとぉぉおおお!!?」 

 後発組一の剛腕で突き飛ばされたウェンディは慣性の法則に忠実なまでに従い、不幸にもその射線上に位置していたセインまでをも巻き込んで壁に激突することでようやく停止した。

 「てめぇ……! いい加減にしろよな!! 今度は本気でブチのめすぞ!」

 セッテの進行上にノーヴェが立ちはだかった。だがしかし、その彼女ですら――、

 「邪魔です!」

 「のわっ!!?」

 セッテの進行を防ぐ事は出来なかった。全ての障害を進路から遠ざけた彼女は徐々に歩を進めると、再びトレーゼの前に立った。最早彼女の視線や発せられるオーラには一部の隙も無い、もし今度一撃を放たれれば、間違い無く仕留められる距離だ。

 「はぁっ!!」

 ノーモーション、全く以て攻撃の気配を感じさせないパンチが放たれた。初撃でこれが放たれれば、常人ではまず対処出来ないだろう。ましてやこの至近距離……当たり処によっては昏倒どころか少し細めの骨なら粉砕されても全く不思議ではない。それだけに彼女の拳が尋常ならざる速度を持っていたと言うことになる。

 コンマ数秒で機械骨格の拳は顔面の僅か数センチ手前にまで迫り、セッテは既に攻撃は決まったも同然と認識した。こんな距離で回避出来るはずがない、いや、出来ない。

 「討った!」

 勝利を確信して、セッテの拳が今――、



 「……甘い」



 その時、彼女の右足に激痛走る! 人体の数ある急所の一つである『弁慶の泣き所』、即ち脛を蹴られたのだ。大腿骨前側は人体の中でも特に皮膚が薄く、尚且つ神経が集中している箇所だ。ここをちょっとでも小突かれようものなら、どんな屈強な者でも一瞬の隙が生じるのは当然と言えよう。

 「っあ……!?」

 思わず体勢を崩し掛けるセッテ。しかし、何とか持ち堪えて見せると、彼女の視線がトレーゼの顔面を捉えた。

 ダメージが期待出来る足技よりも、初動が素早い手腕での攻撃。今ならばその意味が分かる、確かにこの至近距離では大振りな蹴りよりも腕での攻撃の方が有利なのは自明の理だ。その方がより確実に仕留められる。まさか脛蹴りと言う古典的な手段を取って来るとは思ってこそいなかったが、これで如何なる攻撃にも対応できる絶対の自信が身に付いた。次は無い!

 顔を下げて足の確認が済んだ彼女は、即座に顔を上げると――、

 凶暴な速度を纏った蹴りに顔面を強打された。

 「な!?」

 「えぇ!!」

 「嘘……!」

 あまりにも過ぎた行動に、その場に居た全員が凍り着いた。芝生の上を回転しながらセッテの体が壁にぶつかり、有り得ない程大きな衝突音が窓ガラスを揺らした。脱走防止用の対衝撃壁を構成していたパネルの何枚かが無残にもへこんでしまっているのが見え、その手前で桜色の長髪を乱したままのセッテがピクリとも動かずにうつ伏せとなっていた。

 「せ、セッテー!」

 すぐにディエチが駆け寄って行く。無理に起こそうとはしない、まずは意識があるかどうかを確認してからだ。

 「何もあんなにやらなくても……! ねぇ聞いてるのかよ!!」

 長女のセインがトレーゼに詰め寄る。妹想いな彼女は一連のセッテに対する行為に流石に腹を立てたようで、彼の襟首を掴み上げにかかった。身長は僅かながらにトレーゼの方が高かったが、そんなこと構わずに躍起になるセイン。

 「何とか言いなよ!!」

 「来る……」

 「へ?」

 予想していたのとはどれも違うトレーゼの言葉に、セインは一瞬だけ停止、彼の視線の先にあるものを見つめた。

 そこには――、

 「マジで……!?」

 見開かれるセインの目。無理も無い、それもそのはず、その視線の先にいたのは、肩を貸そうとするディエチの腕を振り払いながらゆっくりと立ち上がる……

 「セッテっ!!?」

 「大丈夫……って、ちょっとヤバいんじゃねーのかよ!?」

 息を呑む、と言う行動の真意をノーヴェは初めて理解したように思う。何故なら、頭部に衝撃を受けたことによって脳震盪を起こし掛けながらも立ち上がるセッテ、その顔面には思わず目を背けたくなる程にまで鮮やかな血液で濡れていたからだ。傷は無い、顔面を強打されたことで鼻の血管が破裂し、それによって流れ出て来た鼻血だったのだ。

 「はぁ……はぁ……はぁ」 

 「立つか……。流石だな…………だがっ!」

 「え?」

 セインが自分の掌で掴んでいたはずの襟首の感触が消えて無くなるのと、何かとても重い音が背後から聞こえたのは――同時だった。思わず手元を見ると、案の定そこには何も無く、ただ空を掴んでいるだけだった。

 次に聞こえたのは、およそ人の口からでるモノではなさそうな呻き声と、芝生の上に液状の“何か”が連続して落ちる音だけだった。

 「――!?」

 振り向かなくては! だが、生理的な忌避感が喉の奥から込み上げて来て体がそれを拒絶する。

 「あ……あぁあっ!?」

 続いて、生い茂った芝の上にドサリと倒れる音が……

 「っ!!」

 「セッテ……セッテぇぇえええっ!!」










 所移って会議室――、

 「八神二佐とチンク・ナカジマの釈放だと!? 君は何を言っているのか自分で理解しているのかね!」

 「少なくとも、ここに居る貴方達よりかは現状を理解しているつもりですが」

 「なんだとっ!?」

 「まだ分からないのですか!! 地上本部襲撃事件は敵、“13番目”によって引き起こされたものであることは既に確定事項……! そして、奴は複数のISの同時使用が可能な個体であることも、ヴォルケンリッターとの交戦データに基づき立証済み…………つまりっ!」

 「つまり君は、ランスター執務官や保管庫の担当員が確認した者は、本当は八神二佐ではなく、ISを使用して姿形を変えた“13番目”だと言いたいのだな?」

 議席の議員達にどよめきが走った。皆が口々に何かを口走るが、その殆どは「有り得ない」と言う否定のものだった。そして、数少ない賛同者と思しき無言の者達も、周囲の圧力に押されてやがては同調してしまう。

 「ハラオウン提督、妄言もここまでにしてもらおうか。第一、本当に彼女が犯人で無い証拠など、どこにも無い」

 「……貴方達は八神二佐とチンク・ナカジマを歴とした物的証拠も無く、全て状況証拠だけで現在の処分に至った……。つまりは、その権力を応用すれば、逆にいつでも謹慎を解いて釈放するのも可能と言うことです」

 「だがしかし、彼女らには前科がある。いつ何時行動を起こしたとしても、おかしくはない」

 「それだけですか? 貴方達はそうやって都合の良い言い訳をして、彼女らを……いや、全ての更正して立ち直った元次元犯罪者をそうやって黙殺してきたのではないのですか?」

 「…………」

 クロノの辛辣とも取れる物言いに、議員達が一斉に押し黙った。確かに、ここに集結した議員の大半は『闇の書事件』や『J・S事件』で同僚が傷付き、中には部下を失った者も居る。ある意味では次元犯罪者に対する私怨や憤怒、憎悪だけを糧にして伸し上がってきた連中も少なくなく、総じて犯罪者を異常なまでに毛嫌いしていた。何かスキャンダル的なモノを掴めば、それを利用して犯罪者上がりの彼女らを貶めようとするのは当然とも言えた。

 「既に、埃を被っていた科学研究班を総動員し、11月9日の押収物品保管庫と、同日の地下大型搬入通路でISを発動させたエネルギー反応があったかどうかを検査中です。近日中に結果が出るでしょう」

 「ふん! 結局は君も確証無しでの発言か……」

 「えぇ、確証も物的証拠も何もありません。しかし、それはこれから明らかになろことです。それに――」

 クロノは既に手元の書類を整理し始めており、まとめ終わったと同時に彼は壇を降りるとすぐに会議室の扉に手を掛けた。もう言うべき事は無いようだった。

 そして、退室する間際にたった一言だけ言い残していった。

 「僕は彼女らを信じています」










 「――――――――はっ!?」

 生み出されたコンセプト上、彼女は深い眠りにつくことはまずなかった。人間の形を象り、尚且つ生物としての一面も持ち合わせている以上、最も無防備な状態に陥るのは睡眠中だ。故に、彼女は今までなるべく深い眠りに落ちないように細心の注意を払い、そしていつでも意識を覚醒出来るようにと努めてきた。

 だが今回ばかりは気絶していた為に眠り以前の問題に意識が飛んでいたので、こうして無防備な覚醒に至った。

 つい数日前まで見慣れていた軌道拘置所の独房の薄暗い天井ではなく、今彼女の視界に飛び込んできていたのは医務室の白い天井だった。誰が言ったか知らないが、まさに「知らない天井」だった。

 「…………」

 呼吸がし辛い……。なにか自分の顔面、それも鼻面に何かが貼り付けてあるようだったので見てみると、止血用のコットンが二重三重に重ねてあり、それをさらに外側から包帯で巻き留めてあった。今更になって自分が顔面を強打し、鼻から出血していたのを思い出した。未だにその感触が神経にこびり付いている。

 「…………あぐっ!?」

 起き上がろうとして腹筋に力を入れたセッテは腹部から湧き上がって来た激痛に悶えた。何事かと急いで上着をたくし上げると、丁度自分のヘソの少し上辺りに明らかに不自然な拳大の黒痣が浮かんでいるのが見て取れた。内出血自体は収まっているようだったが、神経を傷付けたことによる痛みだけは消えていなかったようだ。

 「……ワタシは……負けた?」

 「そうだ」

 「――!?」

 聞き覚えのある声に自然と体が反応した。痛む首を構うことなく声のした右側へと向けると、そこには……

 「銃器を、持たない、一対一での戦闘の際、最も敵に有効打を与えられるのは、頭部・腹部・脚部……この三つだ」

 微動だにしない、まるで石膏か何かで固められた彫像のように備え付けのパイプ椅子に座るトレーゼの姿に、セッテの視線は無意識に釘づけとなってしまっていた。何故だか自分でも分からなかったが、自然と、打ち負かされたことに関する負の感情は湧いてこなかった。

 「それで良い……感情を引き摺れば、いずれ、自滅する。それを、“選択”しなかったお前は、優秀だ」

 胸中を丸ごと見透かされたような発言が出て来ても、彼女はそれを不自然だとは思わなかった。むしろ……何故かそれが当然の事のように思えてくるのは何故なのだろうか?

 「話を戻す……。顔面を殴れば、一時的に、視力を奪う上に、脳震盪で、昏倒が可能。腹部は、長時間に渡って、痛覚が持続し、相手は集中出来なく、なる。脚部は、主に、脛を蹴ることで、体勢を崩せる。……全て、お前に対して、実演した」

 「!?」

 確かに……。セッテは――正確な時間は知らなかったが――ついさっきの戦闘を振り返って思う。接近して一気に仕留めようとした時、脛を少し小突かれただけで自分は体勢を容易に崩してしまった。その次の瞬間には顔面を蹴られて弾き飛ばされ、起き上がった時には脳震盪で揺れ動く体を立たせるだけで精一杯だった。そして、その戦闘続行が不可能な自分に対して、彼は無慈悲にも止めを刺したのだ。

 「……………………」

 「……だが……お前の、近接戦に長けた、あのスタイルは、いずれ大成する、可能性がある」

 「え……?」

 突然の予想もしなかった言葉にセッテは驚きを禁じ得なかった。彼自身は凍り着いたかのように表情筋を動かすことなく喋っているが、セッテはその姿にかつて自分に戦闘に関わる全ての事柄を教え込んだ人物を思い浮かべていた。何故だろうか、今の彼の姿は“その人”にとても似ているような気がしてならなかった。

 「大柄な体躯は、相手に心理的、恐怖感を与える。そして、それに違わぬ、あの速度と、威力…………お前は、現時点でも、充分に優秀」

 「…………訓練をつけてくれた教育係が、ワタシ達の中では優秀でしたから。特に、戦闘行動に関してはトップレベルでした」

 「そう……。ナンバーズ最強、か。道理で、お前も、強い訳か……」

 「いえ、ワタシは――」

 「だが弱い」

 「ッ!?」

 トレーゼのはっきりとした物言いに彼女は少なからずショックを受けた。しかし彼は当然の事を口にしただけで、実際彼女は彼に指一本触れることすら出来なかったのは事実だ、それを否定することは出来ない。

 「見ていて、分かった。ノーヴェほど、ではないが、全ての打撃が、威力任せの、直線的な軌道になってしまっている。そして、全体的な、機動力の、低さが目立つ」

 「ワタシは……目的があってドクターにこの肉体を与えられました。この肉体である以上、それはどうしても補えない問題です」

 「…………なら、お前も、所詮そこまでだ、No.7『セッテ』」

 「どう言う意味ですか? 以前ドクターに訊ねたことがありますが、ワタシのこの大柄な体は先程も貴方が言ったように、敵対する者に心理的恐怖感を植え付ける事を目的にして培養されたモノです。そして、物事には何でも長短が存在します、ワタシの大柄な体躯ではそれ以上の機動性を絞り出す事は不可能に近いでしょう」

 「……………………」

 「それに……貴方は結局何者なのですか? 最強とは決して言いませんが、ワタシはナンバーズの中ではそれなりの強さを保持しているものと自負しています……。そのワタシを貴方はいとも簡単に打ち崩した…………単純な戦闘訓練を受けただけの管理局局員程度の実力で成せる業ではありません」

 セッテの眼光がトレーゼの双眸を捉える。金色の眼球を捉えて離さない彼女の視線には、既に敵意は消え去り、純粋な“疑問”の心と好奇心にも似た探究心が垣間見えていた。納得の行く答えを得るまでは絶対に退かないと言う意思の表れもあるようにも見える。

 「答えてください。貴方は……本当は何者なのですか? 貴方がどんな人生と言う名の過程を歩んで来たとしても、常人にしては余りにも強過ぎる……ワタシにはそれだけが納得出来ない……どうしても」

 「……………………とある、管理外世界には、こう言う諺が、ある……」

 しばらく質問に答えずに沈黙を保っていたトレーゼだったが、やがて痺れを切らしたかのようにパイプ椅子から立つと、ずいっと顔を彼女に接近させてきた。やはり抑揚の無い声に光の宿らない瞳を、同じく彼女の顔面に埋め込まれた宝玉のような眼球に向けていた。かつてこれ程の威圧感を内包した視線を放つ者がこれまで相見えた者の中に居ただろうか、いや居ない。

 「『好奇心は猫をも殺す』…………俊敏性に長けた、猫でさえ、自ら危険に飛び込めば、死ぬ……。今の、お前だ」

 「……」

 もう何も言えない……素肌の表面を駆け巡るこの不快感は間違い無く鳥肌だ。生み出されてからかなりの時間が経過しているが、今までに一度も経験したことの無いこの感覚……肉体の奥底と脊髄、そして脳味噌の中を抉られるようなこれは、まさか“恐怖”!? 有り得ない! 相手は非武装、年齢こそ不詳だが恐らくノーヴェかセインと同じ位、身長も体重差も自分の方が遥かに上回っている。なのに、つい先刻に一方的に蹂躙されたヴィジョンが脳裏に付着してるのが後押しして、自分が彼に対抗出来ると言う予想が全く以て浮かび上がってこなかった。

 「……………………」

 「…………まぁ、今は、知らなくても、良い。今は……」

 「え?」

 「何でも無い。…………………No.7『セッテ』」

 「はい」

 突然名を呼ばれたのに、セッテは自分でも違和感無く返事を返していた。自分の姉妹の誰かに呼ばれるかのように極自然に……。

 「お前は、いずれ、現存するナンバーズの中では、最強になる」

 「……何故そう言いきれるのですか?」

 「俺の予想では、もう、拘置所に居る三人は、自らの意思で、出所することは、無い。となれば、今現在での、最強は、お前となる」

 「…………」

 「だが、今のままでは、お前はただの、機械だ」

 「では……どうすれば?」

 「自分で導き出せ。自らが、生来、肉体と共に、併せ持つ、『存在意義』に、従って……」

 「ワタシは…………ワタシは、“戦闘機人”。ワタシは、戦う為だけに造られた存在……」

 「それで……?」

 「強くなりたい……強く在らねばならない。ワタシが“ワタシ”である為に…………それがワタシの『存在意義』」

 「ならば、そうしろ。俺は……何も言わない…………そう、来るべき時が、来るまでは……」

 何故だ? 彼の言葉が自然と耳から脳へと染み入って来る……。空っぽの記憶端末にいとも簡単に大容量のデータが入ってしまうように、トレーゼの口から出される言葉の一つ一つが難なく入って来るのだ。

 類は何とやら……雰囲気が似ていると言うディエチのコメントも、あながち大袈裟な表現でもなかったようだ。髪の色や身長、性別による顔立ちにも差異などもあるが、こうして並べて見てみると本当の兄妹か何かに見えて来るから不思議なものだ。

 「…………では……せめて貴方がワタシに訓練を施してくれませんか?」

 「……どう言う、意味だ?」

 「いえ……ワタシの見立てでは恐らく、貴方は今この海上施設……いいえ、もしかするとチンクやディエチらが世話になっていると言うナカジマ家のタイプゼロ・ファーストを凌駕し……ひいては、かつてワタシ達を決定的敗北へと追いやった六課のエースにも匹敵するものと推測しています……。御存知かも知れませんが、ワタシ達スカリエッティ製の戦闘機人は、より強い者と戦うことで常人よりも早く自身を強化します。ですが……自惚れなどではないですが、ここにはもう、ワタシより強い者はいません」

 「だから……俺なのか……?」

 「はい」

 「他の、ナンバーズが、居るだろう? そいつらに、頼めば、良い」

 「最早、後発組最年長のチンクですら、ワタシの糧にはならない可能性が高過ぎます。かと言って、本局のエースである彼女らがわざわざワタシの為に手解きをしてくれるなどとは毛頭思っていません…………」

 「……………………そうか。だが、悪いが……」

 「そうですか。予想はしていました」

 突き放されたことに意外とショックは受けなかった。それは彼の口調が限り無く自分と同じ平淡なモノだったからなのかも知れない。彼の言葉には何の余分な含みも無く、ただ淡々と事実だけを告げる分、セッテにとっては余計な勘繰りをしなくても良かったのだ。逆に親切に遠回しに言っていたら彼女も意味を履き違えるのかも知れない。

 ふと、再びトレーゼの方へと目をやると、彼は自分のポケットから取り出した小さな紙切れにペンで何かを書き入れていた。およそ三十秒足らずで書き上げたそれを小さく折り畳み、親指の表面と同じ位の大きさになったそれをセッテに渡した。

 「……これは?」

 「その、時間帯だ。。用意しておけ」

 「え……? いえ、あの……?」

 突然の事に対応出来ていないセッテだったが、彼女の制止も聞かずにトレーゼは椅子から立つと、そのままベッドから動けない彼女を後にしてさっさと無人の医務室を出て行ってしまった。あまりに一瞬の出来事に図らずも呆然としてしまう事しか出来なかった。










 やがてそれからどの程度の時間が経ったのか、担当医すら居ない医務室の外、つい先程トレーゼが出て行ったドアの方から人の足音が聞こえてくるのをセッテの強化聴神経が捉えた。

 「…………違う」

 足音のリズムで人数と歩調が分かる。足音の間隔で発信者の身長が分かる。足音の大きさで発信者の体重が分かる。彼女は始め、急に出て行ってしまったトレーゼが戻って来たのではないかと期待したのだが、それは違ったようだ。

 聞こえてくる足音は一人分……。だがその音の大きさもリズムも、トレーゼのものとは違い、彼よりも体躯が小さな者のものだった。やがて近付いて来たそれは、医務室のドアの前で止まると、取っ手に手を掛けて――、

 「よぉ……」

 ノーヴェが入って来た。赤髪を無作法に掻きながら入室して来た彼女は、まるでマラソン上がりの陸上選手のように息を切らしており、施設の中のかなりの距離を走っていたようだった。何の為にそんなことをしたのかはしらないが。

 「ノーヴェですか……。何か用ですか?」

 「あー……いや、あのさ……トレーゼ探してんだけどさ、見なかったか?」

 「…………いいえ」

 嘘である。ついさっきまで彼はここに居たし、自分と話していた。 

 セッテはどうして自分でも嘘をついたのか分からなかった。ただ直感的に、彼の存在を誰にも知らせてはいけないような気がしていたのだ。特に、何故かノーヴェには……。

 「そっか……。さっきまで一緒に居て、親父とかと話してたのに……」

 「…………随分と親しくするのですね、ワタシ達ナンバーズの中では最も社交性の薄かった貴方が……」

 「ん? まぁな、ちょっとした事がきっかけでさ……。って言っても、あたしだって知り合ったの最近なんだ」

 「そうですか…………ワタシには関係の無いことです」

 「あ、そ。…………あのさっ! セッテ……」

 「何です?」

 「今日はその……急に突っかかったりして、その…………ごめん……」

 「…………」

 造り出されてから初めて聞いた彼女の謝罪の声……。いつの間にか鼻元の痛みも完全に引き、腹部の方も少しは楽になっていた。

 「…………ノーヴェ、貴方は自分より強い相手と相対した時、どの様な感覚を感じますか?」

 「いきなり何だよ……?」

 「答えてください」

 「そ、そりゃあ……自分より強いんだったら、怖いさ」

 「そうですか……やはり、“恐怖”しか感じませんか」

 自分の予想していたモノと全く同じ答えにセッテは溜息をついた。“恐怖”……稼働時間が短い自分には縁遠いモノだと思っていたが、あの肌から侵入し、脳髄全体を麻痺させるあの攻撃的感覚は間違い無く、生物が危険を忌避する為に生来持っている危機回避能力が作動した証だった。あれ以上の領域に足を踏み込んでいれば、精神は侵され、肉体はボロボロに朽ち果てる…………現実では有り得ないことかも知れないが、極限にまで追い込まれた感覚はそう錯覚するのだ。

 だが……。

 何故だろうか……。

 確かに恐怖なるものを感じたのに、肉体の芯から込み上げるようなこの高揚感にも似た熱は何だろうか…………?

 興奮? 人間の遺伝子には古代より続いた戦いの歴史が刻まれており、より強い他者と見える事を最大の悦びとする者は戦いの最中で自己を奮い立たせる者も居ると聞く。人工的に生み出された上に全身の半分が機械だが、それと同時に彼女も遺伝子を備えた人間でもある。ひょっとしたら彼女の素体となった遺伝子にもいるのかも知れなかった。

 だが彼女は人間である事よりも、戦いの道具である“戦闘機人”としての自我を優先することを決めている。よって、自分の中で起こったこの現象をすぐに不要なモノとして、忘却の彼方へ追いやることにしたのだった。どうせ整備不調から来るノイズか何かに違い無いと決めつけて……。

 「それ何だよ、セッテ。その手に紙切れ」

 「紙切れです。見て分かりませんか?」

 「いや……見たら分かるけどよぉ。それにしたって、トレーゼどこ行ったんだよ、まさか先に帰ったとかじゃねーだろうな?」

 「無理ではないのですか?」

 「だよな~。だってここ……」

 換気の為にノーヴェが窓を少し開ける。冬の真昼日の陽光が入り込み部屋の温度を上げると同時に、季節風の寒風も一緒に入って来るので少し肌寒かった。風には湿気が含まれており、窓の外に見える光景は一面の青――。

 「海のド真ん中だしな……」

 11月13日、午前11時57分の出来事だった。










 同時刻、数キロ離れた海上にて――。

 「No.7『セッテ』との、接触に、成功した。適合率は、予想より下回るが、現段階では、最有力候補に挙げられる」

 『Recommend to contact with she.(彼女へのさらなる接触を推奨する)』

 「問題無い、全ては、計画通り。順調に、進んでいる」

 彼は飛行魔法は使ってはいない。海上更正施設の半径十数キロは許可無しでは飛行及び攻撃魔法が使用出来ず、ヘリと鳥類以外に上空を飛ぶ機影があった場合には問答無用で撃墜されるシステムになっているからだ。つい二日前の廃棄都市区画では総合A以上の騎士が三人も送られた……今度その様な戦力がいつ迅速に来襲して来るとも限らない、ここは仮に一つでも不安要素を無くしたいところだ。

 ではどうやって海上を移動しているのか?

 「マキナ、このまま魔力濃度を維持、全体重を分散、あと2.3キロ歩行」

 『Yes,my lord.』

 彼の足元、そこに広がる大海原が揺らぐ。彼の足が一歩一歩を踏み出すと同時に、その足の裏が塩分を豊富に含んだ水面へと接触する。しかし沈みはしない……まるで小さな水溜りを走り切ったかのように少しだけ水が跳ねるだけで、彼の体が沈むことは決してなかった。

 いや、良く見ると彼の足元……正確には足の裏と水面の間が何やら淡く光っているのだ。しかもかなりの範囲に渡って光っている部分が続いている。面積にするとクラナガンの首都高速道路の路面数十メートル分になり、それが綺麗な正方形を描いているのだ。

 「体重分散率、良好……。目標圏まで、あと――」

 圧力と言うモノがある。例え総重量が同じでも、接地している面積に差異があればそこに掛る力には開きが出て来るのだ。雪の上をそのまま靴で歩こうとすれば足が埋まってしまうが、スノーボードを使えば新雪の上にでも容易に足をつけることが出来る……魔力を実体化させて出来る薄い幅広の障壁を展開することで足元に掛かる体重の圧力を分散、そしてそれを常時維持することによって水中に没することなく歩行しているのだ。上空から見ればまるでアメンボのようだが、アメンボと違うのは、あちらは表面張力を利用していると言うことぐらいだ。

 「…………No.7『セッテ』、肉体増強レベル、Sランク……。ナンバーズ有数の、空戦タイプ、貴重な戦力…………No.9『ノーヴェ』、との実力差は?」

 『“Sette”is stronger than “Nove”that determine.(セッテの方がノーヴェよりも強い事は確定しています)』

 「…………やはり、予測はしていたが……そうだったか。やはり、究極の、戦闘機人、あのトーレが、訓練を施しただけは、あるな。そして……高度な、知的生命体である、“人間”と、精密機械の、完全なる融合……やはり、ドクターは天才だ…………」

 水面を歩き続ける。陸は見えないが、代わりにさっきまで自分が居た海上施設は遥か後方の水平線へと隠れており、どれ程の距離を歩いたのかが見て取れる。

 「だが、いくらドクターが、神に等しくも…………生み出された、機人そのものが、堕落していては、話にならない。その点では、セッテもまた、完全には、程遠い……。現に、こちらから少々、人間味を持って、接しただけで、あの反応…………こちらが、打算あって、接触している、ことも知らずに、すっかり、人間社会に、毒されてしまっている。あれでは、十二人中……良くても、『三人』が、限界だろう。……それ以上は、計画遂行に、多大な支障が出る、恐れがある――」

 陸が見えて来た。ここまで来れば施設の監視圏から脱しているはずだ、足元に展開していた魔力を集束させると、テンプレートを発現、体を数十センチ宙に浮遊させた。シルバーカーテンによる隠蔽も忘れない、既に飛び上がると同時に全身は光学迷彩によって完全に隠された。

 「とにかく……現状で、こちらの、勢力図に引き込めるのは、『セッテ』と『ノーヴェ』のみ…………更に、現段階で、戦力的に、モノになる可能性が、高いのは……セッテのみ……。あとの、六人は……もはや、何の役にも立たない。もし仮に、こちら側へ、引き込めたとしても、足手纏いに、なるだけだ」

 『Disposal.(処分せよ)』

 「承認。だが、現段階では、不可能。肉体増強レベルが、最も低いNo.8『オットー』か、非戦闘タイプの、No.6『セイン』あたりなら、恐らくは始末出来るだろうが、やつらは、常に複数で、行動している……。単独で、行動している所を、始末するしか、ない」

 もはや彼の脳裏には、移動の車内や施設で見た彼女らの笑顔など残ってはいなかった。いや、むしろ、自分達が何の為に生み出されたのか、その目的を忘れ、安穏と日常に溶け込む彼女らの表情は途徹もなく疎ましいモノとなっていたのだ。もはや仲間意識など到底湧いてこないし、同族とも思わなかった。つまりは――、

 「ただの、敵だ。最早、ナンバーズでも、何でもない…………“Lazy Numbers(堕落した機兵)”の名こそが、相応しい」

 『Enemy.(敵と認定)』

 「そう……。もう、どうしようも、ない…………あぁ、せめて、あの人が…………トーレが、居れば……勝機は」

 『My lord,please hury up.(お急ぎください)』

 「分かっている。……『取引現場』までの、距離は?」

 『About 25.6km.(約25.6キロ)』

 「急ごう……もう、計画は、遅れを許されない」



 正午、ミッドの上空を不吉な紅い流星が駆けた。










 時過ぎること約7時間、日も完全に西へと落ち、クラナガンの街が街灯に照らされる午後18時48分――。

 中心街から少しばかり距離を置いた所に存在する、ホテルなどが集中する宿泊街。中心街ほどではないが、ここに立ち並ぶ建物も相当な階数があるのが分かる。道路を走る車両は全て適当に宿を物色した後に、すぐに駐車場に入ってチェックインする。予約している者はともかく、そうでない飛び入りの客はなるべく早い内に部屋を取らなければならないのだ。

 そして、この車に乗っている二人もまた、例外ではなかった。

 「すみません、何だか余計な配慮を掛けさせてしまったようで……」

 「気にしない気にしない。子供は黙って大人の好意に甘えた方が得なんだから、甘えられる内に甘えた方が良いの」

 「はぁ……どうも」

 黒塗りの車を操縦しているのは時空管理局本局所属のメカニック、シャリオ・フィニーノ一級通信士である。車の震動でずり落ちる眼鏡をシミ一つ無い指先で上げながら、彼女はハンドルを切って、どこか空いていそうなホテルを物色する。その後ろの乗客席に居るのは、今日早朝に辺境から仲間の見舞いに参った、若き有能な騎士と魔導師――、エリオ・モンディアルとキャロ・ル・ルシエだった。

 「本当は見舞いを終わらせたらすぐに御暇させてもらうはずだったんですけど……」

 「二人とも訓練生に凄い人気あったしね。三年前に機動六課が解散してから、管理局じゃ二人の名前知らない人なんて居ないんだよ。当時10歳なんて、最年少だったんだから。あっ! なのはさんは9歳から魔導師やってるけどね」

 「でも、おかげでこちらも良い経験になりました。自然保護隊に配属してから対人戦の訓練が殆ど出来てませんでしたから、体が鈍って……」

 「体が鈍ってたからって一度に5人も相手にするものなのかしら……。しかも全戦全勝だなんて……」

 「そう言えば、訓練生の人達ですけど、何だか三年前より若い人達が多くなかったですか?」

 「あぁー、あれね。一時期、J・S事件が解決するまでの過程を描いたドキュメンタリー番組が民間で放送されたことあったでしょ? あれに感銘を受けて、それまで本局志望だったのを無理を通して地上本部に切り替えた生徒や訓練生が沢山出たの。それで、結果的に猛勉強して、飛び級やら何やらで早い段階で管理局入りする子が猛烈に増えたって訳。昼間にエリオ君が相手してあげてた子達も、平均年齢12、3歳の集まりだからねー」

 「えぇっ!? じゃあ、三年前の私達みたいに――」

 「いるよ。訓練生の子達の中には10歳とか11歳の子も居るよ。年の近い二人に憧れて入った子も少なくないんだから」

 「そんな、憧れだなんて……。エリオ君はともかく、私なんてサポートに回ってただけで……!」

 「謙遜しないの。あ! ここのホテルが空いてるわね、二人とも、宿なんて別に拘って無いでしょ? 寝込み襲われなかったらどこだって良いわよね?」

 宿泊街へと来てから既に数分、やっと適当な宿を見繕ったのか、シャーリーが後部座席の二人に確認を取った。もっとも、マイペースな彼女は確認を取りつつも既に車を駐車場に入れていたが……。

 「はい。すみません、何から何まで……」

 「いいのいいの。保護隊の方にも休暇日数を一日増やしてくれるように言っておいたし、一応フェイトさんも公認。どうせ今からリニアに乗ったって、あっちに着くのは日付が変わる真夜中だし。いくらなんでも、子供二人きりで夜道を帰れって言うのは酷い話でしょ? だーかーらー、一晩クラナガンで過ごして、明日の朝方に戻れば良いって事」

 「ありがとうございます」

 「チェックは私がフロントの方でしておくから、二人は鍵持ったら部屋に行って寝るのよ。良い子は早寝早起きが一番なんだから。まぁ……別に、二人水入らずってコトで、好き勝手やっても良いんだけれどね」

 「あ、あの……シャーリーさん?」

 「フェイトさんはちょっと過保護だから、バレたら大目玉かも知れないけど、私は内諸にしておいてあげるから心配しないで。ちょっと『早い』気もするけど、何事も経験よね」

 「……………………」

 以前から思考回路の一部がはやてと似通っているとは思ってはいたが、こうまで来るともう閉口するしかなかった。

 それからおよそ5分、シャーリーの思考回路が正気を取り戻すまでの間、エリオとキャロは顔を赤くしながら後部座席で時が過ぎるのを待っていたのだった。










 シャーリーの車が停車した駐車場から約3キロ、とある名も無き通り道にて――。

 特にこれと行った特徴も無く、治安も決して悪くは無いこの街の一角には、社会と言う名の強烈な渦に呑まれて疲れ切った体を癒すべく、あらゆる人間達が集う場所があった。

 それは、バー。平たく言ってしまえば、一種の“飲み処”である。

 あまり人気は無い。単に評判が悪いのか、それとも隠れた名店とやらなのかは知らないが、とにかく店内に居る人数は少ないことこの上なかった。マスターらしき壮年の男性が一人と、その前のカウンター席に腰掛ける男性客が4名……あとは店内に幾つか置かれているレトロな木製円卓に座る客の数が片手で数える程度のものだった。閑古鳥が鳴いている。

 そんな店内の客連中の中に二人、ペアで酒を飲んでいる者達が居た。店内の一番端のテーブルに向かい合って腰掛け、何か言葉を交わしているようだった。詳しくは聞こえなかったが、数分もすると話題は佳境を終えたのか、男の一方が懐から何か箱をような物体を取り出し、それを卓上に置いた。いや、それは実際に何かを入れた箱だった。何を入れてあるのかは分からなかったが、それを向かい側の男性が受け取る。

 「長いこと飲みに付き合わせて悪かったな。注文通り、それが『本体』で……こっちが『替え玉』だ」

 箱を渡した男がさらに懐から始めの物とは違って小さめの箱を、二つ取り出して渡した。それをまた向かい側の男が受け取り、自らの懐中へと入れ込んだ。

 「にしても、あんたも珍しい奴だな。今のこの御時世だから仕方ねぇのかも知れねーが、もうちょっと『買い物』の量を増やしてもらわないと、こちらも商売何とやらだ。そんな少ない手持ちで、一体何をやらかすつもりなんだよ?」

 「……………………」

 「ん? あぁ、すまねぇな、いらねぇこと聞いてよ。『注文』が終わっちまえば、あとは依頼主がどうやろうとそっちの勝手だったな。忘れてくれ」

 「……………………」

 「兄ちゃん、それの『使い方』分かってんだろうな? 最近それでヘマする奴が居やがるから、お前さんも充分気をつけてくれよ? そいじゃあ、俺はこのへんでそろそろ……。また縁があったら会おうや」

 そう言って、男の一人は自分の頼んだ酒代の分を卓上に置くと、さっさと立ち去って行った。天気予報ではもうすぐ雨が降ると言っていた為、男の右手にはしっかりと傘が握られていたのが見えていた。

 店内に残されたもう一人は、しばらく自分のグラスの中味を口に含んでいたが、やがてそれを飲み終えると、代金を払って同じく店を後にしたのだった。

 傘などない。むしろ防寒着の類を殆ど身に着けていないに等しい服装だった。暗黒の空を見上げれば既に湿気を大量に含んだ黒い雲が見え、間もなく冬の冷たい雨が降って来ることを報せていた。

 「…………マキナ、指定範囲全域に、召喚虫を、放て」

 『Yes,my lord.』

 貰い受けた箱が入っているのとは別の懐から電子音が響くと同時に、彼が羽織る薄い上着の袖口がモゾモゾと蠢いた。明らかに腕を動かしている動きではない、大量の小さい『何か』が内側で絶え間無く蠢いている動きである。

 やがてその蠢きは次第に袖の中を移動し、遂に――、



 「行け」



 周囲の道行く人間達は気付かない……その者の袖口から雲霞の如く飛び出した極小の羽虫の存在に。地球に存在する生物的な面影は全く以て無く、それはかつて三年前のJ・S事件の際、故あってスカリエッティ側に協力していた幼い天才召喚士――ルーテシア・アルピーノが使役していた小型の召喚虫であった。召喚に必要な魔法陣が展開されていない所を見ると、どうやら研究の為にスカリエッティが保存してあったものが隠れアジトの一つに残されており、それを直接持ち歩いていたようである。

 仄かに紅く明滅する虫達はしばらく彼の周囲を取り囲むようにして飛び回っていたが、ものの数秒と経たない内に100を超える虫達は一斉に雲行きの怪しいことこの上無い空へと飛翔したのだった。

 「……ミッド全域……管理局が網を張る、その前に、こちらから、仕掛ける。既に……最重要警戒対象群――『機動六課』の内、三名は潰した。『スバル・ナカジマ』、『ティアナ・ランスター』、そして……図らずも、『八神はやて』。だがまだだ、まだ足りない……奴らを、孤立させるには、まだ策が、足りない」

 召喚虫――インゼクトの大群が飛び去ったのを見送った彼は、ゆっくりと夜の街を練り歩く。特に行く所は無い、先程の受け渡しとは別に取り決めた『約束の時刻』まではまだ大いに時間がある、暇潰しと言う感覚が彼にあるのかどうかは微妙な所だったが、とにもかくにも今日一日残り約5時間の中でもうやる事が何も無いことだけは確かだった。

 「……………………」

 中心街ほどではないが、ここも夜になればそれなりに街灯の明かりが昼間の太陽に取って代わって街を照らす。その明かりの下を行く人々は大抵二人以上で行動していた。あと一月半もすれば新たに年が明ける、その瞬間を親しい者と一緒に過ごそうとする感覚は至極当然と言えよう。

 だがそんな中で独り。

 「……………………」

 彼は金色の瞳を寸分もブラすことなく、ただ前だけを見据える。彼の目に映るのはビルでも道行く人々でも、街の明かりでも何でもない……自分の踏んでいる道、ただそれだけ。

 彼の眼光が他人のそれと明らかに違う所為か、たまに目が合った者の何人かが彼を避けるようにして歩く。

 だが気に留めず。

 彼にとっては道行く者など文字通り、眼中に無いのだから。










 どれほどの距離を歩いただろうか、気が付くと彼は中心街に近い歓楽街へと足を運んでいた。人の数も格段と多くなっているここでは、数に比例して街の喧騒も自然と多くなる。

 ここまで来る頃には、彼の存在はまるでガラス球のようになっていた。もちろん比喩だが、まるで人々がそこに何も存在していないかのような態度を取り続けているのだった。恐らく、肩がぶつからない限り……いや、最早ぶつかっても気付かないのではと思える位に彼の存在自体が薄いモノとなっていた。

 「……………………」

 今のところ、哨戒に出した召喚虫からは何の反応も無い。特に異常は無いようだった。問題は天気だった、既に夜空は黒雲で覆われており、さっきから頬に小さな雨粒が当たっている。このまま後十分もすれば真冬に似合わない盆をひっくり返したような土砂降りになるのは必至だろう。

 なるべく早く雨風を凌げる場所に移動した方が得策だ。

 そう考えたのか、彼は自分の歩調を少しだけ早めた。向かい風が頬を流れて行き、それと同時に人の波もまた彼の視界の左右に流れて行く。



 その刹那――、



 鼻腔をくすぐる“嗅ぎ覚えのある”匂いが、彼の脇をすれ違う。

 「――ッ!?」

 彼が身を翻すのは早かった、サバンナのチーターは時速100キロを越えようとする走りであっても平気でV字ターンをかます、それと全く同じ動きだった。

 増強された神経が埋め込まれた鼻の異常な嗅覚が、途切れ掛けの“匂い”を再び掴む。あとはそれを追うだけだ、犬畜生にも出来る芸当だ。

 彼は覚えていた、この“匂い”の主を――。

 そして、もし仮に彼の予想が正しければ、その主とは……





 「ふぅお!? 寒っ! 何もこんな時間に買い出しに出さなくっても良いじゃんかよ~!」

 真冬の完全防備――、それは防寒着。コート、手袋はもちろんのこと、首にはマフラーを巻き付け、頭にもニット帽を目深に被ってすっかり防寒対策を取っているその人物は、辛うじて声で性別が分かる程度だった。つまり、その位に彼女は寒波を凌ぐ為に努力を費やしていたと言う訳だ。

 脇に抱えるのは紙袋、買い物をしてきた帰りであることは容易に想像がつく。ちなみに、中身は紅茶の茶葉が封入された箱だった。ミッドとは別の管理世界で栽培されている品種で、芳醇な味わいで人気を博している一品である。

 そして彼女――、淡い水色の短髪をすっかりニット帽で隠した少女、セインは帰り道を急いでいた。

 「はぁ~、シャッハの奴、更正施設から帰って早々にケツ叩いて買い出しにいかせるなんて……。うぅうぅううっ……寒い、この世の地獄だよ、これは」

 なるほど、昼過ぎにセッテとの面会を終えたナカジマ家と教会組は、特に局の仕事も無いのでそのまま帰宅し、教会で彼女を待ち受けていた“仕事”がこれだったと言う訳だ。大方、朝方のサボりに腹を立てたシャッハが、わざわざ日が暮れて大寒波が吹き荒れるこの時間帯を選んで買い出しに出掛けさせたのだろう。さすがは仕置きがキツいことで定評のあるシスターだ、やる事が違う。

 ともかく、凍死することなく目当ての物は買えたのだ、あとはリニアに乗って一端中心街に戻り、そこからタクシーか何かを上手く拾って帰れば良い。もちろん、懐の持ち合わせもちゃんとある、何も心配は無い。

 「んお? 何か音がするよ」

 歓楽街の歩道を半分内股で歩いていたセインの聴覚神経が、街の賑やかな喧騒に合わない“音”を拾った。耳を澄ませると確かに聞こえてくる、その音……いや、“声”。

 「うーんと、こっちか」

 そう言って彼女は人が全く居ない狭い路地裏へと入り込んで行った。





 歓喜? 否!

 愉悦? 否!

 快感? 否!

 否、断じて否なのだ。彼の頭を駆け巡るノイズ……それは最早、喜怒哀楽などと言う一種の“プログラム”では計り切れない程の衝撃だったのだ。

 何と言う僥倖! これが俗に言う天恵とか言うモノなのか。

 彼はすぐに“獲物”の後を追った。逃がしはしない、絶対に仕留める、今ここで! 条件は全て整っている、『こちらは相手よりも強い』・『相手は現在単独行動中』・『邪魔者は一切居ない』……この全てが、今! 整っているのだ。

 図らずも獲物はたった今、人気の無い空間へと自ら足を踏み入れた。まさに絶好の好機、これ以上のチャンスが今を逃して次に来るだろうか? いや来ない、断言する、来ない!

 この建物が所狭しと建ち並ぶ区画では、路地裏は全て袋小路。一度入った後にこちらから塞いでしまえば自然と逃げ道を消せる。加えてこの喧騒、これだけ騒がしければ叫び声を上げない限り衆人に気付かれることはない。

 「……………………」

 影。まさに影そのものだった。まるで、『そうであること』が極々自然であるかのように、彼は獲物の迷い込んだ空間へと滑り込む。

 袖口から取り出したるは……ナイフ。果物を切る時に使うような小さな物だ、用具店に行けば幾らでも売っている品物、武器としては心許ないような気もするが、実は違う。

 人間はナイフ一本でも充分に殺せるのだ。そして……対象が人間の形をしている以上は、全く同じ事が言える。刃を横に倒して差し込めば肋骨に邪魔されることなく内臓に立て続けにダメージを与えられる。頸動脈を切り裂けば放っておいても勝手に死ぬし、スマートに脳天に振り下ろせば即死だ。

 念の為に叫び声を上げられないように左手で口を封じる算段も練っておく。獲物は抵抗するだろうがたかが知れている。

 真冬の気温も彼に味方している。始末に成功して、例え死体をここに置き去りにしたとしても、この寒波では死肉は腐らず、長い時を保存される。そうなれば、如何に管理局の犯罪課が優秀であろうとも死亡推定時刻の算出に遅れが生じるだろう。ともなれば、管理局側が推定時刻と犯人の割り出しに時間を費やしている間、こちらはあわよくばそれを隠れ蓑に使えるのだ。

 これらの条件も踏まえた上で、まさに今のこの瞬間は好機と言えた。

 彼が獲物を発見・捕捉してからこの間約4秒。既に……彼の眼球は路地裏の奥を向き、その網膜には獲物の背中が投影されていた。完全にこちらのリーチ内、逃がそうにも自然と仕留められる距離……制空圏の中へと引き摺りこむことに成功したのだった。

 月明かりの代わりの街灯がナイフの面に反射して鈍く光る。見る者全てに原始的な恐怖感を揺り起こす輝き……それが今、彼の右手にあった。

 「……………………」

 気配を消し、接近す。自らが内包する存在感を限り無くゼロ、一次元の点に昇華させる……そうすることで、彼はようやく――、



 鉄槌の代わりにナイフを振り下ろした。










 彼女は夢を見ている。現在進行形……昼間と同じように、脳の奥底にある記憶の部屋、そこから漏れ出る残滓が見せるモノだった。

 だが何故か、自分の脳には一切覚えが無い映像だった。どれほど昔の記憶なのか、それさえも分からない。とにかく過去のモノであることは確かだった。

 視界が歪んでいるのは恐らく液が満たされた培養槽に居るからなのだろう。少し手を伸ばせば届く距離にガラスがあり、空間を隔てているのが分かる。だが問題はその向こう側、その先に見える光景だった。



 ……誰? そこに居るのは……誰?



 液体に体を沈めている所為で視界が霞む……良く見えない。分かるのは、そこに居るのが“人”と言うことだけだった。誰かまでは分からなかった……と言うことは、初めて見ると言うことになる。



 ……ねぇ……わたしは…………いつになったら……ここから出れますか?



 こちらから問い掛ける。だが、当然の如くあっちは気付いてくれない。一応、こちらが覚醒しているのは気付いているみたいだったが、全く反応してくれなかった。

 いや……一人……いや二人だけ、気付く者が居た。

 液体の中で声も聞こえないはずなのに、その二人はこっちに気付いてくれた。手を振っているのが薄らと見える。

 手を伸ばす。強化ガラスで区切られているのは知っている、それでもなお、分かっていてなお…………伸ばさずにはいられない。

 自分の存在に気付いてくれた、愛しい存在に。

 そして――、

 指先がガラスに触れる一手前で――、

 幻想が覚めた。










 11月14日、午前2時――、ミッドチルダ海上更正施設にて。

 看守は居ない。日付が変わったこの時間帯では流石に見回りの看守達も睡眠を摂る。単純で寂れた夜の静寂だけが施設を包んでいた。

 そんな中で、彼女――セッテは行動する。

 「…………フンッ」

 与えられた自分の個室……と言ったら聞こえは良いが、実際は独房であるその部屋のドアを、当然のようにしてこじ開ける。しかし、警報ならず。鍵も掛っていなかったのだろうか? 通常この様に無理矢理開けたりなどすれば、たちどころに脱獄防止用の警報が作動し、ものの数分と経たない内にその者は捕縛されるはずだ、それが何故?

 フロアの他の部屋には自分以外誰も居ないのを良い事に、彼女は目的地へと向かう。途中で危うく天井などに設置してある監視カメラ何度かと鉢合わせしそうになったが、上手く切り抜けた、カメラの死角は人間のそれよりも大きいのだ。

 都市部の方は雨らしいが、この海上は快晴の夜空、よって、真夜中に起こる放射冷却現象により、現在の気温は0℃を少し下回っていた。

 それでもなお、彼女は進む。裸足であっても、ただただ進む、目的の場所へと足を運ぶの為に。



 そして――、辿り着く。



 「…………」

 そこは昼間に彼女と姉妹達が集った場所、レクリルームだった。足元の草がさっきまでの無機質な床とは違った冷たさを足の裏へと伝えて来ているのが分かる。窓から見えるのは街灯と言う人工的な光ではなく、遥か闇夜の天空に浮かぶ二つの巨大な月によって照らし出された大海原、さざ波で揺らめく広大な水面。全てを内包し、生み出す母なる海……。

 だが、そんな光景の中に、不自然な“影”……。本来そこに居るはずがない存在……。

 「…………来ましたよ、言われた通りに」

 窓の外側に居るその“影”に話し掛けるセッテ。それに言葉ではなく行動で応える相手側……壁際から体を離すと、ゆっくりと窓ガラスへと近付いて来る。

 「およそ14時間振りですね――――トレーゼ」



 月光が“影”の顔を浮き彫りにする。



 紫苑の短髪に白磁の肌……ガラス球のように透明に輝く金色の双眸。



 そして、貼り付けたかのような無表情――。



 「いや……告知した、時間より、2分44秒、経過している」

 No.13『トレーゼ』が――再び舞い降りた――。










 「では……始めようか」



[17818] 前哨戦・騎士の槍と機人の狂気
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/04/04 23:03
 新暦78年11月14日――。時空管理局犯罪総括課のデータベースには、この日は二つの事件が起こったと言う事実が記されている。

 一つはミッドチルダの沖合に存在する海上更正施設、ここに侵入者があった事。この事実はその時に発覚したものではなく、真相を掴むのに時間を要した為に、そうだと分かったのは随分と後の話になった。

 そしてもう一つ……。首都クラナガンから離れに離れた辺境へと続くリニア、これが突然山中で停車、たまたま乗っていた管理局員二名が謎の襲撃を受けたことだ。

 前者はともかく、後者の事件は明らかにその局員を狙った犯行であることが分かり、管理局地上本部はその犯人の割り出しに尽力するのだった。



 そして、その二つの事件が関連性を持つことに気付くのも、この時はまだ先だった。










 11月14日午前2時5分、ミッドチルダ沖合、時空管理局地上本部・海上更正施設にて――。

 第97管理外世界『地球』……それも日本で言うところの“丑三つ刻”に値するこの時間帯はまさに全てのモノが静寂を体現していた。唯一耳に届くのは、ガラス一つを隔てた向こう側から聞こえる波の音だけで、これが夕刻ならばさぞかし風情があっただろう。

 このレクリルームから見える海の光景も全く以て美しいモノだった。揺れる水面に二つの月の光が反射し、時折風が吹いてさらに小さな波紋が水平線の向こうへと広がって行くのは大自然の神秘とも言えよう。

 そのレクリルームの外と中で互いに相対する二つの影があった。厚さたった数センチのガラスを境にしてその二人は凝視し合う。

 「……で、始めると言っても何をするのですか?」

 「まずは、そちら側に、進入する、必要が、ある。……少し、目を閉じろ」

 「何故ですか?」

 窓の外の影――トレーゼの言葉にセッテは不思議そうに訊ねた。彼がどうやって窓ガラスを警報も鳴らさずに突破するのかは知らないが、度台無理なことだろう。例え何らかの方法があったとしても、わざわざこちらがその現場を視界に収めてはいけない理由が分からない。

 だからこその質問。だがしかし――、

 「立場が、上の者の、発現には、従え」

 「何……っ!?」

 「この強化ガラス…………一平方メートルを、爆薬で、破壊するのに、必要なエネルギーは、およそ……TNT火薬30キロ、と言ったところか。…………お前なら、どう破壊する?」

 「…………武装の無いこの状況……純粋な腕力だけで破壊するとなれば、不可能です」

 「そうか……なら――」

 トレーゼの右手がユラりと上げられた。亡霊でももう少しマシな動作をするのではないかと思えるような気だるそうな動き……その手の先が目の前の強化ガラスにそっと触れた。とても弱々しい、精々中指の先が接地した程度の接触でしかない。たったそれだけの動作で一体何が出来るのかと、セッテは内心では高を括っていた。

 しかし――、

 「これは、どうだ……?」

 「な……っ!?」

 首元に冷たい感触――。頸部を万力の如く締め上げるソレにセッテは始めは混乱の相を表した。しかし、数秒後には自身の防衛本能をフル活用し、喉元のそれに手を掛ける。

 冷たいながらも有機的な柔らかさを持っている……これは腕だ。もちろん、自分の腕ではない、今にも気道を握り潰さんと掛けられるその腕の先へと目を辿れば――、

 「そんな……バカなこと……っ!!」

 視線の先、内と外を区切る境界となっているガラス――。

 そのガラスを見事に貫通して……

 トレーゼの腕がこちらへ進入していたのだ。

 「魔力の流れが感知出来ない……!? 有り得ないっ! 物質透過の魔法無しにこんなことが……出来るはずが――!」



 「そう――、出来るはずが、ない」



 どれ程の時間が過ぎたのだろうか? 少なくともセッテ自身には長いように感じられた。5秒か、30秒か……それこそ2分以上だったのか、それすら分からなかった。

 だが、ふとした衝撃で彼女はその浮足立つまどろみから解放された。

 「――――はっ!!?」 

 セッテは自分の混乱し掛けていた精神が戻ってくるのを感じ、睡眠から覚醒したばかりのように霞む目を擦り、再び前を見た。

 「これは……?」

 いつの間にか首元の感触が無くなっていると思って手を当てて見れば――、

 無い! 窓を貫通して伸びていたはずの腕が、こちらの首に掛っていたはずのトレーゼの腕が目の前に無かったのだ。

 それだけではない、確かに自分は今さっきまで首を絞め潰されていたはずだった…………あの感覚が夢幻だったとは思えない、自分は本当に首を絞められていたはずなのだ。

 なのに……

 何故だ!? 

 何故首元にその絞められた跡が無いのだ!?

 機械骨格が埋め込まれていたからこそ何とか耐えられたようなものだが、常人ならとっくに頸骨がヒビ割れていてもおかしくない圧力が掛っていたはずだ。なのに……彼女の白い肌の表面には絞められて鬱血したどころか、針一本が小突いた跡さえもなかったのだ。触って確かめてみるも、結果は同じだった。

 「な、何が……!? ワタシは今さっき……確かにこの首を……」

 「何を見たかは、知らないが、意識を逸らすなよ?」

 「!!?」

 自分の右耳、その数センチ離れた所から聞こえる声。それが鼓膜を叩いた瞬間、セッテは反射的に脚力を全開にし、一瞬で五メートルもの距離を空けた。さっきの声は背後から聞こえて来たモノだ、例え戦場ではないとは言え、背後を取られると言うのは致命傷だ。前方に跳ぶと同時に空中で腰を捻って半回転、背後の敵から距離を離すのと、相手を視界に収めるのを同時にこなす。

 「どうだった? こちらの、幻術の、具合は」

 「そんな……!?」

 時刻は午前2時7分。邂逅から既に数分が経過しているが、窓に立っているトレーゼの姿をセッテが確認したのは、ほんの2分前の話だ。



 では何故、自分の眼前に彼が居るのか?



 「お前は、俺がここに、入ったことに、気付けなかった。人の行動において、『気付かない』、と言うのは、常に致命傷だ。『気付かない』、状態から、『気付く』までの間に、何が起こるか、分からないからだ」

 「…………つまり、貴方がこちらへ進入してから今この状態に至るまでに、ワタシはどんな目にあっていても不思議ではなかったと?」

 「そうだ……現にお前は、俺に、背後を取られた。数時間後に、見回りに来た、看守に、お前の屍が、発見されていても、知らんぞ」

 彼なりのジョークか何かなのかは知らないが、今この状況で言われるととてもじゃないが洒落になっていなかった。彼なら本気でやりかねない……昼間の一件で重々承知していた。

 しかし、今のセッテにはそれとは別の疑問で頭が一杯だったのだ。

 「…………一つだけ……貴方に質問しても良いですか?」

 「何だ?」

 「貴方はどうやって侵入したのですか?」

 「始めから、こちらに、居た……と言えば?」

 「それは嘘です。貴方はワタシがここへ足を運んだ時に既に幻術に掛けて、現実と幻覚の区別を出来なくさせたのだと言いたいのでしょうが、それは違います。ワタシは対魔導師戦用に開発された戦闘機人……魔力の感知に長けたワタシのセンサーを騙すことは出来ません」

 「……………………」

 「確かに、貴方の腕が窓ガラスを貫通したヴィジョンは紛れも無く幻覚でしょう……しかし、少なくともワタシがここに来てから貴方と視線を合わせるまでの間、不審な魔力の流れはありませんでした。とすれば、貴方はさっきまで確実に『窓の外に居た』と言うことになります……違いますか? 貴方は『何らかの方法』を用いて、ヒビ一つ入れば警報が鳴るはずの窓を通過し、内部へと侵入した……。そして、その『何らかの方法』をワタシに見られたくなかったからこそ、幻術と言う手段を用いて強制的にワタシの意識を逸らした……」

 セッテの推理講釈の間、トレーゼは特に表情を変える事無くいつものように平淡とした面持ちで彼女の言葉に静かに耳を傾けていた。何もしない……ただ呼吸をして、心臓を動かし、ただ単に存在しているだけだった。

 「以上が……ワタシの予測ですが、違いますか?」

 「……いや、パーフェクトだ。戦うことしか、能が無いのかと、思っていたが、そうでもなかったか」

 「何が言いたいのですか?」

 「別に……。さて、始めるか」

 「その前に……」

 「まだ、何かある、のか?」

 「えぇ……まぁ……」

 そう言いながらセッテの視線が彼の上着を捉え、そのまま下へと注がれる。あまりにも彼女の視線が気になったのか、トレーゼ自身も何事かと自分の身の回りを確認し始めた。

 「……クラナガンに居たのですか?」

 「何故、分かる?」

 「全身が濡れています。今の都市部は雨のはずですから…………寒くはないのですね?」

 「特にはな……」

 そう言ってトレーゼは本当にどうもなさそうに振舞っていた。だが彼の濡れ方は半端なく、紫苑の髪は勿論のこと、昼間の局員制服とは違う上着やズボンなども目も当てられない程に雨水で湿ってしまっていた。まるで、傘無しで嵐の中を歩いていたかのように……。

 しばらくそんな彼の格好を凝視していたセッテは、やがて何を思ったのか――、

 「どこへ、行く?」

 「いえ、少し……」

 走ってレクリルームを後にしてしまった。来た道を戻った彼女が次に姿を見せるのに時間は掛からなかったが、いざどこに行っていたのかを聞こうとすると――、

 「自分の房に戻っていました」

 「は……?」

 「トレーゼ、ちょっとしゃがんでください」

 「な、何を……ぉおっ」

 身長に頭半分程の差がある為、抵抗する間も無くトレーゼは頭を軽く押さえ込まれ、芝生の上に座らされてしまった。殺気が感じられなかったので特に警戒しなかったのだが、ここまで強引にされると流石に抵抗しない訳にもいかなくなってくる。彼は素直に座ったように見えて、しっかりと両脚に力を込めて臨戦体勢を取っていた。

 しかし、そんな彼の心配もあっけなく無為なものになってしまった。

 「大人しくしてください」

 その言葉が聞こえると、頭に何か柔らかい感触が降り掛かった。重量は感じず、とても軽い物と言うことが分かったが、生憎と“何か”までは分からなかった。何故なら、頭の上に落とされた“それ”の所為で視界が完全に塞がれてしまったからだ。そしてその上から掛けられる更なる物理的圧力が二つ……。その二つの重みが頭を強く掻き回すのだ。

 「何をする……?」

 「分かりませんか? 貴方の頭の水分を拭き取っているのです。これから何をするにしても、そんなズブ濡れの格好で行動したくはないですから」

 そう言って彼女はトレーゼの頭を丁寧に拭き回す。意外と几帳面なのか、頭を拭いていても他に濡れている箇所を見つけるとすぐに拭きとるのだった。流石に顔面は自分で拭いていたが……。

 「別に答えてくれなくても構いませんが、都市部で何をしていたのですか? どう考えても、傘を差していなかったことだけは分かりますが……」

 「大したこと、ではない……」

 そう言ってセッテからタオルを引っ手繰ると、彼は淡々と全身の水分を拭き取り始めた。髪はまだ少し濡れて艶やかに光っていたが、始めの頃の水滴が垂れていた時に比べれば幾分かマシになっていた。

 やがてある程度拭き終えたのか、用済みとなったタオルをセッテに投げ返すと立ち上がり、ゆっくりと窓際へと歩を進めた。ガラスに手を掛けると、その向こう側に広がる海の風景を食い入るようにして見つめる。

 「そう……大したこと、ではない……」

 静かな彼の呟き。しかし、そんな彼の声は小さなもので、セッテの耳には届いていなかった。










 時を遡ること、約7時間前――。



 「うーんと、こっちか」



 トレーゼは目の前の獲物――セインが路地裏に入って行くのを見逃さなかった。何と言う僥倖か、つい数時間前に処分することを決定した存在とこうも簡単に接触出来るとは思ってもいなかった。しかも相手は単独で行動している、今なら余計な介入者も入らない、迅速且つ確実に始末することが出来る絶好のチャンスだった。

 周囲の喧騒に紛れて足音を消し、彼は獲物の後を追って自身も路地裏へと入り込んだ。袋小路となっているその道の数メートル先の突き当たりでは既に獲物が地面にしゃがみ込んでおり、完全にこちらに背を向けている状態となっていた。

 これもまた好機、死角からの攻撃は想像している以上に有効的なのだ。特に、出来る限り無音で接近すれば成功率は格段と上がる……。そして、軍隊式格闘技の基本スタイルでもあるこの暗殺法にはもう一つだけ必要不可欠なモノがあった。

 トレーゼが右腕を軽く振ると、遠心力によって袖口に仕込んであったモノが飛び出し、手に収まる。ナイフ……刃渡りは20㎝強と言ったところだろうか、これを逆手に持つと彼はゆっくりと、しかし確実にセインの背中との距離を詰め始めた。

 本来人間一人を殺すには別に素手でも殺せるのだ。脊髄の頸骨を中心にして力一杯捻じれば、脊髄粉砕と頸動脈破裂によって難無く殺せるし、機人の機械骨格と増強筋肉から生み出される腕力を以てすれば訳無いことだ。だがしかし、相手もまた自分と同じ戦闘機人だ、通常の人体とは違って重硬金属で構築されている首の骨を捩じ切るのは流石の彼でも難しい。モタモタしている間に抵抗されて逃走されては折角の好機も水泡に帰す、それだけは絶対に避けねばならない。

 故のナイフ。骨まで砕かずとも肉を切り裂けばそれで充分、腹を連続で刺して内臓を破壊、頸骨を切断出来ずとも左右の頸動脈を輪切りにした後、止めに機人唯一の弱点である頭骨を貫通させてナイフを通せばそれで終了。あとは物言わぬ“物体”と成り果てた屍を適当に安置しておけば良い。

 既に、彼とセインの相対距離は数十センチにまで縮められていた。トレーゼがもうナイフを振り被っているのに対して、セインの方はまだ気付かないのか、地面に座り込んだままで何やらブツブツと呟いていた。見た所何かに没頭しているようであったが、こちらからでは彼女の背が陰になって良く見えなかった。どうせすぐに殺すのだ、何をしていようと問題は無い。

 そう――、

 (殺す……ただそれだけ……!)

 眼前の存在はもはや彼の計画には不要のモノだ。いや……“不要”だけならまだしも、下手をすればこの存在そのものが後々の計画進行における“障害”と成り得る可能性が高いのだ。介入される前に芽を摘み取っておくのが道理だ、情けなど一切掛けるつもりも無いし、掛けてはいけない。もしこれが彼女らのように顔見知っていた仲ならば情が湧いたのだろうが、彼の場合はそうではないのだ、いざ殺す時には何の躊躇も無しに始末出来る……。例え同胞でも躊躇い無く殺せる、今の彼の最大の強みだった。

 右手のナイフを構えたまま、口封じの為の左手を伸ばす。口を封じる際には同時に出来るだけ鼻も押さえるのが好ましい、呼吸が満足に出来なくなれば相手はパニックを起こして必死に抵抗するだろうが、無酸素状態で激しい運動をすれば十数秒と保たないだろう。

 背後からのネオン光を反射してナイフの刃が光る。

 それをゆっくりと掲げ、狙いを定め……

 振り下ろそうとした、その時――、



 セインの視線の先にあるモノが見えた。





 「お~よしよし、腹減ってんのか? そりゃそうだよね、こんなトコに捨てられてちゃ満足にモノも食えないよね」

 しゃがみ込んだセインの見つめるモノ……それはダンボール箱。家庭に普通に置いてあるテレビより一周り小さなサイズの物だった。彼女はこの路地裏に入ってからずっとこの箱の前に座り込み続け、何か話し掛けているのだ。

 人気の無い路地裏にダンボール箱……これだけで中に入っているモノはだいたい察しがつくと言うものだ。

 そう……



 ミャー



 「可愛いなぁ~! お持ちかえRYYYYYYYYYYッ!!」

 そう言って箱から取り上げたるは……猫。とても小さい、まだ生後半年も経っていない程のサイズだ。それが箱の中に全部で五匹も入れられている。当然、ここが正当な住処ではないことは確かだ。大方、食わせていくのに難を感じた飼い主がここへ放置して行ったのだろう。

 母親を探す本能が働いたのか、箱を開けてセインの姿を見た瞬間から彼女に擦り寄って来るのだ。その愛らしい仕種に女性特有の母性をくすぐられたのか、セインの方も一匹づつ抱き上げては愛しそうに頬擦りしていた。

 「なぁ、お前達……どうせ住む所無いんだったらさ、ウチに来ない?」

 ミャー♪

 「そうかそうか。お前達持ってったらウチの妹達が文句言うかも知れないけど、悪い奴じゃないから何だかんだ言っても面倒見てくれるさ。……あっ!? 文句言うのはあの暴力シスターも同じか…………うーん、まぁ何とかなるっしょ」

 そう軽く言いながら仔猫の小さな頭を撫でまわすセイン。さっきまで寒さで震えていたのが嘘のように満面の笑みを浮かべながら、愛でることに全力を注ぐ姿は微笑ましいものである。

 いい加減に移動しなければと思ったのか、手に持っていた仔猫を箱に移そうとした、その時――、



 シャーッ!!



 抱えていた仔猫が急に毛を逆立てて警戒し始めたのだ。小さいクセに全身の体毛と手足の爪、そして牙を立てて威嚇している。

 「え!? ちょ……どうしたのさ?」

 いきなりの威嚇行動に戸惑うセイン。しかし、その敵意が自分に向けられているモノではないことにはすぐに気付いた。第一、もしそうなら今頃小さな爪は彼女の手をズタズタにしていたはずだ。

 では、一体“何”に対しての威嚇なのか……?

 すぐに戦闘機人としての戦闘経験が脳内でリピートされ、このケースの場合の対処法が検索された。

 自分は目の前の猫に集中していたとは言え、何の不穏な気配も何も感じなかった。だとすれば、その“敵”は自分の感覚の外側に居ることになる。そして、自分ではなく猫がその存在に気付いて威嚇したと言う事は、その“敵”は……

 『自分には見えず、猫の視界に居る』と言うことに他ならない!

 抱えた猫の視点は自分とは真反対を向いている……と言うことは、その見えざる者はつまりつまり――、

 「誰だっ!!!」

 背後。

 瞬時に仔猫を箱に戻すと、姿勢を反転、両手両脚を構えて拳闘姿勢を取った。いくら彼女が非戦闘タイプとして開発されたとは言え、元の本分は戦闘機人。その名の通り、戦うことを目的として生み出されている以上は腕に覚えがあった。少なくとも街に居るゴロツキ程度なら余裕で倒せる自信がある。

 だったのだが……

 「あ、あれ……?」

 振り向いても、そこには何も無かった。数メートル前方からは歓楽街の光が変わらず差し込んでおり、路地裏を薄く照らしていただけだった。何者かが居たと言う形跡すら残されてはいない……いや、むしろ本当に誰も居なかったのだろうか?

 だが、さっきの猫の威嚇は半端なかった、あれはどう見ても対象無くして出来るモノではない。となれば、その“敵”は自分が振り向くほんの数瞬前までは確実に背後に存在していたことになる。敵意や殺気こそ感じ取れなかったが、もし自分がその存在に気付くことなく見逃してしまっていたなら、今頃どうなっていたのだろうか?

 「……!!」

 考えただけでも身震い。願わくば自分の思い過ごしだと信じたかった。

 ポケットの携帯電話にメール着信があった。送り主は教会に居る二人の妹達からで、内容は――、

 『早く帰って来い』とのことだった。










 数分後、セインは仔猫×5の入れられた箱を大事そうに抱えながら帰路を再び辿り始めていた。リニアは使わない、一端中心街まで行ってからタクシーを拾って帰るつもりだった。

 そんな彼女の後ろ姿をおよそ十数メートル後方から凝視する影があった。

 「…………危なかった、あともう少しで、発見される、ところだった」

 歓楽街に建ち並ぶビル群……その中の一つの屋上に、彼は居た。背後の夜天に二つの月を従えながら、トレーゼの視線は下界の街並みを行く己の取り逃がした獲物を追っていた。金色の瞳だけを爛々と輝かせている彼の表情は相変わらずの無表情だったが、その胸中は得も言われぬ悔恨で埋め尽くされていた。

 しくじった……完全に!

 目の前に獲物が居たのに、自分は仕留めるどころか触れることすら出来なかった。廃棄都市区画でヴォルケンリッタ-を仕留められなかった時などの比ではない、これは有るまじき大失態だった。

 彼女の抱いていた猫がこちらを威嚇した瞬間から、彼は彼女がこちらの存在に勘付くのは時間の問題だと悟っていたのだ。そして、彼女が猫を箱に戻してこちらを向くまでのほんの一瞬の内に再び死角……即ちビルの壁によじ登ることで事無きを得たのだ。セインの視線が右側の壁面に行かなかったのは不幸中の幸いと言えるだろう、もしあの状況で彼女がその部分を見ていたなら気付かれただろう――コンクリートの表面を穿って作った足場の存在に。

 抜かった! 始めから全力で対処しておくべきだった。どうせ始末するつもりだったのなら力を隠さずに一気にやるべきだったのだ。ライドインパルスで瞬時に殺害するも良し、シルバーカーテンによる知覚錯乱で混乱している隙を突いて仕留めても良かったのだ……それを何故ナイフなのだ!? トレーゼは今更ながらに自分の行った“選択”の誤りを悔いていた。

 もう既にセインの姿は遥か向こうの街並みへと消えている……例え追えたとしても、この衆人環視の中で殺害すれば後々面倒が付き纏う。もう無理だった……。

 「…………やはり、そろそろ、必要か……計画遂行の為の、サポーターが……」

 二つの月光は喧騒に塗れる街を静かに見下ろしている。そんな中で、No.13『トレーゼ』の金色の瞳が飢えた猛禽類の如き光を放った後、音も無く夜闇の最中へと消えて行った。

 そのすぐ後だった、豪雨が降って来たのは――。










 トレーゼの記憶はそこで回想を終えた。あの後はずっと変装してクラナガンの街を意味も無く練り歩いていただけだった。もちろん傘は無い、お陰で道行く人々に不思議そうに見られたものだったが、別に気にはしなかった。

 「…………それにしても、どうやって、独房から、抜け出た? 鍵が掛かって、いるはずだが?」

 窓から離れると、トレーゼは傍で控えていたセッテに訊ねた。確かに彼の言う通り、この施設の房には全て鍵が掛けられており、無理にこじ開ければ警報が鳴ってしまう。そんな極限の状況下で彼女はどうやって自分の独房から抜け出たと言うのだろうか?

 すると彼女は――、

 「あぁ、その事ですか……」

 そう言って自分の尻ポケットをまさぐると……

 「これです」

 何かを取り出した。トレーゼはそれを受け取り、しばらく見つめた後に一言「なるほどな……」とだけ言ってまた返した。

 彼が返した物、それは紙切れ。無造作且つクシャクシャに丸められたその紙切れをセッテが解いていくと、そこには何やら文字の様なモノが記されていた。良く見て見ると……



 『200』



 ただそれだけだった。恐らくこの空間にて落ち合う為の集合時刻である午前2時を表していたのだろうが、それ以外には何も書かれてはいない、何も見当たらない。本当に何のタネも仕掛けも無いただの紙切れに過ぎなかった。

 「貴方が昼間の医務室でくれたモノです。鍵を誤魔化すのに一役使わせてもらいました。ドアの鍵にこれを噛ませておけば閉まらない上に、監視システムは『鍵は正常に閉まった』ものとして認識します」

 「なるほどな…………流石だな、優秀だ」

 「貴方はそれを計算してこれを渡したのでしょう? そろそろ教えてくれませんか? こんな回りくどい事をするのは一体何の為なのか……」

 セッテの鋭い視線がトレーゼの目を貫いた。互いに無機質な視線を交わらせながら、物言わぬ冷たい戦いが繰り広げられているかのように錯覚してしまいそうだったが、その拮抗は長くは続かなかった。

 「何を言っている?」

 「え……?」

 「お前が、『強く在りたい』と、望んだから、俺はそれに対し、無慈悲に協力するだけ…………来い」

 トレーゼの顔がセッテの正面を捉えた。構えてはいない。いや、この構えていない状態こそが彼にとっての臨戦体勢なのかも知れなかった。セッテの脳裏に蘇るは半日前の映像……自分が手も足も出せずに一方的に攻撃されて終わった、戦闘機人としてはあまりに屈辱的極まりない瞬間だった。

 「自らの手で己の汚点を払拭する機会を与えてくれるとは、意外にも優しいのですね」

 「『優しい』……? 何を勘違い、している、お前に……そんなモノは、不必要だ」

 「そんなことは分かり切っていることです。ワタシは戦闘機人……戦う為だけに造られ、戦う為だけに存在し、戦いの中で消耗し……戦場で潰れるだけの人形…………そこに余計な感情は無くても良い」

 セッテが構えた。長身に隠された鍛え抜かれた筋肉を引き締め、両拳を突き出す。その姿勢には昼間と比べて一部の隙も無く、今なら例え背後からの介入者があったとしても間違い無く処分出来るのではないのかと思える程だった。

 「はぁっ!!」

 セッテが初撃を狙いに踏み出した。爆発的な瞬発力に芝生は土ごと抉れ、後方へと吹き飛ばされる。

 そんな彼女を真正面に見据えながら、トレーゼは呟きを漏らした。



 「そうだ、それで良い。やはり、お前は優秀な、“道具”だ」










 何も見えない……ここは何処なんだろう? 少なくとも『私は誰?』なんて言うベタな事にはなってないから安心した。 でも何も見えないのはちょっと怖いかも……。

 何か音がが聞こえる……どこから聞こえるのかな?

 私って…………どうなったんだっけ? えっと、確か……消火活動の時に現場を抜けて、地下に行って、それから……――

 あぁ、そっかぁ、これは夢なんだ……じゃなきゃこんなに暗い訳ないよね。私が見ている夢……眠っているから見る夢……これが夢だって分かっちゃたのなら、もう覚めないといけないんだよね……。

 そう、私は沈んじゃいけない……! 潰えちゃいけない……! ここで――死ぬ訳にはいかない!!

 私にはまだやる事ややらなきゃいけない事が沢山ある……だから、こんなトコで――

 「死ねないっ!!!」



 11月14日午前7時29分、スバル・ナカジマが深き昏睡から覚醒した瞬間だった。










 午前7時34分、中心街から距離を置いたとあるホテルの一室にて――。

 この時間帯には太陽は東の地平線を離れて南の空を目指しており、既に大きな道路などでは通勤に行く人々で溢れていた。街が本格的に目覚める時間、それが今だった。

 そして、その『目覚める時間』と言うのはこの二人も例外ではなかった。



 Pi Pi Pi Pi♪ Pi Pi Pi Pi♪



 部屋に鳴り響く目覚ましのブザー音。発信源は寝室の卓上……そこに置かれた腕時計からだった。ベッドの厚い掛け布団の中から小さな手が伸びると、しばらく空を探っていたが、やがて音の根源を見つけるとそれを掴み上げ、それと同時に音も止まった。

 「う~ん、もう時間なの、ストラーダ?」

 『あぁ、今からここを出れば午前7時51分発の下りリニアに充分間に合う』

 「うん……分かったよ。キャロ、そろそろ起きて……」

 赤髪の少年――エリオがすぐ隣のベッドへと手を伸ばす。一応その布団の中には自分と同じ歳の少女が包まっているはずなのだが……

 「……あれ? キャロ?」

 あんまりにも反応が無かったので少々申し訳なく思いつつも布団を剥がすと、そこには誰も居なかった。寝ぼけているのかと思って良く見てみるが、やっぱり居ないことに変わりはなかった。さらにはフリードまで居ない。

 「トイレかな…………あれ?」

 寝起きから間を置いたことで体の感覚が少しずつ戻ってきた所為か、エリオは布団の中に自分とは違うモノの温度の持ち主が潜んでいるのに気付いた。半分嫌な予感がしながらも布団を捲ると、そこには――、

 「……フェイトさんが居なくて本当に良かった」

 『内心はまんざらでもないのだろう?』

 腕に取り着けた相棒からの冷やかしに溜息をつくエリオ。そんな彼のすぐ横では体を密着させて眠る竜召喚士の少女と、既に目を覚まして退屈そうに欠伸をしている仔竜の姿があった。










  同時刻、昨日の雨など無かったかのような蒼天に浮かぶ影が一点――。

 「……………………」

 素肌に張り着くようなサイズの紺色の防護ジャケット……

 寒風を受けてはためく頂戴な白マント……

 『ⅩⅢ』の刻印が成された首元の金属製チョーカー……

 四肢に装着された凶悪な武装……

 そして、精密機器を内蔵した金色の双眸……。

 「…………昏睡状態だった、タイプゼロ・セカンドが、復活したか……」

 ナンバーズの13番目、トレーゼ。彼の視線は遥か眼下に広がるクラナガンの灰色砂漠を凝視していた。上空5000mの地点に位置するここは地上本部の索敵範囲内ではあるが、そこは電子戦用ISのシルバーカーテンの効果を余す事無く発揮することで事無きを得ている。

 彼がセカンド……つまりはスバル・ナカジマの覚醒に気付けたのには訳があった。彼らナンバーズにはそれぞれの個体ごとに感情や脳内情報を個体間で行き来させる為の“送受信機”のような役割を果たすシステムがある。このシステムがあるからこそ、彼女らナンバーズは互いの位置を知る事が出来たり、高度なコンビネーションを取ることが出来ているのだ。彼の場合はその中でも少し特殊だった、現在の彼は他の十二人のナンバーズ同様に互いの正確な位置や情報を得てはいるが、その反面として自分の情報は限られた者としかリンクしてはいないのだ。でなければ、今頃とっくにナンバーズ全員が彼の存在を知っているはずだ。彼は自らの存在を隠蔽する為に一方的に情報をカットしており、かつては三人だったのも、現在で彼の存在を正確に知り得るナンバーズはたったの“二人”だけとなってしまっていた。

 話を戻そう……。彼はスバルのIS、『振動粉砕』を獲得する為に彼女の血液を直接取り込んだ。この際に彼の体内で、コンセプトは違えど同じスカリエッティ製の戦闘機人の生体情報が“ナンバーズ”として刷り込まれたのだ。これが通常の機人の生体情報を取り込んだだけではこうはならなかっただろう……あくまでナンバーズの製造理論を利用して生み出された個体だったからこそ成せる業だった。

 「…………セカンド、か……」

 寒波吹き荒れる空中で彼は瞑想するかのように黙り込んだ。目を閉じ、静かに考えるその姿は一種の芸術的彫像にも見え、心成しかとても画になった。

 やがて、彼は双眸の目蓋を開けると、ただ一言だけ――、

 「使えるか……」

 とだけ呟きを漏らした。表情は相変わらずの鉄仮面……なのに、その絶対零度をも下回る温度を、全身から狂気や殺気にも似たプレッシャーで発散させていた。今の彼は無慈悲且つ無機質だ、目の前を通り過ぎる者が居れば肉食獣のように喰らい、立ち塞がるならば草の根一本であっても焼き尽くさんばかりの覇気を漂わせている。比喩でも皮肉でも何でもなくて、間違い無く彼の通った後には草木一本も生えないのは確実だろう。そして……一度自分にとって利を生むと分かれば、例え自分が痛めつけて生死の境へと追いやった者ですら手駒にしようとするその豪胆さも、今では脅威以外の何物でもなかった。

 「……それにしても、結局、セッテは俺から、一本も勝利を、取れなかったな」

 回想するは数時間前に行った格闘訓練と言う名の一方的強襲の場面である。午前2時過ぎに始めてから、看守が早朝の見回りを開始する30分前の午前4時までの二時間、セッテとの間で行った無制限の一本勝負……セッテが一回でもトレーゼの背を地に着かせれば勝ちだったのだが、結局はまたもやセッテの惨敗となったのだ。

 「まぁいい……徐々に、馴染ませて行けば……。駒の準備は、順調なんだから…………………っ!?」

 トレーゼの視線が眼下の街から自分の背後へと切り替わった。一見何も無いように見えるが実は違い、常人の視認領域を遥かに越えた所からやって来る“それ”を彼は捉えていたのだ。

 「……来たか」

 そっと虚空に右手を差し出すと、その指先に小さな紅い光点が留まった。昨晩街中に大量に放って置いた召喚虫の一匹が戻って来たのだ。もちろん、タダで戻って来た訳ではないことは承知だ、放った数百匹の内の大半には区画ごとに有益な情報を収集して来るように密命を課しているのだ。つまり、ここでこの一匹が主である自分の元へと帰って来たと言うことは、何か情報を掴んだと言うことだ。

 指に留まったその虫は小さな羽を震わせながら、外骨格で覆われた自らの体に魔力の光を纏った。言葉を持たない虫と意思疎通をする際にはこうして彼らが発する光を一種のモールス信号のようなものとして受け取ることで成り立っているのだ。

 不規則に明滅を繰り返すそれを見た後、トレーゼは小さく「そうか……」と言い――、

 「もう良い、戻れ」

 軽く手を払って虫を飛ばすと、インゼクトは彼の頭上をしばらく旋回した後に眼下へと降下して行った。再び情報収集へと向かわせたのだ、次に来るのはいつになるのかは分からない。

 「…………“目標”を確認……。マキナ、セットアップ」

 『Yes,my lord. Form of “Laevatein”.』

 いつの間に取り出したのか、トレーゼの右手にはキューブ型のストレージデバイス、『デウス・エクス・マキナ』が掴まれており、主の命を受けた黒鉄のフォルムが次の瞬間にはかつての廃棄都市戦の時と同じように炎の魔剣――『レヴァンティン』の形状へと変形していた。火炎は出ない、彼の体内には炎熱系の魔力変換資質が入っていないからだ。代わりに鮮血の如く紅い魔力の奔流がダイレクトに刀身から放出されていた、少しでも触れれば瞬く間に全ての生物を腐敗させる瘴気の渦にも見えなくはなかった。

 「“目標”は、下りのリニアに乗って、北西の山岳方面へと、移動中……。至急追跡し、行動を開始する」

 真紅の疑似魔法陣が展開し、両手首と両足首にエレルギー集合体の鋭利な翼が生える。超高速で飛翔する手前の合図だ、恐らく次の瞬間に彼の姿はこの半径200メートル以内から姿を消すだろう。

 そして――、

 案の定ものの数秒と経たない内に彼の姿はクラナガンから完全に消えていた。

 上空に残っていたのは不自然な飛行機雲だけで、本来ならその軌道には航空機など通らないはずであり、一時航空署で小規模の混乱が起きた。










 午前8時、クラナガン医療センターにて――。

 「はぁ……はぁ……はぁ……!」

 オレンジの長髪を振り乱しながら、執務官ティアナ・ランスターは激走する。メロスもかくやと言う程のスピードで院内の廊下を駆ける彼女だが、重要なのはその動力源となって貢献しているのがヴァイス・グランセニックだと言うことだ。

 「あーもうっ! 急いでください、ヴァイス陸曹!」

 「無茶言うなよな! 玄関からここまで来るのにでも一年分の運動量だぜ、まったくよぉ」

 「じゃあ、良い機会です! 頑張って走ってください」

 痩せ馬に鞭打つのでももう少し優しくするのではないかと思えるような口調で背後の彼を叱咤し、彼女を乗せた車椅子は走り続ける。目の前を先に歩いていた医者や看護師達を押し退けながら目的の場所を目指すその姿はまさに単騎で戦場を駆ける戦乙女であった。もっとも……車椅子に乗っている姿は何かとシュールだが。

 エレベーターに飛び込みボタンを連打、目的の階まで移動している間はずっとイライラとして落ち着きなく足を踏んでいた。車椅子に乗った人間がそんな事をしていて良いのかと思えてくるが、実際のところ彼女の足はもう完治しているようなものなので別に問題は無かった。

 やがてドアが開くと、それと同時に再び車椅子が激走を始める。始めにここへ来た時に受付で場所は聞いたので、いちいち背後のヴァイスに行き道を言う必要は無く、後はそこへ如何に早く到達出来るかだった。

 何回目の角を曲がっただろうか……途中で数えるのを止めた時、遂にティアナは目的の場所へと辿り着くことが出来た――、

 「ここね……」

 「そうみたいだな……」 

 とある病室の一つ、そのドアの前に。バリアフリーとなっている為、車椅子に乗った状態のティアナでも開けられる仕組みになっていた。取っ手に手を掛けると彼女は何の躊躇も遠慮も無く、一気に開け放ち――、



 「スバルッ!!!」

 「あ! ティアじゃん! どうしたのー、その車椅子? って、私もか」



 病室に居たのは自分と同じように車椅子に乗っている蒼い髪の少女、スバル・ナカジマだった。呑気に窓際で日向ぼっこでもしていたのか、口元には涎が垂れているのが見受けられた。ここまでの階まで来ると寒風の代わりに窓からの日光しか届かないので丁度良い暖かさになるのだ、大方ドアを開ける瞬間までうたた寝でもしていたのだろう、幸せなものだ。

 そんな彼女――、表情こそ笑顔だったが、その実態はとても居た堪れないモノだった。車椅子に乗っているのまではティアナと同じなのだが、スバルの場合はそれが『電動車椅子』だったのだ。便利なモノだ、ちょっと軽くレバーを操作するだけで車輪が動いてくれる便利極まりない代物だが、何故そんなモノを宛がわれているのか? 別に自分で動かすのなら普通の車椅子でも良いはずだ。

 動かせないのだ。

 何故?

 “無い”からだ。

 何が無いのか?

 車輪を動かす為の腕が片方しか無いからだ。

 「あー、これ? ちょっと不便だけど……まぁ何とか上手くやってるよ」

 視線に気付いてスバルが自身の『本来右手であるはずのモノ』を軽く振って見せていた。

 健在なのは左腕だけ……。右腕と両脚には本来有るはずのモノが全く無く、代わりに切断面には汚れ目の無い包帯が二重三重にも巻かれてあった。

 「ビックリだよ、起きたら手足が無いなんて、また夢でも見てるのかなって……。あは、何言ってるんだろうね、私って」

 「スバル……!」

 笑顔。あくまで笑顔……自ら庇ったとは言え、自分の所為で四肢を失う羽目になってしまったと言うのに、彼女は――スバルはその事に触れようとはしない。だが、話題に触れないのは目の前の親友に余計な気負いをさせたくないからではないことなど、ティアナはとっくに知っていた。もちろんそれもあるだろうが、訓練校以来の付き合いだ、彼女が生来嘘をつき難い性格をしていることぐらい重々承知だ……彼女は“忌避”しているのだ、自分が手足を失うと言うのがどう言う事なのか……どんな残酷な意味を持っているのかと言うことを、本人が一番理解し、そして理解することを避けている。

 人を……他人を助けるのは大変だ、親の血肉を分けてもらい、神から与えられた二本の腕は自分の為にあるのだ、その腕を他人を救う為に使うのは至難の業なのだ。そして、人間は誰でも“他者”よりも“利己”の為に能力を使う事に長けている、持ち合わせる能力の違いと言うのもあるが、第一線で戦果を上げる人間が災害救助に回されると意外にも期待した程の効果は無いが、逆の場合はそうでもないのだ。それは何故か? 単純に物事を利他的に成すのは困難だと言うことだ。例え同じことをやろうとしても、自分の為にやるのと他人の為にやるのとでは、その困難さに格段と差が出て来るのだ。

 その難行を……他人の為に人を救い続けると言う、地上で最も名誉あり苦しい行為をスバルは自分の為ではなく人の為にし続けて来た。他でもない自分の意思でだ。それが彼女の望んだことであり、彼女の成し遂げたかった夢だったのだ、今更それを苦しいなどとは思ってはいないはず。

 ただ――、

 手足を切られ、残ったのは強い意志と左腕のみ……。こんな体では他人を救うどころか自分のことですら儘ならない……無理を通してでもやろうとすれば、それはただの傲慢になってしまう……そんなことは親友であるティアナが、かつての仲間達が、そして何よりもスバル自身が一番理解しているはずだった。

 理解出来ているからこその辛さ、理解しているからこその残酷さ…………それを身に染みて感じているのに――、

 「あは、ははは……はは……」

 笑っている。

 目尻が光っているのは錯覚などではない。目を凝らせば薄らと見える頬の細く赤い跡も、うたた寝による無様なモノとは決して違う。意識が覚醒して最初に見えた自分の手足に対する悔し涙の跡だ。

 それでも笑っているのだ。本当は耳を覆いたくなる程の絶叫を上げて悲しみの涙を滂沱の如く流したいに違い無いのだ。それでも、彼女は目の前に居る親友にこれ以上無様な姿を見せたくないのと、夢が崩れてギリギリの一線で自己を保っている自分の精神がそれを許さなかった。

 「…………スバル……」

 「うん? 何? ティア」

 「…………もういい……もういいから」

 「え――?」

 「もう……いいから」

 そのまま適当な理由をつけてヴァイスと一緒に一端部屋を出ると言う手段もあった。そうすればスバルは心置きなく泣くことが出来ただろう、その意味では部屋に留まり続けたティアナの行動はある意味で残酷と言える。

 だから抱き締める。優しく、それでいて強く、両腕を回して抱きとめる。傍から見たら潰れてしまうのではないのかと思える程の強さだが、筋一本で繋がっていたスバルの心を引き戻すには充分だった。

 「あぁ……ティ……ア?」

 「バカよ……あんたバカよ! 自分ばっかり辛い目に合ってるなんて思って……! 私が、私達があんたが眠ってる間……どれだけ…………っ!!」

 「ティア……。ティア……」

 「私だって辛いのに、あんたばっかりヘコんでないでよ! そんなショボったれたあんたの顔なんか……顔なんか……!」

 不器用……ただただ、不器用。目の前の親友は傷付いているのに、ティアナは辛い言葉しか掛けることが出来ない、不器用だから彼女は素直に慰める事を知らない。だからせめて……抱き締めるのだ、不器用でどうしようもない自分でも目の前の親友を例え一時でも癒せるようにと。

 心臓の音が直接伝わって来る。だがそれとは別に伝わって来る震動がある、小刻みに震えているそれは自分のモノではなかった。

 「ティアッ! ティ……あぁ、ぁああぁああああっ!!」

 泣いている。抱き返したスバルの腕から伝わるその慟哭にも似た悲痛な叫び……何と痛々しく、耳を背けたくなるような悲鳴。

 だが離さない。むしろその逆だ、もっと力を入れて抱き締め直す。潰れても構わない、それで彼女が自分を保っていられるのなら……。

 「ティアぁ……わたし……わたし、もうっ……!! もう、誰も助けられないよぉ……」

 「諦めんの? あんたらしくもない。大丈夫、根拠なんて無いけど、私達がきっと何とかしてあげるから……」

 自分でもガラにもない事を言ってしまったものだと自覚はしていた。スバルの蒼い髪を優しく撫でながらティアナはそう感じる。だが、それと同時に彼女の心の中にある一つの決心がついたのも、また事実だった。

 「――絶対に、許さないから」



 それはまるで私怨にも似て……










 同時刻、地上本部のとある個人事務室にて――。

 「それで、預言の解読の方はどうなんだ?」

 「どうもこうも、ひとまず全体の一割か二割と言ったところかな。現時点じゃ不明瞭な点が多過ぎるよ」

 黒塗りのデスクに腰掛ける法衣姿の局員はクロノ・ハラオウン、開いた通信回線の立体映像に映るのは無限書庫の司書長ユーノ・スクライア。二人揃って、通称『海と陸の頭脳』とか呼ばれているのはさて置き、普段顔を合わせればすぐに口喧嘩を始めるはずの二人のはずなのだが、今回は二人ともやけにしかめっ面で、とある事項について議論の最中だった。

 「今回は例年と比べてかなり克明なモノだったらしいが?」

 「いくら預言の文章そのものが鮮明でも、それを解読する為の要素が無かったらどうしようもないよ。解読作業自体は専門の解読班がやってくれているけど、解読に必要な古代ベルカの資料は全部無限書庫が提供しているんだから無茶言うなって」

 「解読出来た所までで良い、何か無いのか?」

 ユーノ及び彼の属する無限書庫に今回当てられた依頼は、『預言の解読』だった。珍しいことではない、預言の解読には無限書庫の力が必要不可欠で、毎年解読班も世話になっている。だが今回ばかりは違った、今回はどうしても早急に解読せねばならない理由があったのだ。

 “J・S事件の再来”……既に書庫の一部の局員にはコトの重大さが認識されている所もあり、その中には三年前の地上本部襲撃事件で傷付いた者も居る。事態が危険度を増すその前に出来るだけの事をしようとするのは当然と言えよう。

 故に早期での情報提供。こうして逐一報告を入れさせることで三年前のような事件を未然に防ごうとするのがクロノの考えだった。

 「……まず一番始めの部分の、『法の塔は二度倒れる』って所だけど、ここは恐らく三年前の時と同じようにして考えられる」

 「『法の塔=地上本部』と言うことか……。とすると、『旧き結晶を身に宿し――』と言うのは……」

 「“レリック”、もしくはそれに準ずる魔力結晶体と考えるのが妥当だね。そして、もしそれがレリックだとすれば、“それ”を身に宿す……つまり体内に内包していると言う事になる。高純度魔力結晶体を体内に埋め込むなんて事をする理由、少なくとも僕は一つしか知らないね」

 「レリックウェポン……。ゼスト・グランガイツや、現在保護観察処分中のルーテシア・アルピーノと同じ存在と言うことか?」

 「可能性としては充分に高い。もしそうだとしたら、対処を誤ればとんでもないことになる恐れがある」

 レリック――、数あるロストロギアの中でも一級品の危険物であるその結晶体は、下手に物理的・魔力的衝撃を加えると周囲数百メートルから数キロに渡る全ての物体を消失させるだけの破壊力を撒き散らすと言う危険極まりないモノだ。古代ベルカの時代においてはその結晶を体内に埋め込み、人為的にリンカーコアと接続させることで爆発的な強さを得ると言う禁忌の術があり、かつてスカリエッティに与していたルーテシアは早い段階でそれに成功、ゼストに至っては一度死んだ身である事実を覆した程だった。

 「それはそうと、今回の預言の件で個人的に気になっている点があるんだけど……」

 「気になる所? それは何だい?」

 「うむ、預言を読み進めるとある、『使徒』と言う部分なんだが、何か分かった事はあるか?」

 「使徒? …………あぁ、確かにあるね。意外だね、その歳で提督にまで登りつめた君になら察しがついていると思ったんだけど」

 「嫌味か?」

 「違うよ。まぁ、僕の方ではこの『使徒』って部分は大方予想がついてるけどね」

 そう言って鼻で笑うユーノの表情は明らかに悪友であるクロノを小バカにしているようだったが、それが分かっていても彼はあえて平静を保つ。これ位で腹を立てていたら彼は今頃とっくに高血圧による血管破裂で死んでいるはずだ。

 と、ここでクロノは何かを思い出したのか、ユーノに「外すぞ」と一言言ってから別の通信回線を開きだした。映像ではなく音声回線のみを開き、目的の人物と話をつける。

 「クロノです、ご無沙汰しています。例の件ですが――はい……はい……そうです。お急ぎ頂けるに越した事はありません、改めてよろしくお願いします」

 しばらく回線越しにその人物と何やら話をしていたクロノだったが、ものの30秒と経たない内に回線を切断すると、再びユーノに向き合った。

 「……今の誰だったの? 上役の人?」

 「まぁな。母さんの昔の同僚で、次元犯罪総括部署の重役に就いておられる方だ。“例の件”で色々と融通してもらっている」

 時空管理局の次元犯罪総括部署と言えば、あらゆる管理内外の次元世界で起こる犯罪処分に対してほぼ絶対的な権力を持つ部署だ。地球の日本で言う所の法務省のような役割を果たしている部分もあり、もちろん、重犯罪を犯した囚人に対する死刑執行権なども持っている。

 「“例の件”か……。やっぱり実行に移すのかい?」

 「無論だ、敵方の素性がナンバーズの生き残りだと判明した以上、この作戦を実行し、成功させれば、必ず喰い付いて来る」

 「罠としては実に単純だ、むしろ罠とも呼べないかもね。只の釣り餌だ、賢い魚なら針を鱗に掠らせもしない」

 「例えそうだとしても、奴はこの作戦に『引っ掛からざるを得ない』。何故なら、奴が『ナンバーズだから』だ……。奴がスカリエッティに命を吹き込まれたナンバーズである以上は、どうしてもこれは回避不可能な茨の道となる…………そこで生じる絶対的な隙を付け狙うしか手立ては残されてはいない」

 「だとしたら、君はやっぱり考えることがえげつないね。安心したよ、色んな意味で」

 「褒め言葉として受け取っておこう」

 一見刺々しいことこの上ない会話だが、このやり取りも十年来の付き合いである二人だからこそ、何の確執も固執も無く互いに憎まれ口を叩き合えるのだ。その意味では最高の友と言えよう。

 その時――、

 『こちらギンガ・ナカジマ陸曹です。廃棄都市区画での調査の件で、至急報告したい事があります』










 午前8時49分、北西山野地帯のとあるリニア車両にて――。

 「…………IS、No.13『――――』の発動を、確認。適合率、約64%…………上々の結果だ」

 “彼”は窓の外を流れ去る風景を見つめながら、何の抑揚も無く、それでいて何故か満足そうに呟いた。窓の外には都会では見る事が無い森林の緑が陽光を浴びて燦々と輝き、少し向こう側には渓谷を流れる大きな河川も見えていた。

 そんな風景を前に、“彼”はただ静かに読書に耽るフリをしながら、本に隠れた掌の上で密かに真紅のテンプレートを回転させていた。どこで誰が見ているか分からない、警戒はしておいて損は無いだろう。

 「やはり、予測通りだ。No.9すら凌ぐ、その適合率……これを、さらに接触すれば、適合率は飛躍的に、向上する。全てが、意のままに……なる」

 “彼”の右手が上着のポケットに入り込み中から何かを取り出した。取り出したそれを座席の取り付け台の上に並べる。

 サイコロだ。取り出した“四個”のサイコロは二つが一の目、後二つが六の目になっており、それ以外は何一つ変わらない普通のサイコロだった。それを等間隔の一文字に並べ、“彼”は静かに思考する。

 「現時点で、使用可能な“駒”は、たったの四つ……。そして、その内の二つは、使えるかどうか、まだ不明瞭」

 “彼”の指が六の目を示していた二つのサイコロを、残りの二つから遠ざける。

 「さらに、内一人……No.3『トーレ』は、現在幽閉中」

 “彼”はさらに二つの内の一つを除外した。これで残ったサイコロは一つだけ……。

 「だが、手はある……。二つの、手が残されている」

 そう言って“彼”は取り上げたはずの二つの六の目のサイコロの内、一つを台に戻し、さらにポケットから別のサイコロを一つ出すと、それを置いた。

 「古来より、誰が言ったかは知らないが、傷付いた者を、癒す方法は、三つ……。『酒』、『博打』……そして、『異性』」

 “彼”はポケットから最後に取り出したサイコロを摘まむと、その立方体の角を軸にしてコマのように回転させる。

 「例え同じ戦闘機人でも、所詮は、人間として生きて来た。……だとすれば、懐柔するのも、容易いことだ」

 回転するサイコロはまるで空気や接地面の抵抗など知った事ではないように回り続ける。まるで勢い付いた地球儀の如く回り続ける。

 「傷心の、人間は、弱い……甘い言葉を掛ければ、すぐに気を許す…………そして、すぐに懐いてしまう。もはや、愚か以外の、何物でもない」

 サイコロの回転がようやく弱まり始めて来た。徐々に回転力を失いつつあるそれを、“彼”は静観する。

 「だが、俺も、万能ではない……二つの事項を、同時に成すのは、不可能だ。故に、どちらか一方を、代わりに完遂する為の、“サポーター”が必要になる。そう――」

 とうとうサイコロの回転力がゼロとなり、合計六つの目の決められた一つが遂に導き出された。

 「お前だ」

 出された目は“4”、不吉を代表する悪魔の数字だった。

 その目が出たと同時に、“彼”は逆のポケットから別の物を出して来た

 それはカード。それも一枚や二枚ではない、全部で合計22枚あった。一つ一つに違った絵柄が描かれており、寓意的な意味合いを持っているだろうと言うことは容易に分かった。

 「適当に買った、本の付録に付いていた。目的ポイントまでの、暇潰しにはなるだろう」

 “彼”は知る由も無いだろうが、それはかつてSt.ヒルデ魔法学院においてセインとカリムが披露して見せた地球産の占いの道具、タロットカードだった。もはや説明不要だが、二十二の寓意絵を組み合わせ、導き出された一枚によって対象者の運命を知らせる在り来たりなモノである。ちなみに、“彼”が購入した本の題は、『管理外世界の占術百科』とか言うモノだった。何故それを選出したかについては不明だ。

 「占い……か。オカルトは、信じない派だが、一時の気休めには、なるだろう」

 “彼”は台の上に始めと同じように五つのサイコロ、一の目と六の目を二つずつと最後に出した四の目を一つ、それらを全て出した後に一旦端へと寄せる。そして空いたスペースを利用してカードを規則的に並べて行く。

 「まずは、何よりも、俺自身……」

 そう言った“彼”はカードの一枚を引いた。数字は十、絵柄は車輪のような巨大な輪、第十番『運命の輪』の正位置だった。持つ意味は名前のままで、“運命”、“宿命”、“物事の展開”などが挙げられる。

 「曖昧だな……」

 次にサイコロの一つ、二つある一の目の内の片方を手前に取り寄せる。再びカードをシャッフルして並べ直すと、占いの対象となる者のヴィジョンを強くイメージする。そして引き寄せる――。

 導き出されたカードは、荒ぶる猛獣が描かれている、第八番『力』のカードだった。あらゆる事象に対しての強い影響力を表した一枚だ。

 「なるほどな、一理ある。あれ程の、実力者ともなれば、多少は影響があるか」

 次は四の目を出したサイコロ。ここまでくると単純作業となってくる。引き当てたカードは――、

 黒く大きな山羊頭の怪人が描かれた、見るだけで嫌悪感を剥き出しにせざるを得ない、第十五番『悪魔』の正位置。物事の悪循環と堕落を体現した、第十六番『塔』と並んで最も忌避される一枚。

 「要注意、と言う訳か……」

 あと三つ……一の目が一つと、六の目が二つ……合計三個。

 ここまでくれば、後は何が出るのかは運次第だった。運否天賦とは一体誰が言ったのか……。



 そのはずだったのだが――、



 「…………何だ、これは?」

 思わず間の抜けた声がその口から出るなどと、誰が予測出来ただろうか? 台の上に出されたカードは、数字は“6”、絵柄は“男女”……第六番『恋人』の正位置。

 誰が予測しただろうか、まさかそのカードが三回連続で導き出されたモノだと言うことを。

 「……確立的には、有り得なくもない……か」

 “彼”はそう言って一人で勝手に納得することにした。そして、二十二枚のカードと五個のサイコロを仕舞い込む、もう二度と取り出される事もないだろう。

 それが『運命』と言うレールの行先を暗に示しているとも知らずに……。

 “彼”は窓の外へと目を向ける。この山岳地帯は幾つかの河川の源流が流れており、もうすぐこのリニアも二つの川の間、即ちW字谷の渓谷に掛けられた橋にさしかかろうとしていた。

 「来たか。予定ポイント、およそ2分前」

 仕込みは既にこの車両に乗り込んだ時点で完了している。あとはそれを実行に移すだけだ、そして、それを完遂出来るか否かは自分の実力と、進行するに当たっての障害との絶対差が鍵を握っている。だがそれは心配には及ばない、奢りではない、これは単純なる確定事項に過ぎないのだから。

 “彼”は席を立つ、そしてその狂気染みた金色の視線を己の背後へと向ける。その眼で今回の“獲物”を捕捉・確認した“彼”はすぐさま車両の中を移動し始める。

 そして呟くのだ、かつての自分の創造主が管理局――ひいてはミッドチルダ全体に対して宣戦布告を行った時の、あの忌まわしい言葉を、今再び繰り返すのだ。

 「ひとつ、大きな花火を、打ち上げようじゃないか」










 ガタンッ!

 「おおぅ!? ……なんだ、ただの車体の揺れか」

 『お前はいつもだな。そうやって気を張っていれば、いつか早死にするぞ?』

 「そんな大袈裟な……。あとどれ位で着けるかな?」

 『まだまだだ。このまま事故もトラブルも無ければ、推定で約2時間18分後、±1分7秒で到着出来る』

 「そう……じゃあ、僕はまだもう少し眠るよ。最近何でか知らないけど、眠くって仕方が無いんだ」

 『成長過程の人間とはそう言うモノだ。心配無い、目的地に到着する十分前にはアラームを鳴らす。それまではキャロと共にゆっくりしていると良い』

 「うん。ありがとう、ストラーダ」

 少年――エリオは手首にて待機している自分の相棒に礼を言うと、隣で大人しく寝息を立てていたキャロに毛布を掛け直し、自分もそこに潜り込む。キャロは駅で乗り込んでから数分後には、寝足りなかった分を埋め合わせするかのようにしてまた睡眠に入ってしまった。13歳の育ち盛りの所為なのか、最近では以前よりも良く食べるようになり、徐々にだがそれまで低かった身長も次第に伸びて来ているように思える。女子は成長が早いと言うので、二年も経てばエリオなどの同世代と並ぶと言われている。なお、体重の件に関しては一切触れないでおこう、それが淑女に対する礼儀と言うモノだ。

 二人の毛布を留めるかのようにして上にはフリードが乗っかっており、彼(彼女?)も大人しく寝息を立てている。育ち盛りなのは人間だけではないようだった。

 眠気で閉じ掛けの目を薄らと開きながら、エリオの意識は窓の外の美しい風景をその視覚に留めようとしていた。森林の緑……遥か遠くにはクラナガンの灰色の街が……あぁ、もうすぐ鉄橋に差し掛かる…………



 ガチンッ! ……ゴゥン……ゴゥン…………ガタン。



 「え……?」

 思わず意識が覚醒するエリオ。リニアの車体全体を揺らしたこの震動はさっきまで断続的に続いていた走行によるモノではなく、何か強い衝撃によっての震動だと直感した。そして同時に体感した、自分達の乗っている車両のスピードが何故か遅くなっていることに。始めは気のせいかと思ったが、窓の外を見れば一目瞭然、高速で過ぎ去っていた風景が徐々に失速し、遂には完全に停止してしまったのだ。

 「何か事故でもあったのかな?」

 車内放送は何も掛からない、加えてこの静寂、誰も混乱していないのだろうか?



 当たり前だ、混乱などするはずがない。



 何故なら、今この車両には――、



 「誰も居ないっ!!?」

 エリオの青い眼球が瞬時に周囲360°を見渡す。

 居ない。横二列一組の座席が大量に縦列に並んでいるこの空間には、他の人間が誰も居なかったのだ。

 おかしい、確かに乗車した時はもちろん、ついさっき目を覚ました時だって数人ぐらいは居たはずだった。

 それが居ない! エリオの戦士としての勘が現在の状況に対して警鐘を鳴らし始めていた。何かが起きている、と。

 「ぅ……ん~、どうしたの、エリオ君?」

 急に隣の彼が動いたのでキャロも目を覚ます。未だに眠そうに目元を擦ってはいるが……。

 「キャロ、フリードも起こして!」

 「え!? あ、はい!」

 いつもとは様子が違うエリオに気押され、キャロは言われた通りに眠りこけていた仔竜を起こした。当然、フリードの方も眠そうではある。

 「あれ? こんなにスッキリしてたっけ、エリオ君?」

 「いいや! 違う、何かがおかしいんだ!」

 初見でキャロですらこの状況に違和感を覚えていた。

 あまりに異常なその静寂さは何故か? 人が居ないからだ。

 何故居ない? それが分からないのだ。

 ここは六両編成リニアの最後尾の車両……つまり、ここに人が居ないと言うことは前方の車両に移っただけと言うのも考えられる。むしろそうであって欲しかった、この現状を視界に収めた瞬間から彼の鋭敏化された騎士の感覚が疼くのだ、「今この瞬間は正常ではない」と。

 「行くよ!」

 「あぁっ! ま、待ってよ、エリオ君!」

 毛布はそのままにして、エリオはキャロの手を引いて直ぐに前方車両へと走った。すぐ背後からはフリードも全速力で羽ばたいて来る音がしている。

 車両と車両の連結部分にあるドアを開けて次の車両へと入り込む。だが――、

 「居ない……!?」

 「嘘!」

 無人。人工0人、乗客率0%。確かにこの地方は利用客が少なく、下りのルートを進めば進む程に乗客の数は自然と減って行く。だが、決して利用客が居ない訳ではなく、ゼロになることなど一度も無かった。

 五両目にも人間の姿は無かった。そして、リニアが停止してから既に三分が経過しているが、未だに車内放送の一つも掛からないのはどう言うことか? もうここまで来ると嫌な予感はさらに胸中で肥大化する。

 戸惑っている暇は無い、二人と一匹はすぐに次の車両へと行く。

 ドアの取っ手に手を掛け、開ける。

 だが――、

 「そんな……」

 またもや無人。これで半分の車両には人間が居ないことになった。

 「エリオ君……」

 流石にこれは最早異常を通り越した怪異そのものだった。以前からオカルト系の話題で大量の人間が一斉に、それも極短時間で姿を蒸発してしまったと言うのは聞いたことがあった。まさか自分達がそんな非現実的な場面に遭遇しようとは……!

 それから二人と一匹はとうとう無言で車内を進み始めた。

 残りのドアを次々と開け放って行く。

 三枚目……

 四枚目……

 五枚目……

 六枚目……



 六枚目――? 



 その車両に突入して半ばまで進んだ時、エリオの脳裏に違和感。それは瞬く間に脳細胞を駆け巡り、彼の直感を刺激した。

 おかしい! 何故そこで『六両目』と言う言葉が出て来るのだ!!

 有り得ない! 思わず無意識の隅に置いてしまいそうだった、これが“異常”の正体……これがこの状況の“元凶”!

 「エリオ君……どうしたの? 急に立ち止まって……」

 「…………ねぇキャロ、このリニアは六両編成だったよね?」

 「う、うん、そうだったよ?」

 「じゃあ、車両と車両の間にあるドアは……全部で幾つ?」

 「え!? えーっと……」

 とっさの質問にキャロは自分の指で必死に数えようとする。ドアは車両と車両の間を繋ぐ為に存在しているので、全てのドアは六つの車両に挟まれる形でしか存在する事は出来ないはずなのだ。

 と言うことは……?

 「五つだよ、エリオ君!」

 「……………………」

 「エリオ君?」

 「じゃあ……じゃあ何で……!」

 そう、ドアは“五つ”しかないはずなのだ。いや、あってはならないのだ!

 なのに――、

 「何で僕たちは“六枚”のドアを通ったんだっ!!?」

 最早覆せない絶対の法則、『六両編成のリニアに五つ以上のドアは存在しない』。これが、今、崩れているのだ。

 幼いと言えるエリオの脳内は既に混乱していた。

 何故リニアが急に止まったのか?

 何故乗客が一人残らず消えたのか?

 何故本来五つしか無いはずのドアがそれ以上あるのか?

 何故――

 ここには自分達しか居ないのか?

 頭が混乱の境地に達しようとしていた。



 そんな時――、



 「キュクルゥ!」

 それまで座席の淵で留まっていたフリードが急に飛び立ち、前方の座席の一つに降り立った。なにやらゴソゴソと忙しく動いていたが、やがてその足の鉤爪に何かを掴んでこちらへと戻ってきた。

 それは……

 「これは……!」

 「私達の毛布?」

 それはつい先程まで自分達が使用していた足掛け用の毛布だった。移動を始めたあの時にそのまま座席に置いたままにしてしまっていたのだ。

 だがそれが何故ここにある?

 「……………………」

 「……………………」

 「……………………」

 「……………………」

 「…………ッ!? まさか……!!」

 エリオの行動は早かった、キャロの止める間も無く彼はすぐさま常人離れした脚力を全開にし、窓へと一直線に跳んだ。そして構える、自分の手首に巻かれた待機状態の相棒を。

 「ストラーダぁあああああっ!!」

 瞬間、雷光一閃。目もくらむ眩い光が空間を満たした直後、彼の手には青き槍が強く握られていた。彼はそれを真っ直ぐに構えると、窓ガラスに向かって突き進み――、



 ――破った。



 砕け散るガラスの破片、細かな粒子となったそれらが響かせるシャープな音、そして着地。

 だがその着地は鉄橋からのダイブによる大きなモノではなかった。むしろその逆、ガラスを突き破ってからものの3秒と経たない内に地面に着地してしまったのだ。

 しかし、次に彼が目を開いた時に見た光景は、彼の『予想』通りだった。

 「あ、あれ!? エリオ君っ!!? どうして……さっきその窓から飛び降りたはず……」

 そこはリニアの車内。そして目の前に居るのはキャロ。

 そしてさらに彼女の背後には、見事なまでに砕け散った窓ガラスがあった。

 「やっぱり……そうだったんだ」

 ここで遂にエリオの『予想』は一つの確固たる『確信』へと昇華したのだった。

 「これって、空間が繋がってるの?」

 「いや、違うよ。これは空間が“閉鎖”されているんだ。この六両目だけを綺麗に区切って完全に“閉鎖”しているんだ。その証拠に、ほら」

 そう言ってエリオが自分が割って脱出を試みた窓を指差した。

 「僕達が本当に車両を移動していたのなら、窓の外の風景が変わっているはずなんだ。なのに、全然……。これは僕達が同じ車両を行き来していた証拠さ」

 「それって――!」

 「一定の空間内に特定の選定した人物を閉じ込める……。【封鎖領域】か……あるいは、ミッド式の【封時結界】……。どちらにしても、ここに僕たちを閉じ込めたってことは、少なくとも僕達に用があるってコトだよ」

 「用って……誰が?」

 「決まってるよ、この魔法を仕掛けた張本人さ!」

 エリオの全身が光ると同時に彼は純白のバリアジャケットを装備した。臨戦体勢だ、ここは既に戦場と化したのだ、いつ誰がどんな攻撃をして来るか分からないこの状況では一部の隙が文字通りの命取りとなるのだから。

 「キャロも早くバリアジャケットを装着して!」

 「分かった!」

 淡い桃色の魔力光が輝き、次に彼女の姿が見えると、彼女は白い法衣を身に纏い、グローブ型の人格型ブーストデバイスの『ケリュケイオン』をその両手に装着していた。

 「ケリュケイオン! エリアサーチお願い!」

 『お任せください』

 すぐさま手の甲の宝玉が応える。この狭い空間に犯人が居ると言うのは考え難い、ひょっとしたら外部からの結界構築をしているのかも知れない。現在行っているサーチは使用者の特定と同時に、結界に存在するはずの綻びを捜索するものだった。

 だが、発動から数秒と経たないにも関わらず、エリオの手がそれを制した。

 「その必要は無いよ、キャロ。向こうから来てくれたみたい」

 「え……?」

 そう言ってエリオが再び指差したのは、最後尾の車両に必ずあり、運転手室と対を成す車掌室のドアだった。本来一般客が使うはずもないその空間には現在の状況もあってか、無人のはず――、



 だった。



 ドアが開く。そこから姿を現したフードを目深に被った“それ”を見た瞬間、キャロは背筋が凍ると言うモノを理解した。それと同時に、「蛇に睨まれた蛙とはこの様な感覚なのか」とも感じていた。

 黒い――。

 色がではない、その者の身に纏う雰囲気とでも言おうか、それが限り無く黒かった。抵抗力が無ければ真っ先に取り込まれてしまうのではないかと思える濃度の“邪気”が発散させられてくるのが嫌でも分かった。

 室内から出て来た“それ”は丁寧にドアを閉めると、ゆっくりとこちらへと歩を進めて来た。微動だに出来ない、こっちへ来ると言うのが目に見えて分かっているのに、それでも動けない。キャロを守ろうとして前に立ち塞がるエリオですらストラーダの切っ先を向けることしか出来ず、下手に動けなかった。

 「職務質問の応答要求! このリニアは今どうなっている!?」

 エリオの怒声にも似た声が相手に投げ掛けられた。例え相手が意図しておらずとも、状況に流されてしまっては不利になる恐れがあった。これはその流れを変える為の策だった。

 「…………古代ベルカ式、結界魔法の、【封鎖領域】を張らせてもらった。この車両、限定でな」

 意外にも素直に答える。白いマントを纏う“それ”は答えながらさらに距離を詰める。

 「他の車両は!?」

 「この六両目の車両だけを、切り離し、この鉄橋に、置き去りにした」

 「切り離したって……! その事に気付かないはずが無い!」

 「気付かないように、しただけのこと……」

 「こんなことをする意味は!?」

 「良いのか? 時間が、無いぞ?」

 「何っ!?」

 理解不能な言葉を出した相手にエリオは槍を構えつつも疑問の念を拭えなかった。時間が無い? 自分から仕掛けておいて何を言っているのか?

 「さっきも言ったが、この車両は現在、レール上に固定されている……。さらに、さっき俺は、『この車両に結界を張った』と言ったが、むしろ、『この車両そのものが結界』、と言った方が近い。…………と言うことは、外部からでは、ここに車両があることなど、到底判別出来ない」

 「まさかっ!?」

 相手の出方を探ろうとして稼働していたエリオの脳はとある事実に気付いた。もし彼の『予想』が正しければ、今この空間に長居し続けるのは確かに危険だった。

 「え? えっ!? 一体何のコト?」

 一人だけ事態の危うさが把握出来ていなかったキャロが、場の空気に合わない間抜けな声を上げていた。

 「結界が車両の内部ではなく、この車両全体を外側から覆っているのだとしたら……今ここに置き去りにされている車両の存在を外側からじゃ認知出来ない……!」

 「そ、それじゃあ、今下りのリニアが来たら――!?」

 「僕達はタダでは済まされないことになるね……。普通なら異常事態が起きればダイヤの変更でどうにかなるのかも知れないけど、多分『気付いてない』だろうね」

 バシュッ――!

 ストラーダがカートリッジをロード、圧縮された蒸気音の直後に空薬莢が地面に軽い音を立てて落ちた。ここまで来るとド素人でも彼が臨戦体勢を取ったのだと理解出来た。

 「こんなことをする目的は何だ!?」

 「お前に、用がある……エリオ・モンディアル三等陸士。いや…………プロジェクト・Fの残滓」

 「どうしてそれをっ!!?」

 その口から出て来た意外な単語に驚きを禁じ得ないエリオ。思わず槍の切っ先がブレてしまいそうになるが、堪える。相手が動揺したのを狙って襲撃しないとも限らなかったからだ。

 エリオとフェイトが人造魔導師であることを知っているのは管理局の仲間達と上層部の一部だけで、それ以外となれば局で情報を握って反旗を翻す者しか考えられなかった。相手は何故そのことを知っているのか!?



 だが、この時エリオは気付いていなかった――、

 自分達が人造人間である事を知る可能性を持つ者が他に居ることに――。



 「最後に聞く! 貴方は誰なんですか!」

 ストラーダの刃先がその人物のマントとフードの下に隠れた喉を狙う。人体に数ある急所の内、喉仏は打撃を与えられるとその者は一時的な呼吸困難に陥り、場合によっては昏倒させることも可能な、ある意味では心臓を貫かれるよりも危険な部位である。もちろん、エリオは訓練を受けているので必要以上のダメージを与えないようにすることも可能だが、眼前の相手の力量は底知れない、もし必要『以下』の力しか出さなかったらこちらが――何よりも、背後のキャロが危険だ。それだけは絶対に避けねばならない。

 「…………俺を、誰と問う、か。俺は、お前の事を、知っている、充分にな」

 白マントの首元の留ボタンが外される。だが、袖から出て来たのは人間の肌色の手ではなく、漆もかくやと言う程の漆黒の鋼の指だった。五指に不気味に煌く鉤爪は明らかに対象となる者の骨肉を削ぎ落す為のモノで、手首よりも下に取り付けられたドリルにも似たスピナーは如何なる頑強な物体ですら容易に破壊して見せようと言わんばかりに自己主張をしていた。

 ボタンが外される。まず始めに見えたのは首元に掛けられた金属の首輪だった。悪魔の従属か何かであるかのようなそのチョーカーに刻まれている文字は――『ⅩⅢ』。

 次に見えたのは、全身を覆う紺色の対物理・魔力衝撃防護ジャケット。見覚えのあるそれは、かつて三年前に自分達と死闘を繰り広げた人造人間達が使用していたモノと全く同じで、唯一の相違はそれが男性用のモノだと言うことだけだった。

 そしてフードが取られる。

 「我らが偉大なる、Dr.スカリエッティにより生み出された、ナンバーズ……。その、秘匿されたNo.13……」

 かつてどこかで見た事があるだろうか、エリオはその顔に見覚えがあるような気がした。

 かつてどこかで見ただろうか、エリオは今までにこれ程冷たい目をした人間を知らなかった。

 そして――、



 たった今この瞬間、エリオは自分とキャロの生存率が急激に低下していくのを肌で感じた。



 「ナンバーズ……!!」

 「そう、No.13『トレーゼ』……。最重要警戒対象群、その一人である、エリオ・モンディアル……」

 敵――トレーゼが構えの姿勢を取った。鋼鉄のアームドデバイスのカートリッジがロードされ、四つのリボルバー型の空薬莢が四方へと飛び出る。それと同時に彼の肉体周囲を膨大な魔力が覆い尽くす、紅く禍々しい濃密な魔力が……。

 一概には言えないが、魔力の量や質の差はそのまま個人の力量差に繋がる事が多い。現在のトレーゼの魔力は単純計算しても、明らかに総合AAかそれ以上の力がありことは明白だった。無作為に魔力を放出するだけでこの車両はおろか、下手をすれ車両が現在位置しているこの鉄橋そのものが崩壊しかねない。この場合、エリオがしなければならない事項は二つ――、

 眼前の敵性対象を一秒でも早く無力化すること。

 そして――、

 その間、背後に居るキャロを絶対に守護することだった。

 「でぇぃやああああああっ!!!」

 先に動いたのはエリオだった。先手必勝、後手に回ってしまっては勝機を逃してしまいかねない。今重要なのは敵の目的云々よりも、より早く敵を倒すことだ。

 ストラーダの切っ先が制空圏へと侵入する。この時点で対応が出来ていなければ大抵の人間は次の瞬間には昏倒している。制空圏とは単にその者の攻撃可能な間合いを示す空間だけを指すのではなく、その者が反応可能な域までをも示しているのだ。つまり、ほんの数瞬後にはエリオのストラーダが見事に鳩尾に激突している。



 ――はずだった。



 「な――っ!!?」

 「予想以上に、遅いな。同じ『F.A.T.E』でも、これ程の差が、出て来るとは」

 驚愕に歪むエリオの顔……。

 どうと言うコトはない――、エリオの両手に構えられたストラーダ……その刀身とも言うべき先端部分がトレーゼの鉤爪に捉えられていただけだ。

 「ぐ……!」

 エリオが渾身の力を以て抗うが、大地の割れ目に突き刺さった王の剣のようにビクともしない。幾ら相手が戦闘機人とは言え、片手だけでこれ程の腕力が発揮されると言うのはおかしな話だ、かつて刃を交えたウェンディなど比較にならない。

 「くそっ!」

 かくなる上は――!

 「はぁあああっ!!」

 魔力変換資質。リンカーコアから供給される凶暴な電力を100%、自分の手腕部に集中し、ストラーダを通して一気に放電する。恩師フェイト程ではないが、彼女が空中で放電したのに対してこちらは地上……科学を熟知している者は分かると思うが、放出された(+)の電気は(-)の電気を大量に帯電する地面へと優先的に流れる仕組みになっている。これが人体を経由して行われた時に発生するダメージが“感電”であり、その衝撃は地面に近ければ近い程に増えるのだ。

 そして、彼は知る由もなかったが、フェイトが地上数百メートルでそれを行ったのに対し、現在同じことをエリオは地上で行おうとしていた。電圧と電流に差異はあれど、当然威力は――、

 「喰らえっ!!」

 可視化するまでの高圧電流がストラーダの先端から解放される。さすがに防護ジャケット越しなので肉の焦げる匂いまではしないが、トレーゼのストラーダを掴む手の圧力が少しだけ緩んだ。

 それ逃すことなく、エリオは一旦身を退いた。まずは体勢の立て直し、その次に情報の整理だ。

 「キャロ! ブースト二重掛け、行ける!?」

 「は、はいっ!」

 エリオの救援要請にキャロはすぐさま行動で返す。後衛に専念するキャロの特性を活かしたケリュケイオンのブースト魔法は瞬時にエリオのスピードと、ストラーダの突貫力を脅威的に底上げすることに成功した。

 「……なるほど、“失敗作”だな」

 「ッ!!」

 距離を置くことだけを考えていた為に確認出来ていなかったが、高圧電流によって全身から煙を上げながらトレーゼが再び構える。まるで何事も無かったかのように無表情なその顔に、エリオとキャロは恐怖した。常人ならとっくに気絶していてもおかしくない量の電気を流し込んだはずなのに、それでなお平気に立っていられるその状況が理解出来無かったのだ。

 「俺が欲しいのは、お前の、能力だ」

 「何!!?」

 トレーゼの構え……それはエリオの知る範疇では存在しないはずの未知の格闘技の構え方だった。その動作の一つ一つが余計に二人の焦燥と同様を煽る……。

 「さぁ……俺の、更なる進化の、為に。そして……計画の成就の為に……」

 両拳を突き出したその構えに、エリオも再びストラーダを向け直した。今度はさっきとは違い、キャロの魔法によって術者とデバイスの両方を強化している。次にもしエリオが先手を奪うことが出来たなら、今度こそ間違い無く決着がつくはずだった。今の一瞬の攻防で彼はトレーゼの反応速度を概ね把握出来た、俗に言う、「同じ手は通用しない」とか言うヤツだ。それにここはリニアの車両……狭いこの空間では精々前後か左右の座席の間にしか逃げ込む隙は無い、そして、今のエリオにはその動きにすら対応出来る自信があったのだ。

 そしてこの距離。先程の電撃で相手が特に仰け反らなかったのが逆に幸いし、現在両者の相対距離は始めに相見えた時とさほど変わり無く、エリオの攻撃の速度と間合い補正はこの際必要無くなっていたのだ。その意味では利はエリオの方にあると言えよう。

 行動可能な域は制限されている、間合いは初撃の時と変化無し……天の利は間違い無くこちらに味方してくれていた。

 だが――、

 「?」

 ここでエリオは新たな事実に気付く。

 それは相手の視線のベクトルだ。精密機器を埋め込まれた金色の機械の眼球……それがどう言う訳か、自分の方に向けられていないように見えたのだ。いや、実際向けられていなかった。戦いにおいて最も重要なのが敵の動きを予測することであり、相手の行動を予測するのに最も効果的な部分は目なのだ。目の動きを追うことで常に眼前に居る相手の手を予測しようとするのは近接戦闘における基本なのだ。

 それがトレーゼの場合は違った。彼の視線はさっきからエリオの両目でもなければストラーダの先端でもなく、むしろ彼そのものを見ていないようにしか見えなかったのだ。ますます意味が分からない……そして、その意味不明な行動がさらにエリオを混乱させるのだった。

 「く……っ!」

 分からない。

 相手の目的が、

 行動の意味が、

 そして本当の素性が……。

 全て分からない……。だからエリオは無意識に考えてしまうのだ――、



 自分は目の前の敵とまともに戦えるのだろうか、と。










 私は夢を見る――。

 そうか、夢なのか……どうりで意識がハッキりしないはずだ。あぁ、懐かしい……この風景、この喧騒、この匂い……そして“お前”。

 夢の中とは言え、また“お前”に会えるとは思っていなかった。久方振りだ、『嬉しい』などと言う女々しい感情を喚起したのは。だが悪くはない。

 本当に懐かしい……まだ全てが未知だったあの頃……。知っているつもりでも、知らないコトが多かったあの頃……。思い浮かべるだけで眼前に再現されるとは……夢を見ると言うのもたまには良いモノだ。

 でも――、

 これは夢なのだ。

 そう――、

 望んでもいつかは覚めてしまう、優しくも残酷な現実……。

 もうそろそろ……行かなくてはならない。次に相見えるのはいつだろうか? 期待はしない、私はあまり睡眠中に夢を見ないからな。

 そんな顔をするな。お前はいつまでも私が居なければならない訳ではないだろう? やれやれ、自分がこれ程にまで女々しい存在だったとはな……。 

 だが、それでも楽しみにしているぞ。また“お前”に会える時を……。

 最後に――、

 “お前”と初めて会った時を思い出そうか。

 そう――










 あれは……いつだっただろうか?










 私は目覚める――。

 自分でも不機嫌なのが分かった。

 だが、何がそんなに腹立たしいのかは分からない。恐らく、さっきまで見ていた夢の所為なのかも知れなかった。

 だが――、



 私は自分が何の夢を見ていたかは覚えていない。



 生来、重要な事項以外の余計なコトは頭に留めないタチだから、当然だったと言えよう。

 ……もしかしたら……

 今自分が苛立っているのは、『見ていた夢の内容を忘れてしまったから』なのだろうか?

 良い夢を見ていたのに、覚醒してみると全くそのことを覚えていなかった自分に対して、無意識に 腹を立てているのだろうか……?

 「ハッ……!」

 バカバカしい、そんなどうでも良いコトに囚われて、一体何になると言うのだ!

 それに……

 そんな女々しいことこの上無い感情など……

 もう、とっくの昔に置いてきてしまったはずなのだ。

 「そう……あの時に……」

 胸中をさっきの苛立ちとは別の感情が支配するのが手に取るように分かった。

 このドス黒く、居ても立ってもいられないこの感情は――『悔しさ』か!?

 あぁ、感情の捌け口が分からぬまま、私は情けなく頭を抱え込み、掻き毟る。だが幾ら頭を乱暴に掻いても、胸の中の“それ”はいつまでも収まりがつかなかった。










 何年振りだろうか――、

 この目から熱い雫を零したのは――。



[17818] EVOLTION――進化の兆し
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/04/05 00:36
 11月14日、午前8時49分、時空管理局海上更正施設にて――。



 自分に宛がわれた独房の中でセッテは考える。

 早朝での監視検査の際にはなんとかやり過ごせたが、今の彼女の全身は青痣だらけだった。思い切り走っている時に派手に転んだとしても、これ程の怪我はしないのではないかと思える位の酷さだ。

 もちろん、彼女が自分でそんなヘマをするはずが無い。これは全て深夜中にレクリルームで行った戦闘訓練……と言う名の一方的な虐げの所為に他ならなかった。培養槽から出されて三年が経過しているが、これまで味わって来た痛覚の中では最も刺激が強かったと言える、ひょっとしたらトーレの渾身の一撃と匹敵していたかも知れなかった。

 「…………」

 だが彼女の胸中には敗北から起因する悔しさよりも、もっと別のモノが満たされていたのだった。とても歯痒く……それでいて身を焦がすような高揚感――。



 欲しい!



 それは願い。自らに足りないモノを補おうとする純粋な願望。

 それは欲望。自らの欲するモノを如何なる手立てを以てしてでも手に入れようとする、この世で最も生物の根幹を成すに近しい行動原理。

 今のセッテの心境は、目の前に玩具を見せ付けられた幼子と同じだった。

 あの強さが欲しい……! 何人たりとも寄せ付けない強靭な肉体、如何なる者でも捕捉不可能な速度、地に膝を屈さずにはいられない物理的パワー……そして何よりも、あらゆる局面に対応する戦闘テクニック――。

 どれも自分には無かったモノだった。「魅せられた」と言っても過言ではないだろう、実際彼女は戦闘機人としてトレーゼの強靭無比なスペックに圧倒され、すっかりその強さに心酔し切っていたのだから。



 だが――、



 求めるだけ虚しい、特にそれが形の無いモノならば尚更だった。いくら強く望んだところで、彼女にあの強さが身に付く訳ではなかった。かと言って、特訓を欠かさなければどうにかなると言うものでもない、あの強さは明らかに一朝一夕で手に入れられるモノではないことは確かだったからだ。

 それでも欲しい! 最早彼女の脳裏に輝くのは人間ではなく、戦闘種としての使命のようなものだった。戦う為に強くなる……強くなる為に戦う……この連鎖こそが自身を強化するものなのだとセッテは固く信じていたのだ。

 もう止められない、止められるはずもない。一度動き出してしまえば、あとは自身の欲望を満たし切るまで絶対に止まらない。

 それは、かつて一人の青年が自ら処刑される為に街から街へ走り抜いたように……。

 それは、かつての西方の有角王がこの世の陸地を全て我が物にせんとしたように……。

 それは――、



 かつての美しい名を持った少女が禁断の男性を求めたように。



 強さに恋焦がれる……こんな意味不明なモノに自分が惹かれるなどとは思ってもいなかったセッテだったが、実際自分がその立場に立たされたとなると共感出来る。なるほど、管理局に務める某ベルカの剣士が生粋のバトルマニアだと言う噂を聞いた事があったが、頷ける。

 と、ここで彼女は考えることを“停止”した。

 否、『停止せざるを得なかった』と言うべきか。

 「こ……れ、は――!?」

 質素なベッドの上でセッテは自らの体を縮めた。背中を海老反りにし、桜色の長髪を振り乱し、まるで狂ったかのように頭を掻き毟る。

 「あ、あああぁ、ああああああ゛あ゛あ゛ぁあっぁああああっ!!!」

 尋常ではない。

 始めは腹痛か何かを起こしたのかと思ったが、実際は違った。

 熱だ! それも、まるで溶鉱炉の中心に突っ込んだかのように全身が熱い。始めは心臓と脳天から始まり、それは10秒と経たない内に全身を侵し始めたのだった。

 まるで溶解寸前にまで熱された鉄棒で刺し貫かれるような地獄の感覚が素肌を、臓腑を、骨を、神経を、脳髄を……破壊するかのように……。セッテ自身は一応人間の身である以上は肉体の健康にも気をつけていたし、そのことの重要性は彼女の教育係であったトーレからも重々言われていたので今までに一度も怠ったことなどなかった。それに、彼女の知る範囲内ではこんな急激に肉体を蝕む熱病など知らなかった。

 「あ゛あ゛あ゛……!! ぁぁぁあっぁあああああ゛あ゛あ゛――っ!!!」

 『セッテさん? 何か異常でもありましたか? ……セッテさんっ!!?』

 監視カメラを通して異常に気付いたのか、天井のスピーカーから管制室に居る自分の担当官が声を掛けてきた。だが、そんな声も熱に侵された彼女の耳には届くこともなかった、今のセッテは自身の精神を保つだけで精一杯だったのだ。

 そんな彼女の足掻きも、とうとう終わりを迎える時が来ていた。

 「――ッ! ―――カ……ッハァ――!! ……………………」

 墜ちる。

 なんとか筋一本で支えられていたセッテの精神の糸がついに切れ、全身を小刻みに痙攣させながら彼女はベッドから落下、やがて痙攣のサイクルが緩やかになった時……彼女は両目を静かに閉じた。

 『医務室! 至急、243号室へ急行してください!! 急患です!』

 管制室は混乱しているようだった。それはそうだ、管理下にある囚人がいきなり原因不明の熱病に失神したとなれば、様々な責任問題に問われるから一大事だろう。

 (あぁ…………何も聞こえない……。ワタシは……一体どうしたと言うのだろうか?)

 薄れゆく精神の中で、セッテは視界がぼやけるのを感じていた。このまま行けばやがては完全に気を失うだろう……別に恐怖は無い、むしろ何故か訳も分からない安定感が胸中を満たしていた。言うなれば、そう――、



 胎内の子が、その全てを母に委ねるような絶対の安定感があった。



 不思議だった……自分がどうなってしまうかも知り得ぬと言うのに、全てを曝け出してしまいそうな安心感を感じているこの矛盾が……。

 あぁ……ワタシの意識が墜ちる。

 彼女が薄れ行く意識の中で最後に見たモノ……それは、別れ際にトレーゼから手渡された新たな紙片だった。



 『1115・1300』、とだけ記されていただけだった。










 午前8時57分、北西山野地帯のとある渓谷上に掛けられた鉄橋上にて――。



 「…………」

 「…………!」

 孤立した車両の中でエリオとトレーゼは相対する。片方は身の丈を越える槍、片方は鋭利な鉤爪の付いた鋼鉄の拳……一見すると、間合いの大きさの分だけエリオに分があるようにも思えるが、実際のトレーゼの反応速度とそれに見合うだけの機動性はエリオの想像の範疇を遥かに逸脱していた。下手な動きはそれだけで命取りになってしまい、もちろんそれは背後のキャロも例外ではなかった。

 加えてこの車両は現在古代ベルカ式結界魔法【封鎖領域】によって完全に外界との接点を断たれていた。蟻の這い出る隙間も無いとは良く言ったモノだった。

 しかし、素人が見れば絶望に満ちたこの状況下でも、エリオの洞察眼は既に状況の整理から対処法の絞り込みまで行い、作戦の立案にまで取り掛かっていたのだった。

 (どんなに小規模でも、これだけ緻密な結界を維持するには想像以上の集中力と、そこから起因する魔力の持続性が無くちゃならないはず……。複数の犯行なら問題だけど、結界から漏れ出ている魔力の波長は一種類だけ…………つまり、発動して維持しているのは、目の前の一人だけってことになる)

 そう、結界に意識を集中させてから分かった事なのだが、この空間の維持に専念しているのはトレーゼ一人だけのようだった。通常二人以上で結界の発動と維持を行った場合、微量ながらも必ず他の者の魔力波長が伝播されるはずなのだ。それがこの場合に限って全く無かったのだ、魔力消費の面から考えれば途徹も無い話だが、トレーゼはやはり単独でこの空間を維持していたようだった。

 だとすれば、この戦いにも一縷の光明があった。

 いつだったか述べたように、結界魔法とは数多くの魔法の中でも特に精密さが要求されるモノだ。例え一時でも集中を切らせばそこで全てが破綻、異空間を形成していた結界は跡形も無く消滅してしまうのだ。本来なら複数での維持、もしくは単独で空間維持に専念する者が居ない限りは滅多に使用されないし、使用を忌避するはずの魔法を彼は本当に一人で行っている。

 つまり、いつ集中の糸が切れてもおかしくはないのだ。もしここでエリオが決定打となるだけのダメージを与えられれば間違い無く結界に揺らぎが生じるだろう……その一瞬の隙を突いてキャロが結界破壊の魔力を流し込めば脱出するのも夢ではないはずだ。

 「…………」「…………」

 念話などしなくても良い、エリオとキャロは一瞬のアイコンタクトで互いの行動内容を把握すると、密かに体勢を整え始めた。タイミングは一瞬しか訪れない、逆に言えばその一瞬を逃してしまえば今度こそ命を……

 張り詰める空気――、引き締められる筋肉と神経――。

 人体で最も活発に動く部位だとされている眼球でさえ、今ばかりは一寸も動いていなかった。両者共に純粋に相手の動作を見逃すまいと、睨み合っている。

 「……………………」

 「……………………」

 「……………………」

 「……………………」

 「…………はぁっ!!!」

 「――ッ!」

 先に動いたのはまたもエリオだった。両腕の上腕二頭筋を一気に収縮させてバネを溜め、それが最大限になった瞬間にカートリッジロード、魔力の電撃を帯びた刃をトレーゼの顔面に向けて一閃! この間およそ2秒弱、これまでの戦いの中で何万回と行って来た行動だけに、一切の無駄が無い。エリオはかつてこれと同じ動作の攻撃で、保護管理下にある竜の暴走を食い止めたこともあり、その竜は鋼の数倍の硬さを誇る自慢の甲殻をボロボロにされていた。その時程の出力ではないにしろ、現在の彼の刺突は少し大きめの岩石程度なら余裕で粉砕出来るだけの力が込められていたのは明白だった。

 ヴィータの鉄槌は『面』、シグナムの斬撃は『線』……どちらも受け止めるとなれば相当の力量を要するが、エリオの場合は刺突による『点』での攻撃だった。攻撃に用いられた面積が狭ければ狭いほど、その捌き方には技量が求められる……流麗な剣撃は回避して受けられたとしても、篠突く雨の如く連続して突き出される槍の一撃一撃を全て避けるのは到底不可能だろう。エリオはまさにそれを利用していたのだった。

 地球の歴史で見掛けるような槍と比較するとストラーダの先端面積はやや大きめだが、それでもその攻撃面積は限り無く狭い。そして圧力――。例え掛かる力が同じでも、その接地面積が小さければ掛かる圧力は大きくなり、破壊力も増すのだ。エリオの両脚によって支えられ、腕のバネで起爆して発進したストラーダは、触れたその瞬間に爆発的なエネルギーをその先端から発散させるはずだった。

 「フンッ!」

 それを避けるトレーゼ。下手に真正面から受け止めようとすれば、その圧力によって予想以上のダメージを負いかねない。ここは無駄打ちを誘って体力を消耗させると言う作戦に出ていた。それもただ単に体を逸らして回避するのではなく、自分の手前ギリギリまでに迫った瞬間に切っ先に掌底を当てることによって軌道を変え、自分の体力消費を限界にまで抑え込んでいるのだ。

 だが――、

 「まだだぁ!!」

 軌道を逸らされた瞬間にエリオがストラーダを引き戻し、すぐさま第二射が放たれる。初撃と全く遜色無い、むしろ精度もスピードも突貫力も、始めのモノと比較して上がっているのではないのかと思える程だった。

 それを先程と同じようにして捌くトレーゼ。なるほど、彼にとっては幾ら鋭さを増そうが所詮は刺突に限られた単調な攻撃……それほど特筆に値するモノでもなかったのだろう、顔色一つ変えずに片手で二撃目を完全に回避した。



 が――、



 「だぁっ!!!」

 「――ッ!?」

 そこに彼ら以外の第三者が居たなら目を疑っただろう。

 最高数百ボルトの出力を誇る電撃を以てすら身動ぎしなかったトレーゼが、大きく後方へと跳び退いたのだ。たった一瞬の出来事だった、そのたった一瞬の間に彼が生物的本能を以てして危険を察知したのか、エリオと彼の距離はこれで大きく開いてしまった。

 「……なるほど、考えたな」

 いつもと同じ抑揚の無い声のはずが、その時だけはどこか苦々しそうに聞こえた。

 彼の視線の先ではストラーダを突き出した体勢のままでこちらを力強く凝視するエリオの姿――。そして、彼のストラーダの陰に隠れて空中に飛んでいるフリードの姿があった。小さな口からは炎を吐こうとしていたのか蒸気が昇っており、その目つきは外敵を追い払わんとする一人前の竜の姿だった。

 「まさか、そんな小さな竜を、出してくるとはな……」

 そう……あれだけの至近距離で戦うとなれば、得物の長短に関わらずトレーゼに比べて身長の低いエリオは、どうしても下方からストラ-ダを突き上げる形になってしまうのだ。するとその場合、トレーゼの視線から見てストラーダの先端の丁度下側は絶対の死角となり、もしここに何らかの仕掛けを施した場合、回避するのは一気に至難の業へと昇華するのだ。

 この場合における『仕掛け』とはまさにフリードのことだった。槍の刺突による剣撃を寸前で回避する行動を見抜いたエリオは、絶対の死角であるストラーダの陰に密かにフリードを潜行させ、相手が槍を弾いた直後に火炎攻撃で仕留める算段だったのだ。直接的なダメージは与えられずとも、一瞬でも怯ませられることが出来れば良かったのだ。

 だが実際は寸前でトレーゼが大きく後退した所為で火炎攻撃は成されなかった。

 「……今分かったことがあります……」

 突き出していたストラーダをゆっくりと引きながら、エリオは素直に自分の思った事を口走っていた。それは侮蔑でも嘲笑でもなく、むしろどちらかと言えば――、

 「貴方は強い」

 畏敬の念に近かった。一対一のサシ勝負……命と命を懸けた真剣な渡り合いだからこそ理解出来る戦いの境地の悦びに、エリオは今、達していたのだ。始めの頃の恐怖感はどこへやら、かつてシグナムに剣技指導をしてもらっていた時でさえ、これほどの興奮と高揚感を経験したことがあっただろうか!?

 師であるシグナムのことを常日頃から、戦いに悦びを見出す生粋の武人である事は重々理解してはいた……。彼女が戦う場面を自分は何度か目にしたことがあったし、その度に彼女が『戦う』と言う行為に敬意を払い、同時に勝者敗者と言う概念すら超越した、最早美的と言っても良い感覚に浸っていることも知っていた。だがあくまでそれらは、『知っていた』と言うだけのモノであり、同じベルカの騎士とは言え古代の戦士にしか理解できないモノなのだろうと自己完結していた節がエリオにはあった。

 誰が想像し得ただろうか!? そのエリオが、たった今強者との戦いに没頭し掛けていることを。一瞬だけ……ひょっとしたら刹那の感覚だったのかも知れなかったが、彼はこの攻防を『楽しい』と感じてしまっていた。今まで自分が目にして来た単調な動きしか出来ないガジェットや、ただ凶暴なだけの魔法生物とは違う……真に高い知性とそれに見合うだけの戦闘力を持ち得る者だからこそ、この充実感が得られているのだ。

 しかし、そんな戦いの愉悦に彼が浸っていたのはほんの数瞬のことでしかなかった。この空間に閉じ込められてから通算三度目になる刺突体勢を構え、勝負は再び膠着状態へと戻った。もう二度とフリードによる奇襲は出来ないだろう……これ程の実力者ともなれば、例え工夫を凝らしたとしても同じ手に易々と掛かるとは到底思えなかったからだ。

 「……………………」

 「……………………」

 再び訪れる無言の静寂に、両者はただ睨み合う。どちらが優勢劣勢と言う訳でもなく、得物の関係から今はただ下手な動きが出来ないだけに過ぎなかった。仮にエリオかキャロのどちらかがミッド式のデバイスを所持していたのなら遠距離から一方的に相手に攻撃を加えることが出来ただろうが、エリオはミッド式が混合して出来ている近代ベルカ式の使い手とは言え接近戦専門、キャロに至っては後衛からの支援しか出来ず、まず直接戦闘には全く以て不向きだと言うのは最早言うまでもなかった。

 対してトレーゼの方は戦闘スタイルは全くの未知だった。使用されているデバイスは両手両脚の全部で四基、見掛けはエリオ達も充分知っているナカジマ姉妹のキャリバーとナックルに酷似しており、先程から観察している動きも接近戦に特化した動きをしていたが、実際に彼が純粋に接近戦特化の術者であるかどうかは怪しいところだった。エリオの野性の嗅覚は、彼が一癖も二癖もあることを見抜いてはいたが、何よりもそれらを知らしめているのが彼の姿形だったのだ。

 (ナンバーズ…………その13番目。本当なのか? 彼の言っていることは)

 紺色を基調とした防護ジャケットに首元の金属製チョーカー……後者はともかく前者の防護ジャケットは見紛うはずが無い、かつて三年前の地上本部襲撃事件において散々煮え湯を飲まされた12人のナンバーズが着用していたモノと全く同じだったからだ。次元世界広し言えども、戦闘の際にこんな防護ジャケットを着用しているのはスカリエッティ製の戦闘機人、“ナンバーズ”以外には到底有り得なかった。そして、そのナンバーズの生き残りか模倣か何かは知らなかったが、今こうしてここに存在していると言う事実をエリオは上手く呑み込めていなかった。

 まず、何故こんな所に居るのかが分からない。三年前ならいざ知らず、現在12人のナンバーズは全員捕縛されて内8人は保護観察、残り4人の内の一人は死亡し、3人は収監中……首謀者のジェイル・スカリエッティですら軌道拘置所にて厳戒体制の元で無期限収監中だ。もし、眼前のトレーゼ自身が純粋にスカリエッティによって生み出された機兵として存在しているのならば、まずは主人の救出を急ぐはずだ。それが何故に自分達を付け狙うのか……。

 「……………………」

 「……………………」

 この車両が現在外側から見てどうなっているのかは分からない。だがこのまま結界の効果で何も見えないまま後続リニアが来てしまえば、間違い無く惨事になるだろう。そうなれば自分達は車両ごとこの鉄橋から転落、なんとか車両の外殻が落下の衝撃に耐え得るのではと言う希望的観測も出来なくもないが、その望みは限り無く薄いだろう。

 だが、同時にその危険性は相手のトレーゼも同じ事だ。あちらは直前に脱出する算段でもあるのかも知れなかったが、少なくとも、自分達に用がある以上はエリオから離れることは決して考えられない。もしかすると、後続車両と衝突するかもと仄めかしていたのも、ある一種の脅しか何かだったのかも知れなかった。

 「……………………」

 「……………………」

 もうどれだけの時間が流れただろうか……時間と言う概念が存在しない結界の中では正確な時の流れすら実感出来ない。この緊張に包まれた静寂が永遠に続くのではないかと、エリオが錯覚し始めた、その時――、

 「……いつまで、そうして、いるつもりだ?」

 「え……?」

 唐突に何を言い出すのかと、エリオは思わず身構えていて硬くしていた全身の筋肉を緩めてしまった。その時相手から完全に殺気が消えていたのもあったのだろうが、ともかくその瞬間のエリオは全くもって油断していたと言っても過言ではない状態だった。

 にも関わらず、その隙を付け込んでトレーゼが攻撃して来ると言う事態は決して起こらなかった。常人では考えられない、またとない絶好のチャンスを自ら作っておきながら、それをあえて不意にするかのようにトレーゼは両拳を構えたままの体勢で微動だにしないのだった。一応、必要最低限の警戒だけはしているようだったが、相変わらず視線はどこを向いているのかまるで分からなかったし、何故か殺気を完全に消し去った状態にも関わらず冷や汗が止まらない。むしろ、この完全な無の状態こそが彼の真骨頂なのではないのかと、勘繰ってしまいたくなる。

 だがそんなエリオには構わず、トレーゼは自分の口から矢継ぎ早に言葉を紡ぎだしていた。 

 「事前に、調べて判明したが、お前は、人造魔導師らしいな……エリオ・モンディアル」

 「……それが何か?」

 「実に……“理不尽”だと、思わないか?」

 「理不尽……? 一体何の不満があるのか、僕には分からない。僕は確かに欲が無いとは言えないけど、少なくとも、今自分が持てる分以上には望んだことなんて一度も無いよ」

 嘘は言っていないし、ましてや偽善など欠片もあろうはずがない、エリオが言った言葉は全て真実だ。確かに自分は真っ当な生まれ方をしていない紛いモノの生物であることは否定しない……。本来、この世にはもう存在しないはずのオリジナルの『エリオ・モンディアル』を模して造られたただのレプリカに過ぎず、一時期はどうしてもその現実を認めることが出来ずに荒んでいた時もあった。あの時は自分と言う存在を成す全てが一瞬にして否定されたような気がしていて、その所為でまだ幼かった自分は他者を拒否することで自分を“自分”として保とうと必死になっていた……そうしなければ、“自分”と言う小さな存在が本当に霧散してしまいそうで恐怖していたからだ。

 だが今は違う! 胸を張ってそう言えるだろう。フェイトに引き取られて、彼女が献身的に自分の母親としての責務を成し遂げてくれていたからこそ、今の自分の礎があり、そのことは最早言葉では語り尽くせない程の感謝の気持ちで一杯だった。確かにフェイトがエリオを引き取ったのは、彼女自身が自分と同じ境遇に置かれていたエリオに対して同情の意念があったと言うのも一つの要因だったのかもしれなかった。だが、例えそこに同情の気持ちが混じっていたのだとしても、彼女が自分を引き取って育てて、自分に数え切れない程の大切なコトを教え続けてくれた…………そのことに、一体何の不平が、不満が、理不尽があると言うのだろうか。もし、そんなモノが胸中にあると言うのならば、それこそまさしく『理不尽』と言うモノだ。

 「なるほど……所詮は、その程度の、認識しか無いか」

 「何っ!?」

 自分の思っていたことが読まれたかのようなトレーゼの言動。しかし、エリオが驚いたのはそこではなかった。

 「俺が言っている、“理不尽”とは、お前の環境を言っているのではない。そんなモノは、どうでも良い…………俺が言っているのは、お前と、俺の、差だ」

 「僕と……貴方の……差?」

 エリオは、始めトレーゼが何を言いたいのか全く分からなかった。単に自分の理解度が低いのか、それとも彼が言葉足らずなだけなのか……。

 「正確には、俺と、お前“達”だ」

 「?」

 「疑問には、思わないか? 何故、同じ創造主の理論で、『造られたモノ』が、片や管理局の“私兵”……片やナンバーズと言う名の、“機兵”として対立するのか……。俺には、度し難い」

 「貴方と僕は確かに他人の身勝手でこの世に生を受けた……確かに、その点では僕と貴方は同じです。でも! 僕は守る事の大切さを教わった」

 「それが、何だ?」

 「貴方は僕よりもずっと強いかも知れない……腕力も、頭脳も……僕の何倍も上を行っているのかも知れない……。だけど! どんなに強くて大きな力を持っていても、それを正しく使えなかったら意味が無い!」

 「力の、使い方に、良し悪しは無い」

 「それは違う! 人を傷付ける大きな力よりも、人を救うささやかな力の方がずっと尊い事だって僕は知ってる!! 僕はそれを教えてもらった! 貴方達は教えてもらわなかった! それが僕と貴方の違いです」

 相手の妄言のやり取りに一々付き合っていては心理的に思う壷だ。ここは理路整然とした論理では何も出来ない、感情論で押し切ることで相手の流れを無理矢理引き剥がすと言う戦法に出たのだった。

 だが――、

 「なるほど……やはり、『F.A.T.E』は、揃いも揃って、“失敗作”ばかりか」

 「え……!?」

 「誰よりも優れ、誰よりも前進的で、如何なる他者をも、超越し得る可能性を秘めているのも関わらず……所詮は、ただの“人間”の域か……。期待外れ、と言うのもおこがましい」

 「何が言いたいんですか」

 「プロジェクト・F…………その理論によって、造られたモノは、先天的に、遅れているようだ。他者より先に、他者より強く、他者よりも賢く……それが、この世界の定石……それを、自ら破棄すると言うのは、“堕落”と言うモノに、他ならない。所詮は、テスタロッサの残滓も、“堕落”したモノ、でしかないと言うことか」

 「…………」

 「そして……あの、ゼロ・セカンドも、また同じ――」

 「ッ!? ゼロ……セカンド?」

 聞き覚えのあるその単語に、それまで槍を構えていたエリオの警戒心が再び揺らいだ。少なくとも、彼の知る限りではそんな単語は一回しか聞いたことはなく、さらに言えばその単語が表している意味がそうそう幾つもあるなどとは当然思っていなかった。

 「お前達には、『スバル・ナカジマ』と、呼称した方が、理解出来るか」

 「ッ!!?」

 その名を聞いた瞬間、エリオとキャロの脳裏に鋭く映ったのは、医療センターの病室で生死の境を彷徨い、目も当てられない状態に陥りながら痛々しく生きていたかつての戦友の姿だった。左腕以外の四肢を何の慈悲も無く無残に切断され、自身の夢を完全に断たれてしまった彼女の姿……なんと虚しく悲しいモノだったことか。

 目の前のトレーゼが何故スバルのことを――それも惨事に陥ったのを知っているかのように話すのか、エリオには最初は分からなかった。だが、落ち着いて情報を整理してみれば簡単なことだった。スバルが襲われて四肢を失ったのは六日前の11月9日の本部テロ事件の時だった……。本部内を散々混乱させた後で脱出を試みようとしていた犯人を捕えようと駆けつけたティアナだったが、実力足らずに後一歩で返り討ちにされかけていたのを寸前で救出しようとして割って入り、代わりに攻撃されたのだと聞いている。その時、二人が襲撃にあった地下大型搬入通路にはたった三人の人間しか存在していなかった……スバルとティアナ、そして侵入者の三人だけだ。つまり、目の前のトレーゼがまるでスバルに直に会っているかのように話しているのは何も不思議なことではないのだ。

 本当に会っているのだ。そしてスバルの四肢を捥ぎ取り、彼女を回復の見込みすら無い昏睡状態へと追いやった。でなければ、今この場面で彼の口からスバルの名が出て来るのはどう考えても不自然だからだ。逆に考えれば、彼が実際に地上本部への侵入者であるのだとすれば、彼がスバルの存在を知っているのも、ティアナの報告にあった武装を装着しているのも全て説明がつくが、それでも自分達の前に立ち塞がる理由だけがまだ分からなかった。



 だが、そんなことは今のエリオにとってどうでも良かったのだ。



 「――――ッ!!」

 彼は常人と同じ120°の視界しか持っていなかったから、背後のキャロがどんな表情をしていたかは知らなかった。だが、自分が今どんな形相をしているかは鏡を見なくても手に取るように分かっていた。

 「貴方が――、お前が……スバルさんを……っ!!」

 それは“憤怒”。生物の持つ感情と言うプログラム、その根幹にある最も原初に近しい衝動……怒り。全神経を焼き焦がし、肉体に規格外の力を与える根源となるその荒ぶる感情が、エリオの脳内から始まって全身を高圧電流となって駆け巡った。もはや理性とかと言うモノでは止められるはずもない、例え傷付くのが他人でも、彼のとっては我が痛みと同じことなのだから。

 すぐ背後でキャロが制して来るようだったが、今の彼の耳には届かない。我を忘れた人間とはかくも雄々しく、そして荒々しく攻撃意思を剥きだしにするものなのかと思わず感心してしまいそうな程だった。

 「ストラーダッ!!!」

 自分の身長より若干長大な相棒を、古代の祭典の槍投げのような投擲体勢で構える。ここまで来ると間違い無い、エリオは本気で目の前のトレーゼを廃そうとしているのだ。かつてこの投擲の姿勢から繰り出した一撃で、保護担当区域で暴走していた竜の外殻に大きな傷を付けたことがあった。一度人に向けて放たれ、もし仮に直撃したとすればどうなるか、エリオ本人が一番良く知っているはずだった。

 しかし止めない。母とも言えるフェイトを貶め、かつての同志の夢までをも断ったその存在が、エリオにとっては許すことが出来なかった。だから放つのだ!

 踏み出しの時点で既に彼の初速は小型車両並みのスピードが出ていた。止めるとなれば物理的に相当量の力が必要になることが予想されるが、間違い無く今のトレーゼにはそんな力は備わっているはずもない。竜の外殻ですら防ぐ事が不可能な一撃に、たかが増強肉体が耐えられる道理が無かったのだ。

 「貫けぇぇええええええええぇええっ!!!」

 魔力変換資質による高圧電流と、機動力底上げの【ソニックムーブ】の併せ技……当たれば即死レベルの大技だ。

 北欧神話に登場する神の槍――『グングニル』にも匹敵する強大な一撃が、今――、



 ――放たれた。










 同時刻、第9無人世界『グリューエン』の軌道拘置所にて――。



 「一週間振りだな。私個人としてはもう少し早く訪れるものだと思っていたのだが……」

 殺風景な面会室のパイプ椅子に尊大な態度で座るのは、稀代の天才科学者ジェイル・スカリエッティその人である。白い囚人服をだらしなく着ているその自堕落な姿からは到底想像もつかないが、現在確認されているどの次元世界にも彼に勝るだけの頭脳を持つ者などは存在しないことだけは確かだった。もっとも、彼がその才能を衆人の為に向けるかどうかについては別だが。

 そして、そんな彼が何故自分の独房ではなくこんな所へ来ているのかと言えば……どうと言うこともなく、単に面会者が来ていただけに過ぎない。もっとも、その面会者と言うのは彼も熟知していて、本来ならば自分を投獄する要因となった忌むべき存在の――、

 「生憎、貴方が思っている程に執務官の仕事も暇ではありませんから」

 金髪の麗人、時空管理局が誇る武装執務官にして、戦術の切り札の一人……フェイト・T・ハラオウンだった。局の制服に身を包んだ彼女は強化ガラス一枚を隔てた向こう側で、スカリエッティと完全に向き合う形で同じように質素なパイプ椅子に座っていた。ある程度の美しさを持った者は黙って座っているだけで画になるから不思議なものだと、つくずく実感させられる。

 ここで浮上する議題とは、『何故再び彼女がここに訪れたか』と言うことにある。前回の11日6日に彼女がここへやって来たのは目の前の狂科学者に事情聴取することが目的であり、このやり取りは既に彼が捕まったこの三年間ずっと続けられていることだった。未だに口を割らないが……。

 ここで思案していても埒が開かないので、二人の会話に耳を傾けることにしようと思う。

 「それで? その、『お忙しい武装執務官様』は今度は何の用事でこんな辺境の獄中まで足を運んだのかね? ここへ来る物好きな局員は君ぐらいなものだがな……」

 「…………今回はJ・S事件とは別の件で来ました。いえ……ひょっとすれば、貴方と関わりが深いかも知れません」

 「ほう……。遠回しな言い方は好きではないが、興味深いのもまた事実……。一体何だね?」

 「…………」

 するとフェイトは自分の制服の内ポケットからある物を取り出し、それをガラスの向こう側にいるスカリエッティに提示して見せた。

 「ふむ……なるほどな」

 それは何の変哲も無い二枚の写真だった。だが、そこに写されているモノが問題だったのだ。

 一つは、台の上に固定された七本のガラスの試験管だった。一本ごとに番号が付けられているのだが、何故か『Ⅵ』から始まって『ⅩⅡ』で終わり、中には透明な液が詰め込まれているのが分かる。もう一つは、ナカジマ姉妹が使用しているリボルバーナックルに酷似したものと、ノーヴェのジェットエッジに似た形状の武装が写っており、それぞれ両手両脚の二つ分が存在していた。

 そう、これらはどちらも三年前のJ・S事件解決の際に検挙されたスカリエッティのラボから押収された代物であり、今から六日前の地上本部のテロ事件で侵入者によって強奪されたものでもあった。一方は誰がどう見ても明らかに四肢に装着する為の武装と言うのは分かるが、もう一方は何の道具なのかについては持ち主が口を割らなかった所為で未だに不明だ……少なくとも、成分分析の結果では毒でないことだけは確かだった。

 「ほほぅ……そうかそうか」

 何が可笑しいのか、その写真を見た途端にガラスの向こうのスカリエッティの表情が満面の笑みへと変貌した。独り言のように呟きを漏らしながら、一人で笑うその姿は見ただけで嫌悪感を剥きだしにせざるを得なかった。

 「……それで……私に何を聞きたいのかね?」

 「まず第一に、『その二つが何なのか』と言う疑問に答えてください」

 「断る……と言った場合は?」

 「梃子でも動きません。貴方が答えるまで……」

 そう断言したフェイトの赤い目は固い意志の炎に満ちていた。戦場で見るモノとは違い、その瞳の決意は穏やかで、それでいて有無を言わせない凄みがあった。それはまさに、この三年間の事情聴取においてスカリエッティ初めて目にした彼女の決意の光でもあった。

 両者の睨み合いが一体どれだけの間続いたのか、やがて――、

 「面白い、そこまで言うのであれば私もそれ相応の態度で返さねば筋が通らないな。良いだろう、私が御教え出来る範疇であれば幾らでも御教えしよう。ただし、私が話すのはこの二枚の写真についてのみで、君達がJ・S事件と呼称している件に関しての情報提供はこれまで通り何一つするつもりはないので、心得るように」

 スカリエッティが折れた。やけに芝居掛った口調で、ちゃっかりと条件まで設けて……。 

 「不思議なものですね。この三年間、ただの一度も情報提供をしてくれなかった貴方が、このたった二枚の写真だけで動いてくれるとは……正直言って、拍子抜けです」

 「君が私に対してどのようなイメージを抱いているのかは知らないし、別段知りたくもない。だが一つ言えることがあるとすれば……私も風の吹き回しが変わる時もあると言うことだ」

 「貴方の口からそんな人間らしい言葉が出るとも思ってませんでした」

 「ふっ……母親と似て、随分と失礼だな君は。まぁそれ以外にも、一応私の研究成果でもある『F.A.T.E』の残滓が、ここまで必死になるこの現象に興味が湧いたと言うのもある。まったく人間とは不可思議なモノだ」

 そう言いながら、彼は心底可笑しそうに含み笑いを漏らしていた。笑い方こそ背筋が震えそうなモノだったが、彼の場合は自分の欲望・欲求に素直な分、何故かその笑いも純粋なモノに見えて来るから不思議だった。

 「さぁ……互いに前置きは充分だ…………本題に入るとしよう」

 不意に、スカリエッティの金色の目に輝きが戻る。かつて三年前に見たことのある……そして10日前にも目にした狂気の輝きだ。見ていて決して気持ちの良いモノではないことだけは確かだが、その光は万人の好奇心と言う名の欲望をそそるだけの魅力を持っていた。

 「講釈の時間だ。ノートにメモの準備は良いかね?」










 「仮に……人間の、行動する速度が、光速に達していたとすれば……どう思う?」

 音が一切無い空間の中でトレーゼは言葉を紡ぐ。誰に聞かせる訳でもないような抑揚の無い声で、独り言のように呟く。

 「周囲が、“1”の行動を終えるまでに、自分はほぼ無限大に、等しい行動が出来る…………。つまり、それはどう言う、ことか……」

 彼は空間に直立不動の体勢で佇立していた。何をするでもなし、ただ単にそこに佇むだけだった。

 「その現象は、即ち、『光速で動ける者にとっては周囲の時間は遅延している』、と言うことだ。その者の、行動が光速に達し、その思考速度も、肉体に充分追従していると、仮定した場合……その者にとって、周囲は……いや、世界の時間は、遅れて見えるはずだ」

 だが、良く見れば彼が単純にそこに立っている訳ではないことが分かる。強く握られた左拳は少しだけ前に突き出され、見事に対象を穿っていた。

 「だが、それは単に、体感時間の差、でしかない……。時空間に流れる、絶対的時間は、虚数空間でない限り、不変だ」

 彼に変化があったとすれば、それは首元にあった。つい数分前まで首に掛けられていたチョーカーは無く、どこへ行ったのかと見てみると、見事に粉砕されたそれが彼の足元に散乱しており、その傷を作る原因となった物――ストラーダも同じくトレーゼの足元に転がっていた。

 その持ち主であるはずのエリオは――、

 「結論から、言おう…………俺は、お前よりも、反射速度が、速かった。だから、俺とお前の、体感時間に、常人では感知不能な、極僅かな差が生まれた。だから……お前は、負たんだ――エリオ・モンディアル」

 腹部に一撃――。

 ただそれだけの行動でエリオは力無く地面に横たわっていた。既に意識は無く、口元からは凄惨な量の血反吐が重力に従って体外へ流れ出ていた。

 「そ、そんな……エリオ君……エリオ君!!」

 恐怖心すら完全に捨てて、キャロが駆け寄る。気絶している体を無茶に揺らすことなく抱き上げた後、必死に彼の名前を叫ぶように呼びながら覚醒を促す。

 だが、彼の目は覚めなかった。心臓も動いているし、呼吸もしているが、一度に受けた物理的衝撃が重かった所為で完全な昏睡状態へと陥っていたのだ。最早その呼吸ですら文字通り虫の息だったが。

 「確かに、お前は、速かった。だが、肝心なところの、動きが直線的だった…………最後の突撃も、その最初で最後の、一撃さえ回避すれば、後は何も、しなくて良い……ただ、そちらから、向かって来るのを、迎撃すれば、良いだけだ」

 背後から見ていたキャロには分からなかったのかも知れなかったが、あの時エリオは自身の持て得る限りの最大の力を以てして戦いに挑んだ。ストラーダの推進力に彼の爆発的な瞬発力は完璧な融合を果たし、トレーゼを強襲、見事その首のチョーカーを壊して見せたのだった。



 だがそれだけのことだった。



 ストラーダの先端が制空圏に進入してからチョーカーに接触するまでの間は、トレーゼが事態を視認してから行動に移るまでの誤差の範疇に収まっていたのだ。刃が首に届く寸前で、彼は自身の体をほんの少し横へずらすだけでその攻撃の威力を完全に逸らし、殺した。

 そして迎撃――。何も大仰なことはしなくても良い……彼は何もせずともエリオは自ら彼の懐に飛び込んだからだ。接近戦とはそう言うモノだ、不用意に近付けば仕掛けた方が痛い目を見る。トレーゼは彼の腹部に拳を突き出すだけで、あとはエリオ自身のスピードによってそこに威力が生じたのを良いことに、彼の自滅を誘ったのだった。

 案の定、軽車両と同等の速度で突っ込んだ彼は腹部に同じ衝撃を喰らい、現在に至る。

 「エリオ君っ!! しっかりして、エリオ君!!!」

 そして、ただ腹部を殴っただけではない。接触した瞬間に彼はその手にDMFを作動、エリオの魔力をリンカーコアから根こそぎ奪い取り、一瞬にして衰弱させたのだ。今のエリオはかつてのヴェロッサと同じ状態にある。収奪された魔力は全て、トレーゼのリンカーコアへと移動した。

 「…………キャロ・ル・ルシエ……そこを、退け」

 本来自分が成さねばならないことをまだ終えていないトレーゼは、エリオを抱きかかえるキャロへと近付き、大人しく退くことを要求した。女子らしからぬ肝の座りを持つ彼女とは言え、目の前で自分の仲間が倒されるのを見れば恐怖心が促進され、自己の意思を保てなくなるはずだった。

 だが――、

 「……エリオ君に……何をするつもりですか?」

 彼女は退かなかった。恐怖に駆られて震える体を必死で諌めながら、彼女は決してそこを退こうとはしなかった。彼女の前にフリードが飛び立ち、キャロとの間を隔てて彼を精一杯威嚇する。

 「お前には、関係無い。元々、お前が居るのは、想定外のことだった」

 「それなら……私がこうしてエリオ君を守っているもの『想定外』なんですね?」

 「あぁ、そうだ。だが、戦闘向きではない、お前を始末するのは、容易いことだ」

 「例え脅しても……私は絶対に退きません! 私は! 貴方からエリオ君を守ります!!」



 「なら、絶対に退くなよ?」



 「え……――?」

 次の瞬間に彼女の視界を埋め尽くしたモノ……それは、鮮血もかくやと言うぐらいに紅く、凶暴な魔力の奔流だった。トレーゼの指先から無作為に解放されたそれは、フリードの小さな体躯を軽々と弾き飛ばし、そして――、

 「ぁああぁあぁっ!!!」

 彼女の眉間にピンポイントヒットした。強烈な物理的衝撃が脳を盛大に揺らしたその結果、彼女は脳震盪によって決意虚しく無残にも地面に横たわったのだった。だが、彼女の手はエリオの手を固く握ったままだった。

 「自ら、犠牲になろうとも、その手は離さない…………理解、し難いな」

 あまりにもあっけない。彼が手加減をしたのかどうかは知らないが、現状では二人とも生きていることだけが唯一の救いだった。もっとも、完全に無防備となった今では、その命すらあとどれだけのものなのかは分からなかったが……。

 結界は未だ維持したままだった。いつどこから邪魔が入るかは分からない……警戒に越したことはないだろうと踏んでのことだった。

 「…………さて……」

 地面に無様に横たわる二人を尻目に、トレーゼは何故か踵を返した。そのまま足下のローラーを回転させて通路を音も無く進み、始めに自分が潜んでいた車掌室へと戻って行った。

 だが彼はほんの数十秒としないうちに戻って来た。その右手に大きな銀色のアタッシェケースを持って……。










 「ところで……君はこの二枚の他にも私に見せる物があるはずじゃないかね?」

 「……何が言いたいのですか?」

 スカリエッティの尊大な態度に何か別のモノを感じ取ったのか、フェイトの表情が怪訝なものに変わる。思わず身構えそうになるが、殺気や敵意と言ったものが一切なかったので大事には至らなかった。

 「とぼけなくても良い。私の前にこれらを持って訪れたと言うことは、既に粗方の目星は付いているはずだ」

 「…………やはり、貴方に隠し事は無理でしたか」

 少し自虐的に微笑んだフェイトは素直に自分の胸ポケットから三枚目の写真を取り出し、それをスカリエッティに提示した。

 その写真が出された瞬間、彼は食い入るようにしてそれを見つめた。猛禽類のように爛々と狂気に彩られたその瞳でしばらく凝視した後、彼は長い溜息と共に静かな声でこう言った。

 「懐かしい……あぁ、懐かしい…………」

 フェイトが提示した写真――。

 それは例の管理世界の隠しラボから押収した写真――。

 そう、管理局では“13番目”と呼称されているトレーゼの顔写真だった。










 「もう、ここに用は、無い」

 全ては滞り無く終わり、あとのプロセスは脱出するだけとなった。フードを被り、手元のケースをしっかりと握ると、彼は再び地面で気絶している二人に接近した。重なるようにして昏倒しているエリオとキャロの前に立つと、彼はケースを持っていない左手を二人の前に出して来た。

 「……ピアッシングネイル」

 腕に装着されていたアームドデバイス、その五指の鉤爪の内、親指・人差し指・中指の三本の爪が一気に三倍の長さに変化した。かつてドゥーエがレジアス中将殺害に使った武装と全く同じ物であるそれを、彼はエリオの首筋に当てた。

 「……さようなら、『F.A.T.E』の副産物……。さようなら、我が創造主に仇成す、“失敗作”……」

 それは必死に戦った者に対する賛辞の言葉ではなかった。大した実力も無しに自らの進行上に立ち塞がった愚か者に対する侮蔑だったのかも知れない……それをたった今から排除しようとする彼の淡々とした姿は、まさに機械仕掛けの死神であった。

 そして、その死神が運ぶ絶対的な死が――、

 エリオの首を――、

 掻き切る――!



 「そこまでよ」



 「ッ!!?」

 突然鼓膜に届いた第三者の声に、トレーゼは初めてこの空間に変化が訪れていたことに気が付いた。

 「結界が――!?」

 先程まであれだけ完璧に張られてあったはずの【封鎖領域】が、あろうことか完全に消え去ってしまっていたのだ。始めにエリオが突貫して破った窓からは渓谷の風が入り込み、トレーゼの大いに揺らす。有り得ない! 自分は既に二人を倒したとは言え、警戒は決して怠ってはいなかったはずだ、結界に接触する者が居ればすぐに分かる。おまけにこの結界は規模が小さいことこの上なく、そのお陰で注意が散漫にならずに済んでいたはずだった。

 では何故! 自分の意識の外でこの様な事態が起こっているのか!?

 フードの奥のトレーゼの眼球が声の主を捉える。本来ならここと五両目を繋いでいるはずのドア……今は完全に外に通じているそこから入ってきたその人物を、トレーゼは充分知っていた。

 深い藍色の長髪に、凛とした翠の双眸……引き締められた肉体に羽織ったバリアジャケットに、左手に装着した白銀の篭手――。

 「地上本部、陸士108部隊所属、ギンガ・ナカジマ陸曹です。貴方を殺人未遂を始めとする犯罪の現行犯で逮捕します」



 ナカジマ家最強の拳闘士、ギンガ・ナカジマの姿がそこにあった。










 時を遡って8時17分、ミッドチルダ廃棄都市区画の一角にて――。

 『不審な残留魔力が検出された?』

 つい数日前に先遣として出動したヴォルケンリッターが謎の襲撃者との交戦を行った場所で、ギンガは自分の伴侶と、チンクを除いたN2Rの面々と共に淡々と調査を続けていた。調査を続けていた。あの日、管制室で記録された謎のエネルギー反応の解明――それが彼女に今回与えられた任務だった。

 結論から言えば、管制室が検出したと言う謎の科学エネルギーは全く以て確認出来なかった。その代わり、現場を中心とした半径5㎞に渡って充満する謎の高濃度魔力を検出することになり、現在クロノに報告中だと言うことになる。

 「はい。人為的に発生したと言うことは明らかですけど……」

 『何か異常でも?』

 「もし仮にこの魔力が一人の人間が行使した魔法から起因しているのだとしたら、数値的に有り得ないはずなんです……」

 『有り得ない……か。分かり易く言うと?』

 「なのはさん、フェイトさん、はやてさん……この三方のリンカーコアと同じ位か、あるいはそれ以上かと……」

 『聞いただけで気が遠くなりそうだが、状況的に考えてもその魔力はシグナム達を追い詰めた者の魔力と見て間違いなさそうだ。引き続き調査を頼むが、決して深追いはしないでくれ』

 「了解しました」

 それを最後にギンガは回線を切断、姉妹と伴侶が待機している場所へと急いだ。既に各々に割り振られた周囲の探索・調査が終了したのか、その場所には全員揃って彼女の帰還を待っていた。

 「ギン姉、お帰り。クロノさんは何て言ってた?」

 「このままここで待機……引き続き調査ですって……」

 「そうッスか……。とは言っても、何にもすること無いッスけどね、調査報告も終わっちゃったッスし……」

 「…………何言ってんだ」

 「ノーヴェ?」

 「あたしの耳はただ穴が開いてるだけの節穴じゃねぇ。桃色髪の騎士から聞いてる…………ここで暴れた奴と、本部をテロった奴が一緒なのはよ……」

 「…………何が言いたいの?」

 妹の言わんとすることが何となく察しがついたのか、ディエチが訊ねる。

 「悔しくねぇのかよ! スバルを殺ろうとした奴が居るんだぞ! 今すぐにでもそいつ見つけてぶっ殺さないと気が済まねぇんだよ!!」

 他人とは関係が疎遠になり易い分、身内との繋がりを

 「……………………バカね、悔しくない訳がないでしょ」

 「だったら! こんだけ魔力が濃く残ってんなら、それを辿って行けばそいつのケツに辿り着けるってことじゃん!!」

 「でもね、ノーヴェ……私達の仕事はここで終わり……これ以上は独自行動になるわ」

 「そんなこと――!!」



 「でも大丈夫。さっき許可もらったから」



 「――へ?」

 予想していなかったギンガの言葉に、思わずノーヴェは間抜けな声を出してしまった。

 「ウェンディ、言質取ってあるわね?」

 「バッチリOKッス! ちゃーんと『深追いはするな』って言ったトコまで録音済みッス」

 「深追いするなってことは、ギリギリ手前までだったら行動しても良いってことになるわ。カイン、魔力探知お願い!」

 『問題無い、既に出来ている。と、我がマスターは申しております』



 これが30分前のやり取りだった。










 「何故だ……この結界は、外側からも、干渉出来ないように、知覚錯乱まで、施したはずだ」

 「こちらには魔力探知と結界解除に長けた優秀な魔導師がついていましたから……」

 「……………………」

 流石にこれは想定外だった。一体何をやったのかは知らなかったが、シルバーカーテンの知覚錯乱の効果は確かに常人の魔力探知能力すら欺くだけの効果を発していたはずだった。通常なら少し注意を集中させればその存在に気付くであろう結界を、全く悟らせない為の二重措置……それがシルバーカーテンの役割だった。

 それが破られた! 完全無欠を自負していただけに、彼は表情こそ鉄仮面だったが、脳内では様々な情報が混乱を極めていた。

 少なくとも、今この場でトレーゼにとって幸運だったのは、彼が顔を隠すようにしてフードを被っていたことだった。もし仮に、ここで顔が割れてしまえば、例え逃げ果せたとしても後々の行動に面倒な支障が発生する可能性が極めて高かったからだ。

 だが、当然不運だった点もあった――。

 「手元のケースを地面に置いてください。ゆっくりとです」

 それは、相手がよりにもよってギンガだったこと。正確には、ナカジマ家の人間だったことが、彼にとっての最大の悲劇だった。なんとか今はあちらがこちらの正体に気付いておらず、こちらも意図せずとも顔を隠していたから良かったようなものの、一度顔を見られてしまえば、現在接触中のノーヴェにも知れ渡ることになる。そうなってしまったら、今度は芋蔓式に自分の情報が接触予定のスバルに知れることになってしまう。そうなってしまえば、計画の根幹が水泡に帰してしまう恐れがあった。それだけは絶対に避けたい。

 この場合の選択肢は二つ――。

 『対象を殺害して情報漏洩を阻止する』か、『逃走を優先して現領域から離脱』のどちらかだった。

 「ちなみに、抵抗しても無駄です。私を中心とした半径3㎞圏内には既に別の局員が待機しています。もし私に何かあったら、貴方の安全も保障はできません」

 なるほど、意識をそちらの方に集中させて分かったが、確かに目の前の彼女意外に、この車両から数キロの範囲内にリンカーコア反応が二つと、ナカジマ家に引き取られたナンバーズの反応が三つで、計四人の反応があるのが把握出来た。特にリンカーコア反応を出している魔導師らしき方はかなりの実力者であることが魔力値から窺える。やはり彼女の言うように、下手に戦闘するだけこちらが不利になりかねないようだった。



 さすれば――!



 トレーゼはギンガの渓谷を無視するとケースの取っ手を固く握り締め、左拳を高く振り上げた。既に鉤爪は元の長さに戻っており、代わりに彼の足元に真紅のテンプレートが出現した。

 「!!?」

 反射的に身構えるギンガだったが、彼に自分に対する攻撃意思が無いと言うのが分かった時、僅かだったが隙が生まれてしまった。

 トレーゼはそれを見逃さなかった。ナックルのスピナーがシャープな音を立てながら回転し始め、左腕全体が高速な微振動を発生する。やがてその振動はサイクルを激増させ、大気を震わせられたことで周囲の窓ガラスが粉々に弾き飛んで行った。

 「IS、No.0…………」

 「まさか――っ!?」

 彼がしようとしていることが分かったのか、ギンガは両足のキャリバーを全力で駆り、彼の行動を阻止しようと急行した。

 だが――、

 遅かった。

 「『バイブレートクラッシャー』」










 ノーヴェは自分の目に映った映像を脳で理解しようとするのに時間を要した。つまりそれは、如何にその事態が有り得ない現象だったかを暗に物語っていることだった。

 自分達姉妹は現場を中心として距離を取り、そのまま待機。先にギンガが先鋒で突入し、出来れば検挙、もし抵抗するのであればすぐに自分達を応援に呼ぶはずだった。

 打ち合わせ通りにギンガが中に入り、残りの四人は文字通り四方に散って様子見…………ここまでは良かったのだ。

 一体どこの誰がこんな事態を予想出来ただろうか!?



 突入してから数十秒で車両が鉄橋ごと崩落するなどと。



 「ギン姉!!」

 黄金のエアライナーの上を猛スピードで駆けて、ノーヴェは鉄骨と共に渓谷の半ばまで落下していた車両へと急いだ。地上およそ200余メートル……真下の河川の底に激突すれば中に居るはずのギンガもろとも車両は木端微塵、まず生きては居られないだろうことは安易に想像がついた。ノーヴェの対角線上からもライディングボードに乗ったウェンディが飛来して来ていた。

 だが、距離を取り過ぎたのが仇と成り、ナンバーズの中では屈指の機動力を有しているはずの二人でさえも、自由落下によって加速度を増す車両に追い付くことは困難を極めていた。

 (あと2.41秒……!)

 ノーヴェの脳内に存在する増強脳神経細胞が、地表に激突するまでのタイムリミットを算出した。

 そして、届かない!

 ウェンディとノーヴェは落ち行く車両に手を伸ばしながら、天体に働いている重力の存在を憎んだ。

 そして、地表まで残り僅か十数メートルの所まで迫ったその時――、



 落下が『止まった』。



 比喩でも揶揄でも何でもない、止まったのだ、空中に、手品か何かのようにして、時が停止したかのように完全に。

 「ありがとう、カイン。一瞬だったけど、河原の向こう側で母さんが手を振っていたのが見えた気がしたわ」

 『礼には及ばない。あと、その川は絶対に渡るな。と、我がマスターは申しております』

 地面スレスレの空中に停泊した車両の上に、大刀型のアームドデバイスを起動させたカインが静かに降り立った。灰色の魔力を体に纏わせているところを見る限り、何らかの魔法によってギンガ達が囚われている車両全体と自分を浮遊させているようだった。

 「ウェンディ、ノーヴェ、この二人をお願い」

 傾いた車両から壁を壊して深い藍色のウィングロードが飛び出し、中から気絶したエリオとキャロを両脇に抱えたギンガが出て来た。彼女が脱出したのを確認した後、頭上のカインは魔法を解除、床部分に大穴を開けていたリニアの車両はとうとう川底へと墜落を果たした。

 「…………あの穴……何があったんだ、ギン姉?」

 気を失ったエリオを抱きかかえながらノーヴェが訊ねる。彼女が言っているのは恐らく車両下部を貫通している大穴のことだろう、ギンガが突入してからずっと見張っていたが、攻撃に魔力や火薬などが使用された反応は一切無かった。となれば、当然これは純粋な物理的衝撃のみで抉じ開けられたことになり……。

 「一撃必倒、パンチ一発で開いた穴だって言ったら、信じてくれる?」

 「こっから逃げられたッスか!? 良いんスか、追わなくって?」

 『問題無い、索敵の精度と範囲でディエチに勝る者は居ない。今頃捕捉できている頃だろう。と、我がマスターは申しております』

 カインの言う通り、ディエチはここへ来た時から既に自分の索敵網を張っており、万が一敵が逃走を図った際にはこうして敵の位置を割り出し、それを彼女らに伝達すると言う役割を担っていたのだ。だから、全員がこうして一ヶ所に集まっているのに対し、彼女だけは忠実に持ち場を離れずに居ると言う訳だ。

 案の定、ものの三分としないうちにディエチから敵影を捕捉したと言う通信があった。

 「カイン、二人を一旦この領域から遠ざけて。私達は引き続き敵を追跡するから」

 『了解した。近くにベルカ自治領の騎士団が哨戒中のはずだ、一旦そこに身柄を保護してもらおう。と、我がマスターは申しております』

 「お願い。行くわよ、二人とも!」

 「おうっ!」

 「はいッス!」

 ギンガの号令と共にウェンディがボードに飛び乗り、上空に藍色と黄金の二本の道が伸びた。

 「ウェンディは上空からディエチの情報と照らし合わせて索敵をお願い! ノーヴェは目標の手前で一旦分かれて挟み打ちよ!」










 彼は思考する。誰かが言っていた、『こう言う時こそ落ち着くべきだ』と。何の根拠も立証も無いが、今は確かに一旦落ち着いて状況の整理に移った方が賢明だった。余談だが、落ち着くコツとしては素数を数えた方が良いらしい、何故かは知らないが……。

 渓谷を流れる河川から距離を置いた山中の森林――、その一角にある岩の傍で彼は腰を落ち着けていた。鉄橋を崩落させてからも絶対に落とすことなくここまで持って来たアタッシェケース……それを自分の手前に置き、留め具を外して中を確認する。

 「……『F.A.T.E』に対抗する、鍵……」

 そこに収められていたのは、大きめの注射器と赤い生命の液体が入った試験管だった。彼はその試験管を手に取ると、それを眺める。全体内容量のおよそ3分の2を血液が満たしており、それを彼はグラスを傾けるようにしてゆっくりと回す。特別な処置はしていない……十数分と経たない内にこの液体は血液特有の凝固作用によってゲル化、時計の長針が一周する頃には完全に固体化するであろうことは目に見えていた。もしそうなってしまえば液中の組織構造が変質し、そこから特定の因子だけを抽出するのはかなりの困難を極め、折角あの“失敗作”から取り上げた血液も無駄になってしまう。

 そして、その限られた時間の中で彼が無事に逃げ果せられる確率はほぼゼロに等しい。

 既に自分がディエチの索敵範囲内に入ってしまっているのは自覚していた。シルバーカーテンを使用して逃走すると言う手立てもあるのかも知れないが、エネルギー感知に長けた彼女の目ではそのISを使う時に発生したエネルギーで勘付かれてしまう恐れがあった。下手に身を隠そうとするのは得策ではなさそうだった。

 かと言って、ここで徹底抗戦すると言う選択肢も危険だった。確かに彼は対魔導師戦においては充分過ぎる性能を誇ってはいた、元々、『魔法』と言う文明の利器に頼り切った彼らと戦うことを想定して造り出された分、対魔法性能に限って言えば最強と言っても過言ではなかった。だがしかし、結局のところそれは魔導師に対してのみ有効なものであり、少なくとも『現段階』においては同族である戦闘機人との戦闘は限り無く不向きだった。リンカーコアを活力にしている魔導師ならばAMFで行動制限、あわよくばDMFで魔力を根こそぎ奪えるのだろうが、彼女ら戦闘機人にはそれが通用しない……通常の人間とはもちろんのこと、魔導師とは違って科学的エネルギーを動力源として動く彼女らに対してはDMFなど欠片も通用しないのだ。

 おまけにこの戦力差と地形……このような樹木の生い茂る障害物だらけのフィールドでは迂闊に小回りの利かないライドインパルスは使えない。かと言って、上空に逃げ道を見出せば、後方からのディエチの砲撃の格好の的だと言うこともまた事実……。

 姿を隠す? 無駄だ、どうやってかは知らないが、奴らは自分の存在に勘付いてここまでやって来た。今更どこへ隠れようとすぐに発見されるだろう。

 「…………状況は、芳しくない……か……」

 鋼鉄の手で試験管を強く握りしめながら、トレーゼはその鉄仮面な顔で天を仰いだ。別に神に祈っている訳ではない、彼自身そんな形而上の存在など信じていなかったし、彼にとっての絶対的上位者とはスカリエッティを除いては他に居なかった。今の彼は言わずもがな、思考しているのだ。現状を打破する為の解決策を……完全で、完璧な策を……。

 否、策などあろうはずが無い! 自分は最強のナンバーズとなるべく造り出されたとは言え、未完全なのだ。ファクターサンプルによって得た13のISは、そのどれを取って挙げても元の保有者よりも若干劣っており、リンカーコアを有しているとは言え、コピーした魔法の大部分は科学エネルギーとISの併用に頼らなければ上手く発動しないのだ。かつて鉄槌の騎士に面と向かって言われたが、他人の魔法や能力をコピーすると言うのは――、



 ――魔法?



 その時、トレーゼに天啓が閃いた。

 「そうか……引き起こせば、良いのか……。自分の手で、“進化”を……!」

 ここに誰も居なかったのはある意味では良かったのかも知れない。何故なら、彼の言ったことがあまりにも不可解なものだったからだ。

 『進化』とは、動植問わずに全生物がこの地、この世界に存在を許されたその瞬間から、“究極”に向かおうとする道程であり、全ての欲求に優先的に勝る本能の根源だ。どんな絶望的な状況に立たされようとも生き残ろうとする生存欲……口から摂取した水分と栄養を元にしてエネルギーを充足させる食欲……より優れた相手と交わることで後世に優良種を残そうとする性欲…………どれも、生物の“進化”の上では欠かすことの出来ない要素であると同時に、これらもまた“進化”に対する衝動あって成り立つモノであることに変わりは無かった。

 だが、その“進化”そのものも、一朝一夕で成り立つものではない。生物は自らが根源的に抱えている欲求を満たし続けることで常に進化を続けていくのだが、これは何世代もの年月を掛けて初めて実現させられるモノなのであり、当然今日言って明日にはと言う訳にはいかない。ミッドチルダの歴史を見ても分かるように、人々はすぐに魔法と言う力を手に入れられたのではない……何千何万と言う歳月をかけて体内にリンカーコアを生み出し、太古の人類は古代ベルカ式魔法の体系を樹立させた。それは詰まる所、究極と言う終着点へと向かった彼らが得ることの出来た“進化”の一片なのかも知れなかった。



 それを、トレーゼは成そうと言うのだ。今! ここで!



 思い立ったが何とやら、彼の行動は素早かった。試験管の蓋を外すと、すぐさま溜まった血液の中に注射器の針を入れ込んで中身を抜き出す。急がねば、時間が無い、追ってはすぐそこまで迫って来ているのだ。

 無造作に抜き取った彼は、残りが入っているはずのその試験管を投げ捨てる。器の中には半分位まで血液が満ちており、それを確認した彼はエタノール消毒も何もしていない左腕に針を打ち込む。鋭い針の先端は皮膚表面と真皮組織を貫き、あっさりと静脈へ到達した。

 自らの血管に他人の血液を直に投入するのは些か危険がある、血液型が違えば凝固障害を引き起こしてしてしまうからだ。

 だが彼は止めることなく、ついに全ての血液を注入し終えたのだった。その後は針を抜き、そのまま投げ捨てた。

 「……………………」

 やるべきことをやり終えた彼は、再び座り込むと瞑想するかのように黙り込んだ。ちゃんと索敵妨害用に周囲を微弱なシルバーカーテンで固めてはいるが、バレるのは時間の問題だろう。そうなれば即刻戦闘の開始と言う訳だった。

 もっとも、そのバレるまでの間が正念場と言うモノなのだが……。



 30秒か、五分か、あるいは十分以上経っていたのか、木々のざわめきが変わらぬサイクルを刻んでいたその時、

 彼に変化が訪れていた。

 「う……ぐぅ、あぁあ……!!」

 始めは血液を打ち込んだ左腕からだった。予防接種をした時に起こる腕が腫れる現象……それが針を刺した傷口から徐々に広がって来た。だがそれは、痛覚として捉えるには緩慢で、熱として捉えるにはあまりにも症状が重過ぎていた。

 傍から見れば全く分からないかも知れないが、今の彼はその全身が灼熱に侵されている。左腕から始まったその熱は数分としない内に頭の先から背中、足の爪先に至るまでを完全に征服し、トレーゼに人知を超越した苦しみを課していた。筋肉はもちろんのこと、内部に埋め込まれた機械骨格や指先すら動かせず、眼球内部のモニターにはさっきから異常を知らせる警報が引っ切り無しに響いてくる始末……本来ならば毒物を取り込まなければ起きることのない現象だった。

 そう――、毒なのだ。まさに彼が体内に取り込んだモノ……他人の血液とはまさに毒物そのものに他ならないのだ。本当ならば解析機にかけて必要な因子を発見、それを精製して余分な成分を排することで拒絶反応を極限にまで抑えることで初めて注入段階に至るのだが、今回ばかりはこの様に直接体内で自己解析を行うより道がなかった。その所為でこうして彼の体は拒絶反応の嵐に見舞われていることになるのだが、彼の場合はそれが異常な程に顕著だった、普通ここまでの熱に侵されるなど、そうそう有り得ないことではあった。

 「が、ががっ……! あぁぁっ!!」

 狂った獣の様に呻き声を上げながら地面をのたうち回る、苦し紛れに掴んだ草は根こそぎ地面から引き剥がされ、小さく細い木々は邪魔だと言わんばかりに剛腕で薙ぎ飛ばす……手が付けられないとはこの事だった。だが、同時にこれは彼にとっては完全な無防備状態であり、今ここで敵に狙われれば最後、無事では居られないことは容易に想像がついた。

 だから――、

 今だけは何も起こらないことを祈るしかなかった。










 「…………」

 空中に築いた黄金の道を駆けながら、ノーヴェはいつになく静かな思考に入っていた。嵐の前の静けさ……と言ったら聞こえが悪いが、確かに今の彼女の心理状況は獲物を追い込むことに成功した狩人のそれに近かった。目的の獲物を袋小路へと追いやったことに成功した愉悦と、それを上手く狩れるかどうかと不安に思う気持ちで彼女の脳は二分されていたのだ。

 「…………」

 一度は逃げられた相手だ。それも、あの時相手は本気ではなかった、自分から逃走することだけを優先していた節が見受けられていた。もしあの時、相手が自分を倒すつもりだったら? もしあの時、奴が本気で自分に迫って来ていたなら……そして、今度相見えた時にその本気を出されてしまったなら……?

 「……っ!」

 いけない! 何を余計な事を考えているのだろうか。そんな負の思考をしているからいけないのだ。ティアナだって言っていたではないか、「深く思い詰めるな」と。余計な考えは行動を鈍らせる……今はただ、敵を完膚無きまでに倒すことが先決だ。

 そう――、スバルの仇を討るのだ。他の誰でも無い、あの優しい妹の為に――。

 そして――、その優しい少女の未来をいとも簡単に断ち切った者をに制裁を加える為に――。

 「ノーヴェ、ディエチから連絡よ。この先にカインの捕捉した魔力反応の塊を捉えたらしいわ。一旦ここで二手に分かれて……」

 「なぁ、ギン姉……一つ、お願いしても良いかな?」

 「…………何?」

 すぐ隣を並走する義理の妹から発せられるモノに何かを感じ取ったのか、ギンガはウィングロードの発生を一時停止させ停滞、ノーヴェもそれに従った。

 「…………それで? 何かしら」

 「留めはあたしにさせて欲しい」

 「駄目よ、管理局員とは言え、行き過ぎた武力の行使はご法度なのよ。例えチンクが認めても、私が認めない」

 「そんな……!」

 「安心して。貴方が心配しなくても、私が責任持って逮捕するわ。そしたら、ノーヴェにも一発くらい殴らせてあげるから」

 「さっすがギン姉、話が早ぇな!」

 「当然よ、この世に自分の妹を傷付けられて黙っている姉や兄なんて居ない…………腹立たしいのは私だって同じなんだから」

 それだけ言うと、ギンガとノーヴェは再び目標へ向かっての追走を開始した。ディエチの通信内容が正しければ、今自分達が走っているポイントからおよそ230m手前に敵が潜伏しているはずだ、二人は森林の視界の悪さを逆手にとって百メートル手前まで接近した後で一度二手に分かれて接近し、先にギンガが先手に打って出る。その後はある程度まで体力を消耗させた後でノーヴェと上空で待機中のウェンディが戦線に介入してさらに追い詰める。仮に敵が上空へ逃げることがあろうとも、自分達の遥か後方からのディエチの火砲支援で確実に墜とせる算段だ。この陣形こそ、ナカジマ家のナンバーズである彼女らN2Rが独自に生み出した、自称「究極のフォーメーション」である。本来ならばノーヴェが突撃、ウェンディが空対地でチンクが地対地からの援護、そしてディエチが後方支援と言うまさに理想的な陣形であることに間違いは無かった。

 そう――、この陣形を破るとなれば、それこそ高町なのは並みの射程距離を持っていなければ崩しようがないはずだった。



 ――はずだった。



 「ノーヴェ!! 避けなさい!!」

 「え――?」

 ギンガの怒声にも似た警告が彼女の鼓膜を痛い程叩いた。もちろん、それに動じない程鈍いノーヴェではない、すぐに彼女はエアライナーの舵を取ると前方から飛来して来た紅い光線を紙一重で回避することに成功した。

 だが、

 彼女の足元の黄金の道を寸前で通過した光線はそのまま大きく上昇し、空中を飛行していたウェンディのボードに……

 「ウェンディぃいぃいいいいっ!!!」

 直撃した。ノーヴェを狙ったにしては照準が甘かったが、実はそれが始めから彼女らの頭上のウェンディを狙っていたのだとすれば説明がつく。敵はとっくにこちらの動向に気付いていたのだ。

 「ギン姉! 先に行っててくれ! あたしはウェンディを……!」

 基本、戦闘機人は肉体の強度は人間の比ではないにしろ、あの高さから落ちたとなれば無傷ではないはずだ。ノーヴェは急いでエアライナーを反転させると、ギンガを先に行かせて救助に急ぐ。一応ディエチの方にも助けを要請するつもりだ。

 「無事を確認したらすぐに戻って来て! 私と貴方の二人で仕留めるわ!」

 ギンガの方には何の攻撃も来てはいないが、油断は出来ない、あれだけの弾速と命中精度ならばいつこっちが墜とされてもおかしくはなかった。ギンガはウィングロードの高度を下げると本格的に森林の茂みに入り込み、相手とこちらの視界条件を五分と五分にした。これで自分は相手の姿が見えなくなった代わりに、相手の方も接近しなければこちらを確認出来なくなったと言うことだ。

 「……待ってなさい、今すぐカタをつけるから」

 ウィングロードを消し、森の中の獣道をキャリバーのローラーで走行するギンガ。その後ろ姿からはまるで修羅のような熱気を帯びた魔力が陽炎となって滲み出ていた。










 「……なるほど、これが……俺に与えられた、能力か…………素晴らしい」

 森の一角でトレーゼは満足気に呟いた。天に伸ばされた鋼鉄の掌からは蒸気が立ち昇り、そこから大きなエネルギーが放出されたことを物語っていた。手首部分に収納されていたリボルバー式小型カートリッジはその内包魔力の全てを使ったのか、軽い蒸気音と共に排莢機構によって放り出され、そのまま傾斜を転がって行った。問題無い、替えの物は幾らでもある。

 「我が創造主、Dr.スカリエッティ……貴方はやはり、天才だ。俺に、こんな能力を、与えてくださった…………これが“進化”、即ち全ての行き着く場所……」

 足元に展開している紅い発光体、回転こそしてはいるが、それはテンプレートではなかった。やがて役目を終えた『それ』は自然に消え去り、それと同時に彼は背後を振り向き――、

 「ふん……!」

 掌底から再び光線を放った。凶暴な威力を秘めて放たれた一条の光は障害物であるはずの樹木に穴を開け、真っ直ぐに対象を撃墜するところだった。

 「危ないわね、あんな高威力のもの……人に向けて撃つモノじゃないわよ」

 拳大の穴が開通した樹木の陰から姿を現したのは、左手に自分と同じナックル系の武装を構えたギンガだった。彼女が姿を見せると同時に、その樹は他の樹木を薙ぎながら大きく倒れ、その衝撃で森の鳥達が一斉に飛び立った。貫通した部分は見事に黒く炭化しており、植物のコゲ独特の鼻を突く臭気が辺りに立ち込めた。

 「……タイプゼロ・ファースト……ナンバーズにして、ナンバーズ成らざる者」

 「違う、私はギンガ・ナカジマ……。ナカジマ家の長女、クイント・ナカジマとゲンヤ・ナカジマの娘…………そして、貴方が痛めつけたスバル・ナカジマの姉よ」

 「…………仇討ちか……理解し難いな、奴は個人としての、強さが足りずに、自らこちらに仕掛けておいて、身を貶めた……」

 「貴方が何者かは知らない……。その防護ジャケットを見る限りではナンバーズなのかも知れないけど、私の妹を傷付けた代償は重いわよ」

 「感情に、左右される……“兵器”としては、落第点だな」

 「当然、私は兵器でも武器でも何でも無い…………一人の人間よっ!!」

 カートリッジロード、左腕のスピナーが回転し、彼女の足元に藍色の翼の道が顕現される。この間およそ3秒弱、先手を取ったのは完全にギンガの方だった。ベルカ式魔法独特の三角魔法陣がと同時に出現したウィングロードは足元の雑草を薙ぎ倒して突き進み、トレーゼに回避することすら許さずに、彼を背後の大木に叩きつけた。丁度自分の越し辺りを押さえつけられた彼は何のとか逃れようと試みるが、両脚が地面から離れてしまっている所為で全体に力がこもらない。

 「く……!」

 力尽くでは脱出出来ないことを悟った彼は両手をウィングロードの表面に翳した。その瞬間に藍色の翼の道が途端に形を崩し始める……接触した部分から直接魔力が奪われているのだ。

 「させない!」

 脱出などさせない! ギンガは今にも形を失いそうなウィングロードに飛び乗ると、キャリバーのローラーの馬力を全開にし、一瞬で彼の鼻先まで距離を詰めて飛び掛った。今は亡き母の遺した白銀の篭手――、スピナーが回転すると同時に出現した環状魔法陣は単なる魔力の収縮だけを意味しているのではない、スピナーの音速を超えた回転によって発生した衝撃波を拳周りに集束・停留させ、対象に向かって一気に放つ大技……一撃の元に彼を撃沈させるつもりなのだ。

 【リボルバーキャノン】、ナカジマ姉妹の最も得意とする射撃魔法であり、元は妹スバルが編み出したその拳術と魔法の融合した技を、今ギンガは渾身の力を込めて叩きつけようとしていた。この距離だ、例え魔法が無効化されたとしても、打ち出された拳の物理的威力までは消せないはずだ。今のトレーゼはギリギリで身動きが出来ていない……そうなれば、どちらに転んでも彼女に分があった。

 既に、両者の距離は1メートルを切った。

 トレーゼが両腕を交差させて防御体勢を取る。それを目にしても、ギンガの拳は止まらることを知らなかった。

 「はぁぁあああああっ!!!」

 金属と金属の衝突する鈍く大きな音が森の枝や葉を揺らした。小鳥達がまたもや一斉に飛び立ち、臆病な小動物も我先にと音の発信源である二人から走り去る。白銀の五指と漆黒のスピナーが物理的に拮抗する音が周囲の空間を振動させ、干渉し合う互いの魔力の奔流が地面を穿つ……だが――、

 「なかなか……!」

 トレーゼは屈していなかった。両腕一杯でギンガの拳を受け止めながらも、彼は背後の大木を支えにして退こうとはしなかったのだ。それどころか、表情筋一つ動かすことなく対抗して見せるその姿に、ギンガはいつの間にか恐怖に似た感情を喚起してしまっていた。

 「――……――――……」

 「え……?」

 ここで彼女は、トレーゼが何かを呟いていることに気付いた。スピナーの音で始めは聞こえなかったが、耳を澄ませてみれば――、



 「接触したな?」



 「ッ!!?」

 危険を察知した時には遅かった。全身を異常な脱力感と倦怠感が襲い、両脚が無様にフラついてしまった。彼女の脳は一瞬で状況を整理すると、この現象の原因が彼の魔力干渉、もしくは吸収によるものだと言うことにすぐに勘付いた。なるほど、地下でスバルの体が異常に衰弱していたのは、過度な魔力吸収によるリンカーコアの収縮が原因だったのか!?

 接近戦ではこちらが不利!

 コンマ数秒で結論を出したギンガはウィングロードを蹴り上げ、大きく後方へ跳んだ。同時に足元のウィングロードは消滅してしまい、トレーゼを拘束するモノは完全に無くなってしまったが、問題無い、まだ手はある。取り合えず一定の距離を保ちつつ中距離射撃で追い詰め……

 と、ギンガの思考がここで止まる。トレーゼが傾斜を滑り降りて逃亡を図ろうとしていたからだ。

 「待ちなさい!」

 彼の跡を追ってギンガも傾斜を滑り降りる。かなりの距離がある上に木々が生い茂って視界は最悪だったが、ここの地理は事前に把握してある……この先は何の障害物も無い、戦闘を行うには絶好のフィールドがあったからだ。

 そう――、それはつまり……

 川! 上流に位置しているここでは河川の流れが急だが、なんとか立って移動は可能なレベルだ。水飛沫を上げながらトレーゼが、それに引き続いてギンガが間を置かずに飛び込み、彼を再びその視界に収めることに成功した。

 「いくら逃げても無駄です! 大人しく投降しなさい!!」

 水流の感覚を両脚に受けながら両者は再び膠着状態へと移行した。互いに動けない……ギンガは接近戦を挑めば魔力を吸われるので迂闊にトレーゼには近付けず、トレーゼは幾ら逃げようとも必ず追って来るギンガに成す術は無いはずだった。完全な拮抗……だが、それもギンガにとっては一時的なものに過ぎない、ノーヴェさえ戻って来ればこの拮抗状態は解け、彼を捉えるのは容易くなるはずだ。要するに、彼女が戻って来るまでこちらが耐え切ればそれで良い話なのだ。

 もう逃がさない、もう逃げられない! ギンガは戦いの勝利を、今確信していた。

 だが――、 

 「……無駄? 何を、言っている…………やはり、お前も、その程度」

 トレーゼの様子が一変した。全身に纏っていたはずの殺気や敵意と言ったモノが完全に消滅し、拳闘の体勢も解いて両腕をダラリと垂らしてしまったのだ。どうやら戦う気力が完全に失せてしまったらしい。

 「……どういうつもり?」

 相手から殺気が消え去ったにも関わらず、ギンガは警戒を解かない。左拳を構えたまま彼女はジリジリと距離を詰めようとする。

 それが間違いだったことに気付くのはすぐ後だった。

 川底の砂利を踏み締めた時に感じた違和感――、

 水流の中に紛れ込んだ異常――、

 それに彼女が気付いた瞬間――、



 「ぁ――――!!!?」



 神経を焼き切る程の衝撃が全身を一瞬で駆け廻り、ギンガの肉体を蹂躙した。

 「あぐぁあぁああぁっ!!!」

 鍛え上げられた脚の筋肉は無様に痙攣し、体重を支え切れなくなった彼女は浅い川底に両手をついてしまった。予想すらしていなかった尋常ならざる痺れは全身の神経を撫で上げ、遂に彼女は四肢で体重を支えることすら困難となってしまった。

 「これは……電流!?」

 霞む目を凝らして見ると、川の流れの淀んだ部分ではショック死した小魚が白い腹を見せて浮上しており、今この河川一帯に相当量の高圧電流が流されたことを暗に物語っていた。バリアジャケットの衝撃遮断性能のお陰で何とか呼吸は出来ているが、恐らくは熊ぐらいの大型動物の心肺を一気に停止させられるだけのエネルギーが流れていたに違いなかった。

 だが何故だ、この電流は魔力の波長が一切感じられなかった。だが目の前のトレーゼのデバイスに高圧電流を瞬時に発生させられるだけの機能が備わっているとも考え難く、かと言って魔力による疑似電流ではあれ程に混じり気の無い電気は発生しないはず……。

 「まさか……魔力変換資質……っ!?」

 「そうだ、フェイト・T・ハラオウンに、対抗する為に、エリオ・モンディアルの、血液を取り込み、得た力だ……。…………そして――っ!」

 トレーゼが急接近した。回避行動など出来るはずも無く、ギンガは腹部を鋼鉄の脚部で蹴り上げられた。

 「――がはぁっ!!」

 一瞬で3メートルの高さまで上昇するギンガの肉体……その真下で待ち構えるトレーゼ。最頂点に達してから落下して来るのにどれ程の時間が掛ったのか、正確な時間は分からなかった。ただ一つ確かなことは、彼女が落下して来るのをトレーゼが待ち構えており、彼女に更なる攻撃を与えようとしていたことだ。

 頭から落下したギンガはバリアジャケットの襟元を掴まれ、重力加速度とトレーゼの剛腕から弾き出された加速によって更に川底に叩きつけられた。

 「ぐあ゛っ!!!?」

 体内の精密機器の殆どが破損したのを無意識に感じたギンガ。脳を物理的に揺り動かされ、視界は振り回しによって回転し、彼女の意識は暗闇に落ちそうになっていた。

 だが、猛攻が急に停止した。

 「へ……? な、何を……!?」

 襟首は掴まれたままで、彼女は自分の体がゆっくりと地面を離れて行くのをその眼で捉えていた。それもそのはず、トレーゼが自身の頭上にギンガを軽々と持ち上げているからだ。機械骨格を埋め込まれた80㎏前後のギンガを、まるで重力など存在しないとでも主張するかの様に片手で垂直に持ち上げるトレーゼ。魔力の流れは一切無く、機械骨格とそれを覆う増強筋肉から生み出された純粋な物理的な怪力だけで持ち上がっている……本気を出したノーヴェですらここまでの力は出せないことが容易に想像がついた。

 「あ……あ゛ぁ……ぐ……ああっ!」

 襟首を締め上げられている所為で呼吸すら儘ならない……酸欠を起こし掛けて意識が朦朧としてきたその時――、



 不意に感じた禍々しい魔力。

 そして、自分の腹部に軽く手が当てられる感触……。



 「!!? そんな……これは――っ!!!」

 彼女は自分の視界――川底のトレーゼの足元に映っていた『それ』の存在を疑った。

 何故だ! 何故そんなモノがあるのだ!? 有り得ない!

 しかし、

 そんな彼女の混乱と、そこから湧き上がった疑問は、数瞬後に塵となって消え果た。

 強制的に意識がカットされる最後の瞬間に彼女が見たモノ……それは、急速に遠ざかる地面と、自分が仕留めることの出来なかった相手の足元に展開されていた――



 真紅の三角魔法陣だった。










 電流を流した時点でトレーゼは自身の決定的勝利を確信していた。

 そして、その確信は遂に現実のモノとして形となった。

 ギンガを持ち上げることに成功した彼は、頭上で必死にもがく彼女の腹に空いていた右手を突き当てた。スピナーが回転し、膨大な魔力がそこへ集中する。

 そして、スピナー周りに展開されるのは真紅の環状魔法陣。足元にはそれに呼応するかのようにして血よりも紅いベルカ式魔法陣が顕現する。

 魔力の充填は完了した。あとはそれを――、

 放つだけ!

 『Divine Buster.』

 マキナの電子音と同時に、集束していた凶暴な魔力の全てが解放……その射線上に居たギンガの体を軽々と吹き飛ばして見せた。紅い魔力の砲撃は森林の樹木よりも高い位置で威力を失って拡散、消滅し、偉大なる慣性の法則に従ってギンガはそのまま森の奥まで撃墜されたのを確認出来た。あの速度で飛ばされたとなれば、落下衝突時の衝撃は計り知れない……恐らく無事では無いだろう。

 「……なるほど、【ディバインバスター】とは、こう言うモノか」

 蒸気を発する右手を握り締めながら、彼は誰に聞かせる訳でもない呟きを洩らした。排莢機構から空のカートリッジが飛び出し、そのまま水底へと沈むのを見て、彼は天を仰いだ。

 「ゼロ・ファースト…………いや、ギンガ・ナカジマ……お前の言ったことは、正しかった」

 静かに目を閉じ、まるで天空にいる神に祈るかの様にして言葉を紡ぎ出す。白磁の肌の表面は水飛沫によって水滴に濡れ、紫苑の髪も完全に湿って艶やかに光っていた。

 「お前は、確かに人間だった…………そして、

 “人間”が“兵器”に勝てる道理など、無い」

 黄金の目には何もうつされてはいない……ただ上空の太陽の光を反射しているだけで、彼自身が意識して見つめるモノなどここには無かった。

 「これが、“進化”だ……これが、頂点だ。堕落の、一途を、辿る者達には、理解出来ない…………完全なる、『根源』へと、向かう事を、忘却した者達には、決して理解出来ない、真の発展と進歩……それが、『俺』だ」

 誰に聞かせる訳でもない、ただ彼を満たしているのは、新たな力を得た充足感と――、

 「そして、進化の極みに、到達することこそが、俺の望み…………ドクターの願い、トーレの目指したモノ……。そう――」

 目的までに達していないと言う虚無感だった。

 「世界よ、刮目せよ。これが、“進化”だ……これが、『ナンバーズにしてナンバーズを超越した者』、だけに授けられた、絶対の力だ」

 だからこそ、彼は誇示するのだ。それは周囲に対する自身の圧倒的力の顕示であると同時に――、



 警告だった。










 後の報告書にはこうある 

 新暦78年11月14日、午前9時21分――。

 陸士108部隊所属のカイン・H・ヤガミ一等陸尉を隊長とする機動小隊『N2R』とギンガ・ナカジマ陸曹は、局員二名を襲撃した犯人を取り押さえることが出来ず、その戦闘の際にナカジマ陸曹とウェンディが軽傷を負ったとされている。

 そして、その報告書の次のページには……



[17818] 終極の“13”と始原の“セカンド”
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/04/06 00:30
 「――――――――はっ!?」

 彼女――ギンガ・ナカジマが目覚めた時、目の前には灰色の無機質な天井が広がっていた。背中と頭の後部に柔らかい感触……自分の居る場所がベッドの上だと分かるのに、それほど時間は掛からなかった。

 ≪気が付いたか?≫

 右隣で聞き覚えのある声……。頭の中に直接響くこれは念話だ、自分の最も親しい者が、最も心を許した者にしか掛けないはずの念話だ。首を回して見ると、顔面の右半分を包帯で覆った見覚えのある顔があった。どうやら、自分が目を覚ますまでずっと傍に居てくれたようだった。

 「……ここは……どこ?」

 自分で質問しておいて、ギンガは自分でも馬鹿馬鹿しいと感じていた。この部屋一帯に漂う、鼻を突く独特な刺激臭……薬品のモノだ、それもかなりキツめの。どうやらここは病院か、どこかの施設の医務室らしかった。

 「……犯人は……どうなって……!」

 ≪落ち着け、腹部に火傷を負っている。下手に動けば傷が深くなる≫

 「…………ここはどこ?」

 さっきの質問とは意味が違い、この建物の所在地を聞いていた。

 ≪北方ベルカ自治領騎士団の宿舎だ。落下してきたお前とウェンディを、ここまで運んだ。ルシエとモンディアルも別の部屋で安静にしている≫

 「そう……ありがとう……。でも、犯人は……」

 ≪今は報告を受けた担当地区の哨戒騎士達が向かっている。心配はいらない≫

 上体を起こそうとしたギンガを優しく制し、カインは布団を掛け直す。普段はデバイスを通してでしか話をしない彼が、親しいとは言えこうして会話している……彼自身も心のどこかで動揺を隠そうと必死だったのかも知れなかった。

 ≪ノーヴェとディエチは待機してくれている。お前も直に医療センターに搬送されるだろうが、傷自体は浅い。命に別状が無いのはもちろん、傷痕も後遺症も残らないだろう≫

 「……………………」

 ≪どうした? 急に黙り込んだりして……≫

 「私って……ダメね」

 ≪……お前が自分の何を卑下しているのかは知らないが、俺が思うにお前は良くやった。追跡していた犯人がそのまま逃走することなど頻繁にある。誰も責めはしない≫

 普段は決して聞く事の無い伴侶の慰めの言葉……無駄口を挟まない彼の言葉が染入るようだったが、ギンガはそれを素直に受け入れることが出来なかった。

 悔しかった。職務を全う出来なかったこともそうだが、愛しい妹を傷付けた犯人を捕えられず、あろうことか返り討ちにあった。これ程にまでに無様なことがあるだろうか!? 自分から首を突っ込んで挙句の果てに自らを貶める……まさしく敵の言っていた通りだった。そして、仇討ちが出来なかったのと、敵の言った通りになっていることが、彼女にとって悔しさ以外の何物でもなかったのだ。

 「本当に……ダメだよ、私って……!」

 柔らかい掛け布団を上げて顔を隠すギンガ。親しい間柄とは言っても、やはり自分の無様に泣いている所は見られたくはない。心までズタズタにされた彼女の最後の意地でもあった。

 ≪……俺はお前を責めない。何故なら、俺はお前が優しい心を持っていることを知っているからだ。例えお前が失敗だと言っても、その行動はお前の優しさから来たモノだからだ≫

 カインはゆっくりと手を伸ばし、布団の上から彼女の頭に手を置いた。五指の先端以外は完全に包帯で包囲された痛々しくも温かいその右手で、彼はそっとギンガの頭を撫でる。何も言わない、彼は信じているからだ。彼女が自分で立ち直れると。かつて自分にそうしてくれていたように……。



 それからしばらく、二人以外は誰も居ない部屋で静かな嗚咽の声が聞こえていた。










 午前10時4分、ギンガが撃墜された地点からおよそ南東へ3㎞の森林にて――。

 「ベルカ聖堂騎士団…………それなりの、実力者と、聞いていたが、案外弱かったな」

 ありとあらゆる小動物がそこから距離を置き、樹上の鳥達に至っては完全に姿を消していた。何故か? 危険を察知したからだ。動物は賢い、自分の身に余る危機を感じればすぐに退散し、身を隠す。この場合がまさにそれだった、彼を中心とする半径数十メートルは重苦しく異常な殺気に満ち、鼻を突く生臭い異臭が森林の清浄な空気を汚していた。

 悪臭の原因……それは彼の足元に四散しているモノの所為だった。苔の密生した地面に転がる八つの丸い物体……いや、良く目を凝らして見れば、形が微妙に違っているモノも混じっていた。原形を保っているものもあれば、半分ほどザクロのように破裂して中身を撒き散らしているものもあり、中には綺麗に半月形に切断されているものまで……。

 緑の地面に転がるそれら……無残に“壊され”て、もはやただの『物体』と化し、切断面からだらしなく赤い命の液体を垂れ流し続けているそれ……。

 そう、人間の頭部である。つい数分前までは確実に生きていたそれらも、今では見事に自分の胴体と泣き別れており、双眸は完全に精気を失っていた。それが全部で八個……計八人がここで命を奪われたことになる。他ならぬこのトレーゼ本人の手によって。

 『Mode of “Strada”, release.(形態『ストラーダ』を解除します)』

 彼の手に握られている得物。身の丈と同じ位の長さを誇るそれは色彩こそ違えど、彼がほんの一時間前に対峙したエリオの専用デバイス『ストラーダ』に酷似していた。長さから形状に至るまでの全てが瓜二つ。唯一の相違点を挙げるならば、それはやはり切っ先から反対側の先端に至るまでのカラーリングが漆を塗ったかのような黒と言うことぐらいだった。

 「一撃突貫型デバイス、ストラーダ……なるほど、ベルカ式魔法を、修得したばかりの、この肉体には、実に馴染む武装だ」

 彼がストラーダ――の形状をしたデウス・エクス・マキナを軽く振る。刃に着いていた血液が遠心力によって周囲に四散し、苔の表面に更なる血痕を残した。近接特化のエキスパートであるベルカ自治領騎士団の八人小隊……それがまさか、接触してからものの5分と掛からずに全員惨殺されたなど、一体誰が信じられようか!? より確実に、より無駄無く、より迅速に。首と胴体を切断すると言う最も有効的且つ確実に相手が死に至る方法を、彼は戦闘のプロに対してやってのけたのだ。邪魔をすれば殺す……ただそれだけの実にシンプルな理由で行動を起こし、あまつさえ実行する彼のその行動力は、ある意味では賞賛に値するものではあった。

 「これが、『F.A.T.E』の副産物……魔力変換資質の、力か」

 古代の戦士のようにしてストラーダを天に突き上げると、彼はその先端に向かって自身の魔力を集中させた。次の瞬間、刃の先端から紅の電流が一気に空中に放たれる。凶暴な電圧を秘めたエネルギーの奔流は周囲の木々を焼き焦がし、モズの速贄のようにして枝に突き刺さっていた騎士団の胴体を一瞬で炭化させた。あとには骨の髄まで消し炭となった哀れな“人間だったモノ”と、元の自分の胴体から完全に離脱して絶命してしまった生首だけだった。しかし、その唯一の人間だと分かっていた部分も、胴体を焼き払った電撃が跡形も無く蒸発させてしまった。

 電撃を放出し終わった彼の漆黒のストラーダは一瞬の後に待機状態の立方体へと姿を変え、トレーゼはそれを仕舞い込んだ。証拠はある程度隠滅出来た、あとはどうとでもなるだろう。

 「……マキナ、これからの、予定は?」

 『The final maintenance of the “Gajet Drone Type-Ⅴ prototype”.(ガジェットドローン試作Ⅴ型の最終調整がある)』

 「了解。一度、海上ラボへ、移動する」

 ストレージデバイスの下した命令に従い、彼は両の手を合掌すると、全身に魔力を練り上げ始めた。足元に、修得したばかりの真紅のベルカ式魔法陣が展開される。一定の速度で回転するその陣の中心に膨大な魔力が集束する……これは転移魔法だ、それもかなりの距離を一瞬で移動する為のもの。かつてルーテシアが行使していた魔法を想像してもらえば分かり易いだろう。

 「……目標座標、固定完了。最終誤差、±0.62……」

 集束していた魔力が足元の一点から解放され、彼の全身を包む。その瞬間、彼の周囲が紅く輝いて――、










 ほんの数瞬後には彼の姿は殺風景なラボの中心に移っていた。足元の三角魔法陣は消失し、彼は魔力の放出を停止した。

 「……………………」

 彼は壁際へと足を運んだ。歩きながら彼はフードを外し、背中のシルバーケープを脱ぎ払うとそれをデスクの上に無造作に乗せる。更に両腕のナックルの留め具を外すと、それらも一緒に収納ボックスの中に仕舞い込む。もちろん、両脚の武装も忘れずに入れた。次に体に密着していた防護ジャケットの中に空気が入り、それを脱ぐ。脱いだジャケットを壁際から出て来た収納スペースに仕舞い、代わりに取り出したのが純白の服。医者が着るような白衣ではなく、街の人間達が普通に着用しているものを真っ白にしたような少々デザイン性に欠ける服だった。

 「……………………」

 備え付けの鏡台で最低限の身嗜みを確認するトレーゼ。別にデザイン性が無くても良いのだ、衣服は着る為にあり、装飾要素など皆無だったところでどうと言う問題は彼にとっては無いのだ。ただ着ることが出来ればそれで事足りる。

 「マキナ、ガジェットⅤ型、全機こちらへ」

 『Roger.』

 マキナは主人の命令通りにプログラムにアクセスすると、彼の目当ての物を地下に通じる部分から迫り出してきた。とても巨大な物体……否、機械だ。全部で四台、トレーゼの身長を大きく上回る大きさだが、それが何に使われるのかについては全く見当がつかなかった。ただ一つ言えるのは、とてもそれが慈善目的で使用されるモノではないと言うことぐらいだった。ゴツゴツとした四本の脚部は見るだけで寒気がするような無機質的恐怖を植え付けるフォルムをしており、上部にある人間の頭のような部分に存在する単眼カメラはまるで捕食者の眼球そのものを現しているかのようだった。

 だがこの物体は“起動”してはいない。四台とも文字通り電池が切れた玩具のようにして大人しく鎮座しており、その周囲をドライバーなどの原始的な器具を持ったトレーゼが几帳面に点検をしていた。

 「操作系、駆動系、その他電子機器系統、異常なし」

 案外粗雑な造りなのか、工学技術の発展しているこのミッドにおいて、フレームなどの装甲が全て大型のネジとナットなどでビス留めされている上に、溶接までされていると言うのは少々前世代的な印象があった。恐らく、あり合わせの機材などを利用してトレーゼが独力で造り上げたのだろう。単独で造った所為か全体のフォルムとしては物足りなさを感じるが、製作者である彼からしてみれば必要最低限の“装備”を持つこれは最早完成品と言っても良かった。

 やがて一通り検査を終えたのか、彼はまたマキナに命じてそれらを地下に封印した。今はまだ使用する時ではない……だがいずれ使う時が来る、その時まで一時的に保管しておくだけのことだ。元々これらは、このラボに自分の主人が残した設計図を利用して造っただけに過ぎない……性能は折り紙付きだ、何も心配はしらないだろう

 「さて……次の、予定は――」

 マキナと自分が所有している固有武装の点検、新しく手に入れた能力の臨界記録に、毎日欠かさず行っている基礎訓練……やる事は結構山積みだった。一日が24時間だけでは正直言って足りない、計画の第一段階の期限はそこまで近付いて来ているのだ。

 だがここで――、

 思いもよらない事態が発生した。

 「――ッ!!」

 思わず足を止めてしまうトレーゼ。バネが切れた人形の如くその場で棒立ちになる……金色の眼球は全開になっており、少しばかり眉をひそめているようにも見えた。

 「…………はぁ」

 やがて、彼は心底面倒そうに溜息をつくと、デスクの前の椅子に身を預けた。彼は本当にその“現象”が煩わしかった。しかしこればかりは流石の彼言えどもどうしようもなかった。この次元世界広し言えども、この“現象”を止められる者など居るはずもなかった。

 それは――、

 「やっかいだな……空腹と言う、モノは」

 どんな作業よりも、今は腹ごしらえをするのが先決だったようだ。










 『罪を憎んで人を憎まず』、と言う格言のようなものがある。分かり易く言えば、人の犯した罪を罰するのは道理に適っているが、その罪を犯した人間そのものを人が直接罰するのは傲慢であると言うことだ。犯罪を起こした者が悪いのではない……言うなれば、犯罪を起こさせたその歪んだ心が悪いのだと言い聞かせることで、人は自らの枠内に自身の傲慢さを隠し続けて来たのだ。

 実に含蓄の有る良い言葉だ。実際、法律関係の職に就いている者達はこの信条を自らの行動理念にしている者も少なくはない。人を憎めば、例えそれが正当な理由に基づくものであったとしても憎悪の連鎖が巻き起こり、その負の連鎖は更なる犠牲者を生むだけだからだ。まさに人類が長きに渡る試行錯誤の中で導き出した崇高なる答えなのだろう。そのことには何の異論も批判も無い。

 だが、どんなにもっともらしい言葉を並べて理屈を捏ねても、人の心までは変えられない。その人間が犯した罪の所為で、今度は周囲に居る数多の人間の心が歪められてしまうのだ。例えどんなに他人が諭しても、当事者が折り合いをつけて納得するとは限らないのだ。

 そう……それは、かつての女性科学者が愛娘を失った悲しみによって狂ってしまったように。

 それは、かつての呪われた魔導書によって家族を亡くした大勢の遺族達のように。

 それは……かつて、肉親の死を踏み台にされ、憎き者の姓を与えられた少年のように……。



 彼女は違っていた。










 午前10時36分、クラナガンの医療センターにて――。

 少女、スバル・ナカジマは考える。自分のこれからを……。左腕以外を失ってしまった自分がこれからどうなってしまうのかを。

 「……だらしないな……本当に」

 腰を掛けているのはセンターから貸し出された電動車椅子だ。何をするでもなく、適当にレバーを動かしては個室の中を行ったり来たりしているだけ。そんな彼女の姿はとても哀しく、痛々しいものだった。

 ふと窓の外の光景に目をやる。街は既に活気づき、車両の喧騒や人々の幸せそうな笑い声などが聞こえてくる。冬の寒さを跳ね返さんとするその声も、普段なら気にも留めなかったのだろうが、体が不自由な今となっては何故かとても羨ましいものに見えて仕方がなかった。そして疑問……「どうして自分はあそこに居ないのだろう?」と言う、素朴な疑問だった。だがその疑問の解答は残酷なまでに簡単なものだった。

 「そうだよね……こんなことになっちゃったんだもん…………病院に居ない方がおかしいよね」

 普段の彼女には決して見ることのない自虐的な笑み……。包帯で巻かれた右腕を見つめるスバル。本来あるべきはずのモノが無いと言うのは色々と不便だ、物も掴めないし、地面やベッドに手をつくことすら出来ない。だがそれ以上に、彼女にとって四肢が無いと言うことは他の者には理解出来ない苦しみがあるのだ。

 「…………ん……で……」

 包帯で巻かれたその腕を強く握り締める。痛くはない、これは現実を容認出来ない彼女がその“現実”を覆い隠そうとしただけだ。だが、どんなに頑張っても彼女の手では右腕の包帯は隠せなかった。手が、指が……それらが無い現実がどうしても彼女の目に焼き付いた。

 「なん……で……!」

 うずくまる。視界に映さないことを選んだのだ。

 だが――、

 「ッ!!?」

 足――。

 右腕と同じようにして白い包帯で巻かれた自身の両足。だが……やはりそこにはあるべきモノが無かった。

 「あ……あぁあ……! あぁああああっ!!」

 認めたくない! 認められるはずがない!! こんなはずじゃなかった、なんて安直な諦めの言葉で認めてしまったらいけない!!!

 感情が昂ってしまい、精一杯頭を掻き毟ろうとする。だが今の彼女にはその腕すらも一本しか無いのだ。

 「なんで……! どうして…………!!」

 一度溢れた涙は止まることを知らず、彼女の頬を流れて流れ落ちた。自分の双眸から流れ出るその雫を拭く事も忘れ、彼女は備え付けのベッドの上に上体を叩きつけるようにして倒れ込んだ。

 そして泣く。予想などしているはずもなかった自分の惨状に……。

 そして憤る。こんな惨状に陥ってしまった自分の力量の無さに……。

 だが――、



 彼女の心には決して自分を貶めた者を憎むモノは一点も無かった。



 人を疑う、妬む、欺く、嘲う、憎む…………彼女はこれまでの人生でただの一度も他人に対してそんな感情を抱いたことなど無かった。優しいスバルだからこそ、純粋であれたのだ。

 だが、そんな優しい彼女だからこそ、身に余るその感情を誰かにぶつけることも出来ないで苦しんでいるのもまた事実。かと言って、誰も救いの手など差し伸べられるはずもなかった。下手な慰めなどを求めている訳では決してないからだ。

 「おかしいよぉ…………こんなの……おかしいって!!」

 静かな病室にスバルの悲痛な叫びがこだまする。だが、そんな彼女の胸の内の響きなど、誰の耳にも届いてはいなかった。










 午前10時40分、地上本部のとある個人事務室にて――。

 『以上が報告内容です』

 「……………………」

 『あ、あの……!』

 空間が無駄に重苦しい沈黙に包まれているのは誰の所為か? 他でもない、この部屋の主にして管理局での権限の大部分を握っている若い提督、クロノ・ハラオウンの所為だった。すこぶる機嫌が斜めなのか、報告を入れてきたディエチが幾ら喋ってもウンともスンとも言わなかったのだ。かと言って怒鳴り散らすでもなし、睨みつけるでもなし、彼は静かに目を閉じているだけで何もしてはいないのだが、そこはやはり幾つもの修羅場を乗り越えただけのことはあり、無言の圧力が無垢なディエチを完全に委縮させてしまっていた。

 「…………ディエチ・ナカジマ」

 『はい……!』

 報告を入れてから既に五分が経過……。ここで初めてクロノの声を聞いたディエチは、そのあまりの重圧さに思わず声が裏返りそうになった。やはり勘違いではなかった、彼は今途轍もなく怒っている。それなりに気難しい性格だとは耳にしてはいたが、同時にあまり気が短いと言う訳でもないと聞いていた分、どうしてもその怒気が手に取るように分かってしまう。ディエチ本人としてはさっさと通信を切断して逃げ出したい気分だった。

 「……何か僕に言う事は無いか?」

 『あ、いえ、その……』

 「例えば……本来当てられた任務とは別の行動を取ったことについて、とか」

 『それは、その……!』

 「例えば、その勝手な行動の末にあろうことか怪我をしてしまった事とか」

 『うぅ……』

 「組織において命令無視はかなりの厳罰に処されると言うことは、優秀な君なら知っているな?」

 『…………』

 もう何も言えない。ディエチの目は半分涙目になってしまっていた。本来報告を入れるはずのカインは現在療養中のギンガに付き添っており、ここには居ない。ウェンディも今はベッドで休んでいるし、かと言ってノーヴェは敵にまんまと逃げられた所為ですっかり興奮しており、文字通り話にならない。以上の紆余曲折を経て彼女がクロノに報告を入れることとなったのだが、彼女は早くもその行動に出た事を後悔していた。こんなことなら、大人しくカインが戻って来るのを待っていれば良かったと身に染みて痛感していた。

 「……まぁいい、身内が襲われた心情が理解出来ない訳でもない。今回の無断行動の件も考えようによっては情状酌量の余地もある」

 『は、はい』

 「処分については後々伝える。御苦労だった、下がっても良い」

 『失礼します』

 立体映像越しにディエチが敬礼したのを最後に通信が切れ、室内は沈黙に包まれた。後にクロノの前に残ったのは、まだサインを振っていない未整理の書類の山と報告にあった廃棄都市区画の上空写真……そして――、

 「待たせて悪かった……ランスター執務官」

 デスク越し彼が視線を向けた人物……備え付けのソファの代わりに車椅子に座った人物は静かにクロノが用を済ませるのを待っていたようであり、彼に声を掛けられたことで一歩前に進み出た。

 「犯人……捕縛出来なかったようですね」

 「そのようだ。敵はこちらが思っていた以上の実力を隠し持っていたようだな」

 「ハラオウン提督、やっぱりここは総力戦に打って出た方が――」

 「それは出来ない注文だ」

 ティアナの必死の提案をいとも簡単に切り捨てる。その目には強い否定の意思が宿っていた。

 だが――、

 「どうしてです!? これ以上被害が拡大する前に行動を起こさないと、また犠牲が出るだけです!」

 「ランスター執務官、物事には何でも順序と言うモノがある……。その優先順位を見誤れば勝ち取れるモノも勝ち取れない……」

 「……提督は……目の前で友人を傷付けられたことが無いから、そんな悠長に言っていられるんです……」

 「……………………」

 俯いたティアナの纏う空気が変わったのを肌で感じたのか、クロノが押し黙った。決して彼女の気迫に臆した訳ではないが、ここは彼女に言わせてやろうと考えたのだろう、彼女の口から吐き出される言葉の一言一句に静かに耳を傾けていた。

 「貴方はいつもそうです……。貴方だけじゃない、私達がどんなに頑張っていても上の人達は認めることなんてしないでコキ使って……!! 私達の仲間が傷付いたって、『それはそいつの力量が足りなかったからだ』の一点張り……」

 「……………………」

 「これじゃあ……命を懸けている私達がバカみたいじゃないですか!!」

 ティアナは泣いていた。車椅子に座っていなかったなら今頃クロノに掴みかかっていたのではないかと思えるような気迫を吐き出しながら、彼女の双眸からは透明な涙が滂沱の如く溢れ出ていたのだ。無意識ながらに自分の悔しさを……仲間を傷付けられた痛みを全力で相手に理解してもらおうとしていたのかも知れない。彼女はそれだけ必死だったのだ、それは何の嘘偽りも存在しない真に純粋な心そのものだ。眼前のクロノがどうしてそれを否定出来よう。

 「提督は弱冠十五歳の時から局内では優秀な魔導師だと窺いました……。優秀だったから貴方はパートナーなんてものに頼ることなく、独力で執務官になり、提督の地位を手に入れた…………。パートナーが居なかった貴方に……私の気持ちなんて理解出来るはずがないです!」 

 「…………確かに、僕は君や高町教導官のように公私共に親密なパートナーなんてものを持った事が無い。強いて挙げるとするならば妻のエイミィぐらいなものだろうが、彼女はどちらかと言えば『部下』としての認識の方が強かった……。その意味では僕は間違い無く『パートナーを傷付けられる辛さ』と言うモノについては全くの無知だろうな」

 「……………………」

 「だが、大切な……かけがえの無い誰かを失う辛さと言うモノは身に染みて分かっているつもりだ」

 「っ!! 何ですかそれは! さっき仰ってたことと矛盾しているじゃないですか!!」

 馬鹿にされたとでも思ったのか、ティアナは目の前の人物が自分よりも遥かに地位が上な上司であることも忘れて怒鳴り散らした。本来なら何かしらの上下関係トラブルに繋がるのかも知れなかったが、クロノはそこまで器の小さい男ではなかったし、当の本人はその言葉に眉一つひそめることなく静かに聞き入っていた。その姿はある意味では達観していたとも言えよう、まるで聖者が衆人の懺悔を静かに聞き届けるかのようだった。

 やがて彼は場の空気を変えたかったのか肘掛け椅子から立つと、冬の陽光を燦々と取り入れている背後の窓へと向き直り、たった一言――、



 「僕は幼い頃に父を亡くした」



 ――と短い言葉を背後のティアナに投げ掛けた。

 わざわざ目で見なくてもティアナが驚愕に息を呑むのが分かる。対してクロノの方は逆にさっぱりとした表情だった。とても身内の死を語っているとは思えない程に……。

 「任務の途中で事故にあったんだ。それなりに重要な任務だったが、内容そのものは簡単だった。第一級指定のロストロギアを迅速且つ安全に運ぶと言う、とても重要で簡単な仕事……。でも、事故にあってしまったんだ」

 「……闇の書……ですか?」

 「…………あぁ。父が居なくなったのは、残されたたった二人の家族にとってはとても耐え難い苦痛だった。母さんも父を愛していたし、僕自身も幼いなりに懐いていた分のショックは大きかった。今思えば、入局してからずっと仕事一筋で通してきて提督の座に就いたのも、心の何処かしらで父の背中を追っていたのかも知れないな……」

 「……………………」

 「ランスター執務官、僕は君に怒ることをやめろとは言わない。悲しむなとも、敵を憎むなとも、蚊帳の外に居ろとも、無関心でいるなとも言わない…………ただ……ただ今は黙って耐えていて欲しいんだ」

 クロノがティアナに向き直る。その瞳はどこまでも純粋な願いの光を宿していた。人間模様の荒波に揉まれたとは到底思えない純粋で綺麗な瞳だった。ただただ純粋に願いを乞う……そんな瞳。

 「……………………」

 しばらくティアナは俯いたままだった。彼の言葉を上手く受け入れられないのか、それともその言葉を身勝手なモノと捉えての憤りに震えているのか……どちらにしても、今彼女が押し黙ったままなのだけは確かだった。正義感が強く意固地な彼女のことだ、クロノ自身もすぐに受け入れてもらえるなどとは思ってはいないし、それには時間を要するだろうと言うことも充分理解していた。そして――、

 「それでも……私は賛同出来ません」

 その予想は案の定的中した。予想通りの応答にクロノは別に落ち込む訳でも怒る訳でもなく、ただ単に苦笑していた。歳の離れた自分の弟妹が小さな物事に失敗するのを見てしまった時に見せる「どうしようもないな」と言うような、柔らかい苦笑だった。

 「何が可笑しいんですか?」

 「いや別に……。昔フェイトが執務官の試験に二浪した時の事を思い出しただけだ」

 「意味が分かりません。…………これ以上話していても不毛ですから、失礼します。外でヴァイス陸曹を待たせたままなので……」

 あえて言葉尻だけは丁寧に一礼すると、彼女は車椅子をターンさせて退室する為にドアを目指した。クロノにとって小さなその背中はまるで大きな一枚岩のように堅固な意思が宿っているように見えた。

 「一つだけ良いか?」

 「何ですか?」

 ドアを開ける寸前で呼び止められ、彼女の車輪を漕ぐ腕が止まる。

 「これからどうするつもりなんだ?」

 「…………私は私なりのやり方で犯人の検挙に尽力するつもりです……と言ったなら?」

 「止めはしないし、かと言って協力も応援もしない。傍観……見て見ぬ振りをするぐらいさ。ただ……」

 「ただ……?」

 「無茶だけはしてくれるな」

 「無茶ですか……? 大丈夫です、私だってなのはさんの弟子です。引き際ぐらい知っていますし、自分の身を守れるだけの実力もあるつもりです。それに――」

 彼女はそこで言葉を区切ると、車輪に伸ばしていた腕を肘掛けに戻し、上半身の力をそこに集中させた。当然のようにして体は座席を離れ、彼女は完全に回復に成功した自分の二本の両足でしっかりと大地を踏み締めていた。オレンジの髪が重力に揺れ、少しだけ振り向いた彼女の顔がデスクのクロノの視界に入った。

 「私がこうして立ち上がったのも無茶な行為に見えましたか?」

 「いや、全然」

 その言葉を聞いて満足したのか、ティアナは車椅子を綺麗に折り畳むと再びクロノに向かって軽やかに敬礼し、ドアを開いて退室して行った。

 一人残されたクロノは先程までのやり取りが無かったかのように書類作業に戻り始めていた。紙面内容に目を通して確認し、サインを振る……やがてそんな単調な作業が何十回と続いた時、彼の口から静かにこんな言葉が漏れ出ていた。

 「根回しが大変だな」










 「あの……すみません」

 医療センター一階の受付待合広場で一人の看護婦がベンチに腰掛けていた若者に声を掛ける。ここに入って日が浅いのか、その声は少し腰が引けてしまっているように思えた。だが相手が良かったのか、特に喰って掛られるようなこともなく「何ですか?」の言葉を聞いた時に微かに表情を緩めた。

 「院内では飲食は原則禁止されていますので……」

 彼女の指差すのは若者が右手に持つ簡素なパッケージに包まれた小さな箱……街中でも普通に売られている小型の携帯食品だった。なるほど、待合の場所で勝手にこの様な行為をしていては注意されるのは当然と言えよう。若者はすぐに食べ掛けのそれを仕舞い込み、短く「失礼した」とだけ言い残した。

 「今度から気をつけてくださいね」

 意外と素直に対応してくれて内心ほっとしていたのか、その看護婦は診察板を片手に自分の受け持ちの患者の定期診察に向かおうとした。

 が――、

 「少し、良いか?」

 「は、はい。何でしょうか?」

 背後からその若者に呼び止められ、看護婦は思わず身を強張らせた。別に彼の声がその筋の人間すら裸足で逃げ出す程の語気だったのではない。むしろその逆、その声があまりにも抑揚が無くて冷え切ったものだから驚いたのだ。肉体の奥底に存在する心の臓腑を丸ごと凍らせるような、静かではっきりとした死神の処刑鎌ような冷たさに……。

 「ここに、スバル・ナカジマが、入院している、はずだが?」

 「え? ナカジマさんですか? 確かにナカジマさんはB病棟に入院中ですけど……。管理局の方ですか?」

 過去に数えるくらいだったが、怪我や病を負って入院していた無防備な管理局員を襲撃して殺害した事件が幾つかあった。法の番人と言う立場上やはり他人に恨みを買ってしまうことも多々ある訳で、絶対的な隙を窺っては命を付け狙う輩が後を絶たないと言う訳だった。当然センターの方でも警戒を怠ることはなく、勤務している者の自己判断で怪しいと感じた者は即刻マークすると言う警戒体制は敷いていた。

 若者の方は疑われていることをそれとなく感じたのか、白一色の服の胸ポケットから一枚のカードを取り出すと、それを黙って看護婦に渡して見せた。それはその者が管理局に務めていることを証明する局員証だった。ちゃんと小さな顔写真が張られているのが見える。

 ちなみに、今まで寝首を掻きに来た犯人達に同胞の管理局員は一度も居なかった。それもあってか、看護婦はすっかり安心してしまったようで、にこやかな笑顔を向けると――、

 「スバル・ナカジマさんでしたら、B棟の――」










 同時刻、北方ベルカ自治領騎士団の寄宿舎にて――。

 「……………………」

 「…………ノ、ノーヴェ、あのさ――」

 「黙ってろ」

 「……うぅ」

 簡素なベッドに腰掛けている自分の妹に声を掛けたディエチだったが、ノーヴェのあまりの殺気立った言葉に気押されてしまい、大人しく口を閉じてしまった。今の彼女は言うなればまさに猛獣、猛り狂った獣そのものだった。無断で自らの領域に足を踏み込む者が居ようものならば全力で排除する……そうしかねない程の気迫があったのだ。

 もちろん、彼女がこれだけ怒っているのにはちゃんとした理由があった。それは、彼女の隣のベッドの上でずっと眠ったままの少女のことだった。

 「だ、大丈夫だよ。ウェンディだって、ちゃんと受け身取ってたから傷なんかそんなに無いし……」

 「黙ってろって言ってんだよ!」

 どうやら彼女の怒りはディエチが想像していた以上のものだったようだ。ベッドに眠る妹へと目をやるノーヴェ。普段は後頭部に留めた髪も今ではそのまま解放されており、静かな寝息を立てていた。一応ディエチの言ったように、肉体には何の支障も無い。ボードから落下して地面に激突する際にしっかり受け身は取ったらしく、大した外傷も骨折も無くただ単に気絶しているだけだった。

 だが、ノーヴェが怒っているのはそのことではなかった。

 ウェンディのことも心配なのは当然だ。仮にも自分の妹だ、心配でないはずがない。だが彼女の胸中を埋め尽くすのはそれらとは別の感情……スバルだけでは飽き足らず、ギンガとウェンディまで追い詰められたことによる一種の『悔しさ』にも似たモノだった。目の前に……手の届くはずの場所に憎き怨敵が居たにも関わらずそれを遂に仕留めることが出来なかった。そのことがどれ程悔しく腹立たしいことか理解に苦しくはない。しかし、彼女の抱えるその悔しさがどれ程に本人にとって深刻であるかについては誰にも理解出来はしなかったことだろう。

 「ちくしょう……。ちくしょう!!」

 許さない。

 否! 許せるはずもない。彼女の意地が、矜持が、心が――敵を許すなかれと呻いて止まなかった。

 阿修羅をも凌駕する怒りとは言い得て妙だが、まさに今の彼女こそがその阿修羅そのものだった。

 敵を許すな。

 敵を逃すな。

 敵を必ず――



 コ ロ シ テ ヤ ル










 午前10時47分、トレーゼは人気の全く無い廊下を一定の歩幅で歩く。真冬の雪をそのまま身に纏ったかのような白一色の服を着こなし、右手にはさっき待合場で看護婦に注意されていた携帯食料を握っていた。道を歩きながらスティック型のそれを口に入れる姿は街中で見掛ける若者のスタイルだが、全身から醸し出す雰囲気は大きく逸脱していた。周囲に人が居ない所為なのかも知れなかったが、トレーゼの全身からは着ている服の色彩とは全く正反対の波長をダイレクトに伝播させていた。少なくとも、街のチンピラが目を合わせれば裸足で進行方向180°逆に走り去るレベルだ。

 やがて最後の一本を完食した彼は包装紙を右手で丸めると、一瞬だけ魔力を集中、高圧電流で灰にして見せた。ちなみに、彼が食べていたものは市販品ではない。ラボに大量保管されていた保存食であり、かつてスカリエッティがカロリー消費の激しい戦闘機人の活力として自作していたものだった。一本で数時間は他の栄養分を摂取しなくても良いように計算されており、それが一つの箱に全部で六本詰められている。

 ここに来るまでに彼が看護婦に見せた局員証……かつて海上更正施設でセッテに見せた物と同じではるが、あれは偽物である。写真こそ自分のものを使ってはいるが、所属と階級はもちろんのこと、氏名欄の『トレーゼ・S・ドライツェン』の名字部分だけは偽名だった。別に趣向を凝らせる必要は無い。要は自分を局員だと思わせることが出来ればそれで良かったのだ。

 「………………ここか」

 待合場から七分、彼の足はとある一室の手前で停止した。ドアのサイズで部屋の大きさが分かる、これは個室だ。ドアの脇に掛けられたネームプレートには端正な形で『SUBARU・NAKAJIMA』と書かれてあるのが分かる。もちろん、彼はここに用があってやって来たのだ。正確には『ここに居る人間』に用があるのだが。

 「タイプゼロ・セカンド……俺の予想が正しければ、奴もまた……」

 ドアの前で佇むトレーゼの脳内に浮かぶ一つの仮説……。それはこれから接触するであろう人物に対してのものだった。

 彼の言うタイプゼロ・セカンド……即ちスバル・ナカジマは戦闘機人である。今は亡き陸士部隊のエースであったクイント・ナカジマの遺伝子を基礎にして生み出された人造生命素体……そこから更に何者かがDr.スカリエッティのナンバーズ製造理論を勝手に応用して戦闘機人に仕立て上げて完成したのが彼女だ。本来ならば12人の姉妹と同等の性能を有していてもおかしくはないのだが、後発組ナンバーズよりも先に製造された所為もあってか完成度は低く、耐久力・速度・機動性・攻撃性能……どれを取ってもナンバーズのそれには劣るものばかりだった。トレーゼが彼女をどうするのかは分からない。だが自ら四肢を切り取った上に自分達よりも性能が低い者を勢力図に取り込んだところで、一見して何も得が無いように見える。



 そう、得など無い。



 だが彼にとっては性能差などは二の次であり、今現在重要な事項はとにかく『自分の陣営に引き込むこと』なのだ。後の事はそれからどうとでもなる。その為に自分のISがあるのだ、もし……彼女の存在を成す根幹部分にナンバーズとしての因子が含まれているならば、恐らくは自分の“能力”を真に受けるはずだ。むしろそうでなくては困る、そうでなくてはならないのだ。そして、もしそれが成功すれば――、

 いや、今は余計な事はどうでも良い。今はただ目標と接触しておけばそれで良いのだ。

 ドアをノック。意外に几帳面な行動は彼のイメージに合わないのかも知れないが、誰の目も全く無いこの空間では別にどうと言うことはない。言うなれば形式的な行動に過ぎなかった。



 コンコン――。



 乾いた軽い音が廊下と室内に響く。個室自体の面積はそんなに広くないはずだ、すぐに応じるだろう。いざ面と向かった時のことも既に考えてある。機動小隊N2Rのノーヴェと知り合いだと言えば気を許すはずだ、人間誰でも自分の身内と顔見知りだと言われれば少なからず警戒心が揺らぐものなのだ。そこから後は心理戦である。如何にして相手の気の緩みを誘うかが問題に……

 「……………………」

 …………

 ……

 遅い。出てこないにしても返事まで無いとはどういうことだろうか?もう一度ノックしてみるが、それでもやはり返事は無い。寝ているのか?

 「……失礼する」

 先に一言断りを入れた後、トレーゼは何の臆面も無くドアを開けると中へ進入した。まず彼の視界に入って来たのは窓からの景色だった。芝生が生い茂った中庭の様子が一望出来る三階のこの部屋には遠くから街の喧騒も聞こえており、立地条件としてままずますと言ったところだった。

 次に見えたのはテレビ。24時間稼働する訳ではなく、消灯時間を過ぎれば電源が入らないシステムになっているものだった。もちろん、安物だ。

 そして、そのテレビから一メートル程離れた場所にある……



 空のベッド。



 なるほど、どうりで返事も何も無いはずだった。

 「…………探すか」










 午前10時50分、医療センター中庭にて――。

 「……………………」

 芝生の中に敷かれた石畳の道を進む一台の電動車椅子があった。乗っている少女――スバルは左手のレバーを操作しながら、まるで行くアテの無い浮浪者のようにゆっくりとした足取りで中庭を徘徊していた。これがもう既にかれこれ五分以上は続いている。

 「私……何やってるんだろ?」

 半ば朦朧としたような感じで彼女の口からそんな言葉が漏れ出た。別に誰かに聞いてもらいたかった訳ではない、自然と出て来てしまったのだ。

 彼女の膝元には大きな毛布が掛けられていた。一応寒さを凌ぐ為と言うのもあったのだろうが、今のスバルにとってはそれよりも重要な意味があった。足だ。あるべきものを無くしてしまった足を外側から見られないようにと、わざと大きな毛布を膝に掛けることで隠しているのだ。当然のようにして右手もその毛布の中へ隠していた。

 「…………ギン姉も左腕無くなった時って……こんな気持ちだったのかな?」

 今は完全に治ってはいるが、姉のギンガもかつては無残にその左腕を切り落とされたことがあった。あの時は自分の身内を傷付けられた所為で頭に血が昇り、一種の激昂状態に陥っていた。目に映る全てが自分の敵に思えていた……自分の大切な人間を傷付けた奴らが許せなかった……もう殺してしまっても良いとさえ感じていた…………なのに――、

 どうしてだろう? 自分の今の惨状を見ても別に怒りや憎しみと言ったような負の感情が全く湧き上がって来なかった。むしろ、逆に得も言われぬ虚しさだけが心の中を微風となって吹いているだけだった。悲しみが少しあるだけで、それすらも病室で号泣した後には綺麗さっぱり無くなってしまっていた。ただただ……何かが心から抜け落ちてしまったように虚しかっただけだった。

 ひょっとしたら、自分はどこかが異常なんじゃないのかとも考えられた。自分のことなのにここまで無関心なのは正直どうかとも思えるのは事実だ。そして、今の彼女はそこまで頭が回る訳などなかった。

 「……自分のことなのに……可笑しいね。ティアに言ってたら怒られたかな……」

 今頃、局の仕事に追われているであろう友人の姿を想像しながら、スバルは車椅子の進行を一旦止めた。空を見上げる。特に意味は無く、単に気分だっただけだ。何となく空を見上げたい……そう思っただけだ。

 「…………イクス……私の夢ってここまでなのかな? 私……ちゃんと……沢山の人達を助けられたのかな?」

 11月の寒空は一点の雲も存在しない実に晴々としたものだった。スバルは誰かに答えてもらいたかったのかも知れなかった。自分の心に燻るこの空虚なモノをそうすれば良いのかを。だが、彼女の疑問に答えようとする者はどこにも居なかった。

 「…………検診って何時からだっけ……?」

 中庭の中央に位置する時計台を確認しながらスバルは自分の病室に帰ろうと、レバーを操作して車椅子をUターンさせた。毛布が落ちてしまわないように手の無い右腕で押さえながら彼女は慣れない手付きで車輪を操作して石畳の上を急ぐ。思っていたよりも電動車椅子と言うのは動きが鈍重なものらしく、レバーの操作はもちろんのこと、アクセルからブレーキと言った一連の動作までが自分の行動よりも数瞬遅れるので、彼女としては難しいことこの上なかった。ここへ来てからでも、何回石畳の上から車輪が落ちそうになったことか……。



 そして、恐れていたことが起きたのはその直後だった。



 彼女は知らなかった。 

 病棟への入口をくぐろうとした時、死角となっていた足元の更に下にたった数センチ以下の段差が存在していたと言う事実に。

 「あっ――!?」

 軽い衝撃が下半身を突き上げた直後、彼女は自分の体が大きく右横へと傾くのを感じた。そして瞬間的に悟る。もうこの傾きは重力の補正ではどうしようもない……倒れてしまう、と。

 今自分の身に起こっている現実の全てがスローモーションとなって彼女の網膜に焼きつく。既に車椅子の傾きはおよそ30°以上、顔面と地面の距離もそんなに後は無い。このままではダイレクトに地面に激突するのは必至だと言うのは容易に想像がついた。

 だが彼女もそんなに鈍くさい訳ではない。訓練時代に築きあげた反射神経をフルに活用し、スバルは受け身を取ろうとして地面に手を伸ばし――、



 しかし、そこで彼女の動きが一瞬だけ停止してしまった。



 そして気付いてしまったのだった。その事実に気付いたスバルは普段は絶対に見せないであろう自虐的な笑みを口元に浮かべながら、静かに、それでいて悲しげに呟いた。

 「腕が無いのにどうやって手をつくんだろうね……私ったら」










 同時刻、第9無人世界『グリューエン』の軌道拘置所、その面会室にて――。

 「――――と、私が話せるのはここまでだ」

 強化ガラスを挟んで二分された空間に二人の影。もうフェイトが入室してからどれ程の時間が過ぎたであろうか、スカリエッティが話し始めた時には“9”の所にあったはずの時計の短針が、既に“10”の数字をとっくに通り過ぎていた。その間フェイトはずっと熱心に必要な情報をメモしていたらしく、自前の手帳が既に数ページは消費されていた。

 「大まかな部分は把握出来ました。あとはこちらで聴取した情報を元に引き続き捜査を続行します。協力に感謝します」

 「なに、お安い御用さ。久し振りに他人に講釈を垂れるなぁ……17年振りか」

 話していた一時間の間ずっと席を離れていなかったのか、スカリエッティは椅子が小さいと言わんばかりに大きく背伸びをした。体中の骨が鈍い音を立てているようだったが、この際それは気にしない方向で行こうと思う。

 「さてさて、フェイト嬢。もう私から搾り取る情報など無いはずだ。君ほどの優秀な執務官がいつまでも局を離れていては事務に滞りが発生するだろうから、早々にここを退散することを推奨するよ」

 先程までとは一転し、稀代の天才科学者は目の前のフェイトをまるで室内に迷い込んだ一匹の蠅か羽虫か何かのようにして手で払う仕種をする。面倒臭くなったと言うのもあるらしいが、どうやら本当にこの件に関しては話す事が無くなったらしく、彼は早くも看守と共に自分の独房に戻ろうとしていた。

 「待ってください。まだ聞きたいことがあります」

 さっさと退室しようとしているスカリエッティを急いで呼び止めるフェイト。

 「何だね? 君もしつこい人間だな。まぁ、私が何か話し忘れているようなことがあったのなら応じようではないか」

 呼び止められた彼は大人しくパイプ椅子に戻ると、再びガラスを挟んでフェイトと向き合った。双眸からはとっくに狂気の輝きが失われており、彼の興味が既に失したことを暗に表していた。

 「確かに……この二枚の写真に写っているモノについては貴方から教えてもらいました……。でも、あともう一つ……」

 フェイトが指し示すモノ……それは始めに渡した二枚とは別の写真、現在確認されている最後のナンバーズこと、通称『13番目』の顔写真だった。ここに来てから一時間以上が経過しようとしていたが、結局スカリエッティが写真の彼について話す事は一度も無かったのだった。まるで意図してその話題を避けているかのように……。そして、その事に気付かない程に鈍感なフェイトでもなかった。

 「話してもらいますよ」

 彼自身、どんな意思があってその事に触れなかったのかは知らない。だがここまで来たからにはどうしても喋ってもらわなければならない。それが今のフェイトの責務なのだから。



 しかし――、



 「断固辞退する」

 「なっ――!?」

 断られた。それもただ単に断られてしまった訳では無かった。今までだったら単に自分勝手などうしようもない矜持に拘っての黙秘だったのに対し、今回のそれは断じて違っていた。何か明確な意思、それでいて拒絶とは違う別の何かをフェイトは感じていた。

 「……一応ですが、何故話したくないのか理由を聞いても良いですか?」

 「簡単なことだよ。この事に関しては私よりも彼……“13番目”を良く知る人物が居るからだ。私よりも良く知っているのに、その者に代わって私が話してしまうことが出来る訳が無い」

 「貴方よりも知っている人物? まさか、ハルト・ギルガスのこと!?」

 「ハルトぉ? フゥハハハハハ、君はなかなか面白い冗談を言うね。傑作だよ! よりにもよって私よりも下衆な輩が、仮にもこの私の生み出した至高の傑作のどこを、何を、どう言う風に知っていると言うのだね!?」

 気の利いたジョークに大受けするイタリア人のように腹を抱えて椅子から転げ落ちんばかりに大笑いするスカリエッティ。そのある意味ではおぞましいことこの上ない姿に、フェイトは本能的に思わず身震いしてしまった。どれ程彼の反応が狂気染みていたか想像に難くはないだろう。

 「ハハハァ……。違う違う、開発者である私よりも、一時的な預かり人であるハルトよりも、どの次元世界の誰よりも…………彼のことを知り尽くしている者が居るのだよ」

 「その人は今どこに!?」

 開発者である者が自分よりも遥かに詳しいと豪語した……興味が湧かない訳ではない。それに、もし本当にそうだとすればその人間に聞いた方がより確実であることに間違いは無い。フェイトとしても、何とかして情報を掴みたくて必死な勢いだった。

 だが――、

 「残念だが、それ以上の事は言えんな」

 「何故!?」

 「言ったろう? 『その者に代わって話すことは出来ない』と。と言うことは、私が自分の勝手でその者を何の断りも無く君達に紹介することも憚れると言うことだ。勘違いしてくれるな、決して詭弁などではない」

 「では……どうすれば教えてくれるのですか?」

 「管理局の持つ権力の全てを使えば、私に口を割らせることなど容易いだろうに。まぁ、それ以外の方法でと言うのなら、残念だが出直して来たまえ」

 妙に勝ち誇ったような表情のスカリエッティは今度こそ本当に自分の役目は終わったと言いたげに椅子から立ち、背後のドアから付き添いの看守と共に退室してしまった。後に残されたフェイトはと言うと、彼の出て行ったドアを穴が開くほどに睨みつけながら悔しさに歯軋りしていた。その心情は後一歩のところで獲物を仕留め損ねた猟犬と言った方が分かり易い。

 「ハラオウン執務官、そろそろ……」

 ずっと自分の背後で控えてくれていた拘置所の所長が大柄な体を屈ませて静かに耳打ちしてくれた。確かに、これ以上の長居は無意味だ。また日を改めてから説得に来るより仕方が無さそうだった。もっとも、これ以上の接触を続けたところで彼が多くを語るとは到底思えなかったが……。

 「お見送りしましょう」

 「ありがとうございます。――――? 失礼」

 素早く懐に手をいれた彼女はそこから小型のポケットフォン――地球で言うところの携帯電話に相当する物を取り出した。即座にその小さな画面を確認すると、アドレスは義兄からのものだった。正直驚いた、仕事一筋の彼が正規の連絡網と通さずに直接自分に連絡を入れて来るなどとは思っていなかった。だが、それは逆に言えば直接伝えなければならない程に重要で、尚且つ早急に実行に移してもらわなければならなかったからと言う考えも出来た。

 「はい、こちらフェイト・T・ハラオウン執務官。…………はい……はい、了解しました。すぐに実行に移します」

 義兄からの連絡を受けた彼女はすぐさまポケットフォンを仕舞い込み、隣の所長にこう言った。

 「お手数ですが、もう一度スカリエッティを呼び戻してください」










 午前10時56分、医療センター中庭――。



 「どうしよう……立てないや」

 石畳の冷たさを全身で感じながらスバルは地面に力無く横たわっていた。そのすぐ後ろには同じようにして電動車椅子が転がっており、彼女が衝撃で座席から放り出されたことを物語っていた。なんとか立ち上がろうと左手を地面に着けて踏ん張るのだが、如何せん片手では体重を支え切れない上に足そのものが無い所為でいつまでも地面をのたうち回っているだけだった。やがて体力が無くなったのか、彼女は遂に立ち上がることを止めて、大人しく誰かが通りかかるのを待つ事にした。

 だが、

 「うぅ、誰も来てくれない……」

 悲しいかな、彼女の願いとは裏腹に中庭を通ろうとする者は誰も居なかった。いくら昼間とは言え、誰も好き好んで冬の外に出ようとはしないのが一因だった。

 「…………寒いなぁ。風邪引きそうだよ」

 寒風にダイレクトに吹き晒され、スバルは寒さに身を縮めた。転げ落ちた時に一緒にはみ出た毛布を手繰り寄せ、それを上から被った。ほんの少しでも寒さを凌ごうとしてだったが、足を覆い隠すには充分でも、体を全部覆うには足りなかったようで、結局彼女が寒さに震えることに変わりはなかった。

 せめて、両脚さえ無事だったなら、今頃こんなことには……。



 両足――? 無い――?



 「……っ!!」

 その時、スバルの胸中を通り過ぎた一陣の鋭い感覚。全身を瞬時に駆け巡った“それ”は彼女の精神を蹂躙し、肉体に寒さとは全く異なる震えをもたらした。

 それは『恐怖』。感情の揺らぎが彼女に与えた圧倒的な恐怖だった。

 「いや……駄目だよ、こんなの…………こんなおかしいの誰かに……見せられる訳がないよ!」

 それは四肢を欠き、望まずして他人とは違う姿になってしまったことによる劣等感が原因か。それとも、自分の夢を無残にも断たれてしまったことの虚無感の所為なのか。とにかく今のスバルは自分の姿を他人に見られてしまうことに尋常ならざる恐怖感を覚えていた。幼子のように怯えきってしまい、震える体を更に縮めて毛布の中に隠れようと必死になっていた。

 「ダメ……ダメ、ダメ! 来ないで! 誰もこっちに来ないで!」

 自分でも何を口走っているのか分からなかったに違い無い。もはや彼女の怯え様は常軌を逸していた。彼女の中では、立つ立てないの事などもうどうでも良くなっていたのだ。ただ単に、この姿が誰の目にも入らなければそれで良い……この自分であって自分のモノではないこの姿を誰にも見られたくないだけなのだ。

 「ダメ……! ダメだよぅ……来ないで……!!」

 藁にもすがる思いで必死に祈り続けるスバル。



 だがしかし、天は彼女を見離した。



 一定のリズムを刻んで響くその音は明らかに人の足音。しかも何と不幸なことか、その足音の主はゆっくりと、しかし確実にスバルの近くへと接近して来ているのだった。

 「あぁあ……!」

 恐ろしい! 嫌だ! ここから逃げ出したい!!

 両目は完全に見開かれ、スバルの心はもう限界点に達しようとしていた。心臓の鼓動が有り得ないくらいに早鐘を打ち、それに伴って脈拍も急上昇、冬の寒波なのに汗が止め処無く溢れ出る。アドレナリンが大量分泌されて吐き気まで催してきた、その時――、

 足音がスバルの前で停止した。

 「!!?」

 夏に比べて低い日射角度がスバルの顔に長い影を落とさせた。隠れるようにして頭に被った毛布の隙間から、微かに見えるその者の両足の白い靴……サイズからして恐らく体躯は自分と同じ位だと言うのが分かったが、今の彼女は自分の惨めな姿を見られまいとするのに必死で、そんな事はすぐに頭の隅に追いやってしまった。

 「……ッ!」

 左手で毛布を掴み、怯えきった目に涙を浮かべながら、彼女は目の前の人物が自分の前から居なくなるのを祈っていた。もう、立ち上がれなくても良いとさえ感じていたのだ。

 だがしかし、天の御座におわすでろう神はまたもや彼女の願いを聞き届けてはくれなかった。

 毛布に自分とは別の手が掛けられるのが分かった。ゆっくりと重力とは別の方向に毛布が引かれて行く……スバルの左手は緊張のあまりにそれを拒むことすら忘れてしまい、カッと目を見開いたまま微動だに出来ずに毛布を剥がされてしまった。

 「ぅあ……!」

 せめて右腕だけはと、彼女は包帯に巻かれた自身の右腕を左手で隠そうとした。もっとも、そんなことをしたところで何の意味も無くなっていたのだが。

 我ながらみっともない姿だと、彼女は後で思い返すハメになったのはまた後日談。ふと自然に顔を上げてしまった彼女の視界に映ったモノ……それは、まるで雪でも纏ったかのような純白の服。徐々に視線を上げていくと、突然目の前の人物――彼がしゃがみ込んで視線を合わせてくれ、少々驚きを禁じ得なかった。

 「あぁ……………………綺麗」

 自分でも信じられなかった。心は恐怖で委縮していたはずなのに、まさかそんな言葉が口から出てくるなんて思っていなかったのだ。

 それでも綺麗だったのだ。彼のガラス玉のように濁りが無く、どこまでも透き通った金色の眼が。

 白磁の肌に紫苑の短髪……そして金色の双眸――。



 「スバル・ナカジマ、だな?」



 トレーゼとスバル……後に互いの矜持と意地、そして命をも懸けて拳の死闘を繰り広げる二人の戦闘機人の最初の顔合わせが、まさかこんな出会い方だったなどと一体誰が想像出来ただろうか。










 午前11時、『グリューエン』軌道拘置所にて――。

 「やれやれ、こうも連続で君の顔面を眺めるハメになるとはな……。それで、今度は一体何なのだね? 質問の如何によっては私は今後一切君との面会を拒否するよ?」

 パイプ椅子に腰掛けるスカリエッティの表情はその言葉に相違無く不機嫌なものだった。椅子に座りながら胡坐をかいて退屈極まりなさそうに欠伸をして、さっさと終われと言わんばかりにフェイトを蛇の目で睨みつける……これは相当立腹のようだった。

 だがそんなことなどお構いなしにフェイトは切り出す。

 「貴方は、自分の口を割らせたいのなら管理局の権力の全てを集中させるべきだと」

 「如何にも。もっとも、お優しい執務官殿にそんな強行策が取れる訳が――」



 「取れますよ?」



 その瞬間、ガラスの向こうのスカリエッティの表情が一瞬だけ凍りついたように見えた。いや、実際に凍りついていた。しかし、その一瞬の表情の停止は驚きによるものと言うよりかは、「こいつは何を言っているんだ?」と言う感じの方が強かった。要するに、彼はフェイトの言ったことが真に理解出来ていなかったようだった。

 「……一応確認の為に聞いておくが、それはどう言う意味かね?」

 「言葉そのままの意味です。所長、お願いします」

 「はい。スカリエッティ、こっちへ……」

 「おいおい、何をするつもりだね? ちょ、ちょっと、おい!」

 いきなり手錠を掛けられて看守二人掛かりで面会室から引き摺るように連れ出されるスカリエッティ。程なくして彼はガラスを挟んだ反対側の空間、即ちフェイトの待つ部屋へと引っ立てられて来た。間近で見て分かったが、全体的にかなり痩せてしまっており、服がダボダボだった。後で局の担当部署に食事に関する改正検討を提出しておこう。

 「一体何がしたいんだ? いい加減に私も怒るよ、君」

 そりゃそうだろう、何も聞かされずに呼び戻されたと思ったら、今度は手錠を掛けられて役人の前に引っ張られて来たのだ。これはどんなに心が広い者でも立腹するのは必至だろう。もっとも、中年の男性が頬を膨らませると言う古典的漫画のような怒り方をするのもどうかと思うが……。

 「説明も無しに引き立てた無礼は詫びます。Dr.スカリエッティ、貴方に至急取り次ぎたい人間が居ますので、説明はその人から……」

 「ほうほう、その言い方からすると、君よりも立場が上の人間のようだな。実に興味深い、誰なのだね?」

 質問に対してフェイトは行動で応えた。ポケットに手を差し込んで取り出したのは、さっきのポケットフォンとは別の機械、正方形の面に小さなレンズのようなものが設置されている小さな装置だった。

 「……………………」

 側面のスイッチを押す。装置の内部に仕込まれた精密機器が一斉に動き出し、レンズ部分から特殊加工された光を放出させた。始めは目に痛い鮮やかな原色光線が出ていただけだったが、やがてそれらは織り合わさり、フェイトの手の上、スカリエッティの目線に立体映像を投射させた。

 始めに見えたのは顔だった。誰かの顔……輪郭からして恐らく男性、年齢は30代近く、髪は漆を塗ったかのような黒……スカリエッティはその顔に見覚えがあった。ナンバーズを率いていた時に機動六課に関する資料に目を通した時に見た覚えがあり、拘置所に入れられてからは実際に面会に訪れたことも偶にあったのも覚えていた。

 『久し振りだな、ジェイル・スカリエッティ』

 「やぁ、提督殿。お変わりないようで安心したよ。仕事は順調かい?」

 若き天才、クロノ・ハラオウン提督がそこに居た。










 「…………あの……」

 「何だ?」

 「ありがとね、えぇ~っと……トレーゼだっけ?」

 「…………」

 医療センターB棟の廊下を行く二つの影。一つは電動車椅子に乗った蒼い髪の少女、もう一つはその後ろからゆっくりと車椅子を押す白い少年のもの。病院の中ならばどこにでもありがちな光景だったが、そこには幾つかの相違と言うか、違和感のようなモノが存在してはいた。

 まず、スバルの様子がどこか余所余所しいものがあった。これは彼女にとって背後のトレーゼが初対面の人間だったからだと言うのが大きな原因だっただろう。そして、彼女自身あまり人見知りをする性格ではなかったのだが、あれだけ自分の怯えきった姿を見られたのは流石に恥ずかしかったと言うのもあったのかも知れない。一応礼を言うだけの気力は残ってはいたので良かった。彼女は礼儀正しい姉に育てられた分、助けられればどうしても礼を言わずには居られない性分なのだ。

 彼にとって好都合だったのは、彼女が自分に警戒心を抱いていないことだった。始めこそ初対面だった所為で無意識に接触を避けるような仕草はしたが、少なくとも敵として接されている訳ではない以上、心理的に距離を詰めることは充分に可能だ。その意味ではトレーゼの計画も今のところ順調と言えよう。

 「あ! ここです、この病室です」

 「うむ……」

 ちなみに、トレーゼはここへ来るまでにスバルに自分の事を幾つか話しておいた。もちろん、それらには自分の正体を隠す為の嘘も織り混ざってはいたが、ノーヴェ及びにその他のナカジマ家の人間と知り合いであると言った部分だけは本当だった。当然のことながら、『知り合い』であると同時に現在進行形で敵対関係にあることは伏せておいた。幸運なことに、彼女は地下搬入通路にてトレーゼと接触していることを知らない……偶然にもあの時に顔を隠しておいたのが功を奏したと言う訳だ。

 病室に入る。予定通りに目の前のスバルにはノーヴェの伝で彼女の事を知って見舞いに訪れたと言ってある。彼女が疑いを知らない人間だったのも幸運の一つだった。疑いを知らない人間……人をすぐに信用し、信頼してしまう人間ほどに騙し易いモノは無い。

 「うわぁ~! 美味しそうな果物。誰からだろう?」

 備え付けの卓の上には沢山の赤い林檎を乗せた籠――いわゆる特大サイズの籠盛りが置かれてあった。始めにトレーゼがここへ来た時には見受けられなかった……彼が去った直後にスバルの同僚か誰かが置いていったのだろう。置手紙が残してあるので確認して見ると、『湾岸警備隊一同より――』と書かれてあるのが分かった。

 「そう言えば、トレーゼ……だっけ? ノーヴェといつ知り合ったの?」

 左手で林檎を握り取り、生来の気さくさを取り戻したスバルが陽気に話し掛けて来た。相変わらず右手と両足は毛布の下に隠したままだったが、それでなんとか精神を保っていられると言うのなら無理に指摘する必要も無いだろう。

 「ほんの、偶然だ。元々所属も、違うし、接点も無かった」

 半分嘘だ。偶然なのはそうだとしても、管理局に籍を置いていない以上は所属も何もあったものではない。真っ赤な嘘だった。

 だが――、

 「へぇ、そうなんだ。ノーヴェが家族以外の人と一緒に居るところなんて想像したことないよ」

 彼女は――スバルは信じた。偽装して造った局員証を見せるまでもなく、彼女はトレーゼの言うことを全て丸ごと信じたのだ。もしトレーゼに人並みの感情が存在していたのだとしたら、今頃湧き上がる笑みを堪え切れなかったに違い無い。自分の計画の何もかもが面白い程に順調に進んで行く……これのどこが笑わずに居られようか。

 しかし、彼にはおよそ感情と言えるようなモノなど何一つとして備わってはいなかった。だからこそ彼は自分の思ったことを顔に出さずに……いや、むしろ何も考えてなどいなかったのかも知れない。トレーゼにとってこれは“行動”ではなく“作業”、即ちわざわざ頭で考えるまでも無いと言うことだ。頭で考える必要が無い以上、彼の心に感情が芽生えることも到底なかった。

 これで良い、それで良い! このまま心理的にスバルの距離を縮めれば――。 

 「ねぇトレーゼ」

 「……何だ?」

 「皮切って!」

 「……………………ん?」

 「林檎の皮を切っててば。ほら……私、今腕無いし……」

 「…………あぁ、分かった」

 身内の話からいきなり食の話題に飛んでしまって調子が外れてしまった。事前の情報でカロリー消費の関係で食事量が異常に多く食欲旺盛だとは知ってはいたが、まさか仮にも初対面の客人の前でも平気で喰うとは思っていなかった。仕方が無い、怪しまれる恐れがあるので、ここは素直に言う通りにしておくことにしよう。トレーゼはスバルから林檎を渡されるとそれを右手に持った。

 「ホラホラ、ここにナイフあるよ……」

 「切ったぞ」

 「早っ!!? えっ、何で? ナイフ無いよね!?」

 トレーゼから綺麗に六等分に縦切りされた林檎を手渡され、スバルは思わず車椅子から転げ落ちそうになった。確かに果物ナイフはあるのだが、それを手渡す前に彼は林檎を切り終えていた。

 「手品!? 凄いね、今度私にも教えてよ!」

 ちなみに種明かしをすると、これは手品でも何でもない。トレーゼが持つ13のIS……その三番目の『ライドインパルス』を今ここで発動させただけに過ぎない。あのISは発動させた時に発する余剰なエネルギーを手首と足首から放出させることにより、それを武装及び推進力として利用する能力だ。そして彼の場合、本来手首に発生するであろうエネルギー翼を五指にカッターのように集中させ、それをマイクロ秒単位の間だけ発生させていただけだ。常人はもちろんのこと、戦闘機人の動体視力を以てしてもまず捉えることは不可能である。そして相手はスバル……普通なら怪しむところも勝手に誤解してくれた。実に好都合だ。

 「いただきま~す!」

 皮も剥かずに種まで刳り抜かずに出された林檎をお構い無しに口へと放り込むスバル。その姿はどことなく食料を口に入れることに夢中な小動物を連想させ、一切の疑念も勘繰りもトレーゼには向けられてはいなかった。

 (…………No.9……タイプゼロ・ファースト……そして、セカンド。全く同じ遺伝子を、基盤として造ったにも、関わらず、ここまでの違いが、出るとは……)

 彼が感心するのも無理は無い。心を許した者以外は絶対に自分の領域に寄せ付けない一匹狼のノーヴェ、全てにおいて品行方正を体現して社交性に富んだギンガ、他人を警戒することもさせることもなく接触して短期間で親しくなるスバル……とても同じクイントの遺伝子から生み出されたクローン体だとは思えない。DNA螺旋構造の中にはたった零点数パーセントだけだが本人の性格などを決定付ける部分があるらしいが……どうやら間違いかも知れなかった。後でラボに保管されてあるドクターの論文に加筆修正しておこう……トレーゼは密かにそう考えた。

 その時――、

 「あっ……! あ~……痛ぃ」

 「どうかしたか?」

 手に持った林檎を半分食べたところでスバルに突然異変が訪れた。いきなり顔をしかめたかと思うと、口元を押さえて声にならない小さな悲鳴を上げていた。流石に咀嚼した分を吐き出すまではいかなかったが、口内に残っていたものを無理に飲み込んだ所為で少しだけ咽込む羽目になった。

 トレーゼの脳が瞬時に起こり得る可能性の幾つかを提示していた。後々戦局に影響を及ぼしかねない存在だ、場合によってはこちらが即時対応しなければならない事態も考えられる。

 毒か――?

 金属片などの異物――?

 それとも本人が自覚していなかっただけで、食物性アレルギー体質だったのか――?

 「さっき転んだ時に口の中切ってた」










 午前11時3分、軌道拘置所――。

 「今日は本当に客人が多いな。次元震でも起きるんじゃないかい?」

 『もしそうだとしたら、僕は地球に置いて来た家族にしばらく会えないことになるな。勘弁してくれ』

 フェイトが事前に持ち込んであった小型投影機によって空中に映し出されるクロノのリアルタイム映像。相対するは次元世界きっての天才科学者ジェイル・スカリエッティ。本人たちにとっては別に意識している訳ではなさそうなのだが、何故だろう、そこの空気だけが異様に重く感じられて仕方が無い。

 『改めて…………時空管理局本局次元航行部隊“クラウディア”艦長、クロノ・ハラオウンだ』

 「君達が言うところの“悪の組織の筆頭”こと、ジェイル・スカリエッティだ。……さて、一応挨拶も済んだことだし、そろそろ本題をお聞かせになってくれないかね? まさかこんな落ちぶれた科学者のツラを拝む為だけに、御多忙の中で通信を繋いだ訳ではあるまい」

 妙に嫌味掛った口調で馴れ馴れしく話し掛けるスカリエッティ。通常のお偉方が相手ならここで頭に血が昇って話しにならないのだろうが、そこはやはり一部では『氷結提督』とも呼ばれているだけのことはあり、冷静且つ柔軟に流して見せた。

 『その多忙極まりない仕事の一部がたった今完了したところだ。もっとも、現在僕が抱えている仕事の大半は君の生み出してくれた“13番目”の所為でもあるんだがな』

 「ほほぅ、彼の有名な若き敏腕提督殿の手を煩わせるとは、開発者としては鼻高々だよ」

 『頼むから茶化さないでくれ。貴方にとってはたった一人の戦闘機人でも、こちらがどれだけの損害を被ったことか……。直属ではないとは言え、僕のかつての部下達は傷付き、旧友は本部襲撃の濡れ衣を着せられて謹慎までさせられた…………本当なら、“坊主憎ければ袈裟まで”と言うことで、貴方とも口すら聞きたくなかったのだが……』

 「のっぴきならない事情で仕方なしに……と言う訳か。君も大変だなぁ、私の様に自由奔放としていたならそんな厄介事を押し付けられずに済むのと言うのに」

 『…………本題に入って良いか?』

 いい加減に付き合い切れなくなったのか、映像の向こう側でクロノが大きく溜息をついた。ただでさえ短い持ち時間を割いて通信を繋いでいるのに、これ以上無駄話をしていては文字通り時間の無駄になってしまう。そうなる前に伝達事項だけをさっさと口頭で伝えなければならない。

 『今回の件で管理局にて確認されたスカリエッティ製戦闘機人……通称“13番目”は、局の保管庫にて厳重管理されていた押収物品を強奪後に逃走。確保しようとして接触した局員二名に攻撃を加え、内一名を実質再起不能にまで追いやった』

 「再起不能……と言うからには死にはしなかったのだな。大したものだ、彼が本気で仕留めるつもりだったなら生きてはおれんかっただろう」

 『その後、地上本部は廃棄都市区画にて謎のエネルギー反応を感知。調査を兼ねて先遣として出撃させたヴォルケンリッターが現場上空にて“13番目”と接触、交戦。途中でフェイトが介入したことで戦局に変化が現れたように思えたが、後一歩のところで逃走されてしまった』

 「そんなものだろうな」

 『そして更に二時間前、私用で首都まで足を運んでいた局員二名が所属部隊への帰還の為に乗り込んでいたリニアの中で襲撃を受けた。原因は不明……寸でのところで局員が介入したものの、今度はその局員が返り討ちにあってしまった……』

 「ふむ……意外と行動が早いな。正直感心したよ」

 クロノが挙げていく事項を素早く整理していくスカリエッティ。与えられた情報は一つとして無駄にせずに活用しようとするのは研究者の癖であり、それは三年間ずっと染み付いたままのようだった。

 『相手の出方も目的も分からず、上層部は混乱してしまっている。このままでは管理局はたった一人の外敵に対処出来ないままに終わる可能性が非常に高い』

 「人類の歴史上、素性が全く分からない者ほどに恐ろしいモノは無いからなぁ」

 『だが対抗策はある!』

 先程までの言葉とは打って変わって力強いその台詞に、思わずスカリエッティは「ほぅ……」と感嘆の声を上げた。

 『確認しよう。ジェイル・スカリエッティ、“13番目”は貴方が生み出した最後のナンバーズであることに相違は無いか?』

 「いかにも。彼……No.13『トレーゼ』はこの私の英知の限りを尽くして造り出したナンバーズだ」

 言質は取れた。クロノの口元に微かな笑みが浮かぶのを背後のフェイトは見逃さなかった。

 『知っているか、スカリエッティ? 管理局法において、あるモノが周囲に対して大なり小なり危害を加えた場合、その責任はモノの持ち主及び保護責任者が負うことになっている…………つまり――』

 「おいおい、これ以上私に刑罰を重ねようと言うのかい? 冗談じゃない」

 クロノの言わんとしていることがだいたい察しがついたのか、スカリエッティは心底嫌そうな顔で手を振った。「こんな食事が異常に不味い所でいつまでも居られるか」と言っており、フェイトは絶対に食事生活に関する改善をさせよう、と固く決心した。

 だが、クロノの言葉は彼の予想の斜め45°上を遥かに通り過ぎていた。

 『“13番目”が貴方によって生み出されたと言う事実がある以上、主である貴方を奪還しようとして必ず行動に移すはず! それが我々が現時点で推測出来る彼の“目的”です』

 「だろうな。彼にはこの私を絶対的上位者として認識するように刷り込んである……。遅かれ早かれ、最終的には私を取り戻そうとしてくることはまず間違い無いだろう」

 『そうか、それを聞いて安心した。これでようやく……この数日間の僕の苦労も報われると言うものだ』

 立体映像越しにクロノとフェイトの視線が一瞬だけ交差し、互いにそっと笑みを浮かべた。作戦通りと言いたげなその表情に、すっかり傍観者となってしまったスカリエッティは心底不思議そうに首を傾げるなかりだった。

 一体どんな事項を言い渡されるのか……。スカリエッティはそれだけが気掛かりで、同時に好奇心をそそられていた。 

 『ジェイル・スカリエッティ。たった今……現時刻をもって、あなたの身柄を時空管理局地上本部に強制移送させることを決定した。異論は認めない』

 少なくとも、ここの不味い食事とはしばらく縁を切れそうだと言うことは分かった。










 「あ~、血が出てる……いたぁい」

 自分の口に指を突っ込んで、付着した血液を見て涙目になるスバル。それを傍で見ていたトレーゼは自分の切った林檎を手に取ると、少しだけ齧ってみる。なるほど、果物に含まれるビタミン独特の酸味が少し強い種類らしい。軽い口内炎でも痛覚を刺激するには充分だと言うことは良く分かった。

 「…………」

 ここで彼は考える。彼女に対する行動を……。

 戦闘機人は体の免疫が常人とは少々異なる。傷口から病原菌が侵入しただけで組織が壊死することもあり、場合によっては内部の機械骨格ですら使い物にならなくなってしまう恐れがあるのだ。左腕以外の四肢を削ぎ落した相手とは言え、いつかはこちらの戦力図に加えなければならない存在……。手足の傷口は既に処置が施されているから良いとしても、口内から菌が侵入することを考えれば、ここで対処しておくのが妥当と言えるだろうことは容易に察しがついた。何事も用心に越したことはない。

 皮肉なものだ……自らの手で直接手足を奪った相手の面倒を見なくてはならないとは……。せめてこうなることが分かっていたなら、四肢を切り落とすこともなかったのかも知れないが、流石に自分もそこまで万能ではない……戦闘機人は魔導師にはなれても超能力者にはなれないのだから。

 トレーゼの右手がゆっくりと伸ばされ、スバルの頬に触れた。

 「冷たっ!?」

 自分では自覚してはいなかったが、トレーゼの手は冬の気温に晒された所為でかなり冷たくなっていた。それで手袋も付けずに急に触られたものだからたまったものではない。スバルはあと少しで食べ掛けの林檎を落とすところだった。

 「な、何するの?」

 「黙っていろ」

 スバルが大人しく口を閉じた瞬間、彼女は右頬に人肌とは違う温度を感じた。この体の内部から直接温められるこの温度は覚えがある……細胞を直に活性化させる治癒魔法のものだ。

 「わぁ……!」

 それもただの治癒魔法ではない。本来、このような軽い傷に対しては表面部分の傷口が閉じるまでしか治癒を掛けず、そこから内部は本人の自然治癒力に任せると言うのが主流なのだが、トレーゼはそうはしなかった。細胞を無理矢理に活性化させることで通常の数倍の治癒力を発揮させるこの魔法は、持続して使用すれば当然の如く細胞に負担を与え、場合によっては早期での老化を招き細胞死を起こさせる諸刃の魔法……。だがそれは長時間に渡って使用した場合のみでの話であり、トレーゼの場合は二分にも満たない極短時間で集中的に治療することで細胞に負担を掛けることなく口内の傷を修復、手を当ててから僅か数十秒でスバルの傷を完全に消す事に成功させた。

 「……これで、どうだ?」

 粘膜から内部で切れかかっていた神経まで治した。これで痛みは感じないはずだった。

 「ぅわ~。……あ、美味しい!」

 何も言わずにスバルは食べ掛けだった林檎を口に入れた。それを十回以上咀嚼して良く味わった後、嚥下。先程の痛みが相当のものだったのか、もうその痛覚が無いと分かった時、彼女の表情はそれまで以上に明るく溌剌としたものとなって輝いた。

 「すごぉい! 痛くないよ、血も出て無い! ありがとうね、トレーゼ」

 余りにも嬉しかったのかは知らないが、スバルはトレーゼの手を握ると大きく上下に振りまわした。とても熱い手だった。いや、ただ単に自分の手が冷たいだけか、何とも馬鹿馬鹿しい。

 「……………………」

 すっかり冷え切った脳でトレーゼは静かに思考していた。自分の眼前にて嬉しそうに笑顔で林檎を頬張る少女について……。接触してからまだ30分も経っていないと言うのに、彼女はこちらに対して既に警戒心を抱いてはいなかった。常識で考えればおかしな話だ、今日……それも今さっき出会ったばかりの見ず知らずの相手に対してここまで気を許してしまうと言うことは到底有り得ないことだからだ。これも彼女が生まれながらにして持ち得る天性のものなのか……そんな風にも考えもしたが、そんなことは実のところどうでも良かった。

 トレーゼは不思議だった。かつて、彼の主は教えてくれた……人と人、ひいてはこの世に存在するありとあらゆる生物は自分とは別の存在を真に理解することは出来ないと、一番最初に教えてくれたのだ。確かにそうだと実感出来る。理解出来ないから、分かり合えないからこそ人はぶつかり合って傷を付け合うことしか出来ないのだ。だからこそ主は――Dr.スカリエッティは社会から、世界から隔絶されて排除されたのだ。誰も彼の事を理解しようとしなかったから……。

 だが――、

 何故だろう――、

 目の前の彼女は違っていた。

 始めに接触した時こそ少しばかり拒絶の意思は見えたものの、それはすぐになりを潜めてしまった。元から戦闘用として生み出されたセッテはともかく、あのノーヴェですらこちらのことをもう少しは警戒していた。そのことを考えれば、これは最早特異を通り越してまさに“異常”。トレーゼは完全に肩透かしを喰らったかのように思え、ただ手に持ったままの赤い林檎を見つめるだけだった。

 「トレーゼは優しいね。初対面なのに、まるで他人じゃないみたい。ノーヴェが懐くのも分かるなぁ~」

 「別に、懐いては、いない」

 「嘘だよ! そんなことないってば。昔私のお母さんが言ってたもん、『優しい人は誰からでも好かれるから、その人の周りにはどこにでも友達が居るんだよ』って。私もね、局で働いてる執務官に友達がいるの。トレーゼ友達多いでしょ?」

 「……友人、と呼べる者は、居ない。姉……なら、居るが」

 「お姉さん居るの? 私と一緒だね。二歳離れてて、『ギン姉』って呼んでるの。何人居るの?」

 「……三人だ」

 「ふ~ん……。あっ、林檎食べて食べて! どうせ私だけじゃ食べきれないし」

 そう言ってスバルは籠ごと林檎を渡して来た。食べきれないと言うのは彼女が気を利かせたのだろう、本当は自分で全部食べられるのだろうが、親しくなった者に殆どあげずに自分だけで食べてしまうのは流石に気が引けたのだろう。

 特に断る理由も無かったので、トレーゼは素直に籠から一個だけ受け取ると、それを数秒だけ眺めた後に――、

 皮も剥かずに大きく口を開けて齧りとった。

 「豪快だね……。私もマネしてみよっかな」

 ちなみに、果物は皮を剥かずに食した場合、皮部分に豊富に含まれる食物繊維が消化の妨げになり、場合によっては消化不良を引き起こすらしいので止めておいた方が無難である。










 「またえらく急な話だな。正直流石の私も驚きを禁じ得ないよ」

 『それはそうさ。この事実を知っているのは、局員でもフェイトを除けば上層部のお偉方だけだからな。一般局員にはもちろんのこと、民間の情報管理企業などには噂すら届いてはいない』

 「情報操作技術の無駄遣いだな。まぁ良いさ、世の中なるようにしかならん。これもある一種の定めだと思えば幾分気が楽で良い」

 『意外と素直に応じてくれるんだな』

 「どうせ私は人質さ。嫌が応でも君達に従わなくてはいけないことぐらい、重々承知している。それで? 護送されるのはいつなのだね?」

 『早ければ明日か明後日にでも行動に移せる。僕が担当部署に少し我儘を言えば、今日中にでも移送可能だ』

 「結構結構。何事も早いに越したことは無い。……ところで提督殿。確かに私はこの件にかんしては何も干渉も文句も一切しないつもりだ。その方がトラブルが少ない分、そちらとしても願ったり叶ったりだろう」

 『確かにそうだな……』

 「君が私をここから連れ出して地上本部に移すと言うことは、これから君が実行するであろう作戦に私の存在が必要不可欠と言うことに他ならない。違うかね?」

 『図星ですね』

 「つまり、必然的に君達は私が呼びかけに応じなければ困ると言うことだ。以上の要素を踏まえた上で、君に一つの提案があるのだよ」

 『提案? “条件”の間違いじゃないのか?』

 「察しが良くて結構。そう、まさに条件だ。君達が今から私の提示する条件を飲めなかった場合、私も君の言うことは何一つとして聞き入れないのでそのつもりで」

 『そんな対等な立場だと思えるのか?』

 「和議の場において、それぞれの立場の差云々など問題ではないのだよ。重要なのは、その条件を飲むか飲まないか、だ。等価交換とか言うやつだよ」

 『…………』

 「さぁ、どうする? 提督殿」

 『…………条件とは何だ?』

 「なに、簡単さ。たった一つ……そのたった一つの条件さえ通してもらえれば、こちらは何も言わない。むしろこの条件は君にとっても有利に働くはずだ」

 『信用できるのか?』

 「ここで嘘をついても仕方ないだろう。意外と察しが悪いな君は」

 『もういい。それで、条件とは何だ?』

 「私が提示するたった一つの条件……それは――」










 午前11時35分、医療センターのとある病室にて――。



 結局あれからどれ程の間か会話をした。特にこれと言って大したこともない、他愛も無い会話。話しても話さなくても変わり無いに違いないはずの会話……それを続けていた。

 何歳? どこの出身? 

 家族は何人? 局には何年務めているの?

 休暇は何日? オフの時は何をしているのか?

 全部逐一答えた。質問をされれば間髪入れずに返すのをいたく気に入ったのか、スバルのマシンガンクエスチョンは止まることを知らなかった。



 全部嘘なのにだ。



 そもそも管理局に所属していないどころか、真っ向から敵対しているのだ。本当のことなど言えるはずもないし、当然言わなくても良い。関係の無いことだからだ……所詮はただの道具、計画を円滑に遂行させる為の“布石”であり数ある中の“手段”の一つに過ぎないからだ。騙すのだ、ノーヴェにそうしたように……セッテにそうしているように……自分の事を俗に言う『良い人』だと、『優しい人』だと誤認させることで、やっと自分の計画の第一段階は終了する。その為には自分は幾らでも他人を騙すし、時と場合によってはもちろん殺害も辞さないつもりだった。

 なのに――、

 何故だろう――、

 少し喋り過ぎた……トレーゼは自分でも知らぬ間にそう考えてしまっていた。当初の予定ではここまで深入りするつもりなど毛頭無かった。それがどうだ、接触から既に30分以上が経過し、一向に彼女の前から離脱出来る気配がない。いや、ここから出ようと思えば出れたのかも知れなかった。ただ……

 「そろそろ……」

 「もう行っちゃうの? まだ林檎あるよ? 何なら一緒にテレビ見ない!? この時間帯って何か面白いのあったかなぁ~♪」

 こんな感じだった。彼が席を外そうとする度にスバルの方から呼び止められてしまい、彼はいつまで経っても病室から出られなかった。いっそのこと無理を押し切って出ると言う方法もあったのだろうが、それを実行に移してしまえばこちらの苦労も水泡に帰してしまいかねなかった。あくまでこちらは計画成就の為だけに彼女の接触しているに過ぎず、その為にはどうしても彼女との心理的距離を縮めなければならないのだ。そうしなければ自分のIS……『――――』は意味を成さなくなってしまう。それだけは避けねばならない、何としてでも。

 だから今は彼女の機嫌を出来るだけ損ねないように細心の注意を払っている。どうせすぐに自分と会話していることにも飽きるはずだ、それまでの辛抱である。





 それからおよそ30分経った12時3分――。

 「そろそろ、定期健診の時間、じゃないのか?」

 「あ!! そうだった! って、もうこんな時間!? ごめんねトレーゼ、長い間引き留めちゃって……」

 真昼の院内放送が天井のスピーカーから流れた時、スバルはようやく自分が目の前の人物の時間を勝手に費やしてしまっていたことに気が付いた。テレビ番組を見て談笑していた先程までとは打って変わり、大慌てで籠の林檎を片付けるとレバーを操作して病室から出ようとした。

 「……こけるぞ」

 「わぁあ! 脅かさないでよ」

 「どうせなら、途中まで、ついて行っても、良いぞ?」

 「本当? じゃあお願いね!」

 「うむ……」

 トレーゼはスバルの背後に回ると、ここへ来た時と同じようにして彼女の乗る車椅子を押し進めることにした。外の中庭とは違う平坦で綺麗な廊下の上を、体に負担が掛からないようにゆっくりと押す彼の姿は、どこから誰が見てもスバルの付き添いにしか見えなかった。実際、今この間だけはそうだった。

 今のこの瞬間だけは、目の前の少女の言う『優しい人』を演じるつもりだったのだ。

 「トレーゼは本当に優しいよね。ティアだったらこんなに気を利かせてくれないもん」

 幸いにも、彼女はこちらを信用し切っているのが手に取るように分かった。左腕を除く四肢を欠いたことで傷心だった自分の元に都合良く現れた、『自分に優しい人』。これが手を伸ばさずにいられようか? 勢力図に引き込む前に四肢を切り落としてしまったのは確かに計算ミスだったが、そのお陰で彼女との心理的距離を埋める手段が講じれたと言うものだ。プラスマイナスゼロ……何も問題は無い。手足の件についてはこちらに取り込んだ後でどうにでもなる。完全再生は無理だが、その分より高性能な義肢を取り付けることは可能だ。

 「ねぇ……トレーゼ」

 そんなことを考えながら移動を続けていた彼は、目の前の座席に座っているスバルがこちらに話し掛けてきているのに気付いた。もはやここまで来ると、彼にとっては手元の小動物が少し煩く鳴いているようにしか感じなくなっていた。そう言うモノだ、彼は目の前の少女が何を言おうが自分とは関係ない……言いたいように言わせて、勝手に誤解させておけば良い。その方がずっと好都合――、



 「ありがとうね」



 「…………?」

 始め何を言われたのか理解出来なかった。いや、何を言われたのかは分かっている。礼を言われたのだ、何の裏表も無い純粋な感謝の意を唐突に伝えられたのだ。

 情けないことだ、いきなり何を言われたのかが分からず、トレーゼの脳は急停止してしまった。それは“驚愕”……人の精神の根幹を成す感情群の中で最も衝撃が大きく、最も刺激が強いモノ。時に怒りの衝撃すら凌ぐその衝撃はトレーゼの鼓膜を打ち、聴神経を通って脳に到達、彼の全脳細胞に散らばる全てのシナプスを大いに刺激させた。

 ふと、彼の足が止まる。頭は正確に30°下を向き、その金色の双眸はじっとスバルを見つめていた。

 「……どしたの? 具合でも悪い?」

 急に立ち止まってしまったことを不思議に思い、スバルがこちらを見上げるようにして振り向いた。その瞬間、二人の視線が交差した。片や光も宿さぬ金色の眼球、片や年齢特有の輝きを内包した翠の眼球……相容れぬ二組の目がほんの数瞬だけ入り混じったことで、トレーゼはようやく意識を取り戻し……

 「いや……何でも無い。気にするな」

 「そう? ならいいけど」

 再び歩を進め始めるトレーゼ。そんな彼を見ながらすこぶる上機嫌なスバル。トレーゼの無機質さを除けば、誰も二人が初対面などとは思わなかったに違い無い。

 結局、エレベーターに乗り込んでからもスバルは彼に会話を振り続けた。殆ど彼女の方から一方的な言葉の流れだったが、トレーゼが何も言わずに黙って聞き入ってくれているのがよほど嬉しかったのか、彼女はずっと笑顔だった。笑顔で心底嬉しそうに目的の階に着くまで彼に語り掛けていた。










 トレーゼは思考する――、目の前の車椅子に座る少女のことを。

 話していて幾つか分かったことがあった。

 彼女は人間として至極単純だと言うことだ。こちらの喋ったことは全て鵜呑みにし、何の疑いも無しに信じ込んでしまう……はっきり言ってしまえば馬鹿だ、それも折り紙付きの……。

 だが……

 何故だろう……

 人の話は殆ど聞かず、自分ばかり喋っている。会話の途中でも腹が減れば食物に手を付け、勝手に食いながらまた会話……。相手の都合なんかお構い無しに自分のペースに流す彼女……居れば調子が狂ってしまうにも関わらず――、



 不思議と不快感は無かった。



 ノーヴェと接触した時の警戒心も、セッテと手合わせした時の緊張感も――、

 そこには無かった。

 (…………『ありがとう』、か)

 トレーゼは自分の脳裏に焼きついたその単語をずっと反芻していた。かつて、自分が良く姉達に使っていた言葉だった。まさか自分が言われるとは思っていなかった……自分が最後にその言葉を言ったのも、もう17年も昔の話なのだから。

 「…………ウーノ……ドゥーエ…………トーレ」

 網膜に蘇るは、かつて共に過ごした三人の姉の姿。しかし、イメージで浮かぶその姿は17年前のものでしかなく、今の彼にとって三人のことなど何一つ分からなかった。別にそれで良かった……10年以上の時をたった一人で過ごしていれば忘却の彼方へと追いやられてしまうことなど目に見えていたことではないか。

 彼の表情は変わらない。欠落して無に帰した心は何の反応も見せることは無かった。虚空を見つめるその瞳も、今は何も語ろうとはしない。

 ただ、彼の車椅子の取っ手を握る手が少しだけ強く握られているような気がした。

 (計画は、遂行する…………それが、俺の……俺達“ナンバーズ”の、たった一つの、望みだから……)

 エレベーターが開くと同時に、トレーゼは車椅子を押して踏み出す。スバルがこちらに笑いかけている。関係無い、こいつは言うなれば道具……計画遂行の為の“手段”だ。道具は使われる為に存在を許される。用も手段も無くなったその後は……

 考慮しておいた方が良さそうだ。



[17818] T・S事件回顧録
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/04/06 17:44
 新暦85年7月22日、午前11時34分――、時空管理局ミッドチルダ地上本部、第八演習場にて――。



 T・S事件? あぁ、『トレーゼ・スカリエッティ事件』のことか。何故それを聞く? 執務官だと? 見えないな、若過ぎる。なるほど、最近は優秀な人間が増えたと言うことか。

 で、何故その事を俺に聞く? 提督に第四次報告資料の作成を命じられて、か。ならば俺でなくても彼の義妹に聞けば…………ハラオウン執務官が俺を直接推薦した? そうか、彼女は既にこの件から身を引いていたか……。だからとは言え俺に聞かなくても良いのでは?

 …………まぁ良い、たった今訓練も終わったことだ。俺が語れる範囲内でなら協力しよう。ただし、時間は無い。これでも一部隊の隊長だからな、そこいらの窓際局員よりかは予定は詰まれているつもりだ。と言っても私用だがな。

 そうか……あれからもう六年か……。早いものだな、月日が過ぎると言うのは。いつか提督殿が言っていたな……世界はこんなはずじゃなかったことばかりだ、と。まさにその通りだ。明日の事はもちろん、一時間後の事だって誰にも分からない。お前がここへ来ることだって同じように分からなかった。

 だからこそ、人生は面白い。そう思わないか?

 済まない、話が逸れた。歩きながら話して行こうか。

 俺がこれから語るのは新暦78年11月14日……つまり、世間を少し騒がせる羽目になった『“聖王の器”誘拐事件』の四日前の話だ。表向きにはあまり知られてはいないが、彼が誘拐事件を引き起こす為の段取りは、実はこの日に済まされていた。そして、彼の計画もこの誘拐事件を発端にして加速して行くことになった。

 メモの準備は良いか? じゃあ、始めるぞ。










 時を遡り六年前…………。

 新暦78年11月14日、正午十分過ぎ、クラナガン医療センター――。



 「……………………」

 人気の無い廊下で壁を背もたれ代わりにして静かに佇む少年の姿。目蓋を閉じたまま停止しているその姿は眠っているようにも見えなくはなかったが、その周囲から発せられていた無言の気迫は明らかに常人とは掛け離れたオーラを周囲一帯に撒き散らしてした。

 彼のすぐ脇にはドアがある。この院内に幾つかある診察室の一つだ。彼がここに佇んでいるのには訳があり、決して一休みしているのだとか、暇を潰しているのだとかではない。彼は思考していた……これからの行動を。

 今、この薄いドアの向こうではスバルが診察を受けている最中だ。本来ならば短時間で済むのだろうが、そこはやはり戦闘機人、肉体の検査一つ取っても時間が掛かってしまいものだ。肉体面での健康はもちろんのこと、体内の機械骨格などの精密機器に関しては専門の技師や設備によって厳重に検査しなければならず、早く見積もっても後20分は出て来ないだろうことは予測が付いた。

 はっきり言えば、今日はもう彼女に用は無かった。やるべきことは終えたし、何よりも彼女と再度接触する為のきっかけも作ることが出来た。これは結果的に大収穫であることは間違い無かった。

 そして、用が済んでしまった所に長居は無用だった。壁の時計を見上げれば『12:14』の表示……予定ではもっと早くここから立ち去るはずだったのだが、意外と時間を食ってしまった事を彼は今更ながらに後悔していた。

 ここから離れたいのならまさに今が絶好の好機。そう考えた彼は静かに目を開き、周囲を確認……誰も居ないことをしっかりと確かめた後、懐から自前のデバイス、マキナを取り出した。

 「長距離転移……開始」

 『Roger.』

 音も無く展開される真紅の三角魔法陣。既に座標軸は固定してある、後は身を任せて目的の場所目掛けて移動するだけだ。鮮血の紅が白く清廉とした廊下を浸食していく中で、その中心にたった一人で佇むトレーゼの姿……。それはまるで荒ぶる劫火の中から召喚された古代の悪魔の如き禍々しさに満ち溢れていた。粘性を帯びた様な高濃度の魔力は大気を汚し、塵芥を押し退け、周囲の空間を飛び回っていた小さな虫の命を何の抵抗も無く簡単に蹂躙し、その魔手が廊下の先の看護婦の背中に届こうとしたその時――、

 消えた。

 魔力の流れが……殺気が……そして何よりも、トレーゼの姿が廊下から完全に消え去っていた。代わって後に残されたのは、彼が背中を預けていた壁際の残留体温と、その足元に落ちた絶命した羽虫の残骸だけだった。

 彼の姿は――、










 同時刻、首都から距離を置いた場所に存在する魔導師育成機関――St.ヒルデ魔法学院。明るい将来への期待に胸を膨らませる若き学徒達が集うこの学び舎は、何の喧騒も騒動も無く、まさに平和な学院生活を送るには最適な場所だった。聖王教会管理下にあるこの教育施設からは毎年多くの人間が旅立って行く。魔導師となって管理局に入局する者も居れば、聖職者として教会に所属する者も居る。様々な分野で将来が有望な人材を輩出する機関として、管理局と幾つもの接点があった。

 そんな校舎のとある場所……遠くに見える首都の街並みを一望出来るその屋上に一人の影があった。

 「……転移完了。予定より、30分以上の遅れ。計画進行に、変更も、考慮される」

 少年――トレーゼは彼方に広がるクラナガンの街を眺めながら、ストレージデバイスに現状の報告を続けていた。時刻は真昼……午前中最後の授業が終わるまでにまだ20分はある所為か、現在この屋上には彼以外に人間の姿は無かった。殆どのクラスが教室で授業をしており、外に出ているのは校庭の方で二組ぐらいの数のクラスが合同で授業を受けている程度だった。とは言っても、授業が終わって昼休みになればここは昼食を食べに来る生徒達で一杯になる。その前にここへ転移出来たのだけは幸運だったと言えただろう。

 だが、彼にとっては大いに不満だったようだ。正直言って、ここまでの遅延が発生するとは思ってなかった。完全な計算ミス……たかが道具程度にここまでの時間を浪費させられるとは、ある意味では失態だった。次回に接触する時には時間配分と言うモノを考えて行動した方が良いと言うことを考えさせられた。

 グラウンドから少し離れた場所に位置する時計台。眼球部分の赤外線望遠機能を使って見てみると、古風な長針と短針が12時25分を示しているのが見て取れた。あと15分で授業終了のチャイムが鳴るはずだ。そうなれば腹を空かせた生徒達は一斉に食事に取り掛かり、まずその場所を動く事は無い。そしてそれは教師も同じはずだ。

 つまり、昼休みはこの校内に居る人間の大部分が動かないことになる。絶対的な隙がその時間帯に生まれるのだ。

 しかし、問題もあった。食事中は誰も席を立つ事無く談笑に耽っていることになる……それはつまり、その間誰かが移動していたらそれなりに目立ってしまうと言うことになるのだ。少し考え過ぎかも知れないが、想像して欲しい……本来ならば皆揃って食事をしているはずなのに一人だけ、それも見ず知らずの人間が校内を徘徊しているのを誰かが見たら何と思うか。恐らく疑念を抱くと同時に不審だと直感するだろう。だがこれは生徒達が食事を終えてからでも一緒だった。

 昼休みの時間は40分。しかし、生徒達の食事スピード如何によっては10分で食事を終えて校内を行き来する者も居るだろう。そうなれば、行動出来る範囲は更に狭まってしまう。

 「……………………」

 彼は考える。現状で実行可能な最善策を……。

 シルバーカーテンでの光学迷彩? いや、仕掛けを終えるまでの間それを使用し続けるのはエネルギーの浪費だ。どの道バレてしまう恐れがある。

 変身魔法? それも否。校内に居る教師達は全員が魔法技術のプロだ、全身に魔法を施した状態ですれ違いでもすれば間違いなく魔力を感じ取られて勘付かれてしまう。

 とすれば、ここはやはりライアーズ・マスクでの変装能力に頼るしかないと言うことになるが、それでもまだ問題点はあった。

 誰に変身する? まず校内の教師はNGだった。どこで誰が見ているかも分からない……同じ姿形の人間が違う場所を歩いていたりしたら誰だって不思議に思ってしまうのは明白だ。かと言って、上級生などに変身するのも、同一の理由で却下だった。

 「どうするか……」

 全くのデタラメな他人の姿もこれまたただの不審者だ。そうなると、校内どこをいつうろついていても何の違和感も感じさせない人物に変身しなくてはならないことになる。校内をいつでも自由に移動でき、尚且つ顔を知られていなくても問題無い人物に……。

 そんな都合の良い者が居る訳が無い――トレーゼは即座にその結論に落ち着いた。冷静に考えてもその通りだ、そんな都合の良い条件に適った人物などがここに居る訳が無いのだ。仕方が無い、やはりここはエネルギー消費など気にせずに光学迷彩で行動するしか――、



 その時、トレーゼの眼に止まるモノがあった。



 「……あれは」

 彼の眼球の望遠機能が捉えたモノ……それはグラウンドから少し離れた茂みの中を行く一人の人間だった。あんな人気の無い所をたった一人で徘徊していれば普通は怪しまれるはずなのだが、どう言うことか距離を置いた所で授業を受けている生徒達も、引いては教師も何の違和感が無いかのようにして普段通りに振舞っているのだ。

 絶対におかしい! 教師でもなくましてや生徒でもないその者が何故平然と校内に居られるのか? だが、その疑問はその者が一体どんな人間なのかと言うことを理解すると同時に氷解していった。そして、それと同時に彼の脳裏にある一つの閃きが浮かんだ。瞬く間に全脳細胞を駆け巡ったその刺激は彼が先程まで求めて止まなかった“理想の作戦”を一瞬で立案させたのだった。

 行ける。これなら確実に、完璧に!

 すぐさま脳内でシュミレーション、成功確率が規定値を満たすことが分かった瞬間に彼は実行に移すべく屋上から立ち去った。

 12時35分――昼休みまであと五分。










 「さてと、無事交渉成立したことだし、私は自分のみすぼらしい独房に帰らせてもらうとしようか」

 その頃、フェイトが出向していた軌道拘置所では元第一級次元犯罪者であるスカリエッティが大きく背伸びをしながら自分の居た場所まで戻ろうとしていた。既にクロノの立体映像を映し出していた小型映写機は仕舞われており、現在この空間には彼を除いては付き添いの看守と眼前の執務官以外は居なかった。ヨレヨレの服を少しだけ伸ばした彼は看守を引き連れてさっさと退場しようと……

 「待って! 今日中に移動するつもりじゃなかったの?」

 背後からフェイトに呼び止められた。どうやら彼女は目の前のスカリエッティが今からミッドへと移動するものだとばかり思っていたらしい。実際さっきまで彼はそうしてくれと言っているような口振りだったのも事実だ。

 「う~む、そう一応そうも考えたのだが、冷静に考えてみれば急いては事を仕損じるとも言うからな。今だけは君達の手を煩わせないことにするとしよう。その方が良いだろう」

 「そうですか。では、私はこれで……。ご協力、感謝します」

 「せいぜい頑張り給え。私の最高傑作を前にどれだけの間頑張りを保って居られるかは知らんがな」

 「その台詞だけ聞くと、明らかに貴方が彼に加担しているみたいですから、あまり大きな声では言わない方が良いかと……」

 「おぉ、怖い怖い。口は災いの何とやらと言うからな……私の無駄口も今日はここで終わりとしよう」

 わざとらしく手を振って茶化しながら、スカリエッティは看守によって開けられたドアに入って行った。背後に二人の看守を従えて、彼はドアの向こう側にある監獄エリアへと向かって行く……次に顔を合わせるのは、管理局の体制などを考えると恐らくは一週間後かそれ以内となるだろう。それまで再びしばしの別れとなるだろう。あの男の不思議な所はズバリ“憎めない”ことだとフェイトは考えている。20年以上に渡って数々の違法研究に手を染め、ロストロギアの大量無断所有、果てには生命に関する禁忌の技術にまで触れた史上最も悪名高い次元犯罪者……そのはずなのに、彼の一々耳障りな言動も間を置いてしまえばどう言うことかそれほど気に障る程のモノでもなかったことが分かるのだ。憎めない性格とは彼のようなことを言うのかも知れない……そんなことを考えながら、フェイトはゆっくりと去って行く彼の細い背中をじっと見送る。数日はあの憎たらしい口が聞けないと思うと、すっきりすると同時に何か淋しくもあって――、

 「あ、そうそう! 言い忘れていたことがあったよ」

 前言撤回、さっさと独房へ戻れ。職業柄の鉄面皮を苛立ちに痙攣させながら、フェイトは心のなかだけで目の前のドアから顔だけを出して来たスカリエッティに雑言を吐いた。ちょっとでも感傷に浸った自分がバカだった。

 「彼は単独で行動しているだろう。彼は仲間を必要としない、彼は全ての計画を自分の力だけでこなそうとするはずだ」

 「それが……?」

 「だが現実は甘くは無い。彼が私を取り戻そうとする計画を遂行していたとしても、必ずどこかで単独ではカバーし切れない誤差が生じるはずだ」

 「つまり……?」

 「彼に仲間は必要無い……しかし、彼は自分で用意しようとするはずだ。自分にとって都合良く動く“道具”となる存在を……。心しておきたまえ、これは勧告ではない、注意でもない、『警告』だ。いずれ彼は本格的に動き出すだろう。今でこそその程度で済んでいるが、今のままでいれば必ず後悔する……用心しておきたまえよ?」

 この時、フェイトは彼が言っているのは冗談でもハッタリでもないと言うことを察知していた。 

 微かに開いたドアの隙間からこちらを見つめるスカリエッティの眼はいつものような気だるそうなモノではなく、かと言ってかつての狂気に満ちたモノのどちらでもなかった。蛇とも猛禽類とも取れる輝きの眼は純粋な警告だけを知らせようとしており、とても嘘を言っているようには見受けられなかったからだ。

 「…………御忠告、感謝します」

 「頼んだぞ、決して失敗してくれるな。君達の為にも、私の為にも……そして何よりも、彼の為にも……」

 それだけの言葉を最後に、スカリエッティは本当にドアの向こうへと消えていった。

 最後の後ろ姿……痩せ細った背中に何かしらの哀愁を感じたのは、単なる気のせいだったのだろうか。後に残ったフェイトにはそれだけが分からなかった。










 12時37分、医療センターのとある診察室前にて――。

 「あれ? どこ行っちゃったんだろう、トレーゼ」

 半時間に渡る診察を終えて廊下に付き添いの看護婦と出て来たスバルは、てっきり外で待っているとばかり思い込んでいた姿が消えていることに驚きを禁じ得なかった。鳩が豆鉄砲を喰らったとはこのことか、彼女は口を半開きにしたまま後ろの看護婦に押されて自室まで戻って行った。

 「うぅ……トレーゼぇ……」

 「お友達なんですか?」

 「はい……さっき知り合ったばかりですけど……」

 半分涙目になりながらも返答するスバル。無理もない、さっきまでは普通に会話をして一緒に診察室までついて来てくれていた人間が言伝も何も無しにどこかへ行ってしまったのだ。確かに少し無口で無愛想な気もしなくはなかったし、あちら側の都合もあったのかも知れないが、それでもやはりショックは大きかった。

 「その人ってスバルさんのご家族ともお知り合いなんですよね?」

 「トレーゼはそう言ってました。ノーヴェと……あ~、私のお姉ちゃんと知り合ったのが縁でって」

 「なら、ひょっとしたら今度来る時には多分ノーヴェさんと一緒に来るんじゃないかしら。今日はきっとあっちの用事か何かがあっただけよ」

 「そうですか…………そうですよね。また会えますよね」

 誰に聞かせるでもなく、自分に言い聞かせるようにしてスバルは呟いた。彼とはたった一時間しか喋ってはいなかったが、決して悪い人間ではないと自分の直感が告げていた。きっとまた会いに来てくれるはずだ。そうでなかったら、退院してから幾らでも会いに行ける、何も心配などいらない。

 生来のポジティブ思考により、自分の病室に着く頃にはスバルはとっくに笑顔に戻っていた。

 単純と言うなかれ。

 純粋なのだ。










 午前12時50分、St.ヒルデ魔法学院の初等科と中等科の敷地の間にある小庭園の一角にて――。

 とても人工的に造られたとは思えない程に自然なその緑の空間には様々な野生の小鳥達が集い、澄んだ歌声を周りの木々に聴かせて飛び回っていた。今の季節でこそ樹木の葉はすっかり枯れて落ちかけてはいるが、春には花、夏には万緑、秋には紅葉と言った様々な風景を楽しめることから、この小庭園は学院でも五指に入る名所として知られている程だった。各所に設けられたベンチには最大4人が座れるように設計されており、それが全部で10……昼休みである今の時間帯はそのどれもがここで昼食を摂ろうとして集まった生徒達で埋まっていた。

 その中の一つ……入口から少しだけ離れた所に位置する青いベンチに座っている三人の少女達が見えた。笑顔で会話をしていることから、傍目から見ても三人の仲が非常に良いのが分かり、自前の弁当箱の中身をつつきながら年頃の談笑に華を咲かせていた。

 三人の内の一人――ツインテールの少女と、頭のリボンと八重歯が特徴的な左右の二人に挟まれた少女に注目することにしよう。顔立ちからして年齢は恐らく左右の二人と同じように10歳、金の長髪を背に届く程伸ばし左右を青いリボンで小さく結んだ髪型、優しそうな口調は何の裏表も存在せずどこまでも地の優しさが滲み出ているのが充分に分かった。そんな彼女の一番の特徴は、何と言ってもその両目……右が草原の翡翠、左が炎もかくやと言う紅玉の色に染められていた。

 そんなオッドアイの彼女――高町ヴィヴィオは現在二人の親友、コロナ・ティミルとリオ・ウェズリーと揃って仲良く食事中だった。

 「さっきのテスト、『質量兵器取り締まり法が制定されたのはいつか答えよ』って言うのがあったでしょ? あれっていつだったけ?」

 「新暦1年よ。ちゃんと覚えときなさいって、常識問題よ」

 「そ、そうだったね……あはは」

 中等科の様に本格的なものではないが、一応初等科でも次元世界の歴史に関して学習する科目がある。先程ヴィヴィオが言っていたテストとは四限目の時に行われた小テストのことであり、主にミッド史における大まかな歴史的出来事について問われたモノだった。一応比較的簡単なモノではあったようなのだが、ヴィヴィオにとっては常に初めて見る単語が並んでいる歴史の語句や年代は覚え難いものがあったようだった。気恥かしそうに頭を掻きながら苦笑するヴィヴィオに対し、親友二人もつられて口元が緩んだ。何とも微笑ましい……これが彼女達の日常であり、ヴィヴィオ自身が言っている「普通の女の子」が送る日常の理想図そのものだった。

 「あ~ん……っと」

 ヴィヴィオの指が弁当箱の中の爪楊枝を摘まんで口に入れる。母である高町なのは特製の先端が四つに分かれたウインナーで、通称『タコさんウインナー』である。一本の楊枝に二本で、それが二組の計四つのウインナーが可愛らしく隅に入っており、良く見れば年頃の愛娘の為に母が色々と工夫を凝らしておいてあるのが随所に見て取れた。流石は飲食店を実家に持つなのはだけのことはある。ヴィヴィオはいつものことながら母の料理の腕前に感心するのだった。

 と、ここでちょっとしたアクシデントが発生した。

 別に弁当箱を落としてしまったとかではない。そこまで彼女もドジではないし鈍くもない。ただ――、

 「あっ!」

 「どうしたの?」

 「爪楊枝が……」

 どうと言うことはない、そのまま容器の中に戻そうとしていた爪楊枝を弾みで落としてしまい、更にそれが風に流されて三メートル位手前まで飛ばされたのだ。綺麗に刈り揃えられた芝の上をある程度転がった後、そのまま摩擦で運動エネルギーを無くして停止、完全な“ゴミ”として地面に転がる羽目になってしまっていた。

 拾いに行かなければ。ヴィヴィオは直感でそう感じた。それはゴミをそのままにしておいてはいけないと言う道徳心と、この美しい庭園に例え小さなものとは言えゴミなどがあるのはおかしいと言う小さな美的感覚を重んじる心があったからだった。急いで立ち上がるとまだ残りが入っている弁当箱をコロナに預け、ゴミとなったそれを拾うべく小走りで駆けた。近くにはゴミ箱もちゃんと用意されているので、拾った後はちゃんとそこへ処理すれば良い。

 「よいしょっと……」 

 手前まで来たヴィヴィオは芝生にしゃがみ込み、手を伸ばす。右手の指の先が徐々に近付く……芝生の上数センチを平行に移動し、彼女の少女にしては端正な指先が触れようとしたまさにその時――、

 先に別の誰かがそれを拾い上げた。

 「あ!」

 驚いて顔を上げると、自分のすぐ前に知らない人間が立っていた。薄汚れた水色の作業服と帽子を身に着けたその人物は一応知っている。この学院に雇われている校務員の人だ。主に学院の敷地内の清掃管理を手掛けてくれている作業員の方々で、生徒達ではやり切れない箇所の清掃から収集したゴミの焼却、長く務めている人だと警備員のように敷地内の警戒に当たる人まで幅広く居るのだ。顔はパッと見て30代か20代後半、背はヴィヴィオ達と比べてかなり高く見え、温厚そうな男性だった。

 「ゴミはちゃんとゴミ箱に入れてくださいね」

 「は、は~い!」

 しゃがんだままのヴィヴィオの前でゆっくりとそれを拾い上げた彼は顔に笑顔を浮かべ、背後数メートル先にあるゴミ箱に――、

 「わぁ……!」

 「入った!」

 綺麗な放物線軌道を描いて投げ入れて見せた。およそ5cmにも満たない一本の楊枝がその百倍の距離の先にあるゴミ箱へと吸い込まれるようにして入って行った光景はある意味で爽快なものだっただろう、ベンチに座っていたコロナとリオも歓声を上げていた。

 「あの、ありがとうございました」

 「気にしなくて良いよ。俺の方だって仕事でやってんだから。じゃあね、早く食べないと授業が始まるぞ?」

 笑顔で手を振りながらその校務員はヴィヴィオの前から立ち去って行った。人当たりの良さそうな人に見え、実際にそうだった。ひょっとしたら、自分は普段この学院で生徒や教員以外と口を聞いたのは初めてかも知れない……ヴィヴィオはふと気付いたようにそんなことを考えながらベンチで待つ友人の元へと戻って行った。

 「落としたのが楊枝一本だけで済んで良かったわね。あれでもし弁当箱だったらどうなってたことか」 

 「ごめんね~。今度からはちゃんと気を付けるね」

 「……って、もうこんな時間! 早くしないと本当に昼休み終わっちゃうよ!?」

 「あー! そう言えば次の授業はリンクス先生だった! 早く行かないとまた廊下に立たされちゃう!」

 几帳面且つ神経質な自分達の数学担任の顔を思い出し、三人は自分の弁当箱の残りを一気に口に放り込み始めた。かつてあの教師の機嫌を損ねてしまったクラスメイトが居た時は、女子と言えども容赦無く廊下に立たされていたことがあった。以来、絶対に彼の逆鱗に触れてはならないと言う暗黙の了解が生まれた程だ、今度はそれが自分達になってしまうかも知れないと思うと気が気ではなかった。急がねば!

 そんなこんなで、本当なら楽しくお喋りをしながらもう少し時間を掛けて食べるところなのだが、この場合は時間が優先されるので仕方ない。

 その所為か、ヴィヴィオの脳裏からはとっくに先程の校務員の男性のことは消えてしまっていた。










 13時00分、小庭園から距離を置いた中等科寄りの林道にて――。

 「やっぱりあのヴィヴィオって奴は肉体的に未完成だな。これじゃあ、サンプルとして手に入れられたとしても利用価値があるかどうか分かんねぇや」

 枯れた木々に囲まれたその下を歩く一人の男性の姿。薄汚れた水色の作業服に身を包み、頭には同じ色の帽子を被っているその人間は、間違い無くさっきヴィヴィオの前に現れてゴミを拾って去って行った校務員だった。気さくそうな笑みを浮かべて何やら一人言のように呟いているのが見受けられた。誰かがこれを見れば不審者か何かだと思っただろうが、生憎こんな寒空の下を昼休みとは言えわざわざ出ようとする者は少なく、おまけにこの林道の先には学院の礼拝堂しか無いので早朝の祈り以外の時間帯では誰も彼の姿を見る者は居なかった。もっとも、例え遠目から誰かが見ていたとしても、誰も怪しむ余地などあるはずがなかった。

 「やーれやれ、とにもかくにも接触は出来た。あのおチビさん二人は放っておいても問題無いだろうし、ちょこっと腕の立つ教員程度なら俺じゃなくてもどうにだってなる。お! あれは体育館か?」

 どれ程林道を歩いたか、その男は遠くに大きな建物を確認するとそっと帽子を取った。黒髪に丈夫な骨によって支えられた顔立ちは地球で言うところの東洋人に似ており、年齢は20代を過ぎた頃ぐらいだった。

 と、ここで何を思ったのか、白い軍手をはめた手で顔を擦る。汚れか何かを気にしているのかとも思えたが、どうやら違うらしい。そんなに強く擦りはしない、むしろ撫でるようにして顔を手で覆い尽くした後、大きく頭の髪を後ろに引き伸ばし――、

 「おそらく、作戦を実行すれば、生徒達は、あそこへ、避難するはずだ」

 既に、そこにさっきまでの男性は居なかった。代わりにそこに立っていたのは紫苑の短髪と白磁の肌、金色の双眸が特徴的な無機質極まりない感覚を垂れ流しにする少年――トレーゼの姿がそこにあった。完全変装の能力であるライアーズ・マスクは魔力を使用しない為に魔導師が感知することは難しい。加えてこの服装はまさに隠れ蓑そのものだった、広い校内の敷地内に全員で40人以上は居る校務員は学院のどこを歩いていても怪しまれる心配はまずない、むしろ素通りされるであろうことは容易に想像がついた。どの場所、どの時間帯でも何の障害も無くこの学院を自由に堂々と移動できる存在に、この短時間で彼はなってみせた。まさに盲点……コロンブスの卵、これで学院側が気付く可能性は永遠に消滅した。

 林道を歩いていた彼はとうとう体育館の前までやって来た。なるほど、いざ近くで見てみるととても大きなものだと言うことが分かる。一応、管理局の武装隊志望の生徒達の為の訓練場のような要素も含んでいる為のこのサイズであり、この学院程度の規模の教育機関では普通に用意されている設備ではあった。外壁はその大半が全体の重量に耐える為にコンクリートを使用されており、当然中には大人の親指と同じ位の太さの鉄筋が幾本も埋められていた。

 と、ここでトレーゼは懐から何かを取り出した。黒い立方体……ルービックキューブ大のそれを右手に、彼は左手で建物のコンクリの壁を撫で始めた。ちなみに、彼が出したのはストレージデバイスのマキナではない。このミッド……いや、全ての管理世界において忌み嫌われる最悪の道具、質量兵器だった。

 それも銃器のように特定の人間を狙うモノではない。つまりは爆弾……それも飛び切りに高性能で、これ一発で自分の体積の五百倍以上の物体を巻き添えに出来る代物だった。彼が事前に用意しておいたのは全部で30個、その内の三分の二……つまり20個はここに来るまでに様々な箇所に仕掛けておいた。主に初等科の校舎を重点的に、学院の全ての正門と裏門付近にもしっかりと……。あと仕掛けなければならない場所は、これを発動させた時に生徒達が真っ先に避難するであろうこの体育館。避難するべき場所が消滅したとなっては学院の生徒はもちろん、教師達も混乱するだろうことは予想出来た。

 「……………………」

 外壁を触りながら徐々に移動を続けるトレーゼ。外に仕掛けたのではすぐにバレてしまう、ここは必然的に内部に仕込むのが常識だろう。だが、内部であればどこにでも仕掛ければ良いと言う訳でもない。物事を成し遂げるには何でも『条件』と言うモノがあるのだ。彼は自分の求めるその条件に適った“部分”を見つけるまで根気強くそれを探し続け、遂に――、

 「……見つけた」

 外壁に沿いながら移動すること十数メートル、彼はようやく足の動きを停止した。自分の手で触れたその部分を何度か撫でて材質を確認する……問題無い、ここだ、ここで間違いは無い。

 彼が触れている部分、それは支柱。巨大な体育館を外側から支える為の重金属の柱だった。ミッドの先進した建築工学の粋を決して製造されたこの長さ40m幅2mの柱は、真正面からの風速30m以上の突風にも耐えられ、当然地震などにも完全に耐久可能な造りをしている。それこそ上空から隕石が降って来ない限りは、屋根に穴は開いたとしても全壊するなど絶対に有り得ないことだった。恐らくはこの支柱があるからこそ、この建物はこの耐久度を保っていられるのだと言っても過言ではないだろう。外部からのありとあらゆる衝撃と圧力にも余裕で耐え切れる堅牢さがあるのを、トレーゼは見抜いていた。

 だがしかし、幾ら強度が高くてもそれは所詮外側からの耐久度を示した場合でしかないことも同時に見抜いていた。セメントを凝固させて精製したコンクリートは圧力には強くても内から外へ向かう張力には抵抗性が無い……それと同じだ。特にこの柱は外部から掛った力を周りの鉄筋コンクリートへと分散させて衝撃を緩和させる構造、地震などには強い反面どうしても内部からの瞬間的な衝撃にはかなり弱かった。内側に爆弾を仕掛けられ、それが炸裂しようものならば一瞬で粉々になるに違い無かった。

 さて、問題は……

 どうやってその爆弾を支柱の中へ仕掛けるかだ。

 それなりに掘削用のドリルなどの重機を用いれば簡単なのだろうが、それでは時間も掛ってしまう上に周囲に勘付かれてしまうのは必至だ。それは馬鹿のやることだ、彼は違う。彼は決して馬鹿ではないし、増してや常人などとは一線を画した存在……言うなれば超越者だ。彼の起こす行動で常人と同じなのは呼吸方法だけ。その思想、考え、主義、行為は他の何人たちとも理解出来ず、また彼も自分以外の下等存在の行動原理など理解したくもなかった。

 「IS、No.6……」

 最早見慣れた真紅の円形疑似魔法陣が足元に展開され、彼が自身の持つ13の先天固有能力を発動させたことを知らせた。外壁を撫でていた左手を離し、代わりに小型爆弾を掴んだままの右手を突き出す。

 「『ディープダイバー』、発動」

 何と言うことか……彼の声と共に、その腕が銃弾すら跳ね返すはずの重金属の支柱の中へと何の抵抗も躊躇いも無しに入り込んで行くではないか。

 トレーゼが発動するは、かつて自分の六番目の妹が地上本部襲撃作戦において厳重な警備体制を全て通り抜けた脅威の偵察用能力……無機物潜行「ディープダイバー」だ。その名の通り、対象を構成する物質が全て無機物だった場合に限り発動者を自在に物質透過させられる、ある意味では魔法に限り無く近しい能力。一度発動させればどんなに分厚い壁でも、どれ程弾丸の雨を浴びせられようが何の抵抗も無しに通り抜けてしまい、創造主スカリエッティですら発現するのは全くの予想外だったほどだ。

 だが、一見して万能なこの能力もしっかりと短所はある。それは、『対象が無機物でなければ潜行出来ない』と言うことだった。対象となる固体物が炭素を含有する有機物であった場合、この能力は途端に意味を成さなくなってしまう……まさに一長一短な能力なのだ。

 だからこそ、彼は探していたのだ。

 何を? 爆弾を仕掛ける為に能力を使用出来る最適な場所を!

 外壁の大半は有機物であるコンクリートで固められてしまっている。ディープダイバーは当然使えないし、重機ももちろん使用不可。ライドインパルスのエネルギー刃で無理矢理こじ開けると言う方法もあるにはあるのだが、それでは痕跡が残ってしまう。可能な限り完璧に……それが彼の目的なのだ。

 故のこの支柱。周囲のコンクリートとは違って完全な無機物。爆弾を仕掛けられ、且つディープダイバーの効果を余すことなく発揮するには絶好の箇所に他ならなかった。

 「……セット、完了」

 何はともあれまずは一つ。体育館は上空から見ればコロセウム型の真円を象った造りをしていて、それを合計八本の支柱で支えている。この柱を基点としてあと四個を一本置きに仕掛ければ準備は整ったことになり、残ったあとの六個のうちの半分は中等科の敷地に、そしてあと半分は礼拝堂に……それで全ての準備は整う。

 それから僅かに五分後、トレーゼは予定通りの数だけ仕掛けることに成功した。まだ爆発はさせない…………まだ“今のうち”は、だ。

 『Go to next point.(次の場所へ移動せよ)』

 「了解した」

 脳内に直接届くストレージデバイスからの量子端末通信の命令に従い、彼は再び移動を開始した。枯れ葉の積もったこの林道を歩き続ければ、やがては中等科と初等科の丁度中間地点に存在する礼拝堂へと辿り着くだろう。残った六個うちの三個をその礼拝堂へと仕掛けるのだ。中に仕掛けるのは止めておこう、最重要サンプルである“聖王の器”を殺してしまったら元も子もなくなってしまう。

 礼拝堂が見えて来た。なるほど、ノーヴェと接触した日にも見たが改めて目に収めてみると歴史を感じさせる荘厳とした建築様式を内包していることが見受けられた。そのことに関しては全く学の無い彼ですらそう感じたのだ、どれほど歴史的・文化的価値があるのか。

 だが彼はそんなものに興味は無かった。ただ淡々と自分の役目をこなして行くだけだ……それ以外の行動は彼にとっては計画進行の妨げにしかならない。もし、今後彼の目の前に直接間接関わらず計画を邪魔する者が現れたとしたならば、例えそれが女子供であっても彼は容赦しないだろう。それが管理局だろうがかつての同胞だろうが知ったことではない、要は完膚無きまでに潰してしまえばそれで良かろうものなのだ。彼にならそれが出来る……一切の情けを掛けることも無く躊躇も無しに……四肢を削ぎ落し、心臓を捻り潰し、頭部を刈り取り、まさに絶対なる死の体現者へと変貌することが彼には出来るのだ。それは並大抵のモノではない。

 作業に戻ろう。礼拝堂全体を中心として三角形を描く配置で地中に埋没させる。だいたい2mの深度で埋める。でないと、それ以上深く埋めれば如何に高性能且つ高威力言えども表面の土が少し盛り上がるだけで終わってしまうからだ。

 「マキナ、セットアップ」

 『Yes,my lord. Form of “Strada”, set up.』

 懐から取り出したるは漆黒のデバイス。一瞬の輝きの直後に、手に収まる大きさの立方体だったそれは身の丈に匹敵する長大な黒鉄の槍へと姿を変えた。そして周囲に人が居ないことを確認した後、先端の刃先を剥き出しの地面に突き立て、丁度スコップのようにして地面を掘り起こし始めた。派手な魔法を使えば魔力波で勘付かれてしまう……魔法文明と言うのは厄介なものだ、万能と言ってもやはりそこには何かしらの短所が確実に存在しているのだから。生物としていざと言う時に頼りになるのはこう言った肉体労働に取って代わるモノはないだろう。

 それからおよそ15分後の13時19分、予定通りにトレーゼは三つの爆弾を人知れず埋設することに成功出来た。何もかもが順調である、あとやらなければならない事と言えば、学院の管理システム全体に対して電子トラップを忍ばせることぐらいだ。本来なら異常事態が起こることで自動的に管理局に異変を知らせるはずの管理システムを、爆発と同時に信号を送ることで一斉にシャットダウンさせる。例え再度回線を開くことに成功したとしても、出てくるのは完全に初期化された白紙のデータベースだけだと言うことだ。

 残りの爆弾はあと三個。急いで中等科の敷地に仕掛けなければならない。校務員の服を着ているので怪しまれることはまずないだろうが、誰がどこで注視しているかは分からない、早く済ませた方が良さそうだと感じていた。

 礼拝堂から伸びる二本の道のうちの一本は中等科の校舎へと向いている。在籍年数の関係から、初等科と比べて生徒数は少なくそれほど設備も無いが、あそこにも爆弾を仕掛ければ混乱はますます大きなものとなるに違い無かった。そうなれば“聖王の器”強奪はより確実なものとなる。

 綺麗にレンガを組み敷いた歩道を歩きながら、彼の金色の視線は中等科の校舎をしっかりと捕捉したままだった。初等科よりも幾分近代的な造形は発展した文明の精神そのものを体現しているようにも見えた。

 もうすぐ林道が終点を迎えようとしていた。ここから先は完全に中等科の敷地内となり、初等科よりもワンランク上の実力を積んだ生徒達が籍を置いていることになる。ここからでも微かではあるが強い魔力の波長を幾つか感じることが出来た。なるほど、こうして将来局内で名を馳せる魔導師が育成されると言う訳か、何とも御苦労なことではある。

 既に昼休みは終わり、学院の全生徒は午後からの授業を受けるべく教室に収まっている時間帯だった。

 林道を抜け、アスファルトで固められた地面を歩くトレーゼ。一糸乱れぬ行進は死を恐れぬ兵士と言うよりかは、むしろ絶対的な“死”そのものと言っても良かった。ここで言う“死”とは広義で言うところの生物学的な意味ではない、死とはありとあらゆるモノに対して絶対的な脅威の象徴……つまり、ここで言う“死”とは何者であっても抵抗出来ない絶対的上位存在の比喩なのだ。今このフィールドにおいて彼はまさに強者、絶対的強者たりえる存在に他ならなかった。

 やがてアスファルトを抜けると広大なグラウンドが現れ、その向こうにようやく校舎が見えるようになった。

 あと数十メートル……もう目標は眼前!



 だがここで――、



 彼の足が停止した。



 「……ッ!!」

 時が止まってしまったのではないのかと思えるような、そんな停止だった。両目は完全に見開かれている……足に根が生えたとか、縫い止められたとかなどと言うモノではなかった。余りのショックに対してその思考すら一時的に停止してしまっていたのだ。

 一体何故? どうして!?

 それは彼自身も分からないことだった。

 ただ一つ……彼が感じることが出来たのは――、

 (この魔力……何者だ?)

 魔力。それもかなり莫大且つ高純度の上等な魔力の波長が流れ込んで来ているのを肌で感じ取っていた。その膨大な力は例えるならそう、『重力』、周囲の全てを巻き込むだけでは飽き足らず、押し潰し、跪かせ、動くことすら許さぬような強大な力……覇気そのものだった。

 麻痺した精神をもち直し、彼は冷静に状況を分析し始めた。

 始めは“聖王の器”の目付け役として教会側から派遣されたシャッハ・ヌエラとか言う騎士に勘付かれたのかとも考えたのだが、彼女は聖王教会のトップであるカリム・グラシアの護衛でもある。彼女ほどの実力者が、いくら“聖王の器”とは言え主を放置してまで足を運ぶとは考え難かった。

 それに……この魔力の質は成人のものではないようだった。確かにこの空間を覆い尽くす尋常ならざる魔力は稀に見る上等さであることは間違い無い。しかし、この魔力の波はどことなくムラと言うのか綻びと言うのか、とにかく全体的に無駄が多くあるのが見て取れた。そしてこのさっきから感じられるどことなく未熟な感じ……もしやとは思ったが、この魔力の根源はこの学院に居る生徒のものなのではないか!?

 そして、さっきまでは全く感じなかったにも関わらず、この中等科の土地を踏んだその瞬間に重圧を感じた。これを友好的なモノと捉えることはまずないだろう……以上から考えられる事柄は一つ、相手がこちらに対して無言の威嚇をしていると言うことに他ならない。一体誰がどうやってこちらに気付いたと言うのか。だとすれば、それはどんな相手なのか。

 (……だが、しかし)

 構っている余裕など無い。推測で子供とは言え、これだけの魔力量……こちらとて拘束制限術式が掛けられているとは言え、自分のリンカーコアと匹敵しているともなれば、いつあちらから仕掛けて来るとも分からない。

 さすれば――!

 「第三拘束制限術式、限定解除」

 力が拮抗しているならば凌駕すれば良い。

 相手が威嚇してくるならそれを跳ね返せば良い。

 敵がこちらを攻撃しようとするならば――、



 それを更なる力を以てして戦意を喪失させるのみ!



 「…………!!!」

 体内に内包する凝縮リンカーコア、それの数ある拘束制限術式の幾つかを外すことにより解放されるのは――、

 「……去ね。身の程を、弁えろ」

 『真紅』。もはや物理的エネルギーは元より、魔力としての概念すら大いに超越し、人間の持ち得る感覚では色彩としか感知出来ない程に爆発的な魔力の奔流が、文字通り無差別全方位に向けて爆散させる。そのあまりに強力過ぎた力の流れは近くに居た虫はおろか、足元に密生していた雑草ですら一瞬で根こそぎ枯らし尽くして見せた。瞬時に拡散した魔力は大気を伝播し、あっと言う間に校舎を呑み込んだ。

 まさに刹那、ほんの一瞬だけの出来事だった。だが、見えざる戦いの決着を完全に着けるには充分過ぎた。

 「消えていく……さしずめ、怖気づいた、か」

 相手の威嚇魔力が徐々に退いて行くのを感じながら、トレーゼは自分の方の魔力も収めた。無用な争いは避ける派だ、10代前半でこれ程の力を有しているのはどんな人間なのか興味はあったが、接触するのは避けておこう。予定も変更、仕掛けるはずだった残り三個の爆弾は破棄、このまま退散することにした。動物と同じだ……こちらの実力の方が上だったとは言え、威嚇を無視された挙句の果てに自分の縄張りにまで侵入されたとあっては、今度こそこちらに危害を加えるかも知れなかった。ここは大人しく身を引いておいた方が互いの為でもある。もっとも、もし相手が牙を剥いたとしても即刻灰にする所存だったが……。

 「…………行こうか」

 『Yes,my lord.』

 踵返して180°、彼は結局敷地を数歩踏み締めただけで中等科校舎を去って行った。問題は無い、元からターゲットである“聖王の器”は初等科に居るのだ、あそこに仕掛けられただけでも良いとしよう。

 しかし……偶然か、はたまたこっちの勘違いなのか……。

 先程感じたあの魔力……

 どことなく“聖王の器”と同質のモノを感じたのだが……。










  数分前、とある中等科一年生の教室にて――。

 “彼女”は授業を受けていた。当然だ、今は休み時間でない、それはあと二十分してからでないと来ない。何よりも“彼女”は生徒だ、この日常空間に居る間は出来る限りで私事のしがらみは持ち込まない事にしている。殊に、自分の出自に関する事柄は特にだ。

 目の前の壇上では歴史担当の教師が古代ベルカの戦乱時代について教鞭を執っている。ノートは取らない……別に自分に才能が有るからと言う理由で自惚れている訳ではない、今習っている時代についてはある程度『知っている』からだ。断続的な上に極一部でしかないが、戦乱渦巻く古代ベルカの地において何があったかについては大まかに把握はしていた。自分だから知っている、他の人間では絶対に有り得ないことだった。

 これが自分の体内に流れる血がもたらす呪いなのか天恵なのか、そんな事はどうでも良かった。今はただこの学院の生徒として、この時間を過ごすだけだった。

 「…………」

 授業も佳境に差し掛かり、壇上の教師の講釈にも与太話が垣間見えるようになってきた。今日もまた一日が平凡に終わろうとしている――まさに“彼女”がそう実感を持った、その時――、

 「!?」

 肌を痛い程に刺激する強烈な違和感が“彼女”に来襲した。思わず窓の外へと目をやる。この教室は一階にある為に上の階ほど視界は良くないが、それでも彼女の精神の中に眠る危機管理能力がこの異常の原因を探さずにはいられなかったのだ。

 (これは……魔力!? 大きい……余りにも大きすぎて、逆に気付けなかったなんて……!)

 かつてこれまでの人生で数々の実力者と相見えて来たが、これ程に強大な力の波長を“彼女”は感じたことがなかった。ここまで大きく、ここまで禍々しい魔力の渦を……。

 周囲の生徒達は異変に気付いた様子はなかった。どうやら感じているのは自分だけのようだった。無理も無い、巨大な危険はその大きさ故に気付かれ難い……これも同じだった、ここまで大きな魔力にもなれば逆に気付けと言う方に無理があった。この全てを包囲して押し潰さんとするような力の前では、全ての凡夫は無力――圧倒的劣勢に立たされるより仕方無いのが世の常だった。

 そして同時に“彼女”は理解していた。この力は危険だ、と。

 魔力の流れ具合からして、相手は攻撃の意思は見せてはいない。しかし、通常状態でこれだけの魔力量を垂れ流しにする程の実力者ともなってきては、最早感心を通り越して恐怖、驚愕を凌駕して危険しか感じなかった。接近するだけで脅威、もしこれがこのままこちらに接近しようものならば――、

 (いけない!)

 それは生物の本能……危機回避能力の最たるモノだった。周囲に勘付かれないように自分のリンカーコアを加熱、自身の内包する限りの魔力の全てを外に居るであろう見えざる部外者に向けて全力で放出して見せた。見えない敵を討つにはわざわざ罠などで誘き寄せる必要性は無い、相手がこちらに対して行動するその前にこちらの優位を知らしめてやれば良いだけの話なのだ。動物と同じ……体格の差はもちろんのこと、爪の長さ、体臭の強弱、鳴き声の大きさなどで自分の優位性を相手に顕示することで無用な争いを避けると言う戦法に打って出たのだ。

 (お願い、退いてください)

 自分の魔力の波が相手の波長を反対側へと押しやるのを感じながら“彼女”は更に魔力の流れを強くした。一瞬たりともこの放出を止めてはいけない! 隙を見せてしまえばそれで最後、敵からどんな仕打ちを受けるか分からないからだ。常にこちらから威嚇し続けることで自然に相手が身を退くのを待つ……これが現時点での“彼女”に出来る最大限の対処だった。だが、もしこれでも相手が退かないならば……こちらとてそれなりの行動に出なければならないことも重々覚悟していた。

 だが――、



 刹那の瞬間に起こった出来事は“彼女”の予想を遥かに超えていた。



 「――――ッ!!!?」

 全身の毛が総立ちになり、声にならない悲鳴の代わりに胃の内容物が逆流しそうになるのを必死に堪えた。

 何が起きた!? 分からない。ただ一つ分かるとすれば――、 

 体が重い! まるで自分の周囲だけの重力が倍化したかのように体が机に押し付けられるのを感じていた。だがこれは重力でない、さっきまで自分が感じていた魔力だ。それも並大抵の質量ではない! こちらが放出していた魔力の数倍以上にも匹敵するような大質量の禍々しい力が、“彼女”の肉体を、精神を蝕んで来た。

 「こ、これは――!!」

 重圧に四肢が痙攣を起こす。これで自分が外に居たならとっくに立っていられなかっただろう。目の焦点は合わず、手に持っていたペンは取り落とし、足は無様に震え出す始末……。“彼女”には理解出来なかった。否、理解出来るはずもなかったのだ。自分の全力を跳ね返したどころか逆に押し潰され、今こうして完全に自分の精神までをも蹂躙されたと言うこの事実を、誰が信じられるものか。しかし、実際に“彼女”はこうして屈服させられてしまっている……それが何よりの現実だった。気分はまさに竜の熱風の息吹に晒された小さき鼠そのもの……このままでは自分の精神を保つことすら危うくなる恐れが……!

 考えが甘かった! 威嚇をすれば退いてくれるだろうと思った時点で選択の誤りだったのだ。

 高濃度の魔力がもたらす重圧に、とうとう“彼女”が耐え切れなくなって叫びそうになった、その時――、

 魔力が消えた。

 (遠ざかっている……どうして?) 

 一瞬自分の感覚を疑った。あれだけの魔力を放出していたにも関わらず、その引き際は随分とあっさりとしたものだったからだ。夢でも見ていたのではとも思えてくる。

 だが、顔面から吹き出る大量の汗と、全身に残った鳥肌がさっきの出来事が白昼夢ではないことを嫌と言う程に教えてくれていた。玉のような脂汗を落としながら、“彼女”は自分の身に降り掛かっていた事態について分析し始めた。

 あれは何だ? 分からない、ただし明確な悪意を纏った存在だったのは確かだった。

 あれの目的は? そんなもの知るはずがない。むしろ知らない方が身の為なのかも知れなかった。直接相見えなくてもあの力……只事ではない。

 そしてあの引き際……相手は確かにこの中等科に用があったのだろう、でなければここまで足を運んだ理由が無い。だがこちらの威嚇に対してあれだけの反撃があった割には本当に潔い退きだった。あれはもはや敵意とか悪意とか、そんな生易しいモノを通り越した“殺意”だった。具現化した殺意そのものが自分に一直線に飛来するその恐怖が、自分を包み込み、焼き尽くそうとしているはずだった。

 はずだったのだ!

 あれは威嚇ではなかった! ましてやこちらの威嚇に対する抵抗でも反撃でも、どっちでもなかったのだ! あれはそう……自分の周囲を飛び回る虫に苛立って手を振り回す、あの行為に近しいモノを感じた。つまり、相手にとって自分は虫同然だったと言うことになってしまう。

 「そ、そんな…………そんな事が……!」

 “彼女”は衝撃に打ち震えた。決して自惚れてはいない……だがしかし、自分の存在をまるで虫けらのようにあしらわれたとあっては、悔しさを滲ませずにはいられなかった。

 しかし、何が一番悔しいのか? それはこうして見えない戦いに負かされたにも関わらず、今こうして無事に五体満足であることに安心してしまっている自分が居ることが一番悔しかったのだ。

 「どうかしたんですか? 具合でも悪いの?」

 隣の席に居る人間が話し掛けて来ても“彼女”の耳には届かなかった。

 紺と青のオッドアイを密かに悔し涙に濡らしながら、この日、“彼女”――アインハルト・ストラトスは己の未熟さを再確認したのだった。



 最強のナンバーズ“13番目”と、古代ベルカの王の直系子孫である“覇王イングヴァルト”……。この日あった両者の冷戦についての記録は一切無く、また、両者がこれ以降再び相見えたどうかについての記録は、後世のどの資料や報告書にも記されてはいない。










 午後13時48分、海上更正施設のレクリルームにて――。

 「――以上で、こちらからの伝達は終了よ。何か質問はあるかしら?」

 「……………………」 

 青々とした芝生が広がる空間ではつい一時間前からセッテの独壇場にあった。と言うのも、彼女曰く「戦闘用機人であるなら常日頃の訓練は欠かさない」と言う強固な意思があった所為で、ずっと自主訓練中だったからだ。

 だがその訓練も今だけは止めて、大人しく本部から足を運んだ執務官――ティアナの話に耳を傾けていた。地面に置いてあったタオルで無造作に顔面を拭きながら、彼女は無表情な顔の筋肉をピクリとも動かさずに、芝生の上に座ってティアナと向き合っていた。彼女は右手でタオルを持ちつつ、左手にはティアナがここへ来た直後に渡してくれた一枚の紙面に視線を注いでいた。

 「……一つ良いですか?」

 「何?」

 「ワタシがここを出るのは何年後になりますか?」

 「そうね……確かに貴方は実行犯ではあったけど、事件の中核への関係性の薄さや、一番最後に生み出されたグループって言うのもあるし、今まで拘置所で過ごした年数分も加味すれば…………二、三年で出所かしら」

 「ではこれは一体どう言う意味ですか?」

 そう言ってセッテはティアナから渡されたその紙をピラピラと振った。紙面には何やら所狭しと細かい文字が印刷されており、何やら小難しい文面と見受けられた。だが別に彼女の身柄を処分する為の事前通知と言う訳ではない。むしろその逆、将来この施設から出た後の措置について書かれていたのだ。

 過去の出所者……つまりは現在は聖王教会とナカジマ家に引き取られた七人の姉妹達と同じ処置を、彼女にも成そうと言うのだ。ここまで言えば分かるだろうが、紙面に書かれている内容とは即ち――、

 『決定型養子縁組通知書。

 養子:セッテ。

 身元引受人及び保護観察者:カリム・グラシア小将』

 要約すれば上記の内容が紙面に書かれていたことになった。ティアナの言う通りにこのまま三年間何事も無く更正生活を過ごせれば、彼女は出所後には教会のカリムの元へ自動的に引き取られ、晴れて『セッテ・グラシア』となることが約束されたと言う訳だ。そうなれば法律上も戸籍上もグラシア家の娘と言うことになって生活には困らなくなり、引いては彼女が局勤めをするにあたっても何かと立場が有利に働くようになる。更正上がりの元犯罪者を排斥する傾向にある局内の風当たりを少しでも軽減させようと、フェイトの配慮でもあった。

 だが彼女――セッテには何か不満があったようだった。

 「納得出来ません。ワタシは世間一般で言うところの犯罪者です。拘置所から強制的に移送されて来たその瞬間から、私はここで朽ち果てる所存です」

 「納得出来ないのはこっちの方よ。貴方は自分が何を言っているのか分かってんの?」

 「正論です」

 「違うわね、貴方が言ってるのはただの自己中心的な意見……いいえ、ただの我儘じゃない」

 「我儘? それは違います。我儘だとか意見だとか、それは歴とした人間が『個人』と言う明確な意思の下で培うモノです。ワタシは人間ではない、ただの機械、兵器です。故にこれは我儘でも何でもない」

 「言っていることが支離滅裂ね。なら言うけど――」

 ティアナが真摯な面持ちでセッテに近付くと、彼女に詰め寄るようにしてこう言って来た。

 「貴方が『ここから出たくない』って言った時点で、それは貴方自身の意思を見せたことになるのよ」

 「それは……」

 自分の言葉の矛盾を突かれ、セッテはここへ来て初めてうろたえるように言葉を濁らせた。さっきまではまるで精巧に作られた人形のようにしてティアナを凝視していた視線はとっくに逸らされ、無意識にセッテは彼女を避けようとしているのは明らかだった。

 そんなセッテに対して、ティアナはさらに追い詰めようとした。

 「駄々を捏ねるのもいい加減にしなさい。貴方が自分の事を何と言おうが勝手かも知れないけど、貴方が機械だって言うなら、他の姉妹はどうなのよ。自分が機械だって言うなら、貴方は他の10人の姉妹全員の人間性を否定した事にもなるのよ。何も感じないの?」

 「……ワタシは機械……戦闘及び殺人用に製造された、ナンバーズのNo.7です。機械としての精密性は求められても、一個人としての意思はそこに必要無い。……それは他のナンバーズにも当て嵌まることだった」

 「分からないわね、結局貴方が何を言いたいのか、私にはさっぱりだわ」

 「貴方は機械が家族ごっこをしている光景を見て違和感は感じませんか? つまりはそう言うことです。だから、ワタシはここで朽ち果てるのです。最初から最後まで……人間ではなく機械として」

 「……………………」

 「それに……」

 「?」

 いきなり芝生から腰を浮かせて立ち上がったセッテは、そのままティアナを尻目にルームと外界を区切っている窓ガラスへと足を運んだ。魚を負って海面を飛ぶカモメの群れを眺め、彼女は自分の桃色の長髪を軽やかに手櫛で流した。傍から見ると地上に舞い降りた天使か何かと見紛う程に美しい姿だった。

 そして、島も見えない海原を見つめながら、彼女は背後のティアナにも聞こえないような小さな声で、たった一言だけこう言ったのだ。

 「ここを出れば彼に会えないような気もしますので」










 午後13時51分、ミッドチルダ北西部海上のとある孤島にて――。

 「量子回路、接続完了。コード26に対応した『ボム』を、設置後、侵入の痕跡を、消去せよ」

 地下に隠されたラボの一室でトレーゼはマキナを前に指示を出していた。現在彼のデバイスはシルバーカーテンの隠蔽効果の下でSt.ヒルデ魔法学院の管理データベースへと侵入を果たしていた。管理局ほどではないにしろ、あの学院のデータベースは親元である聖王教会のものを間借りして成り立っている。教会とリンクしている以上は学院の方から教会側へと侵入することも当然可能と言う訳で、それが出来れば局と関わりを持っている聖王教会は多大なダメージを受けることとなる。もちろん、学院側からネットワークを通じて教会側に侵入するのは簡単なことではない。幾重にも張り巡らされた電子トラップや管理システムを潜らねばならない上に、ウイルスに対する耐性まであるこのデータベースを突破するのにはそれなりの準備が必要なのだ。そしてこれがその下準備と言う訳だ。

 「…………終了」

 やがてやるべき事を終えたのか、トレーゼはデスクから離れるとさっさと室内を移動し始めた。だがその足取りは物凄く遅い。と言うのも、彼が現在居るこの部屋はかつて彼の主であるスカリエッティが寝室兼事務室として使用していた空間である為、床にはありとあらゆる学問や科学技術について執筆された論文の山が所狭しと積み上げられていたからだ。専門分野である生物工学や医学はもちろんのこと、天体観測や野生生物を対象とした自然科学、エレクトロニクスの真髄を極めた電子工学に、さらには建築に関するものまで幅広く存在していた。どれもスカリエッティ本人が直接書き記したもので、中には現在の学会の常識を根底から覆すものまであるらしい。そんな紙があまりにも大量に床面を占領していることから、この部屋には寝室のクセにベッドが無く、代わりに船室の様にハンモックが掛けられていた。

 トレーゼはハンモックに身を投げ出した。睡眠は摂らない、内部フレームに流れる電流で脳を刺激し、生体部分に悪影響を及ぼさない範疇で興奮ホルモンを必要に応じて分泌させることによって覚醒を保っている。あと半日は眠らなくても大丈夫だった。

 「……これで、駒の数は、全部で三人…………マキナ、No.9の、予測最高適合率は?」

 『About 74.2%』

 「No.7」

 『About 87.9%』

 「タイプゼロ・セカンド」

 『About 68.7%』

 「やはり、セカンドは低いか……。予測していた、程ではないにしろ、考慮しておくか」

 11月9日にこのミッドへ来てから出会った三人の少女……良く覚えている、いずれはこちらの勢力図へ引き込まなければならない存在だから、現時点では丁重に扱うつもりだ。

 ノーヴェはあの性格を外堀から埋めることが重要となるなるだろう。幸いにも初対面で好印象を与えることが出来たこともあってか、完全に精神を征服するのに然程時間は掛からないかも知れなかった。

 セッテの方は予測通り適合率が高いので懸念する必要は無い。あの手の存在は自分よりも強い相手に従う傾向にあるので、常にこちらの優位性を顕示し続けていれば自然と支配することは適うだろう。

 問題はスバルの方だった。初対面での好印象と言う点ではノーヴェ以上に手応えがあったにも関わらず、彼女の予測適合率は低いままだった。元々ナンバーズとは根本的に違う部分があるのか知らないが、現在の彼女ほどにこちらに必要なものは無い。元機動六課のメンバーが急に寝返ったともなれば間違い無く管理局は混乱する……その混乱を狙っての彼女との接触だったはずだ。だがここまで低いとなると、正直言って完全に規定値にまで引き上げるのに一体どれだけの時間を要しなければならないのか……。

 やらねばならない事は山積みだ。地道に一つずつ解消して行こうにも、自分にはそれ程時間が残されている訳ではない。今から約96時間後には標的に定めた“聖王の器”を完璧且つ迅速に回収し、更にその計画を実行に移すには“サポーター”が必要になってくる。サポーターの方は明後日あたりにでも調達出来るが、今日含めて後30時間以上をどうやって有効的に活用するのかが問題だった。この場合はあの三人の誰かと接触を重ねるのが一番妥当なのだろうが――。

 とりあえずセッテは明日接触するので良いとして……。ひとまずノーヴェとの接触を視野に入れたかったが、彼女の脳量子波を辿ってみるとナカジマの自宅に居ることが分かった。ノーヴェとは面識があり、ナカジマ家の面々とも面識はあるにはあるが、確か自分はナカジマ家の所在地を聞いて無かったはずだった。わざわざあの面々がそんな細かい事を覚えていないだろうが、万が一と言うこともあり、不自然な行動は控えた方が良さそうだった。特にあのディエチに勘付かれると厄介だ、あれはあの様に見えて観察眼が高いことはとっくに見抜いている。

 となれば、またスバルと接触するか? 一度挨拶もせずにこちらから勝手に置き去りにしてしまったのに一日もしない内にまた会うと言うのもまた不自然な話だ。彼女の性格ならば然程気にせずに接するのかも知れないが、どうもあれと一緒に居ると調子が狂って仕方が無い。と言って何もせずに居るのも問題だ、どうしたものか……。

 白い天井を無表情で眺めながらトレーゼはこれから自分が成さねばならない事を思案した。だが、それが中々どうして悩ましい、全くと言って良い程に決めることが出来なかった。

 「…………ん?」

 と、ここで彼は視界の隅に何かを捉えた。鼠ではない、本だった。周囲は真っ白な論文の束で埋め尽くされている中でどうしてそれが目についたのかは分からない。論文がホチキスや糊で留められているのに対してそれが元からの冊子の形をしていた所為だろうか? またはその本の色彩が論文の紙とは違って汚れた茶色をしていたからだろうか? どちたにしても彼はその本が気になり、ハンモックの上から紙の山を掻き分けて取り上げた。

 「…………」

 以外と大きい、地球で言うところのノートパソコン程のサイズはある。それを手に取った彼は背表紙に小さな長方形の紙が貼ってあるのを発見した。黄ばんでボロボロになり、今にも外れてしまいそうな紙片には何やら文字のようなものが書かれてあった。いや、実際文字だった。良く目を凝らして見てみると、達筆な筆記体で『Relic』と書かれてあるのが分かった。この筆跡は間違いなく長女のウーノのものだ、仮にも創造主とは言えあのドクターが論文以外の紙に自分の文字を書き記すことはまずなかったからだ。

 開いてみると当然のように中も傷んでいた。破れずに原形を保っているのが不思議なくらいの劣化にも関わらず、中の内容だけははっきりと確認出来た。ページをゆっくりと捲りながら彼の視線はその中身に釘付けとなっていた。食い入るようにページを眺める彼は呼吸すらしているのかどうかすら怪しい程静かで、何人たりとも近付けさせない気位の高さがそこにはあった。

 「……そうか、17年も経ったのか…………ずっと、培養槽の中だったから、実感出来なかった」

 本を閉じた。この17年の月日で何が変わったのかは分からない。少なくとも、自分にとっては変わり過ぎた事ばかりだった。主は捉えられてしまい、首魁だった三人の姉達も投獄されてしまった。残りの顔も知らなかった妹達は自らに課せられた使命すら忘れて安穏とした日々を送り続けている……いや、もう妹とも呼ぶまい、ただの機械だ、意思の介在など最初から許されない一介の機械であるはずの存在が、あの様に人間社会に溶け込もうとしていることが間違っているのだ。あの毒された彼女らはそれを理解していない、だからこそ必要無いのだ。いずれ時が来た時には創造主の意思を継いだ最後の存在として完全に粛清するつもりである。

 何も変わらないのは自分と、今居るこの部屋の様相ぐらいなものだった。

 「…………計画は成功させる。それが、今の俺の、存在意義……もう、仲間など要らない、手駒さえあれば、それで良い。それで充分、事足りる」

 ハンモックから降りて、手にしていた本をデスクの上に置く。トレーゼの双眸はガラス玉のように透き通ったままであり、何も映さない。しかし、その視線だけは真っ直ぐと前だけを見つめたまま揺らぎはしなかった。

 「そして、その為にも……ドゥーエ、お前の遺産を、利用させてもらう」

 脳裏に刹那の瞬間だけ浮かぶは、かつて自分とここで寝食を共にした今はもう亡き二人目の姉の顔……。優しかったかどうかなどさして問題ではない。彼女はもう『死んで』しまった……今際の時に彼女が何を思ったのか、何を考えたのか、自分には分からない。

 ただ、一つだけ気になった事があるとすれば――、

 最期の瞬間に彼女の脳裏には自分が居たのかどうかが気になった。










  時を戻って新暦85年7月22日、正午12時8分――、地上本部内の食堂にて――。



 どうした、食べないのか? 遠慮しないで胃に入れた方が良いぞ? 別に食べれるが、財布の中は大丈夫か、だと? 言っただろう? こう見えても新設部隊の隊長だ。それなりに稼ぎはあるし、身内を養っていける分も当然残してある。

 それで話の続きだが、結局奴――トレーゼは『“聖王の器”誘拐事件』を引き起こすことになる、歴史の教科書の文面通りにな。そこから先はお前も知っているように、管理局はそれをきっかけに本腰を入れることになったんだ。たった一人と次元世界を統べる組織の真っ向からの対立……考えただけでもどちらに分があるかは歴然としていると思うだろう? だが実際は違った、管理局はこのT・S事件を完全に解決するまでに三ヵ月近くの時間を要した。トレーゼ一人に対して注ぎ込んだ費用と人材に関しては無限書庫にデータ管理されているはずだから、もし参考にしたいならそちらを当たれ。あそこの司書長は優秀だからな。

 ん? 肝心なことが聞けていないだと? 何だ、俺が言うべき範囲は全て話したはずだが?

 ……トレーゼに弄ばれた三人の少女はどうなったか、だと? 

 事件が解決するまで彼は彼女らとどう接していたか?

 解決してしまった後は四人は一体どうなってしまったか?

 あぁ、なるほどな。それは確かに気になるだろうな。妥当な感性だな、お前も。まぁ、今すぐと言うのならあれだ……本局から派遣されている執務官にグランセニックと言う者が居るはずだ、彼女に聞けば大抵のことは――、

 …………なに? グランセニックを知らないだと? ……そうか、あいつはまだ『ランスター』で名が通っているのか……。あいつも強情だな、結婚してから一年も経つと言うのに。いや何でも無い、とにかくこれ以上の情報が欲しいなら俺ではなく彼女に聞け。この事件の担当はあいつのはずだからな。



 Pi Pi Pi―♪



 失礼、少し……。

 ……あぁ、お前か。…………分かっている、先に帰っていてくれ、俺はもう少ししてから行く。……遅れはしないさ、安心しろ。それじゃあ、自宅で待ち合わせだな。

 …………済まなかったな、途中で。さっきの通話の相手か? 一応、俺の妻だ。所属は俺とは違う所でな、頑張ってくれている。

 これからシフト上がりで、一緒に学院に通っている娘を迎えに行くんだ。今日は終業式なんだ、午後一杯は一緒にいてやりたい。久し振りに三人で外食にも行くつもりだ。

 は? 俺が妻子持ちに見えないだと? 良く言われる。俺とあいつが10代後半の時の子供だからな、仕方ないだろう。色々とあってな……自分でもこんな関係に落ち着くなどとは思ってなかった。

 優しい? 俺が? 冗談が好きだな。俺も昔はこうじゃなかったんだがな……。

 ん……昔ヤンキーで今はマイホームパパってのは良くあります、だと? そう言うモノなのかもな……人生は何が起こるか分からない、だからこそ面白い。

 そう言えば、当時の件で一つだけ話していないことがあった。まぁそう怒るな。

 すぐに済む……話をもう一度だけ六年前にまで戻そうか。










 新暦78年11月14日午後18時00分、ミッドチルダ第四地上留置所にて――。

 いつか言ったように冬の陽は西の地平線に沈むのが早い。ほんの数十分前には大地にオレンジ色の陽光を余すことなく照らしていた太陽も、今ではすっかり西の空を仄かに赤く染める程度でしか確認出来なかった。青い海は反射するべき光を失って黒一色に染まり、そのすぐ上を飛んでいたカモメ達もいつの間にかどこかにあるはずの自分達の巣へと帰っていた。完全な静寂が周囲を支配しており、聞こえてくる音と言えば岸壁に波がぶつかる水音ぐらいなものでしかなかった。

 この海岸に面して造られた第四拘置所はミッドに数ある管理局の管理下にある施設の一つであり、主に社会で問題を起こした者や公判を待つ身である者達がここに収容されていた。ちなみにこの施設に独房は無い。局の方針で、独房に収監されなければならないレベルの人物はここに来る前にダイレクトに軌道拘置所に強制送還されるシステムになっているからだ。つまり、ここに収監されている者達はギリギリのラインで凶悪犯罪者になる前の者と言う訳だった。

 そしてそれは彼女らも一応例外ではなかった。

 「ん~っ! やっぱりシャバの空気は美味いわぁ!」

 留置所の正面玄関にて一人の女性が大きく背伸びをしながらそんな言葉を口にしていた。両腕を大きく真上に引き伸ばすようにして上げ、緩み切った背筋を締め上げると、続いて彼女は首の骨をバキバキと鳴らした。一瞬本当にムショ上がりの更正人かとも思ったが、良く見ると彼女はカーキ色の局員服を着込んでおり、遠目からでも彼女が管理局の局員であることが窺えた。

 「あの二佐……少し落ち着かれては。と言うか、シャバって何ですか?」

 そのすぐ後ろを頭二つ分小さな少女が付き従う。さらりと流れる銀の長髪は遥か東の空に現れた二つの月の光を反射して輝いており、唯一健在な左眼で目の前の女性を捉えていた。

 「それにしても、さっすがクロノ君や。ひょっとしたら半年ぐらい出れへんかと思てたけど、心配無用やったな」

 「ですね。聞けば、私達を釈放してくださるのにも随分と御無理をなされたとかで……」

 「まぁ釈放て言うても、実際は『仮釈放』なんやけどね。真犯人を捕まえられるまでは監視役が付いて周るらしいし……」

 そう言って女性――八神はやては東の空の月を眺めた。それに従ってチンクも空を見上げる。

 無期限謹慎処分中だった彼女らが鉄格子の窓から解放されたのはほんの30分前の話だった。いつも通りに無駄に白く清潔な壁以外は何も無い獄中で読み飽きた小説に目を通していた二人は、生活する内に懇意になっていた所長から突然ここを出るように言われた。始めは何が起こったのかまるで分からなかったが、その直後にハラオウン提督からの要請だと聞いて納得した。あの友人はやっぱり自分達を見捨ててはいなかったのだ。

 そこから先はあっと言う間だった。元々私物はそれ程持ち込んでいなかった為、片付けるのに手間暇は掛からず、本部から派遣されるはずの監視員の迎えが来ると聞いて今出て来たところだったのだ。

 さて、予定ではもう直ぐ局からの監視員が来るはずなのだが、連絡を受けてから既に30分も経つと言うのに一向に迎えが来る気配が無い。行き違いでもあったのか? それともどこかで事故でも起こしたか……。

 と、そんなことを考えていると――、

 「二佐、来たようです」

 「あ! ほんまや。レディを二人も待たせるなんて礼儀知らずもええとこやで」

 中央道路から離脱して真っ直ぐこちらへ向かって来る黒塗りの乗用車……間違い無い、局から回された要人用の高級車両だ。はやてはあれを見る度に税金の無駄遣いだと常々思っていたが、まさか自分が乗ることになるとは思っていなかった。二等陸佐と言う高い位から充分過ぎる程の稼ぎは得ているが、今の今までにあまり贅沢な金遣いはしなかった所為なのかも知れない。

 やがて車は正面玄関の二人の寸前で停止し、後部座席のドアを自動で開いた。それと同時にフロントガラスがスライドして運転席の人間が顔を覗かせる。

 「お待たせしました、八神二佐。どうぞ御乗りください」

 母親譲りの薄い色の髪を持ち、ネオンを反射する眼鏡がどことなく知的な雰囲気を漂わせているその男性ははやても良く知る人間だった。三年前の機動六課時代には部隊長だった自分の右腕として共に戦ってくれた知将――、

 「クロノ君も流石やな……わざわざグリフィス君を監視員にするなんて」

 グリフィス・ロウラン。機動六課が解散した今、本来ならば彼は本局の次元航行隊で勤務中のはずなのだが、彼の所属する航行隊は予定に空きがある為に彼は通常通りの事務勤務となっていたのだ。そこへさらにクロノが自前の提督権限を限界一杯までに行使したことにより、現在こうしてミッドチルダまで足を運んだと言う訳だ。そしてこれにはクロノ側の思惑もある。

 「六課の時と同様に二佐のサポートを提督から直々に言い渡されております。何なりとご命令を」

 「差し詰め、『名ばかり監視員』ってとこやな。相変わらず憎いことをしてくれるわ、あの提督も……」

 今頃デスクの上で書類の整理に追われているであろう友人の仏頂面を思い浮かべて苦笑しながら、はやては車に乗り込んだ。そのすぐ後ろからチンクも入り込み、二人を乗せた車は地上本部を目指して一気に首都高速へと突入した。

 「さてと……お喋りはここまでにしておいて……」

 後部座席に腰を落ち着けたはやては窓の外を流れる夜景には目もくれず、バックミラーに映るグリフィスの顔を見つめた。制服の皺を伸ばし襟元を正す。そこに先程までの気の緩み切った女性は居なかった、職務を全うしようとする気迫を全開にしている一人の局員だった。

 「グリフィス・ロウラン准陸尉、報告!」

 「はい。11月14日現在、管理局は一連の事件の容疑者としてスカリエッティ製の戦闘機人一名を指名手配、当容疑者を『13番目』と認定・呼称することが決定されました」

 「事件発生から五日も経ってるっちゅうのに、局は呑気なもんやね。局が取った対策は?」

 「現在、クロノ・ハラオウン提督を筆頭にして地上本部の主立った部隊がそれぞれの担当地区の哨戒に専念しています。本局から派遣されてきた分も換算しますと、平時の三割増しだと聞いてます」

 「三割か……。それでも何の情報も掴めてへんってことは、相手は相当のやり手ってことやな」

 「二佐も早速明日から捜査に加わってもらいたく――」

 「明日? 何言うてんの、今から参加するに決まってるやん」

 「え?」

 順調に進んでいた会話が突然狂いだし、ハンドルを握っていたグリフィスの視線が一瞬だけフロントから外れて後部座席の上司に移された。そこで彼が見たのは未だかつて見た事が無いはやての目の色だった。ミッド人離れした彼女の面立ちを何度も見ては来たが、こんな鋭く、そして鬼気迫るモノを彼は見た記憶は無かった。強いて挙げるとするならば、三年前に警戒体制の甘さ故に起こった最悪の事件――地上本部襲撃事件の時に似たような表情を見た記憶があった。

 そして直感する――。

 彼女……八神はやて二等陸佐は――、



 本気だ。



 六課が解散した所為もあるが、この三年間グリフィスは彼女の目に本気の色が宿るのをただの一度だって見たことなどなかった。彼女は風のような……いや、風に流れる雲のような人間だ、周囲に混乱を巻き起こそうとはせずに静観し、常に大衆の流れに同化することで難を乗り切る人間、それが彼女だ。一方で彼女のことを『根なし草』と形容する声も上がっている。当然かもしれない、大衆に合わせると言うことは自分の意思まで流されると言うことだからだ。

 だが彼女は違う。彼女は大衆の流れに合わせる人間であっても、決して流される人間などではなかった。でなければ、六課時代にあれだけの人員を引っ張ることなど出来なかった。全ては彼女の才覚――秘められたカリスマ性が成す業だと言うことを元副官のグリフィスは見抜いていた。

 今回もまた彼女は本気だった。もう誰も止められない、否、止めるなどと言う選択肢など最初から存在していないし、彼女にも止まると言う選択肢は無かった。ただ前に突き進む……事件の早期解決の為に。

 「…………了解しました、早速二佐には現場での指揮を」

 「分かっとる。……私やかて人の子や、自分の家族や仲間を蔑ろにされてまで指咥えとる程鈍臭い人間と違う……」

 ここで初めてはやては正面ではなく、隣のチンクへと目をやった。謹慎中ずっと緊張していた所為か、自分の隣でチンクはすっかり熟睡していた。可愛らしい寝息を立てる彼女にふと微笑み掛けたはやては自分の制服の上着をそっと上掛けした。自分達は謹慎を受けていたから無事だったようなものなのだ、今度は自分達が借りを返さなければならない番だ。

 「……落とし前はキッチリとさせたるから覚悟しときや」

 不思議と怒りは無い、むしろ極限にまで冷え切った感覚が彼女の神経を満たしていた。氷のリンクの上で佇むあの感覚……あの冷えた感覚だけが今の彼女の行動原理となっていた。怒りでもない悲しみでもない……そんな曖昧で、それでいてはっきりとした感情だけが残っていた。何とも不思議な感覚だと我ながら思わざるを得なかった。

 だが、これだけは確実だと言えることがあった。

 それは――、

 「怒ってはおらん。気分がムシャクシャしとるだけや」



 午後18時15分。管理局三強の一角、『夜天の主』八神はやてが完全復活を成し遂げた瞬間だった。










 新暦85年7月22日、12時14分――。



 彼女は今は確か海上警備の司令官だったか。今でもあれは前世代エース達の中では一番の出世頭だそうだ。ちなみに、ここだけの話だが、俺の所属する新設部隊の運営にも何かと協力してもらっている。一応部隊指揮をしている課長が彼女の義弟だからな……何かと弟想いな方なのだ。

 俺にも一応妹が居る。何だ、その意外そうな顔は? お前も名前ぐらいなら聞いたことがあるだろう? 元航空武装隊のエースで、今は俺の部隊の副隊長を務めている。

 ……俺の方が若干年下に見えるだと? お前……俺が高町レベルの砲撃を撃てると知っての発言か、それは。言っておくが、俺の方があれよりも…………いや、やめておこう。

 さてと、ある程度話すことは話したから、そろそろ俺は上がらせてもらう。自宅で妻が待っているからな。

 あぁそうだ、お前はどうやら新入りでここの事を分からない部分があるだろうから、挨拶の代わりにこの名刺を渡しておこう。もちろん俺のものだ。八神一佐に言われていてな……新顔にこうやって部隊の宣伝をしなければならないんだ。意外とこれが面倒でな……。



 『古代遺失物管理部及び半独立次元世界治安維持機動部隊“機動七課”

 ネオ・スターズ分隊長

 “――――” 一等空尉』



 八神一佐曰く、『期待の新星部隊』だそうだ。ひょっとしたら、将来お前を部隊に引き抜くかも知れないな。

 じゃあ、俺は行く。執務官の仕事は激務だろうが、上手くやれ。

 それと、人の名前は事前に確認しておけ? ハトがアルカンシェルを受けたような顔をしているぞ。ん……? 違ったか?

 面白いだろう? それが人生だ。

 さぁ帰ろう――、

 娘と妻が自分の帰りを待っているから。



[17818] 彼女の遺したモノ
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/04/07 23:50
 人は誰しも自分が生きていた証を後世に遺そうとする。それは生前使っていた愛用の物品であったり、自分の姿を精巧に写し取った写真であったり、愛する者との間に育んだ子供であったり……。その者の性格や嗜好などによってそれは千差万別、様々なモノに姿を変える。

 だが、個々の姿は全て違えど、それがその故人にとってはこの世の全てよりもずっと大切なモノであることに大差は無い。だからこそ遺すのだ……自分の大切にしたものを――、死してなお自分が大切にしたかったモノを誰かに受け継いでもらう為に……。

 そして、それはもしかしたら“彼女”も同じだったのかも知れなかった。

 「我が姉にして、我が友ドゥーエ……お前は、俺に何を、遺していった?」

 今は亡きかつての姉の面影を描きながら、トレーゼはまるで故人を偲ぶかのような発言をした。

 彼の目の前にあるのは巨大な培養槽……かつてスカリエッティがナンバーズを製造する際に使用したものだ。それが全部で“八本”あった。今思えば、あの頃はまだ八人しか居なかった。自分達も培養槽から出た事は何度かあったが、それは精密検査の時だけの限られたものでしかなかったし、さらには外に出ても問題無いまでに開発が進んでいたのは当時でも自分達四人しか居なかった。あとの四人は自分の知る限りではこのシリンダーの中から出たことなど一度だってなかった。いつか……いつかは必ず出てくる…………そう考えて日々を過ごしていた時、自分はドクターの手を離れ、あの老いぼれの元へと譲渡されてしまった。

 「……………………」

 今となっては培養槽は全て破棄、つまりは使用されていない状態となっていた。かつてこの中に入っていた姉妹達は大半が更正、一部は獄中で囚われの身と成り果ててしまった。計画に失敗したばかりか、安穏とその命を本来あるべき事に使わずに生きていることにトレーゼは納得出来なかった。これが彼が自分と三人の姉以外のナンバーズを蔑む大きな理由だった。最初から最後まで自分達の本分を貫き通せば良いものを、よりにもよって奴らは人間社会に溶け込むことで生き延びる方を選択した……もはやこれは戦闘機人として生み出された者にとっては許されざる大罪だった。

 だが――、

 彼女、ドゥーエだけは違っていた。彼女は12人の中で唯一自らに課せられた使命を、任務を、完全に全うして見せたのだ。管理局内部の情報のリーク、最高評議会メンバーの暗殺、そして地上本部のトップであるレジアス・ゲイズ中将の抹殺……彼女だけだった、己の仕事を全て終えた者は。彼女は終始ナンバーズとして行動し、死の間際でさえもナンバーズとして死することを選んだのだ。無様な社会の犬畜生のような生ではなく、自らの存在意義を貫き通しての死を……。

 「…………我が姉ドゥーエ……俺は貴方に、最上級の敬意を……」

 空間の右側から二番目の培養槽――かつて彼女が入っていた場所に手を伸ばす。十年以上も人が出入りしていなかった所為で蓄積した埃を手で払い、彼はそこに刻まれたモノを見つめる。“Ⅱ”……たったこれだけだ、名前でもなければ日付でもない、単なる製造順に付けられた番号だけがそこにあった。

 誰もこれを何とも思わないだろう。だが彼は違った、彼はここに刻まれた文字がたった一人の存在を表す為の『名前』だと知っていた。知っていたからこそ、今はもう居ない彼女にこんな形でしか考えていることを伝えられなかった。

 シリンダーの前に跪いて目を閉じて瞑想するトレーゼ……。



 それは己の感情すらどこかへ置き去りにしてしまった少年が一瞬だけ見せた哀しみの表現だったのかも知れなかった。










 11月15日午前8時、クラナガン医療センターにて――。



 「――――Zzz……」

 スバル・ナカジマは只今絶賛爆睡中だった。自宅のベッドよりも寝心地が良いのか、だらしなく開けられた口からは涎が大量に流れ出てシーツに染みを作ってしまっていた。大喰らいでおまけにこの体たらく……初見なら誰しも彼女が管理局員だとは絶対に思わないだろう。

 「うぅ~ん……むにゃむにゃ……」

 両足と右手が無いにも関わらず器用に寝返りを打つ。しかしまだ起きない、カーテンの閉まっていない窓からはとっくに冬の日差しが差し込んで来ていると言うのにそれでも起きなかった。時間的にもそろそろ担当の看護師か誰かが起こしに来るのだろうが、少なくとも彼女が自発的に起きることはまずなさそうだった。あと30分以上はこのままだろう。



 だがここで――、



 「……………………」

 ドアを開けて誰かが入って来た。一人だけだが、看護師ではない、黒い私服に身を包んでいるのが分かる。その人物は一言も発することなくスバルの寝るベッドまで近寄って来ると、傍にあった備え付けのパイプ椅子を引き摺り出して座った。肩に掛けていた大き目のバッグを床に降ろす……その際にかなり大きな音がしたが、目の前のベッドで寝ている少女には聞こえなかったようだった。

 「…………」

 その人物はしばらく椅子の上で大人しくしてはいたが、やがて静かに立ち上がると、自分の手をベッドのスバルの顔面へと伸ばし――、

 鼻を摘んだ。

 「……ん……んんっ!? フゴ、がふ! うぇっふ!!」

 人体の数少ない呼吸経路を断たれてしまったスバルは当然の如く酸素を求めて覚醒し、文字通り覚醒した。コース完走後のマラソン選手も仰天するぐらいに息を荒くし、スバルは自分の呼吸経路を断とうとした不届き者の顔を睨んだ。

 「何するのさノーヴェ!」

 「うるせぇ、人がせっかく見舞いに来てやったってのにいつまで寝てんだ」

 燃えるような赤い短髪が特徴的な少女――ナンバーズの九女ノーヴェがそこに居た。いかにも「怒ってます」と主張している表情でもってこちらを睨んでいるのが分かったが、何もそこまでして起こさなくても良いのではと必死になってスバルは抗議した。が――、

 「お前ぇな……腹空かせてるだろうって思って人様がせっかく家で作ったメシを持って来たのによ。要らねーんだな?」

 「ごめんなさい! 起き抜けでお腹が減ってて困ってるの! だから頂戴!!」

 嗚呼、我が妹ながら何とも扱い易い性格……。涙目になりながら真剣に懇願するスバルを見ながらノーヴェは胸中でそう思わずにはいられなかった。今更ではあるが、とても自分達が同一の遺伝子から生まれたなどとは到底考えられなかった。なにせこんなにも性格に差があるのだ、そう考えるのが妥当だろう。

 ともかく、このまま何もせずに居るのだけは避けた方が良さそうだった。空腹のスバルは何を仕出かすか分かったものではない、ここはさっさと彼女の目当てのモノを渡すのが先決だ。床に降ろしていたバッグを引き上げるとノーヴェは中に入れ込んでいた物を取り出し始めた。

 「ほいよ。カイン兄特製のスパゲッティだ。箸は横にテープで留めてあるから使えよ」

 彼女が出した特大タッパーにはミートソースが満遍なく絡まった麺が詰め込まれており、量はもちろんスバルが食べることを想定しての特盛りとなっていた。ちなみに、製作に腕を振るったのは、現在ナカジマ家の稼ぎ頭No.2のカインであり、義姉から学んだ調理術を余す事無く発揮して作られた一品だった。塩分控え目なのに味はそこら辺のレストランでは決して味わえない、一度食べたら病みつきになってしまう味だ。

 「いただきまーすっ!」

 早速食事体勢を取るスバル。これまた器用に左手で引っ手繰るようにしてノーヴェからタッパーを取り、蓋を開けて中の麺の塊に箸を突っ込んだ。見事に箸に麺を絡ませてはそれらを次々と口の中に放り込んでいく。どうやら本当に腹が減っていたようだった。ここまで見事な食べっぷりはここ最近では殆ど見た事がなかった。

 「ムグムグ……そう言えばさ、私が眠ってた間に何があったの? ティアには聞く暇が無かったから……」

 「ん? あぁ……まぁ、色々とあったよ」

 適当に言葉を濁しておく。別に嘘は言ってない、周囲はともかく、少なくとも自分は襲撃事件から目立った異変に関わった訳ではなかったので、然したる問題は無いはずだった。

 「ふ~ん……。あ! ギン姉は元気にしてる? 私が寝込んで落ち込んだりしてなかった?」

 「っ!!」

 一番聞かれたくない所を聞かれてしまった。流石に身内の話題までは誤魔化し切れそうにない、ここは素直に言っておくべきなのだろうか、それとも――、

 「あ、あのな! ギン姉はその……」



 「私がどうかしたのかしら?」



 と、すぐ背後で聞き覚えのある声が。あまりに唐突なその声に、思わずノーヴェは自分の首を180°回す。だがしかし、彼女がその視界を完全に真後ろに移すよりも先に……

 「ギン姉!」

 スバルの声に少し遅れる形でノーヴェはその視界に自分の姉を収めた。さっき自分が入って来たドアにはいつものように長い紺の髪を背中に流したギンガが笑顔で立っており、こちらに手を振っていた。それだけ見ると健康そのものなのだが、問題は彼女の格好だった。

 「どうしたのその服? 私服……じゃないよね」

 スバルが疑問に思うもの無理は無い、ギンガが身に着けていた服は上下共に汚れ一つ無い真っ白な服であり、左の胸元には氏名と部屋の番号が書かれたネームプレートが付いていたからだ。明らかに個人が好きで着るような服ではないことだけは確かだった。

 「俺達も居るぞ」

 こちらの疑問を余所に続いて入室してきたのはナカジマ家の家長であるゲンヤと、ギンガの婚約者であり現在ナカジマ家の調理係担当のカインだった。二人とも局の制服を着用しており、この見舞いが終わったらすぐに出勤することが窺えた。

 「どう言うことなの、ギン姉?」

 「実は昨日ね、任務中にちょっとしくじっちゃって……」

 そう言って笑いながら彼女は自分の上着を下からシャツごと少しだけ持ち上げた。本来ならそこにはシミ一つ無い女性としては自慢の肌が見えるはずだったのだが……。

 「ど、どうしたのこれ!?」

 「火傷。ちょっとヒリヒリするかな、でも大丈夫よ。応急処置だってちゃんとやってるし」

 彼女の腹部にあったもの……それは二重三重にも巻かれた包帯だった。傷そのものは隠れてしまっていて見えないが、恐らく相当なモノに違いなかった。でなければこんな患者の着るような服を身に着けている訳が無い。

 「本当に大丈夫なの……?」

 「全然平気よ。でもスバル以来よ、相手に零距離砲撃なんて喰らわされたの」

 「ギン姉に一撃って……相手は誰だったの!?」

 「それは……その…………」

 「? ギン姉?」

 珍しく言葉を濁す姉にスバルは疑問に思った。黙り込んでいるのは彼女だけではなく、その後ろに居るゲンヤとカインも同じく口を閉じたまま何も言おうとしなかった。おかしい、さっきのノーヴェと言い彼らと言い、何をそんなに黙秘したがるのだろうか? 自分の眠っている間に何が起こったのか……。

 「…………あいつだ……」

 「え?」

 数秒の間隔の後、スバルは不意にノーヴェの口から小さく出て来た声に反応した。彼女の方を見ると、俯いた視線は床を見つめており、その肩は怒りで震えているのが分かった。かつてこれ程怒っている彼女の姿を見た事は殆ど無く、余程の事態があったと言うことだけは把握出来た。

 「あいつって……誰?」

 「……お前をこんな格好にした奴だ」

 「え……? それって――」

 「ごめん、スバル!」

 「え? えぇ? えぇえ!?」

 いきなり何の脈絡も無しに頭を下げて来たノーヴェに意味も分からずに当のスバルは混乱してしまった。一体何を言いたいのか全く分からない。ただ一つ分かることがあるとすれば、彼女の言っている「あいつ」…………もしこれがスバルの予想している人物なのだとしたら……。

 「あたしはお前がやられてから……ずっとあいつを捕まえる事だけを考えてたはずなのに……! 結局何にも出来なくて、逃げられて……ギン姉までっ!!」

 「ノーヴェ……」

 「あたしは……どうしようもない…………あんなに近くに居やがったのに、何も出来なくて」

 「……もう良いんだよノーヴェ」

 「!? 何言ってやがる! お前は自分が何されたか分かってんのか!!」

 「分かってるよ。私の手足はあの時会ったあの人に切られたのも……その所為で私は……もう、二度と部隊に戻れないかも知れないことも、ちゃんと分かってる」

 「なら――!」

 「でも、違うの! そうじゃない!」

 「何が違うんだよ! お前だって悔しくないのかよ、あいつの所為で……あいつの所為で……っ!!」

 「違う……そうじゃない、何かが違う気がする」

 「だからっ! 何が違うってんだよ!!」

 「私だって分からない。自分でも何が言いたいのかなんて分からない。けど、これだけは言えることがある」

 頭に血の昇ったノーヴェに真正面から向き合うスバル。一点の濁りも無いその瞳に射竦められたのか、視線を合わせたノーヴェはそれだけで完全に黙ってしまった。

 「……言えることって何だよ?」

 「あの時――最後の瞬間に襲われたあの時……私はあの人に悪意を感じられなかった」

 「悪意を感じなかった?」

 「おいおい、そりゃあどう言う事だよ?」

 スバルの言葉にギンガとゲンヤまでもが不思議そうに反応を示した。それもそうだろう、人間の四肢を切断しておいて全くの悪意や敵意が無い訳が無い。それなのに、被害者であるはずの本人はそれを感じなかったと言い張るのだ。始めは彼女の妄言か何かだとも考えられた。しかし、いくら彼女が人一倍優しい心の持ち主言えども、自分の生き甲斐そのものまでをも打ち砕き容易く力尽くで否定した人間を許すものなのだろうか? 答えは否、断じて否である。人間はそこまで寛容ではない、どんな聖人君子であろうとも自分に対して向けられた悪意に関しては決して無視できないのだ。

 だが、それでもスバルは言い張った。

 「顔は知らない。名前も、歳も、性別だって分からない。本当に一瞬のことだったからはっきり覚えていないだけかも知れない……。でも……あの人からは何も感じられなかった。敵意も、悪意も、殺気も……なんの感情も」

 「俺はお前が何を言いたいのか、まるでさっぱりだぜ」

 「ごめん、お父さん。でも、本当に何も感じなかったの。一つだけ感じたのがあったなら、気を失う前の痛みだけ……。後は何も……」

 「スバル、それじゃあまるで貴方が容疑者を擁護しているみたいよ」

 「…………そうなのかも知れない」

 「何ですって?」

 「何でだろう? 私はあの人を責めちゃいけない気がする……。こんなこと、おかしい事だって分かってるのに……」

 「だぁ~っ! いい加減にややこしくなるから、ここらでお開きにしてくれや。スバルもノーヴェもいい加減に割り切れ。スバルは治療、ノーヴェは犯人の検挙……お前らには自分のやる事が沢山残ってるだろ? つべこべつまらねぇ事で言い合ってる前に、まずは自分の仕事をきちっとやり終わってからだ。時間は幾らでもあるんだからよぉ」

 家長ゲンヤの鶴の一声。最近ナカジマ家では長女であるギンガや婚約者のカインの発言力が大きくなってはいるが、彼は一応最年長である為、こうもはっきり言われれば流石の聞かん坊のノーヴェ言えども黙らざるを得なかった。それはスバルも同じ事であり、散々自分の言い分を否定されてヘソを曲げたのか掛け布団を頭から被り込んでしまった。

 「ま、まぁとにかく、スバルは目が覚めたし、私の方だってこれくらいの怪我で済んでるんだから、良かったじゃないの」

 「何が良かっただ……。結局スバルの手足はどうなるんだよ! 何の解決にもなってねぇよ!」

 『うむ、実はそのことなんだが、喜べスバル――』

 今までずっと事の成り行きを静観していたカインが一歩前に進み出ると、半ば強引にスバルから掛け布団を引き剥がした。何やら重大な事項を伝えねばならないようであり、呆けた顔をしているスバルに早口でそれを伝えた。

 その所為で病室が少し騒がしくなったのはまた別の話。









 同時刻、クラナガンから少し距離を置いたダウンタウンの一角にて――。



 首都の中心部と比べて幾分か治安情勢に難があるこの一帯では、中心街では御法度とされている風俗や高利貸しなどの巣窟になっている部分があり、よっぽど顔の広い者や旧くからこの周辺を知り尽くしている者でない限りは決して近寄らないことが暗黙の了解で決まっているエリアだった。おまけにここは俗に言う『その筋』の権力者が威光を利かせているいることもあってか、管理局でも有事でないと介入することは困難な場所でもあった。

 そんなこの街角には何故か朝早くから開店している小さなバーがあった。普通バーと言うモノは夜中に人間が自然と照明の下に寄る習性を利用しているので、こんな早朝から開いているのは違和感しか感じなかった。だが実際に店内へ足を運んで見ると意外にも客足はあり、幾つかの小さな円卓には大の成人男性達がグラスの酒を飲み比べていた。朝から店を開いているのも問題だが、こうして真昼間から飲酒に精を出している大人が居ると言うのも充分な問題だった。職が無い流浪者なのか、仲間内でダーツや飲み比べなどの享楽に耽っている姿はとても退廃的なモノでしかなかった。

 そんな大人達に混じって一人、何故かここに居るのが逆に不自然に映る姿があった。フロントでたった一人で佇んでグラスの中を空けているその人物は数分前にこの店が開店してすぐに入って来た者であり、ただの一度も椅子に腰を落ち着けることもなく黙々とグラスを傾け続けていた。

 「よぉ! そこの美人な姉ちゃん! そうそう、あんただよ。一緒にこっち来て俺らと一緒に飲まねぇかい!」

 その姿を遠くの席から見初めた者が居たのか、大手を振って彼女を誘った。かなり酔っているようで、足元や卓上には既に空になった酒瓶が何本も転がっており、放っておけばこのまま酔い潰れるのは目に見えていた。

 そんな男の誘いにフロントの彼女が乗るはずもなく目もくれずに黙秘を決め込んでいると――、

 「ごめんなさいね。この娘、下戸なの。あんまり飲めなくってね……勘弁してあげて♪」

 この店のマスターらしき人物がフロントの奥から出て来ると見事なまでに愛想の良い笑みで柔軟に断って見せた。マスターはそう言いながら右目で軽くウィンクする……言葉尻は物凄く優しい喋り方ではあるのだが、色々と問題があって……。

 「今度私が一緒に飲んであげるからぁん!」

 「うへぇ、こっちからお断りでい」

 「失礼するわね! あんたはこの鍛え上げられた魅惑のボディを見てちっともときめかないって言うのっ!!」

 180を越える筋骨隆々の長身に黒のエプロン姿、胸元の黒い茂みは男性特有のホルモン作用の極限に達しており、顎も見事に縦に割れている。そう、紛う事無く男性……それもかなりガチでムチムチな体型の巨漢だった。そんな大男が真顔で女口調……初見の肝っ玉の小さい人間なら泡を吹いて卒倒するようなビジュアルである。

 「ぅンフフ、あなたもごめんなさいね。あの人ちょーっと酒癖が悪いだけで、基本良い人だから」

 自分の手前で酒を飲んでいた彼女にも断りを入れるあたり、このマスターはそれ程悪い人ではなさそうだった。それまで黙っていた彼女の方も笑顔で気にしていないと答え、空になったグラスをマスターに差し出した。

 「今日は良く飲むのね、これで三杯目よ。よっぽど嫌なことでもあったのかしら?」

 「…………」

 「ふふふ、良いわよ。今日は何の用事で来たのかしら――――ティアナちゃん」

 そう言って巨漢のマスターは目の前のオレンジの長髪の女性――ティアナに口直しの為の水を渡した。ティアナの方は黙ってそれを受け取ると、酒を飲む時の倍のスピードで一気に飲み干した。

 「……少し、お尋ねしたいことがありまして……」

 「良いわよ良いわよ、私とティアナちゃんの仲じゃない。何も遠慮なんて要らないわ、どしどし聞いてちょうだぁい」

 「単刀直入に……最近この周辺で不審な人物の情報は入って来てませんか? 出来れば、11月上旬辺りからの情報でお願いします」

 「あらぁ、また漠然としてるのね。う~ん、生憎だけど、ここらへんじゃあ不審者なんてのは道端の石を投げれば当たるだけ居るからねぇ。ティアナちゃんの欲しい情報がもうちょっと細かくないとダメかしら」

 「何でも良いんです。お願いします」

 「うぅ~ん、困ったわね~。私のこの店は至って平和だし、知り合いの飲み屋でもそんな話題なんて全っ然聞かないし……」

 「そうですか……」

 「本当にごめんなさいね。何の役にも立てなくって……。精々、この間私の知り合いの飲み屋がちょっとした密売の取引場所に利用されたってのは聞いたけど、ティアナちゃんが欲しいのはそんなのじゃないでしょう?」

 「いえ……こちらこそ突然お邪魔してしまって……。また日を改めてから、もう一度」

 「構わないわよ。あなたは可愛いティーダちゃんの忘れ形見だもの。今日は何も無かったけど、次までには飲み仲間達から情報漁っておくから、期待していてねぇん♪」

 「……はい。失礼します」

 およそ二分にも満たない会話の後、ティアナはマスターに飲み代を支払うとすぐに踵を返すと外へ繋がるドアへと戻ろうとした。これで三軒目……彼女の顔が利く情報屋はこれで三軒も当たってはみたが、彼女が欲する情報は誰も持ってはいなかった。自分の親友を貶めた張本人、『“13番目”』の情報……あれだけ大々的な行動を起こしたにも関わらず、得られた情報は全くのゼロ。このエリアには干渉していないのか単に情報操作に長けているのか……恐らくは後者である可能性が高かった、単身であれだけ狡猾且つ大胆な行動を起こす人物だ、情報の一つや二つを弄るくらいどうと言うモノではないはず。彼女の予想が正しいとなると、この情報探しは難航するだろう。

 「……今日は一旦帰って情報整理しないと……」

 柄にも無くオレンジの髪を無造作に掻き毟りながらティアナは店のドアに手を掛けようとして――、



 ガチャ。



 外側から別の人に開けられた。図らずも互いに真正面から向き合う形となってしまい、ティアナは一瞬だけ面喰ってしまったが、すぐに素面に戻ると「失礼」と軽く会釈してからその脇を通り過ぎていった。

 「…………変わったファッションね、流行ってるのかしら?」

 店の外へ出て少ししてからティアナはそっと呟いた。彼女が言っているのは先程接触した人物のことだった。すれ違っただけだから詳細は分からなかったが、真冬だと言うのに上下共に白一色の服装であり、今時の若者のものとは掛け離れた奇抜なファッションだった。男性なのは確かであり外見年齢は恐らく自分と同じほどらしかったが、あの人間は自分でも嫉妬してしまいそうなぐらいに白い肌を持っていた。色素欠落でもしているのかとも思えたが、冬とは言えこの日差しの中をアルビノ体質の人間が平気で歩けるとは思えなかった。

 「……最近の男の人って化粧品でも使ってるのかしら?」

 私の彼氏はスナイパー♪ そんな題名の鼻歌を口ずさみながら彼女は帰路についた。この一帯のゴロツキ達は彼女の顔を知っている所為で誰も近寄っては来ない。『幻影の射手』と言えば誰もが知っているティアナの通り名……そんな彼女にちょっかいを出す輩はそうは居なかった。大抵のゴロツキなら道を開けるお陰で彼女は鼻歌を歌いながらでもこの往来を闊歩出来ているのだった。

 冬の朝に似合わない暖かな日差しに、頬を撫でる優しい風……何もかもが彼女を優しく包み込む。

 その所為なのだろうか、彼女はすっかり忘れてしまっていた。

 さっきすれ違ったあの人物――、

 その双眸が金色に輝いていたと言う事実を。



 「ほいよ、これが御求めの品だ。ここまで運んでくるのに苦労したぜ」

 天井のライトと小窓からの陽光だけが室内を照らすこの空間は、先程ティアナが足を運んだバーの店内だった。さっきまでフロントに居た筋骨隆々のマスターは奥の倉庫へ酒瓶の調達に行っており、今ここに居るのは数人の酒飲み達と――、

 「……感謝する」

 その中に混じって同じようにグラスに手をつけている若い少年だった。全身を雪のように白い服で包み、同じくらいの白磁の肌にはそれと対比するように紫苑の髪と金色の両眼が目立っている特徴的な少年だった。対面する男は先程フロントで酒を飲んでいたティアナに声を掛けた泥酔男であり、自分のヨレヨレの服の懐から小さなメモリースティックを取り出すとそれを少年――トレーゼへと直に手渡した。

 「元局員とは言えこの情報を手に入れるには苦労したぜぇ。お陰で財布の中がすっからかんでい!」

 「…………見取り図は、確かに頂いた。一つ、聞きたい事が、ある」

 「ングッ……ングッ……何でい?」

 酒瓶をラッパ飲みしていた男はトレーゼにアルコール臭の満点な吐息を吹き掛けながら質問に答えるべく彼にズイっと近寄った。

 「警備の数は、何人だ?」

 「さぁな、詳しい数は覚えていねぇが、素人が見てもザルだったのは確かだ。鉄壁なのは地上部分だけ。監視カメラや警報システムなんてのは形だけのもんだったし、看守だって一人が幾つもの区画を掛け持ちせにゃならん程しか人数が居ない」

 「それは、何年前の、情報だ?」

 「俺が現役だった頃ぐれぇだったからな……20年前だな」

 「……本当に、この情報は、信用に値するのか?」

 「ハッ! 管理局は自分達の膝元を固めることしか頭に無い。そんな奴らがたった20年やそこいらで体制を変えたりするもんか。特にこいつのように辺境の施設に関してはな」

 男は怒鳴るようにしてそう言った後、再び酒を喉に流し込み始めた。過去になにがあったのかは知らないが、恐らく職場であった管理局と何らかのトラブルか何かが原因で権力にモノを言わされて辞職されたのだろう。でなければこうして自分の古巣を売るようなことはしない。

 トレーゼにとってはこう言う人間が一番使い易かった。自分の私怨を少しでも晴らそうとする者はその為ならばどんな努力も犠牲も決して厭わないからだ。だからこそこの男はトレーゼの望んだ通りに管理局の“ある施設”に関する情報を全て持ってきてくれたのだ。全く以て単純、しかしそれ故にやはり使い易い駒だった。

 「報酬はもう前払いしてもらってあっから良いぜ。あぁそうだ! お前さんに一個だけ聞いておきたいことがあるんだ」

 「?」

 「こんな情報を個人で仕入れるなんざ、お前さん何考えてやがんだ? 俺にはどうにもお前さんが単なる悪戯とかやるような奴には見えねぇ。むしろ、それよりもっとドでかいことを仕出かすような気がしてならねぇんだ」

 「…………」

 「何をするつもりなんだ?」

 「……姉の……」

 「へ?」

 「姉の遺したモノを……取り返しに、行くだけだ」

 それだけ言うとトレーゼは男の脇に置かれていた、まだ栓を開けていない酒瓶を引っ手繰ると洒落たコルクの栓をこじ開け――、

 「お……おいおい……」

 一気に胃袋へと流し込み始めた。男が止めようとしたのには理由がある、単純にこの酒の度が強いからだ。煙草を吸いながらこれを飲もうものならば火を吹けるとも言われている一品であり、少なくとも飲酒の初心者が興味本位で口にするモノではないことだけは確かだった。だが男が制止するのも聞かずに彼は一度も口を瓶から離す事無く飲み続けて、栓を開けてから30秒後には完全に飲みほして見せた。こころなしか、一度に大量のアルコールを摂取した所為で頬が赤く上気しているようにも見えた。

 「……協力に、感謝する」

 空になってしまった酒瓶を男の方へ返し、彼は席を立った。とてもあれだけの量のアルコールを摂取したとは到底思えないようなはっきりとした足取りで、呆然としたままの男を後に店外へと続くドアをくぐって外へと行ってしまった。

 何もかもが一瞬……息をつかせぬとはまさにこの事なのか、男はトレーゼが出て行った後もしばらくそのままフリーズしてしまっていた。










 午前9時00分、時空管理局地上本部内のとある一室の手前にて――。



 「…………」「…………」「…………」

 「…………そんな重い沈黙を保ちながら僕を見るな」

 心底勘弁してくれと言いたげな感じで力無く言葉を捻り出しているのは、何を隠そう、管理局でも一二を争う超多忙局員のクロノ・ハラオウンその人だった。イメージカラーの黒を基調とした制服を完璧に着こなすその姿は氷の彫像のように周囲を律するオーラを放っていた。……放ってはいたのだが……。

 「ねぇクロノ君、私……何の説明も聞いて無いんだけどな?」

 「せやなぁ。あ! でもフェイトちゃんだけは知ってたみたいやけどな~?」

 「義兄さん……何でもっと早くから言っておいてくれなかったの!?」

 彼の目の前に居るのは三人の女性陣――八神はやてを筆頭しにして、高町なのは、フェイト・T・ハラオウンと言った、管理局の戦術の切り札が勢揃いしていた。三人とはかれこれ十年以上の付き合いだが、かつてこれ程までに冷やかな視線を真正面からぶつけられたことがあっただろうか? いや、無い。と言うのも、こうなるのには歴とした正当な理由があるのでして……

 「とにかくや……本当にこのドア一枚隔てた向こう側に“あいつ”がおるんやな?」

 「あぁ、間違い無い。正真正銘本物が居るはずだ」

 「ちなみに、私達を連れて来た理由は?」

 「奴に限っては可能性は限り無く低いだろうが、万が一と言うことも有り得る。言うなれば保険だな」

 半ば苦々しい口調で話しながらクロノは問題のドアを眺めた。一見して何の変哲も無いただのドア。もちろん、ドアに異常がある訳ではない、問題なのはその向こう側の部屋に居るモノが問題なのだ。

 「居るんだよね……? この部屋に」

 「せやな。四月バカには早過ぎるから、本当におるっちゅうことや」

 「…………ジェイル・スカリエッティ」

 そう、つい一時間前にヴァイスの操縦するヘリで極秘護送されて来たはずの天才科学者スカリエッティ……その彼がたった今この部屋に入れられたと言う、本来なら一般局員には風の噂ですら耳に入らないような報告がなのはとはやてに届いて来たのはほんの十分前の出来事だった。フェイトは執務官として、はやてはこの件の正当な被害者として、なのははもし彼が何か余計な事をしないようにとの抑止力としてここへ連れて来られたと言う訳だ。

 そして現在、クロノ含む四人はこうして部屋の前までやって来た。あとはこの薄いドアを開ければ、そこにはかつて敵対関係にあった狂気の科学者の姿があるはずだ。

 「……よし、開けるぞ」

 先陣を切ってクロノが一歩前へ進み出る。ゆっくりと自動ドアのタッチパネルに指先が伸ばされ、永遠にも感じられた空白の後――、

 ドアが開く。

 そこにはやはりあの天才科学者が偉そうに踏ん反り返っているはずで……



 ――――ッ♪ ――――ッ♪



 プシュー。

 そこに広がっていた光景を見た瞬間、クロノは間髪入れずにドアを閉めた。開けてから閉めるまでおよそ二秒弱。だがその間に中の様相は後ろで控えていた三人にもちゃんと見えていたようで、全員が呆然とした表情で突っ立っているだけだった。

 「…………クロノ君、何で閉めるん?」

 「いや、流石にあれは予想外だった。と言うか予想しろと言うほうが無理な話だ」

 「…………もう一回開けるね」

 一応断りを入れた後に今度はなのはがドアを開け――、



 ――――――――ッ!!!



 プシュー。

 また閉めた。

 「……………………」

 「どうだった、なのは?」

 「……居た」

 「居たって誰が? スカリエッティ?」

 「うんうん。革張りのソファの上に居た」

 「で? どんなんだった?」

 「えーっとね――」

 『人の部屋の前で井戸端会議とは些か失礼じゃないのかね、君達』

 「っ!!!」

 インターホンのスピーカーを通じて聞こえて来た粘着質の声に四人は柄にも無く身を竦めて驚きを禁じ得なかった。恐る恐るインターホンの液晶画面を見てみると、そこにはニヒルな笑み浮かべながらこちらに向かって手を振っている……

 『はろ~』

 間違い無い、スカリエッティだ。出来る事ならこのまま何も見なかったことにしてさっさと立ち去りたいとさえ思ったが、こうしてここまで来てしまった以上はもうどうすることも出来ない。素直に諦めるが吉と言うものだ。

 『そんな所で突っ立ってないで早く入り給え。客人を外で待たせる程に私は常識知らずじゃないよ』

 「……では、失礼する」

 三度目の何とやら、意を決したクロノがドアを開けて中へと押し入った。この場は勢いで押し切るのが良いと判断しての行動だったのか、それともただ単に諦めの感情が勝っての行動だったのか、後日になってもクロノがこの事について語ることはなかった。

 「失礼しま――すっ!!?」

 先頭のクロノに引き続いて入室したはやては、自分の目の前に広がっている光景に目を引ん剥いた。眼前の光景に釘付けになると同時に、彼女は背後の親友二人も自分と同じようなリアクションを取っているであろうことを余裕で予測出来た。だって……ねぇ……? いくらなんでもこれは……

 「やぁやぁ! これはこれは高町教導官に八神二佐殿、久方振りだね。君達とはいつかこうして面と向かって話をしたいと常日頃から思っていたのだよ」

 やけに爽やかな笑みを浮かべて革張りのソファの上に座っているスカリエッティ。本来ならば来賓用のゲストルームであるこの部屋を最大限にまで活用して満喫中の彼は、机の上には最高級の酒が入ったボトルを置いて、獄中での窶れがまるで嘘のように活き活きとしていた。

 ただ問題なのは……

 「て言うか、何なんや! この大量のプラモデルはっ!!?」

 部屋に入って数歩と歩かないうちに彼女らの進入を拒んだのは、机の上を重点的に室内の床面積の殆どを占領していたプラモデルの山、山、山! 既に製作完了したプラモデルが小さなモノでは10センチ、大きなモノではその倍以上の大きさはある様々なサイズが所狭しと乱雑に陳列されており、スカリエッティの背後……正確には彼の座っているソファの丁度真後ろにはまだ手のつけていない箱が平積みされてあった。

 しかもここで注目すべきなのは――、

 「あれ……このプラモ……」

 なのはが足元から拾い上げたるはスカリエッティが製作した大量のプラモの一つだった。自分の手に握ったそれをマジマジと見つめた後、彼女が言ったのは……

 「これって地球のプラモだよね?」

 手に持った人型のロボットを模したそれをフェイトにも見えるように掲げてみせた。確かにそうだった。彼女らの記憶が正しければ、このプラモの元となった原作は地球……それも自分達が住んでいた日本で30年以上もの間国民的な人気を誇っているロボットアニメだったはずだ。なのは自身は特に興味があった訳ではなかったので余り詳しい内容は覚えてはいなかったが、代わりに父や兄などがテレビなどで見ていたのを知っていたのでそれなりに知識はあった。余談だが、彼女が拾い上げたのはそのアニメの原点となった最初のシリーズで主人公が乗っていた機体であり、作中では敵兵に『白い悪魔』などと主人公に似合わない仇名をもらっていたのを覚えている。彼女はこれを見る度に自分に通ずるモノを感じて仕方無かったのだが、まぁ気の所為だろう。

 問題は、どうしてそんなものがこんな次元世界の建築物の一室にあるのかと言うことだ。それもこんなに大量に。

 「いやぁ、ここへ来てすぐに地球の友人に『暇潰しの玩具を送ってくれないか?』と聞いたら、これとDVDと言うモノを大量に速達してくれたんだよ。私はアニメと言うジャンルの映像作品を初めて見たが、まさかこれほどまでにクオリティが高いとは正直予測していなかった。『戦争』と言うリアルな舞台で『二足歩行する機動兵器』と言う本来相反する二つの要素をここまで完全に融合させるとは! 確かこのアニメを放送していたのは……日本と言ったかな? 私も一度だけ行っておけば良かったよ」

 「あんたはどこにでも友人おるな。て言うか、地球にあんたのダチって……どんな人間なんや?」

 「極普通の人間さ。身長約80センチ前後の蛙と人間を足して二で割ったような緑色の小人だがね」

 「スカさん、それ人間と違う。ただのガ○プラ大好きな宇宙人や!」

 はやての小ネタが利いた突っ込みが容赦無く飛ぶが、肝心のスカリエッティは自分の背後から新たにプラモの箱を取って来るとそこからもはや何個目になるかさえも分からなくなってしまったプラモ製作に戻っていた。新しい玩具を得た子供の様とは良く言ったもので、周囲を置き去りにしてまで自分のことに没頭するその姿は本当に子供そのものだった。およそ3分置きにすぐ横の大画面テレビから『親父にも殴られたことないのに!』とか、『ここからいなくなれぇーっ!』とか、『パワーがダンチなのよねぇ!』とかの名言が飛び出して来る中で、アニメを見ながらプラモを高速で組み立てるのは明らかに持ち前の頭脳と手先の器用さの無駄遣いだった。

 「ところで、管理局の三強ともあろう方々がここまで足を運んだのだ。用件は何だね? 言っておくが、プラモ製作の手伝いなら間に合っているよ。この私の英知を以てすれば、説明書を読まずともパッケージ写真と部品を見るだけで完璧且つ迅速に完成させて見せようじゃないか!」

 「そんな事はどうだって良い。今日はずばり聞かなければならないことがあってこうしてやって来た」

 「ほう、聞こうじゃないか。まぁ立ち話もナンだし、座り給え」

 そう言ってスカリエッティは自分の向かい側のソファの上で見事なまでのジオラマを展開していたプラモ群をさっさと撤去させた。本人曰く、「またの機会にやれば良いさ」と軽い感じで言っていた。もっとも、ソファの上から除去したと言うだけで実際は机の上に移動させただけなのだが……。

 「単刀直入に聞こう。我々管理局が『“13番目”』と呼称する戦闘機人、『No.13 トレーゼ』の事についてだ」

 「これはこれは……。質問に一切の無駄が無くてよろしい事だ」

 「答えろ。彼は一体何者なんだ?」

 「即ち、この私、ジェイル・スカリエッティの最高傑作。それ以上でもそれ以下でもない」

 余りに極端すぎるその回答にクロノは頭を抱えた。一応予測は出来てはいたがここまで予測通りだと本当に対応に困ってしまうものだった。義兄のだらしない姿に何を思ったのか、今度は変わってフェイトが身を乗り出して質問する番だった。

 「では質問を変えます。貴方は彼をどんな目的、どんなコンセプト、どんな経緯を経て生み出したのですか?」

 「話せば長くなることながら……」

 「そこを短く」

 「かくかくしかじか」

 「余計に分からんわ。真面目にやらんと次元断層にブチ込むぞ、ワレ!」

 「やれやれ、レディとは言えちょっとした冗談も通じぬようではいかんなぁ。もう少し心を広く持ち給えよ。仕方が無い、私もいい加減素直に応じるべきか」

 スカリエッティは一旦プラモ工作の手を休めると、改めて眼前の四人を睥睨した。足を組み、肘をついて頬杖にすると彼はさっきまではどこにも無かったはずの狂気の色でその眼を染め上げた。

 「全ての始まりはそう、20年以上も昔に遡る」










 同時刻、クラナガンのとある商店街にて――。



 「お買い上げ、ありがとうございました。またのお越しをお待ちしています」

 青果専門店の自動ドアを開けて出て来たのは白雪の服に身を包んだ紫苑の髪の少年――トレーゼだった。右手に下げたビニール袋には先程店内で購入してきた林檎が全部で十個入っていた。一応食用だ、ただし自分が食べる為ではない。これは全部、今から行く場所で寝ているであろう少女に与えるモノだった。『貢物』と言った方がしっくりくるだろう……結論から言うと彼女は食い物で釣った方が効率が良いと言うことに至ったからだ。

 「……………………」

 ここは既に中心街、少し遠くを見れば医療センターの建物も見えている。早朝からの訪問と言うのは何かと相手方にとっては急な来訪となるやも知れないが、あちらの都合など知ったことではないし、彼女の性格を鑑みればそんな些細な事を気にしないことなど目に見えていた。幸いにも彼女が居る座標には他のナンバーズは居ないようだった。ついさっきまではノーヴェの波長が感知出来ていたが、今は病室を離れて移動している。恐らくはナカジマ家の面子と見舞いに来ていたのだろう、ついでにさっきまで感じれていた別の波長はゼロ・ファースト――ギンガ・ナカジマのものだろうが、それも今はスバルの居る病室から距離を置いていた。昨日の戦闘で負傷した傷をあそこで癒すつもりらしいが、トレーゼとしてはあれだけのダメージを与えたにも関わらずに存命していたと言う事実に若干の驚愕を覚えた。やはり修得したての魔法では大したダメージを喰らわせるのは難しかったか。

 「…………だが、これでファーストが、前線に出る可能性は、皆無となった。しばらく、邪魔は入らない、だろう」

 道行く人々の間をすり抜けるように移動しながら彼は誰にも聞こえないような声で呟いた。そうだ、計画進行に当たって彼の障害と成り得る存在はその殆どが排除出来たことになるのだ。今頃管理局ではスカリエッティの周辺を固めようと躍起になっているはずだ。そうすることでこちらのスカリエッティ奪還を未然に阻止しようと言う魂胆なのだろう。間違ってはいない、実際どのような経緯を辿ったのだとしても自分が最終的に主を取り戻そうとしていることに変わりは無く、どの道管理局と真正面から衝突するのは目に見えている事実なのだ。

 だが彼らは何も分かってはいないのだ。彼らがスカリエッティの周辺を固めている間、こちらはこちらでずっと成すべき事を進めているのだと言うことを。主立った障害が盤面から姿を消した今、まさにこの期間が絶好の好機、水面下の脅威を彼らが知らない今がチャンスなのだ。あちらはまんまとこっちの策に嵌ったと言うことだ。

 「……?」

 青果店を出てどれ程の距離を歩いたか、ふと彼の視線の先に留まるモノがあった。この朝の中心街を河川の水流のように移動する人々の群の中に彼はあるものを見つけたのだ。それは自分と同じようにして人間達の間を縫って進んで来ており、真っ直ぐにこちらへと向かって来ているではないか。

 「……まさか」

 半ば有り得ないとは思いつつもトレーゼは右手の袋を脇に抱えて曲がり角へと身を潜めた。周囲の人間の視線を少しだけ集めてしまったが、ここは一旦身を隠すのが先決だと判断しての行動だったので仕方が無い。壁に背中をぴったりと密着させて息を潜ませ、反対側から接近してくるそいつが立ち去るのを静かに待った。

 そして、袖口から哨戒用インゼクトを放ち、自分の視神経をリンクさせることで『第三の眼球』として機能させる。それを通じて彼が道路の先に見たモノとは――、





 「……久し振りの外だが、堪能している暇は無さそうだ」

 背後から見た“彼女”はおよそ10代前半の少女であり、身長に似合わない灰色のコートを着込んで冬の街中では良く見掛ける格好をしていた。身長も同年代のそれと比較しても相当低く、大衆に紛れて見えなくなっても不思議ではなかった。

 そんな彼女がどうやって目立つと言うのか? 理由は二つある……一つは髪、老人特有の艶の無い白髪とは違う滑らかな銀の長髪を風になびかせているその姿は明らかに見てくださいと言わんばかりのモノだった。もう一つは右目、世間一般の女性はまず付けていないはずの黒く簡素な眼帯が右の眼球を完全に覆ってしまっていて、見ていてとても痛々しいことこの上なかった。

 これらの要因が彼女――チンク・ナカジマが周囲から視線を向けられている主な理由だった。もちろん、見世物のようにマジマジと見られている訳ではないので何も問題は無いのだが……。私服の上に着込んでいる灰色の防御外套のポケットから小型の通信機を取り出すと電波周波数を合わせて目的の人物へと繋げた。

 「カイン殿か。こちらチンク、たった今担当のC地区の哨戒及び情報収集を終えたところだが、何も問題は無い。だが、情報の方も何も得られなかった。どの情報屋を当たっても知らぬ存ぜぬの一点張りだった」

 彼女が報告を入れているのは上司であり自分の姉の夫となる予定の男だ。彼女とカインを含む陸士部隊総勢十数名が密かに街の哨戒に繰り出してから既に30分が経過、チンクに割り当てられた区画はこれで終了した。つい昨夜に長い謹慎処分を終えてナカジマ家に帰宅した彼女はそのまま久し振りに再会した妹達と殆ど会話することもなく任につき、こうして陸士部隊との共同作戦で行動していた。

 「敵方は相当のやり手のようだ、油断してかからない方が無難だな。…………ん? ……確かに、その“13番目”とやらは私にとって……いや、私達ナンバーズにとっては兄や弟なのだろう。私は奴の事は何も知らない。存在すら誰からも聞かされてはいなかった、ウーノもトーレも、ドクターですらその口からその個体についての情報はただの一度だって話してくれたことは無かった。正直……兄と言う実感そのものが全く湧いて来ないのだ」

 チンクは何気なく空を見上げた。雲一つ無い晴天には小鳥が数羽飛び交っていて、街には人々の笑顔と賑やかな喧騒……何もかもが自分が謹慎される前と同じ光景であった。

 「きっと私は残酷なのだろうな、例え兄弟であろうとも職務に則って対処しようとしている自分が居る……全く以て不思議なものだ、本当なら三年前に私達姉妹と一緒に共闘していたかも知れないのに」

 そう言って自嘲的な笑みを浮かべるチンク。だがしかし――、

 「だが安心してくれ。造られたとは言え私とて人の子だ。自分の妹達に危害を加えた存在を見過すつもりなど毛頭無い、私は全力で奴を捉えるのみだ。例えそれが兄弟であろうともだ」

 決意を露わにし、チンクは通信機を切って再び歩を進め始めた。遠近感が掴めないはずの視界でもふらつくことなく歩き続けるその姿は、小さいながらも強し意思が宿っていることが窺えた。

 だが――、

 「!?」

 何を感じ取ったのか、彼女は急に背後に目をやった。何も無い、たださっきと変わらない人々の流れがあるだけだった。いつもと全然変わることの無い、そんな光景……。

 「……視線を感じた気がしたが……気のせいか」

 やれやれ、長らく謹慎中だった所為で気が鋭敏化し過ぎているのだろう、帰ったら何もせずにそのまま眠ろう。そう考えながらチンクはもう一度歩き始めた。

 自分のすぐ頭上を小さな羽虫が飛んでいたことに最後まで気付かないまま……。





 「………………まずいな」

 ずっと曲がり角の影でチンクを監視していたトレーゼの口からそんな言葉が漏れ出た。彼に人並みの反応をするだけの感情があったのなら、今頃盛大に頭を抱え込んでいるはずだっただろう。

 何故ここにチンクが居るのだ!?

 恐らくは釈放されたのだろう。

 誰に? 自分の目立てが正しければ奴が留置所から出てくるのは随分先になる予定だったはずだ。

 決まっている。恐らくは局内でもかなりの権力を持つ者の差し金だろう。差し詰めクロノ・ハラオウンと言ったところか。

 だが、間違えてはならない。ここでもっとも驚愕の真実とは、チンクが釈放されたと言うことではない! 彼女が留置所から解放された……それ即ち、一緒に謹慎処分を受けていたはずの八神はやても釈放されている可能性が非常に高いと言うことだ。彼の計画の障害と成り得るモノは二つあった。まずは機動六課の元FW連中……類稀なるセンスと才能、そして環境に恵まれて訓練を施された奴らの能力値は特筆に値すると同時に脅威でもあった。計画の進行にはあの四人がどうしても邪魔であり、警戒群の中では常にマークしていた。そしてもう一つは同じく機動六課の元隊長の三名……高町なのは、フェイト・T・ハラオウン、八神はやて……通称『管理局の三強』と呼ばれる三人の魔導師達の存在だった。近年では若くして打ち立てた数々の功績からか、戦術と戦略の“切り札(ジョーカー)”とまで絶対の賞賛を浴びつつある、まさに時空管理局最大のエースと言っても過言ではないはずだ。

 だが更にここで間違ってはならない部分があることを初見の者は決して気付かない。彼にとって最も警戒すべきなのは、大空のエースオブエース高町なのはでもなければ、増してや雷光の武装執務官フェイト・T・ハラオウンでもなかった。

 恐らく彼の最大の障害と成り得る存在……それは八神はやてである。何故彼女なのかと疑問に思う方も居るかも知れない。確かに彼女は高町なのは程に戦闘において万能ではないし、総合的な頭脳面でもフェイトには見劣りするのは事実だろう。しかし、彼女の真価とは戦闘力でもなければ頭脳でもない、同年代の他の誰にも見ることの出来ない独自の発想と、それを即時実行に移せるだけの目を見張る行動力と統率力……これを脅威と言わずして何と言おう。犯罪者上がりの人間に対して風当たりが強かった局内で機動六課を設立出来たのは、確かに彼女の周辺のコネと言うのもあったのかも知れなかったが、それ以上に彼女のその発想と行動力から去来するカリスマ性に魅せられたからと言うのが大きいはずだ。

 そんな一般の凡夫には眩いばかりの魅力に満ち溢れた彼女のことだ……釈放され、事件のことを知ればどうする? 真っ先に捜査の第一線に加わって犯人の検挙に打って出るはずだ。あの女が動けば管理局と言う名の大山が文字通り揺れ動くと言っても何ら差し支えはないだろう、あの女が事を仕出かせば全ての戦況がひっくり返る……盤面が崩壊するのだ!

 「……急いては、事を仕損じる…………だが、もうこれ以上は、遅れを取れない」

 物陰から出て来たトレーゼは往来の左右を確認する。チンクの姿はもう無い、恐らくは帰還したのだろう。彼女が八神はやての命令で行動しているとなれば自分の顔を知っている可能性が非常に高い……早い段階で始末しておくに越したことはなさそうだ。

 ふと、さっきまでここを歩いていた銀髪の『妹』の姿を思い浮かべる。あの眼帯は今は亡き騎士ゼストの一撃によって負わされた傷だと言うことは知っていたが、あの傷を未だに放置していることが彼には理解出来なかった。ドクターでなくても、このミッドの先進した医療技術に掛かれば視力は戻らずとも傷痕は跡形も無く消せるはずだった。なのにそれをしない……全く以て理解不能だった。

 「……No.5『チンク』……お前は俺を知らない、か。俺は、お前を知っているのにな……製造年月日から、遺伝子提供者まで……全て」

 知らなくて当然だろう、自分がドクターのラボで生活していた時はまだ彼女はシリンダーの中……自分の顔を知っているはずもない。

 「……いずれ、相見えるか……その時には、完全に処分する」










 午前9時5分、地上本部ゲストルームにて――。



 「さて、まずは君達にナンバーズが如何様なモノなのかについて復習を兼ねて語るとしようか」

 上座のソファに乗り換えたスカリエッティは芝居掛った口調で手前の下座に座るクロノ達四人に向き直った。未だに机や床には大なり小なりの地球産プラモデルが立ち並んでおり、スカリエッティの作業速度の速さを充分に物語っていた。

 「まず……そうだな、君達は『戦闘機人』と言うモノについてどれ程の知識があるかな?」

 「人間の肉体と精密機械の、生物学的及び機械工学的に完全なる融合によって生み出された量産型人間兵器です」

 スカリエッティの質問にフェイトが間髪入れずに答えて見せた。

 「うむ、要領を得ていてよろしい。今から語る戦闘機人についての話題には倫理観念からの意見などは一切挟まない方向で進めることにしたい。その方が話の進みが早いからな」

 「御託は良いから続けてくれ」

 「せっかちだな。先程フェイト嬢の回答したように、広義において戦闘機人とは、魔法世界において主戦力である魔導師に取って代わる量産型の兵器としての側面を特化させた人造人間の事を指し示した。長い訓練と経験を積まなければ一流の戦士になれない魔導師や騎士とは違い、彼ら機人は生物的発生の時点で細胞や遺伝子に手を加えることにより、誕生と共に内蔵フレームに対応した上に頑強且つ安定した性能を持たせる事が可能な、まさに理想の兵器だ。訓練などしなくとも本番の実戦を重ねるだけで強くなっていくし、定期的なメンテナンスを行うだけで常に最高のコンディションを維持してくれるのだからな」

 「時間を掛けずに強化される、か」

 「ここまでは既存の戦闘機人の常識概念だ。通常の戦闘機人と、私の生み出した『ナンバーズ』がどう違うのか、君達は御存知かな?」

 「違いだと? ……先天固有技能のISを持っていることか?」

 「それもあるが、少し違うかな。彼女らナンバーズと既存の戦闘機人の最たる相違点……それは、通常の機人が大量生産を目的とした安物であるのに対し、ナンバーズは各々の特性を活かすことを目的とした『一芸特化型』だと言うことなのだよ」

 ここまで話し終えた彼は「分かり易く説明するとだね……」と言いながら、四人の手前の机の上に少しだけスペースを作り、そこに自分の製作したプラモを幾つか置き並べていった。

 「つまりだ、普通の戦闘機人はあくまで低コストと言うことだけが利点の、使い古しの利くポンコツと言うことさ」

 彼が机に並べたのは、マシンガンを構えたピンク色のモノアイが特徴的な濃い緑色のロボットだった。原作のアニメを見た事があるなのはの記憶が正しければ、これは確か敵軍が使用していた量産型のロボットだったはずだ。主人公の駆る機体に無残にも敗れ去っていくシーンは今でも覚えている。

 「随分な物言いだな」

 「当然だ、私は自分の生み出したモノに絶対の自信を持っているからな。それでだ、通常の機人がどんなモノか理解出来たところで次はいよいよ本題だが……私の生み出した12人のナンバーズが一芸特化型だと言うのは今さっき話したが、それぞれがどのような性能に特化しているか考えたことはあるかね?」

 「どのようなって……戦闘タイプと非戦闘タイプですか?」

 「その回答、間違ってはいないが40点と言ったところだな。確かに高町教導官の言うように、彼女らは製造目的や用途に応じて戦闘型と非戦闘型に分類されているのは事実だ。私の助手のウーノがその最たるものだろう、彼女は開発計画の初期段階から私の補佐を目的として製造されていた為に純粋な非戦闘型の形式を取っている。他の11人と比較すれば彼女個人の戦闘力は皆無に等しいことが分かるはずだ。逆に戦闘型の頂点に立っているのは実戦リーダーのトーレだろう。純粋な腕力から、防御力、機動力、戦術立案に至るまでの戦闘に関する全てにおいてトップクラスを誇っているからな。彼女に真っ向から楯突ける存在と言えば同じ戦闘型のセッテぐらいなものだろう。…………まぁ、こんな風に口だけだと理解し難いだろうから……」

 彼は再び机に手を伸ばすと、先程並べたモノアイのプラモを退かすと別の4体のプラモを置いた。青、緑、橙、白……体型はそれぞれバラついてはいるが、地球出身のなのはの記憶だと、さっきの量産ロボとは違ってこっちの方の原作アニメはつい最近のものだったはずだ。詳細なストーリーや人物構成などについての記憶は曖昧だが、近未来の世界で起こる戦争を武力で鎮圧する若きテロリスト達の物語で、このプラモはそのアニメに出てくる主役パイロットが乗りこなしている機体を玩具化したものだった……はずだ。

 「私の生み出したナンバーズの中ではウーノ、ドゥーエ、クアットロ、セインの四名を除けば、後は全員が生粋の戦闘型に分類される。だが同じ戦闘型として大別されたとしても、その戦術や攻撃方法などによってそのコンセプトは違ってくる。例えばそうだな……接近戦をメインとして戦うチンク、ノーヴェ、ディードはこれだな」

 スカリエッティの指が青い機体を摘み上げてチラつかせる。右腕の大きなブレードが特徴の機体であり、一目でそれが格闘機だと言うことが分かった。ここでまたなのはの記憶を辿れば、この機体は確かアニメで主人公が乗っていた機体のプラモのはずだった。隣ではやてが密かに「せっちゃんの機体やな」と言っていたような気がしたが、あえて何も聞こえなかったことにしておいた。世の中には何かと面倒なルールがあるのだ。

 「次に後方支援を行うオットーとディエチは……この二つだな」

 次に彼が両手で摘まんだのは、狙撃銃を構えた緑のロボットと、現代日本人男性が見たら哀愁を感じてしまいそうな全体的に豊満な白のロボット……。なるほど、ぱっと見ただけでも圧倒的火力での遠距離ゴリ押しのタイプだと言うことが分かる。もっとも、遠距離砲撃担当のディエチはそうとしても、あの一見男子と見違えるオットーがこの白のデブなロボに例えられていると言うのも可愛そうな話だ。

 「そして……高機動を活かした一撃離脱の戦法を得意としているトーレ、セッテ、ウェンディはこれだ」

 最後に取り上げたるはオレンジ色のロボット。摘まみ上げてしばらくガチャガチャと何やら忙しくパーツを弄った後、彼の手にはさっきの人型とは似ても似つかない飛行機のようなモノが出来あがっていた。なるほど、確かに機動性をイメージさせるには最適だが……何故だろう、これを見た瞬間に目頭が熱くなって来た。隣ではやてが「電池……不憫な子」と言う呟きが聞こえた時には意味も分からないのに涙腺が崩壊しかけてしまった。

 「あぁ、ちなみに解説しておくとだな、私のナンバーズ製造理論の原点となっているナカジマ姉妹……あれは言うなれば『試作機』だ。全てのナンバーズの雛形となったプロトタイプが彼女らなのだよ」

 と、ここで並んでいた4体とは別にもう一つ、床から拾い上げたそれを列に加えた。このプラモは海鳴出身組は三人とも充分知っていた、このプラモの原作アニメの一番最初のシリーズで主人公が乗っていた機体だ。そう言えば、このアニメシリーズも30周年だったか、今度実家に帰った時に改めて観賞してみよう、もちろんヴィヴィオやユーノと一緒にだ。もっとも、ユーノはともかく十代前半女子の愛娘にあの作品が理解出来るかどうかは分からなかったが……。

 「以上で何となくでも理解出来ただろう。要するに、一見して全てのナンバーズが同じように見えても、少し考えて見ればこのように千差万別……これが低コスト量産型である通常の戦闘機人と、私が生み出した一芸特化型機人『ナンバーズ』の大きな違いだ。その平々凡々な脳髄で以てして御理解頂けたかな、諸君?」

 人を完全に小バカにしたような笑みを浮かべながら自分の側頭部をその白い指先でコツコツ叩いて見せた。そして、自分の話はもう終わったのだと言わんばかりに再びプラモ製作に取り掛かり始めた。

 「ちょ、ちょっと待ってくれ! 貴方の話の流れに呑まれて忘れていたが、まだ全然肝心なことが聞けていない!」

 クロノの大声に、その隣の三人は思わず飛び上がりそうになった。そう言えばそうだ、目の前のマッドサイエンティストは始めの質問に対しての回答を行っていない。

 「トレーゼがどのような目的で製造されたかについて……だったな? そうだな、何と言ったら良いものか…………」

 ここまで来て初めて、スカリエティは少し考え込むような反応を示した。いつものように勿体ぶっている訳ではなさそうであり、しばらく顎を擦りながら長考することとなった。何をそんなに悩む必要があるのか四人には分からなかった。だがそれでも彼にとっては感慨深い何かがあるのか、彼はそのまま三分以上黙秘を決め込み続ける羽目になってしまった。

 やがて話すべき言葉を選び終わったのか、彼はふと、自分の足元から一個のプラモを拾って来た。それを何も語らずに四人の手前に置く。何の変哲も無い只のプラモだ、塗装すらしていない真っ白な状態……なのではなく、実はこの真っ白な状態で既に完成しているモノなのだ。それを置いて一拍し、彼は言葉を紡ぎ出した。

 「さっき言った題材……通常の戦闘機人とナンバーズの相違についてだが、実は違いはもう一点だけあったのだよ。通常の機人は大量生産を利につけた『道具』として生産されるのに対し、私のナンバーズは計画遂行の為の人手……即ち『人員』として生み出したと言う点だ。本来、あくまで人造物である機人には感情などは無い。そんなモノは誕生の時点でその分野を司る脳細胞を局所的に破壊することで完全に抹消されるものだ。だが私はそうしなかった、私は彼女らをあくまで意思を持った一個人として生を与えたのだ」

 「道具しての利便性よりも、人間としての柔軟性を重視したと言うことか?」

 「そうだ。それらを前提として話をするが、彼――トレーゼはそう…………今私が作っているこのプラモで例えるならば、ワンオフ機だな」

 「……僕は地球出身じゃないから、分かるように言ってくれないか」

 「製造に掛かるコストから製造プロセス上での危険性に至るまでの全てを一斉に度外視……且つ、本来全ての存在に対して有るはずの短所を圧倒的な長所で補いつつ、全体の性能を極限値までに上昇させる。もちろん、被験体である生命素体に掛かる重圧的負担なども完全に無視する」

 「それって……!」

 「そう、彼の何を極限にまで高めたのか……。それは『全て』だ、他の12人のナンバーズの特性全てを彼一人の肉体に閉じ込めた。生命に掛かる負担もリスクも全部無視してな」

 「…………」

 「そして……さっきはナンバーズを『道具』ではなく『人員』として生み出したと言ったな? 彼の場合は違うのだ、彼は私の英知と技術の粋を決して造った最高のナンバーズ……“ナンバーズを超越したナンバーズ”なのだ。故に、私は13人の中で唯一彼だけを――



 トレーゼを『道具』でも『人員』でもなく……『兵器』として製造したのだ」



 そう語る彼は指先で自分の作った純白のプラモを摘まみ上げ、やがてしばらく弄っていたそれを机の上に静かに置いた。額の部分に一角獣のような一本角を生やしたそのプラモは何も語る事無く、ただ前だけを物言わずに見据えているだけだった。










 午前9時14分、医療センターのとある病室にて――。



 「~♪」

 結論から言うとスバル・ナカジマは上機嫌だった。汚れ一つ無いベッドの上で上体を起こし、彼女は唯一健在な左手に綺麗に六等分された林檎を持って、それを夢中になって食べていた。ここだけ見れば単に食事にありつけて機嫌が良いのかとも思えるだろうが実は違う。彼女のベッドのすぐ隣のパイプ椅子に腰掛けて林檎を切っている人物……スバルの上機嫌な視線はさっきから彼の方に向けられていたのだ。

 「ん……」

 「ありがと♪」

 スバルが手持ちの林檎を食べ終えると隣で次の林檎を切っていたトレーゼが間髪入れずに代わりを手渡す。スバルの胃袋は無尽蔵だ、こうしている内に既に半分は体内に収められていた。もっともその内の二個分はトレーゼが食したのだが。

 「…………」

 丸く赤い瑞々しい林檎をヘタから下に掛けて一直線に切り、それを三回やると赤い果実は綺麗に六等分、ぎっしり実の詰まった半月形のそれから皮を剥き切る。それらの一連の動作を一寸の狂いも無く淡々と続けて行く……トレーゼの視線は完全に手元の林檎だけを見据えていた。だがしかし、その意識や注意は全て目の前の少女にのみ向けられていたのだ。

 「局の仕事は休みなの?」

 「今日は、非番だ。一応……暇」

 「そうなんだ。そう言えば、昨日は何にも言わないで帰っちゃったけど、何か用事でもあったの?」

 「あぁ、急用でな……。明日も、外せない用が、ある」

 実際嘘を言っている訳ではないので心は痛まない。もっとも、彼自身に心などと言うモノが存在しているのかとうかについては不明だが。

 「ふ~ん、そうなんだ。また暇な日で良いから顔覗かせてね。もうちょっと早く来てたらノーヴェも居たのに……」

 心底残念そうな表情をしながらも、手に持った林檎をシャリシャリと音を立てながら食す動きは止まらない。もうここまで来ると全ての本能が食事にのみ優先しているのではないかとも思えて仕方が無くなって来る。やはり試作機だからカロリー消費が自分達よりも多いのか……?

 だが一応その他の感覚機能は自分と比べても遜色ないのも事実だった。ここの病室に入ってすぐに言われた彼女の第一声が――、



 『お酒臭い……』



 だったからだ。ドアを開けて、ここに足を踏み入れた瞬間に言われたのだ……ベッドからドアまでは少なからず距離があり、その先から漂うアルコール臭を一瞬で感知したともなれば常人離れしているとしか言いようが無いだろう。確かに自分はかなり度数の高い蒸留酒を一気飲みしたが、それは一時間も前の話だ。とっくに口内のアルコール臭は消えていてもおかしくはないはずにも関わらず彼女が言い当てた所を見ると、やはり性能自体は高いようだ。むしろそうでなくては困る、最終形として造られた自分とは違って試作機とは言え、せめて必要最低限の性能は自分と同じでなければ到底話にならない。道具と言えどもタダで自分の手元には置かない……使えない、もしくは用済みと判断すれば即刻処分するつもりだ。練り歯磨きのチューブと同じである。

 「私はお酒飲んだこと無いから分かんないけど、あれって美味しいの?」

 「別に……。ただの、気休めだ、あんなもの」

 ちなみに言っておくと、ミッドの成人年齢は地球の日本と比べて若干早く、時代や地域によっては十代前半で成人を迎えると言った所も多々あり、もちろん飲酒も法的に認められているので何も問題は無い。もっとも、飲酒運転が禁止されているのだけは同じだが。

 こうしている内に、早いもので最後の林檎に手を伸ばしていた。これをカットすれば彼女の食事もこれで終わる……そうなれば彼女の注意はこちらにむけられるはずだ。

 この数日間で一つだけ分かった事柄がある。それは……『女とは心身共に脆弱な生き物』であることだ。筋力や骨格の耐久力はもちろんのこと、その精神力も雄性体と比較しても絶句する程に弱い。本当に同じ生物を素体としているのかとさえ思えてくる。

 何が友人だ。こちらが甘い言葉を掛けただけであの赤髪の少女は簡単に気を許した。

 何が自分に稽古をつけてくれだ。強さを求める事と進化へと向かうことは違うと言うことが何故分からない。

 何が優しい良い人だ。他人をそう言って思いこむ輩は自分の精神の弱さを他人で補おうとしているだけだ。

 「……………………」

 嗚呼、何故こうも失望させられることばかりなのだろうか。せめてドクターが雌性体などにしなければこのような脆弱なモノにはならなかっただろう。その点、自分の姉達は違っていた。彼女らは『個』である前に『隷』であった、創造主であるスカリエッティに対して全身全霊の敬意を表して全力を注いでいたのはあの三人だけだった。

 「……………………」

 嗚呼、ドゥーエが生きていたならば、彼女はどうしたのだろうか。この堕落した自分の妹達を見ても彼女は絶望しなかっただろうか? 自分の意思を貫き通して更正施設に入らず、そのまま獄中で過ごすことを選択しただろうか? 何はともあれ、死んでしまったものはどうしようもない……彼女が死ぬ間際、一体何を想って没したのかさえ不明だ。

 「…………死んだ者は……何を遺すのか」

 そんな言葉がトレーゼの口から出て来たのは単なる偶然だったのか、彼自身にも分からなかった。ただ何の考えも無く文字通り不意に口を突いて出て来ただけだったのかも知れなかった。何の意味も無い、ただただ意識せずに出て来た……本当にそれだけの他愛も無い妄言。



 そのはずだった。



 「トレーゼ……誰か死んだの?」

 「?」

 一瞬、スバルが突然何を言い出したのか分からなかった。だが良く良く事態を把握してみると、どうやらさっき自分が口走ったことについて聞いているらしい。さて、何と返答したら良いモノか……。

 「……………………」

 彼の選んだ選択肢は『無言』だった。何も言わずに押し黙ることでこの場をやり過ごそうとしたのだ。相手は自然と聞き間違いか独り言だと思い込み、そのまま終わって行く。それで良い、何もこのようなモノに語って聞かせる必要など――、

 「ねぇ、答えてよ」

 「……」

 と、トレーゼの林檎を切る手が止まる。ずっと下を向いていた視線がここでようやく上げられ、ベッドの上の少女へと注がれた。手に持っていた林檎は既に無く、彼女も視線も同じように自分に向けられていた。初めに見た時と同じ翠の目……だが、その目に宿った感情は初めに見た時とは全く違うモノだった。

 これは何だ? 哀れみ? 同情? いや違う、これは……一体何だ、自分の知らない目の色。何故だろう、不思議な感覚だ。

 「……………………」

 「…………死んだ人ってね、帰って来ないんだよね」

 押し黙りを続けているとスバルの方からそう言って来た。何を驚いたと言えば、彼女の口からいきなりそんな哲学的な言葉が出て来たことが何よりも驚いた。

 「私もね……お母さん亡くしたから少しは分かるけど、それって凄く悲しいよね。私もギン姉もそれから一ヶ月は泣いてたもん。泣いて泣いて、また泣いて……それから泣くのに疲れてきて……それで泣くのが嫌になって、やっとやめたの」

 「……何が言いたい?」

 「トレーゼにとって、その人ってどんな人だったの?」

 「…………姉……だな。歳の離れた」

 「どんなお姉さんだった? 綺麗な人? 優しい人? 立派な人?」

 「あれは、そのような、人間的な概念に、当て嵌まる者ではなかった。強いて言うなれば、自らに、課せられた意味を、真に理解して、いたと言うことは、言える」

 「じゃあ、良い人だったんだね」

 スバルは満面の笑みを浮かべてトレーゼの手から林檎を捥ぎ取りながら言った。対するトレーゼはただ呆然としているだけだった。紆余曲折と言う言葉があるが、彼女の言動はどこをどうすればそうなるのか全くの意味不明、まさに突拍子も無いとはこのことだった。

 「……何故、そうなる?」

 「だって、トレーゼがお姉さんの話してる時、何も嫌な事があったとかなんて言わなかったもん」

 「……………………」

 再び手元の林檎に視線を戻したスバルはまたそれを口に入れる。完全に話の流れに置き去りにされたトレーゼは自分の分も切ることすら忘れ、ただ椅子に座っていることしか出来なかった。

 確かに、故ドゥーエに関する僅かながらの記憶の中には、俗に言う『トラウマ』とか『黒歴史』と言う風に形容される内容のモノは皆無だ。とは言え、17年も昔の話である上に、ずっと培養槽の中で生命活動を続けていた所為で記憶を司る部分の脳細胞が少し多く死滅してしまっている為、それほど良く覚えている訳ではないが。

 「母を亡くしたと、言ったな?」

 彼女らナカジマ姉妹の母と言えば、言わずと知れたクイント・ナカジマのことだ。10年近く昔に自分の創造主であるスカリエッティを検挙しようとして逆に殺害され、その死体に残存したDNAはISを発言させ易くする為の因子として全てのナンバーズに組み込まれたと資料には記してあった。当然、自分の遺伝子にも入っている。死後もドクターの役に立ってくれるとは、ただの人間にしては出来過ぎたモノだと思ってはいたが、まさかこうしてその『娘』と対面するだろうとは思っていなかった。

 だから彼は、口では彼女の母を悼むような口振りでも、その心中では別のことを考えていた。

 (感謝する、クイント・ナカジマ……お前のみならず、お前の娘は、今こうして、俺の道具になろうと、している)

 人がこれを見れば冷酷と言うだろう。その通りだ、彼は非情且つ冷酷……目的の為ならば手段は決して選ばない。肉食性の虫が獲物を食する時はその事しか考えないのと同じように、彼は今やるべき最優先事項である事柄をただ実直に行うだけだった。

 「……その母は、お前に、何を遺して逝った?」

 「う~ん……友情、努力、勝利?」

 「真面目な回答か、それは?」

 「ううん、本当はね……『人を助ける事の大切さ』を教えてくれたんだと思う」

 なるほど、三文芝居の台詞だな。トレーゼは脳内で密かにそう呟いた。

 「小さかった時は知らなかったけど、私とギン姉って元々はお母さんの子供じゃなかったんだって。お母さんが任務先で保護して、そのまま養子縁組に持ち込んで私達はナカジマ家の子供になったんだけど、普通自分の子供じゃないのにまともに育てないと思うでしょ?」

 「そう言うのは、良く分からない」

 「うん。でも、これだけは言える、お母さんは私達二人をとっても愛してくれてた。死んじゃった後だって、私とギン姉に自分が使ってたデバイスを遺していってくれたもん。あの人があの両腕で助けてくれたから、今の自分が居る……そう考えてるの」

 「…………そう言うモノ、か」

 実際良く分からない。人間は所詮利害でのみ動く生き物のはずだ、なのに何故クイントはこのような自分の遺伝子を受け継いでいると言うだけで保護したのか。何の得も無い……全く理解し難い。ドゥーエはもちろんのこと、自分の原点となったあの三人は違っていた。あの三人が自分に対して教養を施していたのも、来るべき事態に備えてのモノであり、自分だってその事は理解していた。それは完璧な利害関係の上でのみ成り立っていた関係……それで当然なのだ、そうでない方がおかしい。利害無きモノなど存在しないのだ……。

 「トレーゼのお姉さんは何を遺して逝ったの?」

 「…………遺産……だな」

 「遺産? お金……じゃないよね?」

 「自身の全てを、そこに注ぎ込んだはずの、遺産……第二の自分、とも言えるモノを、彼女は遺した、はずだ」

 そう言いながら窓の外へと目をやるトレーゼ。風が流れている……窓ガラスを開けなくても分かる、木々から離れた枯葉は冬の木枯しに吹かれて何処へと消えていくのが見えるからだ。嗚呼、こんなことをこいつに話して何になると言うのだろうか。彼は今更ながらにそう考えずにはいられなかった。恐らく、自分はこれからも目の前の少女とは反りが合わないだろう……ここまで一緒の空間に身を置いているだけで調子を狂わされるとは考えてなかった。彼に人並みの感情が備わっていたなら、きっとこう思っただろう……

 不愉快だ、と。

 「……………………ぅん」

 と、ここで彼の体に異変が起きた。瞼が重い……これは眠気だ。何故突然眠くなるのだ? 既に副交感神経に切り替わりつつある脳を全開にして理由を探る。必要最低限の睡眠は取っていたし、起床する時間もレム睡眠時に覚醒するように時間調整だってしていた。なのに眠い、それは何故か?

 「どしたの、トレーゼ? 目が半開きになってるけど……」

 ふと、ここで閃いた。何故急に眠くなるのか? 簡単なことだ、ここへ来る前に吸収した大量のアルコール分……あれがたった今、全身に回ったのだ。アルコールは一度に大量摂取すると急な眠気や吐き気に見舞われると聞いたが、どうやら自分は前者だったようだ。

 意識が遠退く……四肢の自由すら利かなくなってきた……視界が完全に暗闇へと落ち込んで行くのが分かる。どうしようもない、人間をベースとしている以上は生理現象には決して逆らえないのだから。

 「トレーゼ……って、ちょ、ちょっと!?」

 この日、彼が学習したのは、自分の体内の脱水素酵素が少ないと言うことだった。

 自分の体が何か柔らかいモノに沈む感覚を覚えながら、彼の意識は完全に途絶した。握っていたナイフも下に落とし、彼はスバルのベッドに倒れ込むようにして眠るのだった。

 「…………ま、いっか」

 他人が見たらいらぬ勘違いを起こしそうな場面ではあるが、結局これからトレーゼが自然と起きるまでの間、誰もここに来なかったことをここに明記しておく。










 午前9時30分、地上本部ゲストルームにて――。



 「そう言えば、私の条件はきっちり呑んでもらえたはずなのだがな」

 地球の友人から送られて来たと言うプラモの山がとうとう三分の一となったところで、突然スカリエッティの鋭い視線がクロノに突き刺さった。明らかに余計な言葉を許さない気迫が込められており、直接向けられた訳ではないはずのフェイト達までもが震え上がった程だった。

 「クロノ君、条件って何のこと?」

 「……ここへ彼を連行するのはタダでは出来なかったと言うことだ」

 「裏取引!?」

 「おやおや、そんな三下がやるようなモノじゃないさ。私が提示した条件は何の損得も無かったはずだよ?」

 「じゃあ……一体どんな条件だったんですか?」

 「本来ならばその質問には答えなくてもいいはずなんだがねぇ。なにせ、私がここへ来る頃には、その約束は果たされていてもおかしくはないのだから」

 「こちらだって忙しいんだ。そちらの方ばかりを優先しているだけの余裕はない」

 クロノは溜息混じりにそう言って返した。フェイトを除くあとの二名はまるで状況が読めていないらしく、互いに顔を見合せながら首を傾げているだけしか出来なかった。そんな現状にとうとう痺れを切らしたのか、はやてがクロノに詰め寄って聞いて来た。

 「なぁ、クロノ君……条件って――」



 Pi―♪



 と、ここで入室を求めるインターホンが鳴った。クロノが席を立ち、真っ先にドアの方へと向かう。すぐには開けない、まずは外と中を繋ぐ唯一の窓口である液晶画面のスイッチを点けて誰が来たのかを確認してからだ。

 「…………」

 だが彼は外の人間を確認しても何のリアクションも示さなかった。終始無言で画面越しの来訪者を見つめていた彼は、不意に背後に居るスカリエッティに向き直るとこう言った。

 「たった今……貴方の提示した条件の一つが果たされました」

 彼の言葉にスカリエッティはプラモ製作の手を止め、ソファから立ち上がった。まっすぐとドアを見つめる視線は期待に満ち溢れたモノであり、普段は決して見る事の無い溌剌とした表情をしていた。相手が相手なだけに余計に新鮮なモノに見えて仕方がない。

 「うむ……提督殿、済まないがそこを退いてくれないか。なに、心配しなくても良いさ、脱走など企てんよ。ただな……」

 足元に散らばるプラモの山を器用に掻い潜りクロノに代わってドアの前に立つ。

 「久し振りの再会だから水入らずにして欲しいのだよ」

 ドアを開ける――。廊下を流れていた風が少し吹き込み、スカリエッティの男性にしては長めの髪を小さく揺らした。そこに立っていた人物を確認した時、彼の顔に初めて笑顔が宿る。

 「うむ、久し振りだな。――――ウーノ」



 「お久し振りです、ドクター」



 白い薄汚れた囚人服にウェーブの掛った薄紫の長髪、確かにそこに存在しながらもひっそりとしたその佇まいはどことなく神秘的であり、慈母の如き輝きを内包しているようにも見えた。

 ナンバーズ最古参――、

 No.1『ウーノ』が三年振りに獄中から自由になった瞬間だった。










 夢を見る……いつか見たことのある、昔の記憶の再現を脳裏に描きながら。

 頭を撫でられている。誰が撫でているのかは分からない、ぼやけていて全くその者の顔が見えない。記憶が曖昧なのかも知れなかった。

 『ねぇ、トレーゼ、知ってる? 私って顔がないのよ』

 何をおかしな事を言っているのだろう? 顔ならあるじゃないか、そのキャラメル色の髪に隠れた笑顔は何だと言うのだ?

 『そうじゃないって。私の能力は姿を変えるでしょ? あれよ、あれ』

 あぁ、そう言えばそうだった。彼女の特性はそうだった……姿を偽り、相手を欺き、貶める為の能力だ。だがそれとこれがどう関係しているのだろうか?

 『私ね……写真を見ただけでもその人に変われるの。

 髪の長い人、短い人。

 皺が多い人、少ない人。

 太っている人、痩せている人。

 背の大きい人、小さい人。

 …………能力訓練の時には30人ぐらいに変身することもあるんだから』

 それは知らなかった。いや、彼女が訓練をしていると言うのは知ってはいたが、そこまで密度の高いモノだとは聞いてなかった。

 『でもね、その所為なのか知らないけど、時々私って自分の顔がどんなのだったか忘れる時があるのよね』

 …………顔を忘れる? そんなことがあるのか?

 『嘘だと思うでしょ? でもね、一週間振りに培養槽とかから出ると、本当に思うのよ。自分の顔ってこんなのだったかしら……本当はもっと違う格好だったんじゃなかったかしらってね』

 自分には理解出来ないことだ。いくら変身を重ねたのだとしても記憶に影響があるとは思えないからだ。実際自分も数回は能力を行使したことがあったが、とてもそんな感触を覚えたことは一度も無かった。

 『良いのよ、分からなくて。ううん、分かっちゃダメなのよ、あなたは分からなくて良いの……』

 ふと、頭を撫でる手が離れ、突然抱きしめられた。女性特有の甘い体臭が鼻腔をくすぐるが、今はそんなことよりも、いきなり抱きしめられたことに驚きを感じていた。

 『あなたは私の苦しみを分からなくて良い。一生分かってくれなくたって良い……あなたは私の苦しみや辛さとは無縁の存在だもの、知らないまま生きて知らないまま死んでいく……うん、それで良いの』

 抱きしめる圧力が上がったような気がした。

 『でも……一つだけ約束して?』

 と、自分の小さな体を絡め取っていた腕が離れた。こちらの身長に合わせて彼女が腰を屈めて視線を合わせる……。

 『今のこれが私の本当の顔。これが“私”……この顔を絶対に忘れないでね。もし私が“私”の顔を忘れてもこれで大丈夫! あなたが……あなた達が覚えていてくれていれば私は“私”でいられるから』

 何をバカな、絶対に忘れるものか。安心して欲しい……例え貴方の知る誰もが貴方の存在を忘れてしまっても、自分は絶対に貴方を忘れない。ずっとこの脳に留めて覚えておく。

 あぁそうだ、思い出した……。彼女は――貴方は、もう……

 『あなたはもうすぐここから居なくなる……。だけど、このことは私の妹達にも教えておくわ。私の可愛いあなたと妹達に……』

 えぇ、是非。貴方のその言葉、それが貴方の遺したモノだと言うならば。










 午前11時23分、医療センターの一室にて――。



 「……………………」

 トレーゼはつい数分前に覚醒していた。だがまだ完全に肉体から眠気が抜け切っていないのですぐには起きれない。まだしばらくは布団に突っ伏したまま過ごさなければならないようだった。

 ふと、自分の頭に何やら重い感触があるのに気付いた。妙に温かい……これは人の手だ、誰かが自分の頭に手を乗せている。誰かなど考える必要も無い、ここには自分とこいつしか居ないのだから。

 首だけを回転させてその人物を見やる。蒼い髪のその少女は器用に上体を起こしたままで自分と同じように眠っていた。だらしなく口を半開きにしたまま無防備に……。このまま文字通り寝首を掻けるのではないかとさえ思えた。

 「ぅん…………んんっ……!」

 自分が動いたことで意識が揺り起こされたのか、スバルは目覚めの欠伸を伴って翠の双眸を開いた。微妙に口元から涎がはみ出ているのがまた何ともだらしがない。

 「んぁ、起きたんだ。いきなり寝るからびっくりしたよ~」

 にへら~、と笑顔までもがとにかくだらしない。ベッドの上にも関わらず微妙に背伸びして肩の骨を鳴らす。だがどう言う訳か頭に置いている手だけは離さないのだ。しかも何故かゆっくりと擦り続けているのも分かる。

 「……何故、頭を撫でている?」

 「ん~? 何となくかな。触り心地が良いし」

 質問に答えながらもまだ撫で続けている。以前どこかで、頭を撫でるのは一種の愛情表現だと言うのを聞いたことがあったが、どうにもそう言ったモノは分からない。もしそうだとしても、彼女がこちらに対してそのようなモノを感じる道理が無い。本当なら止めさせることも出来たのだろうが、別に不快でも何でもなかったので好きにさせておくことにした。

 「~♪ あ! そう言えば、トレーゼに言わなきゃいけないことがあったんだ!」

 「……何だ?」

 どうせまたくだらない事なのだろうと思いつつ、トレーゼは大人しく耳を傾けることにした。

 「あのね! あのねっ! 私の手足を治す事が出来る人がいるんだって!」

 「ほぅ……」

 正直驚いた。戦闘機人の四肢を修復できるだけの技量を持った者がまさかこのミッドに居るとは思いもしなかった。そんな芸当が可能なのは創造主であるドクターだけだと思っていたからだ。まぁ何にせよ、仮初であれ四肢が治ると言うのならそれに越した事は無い。こちらで修理するのも面倒だと思っていたのだし、丁度良い、誰かは知らないが精々頑張ってもらおうではないか。

 「…………それは、良かったな」

 「えへへ~♪ ありがと!」

 笑顔で心底嬉しそうに答えるスバル。……そろそろ頭を撫でるのを止めて欲しかった。










 時を遡って午前9時40分、ゲストルームにて――。



 「…………で、結局貴方は何の為にウーノを呼び寄せたんだ?」

 「愚問だな、私の助手をさせる為に決まっているだろう」

 相も変わらずにプラモ作りに精を出しているスカリエッティに対し、こめかみに青筋を立てたクロノが問い正すが、当の本人は涼しい顔でそれを受け流す。それにとうとう堪忍袋の何とやら……クロノは憤然と立ち上がって言った。

 「プラモ製作の助手かっ!!?」

 彼が怒鳴るのも無理は無い、本来ならばそれなりにややこしい手続きを幾つか踏んで初めて連行出来るところを、ウーノの場合は急遽連行しなければならなかった為に全ての手続きを後回しにしてまで連れて来たと言うのに……

 「ドクター、22番の塗装を完了しました」

 「御苦労ウーノ、次はこっちを頼むよ」

 「かしこまりました」

 彼女はいつ購入してきたのか、大量の専用塗料を駆使しながらプラモ作りに貢献しているのだった。なんでも、ここへ来る前に売店に立ち寄って購入したらしい。いつそんな暇があったのかは知らないが……。

 「そう言えば提督殿、ここへ来る直前にある男性に会ったのだが……んー、何と言ったかな?」

 「どんな人間だ? ここの局員だろう?」

 「あぁ、白髪頭の男性でね、急にこちらにやって来たかと思ったら、『うちの娘を助けてくれ!』って土下座されてね。面喰ったよ」

 「白髪……娘…………ひょっとして、ナカジマ三佐のことやないか?」

 勘の良いはやてがすぐにその人物を導き出す。なるほど、あの娘想いのゲンヤなら頭の一つや二つは下げるだろう。ちなみに、なのはとフェイトはどうしているのかと言うと、何故かウーノと一緒にプラモの塗装作業に勤しんでいた。特にフェイトは彼女に「事務仕事のコツ」とか、「上手な睡眠と食事の摂り方」などについて熱心に聞き込んでいた。同じ事務作業を担当する者として通ずるモノがあったらしい。

 「そうかそうか、彼がナカジマ三佐か。どこかで見た様な顔だと思っていたよ、ハハハ」

 景気良く笑ったスカリエッティはふとクロノ達に向き直ると、まるでちょっとそこの売店に言って来るとでも言うような口調でこう言った。



 「と言うことでスバル嬢の修理をすることになったので、よろしく」



[17818] Ⅶ+Ⅸ=Conflict
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/04/08 23:54
 11月15日午前11時30分、クラナガン医療センターにて――。



 「外せない用事って言ったけど、どこに仕事に行くの?」

 「第6無人世界『ゲルダ』」

 居眠りした時の服の皺を伸ばしながらトレーゼが素気なく答える。既にここから立ち去る準備を整えていることはスバルにも分かっていた。

 「無人世界? 何かあるの?」

 「何も……。山と、森と、湖しか無い」

 「うぇ~! そんなとこに何しに行くの? 一応仕事……だよね?」

 「あぁ、仕事だ。とは言っても、それ程、時間は掛からない」

 別に嘘は言っていない。あんな不毛な大地で長時間過ごす気などさらさら無いし、自分の作戦が何の滞り無く進行すれば数時間であそこから出れるはずだ。それに、自分はあそこの土地に用があるのではなく、あの土地にあるモノに用があるのだ。

 「お土産期待してるから!」

 「……………………」

 ドアを潜ろうとした自分にスバルが笑顔でそう言って来た。無人世界に行くと言ったのに土産を期待されるとは……ちゃんと人の話を聞いていたのか疑問に思う。

 「……………………あぁ」

 仕方が無い、適当に現地で採取した食べれそうなモノをくれてやるか。

 トレーゼの予備知識には、どんな食物も『焼けば食える』と言う概念があった。










 所変わって本部のゲストルームにて――。



 「……終わった、やっと終わった……」

 豪華な革張りのソファの上でクロノが衰弱したようにのびていた。あの氷の提督とまで呼ばれた彼がここまで脱力した様子を見せたのは何年振りだろうか……。だが彼の周りを良く見てみれば、だらしなくのびているのは彼だけではないことが分かる。隣では同じようにしてはやてがソファに体を沈めており、少し距離を置いた地べたではウーノ、なのは、フェイトの三人が並んで壁にもたれかかっていた。ちなみに、何故こうなったのかと言うと……。

 「御苦労だった、私のプラモ工作に付き合ってくれて。本当に感謝しているよ」

 上座に座るスカリエッティから正直有り難くも何とも無い労いの言葉が掛けられる。そう、地球の友人から送られて来たと言う大量のプラモデルをついさっきまで共に作らされていたのだ。何故一緒に作る羽目になったのか?

 「すみません、私の我儘に付き合ってくださって……」

 「いえいえ、気にしないでください。今日は殆ど教導官の仕事もありませんでしたし……」

 「やれやれ……ウーノは心配性だな。私の手に掛かれば誰の助けも無しにノルマを完遂出来ることぐらい知っているだろうに」

 始めは自分とスカリエッティだけで工作に励んでいたのだが、やがて現状を芳しく思わなかったウーノが頼み込んでこの場の全員に助力を要請したと言う訳だ。妻子持ちなので別に邪な目で見た訳ではないのだが、女性の頼みを無下に出来る性格をしていないクロノはそれに付き合うことにしたのだった。後に彼が語るには、「あれは書類仕事よりも疲れた」とのこと。もっとも、1000体を越える大小のプラモデルが空間を埋め尽くしていると言うのは壮観と取るべきなのか、背筋が凍ると取るのかは不明だが。

 「僕は……まだ書類の整理が残っているから……そろそろ上がらせてもらうよ」

 このメンバーの中で最も多忙であるクロノがかなり不安な足取りで出口へと向かった。ソファからドアまでの数十センチまでの間で足元のプラモを一個も踏み潰すことなく歩けたのが奇跡なぐらいな千鳥足だったにも関わらず、彼はドアに辿り着くと、「後は頼んだ……」と力無くはやてに言うとそのまま去って行った。叩き上げの中間管理職と違って提督職は激務なのだ。そして、その激務が彼を待っている……。

 「私はここで寝かせてもらうとするよ。実は昨日から熟睡してないからね……」

 そう言って数秒後、スカリエッティはソファの上で爆睡モードに突入した。どこまでも自由奔放な人だ……向かい側に座っていたはやてはそう思わずにはいられなかった。

 「ドクター、そんな所で眠られては風邪を引いてしまいます」

 主が眠りこけたのを見てすかさずウーノが立ち上がっては毛布をその上に掛ける。本当に良く出来た助手である。

 「…………あの、ウーノさん……」

 「何でしょうか、高町教導官?」

 隣で一緒に壁際にもたれ掛かっていたなのはから声を掛けられてウーノは微笑を浮かべながらそれに応える。その表情は、かつて彼女が犯罪行為の片棒を担いでいたとはとても想像できない穏やかなモノだった。その表情に緊張していた心が解れたのか、自然となのはの方も笑顔になる。

 「なのはで良いです。……あの、ウーノさんは今回の件のことを……?」

 「はい、事前に提督殿から聞かされております。襲撃事件から、廃棄都市区画での一件……ナカジマ三佐の御子女についても把握しております」

 「それでその……貴方がたにとって彼――“13番目”って、一体どんな存在なんですか?」

 もう少し遠回しに聞いた方が良かったのかも……。そんなことを考えながらもなのはは結局の所率直に聞くことにした。こう言うのは無駄無く聞き込んだ方が良いのだと判断したからだ。

 「……そうですね……あの子は、私達の“兄”であり、“弟”でもあります」

 「? それってどう言う意味ですか?」

 「いずれドクターが御話しになられることですから、私からは何も言いません。ただ……あの子は良い子でした」

 「良い子? 人の手足を切り落とす『良い子』ってのは想像つかんけどなぁ」

 「はやて……!」

 辛辣な言葉を投げ掛けたはやてをフェイトが諌めようとする。だがソファから半身を乗り出した彼女の言葉の槍は留まることを知らなかった。

 「ええから言わせて。私やかて人の子や……自分の部下や後輩があんだけ蔑ろにされて黙っておれる程大人な性格してへん。あんたらの言い分や釈明のしようによっては、私は全力で“13番目”を潰す! 何の遠慮も配慮も無しに……法的にも、物理的にも……あんたらの言う『最高傑作』を――」

 「違います! あの子を……あの子のことを物のように言わないでください!」

 「何が違うんや! さっきもスカリエッティが言うてたやんか、兵器として造ったって! あんたにとっては何なんや、何やって言うんや!!」

 後にも先にも、なのはとフェイトは自分の親友がここまで激怒しているのを見た事が無かった。身を乗り出していただけだったのが今ではその両足で憤然と立ち上がり、阿修羅の如き怒気を含んだ目でウーノを見降ろしていた。彼女がウーノに掴み掛からなかったのは、若くして上に昇りつめたその忍耐力のお陰だったのかも知れなかった。これで血の気が多かったらとっくに刃傷沙汰になっていてもおかしくはなかった。だがそれでもウーノは顔を伏せてただ黙っていることしか出来なかった。肩を震わせて今にも泣き出しそうな表情をしている。

 やがて彼女は何か言いたそうに口を微かに動かしているだけだったが、それがちゃんとした言葉となって出てくるのに時間は掛からなかった。

 「あの子は……あの子は、そうなるべきじゃなかった……ただそれだけなんです」

 「どうなるべきやったって言うんや?」

 「どうにもならなくて良かったんです。あの子は……ただそのままで……私達にとっての“希望”だったんです」










 午後12時50分、海沿いのとある街にて――。



 「ほほぅ、ここの鳥に好かれるとは珍しいね、お兄さん」

 この土地に昔から住んでいるのであろう老人が、自分のすぐ頭上を飛ぶカモメ達を見ながらそう感想を述べた。カモメ達の円らな視線の先には一人の男性が立っており、皆一様に彼の手にあるスティック型の携帯食料をねだっている様子だった。

 「ここはカモメに悪戯する連中が多いからな……あんたのようにカモメの方から寄って来てくれる者は少なくなってしもうたよ」

 老人の前に佇んでいる男性の肩や腕には一気に二、三羽のカモメが止まっていた。男性が呆然としている内に次々とスティックをついばんで行ってしまうが、当の本人は全く気にした様子も無かった。老人が見ている間にスティックは食べ尽くされてしまい、てっきり食べる物が無くなって去って行くだろうと思っていたのにカモメ達はまだ彼の周囲から離れようとしなかった。それどころか、まだ食べる物は無いだろうかと白い服の端々を突く始末だった。

 「……………………」

 「ハハハ、食い物を皆取られてしもうたか。今度からは気を付けなすってなぁ」

 老人は笑いながら去って行く。男性は呆然としたまま立ちつくすだけ……。

 「…………」

 ふと、男性が口走った――。

 「…………カモメは、食えるのか?」

 空腹と言う成す術ない現象に対してトレーゼが漏らした一言だった。










 「それでワタシの食事を食べているのですね」

 「そうだ。悪いな」

 目の前の長身の少女――セッテからパンを譲ってもらいながらトレーゼは感謝の言葉を述べた。芝生の上で互いにパンを貪る二人……。ちなみに、前回と違って今回トレーゼは正面玄関から来訪している。もっとも、管理局員だと偽って入って来ているのだけは変わらないが。

 「…………前回の、戦闘訓練で、分かったことが、ある」

 パンを完食してからトレーゼが話す言葉にセッテは微かに首を傾げた。

 「分かったこと?」

 「あぁ、お前は、俺より、弱い」

 「それはもう前回で骨身に染みて理解しています。今更挑発めいた言動を取るのは止めてください」

 「なら言おう……。お前は、接近戦重視の、戦闘に向いている」

 それまでずっと立ったままだったトレーゼが芝生の上に腰を落ち着けた。セッテもそれにつられて座り込むが、彼の言葉の真意を把握出来ていないような表情をしていた。

 「どう言うことですか? ワタシは持ち前の高機動性を活かした一撃離脱戦法を目的として開発されました。今更戦闘スタイルを変えるなどと……」

 「まぁ、聞け。以前に話したが、お前は、その大柄な体躯に、見合わない機動性を、持っている。だが、一度距離を離されると、完全に追尾出来るまでに、予想以上のタイムラグが、ある事に気付かなかったか?」

 「それは……」

 言われて見れば確かにそうだったのかも知れなかった。同じ相手を追い駆けるのでも、自分から攻撃意思を持って追うのと、一旦こちらのリーチから離れてしまった敵を追うのでは微妙にだが時間に差が出てしまうのだ。反応速度の差と言うのもあるのかも知れなかったが、それを加味したとしてもあれは流石に遅いのではないかと薄々自覚してはいた。はっきり言ってしまえば、これは戦闘機人としては致命傷に他ならない。

 「本来の、規定値に満たない性能は、確かに致命傷だ。お前の、一撃離脱型戦法は、誰かの猿真似だな?」

 「……ワタシに戦闘に関する全てを教授してくれた個体が、その戦法を最も得意としていました」

 「なるほど、門前の小僧……とか言うモノ、か。では聞くが……お前が、最も誤差を、少なく出来る、追尾射程は、どれだけだ?」

 「10から15。それ以上だとどうしてもコンマ単位で誤差が出てしまいます」

 「良し、ならば今日は、その訓練だ」

 トレーゼが立ち上がったのを見てセッテも同時に立つ。あまりに間を置かずに立ったその姿は、まるで二人が鏡映しみたいにも思える程だった。

 「この手を、握れ」

 向かい合う形となったトレーゼからいきなり差し出された左手を凝視するセッテ。別に男性に対して嫌悪感を抱いているとかではないのだが、いきなり手を出されたことの真意を理解出来なかった。何か罠か何かでもあるのではないかと思えて仕方が無くなって来る。

 「心配いらない。罠など無い……」

 信用に値するかどうかは別として、彼がわざわざ姑息な罠を掛けてくるような人物ではないことだけは確かだった。自分よりも弱い相手にその様な姑息な手段を今更使って来ると言うのも考え難かった。

 「…………」

 10秒だけ考えた後、結局彼女は自分の左手を差し出し、両者は丁度握手する形となった。トレーゼの手を掴んで真っ先に彼女が思ったのは、「冷たい」だった。冬とは言え彼の手の温度はまるで無く、氷のバケツに腕を丸ごと突っ込んでいるような感触が彼女の神経を伝導していた。血行が悪いのかとも考えたその時――、



 「離すなよ?」



 「へ――?」

 ここから先、彼女は一瞬言葉を失った。

 五指が内側へと捻じ曲げられる……! これは圧力、それも半端ない力だ。皮膚は引き伸ばされ、筋肉は外部からの物理的圧搾力を悲鳴を上げた。

 「な、何を……っ!?」

 予期せぬ痛覚に悶えながらもなんとか体勢を保ち、セッテが眼前で平然と立ったままのトレーゼに問い詰めた。既に手の感覚が痛覚に支配されてしまい、握り返すことすら出来ない状態だったが、如何せんその手は目の前の彼に万力のように締められているので離そうにも離せない。

 「これで、俺はお前を、お前は俺を、絶対に離せなくなった」

 「何故、このような……」

 「互いを、互いのリーチに、捉え続ける為だ。今から行う訓練……それは、敵との、相対距離を、一定に保ち続ける、モノだ」

 「――ッ!!」

 一瞬の出来事だった……鼻先数ミリで停止したトレーゼの拳を凝視しながら彼女は固唾を呑んだ。殺気を感じたのはほんの刹那だった。その瞬きさえも許容されない世界に、今自分が立たされていることを彼女はたった今自覚したのだ。

 「相手を、自分の圏内にて、捉え続け、且つ、逃がさない……それが、身に着くまで、続行する」

 「…………ルールの有無は?」

 「左手が使用不可、及び、左腕への攻撃も不可。それ以外は、無いモノと、思って構わない」

 「そうですか……」

 セッテが構える。全身に殺気を纏って相手を威嚇しつつ、その視線はずっと腰と両足を見つめ続ける。そうすることで常に相手の動作を予測しようとしているのだ。もっとも、セッテ自身彼を相手にそれが通用するかどうかさえ不明だったが。

 「……来い」

 「参ります」

 互いの鍛え抜かれた鋼の足が芝生を陥没させんと踏み締める。左手以外の全身の全てを臨戦体勢へと突入させ、互いを牽制し合うがそれも長くはもたないと言うことなど直感で分かっていた。

 「……………………」

 「……………………」

 「……………………」

 「……………………」

 「……はぁっ!!」

 「……ッ!!」

 セッテの掛け声がゴングとなり、両者の鉄拳が今、互いの顔面へと放たれた。










 「クロノから事前報告は聞いてはいたけど……」

 限られた空き時間を利用してゲストルームに顔を出したユーノはその光景に唖然とした。無理も無いだろう、目の前の空間を大小様々なプラモに占領されていたなら誰だって似たようなリアクションを取るだろう。おまけに自分の友人達がその部屋の隅っこで脱力し切っている姿を見たら自然と、「何があったんだ?」と思わざるを得ない。

 「これは予想以上に凄いね。ここを整理することを思えば、無限書庫の資料捜索の方が幾分マシに思えてくる……よっと!」

 足元のプラモ群を飛び越えてソファに華麗に着地し、隣で何か不機嫌な表情を浮かべていたはやてへと声を掛ける。

 「どうしたの? 何か嫌なことでもあった?」

 「んー、別に。そこで睡眠こいとるアホらしい科学者の趣味に付き合って疲れただけや」

 彼女の指差す方向にある上座のソファでは、三年前までは敵同士だったマッドサイエンティストがいびきまでかきながら熟睡していた。色んな意味でシュールな光景だと改めて実感させられる。

 「そう言うユーノ君は何でここへ来たん? クロノ君に聞いて来たって言うてたけど……」

 「うん、実はこの前の騎士カリムの下した預言の解析についてなんだけどね、この件には博士にも是非協力して欲しいとのことでね」

 「預言解析? 内容はグリフィス君通して私も確認はしたけど、例年と比べて量が多いだけやったら解析班だけで何とか出来るやろ?」

 「あぁ……実はその……あんまり大きな声では言えないような事もあってね……」

 「?」

 珍しく歯切れの悪い幼馴染に、はやてのみならず他の二人も怪訝そうな表情を浮かべた。そして予感……ただでさえ心配性な彼がここまで言葉を濁すことなど、そうそう有り得ることではない。そして、それは同時に彼自身が恐ろしいことを予見していると言うことでもあった。更にここで運が悪いのは、彼の予測はほぼ間違いなく必中すると言うことだ。今まで良くも悪くも彼の予測が外れた事などただの一度だって無い。

 「ここには私達しかおらんから、言いたいことがあったらハッキリ言いや」

 「その前に、博士を起こして欲しいんだ。さっきも言ったけど、この件はこの人の協力無しには進められそうにないんだ」

 「承知しました、スクライア司書長」

 すぐさまウーノが立ち上がり、ソファの上で眠りこける主を起こすべく彼の肩にそっと手を触れた。その手つきはまるで居眠りしている学生を起こすような優しいものだったが、それでもスカリエッティを覚醒へと導くには充分だったようだ。

 「何だねウーノ、私はまだ寝足りないのだが…………おぉ、これはこれは」

 目元を骨が見える痩せた手で擦りながら、スカリエッティはいつの間にか席に加わったユーノを目に収めると興味を抱いたのか、彼に握手を求める手を差し出して来た。

 「お若い司書長殿、かねてよりお噂は耳にしているよ。いつか君とはこうして話をしてみたいと思っていた」

 「稀代の天才科学者にそう言われるとは光栄ですね」

 「それで……わざわざ私を起こしてまでしなければならない用件なのだろう? 実は私は前々から聖王教会の『預言』について興味があってね、こうしてそれの解析に携わらせてもらえるなんて楽しみだよ」

 子供が新しい玩具を与えられたかのような満面の笑みを浮かべてソファの上を飛び回るスカリエッティに苦笑しながらも、ユーノは自分が持って来ていたファイルから紙を取り出した。はやて達はこれが管理局内で事務的に扱われる正式な書類だと言うことを見抜いていた。ユーノはその紙面を確認しながら一言――、

 「まず、管理局預言解析班はこの度正式に今年度の預言解析から手を引くことが完全に決定されました」

 「はいっ!?」

 一瞬、この幼馴染は一体何を言い出すのだろうと、隣のはやて達は思わずには居られなかった。預言が解析されたと言う情報は担当執務官であるフェイトにはもちろん、その解析の進行情報すら聞き及んでいないはずだった。つまりは預言の完全解析は成されていないはずなのだ。にも関わらず、毎年のように解析作業に携わって来た彼の口から聞かされた事実は皆を一様に驚愕させた。

 ただ一人を除いては……。

 「ふ~む……司書長殿、一つお尋ねするが、その解析班のメンバーはどのような構成なのかな?」

 「管路局直轄の魔導師育成機関で古代ベルカ語を専攻していた人達を中心にして構成されています。中には僕の様な民間学者の方々も混じってはいますが」

 「くくく……なるほどな、そう言うことか。それは確かに解析計画を中止せざるを得ないな」

 「?? あのー、どう言う意味かさっぱり分からないんですけど……?」

 恐らくこの空間において最も知能指数が高いであろう二人だけで話が進んで行くのを見てなのはが質問をする。一瞬空気が凍りついた所為で、質問した本人ですら「私何か間違った事言ったかな?」と言う表情で固まっていた。

 「あぁー、そう言えばなのは達にはまだ事情説明してなかったっけ」

 「構わんさ、司書長殿がここまでヒントを出してくださっているのに閃かないのが悪いのだ」

 「教えてくださ~い、スカ博士!」

 「勝手に人の名前を略さないでくれたまえ。つまり要約するとだな、解析班の構成員は高学歴とは言え全員が一般局員……中には司書長殿のように民間からの協力者も多々居る。一方で『預言』は局内では指折りの重要機密だ、その情報が教会から管理局にもたらされた時点で管理局にとっては向こう数年分の命運が決定するのだから当然と言えば当然だろう」

 「つまり?」

 「つまりも何も、この二つの要点のギャップが招くモノは何だ? 『預言』と言うパンドラの箱には何が入っているかは開けるまで分からないが、危険なモノが混入されていることだけは確定的に明らかだ。だがおかしいかな、そんな危険且つ重要なモノを携わる者達は揃いも揃って口のガバガバな一般局員達に過ぎない。もし……もし仮にだ、誰かが暗号の塊である『預言』を解き明かす過程において、そこに含まれている情報が途轍もなく危険極まりないモノだと勘付いたなら、どう思う? 扱っているのは一般局員、だが出てくるのは重要機密……」

 「なるほど、そう言うことやったんか。それ程の重要機密が解析の過程で知られれば情報漏洩はもちろん、下手すりゃ局内に混乱を来たすってことか」

 「流石は若くして異例の出世を遂げた八神二佐、察しが良くて何よりだ。恐らくこの司書長殿は解析の過程にあたって誰よりも早く『預言』が内包する危険情報に気付いたのだろう。そして、自身の友人であるハラオウン提督殿に依頼してまで預言解析班を今年度の『預言』から撤退させた……そうだろう?」

 「その通りです博士」

 「でもでも! 危険性が云々って言うんだったら、それは今までだって同じことだったんじゃ……?」

 「だからこそ私なのだろう? 違うか?」

 ソファの上で踏ん反り返って、どこから取り出したのか分からないシガーチョコを口に咥える。スカリエッティのニヒルな笑みが張り着いた視線はまるでこちらの全てを見透かそうとしているようで気味が悪かったが、彼はそんな事お構い無しに話を続ける。

 「司書長殿が予見した危険性がこの私……もしくはこの私に関わる“何か”に対して深く関係していると言う事に他ならないと言うことさ。して、その案件は何なのかね? この私無くしては解決出来んのだろう?」

 「…………まずはこの資料を御覧ください」

 ユーノがファイルから取り出した一枚の紙を手に取り、それを凝視するスカリエッティ。二つの眼球が規則的に左右を往復し、紙面の内容を完全に確認するのに30秒と掛からなかった。

 「……これが今年度の『預言』と言う訳か。初めて目にするが、古代ベルカ人は詩人だなぁ、ただの暗号文ではなくこの様な品のある詩文形式でもって衆人に警告を促すとは……」

 「ご確認頂けましたか?」

 「あぁもちろんさ、この私の脳髄を以てすればこれ位の長さの文など暗記するなど容易いことだ。で、お若い司書長殿が危険性を嗅ぎ取った部分とは何処なのかね?」

 「『13番目の使徒』……そして、近い未来その存在に加担するであろうことが示唆されている『裏切りの使徒』……この二つについてです」










 結論から言うと彼女――セッテの旗色は最悪だった。片手を封じられたとは言えそれは相手も同じ条件下……身長の差はもちろんのこと、腕の長さから体重差も全てこちらが勝っていたはずだった。

 なのにこの有様……

 「遅い……」

 「ぐあっ!!」

 左顔面を殴打、腹部に強烈な膝蹴り、右脚部を足払い……こちらが優勢だろうが劣勢だろうが目の前の少年の猛攻は止まることをまるで知らなかった。胸元を掴めば地面に叩きつけ、長い桃色の髪を握れば振り回し、体勢を立て直そうとすれば容赦なく背中を踏みつけて追撃……まるでリンチ、前回ここを彼が訪れた時と何も変わらないただの一方的な虐げだった。

 だが、そんな彼女にも転機が訪れた。

 「――ッ!!」

 トレーゼが放った回し蹴りを寸前で回避した彼女はトレーゼに一瞬の隙が生じたのを見逃さなかった。左腕への攻撃は認められていないが、その左腕を利用してはいけないとは言われてはいない。体勢を立て直させる暇も与えずに彼女はトレーゼの左手を引き寄せた。そのまま右拳で彼の顔面を――、

 「詰めが甘い」

 「なっ!!?」

 片足と言う不安定なバランス状況を逆に利用したトレーゼは回し蹴りの時に発生した慣性のエネルギーを利用して左回転、当然その時の回転でセッテの左手も引き寄せられ、彼女の繰り出した右拳は完全にその軌道を逸らされてしまった。それだけではない、攻撃が外された事で体勢に難を来たした彼女はそのままトレーゼに右腕を掴まれ、見事に背負い投げ……偉大なる慣性の法則と重力によって叩きつけられてしまった。

 さてここで問題なのは、彼女が何に激突したかである……。普通常識で考えれば、背負い投げされた彼女は綺麗な放物線を描いて芝生の上に落ちたことになるのだろうが、今回は少しだけ違っていた。

 「……?」

 トレーゼは自分が掴んでいた左手が完全に脱力してしまっていることに気付いた。ついさっきまでは一応相手側も離すまいと握り返していたはずが、どう言う訳かだらしなく垂れ下がっているだけとなっていた。

 始めは気絶してしまっているのかとも考えたのだが、手の動きからして一応意識はあるようだった。何事かと思いつつ彼が背後のセッテに目をやると……

 「…………あ」

 自分でも間抜けな声を出してしまったものだと思わずにはいられなかった。それもそのはず、互いに片手を掴み合ったまま格闘訓練をしていた二人はいつの間にかレクリルームの端の方へと移動してしまっていたらしく、二人が今立っているのは壁際となっていた。つまり、トレーゼが背負い投げたセッテが激突したのは芝生の地面ではなく、脱獄防止用の耐衝撃防壁だったと言うことだ。

 「……………………」

 「……ぐ……うぅっ!」

 地面でうつ伏せになっているセッテには目もくれず、彼は白い防壁へと目をやった。赤いシミ……手に取ってみるとネバついており、独特な生臭さが鼻腔の嗅覚神経を刺激した。少なくとも、彼の知る限りではこんな液体は数える程しか無く、彼はまさかと思いつつも足元で苦痛に悶えるセッテを裏返した。

 「……………………」

 「あぁ……ぁ……」

 前回は手加減してのモノだったのですぐ治ったらしいのだが、はっきり言って今回は加減無しでやってしまった分面倒だった。顔面の下半分は鼻から流れ出た大量の血液で塗れており、重力に従って落下するそれらの所為で緑の芝生は一部赤く染まってしまっていた。失血で脱力した顔を見ると、心なしか涙目になっているようにも見える。

 「…………少し、待っていろ」

 「…………」

 足元で転がっている彼女の上体を無理に起こして顔を下に向けて応急処置を取った後、彼は一旦レクリルームを後にした。向かう場所はそう――、

 医務室である。










 「ではスクライア司書長殿、君が推測したこの文面に出てくる幾つかの単語についてご教授願おうか」

 「はい。まずはこの預言の冒頭にあります『法の塔は二度倒れる』ですが、この部分に関しては三年前に貴方達が引き起こしたJ・S事件の時に下された予言にも同じモノがあったことから、『法の塔=地上本部』と言う解釈で今回も通っています。それが二度倒れる……一回目に“倒れ”たのは三年前の地上本部襲撃事件ですから、今度また高確率でこの地上本部が狙われると言うことです」

 地上本部襲撃……耳から離れかけていたその単語に隣の海鳴三人娘が身を強張らせた。あの惨劇が再び繰り返されるとなれば、同じ管理局に身を置く者として緊張せざるを得ないだろう。

 「続いて、『統治者は彼の者を――』と言う節ですが、ここで言う統治者とは恐らく次元世界の統治者……即ち、時空管理局そのものだと思われます。その管理局が許さない……つまり局は彼に対して法で裁き、法を以てして排除しようとすることを暗示しています」

 「おぉ怖い怖い。権力者はやることが強引過ぎる。それで……始めに聞いた『使徒』の部分なのだが、君はある程度の仮説・推測は立っていると言うじゃないか。今の内に聞かせてもらえないだろうかな?」

 「……『13番目の使徒』……この単語は恐らく“13番目”そのものを指していると思われます」

 「状況的に考えてもそうだろうな。それで、ここで言う『使徒』とは何だね?」

 「『13番目の使徒=“13番目”』と言う方程式を前提で話をすれば、ここで語られる『使徒』に対する定義も自ずと見えてきます。彼は13番目のナンバーズ……と言う事は、『使徒=ナンバーズ』と言う風に定義すれば全ての説明がつきます」

 「なるほどな、ではここの『袂を分かった使徒』と言うのは地上に降りた更正組のナンバーズ達と言うことになるな。彼女達は悪く言ってしまえばナンバーズとしての自覚は無きに等しいからな。“ナンバーズではなくなったナンバーズ”と言う訳だ」

 「ちょっと待ってください! ではまさか……『裏切りの使徒』と言うのは……!?」

 ユーノの言わんとしている事を察したのか、それまで無言で成り行きを静観しているだけだったウーノが身を乗り出して来た。彼女が何を考えたのか一々聞かずとも周囲は分かっていた。何故なら、ユーノもなのは達もスカリエッティも全く同じ答えに辿り着いていたからだ。

 「も、もしユーノ君の言っていることが正しいなら……」

 「『裏切りの使徒』……つまりナンバーズ側から彼に加担する者が一人、居るはずなんだ」










 「これで、良し」

 「……ありがとうございます」

 芝生の上に座っているセッテの周りには鼻血を拭き取ったティッシュが大量に散乱しており、トレーゼはそれらの回収作業に当たっていた。セッテの顔面の丁度真ん中の鼻には止血とクッションを兼ねたガーゼが当てられており、顔を濡らしていた血液も残らずタオルで拭きとられていた。

 「痛みは?」

 「大丈夫です」

 「五分経ったら、ガーゼを交換する。それまでは、安静にしろ」

 「いえ、今すぐにでも訓練の再開を要求します。ワタシはまだ敗北を認めたわけでは――」



 「手負いの草食動物が、引き際を間違えるとどうなるか、知らないか?」



 「ッ!?」

 セッテはいつの間にか自分の胸倉を掴まれていることに驚愕を隠せなかった。いつもの彼女なら決して目で追えない速度ではなかったはずなのに、彼の右腕を見切ることが出来なかったのだ。

 「失血で、脳に酸素が、届いていない。その状態で、激しい運動を、継続的に行えば、酸欠で気絶するぞ」

 「…………」

 「悪いが、互いが万全な状態で無い限り、訓練を、続行するつもりは、ない」

 トレーゼに諭されたセッテは大人しく腰を降ろすと、自分が顔面から激突した壁に体を預けた。左手が使えないと言うだけでいつもとは違う体力を消費してしまった……鼻血による失血の所為もあるが、彼女は完全に脱力した状態となっていた。今までにこんな状態に陥るような事態があっただろうか。

 と、彼女に向かい合う形でトレーゼも芝生に腰を落ち着けた。改めて彼の顔を眺めて見て分かったことがある……金色に染まった眼球の瞳は常人と違う輝きを持っているように見えたのだ。もちろん、彼の目は感情が欠落しているのは変わり無い。彼がどこを見ていて、その際に何を思っているのかなど全く分からないし、ひょっとしたら何も考えていないのかも知れない。ただ分かったのは、彼が自分と同じ“欠落した存在”だと言う事……そして、彼の顔を以前、それもそれ程昔ではない時期に見た様な気がしていた。

 「貴方に初めて会った気がしません」

 「三文芝居の、台詞は、気に入らない」

 一蹴された。別に彼女がロマンチストである訳ではなく、自分の考えた言葉を率直に告げたら自然とこうなっただけだ。実際彼をどこかで見た様な気がするのは事実だ。さらに正確に言うなれば、彼に似た人物をどこかで見たような気がするのだ。彼に酷似した人物などそうそう居ないだろうから、その人物は自分も良く知るところの人間と言うことになるのだろうが、何故だろう、思い出せない。

 「……貴方は良くワタシに構うのですね」

 「こちらの、都合だ」

 「世間一般では貴方の事を“優しい”と形容するのでしょうね」

 「お前もか……いい加減に、してくれ」

 それまでずっと無表情を貫き通していたトレーゼの顔に初めて陰りが差したのをセッテは見逃さなかった。常人から見たらそんなに大したリアクションを取ったようには見えなかったかも知れないが、これまで交流を重ねた彼女は何となくだが彼の微かな心情の変化を察知出来るまでになっていた。そして、今彼は何やら不機嫌そうであった。

 「何故そんなに不快な反応を?」

 「自分の、身の程も弁えない、馬鹿な女と、同じ言葉だったからだ」

 「貴方はその人の事をよほど嫌悪しているようですね」

 「別に、あれだけじゃない。世間で言う、“嫌い”と言う感情を、俺は全てのモノに、向けている。お前も、例外ではない」

 「ワタシは貴方に嫌われているのですね」

 「そうだ。だから、お前も、俺を嫌悪しろ……それが、お前の力となる」

 「その提案は却下します」

 「……なに?」

 セッテの言葉に話のペースを崩されたトレーゼは思わず彼女の言葉を聞き直した。ついさっきまで余所を向いているだけだった彼女の視線はいつの間にか自分を穴が開くのではと思う程に凝視していた。素人が見ても分かる……彼女の視線は強い意志が宿っている、他人の言動には決して惑わされない強い意志が……。

 「ワタシは自分のやり方で貴方を凌駕する力を手に入れます。ですから、貴方の指図は絶対に受けません」

 「ならば、やってみろ。出来るのならな……」

 「はい、いずれ……。ですが、ワタシにはどうしても……貴方と初対面だとは思えないのです」

 「……………………」

 「本当に……以前どこかで貴方と、もしくは貴方に良く似た人物に出会ったような気が……」

 「気のせいだ。本当に……気のせいだ」

 次の瞬間にトレーゼは芝生の上に腕枕を敷いて目を閉じた。「少し、寝る」と一言だけ言った後、壁際へと転がるようにして移動し、そのまま寝息を立ててしまった。どこまでもマイペースな人間……セッテの冷え切った脳は図らずもそう考えていた。

 「…………貴方はどこから来て……どこへ行くのですか?」










 結論から言えば、ノーヴェは暇だったのだ。チンクの謹慎が解かれたと聞いた時は柄にも無く狂喜してしまったが、何故か今朝からずっと肝心な彼女との連絡が取れないでいた。父のゲンヤ曰く、「カインに連れ出されたんじゃないのか」とのことだが、実は彼とも連絡が取れていない。よっぽど仕事が忙しくなければあの几帳面な二人が何の連絡も無しに家を離れたままにしているなど有り得ないことではあったが、今の彼女にとってそんな事はそれ程重要な事では無く、むしろ今のこの暇な時間をどう過ごすかについてが最大の課題だった。別に非番なのだから自宅で余暇を過ごすと言うのも選択肢の一つではあったが、それではむしろ物足りない。彼女の性格上、体を動かさずに時間を浪費するのは性にあっていなかったのだ。かと言って、甘ったるいスポーツジムに行く趣味なども無い。彼女は一対一での格闘形式を何よりも重んずる為、室内に置かれているだけの器具を相手に肉体を鍛えるなどと言う惰弱な考えは元から無かった。

 ではどうするか? 今彼女の知る限りで自分の稽古に付き合ってくれそうな……もしくは付き合えるだけの技量を持ち合わせた人物はそうそう居ない。スバルは当然無理であるし、ギンガも今現在は入院中、義兄カインと実姉チンクも仕事中で何処に居るかも不明……。後のナカジマ家には自分とタメを張れる者は居そうになく、彼女の希望は潰えたかにも思えた。

 しかし、良く良く考えて見れば一人だけ居た。つい最近になって地上に降りて来た生意気な妹……ナンバーズ最強から手解きを受けていた彼女ならば自分の相手が務まるやも知れなかった。もっとも、前回顔合わせした時にはあちらの実力を思い知らされたが、今回は一方的にやられるつもりは毛頭無かった。むしろ逆転してやろうと言う意気込みがあった。

 「局員証、確認しました。どうぞ」

 「ん、どうも」

 海上更正施設の正面玄関の窓口で局員証を提示した彼女は、同じく危険物検査をクリアしたジェットエッジを片手に一般通路を進む。この一般通路は内部の更正者用のものとは違い、外部からの来客者専用に造られた道である為、この通路を出所する元更正人以外が通ることは殆ど無い。道行く人々も大半がここの職員であり、中には三年前から見知った顔もあった。

 さて、もうすぐ自分達が慣れ親しんでいたレクリルームが見えてくる。そこではあの無愛想極まりない妹が一人で格闘訓練を……

 「……………………」

 しているはずだったのだが……。

 「……あぁ、ノーヴェですか。今日は何の用です? 生憎とワタシはこのように安静の身ですから、訓練はつけられませんよ」

 芝生の上に腰を落ち着け壁に背を預けるセッテ……こんなに気の抜けた彼女を未だかつて見た事が無かった。確かにこんな格好なら他の人間で例えたなら幾らでも居そうな気はするが、忘れてはならない、相手はあのセッテなのだ。起立、気をつけ、構え、休め……一度立てば戦闘以外にはその四つの動作しかしなかったはずの彼女が自分の意思で腰を降ろしたままで居る姿など想像していなかったのだ。

 「ってか、鼻どうしたんだよそれ?」

 「これですか? 図らずもワタシの顔面に多大なダメージを与えた張本人が今こちらで睡眠中ですので、直接聞いてください」

 「お前ぇの顔面に一発入れるって、一体どんな奴なんだ…………って、えぇ!!?」

 ノーヴェは自分でもこんな大声が喉の奥からひじり出されるなどとは思っていなかった。セッテの指差した方向に居た人物……紫苑の短髪と日光を知らないかのような白磁の肌が特徴的なこの人物を彼女が見紛うはずがない。そう、ノーヴェ・ナカジマが人生で一番最初に得た友人……トレーゼがそこで眠りこけていた。

 「な、何でこいつがここに……!?」

 「何故って……ワタシの格闘訓練の為に決まっています」

 「はぁ!?」

 「彼の戦闘技術には目を見張るモノがあります。ワタシはそれらを実技を通じて直接学んでいるだけです」

 「だけですってなぁ……お前はこいつの都合を――」

 「彼とは合意の上で成り立っている関係です。貴方に一々口出しされる覚えはありません」

 「ご、合意の関係って……!」

 セッテの口から出た単語を深読みしてしまったノーヴェは自分でも顔が赤くなるのを感じていた。頭ではそんな事ではないと理解はしているのだが、どうにも理性的な考え方が出来ないのは性格上どうしようもなかった。

 「いつまでそうして立っているつもりですか? いい加減座ったらどうです」

 「お前から座るのを勧められるとか……」

 「ワタシだって不本意ながら人間の形をしている以上、いつまでも立っていたらそれが体力の浪費に繋がる事ぐらい知っています。ワタシがそんな無駄な事をする性格に見えますか?」

 「違ぇねーな。じゃ、隣に座るぞ」

 そう言ってセッテのすぐ横に座り込むノーヴェ。持ち込んだジェットエッジもついでに脇へと置いておく。せっかく彼女を頼ってやって来たと言うのに無駄足になってしまった……だが、予期せぬ再会があったのは嬉しかった、今時の人間とは違って何の連絡手段も持っていない彼とこうしてまた会えるとなると彼女にとっては天文学的数値の奇跡と等しかった。

 「何をニヤニヤしているんですか、少し気味が悪いですよ」

 嗚呼、我が妹ながら口調にトゲが沢山……。教育係が最強であると同時にナンバーズで最も寡黙な性格が原因なのか、彼女の言い分は歯に衣着せないと言うのか、あえて棘々しく言っていると言うのか……とにかく初対面の人間なら間違い無く心証が悪化する言動しか取らなかった。付き合いが短いとは言え、姉である自分ですら癪に障るような事しか言って来ないのだから困ったものである。

 「御覧の通り、ワタシはまともに訓練を出来る状態ではありませんので、早急に帰還されることを推奨します」

 ほら、またこれだ。こめかみの青筋が盛大に過剰反応してはいるが、ここは年長者らしく堪えるのが道理と言うモノ、チンクだってそう言っていた。ここは大人しく冷静に返すべきである。

 「いいよ別に。トレーゼが起きたら付き合ってもらうだけだし」

 彼とは未だ一度も手合わせをした事が無いが、セッテとも互角に渡り合う程の実力を持っていることは確かだ。その点で言えば彼を稽古の相手にするのは間違ってはいないだろう。

 だが――、



 「悪いですが、帰ってください」



 「……は?」

 隣の妹からの言葉にノーヴェは思わずそちらの方を凝視した。セッテの方は相変わらず膝を抱えた体勢のまま暇そうに足元の草を弄っているだけで、時折隣で眠っているトレーゼに視線を移してはまた足元に視線を向けると言う繰り返しをしていた。

 「……何だってお前にそんな事指図されなきゃなんねーんだよ」

 少し語気が強くなってしまったが、今のノーヴェにそんな事にまで気を回す余裕は無かった。今の妹のズケズケとした物言いに彼女の精神的忍耐力は一気にレッドゾーンへと突入していたからだ。今この妹は自分に向かって何と言った?

 「……………………」

 対してセッテは無言を貫き通すだけだった。ノーヴェ自身にはまるで興味が無いとでも言いたげな表情で足元の芝生しか見てはいなかった。その仕草が逆にノーヴェの神経を逆撫でしているなどとは知らずに彼女は続けてこう言った。

 「貴方の実力程度では彼とは釣り合いません。それは彼の強さの質を落とす可能性も孕んでいます。ですからワタシは推奨するのです……」

 セッテの目が初めてノーヴェの金色の目を捉える。そして、ただでさえ気の短い彼女の最後の一線を容易に打ち破る決定打を、堂々と真正面から放ったのだ。

 そう――、

 「彼の強さの質が落ちる前に、二度と彼に接触しないでください」

 彼女――ノーヴェにとってはまさに宣戦布告と同義である言葉が弾丸となり、今ここで、発砲されたのだった。










 夢を見る……。今自分が居る空間は見覚えがある。幅のある室内に並んだ八台の培養槽……右半分は自分達が入っていた物で、あとの四台は未だそこから出た事の無い“妹達”が入っていた。いつ出てくるかは分からない……だが必ず出てくると信じていた。

 ふと、人の気配。背後から近づくそれは敵ではない、むしろその逆、自分と同じ同類の匂いだった。背後を振り向くと、そこには自分よりも頭一つ分身長の大きい少女の姿があった。もちろん知っている顔だ。彼女はまっすぐこちらへ足を運ぶと、自分の隣に並んで自分と同じように眼前の培養槽を見上げた。自分と同じ金色の瞳は、自分とは違う輝きを持っているのが分かった。何故彼女にあんな表情が出来るのかは分からなかった。いや、昔は分かっていたのかも知れなかった、何かの紆余曲折を辿った結果として分からなくなったのだろうが、自分には何故なのかは全く分からなかった。

 『またここに居たのか。お前も好きだな』

 隣の少女が話し掛けて来た。彼女は呆れ半分と言った感じの表情でこちらを見下ろし、頭に手を置いてきた。以前から彼女が自分に対して行う一種の愛情表現……とでも言うモノだった。彼女は何かある度に自分の頭を撫でていた……自分にいつも構っていたのを今でも鮮明に覚えている。

 『こうして待っていても、こいつ達が出てくるのはまだまだもっと先だ。お前は“待つ”と言うことを知った方が良い』

 そんなことは分かっている。今こうして眺めている限りでは水中の少女達は死んでいるかのように微動だにしていなかった。実際は生きてはいるのだが、彼女らの脳は常時生体電位を操作されており、必要時以外に目覚めることはなかった。そして、その『必要時』が来るのは隣の彼女が言うようにまだずっと先なのだ。少なくとも後10年は来ない……。

 残念だ、とても……。頭では理解していてもどうしようもなく期待してしまう……仕方ない、今は大人しく待つしかないのだろうな。



 だが――、



 『馬鹿な! 動いただと!? 生体電位に異常が……ウーノは何をやっているんだ!』

 すかさず彼女の声と視線の先へと顔を向ける。左端から二番目の培養槽……そこに閉じ込められている桃色の髪が特徴的な被験体の四肢が僅かだが動いていた。目蓋こそ閉じてはいるが、自分には分かる、この個体はもうすぐ目覚めてしまうだろう。酸素吸入はされているので問題は無いのだろうが、もし彼女が槽内でパニックでも起こせば一大事だ、その場合は槽内の液を全て排出して一旦彼女を外部に出さなければならなくなるだろう。生みの親であるドクターからは彼女らが如何に重要な個体であるのかは重々聞かされている……万が一に備えていつでも培養槽のガラスを砕く準備は整っていた。

 『目覚めるぞ!』

 手足の動きが静かになると、やがてその陽光を知らない二つの目蓋がゆっくりと開けられた。覚醒してしばらくは、自分よりもずっと小さな二つの眼球が液中の左右上下をキョロキョロと忙しく動いていたが、やがて自分の手をゆっくりと持ち上げるとそれを凝視し始めた。その彼女の行動は始めに予測していたようなパニックなどとは程遠く、むしろ外見年齢とは掛け離れた落ち着きを見せていた。

 『驚いた……まさかこれだけの短い時間で自分の置かれた状況を理解して受け入れるなんて……!』

 どうやら驚愕していたのは自分だけではなかったようだった。培養槽の中の少女はとっくに何事も無かったかのように液中に浮遊しており、二つの小さな眼だけをこちらに向けているだけだった。

 『あれを見ていると、初めてお前が目を開けた時の事を思い出す。お前もあいつと同じような感じだった。やはり兄妹は似るのだな』

 妹……? あれが?

 『そうだ。こいつだけじゃない、今ここに居る全員が私達の“妹”となるのだ、良く覚えておけ。だが、こいつだけはお前にとっても特別な存在になる』

 何故?

 『ドクターに仰せつかっているのだ。この個体は将来この私が教育を務めることが決定されているのだ。私はお前の“直接の姉”……そしてその私が育てるのだから、こいつはお前の“妹”でもあるのだ』

 これが……妹か……正直実感が無い。

 『今はそれで良いさ。いずれはこいつもお前を“兄”だと認識出来るようになる。その時は、お前もいい加減に年上としての自覚を持てよ?』

 ……こいつの名前は?

 『名前か……。私達の名は所詮番号でしかない……こいつは確か……“Ⅶ”か。セッテ、こいつの名前はセッテだ』

 培養槽のプレートに刻まれていた番号を確認しながら彼女が個体の名前を教えてくれる。培養槽に入ったままのセッテと呼ばれた少女は糸の切れた人形のように液中に浮遊しているだけで、外界の一切に興味が無いかのようだった。

 だが、ふと彼女の視線が自分を一直線に向いていることに気が付いた。生まれて初めて目を開けたのにもう視力があるらしく、その証拠にこちらが移動するとそれに合わせて目線を変えて来るのだ。

 『ほう、お前に懐いたようだな。手を振ってみたらどうだ? 意外と振り返してくれるかも知れないぞ』

 言われて半信半疑だったが一応手を振って見る。始めは何の反応も期待してはいなかったのだが、驚いたことに少女は僅かな間を置いた後にゆっくりと自身の右手を振って見せたのだ。ここの培養槽に居る少女達は今までここから出た事が無く、それは言わば意識がはっきりとしていない胎児の状態だった。にも関わらず、彼女はこちらに反応を返してくれた。それはまさに、小さき肉体に生命が宿っているのを目の当たりにした瞬間でもあったのだ。

 『お前がこいつにとって良き兄たらんことを……』

 ここで視界がぼやけて来た。夢の終わりが近づいて来ているのだろう……元々夢は眠りの浅い時に見るモノだから当然と言えば当然なのだろうが、もう少しこのままで居たかったような気もしないではない。まぁ17年も前の記憶を脳の奥底で蓄積していたことには自分でも驚いたが……。

 ……何か喧騒が聞こえる。現実世界で何かあったのだろうか? どの道起きなければ分からない……そして、自分が完全に眠りから覚めるのにはもう少しだけ時間が掛かるようだった。










 怒りで視界が真っ赤になると言う現象を、ノーヴェはこの時初めて理解した。頭に血が昇っていた間、自分が何をしていたのか覚えが無く、気付けば目の前の芝生にはセッテが倒れ込んでいるだけだった。そのすぐ横には彼女が鼻に付けていたガーゼが外れて落ちており、まだ乾いていない赤い飛沫が所々に飛び散っていた。

 「はぁ……はぁ……!」

 次に彼女に感覚が戻って来た時、自分の右拳が異様に熱を持っていることに気付かされた。固く握った右手は相手の顔面を殴打した所為で節々が痛く、激しい怒りによって上昇した血圧と心拍で息は喉が痛くなる程極限に上がっていた。

 「てめぇ、黙って聞いていりゃあ何様のつもりなんだよ!!」

 芝生の上で倒れていたセッテを非情にも胸倉を掴んで引き起こし、ヤクザも顔負けな勢いで彼女に詰め寄るノーヴェ。セッテの鼻からはトレーゼによって壁に叩きつけられた時ほどではないが、殴られた所為で治りかけていた鼻の粘膜が再び破れて赤い動脈血が流れ出ていた。酸素を豊富に含んだそれは重力に逆らうことなく口元から顎を伝って落下し、胸倉を掴んでいたノーヴェの両手にも付着した。

 「……………………」

 セッテは何も言わない。彼女の目は何の感情も含んではいなかった……怒りも、悲しみも、恐怖も、何もかも彼女は見せることはなかったのだ。

 「何とか言えってんだよ!」

 ノーヴェが怒声を張ってもセッテの鉄面皮は崩れない。むしろ彼女の怒りが大きく激しくなるほどに彼女の表情はいつもよりも固くなっているようにも見えた。それがさらにノーヴェの怒りを促進させていることには気付かずに……。

 ただ不思議だったのは、戦闘型として造られた彼女が身内とは言えこうして真正面から堂々と殴られたのに対し、何の抵抗も仕返しもして来ないと言うのだけは理解出来なかった。自分に危害を加えた者を徹底的に排除するように教育されているはずの彼女がこの状態……ノーヴェの煮え滾った脳の一部ではその疑問だけが渦巻いていた。

 やがてノーヴェが冷静さを取り戻す頃にはセッテの鼻血も止まり、ノーヴェはその疑問を口にした。

 「何で……何で何も抵抗しねぇんだよ」

 「何故だと思います?」

 「聞いてんのはこっちなんだよ! 答えろって言ってんだろ!」

 「…………彼に言われましたから」

 セッテの視線が横に逸れる。それはノーヴェから目を逸らそうとしているのではなく、自分の横で眠ったままのトレーゼを見つめようとしていた。

 「何であいつの言う事は聞くんだよ……」

 「それは……分かりません」

 「っ! ふざけんなぁ!!!」

 セッテの言葉の何が癪に障ったのかは分からないが、再び怒りの沸点を迎えたノーヴェはまたもやセッテの顔面を殴った。

 もう一度殴る。今度は腹部だ、顔面だけでは物足りない、この怒りを発散させるだけの回数は殴るつもりだった。

 三発目。

 四発目。

 五発目。

 六発目…………。

 ノーヴェが自分の製造番号と同じ回数だけ殴打した頃には、セッテの顔面は内出血だらけで見るも痛々しい外観に変貌してしまっていた。特に左顔面は右拳で殴り続けていた所為で左顔面は痣や瘤で見れたモノではなくなっていた。

 「……お前はトレーゼの何なんだよ? 何の権利とかがあってそんなこと言いやがるんだ」

 「そう言う貴方はどうなんですか、ノーヴェ。貴方は彼の何なのですか?」

 「友達さ」

 「本当にそうですか? 本当は貴方が勝手にそう思い込んでいるだけなのではないですか?」

 「黙ってろ、ブン殴られてぇのか!」

 「安心してください。彼はワタシの事を嫌っているようです」

 「ざまぁみろ。お前みたいな無愛想な奴……嫌われて当然だ」



 「彼は貴方の事も嫌いのようですが」



 「――――え?」

 ノーヴェは自分の頭に強い衝撃が走るのを感じ、思わず握り締めていた手を離し掛けそうになった。もちろん、目の前の妹に攻撃を受けた訳ではない。彼女は最初に攻撃も反撃もしないと宣言している……彼女は嘘はつかない分、自身の言ったことは絶対に曲げない性格をしていたのでその点は安心だ。

 彼女の受けた衝撃……それは精神的なモノだった。想像してみて欲しい……彼女は先発組とは違ってこの世に生を受けてからの期間が短い。通常の戦闘機人とは違って人格を与えられているとは言え、元々は戦うことを目的として造られた分、その精神年齢はどうしても外見年齢に見合わない事が多いのだ。現に三年前にギンガとカルタスが社会教育の為に教鞭を執っていた時には、女性として最低限身に付けておかなければならない性的予備知識ですらほぼゼロに等しかったぐらいだった。情操教育の蓄積が極端に薄い彼女らは思考面でも未熟な部分があるのはもちろんの事、自分にとって不都合な事実は考える事無く根っから否定しようとするし、一度自分が気に入ればまるで火が点いたかのように執心する……まるで幼子、子供そのものなのだ。

 それは当然のことながらノーヴェも例外ではなく、直接聞いた訳ではないにしても自分は友人だと思っていた者から突然『嫌い』などと言われたなら、そのショックは計り知れない。もしこれがティアナやウェンディが言ったのなら、嘘張ったりや冗談などと言う考え方ぐらいは出来たのだろう……だが、間違えてはならない、相手はあのセッテなのだ。嘘も冗談も絶対に口にしない鋼鉄のナンバーズ……12人の中では教育を施したトーレよりも“ナンバーズ”と言う概念を体現していると言っても過言ではない存在である彼女が、そんな俗人的な言動をするなど到底考えられなかった。だが、つまりそれは彼女の言った事が真実であると言うことになってしまい……

 「嘘だ、そんなの嘘に決まってる!」

 「嘘ではありません。彼は言いました……自分はこの世の全てを“嫌悪”している、と。例えそれが人であれ、物であれ……」

 「嘘だ……こいつが……トレーゼはそんな事言わない、絶対に!!」

 「そんな確証がどこにあるのですか? 貴方は彼の何を分かっているつもりでそう言い切れるのですか? 貴方は彼にとっての何だと言うのですか?」

 「だから! あたしはこいつの友達だって言ってんだろ!」

 「ですから……それだって貴方が自分勝手にそう思っているだけです」

 「――っ!! この減らず口がぁっ!!!」

 最早怒りなどと言う生温い言葉では表現出来なくなってしまった程の感情……即ち憎悪が彼女の背筋を、脳髄を、四肢を駆け巡った。右拳を今まで以上に固く握り締めた彼女はそれを大きく振り被り、セッテの顔面目掛けて鉄槌の如く振り下ろす。さっきまでは怒りによって湧き上がる力を無造作に出していただけだったからまだ良かったものの、今度は間を置いた事で冷静さを取り戻した所為で性質が悪かった。より正確に相手に壊滅的ダメージを与える為、彼女の拳骨は人体で最も脆弱であろう顔面の二つの器官……眼球を狙っていた。いくらセッテとは言え、眼球を破壊されればたまったモノではないのは確実だ。

 しかしセッテは微動だにしない。まるで何かを悟ったかのような穏やかな目でノーヴェを見つめ返すだけだった。ついに顔の寸前にまで迫った拳にも一切怯える事無く平然としていた。その澄ました態度が余計にノーヴェの心の嗜虐心を駆り立てるとも知らずに……。

 だが――、今思えばセッテはこの数瞬後に起こるであろう出来事を知っていたのかもしれなかった。だからノーヴェの暴力を見過すような事が出来たのかも知れなかった。

 そして彼女は忘れないだろう……自分の背後から、自分だけにしか聞こえなかった小さな声で、聞こえて来た単語のことを……。










 「IS、No.13……『――――』発動」










 (な、何だよこれ!?)

 ノーヴェは困惑する、自分の身に降り掛かった事態を把握出来ずに混乱を極めていた。怒りで熱を持っていた四肢が冷や汗と共に冷却されてゆく中で、彼女の脳は必死に今起きている現象について解析を試みていた。

 腕が固い! 握り締めた拳がそのままセメントで硬化されてしまったかのようにその場で停止してしまっていた。突き出す事も引き戻す事も出来ず、それが右腕だけでなく全身に渡って硬化現象が起きていたのだから仰天しない方がおかしな話だ。まるでバインドだが、この施設はありとあらゆる魔法が許可無しでは使用できないシステムとなっている上、彼女のセンサーには魔力の反応は全く感知されなかった。何よりも、バインド魔法特有の光の帯やそれに準ずるモノが見当たらないことも彼女に混乱を来たしている要素の一つだった。

 なんとか眼球だけの自由は残されていたようで、自分の視線を腕から再び目の前の妹へと切り換えた。

 「あ――!」

 自分の視界に映ったモノ……それを見てノーヴェは無意識に小さな声を上げてしまった。彼女の視線はセッテではなくその背後、芝生の上にゆっくりと立ち上がった人物に向けられていた。

 「トレーゼ……?」

 言葉に詰まる……。ノーヴェの目に映る寝起きのトレーゼの姿……それは彼女の全く知らない禍々しいまでの雰囲気を纏っていた。顔こそいつもと同じ完璧な無表情だったが、その金色の双眸はまるで猛禽類はおろか、サバンナの百獣の王ですら一目散に逃走を図ろうとするのではないかと錯覚してしまいそうな邪気を含んでいた。その邪眼とも形容出来るそれが、今自分を凝視している……その事実がノーヴェにはどうしても理解出来なかった。

 「……………………」

 不意にトレーゼがこちらへ近付き始めた。足元の芝生を踏み締めながらゆっくりと……その姿にノーヴェは震え上がった。もちろん恐怖でだ。人間としての部分に根強く存在している生存本能が彼女の脳裏にて盛大に警鐘を鳴り響かせる。彼女は持ち前の強靭な脚力を利用してすぐに背後に飛び退こうとするが、依然として彼女の四肢は蛇女の眼に睨まれたかのように固まったままで動かすことは適わなかった。そうしている間にも彼との距離は徐々に狭くなり、やがてセッテとの間に割り込んで来た彼は――、

 「……………………」

 拳を構えたままの姿の自分を見下ろしながら彼は終始無言だった。別にセッテを一方的に殴りつけていたことを責めるでもなく、ただこうして立っているだけなのに、ノーヴェは嫌な予感がしてならなかった。

 そして、その嫌な予感は遂に現実のモノとなって彼女に突きつけられた。

 視界の隅で微かに動いたモノ……それはトレーゼの右手。開いて垂れ下がっていた五指がいつの間にか掌の内側へと折り曲げられ、拳を形成していた。固く握り締められたそれはゆっくりと目線の高さまで上がり――、



 ノーヴェの顔面に炸裂した。



 「のぶぁ!!!」

 ここでやっと身体の自由が利いたのも束の間、ナンバーズで二番目に小さな体躯である彼女は後方の耐衝撃防壁に激突するまで回転を続け、壁にぶつかることでようやく停止した。

 「な、何を……!?」

 駄目だ、不可視の拘束から解放されたかと思ったらまだ指先や下半身の感覚が覚束ない。無理に立とうと試みるものの、殴られたことで視界までもぼやけてしまっているのでどうしようもなかった。だが視界がはっきりしていなくても、向こう側からトレーゼがこちらへ向かって来ているのだけは分かった。

 再び自分の眼前に立った彼は追撃を仕掛けてくるでもなく、ただ自分の目の前に立ち塞がっているだけだった。

 「……………………」

 「……………………」

 「……………………」

 「……………………」

 「……お前は、今の自分の、戦闘スタイルを、変えた方が良い」

 長く重苦しい沈黙の後にトレーゼが口にしたその言葉を、意外にもノーヴェが冷静に受け止められたのは奇跡だったのだろうか。それともただ単に殴られた精神的ショックで呆けていただけだったのか……とにかく彼女が何の反論も罵詈雑言も吐かなかったのは事実だ。

 「今俺は、お前の顔面を、セッテに対して行ったのと、同じ威力で殴打した。数回殴打して、累計したダメージを、抜いて考えても、セッテよりもお前の方が、防御力が高い……」

 「…………」

 「お前は、とにかく、その防御力を利用して、相手をジリ貧に、持ち込み、急所を的確に突く……。それだけだ」

 「あ! ど、どこに……」

 言う事だけ手短に言い渡したトレーゼはそのまま踵を返すと、ノーヴェの質問に一切答える事無く一直線にセッテの元へと歩み寄った。壁にもたれてダウンしていた彼女の肩を掴み上げると、自分よりもずっと体重差の大きい彼女を軽く抱きかかえて移動を開始した。

 「どこに行くんだよ?」

 「医務室。顔面の、内出血を、このままにしておけば、酷くなる」

 「なら、あたしも一緒に――!」

 「来るな」

 急いで駆けようとしたノーヴェの足が止まる。底冷えするかのような擬感覚化された悪寒が彼女の全身を包み込み、その足を止めたのだ。これ以上接近することは出来ない……獣の本能とも呼ぶべき卓越した戦闘経験が彼女にそう告げていた。大人しく彼女はその場で座り込み、彼に抱きかかえられたセッテを恨めしそうに見ることしかしなかった。

 「……今は、誰とも、話す気分ではない」

 ノーヴェに聞こえない小さな声でそう呟くと、トレーゼはセッテを医務室へと運ぶ通路に足を踏み入れた。ただ一人だけレクリルームに残されたノーヴェは自身の心に吹き荒む一陣の哀愁の風をどう対処すれば良いのか分からずに、ただ途方に暮れていることしか出来ていなかった。










 「話は変わるんだがね司書長殿。地上に強引に移送されたセッテの件なのだが……彼女の調子はどうかね?」

 「施設の担当員からの報告では、万事問題無く更正プログラムは進んでいるようですが」

 『預言』の会談で一段落終えたのか、暇そうに自分の作ったプラモを弄っていたスカリエッティはふと思い出したのか、一番最後に生み出した娘について聞いてきた。ユーノに変わってフェイトが応答したが彼女の言っていることに嘘は無く、実際にセッテの更正教育は順調に進んでいるのは確かである。しかし――、

 「ただ一つ……悩みのタネと言うのがあって……」

 「対人関係、だな? 予想はしてはいたが、どのようなモノなのかね?」

 机にプラモを置いたスカリエッティは、思案するかのように顎を撫でながらフェイトの話に聞き入っていた。よほど自分の末子が心配なのか……。

 「問題が起こっていないのが問題と言いますか、誰に対しても何の興味も示そうとせず、寡黙過ぎる傾向が目立ちます。社会では無意識に孤立してしまうタイプです」

 「やはりな。一応懸念はしていたのだが、そこまで酷なモノだったとはな……。実はな、私は三年前のノーヴェに対しても同じことを気にしていたのだよ」

 「ノーヴェに……ですか?」

 さっきまでのセッテの話とは一見まるで関係無い名前が出て来たことに衆人は驚きを隠せなかった。話を聞いていたユーノも資料写真などでセッテとノーヴェ、両者のことは知ってはいたが何の引き合いで出されたのかについては理解出来なかった。

 「ノーヴェは元々は12人の姉妹の中では最も他人に依存してしまい易い性格をしていた。常に自分の精神の欠けた部分を他人で補完しようと躍起になっている部分があったが、あのような常時気勢を張っている人間には良く有り勝ちな現象だと、私自身は見過していた。本来ならノーヴェはスバル嬢と瓜二つの性格をしていても全く不自然ではなかったはずなのだ」

 「それが何故あの様な頑なな人格に?」

 「全てがその所為とは言わんが、教育者であるチンクの影響もあるだろうな。彼女は後発組の纏め役としては非情に優秀だ……その敏腕を一個人の教育の為に振るい、ノーヴェを一流のナンバーズの一員として育て上げて見せた。私にとっても計画にとっても、実に大きな貢献をしてくれたのだが……所詮はそれまででしかなかったと言うことだ」

 「それまで……と言うのは?」

 「彼女はノーヴェに対して戦士として一流の教育を施したが、一個人が学ぶべき『人として』の教育はそれ程重要視していなかった。恐らくは計画が一段落終えた後で教育するつもりだったのだろうが、そうする前にナンバーズは離散し、教育者と言う立ち位置はそっくり丸ごとゲンヤ・ナカジマに移されたことで、彼女の教育者としての任は御役御免となったと言う本末さ。教育者が移り変わったことで、本来ノーヴェに身に付くはずだった『人間性』や『他人との適度な人間関係の築き方』などの一部が欠け落ち、現在の彼女の人格を形成付ける一因となってしまったと言うわけだな」

 なるほど、戦士として自分以外の他人を排除……もしくは距離を置くと言う思考を優先的にしてしまう傾向のみが彼女の心に根差していると言うことだ。もし計画が成功して彼女が人間としての教育を受けていたならと考えると、惜しいことをしてしまったとも思える。

 「対してセッテは教育者であるトーレの性格上からも分かるように、戦闘目的を重視した教育法を取っていた。ありとあらゆる戦術にたいして常に柔軟且つ迅速、それでいて正確な処理がこなせるようにな。だが彼女はチンクとは違って公と私を上手く織り混ぜることでセッテを『人間らしく』成長させようとしていた。彼女は最強であると同時に『最賢』でもあったからなぁ……」

 「でも彼女は12人の中で最も人間性が薄いです。どう言うことですか?」

 「それはトーレの責任ではないよ。セッテ、オットー、ディード……この三人の人間性を完膚無きまでに削除するようにプランを提出し、それを実行に移したのはクアットロだ。オットーとディードは双子と言う利点を無意識に活かして互いの欠けた人間性を補完し合う事が出来たが、如何せんセッテにはその様な人間が居なかった……」

 「だから……彼女は人間としての部分が欠けてしまっているから対人関係が希薄だと?」

 「そうだ。本来ならば、彼女にはオットーとディードのように対になる存在が用意されているはずだったのだが、どうも儘ならない事ばかりだ」

 「ならどうしてその対になるナンバーズを造らんかったんや?」

 「造ったさ。その為の彼……その為のトレーゼだった」

 スカリエッティの独白に同じ人造生命であるフェイトは思う所があるのか、ただ押し黙って沈黙しているだけだった。彼女はずっと考えていたのだ、同じ造られた命である自分と彼女とで何故あそこまで違ったのか、と。

 答えは至極簡単だった。自分と違って彼女達には支えとなるモノが無かった。支えが無くても自立出来る程に彼女達の精神力は強かった。だが、強い反面、そのどこかでは弱かった。だから彼女達は欠落していたのだ……無意識に弱い部分を心から削り取ってしまったから……。

 「…………八神二佐、確か君の守護騎士にシャマルと言う医療担当の騎士が居たな?」

 「それがどうかしたんか?」

 「すまないが、医療センター側に頼んでスバル嬢を本部の彼女の医務室に移送するように頼んでくれないか? 私があちらに行くよりも、彼女の方を連れて来た方が何かと都合が良いはずだ。君達にとってもね」

 「了解。それは今すぐでええんやね?」

 「問題無い。必要な医療道具や部品などは後ほど用意してもらえればそれで良い」

 「ほな、行って来るわ。後はよろしくな、なのはちゃん、フェイトちゃん、ユーノ君」

 渋々とした納得の行かないと言いたげな表情で退室したはやては、そのまま医務室へと急行した。かつての敵にコキ使われると言うのは何かと不自然な感じもするのだろう。

 「……司書長殿、君達の言う“13番目”に対する処置に関してだが、今ここで方針を決定しても良いかな?」

 「今ここで? ……貴方がですか?」

 「そうだ。20年近く管理下を離れていたとは言え、あれは今でも私の所有物だ。さすれば、管理者であり生みの親でもある私が今後の行く末を決めるのにも一理あると思うのだが……」

 「…………至急、クロノに取り次ぎます」

 「ありがとう。そして……高町教導官にハラオウン執務官、貴方がた二人には立会人になっていただきたい」

 「立会人ですか?」

 「うむ……」

 いま一つスカリエッティの言葉の真意を理解出来ていないなのはとフェイトは互いに首を傾げているだけだった。

 「この私、ジェイル・スカリエッティの覚悟の程を見届けてもらいたいのだよ」










 人選ミス、と言う言葉を今日トレーゼは身を以て知る羽目になった。以前からノーヴェとセッテの二人が互いに反りが合わないのは薄々勘付いてはいたが、まさかここまで酷いモノだとは思っていなかった。惰眠を貪っていたので詳細は分からないにしても、セッテの口数の少ない言い分からして恐らくは逆上したノーヴェが一方的に行った暴力行為だろう。

 今自分の目の前のベッドには顔面に湿布や包帯を何重にも重ねたセッテが安静に寝ており、ここへ来てからも来るまでもずっと沈黙を保ったままだった。無論、喋らせるつもりも無い。顔面がこの状態で表情筋などを無理に動かせばより一層酷い事になりかねないからだ。ちなみにノーヴェはレクリルームでの訓練以外の私闘を行ったと言う責を咎められ、今頃は施設の所長から説教を受けているはずだ。当分はここに足を踏み入れることすら許可されないだろう。

 元々ノーヴェは自分がミッドで大規模戦闘を行う際の為にと事前に用意しておくはずだった、言わば非常時用の駒に過ぎなかった。本来ならばその時の予定通りに自分のサポーター第一号は彼女になるはずだったのだが、そこへセッテが地上へ降りて来たことで事態は急転した。ノーヴェよりも肉体増強度も経験も高く、尚且つ自分のISとの適合率も高いと言うまさに理想の個体がやって来たのに、どうしてそれを放置しておく理由があろうか。なるほど、始めは自分に親切にしていた人間が急に違う人間に興味を見せたとなっては混乱もするだろう。それが自分にとって最初に出来た友人だと言うなら尚更だ。これはあれか? いわゆる『嫉妬』とか言う感情をノーヴェは抱いているのだろう。

 馬鹿な女だ……今更ながらに彼女等を戦力として計算に入れていたのが間違いだと痛感させられた。あの様な精神的に不安定な生き物程、自分の要領を弁えない無能振りが目立つ……感情の赴くままに行動した者が大成した例など無いのだから。ここは本気でノーヴェを戦力図から降板させる考えを固めた方が良さそうである、これ以上彼女と接触しても利よりも害の方しか無さそうだ……もう少し様子見してから処分を決定した方が無難だ。まぁ、どうせ結果は同じだろうが……。

 「……トレーゼ、一つ質問をしてもよろしいですか?」

 「何だ?」

 改めてセッテの顔を見てみるが、やはり酷いものだった。自分がとっさにISを発動させておかなかったら今頃鼻っ柱の一本や二本は軽く壊されていただろう。ナンバーズの固有技能が封じられているはずのこの施設で使用可能なISは、完全隠蔽のシルバーカーテンと、自分のISだけだ。ここのIS妨害システムはシルバーカーテンの『騙す力』よりも劣っている為に少々工夫を凝らせば使用は可能であり……自分のISに関してはここの妨害システムに登録すらされていない為、幾らでも出来る。ここの施設全体に放出されている妨害波長システムはそうなっているのだ。各魔法や固有技能ごとに対する妨害波長を一度に一斉に流している。

 「…………」

 「?」

 何やら黙ったままだ。セッテらしくもない、さっさと喋れば良いものを何故か歯切れが悪い。思う所があるのか……?

 「……貴方は……貴方は何者なんですか?」

 「何者だと、思う? 他人に聞く前に、自分で考えろ」

 「では、ワタシなりの回答を聞いてくれますか?」

 「聞こう」



 「貴方はワタシと同属なのですね」



 「……どう言う意味だ?」

 「惚けないでください。ワタシは聞きました……貴方がノーヴェの動きを止める時に……はっきりと」

 「何を?」

 セッテは絶対安静なので上体を起こせない。よってトレーゼは顔を自分から近付けて耳打ちさせる体勢を取った。同時にこれは彼女が無意味に大きな声を出さないようにとの事前策でもある。彼女の雰囲気から察するに、あまり芳しくなさそうな事を口にするかも知れなかった。

 耳を接近させたことで彼女の吐息のサイクルまで把握出来る。鋼のナンバーズと形容されても、流石にその素体は人間だから呼吸もするし睡眠もするので当たり前なのだが……。

 そして、近付けた耳にを通して鼓膜を叩いて聞こえた声は――、



 「Inherent Skill(インヒューレントスキル)」



 そのままデバイスの電子音声に組み込んでも充分違和感が無い流暢な発音で彼女はその単語を口にした。何の疑念も臆面も無く、はっきりと、単刀直入に。

 「教えてください……貴方は何者なんですか?」

 「…………」

 「貴方が戦闘機人であることはとっくに把握しています。魔力を封じられた場所であれだけの肉体強度は普通は有り得ませんから……」

 「…………」

 「教えてください」

 「…………手を出せ」

 「え? そんな事に意味なんか……」

 「意味ならある。良いから、出せ……そうしたら、全て分かる……教えてやる」

 「……………………」

 清潔なシーツに包まれた体からセッテがそっと右手を出すのを確認した後、トレーゼはすかさずそれを握り取った。何故だろう、同じ室内で同じ行動をしていたはずなのに手の温度はまるで違う。セッテが最低限の体温を保っているのに対し、トレーゼはいつもと同じ氷のような冷たさを維持し続けていた。握っていて自分でも血が通っていないのかとも思えた。

 彼女の意外に小さな手をしばらく握っていたトレーゼは、ふと目を閉じて瞑想するかのように息をひそめた。そして、その直後――、

 「IS、No.13『――――』発動」

 曝け出す! 全てを――!!










 『……本当に……それで良いんだな?』

 「君もくどいな。他ならぬ私自身がそれで良いと言っているのだ。それ以上の理由や動機など必要無いだろう」

 ゲストルームでスカリエッティは空間に映し出されたクロノとの映像回線を通しながら、今後の方針に関する報告をしていた。周りのソファでは助手のウーノや監視役のフェイト達が静かに見守っていた。彼女らもスカリエッティの下した決断の場に立ち会っていたこともあり、彼がどんな内容の判断をしてそれをクロノに告げたのかも全て把握していた。把握していた上で何も言わずにこうして静観していた……皆が一様に票所に陰が差しており、特にウーノに至ってはその事実が容認出来ないと言いたげに顔が青褪めていた。今この中でいつもと同じ冷静な面持ちを保っていたのは、事の発起人であるスカリエッティと、今彼の報告を受けているクロノだけだった。

 「元々は君達管理局が保身に走ったのが原因だろう? “13番目のナンバーズ”と言う混乱の種を権力で隠蔽し、自分達の行動を無意味に遅らせたことで自分達の首を真綿で絞めていただけだったのだよ」

 そう言われると何も反論出来ないのが悔しくもあり、実際的を射ているので閉口せざるを得ない。事の発端を挙げればヴェロッサが局の体制偏向を懸念して事を内密にしようとしたのが始まりだった。戦闘機人……特にナンバーズは最高評議会にとっては故ゲイズ中将の件もあって、権力と裏取引の象徴でもある。管理局にはそれを揉み消したいと思う者も居れば、逆にそれをネタに伸し上がろうと画策する者まで千差万別だ。そう言った起こり得る可能性を少しでも淘汰しようとして始めは隠密に事を運ぼうとして……事態は悪転した。いっそ始めから行動を起こしておいた方が良かったのに、自分達は内部混乱を避けようとして無意識に保身に走ったのだ。

 「だから、この私が君達の尻拭いをしてやろうと言うのだよ。この私……ジェイル・スカリエッティその人がね」

 『だからと言って……これは極端過ぎないか? もう少し検討を重ねてからでも……』

 「科学者に二言は無い。私の意思が決定事項なのだ、誰の異論も認めない」

 『…………そうか』

 もう彼の意思は揺るがないだろうと判断し、クロノはもう何も言わないことにした。この件に関してはもう口出ししない方が賢明だと判断したのだろう……だがその表情はどこか曇りがある。

 「……納得出来ない、とでも言いたげだな」

 『それは僕ではなく、君の助手に言った方が良いんじゃないか? 仮にもナンバーズである以上は彼女の兄弟でもあるはずなんだからな』

 「言ったろう? 彼はもう『兵器』だ。情けを掛ける余地など……もう、どこにも無いのだよ」

 『……………………至急、対策本部に連絡し、その旨を伝えます』

 「よろしく頼んだよ」

 クロノが通信を切ったのを確認すると、同時にスカリエッティも下座のソファに座っていた四人に向き直った。スバルが本部に移送されて来るまでにはまだ時間がある……さっきまでの真剣な表情をどこかへ追いやり、退屈そうな表情で欠伸すると彼はまたもや寝入ろうとした。他の四人はさっきまでのやり取りを終始見ていた所為か、雰囲気は限り無く重く、特にウーノはさっきも言ったように精神的にもかなりの負荷を背負っているらしく、完全に衰弱し切った感じでソファにもたれていることしか出来ていなかった。

 「ウーノさん……大丈夫ですか?」

 「えぇ……心配は要りません、高町教導官」

 「でも……」

 「良いんです。遅いか早いかで、こうなることは理解していましたから……」

 達観……と言うよりかはむしろ諦観したような表情だった。心のどこかでは納得していなくても、周囲の状況がそれを許さない為に仕方なく……と言った感じである。無理も無い、血は繋がらずとも兄弟として接していたらしいのだから。

 「……高町教導官、ハラオウン執務官……スクライア司書長殿も聞いて欲しい」

 「何ですか、博士?」

 そのまま惰眠に入るかと思われていたスカリエッティの言葉に、名指しされた三人は彼の方を見やった。頭から完全に毛布を被り込んで冬眠状態の蓑虫のようになっているソファから声がすると言うのは、それはそれでシュールな光景だが……。

 「この件は短期決戦を重視して行動した方が良いだろう。変に仰々しい作戦やらを考えていれば、それだけ余計な時間を浪費してしまうからな。要は簡素な行動でどれだけの戦果を出せるかだ」

 「それは理解出来ますが、そう簡単なことではありませんよ」

 「簡単さ……相手の行動を予測出来ればな」

 「ですから、それが出来たら苦労はしませんってば!」

 なのはの言う通り、古来より如何なる戦略戦術においても敵方の出方を予測するのは基本であり極意……だが、人は自分以外の人間の行動の一つ一つを完璧に予測することは不可能だ。殊更、対象に関するデータが少なければそれはより困難となるのは自明の理と言うものだ。

 「いや、データは少なくとも、彼の行動パターンさえ把握していれば大まかな予測は立てられる」

 「どう言うことですか?」

 「彼は兵器として製造した……人の思考を極限にまで排した彼は、目的達成の為に最短且つ確実なルートを選択するように刷り込んでいる。もし、彼の思考回路の中に一分たりとも俗人的な要素が無いとしたならば――」




















 ミッド標準時間11月16日午前4時00分、第6無人世界『ゲルダ』の地上にて――。



 「…………これで、準備は出来た」

 広大な緑地……大量の植物の緑で覆われたこの無人世界の大地には人の介入が無いことから惑星全体に自然が残っており、山や湖はもちろんのこと、ここでしか確認出来ない動植物なども多々あるほどだった。

 そんな大自然のとある湖畔にて、一人の少年が佇んでいた。雪のように白い手を水面に接触させていた彼は立ち上がると、空を見上げた。彼の視線の先の青い空には、空中を優雅に飛ぶ鳥類と白い雲……そして天を突く巨大な柱だった。

 軌道拘置所……幾つかの無人世界に建設されている巨大な刑務所のようなモノである。この施設に収監される犯罪者は色々だが、共通していることと言えば彼らが管理世界ではとても管理しておけない荒くれ者だと言うことである。管理世界の施設に収監するのでさえ危険性が高いと判断された者達が最終的に放り込まれる場所……それがここなのだ。

 彼は今からそこへ行くのだ。正式な訪問ではなく、むしろその逆、強行突破だ。彼はあそこにどうしても用がある、その為には手段などは選ばない。だがもちろん、何の手筈も無しに行動したのでは意味が無い……それなりの作戦は立てておいた。

 あとはそれらのプロセスを無事に済ませられるかどうかである。

 「……マキナ、現時刻をもって、対象の奪還作戦を、開始する。ガジェットドローン全機は、地上にて待機。単騎で、施設内部に、突入する」

 『Roger.』

 「対象の奪還後、速やかに、予定時刻に、予定ポイントに、到着する」

 ここはミッドとは違って夏だが未だ日は昇っておらず、この拘置所が建っている半球部分は黒檀の闇に覆われていた。かろうじて地平線の向こう側から太陽の光が差し込もうとしているのが見えるだけだった。一応さっきも言ったようにここの季節は夏なので夜明けの時間はミッドと比べて早い……朝日が完全に地表を照らし出す前に施設に侵入しなければ。

 彼の漆黒のジェットエッジが唸りを上げるのと、木々に覆われた暗闇の奥で五つの光点が赤く妖しく輝いたのはほぼ同時だった。










 ミッド標準時間午前5時00分、軌道拘置所のとある独房エリアにて――。



 「ふん……! ふん……!」

 独房とは本来通常の監獄とは違って一切の自由を許されない。数人で鮨詰めにされている房にあるような娯楽品などはもちろんのこと、窓も換気扇も無ければ、最悪照明器具すら無い所もあるらしい。独房に分類される空間にあるのはベッドとトイレだけだ。それもその二つが同じ空間にあるから房の中は不衛生極まりない。唯一の外界との窓口であるドアの小窓には強化ガラスが隙間無く嵌め込まれているので、ここはまさに閉鎖空間そのものだった。

 そんな空気の流れの悪い室内でも彼女の日課である腹筋運動は止まない。30分前から起きてずっと続けている。こうして運動しておかないと獄中生活で肉体が鈍ってしまうのだから仕方が無い……余分な脂肪と贅肉は女性の天敵だ、野放しにしておけば泣きを見るのは火を見るよりも明らかである。

 「ふん! …………ふぅ」

 やがてノルマを終えたのか、彼女は服の裾で汗を拭き取りながら床から立ち上がる。毎日欠かさずにやっているのか、服の上からでも普通の女性と比較して肉体が引き締められているのが分かった。背中に長くなびいた亜麻色の髪は育ての姉譲りであり、今さっき顔に掛けた丸眼鏡は伊達眼鏡……

 「ふぅ…………寝ましょ。睡眠不足はお肌の天敵だもの」

 ナンバーズの四番、クアットロ。ここは彼女の独房である。

 通常ならば、朝の5時と言えば一般的な収監施設の起床時間ではあるが、自分は独房にブチ込まれるレベルの犯罪者と相場が決まっている為、普通の囚人達がやらされるような刑務所仕事は殆どさせてはもらえない。一旦外へ出せば何をするか分かったものではないからだ、だったら始めからここで飼い殺しにしておいた方が良いと思っているのだろう。

 「暇ねぇ……虫でも潰せれば幾分かマシなんでしょうけど、ここには虫なんて居ませんし……あーぁ、本当に退屈」

 退屈は魔女をも殺す猛毒と言う……千年を生き永らえる魔女ですら多大な余暇を持て余す退屈さから来る精神的苦痛には耐え難いモノがあると言うことだ。まさに今の彼女がそれであり、そんな状態がもうかれこれ三年以上続いていた。これは地味に精神が病む……何もすることが無いと言うのは人間にとってかなりの痛手なのだ。何かせずにはいられない……それが人間として生まれた性と言うモノなのだ。

 やれやれ、これが後何年続くのやら……そう考えると自然と溜息が出る。かと言って、三年も経過してしまった事件に関して捜査協力する気などさらさら無かったのも事実だった。彼女にとって自分以外の存在は全てがクズ……虫ケラと同じなのだ。そんな下等な存在に対して妥協する点など一切無いし、そんな事は天と地が引っ繰り返っても絶対に有り得ないことだった。そんなどうでも良いことを考えながら彼女が再び睡眠の涅槃に旅立とうとした、その時――、



 「出ろ」



 「……はぁい?」

 久しく聞いていなかった外部からの声にクアットロは一寸反応に遅れた。24時間外出を禁じられた独房から例え看守に呼び出されたとしても、出してもらえることなど滅多にあるものではない。クアットロ自身もこの三年間で片手で数える程度しか出たことはなかった。年に数回行われる身体検査ぐらいなものだが、些か時期外れである。

 何はともかく、ぼさっとしていては何を言われるか分からない。如何に自分の知力体力が相手よりも上でも、今この場ではこちらが権力的に弱い立場なのだ。権力によって人為的に創造されたヒエラルキー……それがこの閉鎖空間での常識だ、今更それをどうこう言うつもりはない、その場その場で強いモノに従うのが処世術の極意だからだ。

 「はいはぁ~い。クアットロさん、いますぐに♪」

 ちなみに猫被りも立派な処世術だ。










 一人の看守が鋼糸に繋がれた10人の囚人を引っ張っていると言う光景は些かシュールなものがあるだろう。通常囚人を管理するには一対少数か、複数対複数だと相場が決まっている。幾ら権力が上の存在とは言え、多勢を圧倒するには結局は数がモノを言うのだ。

 だが近年管理局は辺境の施設には余り関与していない傾向にあった。理由は簡単……単純に面倒だからだ。組織が大きくなればなるほど、そこに属する者達は自分のことしか考えなくなる。例えそれが刑務所だろうと同じ事だ、さらに自分の利益だけを追求して高みを目指す者達にとって辺境の一施設は眼中に全く無いのだ。故に人員は割けないし、管理体制も地上部分が幾分鉄壁なだけで、内部は芯を繰り抜かれた林檎のように脆いモノとなってしまっていた。だがそれを幾ら進言しようとも上に立つ者の思考が堕落しているのでどうしようもないのが現状だ。

 そんな囚人達の行列の先頭を、クアットロは歩く。正確には看守によって手元の手錠ごと引っ張られているので二番手なのだが、彼女の表情は不機嫌そのものだった。

 「ねぇ~、私達どこに連れて行かれるのか・し・ら?」

 「…………」

 無視。女性はこれをやられると一番腹が立つらしいが、本当にそうだったようだ。ここが三年前の戦場ならとっくに「気に入らないわ」の一言で処分出来るのに……。

 やがて一行はエレベーターに到着した。まだ早朝なので人通りは少なく、エレベーターの中も完全に貸切状態となっていた。この大気圏外にまで伸びている施設の生命線とも言えるこのエレベーターは全部で十本あり、それら全ての管理が徹底されている。ある意味、この施設の予算の大半はそれに回されていると言っても過言ではない。これが無ければこの施設は機能しないからだ。

 全員の足がエレベーターの床に体重を預ける。クアットロも不本意ながら体重が80㎏前後あるが、一応体重制限はクリア出来た。

 アナウンスも無くドアが重々しい音と共に閉まろうとし、ドアの隙間が30㎝……15㎝……5㎝……閉鎖。

 そのまま11人を乗せた箱は下方に向かって移動を開始しようと――、



 ズズゥ……ン!!



 「!?」

 揺れ。微弱なものだったが、これだけ広大な施設が揺れたとなれば相当なものだったはずだ。他の囚人達にざわめきが走ると同時にクアットロの表情にも動揺が表れ、思わず周囲を見渡そうとした。だがここはエレベーターの内部……外の様子など全く分かるはずもなかった。一応まだ動いてはいるようだったが……。

 「これは……一体――!!」

 ふと、ここで彼女は自分の手錠から伸びていた金属のロープがいつの間にか看守の手から解放されていることに気付いた。看守はそれに全く気付いていないのか、薄汚い帽子を目深に被ったままで微動だにしなかった。周囲が混乱していると言うのに何故平気で立っていられるのかが全くもって不自然な光景にクアットロは思えて仕方が無かった。

 「看守さん、何があったのかしら?」

 両手を塞がれたままで彼女はその看守に接近し――、



 刹那――、風が吹き、喧騒が止んだ。



 頬に何か温かいモノが飛び散る。足元に何か硬いのか柔らかいのかさえ分からない物体が転がる。視界に捉えていたはずの看守がいつの間にか消滅していた。その代わりに彼女の五感が捉えたのは……

 白い空間を占拠した鮮血の赤。

 鼻腔を押し広げて嗅覚を麻痺させる鉄分の匂い。

 さっきまで人体だったモノから噴出して床に落ちる赤い雫。

 そして死体――。床に落下した、確かに『頭部だったモノ』が全部で九個……そして、その頭部を冠していたはずの胴体が対になる形で転げているだけだった。

 「あら……あらあらあらあらぁ♪」

 明らかに異常。見ているだけで得も言われぬ精神的負荷が圧し掛かって来るこの空間にたった一人で居るのに、クアットロは……

 笑っていた。子供の落書きでも見つけたかのような笑みを顔に張り付けて、彼女は壁を濡らした赤い液体を華奢な指先で絡め取った。赤いそれはすぐに水分を失い、粉末となって床に落ちる。それを見ては更に嬉しそうに微笑むのだった。

 「誰なのかしら、こんなに……こんなに面白いコトを催してくださったのは」

 背後を向く。血の海に佇む影が一つ、確認出来た。それは先程まで自分の眼前に立っていたはずの看守だった。手に持った紅いブレードからは獲物の首を刈り取った雫がべっとりと付着しており、彼がこの殺戮を引き起こしたことは容易に分かった。

 「誰かしら? 私に知覚させない行動が出来るなんて……只者じゃありませんよね?」

 背を向けていた彼がこちらを見やった。紫苑の短髪に金色の眼、自分でも嫉妬しそうな白磁の肌……知らない人物だった。だが彼が自分にとって足元にも及ばない実力者であることだけは窺い知れた。

 「…………No.13、『トレーゼ』」

 「13……? う~ん…………あぁそう言えば! 昔ドゥーエ姉様から聞かされたことがありましたぁ。てっきり噂だけの存在かと思っておりましたが……実在していたなんて、クアットロ感激です」

 自分よりも若干身長が低い相手に妖艶に迫る。

 「…………No.4、『クアットロ』」

 「はぁい、ここに♪」

 「俺は、お前を、奪還に来た。お前の力が、必要だ」

 「嗚呼、この日を心待ちにしておりましたわ…………いつか、貴方のような私に変革をもたらしてくれる人をずっと、このクアットロは求めておりました」

 「ならば、良し。――――来い、我が妹」

 「お望みなれば、いくらでも――――お兄様」

 エレベーターが目的階に到達した。ドアが開くと同時に溜まっていた鉄の匂いが解放され、代わりに外部の汚れない空気が入り込んで来た。





 No.4とNo.13……後の軌道拘置所の囚人達の間では『アンラッキーナンバーズ』とまで形容されるまでになった二人の軌跡がどんなモノだったのか、それは当事者しか知らない。



[17818] Unlucky Numbers 4&13
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/04/21 00:36
 11月16日、午前3時15分。ナカジマ家の寝室にて――。



 「……………………」

 ノーヴェは眠らない。と言うよりも眠れないと言うのが正しいだろう。身も凍る冬の外気が微風となって彼女の頬を撫でても、彼女は微動だにしない。特に寒がった様子も無く掛け布団も寄せ上げず、ただ目だけを開けて天井を見据えていた。

 「……………………」

 とにかく目が冴えて仕方が無い。別に昼間カフェインの多いモノを摂取した訳ではないのだが……。

 「…………痛ぇ」

 原因は自分の右頬、昼間に自分が友人だと思っていた者に粉砕せんとばかりに殴られた痕が未だに痛むのだ。あれだけの衝撃でまともに殴打されたにも関わらず歯一本も欠け無かったのは、自分が戦闘機人だったからだろう。一応手加減はしていたのだろうが、並みの人間があれを喰らった日には間違い無く顎が文字通り粉微塵になるようなモノだった……今更ながらこの常人離れした肉体に感謝した。

 何故彼が自分にあの様なことをしたのかは分からない。 

 セッテを一方的に殴りつけたからか? いや、彼とセッテは何の深い意味も無い、言うなればただの師弟関係に過ぎないはずだ。彼の様な自分以外の俗事にまるで興味を示さないタイプの人間が、それ以上の意味を持って深く介入することなど考えられなかった。

 では、自分に愛想が尽きたとかなのか?

 「っ!!?」

 思わずベッドから飛び起きる。脳内をスパークした情報物質が一斉に駆け巡る衝動に彼女は身震いした。元を正せばセッテの言うように、彼自身がこちらに対して同じような印象を持っていたとは限らない訳だ……冷静になっている今だから考えられる、愛想が尽きたとかそんなモノではない、初めて会って会話を交わした時から何となく感じていたあの虚無感はトレーゼが自分に何の興味も抱いていないと言う事実を無意識に認識していたからだったのかも知れなかった。

 「違う……!」

 隣でディエチが寝ているのも忘れ、彼女は夜中の静寂に似合わない声を出してしまった。いつもはナカジマ家六人娘で使っていたこの寝室も、スバルとギンガは入院中、チンクはもうすぐ義兄となる男と共に局で泊まり込みの仕事に行っている為に同じく居らず、今ここで寝食を共にしている姉妹も自分とディエチとウェンディだけとなってしまっていた。

 そんないつもよりも寂しい空間で彼女の小さな体は震えていた。寒さで震えているのではない……怖いのだ、本当の真実が自分の認識していたモノと違うかもしれないと言うその憶測が……当たってしまっていたならと思うと怖いのだ。人は誰しも、一度自分の考えを正しいと思い込めばそれを修整するのは一筋縄ではいかなくなる。だが、仮にそれを間違いだと認識した途端に人間はその精神に衝撃を覚えるのだ。

 今の彼女が願うこと……



 どうか自分の予想が間違いであってくれますように。










 午前5時05分、第6無人世界『ゲルダ』軌道拘置所内部第四エレベーターにて――。



 軌道拘置所はその構造上、地表から最も離れたポイントでは惑星の自転を利用した遠心力が重力の代わりとなっており、最上階では人々は地表側から見ると丁度逆さまを向いた形で生活することとなる。だがそれはあくまで上階での話であり、下へ行けば行くほど惑星の重力が増す為にどこかで床と天井を転換せねばならない。星の重力と自転による遠心力の拮抗するゼロ地点……そこがターニングポイントと言う訳だ。

 エレベーターから二人が降りたのはまさにそこだった。静止衛星軌道……星の重力が及ばないギリギリのラインであるこのポイントは遠心力も比較的弱く、内部構造の上下を逆転させるには持って来いの中継地点だった。無重力では上も下も無い、それを上手く利用した構造と言えよう。

 「お兄様ぁ、この後の段取りはどんな風になってますの?」

 「脱出。長居は、無用」

 「分かり易くて良いですわぁ。でも~、あれはどうするんですか?」

 そう言ってクアットロの細い指先がトレーゼの視線の先を指す。混乱に気付いた職員がこちらを捕縛しようと一斉包囲していた……のではなく、その逆だった。二人の目に入って来たのは暴動……耳に取り込んだのは喧騒……そして肌で感じる大衆の熱気が二人を待ち受けていた。突然の出来事に暴走する囚人と、それを抑えようとする看守の二つの勢力に別れて事態は激しく混乱を呈していた。

 「これってぇ、さっきお兄様がやったのと関係が?」

 「10本のエレベーターの、半分を爆破した」

 「あらぁ、澄ました顔して意外とえげつないんですね。軌道拘置所の生命線を半分も切っちゃうんですから」

 なるほど、この上下左右前後を縦横無尽に荒れ狂う人の波はその所為だったのか。全ての高層建造物は上下の移動手段を断たれれば驚くほど脆くなってしまう……それは例え大気圏を股に掛けて聳え立つこの軌道拘置所言えども例外ではなかった。外壁そのものは対デブリ対策を想定しての最新技術でも、内部の構造はミッドなどの管理世界においてはマイナーな技術しか使われておらず、ちょっとした衝撃でも支障を来たす程に脆弱なモノでしかなかった。

 そんな建築物の文字通り“生命線”と言えるエレベーターを半分も破壊したとなっては混乱するなと言う方が無理な話だ。おまけにここは看守に比べて囚人の数が通常の収監施設に比べても圧倒的に少ない……起床から食事、そして作業場へと囚人が大移動をするこの午前5時代に暴動が起これば、自然と囚人側が押し切るのは時間の問題だ。

 「こうなることを見越していたんですのね。流石お兄様ですわぁ」

 すっかり彼の計画性から垣間見た隠れたカリスマ性を見抜いたのか、クアットロは心底心酔し切っていた。無重力なのを良いことにして壁を蹴ると、彼女は自分よりも若干小さな体に背中から抱きつく。

 「あぁ、最高です……私ぃ、貴方のようなお兄様を持ててとっても幸せですよ」

 腕を絡ませる……微妙に熱を持った吐息が耳元を撫で、端正な十本の指先が胸板を這う……まるで目の前で起こっている混乱など対岸の何とやらとでも言わんばかりに彼女は彼に夢中になっていた。まるで情婦……見る者全てを容赦無く虜にしてしまうような妖艶な雰囲気を無尽蔵に放つ淫魔そのものだった。

 「……クアットロ、作戦の、成功において、最も重要なことは、何だ?」

 「えーっと…………んふっ、迅速且つ的確な行動ですね」

 意外にもトレーゼが反応を返してくれたことに少々驚きつつも、クアットロは質問に忠実に返答してみせた。トレーゼの自分よりも白い指先が顎先を掴み、金色の双眸がこちらを見据える……映画のワンシーンなら、そのままキスしてもおかしくはない構図だった。

 「そうだ。そこまで、分かっているなら……」

 だが、ここでクアットロは異変に気付く。こちらの顎先だけを触れるようにして掴んでいたはずの彼の指が、突然――、

 「お、お兄様っ!?」

 両頬を圧搾せんとばかりに鷲掴みにしてきたのだ。始めは微笑ましい冗談かとも思ったが、この圧力は尋常ではなく、彼女は早くも生命の危機を感じることとなった。最早彼女の眼前にはガラス玉のような目は無く、氷を削って出来たかのような冷やかな眼球が睨んでいるだけだった。

 「余計なことを、している暇があるなら、さっさと行動を、続けろ……俺を、失望させるな」

 「は……はい、お兄様」

 頬を押さえていた五指がいつの間にか首筋へと移っていた。白く冷たい指が肌を撫で回すが、それは冗談では無く本気だった……余計な事をすれば首を捻り潰すと言う意思表示の。

 「ドゥーエの遺産……期待しているぞ」

 ドゥーエ……亡き敬愛する姉の名を引き合いに出されたとあってはクアットロも大人しく頭を垂れるしかない。増してやこの実力差、如何に自分が非戦闘型とは言え力の差をここまで見せ付けられては反抗したその瞬間に消されるのがオチだろう……もちろん物理的にだ。

 「……それでお兄様、これからどのような経路で脱出を?」

 「その前に、やることが、ある。これを、持て」

 「これって……」

 無重力の空間を利用してトレーゼが手渡してきたのは、ツインブレイズの片割れだった。刃は出ていない、スイッチを押して初めて彼女のエネルギー光に合わせた緑色の光をした刀身が伸びた。初めて手にする武装ではあるが、一応ディードが使っているのを見たことがあるので最低限の要領は得ている……武器が無くては戦えるものも戦えなくなりそうだったところだ。

 「ここは、まだ、大気圏外……熱圏を下回る、階層まで、移動する。そこに移動するまでに、やらなければ、ならないことが、ある」

 「何なりと命じてください。私はお兄様の手足、道具です……貴方が御命じになられれば即座に実行いたしますわ」

 芝居がかった、しかし優雅な動作で一礼し、クアットロは目の前の兄に対して最大限の畏敬の念を表した。何故なら、彼女は直感していたからだ……この男に絶対に逆らってはならない、と。だが逆にこの男にさえ従ってさえいれば身の安全はもちろんのこと、これから先のありとあらゆる事象に対する安息は保障されることは確定的に明らかなのも明白だった。寄らば大樹の陰……巨大なモノに寄り添い立つことこそ、まさに処世術の極意なのだから。










 同時刻、地上本部第一医務室にて――。



 「えっと……取り合えず、今のこの状況は何なんですか、シャマル先生?」

 医務室の奥に存在する、実質使う機会に恵まれない医療機器や設備などの物置きと化した集中治療室……そこの手術台の上には早朝の寝ている間に密かに医療センターより連行されてきた少女、スバルが何故か全身をロープでグルグル巻きにされた何とも情けない姿で乗っかっていた。

 「実はね、はやてちゃんから『早いとこ終わらせたいから、ベッドに縛り付けてでもやらせといて』って言われて」

 「それって言葉のアヤだと思うんですけど……」

 「あらぁ、日本……じゃなかった、ミッド公用語って難しいのね」

 「もういいです……。それで、私の手足のことなんですけど……」

 上半身もきっちりと縛られた状態でスバルはなんとか視線を足元へ注いだ。掛け布団で隠れて見えなくしてはあるが、現在の彼女は両脚と右腕を完全に欠いた状態である。本来ならばミッドの先進医療技術を用いれば、時間さえ掛ければ再生可能なのだが、それはあくまで普通の人間の場合の話でしかない。戦闘機人である彼女は常人よりも耐久性が高い分、肉体構成の緻密性も半端が無く、常人の骨折と機人の“骨折”とではその意味合いが大きく違ってくるのだ。普通の人間ならば多少骨が折れても細胞の働きでいずれは治癒するのに対し、機人の骨とはすなわち精密機器……たった一つの部品が壊れただけでも、それの取り換えからそれに関係している部分の点検などがあり、単純に肉と筋を繋げる作業に留まらない。おまけに、仮に内部の部品を交換し、骨肉を繋げることに成功したとしても、機人の細胞作用などは常人と異なる為に必ず再生部位に何らかの障害が生じてしまう為、まずそう言った者達は治療せずに一生を過ごすことが殆どらしい。

 「大丈夫よ、貴方を治す為にここまで引っ張って来たんだから!」

 「いえ、別に疑ってはいないんです。治してもらえるなら感謝しなきゃですけど……それなら医療センターでも良かったんじゃないですか?」

 「あぁ~、それがね……そうしないといけない事情って言うのかしら……その……何て言えば良いのかしら」

 「?」

 一部親しい間柄からは密かに『意外と図太い』とかとまで言われているシャマルがここまで言葉を尻ごみさせるとは珍しく、スバルが「どうかしたんですか?」と聞こうとしたその時――、



 「やぁやぁ、待たせて済まなかったな」



 手術室のさらに奥にある準備室から出て来た人物……白衣を見事なまでに着こなし、猛禽類のような金色の双眸を研究意欲で爛々と輝かせ、こちらに半ば猛然と歩み寄って来るその人間は――、

 「あ! スカさん」

 「どうして君まで人の名前を略すのかね? 流行ってるのか、流行ってるのかな!?」

 自分の名前を省略されるのが本当に嫌なのかスカリエッティは年甲斐にもなく涙目になりつつあった。中年男性がヤケ起こして涙目になっている姿と言うのはハッキリ言って滑稽と言うのか気色悪いと言うのか……

 「どうしてここに居るんです!? 軌道拘置所で隠居してるって聞いてましたけど……?」

 「ここの情報統括は一体どうなっているんだ。私は隠居じゃなくて収監されていたはずなんだが」

 「細かいことはいいじゃないですか。早いとこ始めましょう」

 「え!? 私、まだスカさんがここに居る訳を聞いてませんよ!? 教えてくださいよ~!」

 ベッドの上で駄々を捏ねるようにしてスバルが飛び跳ねるが、如何せん体を縛られている所為で悶えているようにしか見えないのが悲しい。何にせよ、彼女をこのままにしておいたら色々と面倒なので質問に答えた方が無難なのは分かっていた。

 「実はな、君の手足を切断した“13番目”に関する情報提供、及びに作戦協力と言う立ち位置でここまで連行されて来た。君の修理はその『ついで』と言う訳さ」

 「情報提供……?」

 「君も聞いてはいるだろうが、彼……“13番目”は過去に私が開発したナンバーズでな、文字通り、13番目に完成が予定されていた個体だ」

 「過去って……何年前に?」

 「う~んっと……20年以上前だったような」

 「そ、そんなに昔なんですか!? 私よりずっと年上じゃないですかっ!?」

 「いや、その内の大半の時間を培養槽で過ごして肉体の成長を抑制していたはずだから、外見は君と変わらないはずだ。君も見たんだろ?」

 「顔隠してたから分かりませんでした。ティアも見ていません」

 「まぁ、いずれ相見えるだろうがな……。さて、早速だがオペを始めるとするか」

 そう言ってスカリエッティはメスや専用工具の入ったボックスを大量にベッドの傍に置くと、手術用の清潔なゴム手袋を装着し始めた。良く見ると彼が連れて来た助手のウーノも同じようにして白衣を纏って準備をしているのが見受けられた。

 「でも、本当に治せるんですか?」

 「面白いことを言うな君は。このアルハザードの技術の結晶、科学の寵児であるこの私に技術面での不可能など無いことなどとっくに分かり切っているだろうに。デバイスの強化から機人の修理、改修、アフターサービスと言う名の改造まで何でもござれさ!」

 「でも……」

 「それに忘れたかね? 君の姉であるギンガ嬢の左腕を完璧に治して見せたのは、この私だ。何も心配は要らんよ」

 「スカさん…………………………………………そのドリルは何ですか?」

 スバルの恐怖に怯えた視線の先にある物……それは明らかに岩盤掘削用に使用されるような鋭利な先端を輝かせた極太なドリルだった。スイッチを入れたり切ったりする度に背筋の毛が総立ちになるような音が室内に響き渡る。

 「何って君、決まってるじゃないか。ナニだよ」

 「脚部機器の一時的措置の為に使用するモノです。少々ドクターの趣味が入って通常規格よりも大きいですが…………問題は無いでしょう」

 「えぇえええっ!!?」

 スバルの生存本能が叫んだ。これは明らかに機人の手術に使う物ではない、と。何気に少し間を置いて返答したウーノの表情もどことなく引きつっていたのを見ると、それがより確実なモノであることを暗に知らされた。

 「ドリルは科学者のロマンだと言うじゃないか」

 「それって二重の意味で違う気が……って、私の足をドリルにしないでぇ!!」

 「大丈夫だ、精々フロートシステムを取り付けて、日常的に反重力で生活出来るようにするだけだ」

 「やぁ~めぇ~てぇ~っ!!!」

 「シャマル女史、済まないが彼女の腕を押さえておいてくれ。ウーノは太腿を」

 「こうですか?」

 「いやぁ~!!!」

 後に、『ジェイルの3時間カスタミング』と言われるようになった事件がこれである。










 同時刻、軌道拘置所一般囚人収監エリアにて――。



 ここは上層階の独房エリアとは違い、一つの部屋に最大で六人の囚人が収監されている。本来ならばこの時間は全ての囚人達が列を作って作業場に向かっているはずなのだが、どう言う訳か今日だけは違っていた……エリア一帯の全囚人が如何なる理由を以てしても外出を禁じられていたのだ。つい小一時間前に起こったエレベーターの爆破事件の報せが早くも下の階層にまで伝播していた所為だ。如何に内部設備が古かろうと情報管制までに支障は来たすはずもなく、混乱がこれ以上拡大する前に囚人を監獄に封じ込めることに成功していたのだ。既に先程の混乱も大半が沈静化され、現在ではその喧騒の波は退きつつあった。

 中に居る囚人達は文字通り暇を持て余していた。はっきり言って拘置所と言う閉鎖空間では業務以外にやる事が無い……その業務ですら取り上げられた彼らはこうして部屋に籠り、既に飽きてしまったカードゲームに興じているしかなかった。暇なのは精神を侵す猛毒である。

 だがここで、変革が起きた。

 「ちょっと失礼」

 激しい蒸気音が彼らの鼓膜を刺激した。ポットの湯が噴き零れたのかとも思ったが、生憎ここにはそんな物は無い。それにこの熱気……肌を照らすその熱の方向へと首を回すと――、

 「どうも~! 独房エリア出身のクアットロちゃんで~す。虫籠に閉じ込められてた可愛そうなクズの皆さんを解放しにやって参りました」

 脱出防止用の二重構造になっている金属のドアを緑のブレードでブッタ斬りながらクアットロは毒の含んだ挨拶を送ってきた。長い髪を後ろで二つに束ね、伊達眼鏡の奥にある目はこれ以上無い程の笑みを湛えていた。だが囚人達は本能で察したのか、彼女の周囲から放たれる邪気に触れまいとして一歩距離を置いた。

 「何ですか、その目は? お仕置きでもされたいって言う目をしてますね……って、いけないいけない、殺したらNGでした、皆さんにお知らせがあります」

 球場の応援席にでもやって来たかのようなノリでブレードを振り回しながら、彼女は現状に全くついて行けていない囚人達を完全に置き去りにして勝手に話を始めた。さらに危険を察知した彼らはクアットロからさらに距離を離す。

 「皆さんにぃ、脱獄するチャンスを上げます」

 「は、はぁ?」

 「ドアは抉じ開けましたけど、ここから出て行くかどうかは貴方達の勝手です♪ ここから出て頑張って脱出するも良し、逆にここに居残ってこの先十年以上退屈な生活漬けになるのか……全部貴方達が決めてください。私はここを開けただけです」

 「何を言って……!」

 「それじゃあ、クズはクズらしく頑張ってくださいね~」

 嵐のように突如到来し、まるで何事も無かったかのようにして自然に去って行く……。クアットロが鼻歌混じりにブレードを振り回しながら次のエリアのドアを破壊すべく姿を暗ませた後、取り残された囚人達は互いに顔を見合わせた。

 手錠は無い。鍵も無い。自分達を封じ込めていたはずのドアも無い……。ここまで来ると人間とは不思議なモノで、目の前の餌に釣針が付いているかどうかを考えることすら出来なくなるらしい。思考が鈍るからだ、空腹の犬が形振り構わずに肉に喰らいつくのと全く同じ現象である。

 結局、十数分間も悩んだ挙句、彼らは牢から脱することを決意した。と言うのも、ここへ来るまでにクアットロが解放した総勢48名の囚人達が既に外を闊歩しているのを見たから、それに背を押されただけの話に過ぎなかったのだが……。










 「お兄様、指定ブロックの囚人の解放に成功しましたわ」

 何の目的も無くただ歩き周るだけの囚人達……。そしてそれらを獄中に戻そうと躍起になる少数の看守達……。だが、どう見ても圧倒的に看守側の数が少ないのは目に見えていた、この施設全体でどれ程の数の看守が存在しているのかは知らないが、恐らく囚人達の数の方が多いのだけは変わらないだろう。食物連鎖のピラミッドと同じで、どんな社会や組織でもヒエラルキーの頂点に近い者ほどに数が少ないのは理に適っていると言えようが、この場合は極端に少な過ぎた。施設全体を完璧に管理出来ていなかったのだ。

 そして、もしそのような状態で予測していなかった人為的な問題が起こったとしたなら……

 「お兄様の言う通りでしたわ。看守側と囚人側に横たわっている物量差……あのクズ達が何もしないでそこら辺を歩いているだけでも、おバカな看守さん達は大慌て♪ 縦横無尽に歩き周る彼らを一々捕まえてもう一回部屋にブチ込むまでに、一体どれだけの時間が掛かるかしら」

 シルバーカーテンの効力で自分の姿を隠しつつ、クアットロは次のエリアを目指していた。彼女の周囲には脱出した囚人が七割、それを捕えようとしている看守が三割と言った具合で混乱状態に陥っていた。今もこうしている間に別行動中のトレーゼがさらに囚人達の解放を続行しているだろうから、やがて数量差は8:2になるだろう……そうなれば、今度は看守だけではなく囚人同士での小競り合いが勃発するに違いない。その争いから派生した熱は囚人達の間を伝播し、やがてはこの施設全体が暴動状態になるだろう。だが、この二人の目的はそれではなかった。

 「クズ達がどんな乱闘騒ぎを起こしていても、私達兄妹には全然無関係……むしろ好都合。彼らの目が同族同士の争いに向いている間に、私達はさっさと退散って言うわけ♪ 簡単ですけど何てシンプルな作戦なんでしょうね、流石はお兄様ですわ」

 兄トレーゼが指定した階層まではまだ距離がある。そこまでに何人の囚人が封じ込まれているのかは知らないが、ここは辺境世界の監獄だ……管理局はここの地理的状況を利用した上でここに拘置所を建設、管理世界では抑えきれないと判断した札付きの犯罪者をここに大量に封じ込めたのが今になって仇となってきた訳だ。それらの大部分を解放すれば、間違い無くこの施設は……

 「あぁ……! 期待していてくださいね、お兄様。クアットロは必ず貴方の期待に応えて見せますわ」

 ウーノとトーレ……その二人には全く感じなかった隠れたカリスマ性を彼女はトレーゼに見出していた。かつて自分の教育者であったドゥーエにのみ感じていた高揚感を……。

 「当然、邪魔する奴はブチ殺しても構わないんですよね?」










 午前6時10分、ミッド海上更正施設にて――。



 セッテは自分の房のベッドの上で蹲っていた。寝ていたのではない、むしろ眠れていなかった。備え付けの鏡を覗いて見れば、両目の下に隈が出来ているのが分かった……ストレスなのは一目瞭然だが、それは不眠から来るものばかりではなかった。

 「……………………」

 桃色の長髪に隠れていて分からないかもしれないが、彼女は苛立っていた。端正に切り揃えられていた手の爪も、その苛立ちを少しでも紛らわせようとして齧った所為でボロボロとなってしまっており、血が出て来た所でようやく止めた。だがそれでも彼女の苛立ちは収まらないのか、血が滲んだ手を握ると硬いことこの上ない壁に叩きつけてまで彼女の行為は止まなかった。

 そもそも、彼女は自分自身で自分のことを感情を持たないモノとして定義していた。不本意ながら人間の形をしていても所詮はそれだけでしかなく、戦闘型である自分に感情などと言う不要なモノは要らないと常日頃から考えて来ていた。かつて自分の姉であり教育者のトーレは「機械過ぎる」と言う発言をしたが、それは戦闘機人としては常識、つまりは当然の事として疑わなかった。感情などと言うモノに無意識に縛られているから敵に情けを掛け、敵にも情けを掛けられてしまう……ずっとそう考えてきたはずだった。

 だが――!

 これは――!

 でも――!

 そんなことが――!

 「……………………ッ!!」

 “彼”が自分と同じ存在だと分かった時、不思議とそれほど驚きはしなかった。むしろその逆……あの瞬間に絶対的安心感が彼女のある意味で成熟していない精神を包み込んだのだ。脳内物質が加速的にニューロンを駆け巡り、言葉を出す事すら儘ならなくなるような強く激しい衝撃と一緒に頭の中に雪崩れ込んで来たあの瞬間、文字通り自分の拳二つ分の大きさの脳はスパークした。

 あの時自分の頭に流れ込んできたのは“映像”……だった。たった二つの映像……自分の居る空間と外を区切る分厚いガラスと、その向こう側に居る二人の人影。だがそれだけで充分だった――、

 忘れかけていた記憶を呼び覚ますのには。

 あの時、“彼”が使用したISが一体何だったのかは分からない……ただ一つ分かったことがあるとするならば、あの瞬間に自分の中枢とも呼べる部分で“何か”が根付いたのは確かだと言う事実だった。小さくて熱を持った、それでいて蒲公英のように深く浸透した謎の感覚……これが何なのか分からず、分からないと言うままにしておけない彼女は、眠ることすら律して考え続けていた。考え、考え、思考し、それでも“これ”が何なのかは最後まで分からず終いでしかなかった。

 ただ……

 今度“彼”に会った時に――、

 「『兄さん』…………と言った方が良いのでしょうか?」



 それは自分の教育者ですら「姉」と呼んだことが無かった彼女の、人間性が初めて垣間見えた瞬間でもあった。










 「これでやっと指定数のエリアの解放に成功したわね。さっさとお兄様と合流しないと♪」

 親に買い物を頼まれた子供が家路につくかのような調子でクアットロは外壁と収監区の間に存在する非常階段を下っている最中だった。ここは既に大気圏内、酸素はあるので問題は無い。常人なら五分と保たずに酸欠で頭痛と吐き気に見舞われて気絶するような気圧ではあるが、そこはやはり戦闘機人、ただこうして移動するだけならば少量の酸素でも活動は充分可能だったと言う訳だ。そして、ここをずっと下まで降りれば後はトレーゼと合流して脱出するだけだ。地上まではまだ距離があり、どうやって逃げ果せるのかは不明だが、あの彼のことだ、何か策があるのだろう。どの道心配することは何も無いだろうことは目に見えていた。

 「あぁん! 良いですわぁ、薄い酸素の所為で脳ミソの一部が麻痺するこの感覚……内股の肌が擦れるだけでも達してしまいそう♪ クアットロちゃんったらイケナイ子」

 ここの階段は螺旋階段……少しだけ飛行魔法を使って落下すれば早く合流ポイントに到着出来るかも。遥か下方まで続く吹き抜けを見下ろしながらそんな事を考えたクアットロは、その僅か数瞬後に何の思考も警戒もしないままに階段の手摺りを軽やかに飛び越え、水泳の跳び込みのように垂直なフォームで頭から落下して行った。空気抵抗の中でも彼女の軌道が一直線なのは、落下中に彼女が自分の飛行能力を応用して角度と速度を微調整しているからだ。そうでもしなければ壁や階段の手摺りに顔面衝突は必至であり、そんな無様なことを仕出かすような彼女でもなかった。もはや一目惚れのような惹かれようではあったが、兄であるトレーゼの期待は裏切れない……彼に言われたことを完璧にこなすことこそが、今の彼女にとっての最重要事項だった。

 別行動を取る前に彼から知らされた情報によれば、合流ポイントまでは後200m弱、このまま一定の速度を保ちつつポイントの手前ギリギリで滞空すればそれで万事問題無い。本来ならここは脱獄対策で只でさえ少ない人員を哨戒員として割いているはずなのだが、内部が混乱の様相を極めている今、誰もこの区画にまで注意が周っていないからこそ出来る芸当だった。もしここで哨戒担当が居よう状態で魔法なりISなり行使しようものなら施設の管制システムに感知され、一瞬で蜂の巣に――、



 ――――チュンッ!



 「…………はい?」

 クアットロは自分の右頬を何かが接触寸前で通り過ぎたのを見た。淡い光を伴って猛烈な速度で自分を追い抜いて行った“それ”は一瞬で見えなくなり、まるで夢であったかのように彼女の前から姿を消してしまった。

 だが、彼女は自分の右頬の痛覚神経が警鐘を鳴らすのを感知した。手を触れて見れば僅かだが血液が滲んでいる……。そして咄嗟に把握するのだ、「撃たれた!」と。

 「くっ!」

 すぐさま自分の背後――今さっきまで自分が落下して来た方向へと視線を変えた。ストレージの杖型デバイスを構えた哨戒魔導師が全員で三名、垂直に落下している自分と同じ体勢でこちらを追尾して来ていたのだ。先程の威力と魔力の質から察するに、あの攻撃は間違いなく物理破壊設定……どうやら、この施設の規律に従って脱獄未遂である自分をここで抹殺する魂胆のようだ。死体は遥か下方の地面に激突すれば文字通り木端微塵となり、掃除する手間も省けるだろう……中々考える連中だ。

 何とか抵抗はしたい……と言うかしなければいけないのだが、自分が持っている武装は近距離戦用の武器である上に、ISであるシルバーカーテンは固有武装であるシルバーケープのバックアップ無しでは真の効果を発揮出来ない……どの道、この場でやらねばならない事は唯一つ――、

 逃走あるのみ!

 返り討ちにしようとしても無駄に労力を使うだけだ。それならいっそここで逃げ切ってトレーゼと合流してしまえばそれで良い。彼の実力ならばたったこれだけの人数など大した数ではない、瞬きする間に肉塊に変えてくれるはずだ。

 だが、飛行能力保持のナンバーズとは言え、空戦型ではない自分の逃げ足でどこまで行けるのかは分からない。仮に捕まったその時は……覚悟しておいた方が良さそうだ。だが、何故あれだけの騒動で自分達の脱走がバレたのか?

 とにかく飛行、いや落下! 目的の合流ポイントまでは後150mも無い、ここを振り切れば――!!

 しかし、

 「あうっ!」

 右肩に直撃、すんでのところでブレードを落としそうになるが、堪えた。ここまで来て武器まで無くしてしまえば相手に対しての視覚的威嚇が出来なくなってしまう。恐らくあちらはこっちが非戦闘型であることを囚人登録情報から把握しているはずだ、それで武器を無くせば間違い無く奴らは容赦無く追撃を加えて来るのは必至! でなくても追い付かれれば処分されることに変わりは無いのだが……。

 だが、彼女の逃避行も虚しく、一人の魔導師の杖先から放たれた翠の弾丸が再びクアットロの肩を猛攻した。当然、一度傷付いた部分に再び追い撃ちを掛けられれば耐えられるはずもなく、彼女は小さく悲鳴を上げた直後、とうとうブレードを弾き飛ばされてしまった。

 「くっ! 虫の分際で!!」

 不味い、飛行制御が上手く行かなくなって来ている。このまま落下を続ければやがては飛行出来なくなって自由落下が始まり、やがては地表部分に……となれば、最後の力を振り絞って空中に停滞するしか無いが、一度止まれば追撃者の撃鉄が今度は確実に自分の脳髄を貫くだろう。彼女の心理はヤケを起こしていた、どっちにしても死なら地面に激突にてスクラップになるのは御免だと考え、ターンを決めて上下反転すると、彼女は空中に停滞したのだった。

 たかが虫ケラ如きに引っ立てられるなど彼女にとっては泥を啜るような屈辱の極みだが、ここは一旦大人しくして彼らの隙を窺うことにしたのだ。もっとも、すぐにこの場で銃殺刑に処す所存である彼らに隙が生じるかどうかは賭けだったが……。

 「手間を取らせてくれたな」

 どうやらすぐには殺さないようで、魔導師の一人がバインドでこちらの四肢を封じて来た。寿命が延びたのは良いが、これでこの窮地を脱する可能性は更に低く不確かなモノとなってしまった。最早最悪の場合を想定しておいた方が良さそうだった。 

 「……どうして私がここに居ると分かったのかしらね?」

 「簡単だな、お前らが散々逃がしまくった囚人共……あいつらは全員魔法も固有技能も持ってはいないんだよ。ただの一般人……質量兵器の密売や絶滅危惧種の狩猟で前科数犯以上をやらかした奴らだけどな」

 あぁなるほどな、どうやら自分は墓穴を掘ってしまったようであった。密かに自嘲的な笑みを浮かべながらクアットロは、何故自分がここに居るのがバレたのか、その真相を知った。冷静に考えれば簡単な話だった……三年もの時間の間にすっかり忘れてしまっていたが、自分が封印されていた独房エリアは札付きの極悪人を閉じ込めると同時に、下の階層とは比較にならない程の対魔法結界で覆われていた……それは何故か? 決まっている、あそこには『魔法及び魔力的固有技能を行使可能な者』しか入れられていないからだ。今更気付くのも充分致命傷だが、本題はここからだ……クアットロとトレーゼは互いに囚人達の無差別解放に専念しておよそ二百余名の囚人を解放することに成功した。一見彼ら不特定多数の中からたった二人だけを困難にも思えるだろう……だが、ここで問題なのは、軍団と化した囚人達は全員が魔法を使えないと言うことにあった。独房エリアから抜け出した囚人はクアットロを含んでもたったの10人、他の9人が殺害された情報はとっくに入っているだろうから、結果的に独房から抜け出た囚人は彼女のみと言うことになる。

 そして……この大混乱の中で魔法やそれに準ずる能力を使用したことが感知されれば、それは自分達しか居ないと言うことになり……。

 「しくじりましたわ!」

 「いまさら気付いても遅いさ。まぁいい、これより時空管理局法刑事項目第26条に則り、囚人クアットロを脱獄未遂の責に問い射殺する」

 魔導師の一人がデバイスの先端をクアットロの頭部に向けて狙いを定めた。頭蓋程度の硬さの物体なら余裕で貫通出来るであろう魔力がそこに集中して行くのが嫌でも分かる。どうやら自分の悪運は尽きてしまったらしい……ここを脱獄した後は、自分に砲撃魔法を喰らわせたあの生意気な魔導師に一矢報いることが出来ると期待していたのだが、それも出来ぬままにこんな所で没するとは……我ながら怒りよりも呆れるほうが先に立った。

 だが、いざ魔力の弾丸が放たれようとした、その時――、

 「隊長、こいつこのままオシャカにするには勿体無いんじゃないですか?」

 仲間の一人が今にも撃たんとする杖を手で遮ってそう言って来た。雲行きが怪しい……クアットロの生物的直感が警鐘を鳴らし始めた。

 「お前はまだ懲りていないのか。支部の武装隊でも、その癖が原因でここへ追いやられたのを忘れたのか」

 「い~いじゃないですか、減るモンじゃないんですし。一発、ね? 一発だけですってば!」

 不味い! 目を見て分かる、この男は不味い、日常でも非常時でも絶対に相対したくはないタイプの人間だとすぐに見破れた。全身の肌が粟立つ……生理的嫌悪感が最高潮に達しようとしていた。

 「こいつは脱獄犯として今すぐここで射殺せよとの命令が出ている。同時に、それを妨げる者も同様の処分を行えとも言われている。邪魔立てはするな」

 どうやらこの隊長は真面目な性格らしく、なんとかその男の行動を抑制してくれていた。きっとチーム編成で意図的にこの様にしたのだろう。でなければ秩序が乱れる……今でも充分に乱れてはいるが。

 「そう言うのは外へ行ってからやれ!」

 「ここだから良いんじゃないですか。どうせ射殺するんなら、せめてイイ思いさせてやりたいってのが人としての情って奴じゃないですか」

 「いい加減にしろよお前ら! さっさと撃つんだよ!」

 何やら雲行きが怪しいと思ってはいたが、どうやらこの三人は互いに思考のベクトルが違うらしく、図らずもこちらから注意を逸らしてくれることとなった。このまま何も出来ずにこんな名も知れぬ汚らわしい男に犯されるのも、少しだけ先延ばしになった……何とかしてこの窮地を脱しなくては、この三人の注意が余所を向いている今の内に。

 とは言ったものの、四肢を封じられた上でこの至近距離、正直言って難しいことこの上ない。このバインドは空間に固定するタイプ……飛行能力を切断しても自分の体が下に落ちることは無いだろうが、それは逆に、自分がこの三人の前から一歩たりとも動けないことを意味していた。今頃合流ポイントにはトレーゼが居るだろうが、ここに居る自分に気付くかどうかさえ不確かだ。施設の外はともかく、内部のここは侵入者対策に元々探知系の魔法及び能力が極端に制限されている。彼のスペックがどの程度のモノなのかは知らないが、自分の存在に気付いてくれるのは望み薄のようだった。どの道自分はここでお終いのようだ……脱獄に失敗して死ぬとは、何とも情けない最期……。

 「とにかく、こいつはここで殺す。そんなにヤりたいならこいつの死体で我慢しろ。もっとも、数千メートルも下に落ちて行った死体を拾って来れればの話だけどな」

 再び杖先がクアットロの眉間を捉える。今度は待ってもらえないだろう……皮膚を破って頭蓋を砕き、脳を貫通した魔法の弾丸は何の躊躇も間違いも無く彼女の生命を絶つだろうことは容易に想像がつき、そしてそれは最早不変のモノとなってしまった。

 「……………………」

 「射殺、完了!」

 引き金の無い杖から翠の弾丸が音も無く放たれた。生命的危機に直面したクアットロの感覚が極限にまで引き伸ばされ、眼前の弾丸の接近速度が緩く感じられる。だが、四肢を封じられた彼女には避けられるはずもなく、弾丸は無情にも彼女の眉間を貫通――、



 「クロスファイア……」



 ――するはずだった。クアットロの足元――遥か下方から飛来してきた真紅の魔弾が翠の弾丸を相殺し、そのまま虚空に消えた。見えたのはたった一瞬、されどその時の彼らの反応は一様に早かった。どんなに軽口を叩いたり堅物で融通が利かないような人間に見えていても、そこはやはり軍人気質、突然の事態にもすぐさま反応しては異常の発信源を探そうと視界を張り巡らせた。光弾の飛来して来た下方には人影は無い……隠れたか、逃げたかのどちらかなのは明白……だがどこに? ここは外壁と居住区の間に存在する非常空間、隠れる場所など視覚的に存在しないはずだ。

 魔力の反応は今のところ感知出来ていない、彼らの優秀な脳は状況から既に攻撃の相手が報告にあった脱獄を手引きした者だと言うことに気付いていた。だが肝心の姿が見当たらない、姿が見えなければ対応のしようも無い、まさかここら一帯を破壊して行く訳にもいかないから地道に手分けして探すしかないのだろうが。

 「…………お前の仲間が近くまで来ているようだな」

 「そうみたいですわね。正直助けに来るなんて思ってませんでしたわ」

 「何処に居る? 分かっているのなら言え!」

 「あらあら、何を怯えているのかなぁ? ひょっとして、怖かったりしちゃうんですかぁ?」

 形成が自分に好転してきたのを良いことに、クアットロは三人を挑発し始めた。姿の見えない強敵を前にして自分一人……それも四肢を完全に封じられた相手に気を回していられるだけの余裕は無いはずと見ての行動だった。彼らが優秀でなく、自分の感情に沿ってしか行動の出来ないような人間であったなら、怒りに任せて彼女は即刻殺されるだろう。だが、もし彼らが己の感情よりも、自身に課せられた職務を優先的に全うしようとする人間だったなら――、

 「何を言っている。少し黙ってろ! その頭、撃ち抜かれたいか!!」

 「はいはい、熱くならないの♪ そんなに人の事を邪険にしてる悪い子は――――



 悪魔に首を刎ねられるわよ?」



 「何を意味の分からないことを言って――!」

 そこから先の言葉はクアットロの耳には届かなかった……。もし、目の前の三人がもう少し優秀だったなら、いくら挑発されたからと言ってこんな非常事態でわざわざこっちに目を向けたりなどしなかっただろう。だがまぁ良い、どの道彼らは幸せ者だ……何故なら……

 自分達のすぐ背後にまで迫った“死の恐怖”を直視しなくて済んだのだから。

 無機質の金属で構成された壁……そこを14のISの一つ、無機物潜行の能力でもって一気に通り抜けて来たトレーゼの右手には、自身のエネルギー光でまるで血染めの刀のようになったツインブレイズの片割れが握られており、それを大きく振り被ったその姿は正しく童話や神話の中に垣間見える悪鬼そのものであった。

 常人なら恐怖に駆られて絶叫を上げるであろうその姿を見て、クアットロが漏らしたのは――、

 「嗚呼、素敵」

 それが、追撃者達の聞いた最後の言葉となった。










 「博士って、友達は居ます?」

 一通り手術が進んでいた時にスバルが聞いてきた何気ない質問に、ゴム手袋に白衣、そしてマスクと白い手術帽と言う本格的な出で立ちで専用工具を手に持っていたスカリエッティはふと手を止めた。

 「友人か……。生まれながらの試験管ベビーだった私は10代前半までは英才教育、20歳で自分の研究所を所有する程に頭脳を磨きはしたが……友人と呼べる者は一人も居なかったかな。それがどうかしたのかね? ご友人と何かトラブルでも?」

 「いえ、そう言うのじゃないんです……別に喧嘩も言い争いも何もしてないんですけど…………何て言うのかな……」

 「落ち着いて順を追って話してみたまえ。丁度ここら辺で小休止を取ろうと思っていたところだったのだよ。シャマル女史、済まないが手術部位の保存を頼む」

 「分かりました」

 シャマルの手が青ビニールの天蓋に伸び、青磁色の輝きが漏れ出た後、すぐに引き出された。彼女の魔法で30分は血行の流れを止めたままでも細胞を壊死させないように施した。当然麻酔効果もあり、スバルが痛みに悶えることもない。これでしばらくは会話の時間を稼げたことになった。

 「ふむ、それでその御友人が如何なされたのかな? 確か君の友人と言えば、もっぱらランスター執務官か六課時代に親しかった者のはずだったと思うのだが……」

 「実は、最近私が入院してた病室に見舞いに来てくれるようになった人が居て……その人の事なんです」

 「ほうほう。それで?」

 「何て言うんだろ…………どこを見てるか分からなくなるんです。いつも、自分とは違う、どこか遠くを見ている感じで……偶に私でも分からないトコロに行っちゃうんじゃないかって思えるんです」

 「君には随分と哲学的な感性があるのだな。だが君の言うように、人間が自分以外の他人の事を真に理解出来ることは極稀だ。どんなに親しい仲……例え親兄弟であっても、同じ空間に存在している限りは必ずと言っても差し支え無い程に軋轢や行き違いなどが発生するものなのだ。殊更それが…………異性であった場合は」

 「!?」

 スカリエッティの言葉にスバルは思わず反応して身動ぎしてしまった。自分でも少し頬辺りが赤くなって来ているのが分かり、それを見ている彼の「してやったり」と言う笑顔が更にスバルの顔を紅潮させた。

 「ふむ、図星か。君のような年頃には良くある事象だと聞く……相手の事を知りたい、だが分からないままの自分に苦悩する……。人間は自分とは違う者に対して敏感に、且つ貪欲なまでに興味を示しては追究し、その者を完全に『知ろう』とする傾向にある……特に、先程も言ったようにそれが異性であった場合などは顕著になる」

 「あ~えっと、その……」

 「一目見た時から君は男っ気が無いと思っていたのだが、まさかここでそんな話が出てくるなどとは思いもしなかったよ。お父上もきっと喜ばれると――」

 「ドクター」

 「失礼、野暮な話だったな。まぁとにかくだ、人間生きていて他人を理解しようとするのは良い心掛けだが、生半可なコトではないと言うことなのだよ。何もすぐにそうしようとしなくても良い……時を掛ければ幾らでも親しくなれるさ」

 「そうなんですか?」

 「聞けば、高町教導官とハラオウン執務官は元から親友ではなかったそうではないか……あれと同じさ。君とノーヴェが始めから仲が良かった訳ではないようにな」

 そう言われればそうだ。いつだったか、なのはとフェイトは昔は親友だったどころかその真逆、真っ向から対峙していた敵同士だと聞いたことがあった。元副隊長陣であるヴォルケンリッターの面々も、今でこそ同志だが、かつては目的を違えた為に刃を交えて命のやり取りをしたと聞いた……だが彼女らはそうした交流の中で次第に心を通わせ、親友となったのもまた事実……それを思えば、スカリエッティの言うこともあながち間違ってはいないと言うことだろう。

 「ましてや君達は別に敵対している訳ではないのだろう? だったら尚更問題は無いさ」

 「そうなんですか?」

 「私は友人は居なかったが……面と向かって敵対の意思表示をされない限りは大丈夫だろう」

 「ドクター、そんな大雑把な……」

 「違うのか?」

 自分ではもっともな事を言ったつもりだったのか、隣に座るウーノに諭されて首を傾げるスカリエッティ。そんな間の抜けた姿にスバルは思わず笑みを零した。他人が見たら彼らがつい三年前まで対立関係にあったなどとは到底思わないだろう……それはここに居る誰もが実感していることだった。三年前まではこうやって一堂に会するなどと、一体誰が予想し得ただろうか。

 「本当……こうやって話をしてると、私達って本当に戦ってたのかしらって感じちゃうわ」

 「人生何が起こるか分からん。どんなに計算されたことであっても、それを簡単に覆すような出来事が起こることがあるのだよ。実際この私も、まさか獄中暮らしをするなどとは思ってなかったのだからな」

 「それは……まぁ、そうですね。あはは……」

 六課時代にスバルが聞いた話では、管理局の収監施設の食料は全てが不味いとのこと……。手術台の上から見たスカリエッティの頬が引き攣り、どこか遠くを見ているような生気の無い目をしていたのは何となく理由が分かったような気がした。と言うか、隣のウーノまでもが似たような表情で顔に陰が差しているのが見えたような気がしたが、気のせいだったのだろうか? とにかく、あまりそのことについては深く追及しないことにしておいた方が良さそうであると言うのは直感で分かった。

 「まぁ、若い内から多くの人間と朋友となっておくのは良いことだ。後で色々と都合が利くからなぁ」

 「ドクター、そんな身も蓋もないことを……」

 「冗談さ。それよりも、君が異性を友人として認識するとは、一体どんな人物なのかね?」

 「あー、それは私も興味有ります。やっぱりスバルちゃんと同じようにバカ……もとい、穏やかで陽気な感じなのかしら」

 「シャマル先生、今何気に酷いこと言いませんでした?」

 「気のせいよ。それで、どんな子なの? 年齢は? 身長と体重は? 生年月日は? 血液型はもう聞いた?」

 「シャマル女史、落ち着きたまえ。それ以上は野暮と言うモノだよ。ここは若い人間の成り行きに任せようではないか」

 「時々スカさんが常識人なのかそうじゃないのか分からなくなります……。って、私は別にそんな関係じゃないですってば!」










 「…………くしっ!」

 「あら、可愛いクシャミ♪ 風邪でも引かれたんですかぁ?」

 自分の一歩前を歩く兄にクアットロは悪戯っぽい笑みを浮かべながら聞いてきた。今二人が歩いているのは、予定された合流ポイントから約200メートルも下方の螺旋階段の上だった。トレーゼが先頭を、クアットロがそのすぐ背後を追う形で移動を続けており、彼が言うには脱出ポイントまではもう少し下らなければならないらしい。四対のローラーが付いたジェットエッジを地面に接触させる事無く器用に浮遊して移動するトレーゼ……後ろ姿だけ見れば地上に舞い降りた精霊のような軽やかな足取りだが、その実は違う……。

 「お兄様には驚かされました。こんな辺境の地とは言え、追手の魔導師を三人も同時にブチ殺すなんて……トーレ姉様にしか出来ない芸当だと思ってましたわ」

 「……………………」

 「邪魔な奴らはブチ殺して罷り通る……私の理想にも適う貴方のやり方……惚れ惚れしますわ」

 「……………………」

 「お兄様? さっきからずぅーっと黙り込んでますけど、何かありましたの?」

 何か様子がおかしい……先程追手を惨殺した時から彼はただの一言も口を聞こうとしなかったのだ。始めに見た様な鉄面皮を顔面に貼り付けたまま、クアットロの言葉を聞いているのかどうかさえ分からず、ただ前方だけを見据えたままだった。何かあったのかと思いつつ彼女が肩に手を伸ばすと――、



 「……俺を失望させるなと、言ったはずだ」



 「な、何を――きゃっ!!?」

 鼓膜を打ったのは小さな声、背中を直撃したのは大きな衝撃。自分が対衝撃仕様の壁に叩きつけられたと認識するのにクアットロは一瞬の時間を要した。リボルバーナックルに酷似した漆黒の鋼の腕がクアットロの首を締め付ける……冷たい五指の鉤爪が食い込み、彼女の食道と気管を圧し折らんばかりに握り、クアットロは辛うじて呼吸が出来るかどうかにまで追いやられた。自分でも何でこんな事になったのかまるで分からず、クアットロはただ混乱するだけだった。

 「な……何故……!?」

 「こちらが、聞きたい。何故、あそこで、飛行能力を、行使した? 感知されれば、追手が来ることぐらい、冷静に考えれば、分かるはずだ」

 「そ、それは……!」

 「自分が必要と、されているからと言って、いい気になるな。後で、泣きを見るぞ」

 爪が首元の頸動脈に容赦無く食い込む……始めは冗談か何かだと思う余地もあったが、これは本気だった、目の前の彼は自分を消す事に何の躊躇も無かった。紙の書き損じを消しゴムで消すように……そしてその塵を吐息一つで何の遠慮も無しに吹き飛ばすようにして、同胞を消す……この男にはそれが出来るのだ。何の躊躇いも、考えも、遠慮も、策も、そんな甘ったれた思考など介さずとも自分の妹程度の存在なら軽く殺してしまう……そんな気迫があった。

 その時、クアットロの脳裏に浮かぶビジョンがあった。先程の追手の首を全て刈り取った瞬間に見たトレーゼの瞳――動いたモノ全てを狩るまで止まらない獣の眼――始めに見た時には美しささえ感じたその禍々しい視線が、今は自分に向けられている。その事実にクアットロは恐怖した。

 「分かりましたっ! ですから! 許してぇ!」

 懇願。人為的危機に陥った際に人間が取る行動は限られ、その一つがこれだ。圧倒的劣勢に立たされ、それを脱する可能性があればどんなに低くてもそれに縋るしかない……今の彼女にとっては最も見っともない行為でしかなかった。

 「…………お前は、道具ではない……計画遂行の為の、ただの“部品”だ。正常に稼働すれば、それで良い。他の余計な事は、一切するな」

 「は……はい」

 「なら良い。では……」

 トレーゼの手が喉元から離された。しかし、やっと解放された彼女の息つく間も無く、万力のような圧力を発揮していたその手が次に掴んだのは――、

 「ひっ!」

 真紅のツインブレイズ。送り込むエネルギーの総量によって長さが変化するその刀身の現在の長さは、およそ1m……刀剣型の武器としては結構な長さだった。それを片手に構えたトレーゼは剣圧に怯えるクアットロを余所に外壁部分に接近し、戦闘体勢の構えを取った。更に驚いた事に、彼はその居合いのような構えの刀身に自身の魔力を送り込み始めたのだ。

 「…………」

 隣でクアットロが戦々恐々としているのにも気にせず、膨大な量の魔力を注ぎ込まれた刀身の輝きが更に増していく。焼き上がった鉄もかくやと言うぐらいにまで真紅の輝きを満たし、その刃渡りを伸長させない代わりにその密度を極限にまで高めつつ鋼以上の強度をもたらすことに成功して見せた。

 「……秘剣――」

 柄の握り込みが強くなる。刀身を左腰に回し、右手によるこの構え……隣で傍観しているクアットロは知る由も無いが、この構えはとある管理外世界の極東の島国にて編み出された抜刀術の究極形――即ち、居合い斬り。刀剣の威力と切れ味を最大限に引き出すこの構えでトレーゼが放つのは、かつての廃棄都市区画での一戦にて烈火の将より奪いし大技――、

 「――紫電一閃」

 魔力変換された紅い電流が切っ先から漏れ出るのと、精密機器を内蔵した眼球のハイスピード機能を以てしても捉え切れない斬撃が対衝撃仕様防壁を切り崩したのはほぼ同時だった。勘違いされる事が多いが、烈火の将シグナムの奥義が一つであるこの『紫電一閃』は単純に刀身へ炎を纏わせるだけのモノではない。あの炎はあくまで敵方に対する視覚的威嚇と熱と斬撃による二重攻撃の為のエフェクトでしかない。刀身にありったけの魔力を送り込み、抜き放つと同時にそれらを解放、瞬発的な爆発的威力を発揮して相手を物理的に排除するのがこの術の真髄なのだ。その証拠にシグナムの一番弟子であるエリオはその大技を自分のスタイルに合わせてアレンジして見せた。それを鑑みれば、このシンプルな技を形だけでもマスターすることは一応可能だろう。

 だが、彼の場合は違っていた。

 彼の場合は『見て』すらいないのだ。スバルの【ディバインバスター】然り、エリオの【紫電一閃】然り、相手の技を見て真似し、見稽古によって修得して見せると言うのはある程度は可能だ。だがしかし、それは結局は目で見なければ話にならない……眼球で捕捉し、耳で聞き取り、肌で感じ取るからこそ成せるはずのモノなのだ。それを彼は思念捜査でシグナムから奪い取った記憶だけを頼りに完成させて見せた……人の脳内に僅かにしか蓄積していない曖昧な記憶からたった一つの事項を完璧に再現するのは至難の業にも関わらずだ。これが彼の持つ固有技能か何かの成せるモノなのか……それについて判明するのはまだ先になることだけは事実だった。

 と言うよりも、隣に居たクアットロにそんな余計な事を考えている余裕などこれっぽっちも無かった。何故なら……

 「ああぁあああぁああああああっ!!!」

 間違い無くジェットコースターに初めて乗った人間でもこんなに上品でない悲鳴は上げないであろう絶叫を、彼女はありったけの力を振り絞って捻り出していた。何故か? ここは軌道拘置所の外壁と居住区の中間に層のようになっている場所……今さっきトレーゼが物理的にこじ開けたのは施設の外側に通じる壁面……そして、ここは地上数千メートルの高度……施設の内部は一気圧でも、外部の気圧は地上よりもずっと低く、そんな状況で外界との隔壁を取り去ってしまえば気圧の高い方の空気が低い方に向かって気流となって流れるのは自然現象として当たり前。そして、その空気の流れは互いの気圧差が大きければ大きい程に激しくなるのだ。そして、その激流に現在全身を晒されているがクアットロと言う訳で、螺旋階段の手摺りに抱きつくようにして必死に吹き飛ばされまいと踏ん張っていたのだ。

 「な、な、何でこんなトコでっ! わわぁああっ!!」

 何でこんな所で穴を開けるのか……恐らくはそう問いたかったのだろう。だが、死に物狂いで掴まっているクアットロを余所に、トレーゼの態度は平然としたものだった。ブチ開けた穴のすぐ近くに立っているにも関わらずに直立不動で佇立しており、それどころか外界に首を出しては遥か下方の地表を見つめているではないか。

 「お兄様ぁ! 危ないですってぇ~!! あら、あらあらっ!? どこを掴んで……って、どこへ運んで行くんですの!」

 トレーゼの右手がクアットロの首根っこを引っ掴む。身長も体重も明らかにクアットロの方が大きいのに、そんな彼女の体躯を片手で持ち上げたトレーゼはまるで重たそうな顔もせずに、あろうことか穴の方へ向かって彼女を引き摺って行く。

 「こ、ここ、ここへ私を連れて来て……ど、どうするおつもりですの……?」

 「自由落下」

 「あぁ、なるほど……………………へぇあ!?」

 兄の口から聞かされた突然の言葉に思わず彼女は目を引ん剥いた。今この兄は何と言った!? 自由落下と言うことは、即ちここから飛び降りると言うことだ。だが、ここが地上何千メートルか知っての発言なのか!? 確かにクアットロ自身、多少ながら飛行スキルはあるものの、それはあくまで戦闘用ではなく急用での移動用でしかなく、彼女もここまで高い所を飛行する自身は無かった。おまけにこの気流……始めから空戦が目的として造られたトーレやセッテならともかく、彼女の様な『おまけ』程度の飛行能力ではあっと言う間に乱気流に呑み込まれてしまうのがオチだろう。そうなればパニックに陥り、最後まで飛行することもなく地表に接触、寸分の狂いも間違いも無しに死亡してしまうだろう。

 「な……なんで……!?」

 「始めから、飛行して、魔力やエネルギーを、感知した対侵入者用機銃に、駆逐されても良いなら、俺は何も言わん」

 「……………………」

 確かにそうだ、軌道拘置所の全外壁面には対侵入者用に物理破壊効果を持った魔力弾を大量に吐き出す機銃が設置されており、特に大気圏内ではその警戒に磨きが掛かるのだ。鳥以外の飛行物体があれば即座に撃墜されるシステムとなっており、唯一の例外は上空からの落下物だけだ。外壁はデブリ程度ならば余裕で耐えられる構造なので、ある程度のサイズの落下物は大気圏を突破して小さくなったデブリとしてそのまま見送られるのだ。

 「つまり、地上1000までは、自由落下し、後は飛行によって加速し、ここを脱する」

 「下まで歩いて行くのは?」

 「ノー。時間が掛かり、過ぎる」

 「では私がやったようにして行けば……」

 「学習能力が、無いのか?」

 「…………やっぱり、飛び下りなければ?」

 「当然だ」

 改めて下を見やる……。低層雲が足元に見えると言うのはある意味でスリリングな光景ではある、日常的に見れるモノではないだろう、ここから飛び降りろと言うのだからどうかしている。そして確信、やはり自分は上手くやれる自信は無い。

 「あの~ぅ、やっぱり他の方法を考えませんかぁ……なんて」

 生命の危機を直感したクアットロは、どうにかしてプランを変更してもらわなければと思い、自分の首元を掴み上げたままのトレーゼに振り向き――、



 「良し、先に行って来い」



 「へ?」

 突如、自分の体が自由になり、クアットロは自分の体が一瞬だけ浮遊するのを感じた。内蔵が浮足立つような気持ちの悪い感覚の後、空中でゆっくりと回転した彼女の視線が捉えたモノは……白い肌の鉄面皮でこちらを金色の瞳で凝視したままの兄の姿だった。

 「あ、あああ! あああぁああああああああぁぁぁぁぁ~~~…………」

 伸ばした手は結局何も掴めず、彼女の断末魔にも似た叫びは乱気流に呑まれた体と共に虚空に消えて行った。そして、自分の妹が木の葉のように飛ばされて消えて行くのを見届けた後、彼は静かに目を閉じ――、

 「行くか」

 降下を開始した。










 「さて、これである程度の修理は完了した。あとは生体部分の組織や神経を丸三日掛けて再生し、繋ぎ合わせるだけだ。その場合、シャマル女史には文字通り72時間付きっ切りで治癒魔法を掛け続けてもらい、細胞の治癒を促してもらう」

 ミッド標準時間午前6時48分、およそ二時間近くに渡って行われた手術はようやく一段落終えることが出来た。実際は内部フレームの部品取り換えと回線の修復などが終了しただけなのだが、先程スカリエッティが言ったように生命素体部分は時間を掛けさえすれば再生は可能だ。後遺症や障害などが残らないように気を付けてさえいれば問題はない。

 「ありがとうございました。本当に治してくれるなんて……」

 「取り合えずは両脚だけだがな。日常生活を送る分には片手でもしばらくは問題ないだろう」

 「ドクター、お飲み物を」

 「ありがとう、ウーノ。右手の修理は少し間を置いてからにしようと思っている。そうだな……両脚の再生によって蓄積した細胞への負荷が完全に抜け切るまでを考慮しれば、ざっと一週間後と言ったところか」

 マスクと手術帽を剥ぎ取った彼はパイプ椅子に腰掛けると、ウーノから受け取ったコップに口を付けた。休み無しにずっと立ったままで手術をしていたので、その疲労は計り知れない……それは他の二人も一緒だった。何はともあれ、これでスバルの足が完全に治る目処がついたのは事実だ、後は右手さえ元に戻れば良い。始めはどんな風に改造されてしまうのかと寿命が縮み掛けたが……。

 「本当に……ありがとうございます」

 「君のお父上たっての頼みだからな。それに……私自身、戦闘機人が惨めに朽ちて行くのは見たくなかったのもある。色々と思い入れがあるからなぁ……」

 「…………“13番目”も同じ戦闘機人なんですよね?」

 「……そうだ」

 突然スバルが興味を示したのが予想外だったのか、スカリエッティの返答に少しだけ間があった。彼女の方はベッドの上でただ静かに虚空を見つめたまま微動だにしなかった。自分の手足を圧し折られた事実に対する悲しみも、友人を傷付けられた事に対する怒りも……そこには無い、ただ澄んだ瞳があるだけだった。スカリエッティには、いや、同じくそれを見ていたシャマルとウーノにも理解できなかった。何故この少女はここまで澄んだ目をする事が出来るのだろうか……。

 「……強いんですよね?」

 「君も知っての通りな」

 「でも、私と同じ“人間”なんですよね?」

 “人間”の部分をいやに強調してスバルが問う。何故かは分からないが、彼女の澄んだ目に囚われたスカリエッティは一瞬だけだが返答を黙秘しそうになってしまった。だが彼女が質問したからにはそれに答えねばなるまい……故に彼ははっきりと言ったのだ。

 「いや違う。彼は……あれは“兵器”だ。君達“人間”とは違ってな」

 「…………そうですか。……あの、名前を教えてくれませんか?」

 「名前? あれのかい?」

 「はい。何でか分からないけど……知りたいんです、あの人の事を……。でないと、もし今度出会った時に私は何も知らないまま戦わないといけなくなるから……そんなの嫌だから……」

 「……良いだろう、いずれは相見えるやも知れん、せめて名ぐらいは知っておいた方が良いだろうな」

 これが吉と出るか凶と出るかは分からない……だが少なくとも後々の戦況を揺るがすような恐れは万に一つも有りはしないだろう。そう判断したスカリエッティは隣のウーノと目配せして意思を確認した後、ゆっくりと、はっきりその言葉を紡いだ。



 「『トレーゼ』、管理外世界の言語で“13”を意味する……。彼の名前だ」



 何も間違ってはいない……少なくとも彼にとってはそうだったに違いない。

 だが――、

 「え――?」

 この直後、スバルは自分の言動を激しく悔やむことになる。彼女にとって今の自分の問いと、それに対して返って来た答えは、あまりに過酷過ぎる『間違い』だったからだ。










 落下し始めてから数十秒後、クアットロはいつの間にか悲鳴を上げるのを止めてしまっていた。とは言っても、決して慣れてしまった訳ではない……乱気流帯を突破した彼女の肉体は始めに飛び降りた地点から半分は落下が進んでおり、独楽のように空中で何回転もする内に泡を吹いて気絶してしまっていただけだったのだ。

 緑の大地までは残り距離2000……いかに機人の肉体が常人の数倍は頑強言えども、これだけの高度から発生した運動エネルギーでもって地表に叩きつけられれば木端微塵になることは必至。かと言って、気絶したままの彼女に接触寸前に飛行能力を展開するだけの余裕があるはずもなく、運よく湖にでも突っ込まない限りは未来がなかった。

 だが、そんな事は彼女を放り投げた張本人であるトレーゼが一番良く知っていた。

 「…………」

 ツバメが羽を畳んで滑空するような体勢で急降下する彼の視線の先には空中で無様にキリキリ舞いするクアットロが捉えられていた。空気抵抗を最低限にして落下してきた彼は先行していたはずのクアットロを空中で捕まえるべくさらに加速する……そして遂に――、

 「ふん……!」

 「ぐぇえ!?」

 潰した蛙でももう少しマシな声を出すであろうこれまた無様な悲鳴が、トレーゼの掴んだ首からひじり出た。そのまま空中で体を捻って気流を体に纏って一回転、彼女を背負う事に成功した。地表まではあと数百メートルしか残されてはいない……だがここで――!

 「IS、No.3『ライドインパルス』」

 足元に紅いエネルギー翼が瞬時に展開されると同時に二人の姿は残像すら残さずに綺麗な直角軌道を描いて地面から平行に高速で退避した。高速移動状態での急な軌道変化は肉体にそれなりの負荷を与えるが地面に激突するよりかはマシだと判断しての行動だった。この距離では対侵入者システムに感知されたかも知れないが、こちらは弾丸よりも速く移動しているので問題は無い。

 さて、そろそろか。こんな余剰エネルギーをダダ漏れにする能力をいつまでも行使していれば弾丸の代わりに追手の魔導師が何人来るか分かったものじゃない。青い湖が見えた所でトレーゼは背負っていたクアットロを再び掴み上げると大きく振り被り、水面に叩きつけた。その瞬間に魚雷か何かが着弾したかのような水飛沫が周囲の木々の葉を一斉に濡らし、枝に留まっていた鳥達を遠くへ離散させてしまった。

 「ぶぇはぁっ!!? あ、あれ? ここって天国? そ、それとも! 地獄ですのぉ!?」

 「何を、寝ぼけている。戦闘機人に、その様な宗教的概念は、存在しない」

 「あ、お兄様。と言う事は、ここは現実……? なぁーんだ、つまりませんわね」

 幸い水底はさほど深くなかったお陰でクアットロは溺れることなく岸にまで自力で上がって来れた。眼鏡は無い、落下の最中か先程の着水の瞬間にどこかへ放り出されてしまったのだろう。どうせ度の入っていない伊達眼鏡だった上に大して執着も無かったクアットロは探しもせずにトレーゼの元まで駆け寄って来た。

 「無事か?」

 「水面に投げ飛ばした本人がそれを言います? 一応無事ですよぉ」

 「では移動を、再開する」

 「え!? まだ行きますの!?」

 「ここへ来る前に、次元転送術式を、設置しておいた。そのポイントへ、向かう」

 「はぁい……」

 地上数千メートルから強制ダイブさせられたばかりかまだ移動を続行しなければならないとは……クアットロは自分が脱力していくのをどうする事も出来なかった。今はただこの男について行くことが身を護れる唯一の術だ、ここは何を言われても大人しく従っておこう。

 地面から足が離れ、二人は森林の樹木よりも高い位置まで飛翔した。飛行能力を使えば目的の場所までは一直線、ここまで来れば後は何も起こらないだろう。いや、むしろもうここまでされれば何が起きても驚きはしない……今の彼女にはそんな変な自信が根付いてしまっていた。

 「さぁさ、早く行きましょうお兄様♪」

 「…………」

 「あら? どうかしました、お兄様?」

 地上から離れたと思えば何故か空中で停滞したまま微動だにしないトレーゼを見て不思議に思ったのか、クアットロが彼の視線と同じ方向を見やった。生憎だが何も確認出来ない、それとも彼にしか見えない何かがあるのだろうかと思いつつ、眼球の望遠機能を使おうとしたその時――、

 「まずい――!」

 「どうしましたのお兄様……って、きゃあぁっ!!!」

 突然トレーゼに突き飛ばされるクアットロ。何が何だか分からないままに彼女の体は慣性の法則に従ってトレーゼから離れ、トレーゼの方も彼女から距離を置く。

 その瞬間――、



 「ディバインバスタァーーーーーーッ!!!!!」



 クアットロの視界を埋め尽くした輝きがあった。

 その輝きの塊は自分とトレーゼの間を通り抜け、延長線上に存在していた木々をまるで紙屑か何かのように薙ぎ払って消えた。彼女は見た事があった……“これ”が何なのか知っていた、知っていたからこそ彼女は混乱した。

 「そんな……! 何で、何であの女がこんなとこまで!?」

 眼前をかすめた桜色の極大の魔力光――【ディバインバスター】。これ程の大出力を撃てる人間を彼女はたった一人しか知らない……そう――、その人間こそ――、

 天使をモチーフとした純白のバリアジャケット。

 頭の左右に留めた長い髪。

 足元に輝く桜色のアクセルフィン。

 そして、両手で構えたる紅玉が特徴の愛杖……。

 「あ……あぁああ……! ああぁぁああぁああっ!!!」

 クアットロの肉体と脳裏に原始的恐怖として刻まれた忌まわしい記憶が蘇る……。かつての戦いにおいて生身の人間でありながらディエチの砲撃を真っ向から食い破り、難攻不落を誇った古代ベルカ最大の遺産“聖王のゆりかご”の内壁を何重も破壊したあの攻撃……天井を突き破り、自分の肉体を完膚無きまでに打ちのめしたあの忌まわしい魔法!



 「時空管理局武装教導隊戦技教導官、高町なのは一等空尉、目標とエンゲージ!」



 “大空のエースオブエース”。

 “管理局の戦術の切り札”。

 “不屈の砲撃魔導師”。

 数々の異名や二つ名を抱えた白き魔導師、高町なのはがそこに居た。全身から発散される桜色の魔力に対して完全に恐れを成してしまったクアットロ、すぐさまトレーゼの背後に隠れてしまった。対するトレーゼも何かを感じ取っていたのか、微動だにせずに目の前の魔導師と相対しているだけだった。だが、その殺気は直接向けられていないはずのクアットロにも肌で分かるぐらいに強烈なモノだった。小さな鳥類程度の脆弱な生物ならば間違い無く屠れるレベルの強烈な殺気が……。

 だがいや待て、冷静に考えて見れば……

 「あ、相手は高町の悪魔言えども単独……こちらには、お兄様がついているんだから、だ、大丈夫……」

 そうだ、如何に相手が自分の戦闘史上最悪の敵であろうとも、こちらにも切り札は存在しているのだ。まだ真の実力は未知数だが、かつてドゥーエから聞いた事が正しければ自分の兄であるトレーゼはまさに“単体最強”の力を誇っているはずなのだ。どれだけ目の前の敵が同じ最強であろうとも、それは結局のところ“生物最強”でしかない……たかが生物の枠組みにはまっているだけの存在が自分達『超越した者』に対してどうこう出来る訳が無いのだ。

 そのはずだった。

 「……それは、どうかな」

 「お兄様、何を言って……………………っ!!!?」

 トレーゼに諭された時、今度こそクアットロは自分の心臓が停止するかと思った。自分の頭上、自分でも何故気付けなかったのか不思議になる程に近くに突如として感じた別の大きな魔力……それを感じ取った時には、既にクアットロは“彼女”を見てしまっていた。



 「本局付き執務官、フェイト・T・ハラオウン一等空尉、目標を至近距離で確認」



 電光迸る鎌を持った黒い魔導師――高町なのはと双壁を成す魔導師、フェイトがこちらを見下ろす。幾分離れているとは言え、戦闘に素人なクアットロでも分かった……これはもう彼女の距離だと。

 「そんな……!」

 「驚くのは、まだ早い」

 「え?」

 そう言ってトレーゼが指差すのは眼前の高町なのはの更に後方……緑生い茂る森林の向こう側の山脈だった。いや違う、良く見れば彼が指しているのは山なんかではなかった。彼の視線と指の先にあるモノ――、

 それを見た瞬間、

 今度こそクアットロは絶望を感じた。



 「時空管理局特別捜査官、八神はやて二等陸佐、これより対象との交戦に入ります」



 最後の夜天の主、歩くロストロギア、史上最年少佐官……その手に勝ち取った名声と異名は数知れず、史上最も成功したとされる魔導騎士が遥か遠方から狙いを定めていた。

 「高町なのは……フェイト・T・ハラオウン……八神はやて…………か。管理局め、打って出たな」

 まさか管理局の戦力を代表する三強が出てくるなどとは思いもしなかったのか、流石のトレーゼの言葉にもどこか苦々しさが含まれていた。『管理局の三強』、いつからこの呼称が内外で定着したのかは分からない。ただ一つ分かる事があるとするならば、それは彼女ら三人の個々人の戦闘力がそれぞれ支部の一個大隊の総合戦力と優に匹敵すると言うことだけである。同じ管理局からは『英雄』とされ、あらゆる次元犯罪者からは『悪魔』と称されるこの三人……はっきり言って、今回のこの邂逅は――、

 窮地以外の何物でもなかった!

 「…………No.4」

 「は、はい」

 「……………………骨は、拾わん」

 「え? それってどう言う――」

 「来るぞ!」

 眼前と頭上、二つの方向から雷光と光線が飛んでくるのと、トレーゼが展開した三角陣のトライシールドがそれらを防ぐのはほぼ同時だった。瞬時に爆煙から脱した二人は一旦距離を置くべく全速力で後退し、再び相対した。



 『管理局の三強』と『アンラッキーナンバーズ』……これが管理局と“13番目”の初の公式戦とでも言える最初の戦いだった。



[17818] 三強包囲網を突破せよ
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/05/05 01:47
 「そう言えば……」

 管理局側から招かれたとは言え一応彼らは刑期を終えていない犯罪者、移動する時はスカリエッティとウーノ共々こうして腕の立つ局員が付き添うことになっていた。今回のこの場合はつい先程まで手術に立ち会っていたシャマルがそれを担当していた。これからゲストルームに戻るこの二人と同行し、彼らが脱走などしないようにとのことである。ちなみに、スバルは肉体の一時的安静の為にあのまま手術室に寝かせて来た。後で寝室の方に移動はさせる。

 「ん? どうかしたのかね、シャマル女史」

 「いえ、昨夜からはやてちゃ……八神二佐の姿を見て無くって。よっぽど忙しくない限りちゃんと家には帰って来るはずなんですけど……」

 「あぁ、彼女は私の頼んだ野暮用で今はミッドには居ないよ。ついでに言うと高町教導官とハラオウン執務官も一緒だ」

 「そうなんですか?」

 十数年前とは違い、今や三人とも役職的に接点が薄れて来ていたはずだった。そんな三人が再び同じ任務に就いたと言うことは、それなりによっぽどの事態があったに違いない。

 「どこへ?」

 「うむ。無人世界『ゲルダ』にある軌道拘置所だ」










 午前7時00分、第6無人世界『ゲルダ』――。



 「……………………」

 紫苑の短髪に白磁の肌、トレーゼが両手の拳を前に構える。装着したリボルバーナックルに酷似した武装の表面が東からの陽光を受けて鈍く輝き、その凶暴な外観を目の前の襲撃者達に対して顕示する。

 「……………………」

 相対するは三人の魔導師。接近戦に長けたフェイトを最前列に、中距離火砲支援と同じく接近戦対応型のなのはが中心、そして三人の中で最も強力な長距離支援を行えるはやてが五倍以上離れた位置に……。一見シンプルで何の捻りも無い陣形にも思えるだろうが、事前に彼女らの戦闘スタイルを熟知していたトレーゼにとってこれ程の強力且つ難攻不落と言うに最も相応しい陣形は存在し得なかった。接近戦に特化した者が前線に出張りそれを火砲支援で二人目が援護、そしてその更に後方からの隙を見計らっての大火力爆撃……この三人だからこそ成し得た究極の少数精鋭陣形! こちらに見せる隙など万に一つとてあろうか。

 砲撃の天使――。

 斬撃の死神――。

 爆撃の堕天使――。

 この三人と初めてコトを構えたトレーゼが各人に対して最初に抱いた第一印象がこれであった。どれも彼の嫌悪する宗教的存在を比喩に出さなければならなかったのが癪だったが、それでも総合した実力は彼女らの方が断然上だと言うことは認識せざるを得なかった。これはまさに危機……稼働を始めてから一ヶ月も経ってはいなかったが、生涯最大の危機に自分が瀕していることを彼は熟知していた。

 ここで重要なのは勝つことではない……今この場面で重要なのは、『どうやってこの場をやり過ごすか』である。一々複数の魔導師――それも管理局の三強と対峙していたのでは埒が開かない……ここは彼女らを出し抜くのがポイントだ。

 だがどうする? 見ての通り奴らの陣は鉄壁、針の穴ほどの隙もありはしない。常人ならばそこまでで完全に考える事を止めて投降するか、がむしゃらに武器を振るうかのどちらかに落ち着くだろう……。

 “常人”ならば、だが。

 「……クアットロ」

 「はい!?」

 「行って来い」

 「はぁ? な、何を――――って、ちょっと、何をぉ!!?」

 今日で何度目になるか分からないがクアットロは自分の首根っこを掴みに掛って来たトレーゼの勢いに驚いた。正確には彼の気迫に気圧されたのではない、彼がこちらに手を伸ばして来たその瞬間に禍々しいまでの膨大な魔力が込められていたから、それにびびったのだ。その灼熱の劫火に匹敵する質量の魔力の込められた右手に再び捕えられた彼女は、その吐き気を催しそうな魔力に委縮する暇も無く思い切り前方へと――、

 「きゃぁあっぁああああああ!!?」

 投擲された。最早体重とか重力とか慣性とかの法則をまるで無視し、人間一人の肉体を少し大き目の石か何かのようにして思い切り。そのあまりに物理的且つ思考的に常軌を逸した行動に目の前のフェイトが思わず身構えた。相手が何をするか分かったモノではなかったのだろうが、まさか自分の身内を投げて来るなどとは思ってなかったのだろう。

 だから生まれてしまった……。

 三人の間に絶対的な小さな隙が……。

 「あああぁぁああぁ! ……って?」

 慣性の法則に従って飛ばされていたクアットロは自分の肉体に起こって来た変化に気が付いた。先程の投擲の瞬間にトレーゼの掌中を通して伝わって来た大量の魔力が体表を舐めまわすように循環し、次の瞬間にはヘソを中心に肉体が捻じ曲げられるような感覚が巻き起こり……

 消えた。

 それはもう綺麗さっぱりと清々しいぐらいに、消えたのだ。

 「な!?」

 流石の戦術のプロであるなのはとフェイトも、こればかりは予測がつかなかった。

 何故ここで!? 何故そんな!? 何故消した!? 頭の中の神経回路を疑問と言う名の情報奔流が止め処無く流れ続け、混乱しそうになるのを堪えるだけで精一杯だった。

 口に出しはしなかったが、もしその問いが直接自分に向けられていたのだとしたならトレーゼはこう答えただろう。むしろ彼にとって自分の行動には一切の無駄など無いに等しい……一見して無意味に見えるこの行動でも彼にとっては充分な意味があったのだ。



 即ち、『均衡を崩す為』である。



 次に変化が現れたのは意外にもはやての所だった。もっとも、その『意外にも』と言うのは彼女の親友である二人の視点からの見方から導き出されたモノであるに過ぎず、当の張本人であるトレーゼからすれば全てが必然……完璧なる予定調和から成された当然の結果でしかなかった。

 彼にしか予測など出来なかっただろう……

 はやての眼前に短距離転移して来たクアットロが出現するなどとは。

 「きゅわ!? って、あらぁ、八神のはやてさんじゃないですかぁ~」

 「!?」

 「はやてちゃん!」

 消されたはずのクアットロが一分と経たない内に自分の目の前に転移して来たことに驚きつつも、彼女は取り乱すことなく冷静にシュベルトクロイツの切っ先を槍のように向けて来た。だが冷静なのは表面だけの話、実の所は混乱していた。だが対するクアットロの方はと言うと、今の自分の現在位置と目の前に居る人物……そして、自分の手に持っている武装を確認しただけで事態を正確に把握することに成功していた。

 「はっは~ん……そう言うことですのね……お兄様ったら相変わらずえげつない事この上ないわぁ」

 戦いとは常に状況を如何に正確に把握し、処理するかにある。その速度の違いが後々の戦局を大いに変化させると言っても過言ではない。そして、この場合先手を取る事に成功したのはクアットロの方だった。右手のブレイズを起動させると緑色の毒々しい刀身が出現し、目の前のはやてを威嚇するように唸りを上げるそれを西洋のレイピアのように構えた。

 「はやてちゃん!」

 親友の危機にすぐさま反応したなのはがレイジングハートの先端をクアットロに向けた。彼女は前衛と後衛に異常が起きた際に最もそれを処理し易いカバーポジション……これくらいの距離なら彼女の技量と射程距離で以て呑み込めるレンジのはずだった。

 ふと、なのはは自分の視界が暗転するのを感じた。まるで天に燦々と輝く太陽を雨雲が覆い隠してしまったかのような影が――。



 「お前達は、俺がここで、潰す」



 そして声! なのはとフェイトは自分達を覆い隠さんとしていた頭上の“影”の正体に気付く。それは――『面』、神話に出てくるアトラスが支えし天蓋がそのまま落ちて来たのではと錯覚するような巨大な物体の『面』であったのだ。きっとこれがはやてのように距離を置いた所からならば全容が把握できたのだろうが、文字通り『真下』に居た二人には“それ”が何なのかを完全に理解するまでにほんの数瞬の時間を要する羽目になってしまったのは事実だった。

 危機回避本能によって拡張される意識の中で、なのはとフェイトは聴覚を捨てて視覚のみを最大限に発揮させて全力の回避に臨んだ。もし仮に自分達の予想が正しければ、この“攻撃”はとんでもなく破壊力が大きいはずなのだ。バリアジャケットの一枚や二枚は軽く打ち破り、ビル程度の脆弱な物体なら粉砕し、時には地形すら変貌させる可能性すら孕んだ物理的大技――、

 『Giganthammer.(ギガントハンマー)』

 無機質極まりない電子音が響いた直後、それの数百倍以上の轟音と共に森林の土壌が本来およそ縁の無いはずだった天空へと大量に舞い上がった。










 少女は佇む。周囲を侵略する劫火の中でたった一人で、何をするでもなくただ佇立しているだけ……。

 彼女は困惑する。どうしてここに居るのか……ではなく、『どうしてこうなってしまったのか』について。

 スバルは走り出す。行く場所など無い、だがここには居られないと本能が告げていた。だから離れるのだ、ここに居たくないから……。

 自分がどこを走っているのかなんて知る訳が無い。黒いアスファルトか剥き出しの土か、それとも建物の中なのか……そんな事なんかどうでも良かった……今はただ駆けるだけだった。

 だが、行けども行けどもこの地獄のような光景は変わらなかった。肌の表面を焦がす熱と可燃性の物体が燃えて出る臭いが彼女の五感を刺激し、徐々にその精神を追い詰めて行く。有史以来、火とは進化の象徴であると同時に侵略の象徴……それが今、彼女を徹底的に追い詰めんとしているのだ。

 どれだけ走ったのか分からなくなって来たその時――、

 劫火に塗れるその向こう側に何かを見た。

 「あれは……」

 それは“人”、しかも自分の良く知っている人物だった。紅蓮の劫火の中で映えるそのオレンジの長髪……見紛う事無く親友ティアナの後ろ姿であった。カーキ色の制服に身を包んだ彼女がどうしてこんな所に居るのか……そんな事はどうだって良いのだ。要は一緒にここから脱しなくてはならないと言うことが最重要だった。

 だがどうしたことか、彼女はこの肉を焼き焦がす火の海の中で全く動じることなく佇んでいるだけだった。サラマンダーの舌のように炎が伸びて来ては服の裾を焼くも、まるで糸が切れたマリオネットのようにして立っていることしか出来ていなかった。

 「ティア! どうしてこんなとこに居るのさ! 早く行こう、ここから逃げよう!!」

 力無く俯いたままの親友の手を無理矢理に取ってスバルは駆けだそうとした。だが――、

 ティアナは動こうとしなかった。足に根が生えたようとはこの事か、スバルが力一杯引っ張るのに対して彼女はこの危険極まりない場所からただの一歩も動いてはくれないのだ。

 「ティア! 何で……!? 早く逃げようってば!」

 「……逃げるって……どこに逃げるってのよ」

 いつもの彼女にあるはずの覇気がまるで無い。だがそんな事に一々形振り構ってはいられなかった。テモでも動かない彼女の腕を掴んだままスバルは彼女を引き摺ろうとする。

 「どこでも。安全な所まで!」

 「無理よ……。どの道、こうなったらどうしようもないわよ……」

 「無理じゃない! 何で諦めちゃうのさ!」

 「じゃあ聞くわよ? あんたはさ……



 そんな腕でどうやって私を引っ張って行くつもりなの?」



 「…………え?」

 振り向いて自分の右腕を見る……。さっきまでティアナの腕をしっかりと掴んでいたはずの腕が――、

 無かった。

 痛覚は無い。その代わりに切断面の動脈から堰を切ったような勢いで鮮血が吹き出し、その飛沫が親友の虚ろな表情を湛えた顔面を大いに濡らし、重力に従って顎先から滴り落ちて行くのがスローに見えていた。滴り落ちた血液は火中に消え、水分を蒸発させた生臭いことこの上ない臭気がスバルの鼻腔を突く。

 「あ……ああぁあぁぁあぁああっ!!」

 遅れてやって来た激痛が、彼女に腕の喪失と言う事実を強制させるのにそう時間は掛からなかった。灼けた鉄板を押しつけられたような激痛に悶えながらも、スバルは目の前の親友から目を離さなかった。目を離してしまったら最後、彼女がどこかへ行ってしまいそうな気がしていたから……。

 「……何やってんのよ……無駄よ、そんな事しても……」

 「ティア……!」

 親友は一歩も動かない……自分から離れようとも、自分に寄って来ようともしてくれなかった。どこか弱々しい彼女を今度は左手で掴もうと手を伸ばし――、



 「だって私……死んでるんだから」



 ズボッ!

 まるでぬかるんでいた地面から杭を抜いたかのような音が聞こえた後、ティアナの胸元から噴き出した血液がスバルの顔面を盛大に犯した。これは何かの冗談か? ティアナは口から唾液や吐瀉物の代わりにドス黒い血反吐を垂らしており、立ったままで綺麗に、それでいて確かに『死んで』いた。あぁ間違い無い、死んでいる、完璧に完膚無きまでに彼女は死んでしまったのだ……今この瞬間に。

 あまりに衝撃的過ぎる光景に思考能力が枯渇して行く……。そして、糊のような粘着性を帯びた血がゆっくりと頬を伝い下りる意識の中で……スバルは見た。否、見てしまった。

 親友の胸部の丁度真ん中……そこを反対側の背面から脊髄を圧し折り、肺と心臓を握り潰し、肋骨を内側から破壊して――、

 鐡の腕が貫通していた。

 「ティア……? あ、あれ? ティア、嘘だよね? 嘘って言ってよ!?」

 懇願するようなこちらの呼び掛けにも親友『だったモノ』は応えてはくれなかった。ただのガラス球に成り下がってしまった虚ろな眼球をあらぬ方向に向けているだけの屍はただのモノでしかないからだ……。

 やがて死体の胸を刺し貫いていた腕がゆっくりと引き抜かれた……。ポッカリと空洞となってしまった胸部からは動脈静脈の区別無く入り混じった血液が無尽蔵無差別に流れ出し、その血の海はスバルの足元をも侵略した。そのまま両脚が血中に没してしまうかのような感覚が彼女の精神を恐怖となって襲う。

 だが、真の恐怖、戦慄、衝撃はここからだった。

 ティアナの死体が火中に消え、音も無く彼女の死体は消滅してしまった。後に残ったのはスバル自信と、目の前の親友を一撃にて屠った人物……



 トレーゼの姿だけだった。










 「うわあぁああああぁぁぁあああぁぁぁああああぁああぁあああああああぁぁぁあぁああぁああっ!!!!!」










 目が覚めた時、彼女は医務室のベッドの上だった。

 「はぁっ! はぁっ! はぁっ! …………はぁ!」

 寝汗が凄い。あと頭痛も最悪だった。過去に入隊祝いだとかで酒を無理矢理飲まされたことがあったが、今のそれはあの二日酔いの時と比べても酷いモノだった。

 そして吐き気。手術前は何も腹に入れることはないので吐瀉はしなかったが、胃の律動は収まらない。このまま胃袋の中身を全てブチ撒けられればどんなに楽なことか……。

 悪夢を見るのはいつ振りか? それ以前に彼女は眠りの深い方なので夢を見ることが珍しいことではあった。だが、珍しく見た夢がこんなモノだとは……あれを聞いてしまったからだとは薄々勘付いてはいた。

 「…………嘘……だよね。何かの偶然だよね。そう、そうに決まってるよ」

 誰に聞かせる訳でも無しに自分に言い聞かせるようにして呟きを漏らすスバル。そのまま考えることを完全に止めた彼女は再びベッドに潜り込んだ。今はとにかく手術で弱った体を休ませなければならない……枕に頭を預けてからの彼女の寝入りは早く、既に意識の半分はもう一度涅槃へと向かおうとしていた。

 そして一言――、

 (今何してるかな……トレーゼ)

局の仕事で今は辺境の地へと向かっているはずの友人の無表情な顔を思い浮かべながら、スバルの傷付いた意識は眠りの闇へと水没して行った。次に見るのが悪夢でないことを祈りながら……。










 『表面張力』、と言うモノがある。科学知識が無い者でもその名称ぐらいは聞いた事があるであろう……アメンボが水面に立っていられるあの現象だ。あの小さな虫は四本の肢の先に密生した体毛と水面に働く分子間力を利用することで水面に溺れることなく立っていられるのだが、あの現象はアメンボだとか一円玉だからこそ成せる業なのであって、決してそれ以外では成し得ない現象のはずだった。

 「……………………」

 彼は立っていた。広大な森林地帯の一角に存在するその湖の水面に両足を接地して、まるで体重など存在しないとでも言い張るかのように……。以前、海上更正施設周辺の海上にてやって見せたあの現象だ……自分の足元に極薄且つ数十平方メートル以上にも渡る魔力の膜を生成し、スキー板の如く体重を分散させるあの離れ業……。水面に接地しているローラーの僅か数センチ単位の爪先部分から常時一定量の魔力を放出し、維持し続けるのは針先で岩盤を掘削するのと同じ位のテクニックを要し、場合によっては飛行するよりもずっと難易度が高いのだが……

 少なくともトレーゼの両脇を固めるようにして空中に停滞している二人にはそんな芸当は出来なかった。杖と鎌を手にした白と黒の彼女らは水面に留まったトレーゼとの距離を一定に保ちながらとっくの昔に臨戦態勢に入っていた。

 「…………あなた……ノーヴェと一緒に居た……」

 紫苑の短髪と白磁の肌、そして金色の双眸。なのはの記憶に蘇るは11月11日にあった愛娘の学芸発表会でのこと、あの時敷地内のベンチでノーヴェと一緒に座っていた少年……初めて見た瞬間から自分とは違う、対極と言うよりかはまるで『異端』と言う雰囲気を漂わせていたのは確かだったが、まさかこんな所でこんな再会のしかたをしてしまうなどとは思っているはずもなかった。

 「……ナノハ・タカマチか……」

 「なのは……? 知ってるの?」

 「前にヴィヴィオの学芸会の時に……」

 なのはは思考する……何故あの日あの時彼があそこに居たのかについて……。地上本部襲撃事件があったのはあの二日前、既にクロノ達の調査であの時の犯人が“13番目”であるのは確定的に明らか、だがその僅か二日後に何故あんな所に彼が来ていたのか? 分からない……彼の思惑が全く以てなのはには理解出来なかった。これは何かの策なのか?

 「……前々から、お前達三人を、警戒していた」

 そんな彼女の心境など知った事でないとでも言うように、トレーゼが水面を離れて浮上する。小さな波紋が湖に広がると同時に魔力膜が湖面から消失、完全に足場を無くした。

 「リンカーコアを、持たない人類から生まれた、一代限りの突然変異種…………死亡した者の、細胞を利用して発生した、戦闘用クローン生体…………この世で最も、忌まわしい古代遺失物の核を宿した、異端の生きたロストロギア……。過去の、如何なる事例を見ても、貴様たち程の、『特殊』は見受けられない」

 「…………」

 「加えて、貴様たち三人の共通項は、『個人の戦闘力の高さ』。常人が、数年……いや、数十年以上掛けても、到達出来るかどうか、分からない極致に、達している……。まさに、『特殊』だ」

 トレーゼの四肢の武装がそれぞれカートリッジをロードし、空薬莢が湖面に没した。スピナーの鼓膜を引き裂くような強烈な音がなのはとフェイトを威嚇する。

 「全てのモノは、三つに大別される……。『正常』と、『特殊』……そして、『異常』」

 右手に握られていた黒いキューブ型のストレージデバイス、デウス・エクス・マキナの表面に電光が走り、T字形の破壊鎚へと姿を変える。形状も大きさもあの小さな守護騎士が振り回しているモノと寸分の狂い無く同じだが、その色彩は限り無い黒、持ち主の特性を反映しているかのような色彩だった。

 「少なくとも、貴様たちの部下は、紛う事無き、『正常者』……俺からすれば、どうでも良い、存在だ」

 トレーゼが軽く柄を振ると、六発装填式のカートリッジ機構が作動してデバイス全体に魔力が満ち溢れた。ハンマー部分に、彼女らには見慣れたスパイクと噴射口が出現する。

 「だが、貴様たちは、違う。貴様たちは、存在することが、こちらにとっては、既に危険なのだ。三年前も……貴様たちが居なければ、計画は成功していた、はずだった」

 さらに足元に疑似円形陣が展開され、手首と足首に真紅のエネルギー翼が出現して唸りを上げ始めた。これで彼は最速のスピードと最強のパワーと言う相反する二つの力を同時に手にしたことになる。

 「貴様たちのような、『特殊者』を排除しておけば、以降の計画進行は、盤石なものとなる。だから――、



 ――死ね」



 棍棒を振るったような空を切る音の直後、衝撃波によって湖面の水が瀑布の如く弾け飛び、その予期せぬ飛沫がなのはの目蓋を襲った。

 「しまった……! 目が……!」

 水飛沫が両目に飛びこんで来た所為で反射的に目を閉じてしまった彼女は、これが相手の策だと言うことに気付き、すぐに目元を拭き取って距離を置こうとする。

 だが――、

 「討った……」

 「!?」

 背後から声……。いちいち振り向かなくても分かる、今自分の後ろには一撃必滅の威力を秘めた一撃を与えるべくしてやって来た“悪魔”が自分を狙っていることが。

 だが見てしまう。腰を捻り、肩を揺らして、首と眼球を背後の“彼”へと向けてしまうのだ。

 そして見えてしまった。

 白面に輝く二つの金の瞳……

 短い紫苑の髪を振り乱し……

 こちらの臓物を抉り出さんとして鐡の鉤爪を伸ばして来るトレーゼの狂気の姿を!

 「ぅぐ!?」

 その瞬間、なのはは恐怖した。長年現場などの第一線で出張って来て、様々な犯罪者などをその目で見て来たが、未だかつてこれほどの狂気に塗れた存在と出会ったことなどただの一度だって無かった。だからこそ、彼女は反応するのが遅れてしまったのだ。彼の姿に気圧されたから……狂気に打ち負けたから……恐怖してしまったから。

 レイジングハートが何か言っている……だが聞こえない、聞いている暇なんてあるはずもなかった。この時彼女の脳裏に浮かび上がったイメージは、自分が10代の時に初めて撃墜された瞬間に思い浮かべてしまった“あれ”……

 死である。



 刹那、爆音が空間のあらゆる生物を脅かした。










 「あらあらぁ~。お兄様の方は早くも始めちゃったようですわねぇ」

 遠くで起きた爆発をクアットロはまるで花火でも観賞しているような感じでそれを眺めていた。白い囚人服の出で立ちで右手にブレードと言う奇抜を通り越したファッションだが、目の前の標的の意識を自分に釘付けにするには充分過ぎた。

 「そ・れ・でぇ~♪ お兄様には何にも言われてませんけどぉ、別に好きにしても良いんですわよね」

 「好きにって……何をや?」

 「決まってるじゃないですかぁ。どうやってあなたを殺すかですわ」

 ブレードを正中線に沿った形で構えた後、その切っ先をはやてに向かってレイピアのようにして構えるクアットロ。彼女とて戦闘機人の端くれ、姉であるドゥーエからは多少なりとも武器の扱いは習っている。

 対するはやて側も無抵抗でいる訳にはいかない。身の丈程ある十字杖のシュベルトクロイツと夜天の書を手に臨戦兼威嚇態勢に突入する。

 「あらあら、下手に抵抗するから痛い目に合うってことを知らないのかしらぁ? このクアットロちゃんに任せておけば、腹を掻っ捌いて地面に臓物をブチ撒いて、脳髄をこの綺麗な指先でもってグチュグチュに掻き回してあげるのに……」

 「…………」

 「あぁー、でもやっぱり頭を穿るのは首をブツってからの方が良いかしら? ボールみたいになった貴方の首を抱えて懐かしのラボを凱旋する……あぁ! 想像するだけで濡れちゃいそう!」

 「……なぁ、あんた、これからどうするつもりなんよ?」

 「はぁ?」

 まさかはやてがその様な事を聞いて来るとは思ってなかったのか、彼女は一瞬だけ呆けたような表情を取った。そしてその次にクスクスと嫌な笑みを浮かべてこう言ったのだ。

 「どうするも何も、私はお兄様について行くだけですわぁ」

 「そうやない。辺境とは言え一監獄施設を武力を使うて脱出なんかしよったら、次元世界の端っこまで逃げても無駄や……必ず脱獄したあんたらを迎えに来る」

 「来たら、何だって言うんですかぁ?」

 「良くて終身刑、悪けりゃその場で射殺……悪いことは言わへん、今すぐ投降し!」

 はやての言った事は嘘ではない。実際彼女は知る由も無いが、クアットロは確かにあの拘置所を脱する時に射殺されかけたのは確かだ、彼女ら二人が捕まれば言い訳も何も無しに殺されるのは目に見えている。そんな事は相手側だって充分承知のはずだ……だが――、

 「アハッ! アハハッハハハハハハハァキャハハハハハハハァ!!! 何を言い出すかと思えば、『投降しろ』ですってぇ~!? 天下の八神元部隊長様はジョークも天下一品ですこと! 可笑しくって笑えちゃうわ、うふぅはははっははははははっ!!!」

 「な、何を……!?」

 「あー可笑しいぃ! お兄ぃ様ぁ~! 聞こえましてぇ~? この女の馬鹿げた冗談、戯言、世迷言を!! アハハハッ、私達ぃぃぃ! 投降しないとぉぉーー! 殺されるんですってぇぇ!! 笑っちゃいますよねぇ~!!!」

 背を大きく仰け反らし、腹を抱え、この世の最高のエンターテインメントを堪能したかのように爆笑、遥か遠くの湖で死闘を繰り広げているはずの兄に向って盛大に嗤い掛けた。

 笑い。

 嗤い

 哂い。

 馬鹿にするように嘲るように蔑むように……クアットロは歴戦の魔導騎士の出した最大の譲歩を綺麗さっぱり笑い飛ばして見せたのだ。

 「はぁ~笑った笑った、一生分笑いましたわ。お礼を申し上げますわ八神元部隊長、こんなにイイ気分になれたのは三年前のあの日、地上本部をブッ潰した時以来ですわぁ。でもぉ~、まさか貴方のその下種な売女の口からそんな逸品のジョークが直接聞けるなんて……このクアットロ、感謝と光栄と興奮で局部がビショビショですわぁ~」

 右手にブレードを持ったままクアットロが肢体を妖艶にくねらせるが、今のはやてにとって重要なのはそこではなく、『何故彼女がこちらの譲歩を断ったか』にあった。確かに彼女はあまり利口とは言えないだろう……与えられた使命よりも個としての自我を最優先させるタイプである彼女は自分の気に入らない事に関しては徹底的なまでに拒否を示す。だが、それと同時に彼女とて度を越したバカではないはずなのだ、自分が袋小路に追い詰められた鼠であることを理解した上でこの言葉を吐いたのだとしたら、一体その自信はどこからやって来ているのか?

 「……何でや?」

 「はぁい?」

 「何でそんなに自信があるんや!?」

 「『何でそんなに自信があるのか』ですってぇ? キャハハッ、あなたはあの人の怖さ、恐ろしさ、偉大さをまるで知らないんですねぇ。可愛そうですわ~」

 「あんたは何を知ってるって言うんや!」

 「知りませんわよ。私だって会ってから半日だって経ってないんですもの、知る訳ないじゃない」

 「やったら……!」



 「ならあそこに行って確かめます? 死にますけど」



 「っ!?」

 「今の彼にとっては動くモノは全部が敵…………狂気と殺意に満ち満ちたあそこに突っ込めば、私ですら生かしては返してもらえないでしょうね」

 そう言って不敵に笑うクアットロの遥か後方からは確かに純然でそれでいて莫大な殺気の渦が地殻変動の津波の如く押し寄せて来ているのが肌で分かった。クアットロの言った事は決してハッタリなどではない……今あの場所に足を踏み入れたモノは有機物無機物の概念の垣根無しに影も足跡も残さず、完膚無きまでにこの物質世界から消滅させられてしまうであろうことは容易に理解出来た。これまで幾人となく常人とは違う人間などを見てはきたが、“あれ”は間違い無く特殊……いや、『異常』だった。

 「イイですかぁ~? お兄様は、とっくに貴方がたの物差しで計れる範疇を超えてるんですのよぉ。“自由”とか“拘束”だとか……そんなモノはあの人にとっては自分の行動を制限する着脱可能な枷でしかない……まさに至高! 究極! 絶対の象徴! それが彼、ナンバーズNo.13『トレーゼ』なんですから♪ 所詮あの人にとって、貴方がたが幾ら軍団で押し寄せようとも道端に転がる只の石コロでしかないんですよ」

 「あんたらは一体何をするつもりなんや?」

 「どうも何もありませんわ。ここから無傷で脱し、私達の創造主であるDr.スカリエッティを奪還する……それ以外に考えられるコトなんてありまして?」

 「……私が『はいそうですか』って言って逃がすと本気で思とんのかいな?」

 「だったら悲しいですけどぉ~、はやてちゃんにはここで死んでもらいますぅ。手足を削いで首をブッタ斬り、お腹の中身をブチ撒けた後で内臓を口に詰め込んで、眼球を刳り抜いた頭を手足ごと腹にブチ込む……嗚呼! 想像しただけで興奮するわぁ!!」

 空を切る嫌な音の後、先に攻め込んで来たのはクアットロの方だった。ブレードを正中線に構えた彼女ははやてよりも高い空中へと飛翔し、一瞬で獲物の死角へと侵入を果たした。対するはやても無抵抗でいる訳にはいかない、十字杖を真横に構えて上からの衝撃に対する防御体勢を固めて迎え撃つ。

 「くぅ……!」

 「あらぁ、よくもまぁ受け止められましたわね」

 予想よりもずっと鋭く重い斬撃に腕の関節が悲鳴を上げるが、なんとか持ち堪えることは出来た。だが純粋な腕力の差は歴然とし過ぎている……このままでは自分が打ち負けることは避けられないと判断したはやては逆上がりの原理を利用した回転蹴りを見舞った。

 「おぉっと!」

 しかし寸前で回避されてしまった。一応距離を取り直すことには成功したが、今度それを詰められれば無事でいられるかどうかは分からなかった。要は自分の制空圏内に入れさせなかったら良いだけの話なのだが、如何せん相手の機動力は自分よりもワンランク上だ、一瞬でも気を抜けばその時点で即死と成り得る……間合いを保つことすら困難なのだ。

 「どうやら、さっきの一撃で私の怖さをしっかり分かってくれたみたいですわねぇ~。こ・れ・がぁ~、私達と貴方達の決定的な違いですわ。バリアジャケットなんて薄っぺらいコスチュームとデバイスなんて言う玩具程度の道具しか扱えない貴方と、遺伝子レベルでの改造を施して“兵器”へと昇華した私達…………貴方達がどんなに“超人”だろうと所詮人はヒトであることに変わりは無い。たかが人間の分際で私達“兵器”に適う道理なんて無いのよぉ」

 確かに、はやてが今戦っているのは戦闘機人……人の形をした人成らざるモノなのだ。普通の人間が物理的な力で対処出来るはずがない。

 「加えて貴方はバリバリの超長距離爆撃支援型の戦闘スタイル……その砲撃能力だけはあそこに居る高町の悪魔をも凌駕していることだけは確かですけど、それの代償と言っても良いくらいに接近戦がダメダメだと言うのもまた事実ですわ。違いまして?」

 「御明察や。小さかった時から体動かすんは苦手やったからな……」

 幼少期の頃の後遺症とまでは言わないが、あまり継続的な運動をした事が無かったはやては三人の中では一番スタミナが少ないのだ。過去にシグナムから護身術として剣術を指南してもらおうとした事があったのだが、主である彼女の体力値の低さを懸念した忠実な烈火の将自信が頑なに拒み、軽い間接技しか教えなかった程だ。長距離アウトレンジからの爆撃に特化した戦闘方法は彼女にとってはまさに天から降って舞い降りたようなスキルではあったのだが、杖と魔導書だけに頼った戦闘は更に彼女の肉体を鈍らせるのに一役買っていたと言う訳なのだ。

 対するクアットロはそれら魔導師とは対極の存在……魔力による一方的なレンジからの攻撃がメインである魔導師とは違ってリンカーコアを持たない彼女らは、接近戦などによる物理的戦法による仕留め方を主流としている。格闘技能だけでもそこいらのスポーツ選手の数十倍は高い能力を有している。

 「“13番目”はこれを見越して……!」

 「今更気付きましたの? 接近戦を不得手としている貴方には非戦闘型の私の実力だけで充分と判断されたってことですよぉ~♪」

 手頃な木の枝を拾って喜ぶ子供のようにブレードをやたらめったら振り回すクアットロ……成す術など有ろうはずも無い。

 「私、まだ人間の解体だけはした事が無かったんです♪」










 危なかった――。あの時とっさの機転を利かせたフェイトが突き飛ばしてくれなければ、なのはの脳髄は物理破壊設定のスパイクによってミンチより酷い状態にされていただろう。

 湖面で繰り広げられる高速不規則軌道飛行……フェイトをに先頭にして一番最後をトレーゼ、追って来る彼をなのはが後ろ向きに飛行しながら16発の【アクセルシューター】を常時一斉発射して迎撃していると言った図式だ。なのはの攻撃は鋭い、撃ち出されたスフィアの一個一個が誘導ミサイル並みの精度と一撃で人体を昏倒させるだけの威力を内包している。伊達に砲撃型魔導師最強と呼ばれている訳ではないのだ。

 だが――、

 「DMF、全方位展開」

 『Roger.』

 どんな高性能な魔力弾も当たらなければ意味が無い。【Drain-Magilink-Field】……魔力を拡散して無効化させるだけの従来のAMFとは違い、この対魔力魔法は触れた魔力物質を例外無く『吸収』する事を目的としてトレーゼが編み出したモノである為、DMFの出力を上回るだけの魔力をぶつけなければ通る魔力も通らないと言う訳だ。せっかく撃ち出された16発の弾丸もただの魔力の滓に分解され、トレーゼのリンカーコアへと還元されただけだった。

 そして、吸収された魔力分は100%彼のモノとなって……

 「ディバインバスター……」

 『Divine Buster.』

 破壊の閃光が彼の翳した右手から弾き出された。真紅の暴力的な魔力の奔流がなのはのバリアジャケットを焼き消さんばかりの勢いで猛襲して来る。

 「く……!」

 だが寸前でその奔流は自然消滅し、辛うじてなのはは無傷で済むことが出来た。あれだけの高威力の魔法が何故あんな短い時間で消滅したのか……それは彼の放った魔力組成に理由がある。通常【ディバインバスター】は遠距離の対象を撃墜するのに持って来いの砲撃魔法である。原案者である高町なのはのイメージした最強の砲撃魔法……どんな強固な壁をも粉砕し、どんな速い物でも追い付き、どんな強さを持った敵でも撃墜する……それがこの砲撃の真髄なのだ。

 だが彼の場合は違う。もし彼がなのはから直接コピーしていたのだとすれば間違い無く遠距離魔法となっていただろうが、実際に彼が収奪したのはスバル式にアレンジされた至近距離拡散型……文字通りショートレンジの対象に対しては絶大な攻撃力を誇るもある程度まで距離を離された物に対しては効果を成さない場合が多いのだ。

 「やはり、【ディバインバスター】は、遠距離魔法だったか……」

 ナックルから空薬莢を弾き出しながらトレーゼは苦々しげに呟く。こちらの攻撃が距離的に届かない以上は接近するしかないのだが、そうなればフェイトの間合いに突入することになってしまい、容赦無い攻めを受ける羽目になってしまう。まさに拮抗状態であった。

 「答えて! スバルの足を切ったのは貴方なの!?」

 「……だとしたら、どうした?」

 自分の前を行くなのはからの言葉にトレーゼは【クロスファイア】を撃ち込みながら応答した。飛襲して来た真紅の弾丸を桜色の光線で掻き消しながら彼女は続ける。

 「どうして……! どうしてあんな酷い事をしたのっ!!」

 「何が酷い? この世に、酷いだの、正当などと言う、概念は無い。強者こそが、理であり法なのだ」

 「そんなこと――ッ!!」

 「奴は、弱かった……だから、俺に四肢を、分断された。だが、もうその心配も、無い」

 「それってどう言う意味!?」

 「ここで、死ぬ輩に、何を言っても無駄…………一気に、叩かせてもらう」

 トレーゼの手前に魔力が集中する。しかし、今度現れたのはただの魔力の塊では無く鉄球だった。高純度且つ高密度に凝縮されたその弾丸を撃ち出す魔法……【シュワルベフリーゲン】は射程も貫通力も【クロスファイア】に比べて高く、当然のことながら威力はその比ではない。

 「させないっ!!」

 撃ち出しを阻止するべくフェイトが前へ進み出る。手にしていたバルディッシュはいつの間にか見慣れた鎌の形から大剣型のザンバーフォームに変形しており、彼女のスイングモーションはかつてスカリエッティを壁に叩きつけた時以上の力を込めていることを容易に想像させた。

 だが――、

 「甘い……!」

 空中サマーソルトによる足捌きで剣筋を僅かに逸らして剣先の軌道を変えた後、回転の要領を活かして弾丸の一つをなのはの心臓目掛けて撃ち出した。

 鎚に接触した瞬間に撃鉄を入れられた銃弾の如く飛び出したそれは寸前で彼女の張ったシールドに防がれて霧散したが、着弾の瞬間に発生した閃光に紛れて突貫して来たトレーゼに最後まで気付けなかった。腹部を途轍もない衝撃が襲う……!

 「ぅぐっ!!?」

 「なのはっ!!」

 一歩出遅れたフェイトがすぐさまトレーゼの背後に斬りかかる。しかし、純粋な魔力によって生み出された刀身はDMF圏内に入った瞬間に形状を失い、彼の肉体には届かない……。ならば肉弾戦と言わんばかりの回し蹴りを飛ばすが、ガンナックルに酷似した武装――『ジェノサイドストライカー』――の漆黒の外殻によって防御されてしまう。

 「く……! レイジングハートッ!!」

 『エクセリオンバスター、発射!』

 主の意思を汲み取った愛杖は自殺覚悟の大技、零距離バスターを敢行するべく先端のエッジに魔力を溜めこんだ。この距離ならば対魔法結界など無力に等しい、チャージに時間は掛かるが、一度発してしまえば後はこちらのものとなる。如何にトレーゼの肉体が頑強言えども耐え切れまいと見越しての手段だった。

 「バスターーーーーッ!!!」

 かつてこの零距離砲撃を受けて無傷で済んだのは初代リインフォースただ一人……Ⅲ型ガジェットですら粉微塵になるそれを、なのはは生まれて初めて人間に放って見せたのだ。



 刹那、暴力的な輝きを持った桜色の閃光が湖面を眩く照らした。



 爆煙と舞い上がった水霧の中からなのはとフェイトが飛び出して来た。フェイトの方はとっさの衝撃に備えていた為に辛うじて難を逃れたが、当の突貫戦法を敢行したなのはは身に降り掛かった衝撃を殺し切れずにボロボロだった。だが手応えはあった、ありったけの魔力を込めて放ったあの砲撃がそうそう対処し切れるモノではないのは使用者である彼女の知る処……予想が正しければ昏倒して水面に浮かんでいるはずだった。

 だが――、

 「なのは!!」

 「っ!?」

 隣のフェイトの声でなのはの体に再び緊張が走った。痛みで悲鳴を上げる筋肉を鞭打ってレイジングハートを構え直し、彼女は前方の未だ立ち込める爆煙に目をやった。

 始めに見えたのは光だった、桜色の薄らとした光が真円を描いて空間に集中している様子が分かった。次にその光の正体は先程の【エクセリオンバスター】の魔力だと分かった、少し大き目の岩石なら容易く破壊出来るだけのその魔力が全て、そこに集中していたのだ。

 やがて爆煙が完全に晴れるとその正体が判明した。

 「魔力、圧縮……」

 真円の中心には無傷のトレーゼが居た。あれだけの大出力砲撃を零距離で受けながら何故彼が掠り傷一つ無いのか……それは、彼がバスターを放たれた瞬間にAMFを全開にし、その魔力組成を崩壊・拡散させることで難を逃れて見せたのだ。そして、術者から発散された魔力を彼がそのまま霧散させるはずがなく、こうして自らの肉体の周辺に集中、空間を歪ませるまでに圧縮したそれを自らのリンカーコアに吸収するのだった。

 やがて肉体をすっぽり覆っていた魔力の球体は彼の右手に収まるまでに圧縮され、ついにトレーゼはそれを握り潰すようにして体内に取り込んだ。

 「吸収、完了……。これ程、良質な魔力は、初めて見る」

 「そんな……! あの攻撃を至近距離で受けて……!?」

 「距離など、関係無い。例え、貴様らが、懐に居ようが、惑星の反対側に居ようが、発見し、排除することに、変化は無い」

 トレーゼの足が水面に降り立った。紺色のバリアジャケットの表面をリンカーコアから溢れ出た魔力が紅い電光となって迸る。毒々しいその魔力は水面を走って、距離を置いている二人の所まで届くようだった。

 「……ねぇ、どうして君は戦うの?」

 「全ては、創造主スカリエッティの、為に」

 「どうしてあの人の為にそこまで出来るの?」

 「ナンバーズは、あの方の、私兵……それ以上の、理由など、そこに介在する、余地も無い」

 くだらない話は聞き飽きたと言わんばかりにトレーゼの四肢のスピナーの回転数が上昇した。恐らく次の瞬間には高位魔法が飛んで来る……そう判断したなのはとフェイトは念話で確認もせず、阿吽の呼吸で瞬時にトレーゼを阻止する為の行動に出た。なのはが右、フェイトが彼の左サイドへと移動し、互いにデバイスへ今自分が持てるだけの魔力の全てを注ぎ込み始めた。両者のカートリッジ機構が作動し、排出された無骨な空薬莢が水面に沈む。

 「エクセリオン……――!」

 「トライデント……――!」

 対象を左右からの最大砲撃魔法で以て挟撃するこの戦法……かつて三年前の廃棄都市区画での一戦の時、逃走を企てたクアットロとディエチを仕留めようとして使ったモノだ。『溜め』から『発射』までの間に敵が幾ら距離を離そうとしても意味は無い、その程度の誤差ならば軽く呑み込んでしまえるからだ。

 なのはは杖の切っ先に、フェイトは自身の左手に、リンカーコアの大半の魔力を乗せ、そして――、

 「バスタァァァァァァーーーッ!!!」

 「スマッシャァァァァーーーッ!!!」

 桜色の直線砲撃と雷光を纏った三本の閃光が、たった一人を仕留める為に文字通り全力全開で放出された。現段階で二人が使用出来る最大の攻撃魔法……遠目から見れば、まさか二人がたった一人の人間に向けて撃ったとは誰も思わなかったはずだ。

 対するトレーゼは放たれた暴力的な閃光を一瞥する事も、そこから一歩も動く事も無く、遂に左右から迫る閃光が自分の制空圏内に入って来ても動じる事は無く……



 着弾した。










 “彼女”は思考する――。と言っても、別に何をどうこうしようかと野暮で俗人的な事を考えているのではない……普通なら明日の予定は何にしようかとか、夕刻の食事は何だろうかなどを考えるのだろうが、“彼女”の場合に限ってのみ言えばそんな事は絶対に有り得なかった。

 「……………………」

 ふと、瞑想を続けていた“彼女”が不意に立ち上がり、狭い部屋の外へと続いているはずのドアへと向かった。だが外には出ない、その近くの壁際に設置されているインターホンのような小さなボタンを押し、自分の声が届くようにスピーカーへ口を近付ける。

 『はい、こちら居住区担当管制室です。413号室、何か問題でも?』

 「いや、特にこれと言った異常は何もないのだが…………一つだけ頼まれてくれないだろうか?」

 『はい?』

 「今日……いや、明日で構わない……管理局内で発行される広報誌があるはずだから、それを一部だけ私に融通してくれないか?」

 『申し訳ありませんが、あの広報誌は局員とその関係者のみに配当されているものですので、失礼ながら貴方には……』

 「私がここから無理矢理脱すると御思いか?」

 『いえ、その様な事は……』

 「ならば、ここに居る間は私は管理局の関係者と言うことになる。では頼んだぞ」

 半ば一方的に“彼女”はインターホンの向こう側に居る担当官に言伝すると、さっさと通信を切ろうとした。

 『ちょ、ちょっと待ってください! どうしていきなりそんな……!』

 「どうして、か。そうだな……ただの勘だな」

 その一言を最後に、“彼女”は通信を切って再び部屋の奥へと引きこもった。だがさっきのように地べたに座り込むのではなく、今度はベッドの上に潜り込み、そのまま目を閉じて睡眠に入ることにした。

 「そうさ……ただの勘さ。背筋を悪寒が走る程の異様な胸騒ぎがする……ただの勘だ」










 結論から言えば、二人の攻撃は単なる徒労に終わったと言うことになる。なのはの撃ち出した砲撃も、フェイトの繰り出した雷撃も、全く以てトレーゼにダメージを与えることは出来なかったと言うことだ。

 「単純な、力でのゴリ押し……戦術性の欠片も無い。まるで、話にならん」

 こんどはさっきと違って爆煙も何も巻き起こらなかった。その分の魔力は一体どこへ行ったのかといえば、【エクセリオンバスター】の魔力は右手に、【トライデントスマッシャー】の魔力はトレーゼの左手に、野球のボールのように圧縮されていた。桜色と黄金色の魔力球を握りつぶすモーションで再び魔力を直接取り込んだ彼は、自分の取り込んだ魔力量を確かめるようにして体表に紅い魔力を滲ませた。

 「そんな、あんなに力一杯撃ったのに……!?」

 「魔力の量など、関係無い。貴様らの戦術が、こちらから見て、劣っているだけだ」

 二人の魔力を余す事無く吸収した所為か、トレーゼの体表からは魔力変換された紅く妖しい電光が這いずり回っており、それだけで見る者全てを威圧するような圧迫感があった。その無言の迫力に気圧された二人は生物の本能からか、無意識に彼から離れようと後ろへと遠退き始めた……彼の“狩猟圏内”から一歩でも離れる為に。

 「さて…………読めたぞ、貴様らの、戦術性が」

 「え!?」

 「まずは、ナノハ・タカマチ……。砲撃と、射撃による、ロングレンジ攻撃を、利用した遠距離戦闘型だが、同時に近距離に対応した、一撃突貫離脱型でもある……違うか?」

 正鵠を射るとはまさにこの事か! 目の前の少年の言葉に思わず身震いするなのは……彼女のその反応はそれが真実であるか否かを見定めるには充分過ぎた。

 「だが、自身の生み出す速度に、対応し切れていない為、接近戦は、限り無く、直線的になり易い」

 これも正しかった。フェイトと違って元々接近戦がそれ程メインではない彼女は両腕で武器を振り回すと言った行動が苦手なのだ。唯一の接近戦魔法に【A.C.Sドライブ】による刺突だが、あれこそまさに彼が言ったように直線の動きしか出来ないモノだった。

 「次に、フェイト・T・ハラオウンだが、お前はもう、話にならない」

 「……何が言いたいのですか?」

 軽い侮蔑が含まれた言葉に反応する事無くフェイトは冷静に問いただした。ひょっとしたら相手による心理的な揺さぶりも考えられる……ここは下手な反応をしないが吉だと言えた。

 「ミッドチルダ式は、本来遠距離攻撃を、メインとして、発展した魔法体系…………だが、お前は至近距離での、接近戦に、頼り切った戦術しか、しない。最早これは、既存の在るべき魔法体系を無視した、ただの武力でしかない…………お前、砲撃戦が苦手と見た」

 「…………図星よ」

 彼の言ったことはハッタリではなかった、実際フェイトは局内では接近戦に長けた異色のミッド式魔導師として名が通ってはいるが、それはつまり裏を返せば遠距離による射撃・砲撃はそれに比べてレベルが劣ると言うことでもあった。確かに彼女の戦闘技術は接近戦に限って言えばベルカ式の騎士にも見劣りはしない事は明白な事実……だがしかし、記憶転写クローンとして生まれた彼女は先天的に発現した固有能力である魔力変換資質の所為で、本体である彼女の肉体から離れた射撃・砲撃などの魔力の塊は射線上でそのまま電気に変換され、霧散してしまい易いのだ。魔導師のバリアジャケット……特にミッド式のモノは遠距離戦闘を重視している為に対魔力性能が高く、発電所並みの電圧でない限りただの電流となった攻撃など容易く遮断してしまうのだ。故に、彼女は遠距離戦を好まない……彼女の唯一無二のデバイス、バルディッシュが接近戦仕様なのも、彼女の育ての親であり制作者でもあったリニスが彼女の魔力特性を考慮していたからなのかも知れなかった。

 「お前の、過去は、ある程度予備知識として、認識している……。母の名は、“プレシア・テスタロッサ”……ドクターとは違い、『表』にその名を、馳せた、天才的科学者だが、研究施設の実験での暴走事件で、娘である、“アリシア・テスタロッサ”を死亡させた」

 「……………………」

 「その娘の復活を願い、奴は記憶転写クローンの、技術に、手を染めた……。通称、『プロジェクトF.A.T.E』……そして、お前は、その栄えある『失敗作』、と言うことだな」

 「…………何が言いたいの?」

 始めは静かにトレーゼの言葉を聞き流していたフェイトだったが、やがてその話が自分の過去……ひいては今は亡き自分の母にまで及び始めた時、彼女の冷静さは少しずつ氷解が始まってきていた。自分の事はどうだって良い……母から肉体的な責め苦を受け始めた時からそうだった、自分の事は二の次で自分の大切な人間が満足すればそれで良かった……そして、その大切な人間を汚したり仇成す者が居れば全力で排除して来た、それは今からでも変わりは無い。

 だから――、

 「いや、別に……ただ……」

 必死に冷静であろうと努めていた。

 しかし、心の――感情の防波堤は彼女の必死な理性とは裏腹に――、



 「所詮は、堕落した女と、獣から成りあがった使い魔……そこまでが、限界でしかない、クズと言うことだ」



 ――決壊した。

 「おまえぇぇぇぇえええぇえええぇええぇっ!!!」

 後に友人であるなのはは語る……過去にフェイトがこれ程までに怒りを露わにした事が果たしてあっただろうか、と。いや、出会ってから早10余年……今の今までに一度だって見た事など無かった。電撃を従えた髪を振り乱し、雷光の大剣を大きく振りかざした彼女は隣のなのはが制止する暇も無く、自分の母と師をこの上無い侮辱と嘲笑で汚した憎い敵を討とうとして突っ込んだ。

 『サー! 危険です、サー!』

 「うるさいっ!! ファランクス! 対象の全方位に多重展開!!!」

 もはや握り締めた相棒の声など聞こえるはずも無く、憎悪と憤怒に目を見開いた彼女は自分の持てる唯一の全方位型迎撃砲撃魔法……【ファランクス】をトレーゼの前後左右上下360°に展開させた。総数1064発の凝縮された雷の弾丸の先端の全てが彼の心臓と頭部に狙いを定めているのが分かる。

 「発射ぁ!!!」

 対象はたった一人……それに対する弾数は1064……常人が見れば明らかに度を越した行動だと言うのは明白だったろうが、今のフェイトにそんな言葉は通じなかった。主に逆らう事の出来ないバルディッシュは激昂した彼女の命令通りに弾頭全てをトレーゼに向けて叩き込むことを決断した。

 そこから先の光景は筆舌には尽くし難いモノがあった。かつて、なのはに対して行使した時でさえこれほどの迫力は無かったはずだった……最初の第一波が着弾すると同時にトレーゼの体躯は完全に電光走る爆煙の中に呑み込まれてしまい、第二波が襲来した時にはもはや彼の姿が原形を保っているかどうかの保証さえも危うく感じられた。

 それでもまだまだ続く。最初に空中に生み出した弾丸は1064発だったが、フェイトは着弾と同時に更に数十個生み出すために弾丸の嵐は止む気配がまるで無く、最初の一波が着弾してから五分後……ようやく嵐は止んだ。

 「はぁ! はぁ! はぁ!」

 もうこれ以上の大出力魔法を放てる余裕は無い……飛んでいるだけで精一杯だった。今度こそ、今度こそは確かな手応えがあった。もしあれでも倒れないようなら……いや、そんなことは有り得な――、



 「所詮は、『失敗作』だったな。期待した、こちらが、愚かだった」



 その瞬間、フェイトが感じたのは自分の額を銃弾が撃ち抜いたのではないかとさえ錯覚するような激痛と、網膜に焼き付いた紅く毒々しい魔力の光だった。身に迫った危険に精神が追い付いておらず、結果として彼女自身が自分の頭部を万力のように締め上げられている事を自覚するのに数秒を要してしまった。視界が真っ赤に染まる……激痛と疲労で既に五体は脳の言う事など全く聞かず、視覚を塞がれた彼女は両手を虚しく虚空に振るだけしか出来なかった。

 「あ゛あ゛あ゛あ゛あぁぁああぁぁああぁっ!!!」

 「フェイトちゃん!」

 親友の危機に隣に停滞していたなのははすぐさま解放しようとしてトレーゼに急接近した。愛杖を構えて全力で飛行する彼女は、得意の砲撃を撃つ事すら忘れてしまっており――、

 迂闊に彼の射程圏内に進入してしまった。

 蜘蛛が自分の網に触れた獲物を絶対に逃がさないのと同じように、左手でフェイトの頭を掴み上げながら、右手を迫り来るなのはに向けて……

 「ディバインバスター」

 『Divine Buster.』

 炸裂する紅い閃光を真正面から受け、断末魔の悲鳴を上げることすら出来ずになのはの肉体は慣性の法則に従って対岸の森林へと撃墜されてしまった。それは、砲撃の魔導師が迂闊に敵の間合いに入ってしまった事から発生した、生涯で最も恥ずべき失敗として彼女の教訓の一つに追加されることとなったのだった。

 「な、の……はっ!」

 頭蓋の耳障りなギチギチと言う音が鼓膜をうるさく叩きまくる……薄れ行く意識の最中で囚われのフェイトが最後の感じたのは、目の前の家族を侮辱した敵に対する憎悪ではなく、ましてやこんな醜態を晒した自分に対する自責の念でもなく……

 自分の愚かな行為で被害を被った友人に対する済まないと言う謝罪の気持ちだった。

 「DMF、発動」

 無機質な死刑宣告にも似たその言葉が、彼女の聞いた最後の声だった。発動と同時にタイムラグも無しにトレーゼの魔力が体内を蹂躙、リンカーコアを見つけ出してからその内容魔力を根こそぎ収奪するのにおよそ五分と掛からなかった。生命の源の一端を担っている魔力が完全に枯渇すると遂にフェイトの強靭な精神は意識を手放し、蹴り上げようとしていた足も、トレーゼの腕を振り払おうと振り回していた両手も、力無く重力によって垂れ下がるしかなかった。

 「続いて、思念捜査、開始」

 魔力を先に奪い取ったことで抵抗される危険性を排除した彼は、次に彼女の記憶を調べ上げることにした。ナンバーズの特性の一つに戦闘行動の積み重ねによる経験の飛躍的向上と言うモノがある……創造主であるスカリエッティが12人のナンバーズの短期育成の為に組み上げたシステムであり、戦えば戦う程に強くなると言う当然のプロセスを更に顕著なモノにしたものだと思えば分かり易いだろう。本来ならば実戦を積まなければ効果が無いこのシステムを、トレーゼは対象の戦闘に関する部分の記憶を奪うことにより、あたかも自分が本当にその人間と戦ったとシステムに誤認させることで更なる進化を実現させたのである。記憶を奪う対象は戦闘技能が高ければそれに越した事は無い……そして、今の彼の目の前には最高の検体がまさに自分の為に『強さ』提供してくれていたのだった。

 程なくして記憶回収は終了し、これにてフェイトに対する利用価値は毛程も無くなってしまった。一時期は洗脳暗示によって尖兵にすると言うのもあったのだが、彼女のような精神力の強い者にはやるだけ無駄と言うことが分かった。もう手足を動かすだけの力も残ってはいまい……このまま手を離してしまえば自重で肉体は水没し、溺死する……高町なのはを撃墜し、八神はやても今はクアットロが足止めしている以上こちらに来る事も無い……万が一クアットロが突破されるような事があったとしても、接近戦に不慣れな魔導師など敵ではない自信が彼にはあった。

 「さようなら、Fの残滓……造られたモノ同士、せめて、志を共にしていたら、こうはならなかっただろう……」

 鐡の剛腕からやっと解放され、フェイトの体躯はゆっくりと降下して行った。空中で逆転した彼女の物言わぬ体は頭から水没……30秒経っても浮上しない事を確認したトレーゼはそこから一気に距離を離し、一転して湖畔の森の中へと進路を変更した。

 「ガジェット全機、指令だ」










 「そろそろ諦めたらどうです~? フェイトお嬢様は墜ち、高町も撃墜された……もう勝敗は決しましたわよ?」

 「……ナマ言うておったら……あかんで……」

 クアットロの小バカにした言葉に真正面から喰って掛かるはやてではあるが、彼女にはもう体力があまり残されていないのは誰の目から見ても明らかだった。騎士甲冑の中でも肌の露出した魔力障壁が薄い部分を的確に狙われた所為で切り傷が目立ち、特に生物的弱点である顔面へのダメージは深刻だった……。

 「そんな右目で一体どうやって戦うつもりですかぁ?」

 「やかましい! 伊達に年とっとらへんわ、目ん玉の一個ぐらいで泣き言言うか!」

 右の眼窩から溢れ出す半透明な硝子体が入り混じった血液……潰されていた、眼球が、完全に。戦士として、例え片目であっても見えないと言うのは致命傷だ、単純に考えれば120°あるはずの視界の半分が削り取られると言うことになるのだから当然である。加えて痛覚、人体の中で最も繊細な部位が破壊されたともなれば、その痛みは計り知れない……きっとこうして立って虚勢を張るのが精一杯に違い無かった。

 「まぁ、私としては貴方の右目を頂けただけでも一応満足はしていますけど……お兄様は貴方の抹殺を望んでますから、ここで仕留めておくのが得策かと」

 「あんたがあの“13番目”に心酔してんのは良く分かったわ……やけどな、ええんか? いつまでも私に構ってばっかであいつを一人にしといても……」

 「あらあら、脅し文句は状況を良く理解してから口にした方が良いですわよぉ? 貴方のお友達は二人とも撃墜されたって――」



 「ここへ来たんが誰が三人だけやって言うたんや?」



 「……………………え?」

 人間は自分の予想の斜め上を行く事実が発覚した時、二種類の反応を取る……その事実に過剰なまでに驚きの反応を取るか、あまりの仰天にしばらくの間は放心状態となるかのどっちかしか無い。彼女の場合は後者だった、それもそうだろう……

 何故なら――、

 自分達の迎撃に来たのは『三人』しか居ないはずなのだから!

 「ど、どう言う……!? だって! ここには……あなた達しか来てないはずなんじゃ……っ!?」

 「アホか、アンタらを捕まえんのに保険も無しに来たりすると本気で思とったんかい。それに……おかしいと思うたはずや……私が魔力の出し惜しみをしてたんが」

 確かに、調子に乗って忘れかけていたが、始めに先制を仕掛けた時から少し疑問に感じていたのだ……あまりにも弱過ぎる、と。確かにはやてが接近戦を不得手としているのは事実……だが、冷静に考えれば自身の肉体を護るはずの魔力障壁まで薄いとなってくると、それは可笑しな話でしかなくなってしまう。

 何か……何かが足りない! 欠け落ちているピースがあるはずだ、それが何なのか……!

 「まさかっ――!!?」

 最悪の事態が脳裏を過ったその瞬間、クアットロは遥か後方の森林で敗北者の処理を行っているはずの兄の元へと急ごうとした。だが――、

 「行かせへん!」

 右目を潰され全身傷だらけで満身創痍……そんな体を鞭打ち、はやてはクアットロの進路を阻んだ。十字杖と魔導書を構え、隻眼となってまで威嚇する彼女の姿には『動かざること山の如し』と言う言葉が相応しい。

 「始めに誘ったんはアンタや……。最後まで付き合ってもらうで……!」

 「このアマ……!!」










 こんな光景を六課時代の人間が見れば驚愕に目を見開くだろう。あの生まれながらの天才とまで呼ばれていた高町なのはが、何の間違いか冗談か無様に地面に倒れているのだ。頭部からは裂傷の所為で流血しており、意識も完全に失ってしまっていた。少し離れた所では、落下時の衝撃で飛ばされたのか待機状態のレイジングハートが転がっており、主とのリンクが切れたことによって完全に黙り込んでしまっていた。

 「……………………」

 手負いの獣は危険だが、死に掛けの獣は只の餌でしかない……気絶したままの彼女の元へ来るのは味方か、それとも――、



 ガサッ――!



 その時、木々の茂みを掻き分けてこちらへ向かって来るモノがあった。突然の出来事に驚いた小鳥がけたたましく飛び去って行くのと、木々の枝の揺れを見る限り、かなりのサイズを誇る物体が移動しているようだが、問題はその数だ。全部で五つ……それぞれが違う方向から移動をしているようなのだが、その予測軌道は全てこちらを向いていた。こんなサイズの物体が多数で移動していては敵に気付かれてしまう恐れがある……かと言って、トレーゼの仲間と言う線は無い、彼は単独行動を好むからだ。

 では誰か? 彼ら以外の一体誰がここまで足を運んでいると言うのだろうか?

 その疑問は“それら”が茂みから姿を現すと同時に見事に氷解した。

 何故なら、“それら”は人間ではなかったからだ。鋭利な爪先が特徴の四脚のズングリとした球形の胴……神話に出てくるような人型の上半身が半ば無理矢理に接続されているその姿は、まさに人型機動兵器と言うに相応しいモノだった。

 『――――』

 全部で五機、無骨な赤いモノアイが地に倒れている対象を見つけるのにそう時間は掛からなかった。搭載されているサーモグラフと心拍測定機能で彼女が生きていることを確認すると、その内の一機が前に進み出て来た。

 余談ではあるが、この機体こそトレーゼがラボに残されていた設計図を元にして試験的に製造した陸戦用小型四脚機動兵器、ガジェットドローン試作Ⅴ型である。下半身の胴体と四脚は全てのガジェットの原形となったガジェットⅣ型の四脚駆動をモデルにしており、完全な陸戦仕様である。唯一の相違点はその上半身……両手に物理破壊設定の魔力弾を撃てる非合法の銃器型簡易式デバイスを装着しており、歴とした兵器としての有用性も暗に示していた。今回はその動作テストを兼ねてここへ持ち込まれているのだが、今この瞬間だけに限って言えばこの兵器に課せられたミッションは兵器らしからぬモノだった。

 進み出た一機が左マニピュレーターを突き出す。てっきり発砲するのかとも思われたのだが実は違う、中折れ式となっている銃器を外すとそこから隠れていた腕部を見せたのだ。指にしては細すぎる……それは注射針だ、血液採取用の大き目のサイズの注射器……それを的確な角度で以て気絶したままのなのはの首筋へと突き立てた。

 「……うっ」

 気絶しても眠りが浅いのか、彼女は首筋に走った痛みに身じろいだ。だが結局は体力と魔力を削られたこともあってか覚醒には至らず、容器の中が満たされるまで無抵抗で居るしかなかった。

 やがて目的量だけ取り終えた後、三本指のマニピュレーターを器用に動かして――、

 トレーゼへと手渡した。

 「……………………」

 いつからそこに居たのか、彼は注射器を受け取ると中身を試験管の中に移し、凝固阻害剤を混入して栓をした。容器に納められた赤い生命の液体を眺める彼の視線は、まるで幼子が目の前の宝石をどれ程の価値があるかも知らずに見ているのと同じようなモノがあった。だが彼はこの採取した血液が自分にとってどれだけの意味があるのかを重々理解していた。ここに彼女らが来たのは番狂わせも良いところだったが、こうして思わぬ収穫があったのは彼にとってそれだけで大きな戦果だと言えるのは確かだった。

 「……さて、まずは、その魔力を、もらおう」

 地面に伏せたままのなのはを足蹴にして仰向けさせた後、彼はその頭部に指先を当てた。接地面積などは関係無い……要は魔力と記憶を根こそぎ奪えればそれで良いのだ。程なくして魔力吸収が完了すると、次に彼は彼女の脳から記憶を抽出し始めた。垣間見える過去の戦闘の数々……記録では知っていたが、こうしてその一端を目の当たりにすると壮観なものがあり、若干9歳から命懸けの戦闘を繰り返して来た者の経験値はこれまで相手して来たどの人間よりも凝縮されていた。どんなエリート路線を行く魔導師であっても、やはり実戦に勝る訓練は無い……その点ではまさに彼女は今までに類を見ない最高品質の『素材』だった。

 だが所詮『素材』は使われる為にあり、用済みとなれば練り歯磨きのチューブと同じように破棄されるのが末路……。

 そして今――、

 「収集、完了。これより、ナノハ・タカマチの、最終排除に、移行する」

 地面に転がったなのはの頭部をジェットエッジに酷似した武装――『アサルトヴァンガード』――で蹴り飛ばすと、血液採取をしたものとは別の機体に指示した。

 「頭部を、狙え。もしくは、心臓……。絶対に、殺せ」

 『――――』

 物言わぬ機械の存在はマスターであるトレーゼの命令を音声認識で把握すると、蹴飛ばされて岩にもたれ掛かる体勢となっていたなのはの頭に照準を定めた。事前に弾き出したデータによればⅤ型の射撃命中率はおよそ98.47%……まだ実際に撃たせたことは無かったのでこのまま動作テストを兼ねるつもりだった。行く行くは来るべき戦いの為の布石の一つ……ここで有用性を確立しておくに越した事は無いだろうと踏んでの判断だった。

 管理外世界では文明の利器として真っ先に挙げられる武器――『銃』。近代の人間の心理にこの上無い恐怖を植え付けてくすぐるその無骨なフォルムの先端は、目の前の有機物の塊を排除するべく銃口にジェネレーターに備蓄されていた魔力を集中し――、



 先端部分が飛来して来た氷の刃で一瞬にして刈り取られた。



 「!?」

 狩人の本能が予期せぬ攻撃を加えて来たモノを捕捉しようとして、トレーゼはその氷柱が飛んで来た方向へと視線を向けた。そこに居たのは……

 「……貴様……」

 「させません!」

 魔力で生み出した氷の刃をまるで石つぶての様に投げつけては正確に急所を狙って来るその人物……白いバリアジャケットはその者に魔力的素質が充分に備わっている事を示しており、手にした蒼い魔導書から供給される魔力を用いて攻撃しているのがはっきりと分かった。だが問題はその身長……いや、外見年齢だった、身長も顔立ちもどう贔屓目に見ても10代前半でしかない……そして、以前目にした時はもっと小さかったはず……!

 「……ユニゾンデバイス!」

 かつて、管理世界を数百年に渡って震撼させ続け、魔法界の歴史にその名を永遠に刻まれた史上最悪のロストロギア『闇の書』……その完全消滅の際に所有者であった八神はやての意思によって創造された『闇の書』の残り滓……それが――、

 今彼の眼前に居るリインフォースⅡである。ロードである八神はやてからの魔力供給が解除されているのか、その身長は第二次地上本部襲撃事件の時とは違って四倍近く大きくなっており、本来出せる力の全てをフルに使えることを示していた。

 「てぇい!」

 魔力変換資質『氷結』によって生み出された大量の氷柱が一斉に飛来し、五機のガジェットの銃器腕を切断する。所詮は陸戦型、それも試作機として製造した物に空中を飛ぶ敵に対する対空迎撃装備など付いているはずもなく、ガジェット全機はものの30秒としないうちに頭部を切り取られて破壊されてしまった。

 「投降してください! 貴方にはもう味方は居ないです!」

 なるほど、こうしていざ戦闘して見ると普通の人間とは全く違うモノだと気付かされる。データに目を通した時にはてっきり八神のマスコットのようなモノでしかないと思っていたが、その考えは間違いだったようだ。

 だが――、

 「詰めが、甘かったな」

 「え?」

 リインがその言葉の真意を問いただす暇も無く、彼女は自分の撃破したはずのガジェットの残骸に変化を発見した。



 Piー♪ Piー♪ Piー♪



 目覚まし時計ではない、撃破したガジェットの胴体から聞こえてくるその高い音はリインの意識に警告のシグナルを促していた。何かがおかしい……とんでも無い事が起こる……そう確信していた。

 そして、彼女の脳裏に最悪の事態が予測される。

 「まさか……自爆!?」

 内蔵されているジェネレーターのリミッターを外して、その過剰に発生したエネルギーによって大爆発を引き起こす……それが全部で五つも起これば、この辺り一帯は間違い無く地形を変化させるほどのエネルギーによって壊滅してしまうだろう。

 このままでは爆発に巻き込まれる! そう直感したリインはすぐさま爆発圏内から身を引くべく、倒れていたなのはを肩に引っ下げて後方上空へと一気に飛んだ。だが対するトレーゼはそんな彼女を見上げるだけで全く移動しようとはせずにそこに留まり続けるだけだった。彼の障壁が如何様なモノなのかは知らないが、流石に機動兵器のジェネレーター五つ分ともなればその衝撃全てを殺し切ることは出来ないはずだ……なのに、彼はそこから一歩も動かない。

 アラートの鳴り響く間隔が段々狭まって来る……そろそろ予想されていた爆発が起こる時だろう。距離は充分に離した、ここで主犯を捕えられなかったのは失態だが、度の道爆発してしまえば骨肉の一片たりとも残らないはず――、



 プシューッ!!!



 「……………………え? 嘘!?」

 予想斜め上とはこの事か、リインは眼下の光景を見て呆然自失となった。

 てっきり自爆するものだとばかり考えていた……いや、そう思い込んでいた! 使いモノにならなくなった機械の塊の利用価値など所詮その程度しか無いと、本気で考えていたから。

 だが、これではっきりと分かった……何故彼があそこから一歩も動こうとしなかったのか……それは、爆発など起こらないと知っていたからだった。

 蒸気音と共に各ガジェットから一斉に噴出される有色スモーク……原色を使用したその煙幕は数秒で一帯の木々を覆い隠し、上空を飛んでいるリインの足元まで届こうとする程だった。毒は含まれていない……となるとこれは――、

 「逃げられたです……」

 まんまとしてやられた。










 「あれは……?」

 遠方で巻き起こった煙幕に、はやてとクアットロの視線が移動した。木々より高い位置へと舞い上がった原色の煙は風に運ばれて拡散し、鼻を突く臭気がこちらまで届いていた。

 だが、良く見ると煙幕に紛れてこちらへと急速に飛行して来る物体がある。それは目にも止まらぬ速度でこちらへ一直線に突き進んで来て、両者の間に飛び込み――、

 「撤退するぞ、No.4」

 クアットロの首元を掴んで通過して行った。ライドインパルスの亜音速で以て突破された為、隻眼となってしまっていたはやてには捉え切れず、トレーゼとクアットロは見事砲撃の堕天使の有効射程圏内から離脱することに成功した。

 「お兄様っ! ギブです、ギブ! 首が……!!」

 容赦無く首元を掴まれている所為でクアットロの顔面は蒼白になっており、トレーゼの右手をタッチしながら危険信号を報せていた。だが当のトレーゼは相変わらず亜音速で飛行し続けて一向に彼女を解放する気配が無く、彼女の肺の酸素は限界領域まで近付きつつあった。

 「時限式次元間転移の、発動までに、時間が無い」

 「だからって……! こんなに急がなくても!!」

 「黙れ。無駄口叩く暇があったら、飛べ。貴様は、重いんだ」

 「なっ!? 花も恥じらう乙女に向かって『重い』って言いましたわね、お兄様!? この屈辱、クアットロは一生忘れませんよぉ!」

 「……………………」

 ギリギリギリギリギリギリ……!!!

 「ひゃぁぁあああっ!!? ごめ、ごめごめ、ごめんなさいぃぃっ!! クアットロはバカな娘ですぅ! だから、だから、首をそれ以上締めないでぇ!!」

 「……次喋ったら、俺の全力で、虚数空間に、叩き落とす」

 「はい……」

 半分冗談だろうとタカを括りたい所だが、この兄ならば本気でやり兼ねないのでこれ以上の発言はしないことにした。お陰で首に掛る圧力が少し軽減され、彼女の呼吸経路の安全は保たれた。

 冷静になった頭でクアットロは自分の兄について思考を始めた。出会ってまだ半日も経ってはいないが彼の力量と技能はそれなりに知ったはずだった……圧倒的物量差も関係無しに、有象無象の区別までをも超越した影響力を及ぼす存在……そう言う風に認識していた。だがそれはあの三人の魔導師達も同じことだった、人間と言う限られた枠組みであれだけの頂点……一種の極みに到達したと言うのはそれはそれで有り得ぬ事なのだろう。だがしかし、所詮それらはどんなに高みへ臨んだ結果であろうとも、『人間』としての限界を突出した訳ではないのもまた事実……。

 彼は違う、その『超人』を二人も相手取って見事討ち取ったのだから。誰にも成しえなかった事だ……自分を含むかつての12人のナンバーズが束になっても敵う事の無かった相手に打ち勝ってみせるなどと。

 (流石はお兄様ですわぁ。でも……)

 感心すると同時クアットロは思った。こんな早期に管理局が誇る三強が前線に投入されて来たと言うことは、局の上層部はトレーゼの危険性を重要視し始めたと言うことになる。そしてこうやって実動部隊の様なモノを送りつけて来たのだろうが、始めから彼女らのような強豪を送りつけられて来たともなれば――、

 「先が思いやられますわねぇ」



 直後、クアットロは本当に次元の狭間に叩きこまれそうになった。










 二等陸佐八神はやては、かつて無い屈辱に肩を震わせていた。あんまりにも悔しいので下手に言葉を吐こうものならばそのまま心中の怒りを今自分の右目を癒してくれている小さなユニゾンデバイスにぶつけてしまいそうだった。

 「はやてちゃん……もう、右目の視力は……」

 「……………………リイン」

 「はい?」

 「フェイトちゃんを引き上げてくれて……ありがとな」

 「はやてちゃん……」

 小さなユニゾンデバイスは理解していた、自分の主が湧き上がる怒りと苛立ちを必死に律していることに。たった一人の敵を捕える為だけに三人の魔導師が全力で臨み、得た結果は惨敗、失ったモノは自分の右目……あまりにも代償が大きく、そして割に合わなかった。親友二人もヴェロッサの時程ではないにしろ、魔力吸収によってリンカーコアは衰弱し、昏睡状態に陥ったままだった。大きい、あまりに大き過ぎる痛手だ。

 「…………リイン、私は……惨めやな。昔の部下を蔑ろにされて、身内の借りも返せへんと……挙句の果てにはこの有様や。カインに怒られてまうわ」

 視界がぼやける。ついでに何やら熱い液体が目から流れ落ちる……これは血ではない、涙だ、悔し涙である。

 「アホやんか、自分が強いて思てたんや……本当は全然歯が立たんだのに!」

 小さなユニゾンデバイスには彼女を慰めるだけの言葉が、語彙が、思いつかなかった。自分の限界と非力さを思い知らされた人間を、一体誰が慰められようか。リインに出来ること、それは……目の前の主が泣き止むまで、その小さな掌で頭を撫で続けることでしかなかった。



 11月16日午前7時56分、管理局の三強と秘匿された“13番目”の戦いはトレーゼ側の逃走によって幕を降ろした。彼女ら三人が再び立ち上がってトレーゼと二度目の刃を交えるのは――、

 まだ当分先の事である。










 午前8時05分、ミッドチルダ時空管理局地上本部ゲストルームにて――。



 「そうか……。取り逃がしてしまったか」

 『リイン曹長の報告では、“13番目”はクアットロと共に次元転送で離脱したらしい。恐らくはミッドのアジトに戻って来ているものかと……』

 スバルの手術を一段落させて部屋でウーノと共にアニメ観賞に勤しんでいたスカリエッティは、事務室に居るクロノからの緊急速報に耳を傾けていた。一見テレビ画面の方に釘付けになってちっとも人の話を聞いていないかのようであるが、その両耳はしっかりクロノの言葉を一言一句逃さずに聞いていた。

 「管理局の単体最高戦力を三人も投入してなおこの有様か……。単に力だけでは抑え切れんと言うことだな」

 『何を他人事のように……一連の全ての事件の遠因は貴方の撒いた種でもあるんですよ?』

 「だが、私とて万能ではない……。いくら自分の撒いた種とは言え、既に大木にまで成長してしまったモノを切り倒すのは一筋縄では行かんよ」

 『なら尚の事! これ以上の横行を許すわけには――』

 「友人を三人も追い込ませて尚、君は理解出来ないのかね? もはや彼には理屈も力も通用しない……開発者であり所有者だったこの私の追える範疇を凌駕しつつあるのだ。そんなモノにこれ以上下手に戦力を費やせば痛い目を見る羽目になる」

 『ならばどうしろと!?』

 流石にここまで現状が深刻なモノになって来るとクロノと言えども冷静では居られなかった。単体でも無敵に近い戦力を誇る“13番目”がサポーターを得た……明らかにこちらの予測を遥かに上回る惨状だ、ただでさえ強敵な彼がJ・S事件関係者からはナンバーズ最悪とまで形容されているクアットロを従えたのだから、これから派生するであろう被害もまた計り知れない。

 だが、対するスカリエッティの表情は実に澄ましたモノだった。まるで本当に自分とは関係無い事柄だとでも言わんばかりの清々しさに、クロノは一瞬言葉を失ってしまう程だった。

 「…………時が来るまで待つしかない」

 『その“時”とは?』

 「今はまだ来ない。だが、近い内に必ず来るはずだ……最初で最後の、大きく危険な賭けが」

 ハイリスク・ハイリターン……賭けた分が大きければ配当もそれに順じて大きくなるが、万が一にもその目論見が失敗に終わった時の代償もまた大きなモノとなってしまう。スカリエッティはいずれ来るであろうそれの大波に乗ろうと提案しているのだ。

 「私は犠牲も代償も全て度外視するつもりだ。君のように合理性に拘っていたら解決出来るモノも出来なくなってしまうからな」










 「えぇ~っ!? 二人とも仕留められませんでしたのぉ!!?」

 時限式次元転送によって帰って来たクアットロの呆れた大声がラボ内に木霊する。その声の元凶となっているはずのトレーゼはと言うと、いつの間にか紺色の防護ジャケットから普段着の純白の服に着替えており、今日あった戦闘の記録を整理している最中だった。

 「あぁ、途中で、邪魔が入ってな。だが安心しろ、留めは差せずとも、それなりの対策は、施しておいた」

 「本当ですかぁ? 相手はあの管理局の三強ですよぉ~。腐っても最強なんですから、もっと丹念に殺しておいた方が良かったんじゃあ……」

 「その心配は、無用だ。今のナノハ・タカマチなら、お前でも、充分に対処可能だ」

 「うぅ~……」

 それでも納得が行かないらしく、クアットロはいじけたように頬を膨らませてはハンモックにぶら下がったままのトレーゼの周りをうざったく飛び跳ねる。何も彼女は多くを望んでいる訳ではない、あの魔導師には常識が通じないのだから当然の事と言えよう。かく言う彼女こそが、ナンバーズの中で唯一高町なのはの恐ろしさを目の当たりにしたのだから。

 「……それより、お前に、手伝ってもらう事が、ある」

 「あらぁ、何ですか?」

 「ある薬品を、製造してもらう。俺の、血液を使ってな」

 「…………それは、どんなお薬ですの?」

 「知りたいか?」

 「えぇ、それはもう♪」

 寄らば大樹の何とやら……この兄のやる事柄は何に関しても吸収しておいた方が身の為と判じた彼女は、花の甘美な蜜に誘われる毒虫のように、彼の胸板に手を這わせながら妖艶に訊ねた。

 そんな彼女にトレーゼは――、

 その薬の製造方法……

 用量……

 そして、使用方法と効能を……

 「――――――――――――――――」

 全て彼女に教えた。それを聞いたクアットロは――、

 「それは……



 とってもステキな事ですわぁ♪」



 白い指先で胸板を優しく撫でながら、もう一方の指先で伊達眼鏡を外し、さらに束ねていた髪を下ろしてドゥーエ譲りの長髪を振り乱すようにしてトレーゼの顔面に垂らした。

 「お兄様……」

 「…………」

 「そんなモノを使わなくっても、このクアットロ、文字通り貴方様に酔っておりますぅ。お兄様が求めるなら、私は幾らでもそれにお応えするまでですわぁ」

 吐息が掛かりそうな程に近い距離しか離れていない二人の顔面……クアットロが熱っぽい表情をして相手の出方を誘っているのとは対照的に、トレーゼの金色の瞳は揺らぐことを知らず、妹の瞳を見返すだけしかしなかった。

 「お慕いしてますわぁ、お兄様。私はずぅっと……貴方のモノ……これからもお傍に置いてくださいねぇ」

 「必要な内はな。好きに、していろ」

 「じゃあ遠慮無く♪」

 刹那、クアットロの瑞々しい唇がトレーゼのモノと接触した。元来の責めっ気をフルにして二枚貝の様に固く閉じていた唇を舌で抉じ開けると、さらにその勢いで口内をありったけに蹂躙した。自分の舌と相手の舌を絡ませて歯茎を舐め回す深く濃厚で長い接吻……その間トレーゼは意外にも無抵抗だった……彼女を撥ね退けるでもなし、蹴り倒すでもなし、嫌そうに身を捩ることすらもせずに、ただ彼女の好きなようにやらせているだけだった。

 「んんっ……ん、ふぅ。フフフ、お兄様、可愛いですよぉ」

 「そうか、俺は、どうでも、良いがな」

 「素直じゃないトコがまた意地らしいですわ。はむっ……! ぅん、んん」

 結局、クアットロの気が済むまでそれから10分も掛った。無抵抗な相手を自分の趣向の赴くままに蹂躙すると言う、彼女にとってはまさに至高の悦びを堪能すると、クアットロはシャワーを浴びると言って一旦部屋を後にした。かつて無い程に満足した笑みを浮かべながら……

 だが、彼女は気付いていなかった……。

 自分が蹂躙を続けていた間、目の前の兄の視線が最初から最後まで自分を見てなどいなかったと言うことに……。










 砲撃の天使、高町なのはは自分の薄れていた意識が急速に覚醒へと向かっていることに気付いていた。深層意識の暗闇にまで叩き落とされていた自分の魂魄が徐々に上へと引き上げられて行く感覚を覚えながら、遂に彼女は自分の眼前の一筋の光明を捉えて重い目蓋を開け――、

 真っ先に親友のはやての顔が見えた。

 「なのはちゃん、大丈夫? どっか痛いとこあらへん?」

 心配してくれているのは大いに結構なのだが、かく言う彼女も右目の包帯がとても痛々しい事この上無かった。自分の言えた義理ではないが、彼女の方こそ自分の体を心配した方が良いんじゃないかと思わざるを得なかった。

 「フェイトちゃんも無事やよ、水没してたトコをリインが引き上げてくれたから」

 あぁ、やっぱり彼女は死んでいなかったか……これで安心できた。意識が途絶する時からずっと心配だったのだが、生きていたなら取り合えずは喜んで良いのだろう、彼女は自分よりもしぶといのだから。

 「そいでな、なのはちゃん……レイジングハートから聞いたんやけど、何やなのはちゃん“13番目”と前に会うたことがあるらしいけど……詳しく聞かせてくれへん?」

 そう言えばそうだった、すっかり忘れてしまっていたが、彼が11月11日にSt.ヒルデの校舎に居たと言う事実を早く誰かに知らせねばならないのだ。一戦交えて分かったが、あの彼が何の理由や計画も無しに行動を起こすはずは無い……あの日あそこに居たのも何らかの理由があるはずなのだ。それを突き止められれば、彼の行動を先読み出来るやもしれなかった。

 そうとなれば早く知らせねば! そう思い立ったなのはは目の前の親友に自分の情報を伝達しようと口を開き――、

 「――! ――――、――ッ!!」

 はやての耳朶に叩きつけるようにして言葉を発したなのは、伝えるべき事は伝えた……これでゆっくり出来るはず……

 そのはずだった――。

 「……なのはちゃん……アンタ……まさか!?」

 何だ? どうしてそんなに動揺しているのだ? 何かおかしなことでも言ったのだろうか?

 「…………リイン、なのはちゃん診たってや」

 「はいです!」

 リインまで……一体どうしたと言うのだ、自分の体に何が起きていると言うのだ!?

 「なのはさん、私の名前を言ってみてください……」

 物凄く真剣な顔でそんな簡単な事を言われると拍子抜けすると言うか何と言うか、とにかくさっさと自分何も問題無いと言う事を示さなくては――、



 「――――――――!」



 思えば、覚醒したてでまだ意識がはっきりとしていなかった所為なのかも知れなかった……。だから自分では気付けなかったのだろう……すっかり自分では口を聞けるモノだとばかり思っていた……。

 「はやてちゃん……」

 「何か分かったか、リイン」

 「大脳言語野の信号伝達系統がヤられちゃってます……。それと、脳の認識野にもかなり……」

 「端的に」

 「言語野の破壊で発音がとっても困難です。それと、情報整理と意思の疎通がまともに出来ません。喋る事はもちろん、見たり聞いたりした事を上手く頭の中で理解出来なくなる恐れがあるです」



 ミッドチルダ標準時間午前8時12分――、

 魔導師、高町なのはは文字通り完全に声を失った。



[17818] 彼の休日
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/05/21 00:25
 11月17日午前6時00分、研究施設内にある寝室にて――。



 秘匿された存在である彼の起床は早い、脳内の生体電位を弄ることで目覚まし時計無しにベッドから上体を起こしたトレーゼは、自分の体がヤケに冷え切っていることに気付いた。

 それもそのはず、彼は上半身裸だったのだ。起きている時も寝る時も着ていたはずの白一色の服は完全にベッドから落ちており、まるで力尽くで引っ手繰られたように皺だらけだった。季節は冬、体調管理を徹底している彼が暖房器具の無いこの部屋で服を脱いでそのままにしておくはずもなく……。

 何故こうなっているのか……その答えは自分のすぐ隣で不遜に寝転がっていた。

 「……………………」

 シーツを捲ると、そこには自分の体を娼婦のように扇情的にくねらせたままで寝ているクアットロが居た。

 特に何がおかしいと言う訳では無かった……別に寝ている時にまでトレードマークである伊達眼鏡を掛けていた訳でもなく、昨日見た髪型が変化しているなどと言う事は決して無かった。

 ただ――、

 全裸だった。

 何故? そんなの簡単だ、深夜のベッドで肉体的に成熟した男女が成す行為など限られている……ベッドに入ったのは夜中の1時だったが、それから丸々一時間はその行為に没頭していたので、実質睡眠時間は僅か四時間しか取っていないことになる。

 だが、その行為はトレーゼの方から求めた訳ではない……シャワーを浴びてから部屋に戻り、そこで待ち構えていたクアットロに折角着た服を半ば強引に剥ぎ取られ、ベッドに導かれてそのまま行為を済ませるまで……全部彼女が自分から率先してしてきたことで、彼は何も言わずにその児戯に付き合っていただけに過ぎなかった。

 「…………」

 ベッドから降りてすぐに服を着ると、彼は未だベッドで惰眠を貪っている妹を放置したまま研究室へ向かった。昨日一日も掛けて作っていたはずのものをマキナに任せている……そろそろ完成しているはずなので、一度見ておくことにした。例の物は自分とクアットロの共同作業によって初めて製造に成功したことを鑑みれば、彼女をこちらの勢力図に取り込んだのはあながち間違いとは言えないだろう。昨夜のように行き過ぎた事を仕出かすのは否めないが、仕込んだ芸を上手くやれた犬畜生に餌を与えるものと思えば良いだけの話だ、何も問題は無い。

 ラボに到達すると薬品特有の刺激臭が彼を出迎えた。例の特殊薬の精製に関して様々な薬品を混ぜ込んだ結果なのだが、換気扇すらここには無い所為で昨日発生した臭気が未だに抜けきらない所為でもあった。

 「マキナ、例のモノを……」

 『Yes,my lord.』

 卓上に鎮座していたデバイスに命令して“それ”を格納スペースから取り出すトレーゼ。市販で売られている缶飲料と同じ位のサイズの茶色のガラス瓶の中に封入されている一見水に見える液体……何に使うのかは今の所判明していないが、恐らくは無味無臭なのだろう、匂いや味があれば対象が薬品の使用に勘付いてしまうからだ。もちろん、それはこの薬品が毒であればの話なのだが、格納スペースの中にはこれと同じサイズの瓶が後30個は収納されている……いくら大掛かりな作戦とは言え、これ程の量の毒を使う相手が果たしているのだろうか。

 だがこれは『毒』なのだ。それも、使用用途と対象が限り無く限定された対少数専用の強力な『毒』……誰にでも有効では無いからこその有効性がこの大量の薬品にはあったのだ。

 さて、確認も終わった事であるし、やる事は他にも山積みだ……少しずつ解消して行かねば。今から30時間後には計画の第一段階の要でもある『“聖王の器”奪取作戦』を展開せねばならず、その為の詳細な作戦立案と内容確認は必至だ。

 だが、まずは何よりも――、

 「…………食事だ」

 嗚呼、戦闘機人の悲しき性……。










 午前8時00分、所変わって地上本部のゲストルームにて――。



 「…………ふむ、これはまた手の込んだ事をしてくれたものだな」

 朝っぱらから研究する訳でもないのに白衣を着ているスカリエッティは只今診察中だった。ガジェットを造ったりナンバーズを生み出したり魔力結晶を兵器に転用したりと、何やら機械工学のイメージしか無い彼ではあるが、本業は生命の人為的誕生を行う医学が専門なのだ。それこそはやてではないが、犯罪など起こさずに医療系学問や知識を極めていればあらゆる不治の病ですら治せる歴史的医師になっていただろう。

 で、そんな彼がウーノを助手に従えて一体誰を診ているのかと言うと……。

 「――。――――、――」

 「うむ、なるほど……何を言っているのかサッパリだな」

 ソファに体を横たえて静かに目を閉じて診察を受けているのは、局内では珍しい私服に身を包んでいるなのはだった。いつものトレードマークであるはずのポニーテールを下げており、頭部を念入りに調べられている間はしきりに何かを喋ろうとしているのだが、声帯が無くなったように口からは言葉が出て来る事は無く、たまに何か声が出たかと思えば何を喋っているのか全く分からない奇声が出て来るだけだった。

 「八神二佐の報告にあったように大脳言語野を重点的に侵食されているな。調べてみて分かったが、その他にも認識・判断・平衡感覚・運動能力の一部などが著しく低下している」

 「運動能力ですか?」

 「そうだ。とは言っても、何も車椅子で生活しなければならない程に悪化している訳ではない。分かり易く言えば……」

 そう言いながら彼は何か手頃なモノを探して……まず第一に、今でもプラモ作りの為に使用しているペンチをなのはに手渡した。

 「高町教導官、握ってみたまえ」

 「――――」

 差し出されたペンチを苦も無く握って見せるなのは。取り合えずここまでは良いようだったのだが……

 「では次にこのペンを……」

 目の前に出されたボールペンをしばらく凝視した後、彼女は何の問題も無さそうにそれに右手を伸ばして触れた後――、

 取り落とした。いつもの書類整理の時のように右手の三本の指で持とうとしたのだろうが、それが出来なかったのだ。指先が上手く動かないのだ……腕を振ったり手を握ったりする事は出来ても、五指を精密に動かすことが極めて困難になってしまっていた。

 「と、まぁこう言うことだな。他にも認識と判断力がやられているから他人の言った事や自分の周囲の事象を理解するのに時間が掛かるし、平衡感覚がダメになっているから補助無しに歩けば10メートルも行かない内に地面に倒れるだろう」

 「治す方法は?」

 「何も直接神経を物理的に破壊されている訳ではないからな……。彼女の脳内に埋め込まれたトレーゼの魔力波長が高町教導官の神経を侵食しているに過ぎん」

 「では、その魔力を除去すれば……」

 「無理だな。これは言うなれば盗聴器だ、差し込まれた親元のエネルギーを横取りして作用している。高町教導官のリンカーコアが欠片でも存在し続けている限りは、そこに寄生して半永久的に彼女の脳を蝕み続けるさ」

 「ではどうすれば?」

 「術者であるトレーゼがこれを解除すれば良いのさ。もっとも、意図があってやったのだから、そうそう簡単に解除はせんだろうが……」

 結論から言えば、現状でなのはを治す方法は皆無と言うことであった。事件が完全に解決するまでの間はずっと障害者として生活しなければならないと言うことなのだが、それは一児の母でもある彼女にとってはかなり苦渋の結末であり……。

 「気長に待ち給え。事件が解決さえすれば脳に埋め込まれた魔力も自然と消滅する。それまでの生活介護や補助などは必要になって来るやも知れんが、君にはお優しい司書長殿が居られるから何も心配は無いだろうな。今も外で待機してくれているのだろう?」

 スカリエッティの表情が何故かニヤニヤとしたモノになり、なのはの方は少し間を置いた後でソファから転げ落ちそうな程に混乱した。顔を真っ赤にして弁明の言葉を吐こうにも如何せん言語機能が完全に麻痺しているので出て来るのは母音だらけの意味不明な言葉ばかりで、それを良い事に更にスカリエッティは彼女を冷やかす。

 「実は君の事も前々から男気が無いと思っていたんだが、どうやらその心配は無用のようだったなぁ。異性は良い、私も20代の頃は幾人の女性を手玉に取ったものだよ」

 「いえ、私の記憶が正しければ、ドクターは私を製造して肉体が完全に成熟するまでは『未経験』のはずでh――」

 「ゴホンゴホンッ! とにかく、隣で誰かが献身的に支えてくれていると言うのは肉体的にも精神的にも良い事は言うまでもない。それに、うら若き20代前半女性がいつまでも独り身と言うのは何かと不便なモノだ、いっそここいらで身を固めるのも一つの手段やも知れないぞ?」

 親切なのは良い事だが、彼が言うと良からぬ企みがあるのではないかと思えて来るから不思議だ。と言うか、貴方はいつの間に結婚相談人になったのですか……言葉が喋れたらなのははそう聞いていただろう。

 「それにしても、トレーゼは何故高町教導官の脳を……?」

 「詳しい事は本人に聞かねば分からん。ただ私が推測するに、彼は教導官が持つ何らかの情報が誰かに伝達されるのを防ぎたかったのではなかろうか。高町教導官は何か心当たりは?」

 なるほど、言語機能と指先の神経不全……これら二つだけを見れば、何となくでも情報伝達が阻害されている事はおおよそ予測出来るだろう。彼女を再起不能にしたいなら脳全体を壊死させれば良いのだし、適当だったなら別に記憶を司る後頭部でも良い訳だ。それをあえてその部分に限定したのかを追究すれば、あえて言うなら『生殺しにする為』と言うのがあるだろう。彼女は自分の持つ情報を他人に伝達する手段を封じられ、周囲の人間からもそれを引きだす術は無い……文字通りの封殺された状態に追いやられたのである。

 「――! ――!」

 しばらく間を置いた後に彼女は大きく首を振って肯定の意思を示した。返事が少し遅れたのはやはり大脳の認識系統が麻痺している所為なのか……。

 「ドクター、声帯や指先が使用不可なら念話ではどうでしょうか?」

 「人類最高峰の頭脳を持つこの私がそんな事に気付かなかったとでも思っているのかね。さっきも言ったように、彼女の脳に埋め込まれたトレーゼの魔力は教導官の大脳神経を圧迫している……脳は神経が集中する所であると同時に魔力回路の集積所でもある訳だからな、当然念話機能を司る魔力部位も完全にオシャカだ」

 念話とは本来、術者が声の届かない位置に居る相手との意思疎通を図ろうとしたのがきっかけで古代ベルカの時代から存在している基本魔法の一つだ。しかし、教育機関に籍を置けば最初に習うのが『シールド』と『念話』と言う程に相場が決まっているのだが、実は見た目や使用頻度に似合わない程にその仕組みは複雑なのだ。脳が活動する際に放たれる微弱な生体電位や脳波の波長パターンを全て魔力に置き換えることによって任意の相手と言葉を用いずに会話する……術者そのものを一機の無線機のようにすると言ったら分かり易いだろう。生体電位の波長パターンを全部魔力の波に変換するのは一度コツを掴んでしまえば簡単なように思えるが、ほんの少しの障害が生じただけで使えなくなる恐れがあるのだ。

 「まぁ、人生諦めが肝心だと言うことだ。私のかつての友人にも諦めの悪い奴が居てな、無茶をやった所為で自分の死期を早める羽目になってしまったよ」

 「私はその方を存じ上げませんが、どのような方だったのですか?」

 「いやなに、『高度7000メートルの上空を飛行する巨大飛行艇型プラット・ホームを襲撃するから、付き合わないか?』と誘われたんだがね……。私は失敗するから止めておいた方が良いと提言したにも関わらずあの愚か者は……」

 何故だろう、その友人はその直後に一億人は殺しそうな雰囲気があるような気がしてならないのだが……。

 「前々から思ってはいたのですが、何故ドクターの友人にはマトモな人が居ないのですか? 私の肉体が幼少だった時も良からぬ人付き合いがあったと聞いております」

 それから先はウーノの愚痴が始まることになるのだが、何ともまぁ大した『友人』達だと改めて実感させられる。犯罪者は横の繋がりが異常に強いと言うのはかつてクロノが言っていたような気がするが、まさかここまでとは……。

 例えば……

 某環境に悪い緑色の粒子を最初に兵器に転用した軍事会社の社長だとか――、

 某片腕が明らかにサイコで銃な世界を股に掛けるヒーローだとか――、

 某世界の帝国を潰す為に何とか騎士団なるモノを立ち上げた天才高校生だとか――、

 その他諸々etc……。とにかくウーノの言う通りマトモそうな人間は一人も居なかった。類は友を呼んでしまうのかどうか……科学的検証をしてみたいとさえ思えた程だった。

 「とにもかくにも、高町教導官は今後しばらくは局勤めを一時中断するように。これはハラオウン提督殿からの御達しでもある……こうでもしないと、君は無茶に無茶を重ねるらしいからなぁ」

 全く以て図星だから何も反論出来ない。と言うか、それ以前に言語機能を麻痺させられているので喋れないのはどうしようもないのだが。

 「用心したまえ、無理に前線に出れば君は真っ先にトレーゼに抹殺される。君の生殺与奪は彼が握っているのだからな」










 同時刻、ミッド郊内のナカジマ宅にて――。



 「それで、事の顛末は如何様なモノなのか?」

 リビングで朝食を摂っているのは三人……一家の家長であるゲンヤと、彼の仕事場での部下であり近々愛娘の良人となるカイン、そしてナンバーズの五番にして後発組の筆頭であるチンク……たったその面子でミッドでは珍しい箸を器用に使って朝食である鮭をつついていた。先程口を開いたのはチンクであり、質問された側であるカインは無言で白米を口に入れながら……

 『端的に言えば任務失敗です。“13番目”と彼によって手引きされたクアットロは迎撃を振り切って脱走……取り逃がしたばかりか、迎撃に出動した八神二佐は右眼球を失明、ハラオウン執務官はリンカーコア衰弱による意識不明の重体、比較的損害が軽微であった高町一等空尉でさえ敵方の攻撃で脳障害を引き起こしている状態だ。と、我がマスターは申しております』

 「“最凶”と“最悪”のナンバーズが手を組んだか……。どうしてなかなか儘ならぬモノだな」

 「おいおい、他人事みてぇに言ってる場合じゃねーぞ。長年管理局に務めて来たけどよ、こんなにヤバイ予感がする事件にブチ当たったのは久し振りだぞ!?」

 『だが現状ではどうしようも無い。管理局が誇る最高戦力が三人とも撃墜されたともなれば下手に動く事は不可能だ。単純な力のゴリ押しだけではどうしようもない事がこれで立証されたのだからな。と、我がマスターは申しております』

 ちなみにこの家には現在彼ら三人しか居ない。ギンガとスバルは例によって入院中、後のノーヴェとディエチとウェンディは早朝鍛錬だとかで走り込みに行っている最中だ……毎日五キロ以上は走るので、後一時間は帰って来ない。

 「って、お前さんは何でちゃっかりここで朝飯作ってんだよ。仮にも自分の姉が目ん玉潰されたってのに、ちょっとは実家に帰ってやったらどうだよ?」

 『20歳にもなって、わざわざ互いの心配ばかりすると言うのも可笑しな話だ。たかが片目が見えなくなった程度で一々騒ぐものでもない。と、我がマスターは申しております』

 「そりゃそうだけどよぉ……」

 『奴にはアコースが付いている……義弟である俺の出る幕ではない。と、我がマスターは申しております』

 「そう言えば、療養中だったアコース査察官がもうすぐ復帰なさるとか……」

 チンクの言う通り、“13番目”の最初の被害者でもあった管理局の査察官のヴェロッサ・アコースは近い内に退院するらしいのだ。余談だが、彼の退院が決定した時、院内の看護婦達の労働意欲が低下したとかしなかったとか……。

 「カイン殿、話を戻すが、貴方は一連の事件について何か考えは?」

 『質問が漠然としているが、一筋縄では解決出来ないのは確かだ。三年前までは“奇跡の部隊”とまで称された機動六課のフォアードメンバーが全員離脱……管理局も彼女らが居るからと言う安直な理由だけでタカを括っていたのだろうが、それが根底から覆された今となっては誰も率先して前に進み出る者など居ないさ。と、我がマスターは申しております』

 「ティアナにスバル……ヴォルケンリッターの前衛三人……エリオとキャロも退けられ、ギンガまでもが撃墜……そしてとうとう元隊長の三人までもがこの有様…………」

 『計11人、か。並みの武装隊員だったら微々たる損失だが、奴ら個人の戦闘力を数字に換算して考えれば、事実上として管理局は前線戦力の半分を削られた事になる。現状では彼女らに取って代わるだけの組織・団体・個人は……もう管理世界のどこにだって居やしないさ。と、我がマスターは申しております』

 管理局が誇りし各々の得意分野にのみ特化した特殊な一個人達……個人で高過ぎる戦闘力を有するが故に忌避され続けて来た彼らを一点に結集した最強無敵の少数精鋭部隊……それが機動六課のはずだった。設立したての当時こそ上層部からは疎まれこそしたが、確実に戦果を上げ続けて行く彼らをいつしか局は認め出し、今となっては歴史の教科書にすら記載されている管理局の権力の影と闇の象徴でもあったJ・S事件を見事解決してからは『奇跡の部隊』などと言って持て囃されて局内に小さな伝説を築いた機動六課……そう、彼女らは完全無欠にして最強無敵の部隊だったはずなのだ。

 誰が予想した! 周囲の誰が彼女らの敗北など予想出来ただろうか! たった一人の存在にここまでの敗北を喫するなどと……!

 これから一体どうなってしまうのか……?

 「……俺は諦めた方が良いと思う。相手さんが何を考えてんのかは知らねぇが、チンクやノーヴェと同じナンバーズってなら、やる事は親のスカリエッティを奪還する事だけだ。下手に刺激したら犠牲が増えるだけだ」

 「私は反対です。管理局は法と秩序を体現する一大組織、それがたった一人の存在の横行を許して良いと本気で御考えなのか!」

 「い、いやな、別にそう言う意味で言った訳じゃ……!」

 『別にゲンヤの意見やチンクの反論なぞどうでも良い。要は……事件が早く解決してさえくれればそれで良い。と、我がマスターは申しております』

 カインの一言に、それまで熱くなり掛けていたチンクは我に返って冷静になると、再び食事に集中し出した。全く以てこの義兄の言う通りだった、今は将来の方針をどうするかで一々争っている場合ではなく、どうやって事件を解決するかであることをすっかり忘れてしまっていた。大局を見なければいけないことを失念していた自分を諌めようと、チンクはそれからはずっと無言で朝食を啄んでいた。

 だが――、

 『そう言えば、姉上から聞いたのだが――』

 カインが何となく口にしたその言葉……それは――、

 『スカリエッティがミッドに来ているらしいな。と、我がマスターは申しております』

 チンクの口の中身を一気に噴出させるには充分な破壊力を秘めていた。










 午前8時30分、ミッド医療センターの窓口にて――。



 「……移転?」

 白衣の受付係を目の前にしたトレーゼは彼女の言った言葉の意味を理解するのに少々時間を掛けてしまった。看護婦の方はと言うと、真冬だと言うのに自分の着ている白衣よりも真っ白な服を来ている少年の姿に気を取られてしまっていたのか、彼が聞き返して来た言葉に返事をするのも少し遅れた程だった。

 「はい。局内の設備で手術を受けることが決定しまして、それからはあちらの方で寝泊まりなさっております」

 「……そうか」

 「あの……よろしければ代わりに取り次ぎますが?」

 「…………いや、結構だ。失礼した」

 受付係の言葉を一刀両断すると彼はさっさと踵を返して医療センターを後にした。目当てのモノが居ない以上は長居する理由も無い訳であり、せっかくこんな所まで出て来たが仕方なく引き返すことにした。

 外に出て真っ先に感じたのは日の高さだった。管理外世界の『地球』の気候と酷似しているミッドの冬は地表に対する太陽の軌道が地球同様に低いのだが、センターに入る前と後とではやはり徐々に日が昇っていると言う事を実感させられる。たった数分から十分だけ……それでもこうやって時の流れを実感するとは……古代ベルカ人の言葉に『時の価値は王の領土に眠る財宝よりも重い』と言う故事があるが、その意味も今の彼なら身に沁みて理解出来た。

 「…………帰るか」

 ここに用が無いのだからラボに帰るより他無いのだが、どうも予定が狂ってしまったような気がしてならない。この時間なら叩き起こしたクアットロがラボで明日の作戦の準備をしているだろうが、正直言ってあそこにはまだ帰りたくはなかった。あの妹のことだ……今帰って行ったら間違い無く“求め”られるだろう。朝に起こす時ですら一歩間違えれば再び引き摺り込まれるところだった、自分が居ない分には仕事をそつ無くこなすので何も問題は無いのだろうが、あれで無能だったならとっくに『処理槽』行きにしているところだった。

 かと言ってこのままクラナガンに留まり続ける理由も無い。入院していたスバルが本部の施設に移ったともなれば無闇に顔を出す事すら出来ないし、とは言っても今から半日もセッテの鍛錬に付き合う余裕も無い……何かと不便なものだ。

 仕方なくトレーゼは街路の脇に取り付けられていたベンチに腰掛けた。30メートル毎に二つ一組で設置されているそのベンチには、早朝の所為か彼以外には2、3人程しか座っておらず、居眠りをしている者も居た。彼はそんな不用心な事は決してしない……こうして座っているだけでも瞬きすらせずに意識を周囲に向けていた。

 「……………………」

 ふと、何を思ったか彼は自分の嗅覚神経を拡張させて周囲に漂う臭気に気を向けた。戦闘機人として生み出された彼の最大嗅覚は犬の約数十倍以上、数十メートル離れた先に置かれたコップに注がれたのが真水が塩水かを容易に判別可能な程の嗅覚だ。その鼻をフルに使って周りを嗅ぎ別ける……まず感じたのは人間の体臭、早朝のジョギングで疲労した体から滲み出る汗や、余所へ出向かう女性からの香水……大体はこの二つが街中の人間から匂って来ていた。大きく大気を吸い込めば冬の冷え切った空気が鼻腔をくすぐる……そして、澄み切ったその気流とは別に漂って来る大量の“異臭”が同時に彼の嗅覚神経を舐め回す。

 「…………そんなもの、だろうな」

 誰に聞かせるでもない小さな声で呟いた後、彼はベンチから立ち上がって再び歩き出した。彼は混じり気のあるモノが何よりも気に喰わなかった、個として存在しているモノがどうして混じらねばならぬのか彼には理解が出来なかった……例えそれが液体であれ気体であれ、人間であれ…………バラバラの個として生まれながら何故混じる必要があるのか。群体でない個として在る以上、そんな事に意味は無いのだから……。こうして街を見ているとその事を理解出来ていない輩が多過ぎる、それはとても忌むべき事態だった。だが彼にとって一番の苦悩の種は、共同戦線こそ成さなかったがかつての同志であるはずのナンバーズがその様な思想に毒されていると言う事実だった。既に更正して地上に降りた計7名の姉妹……その全員が戦闘機人にあるまじき汚れた思想に感化されてしまっている事に、彼は失望した。自分達が何の為に作り出されたのかさえも把握出来ていない……奴らは人間ではなく“道具”なのだ、道具に意思など必要無いし、ましてや群れて生きると言う俗物的な考えなど不要なモノでしかないはずなのだ。

 そう言った意味ではクアットロもまた例外ではない……彼女もまたナンバーズとしては更正組とは別の意味でどうしようもなかった。創造主スカリエッティの因子を受け継ぐ最後のナンバーズであるクアットロ……因子を分け与えられた上位四人の個体は、そのそれぞれがドクターの持つ四つの要素を備えている――、

 『知恵』の体現者ウーノ――。

 『狡猾』の体現者ドゥーエ――。

 『力』の体現者トーレ――。

 『欲望』の体現者クアットロ――。

 創造主スカリエッティが持つ四つの要素を色濃く受け継いだこの四人は、スカリエッティの計画の中核を担うべくして造り出されたナンバーズの中でも上に位置する“上位者”だ。創造主スカリエッティを各方面からサポートする事を目的としているが、その中でもクアットロだけは『特殊』だった、自身の欲望の赴くままに行動するその姿は、スカリエッティの暗黒面のみを受け継いでいると言っても過言では無い……その意味では、彼女は最も俗物的な存在と言えるだろう。彼女の欲望があらぬ方向へ向けられたその時には、自分の手で始末をつけなければならないだろう、俗物的なナンバーズなど自分の傍には要らないからだ。

 「……………………?」

 ふと――、

 トレーゼは自分の背後から接近して来る不穏な気配に気付いた。いや、正確には接近して来るのではなく、自分と距離を一定に保ってついて来ているのだ。耳の聴覚神経を拡張させる……足音の大きさからして少し距離を離しているようだ、それに音の間隔からして急ぎ足のように小刻みなリズムが聞こえる、そして、足跡も自分の歩いた後を忠実に辿って来ている……間違い無い、誰かがついて来ているのだ!

 誰だ? 殺気は感じない……かなりの手錬なのか、それとも何かの囮か? どちらにせよ確認しておく必要性があるのは確かだ。映画やドラマのワンシーンなら人気の無い路地裏までこちらが誘導した後で……と言うやり取りなのだろうが実際は違う、人気の無い所へ行ったらこちらもあちらも遠慮無しになってしまうからだ。そうなれば戦闘は必至、相手の実力が未知数である以上は先にこちらから動くこと相手の行動を先制するのだ。

 「――ッ!!」

 180°振り返るのに要した時間は僅かコンマ数秒、鷹の目を以てしても知覚させない速度でのその振り向きは自分の背後に居る人物を瞬時に圧倒し――、



 「きゃ……っ!」



 尻もちをつかせた。

 「…………」

 「ぁぅぅ……」

 そこに居たのは幼い女子が一人、外見と身長から察するに恐らく10代にも満たない子供だった。目の前の少女に関する記憶は無く、少なくとも自分を狙って来た刺客だと言う線は消えた。なるほど、意外に近くに居たと思えば、足音が小さかったのは体重が軽かったからで、間隔が短かったのは身長が短かったからか。

 だが、解決すべき疑問が増えた……。

 「…………誰だ?」

 「はぅっ……!?」

 偵察か刺客かと思って見れば目の前に居るのはただの少女……記憶にあれば警戒はしたのだが、生憎と自分も彼女の事はまるで知らない……だが少女は自分の後をついて来ていた、これはどう言うことなのかハッキリさせておかねばならない。驚いてすっかり腰を抜かしてしまっている少女に容赦無く無言の圧力で以て迫ると、トレーゼは相手に戸惑う暇すら与えずに問いただした。

 「あ、あの……! 違います、その……!」

 「……何故、俺を追う? 答えろ」

 「え……その、えっと……」

 「……………………」

 如何に相手が年端も行かない子供だからとて遠慮も容赦もあったものではなかった、片方がすっかり怯えて座り込んでいるのに対し、トレーゼは仁王立ちの状態で威圧感だけを放つ金色の双眸で見降ろしているだけだった。これがまだ誰からも分かるように表情に表れていたなら彼女にはまだ救いだっただろうが、トレーゼの表情と視線はどこまで行っても無機質な鉄面皮だった。怒っているのかどうかさえも分からないその無表情に、いつの間にか少女の精神は徐々に追い詰められて行き……

 「……ぅ……うぅ、ひっ、うぇぁあああああん!!!」

 「ッ!!?」

 まぁ、精神的に幼い子供が追い詰められて取る行動と言えば限られている訳で……案の定、目の前の少女は文字通り火が点いたかのようにワンワン泣き出してしまった。その凄まじさと言ったら筆舌し難いモノがあり、かなり遠方の建物に居る者が窓を開けて確認する程だった。道行く者が怪訝な視線を向けて来るが、それでも彼女の号泣は止まらず、見かねたトレーゼは……

 「……マキナ、助力を、要請する」

 『I have such a feature is not.(私にはその様な機能はありません)』

 手持ちのストレージデバイスに一刀両断されてしまった。彼にまともな思考をする能力があったなら、今頃自分の持っているのがインテリジェントデバイスでない事を悔やんでいただろう。だが、今の彼はそんなデバイスと目の前の未だに泣き続ける少女を余所に天を仰いでいた。

 「ぇぁあああああんっ!!! えぐ……! ひっ……! うわぁあああん!!」

 そろそろ周囲に衆人が集まって来た。ここで注目を浴びるのは何かと不都合でもある……さっさと終わらせなくてはならないのだが、当のトレーゼはいつまで経っても無言で天を仰いだまま何もしようとはしなかった。

 やがて、何かを思い出そうとするかのように小さく、こう呟いた。

 「……こんな時、トーレなら、どうしただろうな……」










 数分前、医療センターへと向かう一台の車両の中にて――。



 「余り無理をなさらないでくださいね、二佐。御自分の体を自愛するのもまた仕事の内なのですから」

 「ありがと。まぁ、私やかてこんな仕事に就いてんのやから、いずれ遅かれ早かれこうなるってのは覚悟してたけどな」

 運転をグリフィスに任せ、右顔面を包帯で覆ったはやては昨日に引き続いて医療センターの診察へと向かっている最中だった。一応彼女は乗用車両の免許は持ってはいるのだが、隻眼となってしまった今では当然の如く運転を出来る訳が無く、こうして補佐官であるグリフィスに付き添いで来てもらっているという訳だった。

 「ま、治療やら何やらしてもどうせ無駄やろうな。リインやシャマルの目立てでも失明は確実らしいし……」

 赤信号に引っ掛かって停車する。十字路になっている目の前の道路を横進行の車両が次々と通り過ぎて行くのを見つめながら、はやては盛大に溜息をついた。

 「以前みたく暴れられへんのが残念やわぁ」

 「マスコミが聞いたらスキャンダルのネタにされますから、そう言った発言は控えてください。それと、お聞きしたい事があるのですが……」

 「何や?」

 「昨日の件です。確か二佐はDr.スカリエッティの助言を受けて、高町教導官とハラオウン執務官を同行して現地に急行したと聞いていますが……?」

 「そうやな」

 確かにあの日の真夜中、はやての自宅にいきなり電話が掛かって来たかと思えば、切羽詰まった感じのスカリエッティが『今すぐに君の現状で用意出来る最高戦力を持って第6無人世界へ急行してくれたまえ。理由は後ほど追って連絡する』と言われたのが始まりだった。始めは何を言っているのか全く分からなかったが、言われた通りに地上本部へ向かうとそこには既に親友二人が先に到着していた。

 「彼は何故“13番目”の行動が予測出来たのでしょうか? それは確かに奴がスカリエッティを含む四人の監獄組の救助を目的の一つとしているのは充分把握出来ますが、何故それがNo.4だったのでしょうか?」

 確かにグリフィスの疑問にも一理ある。三年前の事件で管理局に最後まで頭を垂れる事無くそのまま獄中に入れられたのは五人……その内の一人であったセッテはやっと地上に降りたが、それでも獄中にはまだスカリエッティを含めて四人も居た。直接対峙した今のはやてになら分かるが、あの“13番目”は何の計画も無しに行動を起こす人間では無い事は重々把握していた……行動の全てが緻密に積み上げられたプロセスから成り立っており、尚且つそこから生じる誤差すらも完全に掌握出来るだけの技量と柔軟性まで備えている完璧な存在である彼に失敗など有り得なかった。

 だがそれを前提で考えたとしても、何故彼はクアットロを選んだのか? そして、スカリエッティは何故そんな彼の行動を完璧に予見出来たのか? 流石の彼でもまさか当のスカリエッティが地上本部に身柄を移されたなどとは考えまい、あれは管理局内でも上層部の十数名と自分達当事者しか知らない超級の極秘事項……“13番目”の情報収集能力が如何様なモノなのかは知らないが、流石にこればかりは知られていない自信があった。もちろん、助手のウーノに関しても同様のことが言えた。となれば、未だ“13番目”は上位の四人が未だに獄中に居るものだと思い込んでいるのは自明の理……更にコトを慎重に運ぶ事を優先させるであろう彼の事だから、軌道拘置所でも最も警戒レベルの高い創造主の所へいきなり単身で乗り込むなどと言う愚行はまずしないはず。これで早くも候補は三人に絞られた事になった……あのスカリエッティの事なのでこの程度の思考など訳無かっただろうが、それでも尚『何故この三人からクアットロ』を選出したのかと言う疑問は残っている。

 「私もなぁ、始めは何でやろなって思てたんやけど……理由聞いたら納得出来たわ」

 「と言いますと?」

 「獄中に居るウーノ、トーレ、クアットロ……一見したらこの三人の重要度はさして変わりあらへんようにも思えるけど、実際は違う。“最賢”のウーノ、“最強”のトーレ、“最悪”のクアットロ…………この三人を良く見れば、むしろクアットロだけが仲間外れなんに気付くはずや。綿密な知略で攻めたいならウーノを選ぶし、純粋な力のゴリ押しで行きたいなら他の11人が束になっても敵わんトーレを選べばええ……やのに“13番目”はクアットロを選んだ……何でやと思う?」

 「…………なるほど、そう言う訳ですか」

 全ての謎が解けてグリフィスも納得が行ったようだった。信号が青になったのを確認すると再びアクセルを踏み、加速によって二人の体が少しだけ座席に沈む。

 「察しがええな。知略と戦力の最高峰……主犯やったスカリエッティの助手やったウーノと、第一線で全ての戦闘行動の直接指揮を執っとったトーレ……この二人の警戒レベルは各拘置所内でも最高クラス……当然やろな、会社で言う所の重役のようなもんなんやからな。そやけど、対してクアットロは多少頭はキレたか知らんけど、監獄にブチ込まれたんは『捜査に協力する姿勢を見せなかったから』って言う方が強かった。そりゃ一応は決戦で“聖王のゆりかご”を任されるぐらいの実力はあったんか知らんけど、他の二人に比べりゃ実力的な意味で影は薄い…………そして、その重要度の低さから、拘置所内での警戒レベルも二人に比べりゃ当然低かった。せいぜい“稀代の連続殺人犯”程度の拘束しか喰らっとらんかったはずや」

 「“13番目”はそれを見抜いていたと?」

 「その可能性は大いにある……いや、むしろそうや。そうでなけりゃ説明がつかへん。…………なぁ、グリフィス君……」

 「何でしょうか、二佐?」

 二度目の信号で停車した時、運転席でずっと上司の言葉を静かに聞いていたグリフィスは、ふとはやての声色が微妙に変化するのを見逃さなかった。さっきまでの気だるそうに窓の外を流れる風景を見ていた彼女の表情はいつの間にか固いモノになっており、彼の知る限りでは見た事の無いモノとなっていた。

 「…………私らはひょっとすると、トンデモな奴を敵に回しとんのとちゃうかな?」

 「……その感は否めませんね」

 かつて、たった一冊の魔導書が管理世界を震撼させた事があった……。その呪われた魔導書は十数年前にたった10名の魔導師と騎士の手によって打ち破られ、その管制人格は『世界一幸福な魔導書』として天に還った……その出来事は魔法史では有名で、歴史の教科書にも記されているぐらいである。

 そして今、たった一人の戦闘機人の手によって同じように管理局が混乱している……。かつての魔導書事件で実力を発揮していた猛者達を次々と退け、後輩と弟子達まで手に掛け、もはや誰の力でも止められなくなっている……三年前の時ですらここまでの絶望を抱いた事があっただろうか。自分達はあの怪物じみた異常の存在に対抗できるのか……今のはやてにはそれだけが分からなかった。

 「……………………ん?」

 ふと、窓の外を見ていたはやてはあるモノに気付いた。幅の取ってある歩道の真ん中で何やら小さく群衆が出来上がっている……それ程大きくもないが、何かトラブルでもあったのだろうか。運転席に座っていたグリフィスが窓を開けて確認すると――、

 「子供が泣き喚いているだけみたいです。迷子か何かでしょうね」

 「迷子なぁ……。治安課が働き掛けてくれてるけど、流石にこればっかは数が減らんか。そう言えば、昨日私が留守にしとった間に何や過激派の連中が質量兵器の闇取引をやらかしたとか――」










 結論から言えば、トレーゼは再びベンチに腰を下ろす羽目になった。いつも数本は持ち歩いている高カロリー携帯食料を包み紙から出してポリポリと齧りながら、ぼぅっと目の前のビル群を何の感傷も無しに静観しているだけだった。11月中旬の肌寒い寒風が服の白い布地と、同じ位に白い肌を吹き抜けて行くが、彼はいつもの様に全く気にした風も無しに石像の如く不動を保っていた。

 何故一旦ベンチを離れた彼が再びここに居るのか? その理由は彼のすぐ隣に鎮座していた。

 「はむっ、ムグムグ……! あむっ、ムシャムシャ! ハグッ…………ッ!? げほげほ!!」

 トレーゼのすぐ横に座って彼が与えた携帯食料を夢中になって口の中に放り込んでいるのは、彼が先程過剰に威嚇して大泣きさせてしまった迷子の少女だった。あれから思考錯誤した後、彼女に持ち合わせの携帯食料を分け与えて口を封じる事でなんとか泣き止ませることに成功した。以前どこかで、泣いている子供を黙らせるには食い物が一番効果的だと聞いた事があったが、あながち嘘ではなかったようだ。

 落ち着かせてから聞いてみたところ……なんでも実父が管理局に単身赴任しているらしく、休暇を利用して南部の地方都市から母と親子連れで会いに来たのだとか……だが、リニアで上京して首都中央駅で降りたは良いのだが、この少女自身はクラナガンのような大都会に来るのが初めてだったらしく、人ごみの中を移動する内に母とはぐれてしまったと言う訳らしかった。クラナガンのような大都市ともなれば迷子の数は相当数になるのは明白だろう、実際こうして隣に居るのだから……。

 だが疑問もある……どうして、母を探している途中で疲労が溜まってベンチに腰掛け、たまたま近くに居ただけの自分を少女がつけ回そうとしていたのか……? その訳を聞いてみたところ――、

 「だってお兄ちゃん悪い人に見えなかったもん。だから……大丈夫かなって……思ったのに……」

 少女は事情を語りながら、先程のやり取りを思い出してしまったのか涙目になってしまった。と言うか、もう泣いていた、鼻水が垂れそうになっているのが分かる。それにしても、今時の子供は見ず知らずの人間にでも構わずに後を追う程までに無防備なのか……トレーゼに人並みの感性があったなら、今頃大いにカルチャーショックを受けていただろう。もっとも、彼にとっては少女がこのまま迷子でクラナガンの街を彷徨おうがどうだって良かったのだが……。

 「ママぁ~! どこ行ったのぉ~!!」

 「…………泣くな」

 「でも……! でもでもでもぉ~っ!!」

 「黙れ、鬱陶しい」

 「うっ!? ……うぅ、うううぅうぅ~っ」

 何故だろう……トレーゼは昨日の戦闘こそがこれまでの稼働歴の中で最も過酷なモノだと認識していたのだが、ひょっとすればその認識を改めざるを得ないかも知れなかった。兵器として造られた戦闘機人である自分が幼子の泣き言に振り回されるなど、よもや創造主スカリエッティですら予測していなかったに違いない……何とも不名誉なことだ、ここは早急に立ち去って事無きを得るのが得策だ。

 さすれば、いざ――! トレーゼは隣の少女が涙目になりつつも手渡した携帯食料に貪りついている瞬間に立ち去ろうとしてベンチから腰を離し――、

 「待ってっ!!」

 あっさり服の裾を掴まれてしまった。人目を気にせずにライドインパルスで逃げれば良かった……『選択』を誤ったか。

 「…………何だ?」

 ……嫌な予感しかしない……そうだと分かっていながらも聞いてしまったのは条件反射だとしか言いようがなかった。

 「お願い! 一緒にママを探して!!」

 そしてその予感は現実となってしまった。










 午前8時48分、医療センター付近の歩行者道にて――。



 「待ってくれよぉ! 二人とも歩くの早いってば!」

 道行く者達を必死で掻き分けながら一人の少女が猛スピードで走り抜けて行く……同じ方向に行く者を追い抜かし、反対方向に行く者を突き飛ばさんばかりの勢いで走り去る少女――セインはやっとの思いで自分の先を歩いていたオットーとディードに追い付く事が出来た。

 「セイン姉様、歩くのが遅すぎます」

 「ぜぇ……ぜぇ……! あんたらが早過ぎるんだよ。ちょっとは姉ちゃんを労わってくれよぉ……」

 「そうやって厚着してたら歩くのも遅いよ……。って言うか、教会では半袖なのにどうしてまた?」

 「いや、あれは私のイメージスタイルだから!」

 「……何それ?」

 白い息を吐いて会話を交わしながら医療センターへと続く道を歩く三人。何故教会組のナンバーズが教会の仕事を放り出し、揃いも揃って朝のクラナガンの街を歩いているのかと言うと……今日なんとか退院することとなったヴェロッサを迎えに行くようにとカリムから頼まれたからである。リンカーコアが消失寸前にまで追いやられて復帰を果たしたのはある意味では奇跡だろう。まだ戦闘や捜査活動に戻るには時間が掛かるそうだが、必要最低限の日常生活を送るには充分とのことだった。彼女らも一時はヴェロッサの作るケーキが二度と食べられないのではないかと内心冷や冷やしていたが、この間直に連絡を寄越して来た本人によれば「その心配は要らないよ」と陽気に述べていた。

 「早く食べたいなっ、ショートケーキ! モンブラン! アップルパイ!」

 「最後のはケーキなんですか?」

 「絶対違うよ、ディード。世紀の大発見みたいに目を輝かせないで、単純にセインが間違えてるだけだから」

 「えぇ~、でも前にアップルパイ作ってくれてたじゃん。あれすっごく美味しくって忘れられないんだなぁ~」

 「病み上がりの人に余り無理をさせないでくださいね」

 「分かってるってば」

 三人で冗談を飛ばし合いながら目的地まで足を運ぶ……セインから見れば、更正を終えて社会に入った自分達の中で一番変わったのはオットーとディードの二人だと考えていた。性格や無駄口を言わないのは以前と殆ど変り無いが、それでもやはりこうして普通の人間と遜色無く『姉妹』の会話が出来る日が来ようなどとは思っていなかった。昔はつまらないとか思っていたが、今ではすっかり可愛い妹と言う印象が――、

 と、ここでセインの思考が急に停止する。

 何故か?



 背後から思い切り突き飛ばされたからだ。



 「どぉうわ!!?」

 背中から物理的な不意打ちを喰らったセインの体は大きく弓なりになり、舗装された道路に顔面から叩き込まれた。かなりのスピードで叩きつけられた所為か、逆に見ているこっちの鼻面が痛くなってしまう程だった。実際、前方を歩いていたオットーとディードは無意識に鼻を隠すように押さえている……。

 「痛ってぇなぁっ! 誰だ! 人のこと突き飛ばしたのは! 危ないだろ!!」

 だがそこは流石戦闘機人、痛みをモノともせずにすぐさま立ち上がって自分をこんな目に合わせた人物を一喝しようと勢い良く怒鳴り声を上げた。

 だが――、

 「……セイン姉様、何を言っているんですか?」

 「え? 何が?」

 ディードが何やら不思議そうに首を傾げているので痛みのする鼻を擦るセイン。案の定鼻血が酷い事になっていたが、どうやら妹が訊ねているのはその事ではなさそうだった。

 「突き飛ばされてと言いますが、セイン姉様はいきなり転倒したのですが……?」

 「はぁ!? 何言ってるのさ、明らかに今さっき後ろから力一杯突き飛ばされたじゃないか!」

 「突き飛ばした突き飛ばしたって……言っておくけど、『ここには誰も走る人は居なかった』よ」

 「嘘だぁ!」

 確かに彼女の倒れ方を見れば、足元の小石に蹴躓いたとか足首を捻ったとかのようなモノではないことは一目瞭然だった。それはもちろんオットーとディードにも分かってはいた、自然に倒れたとしたらあの速度は絶対に有り得ないから…………だが――、

 「本当に何も見えませんでした」

 確かにセインを突き飛ばし、自分達の間を何かが通り抜けて行った。だが、その『何か』が結局何だったのかについては視認できなかった以上、どうしようもないことだった。










 「今さっき誰かにぶつかったよ?」

 「問題無い、移動を継続する」

 クラナガンの道路を走るモノがある……それは自動車であり、二輪車であり、バスなどの公共機関であり、自転車などであり…………



 明らかにスポーツカー並みの速度で走る戦闘機人であったり――。



 隙間無く舗装されたアスファルトの路面を走行し、次々と乗用車を追い越して行くトレーゼ。両脚に装着したアサルトヴァンガードの四輪駆動から生み出される爆発的なスピードを遺憾無く発揮して、時に対向車両を飛び越し、時にビルの壁面を駆け上がり、時に進行方向から見てほぼ直角に横滑りすると言う物理的に有り得ない軌道を描きながら、彼は首都の道路を爆走する…………背中に迷子の少女を背負いながら。

 「お兄ちゃんって『まどうし』さんだったの!? すごぉい! 私、魔法見るの初めてぇ!!」

 「舌を噛むから、黙っていろ」

 「はぁ~い!」

 結局、トレーゼは何故かこの少女の頼みに逆らう事が出来なかった。そのまま振り切って……と言う手段もあったにはあったのだが、また大泣きして騒ぎを起こされたらたまったものではないと判断し、さっさと母親とやらを探し当ててからの方が得策だと考えたのだ。それからすぐに彼は行動を起こし、街中を走りながら捜索すると言う手段に打って出た。

 ちなみに、今の彼の走行速度は時速70㎞超……これが一般車両ならとっくに交通課に通報されている速度だが、生憎と二人の姿は他の誰にも見えてはいない。彼の持つ14の固有技能の一つ、完全偽装のシルバーカーテンの効果によって二人の全身を光学迷彩皮膜で覆っているからだ。よほど接近しない限りは他者に認識はされないし、視認距離に入った時には既に通り過ぎている為、こちらから停止しなければ絶対に見えないようにしていた。

 「母親の、特徴は?」

 「私と同じ栗色の髪の毛で、目は緑色! あっ、あとね、髪の毛がすごく長いの!」

 目的の人物の身体的特徴をマキナに入力して行く。こうする事であとはマキナが管理局の戸籍登録簿にハックして自動的に探してくれるのだ。そうして次々と情報を入力して行く内に、二人は車両の通りがさっきよりも多い場所……街の中心へと近付きつつあった。

 「お兄ちゃん、さっきから思ってたんだけど、どこに行くの?」

 「見晴らしの、良いポイント。そこから、お前の、母親を探す。母親の、名前は?」

 「う~ん……ママのことは『ママ』って呼ぶから、分かんない♪」

 「……………………マキナ、以上の条件に、該当する、人物は?」

 『There hits 624.(該当件数は624件です)』

 「では、さらに、『クラナガン在住ではなく』、『夫が局勤め』で、『子持ち』の条件に、当て嵌まる者は?」

 『There is only one name if applicable.(該当者は一名だけです)』

 「ポイントは?」

 『Are in approximately 624 meters from here.(ここからおよそ624メートルの位置に居ます)』

 600と言えば、ビルを一つ二つ跨いだ位の距離である。意外と近くに居た事を考えれば、当の母親も少女の事を必死に探していたのだろう。早急に終わらせねば……。

 「方角は?」

 『It is eight o'clock.(8時の方向)』

 「通り過ぎたか……」

 「えぇ!? どうするの?」

 「…………こうする。IS、No.9『ブレイクライナー』発動」

 その声と同時に、走行中のトレーゼの足元から真紅のウィングロードに酷似したエネルギーの道が形成され始めた。瞬時に前方20メートルにまで伸びたその道は、途中で大きく上部に反る形となり、さらに大きなU字を描いた。ジェットコースターのレール軌道と同じで、その上をトレーゼが――、

 「掴まっていろ」

 駆け抜ける! エアライナーは折り返した所から逆さを向いている……その為にここで一気に加速しておく必要があったのだ。時速100㎞超のF1並みの速度から派生した強烈なGが真正面から少女を襲うが、彼女は目を閉じながらも精一杯踏ん張ってトレーゼにしがみ付いて離れなかった。やがて折り返し点を通過すると、レールに沿って二人はさらに上空へと駆け上がる……そして、エアライナーの終点を突破した時、二人は――、



 ビルよりも高い位置を数秒間滑空した。



 「おおおぉぉ~~~っ!?」

 生まれて初めて見る光景に、少女はただただ感心しているだけだった。今まで自分が見て来た人や車などと言った大きかったはずのモノが、ここから見ると完全に手に取れるようなサイズに見えてしまうから不思議なのだろう。

 だが忘れてはならない……飛行魔法も無しにこの高度まで上昇すれば、運動エネルギーが無くなれば後は必然的に……

 落下すると言うことを!

 「きゃぁぁあああぁあああああっ!!!!」

 自由落下の浮遊感は少女の心にある意味で衝撃だったはずだ。それまで微妙に浮き上がっていた自分の体が一瞬の間を置いて急転直下、それは確かに誰しも慣れる事は出来ない感覚に違い無いだろう。だが、彼女が必死に叫んでいる間にも、下方では黒いアスファルトの地面が二人の衝突を待ち焦がれていた。一応、戦闘機人であるトレーゼはこんな高さなら屁でもないのだが、そんな事を少女が知るはずもなく、絶体絶命の恐怖に怯えていることしか出来ていなかった。

 そんな背中の彼女を余所に、すっかり落ち着き払っていたトレーゼは……

 「バインド……」

 自分の左手から一本の魔力の縄を作り出した。掌から伸びたそれはそのまま延長し、彼らのすぐ傍のビルの壁面に貼り付くことに成功した。たった一本と侮るなかれ、成長期の竜の動きならば容易に封じる事の出来る程の物理的強度を誇るバインドなら二人の体重を支えるには充分だった。手から伸ばしたロープでビルの谷間を高速でターザンすると言うのはどこかの映画にあったような気がしないでもないが、今はそんな事を一々気にしてはいられない……二人を支える一本のバインドは振り子運動によって加速度を増し、もうすぐ最高速度を弾き出すであろうポイントに向けてまっしぐらに彼らを振り下ろして行った。バインドの長さは短く、最高速度到達点はギリギリ地面に接触しないラインではあったのだが……

 「あ! ママぁ!!」

 背中の少女が指差した方向に居る一人の女性……栗色の長髪と、横顔から僅かに垣間見える緑色の目……なるほど、どことなく顔つきが少女にも似ている所を見れば確かに彼女が母親なのだろう。遠目で見ても分かるが落ち着かない様子で周囲をしきりに見回していた……自分の娘を探しているのはもう明白。

 「……行けるか」

 距離はおよそ300余メートル……このまま背中の少女を機人の剛腕で以てして前方の母親に投げつけるのが一番手っ取り早いのだが、そこら辺の小石から鉱山で採掘される重金属の塊まで大リーガー顔負けの豪速球で投擲する彼の腕力に少女の肉体が耐え切れる保証は全く無い。仮に耐えられたとしても、それを射線上に居る母親が受け止める確率はほぼゼロ……反射的に回避してしまい、地面に叩きつけられた少女はたちどころに肉塊に変貌してしまうのは目に見えている。

 ならば――、

 「……おい」

 「なに? お兄ちゃん?」

 「……………………死ぬなよ?」

 そこから先は無音の世界だった。バインドの振り子運動の速度が最高に達したその瞬間、トレーゼが手を離した。振り子運動は紐の長さが長ければ長い程、先端の物体が重ければ重い程にその速度を増す……トレーゼの体重は70~80㎏前後、その体重から生み出される速度はどこぞの蜘蛛男の比ではなかった。すぐ背後で少女が何かうるさく叫んでいるが、もはや何も聞こえない……前方に向かって放り出された二人の速度は凄まじく、距離を取っていたはずの地面があっという間に接近し、母親との相対距離もさらに縮まった。だがその軌道は明らかに母親の方を向いており、このままの速度を維持して突っ込めば衝突は免れられなかった。かと言って飛行魔法で軌道修整を行おうにも、この相対距離と速度では修整は無意味に等しい……もはや接触は絶対に回避出来そうにないだろう。



 だと思っていたら大間違いだった。



 トレーゼは自分の首に回されていた少女の腕を一瞬で振り解くと、彼女を自分の胸に抱え込んだ。いきなりの事態に少し抵抗はされたが無理矢理抑え込む……これで全ての準備は整った、後はそれを――、

 実行するだけだ!

 エネルギーを脚部へと集中、だが決して過剰にしてはいけない……タイミングも、方向も、放出するエネルギーの総量と放出時間も、その全てを見誤ってはいけないのだ。

 シルバーカーテンの効果で相手はまだこちらに気付いていない。始めは100メートルはあった距離も目測約10メートルにまで縮まった……だがまだだ、まだ接近しなければいけない。

 まだだ……

 まだ……

 もう少し……

 そして――、

 距離約3メートル! 今だ!

 「IS、No.3『ライドインパルス』発動!」

 シルバーカーテンを解除すると同時にトレーゼの足首から真紅のエネルギー翼が出現、そこから発生する全推進力を一気に足下に向けて解き放った。

 ただし100分の1秒だけ! それ以上放出を続ければ今度はそれまでと逆方向に押し出されてしまう上に、この抱きかかえている少女の肉体が音速のGに耐え切れずに絶命してしまうからだ。故に一秒にも満たない刹那の瞬間に振り子運動で掛ったエネルギーのベクトルと全くの反対方向に向けて推進しようとする事で、人工衛星の軌道修整などに使用されるジェットの逆噴射の要領によって双方向のエネルギーを相殺し、その場に……

 「……着陸、成功」

 降り立って見せた。目の前の女性はいきなり見ず知らずの少年が自分の眼前に現れた事に驚きを隠せずに唖然としている事しか出来なかった。

 「あ、あなた……! どこから? さっきまで居なかったのに――」

 「ママっ!!」

 だがその戸惑いもトレーゼが抱きかかえていた少女の声で現実に引き戻された。自分の姿を認めるなり足元に飛び付いてきた娘を見て、母親はさっきよりも強い驚きに打たれた。

 「心配してたのよ! ママね……ずっと探してたんだから……!!」

 「ママぁ! ママぁ~っ!! うわぁああああん!!!」

 人目も憚る事無く大声で泣きじゃくる少女……遠い異邦の地で母とはぐれ、絶対的な孤独感に苛まれていた彼女は、今ようやくその呪縛から解き放たれたのである。緊張から一気に安堵したことによって涙が堰を切ったかのように溢れ出し、母親もつられて目尻が濡れているのが分かった。

 「お兄ちゃん、ありがとね! 私……お兄ちゃんの事、ずっと…………あれ?」

 少女は自分をここまで連れて来てくれたトレーゼにたった一言でも礼を言わねばと、背後でこちらを静観しているはずの彼の方を向いた。「ずっと忘れない」……この一言で少女は自分の持つ精一杯の感謝の念を伝えようとしたのだ。



 だが――、



 振り向いた時にはもう、トレーゼの姿は霞みの様に消え去ってしまっていた。あの少し菫色に近かった紫苑の短髪も、血が通ってないような白磁の肌も、琥珀のような澄んだ金色の双眸も……胡蝶の夢の如く少女の前から消え去り、二度と姿を現そうとはしなかった。










 「……………………」

 いつの間に登ったのか、八階建てのビルの屋上に眼下の母娘を静かに眺めて佇立しているトレーゼの姿があった。しばらくは自分の姿が見えなくなったのに戸惑っていたようだったが、程なくして二人が歩き出したのを確認すると彼も空へと飛び上がった。今度は母と子が互いに手を繋ぎ合っていた……あれでもう逸れる心配もあるまい。それにしても、全くもって面倒な厄介事に巻き込まれてしまったものだ……トレーゼは今度からはあの様な小さな子供に不用意に近付くのは決してしないようにと固く決心した、『管理局の三強より一人の幼子』……その言葉の重みを恐らく彼は忘れないだろう。

 時刻は午前9時00分、まだまだ昼とも言えない時間帯だが度重なる能力の行使でカロリーを消費してしまったトレーゼの腹は空っぽだった。例の携帯食料も少女に全て与えてしまい、もうストックは無かった。かと言ってこのままラボに帰ってクアットロに絡まれると言うのもまた癪な話……またしばらくクラナガンの街を練り歩くより他無かった。

 「……また、厄介事に、関わらなければ、良いのだが」

 そう呟きながら彼は中心街を目指して飛行を続けた。恐らく自分があんな子供と触れ合う事など今後一切無いであろうと考えながら……

 だが何故だろう、あんなに厄介極まり無かったはずなのに――、



 不快には思わなかった。










 休日の過ごし方。ナカジマ家、N2Rの場合――。



 「なぁなぁチンク姉ぇ、久し振りに稽古つけてくれる約束しただろ!」

 「分かっているよ、ノーヴェ。だからそんなに引っ張ってくれるな、私の体が引き摺られているではないか」

 「チンク姉は小さいッスからね~。いつまでも子供みたいで可愛いッス」

 「ウェンディ、あんまりチンクをからかうのはいけないよ? ノーヴェだって、チンクは出所してから働き詰めなんだから我儘は言っちゃダメだからね」

 ナンバーズ更正組の長姉であるチンクを引っ張るノーヴェとウェンディ、そしてそれをイノーメスカノンの手入れをしながら見送るディエチ……ここ最近は見掛けなかった彼女らN2Rのいつも通りの日常がそこにあった。基本的に非常時出動などが多いN2Rはこうして非番である事が多く、それを機に久し振りにチンクから直接稽古をつけてもらおうと管理局の訓練室へと向かおうとしている最中だった。

 玄関で靴を履き、取り付けの掛け鏡で身嗜みを確認、そしていざドアを開けて外に出ようとした時――、

 「なぁノーヴェ、最近何かあったのか?」

 「……どうしてさ?」

 「いや……何か朝から気分が悪そうに見えてな……」

 チンクにそう言われて思わず返答が数瞬遅れてしまったノーヴェ……幸いにも姉に背を向ける形で立っていたお陰でその表情までは窺い知れなかったが、当のチンクはその僅かな反応を見逃してはいなかった。だがあえて口にはせず、自分の妹の出方を見守った。

 「……別に何も無いってば。あたしは元気だから全然心配無いよ、そうだろ?」

 「…………そうか、どうやら私の思い過ごしだったみたいだな。だが何かあればすぐに姉に相談するのだぞ、良いな?」

 「……うん、分かってる」

 返答はいつもより弱々しく、いつもの覇気はどこかへ消え去ってしまっていた……そんな状態のノーヴェを大丈夫だと思える要素は少々心許なく、自分の居ない間に何かがあった事を容易に想像させた。だが必要以上に意固地になり易い妹の事を想ったチンクはノーヴェの方から心を開く事を期待し、今は深く追及しない事にしたのだった。いつかは自分から話してくれる……そう信じながら。

 と、ここで――、



 ~♪ ~♪ ~♪



 「ん? すまんな」

 着信のメロディを聞いたチンクが自分のポケットから携帯電話を取り出した。彼女の場合、掛けて来る人間によって着信音設定を使い分けている為に画面を確認せずとも誰からのモノなのか把握出来るようになっており、今の送信主は家長のゲンヤからであった。

 「はい、チンクです。……はい……はい……了解しました」

 会話をしながら雰囲気が固くなって行く姉の姿に、ノーヴェとウェンディが掴んでいた彼女の服の裾を離し、そして部屋で武器の手入れをしながら聞き耳立てていたディエチも何も言わずに立ち上がった。その両手にしっかりとイノーメスカノンを抱えて……。

 やがて用を聞き終わったチンクは携帯を仕舞い込むと――、

 「さて、予想出来ていると思うが、仕事だ」










 休日の過ごし方。自称『腐れ縁』とその友人の場合――。



 「正直ね……スカリエッティがあんたの足を治してくれるなんて万に一つも予想してなかったわ」

 地上本部の中庭をゆっくりと歩いて目の前の友人に語りかけるは、元機動六課フォワード部隊四人組のリーダー役でもあったティアナ・ランスターである。治らないモノとばかり思っていた親友の両足が復活するやも知れないと聞き、彼女は誰よりも驚き、誰よりも安堵し、そして誰よりも嬉しく感じていた。始めは手術に関わったのがあの変態博士だと聞いて内心ギョッとしたが、ちゃんとマトモな姿で帰って来たので安心はした。

 ……のだが、どうにもスバルの調子がおかしいのだ。最初は自分の姿を見るなり飛び付かんばかりに興奮していたのに、時間が過ぎるごとにそれが嘘だったようにいつもの元気が消え去って行くのだ……そればかりかあの万年食い意地張りっ放しのスバルが、買って来た土産(もちろん食い物)にも全く反応を示さないと言うのは天と地が引っ繰り返っても有り得ないはずなのに、「後で食べる」と言った時にはもうこちらが気絶するかと思ってしまった。細胞再生手術による一時的な影響か何かなのだろうか? そう考えて気分でも悪いのかと訊ねたところ……

 「別に……そんなことないよ」

 伊達に長い事付き合って来た訳では無いので分かるが、こちらが話し掛けていてもそっちのけで天を仰いでいたり、10秒に一回の割合で溜息をつきまくる人間のどこが大丈夫なのか……。良く見れば顔色だって優れないし、ひょっとしたら足を無くしていた頃の方がよっぽど機嫌が良かったのではにか。

 (何かあった? でも何が? いっつも能天気なスバルがこんな…………でも、ボケっとしてるだけだから、そんなに大したコトにはなってないのかしら……)

 取り合えず、何か話を振らなければと思ったティアナは、手術前にスバルが良く話してくれていた『友人』について聞こうとした。最初は彼女のマトモな男友達が出来たことに少なからず驚きはしたが、自分達はもうすぐ20歳……かつての部隊長三人がまるで男気が無かったことを思えば自然の摂理なのかも知れなかった。キャロにエリオが居るように……自分にヴァイスが居るように……。

 「あんたさぁ、手術のことってその友達に連絡したの?」

 「え!? あ~、まだ話してない……」

 「はぁ? あんたねぇ、そうやって雑把にしてると、そう言う奴はさっさとどこか行っちゃうんだから。逐一コンタクトとっておきなさい」

 「えぇ~! 大丈夫だよ、そんなに細かくしなくったって、トレーゼは気にしたりしないってば。その内また見舞いに来てくれるし、その時に言えば良いよ。…………多分、その内に来てくれるから……」

 名前は今初めて知った……と言うか、随分懐いているようだ。彼女が人見知りしないのは今に始まった事では無いが、今まで男性に対してここまで懐いたことがかつてあっただろうか? いやあったにはあったが、ここまで柔らかい雰囲気を纏っていた事は無かったはず。過去にも六課の職場にはエリオを始めとする男性陣が居たには居たが、そのどれもが『知り合い』程度にしか収まっておらず、少なくともプライベートにおいてまで親しくした者は居なかった。そんな彼女がこれ程に……これじゃあまるで――、

 「あんた……そのトレーゼって人の事――」

 「大変だティアナ!!」

 ティアナの耳に聞き覚えのある声が聞こえ、彼女が声の方向を見やるとヴァイスが血相を変えてこちらに疾走しているのが見えた。いつも飄々としている彼がここまで慌てているのは余程の事があったのだろう……。

 そして案の定――、

 「例の質量兵器の闇取引した連中が尻尾見せた。事件だよ、それも殺しのな!」

 嗚呼やはりな。自分の担当していた闇取引事件の小組織がこの街の界隈で良からぬコトをしていたのは知っていた……だが、決定的な物的証拠を押さえる為にワザと泳がせておいたのだ。念の為明記しておけば、奴らを野放しにしておいたのは担当官の彼女の意思ではない、むしろ彼女は組織の検挙を後回しにしていた上層部に何度も要請していた方だ。コトが大きくならない内にとあれだけ言ったにも関わらずこうして事件が起こってしまった。それも殺しとなれば尚更だった。

 「ヴァイス陸曹、私はこれから現場に急行しますのでスバルをお願いします」










 午前11時00分、クラナガン中心街のメインストリートにて――。



 「……………………」

 歩きながらファーストフードを口に入れると言うスタイルはこの文明社会ならどこでも有り勝ちな光景だ。ハンバーガーに始まり、売店のアイスクリームからスナック菓子、湯を入れてから三分で食事可能なカップ麺に至るまでの食の殆どが時間を掛けずに済ませようとする方向に進んでいるからだ。一食毎の栄養についてはともかく、初めてそれらを発明して食した者は誰もがその低価格と時間と味の魅力に魅せられたに違いない。ここミッドはもちろん、地球の歴史においてもファーストフードは電化製品と並んで日常的文明の利器なのは明白だった。

 だが、幾ら低価格でサイズも手頃なモノとは言え、まさかそれを一度に十数個も買う人間は居ないはず……

 だと思っていたら実は違っていた――。

 「…………完食」

 トレーゼの片手に握られたどう見てもLサイズの紙袋の中にはバーガーの包み紙が20個分は突っ込まれており、明らかに彼一人でそれらを食べ切った事を暗に示していた。そして今最後の一個を胃袋に収めた後、その紙袋を拳大にまで丸めると高圧電流で灰にして風に流した。戦闘機人はその圧倒的戦闘力を振るえる反面で、内部フレームや増強筋肉を動かす過程で常人よりも余計にカロリーを消費してしまうので常にその食事量が半端ないのだ。特にナカジマ姉妹が大食いなのは彼女らが最初期に製造された所為でカロリー消費が最新式であるナンバーズと比較しても多いからであろう。まぁ、彼の場合でも充分多いのだが……。

 「……さて、セッテの訓練の後で、帰るか」

 様々な人々が行き来するこの道をトレーゼはまるで他の人間に認知させないようにして自身の存在感を希薄にし、常に感覚の外側に自分を置いていた。日常的にこうすることで戦闘での隠密行動の糧にしていると言う訳だった。案の定、道行く人間は誰も彼の事を気にも留めない……毒々しい髪と猛禽類の如き金色の瞳、真冬だと言うのに純白の服装などと言った目立つ出で立ちをしているにも関わらずだ。誰も彼に気付かない……誰も……

 そうして彼が無心のままメインストリートから逸れた路地へと足を踏み入れようとした、その時――、

 「マジかよ! 殺人!? どこでだ!」

 ふと、彼の足が止まった。この完全管理社会であるミッドで殺人……それも白昼堂々とはかなり珍しい事態であった。耳に飛び込んで来る声を聞くと、どうやら最近になって活動を始めたらしいとある犯罪組織の連中が局の治安課に追い詰められ、逃走用の車を街の人間から強引に奪い取ったらしい。大方殺されたのはその車の持ち主だろうが、行き掛けの犯罪者に車を盗られてその上殺害されるとはなんとも不運な人間だ。

 だがトレーゼは自分には関係の無い事だと割り切り、すぐさま踵を返して立ち去ろうと――、



 「聞いたか!? 殺されたのって親子連れらしいぞ。女の子が血まみれで――」










 「……………………」

 はっきり言って『これ』は一般人には刺激が強すぎた。事件が発生してから時間が経っていないのか、目隠し用の青いビニールシートなどが全く張られておらず、哀れな二つの骸は周囲の人間達の晒しモノへと成り下がってしまっていた。

 天頂からの陽光を受けた黒いアスファルトの上を流れる大量の鮮血と頭の部分からはみ出ている臓物とは別の物体……血液が全然乾いていない所を見ると、本当についさっき殺されたのだと改めて認識させられる。二人ともうつ伏せになっているので正確なことは分からないが、出血量から銃痕はおよそ二発……どちらも頭を撃ち抜かれていた。即死だった……断末魔の叫びなんか上げられるはずもなく、それはその親子が二度と互いを呼び合う事も出来ないことを残酷に意味していた。

 「……………………」

 治安課の人間達がやって来た。進入防止用のテープを張り巡らし、大きな青いビニールシートを天蓋のように広げて二人を覆い隠す……

 だが、その瞬間にトレーゼは見た――否、見てしまったのだ。

 死してなお二度と離すまいとして互いに固く握り締められた右手と左手――、

 その二人が親子であることを示している栗色の髪――、

 そして……女の子の左手に握られている食べ掛けのスティック状の食べ物――、



 それはトレーゼが渡した物だった。



 「……………………っ!!!」

 トレーゼは自分の脳裏を何か得体の知れない強い刺激が一気に駆け抜けるのを感じた。『それ』は瞬時に脳から脊髄を伝って全ての骨格、血管、内臓、筋肉、間接、器官へと侵入しては彼の神経を焼き切らんばかりの熱で犯し始めたのだ。脳裏では自分に嫌に懐いて母と会うまで離れてくれなかった少女の顔が激しくフラッシュバックし、混乱する記憶情報の奔流がピークに達したその瞬間――、

 彼の視界は真紅に染まり、意識はブラックアウトした。

 最後に彼の意識が捉えたのは自分のストレージデバイスの無機質な電子音声だけだった。

 『Confirmed the normal operation of the “Konshidereshon Console”.(コンシデレーション・コンソールの正常作動を確認)』

 次の瞬間には彼の姿は何処にも無く、逃走者達が奪った車のタイヤ痕だけがそこにあるだけだった。










 同時刻、地上本部ゲストルームにて――。



 スカリエッティの休日の行動は大抵睡眠と言う風に相場が決まっていた。元々は研究漬けになっていたのを見かねたウーノが彼に勧めたのが始まりだったのだが、今ではそれがすっかり習慣となり、休日と定めた日には丸一日中眠っている事も珍しくは無かった。

 だが、少なくとも今現在に限って言えば彼は全く睡眠を摂らずにいた。画面に映された映像に穴が開く位にまで無言で黙々と見つめ続けており、かれこれ一時間はその状態がキープされている状況だった。友人からもらったとか言うアニメを見ているのではない……映像はつい昨日に自分の要請で現地に赴いてくれた元隊長陣三人の戦闘記録であり、今見ているそれはフェイトのバルディッシュから抽出した映像記録だった。現地での交戦記録が事細かに記録されていて、もちろんそこには脱獄したクアットロとそれを手引きしたトレーゼの姿も見えていた。やがて戦闘が開始された所まで見ると、それを早送りで最後まで見て、また巻き戻しては最初からと言った具合に、それらを数回以上も続けていたのだ。

 「…………………」

 映像を停止すると、彼はまるで『考える人』のように固まって思考し始めてしまった。いや、思考自体は観賞している途中から始まっていたのだろうが、今度はされにそれに集中する姿勢に入ったのだ。しばらく何も言わずにずっと押し黙るスカリエッティ……それを傍らで静かに見守るウーノ……。

 やがて長い思考から帰って来た彼はふとウーノの方を見やると――、

 「ウーノ、気付いているかな?」

 「はい、ドクター」

 「やはり私の思い込みではないようだな。…………



 ここに映っているのは本当にトレーゼなのか?」



 スカリエッティの指差したモノ……それは、最後の瞬間にフェイトを吹き飛ばすトレーゼの鉄面皮の横顔だった。










 30分後、廃棄都市区画の一角に存在するとある廃ビルにて――。



 これが上手く行けば後はどうとでもなる……そう思っていた。クラナガンとは縁もゆかりも全く無い管理世界のスラムから出て来た自分は常に金に不自由していた、働けど働けど我が暮らし何とやらと言う奴だ、それ故に一攫千金を狙っていなかったと言えば嘘になるだろう。だからこんな質量兵器などと言う物騒極まりないモノに関わったのだ……製造・個人所有・売買など質量兵器に関する全てが御法度とされているこの管理世界では闇取引で得られる利益は同じ重さの貴金属の10倍以上にもなり、上手く行けば一生遊んで暮らせるだけの資金が転がり込み、自分は伸し上がれるはずだった。

 だから一週間前に知り合ったばかりの見ず知らずの同じ考えの奴らと組んで行動を起こしたのだ。互いに素性も経歴も何も知らない者達が八人……そう言った裏のネットワークを通じて知り合い、即席での取引計画だった……正直言って成功するかどうかさえ不安だった、上手く仕入れ先から銃器を受け取れたのが奇跡だったとさえ思える。

 だが、所詮はそこまでの話……取引を嗅ぎつけた管理局の治安課のヤサ入れが始まって事態は急転した。先にブツはこの本命のアジトに隠しておいたから良かったものの、自分達は逃げるのに精一杯……途中で民間人から逃げ足用の車を奪おうとしたが抵抗に合ってしまい、自分は止めようとしたにも関わらず逆上した仲間の一人が発砲、親子共々地獄送りにしてしまった。

 ひょっとしたら、その時の報いなのかも知れなかった――、

 今自分の目の前に――、

 『紅い悪魔』が居るのは。

 「――――――――ッ!!」

 管理局の連中をどうにか煙にまいて逃れて来たアジトには先客が居た。冬だと言うのに真っ白な服とそれに負けない白磁の肌……見た事が無い、始めはこちらが売りつける取引先の人間が来ていたのかと考えられたが、次の瞬間にその予想は完全否定された。

 背中から生えた四枚の紅い羽根がその存在を人間かどうかさえ危うくさせたのだ。すぐさま危険を察知した仲間の一人が発砲した。立て続けに他の奴らも一斉に発砲、その得体の知れない『何か』を蜂の巣にするべく攻撃を開始した。飛び出した数多の銃弾は大半が当てずっぽうな場所へ飛んで部屋の壁に幾つか穴を開けたが、内の何発かの軌道はしっかりと対象の心臓と頭部へと一直線に続いており、このまま行けばその得体の知れないモノを殺す事は容易なはずだった。

 そう――、『はずだった』のだ。

 「――――――――」

 “それ”の右腕が一瞬消えたように見えた次の瞬間、自分の前に居た仲間の一人が無様に仰向けに倒れた。眉間に穴が開いている……銃痕だ、もちろん自分達が撃ったのではない、だが相手は銃を持ってはいない……どう言うことか?

 その疑問はすぐに晴れた。目の前の“それ”が右手を開いた時、五指の隙間から合計18発の弾丸が乾いた金属音を立てて床面に落ちて来た。以前どこかで聞いたことがあった……マッハ3で手を振れば銃弾ですら弾けると……ならばそれ以上の速度で振れば一体どうなるのか? つまりはそう言う事だった。

 「に、逃げ――!!」

 一番先頭にいた奴が本能で危険を察知したのか、背後に居る自分達に大声を張り上げながら振り向いた。しかし、そこから先の言葉は血の泡に消え果た……。

 「ごふ……! げぇぼっ!」

 こちらを振り向いたまま口から吐血してそのまま硬直する男の肢体……その腹から小腸の纏わり付いた“それ”の腕が突き出していた。発泡スチロールを貫いたかのように容易く人体を貫いたその腕はそのまま死体ごと持ち上がり――、

 地面に叩きつけられると同時に木端微塵に粉砕して周囲を赤く染めた。辺りに血液はもちろんの事、黒く変色した内臓や頭部に収まっていたはずの皺だらけの脳ミソ、バラバラに砕け散った肋骨と脊髄などまでが天井にまで飛び散り、辛うじて繋がっていた手先の指がまるで虫のように小刻みに痙攣していた。“それ”は叩き付けた時の衝撃で半分だけ残っていた頭の下顎の部分を拾い上げると……

 パキョ……!

 生卵を割るのですらもう少し凝った音で表現できるだろう……とても人体の一部を破壊したとは思えない軽い音が室内に虚しく響く。開戦からおよそ二分で一人目を仕留めた“それ”は無造作に死肉の塊から折れた一本の肋骨を拾い上げ――、

 二人目の首に投げ刺した。

 「ぐぇ……!!?」

 首に穴が開いただけでは人間は中々死なない、その事を熟知していたのか“それ”は瞬間移動でもしたかのような高速直線移動によって二人目に詰め寄ると、両腕を鷲掴みにし、関節ごと引き千切った。肩の断面から溢れ出た血液が“それ”と自分達の体を汚して行く……。

 「……あ……あぁ……!!」

 「――――――――」

 だがまだ絶命はしない……それを確認し、“それ”は大きく拳を振り上げて――、

 一人目よりも派手に叩き潰す! 一瞬にして頭部から股間にかけて人体を無残に『潰し』た後――、

 「――うう――――うううぅううぅうぅうううぅウウウウッ!!!!」

 天を仰ぎて息を吸い込む――外気を肺に吸収していくと背中の四対の羽根がさらに大きく膨れ上がり、羽根の形状に収まらなかった高濃度魔力が室内どころか建物全体を真紅の粒子で覆い尽くす。ただそれだけの行為なのにその場に居る全員がその禍々しくも神々しい姿に目を奪われ、地獄の悪鬼の如き唸り声に足が竦み、その圧倒的恐怖に全員が――、



 「ウォオオオオオオオオオオオオオォオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!!」



 今、この場に居る事を後悔した。

 後に聞こえたモノ……それは――、

 抵抗の銃声――、

 断末魔の叫び――、

 コンクリートの壁を徹底的に破壊する轟音――、

 肉と筋を無理矢理に引き千切った断裂音――、

 骨が砕け、脳漿と血液に塗れた半液状の臓物が床にブチ撒けられる音――、

 そしてほんの少しの静寂の後に……

 「………………あ……ああぁ!! あああああああぁああぁぁぁぁっ!!!」

 骨と臓物の入り混じった血まみれの空間で一人の戦闘機人の哀しい咆哮が最後となった。

 その手は八人分の血で染まり、雪景色を切り取ったようだった服までもが全て赤く変色していた。顔面に飛び散った飛沫が重力によって垂れ下がるのを拭いもせず、彼は慟哭する……顔を覆い、頭を掻き毟り、血の池に崩れ落ちても叫び続けた。

 その姿は獲物を仕留めた肉食獣でもなく――、

 無事に狩りを終えた狩人でもなく――、



 まるで神に懺悔する罪人そのものだった。










 『Emergency shutdown of the console “Konshidereshon Console”.(コンシデレーション・コンソールの緊急停止を確認)』










 「…………管理局が、来たか」

 遠くから聞こえて来る複数の車両の音がトレーゼの耳朶を打つ。窓を少しだけ開けて確認すれば遠方の道路をこの区域を担当している陸士部隊の車両が向かって来ているのが見えた。このまま長居していても得は無い……そう判断した彼は侵入して来た別の窓から身を乗り出し、飛行を始めた。血染めの服からまだ乾いていない分の血液が滴り落ちる……それを一向に構う事無く、彼は淡々と目的地まで一直線に飛行を続けた。

 ふと、背後のビルを見やる。そして自分の行動を顧みながら彼はこう呟くのだった。

 「トーレ……貴方なら、どうしたのだろうな……」



[17818] 聖王のバビロン捕囚
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/06/06 01:09
『新暦78年11月18日――それは聖王教史上最悪の大事件が起こった日である』

                                   ――――カリム・グラシアの手記より抜粋。









 「酷い匂いですね。何人殺しました?」



 「……八人」



 「かなりの数ですね。血液独特の鉄分の臭気が鼻に突き刺さります」



 「そんな事は、どうでも良い……明日の、作戦で、話がある」



 「作戦? どう言う意味ですか?」



 「とぼけるな……お前にとって、俺がどう言う存在か、しっかり理解している、はずだ。その為に、わざわざ、教えてやったのだ」



 「……………………」



 「期日は明日……場所は、“お前は”St.ヒルデ魔法学院……作戦開始時刻は、11:00……。回答を、要求する」



 「……それはどうしてもイエスと答えなければならないのですか?」



 「強制はしない。お前が、イエスと言えば、俺はここから、武力行使で連れ出す……。ノーと言えば、今はそうして、安穏としていると良い」



 「今は、ですか。含みのある言い方ですね」



 「どうとでも言え。こちらにとって、お前が、重要な戦力の、一つであることに、変わりは無い。答えは、Yes or No……どっちだ」



 「ワタシは――」










 11月18日午前6時00分、地上本部内の局員宿舎にて――。



 「……それで、現場状況はどのようなモノだったんですか?」

 はやての通話の相手……それは昨日の昼間から新たに発生した二つの殺人事件の捜査に駆り出されたゲンヤだった。昨日起きた二つの殺害事件……一つは最近になって活動を始めていた闇取引の小組織が逃走用の車両を民間人から強奪、その際に親子連れ二人を殺害したこと。そしてもう一つは、その組織のアジトらしき廃ビルの内部でどう言う訳かその組織の連中が全滅していたことだった。

 はやて自身は捜査に加わっていない為に現場の様子がどの様なモノだったかについては知り得ないが、実際に調査に加わった部下や同僚などが言うには「地獄の光景だった……」と言っていた。それ以降幾ら聞き込んでもその者達は固く口を閉ざしたまま彼女の問いに答えようとはせず、食事さえも摂ろうとはしなかった。彼女も取引事件に目を付けていたこともあって事の顛末が気になって仕方が無かったので、こうして担当者でもあったゲンヤに直接聞こうとしているのだ。

 だが――、

 『…………あー、その、何だ……アレは何て言えば良いのやら……』

 珍しく歯切れが悪いゲンヤにはやては通話口の前で首を傾げた。おかしい……昼間の治安課の面々と言い彼と言い、本当に何かあったとしか思えない。

 『…………そのな、上手く言えねーんだけどなぁ……お前さん、ケチャップとミートソースをごちゃ混ぜにしたことってあるか?』

 「いえ、ありませんけど……?」

 ケチャップはオムレツ、ミートソースはスパゲッティなどにしか使った事が無く、少なくともそれを同時に使う料理をした事が無かった。

 『その混ぜ込んだ奴を部屋一杯にブチ撒けるんだ。壁や天井にも目一杯塗り込んでな』

 「そんな事したら部屋がベトベトの真っ赤っかになりますよ」



 『その赤い部分が全部血だって言ったらどう思う?』



 「……………………」

 空気が凍りついた。トマトの酸味とミートソースの甘みに満ちた空間が一瞬にしてドロリとした真紅の生臭い死臭に切り替わる恐怖……想像を絶するモノがあるのは当然だろう。だがそれも所詮は想像……直に見て来たゲンヤ達に比べればどうと言う事は無い。

 『最悪の現場だった……局勤めし始めてから長い事この職に就いて、今まで色んな殺しの跡に携わってきた……。バラバラ殺人なんてのはしょっちゅうだったし、酷い時なんかだと体の一部がどっか行っちまってるなんて事だってあった。でも……でもよぉ! アレは酷過ぎる! 殺害現場なんてもんじゃねぇ、“破壊”だ!』

 破壊……一言で言ってしまえば簡単だが、その実は恐ろしいことこの上ない。

 『壁の欠片だと思って見れば骨だった……ボールみてぇなのが転がってると思いきや脳ミソだった……割れた窓ガラスに何が刺さってたと思う? 腸だ、腹から思いっきり抉り抜いた内臓塗れの蛇みてぇな腸がブッ刺さってた。腕とか脚とかなんかも原型保っちゃいなかった、虫みたいにピクピク動いてよぉ……』

 「…………同行して行ったN2Rも現場に?」

 『あんなもの娘達に見せられる訳が無ぇだろ。締め出した後でそのまま家に帰したさ……お陰でこっちは向こう一ヶ月は肉料理が食えそうにない。特にソーセージはな……』

 「御愁傷様です。それで、捜査方針としてはどのように?」

 『人体の破壊度や室内の損壊具合から考えて、何らかの小型の魔法生物か何かが大暴れしたってのが妥当なんだがな。そうでなけりゃあの惨状は説明がつかねぇ』

 「その言い方だと本当は違うんですね?」

 『残留していた魔力波長を調べて見たが、あれは間違い無く人間のモノだった。…………ところでよぉ、話は逸れるんだが……お前さんは魔力測定器って知ってるよな? リンカーコアの容量計ったりする時に使うあれだ』

 「はい? えぇ、まぁ一応は……」

 はやては昔見た事があったいやに古臭いあの機具を脳裏に思い浮かべた。

 『あれで室内にこびり付いたままの魔力を測定したんだがな…………お前さん、あの測定器の針を振り切らせた事はあるか?』

 「入局したての頃にフェイトちゃんとなのはちゃん達と一緒にふざけて針を限度一杯まで振り切らせた事は一回だけありましたけど、今のは昔と違って測定容量も跳ね上がってますから……。もしかして、振り切ったとかですか?」

 もし仮に測定器の針を振り切らせたとなれば、その場に充満していた魔力は半端ない量と濃度だったに違いない。例えるなら、核兵器投下直後の爆心地で放射能濃度を計るようなものだ。

 しかし――、ゲンヤの言葉ははやての予想の遥か斜め上を行っていた。

 『ぶっ壊れた……スイッチ入れた瞬間にボンッってな』










 午前7時15分、海上の孤島地下の隠しラボにて――。



 「復唱。作戦開始時刻は?」

 「11:00ですわ」

 「作戦ポイントは?」

 「St.ヒルデ魔法学院」

 「作戦対象は?」

 「“聖王の器”、高町ヴィヴィオ」

 「作戦遂行における、障害は?」

 「ブッチ殺して罷り通る」

 「この作戦の、意義は?」

 「全ては創造主スカリエッティの為に」

 三年振りにシルバーケープを身に纏ったクアットロは見事なまでに御機嫌な様子でクルクルと回って久し振りの感覚に酔い痴れていた。対するトレーゼの方も防護ジャケットの上に同じくシルバーケープを纏い、四肢に漆黒のキャリバー武装を装着していた。

 「それにしても、昨日お兄様が血塗れで帰って来た時には本当に驚きましたわ。よっぽど素敵な方法で殺して来たんですのね。今でも血の匂いかプンプンしますわ」

 「……………………」

 「あらぁ、何にも喋ってくれないなんて悲しいですわ。それで作戦の事なんですけど、一つだけよろしいかしら?」

 「何だ?」

 「作戦開始時刻が昼頃と言うのはどうしてかしら? “聖王の器”を確認してからすぐではイケナイのですかぁ?」

 「学院に、人間が来る時刻は、人によって違う……11:00なら、大人数を利用して、混乱を引き起こせる」

 「あぁそう言うことですのね、納得♪ それで……“聖王の器”に関しては『生死問わず』でよろしいのかしら?」

 「却下だ、“聖王の器”は、生存しているからこそ、意味を成す……死体で持ち帰った場合、お前ごと、『処理槽』行きだ」

 処理槽……その単語が兄の口から発せられた瞬間、クアットロの表情に明白な焦りと恐怖が垣間見えた。この研究施設で生まれた上位のナンバーズしか知らない禁忌の場所……直接出向いた事は無いが、あのドゥーエですら心底恐れて絶対に近寄らなかった場所だと聞いている。

 「……じょ、冗談ですわよ、冗談! ちゃんと生きたまま連れて帰りますってば! ただ……」

 「……何だ?」

 「無事に連れ帰った暁には、“聖王の器”の世話を私に一任してくださらない?」

 「勝手にしろ」

 この作戦は計画の要と言っても過言ではない……これが成功すればそれで良し、失敗すれば自分達の計画進行率はガタ落ちとなりこの先上手くやれないだろう。だが膳立てはした、あとは実行するだけなのだ。

 「そう言えば、お兄様が言ってらした『もう一人の作戦要員』って言うのは誰でしたの? 一応期待してたのですけど……」

 「……予定が、変わった。作戦には、参加しない」

 「あら残念。使える奴かどうか見たかったですのに」

 「……少なくとも、お前よりかは、使える」

 「随分と買っているんですね。ちょっと嫉妬」

 そう言いながら彼女は背後からトレーゼの首に腕を回した。扇情的に誘惑しながら熱い吐息をその頬に吹きかける。

 「……この作戦の、成功失敗の如何は、全てお前に、掛っている。期待して、いる」

 「はぁい♪ 乞うご期待ですわ、お兄様」










 午前9時30分、St.ヒルデ魔法学院にて――。



 学院付き聖堂で行われる冬の第二学芸発表会……わざわざ一週間空けてこう言う行事を行う理由は定かではないが、クリスマスとイブを分けて祝うようなものと同じだと思ってもらえれば良い。先週は古代ベルカ賛歌がメインだったのに対して、今回は“ゆりかご”を駆って古代ベルカの地を統一した最後の王である“聖王女”の英雄譚を描いた劇を行っているのだった。9時丁度から始まったこの演目はざっと二時間は続く……二部構成となっており、最初は若き聖王女が国交の盛んだった国へと留学した際に自分と同じベルカ王である青年、“シュトゥラの覇王”と親しくなる過程を描いており、第二部で死地へと赴こうとする聖王女をその青年が必死で行かせまいとする涙を誘う物語である。この物語の一番の見所は何と言ってもクライマックスで聖王女と覇王が互いの意思の食い違いから戦う場面である。王としての責務を果たしに死地へと向かう聖王女と、それを必死で食い止めようとする覇王……その当時の記録や文献は殆ど残されておらず、拳を交えた両者がどうなったのかを知る者は居ない事が相まって、この物語は一部聖王教の信徒からは悲恋モノとして語り継がれている。

 ちなみにこの演劇、図ってか図らずか聖王女役がヴィヴィオと言うことになっており、本日ここにこうして観劇に来ている母親のなのはとしては本当に喜ばしい限りだった。

 のだが――、

 「――――――――」

 木製の長椅子に座っているなのははここへ来た時から落ち着かなかった。娘と一緒に自宅を出た時も、連れ添いのユーノに手を引かれて敷地へ入って来た時も、常にその視線は周囲を隈なく捜索していて一定の方向に留まる事を知らなかった。それもそうだろう、一週間前にここで偶然見かけた少年……つい二日前には生きるか死ぬかの瀬戸際にまで追い詰めたあの戦闘機人がまたここに来るやも知れないのだ。一応局に許可を得てレイジングハートは携帯してはいるが、大脳をやられて運動能力と平衡感覚を大きく欠いている状態では護身用にもならないだろう。そしてこの危機を誰かに伝えようにも声を出せない、ペンも握れない、念話も封じられていると言うこの絶望的状況では誰にも自分の持つ情報を伝える事など適わなかった。仮に伝えられていたなら局から増援の数人くらいは呼べたのだろうが……。

 「なのは……」

 流石にここまで来ると隣のユーノも気付くのか、そっと優しく彼女の肩を抱き寄せた。親しい人間を身近に感じると人は精神的に安らぐ……その言葉の通りに、ユーノの男性らしからぬ甘い体臭が鼻腔を刺激すると同時に極限に緊張していたなのはの体が徐々に落ち着きを取り戻して行った。やがて完全に緊張が解された彼女は隣に居る世界で最も安心出来る存在に体を寄せた。

 「大丈夫だよ、何も起きやしないさ。いざと言う時にはシスター・シャッハやセイン達だっているんだから……ね?」

 「――――(コクッ)」

 そうだ、何も心配する事は無い。非戦闘型とは言えセイン、オットー、ディードの三人は最新鋭戦闘機人『ナンバーズ』、更にこちらには聖王教会が誇る陸戦最高戦力である武装修道女のシャッハ・ヌエラも控えている。彼女に限って言えば今ここに来ている主人のカリムの護衛と言う仕事があるが、有事の際には頼れる味方になってくれるはずだ。そうなのだ、何も心配する事なんか無い、全て杞憂なのだ。

 「――――」

 緊張が解けた事で昨日殆ど眠っていなかった事を思い出した彼女は、まるで思い出したかのような眠気に襲われ、そのまま目を閉じた。





 ノーヴェは周囲を忙しく見回す。まるで何かを探すように必死に。いや、実際に探していた……何かではなくて『誰か』をだが。

 「…………やっぱ居ねーか」

 やがて目当ての人物が居ないと分かると、隣のチンクに注意される前に彼女は大人しく首を前に向き直した。先週来ていたから今日も来ているのではないかと思ったのだが……どうやらトレーゼはここには居ないようだった。まぁもっとも、見た感じ気紛れそうな彼に規則性があるのかどうかすら分からないのだが……。

 それにしても、ここへ来た始めになのはに出会った時には驚いた……見た感じでは何一つ異常が無いように見えたのに、平衡感覚を失っている所為で一人ではまともに歩く事が出来ず、休暇をもらって付き添いに来ていた司書長に手を引かれている姿が痛々しかった。後ほどゲンヤに聞いてみたところによると、昨日の戦闘の際に敵方の策略に嵌ってしまい、大脳及びその他の神経系統を弄られたのが原因らしい。彼女以外にも昨日の戦闘で重傷を負った者は多い……はやての右眼は義弟であるカインから聞いた事によると、かつてのラグナ・グランセニック同様に眼球の形状は戻せても破壊されてしまった視覚細胞の復活は不可能だとのこと……これから一生彼女は隻眼のままで生活する羽目になるらしい。だが三人の中で一番重体なのは他の誰でもなくフェイトであった……昨日の間ずっと音沙汰が無いと思っていたのだが、あれは医療センターの集中治療室で一日中手術をしていたからだと言う事が今日になって分かった。頭部裂傷とそれに伴う出血……長時間水没していた事による酸欠と体温の低下……そして極めつけは何と言っても魔力吸収によるリンカーコアの衰弱…………それらの要素全てが彼女の肉体を完膚無きまでに打ちのめしていた。ミッドの先進医療技術に掛かれば裂傷ぐらいの再生はワケ無いが、問題はリンカーコアの方である……衰弱の度合いを計測したところ、退院したヴェロッサが陥っていたものよりも酷いことが判明した。今こうしている間にも酸素吸入器と全身に標本のようなチューブを差し込んだ状態でようやく命を繋いでいると聞く。

 正直、ここまで来ると一時は妹の為に燃え盛っていた報復の炎も恐怖が勝ってか消沈してしまうものだ。実を言えばノーヴェはなのはとフェイトと手合わせをした事が無い……よって彼女らの実力がどの程度のモノなのかを正確に知っている訳ではないのだが、ナンバーズ砲撃担当のディエチと真正面から撃ち合って高町なのはと、地下ラボにてスカリエッティの護衛を任されていた戦闘型最強のトーレとセッテをたった一人で退けたフェイト……これだけ見ても彼女らが強いかどうかについての想像は難くない。そして、その二人がいとも簡単に返り討ちに合ったともなれば事情は違って来る……これはもう単純な強弱の話には収まらないのだ。

 だがまぁ、ここでそんな事をいつまで考えていてもキリが無い……今はヴィヴィオが主役の劇に目を向ける。ちなみに今日のナカジマ家からの観客はほぼ先週と同じ面子である。先週欠番だったチンクが今ノーヴェの隣に居り、代わりにギンガとカインが居ないと言う光景だった。カインはゲンヤに代わって先日の取引組織殺害現場を洗っており、ギンガは例によって入院中……ではなく、実はとっくにセンターから勤務復帰許可をもらっており、今はセッテの教習担当官として更正施設に出向いている。三年前と言い今回と言いどうして彼女がナンバーズの更正プログラムの推進役に抜擢されるのかと言うと、彼女が『社会に適合した戦闘機人』であることが大きく起因している。更正を受けて社会に順応する為には同じ立場かそれに近い者が適任であると言う考えが強く、よってプログラムを受けるナンバーズと同じ戦闘機人であり尚且つ社会に適合している彼女が抜擢されるのだ。よって今日のナカジマ家は五人での観劇となる……二度も揃って家族全員が来れなかったのは正直言って寂しいものだ。

 それにしても、先程周囲を見回している時に見えたなのはの顔……以前ゲンヤに第97管理外世界のとある神話に『鬼子母神』の話を聞いた事があったが、まさにあの事を指しているようだった。緊張で大きく見開かれた目に思わずこちらが身震いしてしまった程であった。血は繋がっていないとは言え、やはり愛娘……心配なのは当然か。

 「…………ん……」

 いけない、乾いた冬特有の気候で快晴の所為で窓から降り注ぐ陽光が眠気を誘う。そう言えば朝の天気予報ではクラナガンや北部ベルカ自治領を含む広域で晴れの予報だった……は…………ず……。










 午前10時10分、地上本部の個人事務室にて――。



 右目を包帯で巻いた八神はやてはずっと待っていた……昨日自分がセンターで診察と治療を受けていた時に発生した二つの事件、それに関する報告を。先に起きた親子連れの事件の方は元々取引組織を視野に入れていたティアナが、一方の惨殺事件の方はあの区域の哨戒を担当している陸士108部隊所属の捜査主任であるラッド・カルタスがそれぞれ担当している。昨日の時点では殺された数と死亡推定時刻ぐらいしか判明しなかったが、詳細はもうすぐ……

 と、ここで――、

 『八神二等陸佐、陸士108部隊所属ラッド・カルタス二等陸尉より御報告申し上げたいことがあります』

 ホログラムウィンドウが開いて見慣れた顔が映り込む。

 「どうぞ」

 『はい。現場で発見された残骸……もとい、遺体検証の件ですが、現場で回収された脊髄を調べたところによりますと、例の闇取引のメンバーであることが判明しました』

 なるほど、大量の血液と肉片が入り混じっている現場でどうやって遺体の身元を割り当てるのかと疑問だったのだが、脊髄と来たか。確かゲンヤが言っていた事によれば背骨はまるで大根のように綺麗に人体から引っこ抜かれていたと聞いていたが、まさか原型を保っていたとは思わなかった。

 『他にも、これを見てください』

 そう言って画面の向こう側でラッドが操作して別の画像を映し出した。……正直言ってこれは精神的にキツかった、人体のどこの部分とも分からない拳サイズの肉片が急にアップで映し出されれば誰だって胃の奥が疼く感覚に襲われるだろう。だが肝心の観点はそこではなく……

 「……この皮膚の表面にあるのって……」

 『お気づきになりましたか。御覧の通り、人の“指”の跡です』

 焼き立てのパンのように無造作に引き千切られている肉片の表面には何やら黒く変色した部分が残っており、それに沿って肉がめり込んでいるのだ。その黒い跡……誰がどう見ても人の指の形にしか見えない、サイズもピッタリだ。

 「これが?」

 『ナカジマ部隊長からお話は聞いておられると思いますが、ここに居る被害者達は全員が力尽くの腕力をメインで無残に引き千切られているのですが……始めはそれらの行為を篭手型デバイスを使用した筋力増強による犯行かと考えて捜査を進めていました。ですが……』

 「……?」

 『指の輪郭や表面の痣などに付着した物質を調べたのですが……どうやら犯人は素手で犯行に及んだものかと……』

 「素手!? デバイスとかの増強や無くって素手やて!?」

 それまで完璧な仕事口調だったはやての声がその事実を聞いた瞬間に裏返った。だってそうであろう、近接戦闘に特化したベルカ騎士の鍛え上げられた腕力でさえ鉄棒を引き千切ることは適わないのだ。デバイスを起動してでの魔力解放状態ならいざ知らず、魔力増幅器でもあるデバイスも無しに純粋な魔力のみだけでそこまで人体を破壊できることなどあるのだろうか?

 「…………付着していた物質からの身元は?」

 『垢などに微量に含まれる汗などからDNAを割り出してみましたが、少なくともミッド在住のどの人間のモノでもありませんでした』

 「犯人は違法滞在者の可能性有り……か。クラナガンからちょっと離れた所に行けばゴロゴロ居る人種やな」

 毎月何十人の違法滞在者が検挙されている事やら……。しかもそんな人種が成り上がったばかりの小犯罪組織の全員を惨殺するだけの動機が無い……案外この事件が迷宮入りするのは時間の問題かも知れなかった。

 と、またここで――、

 『失礼します、ティアナ・ランスター本局付き執務官です。昨日のメインストリート親子連れ殺害事件に関する報告があります』

 「どうぞ」

 ラッドとは別に開いたホログラムウィンドウにこれまた見知った顔が映る。どうやら親子連れの件が一段落ついたようだ。

 『身元を再確認したところ、地上本部に赴任して来ている職員の父親に会いに来ていたらしいです。たった今その人に直接確認してもらいました』

 「お気の毒に……。ドタマ撃たれとるから顔なんかまともに分からんのになぁ」

 『それで現場を洗っていた時に気になったモノがありまして……至急、確認頂きたく……』

 そう言ってティアナの方からも何やら画像が送信されて来た。ラッドと同じように朝から胃に迫るモノを見せられるのかと思いきや……

 「……何これ? なんかの食べモン?」

 出て来た画像は現場で回収した物品などを封入しておくタッパーだった。事件現場で回収される破片や物品を保存しておくあれであるのだが……そこに入れられているモノが問題だった。見たところによると何かのスティック菓子か何かみたいだった。食べている途中で殺された為か10㎝あるはずのそれの端が少し齧られており、銀色のパッケージには手の形をした血の跡がこびり付いていた。一見どこにでもありそうな健康食品にも見受けられるのだが……

 『お気づきになりましたか?』

 「あぁ……子供が食べるモンにしては色気が無さ過ぎる……それにパッケージの何処にも商品名が無い」

 確かにはやての指摘通り、そのスティック菓子を包む銀紙には本来同系統の食品に見られるような商品名や賞味期限などがまるで記載されておらず、明らかに子供が率先して食べたがるようなモノではないことは明白だった。少なくともはやてはこんなものを見た事は無い。

 『ミッド全体の食品会社を当たってこれと同じ商品が無いかどうかを調査しましたけど、どの会社も首を横に振りました……こんな商品は開発した覚えも無いし、予定すら無いそうです』

 「商標登録がされてない謎の食いモンか……殺されたその子には悪いけど、ようそんなん食べる気になったなぁ。毒とか無かったん?」

 『成分を調べた結果ですが、カロリーが異常に多い事を除けば至って普通の携帯食料でした。食品管理法に抵触するような化学物質は何一つ使用されていません』

 「ますます謎やなぁ~」

 昨日起きた二つの事件は分からない事だらけだった。街の真ん中で発生した親子連れの殺害事件……犯人は最近になって現れ出していた質量兵器の闇取引組織……だが二人も人間を殺してまで逃げ果せたそいつらは僅か数十分後にアジトで何者かに惨殺されてしまった…………何もかもが謎のままだ、前者はともかく後者はどう考えても人外の犯行としか思えない……。

 だが科学的検証では犯人は人間……気がおかしくなりそうだった。

 『あともう一つ気になったことが……』

 「?」

 『携帯食料のパッケージに付着していた指紋なのですが……“二つ”ありました』

 「…………二つ!?」

 『はい、二つです。正確に言えば“二人分”です』

 ――――ひょっとしたら、何かの光明かも知れない……この時はやてはそう直感した。










 午前10時30分、St.ヒルデ魔法学院の上空1000メートルにて――。



 「ふぁ~あ……暇ですわぁ~。暇は魔女を殺せる唯一の毒なんですのにねぇ」

 第二学芸会が行われている学院聖堂の遥か上空の足場の無い虚空に佇むクアットロ……三年振りに身に纏った紺色の防護ジャケットの上に羽織ったシルバーケープが冬の寒風になびかせながら、眼下の聖堂を睥睨するその姿はどう見ても悪意の塊にしか見えなかった。

 「さ・て・と♪ 作戦開始時刻まで迫ること30分前。これが成功すればお兄様に対する私の株も急上昇間違いなし……まさに! 流星に跨って急上昇ですわ!」

 と、ここで彼女は高度を少しずつ下げ始めた。学院の警戒システムではレーダーの効果範囲は上空3㎞まであるが、完全偽装能力のシルバーカーテンの前ではザルも同然だ。やがて高度500まで来ると再び停止した。

 「私の作戦行動までは後30分……でも、それは私だけの話」

 そう言うと彼女は脳内に埋め込まれた通信用マイクロチップを起動させ――、

 「お兄様、時間ですわよ」










 同時刻、北方ベルカ自治領の聖王教会本部上空にて――。



 「確認した。これより、『第一次』作戦行動に、入る。続く第二次は、任せた」

 空中に浮遊していたトレーゼの足元に魔力が集中する……そして鋼鉄のデバイスに包まれた両手を合掌させると、更に全身に魔力を増幅させる。彼の眼下にあるはこのミッドだけでなく大多数の管理世界にて影響力を持つ最大の後任宗教組織『聖王教』の総本山……その中で一番大きな建築物を見据えていた。全身に纏った魔力が天に昇り始めると、次の瞬間にはそれまで快晴であった天空にどこからともなく大量の黒雲が集い始めた。およそ冬の空には似合わない色と量……そして耳を澄ませば聞こえる稲光の音、嵐の予兆だった。しかし、その嵐を起こそうとしている人物こそ、今ここで儀式を執り行っているトレーゼに他ならなかった。

 「アルカス・クルタス・エイギアス……。煌めきたる天神よ……いま導きのもと降りきたれ」

 彼が呪詛のように唱えるは呪文だ、デバイスによる自動入力が一般化したこのミッドでは殆ど使用されない大規模な高位詠唱儀式魔法を発動させる為の……。かつてフェイトが海中に没したジュエルシードを回収する為にたった一度だけ使用したあの魔法……幼い頃から天才的な魔力の天賦に恵まれていた彼女ですら一度行使したら最後、魔力の大量消費によって肉体が極度に疲弊してしまうあの大技を、彼は明らかにあの時以上の魔力を込めて発動しようとしていた。黒雲がさらにその濃さと量を増して行き、とうとう雲の表面を紅い電光が走るようにまでなった。

 「バルエル・ザルエル・ブラウゼル……。撃つは雷、響くは轟雷……アルカス・クルタス・エイギアス」

 地表を見れば急激な天候の変化に機敏に勘付いた一部の人間達が空を指差して何か喚いているのが分かる。確かに常人が見ればこれは明らかに天変地異か何かだと考えるに違いない。

 だが、もう遅かった。

 「…………サンダーフォール!」



 空が一瞬だけ紅く光ったその刹那、幾筋もの雷が聖王教会の土地を一斉に蹂躙し始めた。



 魔力ではなく物理的な力を以てして降り注ぐ稲妻……屋根を突き破り、庭園を吹き飛ばし、たまたまそこに居た不幸な人間を消滅させながら無限に降り注ぐその光景は、神話で言うアルマゲドンのような悪夢でしかなかった。

 その眼下の光景を何の感情も籠っていない目で睥睨しながら彼は――、

 「…………『第一次聖王領侵略遠征』か。クアットロも、良い作戦名を、考える」

 彼は懐から白い仮面を取り出した。何の捻りも独創性も無い、白一色の面に二つの目を模した穴が開けられているだけの逆に風変わりな事この上無い仮面を……。

 白い仮面を被った紅い悪魔が地上にゆっくりと降り立つと、異変の主を仕留めようと聖堂騎士達が一斉に出迎える。手に手にベルカ式デバイスを構えたるは皆が管理局魔導師一個中隊にも匹敵する実力者達だ。だが――、

 「……クズに、用は無い。消えてもらう」

 手に持っていた黒い立方体――デウス・エクス・マキナが変形する。ものの数秒と掛らずに変形を終えた“それ”を手にした時、彼の足元に魔法陣が現れた。しかしその魔法陣はつい最近会得したベルカ式の三角魔法陣ではなく……

 真紅の円形魔法陣であった。










 午前10時40分、St.ヒルデ魔法学院の聖堂にて――。



 この時間で劇はクライマックスに突入しようとしていた。意を決して戦地に向かおうとする聖王女とそれを必死に止めようとする覇王の互いの意地を懸けた戦い……観客の中には熱心な聖王教の信徒も居るのか、二人の邂逅のシーンに突入するや否や感極まって涙目になる者も居た。

 そんな観客席から少し距離を置いた別の席……所謂、ゲスト席の所には先週と同じく学院の実質の管理者であるカリム・グラシア小将と、その左脇には秘書兼護衛を担当する聖王教会が誇る最高戦力の陸戦騎士であるシャッハ・ヌエラが清楚に控えており、さらにその右脇には元ナンバーズの三人がオットーを先頭にして佇んでいた。ちなみに、一番落ち着きが無いはずのセインまでもが大人しく静かにしているのは単純に彼女がシャッハの視界に映らないのを良い事に居眠りをしているからに過ぎない。対して騎士カリムの方は開会の辞を述べた時から現在に至るまでただの一度も目を閉じた事は無く、瞬きすらしていないのではと怪しくなるくらいにニコニコと劇の様子を満足気に観劇していた。あと20分で劇が終われば再び席を立って壇上に上がり再び辞を述べればそれでお終いだ……その時に後ろのセインが起きていれば良いのだが。

 彼女の視線の先には壇上で“聖王女”の役を見事に演じ切っているヴィヴィオの姿があった。あの少女の生い立ちをカリムは熟知している……古代ベルカの地を平定した最後の聖王の血脈を元に生み出されたクローン素体、管理局からは人成らざるモノとして忌避され、教会からは現人神として神聖視される可能性のある彼女を最後まで機動六課の面々と一緒になって保護し、この学院に入学させる時にも色々と便宜を図ってあげた……確かにカリム本人もその特殊な生い立ちとJ・S事件の根幹に関わっていたと言う事実から一時は世間からどの様な目で見られて後ろ指を指されるかと心配ではあったが、本人はそんなハンディキャップをモノともせず、また彼女の周囲に居る人間達もそんな彼女を特別な目で見るような事は決してしなかった。現在でも教会の内部に存在する急進派のような者達は彼女を新たな宗主として祭り上げようとしているらしいが、カリム自身はそのような時代は終わりを告げたのだと考えている……少なくとも彼女の目が黒い内は絶対にそのような事はさせないし、彼女自身もするつもりは無いだろう。

 「……三年ね……本当に早いものだわ」

 「その通りですね、騎士カリム。私もつい三年前まではこうして妹分が出来るなどとは思っていませんでした……この寝ているのを叩き起こしてよろしいでしょうか?」

 隣の主を見やった時に遂に寝ているセインの姿を確認したシャッハは今にもヴィンデルシャフトを起動させんばかりの怒気を放ちながらもあえて笑顔はそのままで訊ねて来た。その迫力に思わずオットーとディードは余波を喰らうのを免れるために椅子から腰を浮かし掛けた。

 「まぁまぁ、彼女も日々の勤務で疲労が溜まっているのでしょうからここは穏便に……。後で私の方から言っておきますから」

 「いえ! 騎士カリムの手を煩わせるまでもないでしょう。今ここで! 私が! 確実に! 引導を渡しておきます!」

 嗚呼、哀れセイン……もはやこうなってしまったシャッハは誰にも止めることは出来そうにない。何とかしてこの場をなだめようとしたカリムだったのだが、劇が終わった後でと言う風に後回しにする事しか出来なかった……せめて『お仕置き』は敷地外でやって欲しい、クレーターの埋め立てが毎度の如く難作業なのだから。

 と、哀れなセインを横目に苦笑していたその時――、

 「失礼します、グラシア小将……至急、取り次ぎたい用件が……」

 見知らぬ人間……制服のデザインを見る限りでは管理局の人間らしかったが、何やら慌てているようだった。小走りで彼女の許までやって来たその人はカリムに『ある情報』を耳打ちした後――、

 「お急ぎください」

 「……了解しました。シスター・シャッハ、今すぐセインを起こしてください。オットーとディードも私に続いてください」

 「騎士カリム? 一体何が……!?」

 報告を受けた瞬間に血相を変えて移動を始めた主の姿にシャッハも異変を感じ取ったのか、拳で思い切りセインの頭を殴り付けながら訊ねた。

 「…………聖王教会本部が……何者かの襲撃を受けています」










 「……………………」

 そこはこの世の地獄だった……完璧なシンメトリックを保っていた聖堂はその全ての棟が完膚無きまでに徹底的に破壊し尽くされ、破壊の衝撃で落下してきた瓦礫がその舌に居た人間達の足や頭を容赦無く砕き、そして飛び散った大量の脳漿と血液の入り混じった液体が庭園の白い畳石を残酷に彩っていた。だがそんな革新的過ぎる芸術的な彩りは天空から降り注ぐ雨が全て洗い流して行った……つい10分前まで天空から襲来していた紅い雷はとっくに鳴りを潜めて、残った黒雲からは大量の雨だけが残ったのだ。生き残った数少ない人間はその殆どが地に臥せっており、虫の息だった。

 だがそんな場所に二人だけ両足を地に付けて立っている者達が居た。一人は濃緑色の長髪が特徴的な長身の男性――足元に数匹の『無限の猟犬』を従えた管理局査察官のヴェロッサ・アコース。いつもと同じようにどこか掴み所の無い佇まいを崩してはいなかったが、そこから発せられる覇気はいつもの彼には決して無いモノだった。だが無理も無い……生まれ育った家でもある教会をことごとく破壊された上に罪の無い信徒達までをも巻き込まれたとなっては怒りを露わにしない方がおかしい。

 そしてその彼の眼前にもう一人……四肢を鋼鉄のアームドデバイスで覆い、雨に濡れた純白のマントを紺色の防護ジャケットの上に羽織り、白い仮面を装着している『敵』の姿だった。ここまで来る間に直接手に掛けた者が居るのか腕や胸板は返り血を浴びて妖しく色付いており、小さな飛沫が仮面にまで届いていた。全身から放たれる紅い瘴気にも似た濃度の濃い魔力は決して空中に四散せずに蛇のように地面を這いずり周っていた。

 「……………………」

 「…………聞くまでもないだろうけど……この落雷は君の仕業だね?」

 「……そうだ」

 「何人死んだと思う?」

 「落雷及び、その二次被害での、負傷者は、およそ73名」

 「……君が直接殺したのは?」

 「殺しては、いない。騎士団員、総数33名。良くも、あれだけの実力で、騎士になれたものだ」

 「……………………そうか。ならせっかく足を運んでくれたのに悪いけど、僕は君をここで排除しなくちゃいけないんだ」

 「出来るか……貴様程度に」

 「試して見るかい? 僕だって昔は騎士団長にスカウトされたこともあったんだよ。デバイスを持つのが面倒で断っただけさ」

 足元の犬達が一斉に飛び掛かる。だが当然の如くその犬は無残に斬られ、虚空に霧散した。飛び掛かりからリーチに入って首を切り落とされて消滅するまでに掛った時間はおよそ0.4秒足らず……だがその僅かな瞬間にヴェロッサは自分の犬が何やら長大で鋭利なモノで攻撃されるのを見逃さなかった。まるで人の生き血を吸って練り固めたかのような真紅の“それ”はヴェロッサにとっても見覚えがあった。

 「……それはハラオウン執務官のバルディッシュ・アサルトかな?」

 「形態はな。形状と、特性を、完全模写しているに、過ぎない」

 そう、仮面の人物が手に持っているその紅い刀身に黒い柄のデバイスは現在入院中のフェイトの持ちデバイスのザンバーフォームに瓜二つなのだ。唯一の相違は刀身とクリスタルの部分が紅いと言う事だけであり、目測ではサイズから重量などもほぼ同一としか思えない完璧なコピーだった。

 「さっきの天候操作型の大規模魔法……あれも執務官の魔法だね?」

 「そうだ……。あいつの、魔法は、全て収奪した。故に――」

 右手に自分の身長より大きな大剣を構えたまま、その人物は左手を前に突き出した。瞬時に危険を察知したヴェロッサは服が泥に塗れるのも構う事無く横に転がるようにして回避行動を取り――、



 「トライデント……スマッシャー」



 明らかに左手の面積では賄い切れないとすら思えてしまう三本の魔力の奔流が地表を盛大に抉り、射線上に存在していた瓦礫や死体を吹き飛ばし、ギリギリの領域で立っていた建物の壁を木端微塵に破壊して遥か向こう側へと消えて行った。地面に残った砲撃軌道の傷痕を見てヴェロッサは青褪める……彼自身あまりこう言った系統の魔法には詳しくは無いのだが、少なくともあれだけの大規模出力を誇る砲撃は『溜め』の動作無しのノーモーションで放てるモノではないと言う事ぐらいは知っていた。砲撃魔導師の高町なのはですら抜き撃ちバスターには僅かだがチャージの時間を必要とする……にも関わらず、目の前の敵は左手を突き出した瞬間にはフルチャージ並みの威力の砲撃を放って来た。リンカーコアから直接腕に魔力を送ったのなら速度的に説明がつくだろうが、アンプであるデバイスを通さずに出してもあんな高威力は望めない……魔法学的に有り得ない現象なのだ!

 「驚いたね……! その力を正しい方向に使えば君は間違い無く歴史に残るエースになれるよ」

 「興味無い……。俺の任務は、ここで貴様らを、排除すること……例えクズでも、容赦はしない、全力で、消し潰す」

 そう言いながら仮面の敵は紅の大剣を片手で軽々と持ち上げた。本来の使い手であるフェイトですら攻撃ごとの隙が大きいからと言う理由で両手持ちでしか使わなかったザンバーを、まるでそこら辺で拾って来た小枝のようにして振り回すその光景にヴェロッサは思わず後ずさった。単純な腕力だけでは計り知れない恐ろしさをそこに感じたからだ……こいつとは絶対に真正面から戦ってはならない、正攻法では天と地が逆転しようとも決して自分に勝ち目など無いと悟っていた。

 「くっ……!」

 古代ベルカ式魔法の継承者とは言えヴェロッサ自身は直接戦闘には不向き……背後に飛び退くと同時に『無限の猟犬』を八頭出現させると同時に、遠距離バインドで仮面の動きを封殺した。目の前の雁字搦めの獲物に真っ直ぐ突撃を開始した犬達はその防護ジャケットの表面に見事その牙を突き立てて見せた。流石に対魔導師戦を想定して製造されただけあって純粋な魔力の塊である犬達の牙にはまるで動じない……だがバインドとの相乗効果によって仮面の動きは完全に封殺出来た、後はこのままの状態を維持するだけ――、

 「たかが、犬ごときで、どうにか出来ると、思ったか」

 やはり想定はしていたが一筋縄ではいかなかった……敵の腕や脚に喰らい付いていたはずの犬達は、まるで金属片が酸に溶かされるかのようにして徐々に形を失い、遂に分解された全ての魔力は残らず体表を透してリンカーコアへと吸収されてしまった。バインドと猟犬の二重拘束から難無く逃れた後、仮面の敵は右手に握っていた大剣を大きく振り下ろした。既に壊滅状態にある石畳が更に空高く弾き飛ばされ、殺人的な加速度を纏った破片や瓦礫がヴェロッサを襲う。

 「どうにもこう言う敵とはやり難い……!」

 片手にシールドを張りながら移動し、取り合えずは射線の外側へと逃げる。彼とて伊達に管理局の査察官と言う位に就いている訳ではないので実力はあるのだが、彼の戦闘スタイルはバインドによる拘束で生じた隙を狙って『無限の猟犬』で仕留めると言う間接的な戦法を取っている……その為、相手の魔力を吸収すると言う戦術を取る仮面の敵とはこの上無く相性が悪いのだ。仮にもベルカの使い手なのだから接近戦を行えば良いのだが、昔からシャッハの稽古を忌避していたのがこんな所で仇となった訳だった。

 ここで彼は逃走の最中に幸か不幸か自分と敵の中間に一際巨大な瓦礫が落下するのを見逃さなかった……その瞬間に発生した砂煙を煙幕代わりにして、ヴェロッサは一旦崩れかけの教会の壁際へと身を隠す。この距離ではいずれは気付かれるだろうが、敵の視線は今自分に向けられている……これは自分が発見される僅かな時間を利用して生き残った聖堂騎士達が一般人の避難を行えるだけの猶予を与える時間稼ぎなのだ。流石に奴が直接民間人を手に掛ける事はないだろう、今こうして死人が出ているのは始めの不特定多数を狙った雷撃の際に出た者であり、少なくとも姿を隠した自分を誘き出す為にそのような行動に出る事は無いはずだと考えていた。

 だがここで――、

 異変が起きた。

 「…………フンッ」

 仮面の敵が地面を蹴って上空へ飛び上がったのだ。一瞬ヴェロッサは上空からの探索に移ったのかと考えたのだが、今自分の居る場所は上空からでも死角となっている場所なのであんな事をしても意味は無いはず……何故だ?

 しばらく上空に停滞していた彼は案の定下界の様子を睥睨していた。どうやらこちらを探しているようだが先程言ったようにここはあちら側にとっては完全な見つけられるはずがあろうはずがない。



 そう、この時は考えていた。



 「マキナ、モードチェンジ」

 『Yes,my lord. Form of “Raising Heart Exelion”and mord of “Exceed Mode” .』

 主の命を受け、漆黒の紅い大剣は忠実に臨むままの姿に自らを変貌させて行く。ものの数秒と掛らずに変形を終えた“それ”を眼下の大地に向けて構えを取った仮面の敵はその瞳を照準代わりにし、先端に自分の有り余る魔力を一気に注ぎ込み始めた。目に痛い紅い魔力が曇天の中心に集中するその光景はまるで第二の太陽が輝くようであったが、その輝きがそんな神々しいモノではないと言う事をヴェロッサは熟知していた。自分の予想が正しいのならば“あれ”はとんでもない魔法なのだから……。

 始めは拳大だった魔力の塊は徐々に魔力集積によってその大きさを増し、砲丸、人体の頭部、そして遂には両手では抱えきれないサイズにまで膨れ上がったそれは太陽と言うよりかは地上を焼き尽くさんとする劫火がそのまま押し固められたかのようだった。そして……実際そうだった!

 「……集え、星光。貫け、閃光」

 仮面の敵がその槍にも似た漆黒の杖――黒きレイジングハート・エクセリオンを天に掲げた。本来の使用者であるなのはの物とは違い、先端に伸びているクローの数は全部で三本……音叉のようなその先端からは滲み出た高純度高濃度の魔力がさらに拠り所を求めて電光となって迸るそれを、彼は大きく振り被り――、

 「全てを滅する……破壊の光!」

 『Starlight Breaker.』



 刹那、世界が真紅に染まった。










 午前10時59分、学院聖堂内にて――。



 長く続いた劇もようやく終演となった。舞台に並んだ学童達が一斉に客席の父兄らに向かって礼をすると、観客からは拍手喝采が巻き起こり、生徒達は一旦舞台の袖裏へと消えて行った。本来ならこの後で管理者であるカリムがそれらしい祝辞を述べてから学院長の閉会の辞があるのだが、当のカリム自身が途中退席した所為で劇の終了と同時にすぐさま閉会となった。ちなみに教会からの出席者が揃いも揃って退席した真相については誰も知らない……コトがコトなだけに知られる訳にはいかず、学院長ですら精々体調が優れなかったのだろうとしか認識していなかった。

 だがそんな裏事情の詳細など露知らず、客席に居たユーノは何も起きなかった事にひとまず安堵していた。実を言えば彼も隣のなのは程ではないにしろ心配はしていたのだ……幼い頃から自信に満ち溢れていたなのはがこれ程までに怯えているのを見ておきながら何も起こらないと思う方がおかしな話だ、幸いにも起きてくれなくて安心したが……。当の彼女の方も始めとは違って幾分か落ち着きを取り戻し、今ではユーノの隣で大人しくしていた。とりあえず今日は先週同様に劇のみで午後からの授業は無いので、後はこのままヴィヴィオと一緒に帰るだけだ……このまま直帰するのもナンだし、途中でナカジマ家の面々と寄り道するのも良いだろう。もちろんそれは先方の都合が良ければの話だが……

 「ママー! ユーノさーん!」

 と、ここでようやく沢山の生徒に混じってヴィヴィオがこちらに向かって小走りでやって来るのが見えた。三年前なら少しでも走ろうものならすぐにこけていたものだったが、やはり子供の成長は早いもので、今では年相応の落ち着きが見えて来ていた。今ではすっかり「将来の夢はママと同じ管理局員だもん!」と言い張って聞かないのだが、それはそれで子供らしい意地があるのだろう、まぁユーノ自身は彼女なら行く行くは立派な局員なり武装隊なりになってくれると自負しているが。

 何はともあれ、なのはが危惧していた程の事態は何も起こらなかった……そう安心しながらユーノはなのはの手を引いて立ち上がろうとして――、



 「では、二次会の始まり始まり~♪」



 背筋が凍るような妖艶な声が鼓膜を叩いた。一瞬、ユーノは自分の世界の全てが無音に帰すのを覚えた……同時に自分の肉体も停止し、自分の背後に居るはずの“それ”から届く声だけが唯一この時の止まった世界で動いているのを確かに感じ取っていた。

 「――ッ!!」

 時が止まったような錯覚から抜け出した瞬間、彼は自分の背後にいる“それ”の姿を確認しようとしたが……

 「それポチッとな」

 既に時遅く――、

 “最悪”の宴が始まってしまった。










 同時刻、北方ベルカ自治領聖王教会“跡地”――。



 「はぁ……はぁ……はぁ……!!」

 伝承に登場する古代ベルカの空を飛ぶ戦船が行う爆撃にも似た魔力砲撃の後、ヴェロッサは奇跡的に生きていた。咄嗟に張った防壁で数秒間も続いた地獄のような魔力の奔流に耐え切った彼は自分の目の前の光景に絶句した。

 始めの雷撃で教会の殆どが倒壊した事は目に見えて分かっていた……だがこれはどうしたことか! あのボロボロの壁が! 土を抉られて弾き飛んでいた石畳が! 景観を良くする為にと植えられていた木々が! 

 全て消えていた。

 いや、正確には『消滅させられた』と言うのが正しいだろう。誰に? 目の前の仮面の敵にだ。黒いレイジングハートを構えた奴はあの爆撃の後に地上に降り立ち、何も隔てるモノが無くなってしまった状態のヴェロッサをその白い仮面の奥の双眸から見つめていた。目を凝らせば微かに見える金色のその瞳がまるで幼い頃に義姉であるカリムに聞かされた御伽噺に出て来る悪魔のような輝きを持っていることに気付き、彼は無意識に身震いした。そして予想外だった……まさか自分を探す為だけにこれ程までの大破壊をやってのけるなどとは夢にも思わなかったからだ。

 「……耐えたか……やはり、あの魔法は、リンカーコアだけでの供給では、威力不足か」

 「はぁっ! あれだけ破壊しておいて威力不足って……言う事が違うね」

 一見肉体にダメージは無いかのように喋っているが、実際の彼の疲労と痛覚は伊達ではなく、今でさえ立っているのがやっとの思いだった。加えてこの雨による体温低下……正直言って次の攻撃を受けることはおろか、回避できるかどうかも危うい状況だった。次に奴が攻撃態勢に入れば間違い無く自分は死ぬ……そう直感していた。

 そして最悪な事に……手負いの獣を放っておくほど敵は甘くはなかった。

 レイジングハートの先端クローから半実体化した魔力の刃――ストライクフレームが出現し、足元にミッドチルダ式の円形魔法陣が展開される……ざっと10メートル以上は距離を離しているにも関わらずに届いて来る肌をも焦がすようなこの高濃度魔力はカートリッジロードを一切使用せずに発生しており、たった一人で原発並みの出力を誇っている事を意味していた。少なくとも高町なのはでさえここまでの魔力を出す事は不可能に違い無い。

 黒檀の槍を構えた仮面の敵は、ゆっくりと突きの構えを取り――、

 背面の土が抉り飛ぶ程の瞬発力によってヴェロッサの心臓目掛けて飛び出した。

 「くっ……!」

 速度、威力、誤差修整……どれを取っても非の打ち所の無い完璧な屠殺態勢に当の標的であるヴェロッサは感服し……死を覚悟した。

 そして、槍の切っ先が彼の心臓を――、



 「逆巻け! ヴィンデルシャフトォ!!」



 貫かなかった。直前で上空から猛スピードで降り立った……と言うよりかはまるで隕石の如き威力で襲来した“彼女”の得物がヴェロッサの心臓の手前僅か十数センチの所で槍の切っ先を弾き、その余波が水分を豊富に含んだ地面の土や泥を盛大に弾き飛ばし、仮面の敵の動きを遮ったのだ。瞬時にその介入者の実力を見破った仮面の敵は無用な損害を避けるべくしてその場から跳躍力だけを活かしたバックステップで距離を置き――、

 「どっせーい!!!」

 舞い上がった泥に混じって飛び掛かって来たセインのタックルによって後方に吹っ飛ばされた。だがこれは攻撃の体当たりではない……確かに威力は相当なモノがあるが、激突してからの飛距離が半端ない。二人はそのまま地面と水平に飛び――、

 「あらよっと!」

 あの爆撃で唯一生き残っていた教会の外壁の一部をセインだけが『通過』した。一緒に透過するはずだった仮面の敵を壁の通過中に器用に置き去りにする事で見事に封殺して見せたのだ。

 「逃がさないよ」

 更にその上からオットーが壁ごとエネルギー糸で縛り上げる。

 「危機一髪って感じだったね」

 「貴方の目は節穴ですか、シスター・セイン! これのどこが危機一髪なのですかっ!」

 仮面の奥から現状を確認する……加勢に来たのは全部で五人、セインとオットーとディードのナンバーズ三姉妹、陸戦最高戦力のシャッハ・ヌエラ、そしてここの教会の管理者であるカリム……この五人が揃い踏みしていた。もっとも、戦力と言う観点から見ればカリムは頭数には入らないだろうが……。

 「それにしても……」

 「あぁ、こいつ…私達と同じナンバーズなのか?」

 壁に封殺された仮面の機人を前にして三人のナンバーズは各々が驚愕に目を見開いていた。次元世界広し言えどもこの防護ジャケットを着用して戦闘を行う存在を彼女らは他に知らなかった。だが、仮面の所為で顔立ちは分からずともその体躯の作りは明らかに雌性体である自分達とは違い完全な雄性体……彼女達は男性のナンバーズなど聞いた事すら無かった。

 「私知らない…………………………………………こんな不細工な仮面付けてる奴」

 「えっ、着眼点そこですか?」

 「とにもかくにも! 貴方はここで私達に拘束されなければいけません。罪状は……不法侵入に始まり、公共物破壊、聖堂騎士に対する公務執行妨害と殺害、そして…………それらの行動によってもたらされた二次被害の犠牲者達への冒涜行為! よもや許されるなどと甘い幻想を抱いてはおりませんね?」

 シャッハが前に進み出る。その全身から放たれる威圧感は凄まじく、伊達に教会最強と呼ばれていない事や、現在彼女が生まれてこのかた見せた事の無い程に激怒していると言う事を容易に分からせてくれた。そのあまりの怒りの波動によって滲み出る魔力は背後で控えているカリムですら震え上がった……引き取ってから姉の様に接して来たはずの彼女でさえこんなに怒っているシャッハを見た事が無かったのだ。

 「貴方の犯した行為は罪です! 法の下での裁きを覚悟することですね」

 トンファー型アームドデバイスのヴィンデルシャフトを待機状態に戻し、シャッハは普段と同じ法衣姿に戻った。だが視線だけは目の前の仮面の機人を睨み据えており、完全に油断している訳ではない事を示していた。

 大抵の者であれば彼女の様な実力者から面と向かって睨まれでもしようものならその瞬間に身が竦むような感覚に襲われる……はずなのだが――、

 「……シスター・シャッハ、貴様は、自分の感覚に、自信を持っているか?」

 「どう言う意味ですか?」

 「視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚……それらが与えてくれる、情報のどれだけを、貴様は自信を持っている? 所詮、信じていたとしても、可視角度、可聴音域の中でしか、貴様たちは事象を、認識出来ない」

 いきなり饒舌になりだした敵にシャッハは得も言われぬ不安を覚えた。目の前に居るのは自分から見ても完璧に封殺された敵の姿……トラバサミに足を噛まれた野兎に等しく無力であるそれを前に、臆する事など何も無いはず。だが何故だろう、幾ら自分にそう言い聞かせても不安は拭えない、むしろ戦士としての自分の勘が盛大に警鐘を鳴らすのだ。

 「例えば、視覚……全天周囲、360°ある世界で、見えているのは、たったの三分の一……残りの、240°の中で、何が起きているか、貴様は分かるか?」

 「な、何を……!」

 「例えば、聴覚……20Hz以下、もしくは、20,000Hz以上の音域で、どんな音がしているか、貴様は考えた事が、あるか?」

 「だからっ! 貴方は何を言って……!!」



 「要するに、貴様らは、俺に時間を、与え過ぎた、と言う事だ」



 刹那――、

 シャッハの意識が揺れ動く。鼻と耳の穴から水が強制的に入り込み、その水が頭蓋の隙間を滑り込むような感覚に片膝をつきそうになった。続いて、高山の頂に登った時に発生する酸欠による高い耳鳴りと動悸……全身の血液を含む全ての水分が沸騰し、激しい吐き気や不快感が脳髄を駆け巡り――、

 直後、無心。

 先程までの劇的な感覚の乱渦が嘘ハッタリであったかのような澄んだ感覚……その余りにも不自然な程の切り返しに、再び彼女の精神が揺らぎ始めた。不快感の後に訪れるこの爽快感にも似た異様なまでの清々しさ……まるで、迷路の抜け道を見つけた時の様な……

 まるで、悩み抜いた末にようやく数式の間違いに気付いた時のような――!

 「義姉さん!!」

 「っ!?」

 背後のヴェロッサの叫びがその『間違い』を決定的なモノにしてくれた。待機状態にしてあったデバイスをすぐさま起動させるが時既に遅く……

 「騎士カリム……!」

 「動くな……筋一本でも、動かせば、この喉を、掻き切る」

 自分の目の前に居るのは主人であるカリム……そして、そのすぐ背後から首筋に鉤爪を当てている仮面の機人の姿があった。

 「そんな!? だって……あんたは私がそこに…………」

 セインの言う通り、確かに仮面の敵は彼女の策によって壁の中に封殺し、更にその上からオットーが拘束したはずだった。完全に壁の中に半身を埋め込まれていたはずであり、その両腕も封じていた……奴が動けばそれを視界に収めている自分達が気付かないはずがない。そう思いながらもセイン達がその方向を見やると――、

 「馬鹿な!」

 シャッハの口から出た言葉をセイン達もそっくりそのまま脳裏で叫んでいた。確かに眼前には崩れかけの建物の壁の一部があった……その上にオットーが掛けたバインドが二重三重にも絡められており、確かに“それ”を完全に封じていた。

 その石柱の一部を!

 ディープダイバーによってセインが埋め込んだと思っていたのは実は敵の肉体ではなく、建物を支えていた石柱の一部だったのだ。始めから彼女達は騙されていたと言う訳である。

 「そんな……いつの間に幻覚を!」

 「貴様たちが、ここへ来る事など、とっくに予測済み…………始めから、こうなる事を想定し、仕掛けていた」

 「では、シスター・セインの初撃の時点で既に我々を幻覚に陥れていたと!?」

 驚愕に気が動転しつつもシャッハは主を救出しようと徐々に距離を詰めようとする。対するカリムの方も束縛から抜け出そうと身を捩るのだが、如何せん戦闘機人の握力から両手が脱する事が出来ず、その抵抗は虚しいものでしかなかった。

 「その手を離してください。でなければ――斬りますよ?」

 威嚇するようにディードが袖から二本のブレードを引き抜く……紅玉の如き輝きを持つそれを両手に構えながら、彼女は自身のISを発動させるべく足元に疑似魔法陣を展開させた。彼女のIS――『ツインブレイズ』による瞬間的加速によって標的の死角に侵入するその殺人的な速度を以てすれば刹那の瞬間に仕留める事も容易……その最大瞬間速度はライドインパルスにも匹敵する。

 「やって見せろNo.12……」

 「……………………」

 「……………………」

 「……………………フッ!」

 一瞬だけ呼吸を停止し、全身の増強筋肉を引き締める! 内部フレームにジェネレーターで生成したエネルギーを一気に流し込んだ後、目標との相対距離を割り出して軌道計算、構えの体勢を維持し、そのまま――、

 突撃する!

 ベルカ式魔法の武芸者であるシャッハですら未だ完全には見切れぬ、戦闘機人だからこそ成せるその殺人的加速度で、ぬかるんだ大地を抉りながら瞬時に敵の死角に到達。二本のブレードを己の頭上にまで高々と振りかざし……



 腹部に重い蹴りを入れられた。



 「ディード!!」

 全重量およそ200㎏超……鉱山の岩盤ですら亀裂の入る威力を秘めたその蹴りをまともに喰らい、機人の双剣士は血反吐を吐きながら無様に手を地についた。吐き出された血の塊は雨に溶け、土に染み込み、流れて霧散する。

 「貴様が、相手の死角を狙うなど、とっくに予測していた……。そして、愚かにも、背後のみを、狙うこともな」

 「ぐぅ……うぅ……!!」

 「……じゃあな。せめて、苦痛を知らぬように……」

 地に膝を屈しながらもまだ意識の健在な彼女の姿を見下げた仮面の機人は、最後の一撃を与えるべく、高く上げた右脚を――、

 「やめろぉーーーーっ!!!」

 セインの咆哮にも似た制止も聞かずにディードの後頭部に振り下ろした。その場に居た全員は最後の瞬間に聞こえた何かが潰れるような音……せめてその音が泥の弾け飛ぶ音であるように祈ることしか出来なかった。

 「…………馬鹿な奴……」

 ディードの四肢がほんの一瞬だけ固く引き伸ばされるように硬直し、その直後に事切れたかのように弛緩……何も言わなかった、叫びも、呻きも、何も……。そしてその力の抜けた体を更に蹴り飛ばして自分から遠ざけた。

 「お前……! よくもっ」

 双子の姉妹とも言うべき存在を文字通り足蹴にされた事に憤怒したオットーは怒りに身を委ねて飛び掛かる。妹であるディードが背後を突いたのとは違い、彼女は真正面から攻める。敵はカリムの背後からこちらを見ている以上、どうしても彼女の頭部が邪魔となりこちらが見え難いはずだ。そう判断した彼女はそのまま突貫し――、

 「騎士カリム! じっとしていてください!」

 寸前で跳躍! 彼女が狙うのは人間の240°もある死角の中で最も肉薄であろう箇所、即ち頭頂。戦闘機人だからこそ成せる脚力で飛び上がり、レイストームによる緊縛で首を絞め落とす。如何に相手が自分達と同じ戦闘機人とは言え酸素の供給を立てば気絶するのは必定、そして彼女にはそれを実行するだけの自信も策もある。高跳び選手の如く舞い上がった彼女は空中で反転して真下の大地を目に収め……



 そこに標的が居ない事を認識した。



 「え? そんな……!」

 眼下僅か二メートルを見やってもあの仮面の姿は何処にも無い。消えた? そんなまさか、目を離したのはたったの数瞬……そんな短時間で一体何処に――、

 「アデュー」

 突如、オットーは自身の頭部に衝撃を感じた。痛みは無い……痛みなどと言う陳腐な感覚を脳髄が認識する前に彼女の意識はブラックアウトしたからだ。当然の事ながら、「いつの間に敵が自分よりも高い位置まで跳んでいたのか?」などの疑問も浮かばなかった。

 「……戦術も、戦略も無い……話にならん」

 わざわざカリムが叫ばないように御丁寧に彼女の口元を押さえてまで跳び上がった仮面の機人は、鋼鉄の両脚をオットーの後頭部を下敷きにして着地すると、残り三人となった相手側を見やった。妹が二人もやられたのを目の当たりにしたセインの戦意は完全に喪失し、主が捕えられたままの所為でシャッハは手が出せず、ヴェロッサはとっくに疲労困憊……恐らくこの三人の全力で掛ったとしても、カリムを奪還出来たとしても仮面の機人を仕留める事は出来ないと直感していた。

 「……貴方の目的は何なのですか? この聖王教会の武力占拠ですか? それともただの無差別殺戮なのですか?」

 ある程度落ち着きを取り戻したカリムが己の背後を脅かす存在に初めて声を掛けた。少なくとも自分をすぐに殺す意思は無いと判断したからだ。

 「……これは、ただの布石……本懐は、別にある」

 「では! 何の意味も無くこんな非道な真似事を行ったと言うのですか!!?」

 「意味はあった……



 ――貴様達を、ここに釘付けにすると言う――



 重要な意味がな」

 「まさか――っ!!」

 「今頃、“神体”はこちらに、落ちた頃だ……貴様達の、敗北だ」










 同時刻、St.ヒルデ学院聖堂にて――。



 「あーらあら、意外とあっけない。拍子抜けですわぁ」

 聖堂……と言う言葉がまるで嘘のようにそこは凄惨な光景だった。崩れ落ちた天井の一部が木製のベンチやパイプオルガンなどを押し潰し、幸いにもその惨事から逃げ遅れた者は居ないにしろ所々に血痕が飛び散っていた。辺りを漂う鼻腔を刺激するこの匂いは火薬……少なくともこのミッドでは禁制の品である質量兵器が一度に大量に使用されたことを暗に意味していた。そして喧騒……聖堂の外へと逃げ果せた人間達の混乱の叫びがここまで届いて来ていた。

 それらの光景の中心に位置するは全ての現象を引き起こし、全ての元凶でありながら媚びも省みもしないと言う笑顔で佇むクアットロ。彼女がその脇に抱えるモノは――、

 「ふふふ、お兄様の立案した作戦とは言えこんなに簡単に済ませられるなんて思いませんでしたわ。貴方もそう思うでしょう? 聖王陛下ぁ♪」

 そう言って彼女は右脇にまるで少し大き目の荷物を抱えるような感じで気絶しているヴィヴィオを揺さぶった。いや、気絶して居るのは彼女だけではない……クアットロの足元にはヴィヴィオを救いだそうとして逆に返り討ちにあったN2Rの面々が満身創痍で地に伏しており、ゲンヤとユーノも壁際で同じく気を失っていた。特にユーノの方はヴィヴィオを奪われる際に抵抗をしたのであろうか、外傷が一番酷く、頭部から血を流している有様だった。

 ふと、クアットロは自分の足元に伏していた妹の一人――チンクに目を落とした。

 「チンクちゃ~ん、私ねぇ、貴方の事をずぅーっと可愛くないって思ってたのよねぇ……私よりもちょこっと先に生まれたからってイイ気になっちゃって…………本ッ当にムカつくわ!」

 クアットロの爪先が容赦無く気絶したままのチンクを蹴り飛ばした。本来ならここでノーヴェが必死に噛みついて来るのだろうが、その彼女ですらとっくに姉と同じ道を辿っていた。

 「さとて……目的も無事終了しましたし、そろそろ帰還しましょうか――」

 もうここに用は無い……用が無い以上、畏怖する兄ではないにしろ長居は無用、早急に立ち去ろう。図らずも爆発時の衝撃で天井の一部が崩れているからそこから抜け出そうと飛び上がり――、

 足元に魔力弾が当たった。桜色の小さな弾丸が右脚に当たり、大したダメージも与えぬままに消滅――霧散した。

 「あらぁ……存じていたつもりですけど、ここまでしつこいと興醒めしますわ」

 爪先が何か小さい物に蹴躓いたと思ったら死に掛けの小汚い小動物だった……とでも言わんばかりの視線を投げ掛けるその先に、彼女――高町なのはは居た。レイジングハートを構え、その先端をクアットロに向けて狙いを定めようとしていた……愛する娘を返せと。

 「何度やっても同じ事……今の貴方では私を止めるなんて大仰なことは不可能ですわ」

 脳に埋め込まれた妨害魔力波長の所為でバリアジャケットも張れず、かろうじて自分の持ちデバイスを起動させたは良いが、クアットロの言うように照準はまるで定められておらず、先程の足元への銃撃も本当は人体の要である腰を狙っていたはずなのだ。かと言って接近する事も出来ない……平衡感覚を完全に失したこの状態では数歩も歩かぬ内に倒れ、立ち上がる事さえ不可能となってしまうからだ。棒立ち……距離感も、照準も、接近も儘ならない今ではそうする事が彼女の精一杯でしかなかった。

 「御安心を。お兄様の真意は計れませんが、聖王陛下の身柄に関しては『生かして連れて来い』と言われてますから。悪いようには致しませんわ……そう、貴方が想像しているよりかはですけど」

 クアットロの口上に嫌気が差したのか、なのはは再びスフィアを放つ。だが結局は全く的外れな方向へと飛び去り、クアットロの髪すら揺らさなかった。

 「それでは、私はこれで失礼しますわ。いずれまた相見える日があれば――」

 クアットロの体が浮上する……そのまま連れ去られて行く愛娘の姿をなのはは見送る事しか出来ない。

 「――それが貴方達の最後ですわよ」

 それが最後、クアットロは聖堂の天井から逃げ果せ…………後には我が子を奪われた悲しみで滂沱の如く涙を流す一人の女しか居なかった。










 午前11時20分、北方ベルカ自治領聖王教会本部――。



 トレーゼは人質に取っていたカリムの身柄を解放する。作戦が完了した今、もう彼女に用は無いからだ。乱暴に彼女の背を押してシャッハの方へと明け渡す。

 「……これで、ここには、何の用も無い。去らせてもらう」

 地面に伏したままの妹を一瞥もせず、堂々と背を向けて踏み越えて行く……背後に残したままの敵にはまるで警戒せず、そのままゆっくりと、歩いて、飛びもせずに……。当然、そんな彼の行動をみすみす逃すはずもなく――!

 「逃がさないっ!」

 普段のシャッハならいざ知らず、今は不意討ちなどと拘ってはいられない……ぬかるんだ大地を蹴って対象の背後に追い付くと、彼女は両腕のヴィンデルシャフトを精一杯に振り降ろした。

 だがそれをトレーゼは振り向きもせずに右腕で涼しい顔をして受け止める。もちろん、彼は仮面を付けているので誰にもそんな事は分からないのだが……。とにかくしつこいようだが、陸戦最高戦力であるシャッハの腕力を以てしても全く微動だにしない。いや、良く見れば押し返している。

 「それ以上、近寄るな……近寄れば、殺さなければ、ならない」

 「世迷言を! 貴方をこのまま行かせると思っているの?」

 「…………頼む……行かせろ。このままでは、拘束制限術式が――」

 「問答無用!!」

 回し蹴り、右ストレート、左の肘打ちの直後に反転しての踵落とし……更には頭突きまでをも繰り出すシャッハ。しかし、それらの連撃はことごとく阻まれた、目の前を飛ぶハエを叩き落とすような気軽さで……。

 「……っ!!」

 だが逃げの姿勢に転じたトレーゼの意思は固く、一瞬のラグを突いて彼女の制空圏から離脱、そのまま全力疾走での逃走を開始した。機人の走行速度は時としてF1の最高速度にも匹敵する……だがシャッハとて負けてはいなかった、両脚に魔力を送り込むとそれをバネに一気に加速する。その数十秒にも満たない寸劇に二人の姿は教会の廃墟の最奥へと導かれて行った……



 そしてその直後――、










 『Confirmed the normal operation of the “Konshidereshon Console”.(コンシデレーション・コンソールの正常作動を確認)』










 午前11時25分……『第一次聖王領侵略遠征』は急速な終演を迎えた。










 午前12時00分、ミッド某所――。



 都内の一角に設けられた借り駐車場……そのスペースの一つに停められた一台の黒塗りの乗用車の中に二人、いや三人は居た。運転席に眼鏡を掛けた女性、助手席に紫苑の短髪の少年……そして背後の後部座席には気絶した少女が一人。

 「こんな車まで用意してあるだなんて、流石はお兄様ですわ」

 「用が、終われば、すぐに破棄する。私物化するなよ?」

 二人の足元には中身を飲み干されて空になったペットボトルが捨てられており、後部座席のヴィヴィオの方にも一本だけ置かれてあった。彼女が目を覚ました際に脱水症状を起こしていたらすぐに飲ませられるようにとの配慮である。

 「そう言えばぁ~、さっきラジオで聞きましたけど、聖王教会の件の負傷者の数が100を越えたそうですわね」

 「……らしいな」

 「で・も♪ 不思議ですよね~、民間人側の死傷者は今の所確認されて居ないらしいですのよ~」

 「……………………」

 「作戦内容は私も確認しましたけど、あれで死人が出ていないって言うのは『奇跡』ですね。ひょっとしてぇ……そう仕組んだのですか?」

 「……無駄口を、叩くな。捻り潰すぞ」

 「はいは~い。でも……これだけは聞かせてくださいます?」

 「…………何だ?」

 クアットロの纏っていた雰囲気が変わった事を鋭敏に察知したのか、トレーゼの方も少し身構える。

 「……本当に誰も殺していないのですか?」

 「…………………………………………一人だけ……」

 「殺しました?」

 「……………………」

 「……ま、良いですけど。さてと、陛下が目を覚ます前に移動しちゃいましょう」

 「…………あぁ」

 そう言ってクアットロはアクセルを踏むとハンドルを切り、路上に進み出た。行く先は――、隣の兄が知っている。










 時を遡り午前11時30分、聖王教会の一角にて――。



 シャッハの姿が消えてから何の連絡も入っていない……敵を追った彼女の事だから仕留めるか、それが不可能と判断して早々に戻って来るかのどちらかのはずなのだが、帰って来る気配さえもない。地に伏したオットーとディードを救護班に回収させた後、カリムとヴェロッサとセインの三人は消息を絶ったシャッハの捜索に繰り出した。幸いにもヴェロッサの回復した魔力で生み出した犬を使う事で魔力を嗅ぎ取り、敵の膨大な魔力の淀みが充満する空間に彼女の魔力を見つけ出す事に成功した。やがてその筋を辿ると、三人は教会の敷地の北寄りに存在する道具小屋の中にシャッハが居る事を付きとめた。

 「シャッハ! 聞こえますか、返事をしてください!」

 すぐさまカリムがドアを叩いて彼女の生死を確認する。返事があればそれで良し、もし無かった場合は覚悟していた……そして――、

 「――――騎士…………カリ……ム?」

 ドア越しに微かに声が聞こえた。紛う事無く自分の秘書の声であることを確認したカリムはすぐさまドアを抉じ開けて中へ入り込んだ。だがすぐには姿を確認出来ない……小屋の中は教会で使われる事の無くなった大小様々な物品が所狭しと並べられている所為で、その気になれば大の大人が隠れるようなスペースが幾らでもあるのでまずは探す事から始めた。

 「シャッハ、無事なのですね?」

 手当たり次第に物をどかしながら内部へと突き進む三人。総司がそれていないのか、埃などで視界は最悪だった。

 「申し訳…………ありま……せん…………敵を……取り逃がしました」

 「もう良いわ。貴方は充分にやれたもの……。シャッハ、今何処に居るの? ここからじゃ見えないわ」

 「……分かりません…………何か……大きなモノに……」

 「?」

 分からないとはどう言う意味かは分からないが、彼女の声がする範囲内で『大きなモノ』と言えば少し距離を置いた場所に存在する柱ぐらいしか無い。とりあえずそこまで行く事にした、ひょっとしたらダメージで動けないのかも知れないのだから。

 「あぁ……騎士……カリム…………一つ、お聞きしても……よろしいですか?」

 「何?」

 足元の物体を次々とどけて進むカリム……もうすぐでシャッハの所に到達出来そうだと思っていた、その時――、



 「私の……腕と…………脚を知りませんか?」



 「……え?」

 自分とシャッハを隔てる最後の障害物……それをどけて目の前の光景を見た瞬間、カリムは絶句した。すぐ後ろでヴェロッサとセインの息を呑むのが分かる……これは何かの間違いだと信じたかった。

 「無様だと……笑ってください……。自分で……敵を追いながら…………この醜態……弁明のしようもありません」

 確かにシャッハは小屋のほぼ中央に立っている太い柱のすぐ傍にもたれ掛かっていた。たった10分の戦闘で何が彼女をここに身を隠さねばならない程に疲労させたのかと、ここに足を運んだ最初の時はそう考えていた。

 しかし、今自分の目の前の光景を見ればその疑問は氷解した。

 まずシャッハの右腕が無かった――。鋭利な刃物で肩口からバッサリと、在るべきはずの部位が綺麗に刈り取られていた。傷口から見えるザクロのような赤い肉の断面からは白い突起物が見え、生命の液体が栓を緩めた水道の如く溢れ出ているのが分かった。次に脚……左の脚が同じようにして寸断、行方を暗ましていた。その他にも首元から腰に至るまでに大きな太刀傷が走っており、およそ一人の人間に対する殺傷方法の全てを叩き込まれたかのような惨状となっていた。

 そして――、

 「シャッハ……その眼隠しは……?」

 カリムが指摘するのは発見した時から彼女が両目を覆っている布の事である。修道服の一部を千切ってあてがっており、どうやら彼女をここへ押し込める際に敵が施したと考えるのが妥当だった。

 「待ってください、今すぐ外しますから!」

 どうりで自分の位置が把握できていないはずだった、すぐさまカリムはそれを外そうとして彼女の後頭部に手を伸ばした。

 だから気付けなかった――、

 その眼隠しの布が異様なまでにベットリと濡れている事に……。

 自分の付き人が既に光を失っている事に、最後まで気付けなかった――。

 閉ざされた瞼をも真一文字に引き裂き、シャッハの両目を削り取った斬線の痕……明らかに殺意を原動力としたその蹂躙の痕からは、目隠しを外してしまったことにより、『かつて眼球だったモノ』が血液と共に流れ出た。

 「本当に……申し訳ありません…………明日からは……貴方に紅茶を淹れる事は……出来そうにありません」



 右腕、左脚、両目……たった10分の戦闘で彼女が敵に対して払った代償はあまりにも大き過ぎていた。










 「……………………ん、んんっ! あれ……? あれ? ここってドコ?」

 昏睡から覚めた少女ヴィヴィオは今の自分の現状を理解するのに少しばかり時間を要した。確か自分は学院の聖堂で催し物をしていたはず……それが終わった直後に母の所まで戻り、そして何やら大きな揺れがあって――、

 見慣れない部屋……フローリングの部屋には家具が自分の横たわっていたベッドと食物を保存しておく為の冷蔵庫しか無く、まるで引っ越しする前のアパートのようだった。取り合えず冷静になったヴィヴィオは、ここがどこなのかを把握しようとして窓の外を確認するべく立ち上がり――、



 「はぁい♪ お久し振りですわね、陛下ぁ」



 自分の背後から聞こえた底冷えする声に足が止まった。声が鼓膜を通して耳小骨を震わせて脳に届き、ヴィヴィオの記憶の奥底で消えかかっていたはずの圧倒的な原初の感情の奔流、即ち『恐怖』が呼び覚まされた。声の発生源は背後、だが振り向けない! 振り向けば認める事になってしまうからだ……自分の恐怖の根源として今尚脳裏から離れぬあの姿を!

 だがどうしても振り向いてしまう……そこに悪魔が居ると分かっていながらも反射的に。そして――、

 「三年振りの再会にこのクアットロ、身に余る光栄で張り裂けそうですわ。またよろしくお願いしますね」

 忘れもしない……三年前、自分の身柄を拘束して“ゆりかご”の玉座に縛り付け、母との望まぬ戦いを強いた張本人……二番目の姉の狡猾さを受け継ぎ、12人中“最悪”とまで謳われたナンバーズ、No.4クアットロがそこに居た。丸い伊達眼鏡の奥に光るその卑しい輝きに塗れた眼球が笑みを湛えてこちらを見ているのを見て、ヴィヴィオは自分の両足がガクガクと痙攣するのを覚えた。

 「な、何でここに……!?」

 「あらぁ、私が脱獄したのは聞いてません? どうせ情報管制が敷かれてるのでしょうけど……」

 クアットロの蛇のように細くしなやかな指先が怯え竦むヴィヴィオの頬を撫で回す。だが怯えながらも冷静さを欠かなかった彼女は、かねてから母に渡されていた小型の通信機をズボンのポケットから取り出そうとする。かつて母が管理局の知り合いに頼み込んで作ってもらった特別製であり、一度スイッチを入れればそこから発せられた特殊波長が直接レイジングハートに届く仕組みになっている。それを押そうとしてクアットロに悟られまいと静かに手を伸ばし――、



 「探し物は、これだな?」



 目の前に伸びて来たクアットロとは別の人物の指がその小さな通信機を押し潰すのを見た。小さいとはいえ機械の塊をまるで角砂糖のような気軽さで潰したその人物……紫苑の短髪、白磁の肌、金色の双眸と言う特徴が三拍子揃ったその顔には見覚えがあった。つい先週、学院の敷地内でノーヴェと一緒に居た少年――トレーゼである。

 「トレーゼさん!? どうして? 何ですかその格好!?」

 目の前のクアットロへの恐怖も吹っ飛ぶ衝撃がヴィヴィオを襲った。いつの間に自分の隣に居たのか、トレーゼの着用している紺色の防護ジャケットは明らかにクアットロの着ている物と同一であり、まるで彼が彼女と同胞か何かであるかのようにその存在を顕示していた。

 「『まるで』じゃありませんわ。お兄様は秘匿された13番目のナンバーズ……正真正銘の戦闘機人ですわよ」

 「そんな……! じゃあ、私を連れて来たのは……!?」

 三年前に自分が攫われたのは、古代ベルカ人が残した究極兵器である“聖王のゆりかご”を起動させるための鍵として利用されたからだった。だが既に“ゆりかご”の消滅した今となっては自分に利用価値は無いはず……何故この様な事態に陥ったのか、彼らの目的は何なのか、考えるべき要素が脳内を目まぐるしく駆け回ってヴィヴィオの精神が自身の扱える許容量を突破しようとしていた。

 その時――、

 「ん……」

 「え?」

 混乱し掛けていた彼女の目の前に突き出される銀色のパッケージに包まれたスティック状の携帯食料……トレーゼから無造作に突き出された物だった。その意外な行動に声を上げたのは、これまた意外にもクアットロの方であり、当の差し入れられたヴィヴィオの方は良く分からないままにそれを受け取り……

 「……ありがとうございます」

 「ん。食べ終わった後、ここでの生活に、ついて、幾つか話しておく。何も、考えるな……その方が、ずっと楽だ」

 相手が混乱するに至るまでにその意識を別の事物に素早く向け直す。混乱した子供程に厄介なモノは無し……先日の一件で彼が身に沁みて理解した教訓がここで活きた。

 「…………クアットロ」

 「はい?」

 「今すぐ、ラボに戻れ。例の、『毒』の増産に、取り掛かれ」

 「は~い♪」

 兄の命を受け、クアットロの姿が一瞬にして消え去る。続いてトレーゼは隣で黙々と自分の与えた食料を食べているヴィヴィオを尻目に、自身のデバイスを取り出した。

 「定時記録、開始」

 『Yes,my lord.』



 「11月18日、現時点を以て、計画の第一段階は、完全終了。第二段階へと、移行する」




















 途中経過の報告――。



 スバル・ナカジマ:トレーゼの計画進行における第二の被害者。左腕を除く四肢を切断され、Dr.スカリエッティ観察下の許で再生治療に専念中。現在両脚の接続及びリハビリを確認。



 ティアナ・ランスター:スバル・ナカジマと共に攻撃を受け、肋骨の骨折とそれに伴う肺の一部を損傷したが、湖の騎士シャマルの治療により復帰。破損したデバイス、『クロスミラージュ』は現在シャリオ・フィニーニ一級通信士が復元修理中。



 鉄槌の騎士ヴィータ:廃棄都市区画での交戦の際に右腕を負傷。後述の高町なのはに代わって、現在は捜査前線から退いて教導隊を率いる。



 エリオ・モンディアル:“13番目”との交戦により昏睡。しかし他の被害者達と比較して軽傷であった為、回復。現在は地上本部で療養中。



 キャロ・ル・ルシエ:上記に同じ。



 ギンガ・ナカジマ:交戦の際に腹部に軽い火傷を負うが、短期間の入院の後で復帰。更正施設在中のセッテに対して教鞭を執る。



 高町なのは:第6無人世界での交戦の直後に大脳を浸食。介護無しでの生活は困難。



 フェイト・T・ハラオウン:肉体酷使とリンカーコアの過剰な衰弱により、現在入院中。復帰出来るか否かについては不明。



 八神はやて:クアットロのとの交戦で右眼球を損傷。治療中ではあるが、失明は確定的。



 ヴェロッサ・アコース:計画進行における第一の被害者。現在はリンカーコアも回復し、11月17日を以て退院。



 シャッハ・ヌエラ:右腕と左脚が切断、胴と背中に深さ4㎝・長さ60㎝以上の切り傷、両眼球の完全破壊。――再起不能。



[17818] 欠けた者、集う者
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/06/21 00:48
 時を遡って11時25分、聖王教会敷地内にて――。



 シャッハは追う。人の領土を散々侵しておきながらのうのうと逃走を図ろうとした敵を、彼女は必死に追っていた。天空から降り注ぐ豪雨が視界を遮るが、今の彼女にとってそんな事は些細なモノでしかない。自分の育った家でもあるこの教会を完膚無きまでに破壊したその存在を許せなかったのだ。かつてセインを撃墜した時以上の猛攻で以てして、彼女は徐々に相手を追い詰めようとしていた。それぐらいしなければ、オットーとディードの姉妹を秒殺したこの敵を倒せないと踏んでいたからだ。

 だが――、

 おかしい、目の前の仮面の敵が一旦逃げに転じた先程から、ずっと反撃して来る気配が無いのだ。こちらの繰り出した打撃を受けはするものの、こちらの隙を突いて来る事は一切して来ない……どうやら本当に自分と戦う意思が無いのか。それに……

 「……………………」

 長年武人として生きて来た彼女だからこそ分かるのだが、先程とは一変し、相手から全く敵意が感じられないのだ。こうして戦っていても、目の前に居るのが本当に自分の敵なのかと疑いたくなる程に……。

 「く……! いつまでも調子に乗って――!!」

 シャッハが地を蹴る。次の瞬間、彼女の肉体は大地にまるで沈むように消え、敵の前から姿と気配を完全に消失させた。だが彼女は諦めて踵を返したのではない、仮面の機人がほんの一瞬だけ気を取られている隙に彼女は土中を突き進んで背後に回り込み――、

 「旋迅疾駆っ!!!」

 聖堂騎士修道女、シャッハ・ヌエラの秘技、それがこの『旋迅疾駆』である。物体を透過して潜行すると言う点ではセインの『ディープダイバー』と全く同じだが、彼女の場合は潜行可能な時間が極端に短く、当然潜行中の酸素供給は不可能である為にそう易々とは行使しない技だ。だが『ディープダイバー』との最大の相違点は、土中などの有機物であっても潜行可能と言う点にある。故に潜行可能時間の短さを度外視すれば奇襲には持って来いの魔法なのである。

 そんな彼女の地中からの勢いを付けた蹴り上げに対応し切れず、敵の機人は振り向いた瞬間に顔面にモロにそれを喰らう羽目になった。常人であれば顎が砕ける威力であるそれを受けた敵は大きく後ろに仰け反り……彼女は知る由も無いが、起動から現在に至るまで無敗であったその機人を初めて地に倒したのだった。味気無かった白い仮面は粉々に砕けて四散し、仰向けになった白い顔に雨水が容赦無く降り注ぐ。シャッハはここで初めて相手の素顔を見た……痣も痘痕も無い白く端正に整ったその顔は、声を聞いていなかったら女性と見紛う程に美しく、美を捨てて武に生きて来たシャッハが初めて嫉妬感を抱いた程であった。

 だが油断をしてはならない。セインの手で一度封殺したと思っていたのが実はあの場に居た全員に幻覚を見せる事でやり過ごした程の実力者なのだ。本当は気絶しているフリをしてこちらの隙を狙っていると言う事も充分あり得る……用心するに越した事は無いのだ。

 「……若い。それに強い、戦闘機人と言う道具のまま生きるのが惜し過ぎますね」

 外見年齢は恐らく18歳、顔面に皺やニキビなどの老化の痕跡が何一つ見当たらないので正確な年齢は分からないが、少なくとも20歳にはギリギリ到達していないと見積もった。彼女が年齢に自信を持てない理由の一つに肌の色があった……紫外線云々などによって体表に集中するはずのメラニン成分の色が全く無く、そこから派生する皺・ほくろ・ニキビ・肌荒れなど、先程言ったように老化現象の痕跡が全然無かったからだ。アルビノとはこの様なモノなのかと思わず感心してしまった。

 と、ここで彼女は対象の観察を止めて気絶している彼を運び出そうとした。罪を憎んで人を憎まず……自らが育ち、研鑽を積んで来た教会をここまで破壊された事については憎んでも憎み切れないが、自分は『裁く者』ではないのだと言い聞かせてそれを堪えた。ハンムラビの復讐法ではないが、やり返しでは駄目なのだ。

 「よっ……しょっと!」

 流石は戦闘機人、骨の代替物として埋め込まれている内部フレームの所為で体重が常人の五割増しになっており、担ぐだけでも一苦労だ。体勢的に無理をしていないかと、丁度自分の左横に来ていた顔を覗き込み――、



 真紅に染まった目がこちらを睨むのを見た。



 「え……?」

 人間とは不思議なモノだ、自身の感覚の許容量を遥かに越えた恐怖が精神を犯した時、その根源に対するリアクションが一拍遅れると言うのだ。この場合シャッハが正にそれだった……管理局きってのバトルマニア、烈火の将シグナムと肩を並べた女武人として聖王教会の矛となり楯となって来た彼女が、この時初めて、生涯最大級の恐怖に――、

 「あああああああぁああぁあぁぁああああああぁっ!!!!」

 真の恐怖の前では理性など脆く崩れ去り、本能の赴くままに行動しようとした彼女は一度担いだはずの“それ”を突き離し、『逃げた』。生涯初めての逃げに転じたのだ! だがその事を彼女は恥じない、悔いない、否定しない――なぜならそれが最善策だと判断したからだ。最善策として判断し、『そうする事でしか現状から逃れる術は無い』と判断しての行動だったからだ。相手が人間なら勝てる、相手が竜であれば防衛戦に限ってのみ言えば対抗は出来る……だが、相手が人知を遥かに超越した化物であった場合は別だ、自身の生命の尊厳と生存本能の全てを懸けてそれから逃げなければならない。人でもなければ増してや武人でも戦士でも無い“それ”に仕留められると言う事はそれだけで屈辱であり、生物として最大の汚点なのだから。

 そして――、今まで“それ”に出くわす機会が無かったシャッハを幸運だったと言うのならば、今こうして“それ”を目の当たりにしている彼女は間違い無く不幸と言う事のなるのだろう。水溜りを避ける事すらせずに全力で逃走する……相手取れば死ぬ、対抗しようとすれば殺される、ならば逃げるしか道は無い。



 だが――、



 彼女が逃走してから最初の五秒は黙って見送ろうとしていたはずの“それ”は、ふと何を思ったのか彼女の背中を向くと腰に手を掛け……

 抜刀!

 踏み込み!

 瞬速!

 一閃――!

 ここに戦闘に加わらない第三者が居たとするならば、高速で移動した事に寄る抉れた地面を見ない限り“それ”が瞬間移動でもしたようにしか見えなかっただろう。全力疾走していたシャッハのおよそ五倍以上の走行速度で迫り、刹那の瞬間にその脇を通過、彼女の進行上に立ち塞がった。

 「あぁっ!!?」

 シャッハの逃走の足が止まる――。だがそれは自分の前を塞がれた事によるものではない、その程度の障害であるなら彼女は悠々とやり過ごす事が出来たはずだ。彼女が止まった理由……それは二つあった。一つは目の前に立ち塞がった敵の姿――、全身の体表からマグマの如く滲み出る紅い魔力が焔となって周囲に立ち昇っており、体内で許容し切れなかった余剰な魔力が背面に集中、蝶の如き大小二対の翅の形となって放出されていた。その姿……眼光こそ自分が心底恐怖した禍々しい輝きが残ってはいるが、追い詰められた事によって精神感覚が少しズレ始めていたシャッハはその光景に得も言われぬ『美しさ』を見出してしまい、凝固したのだ。

 だがそれとは別にもう一つ、彼女の足を止めてしまった理由がある。それは自分の身に起きた小さな“違和感”……“それ”に追い付かれる前と後とではハッキリと違うと言えるその感覚が彼女の動きを完全に停止させるに至ったからだ。とは言っても、その違和感と言うのは先程の戦闘で幻覚を見せられたと自覚した時に感じたモノとは違い、今度は物理的なしっかりとしたモノだった。故に、彼女がその違和感の正体に気付くのは早かった。



 「――――斬ったのですね?」



 その疑問に答えは無かった。強いて言うなれば、次の瞬間に自分の体を走った激痛と、視界を覆った赤い液体の霧がその回答だった。腹側と背面……透かして見れば丁度『X』の形になるようしにてシャッハの肉体は斬られていたのだ。

 いつ? そんなもの、すれ違ったあのたった一瞬でやったに決まっている。

 「がっ……!! あぁぐっ」

 20年以上生きて来た生涯で最初となる太刀傷に怯みながらも、彼女の思考は止まらない。今自分の目の前に立っている敵……自分の体を切断しようとしたと言うのに、その両手にはブレードの類は何一つとして握られていないのだ。まさか手刀でやれる訳も無し、かと言って腕部の武装は明らかに打撃用途のモノ、切断には不向きだ。ではどうやって? 考えられるのはあの背面から放出されている二対の翅……霧状に放出された高濃度魔力が凝縮しているあれでの攻撃ならば切断もあり得る。刹那の瞬間に連撃を叩き込んだにも関わらず、内臓や大動脈などを傷付ける事無く肋骨部分を削るだけに留まったのは、恐らくその兵装の使用に長けていない所為なのだろう。自分が走って来た距離と“それ”が追走して来たのに掛けた時間を考えるなら、あの兵装の真価はその『速度』……その殺人的加速から発生する衝撃波による斬撃だとシャッハは推測した。

 さすれば、まだ好機はある! それほどまでの速度を売りにしているのなら、急な軌道変換は不可能なはず……管理局最速の名を欲しいままにしたフェイトですら、ソニックフォーム時の軌道は精々鈍角移動に毛の生えた程度でしか無いのだから、それ以上の速度ではそれすら困難なはず。ならば――、

 「っ!!」

 やられたのは上半身、下半身はまだ生きている――そう考えた彼女は反復横跳びを利用したジグザグ走行で再び逃走を図った。反復横跳びと言っても、聖堂騎士……それも陸戦型として成長して来た彼女の脚力は半端無く、一気に三メートルは跳んでいた。当然そんな軌道を描いて跳ぶ彼女を“それ”が追えるはずも無く――、



 追えないから魔力射撃を放って来た。



 通常の弾丸と違って円月形の魔力弾は、その形状から想像がつくようにブーメランの如く高速回転しながら不規則軌道を描いて逃走するシャッハの背に追い付き――、

 まるで、彼女がそこに来る事が分かっていたかのような正確さで――、

 背後から肩に食い込み――、

 皮膚を切り裂き、神経を焼いて、上腕二頭筋を引き千切り、そして骨格を飴細工のように容易く破壊し――、

 彼女の右腕を『壊した』のだった。

 「ぐああああぁあああっ!!!!!」

 再び激痛に襲われた事でバランスを失い、シャッハの体は遂に地面に倒れ込んだ。肩ごと腕を切り取られた断面からは肉の焦げる悪臭が漂い、腕の細胞が丸ごと焼かれたのを意味していた……細胞を直接破壊された事で再生治療は望めないだろう。

 「……………………」

 仕留めた獲物に止めを刺そうと言うのか、“それ”がゆっくりと近付いて来るのが分かった。痛覚を堪えて首をそちらの方向へ向けると……そこには斬り飛ばされた自分の腕を拾い上げて見つめる“それ”の姿があった。道端に偶然落ちていた小枝を拾ったかのような感じで人の腕を眺める……しばらく凝視した後で――、

 両端を持って骨ごと捻じり切った。

 吐き気を催す生々しい音がシャッハの耳にも届いた。腕が切れただけだったなら、せめて形だけでも繋ぎ合わせる事が出来ただろうが……五指の全てがあらぬ方向へと圧し折られ、螺旋状に数回以上は捻られて使い古されたしめ縄か何かになってしまったそれを、果たして『腕』と呼べるかどうかだが……。さらに“それ”は捻じり切るだけでは飽き足らず、肘の関節を砕き、分断した。単なる肉の塊となってしまったそれを流石に腕とは言えないだろう。

 「はぁ……はぁ……はぁ……!」

 全身の激痛にもはや叫ぶ気力も完全に削がれ、ミミズかナメクジの如き無様な姿で這いずる事しか出来なくなっていた。

 そう――、彼女はここまで追い詰められて初めて気付いたのだ。

 突然変貌を果たした“それ”の正体に……。

 もはや敵意だとか殺意だとかで片付けられるようなモノではない、“それ”はまさに――、

 破壊衝動と殺戮衝動の塊だった。

 遂に“それ”がシャッハの左脚の太腿を掴み上げた。ナックルの鉤爪が遠慮無く肉に食い込み、さらにもう片方の手で踵辺りを掴み、次の瞬間……



 脚を切り取った。



 そこに物理法則などそこには介在しない……乾いていない粘土でももう少しは抵抗があるはずだと思える程にあっさりと切れたのだ。背面の翅を形成していた粒子がほんの一瞬だけ纏わり付き、次の瞬間には骨ごと切断……まるで魔法……。

 蹂躙! もはや殺害だの破壊だのと言う陳腐なモノでは表現できない一方的な行為。千切り取ったその脚も、細いタバコの吸い殻を縦に潰す時のようにして圧壊させ、森の方向に向かって放り投げて遺棄する。

 「あ……ああ、うぅう……!」

 二つの断面からの大量出血で体から力が抜け、更に真冬の冷たい雨が容赦無く打ち付けるので、既にシャッハの肉体は生物としては危険な域にまで体温が低下してしまっていた。指先から始まったその冷化は徐々に神経を麻痺させて彼女を傷口の激痛から解放する代わりに、彼女をゆっくりとした死へと誘いつつあった。このまま放置しておけば、どんなに保っても5分後には意識を失い、さらに5分過ぎれば確実に生物学的な意味で死を迎える……薄れ行くシャッハの脳が諦観の色に滲む。

 そんな彼女の残っている左肩を“それ”が掴み、地面に伏していた腹面を引っ繰り返した。顔は泥に塗れ、腹は更に斬り裂かれた傷口からの血で赤黒く変色していた。

 「…………いっそひと思いに…………殺し……なさい。こんな無様な最期……騎士の名折れ…………」

 自分を見下ろす紅い目に恐怖は感じない……迫る死の感覚がそれらを緩慢にさせてしまっているからだ。だが、例え廃れても騎士は騎士、雨水でぬかるんだ大地で死するぐらいなら、例え化物だろうが人外だろうが自分を倒した者に止めを刺してもらうのが理想……その意味では彼女は死を覚悟していたとも言えよう。

 「……………………」

 シャッハの最期の願いを聞き入れたのか、“それ”は自分の右手の鉤爪をゆっくりと彼女の頭部に伸ばした。雨水よりも冷たい金属の爪先が額から喉元までを、どこが裂き易いかを吟味するかのように撫で回す。そして、遂に――、

 眼球に辿り着く。最後の最後まで趣味が悪い、眼球を抉って直接脳髄を破壊しようと言うのだから……。



 この時はそう思っていた――。



 不意に頬に落ちた小さな液体……雨水とは違って温かく、それでいて血液ではないその滴はシャッハを一瞬で正気に引き戻した。

 「あ、貴方……まさか!」

 だが、時既に遅し。シャッハが戸惑っている瞬間に“それ”の鉤爪が人体で最も柔らかく脆弱な器官である眼球角膜を真一文字に斬り裂き、彼女は永遠の闇に落ちた。

 光を失う前に彼女が聞いたのは古代ベルカ語でもない、どこか異郷の言葉――、

 「Je suis désolé」

 そして――、光を失い気絶する最中に彼女の脳裏に浮かんだある言葉――、



 (あれは……『紅い悪魔』……)










 「それで、騎士カリム……その『紅い悪魔』と言うワードに心当たりは?」

 午後12時45分、教会領内に辛うじて残っていた数少ない建造物の中には、聖王教会管理者のカリムと、事件の事を聞き付けて至急救援部隊の指揮の為にここまで来たクロノが居た。以前来た時に腰掛けた新品の椅子は既に瓦礫の中に埋もれており、外では現在必死の除去作業と負傷者の救援が行われていた。現在のところでは民間人側に死者は出ておらず、負傷者達も命に別条は無いとの事だった。だがあくまでそれはこの日にたまたま教会を訪れていた民間人だけがそうだったと言うだけの話で、侵入者の迎撃に駆り出された教会付き聖堂騎士団はその大半が殺害されてしまった。辛うじて戦闘だけは生き延びた者も居たが、傷が深すぎて長くは続かなかった。ほんの15分前には40名以上だった死者数が今ではさらにその数を増やしつつある。

 教会と管理局……提携関係にある一方の組織がこの様な事態に陥ったとあらばこうしてもう一方が助力に向かうのは必定。だがその二大組織の事実上のトップである二人がどうして現場ではなくこの様な場所に陣取っているのかと言うと……。

 ちょっとした隠蔽工作のようなモノだと思ってもらえれば良い。今二人が話しているのは敵の事……何の前触れも宣戦布告も無しにここに現れ、建ち並ぶ物全てを破壊し、立ち向かう者全てを殺戮し、そして誰にも悟られる事無くして姿を消して行った“敵”の事についてだ。陸戦と接近戦に限定して言えば管理局武装隊をも遥かに凌駕し得るとまで評された聖堂騎士団を、ものの30分と掛らずに看破、壊滅させたその存在……その事について談義するのに身内の前では彼らの士気が著しく下がると考え、あえてこうして人の出入りが無い場所で会合を行っているのだ。誰だってこの様な惨状をもたらした存在についての詳細を聞けば不安になるだろう。殊更それがたった一人の手によってもたらされたモノならば尚更だ。

 クロノの予想が正しければ、こちらを襲撃したのは例の“13番目”のはずだった。既にSt.ヒルデに居合わせたナカジマ家の方からはクアットロにヴィヴィオが強制連行されたと言うのは聞いている……戦闘力に極端に秀でた“13番目”が教会を襲撃し、その制圧に向かったシャッハ達の隙を突いてクアットロが本懐であるヴィヴィオを攫って行く……実にシンプルだが、これ程までに効果的且つ理想的な作戦を立案し実行したのは驚愕に値する。だが、彼も“13番目”がどれ程の実力者かは承知していたつもりだったが、まさかここまでのモノだとは考えもしなかった。“13番目”に立ち向かった者で唯一の生存者であるシスター・シャッハも、右腕と左脚と両目を損失し、傷口からの大量出血の所為で充分に意識が保てない状態にある。彼女が戦線に復帰する事は二度と無いだろう。

 だがそんな彼女でも自分達に何かしらのヒントを残していってくれた。

 『紅い悪魔』……傷だらけの彼女がベッドで昏睡する前に主であるカリムに伝えたと言うその単語……。少なくとも後で聞いたクロノの記憶に聞き覚えが無い以上、その単語の概要を知るのは教会関係者と言う事になるはずなのだ。もしかすれば、それが何か重大な意味を持っているはず……。

 「ええ、知っています。私とヴェロッサとシャッハ……私達三人なら良く知っている言葉です」

 「では、その意味するモノは?」

 「…………それをお話する前に話しておかなければならない事が……」

 そう言いながらカリムはクロノと向き合うように小さなテーブルの椅子に腰掛けた。部屋の棚にあった一冊の本を開くと、かなりの年月を放置していたのか埃が舞い上がった。

 「提督は、どうして私の家系……グラシア家がベルカ時代から聖王教会の中核に居座り続けられたかご存知ですか?」

 「確か……古代ベルカ聖王領に存続していた貴方の先祖が、代々の聖王を支え続けて来た重鎮だったからでは?」

 「ええ、私から数えて十数代前の始祖が聖王の膝元に取り入ったのがグラシア家の始まりだとされています。跡目を継ぐ者が居なくなって王家の存在が宗教化したのも、全ては当時の当主が聖王家の威光を後世まで伝えんが為に仕組んだ事だと伝え聞いております」

 なるほど、権力者の血筋が絶えればその側近が成り替わると言うのはどこの世界でも同じ事だったらしい。

 「では、提督は何故このグラシア家が数百年に渡って聖王教会の権力を握って来られたかをご存知ですか? あらゆる次元世界の支配者達を御覧になっても分かりますように、どんな精強な国家を打ち立てても、その血族が真に覇権を握っていられるのは極々僅かです」

 言われて見れば確かにそうだ、地球だけに限って言っても、古今東西あらゆる為政者達の血族が末代まで威光を保っていられたケースは非常に少ない。どんなに本家が権力を持とうと、いずれはそれに群がる別の権力者の手に落ちるのが必然であり、そうでなかったとしても影から糸を引く者が必ず現れる者なのだ。

 「ですがこのグラシア家は違います。聖王家が消滅したその日から握った覇権を誰にも譲り渡す事無く、今代のこの私に続くまでずっと教会の政権を守り通して来れました。何故だと思われますか?」

 「……………………嗚呼、そう言う事ですか」

 始めは何やら読めないと言った表情だったクロノだが、少し考えた後に結論に到達したのか、すぐに納得の顔になった。何故グラシア家が戦乱の古代ベルカ時代を乗り切って尚この教会が内部で権力を握っていられた理由など、一つしか無い。

 「そうです……『預言者の著書』、未来を見通すこれがあったからこそ聖王教の信徒達は決してグラシア家に反旗を翻さなかった。いえ、翻せなかったと言うのが妥当でしょう」

 『預言者の著書(プロフェーティン・シュリフテン)』……ミッド上空に浮かぶ二つの月の魔力を利用して発動する未来予知のレアスキル。最大で数年先の未来を予知することが可能なこの希少技能は、あまり知られてはいないが実はレアスキルの中でも特筆に値する程に特異な特徴があるのだ。この事実は聖王教会でも代々のグラシア家の直系とその側近、そして提携関係にある管理局の極めて一部の者しか知り得ない極秘事項……それは――、



 「『預言者の著書』は――――“遺伝”する能力です」



 古代ベルカ時代のグラシア家始祖が何故、戦乱渦巻く極端な実力社会だった聖王家に取り入る事が出来たのか? そして何故数多くの群雄が割拠する時代で聖王だけが覇権を握れたのか? それは一重にこの血族の有する能力あってこその繁栄だったと言えよう。何者にも勝る武力と、全てを見通せる予知の目……この二つが揃っていたからこそ聖王家はベルカの地を平定出来たのだ。

 やがて世代交代の時期が迫った時、当時の聖王家の当主とグラシア家の当主は預言の能力が次代に継承される事を発見、これを隠匿する事にした。平定したとは言え未だ戦乱の時代、他の者に悪用される事を恐れたのだろう。だがベルカの時代が終わった後は教会の一部の者に敢えてその秘密を教える事により、逆に聖王教会の中でのグラシア家を地位を確固たるものにして見せたのだ。『聖王家に仕えし預言者の血族』……周囲の畏怖と敬愛を集めるには肩書きはそれだけあれば充分だ。

 とにもかくにも、彼女の能力は子々孫々と“遺伝”するのだ。だが一代ごとに継承されるのではない……彼女の前に預言者を前任していたのは彼女の祖父、つまり二代前から隔世遺伝して来たのだ。例え彼女が子を成したとしても発現するかどうかは不明だ。確かに言えるのは、この能力がグラシア家の直系の誰かにのみ受け継がれると言う事だけだ。数少ない予知系統の魔法であるこれが希少技能として認定されているのは、本来一代限りの突然変異とでも言うべきはずのレアスキルが、血は繋がっているとは言え他人に継承されると言う特異性があったからなのだ。もちろん、この事実を知っている者は前述したように数は少ない。

 「……それで? 既にその事実を熟知している私にとっては大した驚愕にもならないのだが……」

 「ええ、分かっています。先程お訊ねになられた『紅い悪魔』と言うワードについてですが、そもそもこの言葉が最初に表世界に出たのは私から数えて七代前のグラシア家当主が遺した預言に記されています」

 そう言いながらカリムは開いていた埃塗れのその古い本をクロノの方に差し出した。どうやら過去の預言者達の預言を記した一冊らしい、いずれは彼女の預言もここに記されるのだろう……。

 「ご安心を。解読済みのモノを記してあります」

 手渡されたそれに目を通すと、目が痛くなる程の量の文字がびっしりと書き込まれていた。恐らくは最初に預言能力に目覚めたグラシア家の始祖に始まり、数百年分の全ての預言がここに記されているのだろう……どうりで指三本分の厚さがある訳だ。

 その中に見つけた文章が――、





 『名も無き彷徨う者あり、それは“紅い悪魔”也。

 彼の者は強大也。万の兵、千の竜、百の騎士、十の戦船……王の力を以てしても討つ事適わず。足音に虫は怯え、吐く息吹に草木は慄き水は枯れ、その背後には何も残る事無し。彼奴を恐れぬは“裏切り者”と“仮初の王”のみ。

 彼の者は怒る。己が唯一信じ、己を唯一受け入れたはずのモノに見限られ、彷徨い始める。壊し、殺し、奪い、滅ぼし……得る物は何も無し。

 彼の者は繋ぎ留める。失ったモノの代わりを求めて“裏切り者”を縛り付けようとする。“裏切り者”は何も語る事無し……哀れな彼の者に慰めも施しも無く、ただ一時の情だけを寄せる事しか知らず。

 やがて彼の者は王の地を離れ、遠き彼の地へと流れ着く。遠き彼の地に眠る黒騎士を呼び覚まし、自らの糧とする。彼の地に眠る黒騎士は彼の者を認めず……彼の者を弱らせ、腐らせる。されど彼の者に更なる力を与えるだろう。

 されど、汝彼の者に手を出す事無かれ。やがて彼の者は滅びの一途を辿る……紅き怒りが消え去り、悲しみと孤独が体を引き裂こうとも、、決して止まる事はしない。止めようとする者は彼奴より先に滅びを見る。

 彼の者は歩く。遠き彼の地を“悲しみ”の荷を背負い、“孤独”と言う名の足跡を刻みながら彷徨い続ける事しか出来ない。

 “裏切り者”の赦しを受けるその日まで――』





 「代々のグラシア家当主とその近しい側近は、このように歴代の預言者達が遺した預言を管理する役割を担っています。私の代で言えば、丁度ヴェロッサとシャッハがその管理者に当たります」

 「ですが、歴代の預言者の遺した物は数多に存在します。何故その中からこのワードを正確に覚えていたのでしょうか?」

 「単純に彼女の記憶力が良かっただけ……と言うのもあったのでしょうけど、恐らくは『印象深かった』からだと思います」

 「?」

 途端に解せないと言いたげな表情になったクロノに対し、カリムは慌てて注釈を入れた。

 「実はこの預言、歴代預言者の中で唯一……



 起こらなかった事件を予知してしまったモノなんです」



 「…………それは……確かに印象深いですね」

 『預言者の著書』は未来に起こるであろう事象を詩文形式で知らしめる能力……その文面の解釈の仕方によっては意味が異なり、その所為で預言事態の的中率はカリムが言うように「良く当たる占い程度」のモノでしかない。だがしかし、その文面に記されているのは、解釈はどうであれ来るべき未来に必ず起こるはずの出来事を記しているはずなのだ。

 「文面にありますように、『紅い悪魔』は当時最大の勢力図を誇った聖王ですら対処する事は不可能だと伝えられています……。この預言がもたらされた当時の聖王はその正体不明の敵に対処するべく、半ば悪政に近いやり方で富国強兵を推し進め、その結果として領土を拡大、歴史上最大の統治国家を築き上げたのですが……」

 「当の『紅い悪魔』は訪れなかった……ですね?」

 「はい。当時のグラシア家当主が次代の預言者に世代交代してから現在の私の代に至るまで、ここに記されている事件は何一つ起こらなかったのです。疫病、反乱、王族暗殺未遂、果ては突然変異種の魔法生物の暴走……確かに事件は山ほどあったらしいのですが、そのどれもが預言文章の内容とは符合しないものであったらしく、結局、この預言は史上初の『的中しなかった預言』として記録されたのです」

 なるほど、解釈の相違と言う点を除けば的中率100%を誇るはずの『預言者の著書』が唯一予知を外したモノともなれば、預言管理者の一人であるシャッハの脳裏に残っていたとしても不思議ではない。問題は……

 「シスター・シャッハは何を伝えたかったのでしょう?」

 「私はあの子ではないので分かりかねますけど、見た目まんまの特徴だけを伝えるならわざわざその様な周りくどい事はしなかったはずです。何か別の意味を伝えたかったのでしょう」

 「貴方自身はどう解釈していますか?」

 「さぁ……彼女の言う『紅い悪魔』が本当にあの“13番目”と言われる戦闘機人を指しているのかどうかは分かりませんし……。ただ、歴代の預言者達はこの『紅い悪魔』を――」



 『悲しみと孤独の象徴』、と解釈しています。










 ほんの十分前、クラナガン郊外のとあるアパートの部屋にて――。



 「……………………」

 「…………うぅ……」

 あれから時間が過ぎた……ひとまずヴィヴィオを落ち着かせる事に成功したトレーゼは、彼女が食べ物に意識を向けている間にキッチンから椅子を持って来てそこに腰掛けた。一見単に目の前の少女から距離を取っただけに見えるが実は違う……ベッドに座っているヴィヴィオに対して丁度向き合うようにして椅子を配置する事で、食べ終わった後の彼女の意識が次に自分に向くように計算してのことなのだ。そうすることで彼女は否応無しの無意識に自分の話す事に耳を傾けるからだ。

 結果としてトレーゼの思惑は成功し、特に大した混乱やトラブルを見せる事無くヴィヴィオは彼の言葉に耳を傾けるぐらいの事はした。誘拐されて来た身の上、もう少し取り乱すと思っていたのだが、三年前にも同じ目に合っていたのが幸いしたのか終始落ち着いていた。

 「まず、当然だが、外出は不可だ。必要なモノは、こちらで、出来る限り揃える」

 そう言いながらトレーゼは自分の背後のドアを指差す。鍵は掛けられてはいない……代わりにドアノブが抜かれていたが。

 「用を足したいなら、そこだ。ただし、バスルームは、無い……」

 次に彼が指差したのは、こことは別の空間に繋がっているドアだった。風呂が無いとはよっぽどの安物物件なのだろうが、文句は言えない。

 「食事は、一日三回……先程与えた、携帯保存食を、二本。それで、充分だ」

 ピーマン味でなければ大丈夫だ、基本的に好き嫌いはしないのでこれは特に大した問題ではない。

 「次に、最重要項目……一日一回、この試験管に、一本分の血液を、提供してもらう」

 これは少し驚いた。血液を抜かれると言う事は即ち毎日注射器の針を腕に打たれると言う事だ。トレーゼの見せている試験管は通常規格より一回り小さいので死にはしないだろうが、それでもやはり気分の良いものではない。

 とにかく、今までの話を要約すればこうだ――。ここから一歩も出る事無く黙って血液を出していれば身の安全だけは保障されると言う事だ。吸血鬼じゃあるまいし、一回やそこらの採血で死ぬほど採られる事など無いだろう。

 だが、次のトレーゼの言葉にヴィヴィオは精神が崩壊せんばかりの衝撃を受ける事になった。



 「お前の、生活のサポートは、クアットロが選任した」



 「……………………え?」

 「以後、お前に関わる、全ての事柄は、あいつの管理下に――」

 「ま、待って! それってどう言う意味なんですか!? まさか……!」

 「お前の、生活の管理権限を、あいつが持つと言う事だ。食事、睡眠、行動規制、監視……一切合財、全てだ」

 自分の管理をあの四番が行う……たったそれだけの事実でも、彼女にとっては死刑宣告にも等しい意味を持っていた事は確かだった。生殺与奪を握られるとはこの事か。

 「駄目……トレーゼさん! それだけは、それだけはやめてください!!」

 「安心しろ、殺しはしないだろう」

 「そうじゃないんです……!」

 「決定事項だ……今更、変更は無い。お前は、黙ってこちらの、言う事を聞いていろ……………………最後に、質問は三つまでだ」

 どうやらこちらの言い分は本当に何一つ聞くつもりは無いらしい。絶望に打ちのめされたヴィヴィオはしばらくベッドの上で蹲っていたが、やがてそうしていても何も解決しないと判断したのか、ゆっくりと起き上がり、口を開いた。

 「……本当に……トレーゼさんはナンバーズなんですか?」

 「個体名、『Treize』。個体識別番号、“0013”。製造開始年月日、新暦50年8月15日。最終調整完了年月日、新暦55年10月10日。正式稼働開始年月日、新暦78年11月6日。肉体増強レベル、オーバーS。…………正真正銘、創造主スカリエッティが、造り上げた、最古且つ最新鋭の、個体だ」

 そう言いながらトレーゼは自分の足元に真紅の幾何学円形魔法陣を出現させた。ミッド式でもなければベルカ式でもないこの紋様をヴィヴィオは一つしか知らない……間違い無くナンバーズのみが持つ固有技能の証だ。

 「私を誘拐して……どうするんですか?」

 「お前は、重要なサンプル……ただ、それだけだ。それ以上でも、それ以下でも、それ以外でも、何でも無い」

 どうやら自分に多くを語るつもりも無いらしかった。現時点で確実に分かっているのは、少なくとも彼がその目的を達成するまでの間だけは殺される心配は無いと言う事だけだった。

 そして、最後の質問――、

 「……………………」

 「……………………」

 「…………ママ……」

 「?」

 ここに連れて来てから初めて聞く少女の小さな声に、始めトレーゼは聞き零しそうになった。顔を俯けて居る目の前の少女……肩を静かに震わせ、鼻をすする微かな嗚咽の声が次第に大きくなり……

 「ママぁ……ママの所に帰してよぉ……!」

 「……………………」

 もう質問でも何でもない、ただの純粋なる願望だった。たった一人の母の許に帰りたい……見知らぬ場所に連れて来られた彼女の精神は脆く、ここへ来て遂に感情の堤防が決壊、心細さから去来する寂しさと悲しみが双眸から涙となって溢れ出たのだ。服の裾やシーツを濡らし、彼女は嗚咽する。いくら三年前とは違って成長したとは言え、やはり一介の子供……自身の精神が処理し切れないのは当然と言えよう。せめて大泣きしないのは精神年齢が憚るのかも知れなかった。

 「…………残念だが、決定事項だ」

 「うぅう……! うえぁあああっ!」

 「…………クアットロ、少し、良いか?」

 脳内に埋め込まれた通信用マイクロ端末を開き、回線を孤島の地下ラボで作業中のクアットロに繋げる。しばらく相手が出るのに時間が掛ったが、なんとか繋ぐ事に成功すると――、

 「対象の精神、極めて不安定。接触には、充分気を付けろ。以上」

 返事も待たずに言う事だけを言うとさっさと切断、椅子から立つと、ベッドのヴィヴィオに近付いた。腰を落として目線の高さを彼女と同じに合わせると、その小さな瞳に視線を合わせる……。目の前の金色の瞳を前にして一瞬の隙がヴィヴィオに生じ、次の瞬間――、

 「あ…………っ!」

 コツン……っと額をトレーゼの指が小突いた。もちろん、ただ単に小突いただけではない……接触した僅かコンマ数秒にも満たない一瞬に彼は自分の魔力波をヴィヴィオの脳内に直接流し込み、覚醒物質を分泌する部位に作用させてそれを停止、一つの外傷を付ける事無く彼女を昏睡させた。電池の切れた人形のようにベッドに倒れ込んだヴィヴィオに毛布を掛け、トレーゼは椅子を片付けながら外へと続いているドアへと足を向けた。

 「……取り合えず、一週間分の、水分を、補給せねば……」

 以前の彼ならば無理矢理にでも昏倒させようとしただろう。そしてその時ヴィヴィオは必死の抵抗をしただろう……管理局の三強の一角である者を母に持ち、学院の実技試験でもそれなりの成績を持っている彼女が魔力弾の一つや二つを放てないはずが無い。だが何故それが出来なかったのか? それは単純にトレーゼの行動速度が速かったと言う理由だけには収まらない。



 目と目を合わせれば子供はその者を警戒しない。



 たったそれだけ……たったそれだけで精神の幼い子供はなけなしの警戒心を一瞬だけとは言え簡単に解いてしまうのだ。人間の子供だけではない、手に乗るネズミから大型の肉食獣に至るまで、眼球の視線が互いに交差すれば例え一瞬であったとしても隙が生じるものなのだ。

 以前の彼なら絶対にしなかったはずの行動。

 それは彼がつい昨日に迷子の少女から学んだ行動だった。

 脱走防止の為にドアノブを外したドアをディープダイバーで潜り抜け、トレーゼは外の街へと繰り出す。持って帰って来る水分は……ペットボトル20本で充分だろう。










 午後13時00分、聖王教会にて――。



 「ふむふむ、なるほどな。確かにこれは酷いモノだな。これに比べれば、三年前に私が実行した地上本部襲撃作戦がまるで児戯だ、お遊びだ、おままごとだな」

 室内の窓から外の様子を確認する……完膚無きまでに倒壊した建築物と聖堂騎士団の死体の血の跡、そして少し離れた場所に見える爆撃でもあったかのようなクレーター……ほんの一時間前に繰り広げられた、とても戦闘とは言えない一方的な殲滅の痕跡が聖王教会の敷地の大半を覆っていた。そんな大惨事の後にも関わらず、それを引き起こした張本人を造り上げた者であるスカリエッティは実に満足気な笑みを浮かべながら窓の外を忙しく動き回る救護班を睥睨していた。

 「他人事のような口振りですね」

 「おいおい、勘違いは良くないな。三年前とは違って、一連の事件はあくまで“13番目”自身が作戦立ててやっている事だ……私は一切関与していないし、するつもりも無いよ。つまり、本当に『他人事』なんだから仕方が無い」

 いつになくトゲが目立つカリムの言葉をかわすと、稀代の天才科学者はどっかりと椅子に腰掛け、品も風情も知った事ではないとでも言うかのように紅茶を一気飲みした。公式記録上では終身刑扱いである彼が本部からここへ来たのは今からつい十分前。何故かウーノを本部に置いたまま数人の護送担当者と共にここへお忍び訪問……本人曰く、「私の最高傑作が『少し遊んだ跡』を見に来た」とのこと。ちなみに、本来軌道拘置所に居るはずのスカリエッティがここに居る事についてカリムが何も言わないのは、彼女も彼の一時的釈放への働きかけに一枚噛んでいるからだ。とは言っても、まさか教会の敷地内にまで何の断りも無しに入り込んで来るとは思っていなかったらしく、彼が堂々と椅子に座っているその横でカリムはずっと不機嫌に押し黙ってしまっていた。

 「それにしても、まぁなんだね……流石はトレーゼと言うべきだな。一見してただ無差別に破壊しただけにも見えて、実はこれがまたまたどうして手が込んでいる」

 「どう言う意味ですか? 詳しくお聞かせください」

 「フフフ、山の中に籠って俗世から切り離された聖人様達は、これが単なる大破壊としか見受けられんようだな」

 如何にも挑発的に芝居掛った口調でカリムを鼻先で笑った後、スカリエッティは再び窓際へと歩み寄る。

 「そうだな……まずはあの建物を見てもらえばある程度は理解出来るだろうか」

 そう言って彼が指差すのは、侵入者が行った大破壊の最初の雷撃で倒壊した教会の建物の一部だった。

 「お気づきかな……あの建物だけではない、今現在ここに辛うじて現存している建物はその全てが『天井だけを破壊されている』と言う事を」

 「それは! 雷を落とされたのですからそうなるのは必然――」

 「違うな。私もここへ来る途中に少しだけ落雷地点を見させてもらったが……建物を狙ったのと屋外を狙ったモノとでは威力に相当な違いがあることを発見させてもらった。恐らく、建物を狙った落雷は天井を突き破るだけが目的だった可能性がある」

 「だとしても、それに一体何の意味があるのですか?」

 「これだけヒントを与えても分からんかね? 理由は単純にして明快! 『混乱させる為』さ! 教会の礼拝堂の中に鮨詰めにされていたのは何だ? 参拝に来ていた信徒達だ! ここに存在していた礼拝堂の総数から考えれば、その頭数は200を下らないはずだ。勝手に祭り上げられただけの居るかどうかも分からない不確かな存在に対して必死に祈りを捧げていた奴らは、いきなり天井が落雷で崩壊すればどうなる事か……それ位は検討がつくだろう? 加えてその後の豪雨! 天井から瓦礫と共に降り注ぐ、視界の確保すら儘ならないレベルの雨量に人々の精神的圧迫感は更に跳ね上がる。そしてその結果として聖堂騎士団の人員は二分化された……侵入者を迎え撃つ者と、混乱した信徒達を抑える為の二種類にだ。そして」

 確かに彼の言うように、雷撃による天井の崩壊で発生した信徒達の混乱の沈静化を最優先で行動した聖堂騎士団は、その人員の実に七割近くをそちらに回し、残りの三割だけで侵入者を迎え撃ったと言う構図だったと言うのが生き残りの騎士の談だ。たった三割と侮るなかれ、本来なら管理局の選りすぐりの航空武装機動隊にも肩を並べる実力者集団、半分以下であろうがたった一名の襲撃者に遅れを取るはずが無いと判断しての行動だったのだろう。少なくとも、相手が人間であったならその理屈は通じただろう……あの高町なのはでさえ陸戦に限定すれば騎士団の面々とは真っ向勝負を避けるのだから……だが、現実は違っていた。自分達が到着するまでの僅か半時間の間で前哨に駆り出された三割は壊滅、混乱の鎮静化をある程度抑えた後でヴェロッサと共に向かった後続の七割も、その半数以上が死に絶えると言う凄惨な結果に終わってしまった。改めてそう考えれば、この無差別破壊は全て計算尽くで成り立っていた事が実感させられる……だがもしそれが事実なのだとすれば、自分達は今、とんでもない敵との関わりを余儀なくされていると言う絶望的恐怖感がカリムの背筋を凍らせた。

 「本当に……全部計算されていた!?」

 「腐っても私の最高傑作、彼が何の意味も無く行動を起こすはずが無い。だが一番恐ろしいのは、これだけの大破壊が実は学院側に居た君達を呼び寄せる為だけの陽動作戦に過ぎなかったと言う事だな。これだけの為に一体どれだけの人命が失われたか……」

 「…………騎士団員、総数132名……彼らの魂は安らかなる光と風に守護され、楽園へと還るでしょう」

 「ふんっ、死後のモノに楽園だの地獄だの転生だの、そんなモノはただの幻想だ、戯言だ。死ねばそこで全てが強制的に終了される……そして“13番目”はそれを目的として造り上げた」

 「物を壊して、者を殺す……あのシャッハですら腕と脚と眼を犠牲にしなければ生きて帰ってこれなかったんですから、貴方の言う事もあながち嘘ハッタリと言う訳ではないのですね」

 彼女には申し訳ないが、いっそそのまま死んでしまっていた方が楽だったのではないかと思ってしまう……戦士としての道を断たれ、主である自分の付き人すら満足にこなせずに、ただ単に生きているだけの人生をシャッハが恥じずにいられようものか。今でこそベッドの上で何とかして命を繋いではいるが、義理固い彼女がいつ自害しないとも限らない。

 「……あー、ちょっと良いかね?」

 と、ここで椅子に座って総計26杯目となる紅茶を堪能していたはずのスカリエッティが、ふと小さく手を上げた。どうやら紅茶のおかわりを要求するつもりではないらしい……と言うか、心なしか顔色がいきなり悪くなっているような気がする。

 「一つお聞きするが……従者殿は……『死んでいない』のだな? 本当に? 実は君が現実逃避しているだけで、本当はセインもオットーもディードもその従者殿も、とっくに死んでいるのではないのかね!?」

 「なっ!? 何を失礼な!! シャッハは……辛うじてではありますが、ちゃんと生きています! シスター・ディードとオットーの二名も顔面に軽傷、シスター・セインに至っては無傷です!!」

 初めて人前で見せる怒りの形相に、いつの間にか蚊帳の外だったクロノの方が飛び上がった。だが確かに、自分の身内を勝手に死人扱いされれば誰だって激怒する訳で……。だがどう言う訳か、怒らせた当の本人であるスカリエッティはだらしなく口を開けたまま唖然としており、次に長考、その次にやはり腑に落ちないと言いたげな感じでカリムを見直し、果てには夢でも見ているのだろうかと自分の頬を抓っていた。

 「…………もう一つだけお聞きするが……死者を含めてここに居る騎士団の総数は?」

 「ご……丁度、500名――」



 「有り得んっ!!! そんなっ! 事はっ!! 絶対にっ!! 有り得ない!!!」



 今度はカリムが飛び上がる番だった。ここに来てからずっと終始不遜な態度を取りつつも一貫して嫌に落ち着いた雰囲気を身に纏っていたはずのスカリエッティが、突然椅子を蹴飛ばさんばかりの勢いで立ち上がり、その細い両手の一体何処から出ているのか不思議になる位の音が叩き付けた卓上から出ていた。それから数十秒間、クロノとカリムが呆然と見守る中で彼は室内をグルグルと歩きまわりながら、「有り得ん……何かの間違い……いや、そんなはずは……!」と何やらブツブツと呟くだけだった。

 やがて少し間を置いて落ち着いたのか、再び椅子に身を落ち着けた。クロノが無言で椅子を引き、スカリエッティが無言でそこに座り、カリムが無言で紅茶を注ぐ……そんな傍から見れば異様にしか見えないやり取りが行われた後――、

 「提督殿……さんざ大見栄を切っておいて悪いのだが…………一つだけ訂正させてもらえるかな?」

 「何でしょうか?」

 「うむ。実はハラオウン執務官のデバイスの戦闘記録を見させてもらった時から薄々と感じていたのだが……今、確信に変わった」

 通算27杯目となる紅茶を喉に流し込み、狂気の天才科学者はその生涯で初めて――、



 「これはトレーゼの仕業ではない!」



 自説を大否定したのだった。










 同時刻、ミッド某所のショッピングエリアにて――。



 「クアットロ、予定台の増産は、完了したか?」

 小さな店舗でミネラルウォーターをペットボトル20本分購入したトレーゼが帰路につく最中に、ラボに居るクアットロに通信を入れた。彼女の作業速度を考えればそろそろ出来あがっていてもおかしくはない。

 『もちろんですわ。お兄様に言われた通りの量をたった今精製完了しました。今さっきちょこーっとだけ効能がどれ程のモノなのか試してみましたけど、まぁ効きます効きます……』

 「廃人に、なる恐れがある……」

 『あらぁ、心配してくださっているんですの? お優しいんですねぇ~。あ! そ・れ・と♪ 私ぃ、お兄様に一つ頼みたい事がありましてぇ』

 「……何だ?」

 どうせ何か良からぬ事を考えたのかと思いつつも、今の現状下において彼女が何かすると言っても何も出来ないだろうと判断し、トレーゼはこの時点では深く言及しない事に決めた。



 そう……この時点では、だが。



 『昔ドクターが残したままの試験用薬物……確か、まだラボの奥のスペースにありまして?』

 「……あぁ」

 『もし使用する予定が無ければ、このクアットロにほんの少しだけで結構ですから融通してくださらないかしら? ちょっと試したいコトがありますの』

 「……………………好きにしろ」

 確かにあのラボの奥には、かつて主であったスカリエッティがそのままにしておいた数々の薬品が陳列している。中には調合次第で劇物にもなる代物まであるが、それを使ってクアットロがトレーゼに反旗を翻す恐れも無い。仮に彼が油断しており、彼女にそれを実行するだけの度胸があったとしても、彼の肉体にはメジャーな青酸カリを始めとするあらゆる毒素は無意味に等しい。唯一トレーゼの肉体を駆逐するであろう可能性を持つ「毒素」は、細胞レベルで生物を直接破壊できる放射能ぐらいなものだろう。だがこのミッドでは個人がそんな物騒なモノを所有できる訳が無い。以上の点を踏まえた上で彼はクアットロがその薬品を使用する事を許可してしまった。

 『ありがとうございます♪ 断られちゃったら自分で調達しないといけないところでしたけど、これで一安心ですわ』

 「どうでも良い……何をするかは、知らないが、目立つ事は、するなよ?」

 『はぁい。あとそれと、お兄様ぁ……聖王陛下のお世話を任じてくれた事、心から感謝しておりますわ』

 「?」

 トレーゼがその言葉の真意を問いただす暇も無く、通信はクアットロの方から切られてしまった。特に支障は無いだろうと判断したトレーゼはそのまま帰路を歩き続け、片道約10分掛る道程を歩いてようやくアパートまで辿り着いた。当然入室する時はディープダイバーで通り抜ける。

 「……まだ、寝ているか」

 寝室を覗いて少女がまだ眠っているのを確認し、彼は冷蔵庫に購入して来た水分を仕舞い込む作業に入った。小さいながらも優れモノ、20本のペットボトルを収納するには充分なスペースが保たれていた。ほどなくして全てを収納し終えた後、彼は再び寝室に戻ってきた。燦々と陽気を窓から取り込んではいるが、実はこの窓も脱走防止の為に鍵の内部構造を少しだけ弄って開かないようにしてある。

 「……………………」

 キッチンから椅子を持って来るとそこに腰掛け、トレーゼは眠り姫となっている少女を無言で見守る事にした。どの道彼女が起きた後で何が起こるか分からない……また泣き出すだけならまだしも、錯乱して自殺しようものならたまったモノではない。死なせる為に連れて来た訳ではないのだから、少なくとも計画が無事に終えるまでは生きていなくては話にならない。幸いにも彼自身、人質を心身共に生かさず殺さずのままにしておくスキルは予備知識としてその脳に叩きこまれているので心配する事は無い。

 だが――、

 たった一つだけ問題があった。

 元々そう言う人種と接触する機会が無かった所為もあって今まで自分でも気付かなかったのか、昨日の件で自覚した事……それは――、

 「…………どうも、子供は、不得手だ」

 子供は脆弱だ……人間の中で誰よりも他者の手を借りねば生きていけない。そのくせ、自己の存在を顕示する力だけは人一倍あるのだ。その動作の一つに、「泣き」がある……。

 痛ければ泣く、

 寂しければ泣く、

 怒れば泣く、

 怖ければ泣く、

 理解出来なければ泣く……。

 これだけ見ていると泣く事しか能が無いのかとさえ思えて来る。そしてその単純な行動こそが何よりも厄介なのだ、裏も表も無いと来れば引っ繰り返して考える事も出来ないのだから当然だ。その感情の激流が流れ去るまでじっと待たねばならない……トレーゼにとってはそれが一番気だるく、そして理解出来なかった。

 そう言うモノがあるから振り回されればならないのだ。ならいっそ捨ててしまった方がずっと楽なのだ……かつての自分の様に。

 ただ……彼はふと考えた。不自然な程に自然に、本当に自分でも分からない位に不意に考えてしまった。

 もし、この場に“あの人”が居たなら……と。

 「貴方なら…………この様な事態に、どう接するの、だろうか?」

 ひょっとすればこの世でたった一人だけ、この自分が完全にして無欠、万能にして完璧と認識したあの者ならば、この精神的窮地とも言える状況下をどうやって打破するのか……知りたい気がした。










 「一つ、提督殿は『コンシデレーション・コンソール』と言うモノを御存じかな?」

 通算30杯目……混乱から落ち着きを取り戻してしばらくしてから室内に充満していた不穏な沈黙を破ったのは、他の誰でも無くスカリエッティ本人だった。とうとう茶葉が切れたのか、それだけのお代わりを胃袋に収め切ったのを皮切りにして彼自身から破られた沈黙は一つの質問から始まった。

 「三年前、貴方が自分の勢力に与していたルーテシア・アルピーノに施していた一種の洗脳プログラムの事ですね?」

 「その通り。人造魔導師と戦闘機人……人の手で人為的に生み出された者の精神に対して、ある一定の条件下でのみ発動し、脳と肉体と精神のありとあらゆる限界を完全に無視して、ただただ破壊と殺戮にのみにその全ての力を強制的に向けさせるシステムだ。システムと言っても、何も機械的な意味ではない……哺乳類の条件反射と同じで、人の思考の奥底に眠る無意識下に組み込まれる暗示と思ってもらえれば良い」

 「今更ながら人道的なやり口とは思えないな」

 「この際御宅はどうだって良いのだよ。さて――、では第一問から派生する第二問を投げ掛けようか。じゃあ今度はグラシア殿」

 「はい? 何か……」

 「君はルーテシアの観察処分に一票を投じた一人らしいが、彼女に施されたコンシデレーション・コンソールが発動する『条件』を熟知しているかね?」

 「そ、それは……えーっと、そのですね……」

 ルーテシアの別次元世界での観察処分にカリムが賛同したのは確かにそうだが、彼女は保護処分となった彼女らに対して社会的便宜を取り図らう役目を担っていただけであり、ナンバーズを含める彼女らがどの様な更正教育を受けたかについては実はそんなに把握してはいないのだ。故にルーテシアに掛けられた強制暗示の発動条件など露とも知るはずもなく、恐らく当時の担当官であったフェイトの直接の上司であるクロノなら知っているだろうとアイ・シグナルで助けを求めたが――、

 「あぁそれと、この質問は君に投げ掛けたものだからちゃんと君が答えてくれたまえ」

 隣の意地の悪い科学者にその思惑を看破されてしまった。だがそこは流石聖職者、予期せぬ事態に陥っても雅に潔く清らかに――、

 「申し訳ありません」

 腹を括った。彼女のこの余りにも潔い行動が、元来女性は腹黒いモノだと心のどこかで考えていた節があったクロノの考えを改めさせたと言うのはまた別の話である。

 「やれやれ、もっと知的で聡明な方だとばかり思っていたのだが……どうやら私の誤解だったようだな」

 「くっ……!」

 「簡単な話さ。犬が餌を前にしてだらしなく唾液を垂らすのは何故だ? それを食物だと認識しているからさ。では……もう分かるな?」

 「……コンシデレーション・コンソールは……『対象を“敵”として認識する』事で初めて発動する……」

 「その通りだ。目の前に居る対象を敵性個体として脳が認識したその瞬間、システムが作動して自我の大半を喪失する代わりに圧倒的なパワーを得られる。時に外部からの強制信号によっても発動するが、基本的には暗示を施された本人が脳裏に強く意識しない限り発動はしない。だが――、」

 「…………実を言えばそれはプログラムとしては劣化版に過ぎないのだよ。いや……正確に言うなれば、ルーテシアのモノはそれで良いのだが、トレーゼに施したモノは違うと言った方が良いだろうな」

 「違う? どの様に違うと言うのですか?」

 「基本的なコンセプトは変わり無い。対象を敵と認識する事で発動する事もな…………ただ、それとは別にもう一つ、『条件』が存在するのだよ。否、条件と言うよりかはむしろ『束縛』と言った方がしっくり来るだろう」

 “束縛”……その物騒な表現にカリムは自分の背中が無意識に寒くなるのを覚えた。単純にその言葉自体が物騒だったからだけではない……その言葉の裏側に込められ、隠匿されているはずの意味が孕む危険性が感じられたからでもある。その真意をはっきりさせようと彼女が質問を口にしようとしたその時――、

 「失礼、通信が入った」

 途中でクロノが席を立った事で出鼻を挫かれてしまった。スカリエッティの方は別に気に留めていないようだったが、質問する気満々で居たカリムの方は釈然としないと言いたげな恨めしそうな視線をクロノの背中に投げつけていた。が、当の本人はそんな事を気にする事も無く、通信が終わると再び席に戻って来て座り込んだ。その時気付いたのだが、どうもクロノの雰囲気が席を立つ前と今とでは違う事が初めて分かった。しかし、その雰囲気の差異に彼女よりも早く勘付いていたのは――、

 「それで? 何の報告だったのだね、提督殿」

 「貴方が正真正銘、この事件に対して本腰を入れて頂くことがようやく決定しただけです」

 「ほうほう、それはまた意味深な発言だな……どう言う意味かお聞かせ願おうかな」

 正解が分かっていながら敢えて回答を要求するような感じで訊ねているのが丸分かりだが、それに気分を害した風など微塵も無いようにクロノは言葉を続けた。

 「貴方を一時的釈放するに当たってこちらが呑んだ条件……忘れた訳ではないでしょう?」

 「もちろんだとも。この不肖ジェイル、三度の飯は忘れても他人との契約内容までは忘れたりせんよ。『こちらの提示する条件の全てを呑めば、一連の事件解決に全面的に協力する』……忘れるものか」

 「そうですか。では単刀直入に申し上げるとしましょう。



 ――たった今、“最後の条件”をクリアしました」










 僅か五分前、地上本部ゲストルームにて――。



 「貴方とこうしてお互いに顔を合わせて会話するのって、実は10年振りなのよね」

 「……そうだな」

 相変わらずスカリエッティが作って行ったプラモのジオラマが床やデスクなどに展開しており、そんな空間の中に並べられた二対のソファには二人の人間が鎮座していた。主であるスカリエッティの帰りを待って留守を任されたウーノと、そしてもう一人……。

 「そうそう、これ全部ドクターが組み立てたのだけれど、貴方はどれが良いかしら? 私はこの丸いの……」

 「三年前とは打って変わったな。否……『堕落した』と言った方が良いのか」

 「貴方は何も変わらない……それが貴方の美点で、取り柄で、長所で……それでいて欠点よ」

 「何とでも言え」

 ウーノの対面に座っている“彼女”はぶっきらぼうにそう言うと、静かに目を閉じて瞑想の姿勢に入った。だがその口は構わずに言葉を並べたてて行く。

 「既にクアットロの件についてはランスターとか言う執務官から聞いている」

 「そう……なら期待して良いのかしら?」

 「ああ、ある程度はな」

 「なら期待しているわ。あの子の……トレーゼに対する最大の抑止力候補……



 ナンバーズNo.3、『トーレ』」



 全12人のナンバーズで最強……戦術に関しては最右翼、右に出る者無し。

 文字通りの“最強”を目指して生み出された、製造番号第三番――、

 トーレが三年の禁固から解放された瞬間だった。





 「弟の不始末は姉の不始末だ。尻拭いはあいつが小さい頃から慣れている」










 かくして、“無敵”に対抗する為に急遽送られて来た“最強”……。彼女の存在が水面の小石となって渦中に投じられたが、その波紋が只の波紋のままか、それとも大波となって対岸を襲うかは誰にも知り得ない。

 ただ一つ言えるのは……

 賽は振られてしまい、後戻りは出来ないと言うことである。




















 「――って、貴方しっかり人の話聞いてた?」

 新暦85年7月22日、午後13時20分――、地上本部のとある事務室の一角にて。ある一人の女性の呆れ声がその室内から響いてきた。

 「貴方が六年前の『T・S事件』についての資料を作成するのに苦労してるからって、わざわざ空き時間作ってまでこうして付き合ってやってるんだから、居眠りしてないでしっかり聞く! 睡眠不足? それはあんたの責任! 私があんたと同じ駆け出しの頃はもっと上手く時間調節してたわよ。はぁ、こんなのが私の後輩だと思うと、先が思いやられるわ」

 女性はそう言いながら右手を銃の形にしながら、「次寝たら額に撃つわよ」と言い足した。ちなみに、局の敷地内での無許可魔法の行使は御法度である。

 だが――、

 「あー、残念なんだけどもう時間が無いわ。私は次の事件の法的調査があるから、貴方は悪いけど別の人に聞いてもらえるかしら」

 時計の時刻を確認していた彼女は不意にそう言って立ち上がると、椅子に掛けてあった上着を忙しく着ながら早々に移動を開始しようとした。わざわざメモ帳を確認している所を見ると、本当に予定が詰まっているらしい。

 「無限書庫に行きなさい。あそこの先生なら分からない事なんて何も無いから。あ! 連絡は私の方から入れておくから安心しなさい。あとアドバイス! 書類は丁寧に書いてこそ書類扱いなのよ。一字一句の誤字脱字でも許されないんだから!」

 なるほど、先輩からの有り難い御言葉と言うモノらしい。そんな几帳面な彼女を見送っていると、ふとメモ帳の氏名欄にこれまた几帳面に書かれているものがあった。どうやら彼女の名前らしかった。

 彼女の名前が……



 『ティアナ・L・グランセニック』





 六年前の出来事が今の彼女にどう見えているのか……その名も知らない若い見習い執務官は駆け出した。

 知識の宝庫、無限書庫へ――。



[17818] 矛盾:食い違う現実    ※ACfaネタ有
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/07/10 22:03
 物語の視点をほんの少しだけ移動させよう……。どんな大きな荒波も時が経てば必然的に揺れる事を止め、静かになる……その静寂の“時”にまで視点を先に進めるのだ。

 だが勘違いしてはいけない……荒波が消えても水面の小さなさざ波までが消える訳ではない。全ての事象が“波”となって世界を漂い始め、時には消え、そして時には他の波さえも呑み込んでしまう荒波へと再び変貌を遂げるのだ。

 では、早速水面に手を差し伸べて水を掬って見るとしよう。

 そこに何が見えるのか――、




















 新暦85年7月22日、午後13時40分、無限書庫にて――。



 情報集積技術が発達しているミッドにおいて何故この施設に封印されている資料の全てが『本』などと言う紙媒体なのか? それについては色々と所説は尽きないが、最も有力な説としては『文化的且つ盗難防止の為』だと言われている。確かにポケットサイズのメモリー端末に情報を入れていたのでは利便性は言うまでも無いが、そのコンパクトさから持ち運びの良さを利用した盗難に合う可能性が高い。だったら古代人みたく石版に……と言う訳にもいかず、ここを建設した先人達は有史以来最も文化的な情報保存方法によってそれを防止する事にしたのだ。即ち、一冊の本にして情報を保存した。書庫の内部が総じて無重力なのは、バベルの如く積み上がった本棚に仕舞われた本を取り易くした先人達の心遣いなのかも知れない。

 そんなこの施設は現在の姿からは意外にも、ついぞ十数年前まではまともに機能しておらず、まさに管理局内の鬼門と言われて廃墟扱いされていた始末だった。広大な未知のエリアの一体どこに必要な資料があるのかも分からず、入局したばかりの生え抜きの武装局員の何割かを探索隊に出さなければ巨大な本棚の位置さえ把握出来なかった程だったのだ。ただでさえ各部署や施設に対して莫大な維持費が掛かるのに、そんなまともに機能しない施設は局内には不必要だとの意見が高まり、一時期は完全封印処分が決定されかけていた事もあったのだ。

 しかし、そんな施設が今現在こうして多くの局員が知識の宝庫として利用出来ているのは何故か? 

 それは十数年前に管理局に文字通り彗星の如く現れたたった一人の少年魔導師の功績が全てを語っている。

 かつて『管理局の三強』と賞賛された三人の魔導師達を裏で支え続け――、

 就いていた部署が部署だったならエースを狙え、ひょっとすれば『管理局の四天王』となっていたかも知れない有数の実力者の一人――、

 そして、その有り余る知識を多くの執務官輩出の為に役立ててくれた――、

 通称、無限書庫の知識の守り人にして『砲撃天使の堅き楯』――、



 ユーノ・スクライアその人である。



 かつて少年だった彼も今では壮年の男性となり、トレードマークの丸眼鏡を掛けているのは相変わらずだったが、後ろで束ねていたはずの髪が六年前より少し短くなっていた。無重力空間に浮かんで十数冊分の検索魔法を行使している姿は、脳に多大な負担を掛けている事など微塵も感じさせないタフさが見受けられていた。ふと、何か思う事があったのか、彼の手が自分の周囲を浮遊していた本の内の一冊を掴んだ。紅い革表紙のそれは表面に傷や劣化の痕跡が全く無く、つい最近にここへ加えられた物である事を暗に示していた。

 「歴史って言うのはね、実は権力者の都合の良い様に編集されてるってのは聞いた事あるよね?」

 特定の誰かに聞かせる訳でも無し、彼の口からこぼれ出たその言葉は止まる事を知らずに無重力空間に放たれ始め、誰の耳に留まる事も無く虚空に消えて行った。彼が誰に話しているのかは分からない……誰かに話し掛けているのか、それとも単なる独り言に過ぎないのか、それは誰にも分からない……だってここには彼以外に誰も居ないから。

 だが人が口にする言葉には必ず何かしらの意味があるモノなのだ。彼が何か語りかけている以上、彼には最後まで語り尽くす義務があり、聴衆にはそれを聞き届ける権利がある。ならばこの場合も例に漏れる事は無い、誰かが聞いている訳ではないが止める理由が無い今では彼に語らせる事にしよう。

 「実際良く聞く話だと思うね。特に歴史の部分で大々的な編集と改竄が行われるのは、『戦争』の部分……。どこどこの誰が自分の国の人間を何百人殺したとか、逆に自分の国の誰其がどこどこを短時間で占拠しただの、種は尽きない。でもね、そう言った記録は互いにとってもほんの一部分に過ぎないんだよ」

 本を捲っていた指がとあるページを留めた。どうやら過去の何かの記録書の類のようであり、その部分の日付は『新暦79年10月23日』とされているのが見受けられた。今から五年前に記された物らしい。

 「例えば、とある荒廃した管理外世界の話になっちゃうけど、その世界に実在したとされるある一人の『人殺し』はたった数十分で一億人を屠殺したらしいよ。どう言った方法でそんな大人数を殺したのかについては、管理外の次元世界の出来事だから詳細は分からなくて、その人物についての記録はその人間が後世の人間達に『人類種の天敵』と呼ばれたと言う事ぐらいしか残されていないんだ」

 男性の物とは思えない端正な指先が目的の項目を探すべく紙面をなぞる。

 「当然、そんな人間の事だから後世の人は総じて悪魔を見るような目でその人を見ただろうね。でも……彼らは何も見ていなかったんだ。何故その人が一億人の人間を殺そうと思い立ったのか? どうしてそこへ考えが行き着いてしまったのか? 実際に人を手に掛けた時に何を思っていたのか? その事件の背景を完璧に知っている人間なんて誰も居やしない……その本人が語らない限りはね」

 やがて目当ての記述を見つけ出したのか、その指先が止まる。過去の事を思い浮かべたのか、口元に微かな笑みを浮かべているのが分かる。

 「この場合に限って言えば、“彼”は語ってくれたよ。“彼”だけじゃない……“彼”と関わった人間の一部も語ってくれた……。ここにある記録は、六年前に起こった彼の有名な『T・S事件』の第一次報告書……事件の全てが一旦の終息を迎える事が出来た日に作成された一番最初の報告書だよ。“最後のナンバーズ”、“存在しない13番”、“進化する機導士”……J・S事件に引き継いで起こった機人絡みの事件だけに、“彼”を表す呼び名は多い…………でも、本当の“彼”を知っている人間は僕の知る限りではたったの五人しか居ない。今から僕が話すのは、その中の一人……」

 ふと本を閉じ、彼はそれを本棚の一角に収める。そして無重力の空間を慣れた動作で文字通り流れるように移動すると、足の振り子運動を利用して空中に停滞、そして――、

 「でも、その前に質問……。君は“彼”に『姉』が居た事を知っているかい?」




















 新暦78年11月18日、午後8時00分。地上本部ゲストルームにて――。



 「……………………」

 「……………………」

 「……………………」

 「……………………」

 「……………………」

 「…………さてさて、真冬の夜にこうして一堂に会して言葉を交わすのは中々乙なモノだが、如何せん面子がアレな所為でお喋りにすらなってないな」

 つい半日まで存在していたはずのプラモデルの山がまるで嘘か夢幻だったかのように消えており、二対のソファには合計で六人の男女が着席……と言うよりかは、殆ど黙っているだけなので鎮座しているだけにしか見えなかったが、とにかく座っていた。面子はスカリエッティを筆頭にして――、

 つい半時間前に仕事を早目に切り上げて来たクロノ――。

 頭部に包帯を巻き付けながらも席に参入しているユーノ――。

 今日はここから一歩も出ずに留守を任されていたウーノ――。

 主と姉妹との三年振りの対面にも関わらずに鉄面皮を保ったままのトーレ――。

 そしてもう一人……

 「相変わらずですね……御変りないようで安心しました」

 「君も変わらんなぁ。真面目で、頑固で、融通が利かない……自分でそう育成しておいて言うのもナンだが、よくもまぁ、対外的に難が無かったものだな――チンク」

 スカリエッティの対面に腰掛けている面子の中で一番小さな人物……ナンバーズ五番のチンクが如何にも不機嫌だと言わんばかりのしかめっ面で鎮座していた。

 「本当に御変りないですね。他人に予定を全く教えない上に自分勝手な行動ばかりで……こちらに来ていたのなら、どうして一言だけでも言ってくれなかったのですかっ!?」

 「ふっ、大人には大人の事情と言うモノがあるのだよ。それが察せぬようでは、君もまだまだ子どm――」

 「ドクター、そこから先は半分禁句です」

 「おっと! そうだったな。いかんいかん、我ながらどうも人の事をおちょくってしまう」

 「く……!」

 人形は人形師に逆らえない……その故事を今更ながらに実感したチンクはそれ以上の事を追及するのを止めた。

 「…………ウーノから粗方の事情は聞きました。クアットロよりも先に生まれた私ですら存在を知らされていないナンバーズが居たなんて……!」

 「では、その情報を踏まえた上で聞こうか……チンクは“13番目”に対して如何なる対処法を投じるべきだと思うかな?」

 「断然、早急な法的処分を掛けるべきだと考えます。私は未だ相対した事はありませんが、あんなモノをいつまでも野放しには出来ない!」

 「うむ、的を射ているな。では、今更聞くまでもないだろうが、提督殿と司書長殿は如何様に御考えかな?」

 「もし、チンク・ナカジマの主張通りに考えを進めるとするならば、永久凍結刑は免れられないでしょう」

 『永久凍結刑』……ミッドチルダの法的処分上最も重い罪状を犯した者に課せられる極刑の事であり、俗称『ゴミ出し』、正式名称『虚数空間への永久封印処分』。その名の通り、刑の執行対象となる者を石化魔法で固定した後に【エターナルコフィン】などの凍結系魔法で物理的・魔力的に完全封殺し、それを次元空間の狭間に存在する虚数空間に叩き落とす事で、その者は時間も重力も存在しない上に魔法を使えない空間を永遠に漂流し続けると言う内容だ。犯罪者に対しても人道的処置を追求するミッドにおいて死刑の概念は無いが、この刑が事実上の『死刑』として局内では広く認知されているのだ。

 「だろうな。もし仮にここが“13番目”に対する裁判の場なら、彼への処遇はもう決定したようなものだ。だが……現実としてはそうもいかないのだなこれが…………なぁ、トーレ」

 例によって意地の悪そうな笑みを浮かべながらスカリエッティが名指しで呼んだのは、自分の丁度対面にて瞑想しているようにして目を閉じて座っているトーレだった。無人世界の拘置所から急遽連行されて来た所為で服装は白い囚人服のままで、目を閉じていても分かるぐらいの人相の悪さは三年前に書類の写真で見た時と全く同じだった。

 「このまま行けば君にとっては余り好ましくない結果になるやも知れんぞ?」

 「……………………」

 「良いのか……君はトレーゼのたった一人の『姉』なんだぞ? 思う所があるはずだ」

 「…………スクライア司書長」

 「あ! は、はいっ!?」

 同席しながらもすっかり蚊帳の外だと自覚していたユーノは、突然自分に話を振って来たトーレに驚きつつもすぐに佇まいを直して彼女の言葉を待ち受けた。言葉の抑揚からしてかなり不機嫌そうだ……面と知り合ってまだ数十分だが、何を言われるか分かったモノではない。

 と、内心戦々恐々としていた彼だったが――、

 「済まないが、一旦外出したいので誰か適当な者を見繕っていただけないか?」

 「え……? 適当なって……」

 刑期を終えていない犯罪者とは言え一応の建前上は招かれた身……監視役の武装局員を付ければ、昼間のスカリエッティの行動は例外中の例外として、このゲストルームの半径500メートル以内であれば基本的にどこへ移動しても構わないようにしている。だがやはり、もしもの事態と言うのが想定される訳であり、もし仮にその様な事態に陥った場合に『適当な』局員だけで彼女ほどの実力者を抑えられる訳が無いと言う考えが頭を過ってしまうのだ。三年もの間一言も文句を言わなかった彼女が今更こんな所でそんな行動を取るはずが無いとは理解してはいるのだが……

 「今この時間帯だと……教導隊のヴィータ辺りの手が空いてるな」

 「って、何勝手に話進めてるんだよ」

 通信機を弄ってヴィータに連絡を入れようとしている隣のクロノを肘で突きながら諌めようとするユーノ。監視を任せられるヴィータには失礼極まりないが、フェイトが全力を出さなければ勝てなかった相手の監視が務まると本気で考えているのだろうか?

 「(そう言うお前は彼女がここで逃亡を図ると本気で思っているのか?)」

 「(それは……)」

 「(なら構うな。人為的に造られたとは言え彼女も女性……一人になりたい時もあるのさ)」

 「(はぁ? 何だよそれ)」

 「(妻待者にしか分からない女性の心理だ。お前にはまだ早い)」

 「(さり気なく人の事バカにしなかったか?)」

 とか何とか言っている間に、ふとそれまでずっと押し黙っていたチンクが立ち上がり――、

 「ハラオウン提督……その役目、私に一任してください」

 「チンク……」

 突然の申し出に少しばかりとは言え驚きの声を上げたのは意外にも彼女の隣に居たトーレだった。確かに三年前とは違って今のチンクは管理局に務める武装局員でおまけに腕利き、外出を求めるトーレを一時的に監視する権利はある……。だが当の申し出た本人もまさか自分の妹に監視されるとは思っていなかったのだろう、瞑想していた目を見開いて隣の小さな彼女を凝視している様子がトーレの驚きの様相を表していた。

 「……では、チンク・ナカジマに一任する」

 呼び出しに使うはずだった通信機を仕舞うと、クロノはドアを開けて二人の退出を許可した。

 「さぁ、トーレ……」

 「…………あぁ」

 同時に席を立つトーレとチンク……先にチンクが室外に出て待機した後、続けてトーレが出て行く。ナンバーズで最も高身長と低身長の二人が並んでいると互いに互いの身長が強調し合って目立つのだが、それは彼女らの尊厳の為に敢えて口には出さないでおこう……特にチンクの為に。

 ふと、そのまま退室しようとしていたトーレの足が止まった。

 「ドクター……一つだけよろしいですか?」

 「何だね?」

 振り向きもせずに言葉を紡いでいくトーレを特に注意すると言った風も無く、スカリエッティは大人しく耳を傾けているだけだった。

 「私は今まで創造主である貴方に疑念を感じた事はただの一度もありません。ましてや反抗心を抱くなど言語道断……そう考えてきました」

 「…………『今まで』か」

 「はい。ですから……今この瞬間に、私は生み出されて初めての『反抗』をさせて頂きます」

 トーレが振り返る……とても生粋の戦闘用として生み出されたとは思えないその優雅な佇まいに一瞬だけ視線が固まるユーノとクロノ。だが、二人のその一瞬だけの幻想は次に彼女の目を見た時に脆く崩れ去った。

 「私も一連の事件の映像資料は目を通しました…………ですから、それを踏まえた上で敢えて言わせてもらいます。

 ――確かにあれは『トレーゼではありません』

 でも――、

 『ただそれだけ』の事です。予測し得た“結論”が同じでも、そこへ至った“過程”は全く違います」

 精密機器を埋め込んだ戦闘機人特有の金色の双眸が、とても自分を生み出した主に向けるモノでは無いと分かる程の厳しい眼光を放っていたからだ。だが、当のその視線を向けられているスカリエッティはまるでそのオーラを気にした風も無く、逆に薄らと微笑んだ後――、

 「そうか。君はあくまで『違う』と言い張るのだな……」

 半ば何かを諦めたかのような口振りで……それでいて何か哀れむような口調でそれだけを言い残した。トーレもそれ以上は言及する事無く再び踵を返し、チンクと共に一旦外へと出て行ってしまった。

 「…………失礼します」

 「期限は一時間だ。それまでに戻って来るように」

 「承知しました」

 ドアが閉まって訪れる静寂の合い間……二人がこの部屋を出た事によって現在の客人はスカリエッティ、ウーノ、クロノ、ユーノの四人だけとなった。

 「……………………」

 「…………さて、堅物二人がまとめて退席してくれたお陰で幾分か会話が弾むようになったな。これで御二方も聞きたい事を存分に聞けるだろう……まず何を聞きたいかな?」

 「ひょっとしてこうなる事を狙って彼女の精神を逆撫でするような真似を?」

 「はて? 何を言っているのかサッパリだな」

 「……もう良いです。それでは御言葉に甘えさせてもらいますが、トーレさんの言っていたあの言葉……あれってどう言う意味なんですか?」

 「おや、提督殿から聞いてはおらんのかな?」

 「生憎となのは……高町教導官の介抱の後でこちらに向かったものですから……。ここへ来る途中にも何も聞いてませんが?」

 最後の方はむしろ隣の腐れ縁の友人に向けるような物言いでユーノは一応の釈明をした。昼間の一件があってから、ずっと自宅で精神薄弱になり掛けて朦朧としているだけだったなのはの介抱に付きっ切りであり、本人は「自分が居なくなったら今の彼女を守る者が居なくなるから……」と言って病院に行って治療を受ける事すら拒んでいたのだ。何とかして説き伏せたハウスキーパーのアイナが聖王教会に立ち寄っていると聞いたクロノに連絡を入れ、その後にようやく彼の手で地上本部の医務室で頭部の治療を受けに行ったのだ。移動の間に二三の言葉を交わす事はあったが、聖王教会が同時攻撃を受けていた事以外は何も聞かされていないのは事実だった。

 「なら……済まないが提督殿、司書長殿に説明してやってくれないか。研究に使ったフラスコを何十個も洗う作業は出来ても、科学者は二度手間が嫌いなんだ」

 「……………………申し訳ありませんが、それは御自分でお話しになられてください」

 「クロノ?」

 「私の口から話すべきではないかと」

 「ふ~む……それもそうか。面倒だが仕方が無いな」

 スカリエッティが立ち上がる。何かを説明する時に対し、それに掛かる時間が長くなる時に表れる彼の癖だった。彼に言わせれば「科学者の癖」なのだろうが。

 「さてと……まずはそうだな…………司書長殿は『コンシデレーション・コンソール』と言うモノを御存じかな?」










 「っくし!!」

 小さな体躯から大きなくしゃみ……それが口から出た唾と共に虚空へと消え、再び冬の夜の静寂が戻った。現在彼女――チンクが居るのは地上本部の屋外……と言うよりかは展望台のような場所であり、局の敷地から少し離れたクラナガンの夜景が一望出来るスポットだった。そして、彼女が居ると言う事は、当然彼女が監視している対象も一緒な訳であり――、

 「これを羽織れ」

 「ズズッ……すまない」

 トーレが上に着ていた厚着の一枚を隣の小さな妹の肩に掛け渡す。これではどちらが保護者……もとい、監視役なのか分かったものではないが当の情けを掛けられたチンク本人は拒む事無く受け取ったので問題は無いだろう。11月下旬の寒風が容赦無く吹き荒ぶ中で何故姉であるトーレがこんな場所に足を運んだのかは知らないが、とにもかくにもチンクは彼女の後をつけて行く事しか出来なかった。

 「…………変わったなチンク。以前のお前なら、一瞬だけ迷ってキッパリと断っただろうに」

 「他人の好意には目一杯甘えて、その後は恩返し……ナカジマ家での三年間で学んだ教訓です」

 「教訓……か。それも以前なら『敵性対象には情け容赦無く』だったのにな」

 「人は変わって行きます。私の知る限りで『変わって』いないのは貴方達だけです」

 それは三年前から、いや、自分が生み出されてから何一つとして何も変わる事の無い無骨な姉を非難していたのかも知れなかった。無骨で荒削りで、そのくせ鋭利な抜き身の刃のように完成されていて……どこまでも矛盾を抱えているようなままの姉を。

 だがそんなチンクの真意を余所にトーレは遠くの夜景を見つめたままだった。いや、正確には夜景すら見てはいなかった。視線の先のさらに向こう側、その遠い目はまるで昔の情景を見ているようであった。

 「…………あいつも変わってはいないのだろうかな」

 「あいつ?」

 「トレーゼだよ……」

 「っ!? …………私は姉上達よりも後で生まれた故、その者がどんな輩なのかは知りません」

 「当然だ」

 「なら、教えてください! そいつが一体何者なのか」

 「何者だとかそんな大層な者じゃない……。製造開始年月日、新暦50年8月15日。最終調整完了年月日、新暦55年10月10日…………正真正銘のナンバーズで、お前達後発組の兄に当たり……私の一人しか居ない『弟』…………ただそれだけだ」

 「『ただそれだけ』?」

 「ああ、本当にそれだけだ。本当にそれだけの――、



 ただの優しい子だった」










 午後8時15分、クラナガン郊外のとあるアパートの一室にて――。



 トレーゼは観察していた……今自分の眼前で堂々と脱走を図ろうとしている少女の行動を無言でつぶさに観察していた。彼女が睡眠から目を覚ましたのは今から四時間も前であり、起き始めの頃は完全にこちらを警戒して寝室に閉じ籠っていたのだがいたのが、やがてこちらが何も危害を加えない事を理解すると途端に行動的になり出したのだ。流石はなのはを母に持つだけはあると言うか……。だがそれを見たトレーゼも特に何をすると言う訳でも無く黙って観察しているだけで、ヴィヴィオの方もそれを良い事に徐々にその行動の度合いをエスカレートさせて行った。

 まず始めに手っ取り早く窓ガラスを割って脱出しようと試みた。管理局のような公共施設ならいざ知らず、普通の家庭の窓ならそこら辺で拾った石を投げつけただけでも簡単に割れてしまう……増してやここは安物件、割れない道理が無い。キッチンから椅子を持って来るとそれを持ち上げ、全力全開で投げつけ――、

 ガンッ――!!

 「あれ!?」

 渾身の力で投げたヴィヴィオの予想とは真逆に、割れるどころか弾かれてしまった。むしろヒビすら入っていない。どう言う事なのかと内心混乱していると――、

 「その窓は、つい最近に、俺が全部、強化ガラスに差し替えた。装甲車が衝突しない限り、絶対に破れない」

 道理で硬いはずだ……。最近の侵入防止用ガラスは銃弾ですら数百発撃ち込まないとヒビも入らないと聞いた事があるが、やはりこれもそれと同種のものなのだろうか。だとすれば窓を破っての脱出は不可能だ……他の方法を探さなければならない。

 次に彼女が目をつけたのは外へと通じている金属製のドアだった。鍵が掛かったままドアノブが外されているのでこちらも容易ではないが、支えている鍵を衝撃で壊す事は出来るはずだと踏んだのだ。そうと決まれば早速行動に出るのが彼女の信条……ドアとの相対距離を開け、駆け出しの体勢を取った後に一気に駆け出して――、

 「ふんっ!」

 ドンッ!

 全力疾走でのタックルで鋼鉄のドアがほんの少し揺らぐ。手応えはあったのだがまだ足りない、もう何回かアタックする必要がありそうだ。その『何回』が本当に何回なのかは分からないが……。

 「せぇーいのっ!!!」

 ドンッ!

 「よいしょっ!!!」

 ドスンッ!

 「もう一回!!」

 ガン!

 「まだ、まだぁ!」

 ボン!

 「まだ……!」

 ボスン……。

 「そこのドアも、昨日俺が、溶接した。無理にやれば、肩の骨が砕けるぞ」

 今更だが、良く見れば確かに蝶番の部分などが完璧に溶かされて形を変えられているのが見えた。これを押し破るにはそれこそ戦闘機人の脚力で蹴り飛ばさないと絶対に開かないだろう。と言うか、彼に指摘されて初めて自分のタックルに使っていた肩が熱と痛みを持っていることに気付いた……これは炎症を起こし掛けたかも知れないと思うと冷や汗が出て来た。

 「ついでに言うが、部屋の壁は全て、防音素材に替えた。更に、隣り合う部屋は、別名義で俺が購入している……つまり、空き部屋だ。誰を呼んでも、無駄だ」

 そう言いながら彼はいつの間にか椅子から立ち上がって冷蔵庫からペットボトルを取り出していて、すっかり疲労して戻ってきたヴィヴィオにそれを手渡して来た。左の手に携帯食料を二本持っているのを見ると、どうやら約束の食事の時間らしい。

 「…………ありがとうございます」

 「ん」

 敵かも知れない人間からもらった食事に手を付けるのには多少の抵抗感はあったが、時間を置いて冷静になっていた彼女はトレーゼが自分を殺そうなどと言う考えを露とも持っていない事に気付いていたので、毒が混入されていない事も確信していた。殺すつもりなら襲撃の時にやっているはずだ。

 パッケージを破って中身を取り出し、早速口に放り込んだ。ヴィヴィオ自身は母親とは違って食品内に含まれている添加物やら何やらは余り気にしない方だが、少なくとも今食べているこの保存食は今までに食べた事が無い不思議な味がしていた。不味くは無いので別に良いのだが……。

 ほどなくしてそれらを食べ終えると――、

 「腕を出せ」

 「ふぇ? は、はい」

 いきなり何だろうと思いつつも早急にヴィヴィオは自身の右腕を差し出した。学院の冬服なので袖は長く、彼女の手首までをスッポリと隠していた。それを確認したトレーゼは袖を一気に肩まで捲ると、鼻を突く臭気を放っている消毒液が含まれた綿をその素肌に近付けて濡らした後――、

 「ッ……!」

 注射器の針が突き刺さり、小さくも鋭い痛みがヴィヴィオの右腕を走った。皮膚と皮下脂肪を貫き、筋繊維をより分けて、その細い針先は静脈血管へと進入を果たした後に気圧差を利用して赤黒い生命の液体を吸い出し始めた。致死量ではないと頭では分かっていながらも、やはり自分の目の前で直接血液が抜かれて行くのを見るのは気分が良いモノではない……こうしている間も背筋が寒くなるのを抑えられていなかった。

 「……………………」

 「……………………」

 「…………何人……殺したんですか?」

 「……何故、そんな事を聞く?」

 「血の匂いがするんです……」

 聡い奴だ――。自分でも今の今まで意識していなかった所為で忘れかけていた血液の臭気をこの娘は勘付いた……クアットロでも指摘しなければ気付けなかったはずの匂いを感じ取るとは……。

 「…………それが、どうした?」

 「どうして……! どうしてそんな事が出来るんですかっ!!?」

 「敵対すれば、そうするのが当然だ」

 「そんな勝手な理由で――!」

 「勝手か? 敵対、抵抗、障害、反抗……それらの要素は、己に害を成す故、決してあっては、ならない。ならば排除し、破壊し、消し潰してでも、殲滅進行、あるのみだ」

 「でも……! でもでも! 殺すのは……駄目な事だって……! 誰かを殺したり、殺されたりするなんて、悲しいだけだよぉ!」

 「そう言った感情は、理解出来ない。むしろ、無い」

 やたらと噛みついて来る少女を少々鬱陶しく思いながらもトレーゼは彼女に対する精神分析を怠りはしなかった。確かに一般常識で個々の殺人及び不特定大多数の殺戮は古来より御法度どころか道徳心に反する行為の第一として広く深く認知されている……この少女とてそれは例外でないのは分かっているが、ここまで人の生き死にをとやかく追及しようとするのが何故なのか? 義母である高町なのはが管理局の武装隊で命のやり取りをしていた事をどこかで聞いたのだろうか? 今でこそ教導官として働いているお陰で招集される事が少なくなってはいるが、身近な存在がそう言った危険な場で日夜働いていたともなれば他の同年代の者より幾分かこう言った道徳観念が鋭くなるのもある程度は頷ける。

 「人を殺して……トレーゼさんは何がしたいんですか……」

 「全ては、創造主スカリエッティの為。ドクターを奪還し、現状使える、全てのナンバーズも、収集する……それが、俺の計画だ」

 嘘は言っていない。Dr.スカリエッティの身柄を管理局から取り戻し、自分が考え得る限りで最も『ナンバーズ足り得る者』も同時に収集する……それがこの計画の最終目標であり、兵器でありながら持ち主の居ないままに行動するしかない今の自分の存在意義なのだ。

 「それが終わったら……どうするんですか?」

 「そこからは、俺の決める事、ではない。俺は『モノ』……人間では無い以上、そこに意思の介在する、余地は無い」

 「モノって何なんですかっ! 戦闘機人も人間だって――」

 「なら、逆に問う。『人間』とは何だ? 筋肉も、神経も、骨格も、内臓も、眼球も、脳の一部でさえ、全て人工物の塊が、果たして人間……否、生物と呼べるのか?」

 「それは……!」

 「人間なら、手足が欠損すれば、戦えなくなる――。

 眼球が潰れれば、見えなくなる――。

 内臓が傷付けば、血反吐を吐く――。

 骨が折れれば、歩けなくなる――。

 頭部が破壊されれば、死ぬ――。



 だが、戦闘機人は、違う。



 手足が欠損しても、戦える――。

 眼球が潰れても、内蔵センサーがある――。

 内臓が傷付いても、大した事では無い――。

 骨が折れても、飛行する――。

 頭部が破壊されたとて、エネルギーが切れるまで、止まりはしない……。戦闘機人は、人間では無い……運用目的上、あくまでヒトの形をした、兵器に過ぎないのだ」

 そう、戦闘機人はヒトの形をしていながらも根底では全くの別物……人間の柔軟性と機械の確実性を併せ持つ完璧な兵士であり、同時に如何なる状況や環境下に置かれても一切その性能を揺らがせる事の無い究極の兵器の更に理想形……それが戦闘機人の本質であり、その更に上を行く存在として造り出されたのが対魔導師及び騎士戦特化型仕様戦闘機人『ナンバーズ』なのだ。トレーゼの言うように、ナンバーズ……特に敵性対象との直接戦闘を目的として造られたタイプは簡単には死なない。裂傷なら数時間、太刀傷程度なら数日で完治する脅威的な回復力を誇る生命素体部分は物理的に細胞を直接破壊しない限りは死滅せず、例え細胞や器官の破壊に成功したとしてもそれは『生物的死』であるだけでジェネレーターを始めとする各機器が生きている限りは行動を続行するのだ。奴らを完全に機能停止させるには脳と心臓とジェネレーターの三点を同時に潰すより他無く、頭部だけを粉砕したとしても内部に残されたジェネレーターから供給されるエネルギーが枯渇するまでは搭載された体温感知機能やリンカーコア検出システムが働き、対象を追い詰め続けるのだ。

 そしてここで疑問が発生する――。手足を折っても動き、内臓を潰しても這いずり、心臓や頭を破壊しても尚行動を続けられる限り無く不死に近いそんなモノを『人間』と呼んで良いのか、と。

 「……………………」

 「理解しろ。貴様の、眼前に居るのは、一つの兵器の、完成形だ。どんなに、自分と姿形が、似ていても、中身は違う…………そう、あの人が、自分に教えた」

 「……あの人?」

 「ああ、貴様には、関係無い……。もういいだろう……寝ろ。睡眠時間の、減退は、ストレス発生の、第一要因だ……」

 ここまで来てトレーゼは応答するのに飽きたのか、椅子から立つと寝室に続くドアを開いてヴィヴィオにそこへ戻らせようとした。

 「少なくとも二週間は、貴様に健康体で居てもらわなければ、ならない。過度にストレスを溜め込んで、肉体に影響すれば、後の計画進行に支障が出る」

 要するに、調子が悪くなったり早死にするとこちらが困るからさっさと体を休めろと言う事らしい。言う通りにしなければ何をされるか分かったモノではないし、かと言って何もしなかったとしてもこのままでは風邪を引いてしまいそうなのもまた事実……結局、詰まる所こちらが困るのに変わりは無いと言う事だった。大人しくヴィヴィオは椅子を立って寝室に足を向けた。しかし――、

 その足はドアの前で止まってしまい、最後の一歩を踏み出そうとはしなかった。トレーゼには何かを拒んでいてその先へ行こうとしていないように見えていたが、ベッドしか無い空間のどこに彼女が怖れを抱くモノがあるのかが理解出来なかった。

 「…………どうした?」

 「何でも……ありません。…………だけど……」

 本人に自覚があるのかは不明だが、やはり明らかにこの部屋に入る事を拒否しているようであった。こちらが早く入るように促しても中々動かない……実は閉所恐怖症だったとかなのか? だとしたら急遽寝室を変更する必要がある。そうでなかったとしても先程言ったようにストレスを溜め込む要因が万に一つでもあってはいけない訳で……軟禁しておきながら心身の余裕も確保してやらなければならないと言う相反する二つの状態を常に維持させなければいけない分、対象である彼女の扱いは一級指定ロストロギア並みに慎重にするはずだった。それがいきなりこんな所で頓挫の危機に直面しているかも知れないと分かれば内心焦りが芽生えるもので、即刻その原因を断とうとトレーゼが何を怖れているのかを問いただそうとしたところ――、

 「一人で寝た事無くって……」

 「……………………」



 少女、高町ヴィヴィオ10歳……未だに母の胸の温もりが無ければ寝付けないらしかった。










 午後8時30分、地上本部ゲストルームにて――。



 昼間の聖王教会でクロノとカリムに対して語ったように、スカリエッティは自分の知る“13番目”がどの様なモノであるかを順々に語り終えたところであった。

 コンシデレーション・コンソールの詳細――。

 かつてルーテシアに仕掛けられていたそのシステムが“13番目”にも組み込まれている事――。

 ただし“13番目”に組まれたそれはルーテシアとは違い、一つの『条件』が存在していると言う事――。

 そして、それを踏まえた上で“13番目”≠トレーゼと言う疑念が浮上した事も――。

 三年前にクロノと共に事件の後始末を行っていたユーノも、彼らに止む無く加担していたルーテシアにそう言った強制暗示が掛けられていたのは熟知していた。対象を真に敵性として判断・認識する事によって発動し、その者を一種のバーサーカー状態に強制移行させてしまうシステム……。脳や精神に直接作用する所為で対象に対する恐怖等の負の感情は全て排除され、全身のあらゆるエネルギーをただ対象を殺戮し、障害物を破壊すると言う点にのみ注がせる、ヒトの尊厳なんて形無きモノを完膚無きまでに踏み躙る禁忌の術の一つ……。かつて太平洋戦争時の日本では、特攻隊の隊員達に対して出撃前に薬物を投与する事で思考能力を低下させて恐怖心を鈍らせ、途中で寄り道をさせる事無く敵艦に体当たりを敢行させたと言う話がある……主旨はどうあれ、戦闘目的に精神を希薄にさせて思考能力を奪うと言う点では、コンシデレーション・コンソールの意義はこれに近しいモノがあるが、こちらは人体を直接武器と化している事を考えればその残虐性は計り知れない。

 だが、ユーノが気になったのはそこよりも……

 「“13番目”が貴方の言うトレーゼでは無い恐れがあるとはどう言う意味でしょうか? それに……そのトレーゼの暗示にのみ備わっている『条件』とは?」

 「その前に……提督殿に一つだけ頼み事をしてもよろしいかな? チンクにもう少しの間だけトーレを連れて局内をブラブラしているように言っておいてくれないかね」

 「つまり、用件が終わるまで彼女らをここから締め出せば良いと言う事ですか?」

 「察しが良くて助かるよ」

 クロノはすぐに通信を入れるとチンクにその旨を伝える事にした。この場合本当ならスカリエッティの要望は万に一つも通らないはずなのだが、クロノ自身も本来なら軌道拘置所で無期懲役を喰らっているはずの彼を半ば無理矢理にここまで引っ張り出して来た事もあってか、今更その程度の言い分でとやかく言うつもりは無くなっていた。少し遅れて通信に出てくれたチンクに適当な口実を作って伝言を伝えると、クロノは何故か席を立ってドアの方へと足を向けた。

 「クロノ? どうしたのさ?」

 「僕は万年穴倉仕事のお前とは違って多忙だからな……一旦職場に戻らせてもらうだけだ」

 「言ったなこの野郎。一度自分が請求して来る資料の数を胸に手を当ててジックリ再確認して来い」

 「と言うのは建前でな……。正直に言うと、この話の先を二度と聞きたくないからさ…………人間が同じヒトに対してやる行いではないからな」

 「それってどう言う……って、おい!」

 ユーノがその言葉の真意を確かめる前に、クロノはさっさと部屋を退室、最終的にこのゲストルームに残ったのは始めの面子の半分だけとなってしまった。スカリエッティは爬虫類の様な輝きを持った金色の瞳で冷や汗が出るような湿った雰囲気を醸し出し、助手のウーノは会話が始まった時から今に至るまで殆ど口を開かずに押し黙るだけ……こんな沈鬱とした重苦しい事この上無い空間に置き去りにされたユーノは心中で腐れ縁の友人を罵る事しか出来なかった。

 「…………続きをお願いします」

 このままではこっちの神経が擦り減る! そう予感した彼は連続する沈黙を破るべく無理矢理な感じに口を開いた。

 「あー、どこまで話したかな? そうだそうだ、私の最高傑作に課せられた強制暗示システムの『条件』についてだったな。ではここで復習タイムだが、コンシデレーション・コンソールの発動条件を回答せよ」

 「感覚内に捕捉した対象を敵性として認識する事。もしくは、第三者による外部からのコード入力です」

 「パーフェクトだ。そう、対象を敵と認識し、恐怖心と自我の一部を犠牲にするだけで成り立つ強化プログラム。だが、これには一つだけ難点がある…………それは単純に、『対象を敵と認識しなければ発動しない』と言う事にある」

 「一つよろしいですか? 戦場で自陣営以外の人を敵性と認識できないなんて事が有り得るんですか?」

 確かに過去に地球の歴史で欧州のどこぞの国家間の戦争時、前線に居た敵国の兵士がサッカーボールを投げつけて来たのに激怒して蹴り返したところ、それから何故か戦争の真っ最中にあるはずの両国の兵士達が入り混じってサッカーゲームに興じたと言う珍妙極まりないエピソードがあったらしいが、実際に魔力砲撃や銃弾が飛び交う鉄火場でそんな事態になる余裕などどこにだって存在しないはずなのだ。それでいてなお、『敵と認識出来ない』状態があるとかつてのスカリエッティは危惧していた。

 「君のそのスポーツゲームの話は中々に面白い例だが、これが意外にもあるのだよ。例えばルーテシア……彼女の掛けた暗示は『条件』が付いていない事を除けばトレーゼに施したモノと何の遜色も無かった。知っての通り、彼女は私とは一部作戦上に置いては提携関係にあり、本部襲撃作戦を含む様々な形で協力をしてもらっていた。だが、彼女はクアットロに強制されるまで一度もシステムを発動させる事は無かった……何故だと思う? 特に廃棄都市区画にてモンディアルとルシエの両陸士と対峙した時でさえ、彼女は最後までシステムに頼ろうとはしなかった。どうしてだと思う?」

 「…………二人を『敵』だと認識していなかった?」

 「ビンゴ! 理性では敵だと分かっていても、思考を司る領域の更に奥底の無意識の所で否定していたのだよ。否、二人が『敵ではない』と確信していた節もあると言った方が良いか。とにかく、あの時の彼女を見れば分かるように、戦場では対象を『敵』と認識する事の方がよっぽど稀なのだよ。戦場において大抵の者は眼前の対象を二種類にしか絞らない……自分よりも劣る只の“獲物”としてしか見ない者と、自分では足元にも及ばない“障害”として見る者の二つだ。そのどちらも対象を自分と対等の『敵』として認識出来ていない事は共通している……そして、コンシデレーション・コンソールの発動条件はあくまで『対象を“敵”と認識する』事から、この場合は当然発動しない」

 「タネを明かせば催眠術とは言え、システムとしては欠陥品じゃないですか」

 「ならばどうすれば良いと思う? 思考するが故に行き着く結論は人によって千差万別、千変万化……だが、辿り着く答えは無限大に対して対応している解答はたった一つだけ……。君ならこの絶対的とも言える矛盾をどう説明し、そしてどうやって解決して見せるかな?」

 これは予想以上の難題を吹っ掛けられてしまった……。ユーノは考え込む……地球のとある哲学者が言うように、人間は考える葦、即ち思考する動物である哺乳類の中でも突出した高度な知性を有する部類に属する。有史以来、自分達人類は様々な事象に対して『考える』ことで対処して来た。思考とは人間にとってまさに生きる事であると同時に、無限の可能性を切り拓く為の手段だったのだ。その思考で導き出される無限の回答の中のたった一つだけを絞り込んで優先的に行動させるなど、どう考えても不可能なはず……。

 「絞り込む…………?」

 不意に――、

 ユーノの脳髄がスパークする。それは閃き、それは発見、そして怖気が全身を駆け巡った。

 いや、まさか――! 

 だが、しかし――!

 自分の導き出してしまった解に慄き、そして絶望するユーノ。もし! もし仮に何らかの間違いで自分のこの答えが正解だったとしたなら、まさに悪魔の所業……もはやそこいらで蔓延っている弱小犯罪組織がマッドサイエンティストの真似事でやっているような人体改造なんか目じゃない、さっきまで人の尊厳がどうだとか何とか考えていた事が矮小な事に思えて来てしまう……そんな解答……。

 「聡明な司書長殿ならすぐにこの解答に行き着くと確信していたよ……。そして、正義感に満ち溢れる君はきっと私の事を非難するだろうねぇ」

 「こんな……! こんな事がっ、ヒトに! 人間に対して許されるとでも……!!」

 「敢えて言わせてもらおう、何を今更そんなことぐらいで。それに言ったはずだ。彼は“兵器”として私が造り上げたのだと。故に他のどのナンバーズよりも完璧でなければならぬ……だからこそ――、



 『創造主と同胞以外を認識したその瞬間に、その対象を“敵”であると強制認識させる』システムを脳髄に埋め込んだのだ。



 思考する余地など与えん、脳に直接作用し、思考能力を緩慢にさせて尚且つ対象を強制的に敵視させるようにしたのだよ」










 時を少し戻して8時20分、屋外展望台にて――。



 チンクは疑問を抱いていた。目の前の寡黙な姉が突然口にした予想の遥か斜め上を行く言葉が今の彼女の脳裏を反芻して回っていた……。

 今この姉は何と言った?

 過去にトーレを含む上位三人と“13番目”との間にどんな関わりがあったかは知らないが、今の一言で彼女が“13番目”をどの様に見ているのかが全く掴めなくなってしまった。奴が『優しい』!? 義理の仲とは言え、自分の妹の四肢を錆びた壊れかけのブリキ人形みたいに引き千切り、今日自分の耳に届いた話によれば教会に所属していた騎士達を100名以上も屠殺した挙句、同じナンバーズであるはずのオットーとディードにも深手を負わせた輩を、あの12人の正規ナンバーズの中で誰も寡黙で荒々しくそして今まで自分達姉妹をただの一度も人間的評価をした事も無いあのトーレが、事もあろうに『優しい』と言う評価を下した事が不可解極まり無かった。始めは皮肉った表現をしているのかとさえ思ったが、クアットロや昔健在だったと言う二番目の姉とは違って嘘ハッタリや遠回しな表現を好まない彼女が素の言葉の意味以上は絶対に含ませない言い方をする事を知っていたチンクは更に混乱した。

 「トーレ……それはどう言う意味なのでしょうか?」

 「鈍ったな。私が言葉を飾らないのは知っているはずだ……。つまり、言葉通りの意味だ」

 寒風に身を晒しながらそう言うトーレの表情には一点の曇りも無く、かと言って晴々としている訳でも無く、何やらどこまでも矛盾を抱えているようにしか見えなかった。だが彼女がやはり嘘を言っていないと言う事だけはこれで確定はした。

 だが――、

 「少なくとも、相手の四肢を捩じ切ったり、たった一時間で100名の人間を殺し、自分の同胞である姉妹を徹底的に傷付けるような輩を私は『優しい』などと形容しません」

 そうだ、義理の妹とは言えスバルは“13番目”に関わったばかりに手足を切り落とされたのだ。今はゲンヤが頼み込んだ甲斐があってスカリエッティが再生修復に尽力してはいるが、獄中で謹慎を受けていた時はずっとその事の怒りだけが意識を支配していた。それに、奴の計画が一体何なのかについては不明だが、同じナンバーズなら何故オットーとディードに深手を負わせたのだ? クアットロは自陣に引き入れておきながらその行動は明らかに矛盾していた。そして陽動作戦で教会に踏み入り、聖王教会にかつて無い大破壊をもたらしてまで手に入れたヴィヴィオ……既に“ゆりかご”が消滅した今、彼女には何の利用価値も無いはずなのだが、そうと分かっているはずなのに何故ここまで少人数且つ大規模な行動を起こしたのか!?

 とにかく、そんな奴を人間の感性の秤に掛けて勘定することなどチンクには出来るはずもなかった。と言うよりも、この一連の事件が本当に人間一人の成せる業なのかとさえも思えて来てしまう。

 と、そんな訝しげな表情を浮かべている自分の小さな妹に盛大な呆れの視線を向けながら、トーレはこう口にした。

 「チンク、お前はいつから人の話を無下に聞き流す奴になったんだ。お前が言っているのは――、



 このミッドで起こっている一連の事件の首謀者、“13番目”の事だろう?



 私が言っているのは『弟』のトレーゼだ……。ハナからお前達が言っている“13番目”の事を話してなどいない」

 「そうだったのですか…………………………………………え!?」

 今……この姉は何と言った? 確かここへ来てから今に至るまで自分達は何について話し合っていた? 一連の事件を引き起こしている戦闘機人、管理局内通称『“13番目”』……氷に閉ざされた第69管理世界の研究施設から押収された資料の一部に、奴が過去に製造されたナンバーズの最後の一体、『Treize』である事が記されていた事から付けられた名称であり、つまりそれは情報が正しければ『“13番目”=トレーゼ』であると言う事になる。だがしかし、過去にトレーゼと接点を持っていたと言う目の前の姉はたった今それを否定した訳でもあり……。

 「ど、どう言う意味なんですか……!? だって“13番目”は、そのトレーゼって……! え! えぇ!?」

 「本当に人の話を聞かなくなってしまったのだな。部屋を出る時に私が言った言葉を忘れたか? こう言ったはずだ――」










 「つまり結論から言えば、“13番目”はトレーゼではないと言うことさ」

 「すみません、いきなり結論が飛躍し過ぎて何が何だかわかりません。今の話のどこをどう辿ったらそんな結論が出るんですか!?」

 ユーノは困惑した。原因は眼前のソファで踏ん反り返るようにして座っている科学者が発した言葉の所為だった。今この科学者は何と言った? たった今まで自分が最高傑作だと謳っていたはずの存在を、ここでいきなり何の前触れも注釈も無しに突然それまで喋っていた事とはまるで正反対の結論がその口から飛び出したのだ……ユーノでなかったとしても、これを聞いていた者なら誰だって混乱したに違いない。

 「では司書長殿、つい今しがたまで話していた私の講釈の内容を覚えておいでかな?」

 いくら何でも五分前かそこらに聞いた内容まで忘れる程に鳥頭ではない。生命を自然の理ではなく人為的に生み出すだけでも充分歪んでいると言うのに、その被検体である人間から思考能力を奪ってただの兵器に成り下がらせたと言う非人道にも程があるあの話を、忘れられようがない。あの肝っ玉の丈夫なクロノが途中で席を立つ訳だ、三年前にナンバーズ達が人造人間である事が発覚した時でさえ嫌悪感が全身を駆け巡ったと言うのに、今回はその比ではなかったのだから。

 「ほうほう、怒っているね? 何に対してかね? 人為的に生命を生み出した事にかね? 手足を掻っ捌いてマニュピレーターをブチ込み、過多重力にも耐え切れるようにと内臓の位置を勝手に差し替えたり、眼球を割ってマイクロ単位の機器を入れ込んで、そして頭蓋を抉じ開けて脳を引っ掻き回して催眠術を施した事にかね? 今更ながらに言っておくがね、私を君達で言う所の一般常識とやらに括れる存在だと思わん事だな。私は自分自身の知識欲と探究欲を満たす為ならどんな行為だろうと厭わない……人造生命? 造ろう、幾らでも! 兵器開発? やろう、望むままに! 代償は私の欲望を満たす事……ただそれだけで私は満足なんだよ。覚えておきたまえ、私はこう言う人種なのだよ」

 怖れも引け目もそこには全く無い……むしろ逆に尊大な態度を終始一貫しているのが清々しいぐらいだった。

 「それで、どうして『“13番目”≠トレーゼ』の方程式が成り立ったのかを教えてくださ――」

 「はぁぁあ~っ! 君は全く察しが悪いなぁ。あれかね? 穴倉の職場で生活している内に頭の中がカビたかね?」

 「なっ!?」

 予想だにしていなかった最高級の小馬鹿っ振りに面喰らいながら、ユーノはソファから転げ落ちるのを必死になって堪えた。いや、それは確かに自分で考えもせずに人に解答を求めると言う行為は探究する科学者であるスカリエッティの癪に障ったのだろうが、いきなりそんな侮蔑の言葉を吐き掛けられなくても……

 「良いかね? 本来ならばトレーゼにはコンシデレーション・コンソールが掛けられていて、敵を認識した瞬間に爆発的な力を発揮出来るように仕組んである……ここまでは良いな? 更に、彼にはそのコンシデレーション・コンソールを円滑に発動させる為に『強制的に敵を認識させる』システムが付いている…………では、そこから導き出される解は何だね?」

 「……………………」

 「答え易いようにヒントを出してあげよう。そう……『コンシデレーション・コンソールは“敵”の完全排除を以て解除される』」

 「ッ!! まさか……っ!!?」

 ユーノの頭に一つの閃きが輝くと同時に、その導き出された答えから派生している事実を認識したことによる悪寒が背筋を走った。欠けていたピースの全てが当て嵌まり、目の前の科学者が言わんとしている内容にここでようやく辿り着く事が出来たのだ。

 「気付いたようだね。そう……コンシデレーション・コンソールは敵を認識する事で発動し、その敵を完全に屠る事で初めて解除される……。一度認識されればその対象が水中、地下、大気圏外にまで逃走しようと関係無い……発見し、追尾し、そして破壊する」

 「…………それはつまり……」

 「そうだとも……。もし今回の事件の犯人が本当にトレーゼならば――、



 彼が交戦した場所には生存者が居るはずが無いのだ。



 高町教導官並みの実力者ならばともかく、たかが聖堂騎士団員の400や500程度の頭数、たった30分もあれば教会の土壌ごと消滅するはずなんだ。否、していなければ可笑しいのだよ! この私、ジェイル・スカリエッティがそうするように徹底的な改造を施したのだからな」










 「で、では聞きますが、トーレは何故“13番目”がその……トレーゼとか言う輩と符合しないと断言する要因は何ですか? 私だって何も聞かされないままに一方的に結論だけを叩き付けられただけでは納得がいきません」

 チンクの言い分にも理はある……。この自分よりも寡黙で無口な姉がその輩に対してどれほどの思い入れがあるのかは知らないが、単に贔屓しているだけでの発言だとしたならそれこそ納得いかない。幸いにもクロノからの連絡で外出時間が延長した事もあり、時間にはまだ充分余裕がある……質問に答えるまでは彼女をここから一歩も移動させないつもりで居た。

 「……………………質問に質問で返すのは失礼だと分かってはいるが、一つだけ聞いて良いか?」

 「……どうぞ」

 「そうだ……ある一つの仮定の、『if』の話をしよう。もし仮に……ある日突然ノーヴェが通り魔殺人で見ず知らずの赤の他人を手に掛けたとしよう」

 「なっ!!? 何をいきなり! ふざけるのもいい加減にしてください!!」

 「仮定の話しだと言っただろう。もしその様な知らせがお前の耳に入って来たとしたなら、お前はその時どんな考えが思い浮かぶ? 実際にその現場を見た訳でもなく、ただ単に風の噂や人づてに聞いただけの情報だけで、お前はその真偽をどう判断する?」

 「フン、三年前ならいざ知らず、ノーヴェは教育者である私や姉妹達が責任を持って指導している! 万が一だったとしても、私はあいつが如何なる理由であっても殺しを働くような下種な行為に手を染めたりしないと信じている!」



 「つまりはそう言うことなのだよ……私が信じている事と言うのは」



 見計らったように一陣の寒風が二人の間を吹き抜ける……姉の数倍の長さを誇るチンクの銀髪をなびかせ、トーレの方は全く気にした様子も無く夜景を見つめているだけだった。時が止まったとまでは行かなかったが、少なくとも姉の口から出された事実を頭の中で消化して完全に理解するのに要した時間の間だけ動きが止まっていた事だけは確かだった。やがて徐々にその言葉の意味を理解して――、

 「トーレは……そのトレーゼの教育者だったんですか?」

 「教育者……か。あの頃は私も精神的にまだ幼かったからな……ウーノやドゥーエだけに限らず、同族だとかナンバーズだとかと言うよりも、やはり『弟』と言う見方の方が強かった。今で言うなら、年下の同期と言うところだな」

 冬の夜景を眺めるトーレの口元がほんの少しだけだが顔に笑顔を作った。隣に居たチンクは声こそ上げなかったが内心では心底驚愕していた……。あの無機質なオットーとディードとは違う意味で表情を作らなかった鉄面皮のトーレが、例え目を凝らさなければ分からないような薄い笑みだったとしても表情を浮かべた事はそれだけで驚愕に充分値するモノだったからだ。

 「つまり……私にとってのノーヴェが、貴方にとってのトレーゼと言う訳ですね?」

 「私と言うよりかは『私達』だったな。あの頃は今と違って四人しか居なかった……。青臭い言い方をすれば家族だったんだろうな、私達は。あいつは……幼かった私達がナンバーズとしての知識を与える前に姿を消した…………飛行の仕方、ISの発動方法、戦い方、そして殺し方……教えられなかったんだ」

 「教えていないから、人を殺す事が出来ないはずだとでも?」

 「いや、それだけじゃない。幼かった私達姉妹は躊躇った……その結果としてあいつにその知識を与えられなかった……。何故だと思う?」

 「……………………『優しかった』から、ですか?」

 「単に青かっただけだとさえ思えるが、私達は無意識に拒んだ……私達には無い優しさを持った『弟』が、私達の所為で穢れてしまうのではないかと恐れたからだ。あの時から十年経っていたらその考えも違ったのかも知れないが、あの時……あいつが連れられて行った時はそれでも良いとさえ考えていた。私はなチンク、そんな虫酸が走って反吐が出る程にどうしようもなく優しいかったあいつが――、



 どんな理由があっても殺人だけはしないと信じている。



 ナンバーズと言う枠組みから見れば異常なんだろう……。だが、私はそれでもあいつが生身の人間に危害を加えるとは思えないんだ。あぁ、到底思えないんだよ……。私達姉妹はそう言う不器用な育て方しか出来なかったのだから」










 「だから私は断言できる――」



                              「故に私は確信している――」



 「あのトレーゼが……私の『弟』が――」



                              「あのトレーゼが……私の『最高傑作』が――」



 「絶対にこんな事はしないと――」



                              「決してこの様な事にしてはおかないと――」



 「こんな――」



                              「こんな――」



 「こんな残酷な事をするはずがないんだ」



                              「こんな生温いやり方で収まるはずがないんだ」



 「だから私は信じない――」



                              「故に私は信じない――」



 「一連の事件の犯人がトレーゼではないと」



                               「今回の件はトレーゼの仕業ではないと」



 「だからこそ――!」



                               「それ故に――!」






                  「『“13番目”≠トレーゼ』なんだよ」










 午後9時00分、クラナガン郊外――。



 冬の寒さが容赦無く染み込む安アパートの寝室に一人の少女が眠っていた。ミッドにおいては珍しくないブロンドの髪を枕に埋め、完全に熟睡しているのか少女――ヴィヴィオの体は呼吸によって規則正しく上下していた。

 だがここに居るのは実は彼女だけではなかった。確かに静かに寝息を立てて寝ているのはヴィヴィオだけだったが、彼女のすぐ横……布団に包まれていた大きな塊がその上半身を起こし、通信回線用のホログラムを空中に映し出す。虚空に現れた『SOUND ONLY』の文字を確認すると通信相手にそれまでの現状報告を開始した。

 「ようやく寝てくれたわ。わざわざこうやって分かり易い恰好してあげないと落ち着いてくれないんだから……」

 心底うんざりしたと言う感じでその人物は通信相手に愚痴を零しながら、自分の隣で大人しく寝ている少女に目を向けていた。

 「それにしたって、本当は戦闘目的に造られた私がこんな風に子供をあやす羽目になるなんて……博士が知ったら何て言うのかなぁ」

 『……………………』

 「まぁ、別に良いよね。これはこれで必要だからやってるんだし。あ! あとそれと、明日からあなたの当番なんだから、しっかりしなきゃダメよ? 分かってるの? 返事は~?」

 『…………あ、あの~……一つ良いでしょうか?』

 「はい何でしょう? クアットロさん」

 顔も見えない通信相手に対して、これ以上無い実ににこやかな笑顔を向けながら“彼”はクアットロにその先を促した。そんな余裕に満ちた“彼”とは対照的にクアットロは――、



 『お願いですから! その悪魔の声で通信するのをやめてくださいぃっ!!』



 「あぁ~、忘れちゃってた。ごめんごめん」

 “彼”の姿が窓からの月明かりによって映し出される……。

 ピンクの無地のパジャマに、スラリと伸ばされたしなやかな流線形の肢体、腰まで届きそうな程に長く濃い亜麻色の長髪を肩から流し、外見の割にはどこかあどけなさが残るその声の主はどこからどう見ても――、

 高町なのはそのものだった。

 声や外見だけではない……喋り方やその抑揚、顔に見せる表情や指先までの一挙手一投足、そして何よりも隣で眠っているヴィヴィオに向ける慈愛に満ちた視線と頭を撫でる優しい手付きが、明らかに偽物だと分かるはずの存在を本物のように醸し出していた。

 もちろん、ここに居るなのはは本物ではない。本当の高町なのはは自宅で療養している上に脳をやられて満足に喋る事すら出来ないはずなのだ。今ここにこうして居るこの人物は対人偽装能力『ライアーズ・マスク』によってトレーゼが変身したものである。

 『それにしても、まるで本物みたいですわよ。聞いてるだけのこっちが震え上がりますわ』

 「本物みたい、じゃないの……。限り無く本物に近い偽物……いいえ、誰にも知られないで本物に挿げ変わる事がこの能力の本当の目的なんだから」

 ベッドに腰掛けるなのは(トレーゼ)は本当のなのはの様な笑顔を浮かべながらクアットロとの通信を続けた。

 「お姉ちゃんのドゥーエはただ変身するだけで終わりだったけど、私にはあのヴェロッサって言う人からもらった『思念捜査』って言うのがあるから、他の人の記憶を頼りにしてもっと完璧に化けられる……凄いでしょ?」

 『た、確かに声だけ聞いていますと本当に本物みたい……。でも、どうしてそんな所で変身を?』

 「うーんっとね……この子がどうしても一人じゃ眠れないって言うからね……母親の格好なら安心して眠ってくれるかなって」

 『よくもまぁ騙されてくれましたね。反発されなかったんですか?』

 「されたよ。でもねぇ、頭で分かっててもここまでそっくりだと生理的に安心するみたい。すぐに寝てくれたよ。この子の頭から母親に関する記憶を抽出してるから、ほら! 完璧に再現出来てるでしょ?」

 『……どうでもいいですけど、早いとこ元の姿に戻っていただけませんか、お兄様』

 「しょうがないわね……」

 足元に真紅のテンプレートが出現し、“彼”の全身が紅く光る。腰まで伸びていた髪が縮んで紫色になり、胸元の膨らみは平たくなって代わりに筋肉が戻り、着ていた服も淡いピンクから白くなり、最後に瞳の色が金色に戻ったことでようやく彼は元の男性体の姿に戻ることが出来た。変身に要した時間は僅か五秒足らず……管理局の捜査課では一部の潜入捜査官などがその捜査目的上で動物などに変化する変身魔法を使用しているが、彼のその変身速度は魔導師のそれよりも動物をベースにした使い魔並みの速度を誇っていた。

 「これで、いいだろう。過去に、ナノハ・タカマチに、何をされたかは知らないが、相当な恐怖を、抱いているな」

 『天井や壁をブチ抜いてエネルギーの塊が飛んできたら誰だってトラウマになりますわ』

 「くだらないな……。砲撃一辺倒の偏った個人戦力の、どこを怖れる必要がある?」

 『お兄様にとっては大したことなくっても、電子戦特化の後方支援目的に造られた私じゃ無理なんですぅ』

 確かに直接戦闘用に造られていない彼女では精々新米の武装局員十数名を相手取るのが関の山だろう。戦闘機人としては下の下程度の戦闘力でしかない。

 「それはそうと、『毒』の予定台生産は、完了したか?」

 『えぇ。言われた通り、保冷庫が満タンになるまで瓶詰しましたわ。それで、いつあれを配置するんですの?』

 「今夜だ」

 『了か……って、えぇ!? 今夜って……今からですか!?』

 「当然だ。計画に、遅延は許されない」

 ベッドのすぐ傍に置いてあった待機状態のデウス・エクス・マキナを掴み取るとベッドから立ち上がり、外出の支度を始めに掛った。セットアップすると、現在八つの変形形態を有している彼のデバイスがティアナから収奪したクロスミラージュの形に変形した。街中で戦闘になった場合にはレヴァンティンやストラーダのような長物は逆に不利になる恐れがある……手軽で素早く、それでいて正確に獲物を狙う事の出来る銃器の方が遥かに接戦には向いているのだ。それに今回は戦闘目的で行くのではなく――、

 「安心しろ、行くのは、俺だけだ。一旦、そちらに寄る……採取した血液の、解析と精製を、任せたぞ」

 『まぁ……今更お兄様に逆らうつもりなんて毛頭ありませんわ。…………でもぉ、一つだけ聞いてもよろしいかしら?』

 「何だ?」

 『随分と陛下に御執心のようですね~。お兄様の事ですから、こっちの言う事を聞かないなら締め上げてでも優劣をハッキリさせるだろうと思ってましたのに、一人じゃ眠れない陛下の為にわざわざ安心して眠れるように母親の格好までして差し上げるなんて……。お優しい一面がある、と言った方が良いのかしら? お陰で可愛そうな陛下の御心は一時だけでも潤されたようですけど』

 「……………………そう言う、お前にも、一つ問う」

 『はぁい?』

 「お前は、今まで自分の事を、『人間』だと、思ったことはあるか?」

 『全っ然!』

 「だろうな」

 クアットロの景気の良い返事を最後に、トレーゼは通信を切断した。支度を整え終わった彼は拳銃型のデバイス片手に部屋を後にしようと、ドアに手を掛けた。血液を収めた試験管のケースは既に持っている……後はここから一旦ラボに転移してから例の『毒』を大量に持ち出すだけだった。

 ふと――、

 「……………………」

 ベッドのヴィヴィオが身動ぎした。実は寝返りを打っただけなのだが、よく見ればその際に掛け布団から肩がはみ出てしまっているのが見えた。自分達機人にとってはどうと言う事も無い気温だが、目の前の少女にとっては凍えるような寒さだ……途中で起きて自分で掛け直す事を期待したが、この熟睡度では起きた頃にはすっかり冷え切ってしまっているはずだった。ここには入れ替わりでクアットロが来るはずだろうが、あの管理体制が穴だらけの彼女がこれだけの落ち度に気付く確率はほぼゼロだ。例えどんなに低くても風邪から派生するであろう病の可能性を考えれば、ここで自分が摘み取っておくのが妥当だ……そう考えたトレーゼは踵を返してベッドまで戻ると、なるべくヴィヴィオには触れないようにしながら布団を元の位置へと掛け直した。

 改めて少女を見やる……。聖骸布に含まれていたDNA情報を元にして生み出された聖王の器……目的こそ違えど、その出自や製造方法の大半は自分達戦闘機人と何ら変わりないはずのこの人造生命体が、つい一時間前までは血の繋がらない母を求めて泣いていた……。トレーゼは彼女らが言う『母』と言うモノを知らなかった。出自を辿れば居ない事は当然だ……強いて言えば、遺伝子提供者が『父』であり、試験管や培養槽が『母』と言う事になるだろう。逆に、自分達と同じような出自を持っている癖に生物的な『母』と言う概念を持つ少女を、彼はそこから起因する精神の揺らぎを利用して姿形だけのハリボテの母を演じる事で自分に対する警戒心を消失させようとしたのだ。

 「…………肉親の、概念なんて、脆いな。お前も、俺の姿を見ても、それが偽物だと、分かっていたはずだ」

 それでも母の偽物に一時だけとは言え縋るとは……やはり『人間』として生きた者は脆弱だ。分かっていて尚、縋らずには居られなかったのだろうが……。

 脆弱――。

 貧弱――。

 弱小――。

 非力――。

 恐らくこのありとあらゆる次元世界の中で最もか弱く、そして最も出来る事の少ない者を隣に見つめながら、トレーゼは限られた思考の中でこう呟いた。



 「やはり……子供は、嫌いだ」




















 新暦85年7月22日、午後14時00分、無限書庫にて――。



 「――っと、君がその執務官だね? ランスター執務官から聞いているよ。へぇ~、そんなに若いのに提督から直々に報告書作成をね~。でも、気を付けた方が良いよ。あの提督は仕事面じゃ本当に人使いが荒過ぎるから」

 無重力の空間で浮遊しながら本に目を通していたユーノは、来訪者の存在を目に留めると、すぐにそちらの方へと向かって飛んで行った。その際に周囲に浮かんでいた数冊の本が反動であらぬ方向へと飛び散りそうになるが、作業中の司書達の素早い連携で回収され、元あった本棚へと戻された。

 だが、収めたはずの一冊が静かにずり落ち、分厚いページがパラパラと捲れてしまった。しばらくそうして宙を舞っていたが、気付いた司書の一人がそれを再び回収し、棚へと戻す。

 司書が手にした時に開いていた最後のページ部分には実にシンプルな字体で――、

 『首都圏リニア幹線貨物車両襲撃事件』とだけ記されていた。

 この題名の時点でどんな内容か想像がつきそうな事件が、後に“13番目”……トレーゼ・スカリエッティの存在を完全に世に知らしめる一大事件へと発展するのだった。

 そして、この字面の直後にもう一つ……これとは別の事件名が記されている箇所に小さく、印刷ではない手書きの文字でこう書かれていた。



 『戦闘機人戦争:“ドールズウォー”』



 更なる別名『最後のJ・S事件』。このミッドチルダで起こった“13番目”に関する事件の中で、最後に勃発した最大規模にして最悪の事件の俗称である。



[17818] 仮面の日常:午前
Name: 毒素N◆415c7f87 ID:73ca1900
Date: 2010/07/29 00:59
 11月18日午後11時30分、とある絶海の孤島にて――。



 ラボに佇む一人の人影……少し黄色掛った亜麻色の長髪を滑らかに流しているその人物――クアットロは、一旦この施設に立ち寄った兄から渡された試験管を先程からずっと無言で眺めていた。とにかく眺めているだけだった……血液の充満してあるその試験管を時折ワイングラスのように揺らしながら、いつも浮かべている下卑ている笑みをどこへ置いてきたのか、まるで心底つまらないモノを見せられた子供のような無表情を目の前の赤い液体に向けているだけでしかなかった。

 「あ~ぁ、つまんない。本当に退屈ですわぁ~。お兄様は今頃、仕掛けを準備するのにクラナガンの街を飛び回っているでしょうから、帰って来るのはいつになることやら……」

 実を言えば彼女にやるべき事が全く無い訳ではない。トレーゼから手渡された血液を解析機に掛けて染色体を抽出し、さらにそのDNA内に存在している因子を特定して絞り出さなくてはいけない……。だが、トレーゼが『毒』の仕掛けに向かってから既に二時間が経過しても一向に彼女が作業に掛かる気配は無く、かれこれこの二時間の間ずっとこうして試験管に収められた血液を見ているだけでしかなかった。

 今こうしている間も全く取り掛かる事も無く――、

 「それにしても、お連れした時の陛下は可愛かったですわぁ~。あの小便臭いだけだったガキが、たった三年の間に見違えるように化けてくださるんだものぉ~。初めてお目に掛った時は、他の出来損ないのクローンと同じように数ヶ月くらいで肉体が崩壊するかと思いましたけど、まさかこんなに長く保つなんて想像していませんでしたわ。嗚呼、科学の予想を遥かに越えた生命の神秘に、このクアットロ感動ですわぁ♪」

 ミーハーな女子高生が有名タレントを生で目撃した時の様な異常な高さのテンションで、クアットロは興奮に頬を染めながら踊るような足取りで移動し始めた。クルクルと回転しながら彼女の足が向かう先は、兄に命じられていた血液を解析する為の機材がある場所……その目の前へとやって来る。そうして手に持っていた試験管をスリットにセットしようと手を伸ばし――、



 「でも気に入らない」



 パリン──!

 与えられた玩具に飽きた子供の様な感じに、クアットロは何の躊躇いも無く試験管を握り潰した。万力のような圧力に耐久する事が出来なかったガラス管は何の抵抗も無く一瞬で砕け散り、封入されていた赤い液体は収まるべき空間を失った事で自然に従って床に飛び散った。手袋もせずに握り潰した事によって内側の皮膚には細かくなったガラスの欠片が刺さり、封じ込められていたヴィヴィオの血液でじっとりと赤く濡れたその手をクアットロは眼鏡越しに見つめ、そして――、

 「ペロ♪ うーん、やっぱり子供ね。血液にまで甘ったるい味が染み込んでるわ」

 唾液を豊富に含ませた舌先で掌のそれを舐め取り、そして苦虫を潰したような表情でそれを吐き捨てる。そして自分の足元で真っ二つになっていた試験管の残骸を視認すると、ゆっくりと自分のしなやかに引き締まった脚を上げ――、

 「気に入らない」

 踏み潰す。小さかったガラス片が更に細かく砕かれ、その内の大きな物は遠くへと弾き飛ばされた。明らかに憤怒のエネルギーが込められながら繰り出された踏みつけ……顔の表情こそは先程から固められたかのように変化の無い笑顔だったが、目が笑っていない状態だった。さらにその笑顔を崩す事無く彼女は再び同じ脚を上げて――、

 「気に入らない気に入らない気に入らない気に入らない気に入らない気に入らない気に入らない気に入らない気に入らない気に入らない気に入らない気に入らない気に入らない気に入らない気に入らない気に入らないっ!!! あ~あっ! 本っ当にどうしてやろうかしら!!? 胃の中や直腸の汚物をブチ撒けてもまだ全然足りない! 脳ミソに湧いた蛆を神経ごと焼却したくなるようなこの嫌! 悪! 感ッ!!」

 叩きつける。何度も何度も何度も何度も何度も何度も……彼女の足の裏が金属製の冷たい床に接触する度にまるで道路舗装に使用されるプレス機が土を叩き潰すような大きな音がラボ中に響き渡り、彼女の鋼鉄の骨格が埋め込まれた脚部は懲りる事も無く更に苛立ちが収まるまで床を踏みつけ続け、およそ五分後にようやく……

 「ふぅ……あらぁ、いけませんわ私ったら。取り乱しちゃって、クアットロったらイケナイ子♪」

 またいつもの彼女に戻った。足元の床面はくっきりと足の形に数ミリ陥没しており、イタチの最後っ屁とでも言わんばかりに彼女は最後の蹴りを隣の機材にブチ込んだ。

 「フフ、お兄様には悪いですけれど、私の教育はお兄様の期待しているようなモノで収まるかどうか分かりませんよぉ。だってぇ~、クアットロは陛下の事が『大好き』なんですものぉ♪」

 全身の毛が総立ちするような妖艶な声……悪女と言う言葉こそが相応しい彼女は、鋼鉄が埋め込まれているとは到底思えない軽やかな足取りでスキップし、血液を解析する物とは別の機材の前へと進み出た。先程の物と比べればサイズはずっと小さく、周辺に試験管やフラスコ、スポイトなどが散乱している所を見ると、どうやらさっきまでクアットロがそれらを使って何かをしていた事だけは容易に想像がついた。その無造作に散乱している器具の中に一つだけ他の物とは違ってしっかりとスリットに固定されている試験管があった。中には無色無臭の液体が封入されているのが見て取れる。クアットロは自分のポケットから注射器を取り出すと、その針先を液内に進入させて吸い取り始めた。

 「でもぉ~、クアットロはイジワルな子だから大好きな陛下の事をイジめたくなっちゃいますのぉ。イジめて苛めて虐め倒して……! 鼻水と涙が入り混じった顔をもっとグチャグチャにして、口からだらしなく涎をダラダラと溢れ出させて、股間を小便でビショビショに濡らすまで何度でも何度でも虐めて、最後に自分から『殺して!』って泣いて懇願するまで虐め続けるわ」

 注射器内を液が満たした瞬間、彼女は素早く針を抜いてそれを再びポケットに仕舞い込んだ。空になったその試験管を、ヴィヴィオの血液が封入されていた物と同じように握り潰し、機材の上に堂々と腰掛けた。背筋が凍るような妖艶な言葉を紡ぎ出すその口からは睦言にも似た雑言が溢れ出し、言葉を出す度に彼女の顔はどんどん加虐的な笑みに彩られていった。

 「でもぉ、殺してなんかあげなぁ~い。そんな事したら私がお兄様にブチ殺されちゃいますもの! それだけはゴメンですわ。だ・か・ら♪ 生かさず殺さず、肉体も精神もボッロボロのグズグズになるまで丁寧且つ徹底的に痛めつけてやるんだから。それだったら、別に良いでしょう? お兄様」

 今は夜のクラナガンを飛び回っているであろう兄を思い浮かべながら、クアットロはうっとりと頬を染めた。あの完璧と言う言葉を真に体現している存在を裏切る事など彼女がするはずも無く、かと言って自分の加虐嗜好を満たしてくれるヴィヴィオの存在をそのまま指を咥えたまま見守るなんて事が出来るはずもなく、今の彼女の頭ではその矛盾を解決する為の姦計が張り巡らされている真っ最中だった。

 そして結論──、

 バレなければそれで良い!

 「取り合えずお兄様には、血液の解析は失敗したって事で何とかなりますわよね」










 『聖王教会襲撃事件』……実にシンプルな名前のその事件はその大規模且つ甚大過ぎる被害とは裏腹に、民間には一切報道される事は無かった。実際報道はされたにはされたのだが、教会の建物が倒壊したのは全てあの日突発的に起こった雷を伴う局地的異常気象が原因だと偽の情報が報道されたのだった。もちろん裏には管理局の報道規制があったのは確実だ……世間では敷地内の大半の建築物が跡形も無く消し飛んだ災害レベルの出来事が起こったにも関わらず奇跡的に死者はゼロだったと言われており、聖堂騎士団側の被害に関してはただの一言も世間に対して知らされる事は無かった。報道されなかった理由に関しては一重に実行犯が戦闘機人であったからと言うのが強いだろう。三年の年月が流れたとは言え、人々の記憶の底にはJ・S事件の際に刻まれた危機感と恐怖が根付いている……そんな世間に対して戦闘機人絡み、それも相手がスカリエッティ製のナンバーズである可能性を持った者ともなれば世論がどう動くか分かったものではない。それらの社会変動を危惧した組織のトップなどらが一時的な先延ばし措置として報道規制を強いただけに過ぎないのだろう。

 よって、この事件の真相は少しの間だが表舞台に出される事は無かった。そして、その事件を引き起こした張本人、トレーゼはと言うと──、

 「……………………」

 時刻は11月19日午前9時00分……場所は管理局管轄海上更正施設。その奥に存在している緑の芝生に覆われたレクリルームに、彼を含めて二人分の影があった。腰まで届いた桃色の長髪と白い囚人服がコントラストで強調されているもう一人は、現在収容中の元ナンバーズの七番、セッテだった。右拳を前に突き出すように構え、低めに構えた左手で対象との距離を測りつつその隙を窺っている姿は、他の姉妹達には見られない根っからの戦士としての覇気が感じられた。対するトレーゼはもはや構えてすらおらず、両手は下に垂れ下がり、両足の爪先も揃えてただ棒立ちになっているだけだった。いくら命のやり取りをしない訓練とは言え、傍から見れば最初から既に戦う事を放棄している様にしか見えなかった。

 だが実際は違う。実際の戦闘において彼の様なスタイルを取る者などそうそう居ないだろうが、実は『構えない』事こそ一部の実力者にとっては使いこなせれば最も有効的で、敵対する者にとっては最も忌避されるスタイルなのだ。構えればその体勢の分だけ先手を取る事が可能になるが、それと同時にその構えからある程度の行動が先読みされる事もある……それとは違い、構えない戦闘スタイルは初動が遅れて後手に回る分、相手に自分の行動を悟られる心配が無くなると言う利点があった。もちろん、そんな相手よりも一歩遅れる戦法を取る者などどこにも居るはずが無い……よっぽどの実力者を除けば。

 トレーゼの場合、その『実力者』の中に充分収まっていた。故に模擬戦が始まってから既に五分以上、セッテは迂闊に動けずずっとこの体勢で膠着しているだけでしかなかった。この半月の間に目の前の人物の実力は嫌と言いたくなる程に身に沁みて理解している。何故なら彼は──、

 「来ないなら、こちらから、行かせてもらう」

 「っ!!」

 痺れを切らしてこちらへ歩を進め始めたトレーゼに、セッテの精神の底に眠る生物的本能の一部がベルを鳴らす。ただ単にこちらに向かって歩いて来るだけ……敵意も無ければ殺気も無い、たったそれだけの行動だけでセッテは自分の足が無意識に後退りするのを感じた。歩いている間も両手は一貫して寸分も揺れる事を知らず、その不動の形無き構えがさらに脅威的に見えてしまう。だがここでいつまでも退いていては話しにならない……セッテは眼前のトレーゼを見据えておおよその距離を測った後、相手が自分のリーチへ進入したのを見計らって……

 「フンッ!」

 足元の芝生をも抉らんとする強烈な足払いが放たれた。自分の長身の利点を最大限に活用したその一蹴、間違い無くこの状況下でセッテが成せる最大の攻撃だった。互いの距離はおよそ一メートル弱……この距離と彼女の速度で以てすれば如何にトレーゼと言えども簡単には回避できないはずだった。案の定彼女の強靭な脚トレーゼの左脚に接触し、彼の体は一瞬にして慣性の法則をフルに表現して腰を中心に回転した。常人であれば回転する前に両足が物理的に弾け飛んでも全くおかしくない威力の蹴りを受け、セッテに比べて小さいトレーゼの体が一瞬だけ宙に舞った。

 しかし、ここで違和感……。確かにセッテの蹴りはトレーゼの脚に接触した……だが当の彼女はその違和感に逸早く気付いており、低くしていた腰を持ち上げると立ち上がり、地面に四つん這いとなっているトレーゼから距離を離した。

 「……危なかったです。蹴りが命中した割には反動が全く無かったですから…………。まさか、あの一瞬だけでこちらの一撃の重みを全て受け流すとは……」

 「脚部は、人体の急所の、一つだ……。お前が、狙って来るであろう事は、予想していた」

 ゆらりと地面から起き上がり、トレーゼの金色の瞳が再びセッテを捕捉する。今分かった事なのだが、彼がここへ来てからもう30分以上は経過しており、この組み手の間にもセッテが慢心する事無くほぼ全力で臨んでいるのに対し、トレーゼの方はまるで大人が児戯に付き合っているかのような感じで相手をしているだけだった。セッテは、彼が本気を出さない要因に自分との戦闘における概念の違いを示唆していた。セッテが勝利を得る為に行動する戦士なのだとすれば、トレーゼの場合は結果を得る為に行動する“狩人”だ。戦士は相手を打ち負かせればそれで終わりだが、狩人にとって勝利とは単に獲物を仕留めるだけに留まらない……獲物を糧として仕留めると言う結果を自力で得る事こそが狩人の目的であり、形の無い勝利と言う概念だけでは決して満足はしないのだ。そしてこの場合、組み手に勝利したからと言って彼が得る物は何も無い。なんとも現金な性格だと思われるだろうが、行動にはその者相応の結果と言うモノが必要なのもまた事実、彼にとって『戦いに勝つ』と言うモノはそう言う事なのだろう。

 「……本気は出さないのですね?」

 「出せば、勝負にもならない。実力が、違い過ぎる」

 「普通そう言うのは自分から言うモノなのでしょうか?」

 「なら、俺に一撃入れて見ろ」

 前回は対象を常に自分の射程圏内に捉え続ける訓練……今回セッテに課せられたのは前回からワンランクアップした、『リーチ内に捉えた対象に迅速且つ的確な致命傷を与える』と言うものだった。開始してから今に至るまで常にトレーゼはセッテの制空圏内ギリギリに位置しており、本来ならば彼女の最も得意とする距離に身を置いているはずだった。だが現在に至るまでに彼女が有効打を入れられた形跡は無い。殴打を繰り出せばかわされ、手刀を突けば捌かれ、蹴りを入れようとすれば先程の様に受け流されてしまうだけで、始めは軽やかなフットワークを見せていたセッテは体力を浪費してしまった所為でどんどん攻撃の鋭さを失いつつあった。

 「…………そう言えば、知っていますか? 局内は昨日の一件の話題で持ち切りだそうです」

 「だろうな」

 「世間ではどう認識されているかは知りませんが、犯人は間違い無く三年前のワタシ達と同じように歴史に名前が残るでしょう。管理局は犯人の捜査を秘密裏に行う事を決定したらしいです」

 「組織とは、よっぽど、世間体と言うモノが、気になるんだな」

 「局の捜査課は首都圏内を中心に、徹底捜査を仕掛けるそうです」

 「秘密裏の、くせに、徹底も何もないだろう」

 今ここに居るトレーゼは、ナンバーズの秘匿された第13番『Treize』としてではなく、一介の武装隊免許所有局員のトレーゼ・S・ドライツェンとしてここへ足を運んでいる。もちろん今着用しているカーキ色の局員制服や胸元の局員証などは自作した偽物で、入館の際の最新式スキャナーですら完璧に欺く精巧さを誇っている出来だった。

 「良いのか? どうやって、そんな情報を、仕入れたかは、知らんが、ベラベラと他人に話して……」

 「『今の貴方』は局員です……何も問題は無いはずでしょう? 情報に関してはギンガ・ナカジマ経由で色々と。本人は漏らすつもりで言った訳では無いのでしょうが、情報とは常に意識の外で自然と漏洩してしまうものです……」

 「まさに、金づるならぬ、口づると言う訳か」

 そう、今の彼は素性を知らぬ者から見ればただの管理局員……監視カメラの向こう側の人間も、今二人が話している内容がまさか本人達にしか分からない情報のやり取りをしているなどとは夢にも思っていないはずだ。

 「…………それで、最近の『拾いモノ』の調子はどうなんですか? 今頃『持ち主』が必死に探しているのでは?」

 「問題無い。世話は、4番に任せている」

 ここで言う拾いモノとはもちろん、昨日の一件で身柄を強奪したヴィヴィオの事である。彼の予定が正しければ、この時間帯はクアットロが食事を与えた後のはずだ。

 「壊れますよ。近い内に絶対に壊してしまうでしょう」

 「その時は、俺が、片付ける」

 嘘ではない、仮にあのクアットロが計画の要であるヴィヴィオに対して不必要な姦計を仕掛けようものなら、その時点で処分する事にしている。もっとも、あの首輪付きの犬にも劣る媚び売りの妹がそんな大それた事を仕出かすとは思えなかった。

 「余り無理な行動は控えてください。貴方が何をしようとするのかは分かりませんが、その行動の結果として損害を受けるのではワタシにとっても本意ではありません」

 「…………今日はやけに、饒舌だな。訓練程度で、精神が高揚するようでは、実戦では、何の役にも立たんぞ」

 「ワタシが冷静さを欠いているかどうかは一戦交えた後で判断してください」

 再びセッテが構えを取る……これまでに彼女がトレーゼに対して与えたダメージはゼロ、トレーゼが察するに恐らく現時点から彼女は自分の持てるだけのパワーを全力でこちらに向けて来るはずだ。元々彼女は高機動特化型のトーレの戦術補佐役として開発されており、一撃離脱型のトーレが先行して打撃を与えた後に彼女がその露払いをする役目を担っている。故に彼女の戦闘スタイルは機動力ではなく火力重視の制圧前進タイプ、物理的に道を切り拓く為に常に一撃必殺の勢いで来る事は明白だった。

 案の定、次の瞬間に彼女はヘヴィ級顔負けの体当たりをかまして来た。『脚力×体重×速度=威力』の方程式を黄金律並みの完成度で以てして迫って来るその迫力は、ひょっとすれば耐衝撃仕様防壁をも凹ませるのではないかと思わせる程の気迫に満ち満ちていた。

 しかし、所詮は直線軌道の攻撃──。

 「上が、ガラ空きだ」

 対するトレーゼは冷静そのものであり、爪先で軽く地を蹴り、急接近して来るセッテの肩を掴んで跳び箱の要領で、自分よりも頭一つ分高い彼女の長身を軽々と飛び越して見せた。戦闘機人だからこそ成せる常人離れした運動能力を無駄無く駆使した回避行動に、セッテの反応が一瞬だけ遅れた。脇や股の下を通り抜けるならまだしも、まさか堂々と真正面から自分の肩を踏み台にして行くとは殆ど考えてはいなかったのだ。

 だがそこはナンバーズ最強から直々の教育を受けた戦士……対象が背後へ逃げ込んだ位の事態でうろたえたりはしなかった。

 「ワタシを踏み台にしたとて……っ!!」

 いちいち足を止めて回れ右をしていたのでは隙が生じて次の攻撃に繋がり難い。目の前数十センチ先には脱走防止仕様防壁……これを利用するしかなさそうだ。

 「はぁ!!」

 左足で地を蹴って芝生から60センチも飛び上がり、右足で前面の壁を蹴り飛ばした反動で更に上昇、ネコ科の動物のように空中で身を翻して方向転換すると視界にトレーゼの姿を捉える事が出来た。セッテが方向転換と飛び掛かりからの強襲体勢の移行に成功したのに対し、彼は着地時の衝撃から体勢の立て直しに成功しておらず、視界に収めた時にはまだこちらに目を向けた瞬間だった。セッテの加速度は先程に走り込んだ時のとは比べ物にならない速度に達しており、互いの相対距離は目測で一メートルと40センチ……もうとっくに戦士セッテの射程距離内だった。

 「討った!」

 このまま手を伸ばせばそれだけで頭に接触し、こちらの勝利となる。数秒先の未来を確信し、セッテは今、自分の持てる限りの腕力の全てを懸けて──、



 「バカだな」



 自分の眼球に強烈な違和感をぶつけられた。

 「目が……!!?」

 いきなり眼球に飛び込んで来た“それ”に気をとられた彼女は空中でバランスを崩し、無様に芝生の上に叩きつけられる結果となってしまった。何が起こったなんて確認している余裕なんかどこにだって無い、すぐに立ち上がろうと腕に力を込めたが……。

 「The end.」

 俯いた後頭部に重み……五つの点が頭皮を押さえつけるこの感覚は、間違い無く手で頭を掴んでいるモノだった。

 「頭部、圧壊……戦闘なら、絶命は必至だな」

 「……完敗です」

 自分より小さい相手に押さえつけられていると言った屈辱感はそこには無い……あるのは、ただ自分が敗北したと言う現実を受け入れる思考だけだった。戦闘ではいちいち悔しがっている暇なんて何処にも無い、その前に始末されてしまうからだ。如何に戦闘機人言えども生物の肉体を持っている以上は“死”の概念が付き纏い、セッテにとって“死”とは陥れば抗う事の出来ない絶対的敗北の象徴でもあった。その概念を突き付けられれば、嫌でも敗北を認めざるを得なくなるのは当然だった。

 組手はここで終了し、二人とも一旦芝生の上に腰下ろして一息つく。目蓋に異物が入り込んだセッテはしばらく目を擦っていたが、やがてそれを取り除くと掌に乗せて確認する。そして納得した。

 「あぁ、あの時既に……」

 目元の周りにこびり付いていた緑色のそれは、今自分達が腰をついている芝生の草だった。つい数分前に彼女がトレーゼに足払いを掛けたあの時、その蹴りの衝撃を受け流した彼は着地の際に地面に四つん這いになった……あの時に彼は芝生の草をむしり取っており、いすれセッテが間合いに飛び込んで来るであろう事までも予想してずっと手の中に隠してあったのだ。

 「戦いとは、常に二手三手先を、見据えて行うのだと、誰かが言っていた」

 「きっとその人は軍人なのでしょうね。まさかあの時からワタシの行動を完全に予測していたなんて……」

 「完全、ではない。あそこで、お前が俺に飛び掛かる確率は、約68.24%だった。ある意味、賭けだった」

 「一つよろしいですか? 貴方とこうして訓練を重ねてしばらくになりますが、本当にワタシは強くなっていると言えるのでしょうか? 稼働時間の長さから実戦を殆ど経験していないワタシはあまり実感が持てません」

 今の彼女は言わば籠の鳥……自分の隣に居る人物の所為で、ここへ足を運んでいたナカジマ家の面子は更正教育の教鞭を執っているギンガ以外には誰も訪れず、他の面々は全員が事件解決に駆り出されてしまっている状況だった。故に彼女はトレーゼ以外の者と一戦を交えておらず、本当に自分の戦闘技能が上昇しているのかどうかの真偽を確認出来る機会に恵まれていなかった。

 「俺と戦っていて、何も実感しないか?」

 「貴方が強過ぎる所為で……。最近、ひょっとすればトーレよりも強いのではないかと疑い始めています。まぁ、貴方なら『ある意味』当然なのかも知れません」

 「誰にも、言わないんだな……俺の事を」

 「言ったはずです。貴方にとっての損害はワタシにとっても本意ではありませんから……。勘違いしないでください、貴方から訓練を受けられなくなるの可能性を懸念しているのであって、別に貴方が生命的危機に陥っても構わないのです。と言いますか、貴方がそんな危機的状況に陥る光景が思い浮かべません」

 「本当に、今日は舌の回りが、良いな。そんなお前に、朗報だ」

 「何ですか? ……っあ!?」

 突然襟元を掴まれ困惑するセッテだったが、自分の視界の右端にトレーゼの白磁の顔面が迫って来た事に一瞬言葉を失った。人間として生きた経験が少ないセッテには常人が言う所の“美”と言う概念が理解出来ない節があったが、下手したら雑誌で見るモデル女性よりも端正な顔立ちと、宝玉の如く澄んだ眼球を見せ付けられた瞬間に彼女は思わず身動ぎしそうになった。だが目の前のトレーゼはそれを許さず、セッテの耳元にそっと口を寄せて来た。口元は丁度カメラの死角になっており、レンズの向こう側からでは親しくなった男女が睦言を囁いているようにしか見えなかった……だが、彼の口から聞こえて来たのはそんなモノとは程遠く──、



 「太陽が、四回半空に昇るまで、待て。その時が、お前の望む、“時”だ」



 声帯の振動が大気を揺らして音波となり、その波が鼓膜を震わせて耳小骨で増幅されて脳に届いた瞬間、セッテはその驚愕の事実に目を見開いた。ドラマや映画ならここで相手がニヤリと笑う場面なのだろうが、幸か不幸かこの二人に限って言えばそのどちらもがそんな人間的感性を持ち合わせていなかった。ただ淡々と告げられた予告にセッテは自分の全身の筋肉が無意識に引き締まり、痙攣を起こしたかのように震えが止まらなくなった。だがそれは決して恐怖から去来するモノではない……むしろその逆──、

 「やはり、お前はトーレの教え子……。刷り込まれた、深層意識の中で、戦闘行動を、求めているな」

 白い指先を桃色の長髪に通しながら、トレーゼはセッテの反応をどこか期待通りと言う風に観察していた。彼女の精神の奥底には自分達と同じ様に戦闘機人特有の“刷り込み”と呼ばれる一種の強烈な暗示が施されている……コンシデレーション・コンソール程ではないが、彼女らは殊戦闘行動に関しては何の抵抗も無く実行に移せるだけの決断力を有しており、命令さえあれば物を壊したり人を殺すのにも躊躇したりはしない。特に彼女の様な直接戦闘仕様に開発されている者は戦闘の際に精神が高揚し、戦闘行動に対しても支援仕様のものと比較して積極性を示す方向にある。このセッテの反応も言わば武者震いであり、彼女の本質をトレーゼは見抜いていたのだ。

 「…………貴方はどこへ向かうつもりなのですか?」

 「創造主の許……ただ一つ、そこだけが、到達点だ。創造主の命で動き、創造主の命で停止し、創造主の命で没する……それが、俺やお前達の、本来あるべき姿だ」

 氷よりも冷たいトレーゼの手がセッテの顔に触れた……原子の振動で発生するはずの熱が根こそぎ奪われるようなその冷たい手を、彼女は臆する事無く左手で触れて見せた。絶対零度の氷に閉ざされた次元世界から主と同胞を追って戻って来た兄の温度は、まるで自分に直接触れる事を拒んでいるかの様なモノが感じられていた。セッテ自身が知る限りでは、自分達ナンバーズでコミュニケーション能力に難があるのは全員で三人……トーレとノーヴェ、そして自分。そこにある原因としては彼女自身のように対象に対して無関心であったり、ノーヴェのようなあからさまな拒否行為であったりなど様々だが、彼の場合はむしろ“拒絶”……どんな無関心や心理的拒否よりも強く、何人たりとも自分の心理的領域には入らせない明確な意思表示、それが“拒絶”。彼女自身、稼働の時間が短いのでそう言ったタイプの者を見た事は殆ど無かった。そう、たった一人を除いては──、

 「……似ています。貴方のその言動が全て……トーレに」

 「当然だ。トーレは、俺の『姉』だからな」

 セッテの頬を撫でていたトレーゼの手がふと離れる。それと同時に立ち上がった彼は尻の草を軽く払い落し、そのまま芝生の上に腰掛けたままのセッテを置いて通路へと通じるドアへと向かおうとした。

 「忘れるな、我が『妹』セッテ。四回半、だ……その時になれば、お前もまた……」

 最後の方を話す時には既にドアをくぐってしまっていたので聞き取れなかったが、おおよその予想はついた。あの自分の知る限りではトーレ以外には誰も居ない『ナンバーズを体現する者』である彼が何の打算も利益も無しに自分に接触を重ねるはずが無い……。太陽が四回半、即ち四日後の深夜に彼は行動を起こすつもりなのだろうが、もちろんセッテはその事をこの施設の局員はおろかギンガにすら伝えるつもりはない。恐らくすぐには信じてもらえないのが先立つだろうが、知られれば彼の計画に支障を来たす恐れがあるからだ。いや、別に支障を来たす程度ではどうだって良い……彼女にとって問題はその先にあった──。

 「はい『兄さん』。大人しく待ちます……貴方との決着まで」

 やっと自分の強さを再確認出来るチャンスが巡って来ている……それだけは逃したくはなかったのだ。

 セッテがドアの向こうに消えた兄の背中を普段は見せる事の無い輝きに満ちた目で見送ったその数分後、更正担当官のギンガがいつもと変わらぬ笑顔で手を振りながら入室して来た。笑顔……セッテの最も嫌いな表情の一つだった。










 午前10時40分、地上本部医務室奥の集中治療室にて──。



 「さぁ、恐れる事はない……やってみたまえ」

 「は、はい……じゃあ……!」

 訓練中の新兵などが大怪我をしない限りは殆ど使用される事の無いこの手術室には、現在三人の影があった。手術台のすぐ手前に陣取っている男は狂気に塗れた天才科学者ジェイル・スカリエッティ……隅のパイプ椅子に座り込んで仮眠を摂っているのは徹夜明けのシャマル……そして、手術台の上で恐る恐る下に目をやるスバルの三人だった。

 「よーっし! と、とうっ!」

 それまでずっと寝台代わりに使っていた手術台の上から床を眺めていたスバルは、スカリエッティに促される事でようやく意を決したように行動に出た。器用に左手だけで上体を起こすとベッドの縁にまで移動し、そこから松葉杖も無しに勢い良く飛び降りて……



 靴下も履かない左右の素足で立ち上がって見せた。



 「わぁ!」

 足の裏から伝わって来る感触と温度……皮膚が千切れそうな床の冷気でさえも、今では心底嬉しいモノに感じられる。

 「おぉ!」

 足の指を忙しく動かして見る……足裏の筋肉が少し動く度に感じるこそばゆい感触が久しく思える。

 「あはは!!」

 屈筋と伸筋の二つを律動させて大きく跳躍する……そして、着地! 筋肉と骨格を伝わって上半身までをも揺らす衝撃に彼女の顔には一気に歓喜の表情が咲いた。

 片足、爪先、蹴り、跳躍……この二週間の間ずっと、もうこの先出来ないとばかり思っていたはずの動作の全てが、今、こうして出来ている!

 歩ける!

 走れる!

 そして何よりも、立てる! 今の彼女にとってこれ以上の喜びに勝るモノなどありはしなかった。

 「ふむ。シャマル女史の治癒の腕前は申し分なしだな。完全に筋肉が組織ごと断裂していたものが傷痕も無しに回復するとは……。丸々三日間も頑張った甲斐があったと言うモノだな、女史よ」

 そう言ってシャマルの方を見やるスカリエッティではあったが、当の本人は72時間ほぼ連続で治療を続行していた所為で精根尽き果てており、パイプ椅子の上で殆ど仮死状態に陥っていた。もはやいびきどころか呼吸音すら全く聞こえて来ない辺り、本当に死んでいるのではないかと言う思いが頭を過って仕方ない。

 「まぁ良いだろう。元が人間ではないからそうそう簡単には死なんだろうさ。スバル嬢の方はどうかね? 内部フレーム共に異常は無いかな?」

 「はいっ! もう全っ然大丈夫です。走っても痛くないですし、ウィングロードだって出せちゃいますよ!!」

 「あー、その魔法行使の件なんだがな、しばらく魔法は使えんやも知れんからそのつもりで」

 「ふぇ? どうしてですか?」

 「魔力回路部分がまだ完全に修復し切れていない恐れがあるからなぁ。最低でも一週間掛けて修復させて行く予定だ」

 「もし、その間にウィングロードを出そうとしたら……?」

 「うむ、修復していない分の回路を補う訳だから、魔力回路に多大な過負荷が掛かる事になる。足が千切れ飛んだ時の激痛がまた蘇ると言う訳だな」

 「…………自重します」

 取り合えずバリアジャケットを着たりマッハキャリバーを装着出来るのは当分先の話になるようだった。このすぐ後に一旦目を覚ましたシャマルにも言われたが、魔力回路を修復した後にも短期間ながらリハビリや左手の再生治療などを行う為、職場に復帰するには一ヶ月半は掛るとの事だった。

 「まぁ見ている限りでは脚部に異常は無いようだな。後で私を通してハラオウン提督殿からナカジマ三佐に御報告するよ、『再生治療は無事完了した』とね。それと、歩く分に関しては何の問題も無いが、走行する時にはそれなりの注意を払いたまえ。二週間近く使っていなかった筋肉がそう易々と動いてくれるはずもないんだからな……」

 「そうなんですか? じゃあ、ちょっと気分転換とリハビリを兼ねて中庭を走って来ます!!」

 「えぇっ!!? ちょ、君! 人の話を……って、おおい!!」

 翼を得た虎……と言うのはこの際適切な表現ではないのだろうが、足を取り戻した事で生来の活発さを余さず遺憾無く発揮しながらスバルはスカリエッティの制止も聞かずに治療室の外へと飛び出して行った。上履きはおろか、真冬なのに靴下も履かずに……。元機動六課メンバーの中でも一番元気が多く行動的な彼女を物理的に止められるはずも無く、スカリエッティは半ば呆然と彼女の背中を見送った。一応彼が言ったのは嘘ではなく、緩み切った筋肉を何の適度な事前運動も無しに酷使すれば、肉離れとまでは言わないにしろ足が筋肉疲労で痛くなるのは必至だ。場合によっては立っているのも億劫になる程の激痛に見舞われる恐れもあった。

 「う~む……万が一の状況にでもなればランスター執務官が何とかしてくれるか。そう言えば、執務官殿で思い出したが、スバル嬢には確か最近になって親しくなった男友達が居ると聞いていたが……どんな御仁なのか? やはり大食漢なのか? と言うか、本当に冗談抜きで彼女にボーイフレンドなる者が居るとは考え難いなぁ」

 実の父親であるゲンヤですら二年前に考える事を放棄した議案を頭の中で悶々と膨らませながら、スカリエッティは隅の方で絶賛爆睡中のシャマルが覚醒するのを大人しく待っていた。監視役である彼女が付いていなければ勝手にここを離れる事も出来ないからだ。










 午前10時55分、ベルカ自治領聖王教会本部跡地にて──。



 聖王教始まって以来の大惨事の爪痕はたった一日やそこらで綺麗に消えるようなモノではなかった……。既に日が昇って半日が経とうとしている今でも、崩壊した建物の瓦礫の撤去や行方不明者の捜索に多くの人員を割いていた。先日のたった一時間で失った聖堂騎士団の穴を教会スタッフのシスター達で補いつつ、通行の邪魔になる瓦礫を端に寄せ、まだ崩れる心配の無さそうな建物は板やセメントなどで大まかな補修を行い続けた。教会のトップであるカリムはその立場上の関係から外には居らず、昨夜の時点からずっと管理局担当部署への定時報告や各次元世界に存在している教会支部への現状説明などに追われており、現在彼女は書斎に籠り切りの状態が続いていた。

 そんな中で……教会関係者の中、それも騎士団員達の間で流れている一つの“噂”があった。彼らの間で湧き上がっているその噂の中核には一人の人物があった……この教会でたった一人で騎士100人にも匹敵する実力者とまで謳われたあのシャッハの事だった。昨日の敵が大破壊をもたらして逃走した後から、彼女の姿を同僚の騎士団の誰も見ていないのだ。今日の補修作業でも一切顔出しをしておらず、教会で育ってきた彼女がそんな怠惰を見せるはずがないと分かっていた彼らは余計に今の事態を内心では怪しんでいた。そしてそんな状況下で流れ出た一つの噂がこうだ……『シャッハ・ヌエラは先日の敵に墜とされたのではないか』と言うモノだった。確かにそれなら全ての説明がつく。大怪我を負わされた事で人前に出て来れなくなっているのだとしたら……もしくは、実はとっくにその敵に殺されてしまっているのではないか…………そんな類の噂が朝から絶えないのだ。

 真実としてはシャッハは生きてこそ居るものの、とても人前に出せる状態でない事だけは確かだった。四肢の内の二本を玩具のように抉られた上に両目までをも切り刻まれると言う惨状を見れば誰だって気が引けるというものだ。現在の教会内で彼女の状態を知っているのはカリムを含めてもたったの五人だけ……その内のオットーとディードの姉妹も顔面をミイラのように包帯を巻くほどの怪我をおっていて、教会の戦力は先日のたった一時間で半分以上の痛手を被ってしまったのだった。

 そしてここにもう一人……その事実を知ろうとする者が現れた。

 「おじゃましまーすっと……!」

 一部倒壊した教会本部を少し改修しただけの建物の玄関に、バッグを抱えた一人の少女の姿があった。元々耐震設計や地下基礎がしっかりしていた事もあってか辛うじて内部構造の被害は最小限に抑えられたその建物に実に慣れた感じで入り込んだ彼女は壁の一部がバラバラと崩れ落ちている廊下を通り抜け、外に控えていた騎士団員から聞いた部屋の前までやって来た。木で出来ているその扉は倒壊時の衝撃で蝶番が外れかかっていた……手で押せば簡単に型から外れてしまっても可笑しくは無いそのドアの取っ手を掴むと、彼女は一気に押し開け……

 「よっす! セイン、大丈夫か? オットーとディードは何なんだぁ? それってアレか? 新手の化粧品に手を出しちまったらアレルギー起こしましたってツラしてんな」

 「おう、ノーヴェ。取り合えず茶だけは出すから、それ飲んだら帰れてめぇ!」

 顔を突き合わせた瞬間からとんでもない挨拶の交わし方だが、これが彼女らなりのコミュニケーションの取り方なのだと思ってもらえればそれで良い。実際ノーヴェの言うように、オットーとディードの二人は目鼻以外の顔面全体を隈なく包帯で覆われており、時折その隙間から何か言いたげに口をモゴモゴさせているのだった。ちなみに何を言おうとしているのかと言うと──、

 「『地面に顔を叩き付けられれば誰だってこんな顔になるよ』だってさ」

 「よく聞き取れたな……。でもよ、叩きつけられたってことは、昨日襲って来やがった敵さんにやられたって事だよな? ニュースじゃ異常気象だとか何とかって言われてっけどよぉ」

 「そうさ。私の見ている目の前でこう……グシャってな感じでやってくれたよ。て言うかやっぱり世間じゃ秘密にされてる訳か……。当たり前って言えば当たり前なのかも知れないけどさ~、そうやって何でも隠そうとするのってなんか納得行かないんだよなぁ」

 「ギン姉が言ってたけど、大人には大人のややこしい事情ってのがあるんだとよ。あたし達がいっくら気にしたって無駄だよ」

 「あの荒削りも良いトコだったノーヴェがこんな知的な発言を……!? お姉ちゃん、ちょっと感動しちゃったな」

 「ぶっ殺すぞテメェ。そんでどんな奴だったんだよ、その敵ってのはよぉ」

 セインはともかくとして、オットーとディードの双子は12人のナンバーズの中でも最も後期に生み出された言うなれば最新鋭機……後衛担当のオットーの後方支援と前衛担当のディードの瞬発力の組み合わせは同じナンバーズの中でも群を抜いて優秀なはずなのだ。聞く所によれば、敵はそれを真正面からの力技だけで押し切った挙句、彼女達よりも実力的に上位者であるシャッハを打ち倒したらしいではないか。ノーヴェ自身は彼女と手合わせした事は一度も無いが、あのシグナムと同レベルの実力を誇っていたと聞く辺りでは相当の強さを持っていたはずだ。その彼女が文字通りボロボロにしてやられた……事実を目の当たりにした者から直接聞いた今でも想像出来ない話しだ。

 「始めはトチ狂った奴が調子乗ってるだけかとも思ったんだけど、あんな奴なんかとは二度とやり合いたくないね。生きて帰って来れないなんてのが戯言に思えて来る……」

 「強いのか?」

 「強い……って言うよりかは、何なんだろう……。確かに強いって言えば強いさ、あんなのに真っ向から勝負挑もうなんて考えられるのは私達の中でもトーレ姉かセッテぐらいなもんだろうね」

 「うへぇ!」

 陸戦型ナンバーズの中で最も肉体増強率が高いのはノーヴェだ……その肉体の限界値の高さを利用する事で彼女は他の姉妹達よりも物理的に強化する事が可能なのだ。だがそんな彼女ですら3番目の姉と開発順には妹に当たるセッテにだけは真正面から挑戦する気にはなれなかった。理由はそれぞれに一つずつある……まず一つ目は単純に『経験値の差』が挙げられ、これはトーレに該当する。彼女はナンバーズの中でも最初期に製造された直接戦闘型の最高峰……十年以上にも渡る模擬戦と実戦の繰り返しの日々によって彼女の中に蓄えられた実力は、もはやこれが同じナンバーズかとさえ思えてしまうモノへと昇華していた。元々彼女を造り出したスカリエッティが定めたコンセプトがこれまた単純に『最強』だと言うのだから恐ろしい。次に『物理的力量の差』……これはセッテの方だ。ノーヴェよりも高い肉体増強率を誇る彼女は、その圧倒的パワーを惜しむ事無く前面に押し出すと言う荒業スタイルを取っている。流石はトーレの教育を受けただけはあり、純粋な腕力勝負では絶対に敵わない事は分かっている。

 つまりはそんな二人でないと相手にならないような敵……『最強』と『武力』を体現した姉妹でなければ対抗出来ないと言う化物じみたその相手を想像し、彼女は全身に鳥肌が立つのを覚えていた。

 「そいで……大丈夫なのかよ、お前んとこの騎士さんはよ……」

 「……………………手足を一本ずつ持ってかれた……。殺されなかっただけマシなんて言うなよ……あれじゃあ生殺しだよ」

 今は教会の奥で何とか生き残っていた医療室で応急治療中だそうだが、一通りの治療が済んだ後はクラナガンの医療センターへと極秘で移送されるらしい。今この状況で教会最高戦力が戦線復帰出来なくなったなどと言う情報が騎士団の者達に流れれば騎士達の士気に関わると判断した為にその様な処置に至ったらしい。

 「大人って皆どうかしてるよな。何でも隠せば良いってんじゃないのにさ~」

 「馬鹿セイン。大人なんてのはどうだって良いんだよ。要はこの先どうするかって事さ」

 そう突き離すような言い方の後、ノーヴェはベッドで寝たままの双子姉妹を尻目に再びドアに手を掛けた。

 「もう帰るの? 見舞いに来てくれたんじゃなかったのかよぉ」

 「アホか。一応仮にも姉妹だから建前って奴で一番暇なあたしが来てやっただけだ。勘違いすんな! イクスが無事かどうかだけ聞きに来たんだからな!」

 「ふーん……。わざわざ通信で聞けば良いのにねぇ。一応イクスは大丈夫だよ、寝かせてあった部屋は隅っこの天井が少し崩れてるだけだったから、今は東の館の部屋に寝かせてるから。どうせだったら顔見に寄ってきなよ」

 「あぁ、少しだけな……。あいつが傷付いたらスバルが悲しみやがるから、しっかりしてくれよな」

 「大丈夫、いっくらぐうたらなお姉ちゃんだってそれ位は分かってるって。どーんっと任しときなさい!」

 「うっわぁ、すっげぇ頼りねぇ……。でもまぁ、居ねぇよりかはずっとマシだな……頼んだぜ、セイン。お前はチンク姉の次に年食ってんだからよ、オットーとディードの面倒はお前じゃねーと見てやれねぇんだからな」

 そう言いながらノーヴェはドアの取っ手を握り、結局五分と経たない内に姉妹達と別れる事となった。血が繋がっていないとは言えあまりにも短過ぎる邂逅だったが、生まれ落ちた時から離れる事も無く一緒に居続けた彼女らにとって互いの心身の無事を確認するにはそれだけで充分だった。










 数分前、聖王教会一般入口にて──。



 昨日の一件で教会では始まって以来異例の事態が起こっていた。それは、教会自体の一時的封鎖である。幸いにも一般人側の死者はゼロだったにせよ、現在混乱したままの教会敷地内にいつも通り一般人を入れる訳にもいかず、それまで基本年中無休だった教会が新暦始まって初めて礼拝に訪れるであろう人達を拒む為にその戸口を固く閉ざしたのであった。門の前には数人の警護騎士が張り込んでおり、普通の人間ならその出で立ちを見た瞬間に踵を返すような気迫に満ちていた。

 しかし、そんな警護体制の中を難無く通り抜ける者が一人……それはデバイスを構えた騎士達の丁度脇を通り抜け、錠前で固く閉じられた金属の門を『すり抜け』、自分の庭に帰って来たみたいな気軽さで教会敷地内に進入を果たしたのである。もちろん、この様な体制下で関係者以外が立ち入れば不法侵入と言う事で捕縛されるのだが、何故かその人物は捕縛どころかまるで無視されているようにも見えた。

 だがそれもタネを明かして見てしまえば当然のことだった。



 見えていないのだ。



 シルバーカーテンとディープダイバーの併せ技、この二つを応用すれば如何なる場所でも入れない所は殆ど無い。トレーゼはシルバーカーテンの効果を利用して自身の表面に光学迷彩被膜を展開させて周囲の視線を欺き、無機物透過のディープダイバーを使って純粋な金属で構築されている門を通り抜けたのだった。しかし何故彼が昨日自分が戦闘行動を起こした場所へと秘密裏に舞い戻って来たのか? 俗に言う、『犯人は現場に戻って来る』と言えばつまりはそうなのだが、彼にはちゃんとした目的があった。昨日の戦闘で彼が障害物を除く為だけに行使した大出力砲撃魔法、【スターライトブレイカー】……クアットロ奪還作戦において彼が高町なのはから奪い取った、彼が知る限りでは最大の攻性魔法……その出力計算の為にわざわざここまで足を運んだのである。本人や彼女の娘であるヴィヴィオから収奪した記憶によれば、この魔法の最大の特徴は『パワー』……自分のリンカーコア、周囲の空間に散在する魔力素、そしてカートリッジによる供給の三点によって成される最早過度と言っても差し支えない程の出力を誇っているこの魔法をどう出力調整してアレンジするか、彼はそのヒントを得る為にここへ来た。

 「……………………」

 別にあの手の魔法は出力が高ければそれに越した事はないだろうと思われがちだが、実際に自分の手で撃った彼にとってそれは大きな間違いなのである。確かに単純な話で言えばパワーが大きければそれだけで相手には威嚇になる上に与えるダメージも上々のものとなるだろう。だがそれは全て『当たる』事を前提にしての条件であり、もし外したりすればそれだけで一気にこちらの戦局は不利の旗色に染まってしまうのだ。かつて考案者である高町なのはがこれを初めて使用した際には相手が一歩も動けないようにと四肢にバインドを掛けて封じたらしいが、ただでさえ大出力魔法を放とうと言うのにバインドなどと言う精神を集中させねばならないものまで使用しなければならないのはナンセンスだ。加えてこの魔法は一度放てば自身の持つ魔力の大部分を消耗してしまう欠点付きだ……考案者である高町なのはでも連続ではたったの二回、もしくはどんなに限界一杯までやれても三回しか使えないと来ている。射撃・砲撃系統の魔法は精度と連射性こそが絶対重要……それを完璧なまでに無視した砲撃魔法に有るまじき冒涜的とも言えるこれをどう改善するのか、それが最大の課題だった。

 光学迷彩被膜を解除した彼は撤去作業中の騎士団の目を避けて更に敷地の中へと進み、森林の獣道じみた道をを通って行くと、彼の目の前には開けた土地が見えて来た。昨日自分が放った砲撃の跡地ではない……地面の上に規則正しく並んだモノリスの表面には小さく個人名が刻んであり、それらが墓石である事を容易に理解させた。ざっと見渡してもその数は百を下らない……表面に苔や傷が全く無い所を見ると手入れが行き届いているのか、あるいはごく最近になって造られたのかは知らないが、どうやら道を誤ってしまったらしかった。本来ならば敷地内の最北エリア、砲撃による損害が最も少ないと計算した場所へと向かうはずだったのがいつの間にかこんな無用の場所へと行き着いてしまったのだ。どうにも直に足で移動するのは不得手だ、空中を飛行して移動するのとは違って目的地まで一直線と言う訳には行かないからだ。

 「仕方が無い、森を一直線に、突っ切るか」

 彼は墓前に立って手を合わせると言ったような宗教的行動は一切しない。自然の摂理ではなく完全な人工物として仮初の生を受けた彼にとって“神”と言う曖昧な存在はある意味で最も嫌悪すべき部類に入っているからだ。当然、死ぬと言う事実に関しても同じだ……生物的な死を迎えれば、その時点でそれが終了なのだ、霊魂だとか楽園だとか転生だとかも全く以て信じてはいないし、むしろ否定していた。死ねばその向こう側に存在するのは絶対的な“無”……それだけなのだ。

 足元の雑草を踏み、鳥達が泣き叫ぶのもお構い無しに木々を手刀で薙ぎ倒しながら彼は文字通り一直線に目的の場所を目指した。飛行すれば立ちどころに騎士達の目に留まってしまうので徒歩で移動するより仕方が無いのだが、自然の造形を出来得る限り残したままで教会を建築したこの敷地内には森林を始めとし、急勾配の坂道や本当に人が通るのかと言ったような獣道まで残っており、安息日に当たる日に通い慣れた信徒ですら通らないような道を現在彼はずっと移動しているのだ。山道にも似た悪路を移動するプログラムは搭載されている訳ではないのだが、それを差し引いたとしてもここはかなり歩き辛かった。

 そんな道を数分歩き続けた後、森林の茂みの中に少しだけ開けた箇所を発見し、葉の隙間から除けば高低位置の関係から教会敷地のクレーターをある程度だが見渡す事が出来た。ここからなら昨日の魔法の詳細な威力計算には持って来いのポジションだ、常緑樹の葉で迷彩効果もある上に人通りも全く無い。しばらくはここに長居していても大丈夫のようだ。

 「まず重要なのは、出力計算……。徒に魔力を、浪費しても、それに比例するだけの、結果が出せねば、話しにならない。如何に消費魔力を、セーブするか……それが問題だ」

 【スターライトブレイカー】の考案者の高町なのはは、この魔法を【ディバインバスター】の上位互換だとしている。砲撃魔法の短所であるチャージ時のタイムラグや魔力消費量の関係から出て来る連発性の低さと言ったモノを全て度外視し、圧倒的大出力から弾き出される重火力と破壊力のみを極限にまで追求した結果、彼女の場合はこの答えに行き着いたのだろう。火力と出力を重視する砲撃系統においてその概念は何の矛盾も無いのだろうが、トレーゼの場合は違っていた。と言うか、むしろ常人の思考であれば誰もが行き着くであろう回答を選ぼうとしていたのだ──。

 つまり──、



 短所を無くす。ただそれだけの事である。



 手っ取り早い話としては、従来の『破壊力』を維持しつつ、どうやって『連発性アップ』と『魔力消費の削減』を実現させるかと言う事だ。昨日の一件で彼が放ったのは従来の【スターライトブレイカー】(以後、『タカマチ式』と呼称)とは違い、リンカーコアからの供給のみで放ったモノだ。タカマチ式と比較すれば単純計算するとその最大威力は僅か三分の一、トレーゼのリンカーコアに複数掛けられている拘束制限術式を解放すれば話しは別だろうが、それでは高町なのはと同じ魔力の垂れ流しに過ぎない。なるべく魔力の消費を抑えながらそれでいて高威力……贅沢な注文だが、それを無理を通してでも可能にしてこそ対魔導騎士兵器として製造されたトレーゼの能力が試されると言うモノだ。

 「まず第一に、カートリッジは、不使用の方向で行こう。余分な魔力は、一切消費しない。となれば、やはり周囲から、直に吸収するしか、ないか……」

 タカマチ式も本来は戦闘空域に散布された余剰魔力を掻き集めて発動させていたはずだ。戦う場所にもよるが、この魔法世界ミッドチルダでは人間の住む所にはほぼ例外なく魔力が満ち溢れており、さらに辺境の竜種などが生息している地域ではその数倍以上の濃度で魔力が常時存在している。それらをリンカーコアの許容量限界にまで吸収し一気に解放すれば、爆弾の爆発で周囲の空気が熱膨張するのと同じ理屈で破壊力が生まれるのだろう。現に彼が放ったモノはリンカーコアから供給される魔力だけを圧縮しただけの単純なモノだったが、そこから導き出された威力はこうして目の前に結果として残っている。だがこれではまだ満足できない……真の砲撃魔法は土壌を抉って吹き飛ばす位でなければならない、これではまだまだ威力不足だ。魔力収集に関して言えばDMFがあるので問題は無い、いざとなれば相手から直接奪い取れば良いだけの話だ。

 「問題は、『威力』……。ダイレクトに、デバイスへ充填しただけでは、力不足も良い所…………やはり、一度リンカーコアに転送し、“再増幅”させるしかないか」

 取り込んだ魔力をそのまま得物に送り込めばその連発性と速射性能は確実だか、元々大気中に散在しているだけだった魔力を撃ち出すのは遠距離の対象に散弾銃で致命傷を与えようとするのと同義であり、どうしても貫通力を高める為に一度圧縮させる必要があった。だが通常デバイスには魔力を溜め込んでおく機能はあっても圧縮まではスペック上の問題から可能ではなく、それは彼のデウス・エクス・マキナとて例外ではなかった。やはりここは多少のタイムラグを無視してでも圧縮した方が良いだろう、威力が低くては何の為に撃つのか分かったものではない。

 ふと──、

 鳥達の鳴き声が止んだ。

 つい今しがたまで頭上の木々の枝でやかましく鳴いて止まなかった鳥達が突然ピタリと鳴き止んだのだ。飛び去った気配は無く、むしろその逆……自分達のテリトリーに進入して来た“何か”に対して身を潜めているのだ。自然界の動物は賢い……危険が迫っていると分かった時には、まず逃げるのではなくその場で息を殺して気配を消し、相手が自分を通り過ぎるのをじっと待つのだ。かつて古代ベルカ王朝によって支配された森林の部族達は木々に隠れた外敵や侵入者を察知するのに小動物達のこの習性を利用したとされ、平定に繰り出した騎士達はそれに気付けず幾度となく苦戦を強いられたらしい。今これがまさにその状態だった。鳥達が静観している所を見ると相手はただ単にここへ足を踏み入れたと言うだけなのかも知れないが、トレーゼにとっては不都合極まり無い状況だった。人気の無い獣道を使ってここまで来て身を隠していたのがここでバレる恐れがあるからだ。はっきり言って人知れず始末してしまえば一番手っ取り早いのだが、この一帯には常緑樹が生い茂っている所為で視界は悪く、枯葉などが蓄積している足元しか見えなかった。よって現在彼はここへ足を運んだ人物がどんな奴なのかについては全くの無知……であれば、もし発見された場合に取る行動は一つ──、

 「……速やか且つ、迅速に、対象を排除する」

 純白の服の袖口から、いつかセインを始末しようとした時に使ったナイフを滑り出させ、逆手に構えた。相手がどこから向かって来るかは知らないが、この足元で接近すれば足音が聞こえるはずだ。声を上げられる前に左手で口を塞ぎ、反撃される前に右手のナイフで喉を捌く……あとは絶命するまで押さえ込んでおくだけだ。返り血で全身が染まるだろうがシルバーカーテンの効果で幾らでも誤魔化しが効く、何の心配も無い。聴覚神経を研ぎ澄まし、対象……否、獲物が感覚の網に掛るのをじっと待った。

 そして──、

 ……ザクッ。

 「っ!!」

 枯葉と枝を踏む音が鼓膜を打った。立て続けに聞こえて来るようになったその足音に耳を澄ませる……音の大きさで相対距離、間隔で歩幅と身長、そしてそこから導かれる対象の体重に至るまでを瞬時に予測、獲物を仕留める手口に若干の修正を加えつつ、彼は臨戦体勢を取った。腰を低くして下半身の筋肉を縮め、いつでもバネ運動で飛び掛かれるようにしているのだ。やがて足音は徐々に彼の居るポイントまで接近し、茂みの向こう側で何者かがガサガサと動いているのも確認出来るまでになって来た。

 そして、枝や葉を押し退けて姿を見せたその姿を確認した時、トレーゼは──、










 「……………………どこだよ、ここ」

 セイン達と別れた後で作業中だった騎士を捕まえて東館の方向を聞いたノーヴェはその騎士が指差した方向を『真っ直ぐに』歩き、途中で森のような所を突っ切ろうとしたのだが、行けども行けども見えるのは見飽きた木々ばかり……万歩計で200歩位歩いた辺りからようやく、「あれ? ひょっとした迷った?」と言う考えに行き着く事が出来たのだった。

 「いやいやいやいや! あたしってこの教会って今までに何回か来てるじゃん! 何で今さら迷うんだって、バッカじゃねーのかよ。いや、そりゃあさ、東館なんて所一回も行った事ねーけどさ、だからってこんなベタな展開……………………道ってどこだっけ?」

 ここで頼みの綱代わりだった獣道までもが、独り言を言いながら歩いていた所為でいつの間にか逸れてしまい、彼女は遂に教会の敷地内で完璧な迷子状態に陥ってしまう事なったのだった。戸籍登録上とは言え彼女は18歳……さっきまでずっと迷った訳ではないと自分に言い聞かせていたのだが、とうとうその心も折れてしまった。彼女の言うように今までここには何度か足を運んではいたのだが、こう言った茂みの中へは一切立ち寄った事が無かった為にこうなってしまったようだ。

 「……そ、そうだ! チンク姉が言ってたっけ、遭難した時は太陽を見れば方角が分かるって!」

 隻眼の姉の言う通りに葉の隙間から見える燦々とした冬の太陽を見つめる。熱帯の密林ならともかくこの森はそれ程葉の密度が高い訳ではなかったので空を見るにはまだ余裕があった。

 だが……

 「あれ……? 東ってどっちだっけ?」

 南と北、東と西がそれぞれ対になっているのはノーヴェも知ってはいたが、問題はその配置……彼女は空の太陽と対比してどこに東西南北があるのかを全く熟知していなかったのである。結局、数秒間太陽を見つめた挙句に彼女が呟いたのは、「お日さんってどこの方向に昇るんだっけ?」だった。

 「しゃーない、適当に行きゃ何とかなるか。樹海に足突っ込んだ訳じゃねーんだし、歩いてりゃその内に出られるだろうしな」



 と、これが十分前の彼女の言葉だった。



 枯葉と細枝が落ちた地面を黙々と歩き続けたが結局道らしい道にはまるで出会わなかった。いくら広いと言っても教会の敷地にある森がそんなに広大なはずはなく、恐らくは知らない内に真っ直ぐ歩いているつもりが徐々に円を描くように進んでしまっていると言う遭難者の典型的な迷い方をしてしまっているのだろう。

 「あれ? ここってさっき通ったような気がするようなしないような……。やっぱセインに通信で頼んで来てもらっかなぁ」

 脳に埋め込まれているマイクロ端末を利用すれば殆ど時間を置かずにセインがそれを探知してここまで来てくれるだろう。だがそれは出来ればしたくはなかった。単純にプライドが高いからと言うのもあるのだろうが、今のセインは傷付いた二人の妹の世話で忙しく、恐らく自分なんかの為に時間を割いている暇は全く無いはずだったので気が引けたのだ。あの二人も血が全く繋がっていないとは言え自分の妹……出来る事なら早く傷を癒す方が良いに決まっているし、その所為で多忙な姉を煩わせる気も当然無かった。あの姉はスバルに輪を掛けてバカではあるが、妹に対する情熱はチンクと同じ位ある彼女の邪魔をしたくはなかったのだ。

 だがそう頭で綺麗事を並べていても自分が迷走している事実に変わりは無い訳で、彼女は途方に暮れながら再び歩き始めた。時刻はとっくに11時過ぎ……昼食にはまだ少し早い時間帯でも彼女の腹の虫はとっくに催促し始めており、これでは東館に到達する頃には空腹で一歩も動けないのではないかと懸念の心が頭を出し始めて来ていた。

 しかし、ここでノーヴェに転機が訪れた。

 「んぁ? あれって……」

 森の葉の間から僅かに見え隠れしている空間……葉の隙間が他の方向と比べて薄く、目を凝らせばその向こう側の風景も見える……。どうやらその場所は木々が生えておらず、そのお陰で少しだけ見晴らしが良くなっていた。あそこまで行けば何とかして森の外へと抜け出られるかも知れない……そんな期待を胸に抱き、ノーヴェは歩く速さを少し速くしてそこへと向かった。枯葉を踏み、木々をかわして進んで行き、ついに彼女はそこまでやって来ることに成功した。

 「おお! 出られた! すっげぇ見渡しが良いよなここ。えーっと、セイン達が居たのがあの建物だったから……東館ってのは多分あれの事だな」

 広い敷地の隅に位置している少し小さめの建物を確認し、他のものと比べても比較的損壊度が低かった事から彼女はそれがイクスの安置されている東館だと推測した。自分の居る位置から真っ直ぐに行ける距離にあり、彼女はすぐさま傾斜を滑り降りるべく腰を屈め、地面に手を着いた。

 だが、ここで小さな違和感……。

 「?」

 別に大したモノではない、足を捻ってしまったとか、ここへ来る間に何か落とし物をしてしまったとかでも何でもない……彼女が手を着いた所にあったモノ、それに違和感を覚えたのである。

 それは葉……そこら辺に落ちている茶色の枯葉とは違い、冬の寒さでも枯れる事を知らない常緑樹の葉だった。ここの森には冬を迎えると枯葉を落とす普通の樹木と一年の四季を通して一切枯れない常緑樹の二種類が密生しおり、通常枯れない常緑樹の葉は普通の木とは違って枯れないが故に茎や葉も丈夫なはずのだ。だがこの葉はこうして落ちている……昨日の雨でも全く落ちなかった木々の葉がどうして、何故、ここで、一枚だけ落ちているのかノーヴェには分からなかった。

 ふと、彼女は自分の頭上に何か不穏な気配か何かでも感じたのか、視線を自分の真上に向けた。

 鳥達が鳴き、葉や枝が空を覆い隠そうとしている他には何も確認出来なかった。確かに鳥とか小動物とは違う気配を肌で感じたような気がしたのだが、どうやらそれは自分の勘違いのようであった。

 そうやって実に理性的な結論を頭の出し、再び彼女は視線を元に戻し──、



 見覚えのある金色の瞳と目が合った。



 森林の暗い雰囲気とはまるで対照的な目に痛い純白の服とそれと同じ位に白い素肌……自然界ではおそらく目にする事が殆ど無いであろう濃い紫苑の髪……そして、今ノーヴェの視線が見事釘付けになってしまっている水晶よりも澄み切った金色の猛禽類の如き双眸…………見間違えるはずも無い、彼女が生を受けてからの人生で出会った数少ない“友人”に分類される人間の顔を──。

 「トレーゼっ!!?」

 「……あぁ」

 どうしてここに?

 自分をつけていた?

 それとも元からここに居た?

 こんな森の中に?

 だからどうして!?

 「え、っあうえぉ!? えええ!?」

 様々な疑問が脳内を激しく交差するが、それらは全て言葉になる事無く喘ぎ声のような奇声となって口の端から漏れ出るだけでしかなかった。必死に落ち着こうとするのだがそれが逆に混乱を加速させてしまい、その所為で体勢を保っていられなくなった彼女は枯葉の滑り易い表面に手を取られてしまい……

 滑り落ちた。それもかなり豪快に、何故か頭から。

 「ぎゃぁあああああああっ!!!?」

 女性の口から出ているとは思えない声は今更放っておくとして、元が山野の一部を拓いて建物を建てているだけに傾斜角度が結構あり、彼女の体重と相まって滑走速度は異常に加速を増して行った。足で踏ん張って止まろうとするものの枯葉が滑って全然止まれない……! このままでは怪我をするとまではいかないだろうが、地面に当たった時に痛い思いをするのは確実だ。彼女はこれ以上落ちてはいけないと必死になって木の根か何かに掴まろうと右手を振り──、

 “何か”を力一杯掴む事でやっと事無きを得た。始めは太さ的に木の根だと思ったのだが、根っこにしては感触が変だ……全体的に滑らかなようでしっかりしており、柔らかいようで凄く硬い……この感触を彼女はどこかで感じた事があった。彼女の右手が握ったモノ、それは“バインド”……押し固めた高密度魔力によって形成された魔法の綱が真っ直ぐにノーヴェの右手と彼女の上に居るトレーゼの左手を結んでいたのだ。

 「……大丈夫、か?」

 「お、おぅ……。寿命とかがマッハで三年分縮んだような気がしたけどな……」

 「降ろすぞ」

 バインドの長さを調節し、ようやくノーヴェは地上に無事着地することに成功した。多少泥で服の端々が汚れてしまったが外を出歩く分には問題無い程度だったので良しとしたかった。何故ここにトレーゼが居たのかは知らないが、それは後からでも充分聞ける事だ……自分の跡を追うように斜面を滑り降りて来る彼の姿を見ながらそんな事を考えていた。

 だが、ふと彼女はさっきまで気にならなかった服の汚れが少しだけ気になり始めていた。無意識にその部分が目の前の彼に見えないように隠しながら……。










 危なかった、あともう少しで眼前の彼女を『破壊』してしまうところだった。恐らくはセイン達の見舞いか何かでここへやって来たのだろうが、何故こんな人が通らないような場所まで? まぁそれは自分から聞かなくとも相手が喋ってくれる事だ。

 ノーヴェ・ナカジマ……恐らく自分が選抜した元ナンバーズの中で最も『不適合』の素材……元はセッテの代替物として勢力図の視野に入れていたが、当のセッテが地上に降りて来た所為でその必要性は大いに低下した。もはや利用価値は言う程無いのが事実……ひょっとすればここで始末しておいても良かったのかもしれなかった。自分はまたも『選択』を誤ったのかも知れない、これではセッテに言って教えた事が全部自分にも当て嵌まる事になってしまう……。全く以て儘ならないものだ。

 取り合えず、ノーヴェにはここへ来たのは職務上の知り合いが居ると言う事にしておけば良いだろう。幸いにも彼女には自分が“13番目”だと言う事は知られていない様子だ、自分は今まで通りに一介の武装局員として振舞っていればそれで良い。たったその一つの役を演じるだけで目の前にいる堕落者は簡単に騙されてくれるのだから……。

 仕方が無い、しばらくは彼女の『お友達ごっこ』に付き合ってやるとしよう。四日後には自分がどうなっているかも知らないで、ゼロ・セカンド共々本当に気楽なものだ。

 まずは差し障りの無い常套句から……。

 「奇遇だな、今日は、何の用でここへ?」

 返事はやはり妹達の見舞いだった。昨日の一件を思い浮かべるに、オットーとディードの事を言っているのだろう。あの双子には本当に失望させられたとしか言いようが無かった、戦術行動における『コンビネーションの高さ』をコンセプトに開発されている癖に互いの戦力分担や戦術構築がまるで成っていない……あれでは児戯にも劣る。何の為に創造主であるドクターが単一の遺伝子から同位異個体を造ったのか分かったものではない。私情に任せて後衛担当のオットーが前に出た時点で奴らの兵器としての運用性は地に堕ちたも同然だ、次に相見えた時には情けも掛けるつもりも無い。

 「では、何故あんな、所を?」

 道に迷った……? 聞いたこちらが何とやらだ、元々戦闘機人には遭難対策用のシステムとして常に拠点としているラボからGPSデータが送信されて来るのだ。どうやら局に恭順した際にそう言った機能に関するOSやデータを全て消去されてしまったようだ、厄介なものだ。と言うか、そもそもセイン達の見舞いが終わったのであれば何故こんな所をうろついていたのだろうか?

 イクスヴェリア? 聖王ヴィヴィオの記憶の中に少しだけ残っている……古代ベルカ時代の王の一人であり当時存在していたガリア国を死者の軍団で治め、近隣諸国から死者を操る王である“冥王”の異名を与えられていたとされているらしい。なるほど、現在は昏睡状態で辛うじて最低限の生物的活動をしているだけか……。それにしても死体を利用してそれを兵器転用するとは中々どうして強力な力を持っていたものだ。あのヴィヴィオが【聖王の鎧】である事を考えれば、さしずめそのイクスヴェリアの能力は【冥王の屍兵】と呼ぶに相応しい。

 ふむ、なるほど──、

 その力、興味がある。利用しない手は無いだろう。










 結論から言えば、ノーヴェは現在途轍もなく緊張していた。成り行きで一緒にイクスの見舞いに同行してくれるらしいトレーゼの姿を横目でチラチラと盗み見しながら、彼女はずっとソワソワした感覚を抑え切れなかった。元々父親以外の男性とはそれほど親しく接したことが殆ど無く、トレーゼに関しても出会ってから半月も経っていないので正直言って互いの意思疎通が上手く行っているかさえも自分では分からない始末だった。

 (うっわぁ……! 落ち着かねぇ!!)

 ギンガやチンクに言わせれば単に男性に対する免疫が無いだけだと言われるのだろうが、今の彼女は誰の目から見ても明らかに挙動不審としか思えないテンションだった。すぐ近くに居た友人がそう言った事を全く気にしない人種だったのがある意味一番の救いだったと言えよう……。だがしかし、彼女が必要以上に緊張してしまっているのは単に彼を異性と意識しているからと言う訳ではない。もちろんそれもあるが、彼女の心に在るのは緊張と言うよりかはむしろ居心地の悪さ……前回海上更正施設での一件が尾を引いており、四日振りに面と向かって会えたと言うのにどうも素直に喜べない。

 あの時セッテが言った言葉……『彼はこの世の全てを嫌悪している』と言っていた。そして、それは自分もセッテも例外ではないと言う事も聞かされた。あの日自分が怒りに身を委ねて妹であるセッテを一方的に殴りつけた後、彼はいつも以上に素気ない態度を取り続けた挙句、あの日は遂にあれ以上自分と言葉を交わそうともせずに姿を暗ましてしまった。実は最近になってトレーゼはますます自分との距離が開いていると認識し始めていたノーヴェ……最初に出会った時は無愛想で荒削りな物言いの中に何か別のモノを感じていたが、それは彼に会う度に次第に薄れて行った。『美女は三日で飽き、醜女は三日で慣れる』の男性版だと言ってしまえば身も蓋も無いのだが、当然彼女にとってはそんな生易しい言葉なんかで片付けられる程にこの思い悩みが軽いモノではなかった。

 今こうして辛うじて会話出来ているように見えるが、実際心の中は疲労困憊に近かった。今こうやって事も無く話している目の前の友人が本当は自分の事をどう思っているのか……相手の心中が分からない事程に恐ろしく、それでいてもどかしいモノは無い。あるいは自分に対して何の感情も抱いていないと言う事も考えられる。もし仮にこれが思い込みではなく本当にそうだとすれば、今こうして彼の横に立っている自分は一体何だと言うのか?

 そうして歩いている内に東館の玄関までやって来た。番をしていた騎士の男性はノーヴェの事を見知っていたので連れ添いのトレーゼの方も特に咎める事無く中へ入れてくれた。中の廊下に飾ってある絵画などの調度品が珍しいのか、トレーゼの視線はずっとそちらを向いたままだった。

 そして……。

 「えーっと、ここに居るはずなんだよな」

 東館の中で一番端の部屋の前……この扉を開ければそこのベッドにスバルの友人、イクスヴェリアが眠っているはずだった。現代の科学・医療技術では決して醒める事の無い眠りに沈んだ彼女……恐らくスバル自身も自分が生きている内には絶対に再会する事は無いだろうと自覚しているだろうが、それでもこうしてせめて人間らしく彼女を眠らせたいと言う愛情があるのだ。何世紀経ってしまった後でも彼女が出来るだけ寂しい思いをしないようにと……。

 ドアを開ける──。一人で使うには大き過ぎるベッドには橙色の髪を持つ小さな少女が眠っていた。永劫の時を流れる揺り籠に身を委ねる少女の寝顔には心なしか薄らと笑みが浮かんでいるようにも思え、ノーヴェもここへ来てやっと気持ちが紛れたような気がした。

 「イクス……久し振り。元気してたかー?」

 呼び掛ける。死んでいるのではない、ただちょっと眠りが深いだけだ……ちゃんと生きているのだからこうして話し掛けるのに何の抵抗も違和感も無い、むしろ当然の事だと思っている。頭を撫でれば人の体温が伝わって来る……生きているのだ、今もこうして。

 「あ、花瓶に花がねーな……。ったく、ちょっと水と花入れて来るから、トレーゼは待っててくれな」

 ベッドの近くに置かれてあった花瓶を抱え、彼女はすぐさま水を入れに行こうとした。やっぱり花瓶が置かれてあるのに花が無いと言うのはもったいなかった。トレーゼは素直に彼女に言われた通りに引っ張りだした椅子に座っていた。

 再びドアを開け、すぐ隣にある化粧室の水道を借りに行った。あんまり勢い良く飛び出した所為で彼女は見逃す事となってしまったのだ……。

 背後の友人が懐から一本の注射器を取り出そうとしている所を──。










 “冥王”イクスヴェリア……こうして直に見れば何と言う事は無い、ただの小さな子供だ。数百年の永い眠りの所為で死者を行使する能力は消え果て、もはや古代ベルカに君臨していた王の一人だとは到底思えない程に弱体化の極みに到達してしまっていた。この先再び数百年以上は覚醒しないと分かった時は半信半疑だったが、この状態を見る限りではそれも事実らしかった。人間の感情とは理解出来ない……こんなモノ、さっさと処分してしまえば良いのにいつまでもここに留めようとして自分達の記憶の残滓、『思い出』に囚われ続ける……何とも哀れで馬鹿な話だ。

 自分ならさっさと消し炭にするのに……。それとも、今ここでそうしてしまうのも悪くは無い、始めは無理矢理にでも覚醒させようと思ったが、起こすこと適わぬなら利用価値はゼロだ。いや、むしろ三ヶ月前の事件のように誰がこの能力を利用するか分かったモノではない。それも仮に管理局がそれを実行したとしたなら最悪だ、その屍兵共を自分に使われたのであれば切りが無い。ノーヴェが水を汲んでいる間に始末をつけるか?

 …………いや、待てよ? 利用価値はある。

 簡単だ、この少女の能力を自分が『見取って』しまえば良いのだ。正確には体液を取り込んでその能力発現を司る因子を組み込む、と言った方が正しいだろう。そうすればこちらも数の暴力とやらを手に入れられる……兵士を造るには死体が必要だが、問題無い、“ストック”は存在している。

 能力が消えたと言うのはあくまで表面上、肉体を構成しているDNAにはその因子がしっかりと刻まれているはず……。だとすれば当然血中にも……。

 うむ、針の通りが良い所を見るとやはり生きてはいるのか……。血色もさほど悪い訳ではない、本当に生きたまま死んでいるようだな。だが周囲の俗人には分からんだろうな……この状態こそまさに理想、生きていながら死んでいる、死んでいながら生きている……二つの矛盾した状態を抱えながらもこうして存在出来ているこの少女こそ真に一般論で言う所の“幸福”に値するのではないだろうか。『死んで』いるから一切の苦から逃れられ、『生きて』いるから生物としての生を享受出来る……まさに完璧だ、生と死の相反する二つの現象の狭間に居るからこそ成せる究極の“幸福感情”……自分は、この少女に羨望と言う感情を発生させているのかも知れない。

 さて、目的の物は手に入れた……一度は始末してしまおうとは考えたが、よくよく考えればそれもナンセンス……ノーヴェが戻って来る前にここを退散した方が良いだろうな。流石にあれの『お友達ごっこ』にも飽きる……いい加減付き合い切れない域にまで来ているからな。

 さようなら、恐らくこの世で最も『幸福』な少女……。欲を言えば俺も…………いや、今更何も言えないか。










 「お待っとさ~ん……って、あれ? トレーゼ?」

 花瓶に花と水を入れ終えて戻って来たノーヴェは、部屋に居る人数が一人減っている事にすぐ気がついた。ベッドの傍には誰も座っていない椅子が寂しく佇んでいるだけであり、さっきまで閉まっていたはずの窓が全開になっていた。真昼の冬風は虚しくカーテンを揺らし、彼女の頬を撫でて通り過ぎて行くだけだった……。

 「…………帰るんだったら言ってくれりゃ良いのに……」

 神出鬼没……風の様に現れ風の様に消えると言えば如何にもロマンチックに思えるかも知れないが、こうして実際目の当たりにすると物哀しいことこの上ない。自分の知らぬ間に相手が消えてしまうと言うのはある意味で恐怖と寂寥感が心中を埋め尽くすのだ。

 だが彼のそう言った所は今に始まった訳ではないので今更どうしようもない。そう割り切りながらノーヴェは卓の上に花瓶を置き──、

 足元に黒い羽根が落ちているのに気付いた。

 形と大きさから見てどうやらカラスの羽根のようだが、何故ここに落ちているのだろうか? 窓を開けた時に迷い込んでいたのか?

 「ま、いっかそんな事どうだって」

 だが結局彼女は生来の性格からすぐにその事について深く考えることを放棄した。この時、彼女がもう少し注意深い性格だったならベッドから少しはみ出しているイクスの腕を中へ戻しただろう。

 そして、その時気付くのだ……



 彼女の腕に小さな傷痕があった事に。










 午前11時30分、地上本部正面玄関入口にて──。



 ティアナ・ランスターは外のベンチで少し早い昼食を摂っていた。今さっきまで報告書作りに追われていた最中であり、午後からは例の親子連れ殺人とその犯人である組織が壊滅した件とのダブル調査で忙しく、今この時間でないと満足に食事を摂る事も出来ないのだ。もっとも、食事とは言え実際はそこら辺の購買やショップで売られているようなファーストフードだが……贅沢は言っては居られない、激務である執務官の職を選んだのは自分自身なのだから。

 「この『おにぎり』って言うの美味しいわね。米の栄養価と携帯食料の食べ易さが合ってるわ。今度ヴァイス陸曹にも勧めてみようかしら?」

 第97管理外世界特有の食文化の一部を堪能しながら彼女はそれらをさっさと胃袋の中へと押し込んで行く。

 「それにしても、朝っぱらからいきなりスバルが廊下走ってるなんて何の冗談かと思ったわ……。足が治ったのは良いけど、頭の中はいつものまんま。本当にバカだけど……安心したわ」

 今頃中庭で久し振りに走り込んでいるであろう親友の顔を思い浮かべながら、ティアナはふと微笑んだ。それはこの二週間で彼女がやっと見せる事が出来た安堵の表情だった。

 ふと、彼女は視界の隅で何か黒いモノが動いているのに気が付いた。何となくそっちの方向を見ると、一羽のカラスがチョコチョコと小走りでこっちまでやって来るのが見える。腹でも空かせているのか、その視線はティアナの手にある食事に向けられたままだった。

 「あんたもお腹減ってるの? 良いわよ、ちょっとだけあげるわ」

 米粒を少し摘まんでティアナはそのカラスに分け与えようと手を伸ばし……



 クァーッ!!



 「うわっ! ちょ、何すんのよ!? 痛っ! 痛い痛い!!」

 ここまで来てそのカラスは突然の威嚇行動に入り、黒い翼を大きく広げて飛び上がると脚の爪でティアナの頭を攻撃してきたのだ。その勢いたるや凄まじく、彼女がいくら抵抗しても頭皮や髪の毛を思い切り引き剥がさんとしていた。

 「あぁ~! もうっ!! いい加減にしないと撃つわよ!!」

 分かり易く右手を銃の形に見立てて大人げなくカラスに向かってブンブン手を振る。するとようやく相手も諦めたのか、強気に「カァー!」と一言鳴いてどこかへと飛び去って行ってしまった。手が爪の傷だらけで痛い……今回の件で知性的な彼女が新たに学習したのは、『動物には無闇に構ったりしない事』であった。










 地上約200メートル、地上本部の棟の天辺にそのカラスは一旦羽根を休めるべくそこへ留まった。時折鳴いたり、翼をくちばしで繕い、如何にも鳥らしくしている……。

 だが──、

 「これで、ランスターの記憶と魔法も、収奪完了した」

 次の瞬間にその黒カラスは消え、そこには白い服に身を包んだ一人の男性が佇んでいた。ティアナの記憶を奪った事でいつでも彼女に完璧に“挿げ変わる”事が可能になったその男──トレーゼは眼下の地上本部を見降ろしながらふと手を差し伸べた。その手の先に、ずっと街中に放っていた召喚蟲の一匹が留まり、紅い光の明滅で情報を主に伝達する。それらを解読し、彼は一つの情報を得た。

 「そうか……。ゼロ・セカンドの脚が、完治したか……。誰が治したか知らんが、大したモノだな」

 足元を見る……地上まで一直線で行けると判断し、次の瞬間に彼は投身自殺さながらの勢いで飛び降りた。地面まで後10メートルと言う所で彼は木の茂みに落下し……

 「はぁ~あ、バレないように魔法を使わないで落ちるのって苦労するのね。今度から控えようかしら」

 白い服はカーキ色の局員制服に、紫苑の短髪はオレンジの長髪に……つい今しがた記憶を奪ったティアナに完全擬態したトレーゼがそこに居た。身長体重はもちろんの事、体毛の数から筋肉の発達具合、喋り口調や性格に至るまでの全てが本人と寸分違わず……否、本人と同じになっているのだ。これが対人偽装『ライアーズ・マスク』の真髄、他人を模倣するのではなく挿げ変わる事で時に自分自身すら騙す完全な偽装の能力がこれだ。

 「やっぱり女の体って馴染まないのね。筋肉は弱いし、骨だって脆弱……こんなんで戦えてるのが不思議だわ。でも仕方ないわよね、潜入するには流石に局員の格好だけじゃダメだから。一応スバルに会いに行くまではこの格好維持しないと」

 服に付いた木の葉を払いながら彼は堂々と真正面から地上本部の中へと足を踏み入れた。行く先は決まっている……。

 「取り合えず、待ってなさいねスバル。一応アンタが一番幸先不安なんだから、今の内にしっかり矯正しておかないといけないんだから。覚悟してなさい……」



[17818] 仮面の日常:午後
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:73ca1900
Date: 2010/08/15 01:14
 11月19日午前4時00分、孤島の隠れアジトにて──。



 「クアットロ、戦いにおいて、勝利を得るに、最も重要な事項は、何か知っているか?」

 三時間前にアジトに戻って来てから今までハンモックで寝ていた兄が突然口を開いた事にクアットロは一瞬呆けたが、しばらく真剣に考えるような素振りを見せた後……。

 「クアットロ、バカだから分かんなぁ~い♪」

 すぐに惚けて見せた。元々しっかり考える気なんて毛頭なかったのだが……。

 「だろうな。貴様は、バカだからな。故に、零点だ」

 「あら、失礼しちゃいますわ。でも、何でそんな事をお聞きになられたのかしら。興味津々ですわ」

 兄の首元に妖艶な雰囲気を纏って腕を絡ませ、クアットロは一人でも狭いハンモックの上に乗り込み、娼婦のようにトレーゼに抱き付いた。特にそれを鬱陶しいとも感じないのかトレーゼの反応は淡白なもので、クアットロの伊達眼鏡を取るとそれをデスクに放り投げた。

 「…………昔、ある主人の許に、忠実な三人の、私兵が居た。ある時、主人はその三人に、俺が今さっき聞いた事を、各々に聞いた」

 「へぇ~、それでその三人は何て答えましたの?」

 「一人目は、『知識』だと答えた。戦いを制するのは、情報……その情報を、操作するには知識が必要だと、そう答えた」

 「あながち間違ってはいませんわね」

 「二人目は、『狡猾さ』だと言った。相手の、裏を斯いてこそ、戦いに勝てるのだと、そう主張していた」

 「あら素敵なお考え。私と気が合ったでしょうねぇ。それで、最後のお一人は何て?」

 「……最後の一人は、『力』だと答えた。全てを圧倒する、小細工も、前調べも必要無い……自分の、前に立ったモノを、片っ端から消し潰す、そんな『暴力』だとな」

 「ちょっと野蛮ですけど一番確実な方法ですわね……。それで結局どれが正しかったんですの? 私に零点と言ったからには満点があるって言う事ですわよね?」

 「この話には、続きがある……。結果として、その三人は、各三十点しか与えられなかった」

 「へぇ……三人とも的を射ていましたのに、意外ですわ」

 クアットロはここで退屈そうに欠伸をするとトレーゼの胸にもたれ込み、眠そうに目を擦り始めていた。そんな彼女をハンモックから容赦無く引き摺り落としながらトレーゼは言葉を続ける。

 「実は、その主人にはもう一人、部下が居た。四人目の……いや、“13人目の”と言った方が、良いか」

 「え……? それって──」

 「主人は、その者にも、同じ事を聞いた。そしたら、そいつは、何て言ったか分かるか?」

 ハンモックの紐をバネ代わりにして飛び上がり、トレーゼはデスクの上に着地した。それだけの軽やかな動きに見とれてしまっていたクアットロは兄からの質問に答えることなど忘れてしまい、ただ呆然と彼を見上げているだけだった。

 「…………何て言ったんですの?」

 「たった一言、『全部』とな。『頭脳』、『速度』、『力』、『物量』……戦いに、勝利する為の条件、その全てが必要だとな」

 「そしたら……何点でしたの?」

 「100点」

 「でもそれってただのトンチ話しじゃありません?」

 「分からないか? 要するに、『勝つ為に手段は選ばない』……これが、正解だったんだ。破壊し、蹂躙し、殲滅してでも、必ず奪い取らなければ、ならない……良く覚えておけ」

 トレーゼは床を埋め尽くす大量の紙束の一枚を抜き出しながらそれをじっくりと眺め始めた。こうして暇な時には過去にスカリエッティが残した論文を読書代わりに嗜んでいて、ここに保管してあるものは粗方読み終えているようだった。そうしている時は大抵クアットロの方は暇なので始めは彼にちょっかいを出したりしていたのだが、やがて相手にされない事を諦めると次第に彼女も床の論文の山から何か面白いモノは無いかと漁り始め──、

 「あらぁ、何かしらこれは?」

 紙束を押し退けて彼女が拾い上げたのは一冊の本……他の物がホチキスや糊で留められているだけの物に対してこちらは革張りになっていて、背表紙には薄らとタイトルが書かれてあるのが確認出来た。小さなその文字を良く読もうとして彼女は背表紙に接近して目を凝らした。

 「えーっと、お兄様ぁ、この本のここってどう読むんですの? ミッド公用語とは違うみたいですの」

 背表紙に記されているタイトルは文字こそミッドチルダにおいて用いられている公用語と似たようなモノだったが、文法体系が微妙に違う所為で読めなかった。恐らくは別の次元世界で使われている言葉なのだろう……かく言う自分達の名前も本当はただの番号であるところをわざわざ創造主の気まぐれで異世界の言語で表記しているのだ、こう言った部分でもその様な趣向を凝らすのも考えられる。となれば、これは自分が目覚める以前に書かれた物と言う事になり、であれば当然トレーゼはこの言葉の意味を知っていると言う事になるはずなのだ。

 「……『Relic』……第97管理外世界に、存在する言語体系の一つ、“English”で、『遺産』を意味している」

 「遺産ねぇ~……中にはどんな記録が入っていますの? あのドクターがわざわざこんな豪華な背表紙の本に纏める位ですからきっとすっごい研究成果を記したに違いありませんわ! 何かしら何かしら? 最強の質量兵器『スイバク』を上回る威力の小型兵器の設計図と基礎知識かしら? それとも将来私達に取り付けるはずだった一個大隊にも匹敵する出力を得られる強化兵装かしら? それともそれとも……って、お兄様その中身見せてくださいなっと!」

 再び兄の手からその本を引っ手繰ると彼女は勢い良くページを開いた。その所為で傷んでいた紙面の一部が耳障りな悲鳴を上げるが彼女はお構い無しに嬉々とした表情で捲り続けた。

 だが、そんな彼女の表情はすぐに冷めたモノへと変わって行った。それは、まるで欲しがっていた玩具が実際に与えられて見ると存外面白くなかった時の子供のような表情だった。

 「何ですのこれ? ドクターはこんなモノを残す為だけにこんな本を作ったとでもいいますの? はんっ、バカバカしいったらありませんわ! お兄様、これそこら辺に捨ててもよろしいかしらぁ?」

 ページを乱暴に閉じた後、クアットロはそれを手にとってゴミ箱に捨てる振りをした。当然彼女はそれを捨てるつもりだったし、“それ”が自分達の計画進行の為には全く必要無いことは如何にクアットロ言えども熟知しているつもりだった。

 しかし──、

 「…………」

 「あらぁ?」

 コンマ数秒で掌から出したバインドを巧みに操って彼はクアットロから本を奪い返し、それを丁寧にデスクの引き出しに仕舞い込んだ。あまりの速度に常人の倍以上の動体視力を誇るはずのクアットロの眼球センサーが一瞬でエラー表示を出した程だった。

 「……お前の言う、こんなモノだが、これは、お前の亡き姉、ドゥーエの遺産でもある……。丁重に扱え」

 「な!? で、でもあのドゥーエ姉様がこんなどうでも……もとい、計画に関係の無いモノを残しておくなんて……!」

 「……………………もういい、今後一切、お前はあれに触れるな。見る事も、許可しない」

 妹の容赦無い物言いに何か引っかかるモノを感じたのか、彼は再び引き出しから先程の本を出すとそれを適当な布で包み、脇に抱えて室外へと出て行った。すぐにクアットロが論文の山を掻き分けて跡を追ったのだが、ドアを開けた時には既にトレーゼの足元には紅い魔法陣が展開されており、どこか彼女の与り知らぬ所へと転移してしまっていた後だった。

 「お兄様ったら、あんなモノに何か思い入れがあるんですの? このクアットロめには理解できませんねぇ」

 ナンバーズ足る彼女には兄である彼の取った行動が理解出来ずにいた。むしろ今この瞬間だけに限って言えば反感に近い感情を抱いていたと言っても過言ではなかった。それ程までに彼女は自分の姉が遺したモノと、それを擁護する兄の行動が受け入れ難かった……何故なら、あの本の中にあったのは世界の常識を覆す内容が記された論文でもなければ、ましてや兵器の設計図なんてモノでもなく──、










 同時刻、トレーゼの肉体は数秒の間も置かずに数十キロメートル離れたポイントへと転移を成功させていた。転移した場所は例のアパートのキッチンルーム……この時間帯だと恐らく寝室ではまだヴィヴィオは熟睡している頃だろう、トレーゼはその部屋へと続くドアを開けると音も無く進入し、彼女の様子を確認した。寝相が悪いのかそれとも単に落ち着かないだけか、彼女はこの季節の夜にも関わらずに布団の端から体の大半を露出させたまま睡眠してしまっていた。あのままでは風邪を引いて体調に悪影響を及ぼすだろう……そう判断した彼はすぐさま彼女に進み寄り、その小さな体を片手で抱えたままベッドを整理し、丁寧に彼女をベッドへと戻した。その後、彼はしばらく部屋をキョロキョロと見渡した後……。

 「……やはり、ここか」

 ベッドの下のほんの僅かな空間を見つけ、それまでずっと抱えていた本をそこへ滑り込ませた。ここであればクアットロが注意を向ける事も無いだろう……後は彼女が昨夜渡しておいた血液サンプルの解析を成功させればヴィヴィオは自然と用済みになり、その時にまた回収すれば良いだけの話だ。

 ふと、彼は窓の外から聞こえて来る喧騒に耳を傾けた。対衝撃仕様のガラスを透して聞こえて来た音は、発砲音……僅かな隙間から捉えた微粒子が嗅覚神経に教えてくれたのは硝煙の刺激臭、間違い無い、どうやら外で体の良い“玩具”を持てた事に浮かれた輩達がいらない騒ぎを起こしたのだろう。この部屋を借りる際に不動産屋が言っていたが、どうやらこの辺りは本当に薬物や拳銃などの小型質量兵器の密売屋が根城にしているらしかった。昼間でしかここに来ていなかったので分からなかったが、恐らく毎夜の如くこうして抗争紛いの馬鹿騒ぎを起こしているのだろう。通常ならすぐさま局の捜査官なりが来て一斉検挙のはずなのだろうが、如何せん管理局の体制は大型組織に有り勝ちな『事無かれ主義』……上層部の革張りの肘掛椅子に腰を降ろしている連中程にこう言った面倒事には極力関わろうとせず、積極的に行動を起こした者だけが結果的に割を食うのだ。ちょうど、かつてのティアナの兄ティーダ・ランスターのように……。

 また一発聞こえて来た、今度はもっと近くでだ。銃声と火薬の臭気からして恐らく先程の銃声の主と同じか、あるいは同型の銃を所持している複数の犯行か、どちらにしても連続して銃声が聞こえて来たとなれば他方の一方的な蹂躙が行われているのだろう。たかが利害の不一致で殺し合うとは……俗人達はやはり低俗な思考しか出来ないようだと改めて認識させられた。

 そして──、

 タァンッ……!!

 最後の一発が聞こえて来た時……。

 「ッ!!?」

 「……?」

 彼はベッドの中で熟睡しているはずの少女の体が大きく揺れ動くのを見た。掛け布団越しからでも分かるその痙攣は明らかに恐怖による強い拒否反応、恐らくはトレーゼが来る前から度々聞こえ続けていた銃声や喧騒に怯えて殆ど眠れていなかったのだろう。やっと少しだけ静かになって眠れそうになっていたのがこうして再び物騒な物音に苛まれ、虚ろな意識の中で恐怖に怯えて身を震わせていた。

 それを見るに見かねたのか、トレーゼは月光を取り込んでいた窓のカーテンとドアの鍵まで閉め、懐から取り出したマキナまでも卓上に置いて純白の服だけを纏った彼は足元に固有技能発動の印である疑似魔法陣を出現させた。現在彼が保有している14のISから今のこの現状で発動させるのは、たった一つだけ──、

 「…………IS、No.2『ライアーズ・マスク』、発動」

 対人用偽装能力『ライアーズ・マスク』。自身の肉体を塗り替えるその能力で変身する相手は、目の前の少女の母親──高町なのはだ。身長は一気に頭一つ分伸び、男性特有の筋肉質体型が柔らかな脂肪を湛えた流線形に変化、胸元には本来有るはずの無い隆起が発生し、濃い紫苑の短髪は長い茶色の長髪へと最早華麗としか表現出来ないような変貌を遂げた。完璧に『高町なのは』へと変化を完了した彼、否、“彼女”はゆっくりとベッドに歩み寄り、慈母の眼差しを持ってヴィヴィオの頭に手を置いた。

 「良い子、良い子……本当は怖いのにずっと我慢してたのね。偉いわね、偉い偉い」

 ただ単に頭を撫でているだけではない……ブロンドの髪と頭蓋を透して脳にダイレクトに魔力を流し込む事で神経に働き掛け、精神の安定を図っているのだ。眠っているとは言え脳は覚醒しているはずで、彼がわざわざ母親の姿を取ったのはその声で安心させようとしているのでもあった。

 その効果が表れるまでにそう時間は掛らず、布団の中で怯えていたはずの少女は落ち着きを取り戻して再び精神を涅槃の彼方へと沈めた。全く以て幼子とは厄介なモノだ、赤子ではあるまいしこうして夜中に面倒を見なければならないとは考えていなかった。幼児誘拐ほどに割に合わない犯罪行為は無いとは以前から耳にしてはいたが……何となくだがその意味が分かり掛けたような気もする、これでは途中で犯人がその子供を殺したりする訳だ。実を言えばトレーゼも内心では何をやっているのだろうと考えてはいたのだが……

 「今の私は貴方のママだから……。それに、今私は何でか知らないけどとっても機嫌が良いの……だから……」

 掛け布団を捲り上げ、中の温かい空気が逃げる前に体を滑り込ませる……自分よりもずっと小さなその体をそっと包み込むようにして抱き寄せ、既に眠っているはずの少女にこう囁いた。

 「独りが寂しいなら今日だけはこうしてあげる。『造られたモノ』同士……やっぱり孤独って嫌よね? 辛いよね? 寂しいよね? 私も……17年間…………」

 伏せた目がどこかヴィヴィオを恨めしげに見つめているようで、だがそれでいてどこか慈愛に満ち満ちた眼差しで、限り無く本物に近い偽物の姿をした“彼”はずっと優しく少女を抱き留めたまま共に眠りについた。睡眠時間はヴィヴィオが覚醒した朝7時までのたったの三時間……だが、彼にとっては創造主の許を離れた17年間の間で摂った睡眠の中で最も深い眠りにつく事の出来た三時間だった。










 午前6時30分、地上本部ゲストルームにて──。



 「つまり、どうしても同意は出来ないと言う事ですね?」

 未明の時間帯で局内には夜勤の者を除いては殆ど人が居ないにも関わらず、この来賓用の部屋の室内では対になっている革張りソファに合計六人の男女が一堂に会していた。面子はスカリエッティを挟んでトーレとウーノ、その向かい側のソファにはやて、クロノ、ユーノの順番に座っていた。現在彼らが夜通し議論を交わし合っているその内容は言うなれば『作戦会議』、例の“13番目”に対し今後どの様な出方を図るのかを検討していた。現状では管理局側はほぼ一方的な打撃を受けつつある状況に置かれていた……現在戦力に数えられているメンバーは、ヴィータを除くヴォルケンリッターの三人、両足の負傷が完全回復して職務に復帰しているティアナ、海上更正施設にて教鞭を執っているギンガ、そして地上本部武装隊に出向扱いとなっているエリオとキャロ……このたった七名だけだ。さらに欲を出して戦力を加味するのであれば、特務小隊N2Rの面々と、現在両脚の再生治療に成功しリハビリ中のスバル、隻眼となりながらも何とか戦闘行動は可能な八神はやて等々の面子も加えれば戦力は一気に十三名にまで跳ね上がる。

 だが足りない! 現在戦力図から完全に脱落した者は先日の時点で三名……魔力ノイズを脳に植え付けられた高町なのは、肉体とリンカーコアの双方に多大なダメージを受けた事により現在入院中のフェイト、そして四肢の半分と光りを奪われた教会側戦力のシャッハ……この三人は全て“13番目”の一方的蹂躙によって復帰の目途を無くし、あるいは再起不能にまで追いやられた面子だった。たった一人で武装隊一個中隊とも引けを取らないとまで評された者達が立て続けにここまでしてやられた事実をおいそれと見過す事が出来るはずも無く、生半可な戦力では到底太刀打ちする事など出来ない事を示していた。数も、質も、こちらが現在圧倒的に足りていない状態にあったのだ。そんな状況下で元ナンバーズ最高戦力トーレが急遽一時的釈放扱いになってここへ来たのはまさに暗中の中に差し込んだ一筋の光明と言えた。スカリエッティが自分の身柄を管理局の好きにさせる代わりに要求した条件、『自分の右腕』であるウーノと『対トレーゼ最大の抑止力候補』となるトーレも共に作戦に関わらせる事が今回クロノに課せられた条件だったが、彼自身も多少無理を通したとは言えここまで上手く行くとは思わなかった。何よりも、スカリエッティの先見の目のお陰でこうして新たな戦力を得られた事に内心ではある程度安心していたはずだった。

 そう、誰が予想出来ただろうか──、

 「くどい! 何度も同じ事を言わせるな」

 ナンバーズ側から提供されて来た最高戦力のトーレが──、

 「私はこの作戦については一切協力しない。干渉も! 手助けも! 何一つ絶対に関与しないと言う事を弁えてもらいたい!」

 作戦への協力要請を拒絶するなどと。

 動かざること山の如しとはこの事か、『“13番目”≠トレーゼ』と言う線が色濃くなってから急に旗色を変え、彼女は作戦への参戦を頑なに拒否し続けているのだった。日付が変わった時間帯からずっとクロノとユーノの二人掛りで説得に掛っているのだが、その度に返される言葉は決まっており……。

 「私は『対トレーゼの抑止力候補』としてここまで連行されて来たはずだ。貴様達の言う“13番目”とやらをどうこうする為に来た訳ではない!」

 この一点張りだった。過程は違えど彼女もまたスカリエッティと同じように“13番目”とトレーゼの不一致を強く信じている節があり、それを利用して協力の姿勢を一向に見せてはくれなかった。姉であるウーノも何とかして首を縦に振らせようとはするのだが、どう言った力関係なのか主人であるスカリエッティですらも強く言えない所為で彼女の説得も徒労に終わってしまった。

 「とにかく、何と言われようと私は作戦参加はしない。これだけは絶対だ」

 「絶対、か……。絶対と言う言葉を軽々しく使うとは、科学者として感心せんな。だが良いのかトーレ? 君の『弟』は『姉』である君自身の手でなければ決着は着けられないが」

 「私の知っている『弟』はドクターに強制命令されない限りは一連の事件のような事は仕出かさない。それは私を含めた上位三人のナンバーズ達の間では分かり切った事のはず」

 「フフ、見ての通り実に『弟』想いな『姉』だろう? 20年も昔からこうなんだ、こうやってツンツンしているようで自分の身内にはとことん甘い性格でな」

 出来の悪い娘を職場の同僚にでも見られたかのような困った笑みでスカリエッティはそう言うと向かい側のクロノ達に向き直り、さっきそこに居た虫を叩いたとでも言うような気軽さで……。

 「と言う訳で予定を変更してトーレは作戦に参加出来なくなったのでそのつもりで」

 「おい! ちょっと待て」

 思わず地の性格が口走ってしまったクロノだったが、彼にとって今は体面などどうでも良かった。無期懲役にも等しい刑を執行されている囚人のトーレを提督と言う立場を利用した人脈と権力をフルに使いやっとの思いで一時的釈放扱いにしたと言うのに、それが一瞬で水泡に帰したとなればそりゃ言葉の端々も荒くなると言うものだ。ただでさえ無理を通し過ぎた所為で上層部に対して上がらない頭が更にその重みを増したと言うのに、これで実績が出せなかったら責任を取らされるのは他でもないクロノ自身となってしまうのだ。

 「仕方ないさ、昔から一度曲げたヘソは簡単には直してくれない子でね。機嫌が直るまで新たな作戦でも考えようじゃないか」

 「新たも何も、この数時間ちぃっとも作戦らしい作戦なんか考えてへんやないか。子供の缶蹴りの方がよっぽどええ戦術思いつくわ」

 「それはそうだろう。古来より確実な戦略を編むには優れた知略、優秀な精鋭、周到な段取り、そしてそれを実行に移すだけのコストの四つのポイントをクリアしなければならないのだ。知略の面ではこの私一人で充分過ぎる、費用の面は全て管理局が経費として落としてくれるから良いとしても……問題は人員と準備期間だ。あれには幾ら木偶の坊を投げつけたところで大した意味は無い、半人前の魔導師程度では障害物とも思わないだろう」

 「ちょい待ち、準備期間てどう言う意味や? まるであちらさんがすぐにでも動きそうな口振りやな」

 「まるで、ではないよ……。必ずこの一週間以内に“13番目”は決着を着けに来るはずだ」

 「何故そう断言出来るのですか? 相手方にも準備期間は要るはずです。それがたった一週間で……」

 ユーノが疑問に思うのは当然だろう。どんな軍事作戦遂行のエキスパートでもたった七日で作戦を立案してしまうのは中々難しい話だ。それをあの“13番目”はたった二人の戦力でこの一世紀近くの間も次元世界の治安を護って来た管理局を相手取ろうとしている……常識で考えれば荒唐無稽も甚だしいところだが、相手は目的の為なら手段も犠牲も厭わない狂気の勢力故に一切の油断は出来ないものまた確かな事。

 「司書長殿の疑問ももっともだが、私がトレーゼ……何故“13番目”がそれだけ早期に行動を起こすと予測したのか、理由は三つある」

 立てられた右手の三本指にトーレを除いた全員の視線が集中する……。

 「一つはコスト面。私が察するに“13番目”は過去に私が残したラボのどこかに身を潜めている可能性が高い。三年前までアジトがいつ潰されても良いように幾つか居を構えていてな、そこには私達がいつ戻って来ても問題無く過ごせるようにと食料から研究用の機材や資料までの全てを備蓄して揃えてあった。そこに籠っているとするなら食料にも寝床にも困らないし、おまけにあちらの戦力はたったの二人だから自然に生活していてもコストは掛らない。コストが掛らなければ自然と行動の許容範囲が広がると言う理屈だ」

 「その研究所はどちらに?」

 「過ぎ行く過去に興味は無いので覚えておらん。次に、『戦力数の少なさ』が挙げられる。こちらが大所帯なのに対してあちらはたったの二名……しかも重要な作戦行動の殆どは“13番目”が行っている。数が少ない分不利に見え勝ちかも知れないが、作戦の立案と遂行のスムーズさではあちらが圧倒的に早い。しかもただ単に少ないのではなく実力までも兼ね備えていると来ているから性質が悪い」

 なるほど、頭数の少なさを逆手に取った戦術範囲の広さと言う訳だ。徒に数が多いよりもよっぽど行動し易いはずだ。

 「そして、最後の一つ……。これが最も重要で最も無視できないポイントだ……」

 スカリエッティの三本目の指が折り曲げられ、全員が固唾を呑み言葉を待つ。そして──、



 「相手方……“13番目”の作戦行動の準備期間は既に終了している」



 六人を取り巻いていた室内の空気が一気に凍りついた。明らかにそれまでとは違う重く冷たい沈黙が空間に圧し掛かり、冷静さを保っていたはずのユーノですらその言葉の真意を把握した時に流れ出る冷や汗を止められなかった。

 「……つまり……それは……」

 「とっくに貴様らは彼奴の術中に嵌っていたと言う事だ」

 それまでずっと黙りを決め込んでいたトーレに隣のスカリエッティも大きく頷いた。どうやら彼らの言っている事はつまり……。

 「地上本部襲撃に始まり、廃棄都市区画爆撃、リニア襲撃事件、クアットロ奪還作戦……そして昨日の聖王教会蹂躙と高町ヴィヴィオ誘拐事件…………全部、そう全部だ、今まで“13番目”の手で引き起こされた事件の全てがただの『下拵え』に過ぎなかったんだ。踊らされていたんだよ、お前達は」

 「今までのが準備期間て……そんなアホな事──」

 「だったら確認して見るんだな」

 トーレの突き離す物言いに怯みながらも、はやては一旦冷静さを取り戻した脳で思考した。全てを順番通りに解析して行く……。

 第二次地上本部襲撃事件は何故起きた? 押収されてあった武装を取り戻す為だ。

 廃棄都市区画の爆撃は? 調査ではまだ何も出ていないが恐らくは証拠隠滅の為。

 リニア襲撃は? 対フェイト対抗策としてエリオの血液から魔力変換資質を会得する為だ。

 考えれば考えるだけ思い当たる所だらけだ、今までの一見無茶な行動にしか見えなかった事件の全てがこの時の為だけに行われて来た大規模な作戦準備期間に過ぎなかったと言うのか。要約すれば、自分達は相手にとって本腰を入れてもいない舞台裏の事情に引っ張り回されていただけと言う事にもなってしまう。

 「よっぽど貴様らの組織は無能らしいな。ウーノの戦略眼と私の戦術予測の双方もドクターの導き出した答えと同じ見解だ。一週間……遅くても十日、早ければ五日以内に相手はピリオドを打とうとするはずだ。これはもう末期だ……悪い事は言わない、諦めた方が傷は少なくて済む」

 「……その期間内に一体どの様な出方を?」

 「これは確信だが、昨日攫われた“聖王の器”……あれが鍵となる事は確実だな」

 「ヴィヴィオが? それはどう言う意味ですか? 彼女を人質にするとしても、たった一人の一般市民と貴方達の身柄では明らかに釣り合いが……」

 「鈍いな。如何に戸籍登録上は『一般人』でも、その内実が明らかに異なる事ぐらい貴様達なら重々承知しているはずだ」

 トーレの言う通り、確かにあの少女は同年代の少年少女と比較しても明らかに異彩を放つ点が多い。出生、体質、血筋……そのどれもが彼女を聖王と言う滅びた血族の人間として縛り付けているのはここに居る誰もが理解していた。

 「“ゆりかご”が消滅したとは言え彼女の肉体は希少価値が高い……。管理局側にとってはただの一般人でも、聖王教会の熱狂的な古株達にとっては生きた神様と同義……現人神である彼女への価値観は局のそれとは大きく異なるはずだ」

 「加えて教会はかなり深く太く管理局と懇意にしている。管理局が強行策に出ようとすれば必ず教会の方は反対し、管理局の方はその反対を押し切るだけの強引さを持ち合わせてはいない。作戦方針の決定だけでも難航し、その隙を突かれて一巻の終わりだ。次元犯罪者に屈服する事を敗北とする管理局と、神を失う事を忌避する教会……二大組織新暦始まって以来の大敗北が見られるかも知れないかもな」

 「…………どうすれば未然に防げる?」

 自分で聞いておきながら何と愚かな質問をしたのだろうとクロノは心中で溜息をついた。相手が既に全ての段取りを終えたのに対してこちらは全くの手付かず……残されている時間も選択肢も無きに等しいこの状況で贅沢にもこんな口が聞ける場合ではないのは重々分かっているはずだった。だが一縷の望みに懸けずにはいられない……目の前にミッド中の知識人にも勝る頭脳を有している人間が居るなら、例えそれがかつての敵同士だとしても助言を乞いたかった。

 そんなクロノの心中を察してか、少しの間を置いてスカリエッティは今度は右手の指を二本立てた。

 「方法は二つだけある……。そう……たったの二つだけだ」

 再びトーレが沈黙し、その他の全員が視線がもう一度スカリエッティに集中する……選択肢はたったの二つ、ここで選択を誤るかあるいは選択してもそれを上手く実行して成し遂げられなければ、その時点で敗北、背水の陣と言う言葉ですら生温い現状だ。

 「まず一つ目、これが最も確実な方法だ。敵の行動の素早さから計算するに、“13番目”の拠点はこのミッドチルダのどこかに存在している事は確かだ。その事を踏まえて言わせてもらうと、一番効率が良いのは大量の人員を投入して行う炙り出し作戦だ。本局からも武装局員を収集し、この地上本部を中心として円形を描くようにして陣を展開して徐々に追い詰める……平たく言えば人海ローラー戦術と言う所だな」

 「確かにそれなら確実と言えば確実やけど……」

 「掛るコストと人員量は地上本部だけで賄えるかどうか……。仮に見つけたとしても、それじゃあまるで戦争だ」

 「私自身もこれはナンセンスな作戦だと考えている。だからこれはあくまで最終手段として脳の隅っこに記憶してもらうだけで結構だ」

 二本立っていた指の一本が折られ、残る選択肢は後一個……これがもし受け入れ難いモノだったとしても彼らはこの二つのどちらかを選ばなければ生き残る確率はゼロになってしまう。鹿の肝を舐める思いでどちらかを取らねばならない。

 「こちらは先程提示したモノとは違ってコストも人員も少なく、損害も最小限に食い止められる。ただし、この手は確実に相手を炙り出せるかどうかの保証は無い」

 「…………聞かせてください」

 「最後の作戦、それは──」










 午前7時05分、ヴィヴィオが軟禁されているアパートにて──。



 「部屋の環境を、一部改善して、おいた。これで幾分か、過ごし易くなったはずだ」

 冷蔵庫の中からペットボトルを取り出し、トレーゼは居間のテーブルに腰掛けた。すぐに栓は開けたりしない……軽くボトルを振りながら中に魔力を流し込んで温度を上げ、目の前に居る少女が飲める程度にまで温める。そしてそれを対面に座っているヴィヴィオに手渡す。

 「……ありがとう、ございます」

 「部屋の周囲に、微弱性結界を、施した。昼間に、日光の温度を、取り入れておき、夜間はそれを利用し、温度を保つ。加えて、外の喧騒は、一切入って来ない……これで、何も問題は無い、完璧だ」

 不束だった……少し頭の回転を利かせれば今時この歳の少女が冷暖房も無い空間でまともに寝れる事が無いはずだったのだ。流石に少しの期間しか使用しない部屋なので空調系統の機材を持ち込む訳にも行かないが、せめてもう少し厚い布団を入れる事は可能だろう。今日中に新しい物を買い入れておかなければ……。

 と、冷蔵庫の中を整理しながら一日の計画を練っていたトレーゼは背後の少女の気配がちっとも動いていない事を不審に思い、ふと背後を見やった。気配を感じなかったのも当然な事、彼女は椅子に座って俯いたまま黙り込んでしまっていた。こちらが手渡したはずのボトルは栓すら開けておらず、ただ下を向いて押し黙っているしかしていなかったのだ。

 「……どこか、不調なのか? だとすれば、すぐにでも……」

 「どうして……」

 「?」

 「どうして、私にそんなに優しくするんですか?」

 ベコッと言う鈍い音が静かだった部屋に響く……ヴィヴィオの小さく細い指がプラスチック製のペットボトルの表面に力一杯食い込み、それが小刻みに震えていた。俯いた顔は悲しみと言うよりか、トレーゼには全く理解出来ない感情に押し潰されて歪んでいた。

 「…………何故、そんな事を、聞く?」

 「…………スバルさんは……トレーゼさんを止めようとして手と足を無くしたんです!」

 「そうだな」

 「ヴィータさんは右手を!」

 「ああ」

 「なのはママもフェイトママも傷付いて……っ! はやてさんだって!!」

 「そうだ」

 「昨日だって! みんな傷付いて……酷い目にあって…………!」

 「それがどうした?」

 「じゃあ何で私には何もしないんですかっ!! ずっとそれだけ考えてて、どんな酷い事されちゃうのか分からなくて……! 殺されちゃうかも知れないから、ずっと怖くて……本当に怖くて……!!」

 「……殺しはしない。わざわざ、危険を冒してまで、強奪したんだ」

 「それが理由なんですか?」

 「……なに?」

 「サンプルって言って閉じ込めて! 体壊すとダメだからってお節介して! ママの格好までして私を騙そうとして……! 酷い、酷いよぉ……! こんな事して……何になるの……」



 「…………………………………………鬱陶しい」



 「え────!!?」

 首筋に冷たい氷の感触……冬の冷気、その何倍もの冷たさを宿した紅い魔力の刃がヴィヴィオの首筋を撫でる。トレーゼの人差し指から放出された魔力刃はヴィヴィオの命を簡単に奪える僅か数ミリ手前、後ほんの一息分指を突き出せばそれだけで皮膚を切り裂いて筋肉を貫通し、気道に直接穴を開けられると言うほぼゼロ距離と言っても過言ではない所まで伸びて彼女を脅かしていた。あまりに一瞬! 瞬きもしていないヴィヴィオを意識の外から強襲し、刹那の瞬間に彼女の生殺与奪を完全に掌握してしまったのだ。今のトレーゼはヴィヴィオを生かすも殺してしまうのも全くの自由……その事を理解しているのか、ヴィヴィオは全身から恐怖による震えが込み上げて来るのを止められなかった。

 だが、彼女が心の底から恐れて震えているのは単に自分の目の前の凶器に怯えているからではない……。

 『目』……鷹の様な鋭さと蛇の様な狂気に塗れたその金色の瞳、そこから自分に対して真っ直ぐに向けられている無機質な感情の籠っていない視線……それに慄いていたのだ。まるでそこを見ているのに網膜には何も映っていないようにしているその視線……どこを見ているのかすらも分からない底知れない闇がポツンとあるだけの金色の目が、今の彼女にとってはこの世の何にも勝る恐怖の象徴だった。

 「好きで、貴様を生かしていると、思っているのか? わざわざ、危険を冒してまで、身を匿い、計画が終了するまで、保護せねばならないのだ」

 「あ……あぁ……ぅ!」

 「結論から、言えば、貴様の利用価値など、たかだか血液採取程度のものだ。否……眼球一個程度の、細胞が残っていれば、それで事足りる。心臓が鼓動している必要も、脳が正常に脳波を出している必要も、無い……頭髪一本、たったそれだけの、細胞が残っていれば、充分だ。今からでも、遅くは無い、その邪魔な下半身を除き、頭部だけを、ラボに持ち帰ろうか。その方が、コンパクトだからな。そうだ、それが良い、うむ、そうしよう」

 人差し指だけだった魔力陣が一気に他の四本の指先からも出現する……発生した際に接触した床やテーブルを切り刻み、露骨なまでにその切れ味を少女に見せ付けた。命のやり取りをした事が無い素人でも分かるこの無機質な殺気……間違い無い、彼は──、

 本気だ!

 「やめてぇっ!! いや! こっち来ないでぇぇぇぇぇっ!!」

 恐怖による感情の暴走によって彼女の七色の魔力が【聖王の鎧】となってトレーゼとの間に壁を作る。何人たりとも寄せ付けず、例え銃弾ですらも通さない絶対防御……母なのはの砲撃魔法も通さないその壁を、トレーゼは一旦見据えた後に……

 「邪魔だ」

 暖簾を払いのけるように軽く手を振って掻き消した。DMFの存在を知らないヴィヴィオはそれを見てさらに混乱し、もはや自分でも何を言っているのかすら分からない耳障りな金切り声を上げて手を闇雲に振り回す事しかしていなかった。

 だがそんな子供の抵抗が戦闘機人である彼に敵うはずもなく、健闘虚しく彼女の意識は──、



 闇に墜ちた。










 「“誘い出し”だ」

 「誘い出し……ですか?」

 「そうだ」

 クロノら管理局側に残された最終手段の一つ、それは誘い出し……詰まる所、スカリエッティは罠を仕掛けようと言っているのだった。なるほど、確かに敵を自分達の間合いに引き摺り出すならば大規模なローラー作戦とは違って掛る人員とコストも少なくて済む。

 だがこの方法にも問題点は存在し……。

 「しかし、その為には相手を誘い出す為に必要な“餌”……疑似餌が無い」

 「確かに……。何もかもの準備を終えてしもた“13番目”は、言うたら手に入れられるモンは全部手に入れた状態や。相手が喉から手が出る程欲しいモンを据えてこその罠やのに、こっちにはそれが全然あらへんと来とる」

 「……………………いえ、一つだけ……」

 「?」

 「たった一つだけですが、彼が……“13番目”が手に入れていないモノがあります」

 それまでずっと静観を保っていたはずのウーノが発した言葉はその場に居た全員、と言うよりかはクロノ達の方に衝撃が走った。

 「本当か、その話」

 「はい。恐らく……いいえ、多少のリスクは掛りますがこの方法なら確実に“13番目”を呼び寄せる事が出来ます」

 「その……“13番目”が未だ手に入れていないモノとは……?」

 「私達です」

 「……………………はい?」

 一瞬思考が完全に停止するクロノ……一応何かの聞き間違いかと思って隣のユーノとはやての方を見やるが、二人とも自分と同じリアクションをしているのを確認すると自分の耳は正常だと安心できた。

 「ほほぅ、考えたなウーノ。その手があったとは」

 あくまでスカリエッティは面白そうに口元に歪んだ笑みを浮かべ、トーレは眉を寄せたまま押し黙っている……どうやら彼ら三人は言葉の意味を完全に理解しているようだった。いや、実を言えばクロノ達の方も薄々何を言っているのかについては察しがついてはいたのだが、もしスカリエッティの考えと自分達の予想が合致していたらと思うと、それを口に出す事が憚られてしまうのだ。

 何故なら、ウーノの言った言葉をそのまま当て嵌めるならば……

 「つまり私達三人の内の誰かを生贄にして相手を誘き寄せると言う事さ」

 別に何とも無いだろう、とでも言いたげな軽い感じで実にとんでもない爆弾発言を落としてくれた。

 「敵がトレーゼであってもそうでなくとも、同じスカリエッティ製の戦闘機人であれば主人と上位者である我々を奪還しに来るのは確実……さすれば、最終目的でもある我々を罠の餌として使うより他はあるまい?」

 「ですが、それでは……!!」

 「では他に方法があるのかな? これよりも確実で、局側の犠牲も少なくて済む戦術が他に一体幾つ存在していると?」

 「それは……」

 確かにそう言った方法なら一番確実に相手を誘い出す事が出来るだろう。作戦の立て様によっては人員も最小限に割ける上にコストも掛らない……だがしかし、問題が無い訳ではない。

 「私達の心配をしているのか? 違うな、君達は作戦が失敗した時の体裁の悪さを懸念しているに過ぎん。私にとってはそんな個人の都合なんかどうでも良い事だ」

 「言ってくれるな……誰の所為でこうなってると思ってん?」

 「元々が君達を困らせる為に造ってあるのだから君にそんな口を利かれる義理は無いな。では八神二佐殿、餌は用意してやったのだから後の作戦編成はよろしく頼むよ。私はスバル嬢の脚の仕上げに掛らねばならないので、この辺で失礼させてもらおう」

 「私んトコの騎士を無断で使ってるんやから、ちょっとはマシに治しとんのやろな?」

 「私はミッド中の科学者達が匙を投げるような手術をやってのけているのだ。少しは労いの言葉を掛けてもバチは当たるまい?」

 その皮肉の利いたやり取りを最後にスカリエッティは見張りのユーノを連れ添って退室して行った。ナンバーズ側の首魁を欠いた状態でどの様に会議を続けたものかは知らないが、任された以上は放棄は出来ない。ナンバーズ側の知恵袋ウーノが居るのでまだ幾分かマシな作戦が練られるだろう。

 「……それで……結局、どの様な作戦を立てるんだ二佐?」

 「う~ん、案自体は幾つかあるんやけど、実用性と準備期間の短さってのを考えるとちょっとなぁ……」

 折角スカリエッティからお膳立てしてもらっても頭の中に浮いて来る策は全て六課時代に培われた奇抜なアイデアばかり……あんまりにも派手な作戦しか思いつかぬので自分で自粛しているのだが、どうにも上手い具合に閃きが出て来ない。もう少し実用性のある無理の無い作戦を考えねば……。

 職業柄頭を使う事が多いので考える事は得意だと思ってはいたがどうにも落ち着かない彼女は一旦ソファを立つとウロウロと部屋を周回し始めた。トーレが鬱陶しそうな視線で見上げて来るがそんな事は気にしない……今はどんな良い作戦を立てるかが問題なのだ、文字通り自分達には時間が残されてはいないのだから。

 そんなこんなで十分、いや、本当は一分か二分だったかもしれないが、とにかく少し時間が経った時、ふとはやての視界に飛び込んで来たモノがあった。何と言う事は無い、別に何か奇抜なモノでも何でも無くて、彼女が視認した物は……。

 『地図』だった。このクラナガンを中心とした上空写真……かなり広範囲を映した一枚で、中心に存在している地上本部の敷地が小さく見えているだけだった。たまたま壁に飾りのように貼り付けられていただけのそれに何で視線が向いたのかは彼女にも分からない事だったが、とにかくはやての目がその航空写真に釘付けになったのは確かな事実だった。

 「…………………………………………」

 「二佐、一体どうし──」

 「済みませんが提督、ちょっと静かにしてもらえますか」

 「わ、分かった」

 余りの没頭振りに上司のクロノでさえも強く言えずに彼女の背中を見守る事しか出来なかった。何かを閃き掛けている時の八神はやて程に寡黙で、そして邪魔をしてはいけない存在は無い……きっと何かとんでもない奇策を思いつくに違いない事は確信出来た。

 「……………………………………………………………………………………やっぱり、これしか無い!」

 はやてがそう呟いたのと、彼女の右手が貼り付けられていた航空写真を剥ぎ取るのはほぼ同時だった。そしてその剥ぎ取ったそれを握り締めたままソファまで戻って来ると、それは卓の上に広げた。

 「クロノ提督、すみませんが事務室に直行して取って来てもらいたいモノがあります」

 「いち提督を使いっぱしりにしてまで必要なモノなんだな?」

 「お願いします!」

 結局、幼馴染の剣幕に逆らえる事が出来なかったクロノは局勤め歴十数年の間で久し振りに廊下を走らされる羽目になった。










 時大きく移り変わって午前11時00分、地上本部の第三中庭にて──。



 スバル・ナカジマは歓喜していた。失ったまま戻って来る事は無いと思っていた自分の両足がこうして再び戻って来た事に喜びと興奮を感じて止まなかった。裸足のままで廊下を走り、道行く者の何人かが何事かと驚きに目を丸くさせ、それでも彼女は構わずに走り去る……足を取り戻したどころかまるで翼を得たかのように一直線に。

 そのまま止まる事すらせずに彼女が辿り着いた場所は、この広大な地上本部内に幾つか存在する中庭の一つ……中庭と言っても元の施設全体が大きいのでここの規模も相当なものだ、ちょっとしたグラウンド程度の広さはある所だった。精神保養の効果をもたらす為に植えられている観葉植物が密生している中心部から距離を離した外周部は少し運動を出来るようにと舗装されており、体が鈍っている体育会系の局員達は暇な時は中庭の外周部を走り込むのが殆ど見慣れた光景となっていた。そして彼女も今からその一人となるべくそこに足を踏み入れ……。

 「よぉうっし!!」

 屈筋良し、伸筋良し、アキレス腱良し! 膝関節も骨盤も全て良し! 面倒臭いから全部良し!!

 全身の骨格と筋肉の点検を済ませた彼女は両手と足を地に着いてスタートダッシュの体勢に入った。見据える先には自分が走るべき道が伸びており、今から自分はそこを全力で走り込む……その姿を想像するだけで彼女の精神はこれまでに無い程にまで高揚していた。そして、いざ地を蹴り飛ばして走ろうとしたその瞬間──、



 「スバルッ!! あんた何やってんのよこんなトコで!?」



 突然の聞き覚えのある怒声に横槍入れられた事によって、勢い余ったスバルの体は大きく前方へと迫り出してしまった。辛うじて一歩の所で踏みとどまり、その声の主を見やると……。

 「ティア! ティアじゃん。どうしたのこんな所で? お仕事は?」

 久し振りに見た親友の顔は何故か疲労と呆れの色に染まっており、オレンジの長髪を振り乱しながらこちらへ向かって来る彼女にスバルは大きく手を振った。だが何故かそれを見たティアナはさらに眼光をきつくさせて迫って来て……。

 「こ! い! つ! は! シャマルさんに連絡があって今までずっと探してた私の苦労も知らずに~っ!!!」

 「痛い痛い痛いっ!! ごめ、ごめんなさ~いっ!!!」

 ティアナの両手の指がスバルの頬を摘んで盛大に引っ張り吊るし上げる。どうやら注意も聞かずに治療室を出てしまったスバルを探すように頼まれたらしく、それで手を焼いていたらしい。一通りスバルの頬を抓って気が済んだ彼女はほっと一息ついて落ち着くと、互いに久しく顔を見ていなかった親友をまじまじと見つめた。

 「足……治ったのね……」

 「え? あ、うん……足首も指も、ちゃんと動くようになったよ。ほら!」

 少し埃に汚れた素足を見せてその五指を動かして見せる。彼女に親しい者ならここで狂喜乱舞するような場面ではあるが、何故か終始ティアナの顔色は優れず、その反応は薄いモノでしかなかった。

 「そう…………良かったじゃない」

 「うん! 後は右腕だけなんだけど、こっちの方はもっと難作業になるから手術はもう少し先になるかも知れないって」

 冬の長袖に隠れて手首は見えなかったが、垂れ下がった袖口には五指の形は見当たらない……今のスバルに残っている傷痕はとうとうこの右腕だけとなった。

 「……………………ねぇ、スバル」

 「うん?」

 「ごめんなさい。私の軽率な判断の所為でこんな目に……」

 「ティア……」

 スバルは目の前の光景に目を丸くした。訓練生時代からの付き合いなので彼女の性格や思考パターンはある程度熟知しているつもりだったが、あのプライドの高いティアナが自分に頭を下げている姿など今の今までこうして見るまで想像すら出来なかった。しかも冗談半分でやっているのではなく、几帳面な彼女らしくしっかり斜め45°の傾斜をもって謝罪の意を表していた。

 「あの時……あのポイントに一番近くに居たのは私だった……私だけで行くべきだったのに、頭数が多い方が良いと思ってあんたを頼ったばっかりに…………」

 「そ、そんなの気にしないで! あれは私の不注意でなった事だから仕方ないんだって!」

 「でもそれは……!」

 「それに、ティアが自分の代わりに私がこんな目に合ったって思ってるんだったら、別に私はそれでも良いよ」

 「え……?」

 「お兄さんの為にやっと執務官になれたティアがこんな所で終わっちゃうなんてダメだよ。私はさ……ほら、片手だけでも助けられる人を助け続ける事が出来る。片手になっちゃってるから、ひょっとしたら助けられる人も半分になっちゃうかもだけど、その分二倍頑張れば良いだけだから…………それに、こっちの腕だって治してもらえるから、何も悪い事なんてないでしょ?」

 袖に隠れた右腕を元気良く振るうその姿……鬱っ気なんて何処にも無い、むしろ子供のような明るさには片腕を無くしたとは到底思えない底抜けのモノがあった。完全に毒気を抜かれてしまった……もう色んな意味で謝る気力も消え失せてしまったように思える。

 「…………そうね、あんたはそんな性格だったわよね。そんだけ元気なのに大人ぶって頭下げた私が馬鹿らしいわ」

 「えへへ~。ちょっと元気出た?」

 「そうね。元気ついでに下げたこの頭を返しなさい」

 「無茶言わないで……」

 そうだった……ティアナは今更になって再確認したのだ。自分の友人はいつも笑っていて、バカみたいで、その癖どこか鋭くて、それでもやっぱり肝心な所が抜けていて……だからどうしても自分の目が離せない自分の腐れ縁の親友だった。ある意味じゃこいつに心配の二文字は不要……今更だがこうしてもう一度その陽気さを目の当たりに出来た分だけでも彼女が元気だと言う事を把握するには充分だった。

 「その分だとメンタルは大丈夫みたいね。でも無茶して体壊さないでよ? 体ってのは治りたてが一番脆いんだから」

 「分かってる。ティアは心配症なんだから」

 「あんたがいっつも無茶してる分、昔っから私が尻拭いさせられてたんでしょうがぁ!!!」

 「痛い痛い痛い痛いっ!!? ごめんなさぁいっ!」

 ティアナは目の前の間の抜けた親友の頬をさっきよりも強く抓り上げた。だがそれは決して単に彼女の言動に頭が来たからと言う訳ではない、今までずっと本調子でなかった親友に対する少しの悪戯的な八つ当たり心だったのかもしれなかった。










 少し時間の経過した午前11時36分、地上本部第六休憩エリアにて──。



 医務室の白衣の天使シャマルは、その呼び名とは完全に真逆な様相を顔面に湛えていた。連続72時間立て続けの治癒魔法の行使によって派生した極度の寝不足症状は騎士の二つ名にも与えられている“湖”の美貌を完膚無きまでに破壊しており、特に両目の真下に出来た真っ黒な隈は彼女の神経が眠気だとか睡魔だと言うモノとは一線を画したモノに侵されつつある事を暗に示していた。

 「う~ん……頼まれたからって、やっぱり三日間も休み無しって言うのはキツかったかしら……。五日ぐらいは軽く行けると思ってたんだけど、はやてちゃんの言ってたように歳なのかなぁ~? これでも一応シグナムやザフィーラよりかは若いつもりなんだけど……」

 闇の書が消滅してから彼女ら守護騎士達の肉体は徐々に人間に近付き、老化現象も発生して来ている。だがしかし、元の素体が人間ではなかっただけあってその速度は常人と比較すればナメクジ程の前進にも満たない微々たるモノのはずだった。以前、主である八神はやてに茶化されて「もうええ歳なんやから無理せんとき」と言われた時は何を世迷言をと思ったが、案外それは正鵠を射ていたかも知れなかった。ついぞ100年前なら太陽がベルカの大地を五回照らすまでなら容易に戦闘行動が続行出来ただろうに……人間に近付いている事を喜ぶべきか、活動出来る範囲が狭まりつつある事を案ずるべきか……。

 とにかく眠気を覚まそうとしてここでブラックコーヒーを啜っているのだが、カフェインが効いて来るのは体内に入れてから一時間が経過してからの為、その間彼女は脳髄の奥底から襲い来る睡眠欲求と熾烈な戦いを繰り広げなければならなかった。

 「む~ん、もう一杯飲もうかしら……」

 自分の担当の医務室は現在空室……いつ急患が入って来るとも分からない職場をいつまでもほったらかしには出来ないと言う使命感が彼女の両足に鞭を打ち、あと一杯だけカフェインを摂取した後でと椅子から立ち上がった。だがその時既に朦朧としていた彼女の意識は立ち上がった両脚に上手く体重を支えられず、少しよろめいた後……。

 「あ──っ!?」

 後ろ向きに大きく倒れ込み──、

 「シャマルさん!!」

 その背中を駆け込んで来た誰かに支えてもらい難を逃れた。聞き覚えのある声にシャマルが背後を見やると……。

 「大丈夫ですか? 医務室の人間が倒れたりなんかしたら元も子もありませんって」

 ティアナだった。つい三十分前に医務室を飛び出したスバルの様子を確認するように頼み、今は最近発生した殺害現場の現場検証に向かっているはずの彼女が何故かここに居た。

 「あら? 確か仕事で出てったはずじゃ……」

 「いえその、お恥ずかしながらちょっと忘れ物をして……今から取りに行く最中で」

 「そうだったの。助けてもらっちゃってありがとうね、お陰でちょっとは目が覚めたわ」

 「どういたしまして。それでは、私はこれで失礼します」

 軽く会釈をして去って行くティアナの背を眺めながら、シャマルは目覚まし代わりに大きく背伸びをした。さっきよりかは幾分かマシになったと、いざ職場に戻ろうとした時──、

 ふと、右手に違和感を感じた。

 何か神経が痺れるように指先が小さく痙攣し、すぐに収まっていった事が逆に不安をそそった。だが右手の指にはめているクラールヴィントからは何の異常報告も無かったので、シャマルはそのまま気にも留めずに歩き出し、職場である医務室へと戻って行ってしまった。










 「よしよし、クラールヴィントの特性もしっかりコピー出来たわね。流石はマキナ、やる事が違うわ」

 休憩エリアを離れたティアナ……否、ティアナの姿をした“それ”は事も無さ気に満足そうに呟きながら一旦通路の脇に逸れている死角へと入り込んだ。だが特に何をするでも無し、ほんの数秒後には“それ”は本来の姿となって再び現れたのだった。

 「こちらの方が、持ち運びには、良いな。マキナ、以後この形態を、維持しろ」

 『Yes,my lord.』

 右手の人差指と薬指に嵌った二つの黒金の指輪を確認しながら本部内に進入を果たした彼──トレーゼは行く先を急いだ。収奪したティアナの記憶が正しければこの先の第三中庭エリアにスバルが居るはずだった。このままこのルートを行けば八神はやてとクロノ・ハラオウンの両者にも接触する心配も無く目的地まで行けるはずだ……途中でシャマルのデバイス、クラールヴィントの形を奪う事が出来たのはある意味で僥倖と言えよう。

 歩きながら彼は道行く局員達の顔をさり気なく確認しながら進んで行く……情報管制を敷いている故に誰一人としてすぐ近くを歩いているテロリスト紛いの存在に気付く節は無かった。四六時中戦う事を目的に造られたトレーゼにとって、この光景は理解し難いと同時にとても間の抜けているように思えていた。互いにいつ死ぬとも分からない立場に居るにも関わらず自分とは違うこの軽い雰囲気が受け入れがたい……今こうしてすれ違った何人かをコンマ数秒の間に殺す事など容易い事だ、ライドインパルスを発動させて直線移動をするだけで衝撃波によって周囲は切り裂かれた肉片だけになるし、リンカーコアのたった20%分の魔力を圧縮して投げるだけでも即席の爆薬でこの一画は間違い無く半壊するだろう……もちろんそんな事をする気はさらさら無いにしても、次元世界の秩序を守るとか言う大義名分を掲げている組織の局員達がこれ程までに緊張感の無い集団であったなどと今更ながらに驚嘆していた。自分の姉や妹達はこんな輩達にしてやられたのかと普通なら不甲斐無く思う所だが、三年前と今とでは決定的に違った部分があるのもまた事実……あの“奇跡の部隊”とまで大仰な異名を得た機動六課の存在があったからこそ、管理局は辛くも勝利を得たのだ。当時地上本部に存在していた金の卵とでも言うべき優秀な人材を片っ端から掻き集めて構成された寄せ集めの部隊は、上層部の誰の予想にも反して多大な成果と功績を上げ続け、当時の次元犯罪者達にとってはまさに凶星とでも言うべき天敵だった。

 だが機動六課はもう存在しない。他の常駐部隊とは違って試験運用期間と言う拘束があった六課は僅かながらの時間の後に解散、その大多数は本局に籍を置き、現在の地上本部に存在している脅威はクロノ・ハラオウン程度だ。しかもそのクロノでさえ実際の籍は本局付きであるが故に地上本部の意思で動かす事は不可能……三強を潰した今、トレーゼの敵は無いものに等しかった。

 不意に──、

 「…………そう言えば、かなりの、無理強いをしてしまったな」

 彼の脳裏に過る一人の少女……ヴィヴィオの姿があった。結局あの後、彼は殺す事などせずにそのまま脳に催眠を掛けて強制的に彼女を眠らせただけだった。ヒステリーを起こし掛けている人間をそのままにしておいては舌でも噛みかねないと判断した彼は、少々手荒な方法でヴィヴィオを昏睡させたのである。我ながら大人げないやり方をしてしまったと思わざるを得ないが、あのまま放置しておくのもまたナンセンス……正しい判断だったと自負はしている。これが終わってから厚めの替え布団を購入しなければ……。

 「さて、もう直ぐ、中庭…………………………………………またか」

 問題の中庭へやって来た、遠目にスバルの姿も確認した、だがその光景に彼は閉口する事となってしまった。しばらくの間はどうにかならんかと見守っていたが、やがてどうしようもないと分かると彼は現状を打破するべく彼女の許へと駆け出した。










 数分前──。



 「うーん、やっぱりこの間の新記録には全然届かないや。でもまぁ走る分には問題ないみたいだし、贅沢言えないよね」

 外周部を合計十周以上も走り込んだ彼女は流石に疲れたのか、少し呼吸を整えた後に地面に腰を降ろした。素足で走った所為で足の裏は汚れに汚れ切っていたが、久し振りに激しい運動をこなす事が出来た喜びのが勝ってか彼女は終始笑顔だった。部屋を飛び出した時にスカリエッティが何か注意を促していたが別にこの分だと何の問題も無いはずだった。

 「さてと、もうワンセット走ったら一旦医務室に帰ろうかな」

 ちなみに彼女は十周がワンセットとなっている、今からまたかなり走り込むつもりらしかった。病み上がりの体で無茶をやらかせば親友のティアナにまた何を言われるか分かったものではないが、今まで走っていて何とも無かったのだからと高を括っていた彼女は颯爽と立ち上がり──、



 両足首に激痛が走るのを感じた。



 「あぁっ!!?」

 一瞬アキレス腱が断絶したのではないかとさえ思えるような壮絶な痛みが駆け抜けた後、彼女は両脚で体重を支えられずに地に伏してしまった。

 痛い。とにかく痛い。もう痛いなんて生易しいものじゃない、足の筋肉の一本や二本は切れたんじゃないかと錯覚した。だが足首を見ても腫れているとか内出血を起こしているような変化は見受けられず、ただ尋常ではない痛みだけが足の神経を蝕んでいるだけだった。

 「あちゃ~……スカさんの言ってた事って本当だった……。取り合えず……医務室に戻らないと…………あぐっ!?」

 体勢を整えて立ち上がろうとするも、力を入れた瞬間に足が立つ事を拒絶するかのように激痛がスバルを攻撃した。どうやら力を入れようとするとこうなってしまうらしい。満足に立つ事も出来ない状況下で彼女はどうやって医務室に戻ろうかと模索する事にした……助けを呼ぼうにもこう言う時に限って人通りは全く無く、親友のティアナもとっくに仕事で本部の外に出てしまった後なのでどうする事も出来なかった。

 やがて足の痛みは徐々に変化し、無数の針が突き刺すような鋭いモノだったのが骨や筋肉を万力で締め付けて押し潰されるような鈍い痛みに変わって来た。少しはマシになったかと思ったが、それが間違いだった……その痛みは秒刻みに酷さを増して行き、ついには指の一本に力を入れただけでも悶絶する痛みにまでなってしまったのだった。もう一歩も歩く事すら適わない……。

 「誰かぁ……助けてくださぁ~い」

 地面にヘタレ込んだまま一歩も動けない彼女は運良く誰かが通りすがってくれる事を祈りながら情けない声を上げて救援を求め続けた。だがまぁそんなクロノではないが世界と言うのはそんなに都合良く出来ている訳が無く……。



 「おい、大事ないか?」



 丁度自分の頭の上から聞こえて来たその声にスバルは一瞬思考が停止した。一週間も顔を見ていなかった訳ではないのに酷く懐かしいその声……無愛想でどこかしら余所余所しい癖に何故かそれを不快とも思えない不思議な感覚に満ちているその人物を、ある意味でずっと待ち続けていたのかもしれなかった。

 だからこそ、スバルは何故彼がここに居合わせたのかと言う疑問よりも先に、この言葉が口を突いて出たのだ。

 「久し振り、トレーゼ。取り合えずちょっとそこまでおぶって!」










 時を遡って午前7時27分、ゲストルームにて──。



 現在室内に残っている四名の面子……八神はやて、クロノ・ハラオウン、ウーノ、トーレはたった今作戦会議を終了したところだった。はやての提示した即席ながらも実用可能な作戦はクロノやウーノを唸らせるには充分だった。しかし、実現可能だからと言ってリスクが全く無い訳ではない、むしろリスクの高さも異常だと言えた。

 だがその事をクロノに問われても──、

 「全ての責任は……私が負います!」

 その一点張りだった。クロノ自身も彼女の策以上に有効性のあるものが無い事は百も承知だったので強く言えず、結局は首を縦に振った。その後彼は一旦部屋を退出したスカリエッティに連絡を入れるべく、彼が居るであろう医務室に映像回線を繋いだ。ちなみにユーノは無限書庫の仕事があるので人足先に職場へと戻って行ったらしい。

 『おや、意外と早かったね。それで……この私して唸らせるに足るだけの作戦が立案出来たのかな?』

 ホログラムに映し出されたスカリエッティはいつもの尊大不遜な様子ではやてに現状報告を窺って来た。クロノを通じて大まかな作戦内容の確認をした彼は、しばらく脳内でシュミレーションを行った後にこう言った。

 『成功率は贔屓目に見積もっても精々64.7%と言ったところだな。確立としては低めの方だ』

 「随分と辛口ですね」

 『無理を承知で行うには少々荷が重過ぎるのではないかな?』

 「だとしてもこの方法以外には無いんとちゃいます?」

 『まぁ良いさ、仮に失敗しても責を問われるのはどうせ君達だ、私は痛くも痒くも無い。それで質問なんだが、肝心な“餌”は私達三人の中から一体誰を選出するのだね?』

 「っ! そ、それは……!」

 痛い所を突く質問にはやては言葉を詰まらせた。そう、この作戦を成功させるに当たって最も重要なポイント……それはある意味生贄と言ってしまっても差し支え無い疑似餌となる者を彼ら三人の中の誰かに決定せねばならないのだが、彼女は底の部分だけを後回しにしており現在そこは空席の扱いとなっていた。

 『そんな事だろうと思ってこの私が直々に選出する事にした。光栄に思い給え』

 「ちょ! 何勝手に決めているんですか!?」

 『そうでもしないと君はいつまでも悩み続けるだろう? 私的な部分においては良いが、こう言った場所ではそう言った優しさは逆に邪魔なだけだ。いい加減理解し給えよ』

 「この作戦で一番危険なんは他でもない餌役やって分かって言うてんのかいな!」

 そう、はやての言う通りこの作戦で最も危険なポジションこそ、この作戦の要であり成否を担っている“餌”なのだ。対象が直接奪いに来る事を考えれば、戦闘に巻き込まれて命を落としてしまう事も充分在り得るからだ。その最も危険極まりないポジションを誰に任せるかと言う点ではやては悩んでいたのだが、どうやらこの場はスカリエッティが勝手に仕切ってくれるらしかった。

 『大丈夫さ、餌役にはトーレを推薦しよう。仮に何かあったとしても彼女なら難無く対処出来るだろうからな』

 なるほど、ナンバーズ最強をその様に使うか。確かにそれなら確実である上に、餌として挿げるだけなので彼女の意向にも反しない。まぁそれに関してはただのトンチなのだが……。



 『と、思っていたのだがね……そうもいかなくなってしまった』



 「……………………はぁ?」

 まさかの逆説。この話の流れでこの発現と言う事はつまり……つまりそう言う事なのだろうが……。

 『うむ。諸々の事情があってトーレではなくウーノを推薦する事にした。よろしく使ってくれたまえ』

 一瞬はやては自分の耳を疑った。この人間は人の話を聞いていたのだろうか? 餌は最も危険なポジションだと口が酸っぱくなるまで言っているにも関わらず、よりにもよって戦闘力が皆無と言っても良いウーノを挙げるとは……一体何を考えているのだろうか。

 『まあまあ、皆まで言う必要はないよ。言いたい事は大方予想しているからな』

 「主である貴方に口出しをする訳ではありませんが、確かに今の決定には些か納得出来ないものがあります」

 それまで黙っていたトーレ本人でさえもこれには疑問を隠せず、主に詰問するような口調で弁明を要求していた。ただでさえ貴重な戦力を省くのにこの選択は誰が見てもナンセンスだと言わざるを得ないのは事実だった。

 『実は……その、この決定は実に個人的な事でな、あまり大っぴらに口には出来んのだが……』

 「それでも話してくれないと納得出来ません」

 『…………………………………………仮に、仮にだ……“13番目”がトレーゼだったと仮定しよう』

 トレーゼと言う単語にトーレが過敏に反応する。だがそんな事はお構い無しにスカリエッティは映像越しに言葉を続けた。

 『仮に“13番目”がトレーゼだったとすれば、トーレを餌役にするには危険が大きくなり易いからだ』

 「……仰る意味が良く分かりません」

 『確かにトーレを餌にした場合、彼が来る確率は一気に100%になろう。だがトーレは“姉”でトレーゼは“弟”だ……弟であるトレーゼは餌となっているのが姉のトーレであると分かったなら──、



 本気で取り戻しに来る可能性が高い。



 だから私は敢えてウーノを推奨しているのだよ。あれに本気を出させれば作戦なんてモノは意味を成さなくなってしまう……それだけは避けたいからな』

 スカリエッティの神妙な顔つきにはやては途轍もない不安を感じていた。目の前に居るのは常人の域を大きく逸脱した狂気の科学者……その彼でさえも恐れるモノが本気を出すとなればそれはどの様な字体を巻き起こすのだろうか……考えただけでも鳥肌が立って来た。

 『ともかくトーレをこの作戦に関与させる事は果てしなくナンセンスだ。あと、この作戦にはN2Rの参入も考えないでくれ』

 「ちょっと待ってください、ただでさえ恵まれていない戦力をこれ以上割いて何の意味が……!」

 『意味ならある。かの“裏切りの使徒”を出さない為だ』

 “裏切りの使徒”……その言葉にその場の全員の緊張が張り詰めた。カリムの預言から存在を示唆されているそれは近い将来に管理局側から“13番目”の陣営に身を移すであろうと予測されている裏切り者の事だ。現在はやて達の間では『“使徒”=ナンバーズ』と言う定義で共通している……現存するナンバーズ、特に管理局に恭順する姿勢を示して社会に復帰した七名の中の誰かが裏切りを企てると考えていた。当然その七人の中にはナカジマ家の四人姉妹も含まれている。

 『私は自分の手で生み出したモノに絶対の信頼を置いている……如何なる理由があろうと今の彼女達が世間一般常識で言う所の“悪”に加担するとは微塵も思ってはいないし、彼女らの精神が並大抵の事物で折れるとも思ってはいない。だが万に一つの可能性すら無視できないこの状況下ではこの様な安直な方法に縋るしか無いとは思わないかね?』

 確かに、いつ彼女らの誰かが裏切るとも分からない以上、下手に“13番目”との接触は避けるべきなのは素人が考えても分かる理屈だ。仮に彼女らの誰かがあちら側に加担した場合、情が邪魔をして作戦は覆るかも知れない……それを鑑みればこうするのは必然なのか。

 「ですが、結局の所として戦力数の問題がある。如何に人員が掛からない作戦とは言え、それに見合うだけの質を持った人材がこちら側には欠けてしまっています」

 『あー、その点に関しては私はもうどうする事も出来んよ。分かっていると思うが、私の方から提供出来る戦力はもう居らん……他を当たってくれたまえ』

 「だと思いました。とは言っても、一体誰を選出したもんやろなぁ。適当にクジ引く訳にもいかんし、かと言ってそんな贅沢が言える程こっちに戦力が残っとる訳でも無し……どうしたもんか」

 現在管理局側で使える人間はN2Rを除いてしまえば七名に逆戻り、しかも下手に手錬を並べても相手が警戒して出て来ない可能性もあるので帯に短し襷に何とやら……この状況でも的確な人選をしなければならないのが人の上に立つ者としての力量が問われる所だが、如何せんこれは条件が悪過ぎだった。流石のはやても万策尽きたと思われていた。

 だが──、

 「…………二佐、少し良いか?」

 またもそれまでずっと沈黙を保ち続けていたトーレが何を思ったのかいちいち挙手してまで意見を提示しようとしていた。手に持っている紙面は何かと視線を向けて見ると、今回の事件に関する被害報告を纏めた報告書だった。

 「……どうぞ」

 「うむ、一応事件に関する諸々の書類には目を通させてもらったが、それらを踏まえた上で私の方から人選をさせてもらいたい」

 「人選って、あんた今まで作戦には一切関わらんて言うてたやないか!」

 『まぁまぁ二佐殿、落ち着き給え。彼女も何か考え有っての発言なのだろう。最後まで聞いてからでも損は無いと思うが』

 「……………………まぁ、聞くだけやったらタダやしな。言うてみ」

 正直言ってはやてはこのトーレに対してあまり好感を持ってはいなかった……彼女の一時的釈放についてははやても少なからず圧力を利かせて働き掛けており、折角骨を折る思いでここまで引っ張り出して来た人間がここまで尊大不遜だとは思ってはいなかったのだ。主であるスカリエッティに輪を掛けて図々しいとなると好感を持てと言う方がどうかしている。

 とは言ってもここは大人な対応を。今更拘置所に叩き戻す訳にもいかないので一応意見だけは聞く事にした。

 だがまさか──、

 「ではその人選の前に、ドクター……話してください」

 『何の事かな?』

 「とぼけないでほしい。貴方なら……いえ、貴方は始めはそのつもりだったはずです」

 はやてやクロノ、ひいてはウーノですら予測していなかった──、

 「話してください…………そう、



 『もう一人の抑止力候補』の事を」



 こんな爆弾発言が飛び出すとは。










 「治癒、完了。もう無理は、するなよ」

 両手に集中させていた細胞活性化用の魔力を霧散させ、トレーゼは目の前の少女に向き直った。スバルは一時的措置を施された自身の両足をしばらく動かした後……。

 「痛くなくなってる! 何したの!? シャマルさんでもしてくれないよこんなの!」

 少し興奮気味の彼女に合わせるのが流石に疲れたのか、トレーゼは怒涛のマシンガンクエスチョンに逐一答える事もせずに休憩エリアの椅子にもたれ込むだけだった。治りたてが一番危険な状態と言うのは医学の基本だが、治療を施した両脚は思ったよりも筋肉や骨格を酷使されており、意外と魔力を浪費する羽目になってしまったのだ。この状態でもまだ運動を続行しようと言うのだから閉口する……流石に止めたが。

 「……ルームランナー……まずは、あれで、速度を遅めにして、やれ。いきなり、走れば誰でも、こうなる」

 「はーい。そう言えば…………無人世界のお仕事どうだったの? 大変だった?」

 「別に……。終わり良ければ、何とやらだ」

 「ふーん……じゃあ、上手くいったんだ。良かったね」

 「良いモノか、逆に、騒がしくなった」

 「?」

 「……何でも無い……こちらの、事だ」

 相変わらず良く喋る女だと、トレーゼは感情を読ませない鉄面皮でそう考えていた。恐らく今まで自分が戦って屠殺して来た中で一番戦士としての自覚が無いのではないかと、彼は勝手にそんな判断を下してもいた。単純な数では圧倒的にこちらが劣っているとは言え、こんな輩を戦力として頼らねばならなくなる自分が何故か情けない……つい先程、教会で眠る“冥王”なる少女から採取した血液を利用すれば頭数の問題はクリア出来るが、肝心なのは数でもなければ質でもなく、その『重要度』……それがその場に居る事から派生する“意味”こそが彼の真の狙いであり本懐だった。

 その為にはどうしても今この時点でスバルとの心理的距離を詰めておく必要があった。こちらを徹底的に信頼させておき、疑いの念を一切持たないように仕向ける……結果的に信じさせるのではなく騙しているのだが、人の欺き方は亡き姉であるドゥーエから心得ているので何も問題は無い。相手が異性なのはある意味では好都合だと言えた、人間は同種を警戒する時にまず自分とは違う者、特に性別の違う異性を警戒し易いと言うのは前々から知っていた。だがそれは初期の話し……一度異性に信頼を置いた人間はそれに依存する傾向を示し、まず疑って掛ろうとはしないのだ。電流の+と-、磁石のS極とN極のように一度接触に成功すれば互いに依存し求め合う……生物が有性生殖と言う進化の鍵を獲得した瞬間から存在している宿命とでも言うべき現象だと言える。トレーゼはそうした人間の習性を利用しているのだ。

 幸いにもスバルの方はこちらに対して警戒心を抱いている節は無い。現在彼女を含むノーヴェとセッテの三人の中ではセッテに次いで予測適合率が高くなっているのは他でもないスバルだ、このままつき詰めて行けばいずれは彼女を自陣営に取り入れる事も容易になるはずだ。

 ふとトレーゼが意識を隣の少女に移した時、彼女は何やら神妙な面持ちに変化していた。何か真剣に思い詰めている事があるのだろうか、それまで見て来た抜けている表情とは違って何か本当に悩んでいるような……。

 「…………どうかしたか?」

 「ふぇ!? ううん、何でもない! 気にしないで」

 「?」

 どうにも無視できない表情をしていたのだが本人が何とも無いと言っているのだからそれ以上の追究はしなかった。それからしばらくはスバルが一方的に喋くりまくってトレーゼが静かに聞き流していると言う状態が続いたのだが、やがてトレーゼはスバルの言葉数が徐々に少なくなって来ているのに気付いた。

 (おかしい……いつものこいつなら、もっと図々しいまでに、舌の根が回るはず……)

 さっきと言い今の感じと言い、今日のスバルはどこか様子が変だった。とても今さっきまで病み上がりの人間がこなすはずの無い運動をしていたとは到底思えない大人しさ……どうにもおかし過ぎる、足の痛みも無いはずなのに先程からずっと終始浮かない顔ばかりをしているのだ。体のどこかに不調を抱えているのかと思いトレーゼが声を掛けようとしたが、彼よりも先にスバルが疑問の言葉を投げ掛けてきた。

 「ねぇ、トレーゼってさ…………“13番目”って言う犯罪者の事知ってる?」

 「…………………………………………」

 こう言う突然の質問に対してもトレーゼが眉一つ動かす事無く平静を保っていられたのは一重に彼が常日頃から鉄面皮を保っていた恩恵であったかも知れなかった。彼に人並みのリアクションを取るだけの感情と思考能力があったなら今頃顔色の一つや二つは変えていただろう。

 とっさの質問にもうろたえる事無く彼は冷静に切り返そうとしていた。彼女はともかくとして、自分の存在は民間報道機関には示唆されておらず公には存在しない事になっているはずだった。だとすれば、一介の局員の振りをしている自分がここで「知っている」と答えるのは自殺行為……。

 「いや、知らない」

 「…………そうなんだ」

 それ以降彼女がその話題について追究して来る事は無くなった。だが口数が減ったのは相変わらずだった、それからは結局両者取りとめの無い言葉の交わし合いをしただけであり、トレーゼも元々彼女と親しくするつもりが無かったとは言え何か肩透かしを喰らったような感じがしてならかった。

 ふと、ここで一つの疑問が浮上……。

 (やはり、セカンドは、俺が一連の事件の犯人だと、勘付いているのか?)

 さっきの質問と言いこれまでのどこか余所余所しい態度と言い、彼女が自分の事を“13番目”だと気付き始めているとするならば説明がつく。内心でこちらの事を生物的に忌避しているのだろう、一度は左腕を除く四肢を完膚無きまでに切断したのだからそれも当然だ。いや、ひょっとすれば彼女はもう自分の事を敵として認識しているかもしれない……彼の脳裏にそんな最悪の予測が過った。

 だとすれば、ここでトレーゼ自身が取るべき行動は限られて来る……。

 一つ、ここでスバルを敵性対象と見なして処分する。

 二つ、今後の計画を鑑みて彼女を計画進行の因子から排除する。

 三つ、このまま様子見を続ける。

 とにもかくにも、まず一つ目はアウトだ。敵陣地のど真ん中で相手を殺せば、逃走には成功したとしても後の計画進行に支障を来たす恐れがある。では彼女を今後の計画進行における一切の事象から除外するか? それもナンセンスだ、計画の本懐を発動させるのは四日後の夜中……ここまで漕ぎ着けたと言うのにここで駒を手放すのは得策ではないからだ。

 となればここはやはり不本意ではあるが四日後まで彼女を様子見するより他は無い。どの道その時になれば管理局はこちらに屈するのだ……たった四日待てば良い、簡単だ。

 (良いさ、精々使えるようになっていれば、それで……)










 少女スバルは思案する……目の前の少年について。両足の治療中にスカリエッティから聞かされた“13番目”の名前、『Treize』……偶然の一致だと信じたかった、だが考えれば考えるだけ目の前の彼がその“13番目”であるのではないかと言う予感が頭から離れなかった。

 “13番目”が世界に放たれたのは11月6日……スバルが四肢を断たれたのはその三日後の11月9日、ノーヴェが初めてトレーゼと知り合ったのは本人の話からするにその二日後の11月11日……そして、スバル自身が出会ったのは三日後だ。11月の上旬辺りから地上本部に派遣されて来たと言うトレーゼの言葉が真実だとするならば、地上本部襲撃を含める全ての“13番目”に関する事件が彼がこのミッドチルダへとやって来てから起きていると言う事になる……これは只の偶然なのか? 疑問はまだある、彼は自分に三人の姉が居たが二番目の姉は三年前に死亡したと言っていた。ナンバーズの面々の中で唯一の死亡者はNo.2のドゥーエのみ、番号順に考えても彼女を姉としているならば何の矛盾も無い。そして極めつけは昨今の無人世界の軌道拘置所におけるクアットロ奪還事件だ。あの日の前日、彼は第6無人世界『ゲルダ』に出張だとか何とか言ってしばらく顔を見れなかったが、あれはクアットロを取り戻す為に行っていたのではないか?

 一つの疑問が更に疑問を呼び続け、彼女の精神は徐々に疑心暗鬼の淵へと追いやられ始めた。何を血迷ったのか自分でも分からないままに彼女は……

 「ねぇ、トレーゼってさ…………“13番目”って言う犯罪者の事知ってる?」

 当然答えはノーだった。考えて見れば当然の結果だった、彼が“13番目”であれ本当に管理局員であれ公には存在しない事になっているモノについて軽々しく知っているなどと答える訳が無かった。自分でも何て愚かな事を聞いたのだろうと泣きたくなった。

 それからは今までの様な軽い話が出来なくなってしまった……。いつもの無愛想な感じのトレーゼがいつも以上にどこか余所余所しく、こちらと必要以上に接触する事を拒んでいるかのように見えたのだ。

 だが彼女は信じようとしていた。目の前の友人が決してその様な人間ではないと心の底で信じ続けていた。

 しかし──、

 (もし、トレーゼが本当に“13番目”だったとしても……私は……)










 時を遡り午前8時00分、クロノ・ハラオウンの事務室にて──。



 「まさかトーレとは別の抑止力候補が居たとはな……しかもその人物がよりにもよって……!」

 クロノの頭を痛くしている悩みの種は、つい三十分前にスカリエッティの口から聞かされた『対トレーゼ第二抑止力候補』の存在だった。あの八神はやてや付き人のウーノでさえも予測し得なかったその人物に、クロノはずっとどう言った対応をしたものかと頭を抱えているのだった。

 当のスカリエッティは始めはその人物を作戦に参入させる予定だったらしいのだが……

 「私とて人の子だ、平穏無事に静かな暮らしを営んでいる者を戦場紛いの現場に引っ張り出すような無粋な真似はせんよ」

 とのこと。

 故にずっとその存在を黙秘し続け、トーレに口を割られるまで本当にその人物を作戦には参加させないつもりだったらしい。確かにトーレの指摘通り、その人物は次元世界に存在するあらゆる実力者達の中でも将来に秘めた素質はトップクラスと言えた……戦力としても申し分なく、その者を陣営に入れるだけでも違いは目に見えていると言っても過言ではなかった。

 しかし、如何せんその者を『呼び出す』にはある意味でナンバーズ以上に骨が折れると予測した。これまでと同じように管理局の権力にモノを言わせて無理矢理してしまえばコトは簡単に済むのだろうが、それではクロノ自身の良心が許さなかった。それに、作戦への参加にはどうしても先方の許可が必要だった。

 「『本人』が了承してもこればっかりは難しい問題だぞ」

 一応その人物を引っ張り出す為の書類関係は揃えてある……後はそこに連絡を入れて詳細を伝え、協力の意思を仰ぐだけだった。

 デスクに乱雑に置かれたその書類には、今回の件で入り用になった人物の顔写真と現在の居住地が詳しく記されてあった。そこにある表記が正しければその人物は間違い無くそこで静かに暮らしているはずなのだ。



 第34無人世界『マークラン』第一区画。



 “彼女”はそこでたった二人と大勢と共に暮らしている。




















 新暦85年7月22日午前11時35分、ミッドチルダ某所の墓地にて──。



 おう、元気か? ここんとこ顔出せ無かったからなぁ、ちょっと暇してたから顔出しに来てやったぞ。

 お前が逝っちまってもう早いモンだよな……こっちじゃ色んな事があった、ウチの娘も幾分か落ち着きって言うのが見えて来て最近やっと一息つけるようになって来た。未だに子育てっつーのは本当に苦労するな、スバルとギンガを纏めて面倒見てたお前がすげえ立派に見えて来るからなぁ。

 ウチの娘で思い出したけどよ、六年前にスバルとノーヴェが二人揃って無茶やらかしやがったんだ。あん時は本当に肝が冷えっ放しでどうかなりそうだったぜ。

 ん? それからどうなったって? まぁ転ぼうが叩き潰されようがタダじゃあ起き上がらなかったって事だけ言っとくよ。その事はまた近い内に報告に来るさ。

 さてと、俺はそろそろ行こうか。孫娘が家に帰って来る頃合いだしな。生きてりゃお前も『お婆ちゃん』だったんだぞ? お前はそう言う呼ばれ方って好きじゃなかったよな。そっちに逝くのはまだ先になるかも知れねぇけど、まぁ気楽にやってくれ。俺はいつ死んだって構いはしないんだが、ウチに住んでやがる愛妻家二人が煩いんだ。

 だから……もう少し、待っててくれよ────クイント。



 ゲンヤ・ナカジマ──ナカジマ家の歴史をずっと見守り続けた彼は、これから先の事をどう見据えて行くのか……ただ一つ分かるのは、六年前の事件についての彼の供述は如何なる報告書にも一切記されてはいない事だけだった。



[17818] 悩める者達    ※(ダーク・中盤グロ注意)
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:73ca1900
Date: 2010/08/24 20:55
 午後12時30分、地上本部一階休憩エリアにて──。



 「では、俺はこれで帰る」

 それまでずっとスバルに付き合っていたトレーゼは唐突にそう言って席を立ち、椅子に掛けておいたカーキ色の局員服を羽織ると早急に帰る準備をし始めた。

 「もう……帰るの?」

 「俺のシフトは、夜中だからな……。もう、職場に居る、意味は無い」

 「そうなんだ…………」

 結局最初から最後まで彼女との『おままごと』は弾まないままだった。彼自身は別に盛り上げる必要も無かったのだが、彼女の心理をこちらに近付けると言う意味では彼女の好印象になるように事を運んだ方が良いに越した事は無いのは当然だ。となれば、やはり今回の接触は失敗だったと言う事になる……トレーゼとしては口惜しい限りだった。

 「…………──……─」

 「?」

 ふと彼はスバルが膝の上で何やらゴソゴソと忙しく左手を動かしているのに気付いた。テーブルの死角になっている所為で見えないが、手の動きからして何かを書き取っているいるのだろう……片手では何かと不便だろうに、まぁ斬り落とした自分が言うのもナンだが。何を書いているのか興味を持った彼はそこに視線を向けるべく少し腰を屈めたのだが……

 「あ! あれ何!?」

 「何だ?」

 スバルが突然指を指した方向を鋭く見やるトレーゼ。しかし、何か新手の奇襲でもあったのかとそこを見たのは良いがそこには何も無い……自分達が座っているのと同じテーブルや椅子、飲料を購入する為の自販機以外には目ぼしいモノは何も見当たらなかった。

 「……おい」

 「うわわ! な、何!?」

 「何も、無いぞ」

 「そ、そう? あれ~、おっかしいな~……ついさっきお母さんがあそこで手を振ってたような気がしたんだけどなぁ~。あは、あははははっ」

 「…………重症だな、お前」

 いつか脳外科か何かに通った方がいいのではないかと真剣に考えさせられた瞬間だった。だがいつまでもここに長居している必要は無い……早く行かねばと思い、トレーゼは背後の少女に「ではな……」と無愛想にたった一言だけ別れの言葉を投げ掛けた後に何の躊躇も無く去ろうとして──、

 「また……明日ね」

 「……………………」

 そのまま立ち去ろうとしていたはずの足が止まった。明日……この少女は敵かも知れない自分と24時間後にまた会いたいと言っている……解せない、こちらにとっては好都合とは言え何故そうまでして自分を引き留めようとするのか理解出来なかった。

 彼はそのまま無言で立ち去る事も出来た……そのまま踵を返したまま無視して行こうと思えばそう出来たはずだったが、彼は自分でも理解出来ない内にゆっくり振り向くと──、

 「あぁ、また、明日」

 約束してしまったのだ。久しく見ていなかったような満面の笑みで別れの手を振る彼女に、トレーゼは再会を約束してしまったのだ。それだけならまだ良い、所詮口約束なんてモノは反故にしてしまえばそれで誰からも咎められる事は無いのだから。しかし、幸か不幸かトレーゼの性格ではどうにもそう言った些細な契約でさえも無視しかねるモノがあったのだ。

 有言実行──。

 如何なる事物においても実行第一を旨とする彼は帰路につきながら明日の予定に加筆修正を加えるしか無かったのだった。










 同時刻、ゲストルームにて──。



 現在この来賓用の室内のソファに座っているのはたったの三人……ソファを丸々一つなり占拠して惰眠を貪るスカリエッティと、その向かい側のソファで静かに鎮座しているウーノとトーレの姉妹が二人並んでおり、互いに無口を貫いていた。もっとも、言葉を話さないのはどちらかと言えばトーレの方であり、ウーノの方はしきりに何か共通の話題は無いかと話しを振っていたのだがやがて妹がそう言った事に興味を持っていないと分かると徐々に言葉数が減り、遂には退屈したトーレが座ったまま睡眠に入ったのをきっかけにとうとう無言になってしまったのだった。

 「貴方の寝顔なんて片手で数える程度しか見た事なかったわね……」

 妹であるトーレがここまで無防備に睡眠を摂っていたのは自分達がまだ未熟な子供の時の事でしかなかった。あれから十数年の歳月を経てこの妹は当初の計画通りに強くなり、やがて刷り込まれた戦士としての教養の所為かまともに寝る事すらしなくなっていた……それを思えば良い機会だ。

 不意に、ウーノは遥か昔の事を思い浮かべた。戦いだとか、外の世界だとか、そんなモノとは全く無縁のあの時……何も考える事も無く過ごしていた平穏なあの時の事を……。

 「もう17年なのね……」

 静かに目を閉じた彼女は遥か昔に置き去りにして来たはずの記憶を思い返す──。

 そう、あれは……




















 新暦61年某月某日、スカリエッティの隠れラボの一角にて──。



 「やぁウーノ、第十六回目の基礎フレーム定期検査はどうだったね?」

 「通常機動を行う分には問題ありませんでした。ありがとうございました、ドクター」

 地下に造られているとは思えない明るさの空間に白衣の男性と一人の少女が互いに向き合う形で言葉を交わしていた。カルテのような記録票を片手に持つ男性の名はジェイル・スカリエッティ……この時期は管理局最高評議会からの指令で“聖王のゆりかご”に関する独自調査と研究、そして地上本部の戦力不足に頭を抱えているレジアス・ゲイズからの極秘依頼で戦闘機人の製造理論の確立及び量産に向けて独力で行動している時期だ。対する菖蒲色の髪の少女の名はウーノ……外見年齢では僅か10歳程度の少女だが、彼女こそスカリエッティの技術の粋を集めて造り上げた栄えある正式稼働型戦闘機人の“第一号”だった。幼い外見とは裏腹に言葉遣いや雰囲気は大人びていて、その肉体には既にフレームや精密機器が埋め込まれ始めており、歴とした人成らざる者としての実力を付け始めていた。

 「ドクター、そろそろ……」

 「ん? あぁそうだな、半年振りの再会だ、行って来たまえ。こちらの都合であの二人は先に終わらせてある。培養槽のガラス越しでは味気ないだろう」

 「はい。行ってきます」

 丁度自分の娘とも言える年齢の幼いウーノの後姿を見守りながらスカリエッティは再び記録をつける作業に勤しんだ。現時点において“書類記録上”では未完成ながらも稼働可能状態にあるのはウーノを含めて三人だけ……彼の持てる技術と知識の全てを注ぎ込んで生み出すだけあってその点検やメンテナンスは決して怠らない。

 ふと、何を思ったのか途中で踵を返したウーノがスカリエッティに問うた。

 「あの、ドクター」

 「んー? 何だね?」

 「あの……その、『あの子』は……居ますか?」

 「おぉ、もちろんだとも。彼の定期検査も今日だからな、既に培養槽からは出してある。早く会いたいのだろう? 行って来たまえ」

 「はい!」

 ウーノは元気良くそう答えると、既に見慣れた施設の通路を駆けて目的の場所へと向かった。地下に存在しているこの施設内では空間を有効活用するべく様々な方向に通路や空間が拵えてあり、その道はかなり入り組んだ構造になっている。そんな場所でも自分の庭のように迷う事も無く一気に駆けた彼女はものの二分も掛らずに目的の場所へと辿り着いた。重鎮な金属の厚い扉の前に立つと、丁度彼女の目線に合わせた位置に当たる扉の表面が迫り出し、カメラのレンズのような物体が現れた。そこから発せられる光線がディスク読み取りの要領で彼女の網膜と虹彩識別を完了し、後は自動的に開いて彼女を内部へと招き入れた。この部屋は施設の中枢となる場所で警戒レベルが高く、外部からこうして個体識別をクリアしないと入室出来ないシステムになっているのだ。

 だが今の彼女達にとってはそんな事はさして重要ではない。何故なら、この場所は自分達姉妹にとっての限られた集いの場なのだから。

 「う~の~! 待ってたんだからぁ。意外と遅かったじゃない」

 「……………………」

 「久し振りね、ドゥーエ、トーレ。ガラス無しで顔見るのっていつ振りかしら」

 「うーんと、私はこの間ドクターの検査受けたからねぇ~。ほら、私って一応対外用に造られてるって言うでしょ?」

 「ドゥーエは一番最初に外の世界に出る事が決まってるものね……。頑張ってね、あなたの役目はドクターの計画には一番重要なポジションなんだからね」

 「分かってるってば。お姉ちゃんの頑張ってる姿を妹達に見せ付けてやるんだから」

 そう、既にこの時点でレジアス・ゲイズも最高評議会も関係無くなっていたのだ。今のこの時点で既にスカリエッティの胸中には生まれながらにして与えられた本能的使命よりも、自らの知識と探究欲を満たす事を目的としていたのである。あと九体分の戦闘機人を製造し、同時に“ゆりかご”を動かす鍵を教会側から得られれば彼の計画は成就したも同然だ。もっとも、この時のスカリエッティや彼の私兵として生み出されたウーノ達は今より17年後に彗星の如く現れた“奇跡の部隊”に自分達の計画をことごとく砕かれるなどと夢にも思ってはいなかった。

 「ねぇ、一つ気になったのだけれど……」

 「なぁに~?」

 「『あの子』はどこに居るの? ドクターは先に上がってるって仰ってたのだけれど……」

 そんなに広くは無いはずの空間を幾度も見渡しながらウーノはここに居るはずの『もう一人』を懸命に探していた。スカリエッティはここに居ると言っていたがその影はやはり見当たらない。

 「あー、トレーゼ? あの子はさっき施設の探検ごっこに出てったわよ」

 「たん……けん……? …………いつの話し?」

 妹のドゥーエの言っている事が本当だとするならば目的の人物はたった一人でこの部屋をウーノと行き違いに出て行った事になる。ウーノの頬に冷たい汗が垂れる……あの者を何の監視も付けずに離したとあってはとんでもない事になる恐れがあったからだ。

 「うーんっと…………三十分ぐらい前に──」

 「心配だからモニタリングして!」

 「ちょっとそれは大袈裟すぎないかしらぁ? どうせこの施設の外には行けっこないんだからそこまで……」

 「良いから早く! 手遅れになってからじゃ泣きを見るのはこっちなのよ!」

 ここは施設の中枢である故に内部に設置してある全ての監視カメラの映像が一ヶ所に届くシステムになっている。それを利用してウーノは大急ぎでシステムを起動し、巨大なモニターに施設内全ての映像をリンクさせた。映し出された映像は全部で50を下らないが、“彼”を探すのには然程の労力を必要とはしない……何故なら、たった一人で施設の中を放浪する“彼”は必ず──、



 『おねえちゃぁぁぁぁぁんっ!! ここどこぉ~っ!!』



 必ず迷子になって泣き喚くからだ。

 「あ~ぁ、言わんこっちゃない」

 「あなたが一人で行かせたんでしょ!」

 「私の所為じゃないも~ん♪ トレーゼの世話はトーレの役目って決まっているじゃない」

 「……わたしに振らないでください」

 モニター越しに泣き叫んでいる『弟』を前に三人姉妹が嘆息を漏らす。一人で勝手に施設の探索に出た彼がこうして迷子になるのもこれで両手両足の指の数を越えた……その度に彼女らの誰かが迎えに行くのだが、その役回りは大抵決まっており……

 「はい、と言う訳で『お姉ちゃん』行ってらっしゃい」

 「任せたわよトーレ」

 「待ってください、なんでいつもわたしなんですか?」

 姉二人に指名を受けた、それまでずっと隅の椅子で大人しく座っていた少女──トーレが思わず反論した。そう、彼女らの『弟』であるトレーゼがこうして迷子になる度にトーレは彼を迎えに行かされるのだ。

 「だってさぁ、あの子あんなに必死になってあなたの事呼んでるのよ?」

 「別に『お姉ちゃん』はわたしだけではありません。ですからわざわざわたしが行く必要は──」



 『トーレお姉ちゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~ん!!!!!』



 「……………………」

 「……………………」

 「……………………」

 「……ご指名入ったわよ」

 「行ってきます……」

 そう、昔からなのだ……あのトレーゼは生み出されて物心ついた時から何故か三人の中でもトーレに特に懐いていた。その懐き方たるや尋常では無く、定期検査で培養槽の外に出る度にトーレの傍らにベッタリとひっついており、検査が終了して培養槽に戻らなければならない時になると彼女の袖を掴んで離そうとしないのだ。ちなみに、『お姉ちゃん』と言う言葉を教えたのはドゥーエだが、その言葉を一番最初に使った相手もトーレだった。四六時中金魚のフンみたいに付いて回る彼を始めは鬱陶しく思って突き離していたトーレであったのだが、やがて気にならなくなり、しだいには文句や小言を言いながらもしっかりと面倒を見始めるようになり、今となっては口でなんだかんだ言いつつも上の二人以上に『お姉ちゃん』と言う役柄に定着していた。自分達より『先』に造り出された彼がどうして三人の中でトーレだけをそこまで執心しているのか始めはウーノにも分からなかったのだが、後にスカリエッティに直接聞いて確認して答えが分かった……生み出された経緯を辿れば確かに不思議は無いだろう。

 ラボを出たトーレは駆け足で目的の場所まで向かった。モニターに映っていた場所はここからそう遠くは離れていないはず……とすれば、必ず近くに……

 「お姉ちゃ~ん!! どこ~!!」

 居た。こっちがビックリする程近くに居た。自分達と同じ白い服を涙や鼻水でグチャグチャに汚しながら、同じく涙で焼けた顔をこっちに向けているのは紛う事無く自分の『弟』……『姉』として見ていて本当に情けない醜態だが、これでも一応『弟』なのだから堪えるしかない。この自分の住み着いている場所でも平気で迷い鼻水垂らして姉が来るのをただ単に待っているだけしか出来ない少年こそ、Dr.スカリエッティの計画の最終段階を支えると言う大きな役目を与えられた13番目の戦闘機人『トレーゼ』であった。

 「おねぇぇえちゃぁぁあぁぁぁぁあああん!!!」

 トーレの姿を視界にキャッチしたトレーゼが猛ダッシュで彼女の許まで駆け出して来た。流石に青春ドラマじゃあるまいし、鼻水でベトベトになっている彼を真正面から抱き留める事はしたくないトーレは自身の持てるだけのリーチ一杯まで腕を伸ばして彼の頭を押さえつけた。

 「おねえちゃ──ぐふぇっ!!?」

 「うっとうしい、近寄るな、顔を拭け! それが出来なきゃ二度とお姉ちゃんとは呼ばせない!」

 「ごめんなざぁ~い! もう勝手に探検ごっこしたりしないからぁ~!!」

 「分かったからもう泣くな。はい、鼻。チーンしろチーン」

 「チーン……ズズッ」

 服の裾で鼻を拭かせ、トーレはトレーゼの手を掴んだ。こうしておけば迷わせる事も無い。以前手を繋がずに帰ろうとした時に横道逸れてまた探す羽目になってしまった教訓だった。

 「さぁ戻るぞ。いい加減学習しろこのバカが」

 「ごめんなさい……」

 「お前は気楽で良いな。同じナンバーズなんて思えない」

 「トーレお姉ちゃん……僕のこと嫌い?」

 「誰がそう言った。どうでも良い事ばっかり覚えて喋って、この口は!」

 「いたいいたいいたいいたいっ!! ご、ごめ、ごめんなさぁい!」

 ナンバーズ初の直接戦闘型機人の頬抓りを受けたトレーゼは必死になって逃れようと顔を振った。長いこと続けているとまた泣くと判断したトーレは早々に切り上げたので事無きを得たが……。

 繋いでいる『弟』の手は自分より暖かく、抓られている間も『姉』の手を離すまいとずっと握っていた。そんな彼の手を引きながらトーレは帰路につく。帰り道はいつもと同じように説教タイムだ、いい加減この『弟』にも自覚と言うモノを心得てもらいたくて仕方が無い。

 「良いか? ラボへの通り道はここに設置してある暗号標識が目印だって何度言ったら分かるんだ」

 「はーい!」

 「本当に分かっているのか? これでもう何十回目だ」

 「えへへ~、おねえちゃーん!」

 「ベタベタとひっつくな! みっともないから!」

 いつもこうだった、隣で手を引いていてもこうやって自分に必要以上に寄って来るのだ。スカリエッティ曰く、「スキンシップだから気にせずとも問題無いさ」との事だが彼女が気にしているのは別にそこではなかった。

 何故自分に懐くのか? 自分達二人が生み出された経緯ははっきり言って特殊を通り越してある意味では異常だと言えるだろう……後に生み出される予定だと言うNo.8とNo.12よりも異常だと言えるかも知れない。いくら肉体的にも精神的にも幼いとは言え、この『弟』が自分達の出自だけを理由にそこまで懐くのは常日頃からおかしいと感じていた。

 「ねーねー、トーレお姉ちゃん」

 「なんだ?」

 袖を引っ張る『弟』が何かを指差しているのでその方向を見て見ると、そこにはシンプルな字体で『有事以外立ち入り禁止』と張り紙が成されてあるドアがあった。しっかりとバルブで固定されており、トーレが知っている限りでも主のスカリエッティが数回程度出入りしたのを見た事があるだけだった。

 だがこの奥に何があるのかは知っていた。自分だけではない、上の二人の姉も知っているし、さっきも言ったようにここの主であるスカリエッティも当然の如く知っている。知らないのはトレーゼだけなのだ……。

 「……………………」

 「お姉ちゃん?」

 「……トレーゼ、お前はこの先にあるモノを知りたいか?」

 「え……?」

 「知りたくなかったらそれで良いんだ。だけど…………もし知りたいなら、お姉ちゃんが連れて行ってやる」

 「トーレお姉ちゃんが一緒なら良いよ。行く!」

 元気良く手を挙げて返事を返すトレーゼ……内心呆れて声も出なかった。本当に気楽なモノだ、哀れになって来るぐらいに……。

 「分かった……行くぞ」

 意を決した彼女は小さな『弟』の手を引いてドアまで来ると、固定されていたバルブを片手で回転させて解錠した。中は階段が下層に続いており、冷たい空気が気流となって二人の間を抜けて行った。恐らくはこの先にある空間が施設の最下層になっているのだろう。

 「…………行くぞ」

 「う、うん!」

 漂って来る異様な雰囲気に気圧されたのか、後ろで硬直したままだったトレーゼを引っ張ってトーレは階段を降り始めた。コンクリートで塗り固めただけの地面を素足で移動する為に足の裏は冷たい事この上ないが、それでも彼女は構う事無く降り続けた。やがて互いの足音が三桁に達しようとした時、トーレはふと足を止めた。

 「お姉ちゃん……ここ暗いよ……」

 「当たり前だ、照明が無いんだから」

 「早くつけてよぉ! 怖い……!」

 「…………いいのか? わたしが照明をつければ、お前はもう後戻り出来ないんだぞ? それでもいいなら……」

 そう、“これ”を見てしまえばもうナンバーズ上位者として後戻りは不可能となる……最期の瞬間を迎えるまで脳髄にこびり付いて離れず、記憶の奥底で精神を蝕み続けるだろう。恐らくこの『弟』はその重圧に耐えられないと感じていたトーレの『姉』としての最大の譲歩なのだ、この一線を越えてしまえば……遅かれ早かれその重圧に耐えられなくなってしまうのではないかと心配しているのだ。それにこの臆病な性格もある……ここで諦めてくれるだろうと期待もしていた。

 だが──、

 「…………お姉ちゃんは……見たの?」

 「ウーノもドゥーエも見ている。見ていないのはお前だけだ」

 「…………………………………………見る、見るよ!」

 「お前……!?」

 「いいよ……明かりつけて……」

 『弟』の意思は固いらしく、もう自分がどうこう言っても動じないようだった。もう何を言っても無駄だろう……。

 「…………わたしはお前の『お姉ちゃん』だから……出来れば見せたくなかったよ。でもお前がそう言うなら別に良いさ」

 壁際に沿って歩きながらトーレは照明を入れるスイッチを探した。そして、一瞬躊躇った後──、

 天井のライトが全て眩く光り出した。

 「うわ……!」

 暗闇に慣れていた目を突然光が差し込んだ事で一瞬眩んでしまったが、ものの二分もすると徐々に網膜細胞が慣れ始め、トレーゼは目の前に広がる光景を目の当たりにする事となった。

 それはプール……巨大な水槽に大量の水分を貯蔵する為のあのプールがあった。深さはどれ程かは分からない、一杯にまで黒い液体が湛えられていて底が見えないからだ。しかもその液体からは鼻を突くような異臭が放たれており、もうここに数回は足を運んでいるはずのトーレですら顔をしかめずには居られない臭いだった。

 不意にトーレがそれまで握っていたトレーゼの手を離して空間の更に奥へと進んだ。辿り着いたのは部屋の行き止まりの壁、しかしただの壁ではない……壁一面に引き出しのような取っ手が付いていて奥に収納スペースがあるのか、壁一面が碁盤の目のように区切られているのだ。トーレは自分の腰の辺りにの取っ手を掴むとそれを引いて中にあったモノを凝視した。当然隣に居たトレーゼにも中身は確認出来た。だが、そこに収められていたモノは幼い彼の予想の大きく斜め上を行っており──、

 「え…………お、お姉ちゃん……?」

 まるで棺桶のような狭い空間に閉じ込められていたのは、服も着せられていない全裸ではあるが間違いなく隣に居るトーレそのものだった。紫色の髪や体型までもが彼女に酷似、いや、完全に彼女と同じだった。何故こんな所に閉じ込められているのか? それよりも、この少女は一体何なのか?

 「何だと思う? 言っておくが、わたしじゃないぞ」

 「違うの!?」

 「お前はトーレお姉ちゃんが何人も居て怖くないのか?」

 「う……! じゃあ……何なの、これ?」

 目の前に収められているのはどう見てもトーレと同じ人間にしか見えない……では結局一体何だと言うのか?

 「これは……そうだな、何て言ったら良いのかな…………ドクターの言葉を借りるなら──」

 トーレの手が少女に伸び、その首元を掴み上げる。機人の剛腕でその人間の形をした“何か”を担ぎ上げ、彼女は踵を返して歩きながらこう言った。

 「わたしを生み出す過程で出来てしまった、わたしに成り損ねた『わたし』……と言ったところか」

 担いでいたそれを部屋の隅に置く……身長、顔立ち、髪型に至るまでの何もかもがトーレと変わり無い、彼女の言っている事が本当だとするならば、この少女はトーレを培養する過程で発生した何らかの不良品と言うことになる。見た目は完璧な人間の形を模しているこれがスカリエッティの何にそぐわなかったのかは知らないが、それでもここにこうして安置されている以上はやはり何か問題があったのだろう。

 「……生きてる……よね?」

 「いいや、息もしてないし、心臓も動いて無い。生物学的には完全に『死んでる』とドクターは仰っていた」

 「でも! こんなにきれいだよ!? 死んでるなんて……」

 「でも死んでいるんだ……。さぁ、始めるぞ」

 再びトーレがその『死体』を担いだ。彼女は部屋の隅から中央にある黒い液体を満たしているプールの淵にまでやって来ると、背後のトレーゼに向き直った。

 「良いかトレーゼ、これからわたしは今までお前が稼働して経験した中で一番残酷な事をする……」

 「残酷な……こと?」

 「そうだ。お前は……わたしを嫌いになってしまうかもしれない……」

 「え……それって──」

 「だけど、お前にはこれを見届ける義務があるんだ。だから、わたしはお前に軽蔑されてもそれをやらなくちゃならない。…………分かってほしい」

 そこから先はトレーゼが何を聞いて来ても彼女は無言を貫き通した。音も無く波を打っているプールの黒い液体を凝視した後、彼女は深呼吸して調子を整え──、



 担いでいた『死体』を投げ入れた。



 水面を割って盛大に飛び込んだ物言わぬ少女の肉体は少し沈んでいた後に浮力で浮き上がり、傍から見れば完全に水死体と同じ状態になった。始めはたったそれだけかと思っていたが、やがてその変化は唐突に訪れる事となった……。

 シュゥゥゥゥゥ…………!

 何か空気の抜けるような気流の音が空間に響き渡る……自転車のチューブの空気が開いてしまった小さな穴から抜け出る時のようなあの音だ。始めはどこから出ているのか分からずにトレーゼは周囲をキョロキョロと見回していたが、トーレの視線が水面に釘付けになっていると気付いて自分もそっちを見た。

 「…………………………………………………………………………………………あっ!…………………………………………………………………………」

 自分の網膜に飛び込んで来た映像に、幼い彼の思考回路が強制停止した。

 まず混乱。眼前で起こっている現象に彼の脳が追い付かずに起きた出来事。

 次に無心。その光景の意味を理解してしまった彼の精神がその事物の重大さを無意識に拒絶し、一瞬だけブラックアウトした。

 そして最後に…………

 『恐怖』。

 「あ……あぁ、うわぁああぁあああああああああああああっ!!!」

 絶叫。幼い彼の前に広がっている光景は彼の脆弱な精神を蹂躙するには有り余る程の破壊力を有していた。

 黒い水面はボコボコと泡立って鼻に突く臭気を放ち出し、その中心にはついさっきまで人の形を保っていたはずの少女が全身を酸でドロドロに溶解されて形を失いながら徐々に沈んで行く人間“だった”モノが……。

 「目をそらすなっ!」

 『姉』の手ががっちりとトレーゼの顔を押さえつけ、目の前の光景をその視界に無理矢理刻みつけようとする。戦闘機人として格上の彼女の腕力に逆らえるはずもなく、眼前で起こっている世にもおぞましい悪夢のような出来事を彼は真正面から見据えさせられる事となってしまった。

 「あぁあ!! あぁあああああぁっ!!!」

 髪の毛が消失し、皮膚と唇が無くなって頭蓋と歯茎が露わになって行く……比較的柔らかい組織で形成されている眼球は瞬時に溶け、眼窩の空洞に流れ込んだ酸が脳髄を焼き尽くす蒸気音がここまで聞こえて来ていた。頭だけではない、既に四肢の指は完全に無くなっており、部位ごとに溶け方の差があるのか足の一本は本体から離れていた。はみ出た蛇のように長い腸がのた打ち回りながら溶けて行く様は見ていて決して気分の良いモノなんかではないのは当然だ。

 「う……! げぇっ、ぅえぇっ!!」

 酸味の利いた胃液の匂いがトーレの鼻を突く。だがそれでも彼女は自分の『弟』がこの光景の行く先を見届けるまで彼を押さえつける手を決して離そうとはしなかった。どんなに酷く、どんなに残酷で、どんなに彼の心をズタズタにしようとも、これは彼にとって避けては通る事の出来ないモノなのだから……。

 およそ十分も掛らず、その少女の肉体は完全にこの世から物理的に消滅した。骨だけになった時点で自重によって沈み、後は儚く溶け続ける泡の塊だけが水面を揺らす程度だった。そう、完全に少女の体はこの酸の溜まりに消えたのだ。

 「…………ちゃんと最後まで……見たな?」

 「…………………………………………」

 幼き『弟』にはもう言葉を発するだけの気力は残っておらず、胃液と唾液が入り混じった汚物を口から垂れ流し、虚ろな目で黒い水面を眺めているだけだった。やっと小さく頷くのを確認し、トーレはそっと彼の体を自分の方に向けさせた。

 「……どうして、わたしがあんな事をしたか分かるか?」

 「……………………」

 辛うじて首が横に振られたのが分かった。幼いながらにきっと必死に理解しようとしたのだろう……無理も無い、自分だって初めてこれを見た時はショックだったし、特に冷静に見えて繊細なウーノなんかは自分と同じ姿をした肉体が徐々に溶け行く様を見て失神した程だった。

 「…………ここに居るわたしと、さっきまであそこに居た『わたし』の違いが分かるか?」

 「…………?」

 「あの『わたし』は必要とされてなかったんだ。生み出す過程で出来てしまった、わたしに成り損ねた『わたし』……わたしは必要とされて、あれは必要じゃなかったから廃棄される……たったそれだけなんだ」

 「……………………」

 「そして……この先何らかの理由でわたしが必要とされなくなったときも…………こうやって捨てられる」

 「っ!!?」

 「…………わたしだけじゃない……ウーノもドゥーエも同じだ、使えなくなれば……こうなる」

 「そんっ……な!」

 「けどお前は別だ。お前はあれとは違う……お前は『必要とされて』いるんだ。例えわたし達三人が捨てられても、お前だけは違う……違うんだ」

 「…………………………………………」

 「いつその日が来ても良いように、お前にはこう言う方法じゃないと覚悟を決められそうになかったから……すまなかった。立てるか? もう戻るぞ」

 「うん……」

 脱力している『弟』の肩を支え上げ、トーレはこの忌むべき空間から早々に退散しようとした。彼女の言った事に嘘偽りは無い、もうすぐ正式稼働が予定されているが……いや、もし完成したとしても自分達の主であるドクター自身が失敗作だと判断すればここで処分される事は確かだろう。自分達の優先度はこの『弟』よりも遥かに劣っている……例え自分達が本当に処理されたとしてもこの『弟』だけは無事なはずなのだ。だが何も知らされぬままに自分達が消えて行ったら、この幼い彼は耐えられるだろうか? それならいっそ自分から自分達の秘密を知らせて覚悟を決めさせた方が良いのではないか……トーレの姉としての苦渋の決断が彼女をこのような行動に駆り立てたのであった。

 だが結果は予想していたように、初めてここを見せ付けられた自分達よりも酷くショックを受けている。自分が処分される事は無いと分かっても青褪めている辺り、純粋に姉である彼女らの心配をしているのだろう。どこまでも姉想いなことだ。

 「…………なぁトレーゼ、さっきお前はわたしに自分の事が嫌いなのかって聞いたな?」

 「うん…………」

 「嫌いだと思うのか?」

 「……トーレお姉ちゃんはいつも怒ってばっかだし、ぼくが居ると……なんだか嫌そうな顔してるから……」

 子供とは時に大人以上に聡い時がある……感情で行動を左右されない事を前提としている戦闘機人として努めてそう言った反応が表に出ないようにしていたのだが、どうにもこの『弟』にはそう言った事が筒抜けだったようだ。いつも一緒に居る者が常にこう言った不機嫌そうな表情を浮かべていては彼も戸惑って当然だ。

 「……………………良い事を教えてやるよ、トレーゼ」

 「?」

 「正直言ってわたしはお前が好きか嫌いかなんてどうだって良いんだ。すぐ泣くし、自分の住んでいる所でも平気で迷うし、その度にわたしが迎えに行かされるし、それでいて全然学習しないし、いつもいつもくっ付いていてうっとうしいし……」

 「うぅ~!」

 「でもな、そんなバカみたいにみっともないお前でも…………………お前はわたしにとって『必要』な存在だよ」

 トーレの手が『弟』の頭を掻き回すように撫でる。力加減なんて分からない、元々彼女自身がこうやって自分より小さな相手をあやす事など露とも考えていなかったからだ。それでもこの幼くどうしようもなく抜けているクセに姉想いな『弟』に自分の気持ちを伝えるには充分だった。

 「ぼくもトーレお姉ちゃんのこと、大好きだよ!」



 鼓膜を反射して耳に残るその言葉…………ナンバーズ最強、トーレの脳の奥底に残る最も幸福な記憶の残滓だった。




















 「……思えばあれは私が今まで稼働して来た中で一番の過ちだったのかもな」

 いつ起きていたのか分からないが、トーレが目を覚まして自分に向かって口を利いている事にウーノは何の違和感も抵抗も無く受け入れていた。

 「でもそれは貴方が必要だと判断したからそうしたのでしょう? それに貴方がそうしなければ、あの子はいつまでも覚悟を決められないままだったかもしれなかったのよ。それに貴方がしなかったらいずれドクターがそうしていたでしょうし」

 「だとしても…………私の手で見せるべきではなかったよ」

 冬の真昼の陽光が窓から彼女ら二人の顔を照らし出す。17年前のあの忌むべき場所へは亡きドゥーエを含んで二度と足を踏み入れていない、あの場所は自分達四人の中では一度見れば二度と踏み入ってはならない場所だと暗黙の了解があったからだ。だが一つだけ気掛かりなのはあの場所に眠るモノだった……アジトを転々としていた所為であの場所にはまだ処分し切れていない自分達の『成り損ない』が大量に眠っているのだ、今もまだあそこに哀れな彼女達がそのままだと考えると……………

 「……いけないな、どうにも感傷的になってしまう」

 「それでも良いんじゃないかしら。貴方が自分で悲観してしまう所も含めて、あの子は貴方の全部が大好きだったんだから……」

 窓の外を影が過った。あれはカラスだ、一羽だけで誰も居ない空へと向かう事しか知らない孤独な鳥……それはすぐにウーノの視界から消え去り、寒空へと羽ばたいて行った。










 午後16時04分、クラナガン郊外のとあるアパートにて──。



 「……………………ふぅ」

 極端な肉体労働にでも余裕で耐えられるはずの戦闘機人であるはずのトレーゼが疲労の溜息をついた……ライドインパルスの超加速による長距離移動を数十分以上持続して行える彼がこのアパートの前まで来るだけでそこまでの疲労が蓄積したとは到底考えられない……それもそのはず、彼は背中に自分の体積の1.5倍はあるモノを背負っていたからだ。

 それは布団、冬用の分厚い羽毛布団だった。自分が使う為に買って来たのではない、あくまでこのアパートの寝室に軟禁しているヴィヴィオの健康状態に支障を発生させない為の適切な処置として購入したに過ぎない。ただ問題だったのは、これを購入したのはクラナガン中央街の少し外れにあるショッピングモールなのだが、実は彼はここへ直接持って来たのだ…………歩いて。配送してもらっては企業繋がりでアシが付く恐れがあったし、かと言って離れた所に通っている都営リニアを使えばいつどこで自分の事を知っている局員に見られるとも分かったものではない……ちなみに、荷物が大き過ぎたのでタクシーにも乗せてもらえなかった。

 「……教会から、離脱する際に使った車両……残しておけば良かったか」

 今更後悔しても遅いのだが、彼は自分の『選択』を誤ってしまった事を後悔していた。

 何はともあれこうして戻って来れたのだから良しとしたかった。ディープダイバーの効果で蝶番を固定してあるドアを潜り抜け、室内へと進入した彼は寝室まで布団を運び出そうとした。

 だが──、

 「…………開かない?」

 変な気を起こして立て籠られないようにこの寝室の鍵は予め破壊しておいたはずだった。恐らくは内側から何らかの物体を置いて開かないようにしているのだろうが、そんなモノは直接戦闘用に造られたトレーゼの前では無に等しく、彼は拳を振り上げるとその頑強な振りをしているだけの障害物にすら成り得ない薄いドアを叩き破ろうとした。しかし、いざ打ち破ろうとしたその時、彼は中に居る少女が何かか細い声でこちらに喋っているのが聞こえて来た……耳を済ませると──、

 「────入って……来ないで──」

 「…………………………………………」

 明確な拒絶の意思を汲み取ったトレーゼは強行突破を諦めて布団を床に降ろし、ドアの片隅にそれを移動させた。無理に踏み入って彼女の精神に害悪をもたらすつもりは毛頭無い、彼女が来るなと言うのであれば今はそれを聞き入れるだけだった。

 「……新しい、寝具を、用意しておいた。ここに、置いておく……好きな時に、取りに来い」

 返事は無かった……だが一応伝えるべき事は伝えておいたので問題は無いはずだった。冷蔵庫の中を整理しようと開くと、中のペットボトルが何故か一気に十本も消費されていた……この冬の気候で喉が渇くとは到底思えないし、かと言って下痢によって失った水分を補う為に飲んだのだとしても量が多過ぎるが、如何せん本人と接触出来ないとなると理由を聞く事も出来なかった。



 …………クシャ……



 「?」

 制服のポケットから何か小さな音がしたのを彼の耳が捉えた。服越しでは違和感は無かったのと音の質から察するに、恐らくは紙だと推測した。ポケットをまさぐる……彼の着ている管理局員の制服はポケットが多い、胸に外側と内側に二つずつと腰の位置に左右一つずつで計六つ、彼の探していたモノは腰の所のポケットに紛れ込んでいた。

 それは案の定紙だった。店などで物品を購入した際に渡されるレシートと同じ位の大きさの紙……何かの不要書類を切り取った物のようだが、印刷されている文字は無く、代わりに雑な走り書きが残されていた。数字と半角記号の羅列に見えるそれはこの情報社会においては普段の日常で目にする事が多いであろうモノ、メールアドレスだった。特別な記号や符合が用いられていないのを見ると企業のアドレスではない個人用のモノだと窺えたが、問題は誰がこれを入れ込んだかだ……その問いを自問自答する間も無く、彼の目は紙面の隅に書かれた文字を見つける事で解決した。

 『SUBARU NAKAJIMA』

 「……………………………………………………………………………………何を考えているんだ、あいつは」

 膨大な知識で以て情報を制し、腹黒い狡猾さを以て相手の裏を斯き、圧倒的な力で敵を残らず駆逐する……どんな相手に対してもそれを押し付けるかのように旨として来た彼は、生涯で初めて頭を抱えたくなる事象に正面衝突したのだった。










 午後16時30分、地上本部押収物品管理課の保管庫にて──。



 「そうですか……じゃあスバルは久し振りに家に帰れているんですね」

 押収物品を収めてあるこの保管庫はつい二週間近く前に武装を取り戻す為に侵入したトレーゼによって焼失の危機に瀕していたが、元々が物品を保管する名目で造られている空間なだけに壁や天井が燃えにくい材質を用いられていたのと、担当局員達の消火活動が迅速であったお陰で全焼には至らず、安置されていた押収物も失わずに済んでいた。そんな場所に一人佇んでいるのは現在しっかり仕事中のはずのティアナである。昼間の調査が終わった彼女は帰って来て早々にかつての上司であるはやてに言われてここに安置されているはずのある資料を調べにやって来たのだ。

 『歩ける程度には足は回復しとるって言う話しやから、ナカジマ三佐も喜んでらしたよ。腕の治療は少し時間を置いてからやけど、手術前の調べやと何も問題無かったらしいし、もう心配はあらへんなぁ』

 「だと良いですけど……」

 『心配?』

 「あいつの事ですから、元通りになったら事件に首突っ込みそうで……。昔っから無茶ばかりしてるんです」

 『安心し。治ったら私の権力をフルに使うて湾岸警備隊に釘付けにしといたる』

 「職権乱用ですよ?」

 『勝手に無茶して大変な目になる事思ったらよっぽどマシや。私の我儘一つで昔の部下が危ない目に合わんと済むんやったら、十年以上働き詰めでここまで登りつめて来たんもあながち無駄やなかったって事や』

 「よろしくお願いします。こちらはは引き続き調べを進めておきますので、二佐は御自分の職務を全うしてください」

 『うん。ほな邪魔して悪かったな』

 通信が切れて再びティアナは与えられた仕事に集中する。彼女が調べているのは、今月上旬に検挙された違法科学者ハルト・ギルガスの事だった。現在彼はスカリエッティへの共犯行為を始めとし、戦闘機人の個人所有や違法薬物所持及びそれを利用した生物兵器研究の着手など様々な罪状で管理局の膝元で現在進行形で取り調べを受けている最中だが、今彼女が調査をしているのはそれとは別……。

 「……これね」

 彼女が手に取ったのは大学ノート大の紙の端をおよそ数百枚以上も紐で結び止めてあった紙束だった。もちろん、これが資源ゴミや古紙の日に出されてしまうようなただの紙束ではない事は当然だ、これはあのハルトが逮捕される日までずっと取っていたと推測されている研究日誌だ。全て手書きによる手記となっており、およそ二十年近くに渡ってスカリエッティから譲渡されていた戦闘機人に関するデータが事細かに記されている……はやての思惑としては、ここに記されているはずのデータを利用して『“13番目”=トレーゼ』である事を証明し、何としてもトーレを戦力に加えようとしているのだ。“13番目”が彼女の言うトレーゼと合致するなら彼女は嫌が応にも作戦に参加せねばならない、そうすれば作戦成功率は飛躍的に向上するからだ。

 彼女はそれを抱えると担当局員に行って持ち出しの許可を得る。本来こう言った物は何重にも上の人間の許可を通して初めて持ち出しが可能となるのだが、今回は事前にはやてが根回しをしてくれていたお陰で一発OKだった。持って来ていたバッグにそれを詰めると彼女は押収物品課を離れて一旦自分の事務室に向かった。一応極秘資料扱いなので人目の触れない所で目を通したかったからだ。

 ふと、道中彼女の脳裏にあの年中陽気な親友の顔が浮かんだ……今頃彼女は自宅で姉妹達と久し振りにふざけ合ったりしているのだろうと思うと、どうにも調子がおかしくなってしまう。今までさんざん人の事を心配させておいてあの元気さには本当に呆れるだけだった……だが、あの調子ならもう大丈夫だろう、最近親しくなったとか言う友人も自分の居ない間に会いに来ていたようだし……。

 ただ一つ不可解なのが、あのシャマルが忘れ物を取りに来た自分の姿を見たと言っていたのだ……幻覚でも見たのだろうか?










 午後16時45分、ナカジマ家の食卓にて──。



 「メシだー、集まんねーと先に喰っちまうぞー!」

 ナカジマ六人姉妹の一人、ノーヴェの声に他の五人がわらわらと食卓へと集まって来た。家長のゲンヤは陸士部隊の指揮官と言う職場上まだ帰って来ていないが、今日は半月振りにナカジマ家の面子が揃っためでたい日と言う事でその料理は豪勢だった。元々彼女らが大量にカロリーを消費する体質なので普段から多いのだが、今日のこの豪華なレパートリーの数々を平らげる主賓は彼女らの誰でもなく……

 「うわはぁ~っ!!! 美味しそう! これ全部食べても良いの!?」

 ディエチの付き添いで部屋から来たスバルは目の前の魅惑的な料理の数々に舌舐めずりを抑えられなかった。実際に料理を作ったカインの返事も待たずいの一番に椅子に着くと、さっそくそれらを胃袋送りにしようとした。

 「あっ、ずりぃ! このやろう、その肉はあたしのだっ!!」

 「残念だったなノーヴェ、それは既に姉が目をつけていたのだ!」

 「面白そうだから混ぜるッスー!」

 「じゃあ私はこっちのポテトサラダを……。ディエチはこっちの魚料理で良かったかしら?」

 「うん」

 スバルに続いてノーヴェ、チンク、ウェンディの三人が座り、その後でギンガとディエチが座って夕食は“開始”された。ここで問題なのが彼女らの食事模様だ……ギンガの婚約者であるカインは彼女らの食性を完全に把握している為に常に姉妹の好物を作ってくれるのは良いのだが、彼女ら六人は互いの好みが似通っているので大抵同じ料理を皆で仲良く分けっ子と言う訳にはいかず、いつも食卓で奪い合いが起こるのだ。その争奪合戦たるや凄まじく、食卓に置かれた直系20数センチの皿の上で最少6本のフォーク、最大12本の箸が一つの料理を時に拾い、時に横から奪い、時に弾き飛ばしながら行われるそれはもはやちょっとした戦争状態にまで発展する。特に今日は親のゲンヤが不在である為に歯止めを掛ける人間が居らず、ものの数分もしない内に──、

 「そのコロッケを寄越せぇー!」

 「甘い! そのカキフライも姉のものだ!」

 「がーっ! ギン姉が私のゴハンを横取りしたッス!」

 「食卓は戦いなのよ……」

 「あ、そのロールキャベツ美味しそうだからもらうね」

 六本の腕と12本の箸が高速でテーブルの上を飛び交う光景は動体視力が低い者なら目で追うのがやっとだろうが、戦闘機人の常人離れしている視神経には普段通りの光景として脳に映像を送り届けていた。あまりに白熱した時は「ナントショーシュートキャク!」とか「ダンコソーサイケン!」とか「ナントジャローゲキ!」とか「テンショージュージホー!」とか「ケッショーシ!」とか「ナントレッキャクザンジン!」とかなんとか有り得ない声や技が飛び交うこともしばしばあったりする。

 だが開始五分足らずで争奪戦を始めていた彼女らは、ふとある事に気付いた……。誰だか知らないが箸のスピードが遅いのだ、自分達五人が機人の増強筋肉を無駄遣いレベルにまで引き上げて高速機動で食事をしているのに、どうしてもそいつだけは遅いのだ。誰かと思ってその箸を辿って持ち主を見て見ると……。

 「んしょ……! うんしょ! ってあれ? 意外と利き手じゃない方で掴むのって難しいんだね~」

 スバルだった。右腕が無い彼女は慣れない左手の作業に戸惑いながら必死に箸を動かしていたのだ。それを見た姉妹達は数瞬押し黙った後に自分達の食べていた皿の料理を差し出して……

 「なんか済まないな、こちらだけで勝手に盛り上がってしまって……」

 「私のハルサメでよかったら食べるッス」

 「悪かった……この鶏肉美味いぜ」

 「え? 良いの? じゃあもらうね、ありがとう」

 スバルは誰にも奪われる事の無いそれらを順番に食べ尽くして行った。忘れていたが今日の主賓はあくまで彼女なのだ、改めて彼女らは遠慮と言う言葉の意味を深く噛み締める良い経験となったのである。

 だが、この食卓に座る者達の中で一番の年長者のギンガは自身の実妹の表情に何か別のモノを見出していた。何故か今日のスバルは元気が無い……やっと足だけでも治った日だと言うのに家に帰って来てから一度も笑わないのだ。一応さっきのように微笑むぐらいはやるのだが、それも会話に置ける相槌のような意味合いでしか無い事をギンガはちゃんと見抜いていた。始めはそんな日もあるだろうと思って黙って見守っていたが、大好物が並んでいる食事中でもこれとなればもう異常だ……彼女は意を決して──、

 「スバル……今日何かあったの?」

 「っ!?」

 訊ねて見た。案の定姉からの突然に質問にスバルは一瞬だけ身震いするようにビクッと反応した。脈ありだった。他の姉妹達もそんな彼女の様子に気付き始めて箸の動きを止め始めて聞き入っていた。

 「その顔だと……やっぱり何かあったのね」

 伊達に彼女の姉をしている訳ではないギンガは元来悩みとは殆ど無縁のはずの自分の妹が珍しく本気で頭を悩ませている事を見破ると、彼女が話しを濁さないような言葉を投げ掛けた。普段から悩みが少ない分、本当に思い詰めた時は誰にも話さずに一人で抱え込む傾向にある妹を放っておけない姉心があったのだ。

 「あー……何かあったって言うか、私の方から何かしたって言うのか……。出来たら言わないようにしてたんだけどなぁ。あはは……」

 「要領を得ていないぞ。言い難かったらべつに……」

 「いやいや、別にやましいとかそんなのじゃないから! ただ……」

 「……ただ?」

 「病院に居た時に知り合った友達がいるって話ししたよね?」

 「確か管理局員の方だったわよね? 男性の」

 「うん……。実はね、今日その人にまた会って……」

 「何か言われたんスか?」

 「うーん、退院おめでとうぐらいしか言ってなかったような気が……」

 「随分淡白な殿方だな。それで? 何か口論になるような事でもあったのか?」

 「全然! 普段通り……だったような」

 「じゃあ何が問題あるんだよ?」

 中々歯切れの悪いスバルに姉妹達が痺れを切らし始め、徐々に意地にでも彼女からコトの真相を聞き出そうと躍起になり始めていた。そんな五人の覇気に気圧されたのか、スバルはモゴモゴさせていた口を開くと普段からは想像もつかない小さな声で……。

 「アドレス教えちゃった……………………私の」

 一瞬、大した事は無かったなと全員そのままスルーしそうになったが、やがてそれを聞いた彼女らの誰が一番始めかは知らないが『スバル』、『男友達』、『メルアド』と言う三つの単語を用いた即席方程式を頭の中で紐解き、そこから導き出された解の意味に気付いた一人が──、

 「うそぉっ!!?」

 「ぅお!? ビックリした!」

 五人が一斉に張り上げた大声に思わずスバルが椅子から転げ落ちそうになったが、何とか左手で踏みとどまるとまた何事も無かったかのように夕食に手をつけようとした。ところが、彼女の仕出かした行動の重大さを理解していたギンガを始めとする他の姉妹達はそんな彼女の食事を妨害せんばかりに身を乗り出すと彼女を質問攻めにして来た。

 「い、いい、いつ彼氏さんなんて作ってたッスか!?」

 「ちょっと待ておい! あたしはてっきりお前はそんな事に興味無いってばっかり……!」

 「よ、良いかスバルっ、男女の関係と言うのはだな、ちゃ、ちゃんと順序と言うモノを踏んでだ……」

 「わ、私も……! そう言うの欲しいな……って思ってたんだけどなぁ……」

 六課時代よりも以前からその周囲に男の影が全く無い事を父であるゲンヤも安堵すると同時に危惧さえしていたあのスバルが、まさか自分達の知らぬ間にそこまで進展しているなどと思っていなかったのだろう……彼女が自分のアドレスを教えた男性と言えば、六課時代のフォワード仲間であるエリオ以外には同じ湾岸警備隊に所属している隊員ぐらいしか存在していない。それも単にそうしておいた方が有事の際に連絡が取り易いからそうしておいた方が良いと教えたゲンヤの言った事を実行しているだけで、純粋な男友達と言う点では今まではエリオぐらいしか居なかった。そんな彼女が同じ職場に居る訳でもない友人に自分からアドレスを教えたとなれば、彼女を良く知る者からすれば一大事なのは当然だった。あの常に冷静さを保っているティアナでさえこれを聞いたら同じ反応を返しただろう。

 「ギン姉~! 何とかして~!」

 頼りになる長女に助け船を求めたスバルであったが、肝心の姉は澄ました顔で自分の右手の親指を立てると……。

 「押しの一手よ、スバル!」

 「何言ってるの!?」

 姉のインパクトの利いた助言(?)にスバルはとうとう縋る者が居なくなってしまった事に愕然とした。この場に居る全員が自分の行動の真意を問い、その答えを聞きたがっている……聞かれている本人からすれば拷問にも等しい状態だが。

 「良いスバル? 人間誰でも押されれば折れるから、それを狙って行けば確実よ」

 「流石、経験者は語るな」

 「大丈夫よ、男の人って言うのは肝心な部分が小さく出来ているものだから、いざって事態になっても思ってるよりかは安心しても良いわよ」

 「流石、経験者は語る…………のかな、これは?」

 「……私、ギン姉が何考えてるか時々分かんなくなる……」

 『取り合えずギンガ、日付が変わる時間帯になったら俺の部屋に来い。一人でだ。と、我がマスターは申しております』

 騒がしさを取り戻しつつある食卓でスバルは早くも疲れを感じていた。質問攻めにされる側の労力をここで初めて理解したのだ。ふと、騒がしくしていて意識が逸れている間に席を外したのか、一旦部屋の方に行っていたウェンディが右手に何かを持って戻って来た。……スバルの携帯電話だった。

 「彼氏さんからメール来てるかも知れないッスよ!」

 「ちょ!? なに勝手に持って来てるの! 大体……あの人はそう言うのに興味無いかも知れないし……!」

 スバルは慌ててウェンディから携帯を取り上げた。さり気なく画面を確認して見たが、着信の知らせは無かったので安心したようなガッカリしたようなで彼女としては複雑な心境だった。そうだ、あの無愛想な友人がこの程度のちょっとやそっとのアプローチで反応を返すはずが無いのだ……それにアドレスを教えたと言っても、彼の隙を突いてポケットに滑り込ませただけだから正直言ってそれに気付いている方が奇跡だと言えた。

 掛って来なかったらそれでも良いと思いながら、携帯を部屋に戻すべく席を立ったその時──、

 ヴヴヴヴヴヴヴヴッ、ヴヴヴヴヴヴヴヴッ!

 持ち主に着信を教えるバイブレータの振動音がその携帯から聞こえて来た。他でも無いスバル自身の物からだった。親友のティアナか父のゲンヤのどちらかだろうと思い画面を開く……前者なら「ちゃんと家で安静にしているか?」とか言う類で、後者なら「今晩は少し遅くなるからちゃんと風呂入って寝てろ」とか言う連絡だろう。そう思って彼女が着信画面を開くと……



 送り主:******

 title:『Treize』

 本文:Hello.



 「あ…………ほんとに来た」










 数分前、孤島の隠しラボにて──。



 「クアットロ、聖王の、血液解析は?」

 「あ~、その件なんですけどぉ~、実は解析機に掛けている時に不調が発生して……」

 「失敗したのか?」

 「あはは~、元がやっぱりクローンですから、そう言った培養過程で何かおかしな事が起こっちゃったりするのかなーって……」

 「…………俺が持って来た、“冥王”の方は、すぐに完了したがな」

 「う゛!? さ、さぁ~……何でかしらね~」

 「…………まぁいい、猶予はある程度ある。それを、逃すなよ」

 トレーゼは使えない妹を一瞥しただけで再び自分の作業に戻るとそれに集中した。倉庫の中に押し込められていた小型のパーソナルコンピューターを持ち出していた彼はキーボードを忙しく叩いていて、何かをしているのだけは傍目のクアットロにも分かったのだが、如何せん画面が見えないので彼女からは何をしているのかは分からなかった。

 そして、当の彼は何をしているのかと言うと……

 「……………………」

 昼間にスバルからポケットに忍び込まされたアドレスが書かれた紙……あれに書かれたあったアドレスを元にして今スバルに接触を図ろうとしていた。敵かもしれないと分かっている自分にここまで深く接触を試みる彼女の行動が理解出来ずに本格的に不安を抱き始めた彼は、彼女よりも先に接触する事で先手を打とうとしていたのだ。取り合えずメールの件名は──、



 宛先:SUBARU・NAKAJIMA

 title:『Treize』

 本文:Hello.



 こんなところだろう。ひとまずこれを送信して出方を図るのだ。この時間帯に寝ていると言うことは無いはずなので返事はそれ程待たずともやって来るはずだった。

 返事が返って来るまでの間、彼は今後の計画について考察を開始した。まず明日の予定だが、午後にセッテと接触して彼女の訓練に付き合うのは良しとして、問題は午前だ……あのスバルに一度会うと言う約束をしてしまった以上は何も言わずに会いに来なかったとなれば怪しまれる事は必至、ましてや彼女はこちらに対して疑心暗鬼の状態だ、下手な行動は今後の命取りに繋がるので注意は欠かせない。ノーヴェの方はまぁ良いだろう、彼女はスバルとは違ってこちらを完全に信じ切っている。盲信していると言っても良い節もある、正体を明かさない限りはまず彼女がこちらから離れると言う事態にはなり得ないはずだ。どの道戦力は大いに越した事は無いのは変わり無いが、それはあくまで『最終段階』の話し……現時点では現行の二人だけで推し進めて行った方が数に縛られない分好都合だ、この使えない妹も攫って来た少女の子守り程度には役立ってくれている。

 と、ここでメールの返信が来た。意外と早かったと思いつつもそれを開いて内容を確認し始めた。読み始めは特に何の異常も無くそのまま読み進めていたのだが、ある一点を境にどんどん表情に険が出始め、ついには……

 「…………どういうことだ……?」

 書かれていた内容にトレーゼはリアルに頭を抱えた。恐らく彼が稼働して来た長い年月の中でも初めての経験だったに違いないはずだった。

 何故なら、そこに書かれていた内容とは──、










 「マジでメール来たッスか!?」

 「うええぅぇっ!? ど、どどどどどうしよう! ギ、ギン姉ぇ~!!」

 「落ち着いてスバル。素数を数えるのよ、素数は1と自分でじゃないと割り切れない孤独な数字、あなたに勇気を与えてくれるわ」

 「え、えーっと、2、3、5、7、9……」

 「スバル違うぞ! 9は3でも割れる!」

 「うわわ~! そうだったー!」

 「バカな事やってねーで、いい加減メールの返事書いてやれよ!!」

 ノーヴェの怒号がスバルが我を取り戻すのに一役買ったのか、スバルは取り落としそうになった携帯を握りしめて悶々と返信内容を書き始めた。だがなかなか作業が進まないのを気に掛けたギンガがその内容を確認した途端……

 「あのね……幼稚園児の作文じゃないんだから、もう少し気が利いたこと書け無いのかしら……」

 「で、でも、こう言うのって初めてだから……!」

 「仕方ないわね、今回は私がお手本見せてあげるから、今度からはそれを思い出して上手くやること。良いわね?」

 半ば取り上げるようにして携帯を手にしたギンガは親指で12の文字盤を踊るように押しながら文を書き始めた。

 「まずは挨拶、これが初歩よ。今日は確か昼間に一度会ってるみたいだから、久し振りって感じで良いわね」

 ピ、ポ、パ♪

 「次に今自分が何をしているかを書くの。相手はこっちが何をしてるかって言うのを知りたがっているものだから、先にこっちから教えちゃうのよ」

 ポチポチポチ♪

 「それでもって、次に定番の『そっちは何してる?』ね。それで最後にここをこうしてあれがこう…………まぁこんなものね。あ! それとスバルって明日暇?」

 「まー、仕事もまだ出来ないから、局からは有給休暇扱いになってたと思うよ?」

 「じゃあこれを添えて……完成っと!」

 一応妹の了承を得たと勘違いしていたギンガはそのまま送信ボタンを押し、メールを相手の所へと送り届けてしまった。一応送信履歴には本文が残っているのでスバルや他の面々が一体どんなモノを書いたのかと目を通すと……

 「「「「…………………………………………どういうことなの!?」」」」

 N2Rの四人が揃って同じ事を口にして驚愕を示した原因はそのメール画面にあった。年頃の女子らしくメールも長文だったので割愛するが、要約すると……



 『直接声聞きたいな。今って電話しても良いかな?』










 「あら、お兄様何していらっしゃるの?」

 何やらガラクタやスクラップの山をごそごそと掻き漁っている兄の姿を怪しんだクアットロがその後ろから覗き込むと、彼の右手には一本の携帯電話が握られていた。かつてスカリエッティがクラナガンに存在している数人の裏情報屋と連絡や取引を行う際に使用していた簡単な通信手段だったのだが、まさかこうして残っているとは思っていなかった。彼はその電源を入れると電話番号を確認してそれをメールの本文に打ち込んだ。彼はますます相手の考えている事が分からなくなって来ていた……完全に判断しているのではないとは言え、彼女もこちらを敵かも知れないと薄々勘付いているはずなのに何故ここまでして接触したがるのか? トレーゼの頭の中では敵が自分に対して巧妙な心理戦を仕掛けて来ているのではないかと言う疑念が持ち上がって来ていた。

 (スバル・ナカジマ……侮れない奴)

 と、ここで早くも電話のベルが鳴って来た。ここで取り乱している節を見せれば彼女の疑念は加速度的に増す事は確実……落ち着いて対処せねばならない。そして、落ち着きを得ようとした彼の脳裏に浮かんだのは何故か……

 「素数を数えよう……」










 「お! マジで番号載せて返して来た!」

 「でも番号だけで他に何にも書いてないけど……?」

 「甘いな、さっきの話題でこの返し方は、相手はもうこちらの要求を呑んだと言うことだ」

 「じゃ、じゃあ電話しても良いってことかな?」

 姉のギンガの視線を窺うと、彼女は黙ってグッと親指を立てて先を促した。ここまで来るとスバルもどうにでもなれと言う意識が強いのか、震える指で番号を並べて行き、通話ボタンを押して自分の左耳に押し当てた。

 コールは在り来たりに三回鳴ってから出て来る……と思いきや、繋がっているのになかなか出てくれず、コール十回目で諦めようとした時になってからようやく……

 『────────ガチャ』

 「!?」

 スバルの反応を見て相手が通話に応じたと察した瞬間に、他の五人は示し合わせたかのように一斉に口を閉じた。そして自分達の姉妹が繰り広げる会話にそっと耳を澄ませる。

 「あ! げ、元気? 半日振り……? だね」

 テンションが付いて行けていないのか、あのスバルの言葉がたどたどしいのを見るのは身近に接して来た他の姉妹達にとっても珍しく感じられた。

 「あえ!? べ、別に用って程でもないけど…………え? あ……うん、ごめん」

 どうやら何の用事も無いのに電話を掛けて来られたのが癇に障ってしまったのか、しょんぼりと頭を下げるスバルを見てギンガが他の四人に悟られないようにそっと念話を飛ばしてアドバイスを挟む事にした。

 ≪スバル、落ち着くのよ≫

 ≪ギン姉?≫

 ≪何だかお友達が意外と気難しい性格みたいだから、私がちょっと手助けしてあげる≫

 ≪大丈夫……?≫

 ≪私を誰だと思ってるの? このミッドで一番気難しい人間を射止めた女性よ≫

 自信を持って胸を張るのは良い事なのかも知れないが、その射止めたはずの男はさっきから顔面の包帯の隙間の目で「何をやっているんだか……」と言う風に呆れながら事の成り行きを静観していた。

 結果的にギンガが台詞を伝えてスバルがそれを話すと言うやり方で行く事に決まったらしく、再び会話が繋がることとなった。

 「えっとね、明日そっちって暇? あ……そう言えば夜勤だって言ってたっけ……」

 ≪続けて≫

 「あのね……出来れば明日昼間に会えないかな? も、もちろん、そっちが迷惑だったりしなかったらの話だけど……」

 ≪ここの掴みを外したら後は諦めるしかないけど……どうかしら?≫

 「……………………え、いいの!? 本当に明日いいの!?」

 ≪よしっ! じゃあスバル、最後のあの台詞をキメなさい!≫

 「じゃ、じゃあさ────!」










 ピ♪

 「お話し終わりましたのぉ?」

 「…………あぁ。何だか、要領を得ていなかった」

 携帯の通話を終了したトレーゼはそのままハンモックに乗っかると睡眠行動に入ろうとした。だがその前にそこら辺に散乱していた論文の切れ端を拾い上げると、そこにペンを走らせてある文字列を書き込んだ。そしてそれを丁寧に折って紙飛行機を作るとクアットロの方向へと飛ばし、彼女の後頭部に命中させた。

 「ぁいた! 何するんですの、お兄様」

 「明日、昼間少し、ここを留守にする。一応行先だけは、教えておく」

 「でしたら何もこんな伝え方ってありますぅ~?」

 鋭角三角形の紙飛行機を分解して、そこに書き込まれている情報を確認した彼女はそれを丸めてゴミ箱へと放り投げた。

 「お兄様が留守の間、陛下の面倒は今日と同じように私がしっかり面倒を見ておきますので、なぁんにもご心配無く」

 「ん。任せた」

 それを最後に彼は再び目を閉じて眠りに入った。明日の面倒事に備え、彼は久し振りの長時間睡眠に入る。

 彼の走り書きにあったメモ、それは──、



 “明日、AM11:30、クラナガン中央駅北改札口前”










 「ふぅ……なんとかギン姉の言う通りにしてみたけど、これで良かったのかな?」

 「ええ、バッチリよ! あとは明日の頑張り次第ってとこね」

 「あのさ……その事なんだけど……明日私は一体どうすれば良いのかな?」

 「はぁ? お前ぇ、そんな事に気付かねーで約束しちまったのかよ?」

 「だってギン姉の教えてくれた通りにしてたんだもん……」

 「あんなぁ、父さんから聞いたけどよ、呼び出した場所が倉庫裏なら集団リンチ、河原なら喧嘩、便所なら連れションって相場が決まってんだよ。だったら男と女が駅前で集合だったら何だよ?」

 「う~ん…………何だろうね、あはは」

 「デートだよ、で・え・と!」

 「ああ、デートかぁ……………………え?」

 「早速明日の準備をしないとね。最初の掴みを外したらお終いだし」

 「え、ええ、えええ!?」

 「しっかりコースを組んでおいた方が良いだろうな。無計画なのが一番怖い」

 「ちょ、ちょっとみんな!?」

 「あぁ~羨ましいッス~! ちゃんとデート土産買って来るッスよ」

 「えええええええええええええええええぇぇぇぇぇーっ!!!?」



 その後、スバルはあれよあれよとままに進んで行く周囲のテンションについて行けずに食事も喉を通り難くなってしまった。……結局感触したが。




















 新暦61年某月某日、スカリエッティの隠れラボにて──。



 「と言う訳で、どうしてもお前の研究成果の一つが欲しいのだ」

 ラボの椅子には二人の男が腰掛けていた。一人は若い青年、もう一人は既に初老は迎えている事が容易に見て取れる老人だった。白衣などを着ている所を見るとその老人も医者か科学者であるらしく、ここへ足を踏み入れてからずっと青年──この施設の主、スカリエッティに何かを懇願していた。スカリエッティの方もなかなか首を縦に振らないのか、かれこれこのやり取りが二十分は続いていた。

 「もしお前の研究成果のお陰でこちらも戦闘機人の量産が可能になった暁には、お前の計画の後押しをしてやろうじゃないか。研究成果はその時まで貸与と言う形で……」

 「お前もなかなか物好きだな、ハルト・ギルガス。よりにもよってあのトレーゼを選抜するか」

 「彼だからこそ良いのではないか。それに彼はオス……メスである他の個体とは違って貴様のタネを仕込む事は出来んぞ?」

 「別にやましい事はしないはずなんだが、お前が言うと一気に物事が卑猥に聞こえてしまうな」

 「年寄りの欠点だよ。それで、いい加減心を決めてくれないか」

 「あれはもはや私だけのモノではないからな……」

 「ならこうしよう!」

 気前良く自分の足を叩いて乾いた音を鳴らしたハルトはスカリエッティの眼前にずいっと接近し……

 「もしお前があれを貸与してくれた暁には、あれをもっと完璧な姿へとこの儂が“改良”してやろう」

 「『もっと完璧な姿』だと?」

 「損は無いはずだ。お前も分かっているのだろう? あれはいつまでもあのままでは人間一人満足に殺せやしない……それじゃ兵器としては落第点だ」

 「…………貸与期間は?」

 「安心せい、お前が計画を実行する時には返却してやるさ。精々十年と言ったところだな」

 「…………少し考えさせて欲しい」

 椅子から立ったスカリエッティはそのまま自分の寝室に当たる部屋へと姿を暗まし、あとにラボに残ったのは老科学者一人だけとなってしまった。白い頭をボリボリと掻きながら、スカリエッティ以上の狂気に満ちた笑顔を貼り付け──、



 「安心しろジェイル……あれはこの儂がきっちり責任持って調教し、育成し、改良して……“作り変えて”やろうじゃないか。ヒッ、ヒヒ、ヒヒヒヒヒ」










 後にこのハルト・ギルガスが元機動六課メンバーから『F.A.T.Eの悲劇』と呼称される非人道的行為に手を染めるなどと、この時は天才のスカリエッティですら予想はしていなかった。



[17818] 一人と一体の温度差ランデヴー
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:73ca1900
Date: 2010/09/11 12:48
 11月19日、午前10時10分、アパートの寝室にて──。



 「……………………お腹……へったなぁ……」

 少女ヴィヴィオは寝室のベッドの上で食事が運ばれて来るのをじっと待っていた。誘拐されてから既に一晩が経過……外の情報は一切入って来ないので今自分が管理局に捜索してもらえいるのかさえ分からない状況だった。テレビも無ければ新聞も無いのだから当然だ。

 だが、今の彼女の心にあるモノは、その奥底に刻み付けられた絶対的な“恐怖”だった。同じ人造的に生み出されたモノ同士のはずなのに自分とトレーゼとの決定的な違いを見せつけられてしまった事から起因する恐怖……善だとか悪だとかで言い括れない程にまで極み切ったそれは、今まで彼女が信じていた常識や幼稚な概念をも超越してしまった自分の甘い考えなんか針の先も通らないと見せ付けられてしまった恐怖が、彼女の精神を瓦解寸前にまで追いやっていた。首だけ切られなかったのは幸いだったのかも知れない……。

 そして直感的に悟った……母であるなのはの背をいつも見て育ってきた彼女は彼女が敗北を喫したと言う事実を始めはどうしても認める事が出来ずにいた。彼女の精神は『不屈』……文字通りの鋼の意思から去来する“敗北せず”の信念があるからこそ、同世代のエースとは別格とさえ言える戦果を誇ってきたはずだった。現に彼女が本気を出した実戦で勝てなかった相手はかつての教官のファーン・コラードと、闇の書の管制人格だった初代リインフォースのたった二人だけだ。

 しかしトレーゼは既にそんな次元には居なかった。母なのはの精神が『不屈』であるのに対し、彼の行動原理となる精神は即ち『不退転』……鋼の意思で耐え忍ぶ高町とは違い、最初から最後まで制圧前進撤退せず、眼前に広がる勢力を徹底的に蹂躙して背後に塵一つとして残しはしない単純にして最も確実で残酷なやり方を体現した、そんな存在だ。分かり易く言えば、なのはが『負けない』つもりで戦おうとするのに対比して、トレーゼは『勝つ』事を前提にして戦っているの違いだ。一見すればどちらも似たようなモノかもしれないが、その違いは限り無く大きい……『負けず』に戦おうとする者は必ずと言っていいほど自らの背後に逃げ道を講じているが、『勝とう』としている者の背中には何も無いからだ。追い詰められる壁も無ければ逃走経路も無い、まさに不退転の意思そのものなのだ。

 確かに、自分の危険すら顧みない者を相手に勝てる道理などこの世のどこにも無いだろう。そして自分は今そんな相手に囚われの身になってしまっている……その事実が重い絶望となってヴィヴィオに圧し掛かった。昨日は運良く命を繋げる事が出来たが、はたしてその悪運が今日もついているとは限らない……。

 ふと、ここで彼女は──、

 「……っ!!?」

 自分の張り巡らせていた野性的感覚に何かが引っ掛かるのを捉えた。物理的なモノではない、形の無い気配を捉えたに過ぎなかったが、彼女には分かっていた……もうすぐここに一番忌避している人物がやって来る事に。

 案の定“それ”はドア一枚隔てたキッチンに転移して来ると、図々しくノックをするどころか逆に蹴り開けてズカズカと入室して来た。忘れもしない……三年経った今となってもなお自分の心の奥深くに明確な形を持った“恐怖”として存在し続ける彼女こそ──、

 「おはようございます。朝のご機嫌いかがですか、陛下?」

 “最悪”のナンバーズ、No.4クアットロ。創造主の四つの要素の内の一つである『欲望』をある意味でオリジナル以上に色濃く引き継ぎ、そして体現しているナンバーズが今、ヴィヴィオの目の前にまで迫って来ているのだった。紺色の防護ジャケットも、背中に羽織った白いマントも、顔の伊達メガネでさえもが一緒……三年前の再現でも見ているかのような気分にヴィヴィオは辛うじて逃げ出さないのが精一杯だった。否、逃げる事すら出来なかったと言うべきか。

 「またこうして陛下のお世話をさせて頂けるなんて、このクアットロ、身に余る光栄で昨日からずっと興奮して眠れませんでしたぁ~。この睡眠不足どうしましょうかぁ~」

 何も変わっていない……伊達メガネの奥の顔面に張り着いた爬虫類のような薄気味悪い笑み、精密機器を埋め込んだ金色の瞳は狂気と言うよりは幼く、無邪気と言うには余りにもその密度が濃過ぎる毒気に塗れ歪んだ視線を無垢な少女に射るように向けるこの仕種……同じ空間に居るだけでも怖気が全身を襲うその感覚にヴィヴィオは早くも気を確かに保っていられる自信が無くなってきた。

 「まぁまぁ挨拶は終わりにしましてぇ、折角の涙ぐましい再会を一緒に喜び合いませんこと? 私ったらこの三年間、陛下にお会い出来ないのが寂しくって悲しくって……毎日拘置所の部屋に迷い込んで来る虫けらを小指で潰しながらずっとこの日を夢見ていましたのよ」

 しなやかな指がヴィヴィオの頬を妖艶に撫で上げる。直接戦闘を前提に造られてはいないとは言え、その気になれば頬に触れている五本の指だけで自分の首を簡単に圧し折れる事をヴィヴィオは充分承知していた。おまけに彼女にとって最悪だったのは、目の前の相手が自分の気分次第でそれを躊躇なく実行してしまう人種だったと言う事にある。ここは彼女の機嫌を損ねないように──、



 「だから、いつかこうしてみたかった♪」



 「────え!?」

 人間が知覚出来るようになるまでの感覚秒数は0.5秒、その間は誰であっても認識は出来ても決して反応することは不可能な肉体感覚的無意識……その間に何をされようとも抵抗すら出来ない間隔の間にヴィヴィオが感じたのは、自分の視界の上下が一瞬で入れ替わった事だけだった。続いてやって来たのは自分の右頬が強烈に痛む痛覚と、顔面ごと床に叩き付けられた事による冷たさが皮膚を通して脳に感知された事だった。あまりの速度で叩き付けられた所為で軽く脳を揺さぶられて意識が朦朧としたが、何が起こったのかだけは理解出来た……。

 叩き付けられた。力一杯。

 それは分かる。

 何故? それは分からない。母にも数える程しか叩かれた事の無い頬を、あろうことか叩きつけられる道理なんて自分には無いはず……混乱するヴィヴィオは痛みよりも先にその疑問が頭を駆け巡った。そんな彼女の心中を知ってか知らずか、万力の右手で頭を床に押し付けたままそっと耳打ちして来た。

 「何でこんな事されちゃうのか分からないって顔してますね~。別に私は陛下の事が嫌いだったりするんじゃないですよ決して。ただ……」

 一瞬だけ右手が離れた後、今度は振り下ろされた足がヴィヴィオの後頭部を襲った。
 
 「ぁぐ!!」

 「あぁ、良い声……。もっと聞かせてなんて言いませんわ、悲鳴って言うのは時折耳にするから快感なんですもの」

 シューズを履いたままの足の裏で容赦無く子供の頭を踏みつけ続けるクアットロ……踏み潰さんばかりの足蹴の度に聞こえて来る僅かな悲鳴を聞く度に恍惚とした表情を浮かべているその姿は誰が見てもサディスティックなモノを感じずにはいられないだろう。

 「私はねぇ、あなたのママが大っ嫌いなの。足で蹴って、唾吐き掛けて、両手の指の骨をバキボキに折り畳んで、灼けた鉄串を鼻と耳の穴から突き入れて何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も、あっちが飽きても何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も、脳ミソと頭蓋が穴開いたって何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も…………私の気が済むまで何っ度でも! 虐げて苛めて叩きのめしてウンともスンとも言わなくなってもまだまだ私の気が収まるまで何百何千何万回でも……あなたのママを壊してあげたいのぉ~♪」

 足の裏全体で押し潰していたのがいつの間にか踵で潰すようにして体重を掛けており、熱い鉄の味のする嫌な液体がヴィヴィオの口の粘膜から溢れて来ていた。

 「でぇもぉ~、悔しいけどクアットロにはあなたのママをブチのめすだけの実力が全然無いんですのぉ。真正面から正々堂々でも、足元や死角にトラップを山ほど仕掛けたって、あの女は持ち前の馬鹿力でみぃーんなボロッカスに粉砕するんですもの。憎らしいったらありゃしない! 別に“ゆりかご”の事だけじゃないわ、あの時だってそうだった……あの時あの女が空港にいなかったら、わざわざレリックの輸送を無理に進める事だってしなくて済んだのに!! レリックは暴発、せめて手土産にしようと思っていたタイプゼロの二人にも管理局の狗風情に横取りされてしまう始末……おかげであの後私はドクターや姉様達からお仕置きを受ける羽目になって……ねぇ、分かる? 私今最高にムカついているって!」

 「ぅうっ!!」

 鼻から鈍く嫌な音が響いた……折れてはいないだろうが鼻血が出る所を見るとかなり深刻なダメージを負ったようだ。だがそんな彼女の姿を見てもクアットロの加虐は止まる事を知らなかった……踏みつけるだけだったその行為は毎秒ごとにエスカレートし、ついには……

 「ねぇ、聞いてるんですのっ!」

 「あがっ!!?」

 片足で頭を踏みつけたまま腹を蹴り上げた。当然の如く痛みにのたうち回るヴィヴィオだが、当の加害者であるクアットロに至っては彼女の姿を見て「天日干しのミミズ」みたいだと逆に腹を抱えて大笑いした。

 「でもクアットロは賢い女だから、ちゃーんと分別って言うモノは分かっているつもりですわ。ただ……三年間積りに積もったこの鬱憤をあなたにブチ撒けたいが為だけにわざわざあなたのような小便臭いガキの世話係なんてのを引き受けたのよっ!!」

 それまで足の下にしていた頭を、髪を掴み上げて引き上げ、そして一気に床に叩き降ろす。しかも一回だけではない……何度も何度も何度も何度も、叫び声を上げる気力すら叩き潰し、気絶した自分より遥かに幼き体躯を一方的に蹂躙し続けるその姿はまさに天竺の説話にて登場する羅刹女の覇気そのものでしかなかった。

 「アハハハハハハハハハヒャァァハハハハハハッ!! 平伏せ! 跪け! 頭を垂れなさい、稲穂のようにぃ!! キャハハハハハッ! 良い気味、イイ気味よぉ! たった三年前までこっちからへいこらしてやってた相手が、今はこっちのお人形さんだなんて笑えるわぁ~♪ 悪く思わないでね陛下、ベルカの諺にもあるでしょう? 『王恨めしければ冠も憎し』って! アハハ! こんな言葉知ってるなんて、やっぱりクアットロはあったまイイぃ~!!」

 ガンッ──! ガンッ──! ガンッ──! ガンッ──!

 「あらぁ? 小便臭いだけだと思ってましたけど、私のだぁいスキな真っ赤な鉄分の臭いがするじゃな~い。もっと出してよ! 出しなさいよ! この私が満足するまで出し尽くしなさいよっ! アヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャァァァハハハハッ!!」

 ガンッ──! ガンッ──! ガンッ──! ガンッ──!

 「あっと、殺しちゃったらイケナイから、今日はここまでにしときますね。でも……私の“お楽しみ”にもうちょっとだけ付き合ってくださいな」

 腰の小物入れに手を突っ込み、取り出したるは一本の注射器……血液採取用の大き目の物とは違い、ワクチンや薬物投与の為に使われる小さな規格の物だ。既に内部容器には液が満たされており、針先にはそれが漏れ出ないように蓋がされていた。その蓋を外したクアットロは床の上で虫の息になりかけているヴィヴィオの腕を引っ掴み、指で皮膚を押さえつけて静脈を浮き上がらせると消毒もせずに容赦無く針を突き入れた。

 「私は焦らすの得意じゃありませんから先に言っときますけど、今あなたに打ち込んだのは一応毒物ですわ。でもご安心を……全身の随意筋肉が自分の意思とは全く無関係に縮んだり伸びたりしてすっごく痛い思いをしますけど、新陳代謝と一緒に体の外に出るまでの間だけですから、案外早く収まるかもしれませんよ。死ぬほど痛いですけどね」

 蛇の生殺し……クアットロが最も好む嬲り方の一つだ。彼女の言っている事が本当だとするならば、投与されたヴィヴィオは今から最低でも24時間以上は全身の筋肉が万力やペンチで引き伸ばされる激痛に耐え続けなくてはならない事になる。死ぬ事が無いのが唯一の救いと取るか、それともそんな苦しみを味わうならばいっそ死んだほうがマシだと受け取るか……。

 「お兄様はあなたを気に入っているようだけど、私はお兄様みたいにガキに甘くはないから……。陰であなたの指の一本や二本や三本は平気で叩き潰してやれるって事を忘れないでねぇ~♪ あ! そうそう、食事の世話も頼まれていたんだった。陛下が食べ易いように細かく砕いてさしあげましたわよ。なんて優しいのかしら私ったら」

 そう言って彼女はまるで鶏の餌でも与えるかのように、本当に粉微塵にした保存食をヴィヴィオの前にバラ撒いた。形なんてあったものじゃない……始めから彼女はヴィヴィオの世話をするつもりなんか毛頭無かった、結局は自分の玩具にしたいが為だけに志願したに過ぎない。その証拠に見ると良い、彼女の表情を。三年振りに自らの加虐欲求を満たす機会を得た歓喜と、自分よりも弱いモノを虐げる愉悦と言う歪んだ悦びに釣り上がった口元は最早悪魔と形容する事すら生温い邪悪なモノだった。誰が見ても分かる、己のやっている無慈悲且つ理不尽な行為に誰よりも誇りと美学を持ち、それでいて自分が“悪”だと言う認識を欠片も持っていない最低の『悪』の姿だった。

 「私は他にやる事があって忙しいから、陛下が苦痛にのたうち回る御姿が拝見できなくって残念ですけど……あの女の娘を傷めつけているって言う何にも勝る優越感が今の私にとって最高の甘露ですわ。ですから陛下、もっと私を喜ばせてくださいね♪ それが今のあなたが生きる精一杯の手段なんですから」

 返事を返す気力さえも無くしてしまった少女を更に足蹴にした後、金属を擦る音よりも耳障りな高笑いを上げ、クアットロの姿はラボへと消えて行ってしまった。後に残されたヴィヴィオに残ったのは虚しい静寂と、肌を撫でる冬の寒さだけだった。

 「う……ごほっ、ぶほっ! ああぁ、う……」

 もう泣く事すら出来ない……そんな彼女が痛みで薄れる意識の中で発した言葉は泣き言でもなければ自分を虐げた者への怨嗟の言葉でもなく……

 「ママぁ…………帰りたいよぉ、ママ……!」










 11月20日、午前10時00分。ナカジマ家の寝室にて──。



 「う~ん……うぅ~ん……」

 そわそわ、そわそわ。

 「ううぅ~ん…………」

 もじもじ、もじもじ。

 「うううぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅううううんっ!」

 ざわ……ざわ……! ざわ……ざわ……!

 「おいディエチ、スバルの奴さっきから何やってんのか分かるか……?」

 「今の私には理解出来ない……。って言うか、出来たら理解しない方が良いのかも……」

 「さっきからずっと鏡の前であんな調子なんだぜ? 見てるこっちがホラーだよ。チンク姉も黙って見てねーで何とかしてくれよ」

 「無茶言うな、流石に姉もあれは近寄り難いぞ。何か不思議な踊り踊ってるし……」

 「なんかもう、サトリ開きそうな感じッスね……」

 かれこれ三十分も鏡台の前で変なポージングを決めているスバルを陰から見守っているのは同じナカジマ姉妹のN2Rの面々……角から四人の頭がトーテムポールのように突き出ているのはある意味一種の怪奇だが、それ以上に奇っ怪だったのは彼女らの視線の先に居る他でもないスバル自身だった。彼女の方は背後の姉妹達に全く気付いておらず、いつも非番の日に着ている服装でさっきから鏡台の前をウロウロとしていて、時折服の端々を確認しながらまたもや落ち着きなく徘徊しており、とにかくまぁ要領を得ていなかった。それもただ単に唸ったりしているだけならまだ良い……普段の彼女にはとても似合わない真剣な顔つきでそんな事をしている所為で、こっちからも何故か声を掛け辛いのだった。いつも呆けた感じで居る分、このように真剣な面持ちをしている彼女ほどに接触が難しい人間はそうそう居なかった。

 と、ここで……

 「……何してるの、みんな?」

 「あ、ギン姉」

 昼間にも関わらず部屋から出て来ない妹達を心配して覗きにきたギンガは目の前の光景に呆れて絶句していた。四人の義妹達が固まって見守っているのが自分の実妹で、おまけにその妹が何やら落ち着かない様子なのは実の姉として何があったのだろうかと疑問に思わざるを得ないのは当然だろう。

 「実は、これこれこう言う事でかくかくしかじかな訳で……」

 「あぁ~、なるほどね。そう言う事だったら良い方法があるわ。お姉ちゃんに任せなさい」

 「流石はギン姉! あたし達に出来ない事をやってのけるなんて!」

 「見てなさい」

 そう言ってギンガは臆する事も無くスバルの背中まで歩を進めると、背後から彼女に気付かれないようにそっと耳打ちし……

 「●△※×☆@ッ!!!?」

 次の瞬間にスバルは何やら意味不明な言語で奇声を発しながらベッドの上に倒れ込んでしまった。対するギンガの方はこちらに向かって得意気な笑みを浮かべながら親指を立てている。

 「……ま、まぁ何はともあれ上手く収まったようだから、私達も退散しようか」

 「そうッスね~。ディエチー、そこまで一緒にランニング行こー」

 「うん。ノーヴェも行こう」

 「ああ。今行く」

 何か面白みの種が消えればすぐに解散するのがナカジマ六姉妹の共通項と言えようか、物見の対象が無くなったことでそれまで見守っていた四人は次々と自分達の思い思いの行動に移り始めた。あとに残されたのはスバルとギンガの二人だけ……スバルの方はベッドに飛び込んだまま微動だにせず、そんな妹の様子を苦笑交じりでギンガは見守っていた。妹のスバルの調子が変なのには理由があった……まぁ元を辿れば自分達の行動に行き着くのだが──、

 「ねぇスバル、良いじゃない。デートぐらいでそんなに気を張らなくっても」

 「で、デートじゃないよ! ちょっと遊びに行って来るだけだよ。て言うか、さっきのはないよギン姉ぇ~」

 「ん? だってそうでしょ? スバルはそのままの状態でも充分可愛いんだから、余計に着飾ったりしたりなんかしちゃったら逆効果よ。彼氏の気を引きたいんだったら、素材の良さを活かさないと」

 「だから、私とトレーゼはそんなんじゃないってば~!」

 そう、デート……この言葉を聞いた瞬間に一組の男女が仲睦まじく街を歩くと言う典型的且つ古典的なイメージを膨らませたのは他でもないスバル自身だ。姉のギンガに騙されて(スバルが勝手に乗せられて)友人と今日の午後一杯はデートに出掛ける羽目になり、彼女は今までの人生で経験した事が無い強烈な緊張感に支配されていた。元々彼女自身、友人と一緒にどこかへ出掛ける事と言ったら精々訓練生時代の時にティアナの運転するバイクを二人乗りして街へ繰り出した程度でしかなかった。それ以外で言えば湾岸警備隊で親しくなった者と仕事上がりにどこか軽食店に立ち寄ると言ったモノしか経験は無い。つまり、年頃の男女としての連れ合いは今回が初めてだと言う事だ。今までそんな経験がまるで無かった所為か、彼女は女と行くのも男と行くのも大して違いは無いモノだとばかり思っていたが、実際自分がこうしてその立場に立って見ると緊張するのなんのって……人間関係には自分が知らない未知の領域があったのだと改めて認識させられた次第だった。

 故に、今彼女が着ている服はいつもの非番の日に自宅で着るような無個性な物ではなく、簡素ながらもしっかりキメている余所行き用の服装だった。コーディネートしたのはもちろんギンガで、スバルの持ち味を活かした実に絶妙な組み合わせと言えた。

 「良い経験じゃない。失敗しても良い思いでになるわよ」

 「それが心配なんじゃないよ。ただ…………」

 「ただ?」

 「……トレーゼはそう言う事……あんまり好きじゃないかもしれないし」










 「確かに、好きでは、ないな」

 同時刻、孤島のラボで身支度を整えていたトレーゼは背後のクアットロの質問にそう答えた。今着ているのは戦闘体勢の防護ジャケットではなく、一人の人間として街を闊歩する為のカモフラージュに着込んでいる白一色の服だった。シミ一つ無いそれをさっきから彼は頻りに端々を確認しては落ち着かない様子だった。

 「あらぁ、そうですか? 私は好きですよぉ、足の指から切り刻んで間接ごとにバラバラに殺してやるのは」

 「何を言う、殺すだけなら、心臓と、脳を潰すだけで、充分だ。脚部切断は、対象が、逃走しないように、する為のものだ」

 「お兄様は即殺し派ですかぁ。でも、クアットロはやっぱり生殺し派ですわ。生かしたまま徐々に殺してやる……どんなに泣き叫んでも強がっても、結局生殺与奪はみんなこっちのモノ、生爪剥がすも手の指を折るもこっちが好きにできちゃうんですもの」

 「互いに、狂ってるな」

 戦闘機人としてもどこかネジの外れている妹の妄言を受け流しながらも、トレーゼの方は服装の確認を怠らなかった。それまで全体を眺めていたのがいつの間にか袖口に視線が集中し、そこを頻りに確認していた。

 「さっきから何してるんですの?」

 「護身用の、ナイフを、どこに仕込むべきか……」

 「…………お兄様なら果物ナイフでも充分でしょうに」

 「ストレージを、起動させた、新兵程度なら、七人は行けるな」

 「はぁ……お気に召したなら幸いですわ」

 自分とは文字通り別格の強さを誇る兄に戦闘面でとやかく言える程にクアットロはバカではない。集中している彼を尻目に床に散らばっている論文を拾い上げて目を通し始めた時──、

 ふと……

 「そう言えば、以前から気になっていたんですけど……?」

 「……何だ?」

 「お兄様は私よりも先に造られているんですよね?」

 「ああ、最初の三人と、同時期にな」

 「確か17年前にドクターが懇意にしていらした科学者に『貸与』って言う形で受け渡された…………ですよね?」

 「事実だ」

 「でしたら……その十数年の間にメンテナンスはどうしていたんですかぁ? まさか、旧式の内部フレームであそこまで戦えるって言うんじゃ……」

 いつだったかこの施設に残っていた記録を漁った彼女は、過去にトレーゼが一旦ミッドを離れる前に行った検査にて彼が基礎フレームを入れ替えないまま譲渡されていた事を知った。十数年も前の技術の機器が未だにメンテ無しで動いていると言うのは考え難いが、もしそうだとすれば追々不調を来たすかもしれないと危惧していた。だが、そんな彼女の心配とは裏腹にトレーゼは淡白なモノで……

 「ああ、その件か……。それなら、問題無い、俺のフレームは、既に最新のモノに、取り替えられている」

 「へぇ~。じゃあやっぱりあちらに居た時にメンテナンスはされたのですね」

 「…………いや……それは分からん」

 「え?」

 「あちらで17年も過ごしたが、俺はあの老いぼれが、俺の内部フレームを、交換した記憶は、一切無いんだ。だが、実際俺のフレームは、最新式…………不思議な事も、あるんだな」

 「単に覚えていないだけじゃ?」

 「それもあるかもな。内部フレームの、基礎構造は、ドクターの方式とは少々異なるが、出力も耐久性能も、遜色無い……老いぼれが、造った割には、上手く出来ている」

 それならまあ良いだろうとクアットロは再び論文の方に目を戻そうとした。だが、今度はトレーゼの方が彼女に問うて来る番だった。

 「聖王の件は、滞り無く、進んでいるか? 今朝、血液を採取した、はずだろう?」

 「(ギクゥ!?) そ、その件なんですけどぉ、実は~……」

 「また、失敗か?」

 「も、申し訳ありません! 全てはこのクアットロの注意が行き届いていないばっかりに……!」

 「もういい、お前は、そちらの件だけを、優先していれば良い。俺は、今から一時間30分後に、クラナガンへ、行く……留守は、任せた」

 結局妹に言われた通りに刃渡り約10センチ強のナイフを長袖と足の裾に合計八本も隠し持ち、更に袖口の布地に暗殺用の鋼糸鉄線を仕込み、準備万端の状態の彼は一足先に外へと向かおうとした。

 「どなたとお会いになられるんですか~?」

 「お前も、良く知る、奴だ。そいつに、呼ばれて、行くだけだ」

 「私も知ってる人? その方と何か取引でもするんですの?」

 「いいや、ただの…………おままごとだ」










 午前10時43分、海上更正施設の一室にて──。



 「…………来ましたね」

 与えられた寝室で不動を保っていたセッテは、ドアの僅かな隙間から進入して来た“それ”を捉えると、そっと差し出した指先に留まらせた。小さな“それ”は紅い光を頻りに明滅させながら彼女の網膜へ情報を届けた後、指先を離れて部屋を飛び回り始めた。飛び回る小さな虫──インゼクトを無視し、彼女は再び瞑想に入り込んだ。

 「今日は来ないのですね。クラナガンで用事ですか……わざわざ虎穴に入らずとも良いと思いますが」

 光点の点滅を利用した暗号通信には、送りつけて来た相手が今日一日の行動予定を知らせる為に飛ばして来たものだった。もちろん、その相手とはあのトレーゼの事である。管理局が殺気立っている今の時期に首都へ接近する事は得策ではない事自体、セッテは充分熟知していた。通信によると外せない用があって、それを済ませに行くらしいのだが……。

 「そんな事は不要な心配ですね。あの人は成長期の竜種ですら生身で屠殺しかねない個体……局員の10人や20人程度で臆するはずが無いですね」

 自分のコンセプトは『武力』、教育者トーレのコンセプトは『最強』……なればあの兄はまさしく『完全』を体現した最強以上の存在だ。単に強いと言うだけでは彼の敵とは成り得ず、ましてやその他の低級な輩では足元にも及ばない頂点の実力者なのだから。

 「…………そう言えば、ワタシからも伝えなければならない情報が……」

 再びインゼクトを指先に留めた彼女はその小さな虫に情報を刷り込み始めた。この施設には地理的な所在に関わらず様々な局関係の人間が出入りするので、自然とそう言った情報が耳に入って来るのだ。もっとも、大した重要性の無いモノであれば彼女とて知らせようとは思わなかっただろう……だが、今の彼女が持っているその情報は重要性と言う点では火を見るよりも明らかに高い事だけは確かだった。

 「明日未明、No.1『ウーノ』が西部支部から本部へと移送される予定だそうです」










 午前10時56分、ナカジマ宅──。



 「スバルー、そろそろ出掛けた方が良いんじゃないッスか?」

 軽いランニングを終えて居間でくつろいでいたウェンディが、未だに部屋に籠ったままのスバルを呼び始めた。ナカジマ宅は地上分部通勤なのを考慮してクラナガンの中心街の一角に位置しているが、首都中央駅からは少々距離を置いた場所にあるので少し早めに出た方が良いのだ。だがいくら呼べども肝心のスバルはちっとも顔を出さないので、とうとう痺れを切らしたノーヴェが部屋まで突貫して……

 「さっさと行って来ぉぉぉぉおおおおい!!」

 「うわわーっ!!?」

 文字通り蹴飛ばされて部屋を追い出されたスバルはその勢いで玄関まで一気に滑り込んで行った。流石に腰が重い彼女と言えどここまで来てしまえば引き下がる事も出来ず、渋々と靴を履いてドアに手を掛けるしかなかった。

 「行って来ま~す……」

 「あんまり彼氏さん待たせちゃダメだよ。もう待ってるかも知れないし」

 「だーかーらー、彼氏じゃないってばー!」

 「早く行ってやるッス。お土産買って来るッスよ」

 「はいはーい……。もう行く前から疲れちゃったなぁ……」

 100㎞マラソンでもやらされたかのような脱力感を身に纏い、スバルはいざ戦場(?)へと送り出されて行った。後に残ったのはN2Rの面々のみ……ギンガは既に更正施設へと向かい、ゲンヤに至ってはとっくに早朝から出勤しているので、今ここに居るのは彼女ら四人だけだった。いつもならそのまま家で静かにしていたり近くのジムへ足を伸ばしたり悠々自適な生活を送っているのだが、今日に限っては彼女らのテンションは何だかおかしかった。

 「さて、無事にスバルを送り出した事だし、次は我々が動く番だ」

 「うッス! この時を待ち構えてウズウズしていたッスよ!」

 「今こそあたし達の存在の真価って奴が問われる時だな」

 「良いのかなぁ……こんなことしても……」

 問題のスバルが居なくなった途端、チンクを中心として四人は円陣を組むように床に腰を着けて秘密の会合を始めた。今現在で唯一まともな思考を保っているディエチを除き、後の三人は完全に変な熱意を変な方向に向け始めようとしている真っ最中だった。そしてその『変な方向』と言うのが……。

 「良いか? 私達の姉妹、スバルの唯一の欠点とは何だ?」

 「ズバリ! 男の影が無い事ッス!」

 「その通り! 長姉のギンガには既に婚約者が存在し、ナカジマ家ではないにしても同期のランスターには既にヴァイス陸曹も居られるが、どうした事かスバルには全くもってそう言った浮いた噂どころか冷やかし話しすら聞こえて来ない! 何故だ!?」

 「お嬢ちゃんだからさ!」

 「小ネタの効いた返答をありがとうノーヴェ。ともかく! スバルには『出会い』が無い! 聞けばギンガとカイン殿が既に知り合っていた仲の傍らで、訓練校に通っていたスバルは相変わらず女友達しか居なかったらしい。これで同性愛に走って無いと言うんだからタチが悪い」

 「一時期はそうじゃないかって噂があったらしいけどね……」

 「とにかく! 今日のこのデートはまさに千載一隅のチャンス! 成功すれば彼女の将来は安泰だ!」

 「失敗したらどうなるッスか?」

 「可哀相だが、それまでだったと言う訳だな」

 「絶対成功させねぇと!」

 「その為には私達が一肌脱ぎ散らすしか無いッスね!」

 「ならばクリーk……じゃなかった、作戦決行だ!」

 「おぉーっ!!!」

 「…………もう私ついて行けないかも」

 拝啓、ドクターと拘置所の姉さん達へ。最近姉妹達のテンションがおかしいです……。これも人間社会に生きるに当たって必要なスキルなんでしょうか。

 遠くの監獄で隠居生活を満喫していそうな元主人の顔を冬の空に思い浮かべながらナカジマ家においてヒエラルキーの低いディエチはどうしようもなく遠い目をするしかなかった。

 「あ、そうそう! 作戦を決行する前にもう一人助っ人を呼ばないといけなかったッス」

 何かを思い出したのか、ウェンディが携帯を取り出して番号を打ち込み、その『助っ人』とやらに連絡を入れようとしていた。その人物はナカジマ家の者なら誰でも知っている人で──、










 同時刻、地上本部第四局員寮にて──。



 「それしにても科学者って言うのは、どうしてこんな面倒な記録の取り方するのかしら。いちいち手書きにしなくってもデータ端末にでも収めといたら楽なのに……」

 地上本部敷地内に存在する局員寮の一室で、ティアナ・ランスターは早朝からずっとデスクに座りこんである物を調べていた。押収物品課から貸出しと言う形で持ち出して来た違法科学者ハルト・ギルガスの過去の研究資料……数百枚の手記を一つに束ねたそれらを昨日含めて合計10時間近くにも渡って細やかに目を通している最中だった。こう言った調べ事なら隠すようにここでやらずとも良いのかも知れないが、局でやっていると執務官と言う職業上色々と厄介な仕事を持ち込まれて集中出来ないので、わざわざ有給休暇まで取って部屋に籠っているのである。だが彼女の予想以上に資料枚数が多く、未だに彼女は全体の半分も目を通せていない状態だった。

 「でもまぁ、私はこう言う科学とか全然興味無いから見ていてちっともピンと来ないけど、こいつはスカリエッティと同じ人種って事だけは確かね。まともな方向に知恵絞ってたら十中八九、次元世界の学界歴史に名前が残ってたわね」

 スカリエッティが医学知識を土台とした生物工学の天才なのに対し、このハルトは戦闘機人を始めとした各種生物兵器や新型質量兵器の開発に着手していた機械工学のプロフェッショナルだった。現在ティアナが調べ中のこの資料にも戦闘機人の内部基礎フレームや動力部の構造を重点的に、様々な機動兵器の製造理論が事細かに記されており、中には既存のデバイスを違法改造ながらも現行の物より出力と性能を向上させると言ったモノまで見受けられた。特に本命の機人関連の研究については、かつてスカリエッティのアジトから押収された資料よりも内容の密度が濃く、先に目を通したはやてですら舌を巻く程であったらしい。ちなみにそのはやてが言うには、ハルトの戦闘機人製造理論はスカリエッティのモノとは少しコンセプトが異なるらしく、もし開発に成功していればナンバーズの出力を大いに上回る計算が弾き出されたらしい。

 「そんな事はどうでも良いかしら……。今の私の仕事はこの資料の中から“13番目”に関するデータを──」

 ピリリリリリリリ! ピリリリリリリリ!

 「? 誰よこんな忙しい時に電話なんか……!」

 長時間の作業で精神が擦り減っていた彼女は苛立ちを隠せずにバッグから携帯を引き摺り出すと相手が誰かも確認せずに出た。

 すると……

 『やほー! ティアナ聞こえてるッスか?』

 ブツッ!(←通話ボタンを切った)

 ピリリリリリリリ! ピリリリリリリリ!

 「…………何の用、ウェンディ? こっち今忙しいから出来れば後にしてくれない」

 『そんなこと言わないで今日一日私達に付き合って欲しいッス! スバルが面白い事になってるッスから!』

 「オーケー、まともな用事が無いようだから切るわよ。じゃあね」

 またあのバカは何かやらかすつもりらしいが、もう自分達も良い年なので日常での私生活にいちいち首を突っ込んでやる義理は無い。多少の困難に当たっても彼女なら乗り越えられる……だ……ろう……?

 ティアナの思考が一時的に加速した。確かにスバルは彼女が思っているようにタフだし神経は人一倍図太いので大した事も無い障害程度であれば何も言ってやらなくても簡単に乗り越えるだろう。だがそれは平常時の話し、今の彼女は両脚の再生治療をつい先日終えたばかりの病み上がり……普通に歩行する分には問題無いとしても、無鉄砲が売りの彼女がいつ走りでもして足を壊すか分かったものじゃない。となればここは仮にも親友である自分が取れる行動は限られて来る……。

 『ティアナー、聞いてるッスか?』

 「……………………ねぇ、スバルが向かった場所ってどこ?」

 『首都中央駅東改札口ッスね。今からこっちも四人で見に行くッスよ』

 「だったら待ってなさい、こっちもすぐに行くから」

 ごめんなさい、お兄ちゃん……仕事より友人の心配をする私は執務官失格ですか?

 天で見守ってくれているであろう亡き兄の面影を空に浮かべながらティアナは外へ出る準備を始めた。見て来るだけ、見て帰って来るだけだ、時間は掛けない! と言うかあの万年アホ花咲かせてる奴は一体何を考えているのやら……病み上がったばかりの状態で早速外出するなんてどうかしている。

 そうやって外行きの防寒着を羽織り、いざ勢い良く飛び出したティアナはクラナガン中央駅を目指した。

 その時──、

 ドアを開けた時に入り込んだ一陣の風が彼女と入れ違いに部屋の中に入り込み、デスクの上に置かれたままの研究資料を数枚捲り上げた。その時には既にティアナは外に出てしまっていた故に気付く事はなかった……。

 資料の紙面に貼られた一枚の写真……紫苑の髪と金色の瞳が特徴的な少年が映されたその存在に。そしてその写真のすぐ下にはそれまでのページと同じように達筆な字で記されていた。

 『Numbers―No.13―32th』










 午前11時13分、クラナガン中央街東区にて──。



 「……………………」

 人ごみの中を一人の白い少年が縫うようにして移動する、全身白一色と言う異質な姿であるにも関わらず周囲の人間達は彼の存在に気付かないかのように普通にすれ違い、普通に通り過ぎ、そしてあくまで普通に二度と会わずに過ぎ去って行くだけだった。それを良い事に少年──トレーゼは途中の売店で購入した新聞紙の一面に目を通しながら徐々に首都中央駅に向かっていた。別に情報自体はクラナガンに大量に放ったインゼクト達から常時送られてくるのだが、これはほんの気まぐれで購入したに過ぎなかった。彼が購入したのは昨今の政治状況を伝達する経済新聞でなければ、ましてやスポーツ新聞でも無いどこにでもある極々普通の日刊紙だった。販売元のミッドチルダを中心に各次元世界の事件や出来事を両面刷り計17枚の紙面に記したどこにでもある新聞紙……その中で彼が得たかった情報はたった一つ、昨日自分達が決行した二つの作戦についての影響がどの様なモノなのかを知ろうとしていた。まず聖王教会襲撃に関しては概ね彼の予想通りの結果だった、管理局と提携して不都合な部分を綺麗に揉み消し、襲撃事件を『局所的な自然災害』によるモノとして隠蔽していた。大きな組織と言うのも考えモノだ、何でもかんでもすぐに隠せば解決すると思っている節がある。

 だが聖王教会の事件とは反対に、クアットロが担当した学院側の方は大々的に報道されていた。今彼が目を通している紙面の一部にも『St.ヒルデ学院にて女子生徒一名が誘拐された』と言う趣旨の記事が載っていた。“誘拐”と称するには随分と派手な事を仕出かしたが、そこはやはり権力にモノを言わせたのか一定の情報規制は働いていた。あの日、学院で起きた出来事に関する情報の全ては管理局と教会が発表したモノだった。学院に来ていた父兄達には教会と管理局の双方から圧力を掛けて封じ込めた……学院そのものが教会が設立し、管理局に関わる人間を数多く輩出しているので双方から権力の傘に入っている事がその隠蔽に一役買ったと言う訳だった。

 「…………ご苦労な、ことだな」

 用の無くなった新聞紙を丸めると、トレーゼはそれを公衆のゴミ箱へ突っ込んだ。既に彼は街の中心に位置する中央駅のほんの数百メートル手前まで来ており、人々の往来も街の中心に近付くにつれて徐々にその密度を増して行った。だが、やはり彼はこの街の喧騒がどうしても気に入らなかった。常人の何倍もの聴力と嗅覚を誇る彼にとって、道行く者達の談笑は雑音に、飾り立てのつもりで拭き付けた香水は悪臭でしかないからだ。何もかもが本当に不必要なモノだけでしか満たされていない……かつて姉が言った教訓を当て嵌めるなら、不必要なモノは無くさないといけないはずなのだ。本当に世の中は矛盾、パラドクスだらけだ……。

 首都中央駅東改札口、ここだ。まだスバルは来ていないようだが、こちらとしては早く終わらせたい。おままごとは長過ぎると興が冷める……。

 「……………………そう言えば、クアットロは、ちゃんと、世話をして、いるんだろうな?」

 元々彼女は身柄を拘束したヴィヴィオの監視役として拘置所から奪還してきたのだ……流石にこちらの命令を無視すると言う事だけはしないだろうが、一応気に掛る事も幾つかあるのでこれを済ませた後で一度確認に行った方が良いだろう。

 「…………ん?」

 視界の隅に小さな紅い光点……哨戒・情報収集用に放ったインゼクトの一匹が戻って来たようだ。光りの明滅パターンを解読すると、もうすぐこちらに問題のスバルが徒歩で向かって来るとの事らしい。街に放ったインゼクトの数はざっと200、その内の半分を哨戒と情報収集に分けているので彼の元には常に新たな情報が入り込んで来るシステムになっていた。今や管理局と教会の上層部以外の情報でならば聞こえて来ないモノは無い……もっとも、スバル・ナカジマを尾行させると言う目的で使うなどと露とも思ってはいなかったが。

 いや……目の前の召喚蟲が伝達している情報にはそれ以外にまだ続きがあった。スバルとは別に彼女を付き回している人間が数人居るらしい。距離を置いている……どうやら尾行しているようだ、だが何故?

 ここでまた別の一匹が情報を持って来た。その尾行している人間が一人増えた!?

 数は? 五人? たった一人を尾行するには数が多過ぎないか。だが蟲達の情報ではその五人がズバル一人をついて回っているのは確実……五人が一人を尾行し、その一人は今から自分の元に向かって来ている……この条件から察する解答は──、

 「…………スバル・ナカジマ、最初から、そのつもりで……?」

 導き出した解方程式はこうだ……今日自分はスバル・ナカジマに直接呼ばれてここまで来た、始めは何故急に会いたいなどと言い出したのか分からなかった、敵かもしれないと分かっているはずなのにどうしてこれ以上不必要な接触を行おうとするのか……。だがその謎は今解けた、奴は自分が進んで囮になる事でこちらの意図を探り出し、その様子を背後の五人が確認してこちらと本格的にコトを構えるつもりのようだった。こちらが首謀者だと言う尻尾を掴んだ瞬間に動き出すだろう、当然ここで易々と捕えられる訳にも行かないので抵抗はするが、それこそこちらの三日後に控えた本作戦に支障を来たすかも知れない……だが結局彼女の言いなりになってここまでホイホイと出て来たしまった自分もまた愚かだ。

 「スバル・ナカジマ…………恐ろしい奴」










 午前11時25分、同じく東区メインストリートにて──。



 「えーっと、髪良し! 目の下良し! 耳元良し! うなじ良し! 上着良し! 靴良し! めんどくさいから全部良しっと!」

 ショウウィンドウの反射を利用して軽く身嗜みを整えながらスバルは徐々に目的の改札口前まで歩を進めて行った。もう少し歩けば姉のギンガがセッティングしてくれた場所まで辿り着く、そしてそこには自分の友人が来るはずだった。朝早くに起こされ軽く顔に慣れない化粧まで施されて散々だったが、道行く人々を見れば自分と同じ年代の女子は大抵そう言ったモノに手を出している事に驚かされた、そう言うのはもうちょっと先の話だと思っていたからだ。スバル自身、“美”とか言うものには無頓着だった、三年前のホテル・アグスタ警護任務においてオークションに出される商品の一部を少しだけ目にした事があったが、彼女には精々「綺麗で高価な骨董品」と言う程度の認識しか無かった。それの価値の意味も知らなければ知る必要も感じた事は一度も無かったからだ。そんなつい昨日までそう言った事に無関心だった彼女が姉に言われて化粧までさせられるとは他のナカジマ家の面子ですら予想していなかっただろう……正直、スバル自身自分の事のはずなのに今でも変な感じだった。

 取り合えず駅前に着くまでにこれからの行動予定を確認しておく事にした。ギンガの立ててくれたプランでは、この後彼と落ち合ってから少し言葉を交わしながら移動し、さり気なく飲食店に入って昼食を一緒に食べると言うことらしい。昨日の深夜に姉が言うには、あくまで『さり気なく』の部分が重要らしく、食事を一緒に取ると言うのは男女間の進展を加速させる為に大事なプロセスがどうとか何とか言っていたような気がする。とにかく、第一ステップはそれと定めて問題はなさそうだ、メモ帳をしまってさっさと先を急がねば。

 ふと──、

 「……?」

 何か気になる物でもあったのか、彼女はさっきまで自分が歩いて来ていた道を振り向いた。特に何かあると言う訳でもなく、普通に冬の街を歩く人々や、その人々が出入りする飲食店やジュエリー店などしか視界には無かった。だが彼女は腑に落ちないと言いたげに首を傾げつつ再び駅前を目指して歩き出した。

 「何か視線を感じたような気が……。気のせいだったのかな?」

 元機動六課時代に培われた索敵感覚が未だに冴えているのかスバルは時たまこうやって対外の気配を察知する能力に長けていた。救助活動においてもそれを利用して瓦礫や水流に飲まれた要救助者を何度か助け出した事はあったが、今さっき彼女が感じ取った気配は明らかに一人や二人ではなく数人が寄り固まっているモノだった。数人分の気配が自分の後ろをつけるようにして漂って来ていたと言う事は、誰か怪しい者につけ狙われているのかもしれないが、当然彼女にはそんな心当たりは無い。と言うより実際には誰も居なかったのでそれで良しとしたかった。

 気を取り直して再び駅の方へと歩き出す。駅に近付く度に人ごみの密度は増して行き、段々目的の友人を見つけるのも困難になって来ているはずだった。

 だが──、

 「アハッ!」

 他の者にとっては存外に早く、スバルにとっては当然の如く早く彼を発見する事が出来た。こちらが指定した通りの改札口の本当にすぐ前、通行人の迷惑を考えていないのかと心配になるようだが、誰も彼に気付かないかのようにそこだけを避けて通っているので彼の周囲だけは無人だった。唯一彼の存在に気付いているのはスバルだけだった。

 どんなに薄っぺらい存在感でも分かる、どれだけ着飾らず没個性であっても感じ取れる、そして例えどれ程にあちらが意図してその身を隠すような真似をしたって必ず見つけられる……自分にとってそう言う不思議な自信を与えてくれるそんな存在がそこに居た。

 「待った?」

 「15分34秒、待機していた。呼び出した割には、少し遅いな」

 「うぇ? そんなに遅れてたっ!?」

 急いで時計を確認する……表示は『11:31 12』だった。取り合えず今日の第一の収穫は、友人が時間に厳しいと言う事が分かったことだった。真昼とは言え寒い中で例え一分たりとも待たせてしまっていたのはこちらの落ち度としか言えなかった、ここは素直に謝っておくのが妥当だろう。心なしかトレーゼの様子もいつもと違ってどこか頑なで苛立っているようにも見えていた。

 「ごめん……出て来るのにちょっと時間掛っちゃって……」

 「……まぁ、いい。それで、用は何だ?」

 「ふぇ?」

 「わざわざ、通話で済みそうなものを、ここまで、引っ張り出したんだ…………それなりの、用件があるのだろう?」

 「え、あぇ……えーっとその~」

 何だか話しが噛み合わない……どうやらトレーゼの方は、こちらが何か直接伝えたい重大な情報か何かがあるので出て来たと勘違いしているらしい。これは困った、と言うか困った程度の話ではない、この気難しい友人の事だから大した用も無いデートだと言ってしまえばすぐに踵を返してしまうのは必定……かと言ってここで何の用も無いとは言えず、ある意味究極の二択を心の中で迫られていたスバルは──、

 「あのさ……すっごく言い難いんだけど……」

 「何だ……?」

 「今日はいい天気だし、私もトレーゼも暇だし、ええっと……それで……電話でははっきり言えなかったんだけど……」

 「?」

 「……………………デート…………してくれないかなーって、アハハ」

 確かこう言う土壇場での決断を師であるなのはの出身世界では『清水の舞台からダイビング』だとか何とか言い表すんだったかな。そう言うどうでも良い考えが頭を快速急行並みの速度で通過させながら、スバルはとうとう一線を越えた。目の前の友人はしばらく瞬きした後で……

 「デート? 『デート』とは何だ?」

 斜め45度上の返答が返されて来た。










 「あぶなかったッス、あと隠れるのが三秒遅かったら命無かったッス」

 「さすがにそれは大袈裟だな。だがスバルの勘があんなに鋭いとは思いもしなかった、姉も仰天したぞ」

 尾行中に突然振り返ったスバルの視線を回避したノーヴェ達四人はすぐに行動を再開した自分達の姉妹を追跡を再開した。スバルとの相対距離は十メートル以上と一見離れ過ぎにも思えるが、彼女らは次元世界最高峰の頭脳を持つ科学者が自らの技術力の粋を決して生み出した戦闘機人、精密機器を埋め込まれた彼女らの可視範囲は100メートル先の硬貨の種類を優に見分け、特に射撃・砲撃をメインとして捕捉有視界範囲を格段に底上げされているディエチに至っては数キロ先を飛行する小型空挺の翼に描かれたロゴを読み取るに至る。ちょっとやそっと距離を置いている程度で見失うはずは無かった。

 と、ここで彼女らの一番後ろに居たノーヴェは、自分達とは別の気配を察知して背後を確認しようとしたのだが……

 「Freeze.(動くな) 抵抗したら撃つわよ」

 「お前が言うとシャレにならねーからさっさとその指鉄砲降ろしやがれ」

 「相変わらず冗談が通じないわね、ノーヴェ」

 「流石にあたしもブラックジョークは耐性無ぇよ。ってか、何だかんだ言っても来たんだなティアナ」

 銃の形に構えていた右手を降ろし、ティアナは如何にも怪しげな行動を絶賛続行中の四姉妹の列に加わった。

 「言っとくけど、私は一応あいつが無茶しないかどうかの確認をしに来ただけなんだから。それが終わったら帰らせてもらうわ」

 「まあまあ、見て行って損は無いはずッスよ」

 「生憎だけど、今となっちゃあいつのご飯食べてる風景だけでもお腹が捩れるような気がするの。スバルにとっての面白い事なんて、私からすれば厄介事も良い所よ」

 「親友のデート風景を見守ると言うのも、野暮かもしれないだろうが邪魔をしなければ一興だと思わないか?」

 「思わないわよそんな……こ…………と……………………今、何て言った?」

 さらりととんでもない爆弾発言を落としたチンクの肩をがっしりと掴みながら、ティアナは自分の両耳が正常かどうかを疑いそうになっていた。もし彼女の聞いた事が何の一分の間違いも無い事実なのだとすれば、今この状態は──、

 「逢引だよ、逢引!」

 「嘘でしょ……? あいつの事は誰よりも知ってるつもりだけど、訓練校に居た時だって男子寮からただの一通もラブレターをもらうどころか、浮いた話なんてどこにも無かったあいつが…………連れ添い!? あ、有り得ない……! 相手は誰よ!?」

 「最近になって仲良くなった人って言ってたよ」

 「あー、だとしたらやっぱり私も聞いた事あるかも……」

 「意外と私達も既に会っているやも知れないな。お! みんな静かにしろ。スバルが目標と接触したようだ」

 後発組リーダーのチンクが指示を出し、後に続くティアナを含んだ四人が一斉に息を殺して気配を消した。いつの間にやらティアナの方もその気になっており、さっきまで自分が言っていたはずの『どうでも良い事』に大いに首を突っ込んでいた。

 全員の視線が数十メートル離れている改札口前に集中する……確かにあの母親譲りだとか言う蒼く短い髪は間違い無くスバルだ。そして彼女のすぐ隣に居る人間、真冬に似合わない白い服と、見る者によっては毒々しくもある紫色の髪の毛……その人物は──、

 「あれ……誰ッスかね?」

 ウェンディのさり気ない一言に誰からも反論が無かったのは、単に彼女のいつものボケに突っ込み切れなくなったので放置……と言う訳では無かった。実際彼女と同じように他の姉妹やティアナも……

 「確かにあれは誰だ? ディエチ、知っているか?」

 「ううん。おかしいな、どこかで見た事があるような気がするのに全然思い出せない……って言うか、顔も見えてるはずなのに何だかボヤけて……」

 「こっちも全然分からないッス~!」

 そう、明らかにおかしかった。こちらからは確かに相手の姿は見えている……髪、目鼻、耳、口元、眉……確かにその人物の顔面を構成しているパーツが何もかも見えているはずなのに、その“顔”がどうしても認識出来ないのだ。目を見れば口元が、耳を見れば鼻が、髪を見れば目がと言った具合に、その人間の顔全体が彼女らの脳に上手く伝達していないのだ。さらに不可思議な事には、一旦その人間以外の方に視線が行ってしまうと視界の隅に捉えているはずなのにも関わらず、網膜の盲点に入り込んだかのように消え果て、再び視界に取り込んだとしてもやはりボヤけたままなのは変わり無かった。

 「眼球センサーの調子が悪いのかな? 解像度上げても全然ダメ」

 「生憎、私の目にもはっきりとは見えて無いわ。まさか街中で知覚阻害系の魔法を……ってそんな訳無いわよね、魔力なんてどこにも感じないし」

 通常、街中で管理局員以外の人間が認可の降りていない魔法を行使した場合は厳しく取り締まられるのだが、魔導師であるティアナが全く魔力を感知出来ていないとなると本当に魔法の類は使われていないようだった。だが現実として“彼”の顔はピントがずれたようにぼやけたままで、常人以上の聴覚神経を駆使しても声すら聞こえて来なかった。

 しかし、いい加減もっと接近した方が良いのではないかとチンクが提案を出そうとした時──、

 「なぁ…………あそこに居るのって、トレーゼじゃねーか?」

 五人の後ろから二番目に居たノーヴェの言葉に、ティアナとチンクは首を傾げ、あとのウェンディとディエチはしばし間を置いた後に再び前方の“彼”を見直し……

 「あー、言われて見ればそんな気がするッスね。見えないッスけど」

 「輪郭的にも確かにそうだね。見えて無いけど」

 確かに視界の中でぼやけている“彼”の背格好は、一週間近く以前に地上に降りて来たセッテに会いに行く際に初めてその顔を見た無愛想な少年、トレーゼにそっくり似ていた。あの時チンクは謹慎中だったのでその場に居なかったが、ウェンディがすぐに彼の事について話してくれた。

 「ほう、そんな事がなぁ。世間とは存外狭いものだな。……………………それにしても……」

 「どうかしたッスか?」

 「いや……どこかで…………聞いた事があるような気がするんだが……どこでだったかな」

 「そんな事より、よくあれがトレーゼだって分かったよねノーヴェ。何だか分からないけど、全然ボヤけて見えないでしょ?」

 「はぁ? お前頭大丈夫か? クッキリハッキリ見えてんだろ、さっきから何おかしなこと言ってんだ?」

 「うそだぁ!」

 「嘘じゃねぇよ! って良いのか? もうあいつら先行っちまってるぞ」

 「お、追うわよ!」

 いつの間にか四姉妹よりも積極的に首を突っ込む形になっていたティアナを先頭に、ノーヴェ、チンク、ウェンディ、ディエチの順に彼女らは大胆な尾行を続行した。だが結局彼女らが接近しても距離を離しても、ノーヴェ以外にはトレーゼの顔がぼやけたままだと言う事は変化無かった。










 「ねぇ、お腹空かない?」

 「……まぁ、そうだな」

 「じゃあさ、あそこの喫茶店行かない?」

 「……まぁ、別に、良いが……」

 「じゃあ行こ行こ!」

 「……ああ」

 何故か異様にテンションの高いスバルを先にして、トレーゼは彼女と共に白昼のクラナガンを歩いていた。喫茶店に入り込む彼女の後を追って自分もモダンな感覚の店内へと足を踏み入れた。そのまま窓際に空いていた席に腰掛け、向かい合うようにして座ったスバルがメニュー表をマジマジと見つめるのを静かに観察していた。

 「トレーゼは何が良い?」

 「アイスコーヒー……。砂糖、ミルク抜き、ブラック」

 結局彼がスバルの言う『デート』とやらに付き合う事にしたのには当然理由がある……。もし相手がスバル一人なら彼は即座に断り、さっさとラボに帰っていただろう……だが今回ばかりはいつも彼がスバルに接触していたのとは訳が違う、存在の分からない五人もの尾行者達が居る中で迂闊な行動を取れば即座にアウトだからだ。確かに自分が申し出を断ればスバルも帰るだろうが、その尾行者らがこちらに対してどのような行動に出るかは全く分からない……仮に大人しく引き下がったとしても、自分をマークしている管理局員と言う可能性を考えれば自分はこのまま「不審な人物」としてマークされ続ける事となり、今後の行動に影響を及ぼしかねない……。それならいっそ彼女と行動を共にして自分が潔白である事を逆に見せ付ければ良いと考え、今に至ると言う訳だった。ちなみに、今の彼は自分の姿を尾行者達に勘付かれないようにシルバーカーテンの効果で顔の解像度を落としているので外部からはピントぼけしているように見えているはずだった。

 だが──、

 (デート、逢引、ランデヴー…………男女が一組となって連れ添い、交友を深める為の、一種のふざけた遊戯……。理解し難いな、他人……特に異性ともなれば、互いを理解し合うのは、至難の業だ。どこまで行っても、人間は分かり合えないと、分かっているにも関わらず、互いの駆け引きに興じるだけの、低俗な遊戯……非生産的だな)

 眼前の少女からデートの意味を聞かされた後、彼はずっとその行動の重要性について考慮していた。交友を深めたいのであれば別にこんな回りくどい方法でやらずとも他にやり方が幾らでもあるはずだ……わざわざこんな非効率的な方法を取らなければならず、尚且つそんな『おままごと』に付き合っていると言う事実にトレーゼは早くも呆れつつあった。背後からの視線が無ければもう今すぐにでも帰りたかった。

 「アイスコーヒーご注文のお客様?」

 「……こっち」

 真冬にアイスコーヒーを頼んだのは別に彼がそれを好んでいたからと言う訳ではない。この気温でわざと冷たい物を飲む事で神経を張り詰めさせ、カフェインを摂る事で眠気を退けるのを目的としていたからだ。店員に変な目で見られたような気もするがいちいち気にしていては世話が無いのでスルーしておいた。ちなみにスバルの方はキャラメルミルクなる物を頼んでいた。

 「何食べよっか? パスタ? ピラフなんてのもあるよ?」

 「アイスコーヒー、二杯目」

 「飲むの早っ!?」

 氷だけがカラカラと音を立てているグラスを脇に下げ、トレーゼは店員に再び同じ物を注文した。三分としない内に注文の品が再びトレーゼの前に差し出され、彼はそれを一気飲み干した。礼儀も作法も無く、ただ単に「喉の渇きを潤す」と言う行為のみを追究したその豪快な行動にスバルはだらしなく口を開けて呆けていた。

 「お、お腹壊すよ?」

 「心配、いらない。そんなに、脆弱に、出来ていない」

 「そ、そう……。あ! パスタの注文こっちでーす」

 自分の元に届いたパスタの皿を受け取り、盛られている麺を左手のフォークで器用に巻き取りながら一気に口まで運んで行くスバル……それを見ながらトレーゼは相変わらず食欲旺盛だと感心するしかなかった。実際彼女の食欲とカロリー消費量は自分達最新型と比較しても多い部類に入る……正規ナンバーズよりも先に製造された旧型であるが故に消費量が多いのだろうが、流石にこれは多過ぎだろう。

 と、ここで……

 「……………………」

 背後の尾行者に気を配るトレーゼ。流石に五人の大所帯で店内に入って来る事はなかったが、斥候として一人だけを店内に入れたようだった。丁度自分の真後ろになるようにして居る為にこちらからは見えないが、間違い無く視線を感じる辺り監視されている事に変化は無かったようだ。だがここでいちいち気にしていては相手に勘付かれてしまうかも知れないので極力気にしないように振舞おうとした。

 「……………………足……」

 「うん?」

 「歩く分には、問題無い、ようだな」

 「あー、うん。昨日はありがとうね、死ぬほど痛かったけど、トレーゼのお陰で何とも無かったよ」

 「足が無くなった程度で、人間は死なない」

 「ひょっとして心配してくれた?」

 「まさか……」

 暇そうにストローでグラスの氷を掻き回しながらトレーゼは心底どうでも良さそうにそう答えた。出血量にもよるが、人間は四肢を切断された程度ですぐには死なない……心臓停止で五分、呼吸停止で十分、大量出血では15分もしなければ死亡確率50%には届かないのだ、人間は簡単に死なない。

 (まぁ、脳髄を捻り潰せば、即死だがな……)

 四角い氷を摘まみ上げて口に放り込み、ボリボリと音を立てて噛み砕きながら彼は眼前の少女と背後の尾行者に怪しまれぬように『普通』にしていようと努めていた。背後の得体の知れない尾行者達の事は放っておくとしても、問題はスバルだ……昨日の様子からすれば彼女はこちらの事を徐々に疑い始めているのは明白、その状況でのこの誘いは明らかにこちらがボロを出すのを狙っているとしか思えない。管理局もその気になれば無理を通せる巨大組織とは言え、仮にも法律を扱う組織である以上は明確な物的証拠が無い以上は検挙出来ない故にこうやって囮捜査のような事をしているのだとトレーゼは解釈した。どの道この状況から早急に脱しなければならない事に変わりは無い、何か適当な理由を付けてこの場を去るのが一番好ましいだろう、追っ手の尾行者達を上手く捲くだけの自信はある。

 と、無表情ながらも真剣に思案を続けていた彼は、自分の視界の隅に何やら蠢くモノを発見した。と言うかさっきから見えてはいたのだが無視していても一向に収まる気配が無かったのでそちらを見て見ると……

 「あーん……」

 「……………………」

 目の前に突き出されたフォーク、先端にはトマトソースが良い塩梅に絡んだスパゲッティが巻き取られていて、食欲をそそる酸味の利いた匂いが漂って来ていた。それを突き出しているスバルは微動だにせずにこちらの動きを窺っている……しばらく様子を確認した後、トレーゼは自分のフォークを掴むとそれを先端に絡め取ろうとし──、

 「それはダメっ!」

 遠ざけられてしまった。

 「摘んだ食べ物をそうやって受け渡しするのは縁起が悪いってお父さんが言ってたから……」

 「……それは、chopstick(箸)の、場合じゃなかったか?」

 「と、とにかく! はい、あーん」

 再び突き出されたフォークの先端を見つめ返しながら、トレーゼは理解出来ないと言いたげに首を傾げた。

 「だから、何だ?」

 「いや、あのね……直接……食べて欲しいんだけど……」

 何故だろう、背後の尾行者からの視線が少し痛い……さり気なく食卓の脇に置かれている胡椒の瓶を取って中身を練り固め、即席の目潰し拡散弾として気配の方向へと指で飛ばすと「めっ!?」とどこかで聞き覚えのある声が返って来たような気がした。取り合えず常人では知覚出来ない速度でブチ込んだので、前方で意味不明にモジモジしていたスバルはこっちが何をしたかまるで認知していなかった。

 さて、未だに目の前の彼女はフォークをずいっと近付けたまま固定しており、どうやらトレーゼがこれを口にしない限り動いてくれる気配は無さそうだった。ここで派生する選択肢が幾つか存在する……。

 一つ──、『断る』。相手が何を考えているか分からない以上、出過ぎた行動は控えるべきである。

 二つ──、『受け入れる』。仮に相手が何の意図も無くこの行動に出ているのだと考慮するならば、理由無く断るのは不自然である。

 「……………………」

 それからしばらくの間、無言で物思いに耽るトレーゼと、そんな彼を同じく無言で見守りながらもフォークを突き出したまま固定されたスバルと言う異質な状態が続いた。背後の尾行者の方は離れた所で胡椒の影響が持続中の鼻を鳴らしており、もう完全に尾行出来ていなかった。

 「…………………………………………」

 「…………………………………………」

 「…………………………………………」

 「……………………んっ……」

 「ああっ!」

 勢い良くスバルの左手を掴んだトレーゼはフォークの先端を自分の口に運び、絡みついていたスパゲッティを吸い上げてそのまま喉へと押し込んだ。程良く酸味と甘みの利いた食感が食道を通る感覚に、戦闘機人の生物としての面が喜びを感じるのが分かった。

 自分から望んでやって来た行為にも関わらず呆けているスバルを余所に、彼はたった一言……

 「…………美味、だな」










 やっぱりトレーゼの考えている事は全然分かんないや……。無愛想なのにどこか抜けてて……何でも知っていそうなのに誰でも知っているような事を全然知らなくって……本当に不思議な人だよね。

 でも…………

 トレーゼは何か私に隠してる事は無い? ノーヴェに黙ってる事って何も無い? …みんなの知らない所で誰かを傷付けてたりしない?

 もし違ってたらごめんだけど…………ねぇ、私には本当の事を言ってくれてるよね? このデートだってギン姉達が悪乗りしたのはそうだけど、ここに来たのは私が来たかったから来たんだよ。ちょっと出るの渋ったけどさ……。トレーゼも、私とデートしても良いからオーケーしてくれたんだよね? 今こうしてるのも本当は楽しんでくれているって思って良いのかな?

 …………ちょっと不安。そう言えばギン姉が言ってたっけ、食事中のイベントに『食べさせっこ』があるって。相手がどれだけ自分の事を信頼してくれてるかテストする……みたいな事言ってたけど、ほんとかな? て言うか、そんなのティアと売店で買ったアイスでしかやった事無い!

 ええい、南無三! あれ、違った? まあ良いや、とにかく一回だけ試してみよ。

 うわっ! すっごい変な目で見られてる!? ひょっとしてやり方違ってた? でもまぁ、スパゲッティはフォークで食べるものだしなぁ……。

 ってちょっと! まさかそっちもフォークで取ろうとしてるの!? 違う違う! 何か違う気がする! 直接食べて欲しいんだけどなぁ…………うわ~、これすっごく恥ずかしいよギン姉~! て言うかトレーゼも何かますます変な目で見て来るし~!

 …………もうダメ、やっぱりやめようかな────って、冷たっ!!

 あっ……! 食べてくれた……よね? う~ん……ギン姉、これって信頼されてるって言うのかなぁ? なんか自信無くして来た……。

 ……………………手……すごく冷たかったな……。










 これは何かの冗談か? 駅前での光景を見た時のノーヴェが一番最初に感じたのがそれだった。

 (何で……何でスバルがあいつと……トレーゼと一緒に居るんだよ!?)

 それはスバルがトレーゼとデートの約束を取り交わしたからと言う事実に気付くまでに少し時間が掛った。前々からスバルが親しくしている人が居ると言うのは聞いてはいたが、これは本当に笑えないジョークだと思いたかった。いや、実際笑えなかった。

 最初に彼の姿が見えた時、他の姉妹達が言っている言葉が耳を素通りして行く意識の中でノーヴェの頭の中では疑問の渦が巻き起こっていた。

 二人はどこで知り合ったのか?

 いつからそんなに親しくしていたのか?

 何でスバルはあんなにも嬉しそうなのか?

 そして……



 どうしてあそこに居るのが自分じゃないのか?



 「ッ!?」

 最後の疑問が浮かぶと同時に自分の胸の奥底から湧き上がった小さく弱く、それでいて確かな存在感と重さを持った“黒いモノ”……それを振り払うべくわざとらしく首を大きく振り被ってその疑問を忘却する。自分でもどうしてそんな事が頭を過ったのか分からない、ただ本当に胸の中の無意識の隙間を縫うようにして現れたと言う事だけが認識出来ただけだった。もう本当に何が何だか分からなくなって行く……表面上だけでも平静を保って居られているのが奇跡だとすら思えた。

 姉妹達が何か言っている……見えない? 何が? ……何を言っているんだか、あんなにハッキリと見えているじゃないか。

 (とうとう視覚センサーにガタが来やがったか……。けど、今はそんな事よりも──)

 気になる──。あの二人が何を話しているのか、スバルは目の前の彼をどう思っているのか……そして、彼が何を思ってあそこに居るのか。

 移動を始めた二人を密かに追いながらもそれら疑問のタネは尽きる事を知らない。ショウウィンドウの中にある冬服を物色しながら進んで行く二人を見失わないようにして追跡して行くが、流石に白昼の街中を距離を置いているとは言え五人の少女が連なって物陰に隠れたり小走りしたりを繰り返しながら尾行しているもんだから時々周囲の視線を必要以上に感じるが、そんなのをいちいち気にしていては時間の無駄なのでさっさと後を追う事だけを考えるようにした。

 やがて二人が喫茶店に足を入れるのが見えた。ここまで来たら流石に五人で突入する訳にも行かないので、店内に入る者を一名だけ選出する事にした。こう言う事に自分から首を突っ込むのが大好きなウェンディが真っ先に名乗りを上げるのかと思ったのだが……

 「いや、ここはノーヴェに行ってもらうのが適任だ」

 姉チンクから直々の御達しで幸か不幸かノーヴェ自身に白羽の矢が突き立った。さっきまでの尾行中に気付いたのだが、どうやら自分達には彼の姿が見えないだけではなく、彼の言葉も上手く感知出来ていないらしいとの事だった。どんなに聴覚の度合いを底上げしてもスバルの声や周囲の雑音だけが耳に入って来るだけで、問題のトレーゼ本人の声だけがどうしても聞き取れないらしい……。

 「ノーヴェには彼の姿がちゃんと見えているんだろう? だとすれば恐らく声も聞こえるはずだ。どう言う事か分からないが、私達では彼を上手く『認識』出来ないらしいからな」

 なるほど、そう言う事だったら確かに自分が適任だろう。いやに落ち着いた脳でそう考えた後、彼女はティアナの指示した席に座るべく店内へと足を踏み入れた。窓際に座っている二人に気付かれないように移動し、丁度トレーゼの真後ろで彼の背中を見つめる形で座った。

 耳を澄ませる……。

 取り合えず食べ物を頼んでいるのがスバルだけと言う事が分かった。トレーゼの方はそう言った腹に詰まる物は全く頼まず、さっきから水やコーヒーと言った飲み物だけを注文していた。腹が減っていないのだろう、例えそうでなかったとしてもスバルの食事に常人が付き合うのは十二の難業よりも苦痛だ。

 足? トレーゼはスバルの足が治療を受ける前は無くなっていた事を知っている? とすれば、彼は自分と同じようにこの11月中にスバルと知り合った事になる。つまりトレーゼは入院中のスバルに会いに行っていたと言う事だ。

 何故彼がスバルと接点を持つような事があって会っていたのかは知らない……だがその時から親しくなっていたのは間違い無いようだ。だが結局何故二人が出会う事になったのかまでは想像がつかなかった。

 取り合えず一旦落ち着こう……そう考えて店員の出した水に口をつけたノーヴェは上目遣いで前方を確認し──、



 「はい、あーん」



 「……ぶほっ!!?」

 思わず吹き出した。

 今の光景は何だ!? 自分の見間違いでなければスバルがスパゲッティをあのトレーゼに食べさせようとしているように見えていたが……。

 急いで鼻に逆流した水を拭き取り確認する……間違い無い、どう見てもスバルがトレーゼに対して直接自分のスパゲッティを食べさせようとしているようにしか見えなかった。有り得ない、こうして目の当たりにしていても普段の溌剌としながらも自他共に認めているであろう男っ気の無さが念頭にある為、どうしても眼前の光景とイメージが合致しなかった。対するトレーゼの方はと言うと、ノーヴェからは背中しか見えないので表情は読めなかったが多分いつも通りの無表情なのだろう、文字通り数ミリも微動だにしていない。だが如何に無愛想な彼とは言えここまでされたら単に黙っていると言う訳にも行かないはずだ……ノーヴェはその決定的瞬間を記憶しようとズーム機能を使用するのも忘れて必死に目を凝らしていた。

 と、何やらトレーゼがゴソゴソとしている。何をしているのかと思って更に目を凝らそうとしたその瞬間──、

 ────パラッ──。

 顔面に何か細かいモノが降り掛かった。いつもの彼女ならそんな事も気にせず軽く手で払う程度の反応しかしなかったのだろうが……

 変化は一瞬で訪れた。

 「…………めっ!?」

 痛い! 眼球と鼻腔が針千本で刺されているかのような激痛が彼女を襲った。台所で感じた事のあるこの刺激臭……間違い無い、胡椒の塊だった。何でそんなものが飛んで来たのかなんて気にしている余裕なんか無い、とにかく痛くて目を開けて居られなかった。

 結局、彼女はその『決定的瞬間』を見逃してしまい、スバルがスパゲッティを完食したのを見計らってノーヴェは店内から出た。確かにその瞬間は見れなかったが……

 スバルの顔はどこか嬉しそうだった。

 家族だから彼女が嬉しいなら自分も喜んで良いのだろう。

 でも──、

 何故かどうしてもそんな気持ちになれない自分が居た。










 食事が済んだ後、スバルがちょっと買いたい物があるのでと言って再び一軒の店の中へと連れられて行った。何と言う事は無い、前々から気になっていた冬服があったので物色したかったらしい。

 売り物は若年層を狙ってカジュアルな物が多く、男女両方に対応した商品が並んでいた。品数も多く、自分達以外にも客が何人か居た。

 “美”と言う感覚に無頓着なトレーゼにとって服の意匠と言うのはとても無意味なモノに感じられた。元来衣服とは太陽光に含まれる紫外線や冬の寒波を遮る事を目的としているのだから、それ以外の要素があるのはおかしな事のはずなのだ。それを反映するかのようにトレーゼの服は常にこの白い純白の服だけだった。耐寒・耐熱に優れている『だけ』の本当に衣服としての機能しか無いこれを、ある意味で彼は好んでいるとさえ言えた。

 (馬鹿馬鹿しい、何故人は、こんなモノに、執着するのだろう? こんなモノ、必要無いのに……)

 自分に『殺意』と言う感情があるのであればそれは恐らくここに居る低俗な輩達に向けられているのだろうと、トレーゼは考えた。彼は必要でないモノに価値を見出さない……彼にとっては研磨された無二の美しさを持つ宝石だろうと、ケース一杯に詰められた紙幣の束だろうと総じて皆無価値なのだ。何故なら、それは自分がそれらを必要としていないからと言う理由だけで事足りた。故に彼は不必要なモノを求める人間の心理が理解出来ず、一種の苛立ちすら覚えていたと言っても良かった。

 「じゃあ私レジに行って来るから、ちょっと待っててね」

 もうこの隙に帰れるものなら帰りたかったが、店内には先程と同じく尾行者の視線を感じていたので迂闊に動けなかった。結果的に店のロゴが入った紙袋を下げたスバルを待ち、再び彼女と共にクラナガンの街へと繰り出す羽目になった。尾行者達も距離を置きながらこちらの後を追って来ているのが分かる……ここが戦場ならとっくに始末しているのに、歯痒い事この上ない。

 ふと、スバルの様子がまた何やらおかしな事に気付いた。左手に持った紙袋に視線をチラチラと何度も往復させながら妙に落ち着きが無いのだ。また何か企んでいるのかと、トレーゼは軽く無視する事にした。いちいち関わっていてはこちらの精神が追い付いて行けない……デート開始から既に30分が経つが、もういい加減にしてもらいたかった。

 と、しばらく彼女の後に続いて歩いていた彼は……

 「……………………」

 天を仰いだ。冬晴れの空には筋雲が伸び、緩やかながらも厳しい寒さを保った風が流れる……そんな空を仰ぎ見ながら彼はこう言った。

 「……雨が、降るな」

 空気が湿っぽい、季節風に乗って雨雲独特の湿気を豊富に含んだ臭いが彼の嗅覚神経を刺激していた。恐らくあと一時間もしない内に雨が降り出すだろう。この間自分が行使した天候魔法の影響で季節外れの大雨が降るかも知れなかった。

 それなら僥倖だ、それを言い掛りにして帰ろう……流石に強引なスバルと言えど天候まではどうにも出来ないはずだ。

 「ねーねー! 今度はあそこ寄ってこ!」

 「……まぁ、構わないが……」

 次に彼女が向かったのはまたもや店だった。今度のはさっきの衣服売り場とは違い、帽子やバッグと言ったようなアクセサリーや小物系の商品が多かった。先程の話ではないが、“美”と言うモノを理解出来ないトレーゼにとってこう言った飾り付けの要素もまた度し難いモノでしかなかった。店内では先程の店とは対照的に女性客が多く、スバルと同じように自分に合う帽子やバッグなどを物色していた。

 と、意外と時間も掛らずにスバルが戻って来た。さっきの店とは打って変わって小さな紙袋を二つ持って、それを服屋でもらった大きい紙袋に入れ込んだ。

 「……何を、買った?」

 「うえっ!? えーっと、な、ナイショ……」

 「…………そうか」

 別に知らせてくれなくてもどうと言う事は無い、あくまで人間関係を円滑にするフリをする為に興味がある素振りを見せただけで、実際は興味なんてこれっぽっちも無い。目の前の鬱陶しい女が昨日何をしていたか今日何をするか、明日どうなるかなんてどうでも良かった……結局の所、彼女は計画を推し進める上で必要なファクターでしかないのだから。

 再び冬の街を歩き始める。隣の少女の歓喜が漂う表情がどこか憎らしい、と言うか本当に鬱陶しい……そう表現する事しか出来なかった。

 西の空を見上げる……。

 黒雲が近付いていた。










 案の定、それからものの20分もせずにクラナガンは盆を引っ繰り返したような雨に見舞われた。湿気の少ない冬としては異常な降水量だった。今日の天気予報を信じて疑わなかった大多数の人間は傘を買い求めに店内に殺到し、あるいは駅の構内に走り込んでいた。ショッピングに付き合ったり近くの公園でハトに餌をやっていたりしていたトレーゼとスバルはと言うと……

 「降って来ちゃったね……」

 「…………あぁ」

 当然傘なんか持っていない二人は一先ず公園の周囲に自生している樹木の木陰に身を寄せて雨をやり過ごそうとしていた。途中で買った物が入っている紙袋を大事そうに左腕で抱えながら不安げに雨天の空を見上げているスバルを横目に、トレーゼは周囲の気配を読もうと精神を研ぎ澄ませていた。ついさっきまで感じていた五人の尾行者達の存在は感じられなかった……突然の雨に気を取られてこちらを見失ったのだろう、丁度良い機会だ、今の内に彼女から離れてしまおう。いつ尾行者が戻って来るか分からない、事を急くに越した事は無い。

 「……………………ねぇ……」

 「?」

 「こんな天気じゃデートどころじゃないね」

 「……そうだな」

 「帰っちゃう?」

 「……そうした方が、良いだろうな」

 「…………そうだね」

 幸運にも相手の方から解散を持ち掛けて来てくれた事を僥倖と思いつつ、トレーゼはスバルの口が少しモゴモゴと動いているのに気付いた。何かを言おうとしている時に表れ易い人間の心理現象だった。すると案の定彼女は再び口を開け……

 「あのさ……! 私、実は一人暮らししてるんだけど……」

 「……………………」

 「この近くにあるの……家」

 「……それで?」

 「こんな天気の中で帰るのって不便だから……えーっと、その~…………傘、貸してあげても……」

 どんどん尻すぼみになって行く言葉を聞き取ろうとトレーゼが自身の聴覚神経をフルに拡張させようとした時──、



 「来ない……? 私の家」










 雨が、少し強くなった気がした。

 悪い予感がした。

 悪い感じは……しなかった。



[17818] ⅩⅢ+0=Difference   ※(序盤・原作キャラ虐げ注意)
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:73ca1900
Date: 2010/09/25 22:48
 11月20日午前9時17分、クラナガン某所のアパートにて──。


 
 逃げなきゃ!

 ヴィヴィオの脳はこの二十四時間でずっと危険信号を鳴らしっ放しだった。体中の筋肉と骨が一斉に悲鳴を上げているのを鞭打ち、彼女はリビングの椅子を持ち上げて振り被り、この部屋唯一の出入り口である鉄のドアに叩き付ける。

 「うぅ!」

 叩き付けた瞬間の反動が彼女の小さな肉体にダメージを与える。対してドアの方はビクともしていない……それでも彼女は諦めずに再び椅子を振り下ろした。何回も何回も振り下ろし続け、そうやって諦める事無く続けていたその時──、



 「ッ!!?」



 来た。来てしまった。きっかり60分、一分一秒の遅れ無し、残酷な“それ”は少女の内側からひっそりと何の前触れも警告も無しに現れ……

 蹂躙を開始した。

 「あ……ぁげぇああああがぁっがはあ゛あ゛あ゛あ゛っ!!!」

 椅子を取り落とし、体を『く』の字に曲げて彼女は床に倒れ込んだ。単に蹲っているだけなら多少は問題無い……だが、服越しに背骨が浮き出ているのが見えるまでに屈折しているのはどう言う事か? 明らかにおかしい、右手の五指が内側に握り拳を作るようにして折り曲げられているのに対し、左の方は全部の指がてんでバラバラの方向にねじ曲がっていた。足に至っては屈筋がこむら返りを起こしたみたいに縮み上がり、一番マシな首でさえ右の方向にこれ以上曲がらない限度一杯まで回転していた。

 全身の筋肉が自分の意思とは無関係に動きまくると言っていたクアットロは正しかった……あの打ち込まれてから既に二十四時間、一時間から二時間のペースでやって来る肉体の内側からの凌辱、全身の筋肉と言う筋肉が骨の規格を無視した屈伸を不規則な律動で繰り返す……かつて欧州で行われた拷問裁判にも、被告人の手と足を逆の方向に引っ張って背筋が千切れるまでそれを行ったと言うモノがあったらしいが、今の彼女の場合は全身でそれが起こっている状態にあった。意識を保っているだけでも精一杯、一歩だって動けなかった。

 だが、今の彼女が気に掛けているのは自分の肉体の事なんかではなく……

 「逃げ……ないと…………早く、しないと……」

 筋肉が引き伸ばされて満足に動かせない両足を奮い立たせ、彼女は再び椅子を掴んだ。腕だってまともには動かせないにも関わらず、彼女はそれでも自分を閉じ込めるドアの前に立った。そう、早くしなければ“あれ”がまた自分の前に姿を現すからだ……人の、人間の持つ尊厳なんて形無きモノを自分の意思で自由気ままに蹂躙し、加虐し、そして殺し尽くす悪魔が……。



 「あらぁ、何してるんですの?」



 声……。まるで、最初からそこに居ましたよとでも言いたげな軽い調子で聞こえて来たその声は、ヴィヴィオのすぐ右側から聞こえた。そしてその軽い調子を保ったまま、右肩にポンっと手を置かれる感触があり、そして──、

 「あーあー、なるほどねぇ。要するに、何かを壊しているのが楽しくってそんな事やっているんですのねぇ~」

 肩を掴む五指に圧力が掛かる……筋肉を押し潰し、骨まで砕かんとするその力にヴィヴィオが椅子を落とした。

 「良いですよね~、破壊って。破壊は何も生まない~みたいな戯言を良く耳にしますけど、私はそうは思いませんわ。だって……」

 刹那、脳髄が『揺れた』。実際はそんな軽い言葉で言い表せられるような生易しいモノではなかったが、生身の人類では決して視認できない速度で頭部を叩き飛ばされたとなれば、もはやそう表現するしか無いだろう。慣性の法則に逆らう事無く真横にすっ飛び、鈍い音を立てて壁に激突したヴィヴィオは一寸も動かずに床に倒れ込み、静かになった。壁に当たった左側より叩かれた右側の頭から血が出ている辺り、如何に強力な力を加えられたかが分かる。

 「あらあら、そんな所にノビてもらっちゃ困るんですのにね~。よい……しょっと!」

 髪を引っ掴み、クレーンが鉄骨を釣り上げるが如くクアットロは少女を床から完全に離した。そのまま振り子のように宙を揺れる彼女を──、

 「だって破壊って言うのは……こんなにイイ快感をくれるんですものねぇ!!」

 ────床が抜けていても不思議ではなかった。戦闘機人のフルスイングで背中から叩き付けられ、ヴィヴィオの体は反動で数センチ上がった後、また沈黙した。薬物の影響が残っている四肢が小刻みに不自然な方向に痙攣していた。死んでいなかったのが奇跡だったのか、それとも不幸だったのか……。

 「破壊……嗚呼、なんて甘美なひ・び・き♪ 貴方達虫けらと同等の存在が築いてきた無価値なモノの中で、唯一の例外が『破壊衝動』と『殺戮欲求』……。邪魔なモノを無くす事で安息感を得られる破壊衝動と、同じく邪魔なクズ共を除去する事で優越感を得られる殺戮欲求……本当にこの二つを生み出した貴方達人類を尊敬しちゃいますわ~、この二つは次元世界に存在するどんな快楽をもたらしてくれる薬物なんかよりも優秀よね。自分の目の前に居るそいつを誰にも遠慮しないでブッ壊せたりブチ殺せるなんて……ウフフ、想像しただけでも濡れそう」

 返事は無い。とっくに気絶していた。

 「あーあ、面白くない。もうちょっとクアットロを楽しませるって言う配慮は見せてくださらないんですの、陛下ぁ~」

 普通の人間なら如何に残虐言えど、既に動かなくなってしまった者を無理矢理に起こしてまで虐げを再開するのは稀だ。そう言った連中は例外無くその加虐行為を楽しみ、その行為に悦楽を覚える人種である為、その快楽を長持ちさせる為に過度な負荷……殺害に至るケースは極めて珍しい。結果的に衰弱死するのは多々あっても始めから意図して殺すつもりでやる者はそうそう居ない。

 だが……

 「ねーぇー、起きてくださいよ陛下ぁ~。クアットロ一人じゃつまんな~い」

 眠っている飼い猫を無理に起こすような感覚でクアットロは少女の頬を叩き始めた。自分が叩き飛ばした右側頭部から流れ出る血も気にせず、彼女は白い頬を交互に叩き、たまに後頭部を軽くドアに叩きつけながらそのふざけた遊びを続けていた。

 だが、やがてそれでも起きないと分かると、彼女はヴィヴィオの右手を取り、その五本の指先を丹念に舐め回すように見つめ始めた。

 「あぁ、良い指……。ガキのくせに私よりも綺麗で整った爪先、傷一つ無い手の甲……良いわぁ、イイですわぁ! 嫉妬しちゃいそう」

 汗の臭いを嗅ぎ取るようにヴィヴィオの右手に頬擦りしていたクアットロは、その中で一番長い指である中指を舌で舐め上げ……



 ────────パキッ──!



 「ぎッ────────!!!」

 「は~い、ここで大声出されたら流石にクアットロちゃん困っちゃうから、静かにしましょうね~」

 中指から伝播して来た激痛に叫びを上げそうになったヴィヴィオの口をクアットロの剛腕が塞いだ。

 折った! 人間の、それも年端も行かない少女の手の指を、枯れ枝のように抵抗無く、簡単に、躊躇もせず、本来曲がりもしない方向に、捻り折った。薄い皮膚の上からでも分かる……一瞬で第一関節を除く二つの骨がバキボキに折られ、突出した部分が今にも皮膚を突き破って出て来てもおかしくない状態だった。

 「陛下がいけないんですからねぇ。ここから出ちゃいけないって言うのは、お兄様から言い付けられたでしょうに……。だから……申し訳ありませんけど、骨を折らせて頂きました。これでもう二度とどこか出て行こうなんて思いませんわよね?」

 時間を置いて内出血によって指が黒く変色し始めて来た……痛みで他の指も動かせず、今のヴィヴィオの意識は完全にこの状態を忌避したい気持ちで一杯だった。

 「──と、思ったのですけれど……」

 再びクアットロがその右手を取った……中指の折れたその手をだ。そしてその手を自分の右手で包み込むように握った後で……



 握り潰した。



 「―っ!! ――――ッ!!!!」

 「アハハ、陛下ぁ、御自分の右手を御覧なさいな! キャハッ タコの足みたいに色んな方向に面白く曲がっちゃってますよぅ! アハハハハ!」

 手の甲を突き破った骨から血が流れ出る……。床を濡らして行くそれをすくい上げ、クアットロは手に付いた赤い液体を舐め取り、満足気に微笑んだ。

 「はぁ……この濃い鉄分とヘモグロビンの臭気と味……最ッ高!」

 指先に残っているそれをインク代わりにして床に絵を描くクアットロ……描き上がったそれは、真っ赤に染まったウサギの絵だった。

 「さぁて、陛下もいい加減に懲りた所でしょうし、私はそろそろ御暇させて頂きますわ。……………………でも、その前にもう一つ……」

 ボロボロの右腕を釣り上げ、更に左手でヴィヴィオの肩を掴んだ彼女は文字通りの悪魔の笑みでこう言った。



 「せっかくですから、腕も三回ぐらい折っておかないと♪」










 午後12時27分、スバル・ナカジマの自宅前にて──。



 「今鍵開けるから、ちょっと待っててね」

 雨がざんざん降りしきる玄関前で二人の男女が佇む……脇に荷物を挟んだスバルが鍵を開けるまでの間、トレーゼは雨天の空を見上げていた。彼が気にしていたのは、つい先刻まで街中で感じていた尾行者の視線……流石に雨で一旦こちらを見失ったのが大きかったのか、もう完全に奴らの視線を感じてはいなかった。

 そうしている内にスバルが鍵を開け、中へと促して来た。

 「どうぞー。普段は私一人で住んでるんだけど、シャマルさんがそれは何かあった時に不便だから止めた方が良いって言われちゃって……」

 「…………失礼、する」

 玄関から入り、そのまま彼女の後ろを辿って部屋の手前まで進んだ後……。

 「じゃあ、ちょっと着替えて来るね」

 「……あぁ」

 「の、覗かないでよ?」

 「興味、無い」

 「そ、そう……。待ってる間、適当にテレビとか見てても良いからね」

 そう言って寝室に入り込んで行った。雨水に濡れた服を着替えるのにそうそう時間は掛らないだろう、彼女の言った通りにトレーゼはリモコンを手にするとテレビの電源を入れた。特に彼の琴線に触れるようなニュースや番組は無く、それからしばらくは本当に適当にチャンネルボタンを繰り返し押して暇を持て余しているだけだった。

 ピッ!

 『17日に発生した、中心街メインストリート親子殺人事件について、捜査本部は当該事件の直後に発生した廃棄都市区画での惨殺事件との関連性を──』

 ピッ!

 『聖王教会を襲った未曾有の大災害から二日、犠牲者の葬儀に参列した親族の方々からは悲しみの言葉が──』

 ピッ!

 『二日前の11月18日にSt.ヒルデ学院にて発生した女子生徒誘拐事件に関し、警察は管理局捜査本部との合同捜査を正式に──』

 ピッ!

 『明日から一週間のクラナガンの天気は、西部から東部に掛けて概ね晴れ──』

 遅い……寝室に入ってから既に10分は経とうとしているが、一向にスバルが出て来る気配が無かった。自分が居る事を忘れて眠っているのではないかと思えるくらいに長かった。自分から彼女に付き添った手前、黙って帰るのはどうかと思っていたのだが、流石にそろそろ帰ろうかと席を立ちそうになった時にようやく……。

 「ごめんごめん! 丁度良いの探してて時間掛っちゃった。はい、これ」

 家の中で着る普段着を身に纏ったスバルが雨水を拭き取るタオルと何故か上下揃った服を持って来ていた。

 「……何だ、これは?」

 「何って、服だよ。雨でビショビショでしょ? トレーゼに合いそうなの探してたんだけど、私が着てたのでも良いなら……」

 なるほど、道理で服のデザインが中性的な訳だ。これで完全な女物だったら感性に拘らないトレーゼでも流石に気が引けただろうが、これなら別に問題は無い。そう判断した彼はスバルの左手からタオルと服を引っ手繰ると、頭の水滴と拭き取り始めた。

 頭の毛髪から顔と首元、そして腕周りと言った順に拭いて行き、最後に胸元のチャックに手を掛けた。有事の際に服を脱ぎ捨てられるようにと彼の衣服はボタン留めにはなっておらず、チャックを外すだけで服の自重によって自然に脱げ落ちる構造になっていた。

 「う、うわぁ……」

 「……何だ?」

 上着を脱ぎ始めた所でスバルが呆けた感じで変な溜息をついた後、何故かそっぽを向いてしまった。その瞬間に袖口に仕込んであったナイフと鋼糸鉄線を取り去ったのだが、どうにも様子がおかしい、と言うか今日一日何か知らないが様子がおかしい事だらけのような気がした。

 「あ、あのさっ! 着替えなら私の部屋使っても良いから──」

 「必要無い、すぐ終わる」

 「あええ~!? ちょ、ちょっと……って、わぁ!」

 スバルの制止も聞かずにトレーゼは上着を脱ぎ捨て、隠れていた上半身を露わにした。

 白い。とにかく白かった。男性特有の平坦な肉体の表面は外から見て予想していた状態とそう大差無く、唯一の予想外な点と言えばその肌の異常とも言える白さだけだった。皮膚の下に隠れた重厚な筋肉と、それを支えるに充分足りる骨格のバランスは完璧であり、ベルカ式の魔導師として同じ肉体派であるスバルも嫉妬するような程にまで鍛え上げられた状態だった。

 「はぅあ~…………」

 「…………何だ?」

 「うぇ!? ううううううううん! ベ、別に何も無いよ?」

 「そうか」

 「ぁぁ、下までそんな……」

 「ん? あれは、何だ?」

 「え! どこどこなになに?」

 サササ──ッ!

 電光石火、スバルがほんの数秒だけ目を逸らしていた隙を見計らい、トレーゼは下着をはき替えて見せた。ちゃんと裾に仕込んであったナイフも回収した。

 「あ……!」

 「な? すぐに終わると、言っただろう?」

 「うん……。あの、着心地どう?」

 「別に……可も無く、不可も無く。サイズは、丁度良い」

 椅子に掛けておいた上着も羽織る……少し濡れた肌に乾いた布地が良く馴染み、彼は再び椅子に腰掛けた。電源を入れたままにしていたテレビはいつの間にか天気予報のコーナーを終え、ミッドチルダ観光特集なるモノに切り替わっていた。それを何の感慨も無く眺めているだけのトレーゼは自分が脱いだ服をスバルに投げ渡し──、

 「洗濯、するんだろう?」

 「あ、うん。乾燥機も付いてるから、終わったら着れるようにしてるから……」

 「ああ……」

 テレビに視線を固めたままのトレーゼをそのままに、スバルはバスルーム近くに設置してある洗濯機へと向かった。いつの間にか彼女は、人目につく事を怖れていたはずの手の無い右腕を隠す事も忘れていた。










 洗濯機の前でスバルは呆然と立っていた。特に何をするでもなし、自分の脱いだ服だけを先に入れ込み、彼女はその手に持った何のデザイン性も無い白い服を見つめながら呆然としていた。

 「……………………きれい……」

 白かった。服が、ではない……さっき見た友人の姿、あれが途轍もなく綺麗だと思えたのだ。自分とは決定的に何もかもが違う……あの姿を見た瞬間に、彼に対して抱いていた疑念や懐疑と言った矮小な感情が一斉に消え去った。それだけに彼の着飾らない姿は清々しく、綺麗で、優雅で──、

 魅力的だった。

 「……………………」

 左手に持つ彼の服を改めて凝視する……汚れもシミも何一つ無い清潔な白で満ちたその服……それを彼女は、普段は決して見せる事を知らないはずの蟲惑的なモノに憑かれたような視線で眺めた後、そっと近付けて──、

 嗅ぎ取った、彼の匂いを……。自分達女性とは違う、仄かな汗臭さが鼻腔をくすぐる……昔ゲンヤの服を洗濯しようとした時に臭った汗臭さとはどこか違う、不快感は無く、逆にどこかクセになってしまいそうな……そんな匂いだった。

 「…………ハッ!? なっなななななな何やってんだろ、私ったら! さぁーってと、洗濯洗濯……」

 正気を取り戻したスバルは急いで友人の服も投入し、スイッチを押した。洗濯に掛る時間は40分と言った所だろう。もうする事も無く、後は友人の待つ居間に戻るだけだった。

 「……………………」

 だが、彼の服の匂いを嗅いだ時に感じたあの得も言われぬ感覚に囚われていた彼女は、そのまま給水が終わる五分間、ずっとそこに佇んでいるだけしか出来なかった。

 形容し難いあの感覚──、

 名状し難いあの仄かな快感──、

 それはどこか背徳的で……林檎のような甘みにも似て……。。









 午後12時36分、監禁アパートの一室にて──。



 「──────────────」

 二度目だ、今日で二度目となる虐げをヴィヴィオは今さっきようやく乗り越えた所だった。彼女は現在、ベッドの上で毛布に包まって震えていた……服は着ていない、クアットロが無理矢理脱がせたからだ。何の為に? それは彼女の体の表面に答えがあった。

 「──────────────」

 白い肌に浮かび上がっている鬱血と内出血、そして細長く腫れた皮膚……革ベルトで鞭打たれたような傷跡が全身に刻まれていた。そして、これらは本当に鞭で打たれた跡でもあった。電柱などの大型物を固定する為に使用される鉄条網の一本、おおよそ猛獣に対しても使用しないであろうモノで叩かれたとあっては全身のダメージは計り知れない。ギリギリの所で『聖王の鎧』が発動していなかったら今頃とっくに肉が抉れていてもおかしくなかった。

 いや、実際彼女の右腕は今、クアットロに砕かれた骨の先端が皮膚を突き破って体外に飛び出し、手は完全に使い物にならない状態となっていた。開放骨折……露出した骨が皮膚組織やその他の軟部組織を傷付けている状態であり、骨折の種類の中では最も危険なモノの一つだった。幸運にも重要な血管は破れずに済んだようで、有り合わせの布やテープで一応の止血をしてあった。だが当然素人がやっている事なので、布の隙間からは今でも少量の出血を繰り返しており、既に乾いた部分は布越しからでも分かる程に黒く変色していた。このまま放置され続ければ、例え優れた医療技術で腕の形を取り戻せた所でまともに動かせるかどうかも怪しいところだ。

 痛みは無い……無いと言うのはおかしな話だ、実際には感覚が麻痺していると言うのが正しいだろう。流れ出た血液が多い所為で腕の感覚は既に失われ、痛みと言う人間が認知できる域を越えてしまった感覚にヴィヴィオは泣く事すら出来ずにただ震えていた。

 「──────────────」

 右腕の痛みと共に彼女を苛むモノが空腹だった。昨日からクアットロにまともに食事を与えてもらえていない彼女は、水道水を飲んで胃袋を膨らませ、なんとかして空腹を誤魔化している状態だった。以前どこでだったか聞いた事によれば、人間は水だけでは最大でも二週間しか生きられないらしい……このまま行けば死ぬ、そんな考えが彼女の頭を過った。

 だが結局、度重なるダメージに衰弱し切っていた彼女の思考はすっかり低迷し、もう自分が生死の境に立たされている事にも感覚が鈍感に対応していなかった。死に対する恐怖が全く湧いて来ない、人間として最も恐ろしい心理状態に置かれてしまっていた。

 「……………………ぅ……ぁ……」

 座っている体勢に難を感じ始めたのか、少し横になろうと右腕を庇いながらヴィヴィオはゆっくりと体を左側に倒し──、

 「ぁ……っ!!」

 いつの間にベッドの端に移動してしまっていたのか、バランスを崩して床に落下してしまった。右肩の肩甲骨から全身に激痛が伝播した……鞭を打たれた跡から血が滲み出し、布の下に隠れた右手の傷口からも盛大に血液が吹き出し、ヴィヴィオは床の上で痛みに耐えかねて蠢いた。運良く右腕だけはそれ程ダメージは無かったようだったが、どの道この状態ではそれ程大差無かったかも知れなかった。

 ふと──、

 「……?」

 ベッドの下に視線が行った彼女は、そこに何かが入り込んでいるのに気付いた。入り込んで、と言うよりかはそこに仕舞われていたと言う方がしっくりしており、どうしても気になったので左腕を伸ばしてそれを取り出した。

 本だった。かなり大きい……学院に持って行っている授業用のノートよりも大きい革張りの古ぼけた一冊の本だった。厚さもそれなりにあり、片手で持つ事は困難だと思った彼女はそれを一旦床に戻した。紅い背表紙には題名らしきものが書き込まれており、どことなくミッド公用語に似ていたが言語体系が微妙に違っている所為で読むには少し自信が無かった。この部屋にはクアットロも入ってはいない……現在ここに足を踏み入れたのは自分とトレーゼの二人だけで、自分はこんな物に覚えは無い。となれば、これは彼がここへ持って来たと言う事になる。

 何故? 何の為に? いや、それよりも……。

 気になる……本の中が気になる。得も言われぬ好奇心にくすぐられたヴィヴィオは左手で表紙を捲り、その1ページ目に目を通した。

 2ページ……

 3ページ……

 4ページ……

 5ページ…………。

 いつの間にか彼女の視線はその本に集中していた。ページ毎に刻まれているその長大な記録にいつしか心奪われた彼女は、窓を打つ雨の音もドアの隙間から差し込む冷気も忘れ、ただただその記録を見取る事だけに集中していた。

 ……………………

 ………………

 …………

 ……

 それからどれだけの間そうして居ただろうか……。やがて本の半分まで見終えた後、彼女はこの記録が途中で途切れている事に気付いた。そこから先はただの白紙、何も無いただの白いページだけだった。だがそれまでのページに記されていたモノは膨大で、これを見た彼女は直感ですぐに分かった。

 これは“大切なモノ”なんだ! これは彼の、トレーゼがたった一つだけ持ち得る“大切なモノ”に違い無いんだ!

 何故彼女がそう判断したかは分からない。場合によっては何を血迷ったのだろうとさえ思える即決振りだった。これは“大切なモノ”……その結論だけが今のヴィヴィオの脳裏を何度も渦巻いては彼女に未知の活力を与えていた。

 「……………………」

 本を抱きかかえ、彼女は再びベッドの上に毛布ごと包まった。左腕だけでそれを抱える姿はまるで卵を温める親鳥のようでもあった。

 守らなければならない! その力強い意志が彼女の捨てられ掛けていた意識を呼び戻した。あのトレーゼが何の意図があってこれを置いて行ったのかは分からない……だが、彼が所有している数あるモノの中で唯一これを、そして敢えてその保管場所にここを選んだのだとすれば、これには自分が想像しているよりも遥かに途方も無い価値が彼にとってはあるはずだと考えたのだ。ならば理由はどうあれ、誰かの“大切なモノ”を守りたいと言う強い意志は母であるなのはからの受け売り……ただ一人、尊敬する母の背中だけを見て育って来た彼女はその“大切なモノ”を守ろうとする事で生きる原動力にしていた。ある意味では現実逃避と言っても差し支え無かった。だがそれで今だけは生き延びる事が出来るなら──、



 私はこれを守りたい……。










 午後13時00分、スバルの自宅──。



 それから三十分、二人は他愛も無い会話を続けていた。とは言っても、結局はスバルが一方的に話してトレーゼが聞き流すと言う状態だったが、当のスバル本人にとっては自分の話を紛いなりにも聞いてもらえているだけでも満足だったようで、ずっと止まる事を知らずに喋り続けていた。

 「それでね、なのはさんの訓練が本当に厳しくって、私もティアもいっつもコテンパンにされてたんだ」

 「…………ほぅ……」

 「エリオって言う子が居てね、私よりもずっと年下なのにすっごい頑張るの。何が凄いって全部凄いよ。あのフェイトさんやシグナムさんの二人から特別特訓受けてたぐらいだもん」

 「…………ふぅん……」

 「キャロって女の子も召喚士なんだけど、竜とかバリバリ召喚するの。何度も助けられたなぁ~」

 「……………………」

 話題は聞いての通り、スバルの六課時代が中心だった。訓練校で親友のティアナと出会った話から始まり、ランクアップ試験で二人揃って無茶した事……フォワード四人揃っての初任務が緊張した上に現場が走行中の列車の上で内心怖かった事……模擬戦でやった自分達の行いが本当は自分を追い詰めるだけの無謀な行為だと諭された事……地上本部襲撃事件の直後に、それまでずっとひた隠しにしていた自分の体の秘密を明かした事……………………本当に色んな事を話した。その間トレーゼはずっと彼女の言葉を聞き流しているだけだった……嬉しそうに話していても、懐かしそうにしていても、彼は眉一つ動かす事無くただただ興味無さ気に聞き流すだけだった。

 そんなこんなでそれが三十分、良く互いに飽きなかったものだと感心させられる。と言っても、トレーゼの方は既に飽き飽きしていたようだが……。

 ふと、暇潰しにつけていたテレビ画面が新たなニュース番組を伝えていた。内容は──、

 『St.ヒルデ魔法学院に通う女子生徒、“高町ヴィヴィオ”ちゃんが誘拐された件について、学院の理事会は──』

 この二日間でニュース番組のトップに躍り出ているのは例の誘拐事件の事だった。管理局と国家直轄の警察機構が共同で捜査に当たる事を表明し、管理局がどれほど本気になっているかが窺える。どうせ聖王教会からの後押しがあって重い腰を上げたのだろうが、折角情報管制を強いてもこんな所で大々的に動いていては世間の目が黙っているはずがない。ヴィヴィオが聖王のクローンである事を民間は知らないが、名目上はたった一人の女子生徒の捜索にここまでするのは考え難いと言う結論に至るはずだ。

 「…………バカな、連中」

 「何か言った?」

 「別に……。…………なぁ、お前は、この事件を、どう思っている?」

 そう言ってトレーゼは学院の校庭を映し出していたテレビ画面を指差した。自分の仕掛けた攪乱用の爆発物の影響で土壌が抉れ、実際に事件の中心となっていた聖堂に至っては壁や天井の一部、設置されていたパイプオルガンなどが半壊していた。

 「うん……私は足治してたから行けなかったけど、ノーヴェ達は居たんだって。クアットロって言う人がやったんでしょ?」

 「知らん。初耳だな」

 今ここに居るのは最後のナンバーズ『Treize』ではない……一介の局員であるトレーゼ・S・ドライツェンとしてここに居るのだ。故に不用意に知っているなどとは口にしなかった、そんな事をすれば如何に鈍感なスバルと言えどこちらが犯人だと確信しただろう。流石にここでドジを踏むようには出来ていなかった。

 「なのはさん……あれからずっとショックで寝たきりなんだって。司書長のユーノさんって言う人が付きっきりで看病してるらしいけど……」

 子を無くした親とはかくもか弱いモノなのか……。生まれて一ヶ月も経たない内に親元を離れて生きる動物や畜生の方がよっぽどメンタルがある、血が繋がっていない癖に情なんか移すからこうなるのだ。所詮は女と言う事だろう……人間の雌生体はトレーゼにとって最も忌むべき生物、か弱い癖に自分の力量を弁えず図々しく、大抵の事は自分の思い通りになるとすら思っている厄介極まりない生物だからだ。

 目の前のスバルもそうだ、こちらの事を自分の四肢を切り落とした犯人かもしれないと勘付いているのに、わざわざこうして自ら過度な接触を求める意味不明な行動を取り続けている。必要でもない事を率先して行う……彼が最も嫌悪するタイプだった。

 「ねぇねぇ、今度はトレーゼが何か話ししてくれない?」

 「……話題が無い」

 「何でも良いんだってば~。子供の頃の話しでも良いよ?」

 「……覚えて無い」

 「お父さんとか、お母さんの話しは?」

 「father? mather? I don't know.」

 「じゃあさ、お姉さんの事でも良いよ。前に言ってたでしょ、三人居るって」

 「もう何年も会ってない……覚えていない」

 「へぇ~……何年くらい?」

 ふとスバルが立ち上がって居間の窓のカーテンを閉めた。続いて玄関の鍵を内側から掛け、さらに自分の寝室に続くドアも完全に閉め切った。雨音とテレビ番組とバスルームからの洗濯機の音だけが空間を支配した……椅子を引いて再びスバルが腰を降ろす音さえも際立って聞こえる静寂が二人の間に横たわった。

 「…………何年、だったか……。忘れた」

 「さっきからそればっかだよね」

 「覚えていないものは、覚えていないんだ。知らない」

 「じゃあじゃあ、私が言い当てて見よっかなぁ。えへへ~」

 「好きにしろ……」





 「17年……でしょ?」





 瞬間、刻が止まった──。

 一瞬で空が晴れ上がったかのように雨音が遮断され、洗濯機のうるさい駆動音も気にならなくなり、テレビの音声でさえサイレントになった。動くのは己のみ……画面に向いていた視線を動かし、トレーゼは対面のスバルを『捕捉』した。少し乾いた笑みを浮かべる彼女の顔はどこか儚げで、それでも何か意を決したような表情で言葉を紡いでいた。

 「……………………」

 「第69管理世界『コクトルス』……ハルト・ギルガス……No.13……最高傑作……………………全部当たってるでしょ?」

 「……………………」

 相手に突け入る隙を与えない為に表面上は完璧に鉄面皮を保っていたが、トレーゼは内心混乱していた。誰から聞いた!? いや、そんな事はどうでも良い、問題は目の前の彼女をどうするかだ。下手に先手を取られる前にここで殺害するのが無難だろう、幸いにもここは自分達以外には誰も居ない上に完全な密室状態、証拠さえ隠滅してしまえば後はどうとでもなる。

 刹那の間に思考を終えた彼の行動は迅速だった──。

 (殺す……)

 自身の持つ十三のISの一つ、高速移動スキル『ライドインパルス』を発動させると椅子を蹴飛ばして天井に張り着き、更にそれを蹴った反動でまだ腰掛けたままの彼女の背後へと到達した。そして袖口に仕込んでいた鋼糸鉄線の束を取り出し、それを背後から彼女の無防備な首元に絡ませた。ピアノ線並みに細い弦が首に食い込めば縄と違って指を引っ掛ける事も出来ないまま窒息死する……後はそこに首の異物を取り除こうと必死に首を引っ掻き回した痕のある死体の完成と言う訳だった。

 もう計画だの何だのとは言っていられなかった。今すぐここで殺す、それが結論だった。首絞めで無理なら頭部を直接破壊する! 躊躇いは無い、既に鉄線は首に巻き付いた、後はそれを左右に引くだけだ。トレーゼは自身の持てる渾身の力を込め、その手を左右に──、

 「ねぇ──、もう一つ聞いても良いかな?」

 「────────」

 手が止まった。鉄線の緩みが後数ミリと言う所で彼の腕が止まったのだった。ズタ袋を被された罪人を前にした執行人が、一度振り下ろしたはずの首切り斧を皮一枚の寸前で止めた……。何故彼の手の動きが止まったのか……それは、彼の右手に原因があった。

 スバルの左手……肩越しに伸ばされたその細い手が彼の右手にそっと乗せられていた。機人の剛力で押さえられているのではない、ただ単純に羽根を乗せるかのようにそっと触れているそれだけでしかなかった。たったそれだけの行為が彼の殺意の波動を押さえ込んでいた。

 「……………………」

 「手……やっぱり冷たいね。風邪ひきそうだよ」

 「言いたい事は、それか。殺すぞ」

 「違うよ。……あのさ、まだ話したい事があるから、もう一度座って欲しいな~なんて」

 「意味不明。もういい、無駄話は、性に合わない……せめて、痛覚を感じずに死ね」

 指に絡めていた鉄線を外し、トレーゼが左手をスバルの後頭部に当てた。脳自体に痛覚は無いので、そのまま粉砕すれば後始末が面倒なだけで確実に殺せる。次にスバルが言葉を発する前に潰そうと、彼が五指に力を込めた瞬間──、

 『Please wait,my lord.(お待ちください)』

 予想外な方からの制止の言葉に再びトレーゼが停止した。その声は自分の右手の人差し指と中指に指輪型となって待機していた自分のデバイスからのものだった。

 「……何故止める、マキナ」

 『A good idea to kill her was not present.(現在彼女を始末するのは得策ではありません)』

 「セカンドは、こちらの事を、知ってしまった。放置すれば、情報が敵方に漏洩する恐れあり……殺す」

 『I recommend her draw here at the moment.(彼女をこちら側に引き込む事を推奨します)』

 「正気か……」

 『Are only recommended.(推奨しているだけです)』

 「……………………」

 ストレージであるデウス・エクス・マキナには主である自分からの言葉を返すだけしか基本機能は無い……そのマキナが自ら行動の推奨を行うとは思っていなかったのか、トレーゼはそれからしばらくの長考に入った。彼が答えを導き出すまでの間、スバルは微動だにせずにずっと背後の友人……いや、正確には友人だった者が判断を下すのを待っていた。生かすも殺すも彼次第……そんな心身共に極まっている状況下でありながら、彼女は平然とした態度を変えなかった。まるでこれから起こる事が既に分かっているかのように……。

 やがて五分長にも渡る思考の後、トレーゼが下した結論は……。

 「……………………その推奨を、受理した」

 結果としてトレーゼは手を降ろし、スバルの要求に従って一旦は椅子に座り直した。いつの間にか絞殺用の鋼糸鉄線を仕舞っており、またつけっ放しのテレビに視線を移す様はほんの数分前と寸分違わない光景だった。今この場で第三者が入って来たとしても一体誰がここで生きるか殺されるかの瀬戸際の出来事があったなどと想像出来るだろうか。

 「……………………」

 「……………………」

 「……………………」

 「……………………おい」

 「うん?」

 「何も話す事が、無いなら、何故座らせた?」

 「あー、ごめんごめん。何だか殺され掛けてたから、今ちょっと心臓がバクバクして上手く喋れない」

 「…………俺は、お前を常々鬱陶しいと、考えていた」

 リモコンに伸びたトレーゼの白い指がテレビのスイッチを押して電源を落とした。これで音が一つ消えた……窓を打つ雨の音と脱水に入った洗濯機の稼働音だけが二人の耳朶を打つ。独白にも似た彼の抑揚の無い辛辣な言葉を受け、スバルは自分の佇まいを直した。そして辛辣な告白から始まった彼の言葉の続きを待ち受けた。

 「まず、何が聞きたい? 地上本部を、襲撃した理由? 俺がお前の、四肢を切り落とした理由? 貴様の友人の、デバイスを破壊した理由? クアットロ奪還作戦で、貴様の師とやらを、再起不能にした理由? “聖王の器”を奪還した理由? それとも……No.9『ノーヴェ』を、騙している理由か?」

 矢継ぎ早に捲し立てる言葉の数々をスバルに浴びせるように話しながら、彼の左手は彼女の死角となっている位置でいつでも殺せるようにナイフを握り締めていた。マキナの推奨を通したとは言え、彼としては一刻もスバルを始末しておきたかった。故にわざと彼女の神経を逆撫でさせるような発言を頻発させる事によって彼女を挑発し、乗って来た所を迎撃と言う名目で殺害したかったのだ。だからさっきから打って変わって辛辣な言葉を吐き、過去の行動を逐一思い起こさせるような発言をしてその時の負の感情を復活させようとしていた。

 「……………………」

 「どうした? 何故黙っている?」

 「…………あのさ、さっきの話しの続き……聞かせてよ」

 「…………何の事だ?」

 「昔の話し……。本当は覚えてるんでしょ? 知りたいな」

 「……………………」

 意外だった。彼女が冷静だった事にではない、むしろそれは予想していた方だった。彼が意外に思ったもの……それはスバルからの質問内容だった。管轄や配属が違うとは言え、普通の管理局員ならここで目的と誘拐したヴィヴィオの行方について問うて来るのが妥当なはずだが、どう言う事か彼女はそれをしなかった。彼女は本当にさっきの話しの続き……即ち、トレーゼの過去の話題を聞きたがっていた。

 「ふざけて、いるのか?」

 「全然。本当に聞きたいだけ……それだけだってば」

 乾いた笑みを浮かべたままスバルはその先を促した。どうやら本当に彼の話しをききたいだけらしい。もっとも、彼が話す言葉の中に含まれる僅かなキーワードから何か情報を得ると言う事も考えられるが……。

 「……………………俺の、過去を聞きたいと、そう言ったな?」

 相手に戦意が無いのを確認した後、左手のナイフを机の裏側に刺して固定し、彼は彼女に真正面から向き合った。相手の目を真正面から捉える事で常にその行動を予測したり心理状況を把握して、そこに付け入る隙を見出す為だ。

 「どこから、聞きたい?」

 「どこからでも良いよ。トレーゼの好きなとこからで……」

 「……………………なら、良いだろう。だが、これ以上、俺は何も言わない、話さない、お前が、どんなに聞き込もうと、決して話さない。良いな?」

 つまり、今後一切彼女とは接触しないと言う宣言だった。もちろん、三日後に控えた計画遂行の時はその限りではないが……。

 「いいさ、クアットロでさえ、知らない……教えてやるさ。始まりは、そう、二十年以上も以前だ」



 洗濯機が終了の電子音を鳴らした。

 二人には聞こえていなかった。










 午後13時24分、ナカジマ宅にて──。



 「シャワー貸してもらって悪かったわね。私だけ先に入れてもらって良かったのかしら?」

 「いやなに、こちらこそ仕事があるのにウェンディが無理に付き合わせてしまって悪かったな。私達は後でも入れるから問題は無いよ」

 バスルームから出て来たティアナは暖房の利いた寝室へと戻って来た。スバルの尾行中に突然の雨に見舞われた彼女らは急遽行動を中止し、ここまで走り帰って来たのであった。もちろん予報で今日が晴れだとばかり思っていた彼女らは誰一人として傘を持っておらず、家の玄関をくぐる時には全身が雨で濡れていた。気を利かせたチンクがティアナを先にシャワーに浴びさせ、すっかり冷えていた体を温める事となった。これから順番に浴びて行くつもりだった。

 「じゃあ次は私が……」

 そそくさと風呂場に向かうウェンディの襟首をチンクが掴んで引き留めた。

 「お前は彼女を連れ出して来たんだからちょっとは遠慮を知れ!」

 「そんなぁ~! 風邪引くッスよ!」

 「良い機会じゃないか。以前、『馬鹿は風邪を引かない』とか言う諺を聞いた事がある。きっと大丈夫だ……多分」

 「嫌ッスー! ディエチ、助けるッスー!!」

 「ドンマイ。じゃあ先に私行くね」

 「ぎゃあああああっ!!!」

 バスタオル片手に軽く手を振って去って行く姉の背に怨嗟の視線を投げ掛けながらウェンディは地団駄を踏んだ。結局彼女はディエチが出て来るまでの間ずっと寒さに震える羽目になるのだが、暖房を利かせた室内で風邪を引く事は無かった。

 と、そんな騒がしい姉妹達とは違い、ノーヴェはと言うと……。

 「おいノーヴェ、お前はシャワー良いのか?」

 「…………いい」

 「そうか。まぁお前は丈夫な方だからな、大丈夫かもな」

 「私の方は大丈夫じゃないッスぅ……」

 帰って来るなりノーヴェは濡れた服を脱ぎ着替え、そのまま何も言わずにベッドに身を投げるようにして寝転がってしまっていた。始めは何か具合が悪いのかと思っていたのだが、様子を見ていてもそんな様子は無いようなのでひとまず彼女の好きなようにさせていた。

 「それにしてもやっぱり気になるわね」

 「何が?」

 「何って、スバルの事よ。私も知らないいつの間にあんなに仲良くなってたのかしら?」

 「私は経験が無いから分からないが、年頃の男女とはああ言うモノなのではないのか?」

 「年中食べる事しか考えて無い上に、仕事中でも余裕でアホ花咲かせてるような頭のあいつが、元六課フォワードの誰よりも先に連れを作ってたなんて今でも信じられないもの」

 「私はそう言うのは要らないな。昔、騎士ゼストの身辺の世話をしていた事があったが、日常レベルで他人が居ると精神が擦り減って仕方が無いよ」

 「それはまた特殊な部類だと思うけど……。まぁ、今日は出過ぎた真似したけど、これからは私達は黙って見てるだけの方が良いかもしれないわね。ああ言う酸いも甘いもって言うのは自分で経験しないと分からないものだし」

 「同感だな。下手に手出ししても何も得る物は無いからなぁ。えーっと、こう言う仲の良い男女に水を差してはいけないと言う趣旨の諺を聞いたのだが、何だったかな?」

 「確か……『人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて地獄に落ちろ』だったッスか?」

 「その格言作った人ってかなり過激だったんでしょうね」

 「何か少し……って言うか、大幅に違うような気がするぞ」

 床の上に直接座りこんで談義するティアナとチンク。そのすぐ後にシャワーを浴びて来たディエチが加わって三人での談義へと発展した。ちなみにウェンディはディエチが出て来ると同時に風呂場へと飛び込んで行った。

 「いつか提督が言ってたっけ……世界はこんなはずじゃなかった事ばっかりだって」

 「本当に予測してなかったよね。それはそうと、スバルはどうしてるかな?」

 「流石にこの雨では逢引も続けられまい。別れたんじゃないないか?」

 「初っ端のデートが天候不良でオジャンって……私はそうならないようにしないと」

 「だがあの周辺は確かスバルの家があったはずだ。案外そこに誘っているかも知れないぞ?」

 「ないない。あのスバルに限ってそれは無いわよ。だいたい今日が初デートの人間がそんな大胆な行動に出ると思う?」

 「分からないぞ。本当は今頃二人で会話に華を咲かせているかもな」

 「あはは、もしそうだったら賭けて見る?」

 「良いわよ。後であいつの家に電話して確かめてみましょ。もし居たら今後一週間の昼食代は私が奢ってあげても良いわよ」

 「きっちり四人分だぞ?」

 「望むところ!」










 午後13時30分、スバルの自宅の居間にて──。



 「……………………これで、終わりだ」

 「…………そう」

 向かい合って座るトレーゼとスバル……半時間にも渡る彼の過去の独白にスバルの方は気が滅入っているようにも見えていた。対するトレーゼの方は、もう話す事は何一つ無いと言いたげな表情で再び片膝だけをテーブルにつき、裏側に刺して隠していたナイフを回収した。実際、これ以上話す事は無かった……彼は文字通り全ての過去を話したからだ。自分が生み出された原因と経緯、他の姉妹達との関係、自分の最終目的がスカリエッティの奪還である事も、自分がその為の計画因子としてスバルに接触していた事も……教えなかったのは、三日後に控えた作戦の内容と誘拐したヴィヴィオの居場所とその目的だけだった。

 「貴様が、この情報を、管理局に伝えようと、俺の行動予定は変化無い。どんな障害が現れようと、慈悲も、情けも、容赦もしない……全力で、消し潰すだけだ。無駄だと分かっていても、伝えたいなら、そうしても構わん」

 長く続いていた雨が止み、とうとう部屋の音は完全に消え去った。デジタル時計の末尾表示がまた一つ数字を刻んで行く時の中でスバルは自分が出すべき言葉を迷い、悩んだ末に出た答えが──、

 「お腹空かない? 軽いもので良かったら用意するよ」

 明らかなその場の言葉を選んでしまった。完璧に空気の読めないその発言に流石のトレーゼも数瞬思考が停止したようで、スバルはその隙に席を立って冷蔵庫のドアを開けて物色し始めた。いつかの食事の食べ残しをラップやタッパーに入れて保存しており、適当に見繕ったそれを取り出すとレンジに入れて温め始めた。

 「一応、鶏の唐揚げだけど……トレーゼって好き嫌い無いよね?」

 「……………………」

 「私も基本何だって食べれるけど、やっぱり一番好きなのはアイスかな。って、アイスはご飯じゃないっけ」

 「……………………」

 「トレーゼは何が一番好きなの? お肉? 魚? それとも──」

 「いい加減に、しろ」

 神速のスピードで椅子から離れたトレーゼはナイフを右手に構えてスバルの背後を取り、彼女の唯一のリーチである左手を塞いで首元に冷たい刃を押し当てた。軽く横に引くだけで皮膚と皮下脂肪をより分け、肉に隠れた頸動脈を簡単に切断出来る鋭い刃が彼女の生死を握っている状態だった。レンジの重い稼働音だけが響く中で二人は膠着した……下手に動けば殺される状況にスバルは固唾を飲み、逆にいつでも彼女の命を消せる優位に立ったトレーゼは右手のナイフを更に首に押した。

 「貴様と俺は、もう既に敵同士だ。否、始めに貴様の、四肢を切り落とした時から、既に俺と貴様はそうだった。俺は、貴様にとっての、都合の良い“友達”を、演じていただけなんだよ。騙されているんだよ、お前もノーヴェも、自分の願望に、妄想に……。哀れな9番目の妹の為に、心の奥底で燻る感情を受け止める、良き理解者と言う反吐が出る役を、奴の妄想通りに、演じてやった…………守る者でありながら、誰も自分の事を守る者の居ない、孤独なお前の為に、自分の味方と言う頭痛がする役を、願望通りに演じてやった……。良かったな、良い夢を見れて。だが残念、もう目覚める時間、夢見の涅槃は終わった……さようなら、優しい妄想。こんにちは、残酷な現実…………これが現実だ、俺が殺すモノで、お前が殺される者……実にシンプルだろう?」

 レンジが終了を知らせるベルと共に切っ先が少し皮膚に食い込む……酸素を含んだ赤い血液がほんの少し垂れ、刃を伝ってトレーゼの白い指を濡らす。あと五センチも切れば動脈は寸断される所まで来ていた。

 だが、それでもスバルは動じなかった。それどころか彼女はトレーゼの手を振りほどくとレンジの蓋を開けて入れ物を取り出し、それをテーブルの上に置こうとしていた。

 「貴様……! 自分の置かれている状況が、理解出来ていないのか!?」

 一旦離れてしまったナイフを今度は後頭部に当てた。肉体の大半が人造物である戦闘機人の唯一とも言える物理的・生物的弱点、『頭部』……唯一生身の骨格を残したその部位を突けば、鉄と骨の硬度差によりナイフは頭蓋を砕いて脳髄を破壊する決定的弱点を押さえられ、スバルは再び停止した。重く冷たい沈黙が居間を押し潰し、二人だけを残して後は全てが消え去ったような感覚が空間を支配する……殺す者と殺される者と言う余りにも差があり過ぎる構図がしばらくの間続く事となった。

 やがてどれだけの時間が過ぎただろうか……五分か十分か、それとも本当は一分か……とにかく時間が過ぎたと言う感覚が双方に芽生えた時、不意にスバルが口にした。

 「……殺さないの?」

 「殺して、欲しいのか?」

 「さっきまで殺す殺すって言ってたくせに…………。優し過ぎだよ、トレーゼは」

 「その言葉を、俺に言うな。俺にその言葉を、口にして良いのは、たった三人だけ……。その内の一人は、もう居ない」

 ナイフが再びスバルの体表に突き付けられる……首筋の時とは比較にならない痛覚が彼女を襲うが、それでも彼女は逃げようともしなかった。その澄ました態度が癇に障ったのか、トレーゼはさらに冷たい怒気を含んだ声で彼女の精神の圧迫に働き掛けた。

 「お前の性格は、熟知している。俺を放置すれば、貴様の言う『大切な人』とやらが、何人も死ぬぞ? 俺にとっては、学習しないクズ共の集まりでも、貴様にとっては違うはずだ……。選べ、選択しろ、ここで俺に殺されるか、万に一つの可能性に懸けて、俺を殺すか…………どちらだ?」

 最終通告……これの返答次第でトレーゼはここを戦場に変えるつもりだった。相手も戦闘機人である以上、頭部へのダメージはたかがナイフ一本では知れている……脳髄に突き刺して怯んだ瞬間を狙ってライドインパルスのエネルギー翼で首を切り落とす……痛みを知らずに死なせるのはせめてもの情けと言えるだろう。

 「……………………」

 「……………………」

 「……………………」

 「……………………何で……!」

 「……………………」

 「何で! どうして……!ずっと友達だって信じて居たかったのに……! 信じてたのに…………ひどい、ひどいよぉ、こんなのって無いよ」

 「……認めろ、これが、現実だ」

 「やめようよ。こんな事してても何にもならないよ……。やめようって!」

 「貴様にとっては、『こんな事』でも、俺にとっては、これ以上の大義名分は、無い。貴様の価値を、俺に押し付けるな」

 「どうして人を傷付けたり、殺したり出来るの!? 間違ってるよ」

 「全て、創造主スカリエッティの為、とだけ答えておこう」

 「答えになってない!」

 ここで初めてそれまでずっと背を向けたままだったスバルがトレーゼに向き直った。突き立てられたナイフの妖しい輝きにも臆する事無い彼女の目には……涙が光っていた。

 「…………何故泣く?」

 「認めたくないからだよ!」

 「何をだ?」

 「トレーゼは……私の知ってるトレーゼはそんな人じゃない!!」

 「──ッ!!!」

 脳髄を焼き切る感情の奔流に精神がオーバーロードし、トレーゼは自分の意識が拡張して体感時間が引き伸ばされるのを感じた。左手に持ち替えようとして投げたナイフが宙をゆっくりと流れる映像が眼球に映し出され、それを目的の左手で受け止める瞬間には既に彼は自分の空いた右手が目の前の少女のたった一本の腕を封じていた。そのまま刃を喉笛に押し付け、今日で何度目かの生殺与奪の権限を握る形となっていた。

 「言葉を選べよ、セカンド……。三文芝居の台詞は好みではないが、貴様に俺の何が分かる? 何を理解していた? 何を汲み取ろうとした? 口だけで何もしない、何も出来ない貴様が、もはや得手不得手の概念すら、超越した俺の行動を、心理を、存在意義を、どう理解出来たつもりで居た? おこがましいにも程がある、このクズが、同じ戦闘機人と言う、括りに定義する事も、怖気がする」

 壁際に追い詰める……逃げ道を塞いだこの状況で思考の選択肢をも封じ、精神を追い詰める算段で居た。

 「たった一人から課せられた期待を背負い、たった一人の遺して逝った遺志を継ぎ、たった一人の秘めた望みを叶える…………たった三つのこれだけが、俺の行動原理、深層心理、存在意義……。覚えておけ、その規模の小さい脳で、徹底的に、刻み込め」

 ナイフを更に近付ける。首元に二つ目の切り傷を刻みつけながら、彼は恐らく今までの稼働歴の中で最も濃い殺意を目の前のスバルに向けていた。やはりここで殺そう……現時点で彼はそう判断していた。

 「もう止めろ、ここまでだ。涙を流しても、現実からは逃れられない……逃れられるなら、それは現実ではない、結局妄想だ。そして、それが許されるのは、赤ん坊だけだ」

 「そう言っても認められない……私は……寂しがってたノーヴェに手を差し伸べたトレーゼも、傷付いてた私を放っておけなかったトレーゼも…………全部本物のトレーゼだと信じてる」

 「三文芝居は、嫌いだと言ったはずだ。もう、友達を演じる演目は、終わった……我ながら、下手な芝居だった」

 「…………どうしても……私を殺す?」

 「予定が変わった……そうするしか、ないさ」

 「なら…………一つだけ約束して。私を殺したら、もうノーヴェには嘘をつかないであげて」

 「却下。奴は、堕落したナンバーズの中でも、稀に見るクズだが、計画遂行には、欠かせない……クズはクズなりに、有効活用させてもらうさ」

 「……………………ノーヴェをそんな風に呼ばないで」

 「少しは、自分の心配でも、していろ。もっとも、もうすぐ殺されるから、それも不要か」

 「…………もっと別の会い方してたら、こんな事しなくても良かったのかもね……」

 「ありとあらゆる、可能性を考慮し、そして言わせてもらおう……俺と貴様は、どんな状況下、境遇、紆余曲折を経たとしても、敵同士さ」

 本格的に刃が食い込む……涙に濡れたスバルに苦悶の表情が浮かび上がり、少しだけ抵抗の意思を見せた。だが、そんな小さな抵抗も虚しく、一旦喉元を離れたナイフは高々と掲げられ、その切っ先が頭に狙いを定めた。

 「アデュー……さようなら、貴様のこと、結局嫌いなままだった」

 死刑宣告、処刑斧よりもずっと小さな刃が一気に振り下ろされ、スバルは迫り来る絶命の瞬間に思わず目を閉じ──、



 プルルルルルル♪ プルルルルルル♪



 「……………………」

 「……………………」

 新たに部屋に響いた音、電話の呼び出し音に寸前まで来ていた切っ先が停止した。備え付けの固定電話から鳴り響いているそれは家の主が受話器を上げるのをしつこく促しており、トレーゼとスバルの視線は卓上のそれに釘付けになった。

 ここでトレーゼに新たな思考が生まれる──。

 電話の相手は恐らくスバルの知人だろう、プライベートでの友人か職場の仕事仲間か、どちらにしても彼女を良く知る人間でなければ電話番号を知っているはずはなかった。その場合、当然相手は彼女が四肢を失っていた事も知っているはず……退院した事を知っているかは不明だが、わざわざナカジマの実家ではなく彼女の自宅に掛けて来る辺り、その人間は今現在彼女がここに居る事を知っているか、もしくはそう予測したかの二種類に分けられる。だが後者の場合であると、よっぽどの馬鹿でない限り病み上がりのスバルがいきなり独り住まいに復帰するとは考えないだろう……となれば、電話を掛けて来る者は自然と『ここに居る事を知っている人間』となる訳だが、そうなるとその人間はここに入る瞬間を目に収めた事にもなってしまう。確かにここに入る時に外にはある程度人影はあったが特に視線は感じなかった……よほどの手錬か尾行のプロが追跡していたとすれば、それは恐らく昼間の下手な奴らの仲間と言う可能性が高い。昼間の奴らはただの囮とすれば、今ここで電話を掛けて来ている相手は自分がここに入り込んだのを確認してからスバルに安否を確認する電話をして来ているはずだ。ここで電話に出ないなら相手に自分がスバルを殺害した事が知れるだろう……。

 「…………出ろ」

 自分が後一歩の所で始末出来るはずだったスバルを突き離し、電話に出るように促した。自分でも苛立つ程に殺すのに手間取っていたのがここで功を奏したのは複雑な気分だが、それでこの場をやり過ごせると言うのならば僥倖だった。少し戸惑い気味のスバルを背後からナイフを突き当てて促し、受話器を取らせた。

 「もしもし……?」

 緊張した声色で相手を確認する……本人は努めて冷静にしているつもりらしいが、このままでは相手に勘付かれる恐れがある事を懸念したトレーゼはナイフを突き当てたまま念話を送った。

 ≪悟られぬようにしろ……。良いな?≫

 返事は無かった。だがこの限り無く無力に等しい状況下で余計な事を考える余裕が無いはずだと判断していた彼は無言の返答だけで充分だった。元々肝が据わっている性格をしている事もあってか、スバルは何事も無かったように普通に相手と会話を再開した。

 「あー、うん、途中で雨が降ったから今こっちの方に居るよ。…………え?」

 ふと、スバルがこちらに視線を流した。それはほんの一瞬だけの話だったが、その視線はどこか不安げな色を帯びており、助け舟を求めているようにも見て取れた。

 「……ううん、居ないよ? 雨が降ったから……途中で帰っちゃった。…………そ、そんな事無いよ! 一人だよ。……うん……うん、分かってる、もう少ししたらちゃんと家に帰るから、心配しないで」

 最後に「じゃあね」と一言だけ残し、スバルは自ら受話器を降ろした。何度目かの静寂が部屋を包み込み、また部屋に二人だけが取り残された感覚が甦って来た。相変わらずトレーゼはナイフを突き出したままスバルの命を虎視眈々と狙っており、対するスバルは無力なままだった。

 「……気を取り直して、殺そうか」

 見そびれていたテレビ番組を見直そうかとでも言うような軽い口調での死刑宣告の直後、トレーゼの姿が消えた。

 「ッ!!?」

 「遅い」

 腰を低く落として加速体勢に移行していた彼は文字通り目にも止まらぬ音速の踏み込みでスバルの鼻先にまで移動し、刃を振り被った。命懸けの反射神経で寸前の所で回避したものの、白銀の刃の軌道上にあった壁紙が一瞬遅れて思い出したように切断痕が刻まれるのを見て、スバルは後ずさった。格が違い過ぎる……パワーも、スピードも、防御力も、判断力も、何もかもがそこら辺に居る管理局員とは一線も二線も違う事をたった一瞬で見破ったスバルは当然自分では到底敵う事など有り得ないと判断し、ひとまず自分の寝室へと逃げ込んだ。

 「う……!」

 手術を終えたばかりの脚に違和感を感じたが、今はそんな事はどうだって良い……。居間よりも狭いこの空間ならナイフを大振りする事も出来ないと考えたスバルの判断は正しかったようだった、案の定トレーゼは彼女を追う事を止め──、

 「フンッ!」

 代わりにナイフを投擲して来た。

 一気に三本も投げつけられて来たそれを回避するが、その回避行動を取った際に発生してしまった隙を突かれて新たに五本も飛来して来た。両手が揃っていれば叩き落とす事も可能だっただろうが、利き手を失っている今の状態では難しいと判断した彼女はまたもギリギリの部分で回避する事に成功した。始めの三本と同じようにそれらも壁に突き刺さり、彼女に壁紙の修理と言う悩みを植え付けるはずだった。



 はずだった!



 「あれ……? これって……」

 スバルは自分の頬や手足に纏わりつく小さな感触に気付いた。右頬、左首筋、左右の脇、右脚の付け根にある“それ”は窓から差し込む曇天の光を受けて少しだけ反射して輝いて見え、自分の背後から真っ直ぐに伸びて眼前の自分の命を狙っている者の右手に収まっている光景は、まるで……

 蜘蛛の糸。

 その意味に気付いた瞬間には既に遅かった……。

 スバルの背後に刺さっている八本のナイフの内の五本、最後に投げたその五本の柄に結び付けられた五本の鋼糸鉄線を引っ張り、トレーゼが壁から離れたそのナイフを巧みに操って軌道を修正し、振り子運動の原理を利用してスバルの体に巻き付かせた。象一頭が引っ張っても切れない硬度を誇るその鉄の糸に全身の自由を奪われた彼女は成す術も無く、そのままバランスを崩して床に仰向けに倒れ込んでしまった。

 その瞬間をトレーゼは逃さなかった。既に床に落ちているナイフを拾い上げると加速による跳躍で飛び上がり、天井を蹴り飛ばした反動でスバルの腹部に全体重を掛けた馬乗りをかました。痛みに悶絶している隙をついて鉄線を結びつけた方のナイフを鉄杭のように床に突き刺し……対象を固定、完全に捕食者の立場へと移行した彼はゆっくりとナイフを掲げた。

 「……………………俺は、貴様が嫌いだ。いつも、俺の予想とは、違う行動をするから」

 「…………何となく分かってた……」

 「貴様の顔が嫌いだ、目が嫌いだ、耳が嫌いだ、鼻が嫌いだ、口元が嫌いだ、声が嫌いだ…………髪が、首筋が、肩が、二の腕が、肘が、指先が、乳房が、腹部が、腰回りが、太腿が、膝が、足首が、爪先が、足裏が…………本当に、嫌悪に値する」

 「そこまで言うかな……」

 「俺は、予想に反する結果が、嫌いだ。今も、死を目前にしながら、お前は泣き叫ぶどころか、そうやって冷静に、していられるのが、俺の予想に反している……嫌いだ、何もかも」

 「……なんか、理由なんかどうでも良いからとにかく私を殺したいだけに聞こえるよ……」

 「案外、そうかも知れないな……。情報漏洩だとか、必要性だとか、もうそんな事はどうだって良い…………何故だろう……とにかく、貴様を…………貴様を──ッ!!」

 ピシ──ッ!

 ナイフの柄にヒビが入るのをスバルは見逃さなかった……。トレーゼの右手は筋肉の圧力によって血管が青筋となって浮かび上がっており、彼の腕力が極限にまで高められている事を暗に示していた。腕だけではない、首元は腱が突き破らんばかりに隆起し、眼球に至っては内部の精密機器が何らかのエラー表示を出しているのが外からでも見て取れるほどだった。

 明らかに何かおかしい! スバルがそう気付くのに時間は掛らなかった。

 『Warning! Warning! Unusual situation occurs. Abnormal activation of the console ensure Konshidereshon. Has the danger of runaway.(異常事態発生。コンシデレーション・コンソールの異常発動を確認。暴走の危険性有り!)』

 ストレージデバイスの電子音声が危険信号を告げる。当然危険を察知したスバルは逃げ出そうともがくが、五体を鉄線で固定された上に馬乗りにされた状態である所為でまともに動く事が出来ず、彼女はただ呆然とトレーゼが変貌する様子を眺めている事しか出来なかった。

 「殺したい……壊したい…………あぁ、ツブシタイ……。何でかな? 何でだろう? おかしい、どうして、そんな思考が? あぁ、でも……もう、どうだって良い……。刺し殺したい、撃ち殺したい、絞め殺したい、斬り殺したい、叩き殺したい、蹴り殺したい、殴り殺したい、貫き殺したい…………殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい…………………………………………うん、殺す」

 ナイフを放り投げ、トレーゼの十指がスバルの首に食い込んだ。数ある殺人方法の中から彼が選んだのは『絞殺』……皮膚をへこませ、筋肉を押し潰し、気道を塞ごうとするその行為をまともに受けた彼女はカエルが潰れた様な汚い悲鳴を上げる事となった。

 「トレ……ゼ…………。やめ…………やめて……!」

 痛覚と息苦しさのダブルアタックにスバルは自分の眼球が反転するのを感じていた。舌が飛び出し、だらしなく唾液が垂れ下がるのを薄れ行く意識の中で感じながら、彼女は目を見開き、自分を殺している相手の顔を見ようとした。



 これが間違いだった。



 彼女が見たモノ……それは──、

 金色に輝く薄暗い二つの洞穴、その奥底でたった刹那の瞬間だけ垣間見えた底知れない…………紅い狂気。

 「あ……ああっ、アアアアアアアアアアアアッ!!!」

 見てはいけなかった! その瞳を見た瞬間、スバルは自分の理解の範疇を大きく逸脱した存在に対して叫んだ。恐怖の叫び、精神が悲鳴を上げて肉体までもがそれに従順になってしまう現象。彼女も未だ経験浅いとは言え魔導師の端くれ、任務の最中の事故や戦闘で命を落とすかも知れないと言う事は覚悟していたつもりだった。覚悟していたからこそさっきまでトレーゼが発していた殺気にも動じる事は無かった。かつてのティーダ・ランスターのように、志半ばで死んだとて悔いは残さないつもりでも居た。

 だがそれはあくまで“人間”に殺された場合のみの話し……。

 眼前の存在が果たして人間であるかどうか……多大なる恐怖で精神を侵された彼女の脳では既に判別は出来なくなっていた。ただ一つ分かるのは、これから訪れるであろう“死”が自分にとってはとても不本意なモノになってしまうと言う事だけだった。人でも無い、生物でも無い、ただの純粋な“モノ”と化してしまったそれに手を掛けられるのだ……戦士としては恥ずべき事であり、人間としても人ですらなくなってしまったモノに殺されたとあっては納得のいく話ではないのも頷けた。

 彼女はそれが怖かったのだ、人でも無いモノに殺される事が。

 だが、時既に遅し。

 「────────────────────────」

 圧力が倍化する……金属骨格を埋め込んだ脊髄はビルの屋上からの垂直落下でない限りは絶対に破壊される事は無いが、相手も同じ戦闘機人、十指の内部フレームから生み出される殺人的圧力は彼女の肺気道を完全に塞いでしまうのに五分も掛らなかった。

 「あ……げぇ、ごフ…………っ!」

 意識が遠退いて行く……既に聴覚も麻痺し始め、周囲の音が消えて行くのに反比例して自分の心音が喧しく思える程大きく聞こえていた。そして、酸素の供給を断たれた事で遂に脳までもが機能を失い始めて来た。ここまで来ると永くは無い……。

 「────トレーゼ……!」

 最期の瞬間に力を振り絞り、スバルは左腕を上げて眼前の彼に差し伸べた。あともう少しで届きそうな指先は無慈悲にも彼女の命令に反して力を無くし、触れる事無く落ちて行った。

 そして、その時──、



 『Invoke emergency measures. Complete closure constraint limiting total surgical. Stop command input during a work force.(緊急措置発動。全拘束制限術式完全閉鎖。強制一時活動停止コマンド入力)』



 圧力が消えた。パソコンの画面が急にブラックアウトするようにトレーゼの両手の増強筋肉が力を失くし、それに伴って内部フレームの稼働も停止して行った。ゼンマイが切れた玩具と言うには少々荒削りなその体躯は大きく背中側に反れた時の反動で反対側、つまりスバルに覆いかぶさるような形で倒れ込んで来た。ピクリとも動かないその体は辛うじて呼吸だけはしていたが、どう言う訳か生物特有の絶対的鼓動……即ち心音が途絶えていた。

 「げほっ、ごほ! ト、トレーゼ!? しっかりして! トレーゼっ!!」

 全身に巻き付いた鉄線は振り解けない事は無いが時間が掛かると判断したスバルは身をもがきながら目の前の少年に声をかけ続けた。心臓が停止した生物は五分と生きる事は無い……三年にも渡る救助活動の中で彼女が嫌と言う程良く学んだ教訓だ、心臓が停止する事によって酸素の供給が断たれて細胞の代謝現象が不調を来たし、排出すべき老廃物の蓄積で徐々に細胞が分解と死滅を開始するのだ。放っておけば本当に死んでしまう……その危機感が彼女を突き動かしていた。

 そんな彼女の行為に目を留めたのか、トレーゼの右指に嵌められていたマキナからの電子音声が届いてきた。

 『33 seconds to start running again after the heart and Power Authority.(心臓及び動力機関の再稼働開始まで残り33秒)』

 「トレーゼ! 生きてるんだったらしっかりしてよ!」

 『have been a danger of runaway state, and only went to the heart and the body suspended in accordance with section 273 of the Code.(暴走状態に陥る危険性が有ったので、コード273に従い心臓と機関部の強制停止を行っただけです)』

 マキナの言った通り、少しした後にトレーゼの体が何かの衝撃を受けたように大きく跳ね上がった後、心音が聞こえて来るようになった。どうやら内部に設置されていた電極からの電流で心臓に刺激を与えたようだが、トレーゼ自身の目が開く事は無かった。

 「ん……! ああっ!」

 やっとの思いで鉄線を振り切った彼女はトレーゼを抱き起こし、その胸に耳を当てた。大丈夫だ、心臓もその奥にある機関も正常に動いている、生きている。

 「はぁ~、良かったぁ」

 自分を殺そうとしていた相手とは言え、やはり目の前で死んでしまうのは本当に気分の良いモノではない……。救助隊の癖とも言える自分の性格だが、今この現状と経緯を親友のティアナが知れば大目玉を喰らうのは目に見えている。自分を殺すつもりだった相手が生き延びたのを見て安堵しているなんて……確かに人間としてはどこかズレているのだろう、昔から実の姉にも「変わっている」とか言われていた程なのだから。

 だが、どうにも彼女には未だにトレーゼが現在管理局から最も忌避される単独勢力……通称、最後のナンバーズ『“13番目”』だとは信じられなかった。たった一人で管理局を襲撃したと言う事実から一部の局員からは『ジェイルの再来』とも呼称されており、真実を知る聖王教会の騎士からも『悪魔』と呼ばれるまでに至る最強の存在……そして、かつて自分の四肢を切り落とした張本人でもある人物が、今彼女の腕の中で静かに眠っていた。

 ここでスバルが取るべき行動は限られている──。

 そう、彼を無力化して管理局に突き出す事だ。手っ取り早くは親友のティアナに連絡するのが一番だろう、その後はどうやって彼と接触したのだとか色々聞かれるだろうが事件解決の流れに合わせてそう言った事は無くなって行くだろう。後は法の裁きによって正当な処分を下されてお終いだ、それから先は会う事も話す事も無いだろう……。

 と、常人ならこう判断するのが普通だ。

 だが──、

 先程も言ったように、彼女──スバル・ナカジマはどこかズレていた。性格が、主義が、思考が、常識が……普通の人間とは違ってどこか歪んでいた。

 だから普通の人間では思いもしない事でも実行するし、常人が忌避するはずの事物にでも平気で手を出しては痛い目を見て、それでもまた諦めずに根気良く行動を続ける……そんな他の人間では諦めてしまいそうな事をやってのけてしまう人間だった。

 故に彼女が取った行動は……

 「うん……しょっと!」

 昏睡状態のトレーゼを自分のベッドにまで運び、介抱すると言うものだった。ショックを与えないように救助隊仕込みの運搬術で丁寧に運んでベッドに横たえ、その上に布団を被せて安静にさせて見守り始めた。心臓の鼓動は確認した、呼吸にも乱れは無いし顔色も良好だ、このまま何事も無ければしばらくして目を覚ますはずだ。

 「はぁ……今日はなんだか色々あって……すっごく疲れちゃったなぁ……」

 いつも自分が就寝に使っていたはずのベッドで眠る少年を見やる……紫苑の短髪は見る者によっては毒々しくも見えるが、今のスバルにとっては個性の一つにしか見えていなかった。雪のように白い肌は本当に綺麗で、先程彼女が無意識の興奮を覚えた時のままの白さを保っていた。何一つ自分と変わらないのに自分とはどこか違う、ただ一つ分かるのは……ほんの一週間前に初めて出会った彼、ほんの五日前に自分の病室を訪ねて来てくれた彼、つい昨日本部でまた自分を抱き上げて起こしてくれた彼、ほんの一時間前まで一緒にデートしていた彼、ついさっき自分を殺そうとしていた彼……そのどれもが彼の『本当』であり、結局自分は騙されていたと言う事だけだった。

 「でもね、トレーゼ……私ってやっぱりバカだからさ、何度言われても信じられないよ……。だって普段何にも言ってくれないんだもん、今更言われたって……信じられないって。ねぇ、それがトレーゼの『本当』なんじゃないよね? 私は……本当のトレーゼを信じたいから……」

 左手で頬に触れる……白い肌は予想通りに肌触りが良く、しばらく撫でるようにそうしていた後にたった一言──、

 「なーんだ……温かいじゃん」










 午後13時46分、軟禁アパートにて──。



 寒い。

 ヴィヴィオは冬の寒波に再び心身極まっていた。虐待の際に取り上げられた服はそのままクアットロによって面白半分に処理され、彼女の素肌を守っているのはトレーゼから与えられた掛け布団一枚だけだった。流石のクアットロも兄である彼が直接与えた物だと分かった時はこれに手をつけるのを止め、そのまま退散して行ったのが何よりの救いだった。右腕の激痛と失血に加えて寒さが来ればとっくに死んでいたはずだった。

 だがそれにしたって寒い。トレーゼが言うにはこの借り部屋の周囲に微弱な結界を張って熱が逃げるのを抑えているはずなのだが、だとするならますますこの寒さが理解出来なくなって来る。

 冷蔵庫を開けっ放しにでもしてしまったのかと思い、彼女はゆっくりと居間へと向かい始めた。その小脇にしっかりと赤い本を抱えて……。

 冷蔵庫は寝室のドアを開ければその真正面に見える形に配置されている為、ドアを開けただけで開閉の有無を見る事が出来た。だがどこからどう見ても冷蔵庫は開きっ放しになっている様子は無い……と言うか、この冷気はもっと別の所から流れて来ている事に気付いた。右手の痛みを堪えながらその僅かな気流の根源を辿り始めた彼女は、存外早くにそれを発見する事が出来た。

 それは出入り口のドア。蝶番を固く溶接されているはずの一体どこからそんなモノが……?

 目を凝らす、その上方に…………そして、見えた。

 溶接されている上の蝶番がどう言う訳かヒビ割れして粉砕されていた。確か始めにここへ来た時にはこんなモノは無かったはずだ、かと言ってバイクが正面衝突しない限りは突破出来ないこのドアを自分の力だけで破ったとは到底思えない。ヴィヴィオは考えた……そして、分かった。

 それは昼間の話だ、例によって自分を虐げる為にここへ足を運んだクアットロは自分の着ていた服を無理矢理脱がし始め、逃げ惑う自分を捉えてこのドアに叩き付け始めたのだった。もちろんそれで壊れたのではない、問題はその直後だった……散々自分の事を足蹴にしていたクアットロはその途中でたった一発だけ狙いを外してドアに蹴りを当てていたのだ。非戦闘型とは言え戦闘機人、その蹴りを喰らえば確かに溶接したとは言えドア一枚訳無く破れるだろう。

 自分の肉体を限界へと追いやる寒さの原因を突き止めようとしてこんな穴を見つけることになろうとは……その千載一隅の好機を得た彼女の行動は早かった。赤い本を一旦テーブルの上に置き、結界の内側にAMFを展開された空間であるにも関わらず自分の左手に集め得る限りの魔力を集中させ始めた。必死に集められた魔力はいつもの半分にも満たない小さなものだったが、これから素手でドアに拳を打ちつける事を考えればまだマシだった。

 満身創痍の体に鞭打って魔力で強化した拳を振り上げる。利き手ではないこちらでどれだけの効果があるかは分からないが、やれるはずだ。あのスバルだって左腕だけで頑張ったのだから!

 そう決意した幼き少女は大きく深呼吸して息を整えた後──、

 拳を打ち始めた。










 夢を見た──。遥か昔の夢……遠い記憶の彼方に置き去りにして来たはずの記憶の残滓が見せる淡いヴィジョン……それらが見せる夢は、忌むべき“あの日”の出来事だった。



 『良いか、トレーゼ。もうとっくに聞いては居るだろうけど、お前は明日から私達とは別のラボで活動することになった。以後はDr.ギルガスの命令に従って行動しろ、良いな?』

 培養シリンダーの並んだ空間に佇む一人の少女……紛う事無く自分の姉、トーレだ。その表情は外見年齢に反して無骨で険しく、自分の知るいつも通りの彼女の表情のはずだった。だが彼には分かる……今日の彼女はいつもと違っていると言う事……そして、その彼女の顔をこれから先長い間見る事は適わない事を。

 『そんな顔をするな、みっともない。今生の別れじゃあるまいし……あの老いぼれが自分の研究欲を満たせばすぐに済む話だよ。それが五年掛るか十年掛るかは分からないが、お前は私の“弟”だから、ちゃんと全う出来ると信じている』

 頭に手が乗せられた……もう片方の手が自分の頬を撫でてくれているのが分かる。その手に触れてみると、自分の姉の手がほんの少しだけ震えている事に気付いた。恐らくは自分の想像以上にこの姉も……だがそれを口にする事をはばかるようにトーレが自分の体を引き寄せて抱き締めてくれた。

 『良いか? お前はまだ弱い、私が吃驚するほどに弱い。何でか分かるか? お前には何も無いからだ、お前は自分の前にも後ろにも何も無い……そんな奴は強くも何にも無い。今は私がお前の前に立って居られても、ひょっとしたらこれが最後かも知れない…………こいつの成長を二人で見守る事が出来ないのも心残りだ』

 視線が隣に並んでいる培養槽に向く……。刻まれた数字は『Ⅶ』、トーレの教育を受けた後に自分が育成するはずだった唯一の個体が今もそこで眠っていた。恐らくは自分が唯一本当の意味で『妹』と呼べるはずだった存在……それももうここからしばらくは顔を見る事も無いのだ。

 『だけど、これだけは忘れるな。お前は私の“弟”だ……守る者も倒す者も居なくて良い、この先お前が何かを得て何かを捨て続けるような事があるだろうが、これだけは……この誇りだけは絶対に捨てるなよ』

 誇り……この強き姉の『弟』であると言う誇り……ナンバーズの長兄であると言う誇り……忘れる事が出来ようか。と言うか、今この場面でそんな事を言わないで欲しかった……だらしなく緩んだ涙腺から流れて来るモノをどうして止めれば良いのか分からなくなってしまう。

 『ほら泣くな……。今度会う時はお前は兄なんだぞ、涙はここに置いて行け』

 いつまでもここに居たかった……別離が訪れるなんて夢にも思っていなかった……それが例え一時の別れであったとしても辛い。

 『誇れ。胸を張れ。お前は私の“弟”……このNo.3トーレのたった一人の“弟”だ。私の自慢の“弟”……お前は私の誇りだよ』



 誇り──。それがいつの間にか自分の存在し続ける為の理由になっていた。










 午後13時51分、地上本部ゲストルームにて──。



 「して……立案なされた作戦の手筈は整っているかね、八神二佐?」

 「東部支部には既にハラオウン提督から話しはついています。ですが、『第二抑止力』に関しては……」

 「お取り込み中……と言ったところかな。そんなものだろうな、こればかりは相手方の都合もある事だし、交渉決裂が前提のようなモノだから仕方ないか。ときに、君の元部下のランスター執務官はどうしているかね? 知っているぞぉ、二佐殿が何やら個人的に頼み事をした事をな。我々側に関係のある事じゃないのかね?」

 「そこは別にお話しするべきではないかと……。ですが、本当によろしいんですか?」

 「何がだね?」

 「“13番目”の処遇についてです。仮にこの作戦が成功したとして、本当に対象の処遇は……その……」

 「無論、科学者である私に二言は無い。彼奴の処分についてはいつかに述べたとおりだ」

 「では……本当によろしいんですね?」

 「ああ、良いともさ。例え“13番目”がトレーゼであろうがなかろうが、管理局が言う勝利を決める為には敵方の投降以外にはこの方法しか無いのだよ…………



 ────殺処分……。



 これが一番妥当だろう。抵抗する意思を見せ次第即刻抹殺……最も確実で、最も合理的な手段だ」










 止んでいたはずの雨がまた降り始めた。



[17818] 機兵の存在意義
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:73ca1900
Date: 2010/10/11 01:54
 午後14時09分、スバルの自宅にて──。



 「……………………今、何時だ?」

 心臓の強制停止からおよそ30分、トレーゼは自分の肉体がベッドに横たわっているのを実感しながらゆっくりと覚醒した。過去にマキナの判断によるこの措置を受けたのは今回を含めて二回……前回はどんな状況で発動したのかは忘れてしまった。

 そんな余計な情報は頭の隅に追いやり、トレーゼは自分の現状確認を急いだ。自分が今居る場所はゼロ・セカンド……スバル・ナカジマの自宅だ。何故居るのか? 彼女の言う『デート』とやらに付き合っている最中に雨が降り、そのまま済し崩し的に彼女の自宅に呼ばれてついて行ったのだ。

 問題はその後だ……。

 彼女には自分が“13番目”である事を知らせてしまった……現行の管理局敵対勢力の中で最もその頭数が少なく、最も危険な勢力である自分の正体を知れば局員である彼女が管理局に伝えるのは必定…………恐らく気を失った自分をここに固定してから局に向かったのだろう。既に思念捜査の能力を持つヴェロッサが復帰している事を考えれば、記憶から抽出した映像などで自分の顔が割れてしまう恐れがある。流石にここで鴨討ちにあってはたまったモノではない! この場合幸運だったのは自分が予想以上に早く起きる事が出来た事だ、あと30分も寝ていればとっくに身柄を本部に移されていただろう。

 そうとなれば長居する理由は無い。ベッドから飛び出した彼は自分の身形を確認し、瞬時に寝室のドアを文字通り蹴り破って粉砕しながら脱出し──、



 「あ、おはよー」



 名状し難い現実に突き当たった。

 おかしい……取り合えず現状の整理をしてみる事にした。

 自分がここに居るのはスバルに勧められたからである。これはOKだ。

 ここで自分は彼女に自分の正体を悟られた。正確には最後の一手は自分から告白したのだが、それはどうだって良い。ちなみにここで彼女を始末しようとしたのも事実である。これももちろんOKだ。

 心臓と機関部を強制停止させられた自分をここに寝かしつけたのはスバルである。ここには彼女しか居ないのだからそれも間違いではないだろう。

 では……どうして…………

 そのスバル本人がここに居るのだ!?

 敵方である自分がツッコミを入れるのはどうなのかと思うがここは言わせて欲しい──。

 「その選択は……間違いだぞ、セカンド……」

 テーブルの椅子に座ったまま鶏の唐揚げを食べている彼女の姿を見てトレーゼは呆れて脱力した。どう見ても彼女が自分が倒れてからこの家の外を出た形跡は全く無く、この30分の間彼女はずっとここでこうして食事をしていたらしい。

 いや……既に電話で知らせた可能性がある。

 「誰にも言ってないよ」

 「…………なに?」

 「だから、電話もしてないってこと」

 「……………………何を考えている、セカンド」

 管理局に知らせずここに自分を釘づけにしていると言う事は、考えられる事は幾つかある……。

 まず一つは念話で伝達したと言う事だ。確かに魔力を伝播させて情報を伝える念話ならばここから一歩も動かずに相手に直接伝える事が出来る。だが念話の有効圏内はそれ程広くは無い……有視界ならばある程度の距離があっても通じるが、障害物を挟んだ状況では良く行っても数百メートル程度しか効果が無い。

 もう一つは、『援軍などを呼ばずとも自分で片を付けられるだけの実力と自信がある』と言う事。だがこちらが本当だとしても自分をずっと放置していたと言う事実とは真っ向から矛盾している……。

 「…………もう、俺には貴様の考えている事が、分からない」

 理解出来ない……生物としてこれ程までに理不尽で恐怖に値する現象が他にあろうか? 一度は再起不能にまで追いやった相手によってこれほど高度な心理戦を強要されるなどと流石の彼ですら予測してはいなかった。対するスバルの方は左手に持ったフォークで唐揚げをついばみながらこちらを凝視しているだけで何も言わなかったが、ふと唐揚げの皿を出して……

 「食べる? 私のお手製唐揚げ」

 「いらん。と言うか、貴様を殺さねば、ナンバーズとして、示しがつかん」

 「ナイフとかは隠しといたよ。私は簡単に殺されるつもりはないし、タダでトレーゼを帰す訳にもいかないから」

 「どう言う、意味だ?」

 スバルが席を立つのを見てトレーゼが身構える……。ナイフと鉄線が無くとも純粋な腕力だけで、人間はおろか同族の戦闘機人ですら容易に破壊出来る彼にとって武器の有無は大した問題ではなかった。問題なのは……今現在自分の眼前に立ち塞がった彼女の行為だ。

 理解出来ない。両足は修復したばかり、利き腕である右手を欠き、デバイスを持たないどころか得意のウィングロードですら使用出来ない状態…………明らかに圧倒的不利! 戦闘の素人が見ても分かる不利な状況であるにも関わらず、彼女の双眸は誰の目から見ても分かるぐらいはっきりとした『不退』の意思が見えていた。師と仰ぐ高町なのはですら直面した事の無い危機的状況にスバルは直面しているはずなのだ。

 「……………………何が、目的だ。言っておくが、計画の中止は、受け入れられんぞ」

 「そんなのじゃないよ。冷静に考えたんだけど、トレーゼがこの先何をしてても私には関係無いだろうし計画って言うのとは違う余計な事をしたりしないだろうから、やりたい事が終わったらそれだけでお終いだって言うのも分かる……。私の信じてる人達はどんなに酷い事されたって大丈夫な人達だから、トレーゼが手を出しても無駄だと思う。けどね……一つだけ止めて欲しい事があるの」

 「何だ?」

 「ノーヴェだけは傷付けないで。もう……ノーヴェには関わらないであげて!」










 「ぶぇっくしょ!」

 「うわ! きたなっ!?」

 「風邪か? やはりお前もシャワーを浴びておいた方が良いのではないか?」

 「大丈夫だよ、どっかの誰かが変な噂してるだけだから……」

 「前々から思ってたんだけど、変な噂したらクシャミってのは一体どう言うメカニズムなのかしら?」

 「風が吹けば桶屋がどうこうって言うのと同じだろうな」

 「つまり、深い意味は無いってことね。それよりも、賭けの事は覚えてるかしらチンク?」

 「うっ……!」










 ノーヴェ・ナカジマは思考する……。ついさっきの昼間の光景について静かに、それでいて激しく思考する。帰ってきた時からそれは続いていた……雨に打たれて冷え切った頭はいつも以上に回転が早いが、それでも彼女なりに納得の行く結論が出て来なかった。

 昼間のあの光景……自分の初めての友人と、義理の姉妹が連れ添って歩くあの光景が頭を離れずにいた。あまりにもアンバランスな組み合わせに始めは戸惑い、次に驚愕し、そして混乱した。

 だってあのトレーゼだ! 自分以外のありとあらゆる事に関心の無さそうなあの彼がスバルの申し出を受け入れたと言う事実が信じられなかった。ただ彼女の跡をついて周るだけならともかく、喫茶店でのあのやり取りは度肝を抜かれたとしか言いようが無かった。喫茶店を出た後もデート中ずっと彼はスバルにつき従うようにして移動を続け、結局雨が降ってからはどうなったのか分からないが、あの様子だと恐らくはスバルのテンションに振り回されていたはずだ。

 確かにあの終始無愛想が服着て歩いているような彼がよりにもよって万年アホ花を咲かせているスバルとデートをしている事には驚かされた。だが、ノーヴェにとってもっと重要だったのはそこではなくもう一つの事実にあった……。

 嬉しそうだった。トレーゼがではない、スバルの方がだ。彼女と知り合ってまだ三年しか経っていないが、スバルが元来明るい性格をしている事は前々から知っていた……一度目を覚ませば眠りにつくまでの大半の時間を笑って過ごして居ると言っても過言ではないくらい底抜けにネアカな彼女は、いつも自分の属する集団を自分を中心にしてその明るさを笑いに変換して伝播させていた。持ち前の図太い神経……もとい、メンタル面のタフさもあってか、よっぽどの事でも無い限りは落ち込む様子を見せる事も稀なぐらいだった。

 だが今日は明らかに違った。確かにスバルはいつも笑っている、友人であるティアナや職場の同僚、ひいては自分達家族と居る時だって楽しそうなのは変わり無い。だが今日の彼女は楽しそうだったのではなく、『嬉しそうだった』のだ。一見似ているようでその意味も実態も大きく違う二つの感情……仮にも姉妹、ましてや同じ遺伝子を基盤として生み出された同位体であるが故なのか、あちらの考えている事や感じている事が手に取るように分かってしまうものなのだ。喫茶店に入った時も、街を歩いている時も、スバルはずっと……嬉しそうだった。

 それならそれで良いじゃないか。

 自分の身内と友人の仲が良いなんて願ったり叶ったりだ、喜ばしい事じゃないか。一体どこをどうやって悩む必要があると言うのだろうか。



 そんな簡単なものじゃないのだ。



 理解出来なかった。自分でも良く分かりもしないのに頭と腹の奥で何か熱いモノが這いずり回るような嫌な感覚を感じていた。この感覚が何を意味しているのかノーヴェは知っていた……そう、『苛立ち』だ。自分の身に起こっている現象の“何か”に対して強烈な拒絶感を抱きつつも、自分一人の力ではどうする事も出来ず、例え出来たとしても自分の中の別の部分でそれを行う事を否定している……二律背反から来るもどかしい苛立ちだった。

 分からない!

 面倒臭い事は嫌いだ……ノーヴェは思考する事を止め、ベッドの枕に顔を埋めた。すぐ横でチンク達が何か言っているがどうだって良い……今はただ、静かに時間が過ぎて行く事を願うだけだった。

 いつの間にか訪れたまどろみがこの感情を消し去ってくれると信じて……。










 「無理だな」

 トレーゼの両手首に紅いエネルギーブレードが出現する。彼が最も得意とするIS、『ライドインパルス』の発動によって発生する余剰エネルギーを武装として使用する戦闘スタイルは最早彼の十八番……瞬きどころか、眼球をほんの数ミリずらした瞬間には胴体を寸断するだけの力量を持ち合わせている彼の殺意の視線を真っ向から受け、スバルは身動ぎしてしまった。勝てない……! そんな弱気な思考が彼女の脳髄を支配した。真正面から挑もうが罠や策を弄しようが関係無い、そんな小さなモノは障害とも思わずに悉く潰してしまえるだけの実力もあると言う事をスバルは熟知していたからだ。油断していたとは言え、一度は一瞬で自分の両足と右腕を切り取った相手……こうして面と向かっている状態でも勝機は万に一つとして無いだろう。

 だが退かない! ここで退いては何も変わらない。

 それにこの行動は勝ち負けではないのだ、何としてでも彼に心変わりを起こさせる事が目的なのであり、その為には自分の言葉に耳を傾けてもらう必要があった。

 「どうしても……無理だって言うの」

 「くどい。奴は、計画完遂の為の、重要なファクター……ここで、手放す訳には、いかん」

 「そんな事の為だけに……!」

 「言ったろう? 貴様にとっては、『そんな事』でも、こちらにとっては、違う」

 「その『計画』って言うのが終わったら……ノーヴェはどうなるの?」

 「さぁな。あんなクズ、こちら側に引き入れる事も無い……処分する」

 トレーゼの右足が進み出る。続いて左足、再び右足と言う風に、彼は一気に間合いを詰めようとはせずに徐々に相対距離を縮めて来た。こうやって対象に徐々に死が近付いていると言う事を認識させ、その心理状況を圧迫させて精神の余裕を無くそうとしているのだ。やがて二人の距離は片方が腕を精一杯伸ばせば届くだけの距離にまで縮まり、トレーゼは更にスバルへの不可視の圧力を強めた。

 「どうしてそんなにノーヴェに拘るの?」

 「ほう、自分の姉妹でなければ、誰がどうなっても、構わないか……。存外、冷血だな、貴様も」

 「そ、そんな事言ってない!」

 「安心しろ、No.9とクアットロ以外にも、こちら側に、ついている者は居る」

 「!? だ、誰!!?」

 「言うと思うか? ただでさえ、貴様には喋り過ぎているんだ……。これ以上、口の端が、滑る前に、始末しておかないとな」

 右肩に重量が掛かるのを感じた……トレーゼの腕が置かれたのだ。紅いブレードが首筋の数センチ手前で揺れ動くのを感じ取りながらもスバルは彼の視線を捉えるのを止めなかった。

 「…………それってどういう意味?」

 「言葉のままだ。既に、奴はこちらの動きに、同調している。意外と、貴様のすぐ近くで、行動を開始しているかも、知れないぞ?」

 肩に置いた右手を軸にしてトレーゼがゆっくりとスバルの背後に回った。そしてそのまま背中に密着して左手の方も肩に回し、丁度二枚の刃がスバルの首を挟み込むような状態となった。ほんの少しでも動けば掻き切る事の出来る体勢……スバルの逃げ場はこれで無くなった。

 「無駄話も、これで終了だ。痛覚を伴わない事は、約束しよう。No.9に関しては、諦めるんだな」

 刃が左右から首を挟もうと接近する。

 「……ねぇ……トレーゼにとってノーヴェは何だったの?」

 「死に際になってまで、あれの心配事か」

 「答えてよ。ノーヴェはトレーゼの事を友達だってあんなに喜んでたんだよ?」

 「ハッ! 笑わせるな。良いか──」

 背後からトレーゼが耳元で囁くように言って来た。場合によってはとても官能的なその行為にスバルは一瞬だけ動悸が激しくなるのを覚えたが、それはすぐに別の意味に置き換わる事を知ってしまった。

 「奴はな、堕落した連中の中では、一番どうしようもなく、弱い奴だ。脆弱、貧弱、軟弱、ひ弱……『弱い』と言う意味の単語を、幾つ並べてもまだ、足りない……。弱いだけではない、自分の中の、わだかまりですら、自分で決着をつけられないような、最低のクズだ。もうあれは、どうしようもないな……。あいつに、出来る事と言えば、この俺を、笑わせる事ぐらいだな……“嘲笑”と言う、最も卑下たる、笑いをな」

 すぐ耳元でトレーゼの囁くような笑い声が聞こえた……彼に会って初めて耳にする笑い声だった。

 「貴様も笑えよ……おかしいだろう? あんな最悪で、最低な奴が、紛いなりにも、俺の妹だぞ。嗚呼、本当に最悪だ、反吐が出る……。協調性も、自主性も、一貫性も無く、ただ自分の激情だけで、動いているだけの、本当に意味での『人形』……まさか、あんな奴を、妹に持とうとは、ハハ、ハハハハハハッ、呆れを通り越して、笑いがこみ上げる」

 途切れ途切れの哄笑が居間の空間に外の雨音と一緒に入り混じって響いた……。自分のすぐ背後から聞こえるその声は、男性にしては良く澄んだ声で、快活で、壁や天井を反響して自分の鼓膜に届いたそれを認識した時──、

 「────ッ!!!」

 スバルは自分の意識が数瞬飛んだのを感じていた。脳を駆け巡った感情の奔流が意識を拡張し、体感時間が引き伸ばされる……腕を振り払った時に首と肩が少し切れたが今更だ、そんな事はもう関係無かった。突然の行動に虚を突かれた形となったトレーゼはその僅かな隙につけ込まれ──、



 パンッ……!



 笑い声が消え、代わりに聞こえたのは乾いた破裂音……スバルの左手の平手打ちが炸裂した音だった。反動で傾いたトレーゼの右頬が赤く腫れている。

 「……………………」

 感情の光を宿さない彼の金色の瞳がスバルを捉える。左手を振り上げた体勢のままで固まった彼女の視線に込められた感情は“怒り”……昂った感情の所為で息は上がり、その視線は目の前に居る自分を射殺さんばかりの迫力であった。

 「はぁ……! はぁ……!」

 「……やってくれたな、セカンド」

 再び濃厚な殺意の波動がスバルを真正面から襲う。だが頭に血が昇っている所為で感覚が少し麻痺していたスバルにとって、既に肌で感じ慣れてしまったその意識の波に臆する事は無くなっていた。

 「逆に答えろ、セカンド。貴様にとって、あのクズの妹は、一体何なんだ?」

 「家族だよ!」

 「陳腐な台詞だな、『家族』とは……。血縁こそが、この世で絶対の、繋がりだと、信じて疑わないか……バカな奴」

 「それがどうしたって言うのさ! 血が繋がっていてもそうじゃなくても──」

 「いや、貴様はそんな甘言に、自分で自分を、酔わせているだけだ。血が繋がっていても、子を捨てる親も居れば、親を殺す子も、兄弟姉妹を蔑ろにする者も、他人と何ら変わり無い、そんな連中も居る」

 「そんな事……!」

 「現に、プレシア・テスタロッサを、見てみろ。自分で娘のコピーを、造っておきながら、奴はその哀れな人形を、ゴミ屑同然の扱いで、使い捨てようとした……。現実から目を背け、記憶を受け継いだクローンを生み出し、それでも満足出来ずに、忘れられた都などと、在りもしない理想郷に逃避しようとして、あの末路だ……。あいつも、その娘も、多くを望み過ぎたんだよ……ある一点で、妥協しなければ、如何に家族だとか、身内だとかでも、何も変わりは無い、互いに傷付け合うだけさ」

 「詭弁だよそれは!」

 「事実だ、高望みすれば、失敗する……。あのNo.9も、いずれ失敗するぞ」

 「友達をそのまま好きでいる事がそんなに駄目な事なの……?」

 「戦闘機人に、そんなどうでも良いモノは、必要無い。必要なのは……倒すべき敵と、命令を下す主だけだ。それ以外に、何が必要だ? 馬鹿馬鹿しい」

 三日月の形に歪んだ口元から小さな笑い声が聞こえる。スバルはこれが嫌いだった、笑い声がではない……彼の笑い方がどうしても嫌いだったのだ。さっきは自分の背後だったので分からなかったのだが、今なら分かる……彼の笑いは、おかしかった。

 小さい頃、母親であるクイントがギンガと自分の分にと言ってままごと用の人形を買って来てくれた事があった。人形と遊ぶよりかは姉妹揃ってアウトドア派だったので、結局その人形は仕舞い込まれてしまったのだが、その人形と言うのが背中にある小さなボタンを押すと音声が出る仕掛けになっているモノだった……。今思えば、幼き日の彼女がその人形で遊ぶ事を殆どしなかったのはあの仕掛けが原因だったのではないかと思っている。ボタンを押した瞬間に聞こえる可愛らしい声……でも、プラスチックで出来た人工の顔面は口の端も眉も動かさずにただ笑い声だけを上げるのが幼かった彼女にとって小さな恐怖でもあった。

 そして、今まさに目の前のトレーゼがそれだった。人形と違うのは口元が歪んでいる事だけ……そう、『歪んで』いた。ただ表情が『笑って』いるだけに過ぎなかった。目が、感情が、心が……笑っていない、何も感じてすらいない…………それはとても怖い事だ。だが一番怖いのは、その心が宿っていない行為を目の前の彼が平気で行えると言う点にあった。

 だがその無垢な恐怖に屈してはならないと言う不屈の心がスバルの精神を後一歩の所で押し止めた。

 「…………ノーヴェってね……友達が居なかったんだよ」

 「だろうな」

 「仲の良い人は沢山居たよ……友達って言うのも、始めは私がそうだった。でもね、四人を養子って引き取ってから……“家族”になって、私達は“姉妹”になっちゃった。ノーヴェは優しいから、近くなり過ぎた私達に遠慮して何も打ち明けてくれなくなっちゃった…………前にもティアの事どう思ってるって聞いたら、何て答えたと思う?」

 「知らん」

 「“仲間”……背中を預けても良い仲間だって言ってくれたよ。でもね、やっぱりあの子が“友達”だって胸を張って言ってくれる人なんてどこにも居なかった……。あの子の必要な時に支えてくれて、理解してくれて、丁度良い距離に居てくれる人は居なかった」

 「……………………」

 「だからね、友達が出来たって聞いた時は本当に嬉しくて…………それなのに……!」

 「だから、どうした? お涙頂戴にも、程と言うのが────ッ!」

 トレーゼの言葉が不意に停止した……彼の金色の眼球がスバルとはてんで違う方向にある部屋の隅に向けられており、スバル自身もそれが気になり意識を彼の方に向けながらその視線の先を見やった。始めは天井の隅だけを見ていたので何も無いかと思っていたが、トレーゼの目の動きから“それ”が動いていると気付いてからの発見は早かった。薄明るい部屋にたった一つの紅い光点……浮遊しながらこちらに近付いて来るそれに彼女は見覚えがあった。かつて三年前に故あってスカリエッティ側に与していた召喚士の少女が使役していたインゼクトと言う蟲だ。

 それはゆっくりと漂うようにして移動していたが、不意に──、

 「なっ! ちょ、うわっ!?」

 いきなり自分の顔面にまで飛来して来たそれを左手で払い除ける。だが存外しつこいそれは手で叩かれても彼女に纏わり続け、その瞬間に彼女は……



 向けていたはずの意識を……逸らしてしまった。



 次に彼女の神経が脳に伝えたのは、自分の顔面が壁に激突した事を知らせる激痛だった。何故そうなったのかは分からない……戦闘機人の知覚速度を以てしても捉え切れない速度で自分の右頬を殴打されたと言う事実を把握するのには少し時間が掛かってしまった。

 「同じ、左だ……悪く思うな」

 「ぐ……! がフっ!」

 平手打ちの応酬にしては釣りが多過ぎるそれを受け、スバルは自分の意識の立て直しを最優先にして身を起こした。顎の先端を揺らす要領で横殴りにされた所為で発生した軽い脳震盪が彼女の四肢の自由を制限していた……なんとか視界だけははっきりしていたので、トレーゼが差し出した右手の指に蟲を留まらせるのだけは見えた。

 「セッテからか……。何か、情報を掴んだか」

 紅い魔力光を点滅させて蟲が主に自分の担った情報を伝達する……傍から見ているスバルにはその暗号化された明滅パターンが何を意味しているのか最初は分からなかったが、徐々に緊張に満ちて行くトレーゼの表情を窺い、それが彼にとってとんでもない重要性を秘めたモノだと理解した。

 「まさか……このタイミングで、管理局が……。罠だろうな、明らかに。だが、是非もなし」

 軽く手を払って蟲を飛ばし、その蟲はどこか小さな隙間を見つけたのか部屋から姿を消した。その時になってスバルは彼の変化が表情の微妙な緊張だけではない事に気付いた……名状し難いが、殺意とは決定的に違う何かの固い確実な意思が芽生えているのが見て取れた。

 「……と、そう言う事だ。No.9は、諦めろ。あいつは、俺が有効活用、してやる……本来の、使い方でな」

 「ま、待ってよ……! それだけは……!!」

 「触れるな、機械人形」

 「あぐ……ッ!!」

 不用意に接近した所為でもう一度顔面を鋼鉄の拳で殴打される……今度は鼻血が出た、と言うかかなり痛い、今度は側面ではなく顔面を真っ直ぐに叩き込まれたのでダメージが半端無く大きかった。両方の鼻の穴から酸素の豊富な動脈血を垂らしながらも彼女は寸でのところで耐え、再びトレーゼの許に駆け寄ろうとした。

 その時──、

 『お兄様! 緊急事態です! お兄様っ!!』

 トレーゼのすぐ目の前に開かれた映像回線からキンキン響く女性の声が飛び出した。この声には聞き覚えがある……クアットロだった。いつもの舐めるような口調はどこへやら、何やらとても緊迫した声色に部外者であるはずのスバルにも思わず緊張が走った。

 「この多忙な時に、何の用だ?」

 『そんな呑気にしていられる場合じゃありませんのよ!! 緊急事態ですってばぁ! 例の小娘……じゃなかった、“聖王の器”に事です!』

 「っ!!? ヴィヴィオがどうしたの!?」

 『せ、セカンド! どう言う事ですのお兄様!? 何故セカンドと行動を……』

 「詳しい事情は話さん。それよりも、何の問題が、発生した? 報告しろ」

 『あ、後で話してくださるんじゃないんですのね……。じ、じじじ、実は……非常に言い難いんですけど…………』










 亜麻色の髪と背中のシルバーケープが部屋に入り込む真冬の風にはためく……季節外れの大雨によって湿気を豊富に含んだその風邪を受けながら、クアットロは眼前の光景にただ呆然と立ち尽くすだけだった。映像回線越しの兄の目線がこの上なく痛い、無言の圧力が彼女がこれから言おうとしている事実を黙殺しようとしていた。

 「非常に……申し上げ難いんですけど…………」

 床に落ちている血液の跡に目を逸らしながらしどろもどろに現状報告を続行した。何故彼と共に居るのかは知らないがスバルの視線もどことなく痛かった。

 「えーっと、ぶっちゃけ、結論から言うとですわね……」

 再び視線を眼前に戻した。蝶番を溶接され固定されていたはずのドアはほんの僅かながら外側に向かって歪んでおり、外に向かって小さな隙間を広げていた。そう、丁度子供一人が通れるような、そんな小さな穴……。

 「脱走されちゃいました……高町ヴィヴィオに」

 軟禁アパートの部屋のどこにもヴィヴィオの姿は無かった。

 忽然と姿を消していた。

 クアットロも与り知らぬ一冊の本と共に──。










 午後14時17分、ナカジマ家の寝室にて──。



 「じゃあ結論として、向こう一週間私の昼食代を奢ってくれるって事で決定ね」

 「うぅ~、さらば私の小遣い……また会う日まで」

 与えられた仕事を忘れている訳ではないが、結局ティアナはそれからもナカジマ四姉妹と共に談笑に華を咲かせていた。雨は最初の時よりも激しくなっており帰るに帰れないと言うのもあったのだが、何だかんだ言ってしばらくこうして居たかったと言うのも大きかった。ここ最近ずっと根を詰め過ぎていてストレスを感じていたのだろう、心のどこかで息抜きを求めていたのかも知れなかった。

 「……って、ノーヴェいつの間にか寝てるッスよ」

 「やれやれ、仕方ないな。布団も被らずに寝ると風邪をこじらせると言うのに……」

 疲れていたのか、帰って来てからやけに静かだったノーヴェはいつの間にか熟睡しており、気を利かせたチンクが起こさないようにそっと毛布を掛けた。まぁもっとも、今更風邪を引く程にヤワな作りをしてはいないのだが……。

 ふと、カーテン越しの窓から外の風景を確認する。雨はまだ降りしきっており、道行く人々はその全てが傘を差していた。

 「それにしたって本当にどうかしてるわよね、この雨……。ちょっと前までだったらこんな天気無かったはずなのに」

 「これは、あれか? 今流行りの『温暖化』とか言うヤツなのか?」

 「いやいや、流行っちゃいかんでしょ。ま、私にとってはミッドの環境問題なんかよりも、明日起こるかも知れない刑事事件の方がよっぽど重要よ」

 「それは言えてるッスね。何だかんだ言って、私達だって明日の朝ご飯より今日の夕飯の方が気になるッスから」

 「それって私達が食いしん坊みたいじゃない」

 「実際多く食べるのは変わり無いッス。ま、スバルには負けるッスけどね」

 「って言うかあの馬鹿はいつになったら帰ってくんのよ? 病み上がりで一人暮らし復帰はまだ先のはずよ?」

 「そうだな……。雨が激しいからからかも知れないが、あまり遅いとこちらも迎えに行かなくてはならないしな。もう一度電話を掛けて確認して見るか……」

 チンクが再び受話器を取り、番号を押し始めた。

 「また何か賭けでもする?」

 「いいや、もう結構だ。どうやら私の運気は賭け事には向いていないらしい」

 そう冗談半分に笑いながらチンクは受話器の向こう側に居るはずのスバルが出るのを待った。だが……

 「……? おかしいな、全然出て来ないぞ」

 「大方寝てるんじゃないの? 一回こっちの携帯から掛けて──」

 そう言ってティアナが自前の携帯電話を取り出して同じようにボタンを押そうと指を伸ばした、その時──、



 ~~~~♪



 着信のメロディーが流れ出て来た。仕事用とプライベート用の携帯を二つ持っていない彼女は有事の際にどちらから掛って来たか分かるようにと、相手の電話番号ごとに着信メロディーを変えると言う工夫をしており、今掛って来ているのは仕事用の方だった。画面を見て相手を確認すると、以前に数回程度ながら共同で捜査を進めた経験がある執務官仲間からだった。

 「こちらティアナ・ランスターです」

 完全に仕事口調に切り替わった彼女を見てチンク達が一斉に押し黙る……ピリピリした神経質な雰囲気にそれぞれの緊張感がマックスに高まる中、用件を聞き終えたティアナが携帯の通話を切って立ち上がった。明らかに仕事モードの彼女にウェンディとディエチは気圧されて話し掛けられなかったが、唯一チンクだけが一言……

 「何かあったのか?」

 「…………チャンスが来たわ」

 「チャンス?」

 「ええそうよ」

 ジャケットを羽織りながら玄関に向かうティアナは傘を引っ掴んでドアを開けながら言った。

 「ヴィヴィオの魔力反応が検知されたわ!」










 雨の街を走るモノが居る……。傘も差さずに雨天の下を走破する“それ”はすっかり人気の無くなった道路を足音すら置き去りにして走る……。時折、自販機や停車中の車両と言った障害物を飛び越え、電柱を蹴って加速を付けながら道を走っていた。

 ふと──、

 「!」

 止まる。そして跪くようにして地面に手を伸ばす……。アスファルトで固められた地面を触っても水しかつかないが、その人物は付着した水分以外のモノを確かに感じ取っていた。

 「やはり、ヴィヴィオ・タカマチの、魔力残滓……」

 水がほんの僅かだが七色に輝くのを見逃さなかった。魔力素子の分解具合からここを対象が通過したのは約三分前……軟禁アパートからの距離を考えれば相当の速度で移動している事になる。彼女の放つ魔力パターンは三年前の騒動で管理局側には広く認知されているはず……だとすれば、既にこの付近に武装局員が展開していても何ら不思議ではない。場合によってはここら一帯を巻き込んでの戦闘も辞さなくなるだろう。

 「急がねば……。だが、その前に……」

 立ち上がり、トレーゼは自分の背後を鋭く振り向いた。彼の視界に飛び込んだのは今まで自分が追い越して来た街の風景と障害物、そして……。

 「何故、貴様がついて来る。セカンド」

 彼がクアットロの報告を受けてから捜索を始めて飛び出した時からずっと彼の背後からつけ回していた存在……明らかに着の身着のままと言った感じで防寒着を上に羽織ったスバルがそこに居た。手術したばかりの両足が痛むのか表情は険しく、息も絶え絶えだった。

 「させないよ……そんな事」

 「出来るか、貴様に。俺の、阻止が」

 瞳に宿っている決意は固いが、体力も気力も底を尽き掛けている事をトレーゼは見抜いていた。恐らくは文字通り全力を尽くして行動しているに違いない……だとすれば今の彼女を止めるにはその精神の奥底にある恐怖と言う名のストッパーを思い出させる必要があった。何か良い策は無いかと彼が思考を張り巡らせていた時──、

 「ッ!?」

 常時周囲に張っている彼の魔力感覚網がその有効圏内に強力なリンカーコアを持った人間が複数進入するのを感知した。目の前に居るスバルはこちらに注意を向けているので気付いていないようだが、その中には彼女の友人であるティアナの物も感じられていた。十中八九、ヴィヴィオの捜索に乗り出したに違いないと判断した彼は、それと同時にある考えが脳裏を過った。

 「…………おいセカンド、一つ……俺と、『ゲーム』をしないか?」

 「どういうこと?」

 「概要は、簡単だ。この場の、半径数百メートル圏内に、捜索に乗り出した局員が、やって来ている」

 「それがどうしたの?」

 「そいつらを、順に殺して行く」

 「な……!?」

 「ルールは、こうだ……。俺は局員を、殺して行き、全て殺し終えてから、“聖王の器”を、回収する……。お前は、俺を殺すか、俺よりも先に、“聖王の器”を、回収する事で、俺の行動を阻止出来る……。たったこれだけだ、簡単だろう?」

 「そんな事……出来る訳が……!」

 「やって見せろよ、セカンド……。局員の中には、貴様の友人とやらも居るぞ」

 「友人って……まさか、ティア!?」

 今のティアナは持ちデバイスを欠いている状態だ。流石に仕事で行動しているのなら代わりのデバイスぐらいは持っているだろうが、慣れたクロスミラージュではない武装で一体どれだけの立ち回りが出来るだろうか。その分を差し引いても彼女はスバル同様トレーゼに一度は敗北を喫した身だ、いくら気を引き締めていようが関係無く殺されるかも知れない。

 だが余計な思考に気を取られている隙を突かれ、スバルは目の前のトレーゼがISを発動させる瞬間を見逃してしまった。次の瞬間に彼の体は音速で空に舞い上がっていた。

 「早くしろ、セカンド。ランスターは、最後にしておいてやる」

 その言葉を最後に聞いた瞬間にスバルは両足の痛覚を無視して走り出していた。










 建物の屋根から屋根へと飛び移りながらトレーゼは眼下の人気の無い道路を注視した。天候だけでなく、元々ゴロツキが多いこの辺りは管理局の人間がやって来たと察知するやいなや条件反射的に息を潜めてしまうような所だ、ただでさえ人気が無い所が更に一層静かなものとなって彼の目に飛び込んで来る。

 だから見える──。今この一帯には自分とスバル、そして本部から派遣されて来たであろう局員しか居ないから。眼下の道を行く人間が自分の獲物……“殺害対象”なのだ。傘を差している上に私服で上手くカモフラージュしてはいるが、その利き腕は常にポケットに仕舞い込まれたデバイスを取り出せるように臨戦体勢を取っていた。相当な修羅場を潜り抜けて来た雰囲気が離れた場所に居るこちらにも伝わって来ている。

 だがそんな事は関係無い。

 足元に転がっていた拳大のコンクリート片を掴み上げると軽く握って強度を確認し……

 投擲!

 紅い花が咲くように局員の頭部が弾け飛び、水を湛えたアスファルトに胴体が叩き付けられた。十数秒間だけ四肢が死後の虫のようにピクピクと動き、やがて静かになる。脳髄を貫通したコンクリート片も地面に激突して粉々に砕け散り、凶器隠滅まで成功していた。

 「……まずは、一人目」

 死亡したのを遠目で確認した直後に彼は再び移動を始めた。

 今頃はこうした凶行に走っている彼を止めようとしてスバルも走っているだろうが、もしそうだったとしたらそれこそまさに彼の思うがままだった。彼が自分の行動を『ゲーム』と称したのには理由がある……別に彼自身が快楽殺人を行うような性格をしている訳では無く、ただ殺して行くだけならスバルの意志は揺らがなかっただろう、むしろこちらを阻止しようとする考えをより一層強めたに違いなかった。だからこそ、あえてこの殺人行為を『ゲーム』と呼称する事でこちらを殺人嗜好者の節があると思い込ませ、彼女の危機感と焦燥感を煽ったのだ。この仕掛けは彼にとっても賭けだったが、やって来た局員の中に彼女の友人が紛れていたのが幸いだった、お陰で彼女の緊張感がよりリアリティに満ちたモノとなったからだ。流石に数年以上も連れ添った者が危機に瀕しているともなれば彼女とて焦りを見せるはずだ。

 二人目を発見した。いや、正確には通行人の振りをして二人組で行動していた。実力は先程の奴と遜色無い。どうやら早くも自分達の仲間の一人が殺された事を勘付いており、纏っている雰囲気がかなりピリピリとしていた。安易に取り乱さない所は流石プロと言った所だが、果たしてさっきと同じ方法で同時に始末する事も出来るかどうか……。

 ふと、トレーゼの目に留まるモノがあった……。

 電柱だ。否、正確には電柱と電柱を繋ぎとめるモノ……電線に注目していた。実は電線と言うのはかなりの強度を誇っていると言う事実は余り知られてはいない……カラスが何十羽止まろうが暴風雨の直撃を受けようが切れない所を見ればその強度にも頷けるし、場合によってはそれこそ人間が一人ぶら下がっても簡単には切断されないだろう。そんな電力供給用の黒縄を見やった彼は目測で大まかな強度を計測した後──、

 飛び付き、そしてぶら下がった。

 機人の体重は常人の二倍以上であり、そんなモノをいきなり支える羽目になった電線は大きくしなった。そして最もしなった瞬間を見計らい、彼が魔力刃を飛ばして切断、ターザンロープの要領で地面に居る二人の背に強襲した。対象二人もこちらの存在に気付いてデバイスを起動させているがもう遅い……。トレーゼが着地した瞬間に雨水で濡れたアスファルトに高圧電流が流れ込み、局員二人が死のダンスを踊り始めた。エリオから電気の魔力変換資質を収奪していたトレーゼは電線から飛び出る電流を魔力に換えながらその二人を縛り上げ、電線に吊るし上げた。しばらくすると肉の焦げる悪臭が漂い始め、その二人は完全に高圧電流によって焼け死んだ。

 「これで、三人」

 予測ではあと同数だけやって来ているはずだ。早急に始末してヴィヴィオの捜索に向かわなければならない。

 その為に彼は再び走り出した。










 スバルは駆けた。鈍痛に悲鳴を上げつつある両足を鞭打ちながら彼女はトレーゼの奇行を阻止するべく走り続けていた。あちらが音速で移動しているのに対してこちらは鈍足も良い所、ウィングロードすら出せない窮地でありながら彼女は決して諦めようとはしなかった。自分の友人とその同僚の命が掛かっているのだから当然だ。

 雨が強くなる……霧雨も混じって視界を保つのが徐々に難しくなるが、走る分には全く問題ないので彼女はそのまま続行した。周囲に全く人の気配が無い事を不気味に思いながら、結界に囲まれた街角を彼女はひたすらに走った。

 ふと、目の前に──、

 人が歩いているのを見つけた。傘を差した私服姿の男性……通行人なのかも知れないが、今のこの場所はただの通行人が闊歩するには危険が過ぎる地域と化している。その事を伝えて早い内に退避してもらわなければ!

 そう考えたスバルは少し距離を置いてはいるものの大声で警告すべく肺に息を溜め込み──、



 その男性の頭に紅い花が咲くのを見た。



 「え────?」

 人間の頭頂部が一瞬で消滅し、頸部から剥き出しになった脊髄と食道の間から動脈血がポンプのように吹き出して胴体が地面に打ち付けられた。初めてだった、人が誰かに殺される瞬間を見たのは……。救援を欲する災害現場で何度も惨い死体を目にしたり、応急処置の最中で事切れたりする者を何人も見て来たが、明確な悪意と敵意、そして殺意を以てして殺された者を見たのは初めてだった。病死とも事故死とも違う決定的な悪意に塗れた冒涜的な死……人間として生きるに当たって絶対にあってはならない仕打ちを見てしまった彼女は、目の前の死体から出る血液の臭気とその根源となった悪意を感じ取ってしまい……

 「う……うぅ、げぇ!」

 横隔膜の反転運動による嘔吐……胃の内容物が黒いアスファルトを汚物の白に染めた。胃の律動が不快感が持続している事を嫌でも知らせてくれていた。

 「…………止めないと……」

 自分がこうして止まっている間にもあの無愛想な鋼鉄の戦闘機人は更に『ゲーム』と称して殺人を繰り返しているのだ。ここが戦場になるのも時間の問題……恐らく彼を止められるのはルール上とは言え権利を与えられた自分だけだ。

 急がねば。

 そう考え、彼女は再び走り出した。

 両足に軋みが走った。










 寒い……。

 冷たい……。

 凍えてしまいそう……。

 足の感覚はとっくに消えてしまい、抜け出した後は石を踏んでしまって痛い思いをしていたはずなのに、いつの間にか地面に足の裏が着いているのかどうかすら怪しく感じられるようになってしまった。

 「はぁ……はぁ……」

 もはや全身が氷のように冷たく固くなっている。それもそうだ、今の彼女の身を包むのは部屋を抜け出る際に引っ張り出して来た毛布一枚しかないのだ……始めこそ問題無いと思っていたのだが、冬の雨を見くびっていた所為で完全に寒さの虜になってしまっていた。加えてこの右腕の痛みだ、全身の感覚が麻痺していると言うのにここだけは歩いて体が揺れる度に激痛が走るのだ。

 だがまだ希望はある。いつだったか母が言うには自分の持つ魔力はかなり特徴的で、管理局はその魔力波のパターンを記録していると言うのを覚えていた。今こうしている間にも管理局がこちらのリンカーコアを感知して捜索してくれているはずだ……。

 歩こう。遠くには地上本部のタワーが見える……そこは街の中心部だ。頭の隅っこに僅かながらに残っている理性がこの姿で行く事に抵抗を覚えているが、命には代えられないのでここは何としてもこの一画を脱出するより道は無かった。

 ────ドサッ。

 「あ……!」

 脇に挟むように持ち歩いていたモノが落ちるのに気付き、ヴィヴィオは慌ててそれを拾い上げた。あの部屋から持ち出した赤い本だった。分厚いこれが彼女の歩みを更に遅くさせているのは明白だったが、恐らく彼女はこれを自分から手放す事はしないだろう……。

 「早く……行かないと…………!」

 もう膝と肘は完全に言う事を聞かずに曲がろうともしない……それでも彼女は歩みを止めようとはしなかった。ここで止まるのは諦める事、即ち不屈の精神を持つ母の教えを裏切る事でもあるのだ。それだけはどんな事があってもしてはいけなかった。

 そう決意を改めながら彼女がアスファルトを踏み締めていた時──、



 背後から肩を掴まれた。










 「はぁっ! はぁっ……!」

 その男性は管理局の執務官だった。まだ執務官試験を合格して一年と少しの見習いではあったが、仕事も人間関係もそつなくこなし、上司や周囲の人受けも良いと言うどこにでも居るような人間だった。社会人らしく控えめであり、上司からは将来成功するだろうと褒められ、彼を良く知る身内からは出世欲が無いなどと言われ、矛盾したようなそうでないようなと言う曖昧ながらも充実した日々を送っていたはずだった。

 彼は窮地に立たされていた。はっきり言ってしまえば『命の危機』と言う奴に瀕していた。もう少し正確に言えば、『まだ』何も起きてはいなかった。だがそれはつまり今から、これから先近い内に何か起こると言う事でもあった。

 乱れた息を整えつつ懐から銃器……いや、銃器形態のデバイスを取り出す。管理局内で一般に支給されているデバイスは杖型が多いが、彼ら執務官は長物である杖型よりも小回りと携帯に利便性の高い銃器型を好んで使用する傾向にあった。カートリッジが入っているのを感触で確認し、路地裏の入口に背中を貼り付けるようにして身を隠した。幸いにも今日のこの場所は人通りが全く無い……ここを根城にしているゴロツキ達が自分達の存在に勘付いていると言うのが大きな理由だが、今回はそれが大いに役に立っていた。相手はこちらにリンカーコアどころか魔力残滓ですら臭わせないプロのようだが、流石にこの自分たち以外に何の気配も無い場所で動きを見せれば即座に知れる。この賭けは自分達に分が良いはずだった。

 そう、はずだったのだ。

 人の気配が無いから相手の動向が分かり易いなどと高を括っていたのが愚かしかった。相手の方が紙一重、いや、こちらの何倍も上手を行っていたのだ。

 飛んで来る殺気! 殺気!! 殺気!!! 戦闘経験を積んでいるからこそ分かる襲撃者の気配が全周囲から矢のように彼の肌を突き刺していた。

 甘かった! 相手は気配を消すのではなく、逆に空間を自分の気配で滲ませる事で完全にこちらの感覚網を断ち切ったのだ。どこから攻めて来るか分からない……そして『未知』と言う思考に置ける無の領域が余計な想像を駆り立てる所為で、彼の精神は徐々に追い詰められて行った。しかもここで運が悪いのは、相手が完全に自分を抹殺している気で居ると言う事にあった。一応執務官の端くれでもある彼には相手の放って来る威圧感がどんな種類のモノなのか容易に判別出来た……残念な事に、これは脅しでもなければハッタリでも無く……

 本気だった。間違い無く自分は殺されるだろう。早ければ今ここで、遅かったとしても100メートル走を走り終えるタイムの後にはもう襲撃を受けた後かも知れない……。とにかく、相手が出て来たらその直後に勝敗……否、生死が決定しているはずだ。ともなれば先手必勝、先に相手を捕捉した方が勝ちとなるは必定。

 いざ、開戦!

 ポケットに仕舞い込んだ予備のカートリッジをいつでも取り出せるように片手でデバイスを持ち、壁の角から僅かに顔半分だけを出した状態で警戒を続ける。この勝負は先に相手を確認した方に軍配が上がる……油断は出来な──、



 ────トサッ。



 何かが落ちて来た。黒くて長い……電線だった。一瞬高圧電流の事が頭を過ったが、どうやら電流は止まっているらしく一安心してしまった。

 地面に落ちた『部分』が端を結んだ輪の形をしている事を見落として……。

 変化なんてモノは一瞬だった。輪から電線の余った部分が自分の頭上に伸びていると知って視線を上に向けると同時に、その輪が締まって足を捕られる状態になってしまった。当然とでも言いたげに変化はそれだけでは止まらない……足を捕った輪はそのまま頭上に伸びる電線に引っ張られて上に上がり、当たり前だが頭が下になった。アスファルトに叩き付けられた瞬間にデバイスを取り落としてしまったのが彼の運の尽きだとしか言えなかった……。

 一瞬で建物の上に釣り上げられて行くのを逆さに感じながら、彼は悲鳴も上げれずに為されるがままだった。そして、自分の体が建物の屋上に飛び出す瞬間──、

 自分とすれ違うようにして下に飛び降りる影を見た。

 釣り上げられた自分……対して電線のもう一つの端を持って飛び降りる“それ”の姿は、まるで悪魔のようだった。

 二つのベクトルが相殺し合い、彼の体は宙で再び頭を上、足を下にした。世界がスローモーションとなって彼を迎え、そして──、

 急降下! だが明らかに重力加速度的に合致していない速度だった。それもそのはず、下に飛び降りた“それ”が片手に握った電線を振り下げ、こちらを地面に叩きつけようとしているのだから。

 だが、既にそれを認識した時には加速は極限に達しており、成す術も無く彼の体は黒い地面に叩きつけられ……

 紅い花を咲かせた。










 電線はさっきの二人連れの局員を殺すのに使った物と同一の物だった。あの後電線の片方も切り落とし、死体を適当に転がしておいてからそのままこちらへと向かって来たのだ。ちなみにここへ来る道中にもう一人居たが、そちらも片を付けておいた。殺害方法は、振り回した電線の回転遠心力による撲殺だった。人体が刃物以外であれだけ鋭利に切れるとは、流石にトレーゼも電線に対する有用性を改めていた。

 これでもうこの街をうろついているのは自分とスバル、現在脱走中のヴィヴィオと彼女を捜索しているティアナの四人だけとなった。感知出来ているティアナの魔力反応が未だに街の一角をうろついている辺り、どうやらまだ発見には至っていないようだ。スバルの方は優先順位を自分からヴィヴィオの方に移したらしく、ティアナ同様に暗中模索と言った感じだった。

 つまりこの『ゲーム』の勝利条件は、先にヴィヴィオを発見した者が勝利者となる状況となっていた。さっさとスバル共々始末して回収に向かわねば……。

 と、ここで彼は街全体に存在するリンカーコア反応を一斉に検知し、確認を始めた。ヴィヴィオの特異性の高い魔力パターンは一度覚えれば簡単には忘れられない……すぐに発見に至った。

 だが──、

 「どう言う事だ……。移動速度が、上昇しているだと?」

 速い! ゴロツキ共の巣食う街の道路を彼女のリンカーコアが尋常ならざる速度で移動していた。推定時速はおよそ50キロ……明らかに人の足で実現可能な速度ではない。

 (速度からして、恐らくは車両……それも、バイクではなく、四輪車両か)

 何故彼女がそんな物に乗っているのかと言う疑問よりも先に解決すべき思考が彼の脳を染め上げた。とにかく追跡しながら考えよう。

 疑問その一、車両の運転手は一体誰なのか? まず考えられるのがヴィヴィオを回収しに来た管理局員と言う線だ。さっきまで自分が始末していたのは全て囮であり、その隙に魔力資質の足りない局員を一般人に紛れ込ませて救出に回す……なるほど、だとしたら良く出来た作戦ではある。払った代償はかなり大きいが、それなら彼女を連れ去る理由も明白だ。

 疑問その二、仮にそいつが局員で無いなら何者なのか? この疑問は最初の疑問が発生した際に自動的に生まれ出るモノで、管理局以外の人間が彼女を連れ去ったと言う事も考えられる。だがこの場合にしても奪還する事に変化は無いが。

 疑問その三、ではその目的は何か? 連れ去った者が局員でないならばその理由は何なのか? この疑問は一見素朴に見えて意外と重要だ、その目的の如何によっては彼女の命運は大きく左右されるからだ。

 「……急がねば」

 音速の翼を駆り、彼は一気に飛翔した。彼の目的はあくまでヴィヴィオの回収だ、それを逃せば計画は瓦解する。










 ティアナは目の前の光景に呆然としていた。雨音が激しくなるのを耳で感じながら、彼女は自分の意識が遠退きそうになるのを必死に堪えていた。彼女の強靭な精神をここまで追いやっているモノが何なのか……それはすぐ眼前にあった。

 今自分の目の前に広がるアスファルトの地面には紅い液体がぶちまけられていた……ペンキとも絵具とも違う粘着質で水より遥かに濃い液体が……。流れ出る液体の発生源もつきとめた……本来存在するはずの下半身を無くし、その切断面から大量の血液と内臓が入り混じったモノを噴出させているそれを。顔には見覚えがある、自分を呼び出したあの同僚だった。有給を取っている自分を呼び出して申し訳なさそうにはにかんだ笑みを浮かべていたのがつい数十分前の出来事だ……。始めに電話に出た時は少し腹が立ったが、この案件を最も気に掛けていた自分の存在を真っ先に呼んだと知った時は正直言って嬉しかったし、気が利く奴だとも思った。実力もしっていたし、他人のことではあるが簡単に死んでしまう輩ではないとも思っていたはずだった。

 だが死んでいる。結果として生物的に死んでいるのだ。上体と下体を真っ二つにされ、砕け散った肋骨が皮膚を突き破って飛び出している様は見ていて決して気分の良いモノではない事は確かだ。かつて仕事の関係で死人を写真や直接目で見たりした事はあったが、かつてこれ程までに『殺す』と言う行為のみを追究した結果の殺しがあっただろうか。銃撃戦の流れ弾で死んだ間抜けが居た……私怨を買ってしまって徹底的に蹂躙されて命を落とした者も居た……そのどちらも、殺すつもりは無く、もしくは『殺す』以上の事を追究した結果として死んでしまった者が殆どだった。だからこの死体には無駄が無かった……本当に『殺す』と言う一点のみを追究していたから出来る芸当だと見ただけで分かった。

 だがそんな自分が悲しかった。若くして“死”と言うモノに触れ過ぎた悲しい性だった。

 彼には悪いが死体は動かせない。連絡を入れて鑑識が死体状況を確認し、処理班が回収するまではここにこうして放置しておかないといけないのだ。忍びないが仕方の無い事だ……せめて祈りを捧げてからここを離れよう。

 そう彼女が目を閉じて聖王教式の祈りを済ませようとした時──、



 一台の車が脇の道路を通過して行った。



 目を閉じてしまっていた彼女はその車両のナンバーを確認する事も無く、そのまま車両の進行方向とは逆方向へと足を向けて行った。










 結論から言えば、今日と言う日を彼らは謳歌していた。彼らは商売人だった。商品を安値で買い取ったり引き取ったりし、それを買い取相手や依頼主が許容する限りの範囲内で高額にして売りつける……典型的な商売の基本とも言える行動を糧にして日々の暮らしを賄っていた。彼らの扱う『商品』は客層のニーズに合わせて値段が相当なモノが張ってあるが、その価格が仇となって収入は企業で手にする金よりほんの少し高いと言う程度だった。それでも彼らがこの商売を止められないのは、単にこの仕事について回るリスキーさが気に入っていたからでもあった。

 彼らの『商品』を得る方法は二つ有る。一つは自分達とは別の業者から買い取る事で、もう一つは……



 無料で拾う事だった。



 今日彼らが得た『商品』は上玉だった。プラチナブロンドの長髪にシミの無い顔、これだけでも充分に商品として成り立つが、何と言ってもその顔付きが逸品だと言えた。特筆すべきはその両眼、左右の眼球で虹彩の色が違うオッドアイがこの少女の値段を釣り上げる理由になっていた。たまたま今日業者の元へと商品の物色に向かっていた最中に見掛けた雨の中を裸足で歩く少女を見た時、彼らは直感的にこう思ったのだ、「売れる」と。

 だが当然不備もあった。既に誰かが遊んでしまった後なのか、顔以外の全身が傷に塗れ、右腕は眼を当てる事もしたくなくなるようなまでにボロボロに折られていたのだ。片腕は特に問題無いだろう、いざ売りつけるにしても買い取り先で抵抗力が通常よりも低いと言う点を逆に売りに出来る事もあるからだ。だが肌の傷だけは完全に値下げを考えなければならなかった。もしくは傷が完治するまで待ち、売る際に元を取るか……。どちらにしても、今の段階でこの少女が立派な商品だと言う事に相違は無かった。

 彼らの商売……それは身売りだった。扱っている『商品』の年齢は十代から二十代までの男女であり、その多くが不法滞在でミッドの戸籍上は存在していない事になっている者や、家庭の事情とか言うモノで身寄りが無く施設暮らしだった者を引き取ってそう言った値の張るモノに仕立て上げるのだ。

 こう言うと臓器をバラ売りするのを目的としているように思えるが、この現代社会において個人の内臓の不法売買ほどに危険な商売は無いのだ。人体の両手の指の数だけある内臓はどれも引く手数多ではあるが、裏社会での流通の広さが逆に仇となってすぐにアシがついてしまうのだ。流石にスリルを食い物にしているとは言え最低限の身の安全だけは保ちたいのが本心だった。

 とにかく、彼らの扱う『商品』は生きたまま『出荷』するのが売りだった。生身で鮮度の高い『商品』ほど値が張り、買い手も多くつく。時折、死体じゃないとイケないと言う稀有な客も居るには居るが、そう言った客に対してもニーズ通りに答えるのが商売と言うモノだ。だがそう言った連中は本当に極稀で、大抵は男だろうが女だろうが取り合えず“穴”が開いていればそれで結構と言う者達ばかりだった。そう言った意味でもどっちかと言えば女の方が重宝するのは変わり無いが……。

 運転している方の男は時々自分の右腕を擦りながら頻りにもう一人の仲間が乗っている後部座席をミラーで確認していた。何事にも対価は払わねばならない……今回の件も掘り出し物とは言えタダで手に入れた訳ではなかった。小さな体を車に乗せる際に思い切り噛まれたのだ。歯型からは少し血が出ており、相当の力を振り絞った事が見て取れる。護身兼鎮圧用に使っているスタンガンで黙らせた後、上に羽織っていた毛布ごと麻縄で縛り上げ、悲鳴を上げたり二度と噛めないように口もガムテープで封じ、今は後部座席の更に後ろに位置する荷物用スペースに放り込んである。一応うるさくしようものなら後部席に乗ったもう一人が即座に頭を叩いて黙らせていた……車の中とは言え騒がれれば勘付かれる恐れもあるからだ。

 だがその苦労もこの金の卵が元を取ってくれると思えば何の事は無い……たった一度の売買で膨大な金が入り込むからこそ、この商売は止められないのだ。

 取り合えずは『売り』を決めておかねば……。金髪に異彩症と言うだけでも充分だが、右腕と全身の傷痕はどう説明したものか…………。

 と、そんな風に男が少女の値段を熟考していた時──、



 眼の前に一人の少年が現れた。



 この路地は一本道だ、車はおろか自転車すら通れる横道は無い。それに確かに自分は時折背後の少女に視線を移してはいたが、目の前の状況を見逃すまでに注意散漫だった訳ではなかった。

 にも関わらずその少年は居る。まるで始めからそこに居たかのようにしてこちらに見えるように自分の右手を突き出し、親指を立てている。傘は差していない……ヒッチハイカーなのか? だとしたら別に気にすることはない……そう思って彼らはそのまま通過しようとアクセルを踏み込んだ。

 Zoom Zoom!!

 エンジンが凶暴な音を立てて加速し、周囲の風景と同じように少年を置き去りにしようとした。

 だが次の瞬間、運転席に座っていた男の視界が白に染まった。それが衝撃防止用のエアバッグだと気付くのにそう時間は掛らなかった。車両が大きな物理的衝撃を受けない限りは決して作動しないはずのそれが何故出て来たのかと言う疑問が発生したのと、タイヤが激しく地面と摩擦を繰り返す耳障りな音に気付いたのは同時だった。回転係数が上昇するに連れて摩擦熱が上がり、周囲を白煙が取り巻き始めた。

 その時、男は聞いてしまった。少年の口元が微かに動いて言葉を発するのを……。



 「……置いて行け、クズ共」










 結局はこう言うパターンでしかなかった。この周辺に住みつく輩の中にはこうして子供の体を文字通り食い物にして生計を立てている連中も多く、ある程度肉体が成熟していれば女だろうと男だろうとお構い無しな下種共の集団があるとは聞いては居た。買い取ったり拾って来た者を徹底的に調教して飼い馴らす事で売り物にしてそう言った趣味の連中に高値で売り飛ばす……バカでも充分考えつくやり方だった。

 四輪駆動でも無い車両を真正面から物理的に停止させる事などトレーゼにとっては造作も無い事だった。彼の腕力で止められないのは全速力で走るリニアのみ……乗り込んでいる男共は何が起こったのか把握しかねるような驚愕の顔付きでこちらを凝視していた。その視線は徐々に恐怖に彩られて行き、後部座席に座っていた方の男が発しただらしない悲鳴が上がった瞬間にピークを迎え、脱兎の如く車を捨てて走り去ろうとした。

 しかし──、

 「待てよ……」

 一閃、黒縄が薙いだ。脊髄を背後から襲った衝撃を感覚で捉える事も無く、二人の男の首は見事に胴体と泣き別れを果たす事となってしまった。この日トレーゼが学習した知識は、「電線は見た目以上に武器になる」と言うことだった。用済みになったそれを腰に巻き付けた後、彼は車の後部に回って荷台スペースのドアを抉じ開けた。バイタルを確認する限りでは生きてはいるが、かなり衰弱し切っていた……このままでは生命の危機も考えねばならないと判断し、トレーゼは虫の息となっているヴィヴィオを抱き起こそうと腕の間に手を差し込んだ。

 「──ッ!!」

 危なかった、後もう少し接触していればこのか弱い少女の口から激痛に喘ぐ絶叫が飛び出していただろう。右腕の骨が折れていた、それも尋常な折れ方ではない……二の腕の方はもちろんの事、手の指に至っては何本も開放骨折を起こしていた。事故ではなく明らかな人為的なもの……中世欧州の魔女狩り裁判官でもこれを見たら卒倒するぐらいに酷いモノだった。既に傷口からの失血量も危機的で、あと数時間も放置すれば例え一命を取り留めたとしても右腕の再生は難しくなるかも知れないと言う瀬戸際だった。

 どうする……? 生憎だが自分には治癒魔法に関する知識は殆ど無い。戦闘機人はその全てが大抵の傷であれば即座に再生可能なだけの自然治癒能力を付加されているので元々応急処置を殆ど必要とせず、尚且つ多少内部フレームが破損しても動けるだけの性能も持ち合わせているので個々の治療知識は皆無に等しいのだ。精々塩酸を掛けられた皮膚の表面だけを治す程度でしかない。だがこのまま放置する事は出来ない、彼女はこの計画に置ける要の一つなのだ。

 「…………おい」

 その時、彼は気付いた。

 「見張っているにしては、下手だな。こっちへ、来い」

 自分の背後に居るその人物に。



 「セカンド」










 「あー、もしもしウェンディ? 私よ私。……はぁ? あんた人の事をオレオレ詐欺みたいに言ってんじゃないわよ。…………別に……ちょっと誰かの声聞きたくなっただけよ」

 雨が降るのを傘で防ぎながらティアナはポケット出した携帯電話をナカジマ家に居るウェンディに掛けていた。雨水の打ち付ける音がうるさくて聞こえ難いが、それでも誰の声も聞こえないこの状況に甘んじるよりかはずっとマシだった。受話器越しのウェンディはそんな彼女の心境を察したのかただ大人しく耳を傾けてくれているようだった。

 「ねぇウェンディ……生き残るって辛いわね。はぁ? …………まぁあんたには分かんないかもね。だからこう言う事も言えんのかしら……」

 雨音が少し激しさを増したような気がした。ティアナは目の前のスペースを通る人間の為に少し道路の端に身を寄せた。そのすぐ前を同じ格好をした幾人もの影が通り過ぎる。

 「私って悪運強いのかしら……。今までだってそうだった、スバルの時だって……多分これからも私は何だかんだ危険な目に会っても生き残るわね……。如何なる危機的状況に陥っても必ず生き残る……これが自分の事を凡人だと思ってた私の唯一の才能なのかもね」

 目の前で青いビニールシートが広げられて行く……さっきまで生きていた者の最期の姿を他の者の邪推の視線から守る為のそれを呆然と見つめながら、彼女は言ってしまった。

 「全員死んだわ……知ってる人も知らない人も…………全員殺された。決して間抜けていたわけでも、油断してた訳でも無いはずなのに……何でよ、何でいっつもこうなるのよ!!」

 慟哭にも似た叫びを死体確認を行う鑑識達は聞き流す……もうこの街にヴィヴィオの魔力は感知出来ず、恐らくは再び敵に捕えられたか、最悪の場合──、

 鑑識が確認するべき死体がもう一つ増える事になるかもしれないだろう。

 いけない……強烈な吐き気が胃の辺りを掻き回す感覚に思わず身を屈める。どうやら一度吐いてしまわないと収まらないようだった……ここでは鑑識の迷惑になる、そこの路地裏に行こう……。

 そう思って彼女がよろけながら路地裏に消えたのと──、



 その反対側の道路から一台の車両が通り過ぎて行くのは同時だった。










 青いビニールシートが窓の外の風景に混じって目に映えた。間違い無く死体を取り扱っているに違いない。

 そんな事を考えながらもスバルは左手に魔力を集中させてヴィヴィオの圧壊し掛けたような腕に痛覚を和らげる治癒魔法を掛けていた。救助隊に所属する彼女にとって傷の応急処置は常識の範囲内だったので、それを目に付けたトレーゼによって移動しながらの治療となった。ただ彼女自身これ程までに被害の大きい骨折を見た事が無かった。

 「……これってトレーゼが……?」

 「何の意味がある」

 「じゃあさっき言ってた人達が……?」

 「奴らは、文字通り、人の肉体を、売り物にしている連中だ。そんな奴らが、わざわざ自分達で、値を下げるような事はしない」

 運転席に座ってハンドルを切るトレーゼはミラーでこちらも確認もせずにそう一蹴した。彼は敵だが、基本的に有言実行であるのでその点だけは信用しても良さそうだった。だがそれだと一体誰がこんな事をしたと言うのだろうか? 右腕だけなら何かの事故でと言う事も有り得るが、それでは全身の痣が説明出来なくなる。それに何故部屋を脱出するだけなのに彼女が毛布以外には一糸纏わぬ無防備な姿なのか?

 「それも、今から確認する事だ」

 車体が大きく右に揺れてカーブを曲がった事を知らせる……。運転席に座ってから一度もこちらに顔を向けようとしない彼ではあるが、その背中からは得も言われぬ名状し難い圧力が発せられていた。『怒って』いるのだ、彼と必要以上に長く接していたからこそ分かる、彼は今途轍もなく怒っていた。

 ふと──、

 「ねぇ……」

 「何だ?」

 「この本って……何?」

 スバルが示しているモノ……それは彼女がトレーゼによって半ば強引に乗せられた時からここにあった一冊の赤い表紙の本だった。健在な左腕でそれを大事そうに抱えるヴィヴィオの姿を見て始めは彼女の物なのかと思ったのだが、拉致された時には彼女は一切の私物を持ってはいなかったはずだと思い出した。では一体どこにあった誰の物なのか……スバルは純粋にそれが気になった。

 「…………俺のものだ」

 「そうなの?」

 気になる……必要の無い私物は決して身に付けないし、また所有する所も決して想像出来ない彼がどうしてこのような本を持っているのか。恐らくそれは彼にしか分からないだろうし、きっと教えるような柄でもないだろう……。

 「……見たいなら、勝手に見ろ」

 「良いの?」

 「好きにしろ…………。何故こいつが、それを持って出たかは、知らんが、それは後で聞けば良い」

 車が停止した。どうやらここが目的の場所らしい……このアパートの一室を借りてそこにヴィヴィオを閉じ込めていたのだろう。確かにこの建物の周辺には微弱ながら魔力伝播阻害用の結界が張られていた痕跡が感じられ、二階の一室のドアがへし破られていた。

 「ここで待て。俺は、道具を取りに行って来る」

 「部屋に運ばないの!?」

 「馬鹿か貴様は。その状態の体を、無理に運び出せば、傷口が更に広がる」

 「あ……そうか」

 既に息も絶え絶えなこの少女をここへ連れて来るだけでも安全運転を期して来たのだ、ここから先無理に連れ出す事は確かにナンセンスだろう。

 「逃げるな……と言っても、聞かんだろうから……」

 「っ!?」

 車内の至る所から触手のように伸びて来た紅いバインドがスバルの体を固定した。その後彼女の抗議の声も聞かず、彼は座席に展開した魔法陣と共に空間転移して行った。恐らくは自分達の隠れアジトに向かったのだろう。

 「……………………ねぇヴィヴィオ……私もう疲れたよ……」

 抵抗しても無意味な事を知っているスバルは自身を縛り上げる拘束糸を引き千切ろうともせず、そのまま座席に座り込んだ。エンジンを切った車内に外の冷気が流れ込むのを感じながら彼女は自分が無性に悲しくなるのを感じていた。

 止められなかった……彼を、彼の凶行を、自分では結局止められなかったのだ。無力……自分は無力だと思い知らされた……知ってはいた、自惚れていた訳でも無いので自分の実力だって知っているはずだった……。

 でも悲しかった。涙も枯れ果てるぐらいに、ただ悲しいと言う感情が彼女を責め立てているだけだった。



 人、これを虚無感と言う。










 ラボの中央のスペースでクアットロは地面に座らされていた。冷たい金属の感触が脛を伝って来るが、今の彼女にとってそんな事は別段気にするべき事でも無かった。と言うより、彼女が気にするべきものはもっと他にあったからだ。

 「さて……事情を、聞かせてもらおうか、クアットロ」

 死肉を狙って上空を周回するハゲタカのように自分を中心にしてグルグルと歩く兄の言葉を耳にした時、彼女は自分でも無意識に背筋が緊張するのに気付いた。もちろん気温の低さでそうなったのではない事ぐらいは自覚していた。

 「な、何の事でしょうか……?」

 「とぼけるな。お前が謂われなく、“聖王の器”を、迫害していた事ぐらい、とっくに予想できた」

 バレている……! だがまだ言い逃れの余地はあると判断したのかクアットロは大袈裟に大手を振って弁明した。

 「そっ! それはあれですよ! あの右腕はきっと勝手に脱走した後に何かあって、それで骨を折ったんじゃないでしょーか……なんて、アハハハ」

 「ほう、そうか……。確かに、その可能性も、無きにしも非ず、ではあるな」

 「で、でで、でしょう!? ですからぁ、そう言う事なんですよ~」

 「そうかそうか。なら聞くぞ、クアットロ」

 とん……。



 「何故、負傷している箇所が、右腕だと分かった?」



 頭に軽く手が触れた。例によって氷よりも冷たい兄の手が触れ、彼女の震えはその冷たさと相まって最高潮に達しようとしていた。そして上げられない……別に剛腕で無理矢理捻じ伏せられているのでもないのに、彼女は自分の押さえられた頭を上げられなかった。否、『上げてはいけなかった』と言うべきだろう。上げれば殺されると言う無意識の脅迫観念が彼女に自分の頭部を動かす事を許さなかった。

 そして、問われている。『問う』と言う行動をされている以上、その問いには絶対に『答え』ねばならず、そして相手もそれを強制していた。

 「俺は、ただの一言も、右腕を負傷しているとは、言っていないぞ。なのにお前は、骨折していると、負傷状態まで知っている…………どう言う事だ?」

 「そ……それは、その……」

 「あとそれと、血中から微量だが、毒物が検出された……。筋肉の収縮を司る神経に、変調を来たす効果を、持っていたぞ。以前、お前が倉庫から、持ち出した薬物で、精製可能なモノだった」

 「ああああ、あの、それはですからその……!!」

 「食事分として、取っておいた保存食も、一個も減っていない……これは、どう言う事だ?」

 「……………………」

 クアットロに残された選択肢は『沈黙』……都合の悪さをひた隠しにしようとする弱者の最後の判断だった。

 だが──、

 トレーゼはその『返答』をよしとはしなかった。

 「────クズが」

 「へぶっ!!?」

 伊達眼鏡が粉々に弾け飛ぶ……冷たい床の感触が顔面一杯に広がり、前歯の一本が不自然な音を立てた。ただ叩き付けられただけではない……鼻の穴を塞ぐように横向きに押さえつけ、尚且つ視線も上げられないように前のめりにして叩き付けていた。

 「クズ……」

 更に圧力が増す……。頭蓋骨が不気味な音を立てるが抵抗する気も起きないクアットロはただ黙ってそれを享受すしているしかなかった。

 「クズ、役立たず、減らず口、使えない、能無し、穀潰し、木偶の坊、塵芥、ゴミ屑、売女、アバズレ、底辺…………この地上に存在する、あらゆる罵詈雑言の言葉を以ても、今の貴様を形容するには、足元にも及ばんな。なぁクアットロ、我が愚妹……教えてくれ、貴様は何だ?」

 「な……偉大なるDr.スカリエッティの崇高な計画を遂行する為に生み出された……ナンバーズ、その四番です……!」

 「ならば、ナンバーズとは、何だ?」

 「き、機兵ですっ。一切の私情を持たず、主の命令には絶対遵守し、そして完遂する兵士です!」

 「だが、貴様は私利私欲に走った」

 ゴツ……。

 「ぐぅ!!」

 「貴様は、自身の低俗な欲求を満たす為に、計画の第一の要でもある、“聖王の器”に、手を出した……。一歩間違えば、貴様の所為で、この計画は瓦解する所だったぞ、貴様の所為でな」

 「っ! 申し訳ありませ──ぐぅあっ!!」

 「謝るな……。謝罪とは、責任逃れの、行為だ…………俺が貴様に、そんな行為を、許すと思っているのか?」

 一旦手が離れるが、間髪入れずに兄の足が頭蓋を踏み砕かんばかりのパワーで振り下ろされた。

 「貴様の行為は万死に値する……本来ならば、この俺が、直々に処分するのだが…………そう、本来ならな」

 散々足蹴にした後、彼は歯茎から血を出してボロボロになったクアットロの顔を上げさせ、その顔を包み込むように手で覆った。慈悲に満ちた兄の行動に一瞬呆けながらも彼女の顔には安堵の表情が生まれた。涙を流しながら目の前の兄を崇めるような視線で見上げ、彼女は最後の希望に縋った。

 「安心しろクアットロ、俺は貴様を、赦してやる。貴様がした、愚かな行為の全てを、俺は赦してやる……」

 「あぁあ、お兄様……なんとお優しい……。このクアットロ、幸せ者だと今実感しましたわぁ」

 「そうか、それは良かった……。なら、手を差し出せ、クアットロ、右腕だ」

 「あ、はい! そんなものでお許ししてくださるならもう喜んで!!」

 感極まっていた彼女はもうまともな思考をする事が出来ず、結果として何の疑いも無く自分の右手を差し伸べた。トレーゼはしばらくそれを見た後にそっと一言──、



 「要らないな、こんなもの」



 「え────?」

 懐から取り出したブレードを振り下ろし、彼は切り落として見せた。腕を……自分の妹の右腕を無慈悲に、何の遠慮も容赦も情けも無しに、彼は不必要だと言って切った。

 「あ……? あぁぁあ、ええぁああぁあああっ!!!」

 「良いだろう……俺は貴様の愚行を、たった腕一本で赦すんだ……。優しいだろう? 俺は。喜べよ、涙と鼻水で見る影も無い顔を擦り付け、額が擦り減るまで頭を垂れて、俺に感謝しろ……」

 「ああぁう……ええぇがぁああぁ」

 「貴様には、自死の権利すら、与えるものか……。片腕だけでも、使えるだろうからな、これからも役にたってもらうぞ」

 切れ飛ばした腕を拾うとそれに高圧電流を流し込んで消し炭にし、更に炭化して黒くなったそれをボロボロに砕き潰した。後に残ったのはかつてザクロ色をしていた肉片と、電流を流されながら変質しなかったフレームの金属片だけだった。それを足で蹴散らし、痛みに咽び泣く妹に一瞥もくれず、彼は再び転移魔法でヴィヴィオとスバルの待つ場所へと姿を消した。










 再び彼が姿を現したのは車の運転席だった。器用に隣の助手席に道具一式を詰め込んだアタッシュケースまで転送し、彼はすぐさま背後のスバルに命令した。

 「後部座席を折り畳め。スペースを作る」

 「そ、そうだね……って、ちょっと何それ!?」

 スバルが驚愕して指差す物、それは巨大なビニールバルーンだった。だが彼女はこれが何なのか知らなかった訳ではない……救助隊に居る彼女にとってこれは現場ではありふれて目にする機会がある物だった。内部にポンプで空気を入れ込み清潔な空間を作り出し、その中に重傷者を入れて緊急手術を行う為に使用される一種の疑似手術室だ。当然説明したように、そんなモノを使う場面など限られている訳で……。

 「ワゴンで幸運だった……今から、こいつの手術を行う」

 「手術!? こ、ここで!?」

 「当然だ。貴様も、これを着ろ!」

 ケースから引っ張り出された白衣を投げつけながらトレーゼも同じ白衣を着始めた。臭いで分かる……間違い無く手術用の清潔な白衣だった。着終わったのを見計らったトレーゼが更にゴム手袋を投げ渡し、ポンプを使ってバルーンを膨らまし続け、それもある程度終わると再びスバルに命令した。

 「入れろ。ゆっくりな」

 車内一杯に膨らんだその殺菌空間の中にヴィヴィオを入れるように促され、スバルはその勢いに呑まれるように自分のすぐ傍で呻き声を上げている少女を片手で持ち上げようとした。

 だが──、

 「む、無理ぃ……! 上手く力が入らない」

 せめて相手が負傷していなければ片腕だけでも充分持ち上げられたのだが、全身を打ちすえられている上に右腕がここまで破壊されていては無理に抱き上げるのも困難と判断して微妙な姿勢で起こそうとしたのだが、それも無理だった。

 「阿呆か、貴様は。そう言うのはな……」

 一旦車外に出たトレーゼはスバルの隣までやって来るとヴィヴィオに手を伸ばし……

 「ふん……」

 淡い紅い光がヴィヴィオの体を包んだ直後、彼女の体はふわりと浮かび上がり、そのまま彼の意思で殺菌空間の中へと運び込まれた。

 「頭の回転が遅いのは、損しか生まないな」

 「…………私、手術した事無いよ?」

 「誰も、メスを握れとは、言っていない。切り裂くのも、取り除くのも、縫合するのも……全て俺がやる」

 「経験あるの!?」

 「無い。だが、知識はある。貴様は、動脈の止血と調整、麻酔の代わりとなる、魔力を流し込むだけで良い。それ位は、知っているだろう?」

 「痛みを和らげる奴なら少しは……」

 「結構だ。なら、始めるぞ」

 白衣を収納していたアタッシュケースから銀色に輝く棒の様な物体を取り出す……メスだ、恐らくこの世に存在している刃物の中でも最も鋭いであろう物体がトレーゼの右手に握られていた。

 「ボヤボヤするな、脇を縛って、止血しろ」

 「本当にするの? ちゃんと病院に連れてった方が……」

 「こいつは、計画の要だ。ここで失う訳にはいかん」

 「何よそれ……何でもかんでも二言目には計画計画って……ふざけないで!」

 「なら、ここで止めようか? ここまで保っただけでも、充分奇跡だ……このまま放置すれば、腕一本では済まないぞ」

 「それは……!」

 「それとも何か……? このまま、いっそひと思いに、始末した方が良いか?」

 メスの切っ先が朦朧としているヴィヴィオの額に突き当てられた。そしてそのまま正中線を辿るように額、鼻先、口元、喉笛……最後には乳房の間から少し左に位置する部分を先端で軽く突いた。心臓、肋骨に当たらずに刺せば間違い無く心臓と肺はズタズタに引き裂かれるだろう。もちろん、そんな事をすれば死亡するのは必至だ。

 「……………………」

 「……交渉成立だ」

 沈黙を恭順と受け取ったトレーゼは胸元から切っ先を離し、それを右腕に移した。

 「さっさと、止血しろ。ついでに、麻酔もな」

 「…………今だけ……そう、今だけだから」

 他の誰でもない自分に言い聞かせるような口調でスバルは呟いた後、ヴィヴィオの脇をタオルできつく締め始めた。そして彼女の腕全体を包み込むようにして左手から魔力を集中放射、痛覚を司る神経に働き掛けを試みた。麻酔薬を用いないのではどれ程の効果が望めるかは分からないが、せめて気休め程度であっても無いよりかはマシだ。

 「準備は良いな……では、始めるぞ」

 充分止血された事を確認した後、トレーゼは少女の白い柔肌に銀色に鈍く輝く刃を突き入れた。



 こうして世にも奇妙な組み合わせの初の共同作業の幕が切って落とされた。




















 新暦90年某月某日、地上本部第七演習場上空にて──。



 空を飛ぶのは気分が良い……時にはその物理的高度から優越感をも抱かせる事から尚更気分が良くなる。飛行と言う技術は魔導師の中でも専門の知識を持ち、基本的な基礎訓練をしっかり受けた者が使える技能であって誰でも簡単に出来ると言うモノではなかった。先天的な魔力資質の面で空を飛べない者も居れば、その反面で飛行機よりも早く鳥よりも優雅に舞い飛ぶ者も居るのが現状だった。

 “彼女”もその一人だった。演習場の上空は様々な高度を飛び交う魔導師達が各々の練習の為に飛行訓練を続けており、その中から一人の少女が地上へと戻って来た。そのまま汗を拭き取りながらベンチに入って飲料水のボトルを手に中身を一気飲みした。その隣ではバリアジャケットを展開している教官らしき人物が空を見上げており、未だ飛び続ける訓練生達を監視していた。

 「始めの頃よりずっと上達したね」

 「そうですか? 先生に比べたらまだまだです」

 「謙遜しなくても良いよ。初めて飛んだ時から何か才能みたいなの感じてたから、きっと上手くなるって。ひょっとして、私以外の上手な人に教えてもらってた?」

 「あ、はい! 叔母さんが暇な時に少しだけ……」

 「えっと……叔母さんって、どの叔母さん?」

 「そ、そうだった! すみません! 私の叔母さんって何人もいますから……。あの~、何年か前に航空部署って言う所で働いていた方です」

 「あー、納得。あの子は飛ぶ事に関しては私よりずっと上だからね」

 「でも本当はあの人よりも、あの人のお姉さん……伯母さんの方がもっと凄いらしいです」

 「あはは、あの人はもう別格だよね」

 まるで友達同士で話しているかのような気軽さで歳も階級も離れた二人はそれからも数分ぐらい会話を続け、時に笑い声を交えながら女性特有の賑やかな談笑に華を咲かせた。やがてある程度時間が経って全体の休憩時間に入る為に上空の訓練生達に点呼を掛けようと教官がベンチを立ち、杖型デバイスの先端に信号用の閃光弾を放つ為の魔力を集中し始めた。

 だが、いざその魔力弾を空に向けて打ちだそうとした時──、



 大気を震動させる爆音と、大地を揺るがす振動が彼女らを襲った。



 「うぇ!? な、ちょっ、地震!?」

 異変に気付いた、と言うよりは異変に思い切り当てられたのは当然彼女だけではなく、上空に居た訓練生達の間にも動揺が走った。クラナガン中に響いたに違いない爆音はそれだけ凄まじいモノで、すぐさま彼らは地上に居る教官の元へと一直線に戻って来て指示を呷った。

 だが、そんな混乱に彩られている彼らとは対照的に教官の反応は極めて淡白であり、映像回線で確認を取った後で事も無さ気にこう言った。

 「第一演習場で行われた模擬戦の余波だって。気にしなくていいよ、いつもの事だから。あ、でも偶に大き目の破片が飛んで来る時があるから気をつけるように!」

 第一演習場と言えばこの地上本部が有する屋外訓練施設の中で最も規模が大きな場所だ。あそこが第一でこちらが第七……単純な直線距離でも相当あるはずなのだが、そこからあれだけの爆音となれば一体発信源ではどんな事が起こっていたのやら……。教官はああ言っていたが、本当は戦争が勃発しているのではと言う疑念が訓練生達の間で芽生え始めた。

 「あの……第一演習場って……」

 「えーっと、今使ってる部隊は…………あ、やっぱり。古代遺失物管理部及び半独立次元世界治安維持機動部隊が使ってる」

 「え、えっと……つまり……?」

 「『機動七課』。昔あった機動六課の常駐バージョンってとこかな」

 機動六課……管理局、少なくともこの地上本部では知らない者は居ないだろうとされる部隊であり、通称『奇跡の部隊』とまで呼ばれる程の実績を上げた事でも有名だ。かつてこのミッドで起きたT・S事件の次に最悪と言われるJ・S事件を解決したかつての英傑達は、その大半が各々の進む道を歩んでおり、現在存在している七課はそれを前身にしていると言う事以外はメンバーの殆どが別の部署に所属しているらしい。

 「そう言えば、七課のフォワードって確か……」

 「はい……お父さんが隊長をやってる所です」

 「じゃあさっきのも……?」

 「多分……。お父さんって手加減してくれませんから……。おまけに全力全開ですし」

 「あははは……演習場の整備の人、また泣いてるだろうなぁ」

 「そうですね。でも! 私、いつかお父さんの居る部隊に入りたいんです。お父さんと一緒に空を飛びたいから……」

 「行けるよきっと。お父さんの事は好き?」

 教官が微笑みを浮かべて問うて来たそれを少女は更に天真爛漫な笑顔と、自信に満ちた声でこう返した。



 「はい! 大好きです!! 優しい私のお父さんですから!」



 「そう。だったら頑張らないとね」

 「はい! あ、もちろんお母さんも大好きです! お姉ちゃんも大好きです!」

 「うんうん。好きなモノが多くて大いによろしい!」



[17818] 彼にとってはどうでも良い出来事
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:73ca1900
Date: 2010/10/22 23:41
 11月20日午後16時24分、アパート駐車場に停車した車内にて──。



 手術は続いていた。重要な血管と神経を傷付けないようにメスで切り込みを入れ、内部を傷付ける恐れのある骨片を除去しつつ、時折細胞に酸素を供給する為に止血を解いて染み出した血液で手を赤く汚しながらもこの奇妙な手術は続行されていた。通常の麻酔をまるで投与されていない為、肌に刃を入れたり骨を生分解性ワイヤーで固定する度にヴィヴィオが苦しそうに呻き声を上げるが、余計な動きをして手元が狂ってはここまでの苦労が水泡に帰すのでトレーゼはその度に彼女の体を剛腕で押さえつけた。

 だが余りにも彼女が痛がる様子を見かねてトレーゼは苛立つような口調で麻酔の代用となる神経麻痺の魔力を流し込んでいるスバルに問うた。

 「おい、集中しろ。こいつが、激痛でショック死しても良いのか」

 「無茶……言わないでよ。こう見えたって……かなりキツいんだから……」

 かれこれ二時間近くに渡って魔力を垂れ流しにしているスバルにとってこれ程の重労働は無く、既に体力も気力も底を尽きかけている状態だった。左手から放出されている魔力の波長も徐々に弱まりつつあり、流石にこれでは手術に支障を来たすと判断した彼は……。

 「どけ!」

 「あうぁ!」

 メスと異物除去用ピンセットを脇に置き、彼はスバルを突き飛ばした。当然その瞬間に魔力供給が停止し、ヴィヴィオの顔にそれまで見た事も無い苦悶の表情が浮かび上がった。手を思い切り切開されている状態で麻酔が切れればその痛みは計り知れないのは当然だろう。だがトレーゼは間髪入れずに手をかざすと自身の膨大な魔力を一気に放出し、その右腕を取り巻くように三つの環状魔法陣を展開させた。

 「これでしばらくは、保つだろう。その間に、魔力を溜め込んでおけ」

 行使された魔法は強力なモノで、酸素供給と痛覚遮断の効果を持っているようだった。だがこの魔法は対象が動かないままで居る事が大前提であり、もし対象が腕を動かしたり魔法陣の範囲内に異物が入り込んだらその瞬間に解除されるものでもあった。つまり、これはあくまでその場凌ぎの時間稼ぎ用だと言う事だ。

 だが何はともあれこれで一息つける……安堵の溜息をついてスバルはその場にヘタり込んだ。戦闘行動以外でこれだけ魔力を消費したのはここ最近の彼女の行動では余り無かった事だった。災害現場も戦場と相違無いぐらいにまで過酷な場所ではあったが、それでもやはり倒すべき敵と倒される自分と言う緊張感が無い事からそれほどまでに疲労を感じる事は少なかった。その点で言えば今回の件は緊張と疲労感がピークを保ち続けた所為で一旦それが解けると彼女は自分の全身から汗が噴き出るのを止められなかった。

 対するトレーゼの方はと言うと、精巧さと迅速さを求められる手術をたった今さっきまでこなしていたとは思えない程の冷静な表情で、スバルと違って汗一つかいていなかった。血液で汚れたゴム手袋を交換しながら時折視線をこちらに向けて監視しており、未だに彼の健在さが窺い知れた。

 「おい、飲め」

 「あ、ありがと……」

 水の入れられたボトルを渡されたスバルは中身を警戒しながら少しずつ飲み始めた。

 「毒は入れて無い。そんな姑息な真似をせずとも、殺す時は殺せる。それに……貴様には、こいつの手術で、まだ役立ってもらわねばならない」

 「…………そうだね、そうだよね、うん」

 殺されないと言う安堵感と必要とされている方向性の問題から複雑な気分になりつつも彼女は一気に中身を半分まで飲み干した。疲労し切っていた体に程良い冷たさの液体が流れ込む感覚に喜びを感じつつ、スバルはこれから先自分がどうなるかと言う想像を膨らませていた。急いで飛び出して来た所為で自宅の鍵も掛けていない……二時間近くも家に連絡も入れていないし、と言うか携帯も置いて来てしまった…………距離を置いたここからでは念話も通じない……。このまま用が済んで始末されるか、それとも洗脳されて無理矢理あちら側に引き込まれるか……どちらにしても自分にとって不本意な結果に終わる事に変化は無いだろう。

 と、窓の外をぼうっと見つめながら思いを馳せていた彼女はある事に気付いた。

 飲んでいないのだ。

 誰が? トレーゼが。

 何を? 水を。

 スバルと自分の分として持って来ているはずのボトルに彼は一切口を付けておらず、それをガラス製のジョウロのような容器に移し替え、それを──、

 「飲め。寒いだろうが、脱水症状を起こしては、ならんからな」

 ヴィヴィオの口元にそっと寄せた。飲み込んだ際に気管に入らないように微妙に頭を持ち上げつつ、飲むように促した。そうだ、ここに居る誰よりも疲労の様相を呈しているのはヴィヴィオなのだ。今日一日激痛と空腹と寒さに耐え続け、この少女の肉体はそれこそ普段災害現場を飛び回っている自分とは比較にならない程にまで酷使されているはずなのだ。その事実を再確認すると同時に、スバルは自分の事を盛大に恥じていた……三年前ならいざ知らず、今の自分は成長していると言う自負を持っていたはずだった、修羅場を何度も潜り抜けて来た実績もあったし、多少の事では動じない自身もあった。だが現実はどうだ? 友人が殺されるかも知れない危機的状況を目の前に自分は一体どれだけの事が出来ただろうか……。最も落ち着きを見せねばならないはずの場面で落ち着きを失い、結局は大局を見る事が出来なくなって今に至るだけではないか。そして今だって頭に浮かぶのは自分の心配事ばかり……これを恥と言わずして何と言おうか。

 だが彼は違っていた。彼は自分の目的の為に行動をしつつも常に敵対する自分を監視するばかりか、精神を擦り減らすような手術中でも常にヴィヴィオの状態に気を配っていたのだ。自分と彼との大きな違いを見せ付けられ、スバルは更にバツが悪く感じて来た。

 「…………バカだよね私って」

 「分かり切った事を、今更……」

 「フォローぐらい入れてよ……」

 「Don't mind,scum.」

 「……今ひょっとしてバカにしなかった?」

 「自認しているなら、構わんだろう?」

 水差しをヴィヴィオの口から離し、その口元をガーゼで軽く拭く……最後まで気の利いた行為に心なしか少女の口元に笑みが浮かんだようにも見えた。それはトレーゼの方にもそう見えたようで、彼はヴィヴィオの頭に手を置きながらさらっと……

 「これから、折れた二の腕を、筋肉を引き伸ばして、噛み合わせる……。耐えろよ?」

 心臓が冷えるような事を言った。骨が折れる事によって支えられていた筋肉が一気に縮む……骨を正しい位置に戻すには万力のように引き締まった筋肉を人力で伸ばさねばならず、当然その際の苦痛は筆舌し難いモノがある。だが常人なら想像するだけでも気が狂いそうな事実を告げられたにも関わらず、ヴィヴィオは穏やかな顔をしていた。スバルはその面持ちに見覚えがあった……かつてヴィヴィオが六課に初めて身柄を確保されていた時、唯一懐いていた後の母なのはに対して向けていた視線と同一のモノだった。

 「……懐かれてるね」

 「馬鹿を言うな、ガキに懐かれても、得は無い……。それはただの、依存だ」

 「そう言いながらずっと頭撫でてない?」

 そう指摘されて初めて気付いたのか、トレーゼははっとして自分の右手を急いでヴィヴィオの頭から離した。自分でも無意識で置いていたらしく、顔は固められた無表情のクセにその視線はどこか余所余所しかった。

 そんな珍しい彼の姿を見たスバルはちょっとした悪戯心からイジワルを仕掛けてみた。

 「ねぇ、どうして撫でてたの? 教えてよ。ねぇってば」

 「別に良いだろう……どうだって」

 「良いんだったら教えてよ~。何でさ?」

 「…………以前、貴様の病室を訪れた時、不覚にも俺が眠ってしまった、事があっただろう?」

 「あー、あったね」

 あの時顔を見せに来た彼からは鼻が曲がりそうなぐらいの酒臭さが漂っていた……あそこに来る前にかなりの酒を呷ったのだろうか、そこに来て二三話しをすると彼はそのままベッドに身を寄せて睡眠を取ったのを覚えている。あの時自分は今の彼と同じようにその頭を何十分も撫でていたのだ。

 「あの時、貴様が述べた感想と、同じだ」

 「それって……」

 「……………………まぁ、悪くは無い、触り心地だった」

 「…………………………………………プッ、あは、あははははははっ!」

 「何が、おかしい?」

 「ううん……やっぱり、トレーゼは優しい人だよ」

 「もう、人間をダース単位で、殺害した俺を、言うに事欠いて、それか……。笑ったり、怒ったり、泣いたり……大忙しだな、貴様は。おい!」

 トレーゼが何かを投げ渡す……本だ、この車に乗り込んだ時からずっと気にしていたあの赤い本が今スバルの手の中にあった。いざ手に持って見るとずっしりと重く、これを持って街中をたった一人で移動していたヴィヴィオの根性に改めて驚かされた。

 「見たいんだろう? 目を通すだけなら、構わん」

 「良いの? 大事な物なんでしょ?」

 「くどい。気が変わったら、返してもらうぞ」

 「読むよ! ちゃんと読むからそんなに急かさないで」

 気になる物を取り上げられたのでは目覚めも悪いと言わんばかりに彼女は最初のページを捲り出した。二本の指で摘んだ紙片は予想以上に重く、一ページ目からもう気が引き締まる思いだった。

 そして、そのページに刻まれた膨大な記録の最初の一つを目にした瞬間──、

 スバルは自分の目から熱い雫が流れ落ちるのを感じた。










 「対象をロスト……か。またこれで振り出しに戻ったわけだが……」

 ヴィヴィオの魔力反応があったと言う報告を受けた場所の地図部分を黒のマジックペンで塗り潰しながら、スカリエッティは退屈そうに呟いていた。ウーノとトーレも互いに何もすることが無いのか似たような感じであり、特に勝手知ったる何とやらと言わんばかりにトーレはソファを丸ごと一つをベッド代わりにして熟睡していた。そんな彼女らを前にして頭を抱えているのは、現在映像回線越しからの会話となる八神はやてだ。顔面の半分を覆っていた包帯を外し、現在は眼帯となりつつもその滲み出る若い威厳は失われてはいなかった。だがその表情は陰っており、注視すれば醸し出している威厳の中にも不安や焦燥が見て取れた。

 「いや、捜索に出した者の大半を失ったのだから、実際は損失か」

 『グゥの音も出んとはこの事やな……。Dr.スカリエティ、相手はこちらを誘き出す為にこんなまどろっこしい事をしたのだと……?』

 「その予想には残念だが配点はやれんよ。全ての準備が整っているとは言え、相手も暇ではないはずだ、一介の局員数名を殺す意味が無い。恐らく今回ヴィヴィオ嬢の魔力が検知された件は相手側にとって純粋なアクシデントなのだろう。もっとも、そのアクシデントにつけ込むチャンスを我々は永遠に失ったのだがな」

 黒丸を描いた地図を手で丸め、それを惜しげも無くゴミ箱に捨てた。

 「現地に追加派遣する予定だった局員達には待機命令を出したまえ。恐らく監禁に使われていたアジトには何も無いだろう、証拠も、そこに居たと言う痕跡も……」

 『そう言うと思って、既に命令は下してあります。それと……例の“誘き出し”の件についてですが、抑止力候補については何とかなるかもしれません』

 「ほう、意外だな。相手方がこちらの要求を呑むとは……。何か汚い策でも使ったかね?」

 『それなりに……。そりゃもう、鬼だとか悪魔だとか言われるのも承知であの手この手を尽くしました』

 「二佐殿も大人のやり方と言うのが分かって来た年頃かね。良い事だ」

 『独り身の乙女を口説き落とすには少々茶化し方が成っておらんのとちゃいます? あともう一つ……明日の正午、ウーノさんには管理局ミッドチルダ西部支部に移ってもらいますので、了承してください』

 その申告にソファで静かに座っていたウーノが僅かに了承の頭を垂れた。作戦内容は当然彼女にも告知されており、少なくともこの部屋に居る三人は熟知している状態だった。そして、この作戦には裏があり……。

 「では手筈通りに情報のリークは済んでいるかね?」

 『はい。各メディアには既に独自の情報網を利用して横流しした後です。予想通りにマスコミはすぐに喰いつきを見せました』

 「だろうな。彼らは他人の情報を売り飛ばす事を商売としているからな。その分情報伝播率の高さは評価に値する……彼らが自然とその情報を広める事によって“13番目”も自然とこちらの釣り餌に食らいつくと言う訳だ」

 『そんな簡単に行くのでしょうか?』

 「行くさ。相手は間違い無くこの手に引っ掛かる。いや、引っ掛からざるを得ないのだよ……闇夜の灯りに群がる小蠅のように、奴は必ず向かって来る。一つ不安要素があるとすれば、相手がどの様な出方で攻めて来るか分からないと言う事だけだ」

 まただ……三年前と同じ狂気に彩られた蛇の様な瞳……絶対の自信がある時には必ず見せる癖のようなものだった。まぁ、見ていて決して気分の良いモノではないが、彼が絶対の自信を抱いていると言う事はこの作戦はそれなりに実行に移すだけの意義があると言う事でもある。紛いなりにも天才だ、その点だけは信じてもよさそうだ。

 「そう言えば、例の件で警戒は怠っていないだろうね?」

 『“裏切りの使徒”の件は現在最重要警戒項目としてマークしています』

 「具体的には?」

 『ナンバーズ全員の二十四時間体制での監視』

 「そんなものだろうな。私が思うに、聖王教会の三人に関してだけ言えば反旗を翻す事はほぼ有り得ないと考えている。なんでもあの三人は騎士カリムの付き人に甚く懐いていたそうじゃないか……その人物が再起不能に追いやられたのを目の当たりにしている以上、“13番目”に対する感情は怒りや憎しみと言った負の感情しかないはずだからな」

 『では、逆に一番怪しいのは?』

 「そうだな……。ウーノやトーレの居る手前、あまり身内を疑いたくは無いのだが…………やはり最も怪しいとなればノーヴェだろうな」

 これはまた意外な人物の名が飛び出した事に通信相手のはやてのみならず、傍で聞き耳を立てていたウーノでさえもこれには怪訝な顔つきをしていた。双方の納得がいかないと言う表情を眺めてスカリエッティも説明が必要だと感じたのか、咳払いを一つした後で恒例の講釈に移った。

 「確かにノーヴェは最初に“13番目”の被害を受けた者だ、奴の所為で自分の姉妹であるスバル嬢は四肢を寸断され、彼女もその事を深く根に持っているだろう。この点は先程のセインらと同じと思ってもらって構わない。だが問題はここからだ……。知っての通りノーヴェは頑固だ、一度自分が持ち得た信念は決して折らないし、場合によっては主である私が何と言っても聞かないだけの根性もある」

 『ですが、彼女がそんな簡単に甘言で手の平を返すとは思えませんが……』

 「分かっていないな二佐は。確かに鉱石は自然界に存在するあらゆる物体に勝る硬度を持っている……だが、如何に堅牢な鉱石と言えど表面上に必ずある“目”に沿って力を加えれば、呆気なく簡単に砕け散ってしまう。それと同じさ、一度自分の心の壁の中に相手の領域を重ねたが最後、彼女の様に頑なな性格をしている者は瞬く間に自分の心を揺らがせてしまう。それにノーヴェは良くも悪くも雌生体、即ち女性だ。肉体的にも精神的にも男性と比較して脆い部分がある」

 『それは今の時世だと男女差別になりますよ?』

 「それは失敬。だがこの観点以外にももう一つ、彼女が“13番目”に対して不利となり得る条件が存在しているのだよ。恐らく、これが彼女が“裏切りの使徒”となり得る最大の理由かも知れん」

 『……と、言いますと?』

 「彼女が“身内”に甘いと言う事さ。顔さえ見た事が無くとも、かつての自分達と同じ格好をしている者……しかも正真正銘自分達の兄かも知れない存在と相対した時、果たして彼女が自慢の拳を振るえると思うかな? 賭けても良い、スバル嬢の恨み事を加味したとしても彼女は“13番目”に対して拳を振るう事は出来んだろう……よっぽどの事が無い限りはな」

 『そんなもんでしょうか? ────? 少し失礼します』

 別の通信があったのか、画面越しのはやてが一旦映像回線を切断した。ゲストルームには再び静寂が戻りスカリエッティは暇潰しと言う代わりに隣に座っているウーノのウェーブ掛った薄紫の髪を手櫛で撫で始めた。彼女の方も親であり主である彼の行動に一々反応をする事も無く、されるがままにしていた。

 「はてさて、ここから先の未来は一体全体どうなる事やら。私には想像の域を越える事は出来んな」

 「ドクターですら予測不可能なのですか?」

 「ウーノ……確かに私は天才ではあるが、万能ではないのだよ。確定情報が不足している今のままでは一寸先の未来でさえ暗闇に包まれたままさ。今の私では精々──」

 髪を撫でていたスカリエッティの手が離れ、向かいのソファで体を横にして寝ているはずのトーレの肩に伸びた。そして彼女の肩をゆっくりと揺らし……

 「実はトーレがとっくに起きていたと言う事ぐらいしか分からんよ」

 「……いつからお気づきに?」

 「覚醒時と睡眠時の呼吸パターンには僅かだが誤差がある」

 「流石です」

 すぐさま起き上がって最低限の身嗜みを整えた後、トーレは普段通りの凛々しい表情に戻っていた。だがその表情に僅かながら陰が差しているのをスカリエッティと姉のウーノは見逃さなかった。

 「何か思い悩む事でもあったのかな?」

 「いえ少し……敵方の事について」

 「ほうほう……。ナンバーズ最強の名を欲しいままにした君の口からそんな弱気な台詞が出るとは……」

 「別に弱気になってなど……! ただ…………一つだけどうしても気になる事があるのです」

 「トレーゼの事だな?」

 「……やはり、それも察していましたか」

 「当然だ。私にとって彼は最高傑作であり、君にとっては『弟』だ……気にならんはずがないだろう」

 「ドクターはどのように御考えですか? その……“13番目”とトレーゼの関連性について」

 「私の持つ疑問は二つだ。仮に“13番目”とトレーゼが同一人物だったとするならば、その時はその時で考えるとして……問題はその逆、“13番目”とトレーゼが同一人物で無いならば、“13番目”とは一体何者なのか? そして、トレーゼ自身はどうなっているのか? この二つだ」

 17年前に彼らが譲渡した戦闘機人はトレーゼだけだ……当然、ハルト・ギルガスの研究施設に存在していた機人と言うのはほぼ十中八九彼で間違いは無いだろう。だが“13番目”をトレーゼと仮定する時、かつてトレーゼに施したコンシデレーション・コンソールの矛盾が発生してしまい、二つの存在をイコールで結べなくなってしまう。ではここでまた仮に二つの存在をそれぞれ別の人物だとした場合、発生する疑問は二つ……。

 本物のトレーゼはどこに消えたのか?

 そして“13番目”とは何者なのか?

 矛盾を解決するにはこの疑問を解かなければならない……そして、現状ではこの二つの疑問を解く術は無かった。

 「悲しいかな、さっき自分で言ったように私は万能ではない。確証の無い予測はただの下衆の勘繰りでしかないからな……そう言う行為は科学者としてやりたくはない」

 「…………そうですか」

 トーレが再びソファに横になり不貞寝を始めた。普段なら決してしないであろうその愚行を、姉と主は諌める事も無く容認し、そのままにしておくことにした。自分で生み出したとは言え彼女の心理は理解出来ない……理解出来ない以上、下手に触るのは避けたいと言うのがスカリエッティの考えでもあった。

 するとタイミング良く回線が再び繋がり、画面にはやての顔が映り込んだ。

 『長々と失礼しました』

 「構わんよ。何か急ぎの用だったかね?」

 『いえ、チンク・ナカジマから少し私用で……』

 「チンクが? 仕事中の人間に私用で連絡を入れるとは成ってないな、今度顔を合わせた時には私からきっちり言い聞かせておくよ」

 『それが……私用と言ってもかなり重要なモノで……』

 「と言うと何だね?」

 『ええ、それが…………なんでもスバルと連絡がつかなくなったとかで……』










 本を見終わった後、スバルはただ黙ってそれを運転席のトレーゼに返した。彼の方もそれを黙って受け取り、助手席の方に安置した。

 「……おい」

 「……なに?」

 「その、泣くのをやめろ。鬱陶しい」

 「ごめん……」

 「…………何故泣く?」

 「気にしてくれてるの?」

 「Die scum.」

 苛立ちを隠そうとして車内暖房の出力を最大限にまで引き上げ、エンジン音が煩くなる。流石にここまではっきり拒絶の意志を表明されると何も言えなくなるのか、スバルは少しほとぼりが冷めるまでの間だけは大人しくしていた。結局その間だけの話だったが……。

 「ねぇ……トレーゼはさ、頑張ってるんだよね?」

 「いきなり、意味不明な事を言うな。手術の続きを、始めるぞ、準備しろ」

 道具一式を入れ込んであるケースから今度はハサミのような物体と湾曲した釣り針のような物、そして同じく釣り糸のように極細の繊維を何本も取り出して来た。縫合に使う物だとは見ただけで理解出来た、そして今から行う術式が最も難しいと言う事も……。

 「Chuck is the mouth. ここから先は、一言も喋るな……。少しでも針先が狂えば、こいつが生き延びる確率は、格段と下がるぞ?」

 「(こくこく)」

 「貴様は例によって、麻酔を掛け続けろ。皮膚や筋肉の繋ぎ合わせは、こちらで行う。一応……ここからが、正念場とか言う奴だ」

 針に糸を通し、その針を持針器に持ってヴィヴィオの傷口に構えた。切っ先が寸とも振るえていない所を見る限り、流石の彼でさえもが相当の緊張を以てして臨んでいる事が窺い知れた。

 「……術式を再開する前に、先程貴様が言おうとした事を、聞かせてもらおう」

 「…………じゃあ聞くけど……トレーゼは頑張ってるんだよね?」

 「漠然とし過ぎている……要点を絞れ」

 「……誰かを殺すのも、何かを壊すのも…………みんな目的があってやってるんだよね。ノーヴェを騙してるのだって……そうでしょ?」

 「だったら何だ?」

 「何でさ…………何だってそんなに頑張れるの? トレーゼと同じ立場だったとしても、私には無理だよ……………………支えてくれる人も、解ってくれる人も、誰も居ないんだもん……。ねぇ、教えてよ……何でそんなに頑張れるの?」

 スバルは問う。恐らく彼女が生きて来た今までの人生の中で最も濃く、最も重要で、そして最も答えの知り欲したい問いを、今彼女は目の前のたった一人の戦闘機人に投げ掛けていた。そして、その問いに対する解答は三つあった。

 最初は“沈黙”……。持針器を構えたままマネキン人形のように停止し、眼球から放たれる強烈な毒を含んだ視線だけがこちらに向けられた。

 次に“深呼吸”……。厳密にはどちらかと言うと溜息に近く、この世の全てに飽いたと言う気だるそうな感じが吐息に含まれていた。

 そして──、

 「頑張ってなんか、いないさ。ただ、己に課せられた義務を、こなしているだけ……」

 簡単な受け流しの“本解答”が返されただけだった。それがたった一人で戦い、たった一人で騙し、たった一人で殺して壊し続け、たった一人でこれからも戦い続けるであろう者からの解答だった。意外にあっさりと、意外に呆気なく、そして予想通りに短かった。

 「…………そう……褒められるのが嬉しいとかじゃないんだね」

 「子供じゃあるまいし、馬鹿か貴様。…………………………………………だが、昔はそうだったかもな」

 「誰かに褒められた事があるの!?」

 「言っておくが、ドクターではないぞ。あの方は、命令するだけだ……機兵である俺達に命令し、そして、それが終了すれば、また別の命令を下す……それだけだ」

 「じゃあ誰?」

 「……………………教えん。教えても、貴様には関係の無い、事だしな」

 「いーじゃん、教えてくれたって」

 「断る。ナンバーズの中の、誰か、とだけ答えておこう。もういい加減、始めるぞ」

 「……分かったよ、そんなに言うんだったら聞かないね。誰にだって言いたくない秘密ってあるし」

 「貴様と一緒に、するな」

 そのやり取りを最後に、持針器に構えられた針先が少女の柔肌を貫いた。










 「スバルが帰って来ない!?」

 何とか仕事を終えて寮に戻って来たティアナを待っていたのは友人の自宅からの電話だった。自分が飛び出した後に更正施設での仕事を終えたのか、受話器の向こうの相手はナカジマ家の長姉ギンガだった。心配で気がかなり高揚しているのか、受話器から高い声がキンキンと鼓膜に響いて煩かった。相手の話だと既にこちらに掛ける前に同じ湾岸部署に所属している友人や上司などにも連絡を取って行方を聞いたらしいが、結局どこに居るのか足掛かりは掴めなかったそうだ。

 普段の彼女なら悪態をつきながらもすぐさま捜しに行こうとするのだが、今日ばかりは流石にやり終えていない仕事もあるので今からと言うのは無理な話だった。腐れ縁とは言え無二の親友と管理局存亡の危機を天秤に掛けて物事を考えてしまったのは大きな口では言えないが、それでもやはり重要度の差があるのもまた事実……本人の家族と会話している状態で言うのはキツいが、それでもここは知らぬ存ぜぬで突き放すのが良いのだろう。結局、ティアナは後ろ髪引かれる思いで受話器を置いた。

 外出前にデスクの上に置かれた資料の束がそのまま残っており、彼女のこなさなければ仕事量の多さを如実に語っていた。一旦気分転換にと思い立ったのか、室内の空気を一気に入れ換えようとして彼女は窓際に立ち、鍵を開けて──、

 突風を真正面から喰らった。

 「むわっ!? ちょ、ちょっと何なのよ! ったく!」

 冬の突風は季節の中で最もその勢いが強く、あっという間に彼女の部屋にある軽い物は次々と風のベクトルに従って吹き飛ばされて行った。その中には局員証なども有り、彼女は迅速に窓を閉めるとそれを拾い上げるべくUターンして背後に転がる物品へと足を向けた。

 だがその時にデスクのすぐ脇を通ろうとして腰が置いてあった資料に引っ掛かり……

 「ああっ、あぁああ!? ……あ~ぁ…………信じらんない」

 当然資料の束も重力によってずり下がり、フローリングに落ちる。だが彼女にとって不幸だったのは、資料の束を留めていた紐が緩んでいたらしく、落ちた瞬間にそれが解けて部屋中に散乱してしまった。数百枚はある紙が一斉に撒かれた事に苛立ちと気だるさを覚えつつ、彼女はそれらの回収に当たった。

 「…………まったく……やってらんないわよ」

 基本的に文句を言わないはずの彼女が小言を言っているともなればどれだけ苛立っているかが分かるが、だからこそ彼女は見落としてしまっていた。



 資料の一枚……問題の戦闘機人の顔を写したページだけが死角となるベッドの真下に吸い込まれていた事に……。










 午後17時46分、地上本部ゲストルーム──。



 『ちょっとよろしいですか?』

 再び映像回線を通じてスカリエッティ達の前にはやてが姿を現した。重なる仕事の大半を片付けたらしく、その表情はさっきと比較するとほんの少しながら落ち着きが見て取れるようになっていた。

 「構わんよ、私と二佐の仲じゃないか。遠慮は要らない、さぁ言ってみたまえ」

 『ウザい、キモい、鬱陶しい……現代の若者のキレの沸点を見事に押さえていますね。感服します』

 「……今軽く傷付いたんだがなぁ……」

 『本音はここまでにして、本題の方に移らせていただきます』

 「あ、本音だったのか」

 『実はドクターに面会を依頼している方が……』

 「面会? と言う事は何かね、もうそこのドアの向こうに居るのかな?」

 『いえ、相手方の都合で場所を離れられない状態ですので、失礼ですけど回線からの面会になります。けど、ご安心ください……貴方も良く知ってる相手です』

 そう言った瞬間、はやてが映っている画面の隣に別の回線が開いた。そして先程の彼女の言葉に嘘偽りは無く、その画面の向こう側に居た人物はスカリエッティはもちろん、ここに居る全員が認知している人物であった。

 『お久し振りです、ジェイル・スカリエッティ』

 「おや、久し振りだな。この所ずっと顔を見ないと思っていたら、何だねすっかりボロボロじゃないか────フェイト・T・ハラオウン執務官」

 画面の向こうでこちらを見ているのは、“13番目”のクアットロ奪還作戦以来ずっと入院して連絡が取れていなかったフェイトであった。頭や腕に痛々しく包帯を巻いて未だに癒えない傷口を隠しており、顔面の至る所にはもちろんの事、患者服の下の膨らみは彼女のほぼ全員が同じような包帯やギプスで覆われている事を物語っていた。後で聞き及んだ話しによると、つい昨日の夜まで酸素マスクを付けていたらしい。

 「存命していたのならそれはそれで喜ばしい限りだが、今日は何の用かな? 見ての通り私は暇ではないのだよ」

 『しれっと嘘言いましたね。元より時間は取らせません、近い内に実行される作戦内容について一つだけはっきりさせておきたい事があるだけです』

 「ほうほう、医療センターに居ると言うのにもう例の作戦についてご存知とは……地獄耳なことだ。それで、現状考え得る最高の作戦内容について何を物申すのかな?」

 『では一つお聞きします。作戦を立てるに当たって人選はそちらで行ったのは事実ですか?』

 「如何にも。正確には私ではなく、許可を頂いてトーレが抜擢した」

 そう言っていつの間にかちゃんと起きていたトーレを指し示す。彼女の方は自分が話題に取り上げられた事もどうでも良いと言った感じでそっぽを向き、耳も傾ける様子は無かった。

 『では…………何故──、



 何故人選の中にエリオとキャロが含まれているんですか?』



 これは不備ではない、作戦を担当する人選の中にエリオとキャロが居るのはトーレが選んだからであり、彼女曰く「理由があるから」と言う事で入れられているのだ。だが当然あの二人の親のようなものであるフェイトからすれば納得の行かない話しだろう。既に本人達には作戦内容については伝達されており、この事件に直接関わった者の中で今まで作戦内容について知らなかったのは彼女だけだった。

 なので彼女には分からないのだ。一度大敗を喫した相手に何故もう一度戦えと言うような事をやらせるのか。エリオもキャロも馬鹿ではない……一度負けたなら深く学習して進歩する姿勢を見せるのは良く知っている。だがそれでもやはりあの“13番目”に対して二度目だからと言ってそう簡単に対抗できるとは考え難い。万一の事があって命を落としてしまっては話しにならないのだ。

 「その件についての苦情はさっきも言ったように、直接の人選を担当したトーレ本人に聞いてくれたまえ。本人は何か思惑があってやったらしいからねぇ」

 「単純だ。あの二人は“13番目”と相対した者達の中で最も損害が少なかった……それに何と言っても、あの二人は奴と相対してほぼ無傷で生き残った稀有なケース、一度戦った相手に何の善戦もせずに敗れる程に貴方の弟子は弱いのか?」

 『それは……』

 「それに、敵方がどんな方法で向かって来るかは不明だが、そうそう自分の戦闘スタイルを変えられる程器用な兵士と言うのは存在しない……その意味でも、一度交戦した経験があるあの二人は貴重な戦力になる」

 確かに、何も作戦に参加しているのは二人だけではないのだ、敵の戦闘方法をある程度知っている者が居るなら例えその者の実力が追い付いていなくとも、他のメンバーがそれを代行する形で作戦を遂行する事だって可能なのだ。冷静に考えれば案ずる必要はどこにも無いようにも思える……。

 だが相手は紛いなりにも管理局の三強とされる自分達をことごとく打ち破った相手だ、生半可な覚悟と下拵えでどうこうなるモノではない。一度戦った経験があるからと言う安易な理由だけで勝てるとは到底思えないのも事実だった。

 「なぁに、問題は無いさ。作戦指揮には八神二佐も参加される……いざという時にはそちらを頼れば良いだけの事だ」

 「と言う訳です。ご安心を」

 『…………分かりました、私は本来部外者ですから……これ以上は何も言いません。でも……決してあの二人に無理はさせないでください……』

 「相分かった。約束しようじゃないか」

 『お願いします……』

 回線が切れて一瞬だけ静寂が戻る。フェイト自身はまだ肉体の治療が最優先の状態であり、戦線に復帰するのはまだずっと先だ……本来ならば三強である彼女らの力も借りたいのは山々なのだが、フェイトは全身に過大なダメージを負い、なのはは脳を浸食されて感覚を麻痺し、はやてでさえも右目を失った状態ではまともに戦える訳が無かった。

 『…………で? 本当の理由は詰まるとこ何なんですか?』

 「おやおや、二佐殿はこれ以上何を疑問に思うのかな? 理由はさっきトーレが申し上げた通りのはずだが?」

 『惚けんといてください…………衰弱し切ったフェイトちゃんを騙せても、選定の理由がそれだけじゃない事ぐらいこっちにも分かる事や。それに、一度交戦した経験者って言うんやったらギンガを選ばんのも不自然が過ぎる……私にも言ってへん本当の理由……教えてもらおか』

 プライベート以外で仕事口調でない時の彼女は決まってすこぶる気分が良い時か、或いは果てしなく気分が悪い時のどちらかに絞られている。今回は間違い無く後者だと言うのは付き合いの短いスカリエッティ達でさえ容易に判別できた。気が立っている女性を煙に巻こうとする行為程に愚かなモノは無い……聡明な頭脳を以てそう判断した彼は目配せでトーレに真相を言うように指示をした。ちなみにこの件についてはスカリエッティとウーノは本当に真実を知らず、結局トーレ本人の口から話してもらわなければいけなかった。

 「……………………私は……私はその結論に至った過程こそドクターとは違うが、基本的に私の『弟』と例の“13番目”は全くの別の存在だと認識している。私の知っているトレーゼは間違ってもそのような蛮行は行わない」

 『……それで?』

 「だが……だがドクターが仰ったように、この世の事物に『絶対』と呼べる現象は有り得ない。もし、もし仮に、万に一つの可能性として……件の“13番目”が私の『弟』と言う可能性も、充分に有り得るかも知れない……。もし…………だからもし仮に一連の事件の首謀者がトレーゼであるとするならば、これは賭けとなる」

 『賭け? そないな馬鹿馬鹿しいギャンブルじみたモンにあの二人を巻き込むんか!!』

 「ノーリスクでは結果は得られない……この作戦に賭けるしか無いんだ」

 『他人事やと思うて……!』

 「ああ、他人事さ。この作戦が成功しようと失敗しようと、その結果として二人の命が消え果ようとも、結局私にとってはどうだって良い事に変化は無い。だが『弟』は別だ! 僅かであっても“13番目”がトレーゼである可能性があるのなら、私はその可能性に賭ける……あの二人も、例の抑止力候補も、その為の駒、その為の牌でしかない。理解しろとも恨むなとも言わん、ただ黙って利用されていてくれさえすれば良いんだ」

 『……………………外道が』

 「何とでも言え……所詮、私は人造物だ、血は通っていても涙は出ない……そちらの言う通り、人間ではないのだから」

 両者画面越しに睨み合う……隻眼の戦乙女と金眼の人造戦士が火花を上げそうな気迫で互いを気圧そうとし、障らぬ神に何とやらと言った感じでスカリエッティとウーノは静かな嵐が過ぎ去るのを待った。だが二人の予想に反して結末は早く、そして意外と静かに終わって行った。

 『作戦についてはこちらも協力は惜しみません……万が一の為の援護部隊として陸士部隊にも話しは通しております』

 「ご苦労…………これでもう、互いに何も話す事は無いな。願わくば、全てが終わって拘置所に戻る日まで何も無い事を祈る」

 『…………それでは、失礼します』

 通信が切れる。気まずく重苦しい沈黙が室内に充満し、流石にそれまで冷静沈着を保っていたウーノですら自分の妹の思い切りの良過ぎる行為には内心肝を冷やしていた。だがそんな彼女とは対照的にスカリエッティの方は満足気に笑みを浮かべてソファに踏ん反り返っており、自分の前に機嫌悪そうに座って居るトーレにささやかな拍手を送ったのだ。

 「素晴らしい……私は今純粋に感動しているよ、トーレ。“私”を殺して頑なに命令に従い、決して自分から余計な事をせずに一線を引いていた君が、初めて自分の意志を明確に相他人に押し付けたのだよ。自分の作りだしたモノの成長を見る事がここまで気持ちの良いモノだったとは……感謝しているよ」

 「……満足頂けたなら結構です」

 「流石はトレーゼの『姉』だな。いや……本来ならば『妹』、もしくは『娘』と言った方が良いのかなこの場合は?」

 「どちらも不適切です。私が『姉』で、あいつが『弟』……この事実に変わりはありません」

 「そうか……なら良いさ、それでも良いさ。君と彼がそう取り決めたのであれば私は何も言わんよ、忘れてくれ」

 普段は決して自らの内側を人に明かそうとしないトーレがここまでの我を通すのは久しく見た覚えが無かった……。逆に言えば、その彼女にはここまで言わせるだけの執念があったと言う事にもなる。

 「…………嗚呼、今日も……日が落ちる」

 窓の向こうに見える灰色の地平線……その先では冬の太陽が赤い色でミッドの半球を照らしていた。










 同時刻、スバルの自宅にて──。



 「まぁ、やっぱりこう言う事なんだろうなって予想はしてたけど……」

 室内の様子を確認しながらギンガは溜息混じりに呟いた。家から予備の鍵を持って来たのだが、その鍵ですら開いたままもぬけの殻となっており、寝室は何やら不自然に散らかっていた。そして居間のテーブルには妹の持っているはずの携帯電話がそのまま置き去りにされていた。

 「……あの子ったら、どこに行ったのかしら? 連絡も無しにどっか行く程教育悪く育てたはずないんだけど……」

 何か置手紙程度の物でも無いかと居間の中だけでも徹底的に家探しを始めた。一人暮らしの超絶プライベート空間を荒らすのは趣味ではないのだが、あの状態の妹をそのまま野放しにするのは流石に無理があった。そんなこんなで、彼女は置手紙なんか有りそうにない台所の収納スペースなどに手を伸ばしていた時──、

 調理に使う鍋の中に何かが入れ込まれている事に気付いた。

 「?」

 仕舞い切れなかった器具をそこに入れてあるのかと思いながら手を入れて取り出して見ると……。

 「…………何よ、これ……!?」

 ナイフだった。それも果物を切るのに使用する小さな物ではなく、明らかに人を殺傷する事を目的とした凶悪なフォルムな物だった。それが八本も無造作に入れられており、どうにもただ単に入れてあると言うよりかは、人目を避けるように『隠して』あるように見受けられた。ただこの状況で分かるのは、少なくともギンガの知るスバルはこんな物を持つ趣味は無いと言う事だけだった。

 そしてそれを前提とした場合、当然の如く疑問が発生する。そう、『何故こんな物がここにあるのか?』と言う疑問だ。だがそんな事をいちいち気にしていては時間の無駄だと判断したのか、彼女は固定電話の受話器を取り、自分の自宅に番号を合わせた。

 「あ、もしもしチンク? うん……結局居なかったわ。その事なんだけど、ちょっと調べてもらいたい事があるの……。ええ、何か不審な臭いがする物を見つけちゃったから……」










 「…………終わったね」

 「……ああ、貴様は、特に何もしなかったがな」

 「してたじゃん!? 麻酔とか頑張ってたよね!?」

 「今度、縫合して見ろ」

 「……ごめんなさい」

 冬の太陽はとっくの昔に地平線の向こう側に息を潜め、クラナガンを夜の帳が覆い隠していた。三人の乗っている車内も天井の小さな電灯だけで照らしている状態だった。既に問題の縫合は終了し、車内一杯にまで広げられていたビニールは折り畳まれ、二人とも白衣と手袋も仕舞っていた。ヴィヴィオの方はと言うと大量の血液を失った代わりに全身に環状魔法陣を展開させ、体表から直接大量の酸素を取り込む術式を使用されていた。だがこれは一時的な処置でしか無く、トレーゼが言うには輸血かその代わりになるモノで血液の代替としなければならないらしい。幸いにもラボにはまだ使用可能な培養槽が幾つも残っている為、そこに入れて安静にさせるとトレーゼは提言した。

 しかし、そこで「そうですか」と言って引き下がる訳には行かないのも確かな事実だった。ここまでの多くの犠牲を払いながら目の前でヴィヴィオを連れ戻されれば何の為に自分がここに居るのか分からない……スバルは何としてもここで彼女を奪還する必要があった。しかし彼の実力を考えれば奪還は愚か、ここから離脱するのでも難しい……それこそ手足を失うだけでは済まないかも知れない。

 そして、そんな彼女の心理を察したのか、運転席に座っているトレーゼがバックミラーからこちらを凝視しながら話しかけて来た。

 「それで……今から、どうする?」

 「……どうするって?」

 「惚けるな……。俺はこのまま、こいつを持ち帰りたい。だが、貴様はこいつを、俺から取り返したい…………なら、どうする?」

 ここで彼が問うている真意は、相反する自分達の目的を再確認する事で互いがどちらに属しているかを自覚させ、その上で互いの行動をどうするかとわざわざ猶予を与えて質問をして来ているのだ。それはつまり、返答次第では例えヴィヴィオの見ている前であろうと躊躇無くこちらを殺すつもりなのだろう。回避する方法としては何とかして結論を先延ばしにし、はぐらかす事だが……。

 「この問いの回答として、こちらから、三つの選択肢を提示してやる。どれか選べ」

 流石に相手もこっちの手の内を熟知して来ているのか簡単には逃げ道を作らせてはくれなかった。先に回答を絞る事でこちらの意志を明確化させ、言い逃れ出来なくする為だ。

 「まず一つ……力尽くでこちらから、“聖王の器”を奪還する」

 座席の脇から一本指の立ったトレーゼの左手が覗き出る。これは現時点ではほぼ100%無理な話だ、スバルは両足の再生を終えたばかりで本調子ではなく、更に右手は未だに欠いている状態だ……とても戦闘にはなりそうもない。

 「二つ……こちらに属し、以後全面協力する」

 つまりは軍門に降れと言う事だ。だがそれは上記以上に無理難題……今まで世話になった者達を後足で砂を掛けるように裏切る事が何故出来ようか。それならいっそ自殺したほうがどれだけマシか。

 「そして三つ…………これが最後だ」

 “最後”……つまり三つある選択肢の最後と言う意味では無く、これが譲歩出来る最後のポイントと言う意味なのだろう。立てられた三本の指のそれぞれの重さを今の彼女は重々理解していた。

 そして──、

 「今後一切、こちらに関わらない事。こちらの起こす、行動に対し、如何なる形であろうとも、無関係で在り続ける事…………そうすれば、以後少なくとも、貴様に対してだけは、何の危害も加えないと、宣誓しよう」

 「……………………」

 言いたい事は分かる……今後彼が如何なる行動に出ようとも、こちらから接触しない限りは身の安全だけは確保出来るのだ。つまり……自分の周囲の人間達が死屍累々となろうとも、自分だけは見逃してもらえるのだ。何と魅惑的な条件であろうか!

 だが……。

 それは『逃げ』だ。相手の用意した無意味に安全なレールの上をただ走って逃げるだけの行為……それは戦わずして敗北しているのと同義だ。だが逆に言えば自分には戦うだけの実力も無いのでこの条件はさっきも言ったようにとても魅惑的な条件でもある。自分の意地と欲望が渦巻く中で彼女は考える……そして──、

 (やっぱり…………逃げるなんて出来ないっ!)

 余裕の無いはずの心の中で意地が軍配を上げた。そこから先はほんの数秒程度の事だったが憶えてはいない……変に頭が冴えていたとしか彼女の脳髄は認識出来なかった。

 選んだ答えは一番目の答え……即ち、命を賭してでもここでヴィヴィオを連れ出す!

 後部座席でのスバルに動きがあったのを察してか、運転席に座るトレーゼが左手を引っ込めて丁度死角となる位置に手を置き、爪先にブレードを出現させた。勝負はたったの一瞬で決着がつく……次の瞬間にスバルがドアを蹴り破って外に出るか、それともトレーゼが彼女の首を刎ねるかだ。

 狭い車内で更に両者の距離が縮まり、既に互いの制空圏は重なっている状態であった。そして、スバルの左手がヴィヴィオの肩に触れた時──、



 彼女の表情が何故か悲しげな事実に気付いた。



 とても悲しい顔……今にも泣き出しそうな顔だった。自分の身を案じてくれているのだろうか?

 いや、違う。口元が微かに動いて何かを喋ろうとしていた。ただ喋る力が無いのか声は出ておらず、単に唇だけが動いて何かを伝えようとしていた。読唇術なんてモノは身に付けてはいないが、それでも口の動きを見ればある程度は何を言わんとしているかは分かる……スバルは少女の口元を凝視し、彼女の意思を読み取った。



 “わ”

 “た”

 “し”



 「……………………」



 “だ”

 “い”

 “じ”

 “ょ”

 “う”

 “ぶ”



 「ヴィヴィオ…………」



 “い”

 “っ”

 “て”

 “く”

 “だ”

 “さ”

 “い”



 「ッ!!」

 ヴィヴィオは自分の出来る限りの満面の笑みを湛えながら最後に──、



 “マ”

 “マ”

 “に”

 “は”



 “し”

 “ん”

 “ぱ”

 “い”

 “し”

 “な”

 “い”

 “で”

 “っ”

 “て”



 “い”

 “っ”

 “て”

 “く”

 “だ”

 “さ”

 “い”



 「…………ヴィヴィオっ!」

 自分が、せめて今この一瞬だけでも身を捧げれば両者の無意味な争いを回避出来ると知っていたから……この幼き少女は自分よりも目の前のスバルの身を案じてくれていたのだ。それは暗にスバルに対して勧告しているのでもあった……「逃げてくれ」、と。

 「…………三番……」

 「何がだ?」

 「さっきの……答え。三番」

 流れ落ちそうになる涙を必死に堪えて隠しながら、彼女は幼き少女が自分の為に作ってくれた架け橋を渡ろうとしていた。それが逃避と言う行動になろうとも、今のスバルにはそれを選択するしか道は残されていなかった。

 「……受理した。今後一切、このNo.13『Treize』は、タイプゼロ・セカンドに対し、あらゆる接触及び関係を、断ち切る」

 宣誓の後、運転席から外へ出た彼はスバルの座る座席のドアを開けて彼女を外に出るように促した。無言だった……このドアを通り抜ければ恐らく自分と彼は二度と言葉を交わす事も無ければ、下手すれば後ろ姿さえも見る事は無いだろう……そう、自分は文字通り彼との縁を切ったのだ。

 「……………………」

 右足をアスファルトに押し付けるようにして降り立ち、暖房の利いていた車内の空気を入れ換えるようにして大きく深呼吸した。冷えた外気が肺胞を押し広げる感覚が胸に広がる……そんな冴えた感覚を感じながらスバルは最後にたった一言──、

 「さよなら……」

 「…………ああ、さようなら」

 互いに目も合わせないままに……二人はその短い言葉だけを最後にして別れた。涙を流す事さえ忘れる程の寂寥感と無力感に苛まれながら、スバルは帰路についたのである。



 冬の闇夜、午後19時23分の出来事だった。










 午後19時47分──。



 「無い……。やっぱり無いっ! 借りた資料が一枚足りない!!」

 膨大な資料の束を読み終えたティアナは別紙に大まかなまとめを書き出している途中、その資料の枚数を確認した。あくまでも非公式に貸与されている以上、一枚でも紛失すれば迷惑を被るのは根回ししたはやてなのだ……ここは慎重にすべきだ。

 と思っていた矢先にこれだった。最初に貰い受けた時に確認した枚数と今確認した枚数が何度やっても一枚合わないのだ。

 「道理で内容がどっか噛み合わないと思った訳よ……。無くしたとなれば……やっぱりあの時よね」

 あの時と言うのは、ここへ帰って来た時に窓を開けて突風に見舞われたあの瞬間を言っているのだ。あの時の風で大半の紙が吹き飛ばされ、全部回収したはずだったのだがどうやらそれだけが紛失してしまったらしい。とは言っても昼間ここを出る時にはしっかり有ったので、部屋のどこかに必ずあるはずだった。

 だがいざ探そうとして行動すると意外にも見つからず、いつの間にか彼女は冷静に考えればまるで見当違いのはずのバスルームにまで顔を出しては焦りを感じていた。一応仮にも押収物を無理言って持ち出しているので、紛失しましたなんて言った日には始末書や減俸どころの騒ぎではなくなるだろう……最悪、自分の持っている執務官の資格の一部を剥奪されても文句は言えないだろう。

 「あ~もうっ! どこに行ったのよ、ったく。落とし物ってこうだから……!」

 プルルルル♪

 「はい、ティアナ・ランスターです。ギンガさん…………え、帰って来たんですか、あのバカ? え……? はぁ……まぁそう言う状態だったんなら少しそっとしておいた方が良さそうですね……。ええ、また少ししたら元気になるでしょうし……はい」

 受話器置く。捜索再開。

 「あのバカ! 散々人心配させといて涙目で帰ってくるって……泣きたいのはこっちよ」

 プルルルル♪

 「…………ティアナ・ランスターです。はい……? いえ、違います、人違いです」

 受話器置く。捜索再開。

 「電話番号は末尾まで確認しなさいよ! こっちはいつまでも暇じゃ──」

 プルルルル♪

 「はいランスターです! って、おうわぁあっ!!?」

 苛立ち始めていた彼女は三度目になる電話で受話器を乱暴に取り上げた拍子にバランスを失い、右足を挫き損ねる形で横転してしまった。急いで受話器を取ろうと体勢を立て直す過程で頭を上げ──、

 ベッドの下に一枚の紙が入り込んでいるのを発見した。

 「あ……っと! はい、すみません。いえ、ちょっとこちらの事で取り込んでいただけですから。それでご用件は?」

 急いで紙面の内容を確認しながら電話内容も同時に聞き取りを始める。そこは流石に執務官、取り調べや情報のやり取りなどで常にあらゆる聴覚情報が自然と耳に入って来るようになっているのでお手の物だった。電話の相手は鑑識課の人間で、今日彼女が臨時に参加を要請されていた案件についての事で報告があるらしかった。

 「はぁ…………それで、その現場付近に付着していた吐瀉物の鑑定結果が……?」

 とは言っても、実際は受話器の向こうよりも今自分が目の前にしている資料の方がずっと優先順位の高い物だと判断していた彼女は、受話器の向こうの人間の言葉を軽く話半分で聞きながら資料に集中していた。そして紙面の文字よりも大々的に記載されているその顔写真を見た時──、



 刹那の瞬間だけ意識が止まった。



 それはもう綺麗さっぱりと……彼女は自分の体感時間がぴったり停止するのを感じていた。左耳に当てた受話器から何か声が出ているが、そんなモノはもう聞こえてはいなかった。今の彼女の意識の大半を埋め尽くしているのは──、

 混乱。

 えっ? 

 嘘、そんな事が……!

 馬鹿な!?

 でも……

 あれは確かに……!

 じゃあ、『あれ』は一体何だったのだ!?

 様々な疑問が混沌と頭の中を駆けずり回って彼女をさらに混乱させ、それなのに両目は意思の働きから外れたように紙面に書き込まれている膨大な情報を読み取ろうと無意識に動き、その脳に更なる隠れた真実を送り込んでいた。二行……四行……八行…………とうとう紙面の半分を読破した時、彼女はそこに秘められていた恐ろしく、それでいて尚且つ壮大な事実の一端を……知ってしまった。

 そう、『知ってしまった』のだ! 知らなくても良いのに……知らずに居た方が良かったのに、彼女は不用意に知ってしまった。その事実は彼女に衝撃を与え、そして……

 「これが……これが人の、血の通った人間のする事なのっ!!? 有り得ない、有り得ないわよ」

 相手の意思も確認せず、憤りに任せて彼女は乱暴に受話器を置いて通話を切断し、また新たに電話番号を押して掛け直した。だが通話の相手はさっきの鑑識課の人間ではなく、彼女の良く知る人物であった。

 「もしもし、八神二佐ですか。お仕事中に失礼しますが、大至急お伝えしたい事があって……。はい、例の資料の件です……お時間、よろしいですか?」










 「ここが、お前の寝る場所だ」

 地下ラボのとある区画……かつてナンバーズ上位の者達が使っていた培養槽が安置されている空間に、トレーゼはヴィヴィオを連れて来ていた。即席で台座に車輪を取り付けた移動式のベッドに彼女を乗せながら彼はいそいそと培養槽に彼女を入れる準備を整えていた。このシリンダーの中に液を満たし、その中に対象となる生物を入れる事で人工的に生物の子宮を再現するのだ。液は自然と皮膚呼吸を促進させて体表からの酸素供給率を上げ、不足分の血液と組織液が体内で生産されるまでそれを続けるのだ。培養液には自然治癒能力を高める効能もある……完治とまでは行かないだろうが、骨折した右腕をある程度まで回復させる事は可能だろう。

 「安心しろ、ここには、クアットロは近付けさせない……。お前の右腕も、傷痕も残らないように、善処しよう。もちろん、これまで通りに、動かせるようにもする」

 奥の収納スペースから酸素マスクと、それを繋ぐホースを取り出し、それを培養槽の脇に設置してある酸素吸入機器に接続した。これを通じて酸素を吸い込むのだ。

 「ああ、だがその前に……お前の血液を、少し頂くぞ」

 事前に持ち込んでいた注射器を取り出し、彼はヴィヴィオの左腕を消毒してから針先を当てた。小さく鋭い痛みが走り、彼女の静脈血が抜き取られるまでそう時間は掛らなかった。

 「────────」

 「ん? これか? お前の持つ、特殊能力……絶対防御の力、『聖王の鎧』が入り用でな…………少し貰っただけだ。カードは、多いに越した事は無い」

 「────────」

 「……それは、無理だ。計画の遂行上、奴らとは決して、相容れない……互いのどちらかが、潰れるまで、戦わなくてはならない」

 再びトレーゼは別の注射器を取り出した。今度のは既に容器内が液で満たされており、本体もずっと小さかった。

 「怖がるな。安眠用に、少量の沈痛剤を、投与するだけだ」

 再び針が進入する感覚を覚えながらヴィヴィオは一息ついた。今は喋る元気も無いが、今は彼女自身の回復力に賭けるより他は無いのだろう。

 と、安心して少し気が緩んだのか、ヴィヴィオは自分の目蓋が嫌に重い事に気付いた。何度目を見開こうとして頑張っても目の皮の弛みは引き締まらず、彼女はトレーゼにまだまだ聞きたい事があるのにと顔を上げ──、

 「言い忘れたが、鎮痛剤には、微量の睡眠薬も、混ぜ込んでおいた。もう効果が…………ああ、おやすみ」

 少々強引な方法だったかも知れないが、こうでもしないとこの少女はいつまで経っても自分から離れないだろう……それに、今から少しこの子を使って在る物を制作しなければならないのだから……。

 取り出したるは小型のビデオカメラとガムテープ、そしてロープ……それら一式を構えてトレーゼはポツりと……

 「こう言うのは、趣味じゃないがな……」










 数分後、ラボ最下層の某所にて──。



 「手筈は、整っているな?」

 「は、はい……全て仰せの通りに……」

 暗闇の中でクアットロは兄に跪いた。激痛の走る右腕を庇いながら必死になって自分の誠意をアピールする……今度は首を飛ばされない為に。

 「…………これで、全てか?」

 「はい、ここにあったモノは全部……」

 「そうか……。存外、多く残っていたな」

 一歩を踏み出したトレーゼの足元に真紅のテンプレートが出現し、回転を始めた。彼の持つ十四……否、今では既に十五となったISのどれかが発動したのだ。そして暗闇を照らす光源の上に立ち、彼は眼前に手を掲げて……



 「IS、No.14……『コンクエスト・マリアージュ』、発動」



 空間全体が鮮血よりも紅い光で覆われたのは一瞬……その一瞬の時が終わった後、クアットロは自分の目を疑った。そして次に平伏すのだ……自分の兄が成し遂げようとしている事の重大さと、彼自身の恐ろしさに。全てが終わった後にトレーゼは踵を返し、自分の方を一瞥もせずに次の要求を通して来た。

 「明後日の昼までに、“これら”を所定のポイントまで、輸送する手続きを済ませろ。そうすれば、計画はより、盤石なモノとなる」

 「ほ、本当に“これ”を輸送するんですの? あ、いえ、もちろんお兄様の作戦を疑う訳ではありませんのよ! ただ、もし不都合があった時の為にと……」

 「貴様は、黙って俺の命令を、聞き入れれば良い。何なら……さっそく、“これ”の餌食に、なってもらうぞ?」

 その瞬間、暗闇の奥で大量の“それら”が蠢いた。その感覚はそう、丁度檻の中の猛獣が臨戦態勢を取った瞬間のあの緊張感に似ていた。気を緩めれば殺られる……! そんな張り詰めた感覚が彼女の神経を伝って脳にリアルタイムで送り込まれていた。

 「申し訳ありません! 全てはお兄様の仰せの通りにします! 何なりと申しつけてください」

 「それで良い……。お前も、少し位は、優秀である所を見せてみろ……」

 「はい……」

 「では、後は任せた」

 階段を上がり、彼は上層階へと戻る。重厚なバルブ式のドアを開けると外側から光が差し込み、眼球の虹彩が一瞬で縮むのが分かった。だがそのたった一瞬で外の眩しさに慣れた後、彼は一直線にラボへと向かう事にした。ヴィヴィオの様子はあちらにある監視カメラからでも把握出来る……もし次に自分の妹が手を出そうものならその瞬間にこちらに丸見えだ。今度は腕や足だけでは済まさない……。

 生体認証をすべてクリアし、ラボに通じるドアが開くと彼は車輪付きの椅子にどっかりと腰を落ち着けた。だが休む間も作らずすぐに施設内の様子をモニタリングする。大画面にカメラの設置数だけの映像が出現するが、彼が確認するのはヴィヴィオの居る培養槽とクアットロの仕事場だけなのでそれ程忙しくは無い。むしろ少し忙しいのは──、

 「これだな……」

 懐から取り出したるは一枚のディスク……家電製品のプレーヤーで再生可能な記憶媒体だった。それを取り合えず脇に置き、彼はそれとは別に小さな紙片を取り出してそこに小さなペンで何かを書き込んだ。そしてそれを小さく折り畳みながら更に緩衝材の代わりとなる発泡スチロールを適当に切り崩し、そこに作ったスペースにディスクを入れて継ぎ目をテープで留めた。

 「あとは、これをこのダンボールに、詰め込んで…………良し」

 丁度人の頭より一回り小さめのダンボール箱に入れ込んだ後、その表面にさっき何かを書き込んだ紙を張り付ける。これで完成だった。

 これでやっと一息つける……クアットロが作業を終えるまで見張りを続けなければならないが、それはここで座りながら出来る事なので大して苦労ではない。後は今後の計画の練り直しをしつつ、引き続きインゼクトを駆使して管理局関連の情報を取り出し続けるだけだ。

 と、ここで彼は現在更正施設に居るセッテからの情報を再確認していた。流石にこのタイミングで相手がウーノを出して来るとは思ってはいなかったが、相手がこれまでからずっと彼女をダシに使う作戦を練っていなかったとも考えられない……恐らくは陽動、もしくは本当にウーノを据えてこちらに決死の誘い込みを掛けて来ているかのどちらかだろう。もしこのタイミングを見計らってこの作戦を立案しているのだとしたら、自分は相手の戦略眼を少し見誤っていたかも知れない……何せこちらの作戦が明後日の深夜に対して相手方が同日の朝方から昼に渡ってだ。これを偶然の一致と捕えるには少々難があるだろう。かと言ってこの作戦を、鬼才とは言えあの八神が一人で立案したとは到底思えない……誰か他に助言をした知恵袋の様な者が居るはずだ、でなければあの詰めの甘い彼女が人を餌にする作戦を思いつくはずが無いのだ。

 「分からんな、どうも」

 不明な事だらけだ……まぁ、未来の事物なんて言うのは大抵不確定要素だらけなのだが。考えても仕方が無いと彼は思考を放棄した。詳細はその時になってから考えれば良い……それまでは、眼前の障害物を消し潰すと言う方針でも構わないと判断したのだった。力押しは単純ではあるがそれ故に効果も大きい……かつて彼が姉の一人から教わった事だ。

 そう、未来の事なんてのは誰にだって分かりはしないのだ。十年後……五年後……一年後……半年後……一ヶ月後……一週間後……明日……半日後……一時間後……三十分後……ひょっとすれば五分先に起こるであろう出来事でさえも予測は出来ないのだ。自分だってそうだった……ある日突然姉達から切り離されるとは思いも寄らず、そしてその17年後に覚醒した事でさえも予測出来ていなかったのだから……。

 そして──、



 ピリリリリ♪ ピリリリリ♪



 今こうして自分の携帯に再び着信がある事だって予測してなどいなかった。

 誰からだ? スバルではないはずだ、彼女には散々釘を打って今日も相互不可侵の停戦協定を結んだばかりだ。まさか舌の根乾かぬ内からいきなりそれを反故にする程に彼女も愚かではないだろう。なら一体誰だ?

 番号を確認する……。一応スバルではないが、番号の並びから察するに携帯電話ではなく、家庭に置かれている固定電話のパターンが表示されていた。当然だが全く見覚えが無い。

 「……………………」

 怪しい……そう思いつつも疑念より興味が勝ったのか、彼は自分でも不思議に思う位軽く通話ボタンを押し、受話器を耳に押し当てた。そして、ほんの数秒の沈黙を破って聞こえて来た声は──、

 「なんだ……お前か…………何の用だ?」



 彼の知る人物からだった。




















 新暦85年3月7日、時空管理局本局のとある個人事務室にて──。



 「それで、貴方の初仕事だけれど、どうだったかしら? 新兵訓練の調子は?」

 事務室のデスクに座って映像回線越しに言葉を交わしているのは、機動六課設立の際にその後見人となり、現在は前線からは完全に身を退いて本局の内勤に従事している元提督……リンディ・ハラオウン総務統括官その人だった。もう既に中年と呼ばれる年代を過ぎ、初老を迎えているにも関わらず、肌は皺一つ無く、深い緑の長髪にも白髪どころか昔のように艶を保っていた。そんな彼女が今仕事の合間に会話している相手は、現在遠く離れた地上本部で自分と同じように仕事に合い間を見つけて話している相手だった。

 『“新兵”と言う言い方は正しくは不適切だ。時空管理局は軍隊ではない……』

 「あら、ごめんなさい。現場を離れ過ぎたかしら……少し気が緩んでいるのかしらね」

 『例の新入隊員達の件だが、結論から言えば悪くは無いとだけ言っておこう。こちらに編入した時点で既にタカマチからある程度の訓練は受けて来ているからな……磨けば使い物にはなるさ』

 「そう、なら良かったわ。その様子だとまだ扱き過ぎて壊れかけって言う訳じゃないみたいね」

 『だが……良いのか? 最初から俺にこんな仕事を与えても……』

 「新設の部隊にはどうしても実力の有る人材が必要なのよ。ミッドは実力社会だから、良い人材は全部余所に取られてしまうもの。貴方も四年前から保険を掛けておいて本当に良かったわ」

 『その心配は無用だったかも知れないな。俺は一部を除いて引き取り手は皆無だったはずだ』

 「私がその『一部』に入ってたのよ」

 年甲斐も無く悪戯味の利いた微笑みに、画面の向こうに居る彼は溜息をついていた。そして急に佇まいを直して改まった風になり、彼は急に敬礼した。

 『こんな自分にも必要とされるチャンスを与えてくださった事に俺は今でも感謝しています、ハラオウン統括官』

 「嫌ねぇ、そんな畏まっちゃって。私達と貴方の仲よ、何も遠慮する事は無いわ。それに、その感謝の気持ちは私じゃなくて……」

 『承知しています。あれには文字通り、幾ら感謝しても足りませんので……』

 「でも、あの子は満足しているわよ、きっと」

 『ありがとうございます。それでは、俺はこれからN・ライトニング隊の訓練補佐があるので、これで失礼します』

 そう言うと彼はリンディの応答も得ずにそのまま通信を切断した。普通なら失礼とも取られる行為だが、彼女は相変わらず微笑んだままであり、通信を切った遠い地の彼に向って呟くようにこう言った。



 「期待してるわよ────、ナカジマ一等空尉さん」



[17818] とある一等空尉の回想
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:73ca1900
Date: 2010/11/01 00:37
 新暦86年某月某日、地上本部中庭にて──。



 「やぁナカジマ空尉。最近の調子はどうだい?」

 「テンプレだな、その台詞。もう少し違うのが吐けないのか」

 「いきなりご挨拶だな君も……。て言うか、君こんな所で何してるのさ? 確か模擬戦があったはずじゃなかったっけ?」

 「ああ、あれか。開始から16分09秒でケリを着けて来た。二か月前と比較して約30秒も長持ちしているのを考えれば、あいつらも進歩しているんだな」

 「おかしいなぁ……戦力差は1:30ぐらいはあるはずなんだけど……。君を見てると、昔のなのはを思い出すなぁ」

 「俺をあんな猪突猛進女と一緒にするな。と言うか、お前もこんな所で何をしている? 仮にも司書長だろ、お前」

 「僕をそんなに甘く見てもらっても困るよ。初めて着任した時ならいざ知らず、あれからもう十年以上経ってるからね……無限書庫は僕がいつ降りても問題無いようにしてあるさ」

 「とは言っても、あの提督から来る資料請求を捌けるのはまだお前しか居ないはずだぞ」

 「そうなんだよなぁ~。あれの所為で僕も年間の有給が溜まって溜まって……なのはとデートする余裕も無いよ。その点、君は良いよね……確か、年間の有給休暇を殆ど消化しちゃってるって聞いたけど?」

 「どうでも良いだろう、そんな事は」

 「でもまぁ、僕はともかくとして、他の皆は結構忙しいながらも楽しんでるみたいだよ」

 「だが、七年前はそうも行かなかったんじゃないのか?」

 「まぁ…………色々込み入った事もあったからね」




















 新暦78年11月21日、午前6時30分。高町なのはの自宅にて──。



 ハウスキーパーであるアイナの仕事は基本的にこの家の主人であるなのはの留守中、家の中の掃除や早くに帰宅するヴィヴィオの出迎えなどを主としている。最近になってそんな彼女の仕事が一つ増えた……他でも無いなのはの身辺の世話である。“13番目”との戦闘でその脳に魔力ノイズを埋め込まれ、まっすぐ歩く事さえ難しくなった彼女は現在局での公務を全てキャンセルし、自宅での療養を余儀なくされている状態にあった。彼女の復帰の目処が立つまでの間だが、アイナはその世話をする役目を進んで引き受けたのである。

 そんな彼女の朝は早い。日の出と共に目覚めて着替えを済ませ、玄関の軽い掃除とポストに何か配達物が無いかを確認し、それらを素早く済ませてから朝食を摂るのが彼女の日課だった。今日もいつもと同じようにしてベッドから起き、着替えと軽く身嗜みを整えた後、普段通りに外に出て──、

 玄関の前に小さな箱が置かれているのに気付いた。

 本当に小さかった。人の頭よりも少し小さく、片手ですんなり持ち上げられる程に軽かった。表面に運送会社とかのロゴが印刷されていないのを怪しみつつ、裏面にも目を回したら……一枚の紙が貼られていた。そこにはまるで印刷されているみたいに達筆な感じで何かの文章が書かれていた。



 『高町一等空尉へ。
           ────No.13より』



 「これって……!?」

 自分の手に握られた物が想像以上に重大なモノだと理解した彼女はそれを抱えながら大急ぎでなのはの寝室に飛び込んだ。もちろん、その友人である八神はやてにも連絡を入れてだ。










 スバルが泣きながら帰って来た。それもほんの少し涙目になってではない……大泣きだった。一体どうやって人目のある道を歩いて帰って来たのかと逆に怪しくなるぐらいのモノで、それを見たナカジマ家の面々はすっかり面喰ってしまった。

 先に帰って来ていたギンガがスバルの家から何かを見つけたと言うのは聞いていた。何を見つけたのかは知らないが、少なくともチンクと一家の主であるゲンヤはそれが何なのかを聞かされていた様子だった。当の本人が帰って来たらそれを問い質すつもりでいたようなのだが、如何せんそのスバルが異常な状態で帰って来たのでそれもうやむやになってしまった。それもそうだろう、ドアを開けてギンガを姿を見つけるなりその胸に飛び込んで子供のように言葉も話さず一方的に泣き叫ぶのだから……。

 だが、そんな彼女の姿を見て純粋にやきもきしていたのは実はゲンヤだけで、後の姉妹達全員は一つの共通した予測を頭の中に導き出していた。俗に言う、『嫌な予感』とか言うモノでもあった……。

 何故か? 彼女は今日友人とデートに行って来ていたはずだった……雨が降って来た後は知らないが、少なくともデートをしている間は何も問題は無かったはずだった。その後、彼女は雨を凌ぐ為に自分の家に行っていたのは電話で確認したのでそれも問題は無い。だがあの時スバルは傍に彼が居るかどうかを訊ねられた時、居ないと答えたはずだ。だが彼女のあの悲しみ様はどう考えても一人で行動していてなるモノではない……明らかにその悲しみの要因を作った誰かが居るはずだった。

 だが誰が? その疑問が浮かぶと同時に、ギンガ達姉妹はある人物を思い浮かべていた。

 それは今日彼女が共に行動しているはずだった友人の事だった。ギンガとゲンヤは仕事に行っていたので詳細は分からないが、他の四人は昼間のスバルと連れの動向を気に掛けてその様子を見ていたはずだ……認めたくは無いが、その友人が彼女に悲しみを与える要因を作ったとしか考えられない。

 その仮説に一番過敏に反応したのはノーヴェだった。食事中に大泣きして帰って来たスバルを見た彼女は一瞬でその仮説を打ち立てたのか、スバルの上着のポケットから携帯電話を取り出し、液晶に穴を開ける勢いでボタンを押しながら固定電話の前までやって来た。確認した番号を振るえる指で押しながら、ノーヴェは相手が受話器に出るのを待った。

 「…………おう、あたしだ。ノーヴェだよ」

 背後で他の家族が見守る中、電話の相手はすぐに出てくれた。スバルは落ち着くまでの間だけギンガと一緒に寝室に連れて行かれ、残りの家族が背後から数珠繋ぎになって様子を見守っていると言う形となっていた。

 「…………今さっき……スバルが泣いて帰って来たんだ。どう言う事なんだよ?」

 落ち着いているように思えるかも知れないが、彼女が嫌に落ち着いて言葉を出す時は大抵相当怒ってテンションが一周回ってしまっている時だ……。導火線に火の点いたダイナマイト……下手な反応を返せばその瞬間に怒声どころの話では済まなくなるのは背後の姉妹達も理解していた。せめてそうならないようにと祈りながら、事の経過を見守っていると……。

 「……ちょっと待てよ、それってどう言う…………何だよそれ! ふざけんなっ!」

 相手が何か気に喰わない事を言ってしまったようだ……最悪、電話そのものを買い替えなければならない事も考慮しておこう。背後からでも分かるその怒りようにチンクが諌めようと手を伸ばすが──、

 意外にも彼女の怒りはすぐに矛を収めた。

 「そうかよ…………ならいい、あたしは何も言わねぇよ。……じゃあな」

 やけに冷静になったノーヴェの様子を訝しみ、受話器を置いて通話を切ったのを確認してからチンクは声を掛ける事にした。

 「友人殿は何と言っていた? やはり、何か知って……」

 「ううん……。何も言ってくれなかった。ただ……」

 「……ただ?」

 「…………あいつとは……スバルとは、もう終わったんだって言ってやがった。だからもう互いに関わらない事にしたって……」

 「終わったって……別れたッスか!?」

 「分かんねぇよ! 何も言わなかったんだ……何にも分かんねぇって」





 これがつい昨夜のやり取りである。





 「スバルはまだ起きないのか?」

 朝食の時間になっても一向にスバルが寝室から出る気配は無い。昨日の夜帰って来てからシャワーも浴びる事無く寝付いてしまい、それっきり起き上がろうとしないのだ。何があったかは知らないが、友人との事がかなりショックだったのは間違い無さそうだ。

 「せめて今日一日だけはそっとしておいてあげましょう。何があったかはいずれ話してくれるだろうから」

 「…………そうだな、深く考えたって肩透かし食らうだけだ。今はただ黙っておこうか」

 「ありがとう。……あの、ノーヴェはどこ行ったのかしら? 今朝は確か居たはずなんだけど……」

 「ああ、ノーヴェなら少し前に走り込みに行ったよ」

 「あの子が何も言わないで行っちゃうなんて……」

 「聞く所によれば、スバルを振った殿方とノーヴェは知り合いだったらしい。それなりに色々思う所があるんだろうな、あいつも」










 「で、これが問題のブツって訳やな」

 受け取った一枚のディスクを左目で凝視しながらはやてはそれをスカリエッティに手渡した。彼もそれをマジマジと眺めてから再び元の持ち主であるなのはに手渡して一言こう言った。

 『ただのDVDディスクだね。何かウイルスが仕込まれている可能性も否定できないだろうから、念の為に通常のプレーヤーで再生する事を勧めるよ』

 今朝玄関前に置かれ居た小さな梱包箱の中に入っていたのは、どこにでもある記憶媒体のDVDだった。それ以外には何も入って入ってはいなかったのだが、実は呼び出したはやてが来るまでに先に開封してしまい、その事についてはかなり怒られたのだが──、

 『それは深読みが過ぎると言うものだよ、八神二佐。あの“13番目”が今更宅配テロなんかで相手を仕留めるはずがない。高町教導官は既に戦線を退いた身……追い撃ちを掛けるとは思えんよ』

 それもそうかも知れないが、だとしたらこのDVDは一体何なのか? ウイルスが仕込まれているならパソコンなどで再生した場合とんでもない事になるかも知れないが、もしそうでなかったとしたらこれには何が収録されているのだろうか……?

 「再生……してみよか」

 中身を見ない内から怪しんでいても進展はしない……ここは思い切りの良さに賭けて見るより他は無さそうだ。そう判断した彼女はなのはに軽く目配せして意思を確認した後、ディスクをプレーヤーに挿入してリピートボタンを押した。始めの十秒程は何も録画されていないのか画面全体がブルーで、しばらくしてからいきなり画面が薄明るいどこかの部屋を映し出した。どうやらカメラを手で持って録っているようで手振れだらけだったが、やがて固定台に乗せたのかすっかりそれは収まった。その直後、彼女らにとって聞き覚えのある声が流れ出て来た。

 『映像を、確認しているか、ナノハ・タカマチ? 今から流れる映像を、貴様と、元機動六課のメンバーが、見ている事を、想定して、以下の要求を述べる』

 無機質で抑揚の無く、途切れ途切れの声……間違い無い、クアットロ奪還作戦の時に聞いたあの戦闘機人の声だ。映像はまだ続いているが、映している空間が暗い所為で一寸先も見えず、何を映しているのか全く分からなかった。

 『今から、貴様の娘を、映す……。映像越しだが、安否の確認を、済ませろ』

 そう言った次の瞬間、室内の明かりが点いて一瞬だけ画面が白くなった。しばらく光量を調節して映りが悪くなっていたが、やがて再び映像が映された時──、

 なのはは無意識に吐き気を催した。

 確かに録画された映像には自分の愛娘が映し出された。白い肌に金色の長髪……その他の体格や身長なども見間違えようも無く自分の娘、ヴィヴィオだと確信を持てた。

 それは良い、と言うかそこまでは良いとしよう……その自分の娘が椅子に座らされているのも、『座らされている』と言う状態までは問題無いとしよう。

 だが──、



 その全身が指一本に至るまで拘束されているのはどう言う事か。



 椅子の上に座らせた小さな体躯をロープで縛り上げ、顔面も両目と口元を覆い隠すようにしてガムテープが貼られていた。胸の辺りが僅かに上下しているのを見て辛うじて生きていると言う事だけは分かるが、両足を椅子に縛り付けて首さえも動かないように固定してある……とても一人の年端も行かない少女に対して行う仕打ちではない。

 「なのはちゃん、気ぃしっかり持ちや」

 「…………」

 誘拐された家族が惨い姿で映し出されている現実を受け止め切れずに青褪めている自分の友人を、はやてはその肩を掴んで軽く揺さぶった。そのお陰で少しは気を取り直したようだったが、それでもやはりこれは精神的に厳しいモノがある事に変わりは無かった。だがそんな彼女らの意思とは無関係にカメラを回している相手はそのまま言葉を紡ぎだして行く。

 『こちらの要求は、こちらの、“聖王の器”を、そちらに引き渡すについて、その条件を提示したい』

 なるほど、大体読めた。つまりはヴィヴィオを元手にしてスカリエッティと、収監されている二人のナンバーズを交換しろと言うのだろう。人質を取った誘拐犯の常套手段とも言える卑劣なやり方だが、それが一番効果的なのは間違い無いのも確かな事実だった。そして、そんな彼女の予想通りに画面の向こうの機人が出して来た要求は……

 『二日後の、11月22日、午後9時00分……ポイントは、クラナガンから北西へ約120㎞の、ベルカ自治領内の、自然公園丘陵地帯……』

 ベルカ自治領となると教会に話を通しておかなければならないだろう。引き渡し用の輸送ヘリも航空部署に許可を取って借りねばならない。

 と、早速相手が提示して来た二日後の事を頭の中で作戦立てながら映像を見ていたはやては、次に自分の耳を疑う言葉が出て来た事に驚いた。

 『こちらの、“聖王の器”に対し、Dr.スカリエッティのみを、引き渡す事を、要求する』

 「スカリエッティだけやて? 何を考えてるんや……」

 相手は確かに自分の主であるスカリエッティを引き渡す要求をして来た。だがしかし、相手が要求して来たナンバーズ側の名前はその一つだけで、あと二人の名は全く含まれていなかったのだ。人質一人では三人もの交換は不可能と判断したか? 否、“聖王の器”と言う名は伊達ではない、身柄が一人でもその要求を充分通すだけの価値があの肉体には秘められているのだ。それは相手も重々分かっているはず……それでこの要求ははっきり言って控えめ過ぎるのだ。裏があると考えるのが妥当だろう。

 だが、相手側の奇っ怪な要求はその一つだけではなく、その一言がさらに彼女らに混乱を来たす事となった。

 『引き渡しに、当たっての、立会人も、こちらから提示させてもらう……。立会人は────』










 午前7時39分、ナカジマ宅の寝室にて──。



 眠い……。帰って来てからすぐ寝たはずなのに、まだ眠い。

 疲れた……。今さっき起きてほんの少し動いただけなのに。

 気持ち悪い……。何か食べたらその瞬間に胃液が逆流しそうな感覚だ。

 止まらない……。どんなに泣いても涙が全然止まってくれない。

 「……………………死にたい……」

 まさか自分の口からこんなネガティブな台詞が飛び出すとはと驚きつつ、彼女はベッドの毛布に包まってずっと泣いていた。悲しみの原因は昨日の自分の行いにあった……あの時トレーゼが自分に用意したたった一つの『逃げ』の選択肢を、自分は選んでしまったのだ。もちろん、あの状況ではそうした方が賢明なのは分かっていたし、自分がどうかしなくてもヴィヴィオが殺されると言う心配も無かったので一見は何も問題無いようにも思えるかも知れない。

 でも自分は逃げたのだ。自分には無理だからと言う陳腐な理由で、一人の少女を見捨てておめおめと逃げ帰って来てしまったのだ。恥ずかしい……! 無茶振りは自分の身を滅ぼすと師に教えられたが、だからと言って立ち向かう事もしなかったのは言い訳出来ない。敵前逃亡と言う重圧が今の彼女を責め立てているのである。

 しかし、それ以上にスバルの心を苛むモノがあった。それは、最後の最後までトレーゼの真意を確かめる事が出来なかったと言う事だった。

 別にそれを知って誰かに報告する訳ではなく、ただ純粋に彼の本当の気持ちを知りたかっただけなのだ。たった一人で多くを殺し、そして壊す彼が、今までどんな事を経験し、今どこに居て、そしてこれから先どこへ行こうとしているのか……それを知りたかった。でも、もうそれを知る事は出来ないのだ……彼と自分はもう、二度と接触する事は無くなったのだから。

 「…………喉……渇いた」

 腹は減らないにしても喉は渇く……自分が生きていると言う事がこれ程までに鬱陶しく思えた事は無い。これは相当来てるなと考えながら、スバルはよたよたと千鳥足で台所に向かった。居間に続くドアを開けると、まず一番初めにディエチと目が合った。こちらの姿を認めるなり少し驚いた顔をしていたから、恐らく相当酷い表情なのだろう。

 「だ、大丈夫? 顔すっごく青いけど……」

 「うん……平気だよ」

 軽く周囲を見渡すがノーヴェは居ない……走り込みにでも行ったのだろう。その時に目が合ったギンガが気を利かせて水の入ったコップを差し出してくれた。

 「気分はどう? 一晩中泣いてすっきりした?」

 「まぁね……。ありがと、もらうね」

 ギンガの手からコップを受け取ろうと手を伸ばした。だがその時に手に力が入っていなかったのか、受け取ったつもりがそれを取り落としてしまった。床一面に水とガラスの破片が飛び散り、スバルとギンガは急いでそれを回収に掛る羽目になった。

 「ご、ごめん……!」

 「本当に大丈夫なの? 調子が悪かったら、まだ寝ていても良いのよ」

 「ううん、本当に大丈夫…………ぁ痛っ!」

 ガラスの破片が指の表面を切り裂き、鋭い痛みに思わず手を引っ込めた。指には鋭い切り傷が走り、そこから血液が溢れ出していた。

 「あ…………」

 紅い……。そう、彼もこんな色をしていた。いつも彼の周りにはこんな色が付き纏っていた……初めて出会ったあの時は、自分の血の色で紅く染まっていたはずだった。昨日も……雨に濡れながら人を殺し続けていた彼は、きっとこの色に染まっていたのだろう。人の体に流れ、最も人の身近にある色でありながら、人に最も忌避されている色…………常にその色を纏っている彼の真意を確かめるとは、彼の存在を理解するとは、その最も忌避される色も受け入れると言う事なのだ。

 出来ない! 無理だ!

 スバルは忌避する、自分の身から滲み出たこの色を……そして、トレーゼが纏っていたあの色を……。だから無理なのだ、彼を受け入れる事など到底無理なのだ。何故なら、彼の本質を覆い隠すそれを受け入れられずに、彼を理解する事など出来るはずが無いからだ。小さい、あまりにも小さい! 己の器が、たった一人の存在を理解し、受け入れるにはあまりにも小さ過ぎる。

 「スバル……?」

 指を切ってからどんどん顔が青褪めて行く妹を見て、ギンガはやっと彼女がおかしい事に気付いた。両目の焦点も全然合っていない……呼吸も徐々に小刻みになり、喉元が蛇のように律動するのを見た後、ギンガは電光石火の早さでスバルを抱き起こして洗面所に連れて行き──、

 数分後、洗面所からスバルの苦しげな呻き声と何か液状のモノが落ちる音がして、その後に水道の栓を全開にした水音が聞こえて来た。事の重大さを察知したチンクが寝室に直行して毛布を取って来て、ウェンディは様子見、ディエチは別のコップに入れた水を電子レンジで温め始めた。

 程無くして戻って来たスバルは最初に出て来た時以上に顔色が悪くなっており、力無く口元を押さえていた。既に寝室から戻って来ていたチンクが毛布を背中から掛け、ウェンディを介してディエチが湯の入っているコップを渡した。

 「大丈夫ッスか? まぁ、見たら分かるッスけど……」

 もう喋る気力も無いのか、椅子に座った途端にグッタリとして動かなくなってしまったスバルを心配そうに見つめる事しか出来ず、チンクやディエチらも内心では焦っていた。あの天真爛漫と言う言葉を絵に描いたような存在だったスバルがここまで衰弱しているのは、未だかつて見た事が無かったのだ。彼女の事を良く知るギンガでさえ、ここまで弱っているのは母親が急逝した時以来だと思っていた。

 「風邪薬しか無いが、飲むか?」

 「……………………」

 ゆらりと上げられた左手が左右に振られて拒否の意思を見せる。しばらくは何も飲み込めないようだ。

 と、タイミング悪くここで固定電話がうるさく鳴り響いた。こんな朝から誰がと思いつつ、ギンガは受話器を取った。

 「はい、ナカジマです」

 相手は自分の良く知る相手、ティアナ・ランスターだった。今日は非番なのか、いきなりスバル居るかどうか聞いて来て、そして居るなら代わって欲しいと言って来たのだ。声色から察するに何か切羽詰まっているようにも感じられたが、生憎とそのスバルは現在とても応対出来るような状態ではなかった。

 「ごめんなさい。また日を改めてもらえるかしら? 私からは言っておくわ」

 『そうですか……お邪魔しまして済みません。では、私はこれで失礼します』

 意外にもあっさり引き下がってくれたので良しとしたかったが……

 「…………どうしちゃったのよ……スバル」

 自分の声も聞こえているかどうかさえ分からない状態の妹を見ながら、ギンガは純粋な心配からそう呟いた。










 「…………分からん。相手が何を考えてんのか全く分からへん」

 意味不明……それが、“13番目”から直に届けられたDVDの内容を見終えたはやての感想だった。そう、全く以て意味不明としか言いようが無かった。

 「どう思います?」

 虚空に浮かんでいる映像回線に移っているスカリエッティにも感想を求めては見るが……。

 『現状では相手が何かの策を練っているだろうとしか思えんよ。あの映像を見る限りでは何の変哲も無かったから、恐らく単純にこちらに対して交換条件を突き付ける為に録画しただけかも知れん』

 「やとしても……最後の条件は……」

 『うむ。それについては私も同意見だ。この条件……あちらにとっては何の得も無いはずなんだが……』

 ここで言う最後の条件とは、先程の映像において“13番目”が提示して来た引き渡しの『立会人』の事だ。即ち、人質と自分の主を交換するに当たっての証人代理となる者を管理局側から選出したのだが、この人選が──、



 八神はやて二等陸佐。
  
 高町なのは一等空尉。

 フェイト・T・ハラオウン執務官。

 シャマル主任医務官。

 ティアナ・ランスター三等陸尉。



 上記の五名を立会人として指名する物だったのだ。

 おかしい……明らかに人選がおかしい。百歩譲ってはやてとなのはは良いとしても、負傷して現在入院中のフェイトや今回の件には捜査上の関わりが薄いティアナに加え、極めつけに一介の医務官であるだけのシャマルまでその立会人の中にカウントしていると言うのはどう言う事か? 不可解にも程がある……。

 「何を考えている……。いや、何を考えてるにしたって、ここでどうにかしやんとチャンスは無い……」

 相手がヴィヴィオを手中に入れている以上、ここで要求を拒めば例え殺さないにしても彼女にどんな責が及ぶか分からない……意図不明で細かい要求であっても逐一呑まねばならない。もし“13番目”の言っている事が万が一にも正しいなら、二日後にはベルカ自治領の自然公園に奴らが来るはずだが、相手が素直にヴィヴィオを引き渡すとは考えられない。下手を打てば戦闘になるのも避けられないだろう。

 「改めて、どう思います?」

 『強いて言えばそうだな…………先程の映像をもう一度拝見出来るかな?』

 「…………構いません」

 なのはが居る手前、あのショッキングな映像を再び再生する事は気が引けてしまったが、今ここに居る者達の中でもズバ抜けた頭脳を持つ彼が言うのだから何かあったのだろうと、はやては再びディスクを入れてボタンを押した。

 映像は最初の方から流され、やがて拘束されているヴィヴィオが映り込んだ所で──、

 『止めてくれ』

 素早く停止ボタンを押して映像を止めた。椅子に固定されたヴィヴィオを真正面から捉えたその映像を目にして、なのははまた目を伏せたが、そんな事はお構い無しにスカリエッティは回線越しから映像を食い入るように眺めていた。やがてしばらくそうしていた後、ふとはやて達の方を向いて……。

 『寝ている……いや、どうやら睡眠薬か何かで眠らされているようだな』

 「分かるんですか?」

 『人間は覚醒時と睡眠時で呼吸の仕方が変化する。そして、眠りの深さなどにも微妙に左右される……これは薬物などで強制的に深い眠りにつかせているようだ。大方、この映像を録る際に抵抗されたのだろうな』

 「確かに、冷静に考えればこんな固そうな椅子の上でここまで力が抜けた感じで眠れへんわな……」

 最初に見た時は全身をガチガチに拘束されている所為で分かり難かったが、確かに始めから椅子に座って眠ったのを見計らって縄を掛けたにしては四肢に緊張が見られない。彼の言うように睡眠薬か弛緩剤の類を投与されて全身の力を予め抜いてある可能性が高かった。

 「と言うか、指摘したかったのってそこだけですか?」

 『いや……もう一つある。…………少しよろしいかな、御女中?』

 スカリエッティからの目配せで何となく言いたい事を察したのか、アイナがふらふらになっているなのはを部屋から連れ出した。二人きり……正確に言えばはやて一人だけなのだが、現在部屋で映像を見ているのは彼女と、同じく遠く離れた地上本部の一室から映像を見物しているスカリエッティだけだった。

 「それで? 気になる点ってのは?」

 『うむ。この映像をそのまま見る限りでは詳細までは分からんが、少し映像をコマ送りで戻してくれたまえ』

 言われた通りにリモコンで操作してコマ送りを開始する。と言ってもそんなに尺が無いので、すぐに映像は始めの方であった三脚などの台に乗せようとする手振れの場面に移り、もうすぐ地面を映す所まで戻ろうとしていた時──、

 『止めてくれ』

 スカリエッティが指定した停止ポイント……そこは、カメラが地面からヴィヴィオの方に向けられる手振れが最も激しい瞬間の部分だった。目を凝らしても何を映しているのか判別出来ないが、そのとある一ヶ所をスカリエッティは指差した。

 『ここの部分なんだが、見えるかな? 培養槽が映っている』

 言われて見れば画面左端に僅かだが何か巨大なガラスで出来た物体が映っているのが見えた。培養液は満たされていないが、どうやら人間が丸ごと一人入るには充分なサイズだった。

 『かつて私がナンバーズ製造に使っていた物と同型だ』

 「本当やな?」

 『伊達に二十年以上も研究に没頭していた訳ではない。自分が使っていた機材がどんな物だったかは覚えているさ』

 「やったら、ここがどこのアジトか突き止められるわな?」

 『情報量が少な過ぎる。これを録画した時間帯にもよるが、日光などが無い所を見ると恐らくは室内……培養槽の中には紫外線などを避けるデリケートな物を入れる事を鑑みれば、地下である可能性が大きい。映像を見る限りで分かったのはそれだけだ』

 つまり、現状では“13番目”がかつてスカリエッティが根城にしていたラボのどこかに潜んでいると言う事が確定しただけであり、未だにそのアジトをつきとめられずにいた。

 『あと非常に言い難いのだが…………もう一度ヴィヴィオ嬢の方に映像を進めてもらえるかな?』

 映像が再び拘束されたヴィヴィオに映り変わった。気絶させられて全身を縛られているのは何かと痛々しくもあるが、それ以外には何も気になる所は無いはずだった。

 だが、そう思っていたのははやてだけのようだった。

 『気付いているかな?』

 「何が?」

 『一見全身の関節を完璧に押さえた拘束方法だと思えるだろうが、実は違う……。良く見たまえ、右腕の拘束だけが若干甘い』

 「そう言えば……。左腕は関節とかバッチリ押さえてんのに、ここの部分だけ肩の方だけ縛っとるだけや……」

 『ふむ、私の見立てだと、これは何らかの原因で負傷していると見て良いだろうな。恐らくは、縛る時に痛めないようにと……ああ、言っておくが、多分“13番目”の仕業ではないだろう。彼女が何をしたかは知らんが、大事な交渉道具である“聖王の器”に自分で傷を付けるはずが無い。大方、クアットロが先走ったのだろう』

 「確かに、そんな事はなのはちゃんには言えへんな……」

 プレーヤーからディスクを抜き出し、はやてはそれを懐に仕舞った。これは重要な証拠物件として提出されるのだ。と、いつまでも立ちっ放しで疲れたのか、椅子を引いてそこに座り、一息ついた。

 「はぁ……片目の生活っちゅうのがこんなに難儀なもんとは思わんかったわ。ヴァイス陸曹の妹さんも、相当苦労してんやなぁ」

 『一人で感傷に浸るのも良いが、二佐は何か私に言いたい事は無いかね?』

 「…………気付いてました?」

 『高町教導官に退いてもらったのは実はこちらの方の理由が大きくてね。ランスター執務官に調べさせていた件で何かあったのだろう? 今は丁度トーレもウーノも出払っている……言い難い事は今の内に言っておく事を推奨するよ』

 「……………………例の資料……ハルト・ギルガスの研究施設から押収された手書きの研究資料を解読させた結果なんですが……」

 『要点だけで良い。余計な言葉を省いて真実のみを伝えてくれたまえ。つまり……“13番目”がトレーゼなのか、そうではないのかだ』

 「なら、結論から言わせてもらいますと────、



 “13番目”は『Treize』であり、『Treize』ではありません」




















 時を戻って新暦86年──。



 「あの時、お前も相当仕事をさせられてんじゃないか? 調べ物は無限書庫の専売特許だからな」

 「意外かも知れないけど、あの事件については僕は暇だったんだ。大抵の事は僕よりも頭脳明晰なDr.スカリエッティが居てくれたからね。犯罪者でなかったら欲しい人材だよ、彼は」

 「ほぅ……」

 「…………何食べてるのさ?」

 「弁当。見て分からないか?」

 「いや、見たら分かるけどさ……」

 「気付いて無いと思うが、もう昼だ。食事を摂っても問題は無い」

 「え…………本当だ、じゃあ折角だから隣で失礼させてもらうよ」

 「小さいな……。そんな量で満足なのか?」

 「君が大きいんだよ! 何だよそれ! ドカ弁じゃないかっ!」

 「貴様……! 俺の『愛妻弁当』にケチを付けたな!?」

 「ちょ! 君にそんな単語を教えたのはクロノかぁ~っ!!」

 「いいや、リンディ・ハラオウンだ」

 「リンディさんーっ!!」




















 「そうか……そう言う事だったのか」

 『既にDr.ギルガス本人には言質を取ってあります。紛れも無い真実です』

 「真実とは、意外に単純なモノなのだなぁ……。複雑に考えていたのが馬鹿のようだ」

 『この事……そちらの二人には……』

 「私から話そう。と言っても、ウーノはこれから作戦の重要な位置に着く事を考えれば余計な事を言って動揺を与えたくはない。二人とも、『“13番目”はトレーゼだと判明した』とだけ伝えておこう。それに、私が言った方がトーレも信じるだろうしな」

 『協力に感謝します。後で資料に添付されていた写真のコピーをそちらに送ります』

 「だが良かったじゃあないか。私にとっては大いに不本意ではあるが、君達はこれを口実にトーレの協力を得られるのだから、儲けモノだろう?」

 『……仕事ですから。では、後ほど』

 回線が切断され、スカリエッティは静寂の室内のソファに怠惰的に寝転がった。天井で輝く電球を薄らと開けた目で眺めながら欠伸を一つ……そしてその後、彼は不意にこんな言葉を吐いた。

 「世界と言うのは……こんなはずではなかった事ばかりだな。そう思わんかね? ハラオウン提督」

 視線をやった上座にはいつの間に来ていたのか、クロノが静かに腰を落ち着けて居り、自堕落に寝転がっているスカリエッティとは対照的な雰囲気を醸し出していた。だが彼の表情はどこか重苦しく、その部分ではスカリエッティと同じように何だか途轍もなく芳しくなかった。

 「…………これから、どうするつもりですか?」

 「どうするもこうするも無い。今はっきり言えるのは、あの二人に真実を隠し通すしかないと言う事だけだ。特にあのトーレがこの真相を知れば、恐らくは……」

 「恐らく?」

 「下手を打てば、三年前の地上本部襲撃よりも凄惨な地獄が見れるかも知れないな」

 ニヤリと笑った彼の横顔に思わずクロノは身を引いた。猛禽類の鋭い眼光と、蛇の様な粘ついた感じの笑み……このスカリエッティが必ず自分にとって楽しい事を考えている時に現れる癖の様なモノだった。もちろん、彼にとっての楽しい事と言うのは大抵碌な事ではないのだが……。

 そんな彼に別の話題を振ろうとしたクロノだったが、結局何も見つけられなかったらしく、渋々続きの疑問を聞く事にした。

 「……貴方はこの事実をどう思われますか?」

 「どうもこうも無いさ。どんなに奇っ怪で、どんなに込み入った事情でも……結局それは当事者以外から見ればどうしようもなく下らない事なんだよ」

 脇に置いてあった毛布を引っ掴んで自分の上に被せ、彼は睡眠を摂り始めた。いい加減に話しをしているのが馬鹿らしくなって来たのだろうか、彼は最後にこれだけを言って眠りに入った。

 「そうさ…………下らない、実に下らなくて、面白味に欠ける…………つまらない真実さ」










 同時刻、孤島の地下ラボにて──。



 「……………………」

 トレーゼはラボの椅子に座って読書をしながらモニター越しに妹を監視していた。昨日の一件から、彼はクアットロを一切信用しない事に決めていたのだ。彼女は自分達の行おうとしている事の重大さを理解していない……あのまま放置して行動に制限を掛けなければ、いずれ滅ぶのはこちらの方だと考えたのだ。自滅となってからでは遅いので、計画発動までの二日間をずっと監視する事で乗り切ろうとしていた。

 特に彼が気に掛けているのは、現在培養槽にて安静を強いているヴィヴィオであった。昨日までは一切言葉を話せないぐらいに衰弱していたが、一晩経過した今では何とか念話だけは飛ばせる程度には回復していた。もっとも、喋れたとしても液中で酸素マスクを装着しているので無理なのだが。

 ≪気分はどうだ?≫

 ≪はい……。右手が少し痛むだけで、後は何もありません。大丈夫です≫

 ≪そうか……≫

 この通り、回復は順調だった。砕かれた骨が完全に再生するまでには何ヶ月も掛るだろうが、組織液と同様の働きをする培養液の中に居る限りは血液不足による酸欠にはならないだろう。おまけにクアットロに関しても絶対に近付かないように釘を刺してもある……それでそれ以上の事を仕出かそうものなら、今度は殺処分どころか死体すら残さないつもりだった。ちなみに、そのクアットロ本人は現在彼が与えた仕事に着手している最中である。

 ≪水温が適していなければ、いつでも言え。直接調節しに行く≫

 ≪ありがとうございます≫

 ≪礼には及ばない。こちらが必要だからしているだけだ≫

 ≪それでも……ありがとう≫

 自分を拉致した者に対して礼を述べるとは、変わった少女だ。そんな事を思いつつ、彼は新たに本のページを捲った。彼が目を通しているのは例の赤い本……昨日、アパートに隠してあったのをヴィヴィオが持ち出していたあの本を見ていた。内容は本の半分ほども無いが、これは彼にとって封印されていた17年の空白を補充する為には欠かせない物である事に変わりは無かった。

 ≪そう言えば、これを預かっていた事についての礼がまだだったな。世話を掛けた≫

 ≪大切な物なんですよね?≫

 ≪クアットロの愚か者には、これが理解出来なかったようだがな……≫

 ≪それって、トレーゼさんにとっては一体何なんですか?≫

 一体何か……か。根本的な部分を問われれば流石に何と答えれば良いのやら……。本を閉じて長考した後、彼はこう答えた。

 ≪俺の……封印されていた17年、そのものだな。これには、俺の封印されていた間の全てが補完されている……それがあるから、俺は俺で居られている≫

 ≪それって……≫

 ≪時々、過去の記憶が曖昧な部分がある。二十年近く経っているからと言うだけでは説明出来ない……虫喰い穴のようにな≫

 閉じた本を収納スペースに仕舞い込み、彼は代わりに一枚のカードを取り出した。金属で出来た薄いカードで、自分の居るラボとヴィヴィオの居る培養槽を映像回線で繋ぎ、それを彼女に見せた。

 ≪これをお前に預けておく≫

 ≪何ですか、それ?≫

 何の変哲も無いそれを眺めながら頭に疑問符を浮かべている少女を見やりながら──、

 「…………良いモノ」

 少し勿体ぶった感じで答えた。










 「当面の問題としては、如何にして明日の作戦を成功させるかやな」

 なのはの自宅で例のディスクの検証を終えて戻って来たはやては、ゲストルームでクロノと野暮用から戻って来たトーレと共に明日に決行される作戦についての簡単な会議を済ませていた。ちなみに、スカリエッティはすぐ隣のソファで未だに爆睡中である。

 「既にウーノは西部支部に身柄を移す準備中で、各部署への根回しや協力要請なども完了……。あとはそれを実行に移し、相手が誘われて来るのを待つだけだ」

 「問題は、どうやって作戦を成功させるかやな。相手も一筋縄で行かへんって言うのを考えれば、これは予想以上に難儀な事になるやろなぁ……」

 つい今しがた作成された作戦指令書を確認しながら、明日の作戦について考え続ける。相手が引き寄せられて来る自信はある……だが、勝算があるかどうかについては殆ど断言出来ない。相手の実力はほぼ未知数……ハザードレベルはかつての犯罪者達と比較しても遜色どころか、逆に今まで稀代の凶悪犯罪者と謳われて来た連中が霞んで見える程だ。何よりも、単独犯でありながらここまでの事をやってのけているのが奴の危険度をより上げていた。

 だがその前に……。

 「いつまでそれを見ているつもりだ?」

 クロノの言葉がトーレの鼓膜を刺激した。彼女が見ている物……それは、クロノ達がここへ戻って来た際に彼女に渡した一枚の写真だった。そう、はやてがティアナに解析を頼んだ研究資料の中にあった顔写真のコピーである。毒々しい紫苑の短髪に雪よりも白い白磁の肌、そしてその存在が戦闘機人であると知らしめている金眼……彼女の記憶の奥底、17年にもなる過去の映像の中に確かに残っている弟の成長した顔をずっと見つめていた。

 「…………変わってしまったな、随分と」

 「元の写真が撮られたのはほんの三年前だ。二十年近くも経てば外見ぐらい変わって当たり前さ」

 「そうなのか……。記憶の中のあいつは……私の知っているあいつは、いつまで経っても泣き虫なままなのにな。いつの間にか、修羅の道を歩み始めていたと言う事か……」

 「そいで、弟が関わっている今回の件についてやけど、協力はしてくれんのやろ?」

 「……………………一度言った事は覆さないつもりだ。明日の作戦で直接関わる事は出来ないが、万が一の時の為のサポートには徹する事を約束しよう」

 「おおきに。やけど、願わくばあんたが出る状況だけは作りたないわ。ナンバーズ最強が出やんとならん状況は……」

 「出過ぎた『弟』の行為を実力行使で諌めるのが『姉』の役目だ。あいつを止める為なら躊躇いも無い」

 「じゃあ話しは変わるが、君はこの作戦が成功する確率についてどう思う?」

 手渡された作戦指令書を穴が開くほど眺め、トーレは熟考する。戦術のプロが頭を捻って出した解答は……。

 「…………40%……いや、五分五分と言ったところだな」

 「嬉しくない値引きやな。根拠は?」

 「作戦が成功するか否かについての要因は幾つかある。人員の量と質、布陣、チームワーク、仕掛けるタイミング、的確な指揮……それらが組み合わさってようやく明確な勝利を得る事が可能となる。だが、時としてそれらの要因が欠けていても作戦行動が完璧に成功する時があるのは何故か分かるか?」

 「……………………『運』、だな」

 “運”……それはこの世界でもっとも不確かでありながら、最も影響力を持った力の流れだ。この世で生きる者達全てが生まれながらにして持つ力だが、その実態はまさに未知の領域だ。ただ一つ言えるのは、この世には圧倒的な強運で祝福された者と、絶望的な悪運に呪われた者の二種類が居ると言う事だけだ。強運である者は如何なる死地をも涼しい顔で無自覚に乗り切り、逆に悪運に魅入られた者は如何なる平和なはずの日常ですら絶命的な事態に急変させてしまうのだ。そして、その無慈悲な力の流れは戦闘においても例外ではない。

 「あらゆる行動においてその成否を左右するのは結局これだ。三年経った今だから言うが、かつて機動六課が我々に勝利を収める事が出来たのも、詰まる所は強運に見守られていたからだ」

 「褒められてんのか負け惜しみ言われてんのか……」

 「どっちでも良い。ありとあらゆる面においてスペックは我々ナンバーズの方が遥かに上のはずだった……。だが、その絶対的とも確信していた確率の壁を六課は完璧に真正面から打ち砕いた。何度シュミレートしても我々の勝利は確定だった……敗北の余地すら無かったはずだったのに、それでも負けた。運も実力の内なのだと、心から思い知らされた瞬間だったよ」

 対魔導師及び騎士戦特化戦闘機人『ナンバーズ』……常人の数倍の高速学習と、各個体の感覚共有による経験値の増大は彼女ら機動六課言えども難無く撃破出来るレベルにまで成長するはずだった。現に過去の地上本部襲撃事件では突然の奇襲と言う事もあって、一度は彼女らを敗北させていた。だがそれでも結局逆に敗北を喫したと言う事は、彼女らの実力とそれを後押しする運によって勝敗を決されたと言っても過言ではない。

 「馬鹿馬鹿しいかも知れないが、私は六課のメンバーは総じて戦闘に関しての運が強いと言う結論を出した。どんな危機的状況からでも必ず生還する奇跡に満ち溢れた存在……それが機動六課だとな」

 「お褒めにあずかり何とやらってな。そんなんやったら、何で成功の目立てが五割なんや?」

 「単純な話だ。あのトレーゼが戦う事に本気になっていると言う事は、もはや戦場の確率はあいつによって支配されると言ってしまっても過言ではない。ありとあらゆる幸運も不運も、あいつにとっては自分の領域内で起きた単なる夢幻に過ぎない…………あいつは、そう言う風に生み出されているんだ」

 「はいはい、弟自慢はもう結構。もう私らに残されとる道は無い……ここで一世一代の大博打に出んと、いつまで経っても現状は打破出来ひん」

 懐から出した大きな紙──地図を広げ、デスクに叩き付けるようにして置いた。地図にはクラナガンの中央から西部に掛けてマジックペンなどで汚いぐらいにマークなどが書き込まれており、明日の作戦が如何に重要なモノかを物語っていた。

 「…………これが成功せんだら始末書だけで済むやろか?」

 「いや、場合によっては異動だな。もちろん閑職に」

 「座ってるだけで給料がもらえるのか……羨ましいな」

 「………………ええい、ままや! 今より約25時間後、『No.13鹵獲大作戦』を敢行しますっ!」

 「ネーミングが昭和だな。と言うか、よくそんなんで上層部に許可通ったな……」


















 「美味でした……」

 「ごちそうさま」

 「そう言えば、お前のその弁当は確か……」

 「うん、なのはが作ってくれたんだよ」

 「結構上手く出来ているな」

 「なのはの実家は喫茶店だから、料理はお手の物さ」

 「そう言えばそうだったな。俺達もあそこに少し居候していたから、この料理もその時あいつが教わった」

 「ああそっか、君達って一時期だけ翠屋に居たんだよね」

 「好きで居たんじゃないんだがな……」

 「良い経験じゃないか。それよりも、ナカジマ空尉はこの後予定とかあるかい?」

 「言っておくが、俺に男色の趣味は無い。一切無い」

 「台詞だけで飛躍し過ぎだぁ! そう言う意味じゃなーい!」

 「命拾いしたぞ……互いにな!」

 「その気があったら殺される所だったの、僕は?」

 「……………………」

 「ちょ! 黙らないでよ!!」




















 午後17時46分、ナカジマ宅にて──。



 あれからずっとスバルは寝込んでいた。昼に軽い流動食を口にしたっきりでベッドに逃げ込むようにして睡眠に入り、それからは家族の誰が話し掛けても全くの無反応だった。医者に行く事を勧めたのだが、本人のあまりの衰弱の様子が酷いものだったので、それは明日にする事にした。付き添いにはノーヴェが率先して進み出てくれたので取り合えずは一安心だった。

 「只今帰りました」

 すっかり日が暮れてしまってからチンクが家に帰って来た。上に羽織っていた灰色のコートを寝室の掛け具に留め、妹達の待つ居間へと足を運ぶ。

 「お帰り、チンク姉」

 「うむ。スバルはまだ回復しないようだな」

 「もう全然ッス。このままずっと気分悪いままなんじゃないかって……」

 「薬とかも飲んでくれないし……」

 一家のムードメーカーが完全にダウンしてしまっている所為で、他の姉妹達も完全に意気消沈と言った感じでドンヨリとしていた。

 「案ずるな。良くも悪くもスバルは私達と同じ戦闘機人……。そう易々と調子が戻らないなんて事にはならんさ」

 「……そうだよね。考え過ぎなのかな、やっぱり」

 「そうさ。ああそうだ、ギンガはどこに……」

 「呼んだ?」

 台所の方から紺色の髪を振ってギンガが顔を覗かせる。スバルの為に消化の良い白粥を作っていたのだが、一旦ディエチにその作業をバトンタッチしてエプロンを取り去りながらチンクに近寄った。

 「何かしら?」

 「いや、アテンザ技術主任から少し伝言を頼まれていてな……」

 「……そう。何の用かしら?」

 さり気なく二人は奥の部屋に移動すると、そこで話しの続きを始めた。他の姉妹達には自分の声が届かないこの室内で……。

 「それで? どうだったの?」

 「提出された八本のナイフだが、その全てからスバルの左手の指紋が検出された。だが、スバルのとは違う人物の指紋が彼女よりも遥かに多く検出されたらしい」

 「ちなみにその指紋の持ち主は誰?」

 「不明だ。このミッドチルダには存在していない者の指紋だったらしい。どの戸籍登録上にもな」

 「単なる不法滞在者の持ち物……だとしても、あのスバルには接点が無いはず……」

 「……………………いや、一つだけだが、該当している指紋があった」

 「どこの誰!?」

 「それが……どこの誰かは結局不明なんだが、以前メインストリートで発生した親子連れ殺害事件を知っているだろう?」

 その事は記憶にも新しいのでギンガも良く覚えている。クラナガンに上がって来た母と娘が、不幸にも逃走中の闇取引集団と出くわしてしまった所為で被害を受けたあの事件だ。

 「あの時の被害者の子供が持っていた菓子袋があるんだが、その表面に残っていた少女とは別の指紋……それと全く一致したそうだ」

 「またえらく接点が無さ気な所に話しが飛んだわね……」

 「どちらにしても、スバルが変な輩に関わっているのは可能性としては有り得る話しだ。これは思っていた以上にキナ臭い事になっているかも知れないな」

 「毎度毎度、あの子は面倒事を抱え込むのが得意みたいね」

 「……………………」

 「どうしちゃったのよチンク? いきなり黙り込んだりして……」

 「実は他人を挟んでなのだが、この後でティアナと会うように言われて……」

 「私も?」

 「と言うか、むしろ貴方がメインです」

 「そう言えば午前中にも電話があったわね。何か急用なのかしら?」










 午後18時00分、都内某所にて──。



 11月下旬の寒風を真に受けながらも、その人物はしっかりと地面に足を根付かせていた。手に持った高性能の単眼鏡で遠方のあるポイントを凝視していた彼女はふとそれをやめ、取り出した携帯電話のナンバーを素早く打ち込んで目的の人物に送信した。

 「……もしもし、こちらティアナ・ランスター。予定通りに対象の監視を続行中です、八神二佐」

 『ご苦労さん。そいで……やっこさんの様子は?』

 「対象・Aは朝方にランニングに出掛け、一時間後に帰宅した後はそのまま夕方の17時まで初期位置に留まった後、再び午後の走り込みを終えて現在に至ります。逆に対象・Bはこちらが行動を開始してから現在に至るまで一度も外出していません」

 『カマ掛けの電話は?』

 「ギンガさんが出ました。本人は……」

 『出やんかったか……。出来るんなら身内は疑いたくないけど、状況が状況やしなぁ』

 受話器を握る手の圧力が上がる……決して寒さに耐えて力が入ったのではない。ティアナは懐から一枚の写真を取り出し、それを無言で見つめていた。それは昨日自分が驚愕の事実を記していた紙面にあった写真のコピーだった。そこに映された人物……彼女も過去にどこかで見た事のある顔だった。

 (間違い無い……あの時にスバルと一緒に居たあの男!)

 興味本位で尾行していた時には磨りガラスを挟んだように顔が見えなかったが、特徴的な部分は全て覚えている。毒々しい紫の髪と無機物的な輝きを持つ金色の双眸……写真を見た瞬間に間違い無いと確信出来た。そう! 間違い無くこいつはあの場所に居た! 自分達のすぐ目の前で悠然と闊歩していたのだ! 自分の手で四肢を切り落とした相手と一緒に……その友人が見ている目の前で……。

 だが、忘れてはならない事実がもう一つ……。

 『何でスバルとノーヴェの二人はこいつと知り合いなのか…………解決したい疑問はそれだけや』

 「それは……もうすぐ分かるかもしれませんよ」

 単眼鏡を掛けて目的のポイントであるナカジマ宅の玄関を見やった。ドアを開けて出て来た二つの人影……小さい銀髪と、それに対比するかのように長身の麗人だ。こちらの指定した場所に向かおうとしているので、こちらも早く移動した方が良さそうだろう。

 「詳細は後ほど。二佐も……明日の作戦、絶対に成功させてください」

 『後輩の期待に応えられん程に私も落ちぶれとらへんよ。安心し……私が、私らが積み上げて来た全ての為に……成功させるよ』

 「…………ご武運を」

 携帯の通話を切り、コートをはためかせながら彼女は自分の居るビルの屋上から離れる。夜に映えるオレンジ色の長髪を風に揺らしながら夜光の街を歩く……。

 「……スバル…………隠し事なんてあんたらしくないわよ。すぐに引ん剥いてやるんだから……」










 午後21時00分、海上更正施設のとある寝室にて──。



 「…………もう良いですよ」

 「そうか」

 簡素なベッドに寝転んで天井を見上げていたセッテは、突如虚空に向かって声を掛けた。別に長期に渡る閉塞した空間での生活で幻覚を見ているとかではない……紛う事無くそこに『居る』からこそ声を掛けたのだ。

 彼女の呼び声に応じて部屋の隅の暗闇が揺らぎ、そこから人影が姿を現す。まるで最初からそこに居たとでも言うように当然な素振りで現れた彼は、天井の監視カメラの視線も意に介さず堂々とセッテの寝るベッドの隣に腰掛けた。それに伴って彼女は上体を起こして視線を向けた……他ならぬ自分の兄に。

 「…………明日ですね」

 「ああ」

 「行くんですか?」

 「ああ」

 「殺すのですね?」

 「ああ」

 「壊すのですね?」

 「ああ」

 「……………………」

 「…………お前の、出番も近いぞ」

 「そうは思えません。ワタシは収監されている身ですから」

 「予言してやる……お前は、間違い無く、俺の優秀な手足になる。クアットロの愚か者とは違う……真に優秀な、戦闘機人だ」

 トレーゼの手が伸び、セッテの桃色の髪に覆われた頭に置かれた。軽く数回だけ撫でた後に降ろされ、次にセッテは兄の顔が自分の顔のすぐ横に迫るのを感じた。

 「優秀でなければ、ナンバーズには、不要だ……。俺の妹で居たいなら、常に優秀で在れ。今のお前は、トーレと、ウーノの次に、優秀だ」

 「褒めているのでしたら素直に受け止めておきます……」

 軽く振り解くように再び彼女はベッドに横になった。そのまま目を閉じ、横の兄に──、

 「御武運を……『兄さん』」

 「心配無用だ……。全ては────」



 「「創造主、スカリエッティの為に」」




















 新暦86年、ナカジマ空尉とスクライア司書長の会話──。



 「それで? 俺に何の用なんだ?」

 「いやぁ、実はうちのヴィヴィオがもうすぐ誕生日なんだよ」

 「誕生日?」

 「うん。なのはの養子になった日を誕生日って事にしてるんだ。それで今日の夜に皆でパーティーなんだけどさ……どうかな?」

 「皆って誰だ?」

 「えーっと、僕らでしょ? 八神家でしょ? ナカジマ家でしょ? あー、あとフェイトも来るって言ってたでしょ? それに教会の方からも……」

 「まてまて! 多くないか? と言うか多過ぎるぞ! 『夜通しパーティーだよ、全員集合!』状態になってるぞ!?」

 「良いじゃないか偶には。それに、最近ヴィヴィオも会いたがってるよ」

 「俺か? ヒツキにか?」

 「両方。それに、あの三人にも会いたいってさ。ここの所ずっと会えなかったみたいだからね」

 「あいつらも呼ぶのか? 一体何人でやらかすつもりだ?」

 「きっと賑やかで楽しくなるよ。場所は第三会議室ね」

 「……何で場所が管理局なんだ?」

 「はやてが使って良いって許可出したんだよ。貸切だってさ」

 「職権濫用だな、あの狸女……。ん? 待て、少し失礼する。…………こちらナカジマ一等空尉……何だ、お前か。なっ、そっちにもその話が行っているのか? 行きたい? まぁ、お前が言うなら仕方が無いか。分かった分かった、帰宅したら準備をしよう。それじゃあな…………はぁ」

 「誰だったの?」

 「『嫁』、『妻』、『配偶者』、『伴侶』、『人生のパートナー』。言い方はそれぞれだが、意味は全部同じだ」

 「了解、把握したよ。取り合えず、君も参加って事で良いのかな?」

 「他の奴らが出るのに一人だけって言うのもな……。これも付き合いだからな、仕方ないか」

 「良かったぁ。君が居ないとヴィヴィオもちょっと悲しむから……って、どこ行くのさ?」

 「フォワード隊の訓練は一回だけではないからな……今から続きだ。お前も自分の職場に戻った方が良いぞ。提督から莫大な資料請求が来ているかもな」

 「冗談きついよ……」










 『パーティーらしいですね。久し振りに外に出れそうです』

 『やったぁっ! ボク、沢山食べるぞぉ!』

 『フン、塵芥が群れて騒ぐだけの会合なんぞに、何故我が……』

 『まぁまぁ、偶には良いのではないですか?』

 『そうそう! 楽しまないと損だって!』

 『塵芥共が下衆な事をせねば良いが……。そうだな、精々楽しませてもらうか』



[17818] 作戦開始!
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:73ca1900
Date: 2010/11/16 00:53
 新暦78年11月21日、午前7時00分。クラナガン西部に位置する時空管理局地上西部支部にて──。



 「作戦行動は現時点より120分後の9:00より実行する! 各々のポジションは事前に通達した通りだ。各員、それまでに充分に英気を養っておくように。以上! 解散!」

 今回の作戦……『No.13鹵獲作戦』の現場指揮を執る部隊長からの号令の後、整列していた作戦隊員たちは一斉にその場を離れ、それそれが使い慣れたデバイスを携えてロッカールームに流れ込んだ。作戦が始まるのは二時間後であるにも関わらず、既に彼らはバリアジャケットを展開しており、今の時点でもかなりの熱気に満ちているのが分かる。ここに居る隊員たちは一連の事件の首謀者について詳しく聞かされており、中には本局から直接派遣されて来た選りすぐりの実力者も居る……。彼らはこれから戦う事になるかも知れない敵がナンバーズの残党である事を強く意識しており、対戦闘機人戦を想定しての訓練を受けた猛者達の部隊を組織しており、その全員が今回の作戦を実行するに当たっての充分な意気込みを持っていた。

 そんな彼らの中に、一見場違いにも見える人物が居た。

 「ケリュケイオン、調子はどう?」

 『全システム良好です。充分行けます』

 「ストラーダも……何があっても行けるね?」

 『大丈夫だ、問題無い』

 十代前半の二人の少年少女……。赤髪の少年は自分の身長よりも長大な槍型のアームドデバイスを携え、隣の少女は自分の両手に装備した珠玉が埋め込まれたグローブ型のデバイスをそれぞれ調整していた。この明らかに作戦に参加するには年齢が不釣り合いなようにも見える二人だが、その実力を知る周囲からは異議を唱える声は決して上がらない。彼ら二人は前衛ではなく、今回護送される要人の直接警護に当たる役目を担っていた。要人の直接警護に当たる者は彼らを含めて全部で『三人』……あと一人はここには居らず、後もう少ししたら顔を見せるとの事だった。

 「今日の作戦で全てが変わるかも知れない……。ここで決めないと、みんなに……スバルさんや、ティアナさん達に顔向け出来ないよ」

 「うん……。ねぇ、エリオ君。この作戦、成功すると思う?」

 「…………分からない。成功するかも知れないし、失敗しちゃうかも知れない。もし失敗するんだとしたら、敵に逃げられたか、もしくは……」

 「敵に全員が殺されるか……だよね?」

 「大丈夫……キャロもフリードも、僕が必ず守って見せるから。絶対にみんなを守って見せる……!」

 少年の意気込んだ声が周りの隊員たちにも聞こえたのか、気さくな彼らはすぐに冗談交じりにその少年を囃し立てた。「ガキが一丁前な事を言いやがって」とか、「坊主はカノジョだけ守ってりゃ良いんだよ」「そうだ。前は俺らに任せて、お前らは自分らの仕事に専念しな」など、ぶっきらぼうな中にしっかりと優しさが含まれている言葉ばかりだった。

 「ありがとうございます……!」

 「私達も頑張らないとだね」

 既にここに居る隊員たちは一つの『チーム』となっていた。結束力も協調性も、全てにおいて完璧に良好な状態が出来あがっていた。

 ふと、緊張していた彼らの中に一瞬緩やかな空気が流れた瞬間──、



 ドアが開き、そこからある人影が姿を現した。



 部隊長ではない。彼とは明らかに体格が違うからだ。

 そう、こちらの方がより逞しかった。明らかに身長は二メートルを越えており、筋骨隆々な胴体と四肢はその肉体が極限にまで鍛え込まれている事を暗に示していた。そんな奴がいきなり言葉も無く入り込んで来た所為で、室内の空気は一瞬で凍り付き、隊員たちはその姿を見た瞬間にギョッとした目つきになった。

 もちろん、エリオとキャロも彼らと同様に驚愕の表情となっていた。だがその驚愕は彼らのものとは少し違っており……。

 「君は……!」










 午前7時32分、クラナガン上空6000メートルにて──。



 「……来た」

 彼はこの雄大な冬の空を浮かんでいた。いつもの様に見えない地面を歩くように垂直にではなく、まるで落下している最中に時間が停止したようにして仰向けになって浮かんでいるのだ。風に揺られるようにして浮かび続ける彼は時折下界の街の様子を見やり、その度に鉄面皮な無表情で壊れたレコードのように繰り返し呟いていた。
 
 「来た……来た来た、来たっ、来た! 来た」

 表情筋が凍り付いているのかも知れないが、彼は今非常に興奮している状態だった。今日は……今日と言うこの日は、彼にとってまさに最適、この上ないと言う言葉がこれ程までに相応しい日に巡り合える事が出来たのだ。これはいくら冷静と沈着、そして不動を信念とする彼であってもこれは興奮せざるを得なかった。

 「来たよ……トーレ、ウーノ、ドゥーエ……。この日、この時、この瞬間……やっと……。そうさ、計画は、ここから始まる」

 浮力に使っていた魔力を切断し、彼の体が自由落下を始めた。地上1000メートルの位置に来るまでそのまま効果を続けた後、空中で華麗に体勢を整えて風を掴み、その勢いの浮力を利用した瞬間に飛行魔法を発動させた。ムササビのように滑空し、ツバメの如く飛翔した彼は自分の全身を光学迷彩で覆い隠し、音速の翼を駆って目的のポイントまで移動を始めた。もう止まらない、止められない……ここまで来た、来てしまった……もう戻る事は不可能であり、当然戻ろうなどとも思ってはいない。もう、戻るべき場所など無い……。

 「マキナ、目標の、予定ポイントの、通過時間割り出しは?」

 『All right.』

 「上々……。一発目の花火は、打ち上げられた……今は、フィナーレの、前座に過ぎない。楽しめよ、クズ共……本番は、ここからだ」










 午前7時56分、ナカジマ宅の寝室にて──。



 「病院……?」

 ベッドの上の布饅頭……ではなく、そこに埋もれるようにして寝ているスバルから弱々しい確認の声が聞こえて来た。昨日一日も寝たままだった彼女は今日も一度も寝床から起き上がる気配を見せてはいなかった。昨晩に姉のギンガが作った粥も半分だけしか食べておらず、今の彼女は昨日よりも更に衰弱しているのは誰の目から見ても明らかであった。

 そんな妹を見兼ねてか、今朝からギンガ達が一度病院に行く事を強く勧めており、今もベッドに引き篭っている彼女を説得している状態だった。

 「一人で行けなんて言わないわ。私とチンク、それにノーヴェも一緒に行くから」

 「……ウェンディとディエチは留守番?」

 「ええ。ノーヴェがランニングから帰って来て少ししてから行くから、ちゃんと調子整えておきなさい」

 「……うん」

 取り合えず拒絶の意思は無かったので了承と見たギンガは、水を入れたコップを近くの卓に置いた後にそっと部屋を出た。居間でテレビを見て大笑いしているウェンディの頭を小突きつつ、トイレから出て来たディエチとぶつかりそうになって、一旦用を思い出したかのように外に出た後──、

 「もしもし……。私よ」

 電話を掛けた。コール音を三回も繰り返す暇も無く、相手はすぐに受話器を取り、今こうしてギンガはその人物と電話越しの密会を果たしていた。

 「予定通りにスバルを連れて出掛けるわ。接触は……取り合えず帰り道にしましょう。あの子が調子悪いのは本当みたいだし……。…………ええ、分かっているわ、そっちも下手に情を移したら駄目よ。出掛け次第もう一回連絡するわ。それじゃあ……」

 メジャーな折り畳み式のそれをポケットに仕舞い、彼女は再び玄関のドアを潜って家の中に戻った。そして靴を脱いで床を踏み締めた時、ふと溜息をつきながら呆れた感じでそこに居た人物に言った。

 「盗み聞きって言うのは、らしくないんじゃない?」

 「すまない。少し気になってな……」

 銀髪と眼帯、それだけでこの姉妹の特徴を語れる。玄関のすぐ近くで待機していたチンクはギンガの前に立ち塞がるようにして前に進み出て、隻眼で彼女の目を見据えた。咎めるようにではなく、本当にただ澄んだ目で見透かすようにして……。

 「良いのか? 万が一と言う事も有り得るかも知れないが……」

 「私は……あの二人を信じてるから……信じているから、こうするしかないのよ」

 「……なら良いさ。私も一応は貴方に加担している身だ……最後まで共しよう」

 「ありがとう、チンク」

 「礼には及ばない。私も……自分の妹は信じていたいからな」










 午前8時10分、都内のとある公園のベンチにて──。



 「…………はぁ」

 ベンチに座りこんで汗を拭く赤毛の少女は、走り込みで消耗した体の調子を整えるべく現在は小休止に入っていた。自宅を飛び出すようにしてランニングを始めてから、近くのこの公園に戻って来るまでに一度も休まずに走った所為か、息を整えるだけでも時間を食う羽目になっていた。やがて少し落ち着きを取り戻し、酸素を含んだ冷えた血流が頭を冷却するに伴って彼女の頭も徐々に運動の興奮から冴えて行った。だが頭がすっきりする感覚とは別に、彼女の表情は険しく、眉間に寄せられた皺の数は彼女が何かを考え込んでいる事を容易に示していた。

 彼女……ノーヴェが考え込んでいたのは自分の家族の事だった。

 自分の双子の片割れとでも言うべき存在が、どう言う訳か昨日一日をずっと寝て過ごしていた……。あの天真爛漫とか、元気溌溂とか言う馬鹿な単語を見事に体現していた彼女があそこまで精神的に追いやられているのを見るのは初めてだった。あれから友人を通して聞いた話では、三年前に自分達が姉のギンガを拉致した際にもブルーな感じになっていた事があるらしく、今回はそれと同じか、それよりも酷いと言う事だった。天と地が引っ繰り返ってもあのスバルが失恋でダウンするとは誰も思っては居なかったらしく(と言うかノーヴェも考えた事も無かった)、実父のゲンヤでさえもが「今はそっとしといてやろう」と言う在り来りな言葉しか言えなかった。だがノーヴェには何となくだが分かる……あれは放置しておいても治るモノではないと。

 だが、家の中の誰もがスバルがヤワだと認めたくないのもあってか、誰も込み入った所まで入り込もうとはしなかった。実の姉のギンガでさえも、「本人の事だから……」と言って一線を引く始末だった。

 それでも重ねて言うが、彼女のあの弱り様は尋常ではない……。だがそれと同時に彼女がちょっとやそっとの事ではあそこまで衰弱しないのもまた事実だ。何があったのか……そんな事を考えると決まってノーヴェの脳裏に浮かぶ人物の顔があった。

 トレーゼ……恐らくはノーヴェが認めた初めての友人であり、今まで知りあって来た人間の中で最も神秘的な者の顔が浮かぶのだった。夜の帳のような黒い雰囲気を纏ったあの少年は決して多くを語ってはくれない……恐らくあの日に自分に話してくれた事も本当の事ではないのだろうし、実は肝心な部分をひた隠しにしているのかも知れないと考えていた。あの彼がスバルを悲しませる要因を作ったとは思いたくはなかったのだが、全ての状況が彼がそれに関わっていると証明している以上、やはりそこだけはどうしようもない事実なのだろう。ならば、せめて本当の真実を……あの日二人の間で何があったのかだけははっきりと聞いておきたかった。

 「…………今度会ったら、話してくれっかな……」

 そもそも次がいつ会えるかなんてのは分からない事だった。当たり前のようにそこで再会し、そしていつの間にか姿を暗ますのが常となっている彼は、こちらから意図して会う事も出来ない事が多いのだ。例え会えたとしても、また適当にはぐらかされるのかオチかも知れなかった。

 だが、もしそうだとしても……確かめずにはいられない。もしその先に何かしらの残酷な答えがあったとしても……自分には知る権利があるのだと、ノーヴェはそう自分の心に言い聞かせていた。

 それに、自分にはそれを受け止め切るだけの度胸も有ると言う自信も持っていた。

 そう、彼女は──、

 信じていたのだ、自分の友人を。

 あの彼が人を傷付けるなんて事は絶対にしないと言う、愚直なまでの根拠無き期待にも似た信頼を……彼女は、ノーヴェは揺らがせようとはしなかった。

 だから──、



 この時から既に彼女は『狂って』いたのかも知れなかった。










 午前8時23分、海上更正施設のレクリエリアにて──。



 「課外授業……ですか?」

 「ええ。セッテさんは順応が早いからって事で、早速なんですが、一時間後にクラナガンに向けて出発って形でよろしくお願いしますね~」

 その日は彼女にとって初体験となる日であった。以前のナンバーズ更正組にも行った課外授業なるものを、今日のセッテにも受けてもらおうと言うのだ。課外授業の内容は至って簡単であり、一般社会の仕組みを知らない彼女らが近い将来に更正施設を出て外界で暮らす事になっても困惑したりする事の無いように、更正中のプログラムの一環として月に二回程度のペースで担当官が彼女らを伴って街に出ると言うものだった。社会の成り立ちや仕組みについては施設の中でも教えることは充分に可能だが、それではやはり限界があり、百聞は一見に如かずと言う教訓もある事から実際に外に出て自分の目で見て学習させるシステムを取っている。言わば一種の社会科見学のようなモノだ。

 本来ならばこのプログラムは施設で教育を受けてから最低半年は経たなければならず、その半年の間に必要最低限の予備知識を学ばせてから実行される。セッテの場合はその基礎知識の覚え込みが早く、更には対人関係における必要最低限の対応方法や処世術なども徐々にマスターして来ているのもあって、施設での更正者の中では異例の早さでプログラムを受ける事が出来る状態にあった。後は、彼女の場合はその対人対応が型に嵌った形式的なものである為、実際の人間模様を見てそこに修整を掛けると言う意味でも今回のこれは重要な意義を持っていると言えた。

 だがセッテ自身にとっては、外の世界には大して興味は無く、今更実際に外に出たからと言って学べる事は無いとさえ考えていた。余所行き用に貰い受けた今時な衣服の類にも何の興味も湧かず、実際に着てみた今でも何の感慨も無かった。そして、窓の向こうの冬の海を眺める彼女の脳裏にはある一人の存在があった……。

 「そろそろ……兄さんも動いた頃でしょう」

 トレーゼ……彼女のナンバーズとしての実兄に当たり、自分よりも高い実力を持ち、教育者のトーレにも充分に比肩する唯一の存在。今頃は管理局の誘い出しの作戦にわざと乗って行動している最中であろう彼の姿を思い浮かべながら、セッテはそんな兄の事について思考していた。

 元々自分がここに出来るだけ長く留まろうとしているのは何故か? 彼に接触する為だ。彼に接触し、本人から直接手解きを受ける事で、ナンバーズ時代には得る事の出来なかった強さを吸収しようと言う考えだった。今現在自分がどれ程の実力を有しているかは全くの未知だ……ここで拳を振るえる相手はトレーゼ以外には居ないのもあるし、昨今の事件の忙しさの所為で姉妹の誰もここに立ち寄る暇さえ無いので、実力を正確に計る機会が得られていない状態であった。欲求不満とまでは言わないが、戦闘機人は戦う事を目的として造られており、特に直接戦闘用の彼女はその深層心理に少なからず刻まれた戦闘欲求を満たす機会を欲してさえもいた。

 だが、兄のトレーゼが言うには、その憂いも近い内に解消されると言う事を仄めかしていた。彼が何を予見しているのかは知らないが、恐らくその言葉は外れないのは根拠は無いが感じていた。あの兄が何の意味も無しにそう言う言葉を吐くとは到底思えなかったからだ。間違い無く彼の予見は的中するだろう……周囲が望んでも望まなくても、そんな事は関係なく一蹴に伏し、そして立ち塞がるモノを容赦無く消して行くのだろう。

 彼は“白”だ……。何物の色でも無く、一見して何色にでも染まるように見えながら、実際は染めようとして近寄る他の色を薄めて消してしまう凶悪な色だ。時には何色にでも染まって周囲に溶け込んで消え、時には色を薄めて逆に消してしまう……そんな二律背反の矛盾を許容して抱え込む存在が自分の兄なのだ。

 だから言える。

 彼はそこに居るのだと。どんなに薄くなってしまっても、それは薄くなっているように見せ掛けているだけであり、実際はそこに確かに居るのだ。

 そして狙っている。自分を染めようとするモノを逆に消してしまう瞬間を……。



 この時から既に彼女は『酔って』いたのかも知れなかった。










 午前8時47分、地上本部ヘリポートにて──。



 二つのプロペラが取り付けられた輸送ヘリに乗り込む人影が数人分……運転席に座る男性は後部のスペースに全員が乗り込めた事を確認すると、慣れた手つきでレバーを動かしてヘリを浮上させた。

 「今日は風が強いですから、しっかり部隊長もシートベルトしといてくださいよ」

 「おおきに、ヴァイス陸曹。せやけど、『部隊長』って言うのは余計やで。もう私は機動六課のトップやないんやから」

 「おっと! 失礼しました。どうにも昔のクセが抜け切らなくって」

 機体が大きく右に傾き、窓の外の風景が加速するのを眺めながら、後部スペースの座席に座っている三人は大人しくシートベルトで体を固定した。八神はやて、ジェイル・スカリエッティ、トーレの三人はこれから間もなく実行に移されるであろう『No.13鹵獲作戦』を離れた上空から直接指揮する為に現場に急行する所であった。

 「私はこう言った事は不慣れだからな……現場の指揮は全て八神二佐にお任せするよ」

 「あんた、そんなんでようナンバーズ率いとったなぁ……」

 「いや~、大体私が『レリック欲しいなぁ』とかって言うと、後はウーノとトーレで自動的に作戦立ててくれていたからねぇ。お陰でこっちはガジェットの研究に勤しめたと言うものさ」

 「今私は最低な脛齧りを見た……っ!」

 「はっはっは! 二佐は何を勘違いしているのかな? 三年前の騒動だって、本当は研究がメインであって、軍人紛いな戦闘行動を好んでやっていたと思うのかね?」

 「こ の や ろ う !」

 つくづくマイペースで会話をしているだけでも徒労に終わるだけで何の収穫も無いので、はやてはこちらが完全に疲れてしまう前にさっさと言葉を打ち切る事にした。対するスカリエッティも嫌な笑みを浮かべた後に、どこから持って来たのかも分からないアイマスクを装着して恒例の睡眠に入った。一体何の仕事が多くて体力を消費するのか、この堕落した科学者はこれでもかと言う位に良く寝むる。まぁ、害は無いのでそのまま放置しているのだが……。

 作戦が始まるのはここからずっと西に行った管理局地上西部支部……そこから更に南西へと移動した地点からの開始となる。作戦部隊との距離を上空2000メートルの位置から状況に応じて常時指揮し、その繰り返しによる連携で相手を追い詰める作戦だ。簡単そうに聞こえるだろうが、直接現場に居る訳ではない分、やはりこちらの下す指揮が常に的を射ていなければならず、指揮官としての資質が問われる作戦でもあるのだ。もっとも、弱冠19歳にして佐官の地位にまで登り詰めた彼女の手腕は伊達ではないので任せても良いのだろうが、相手はあの“13番目”……どんな方法でやって来てもおかしくは無いので、警戒しておくに越した事は無い。

 今回の作戦における勝利条件はたった一つ……餌として協力してもらっているウーノを死守し、それと同時に“13番目”を確保する事だ。最悪の場合、実行部隊の大半を犠牲にしてでも奴を捕獲する事を優先させなければならない状況も考えられるだろうが、それでも上に立つ者としてはやては大義を忘れる事は無いだろう。ここまで来てまで損失を怖れていては、今まで散って行った者達に顔向けが出来ないと言うモノだ。

 「……何としても成功させたい……。ここで犠牲が出たとしても、それは明日の平穏の為の高い投資……ケチっておったら話しにならん」

 「やっと、兵法の基本が貴方にも分かるようになったか」

 それまで無言で腕組みをして窓の外を見ているだけだったトーレからの言葉に、はやては無意識に眉尻が上がるのを感じていた。どうにもこの堅物を絵に描いたような彼女とは反りが合わないのか、言動の一つひとつが癇に障って感じが悪かった。

 「兵は駒だ……。戦う前は一人の個人でも、いざ戦場に立てば人権など無い……強ければ生き残り、弱ければ淘汰されるだけだ。そして、例えその過程で多くが失われても、指揮を執る上の者は決してうろたえてはならない。それが……指揮官の鉄則だ」

 「人の所の年端も行かん子供を駆り出しておいて、よくもまぁ、そんなもっともらしい事が言えるな」

 「あの二人はこの作戦を成功させる為の重要なファクターだ。彼らが居なければ、恐らくこの作戦は成り立たないが、それでも良いのか?」

 「偉そうに……! 何を根拠にそんなアホらしい事を言うてんのや!」

 「分かっていないのはそちらだ。貴方は奴を……トレーゼを本気にさせたいのか! あいつが本気になれば、このクラナガンを放棄しなければならない事になるぞ!!」

 彼女がここまで自身の弟の事を警戒しているのには理由がある……。トレーゼに仕掛けられた戦闘を強制させる暗示プログラム、『コンシデレーション・コンソール』……ナンバーズ以外の存在を認知した瞬間に発動し、感覚内に捕捉した存在が完全に沈黙するまで攻撃と殲滅を繰り返し続ける悪魔のシステムがあるからだ。彼女らの言う言葉が正しいならば、一度臨戦状態に入った彼は眼前の生命体が完全に死滅するか、あるいは同じナンバーズの中でも彼に対して命令権を持つ上位者でなければ止める事は不可能だと言うのだ。

 「……危うい状況になれば私が出る。その間に二人に撤退命令を出すかは貴方の自由だ」

 「言われんでも……。あの二人に何かあったら、私は一生フェイトちゃんに足向けて寝れへんからな」

 「私もだ……。ここであいつを止められなかったら、ドゥーエに顔向け出来ん。あいつは一番トレーゼを可愛がっていたからな……」

 「冷血なあんたらでも他人を可愛がるんやな」

 「可愛がっていたのはドゥーエだけだ。一番世話焼きだったのがウーノで、可愛がっていたのがドゥーエ……。それだけさ」

 「あんたは何やったん? あんたも一応はお姉さんやったんやろ?」

 「私の場合は……ただ上に立つ者として、ナンバーズの在り方をあいつに示してやっていただけだ。それ以外の余計な事は何もしていない」

 そう言ったのを最後にトーレはそっぽを向いて二度と話しては来なかった。何か都合の悪い過去でも思い出したのだろうか……はやての方もそれ以上の事は追究しようとはせず、窓の外に広がる灰色の街が遠くに離れて行く様子を眺めているだけだった。作戦が開始される時刻まであと十分を切った……今頃は現場に派遣したエリオとキャロも動き出した頃であろう。少し早いが、ここで現場の作戦隊長とコンタクトを取った方が良いだろう。

 問題無い、あちらの部隊も『動いて』いるのだから。










 午前8時55分──。



 「各員、所定の位置に着いたか?」

 隊長の声が通信回線に乗って隊員達の耳を打つ。これは確認の言葉ではない……たった今、この瞬間より本作戦が開始されたと言う通達でもあるのだ。エリオとキャロの両名が居るのは作戦エリアの最奥部、“13番目”を誘き寄せる餌として協力しているウーノを『収納』している空間だった。現在ここにはウーノを含めても彼らの三人しか居らず、後の隊員たちはその防衛ラインを築くかのようにして外側に守りの重点を置いていた。予定では作戦時間は午前九時から約二時間後の午前十一時まで行われ、その間ウーノを死守出来ればひとまずはこちらの勝利だ。逆にこちらが壊滅、もしくはウーノを奪取されれば敗北と言う、実に簡単な構図でもある。

 作戦が始まるまで後二分と言った所だったが、ウーノの直接護衛を任せられたエリオとキャロはいつの間にか彼女の話してくれる昔話に耳を傾けていた。内容は……これから彼女を奪いに来るであろう存在の事だった。

 「じゃあ、そのトレーゼさんも昔は……」

 「あの頃は良かった……。私もまだ子供だったのかしら……たった一人の『弟』が何よりも可愛かった」

 「でも、どうしてそんな人がこんな事を……?」

 「分からない……私にも分かりません。存在意義と矛盾していても、あの子は決して自ら好んで誰かを殺したり、何かを壊したりはしないはずだった……。この17年で変わってしまったとしか……」

 主であるスカリエッティから知らされた今でもまだ信じられない事実…………自分の記憶の中に存在しているあの臆病で泣き虫で、いつも姉の後ろをついて回る事しか出来なかったはずのあのトレーゼが、自分達を取り戻す為だけにここまでの事を仕出かすなんて思いたくは無かったのだ。この17年間、一度だって彼の事を忘れた日は無かった……始めは彼が貸与された事に納得が行かなかった時もあったが、三年前の自分達の行いに彼が加担せずに済んだと言う意味では内心ほっとしていた。自分達の汚らわしい行為に純朴な『弟』を巻き込まずに済んだと……そう思えた。

 「どうして……こんな事になってしまったのかしら……」

 「ウーノさん……」

 「もう、あの子を止められるのは貴方達しか居ないのかも知れません……。どうか、この作戦を成功させてください」

 彼女の懇願を聞き届けるように、次の瞬間に室内が大きく揺れた。そしてそのまま小刻みに程良いリズムを奏でるようにして『移動』を開始した。

 「はい! 必ず成功させて見せます!」

 エリオの決意の声と共に再び揺れて加速し──、



 彼らを乗せた貨物列車は東に向かって発車し出した。










 『No.13鹵獲作戦』……名前も然ることながら、その内容も至ってシンプルだった。首都圏に続くリニア路線に貨物列車を運行させ、その貨物室の一室にウーノを入れ込んで移動しながら相手を誘い込むと言う実に古典的な手法である。だが内実は簡単ではなく、列車の速度は時速70から100㎞……約二時間掛けてのノンストップ運行となり、途中に存在する如何なる駅にも停車せず、当然補給なども行わないで120分にも渡って警戒状態を維持すると言う神経を擦り減らす内容だ。作戦中における人員交代も当然無い……必要最低限での遂行となるのだ。

 ここで発生する疑問は一つ……どうして作戦エリアを『移動する車内』と言う特異な所に限定するのかだ。車両の中はカモフラージュの為に入れ込んだ他の物資や貨物などで混雑しており、運転車両を除いても全八両もの貨物車両に各三人ずつしか居ない人手不足にも見える人員の少なさもあり、一見すればわざわざこちらに対して不利な状況を作ってしまっているだけにも思える。

 だが実際には不利益は思ったよりも少ないのだ。まずエリアを移動車両に限定する事についてだが、これは相手に対して明確な『タイムリミット』を与える為だ。いつ来るかも分からず、ただ必ず来ると言う事だけが判明している敵を迎え撃つのにどこかの建物に籠っていたのでは話しにならない。どれだけ警戒していたとしても、それは始めの話だ……必ず集中が途切れ、そしてその隙を突かれて一気に畳み込まれて終わるだけだ。逆に言えば、今回の様に移動する貨物車両と言う括りを設けておけばそれを防ぐ事が出来るのだ。作戦エリアは常に移動を続けてリアルタイムでその位置を変え、時間が経つ毎に警戒レベルの高い都市部へと直行を続ける。更には走行時間……約二時間で首都に到着すると言う制限を設け、相手の心理に二時間までに決着を着けなければならないと言う焦りを植え付けるのだ。作戦を立案した八神はやて達の予測でも、敵がわざわざ自分を都市の目に晒してまで仕掛けては来ないとの見解を出している……都市圏に入り込む二時間と言う間を死守し続ければ、いくら本懐であるウーノが目の前に居ようとも相手は手を出す事を止めるはずだと踏んでいた。更に人数の少なさは各隊員のコンビネーションを最大限に取り計らっての計算配置でもあった。複数での作戦行動で最も精密且つ円滑に行動を行える最大人数は三人から四人……それ未満では戦力的に少なく、それより多ければ指揮系統が麻痺するからだ。それに一つの車両を担当する人数が少なければ、いくら相手が隠密に行動してチームの一人を始末すればその瞬間に分かると言うのもある。後は、侵入されたと判明すると同時に列車をその場で停車させて結界を展開……そこに部隊ごと閉じ込めるのだ。外部の線路を他の一般リニアが幾ら通過しても結界内には影響せず、閉鎖した空間で徐々に相手が消耗するまで抗戦を続け、そして捕縛する。念の為に首都リニア運行会社などに『危険物護送』と言う名目で警戒を発しており、もしもの事態に備えてはいる。

 移動を続ける車両……120分の制限時間……総勢二十数名の視線…………これが、限られた現状ではやて達が打ち出した最善にして最後の策だった。このたった三つの要素で相手を縛り上げ、尚且つ勝利をもぎ取ろうと言うのだから剛毅なものだ。逆に言えば、たったこれだけで行動を起こそうと言う実行力を賞賛するべきか……。必要最低限のコストと限られた人員での作戦は実行する部隊だけでなく、それを指揮するリーダーにも負担が掛かる……作戦の成否をその指揮官が握っていると言っても過言ではないからだ。

 だがしかし、ここで問題なのは勝つか負けるかでは無い。そんなモノは大義の前では些事に過ぎないからだ。

 勝たねばならない! 例えその結果を得る為に何かを大量に犠牲にしたとしても……非情な言い方をすれば、勝つ事が全てだからだ。はやてがこんな無茶な作戦を立てたのも、後には退けないと言う意思を明確にする為に自ら退路を絶って背水の陣としたからだ。

 ここが正念場……決戦の舞台となるのだ。

 彼らの固い決意を乗せた貨物車両は確かに速度を増しながら東へと東へと進んで行く。

 その旅路に一抹の不安を撒き散らしながら……。










 午前9時16分、クラナガン副都心のとある駅の構内にて──。



 『三番線から首都中央駅行き急行が発車致します。お乗り遅れの御座いませんようにお願いします』

 『五番線をリニアが通過します。白線の内側までお下がりください』

 『四番線に停車中の車両は、北部方面行きの特別急行で御座います。お乗り間違えの無いように────』

 数ある次元世界の中で最も文明的に発達したミッドチルダでは街の規模はもちろんの事、そこに住まう人間を日夜運び続ける駅などの大きさも半端ではない。首都を環状に取り囲むこの副都心の駅の一つを取り上げて見ても、その規模は少なく見積もっても日本の東京駅の五割増しはあり、当然駅は大手のデパートなどと合併していて純粋な買い物客を加えれば足を運ぶ人間はちょっとした遊園地ぐらいの数がやって来るのだ。休日などにはその数が更に激増し、駅の構内でも時折トラブルが発生する事もある。

 その意味では今日はとても平穏な一日の始まりと言えただろう。朝方こそ首都に出勤する山の様な人だかりで混雑はしたが、徐々に落ち着きを見せつつあるこの時間帯ではそれも目立たなくなって来ていた。特にこの首都とは逆方向に向かう下りのリニアが来るホームでは人の影は疎らで、平日と言う事もあってか旅行客らしき者達も殆ど居なかった。

 そんな駅の構内に設置されたベンチに座りこむ一人の少年が居た。

 「……………………」

 真冬にも関わらず全身を白い服で包んでおり、小さな文庫本を片手に座るその知的な姿はどこか神聖な雰囲気を醸し出しており、不用意には近寄り難い存在にも見えていた。だが良く見れば彼が持っているのは本だけではなく、左手はベンチに添えられていて、何か小さな物体を幾つか動かしている様子が見受けられていた。

 カードだ。もっと正確に言うなれば、二十二枚で一組となる寓意札……タロットだった。彼がかつてエリオ・モンディアルから魔力変換資質を獲得しようと画策した際に、暇潰し兼カモフラージュとして購入していた本に付録として付いていた物だ。あれでもう二度と出す事は無いだろうと考えていたはずなのだが、こうして予定の時刻が来るまでを何もせずに居ると言うのも不審に思われるだろうと、こうしてまた暇潰しの道具として持参しているのだ。今思えばよくも捨てずに居たものだと感心してしまう……。

 彼自身は占いを全くと言って良い程に信じていない……こうして札を並べたりしているのも本当はただの気休め程度の行為でしかなかった。だが信じていないだけで興味はあった……今回も前回と同じように人間の未来を占うやり方を行っており、決められた位置にカードを並べて寓意陣形を成立させて行った。ただし、ただ単に並べて丁だ半だと言っていても不毛なので今回は少しある事を試してみる事にしていた。

 占いと言うからにはその情報は正確でなければならないはずだ。偶然でも良いので三回連続で同じ絵柄を引けば、占いと言うのは古代の人間が発明した英知と認めてやろうと考えたのである。ちなみに前回引いたカードは第十番『運命の輪』の正位置……“定められた運命”を意味する曖昧なカードであった。何だかんだ言ってもたかがオカルト……そんなに期待はしていないが、ただの暇潰し程度にはなるだろう。

 「…………まぁ、どうせ、こんなモノだろうな」

 結果は見ての通りのバラバラだった。それはもうものの見事なまでに……。

 最初に引いたのは兵士が乗り込んだ馬車の絵柄──。

 次に引いたのは雲を突き抜けて天にそびえる塔の絵──。

 そして……最後の一枚には破れかけの黒衣を身に纏い、その手に巨大な草刈り鎌を握った白骨の怪物が描かれていた──。

 この付録が付いていた本の内容は一ページの細部に至るまで覚えているが、最初の一枚を除いて後のカードはあまり良いイメージが無かったと記憶していた。重ねて言うように、こんなオカルトは端から信じてはいなかったが、ここまで縁起の悪いとされているカードばかり引き当てるとなると興も削がれてしまうと言うものだ。

 何はともあれ、まだ予定の時刻には余裕があり過ぎている。自分の分だけ気休めにやっていても仕方が無いので、今度は別の者を対象にして見る事にした。だが一体誰にするか……。

 ふと──、

 彼の脳裏に一人の人物のヴィジョンが過った。何故その人物が現れたのかは分からない……だが、やはり所詮は暇潰しに過ぎないので深く考えない事にした。そうしていなければ、彼は自己嫌悪に陥っていただろう。

 自分と同じ様にして三回連続で占い、その未来を予測する。そして程なくして出たカードは……。

 第六番『恋人』。

 第十四番『節制』。

 第十九番『太陽』。

 その全てが正位置だった……。そこから予測されるであろう未来は──、

 「…………どうでも良いな」

 止めた。どこまで行ってもオカルトとは肌が合わない。こんな二十数枚程度のカードで未来を予測出来る程に時間の流れと言うのは単純ではない……五秒先に起こる出来事ですら予想出来ないのが普通なのだ。まぁ所詮気休め以外の何物でも無いので気にする必要も無いと言えばそうなのだが……。

 『七番線をリニアが通過します。白線の内側まで──』

 七番線は今彼が居るホームが面している路線だ。通過する車両は回送列車……特急などと違ってそれ程速度は出ておらず、目の前の線路を普通の急行よりも少し速い感じで通過して行った。

 駅の構内は良い……どんな人間であってもよっぽどの行動をしない限りは目立たない。街の人混みと同じであり、大量の人間が互いをカモフラージュし合うからだ。迷子の子供も、親子連れも、仲睦まじい夫婦も、職場に向かう大人も、帰省しに来た家族も、世捨て人になったホームレスでさえ……ここでは全員が平等に目立たない。走る者、歩く者、立ち止まる者、座り込む者も等しく風景と同じにしか見えない……まさに人造の灰色のジャングルだ。

 だから彼の姿でさえも目立たない。シルバーカーテンの能力を使うまでも無く、彼は人造の密林に溶け込んでいるからだ。

 故に──、

 「……10時方向」

 ピシッ。

 「7時方向」

 ピシッ。

 「1時方向」

 ピシッ。

 カードを並べる左手の指が時々何かを弾くように鋭く動く。その瞬間に何か紅い小さな物体が飛び出すように見えているが、それは人の目に着く前に色を失って消えてしまう。だが、打ち出された物体は確かにその射線上に存在している目標に命中していた。

 三人……それが彼の狙っていた人間の数だった。撃ち出された魔力の弾丸は対象の表面から染み込むようにして浸透し、そのまま体内に滞留した。別に魔力を分け与えるつもりでそうした訳ではない……今さっき撃ち込んだ相手は全てが管理局員だからだ。恐らくは今回の作戦を実行するに当たって派遣された監視担当の局員だろうが、八神はやてが派遣したのではなさそうだ。組織は常に金欠と言うのが定石……特にあの八神は今回の作戦を立てるだけでも相当な無理を押し通したはずなので、それ以上の増員を行う訳が無いと言うのが彼の予想である。これも予想でしかないが、彼女に良い気を持っていない管理局の派閥が内密に監視員を設置しのだろう……ヘマをすればそれをネタに発言権を獲得しようとして……。

 どの道にしても彼にとっては目障りなのは変化無い……今ここでと言うのは色々不都合があるので控えるが、その『仕込み』は今の内にしておいた。こちらがそうであるように上手く一般人に紛れたつもりだろうが、懐の中の僅かな熱源は携帯電話やウォークマンなどの物ではない……デバイスだ。バレるのも仕方が無い、密林ではカラフルな生物は真っ先に捕食されるのだ。

 「…………まだ、時間はある。さて、どうするか…………いや、やるべき事が、あったな」

 そう呟きながら立ち上がった彼はその足で駅の外に向かった。青い塗料で人のマークが描かれた標識の脇を通り、そのまま何の躊躇も無く人ごみに紛れてどこかに移動して行った。道行く人々は彼の存在に気付かないみたいに素通りを続け、遂に彼の背中はその波に消えた。その後彼がどこに行ったのかはまるで分からず、彼が再び戻って来るまでにかなりの時間を要した。

 二分……。

 五分…………。

 十分……………………。

 やがて時間を数える事を止めた頃ぐらいになってから、彼は再びそこに帰って来た。行く前と何も変わらない様子で、何の感慨も無く、何をして来たかも分からないままに……。

 「仕込みは、整った……あとは、ただ待つだけだ」

 再び先程のベンチに戻り、その上で寝たふりをしながら時間が来るのを待つ事にした。構内での睡眠は終電にならない限りは誰も咎めはしない……ある意味ではこれ程のカモフラージュは無いだろう。

 「……………………ねむ」










 午前9時42分──。



 「第二予測襲撃地点、クリア!」

 車内の隊員達の張り詰めていた空気が和らぐ……が、それは一瞬の事であり、優秀である彼らはすぐに気を引き締めて再び警戒に当たる。今回の作戦ではやてとスカリエッティが予測した襲撃ポイントは全部で七つ……その全てが地理的に考えて襲撃の可能性が高いと推測された場所だ。渓谷の上の橋、切り立った斜面、廃れた無人駅……その七つ以外にも可能性として候補に挙げられている箇所は幾つかあり、この二つ目の予測地点を通過するまでに三つ程はクリアしていた。

 「……これで二つ目ですね」

 「流石にまだ相手も動いては来ないでしょうね。こちらが油断するのを窺っていると言う事も考えられます」

 貨物室の中で息を潜めているウーノ達も、今の所は何も起こらずに済んでいる事に安堵しつつも、これから先に訪れるのかどうかさえ分からない敵の襲撃に常に緊張状態を維持していなければならなかった。冬の寒波がそのまま入り込んで来るはずにも関わらず、エリオの額や顎先を嫌な汗が伝い落ちて行く。

 「前に戦った時も車内だったっけ……。縁でもあるのかなぁ」

 エリオの言う様に、初めて“13番目”と相見えたのも移動中の車内だった。気絶してしまっていたので詳細は分からないが、あの直後に橋が破壊されてしまい、修復するのに多大な損害を被ったと聞いた。

 「…………お二人から見て弟は……トレーゼはどの様に見えましたか?」

 「どうって言われると…………私は……怖かったです」

 「僕もです。始めはとても強い人だと感じていましたけど……今思うと怖くって……まともに戦えるかどうか不安です」

 「私自身、あの子が本気で戦う所は見た事がありませんし、予想もしていません。ただ……ドクターが言うには、完成形として成長すればトーレと比肩するどころか、逆に凌駕すると聞いています」

 「そんな……!」

 「計算ではまだその域に到達してはいないそうですけど……それでも侮れない事に変わりは無いかも知れません」

 「もし……もし、誰も止められなければ……!」

 「いいえ、その心配はありません」

 「どう言う意味ですか?」

 心配無いと言い張るウーノの顔はとても気休めを言うような表情ではなく、本当に何らかの策があるような口振りである事は明白だった。だが、もしそうだとしてもその方法は何なのか? 武装隊一個中隊とも互角か、あるいはそれ以上の実力を有する戦闘機人を相手にそれだけ効果的な手段があるのだろうか。

 「犯人がトレーゼなら、時間は掛るかも知れませんがきっとこの方法が通じるはずでしょう……」

 「その方法って何ですか?」

 「私達ナンバーズの中でも、ドクターと上位三人の個体のみが持つ特殊条件下に限定して発動できるモノです……。それを行使すれば恐らくは──」



 『第三予測襲撃地点、接近!』










 「────────────」

 移動する車内の中を歩く大きな人影……『彼』なのか『彼女』なのか、或いはそのどちらも当て嵌まらないかも知れない“それ”は大股で堂々と車内を闊歩しており、その大柄な身長の所為で車両を繋ぐドアを潜る時には盛大に腰を曲げて入らなければならない程であった。どうやら車両ごとに何か異常が無いかどうかを見て回っているらしく、ドアを潜ってやって来た“それ”の姿を見た隊員達も特に気にする事無く警備を続行しようとしていた。

 しかし──、

 「────ッ!!」

 “それ”が大きく手を振り上げて貨物車両の壁を叩き飛ばした。当然のようにゴム風船を破裂させたかのような爆音が響き、周囲の隊員達の視線が一気にその場所に突き刺さる。鋼鉄の壁と手の間からは何やら蒸気が立ち昇り、離された部分は思い切り五指の形に凹んでいた。

 「お、おい。何かあったのか?」

 すぐに隊員の一人が聞いて来るが、“それ”はただ何も言わず……

 「──────」

 首だけ振ってその質問に答えるだけだった。その後、隊員達の怪訝な視線も気にする事無く“それ”はこの車両を離れ、腰を屈めてドアを潜って次の車両に向かった。だがそれまでの車両とは違って矢継ぎ早に確認を済ませるだけで、早歩きで後続の車両を駆け抜けた後、一番先頭に位置する運転車両に入り込んだ。車両の運転手は“それ”の存在を知らなかったのか、少しギョッとした表情になっていたが、その隣に居る人物の制止で“それ”が安全だと把握したようだった。運転手の隣に控えていたその人物は“それ”の元に寄って来ると、何があったのかを問い質した。

 「──────」

 “それ”は無言で自分の掌を見せた。さっき貨物室の内壁を叩いた方の手である。大人の顔ぐらいの大きさはある手には何か細い針金のような物体が張り付いて……いや、潰されていた。小さな本体部分に取って付けたようにして細い針金みたいな肢が六本生えている蟲だ。日常では恐らく見掛ける事は滅多に無い種類だ……これを知る者は一部の生物学者と、これを『使う』と言う限定された目的を持つ者の二種類しか居ないはずだ。

 しばらくそれを黙って見つめていたその人間は“それ”に目配せした後、運転手に断ってから車内放送用のマイクを引っ張り出し、スイッチを入れた。

 警告を発する為だ。



 この車両は見張られていると──。










 午前10時10分──。



 「全滅……か」

 発見から三十分……こちらが貨物列車の正確な位置を把握する為にと斥候に放ったインゼクト達が次々と駆逐されているのが感じられた。どうやら勘の良い輩に気付かれてしまったようだ。

 「……………………そろそろ、動いた方が、良いのだろうか」

 それまでずっと座っていたはずのベンチは少しも温まっておらず、彼が離れた後も誰も座っていなかったかのような冷たい温度を保ち続けていた。そのまま足はホームの端の白線に向かい、その縁から足を差し出して──、



 『七番線、リニアが────』










 午前10時28分、路線を移動する貨物車両の上空にて──。



 「危なかったな……まさかあれ程の大量の蟲を用意していたとはな」

 報告があったのは三十分前……つまり、発見から半時間も掛けて全ての仕込みの蟲を駆逐したと言う事だ。今報告されている数はざっと160……一つの車両に二十匹近くの蟲が潜んでいたと言う事だ。決して管理体制がずさんだった訳ではなく、むしろこの日の為にこの車両だけは別の車庫に入れて欠かさず点検していたはずだった。出発前の最終チェックでも異常は無かった……どう考えても走行中に取り付かれたとしか思えない。だとすれば、この付近に必ずそれを飼い慣らしている者が居るはずだ。使役系の魔法は正式な契約を結んだ使い魔以外では自律性に欠け、特に蟲は使役者の魔力センスに大きく左右される……自身の魔力が及ぶ範囲でしか命令を下せないはずだ。

 「だがあのトレーゼともなれば遠距離からでも支配下に置く事も可能かも知れん……。充分警戒する事だな」

 「一応、車内の捜索を続行するように言っといたから、少しは安心やな」

 「念の為に運転車両に居るであろう『抑止力候補』にも連絡を取っておきたまえ。相手が蟲ならきっとお手のものだろうからな」

 「そう思ってとっくに頼んであるよ。他の隊員さん達にも引き続いて車内の警護をしてもらうように言うてあるから、これでまだ湧いて出て来るようやったら流石に停車して結界を張った方が良えかも知れんなぁ」

 窓から下界の路線を走る貨物車両を眺めるはやて。今の所は何とか走行していても問題無いレベルではあるが、その均衡がいつ崩れるかも分からない以上は必要以上に警戒してしまうものだ。スカリエッティ自体は“13番目”が来るのは確定的だと言い張るが、当の本人がどのタイミングで来るかは言っていない……。現在七つあったはずの予想襲撃地点はその内の五つまでを消化しており、その間何も起こる事無くここまで来てしまっていた。現在通過を目指している第六地点とその向こう側に存在する最後の第七地点との間隔はそれまでのポイント間の中でも一番の距離を空けており、手薄になっているここを突かれるのではないかと言う懸念も発生していた。もちろん、車内の隊員には厳戒態勢を続行するように通達してはいるが、その集中力もいつまで保っていられるかは分からない。

 「……敵とは言うても、腹の探り合いって言うのは趣味やないんやけどな……」

 「ほほぅ、もし本当にそうなら、二佐殿はよほど世間知らずなのだな。人間誰でも互いの黒い部分を探さずには居られないものさ」

 「黒い部分しか無いあんたにそんな事言われるなんてな……」

 軽く互いに憎まれ口を叩き合った後に今度は運転席のヴァイスに声を掛ける。

 「陸曹、レーダーに反応は?」

 「今の所は異常無いですねー。進行方向の方から高速で接近中の熱源がありますけど、下りの特急らしいっす」

 「引き続き警戒をお願い。実行部隊長、報告!」

 『こちらも現在各車両内のインゼクトの駆除を継続中ですが、もう車内には居ない模様です。各車両からの報告でもこれ以上の確認は成されていません』

 「ご苦労さま。蟲の駆除を切り上げた後で再び車両の警備に戻ってください。…………ふぅ」

 「お疲れかな?」

 「それ程でもなかったはずやったけど、あんたのその嫌な顔見たら本当に疲れて来たわ」

 スカリエッティの顔を押し退けるようにしてはやての視線が窓の外に移る。眼下を走る列車の中にはかつて自分の下で手腕を振るってくれた若い騎士と召喚士が居る……前途ある若いあの二人をこんな死地に送り出す事になってしまい、フェイトではないが彼女も気が気でなかった。

 「そう言えば、まだ聞いて居らんかったな」

 「何がだね?」

 「あんたと違う……そっちや」

 顎で示した先に居るのは一人しか居ない訳で……。それまでずっと黙り込んでいたトーレが顔だけを向けて質問に応じる姿勢を見せた。

 「何か?」

 「そろそろ話してくれてもええやろ? この作戦の重要ファクターにエリオとキャロを選んだ理由を……」

 「別に隠そうとしていた訳ではない。私にとって重要なのはこの作戦の成否のみ……その為の布石を敷いた後の事は預かり知らぬ所だからな。言わなくても良いと思っていた」



 「ええから話せっちゅうに」



 ドスの利いた声が聞こえるのと同時に、トーレは自分の首筋に殺人的な冷気を帯びた物体が突き付けられるのを確認した。氷の刃……目の前に居るはやての右手から真っ直ぐに伸びた絶対零度のその切っ先が彼女の首筋を狙っていた。社会の酸いも甘いも嗅ぎ別けて来た普段のはやてでは決して見せないはずの苛立ちの波動が空間に充満し、武装隊一個中隊を前にしても怖じ気付く事が無かったはずのトーレがその迫力に後退りしそうになる程であった。

 「ふむふむ……どうやら二佐はとてもお怒りのようだ。例え薄皮であっても、掻かれる前に言ってしまった方が良いぞ、トーレ」

 「…………分かりました」

 降参と言うような感じでトーレが両手を上に上げた。透明な氷の武器が虚空に消え、場の空気が一応の鎮静化を見せてくれた。互いに微妙に佇まいを直した後、改めてはやてが口を開く。

 「で……本音はどうなんよ?」

 「……………………私達上位ナンバーズの中で、一番世話を焼いていたのがウーノで、可愛がっていたのがドゥーエだと言ったな?」

 「憶えとるよ」

 「私は……いや、どう言う訳か知らないが、あの『弟』が一番懐いてくれていたのは他でもない私自身だった。今でも不思議だ……こんな堅物をどうして懐ける要素があったのか。だがそれを良い事幸いに、私は当時自分が持ち得ていた技術の全てを叩き込んでやるつもりだった…………そう、そのはずだったんだ」

 「はずだった……ねぇ」

 「一番世話を焼いていたのがウーノで、可愛がっていたのがドゥーエ…………一番甘やかしてしまったのが私だった。いつもいつも金魚のフンみたいにくっ付いて来るあいつを鬱陶しく思いながら、私はいつも必要な事は教えてやれなかった……最低な姉さ。だがな、一番長い時間を一緒に居たから分かる事がある」

 「……何や?」

 「少なくとも、昔のあいつなら利己的な理由の為だけに何かを破壊したり殺したりする事は無かった……昔ならな」

 「アホな! 時間が止まっているって言うんかいな!?」

 「ああ、そうだ!」

 強くはっきりと言い張ったトーレの語気に、今度ははやてが仰け反る番だった。

 「あいつは17年間封印されていたのだろう? 一度も外に出される事も無く、内部フレームを交換する回数を減らす為に肉体がこれ以上成長しないようにと! その過程でコンシデレーション・コンソールが失われ、それでもあいつは眠ったままだった!」

 「……なるほど、そう言う事か」

 先にトーレの言わんとしている事を勘付いたスカリエッティから失笑にも似た小声の笑いが漏れ出た。すぐにはやての方にもその意図が掴めたようだったが……。

 「でもそれは……必ずしもそうとは限らへん!」

 「だから私は言ったはずだ、『賭け』だと。視認した者を敵と見なすコンシデレーション・コンソールが働いておらず、尚且つ17年もの時を目を開ける事無く封印されていたあいつの精神は……あの時のままで停まっているはずなんだ」

 良くも悪くも人間の形をして生まれている以上、閉塞した環境下ではその精神的成長速度は他人と比べても著しく劣る……それも全てが凍結した氷の世界で十年以上にも渡って封印されて外界との接触を断たれていたなら確かにそれも頷ける道理ではある。そして彼女らの証言通りに時を遡れば、17年前のトレーゼは常人で言う所の五歳程度……そのままの状態で封印されたとするならば、現在の精神年齢は多めに見積もっても精々十歳だ。十歳と言えば丁度エリオ達と合致する……そして、精神が未熟である者は自分と年齢的に近しい者を敵視する事は少なく、傷付け合う事も少ない。

 だがもちろんそれは普通の人間の話だ……。トレーゼの行動は明らかにそれらを超越した動きを見せている……精神が幼い者は殺人を犯さないし、当然破壊行動をする事も無い。

 「精神年齢が17年前で停まっておるからって、それは曲解や。希望的観測を越えてただの現実逃避や」

 「貴方があの二人を信じるように……私も自分の『弟』を信じていたい。敗北を喫し、敗者の矜持と言い張って縋っているだけの弱い私に残った最後の光を……否定しないでくれ」

 「…………」

 そう言われるとこちらも弱ると言うモノだ。人の情に訴え掛ける言い方をされたらいくらはやてでも心が揺らぐ……。むしろ誰よりも先に人の世の常を身に沁みて経験している彼女だからこそこう言う部分が弱いのだろうか。

 「それに、ある者は四肢を断たれ、ある者はデバイスを破壊され、またある者はその両目を潰された……。だがあの二人は閉鎖空間であいつと真っ向から戦い、そして他の誰よりも軽傷で済んだ唯一のケースだ」

 「でもそれは、血液を採取する為のって……」

 「血液を採るだけなら殺してからでも出来る事だ。それに同伴のルシエを殺さなかった理由にはならない……無かったんだ、殺すつもりなんて始めから。深層心理のどこかで今でも殺傷行為を拒んでいるとしたら……そして、それが自分と近しい同族にのみ向けられているとするなら…………あいつはあの二人を殺す事は出来ない」

 「……………………」

 「頼む……私を信用して欲しい。信頼しろとは言わない……この一時だけを私に賭けてくれればそれで良いんだ。責任を取れと言うなら首だろうが心臓だろうがくれてやっても構わない…………今はただ、あいつを信じるこの私を信用してくれるだけで良いんだ」

 真摯な眼差し……とてもかつて犯罪行為の実行犯だったとは思えない澄んだ視線だ。はやてはこの目を知っていた……かつて自分が闇に堕ちそうになった時に手を差し伸べてくれた優しい風……今はもう居なくとも、自分の心に確かな遺志を残して去って行ったあの時の“彼女”と同じ目をしていた。自己を犠牲にしてでも何かを貫き通そうとしている、そんな目だった。少なくとも、はやて自身が歩んで来た人生の中ではこんな目をしている人間には俗に言う悪者に分類される者は居なかった……ただの勘であっても、今はこの戦闘機人の事も信用しても良いのかも知れない。

 せめて、この瞬間だけなら……。

 そう考えた彼女は目の前の無骨な機人を見据え、その真意を汲み取った後で、了承の頷きを返そうとして──、



 下を走る列車が火を吹く瞬間を目の当たりにした。










 午前10時34分、貨物車両内にて──。



 「報告! 報告! 何が発生したんだ!?」

 隊長の怒号が回線に乗って全車両の隊員達に轟く。すぐさま各員から報告の通信が返ってくるが、どうやら目標の居る車両には問題は発生してはいないようだった。だが、問題が発生していないのはその車両だけであり……。

 「八神二佐! どこからの攻撃だ! 警戒していたんじゃなかったのか!!」

 自分達の任務は車両内の警戒……外側周辺は上空のヘリからレーダー索敵で終始監視を怠ってはいないはずだった。だが突然車両を真横から襲ったこの衝撃は明らかに突風なんかではなく、全力疾走の軽車両がぶつかって来たのではないかと思えるぐらいの衝撃だった。だが道路や幹線などが完備されている都市部はまだずっと先……この路線には真横に道路などは通っておらず、当然トチ狂った運転手でもない限りはわざわざ突っ込んで来たりはしない。それにここに居る隊員達は年齢にバラつきこそあれど全員がプロだ……今さっきの衝撃が魔力を利用した弾丸による物である事はとっくに勘付いていた。

 だが車内に居る彼らにはそれがどこから飛んで来たモノかは分からない。その正体を突き止めるには何としても上空のHQからの情報を必要としていた。そして待ち望んだ返答は──、

 『────────』

 「HQ! HQ! 応答しろ、八神二佐っ!! 通信が阻害されている!?」

 映像回線に映る映像は砂嵐、聞こえて来る音声もビニール袋を掻き回しているかのような雑音が響いて来るだけで何も人の声がしなかった。以前どこかの次元世界の戦地で似た経験をしていた作戦隊長はこれをすぐに通信阻害の魔法か電波によるものだと見破る事が出来たが、そんなものが分かった所で外で何が起きているのかは把握出来ていない……。幸いにもこの車両には天井付近に通じるハッチが一つだけあるので、危険は伴うだろうが誰かがそこから外を確認するしか無さそうである。あわよくばそうする事で上空の八神はやてとも連絡を取れるかも知れない。

 早速隊員の一人に指示して収納されていたハシゴを伸ばし、ハッチを抉じ開けて上半身だけを外に出させた。列車そのものはまだ走行しているので、開けたハッチから流れ込む風が車内を駆け抜ける。

 「状況はっ!」

 「さ……最後尾車両の連結部分が半壊! 警備に当たっていた班がこちらに移動しています!」

 最後尾車両にウーノは居ない……どうやら当てずっぽうの攻撃だったようだ。上空に構えている八神に連絡を入れるべく、隊長は上の部下の尻を叩きながら次の命令を下そうとした。

 「おい! 今すぐ飛んで上空の八神二佐に指示を仰げ!」

 この列車に乗り込んでいる隊員はエリオとキャロを除けば全員が空戦スキル持ち……あの二人もフリードを使役する事を考えれば、事実上この作戦に参加している全員が飛行可能な状態にある。2000と言う距離は空戦能力を持つ魔導師にとって大した距離ではない……なので、ものの数分も掛らずにこの部下は任務を終えて戻って来るはずだった。



 そう……はずだったのだ。



 「おい……どうした!?」

 返事が無い。管理局は軍隊ではないが、武装化した組織を抱えている以上はその規律はとても厳しい。隊長や階級が自分より上の者に対しては逐一返答をしなければならないと言う暗黙の掟があり、上下関係をはっきりさせる為の措置が常に取られている。

 そのはずなのにどうした事か、目の前の隊員からは何の返答も無い。イエスもノーも何もだ。

 ハシゴに掛っていた足が小刻みに震えているのが見え、やがてその震えが最高潮に達した瞬間──、

 落ちた……首の無い体が。

 見事に砕け散って消滅した頭部からは血液が噴出し、本来その中に収まっていたはずの脳髄は弾け飛んだ時の衝撃と進行方向からの風に吹き飛ばされて四散してしまっていた。

 「これは……!」

 状況を把握する能力に長けた彼はすぐに勘付いた……狙撃されたのだと!

 「──ッ!! 総員に告ぐ!! 車内から出るなぁ! 狙撃の可能性がある!! 繰り返すッ……車外に出るなぁっ!!!」










 「ヴァイス陸曹、レーダー確認!」

 「言われなくてもやってまさぁ!」

 下方を走る貨物車両の最後尾車両がいきなり爆発したのを見てから、ヘリの中も一気に慌ただしくなった。攻撃はいきなり何の前触れも無く来襲し、問題の後部車両はなんとか皮一枚で留まっている状態である事が上空からでも確認出来た。あのままでは走行に支障がある……途中で切り離した方が無難だろうと思っていると、案の定手前の車両に居た隊員が接続部を直接破壊して路線の上に置き去りにした。どうやらあの隊長は思っていたよりもずっと指揮の手腕に長けていたようだ。

 だが問題は進展しない……。この一帯に張られているジャミングの類の所為で通信が全く届かず、上空からの指示を出す事が不可能な状態にあるからだ。かと言って狙撃の危険性があるこの状況では迂闊にヘリを下降させる事も出来ない……今はただ、攻撃がどこから飛んで来たのかを計算する事しか出来なかった。

 ヘリに持ち込まれたヴァイスの持ちデバイスであるストームレイダーが大至急で空域に残った魔力残滓を検出し、その軌道を再現してどこからどの軌道で飛来したのかを算出している。あれだけの大出力の攻撃があったにも関わらず、直前までレーダーには何の反応も無かったのが不可解なのか、ストームレイダーも半分躍起になって計算を行っていた。

 『現在こちらに時速100㎞超で接近中の熱源有り』

 「おいおい、百キロって……! 相手はどんな化けモンだよ!?」

 「初撃の弾道は!?」

 『計算ではこの結果が出ました』

 ホログラムに映し出された現在地帯の立体映像に路線を表す細い線と、その上を走る列車、そして更に上空に今自分達が居るヘリを示す光点を表示し、攻撃を受けた瞬間の位置関係を事細かに再現してくれた。そして、問題の攻撃が飛ばされた方向だが……。

 「列車の真正面からって……んなアホな!」

 攻撃の発射が成されたと予測した地点は何と、列車の進行方向に約1000メートル先だった。都市部に近付きつつあるこの付近では既に路線は都市の終点に向かってほぼ直線に敷かれており、発射視点はその先にあると言うのだ。だが実際に攻撃が飛んで来たのは真横……ここから導き出される解答は、真正面から飛来した弾頭が途中でほぼ直角にカーブしたと言う事実だ。だが魔力弾はその内包されている出力と反比例して精密な軌道操作が困難になる……ましてや車体を横に大きく揺らすだけの威力を秘めた弾丸をその発射軌道途中でカーブさせるなど聞いた事が無い。それこそ高町クラスの腕前を持った者でしか出来ない芸当だろう。同じ射撃魔導師としてヴァイスが驚くのも無理は無い。

 「でも何でそんなまどろっこしい事を……?」

 真正面から堂々とやって来ているのに、何故敵は弾道を無理矢理変えてまで列車を襲撃する必要性があったのか? それに、今こうして足下の列車を監視していても、次の攻撃が全く来る気配が無い……。だが相手はそれでもこちらに向かって来ているのだ! 時速100㎞超……脅威的な速度でだ。

 「時速100㎞……? なぁストームレイダー、敵さんは単独でこっちに向かって来ているんだよ……な?」

 嫌な予感がする……狙撃手と言う職業柄、どうしても戦場では必要以上に警戒してしまうのか、すぐさま相方に確認を取った。自分の嫌な予感が的中していないと信じたいが為に……。

 だが──、

 『ええ、確かに現在進行形で敵性対象はまっすぐこちらに向かって来ています』

 「どんな方法でだ……?」

 ホログラムに表示される赤い光点は確かに猛烈な速度でこちらに向かって来てはいる……だが、熱源反応は二つ有り──、



 『下りの特急リニアの後部に付属する形で……ですが』










 風を感じる……。

 すぐ目の前を走行するリニアと同等の速度で走っているのだから当たり前だ。だが魔力は何も使用してはいない……脚に装着した武装のローラーも猛烈に回転して推力を生み出しているが、それも自分の力で動かしているのではない。

 ではどうやって眼前の特急と同じ速度で走っているのか?

 簡単だ……。

 複数の電線を束ねた極太のロープ……それを腰に巻き付け、反対側を車両に引っ掛けているのだ。レールの片方に足を乗せ、牽引される形で走行していた。

 両手に構えられたるは巨大な黒い弓矢……炎の魔剣、レヴァンティンが持つ変形機構の中の唯一の射撃形態を手に、彼は腕の長さはある長大な矢をつがえた。半実体化した魔力の弦を一杯まで引き、自分の魔力のほんの少しだけを上乗せした後……。

 発射!

 紅い流星痕にも似た鋭い残像が一閃──、高速で移動を続けるリニアの脇を駆け抜け、およそ1000メートル先に位置する標的目掛けて飛襲した。車内に居る乗客達は誰一人として窓の外を音速で移動した物体には気付かない……黒檀の矢はそのまま何の抵抗も障害も無いままに飛翔し、目標である対向列車のすぐ前まで迫った。

 だが命中させるべきはそこではない。そこに当てたら『止まってしまう』から。

 どうする?

 変えるのだ。

 何を?

 射撃の軌道を無理矢理に!

 そう難しい事では無い……魔力弾の軌道操作は熟練の魔導師なら造作も無い事だ。だが今回のように大出力のものとなるとそれも一気にレベルが上がる。一度射出されたそれを軌道修整するには、撃ち出したそれよりも大きな魔力で操作しなければならず、もちろんそれにも限度がある。故に弾道修整が掛けられるのは俗に射撃魔法に分類されるものだけであり、バスター級の砲撃魔法になればそれは常人にはほぼ不可能になる。そしてこの【シュツルムファルケン】もどちらかと言えば後者に当たる。

 だが彼には出来る。彼は常人どころか、人間ですらないからだ。

 「曲がれ……」

 分離したとて自分の魔力……彼の魔力を用いれば操作する事など容易い事。壁に当たって弾けるビー玉のように空中で回転した矢は、その矛先を直角に変更し──、

 目標の最後尾車両に命中した。

 これで良い、後はあの車両に……。

 と、思っていた矢先に、異常を確認しようとしたのか列車の上部から何者かが上体だけを覗かせているのが遠目に確認出来た。この攻撃の目的は牽制……出て来てもらっては困るのだ。

 「邪魔だ、降りろ」

 左手を銃の形に見立て、その先端に魔力を集中させる。距離は目測でおよそ500……デバイス無しで狙えない距離では無い、むしろ彼にとっては余裕な距離だ。

 結果は当然ヘッドショット……。これであちらも車外に出る事は出来なくなった。後は……



 列車の運転を止められる前に乗り込むだけ!










 「あかん! 陸曹、すぐにヘリを下げて!」

 上空からの視点で相手の狙いに気付いたはやては運転席に命令して降下を指示した。しかし──、

 「あの攻撃見なかったのかよぉ! 近付きでもしたらプロペラ狙い撃ちされるっての!!」

 「ハハハ、安心したまえ。そうなったら八神二佐とトーレは脱出するだろうから、君には寂しくないように私と一緒に死出の旅に出ようじゃないか!」

 「誰が野郎と一緒に逝くかぁっ!!」

 「と言う事だ。ヘリごと降りるのは些か無理があるよ、八神二佐」

 「なら私だけで行くっ!!」

 そう言ってハッチの開閉ボタンを押して外界に続く鉄のドアを抉じ開けた。プロペラに煽られた突風が吹き抜ける脇で、スカリエッティがちゃっかりシートベルトを締める。

 「無茶だって! そんな眼で行ってもまともにやり合えねぇって!」

 「じゃあ、どないしたら……!」

 「私が行こう」

 代わりに立ったトーレがハッチに歩み寄り、端から体を半分反り出す形で簡単に準備を完了させた。だが、かつてのような防護ジャケットは身に付けておらず、戦闘的にはほぼ生身の状態での出撃となる。

 「行けるのか?」

 「ご心配無く、ドクター。有事の際には私が動く……そう言う契約ですから」

 そう言った矢先、彼女の足元に紫色のテンプレートが展開……ヘリを列車の真上に合わせるまでもなく音速の翼を駆って飛び出し、もうすぐ戦場になろうとしている場所へと急降下を開始した。その背中を確認しなくても良いだろうと言わんばかりにハッチは閉じ、ヘリの中だけに束の間の静けさが戻った。ストームレイダーが映し出すホログラムにはヘリを示す光点から分裂した別の光点が地上に向かって降下して行く様子をリアルタイムで映していた。

 「うまくやってや……」










 運転手は急いで先頭車両に向かって全力疾走していた。車体が急に横揺れした時、何があったのかと思わず後ろの車両に行っていたのがいけなかった。本来彼に与えられていた役目は二つ……目的の方角に向けて車両を進める事と、襲撃があれば即座に車両を停止させると言う二つの役目だ。相手が懐に飛び込んだのを確認してから結界を張るには、どうしてもそのポイントが動いていては結界の構築が安定しないからだ。

 だが実を言えば彼はこの作戦の正式な隊員ではないのだ。管理局と繋がりのある警察関係の組織で、日本で言う所の鉄道警察に当たる部署から車両の運転技術のある人員を融通してもらい、臨時隊員としてここに居るのだ。もちろん、人員の融通に関しては裏の方法で事を運んだのだが……。とにかく彼は今回の作戦については殆ど深い事情は知らず、護送されているモノについてもリニア運行会社同様に『危険物』と言う認識しか持っていなかった。当然武装隊のように修羅場を潜った訳でもなければ肝が据わっている訳でもなく、突然の事態に驚いた彼はオート運転に切り替えてから持ち場を離れてしまったのだ。それを見た隊員の一人に怒鳴られるように持ち場に戻れと言われて我に返り、そして今こうしてここまで帰って来たのである。

 オートにしていたシステムを再びマニュアル操作に切り替えようと、彼が運転台に手を伸ばした時──、

 ドウッ!!

 「っ!?」

 なんて事は無い、すぐ横の路線を対向車である特急がすれ違っただけだった。特急の速度は100㎞超……こちらの車両も同じ位の速度で走っているので、窓の外の車両は相対速度で途轍もない速さになって見えるだけだ。異常事態が起こって少し臆病になっているようだ……さっさと車両を止めてここから逃げよう。

 そんな余計な事を考えながら緊急停止用のスイッチに指を掛け……



 フロントガラスに人が立っているのを見てしまった。



 そう、『見てしまった』のである。それはつまり、『見る』と言う行為をするに当たって数瞬とは言え時間を費やしてしまったと言いたいのだ。見る……つまりは眼球で『捉え』、視神経で『伝達』し、最終的に脳で『認識』すると言う一連のプロセスを指し示している。

 そして、彼が次に認識したモノ……それは──、

 こっちを睨みつける金色の眼球。

 振り上げられた黒い鋼鉄の足。

 それが叩き付けられた事によって砕け散るガラス。

 そして……その“侵入者”としか形容出来ない存在がこちらに対して放った短い言葉──。

 「邪魔……だから潰す」

 世間一般で言う、『死刑宣告』だった。










 「さて……まず、最初に……」

 篭手型武装『ジェノサイドストライカー』を装備したトレーゼの鋼鉄の手が台の上にある速度調節用のレバーに触れ、それを一気に加速の方向に突き上げた。犬が西向けば尾は何とやら……当然の如く貨物車両は更に速度を上げ、限界速度である140㎞にまで達した。床の下からレールと車輪が摩擦する音と振動がうるさく響いて来るのが分かり、それはここだけではなく後続の車両でも同じ事だった。だがこちらに突入して来た隊員に止められてはいけないので、レバーを剛腕で引き抜き、窓の外に放り投げる。その他の緊急停止用のボタンだとか、車両を停める可能性のある装置は全て叩き潰す。デバイスの素材に使用されている金属は鉄鋼の数十倍の硬度を誇る……そこに機人の腕力が加われば、あとは壊せない物など殆ど存在しない。

 これで結界は張れない。だが、そうこうしている間に足の速い隊員の一人がやって来る気配がドアの向こうから感じられた。列車が停止しない事を不安に思って足を運んでいるのだろうが……。

 「……マキナ、フォーム、『ストラーダ』」

 手に握られた長剣が瞬時にその姿を変え、持ち主の身長にも匹敵する長さの槍に変形する。それを古代人の彫像にあるような投擲の構えに持ち、見据える先のドアが開かれるタイミングに合わせて──、

 「おい! 一体いつになったら停め────」

 「邪魔だって言ってる」

 その顔面を貫いた。正中線……出っ張りの鼻を骨と気道ごと押し潰し、皮膚が巻き込まれる過程で飛び出した眼球を払い除けた後、切っ先が後頭部を貫通したのを見届けて、更にそれを……捩じ切った。下半身の重量で首は自然に落ち、歪な蛇腹を模した脊髄が動脈血と共に飛び出すが、トレーゼはそれを全く気にする事無く得物の先端から取り外し、紺色の防護ジャケットを二人目の血で濡らしながらゆっくりと確実なる歩を進め始める。

 「ウーノ……どこに居る?」

 その問いに答える者は無く、代わりに後続の隊員が次々にやって来るだけだった。だがそんなモノは眼中に無く、彼はただ真っ直ぐに自分の通る道を歩むだけだった。

 その先に居る姉を探し求めて。










 「ウーノさんっ、早く! 早くこっちに!」

 小さな槍騎士に手を引かれるままウーノは貨物室の隅、他の大きな荷物などがひしめき合う隙間に隠れた空間に押し込まれるように誘導された。あまりに突然の事に戸惑いながら彼女は二人の言う通りにしてそこに入り込み、息を潜めた。

 「キャロ、お願い」

 「うん!」

 空間に入ったのを確認し、間髪入れずにキャロがケリュケイオンをかざして地面に魔法陣を描く。ほんの数秒間、車両の中が鮮やかな桃色の光りで覆われた後、エリオが再びウーノの前に荷物を置いてその姿を隠した。今彼女に施したのは軽い隠蔽用の魔法だ……一種の結界と原理は同じで、その魔法が掛かっている領域を意識しない限りは目立たないようにすると言う至って子供騙しのようなものだった。だがこの状況に限って言えばこれはとても効果的だと言えた。敵はとても優秀だ……いくら逃げたり普通に隠したりするだけでは、必ず追って来て仕留められるのがオチだ。だが、相手は大胆な行動に出る豪胆さを持ち合わせながらも、自らの立てた作戦を完璧にこなす事を自分に課している一面もある。となれば、ここを突き止めた敵はより確実にウーノを連れ出す為に、まずはエリオ達を抹殺する事を優先させるはずだった。もちろんあくまで本懐はウーノの方なので彼女の捜索をするつもりだろうが、眼前に敵対する者を相手取ってそこまで余裕を見せるはずはない、むしろ全力で始末しに来るだろう。だがそうなれば意識の大半はこちらに注がれる事となり、ウーノが隠れているスペースはまず見逃される。それからどれだけ耐えれば良いか分からないが、時間が経てば応援が来るはずだ。

 「問題は……僕達がすぐに殺されちゃったりしないかって事だね」

 「前の方に居る人達とも連絡が取れないよ……」

 デバイスが発するはずの生命反応が無い所を見ると、どうやらその大半がやられてしまったようだ。相手が突入を果たしてからまだ五分と経っていないにも関わらずこの有様……それをたった二人で食い止めるとなればかなり無謀な話である。

 だがやらねばならない。ここで自分達が倒れれば作戦は水の泡、全てが無意味だったと言う事になってしまうから。例え最後の一人になったとしても……いや、刺し違えてでも食い止めるのが使命だ。

 と、一つ手前の車両が何やら騒がしい。徐々にこちらに声が近付いて来ているが、剣戟の音がしない所を考えるとどうやら単にこっちに向かって前の車両の班が移動して来ているだけのようだ。程なくしてドアを荒々しく開け、五人の隊員達が駆け込んで来た。あんなに居たはずの他の顔ぶれが居らず、バリアジャケットが所々血に濡れているのはやはりここに来るまでに修羅場を潜って来た言う事だろう。

 「坊主! 無事だったのか。なら丁度良かった、今すぐこの車両を切り離すから手伝え!」

 「切り離すって……運転席はどうなってるんですか!?」

 「あの野郎、ぶっ壊しやがった! もうこの貨物車両は止まれねぇ、最高速度で終点に向かってやがる」

 「終点……首都中央駅!!」

 道理でちっとも速度を落とさなかった訳だ……。このまま特急レベルの速さで走り、ミッドチルダ中の路線が集中する中央駅に突入すればダイヤが乱れるどころか、闘牛が人波に突っ込んだ騒ぎを数百倍にしたような被害が出る事は間違いない。かと言って、ここに居る者達だけでは止める事は到底不可能。それに自分達の役目はあくまで対象の護衛であって列車の停止ではない……そんな事をして時間を食っている間につけ込まれたのでは元も子も無い。前方の暴走車両は地上本部に任せ、ここは連結を解除する事であちらを誘い込み、そして失速して停止したのを見計らって結界を張って閉じ込める以外には無い。閉じ込めてしまえば後はこちらのもの、入る事は可能でも出る事は到底不可能なはず!

 「急げ! 残ってくれた連中が足止めしてくれてんだ! 早く切り離せっ!」

 前の車両にまだ人が残っている……それはつまり、彼らを捨て駒にして事を成そうとしているに他ならない。ストラーダを構える事を一瞬躊躇したエリオであったが、この場における彼らの判断は正しい……。戦場に立てばそれは人では無く一個の戦力単位であり、作戦行動中に失われるような事があっても決して取り乱してはいけないのだ。例えそれが半ば故意にそうさせるような状況を作ったとしてもだ。

 ここで戸惑うのはその犠牲をも無駄にしてしまう愚行……!

 「…………分かりましたっ、すぐに!」

 ストラーダの切れ味を以てすれば連結部を切断する事は容易だ。ここに居る全員に迷惑が掛かる前に彼は作業に取り掛かった。刀身に高圧電流を集中させて熱を発生させ、連結部分を溶解し始める。腐食防止用のコーティングが焦げる臭気が鼻を刺すのも気にせず、そのまま蛇腹の折り畳み通路も綺麗に輪切りにし、五分後には完全に切り離しに成功した。まだ勢いがある前方の車両を全員で蹴り出し、失速させるのを手伝った……その効果は見る見る間に表れ、直前の線路を前方の車両がどんどん先を行く光景を眺めながらひとまず一息ついた。まだ慣性で走行を続ける車両に場違いな安堵の空気が流れる……もちろん、それはこの一時だけの話しであり、すぐに彼らは気を引き締め直し、迫り来るであろう脅威に対して迎え撃つはずだった。



 「────────────────────────────────あっ」



 『はずだった』……この言葉には色んな意味があるが、大抵は『その物事を成そうとしながらも不本意な事象が原因で不可能となった』と言う事実を過去形で示している。英語の講義ではないが、ここで重要なのは時系列…………

 もう既に過去の出来事! 目で見たモノ、耳で聞いたモノ、肌で感じたモノ……それら全てが過ぎ去ってしまった過去の出来事になってしまっているのだ。つまり──、

 もう手遅れだと言う事実。

 前方の車両からこちらを睨む金色の双眸に気付いた事も……。

 そいつの右手から伸びた紅いバインドが今自分達の居る車両を捉えている事も……。

 そしてそれらの事実に一番先に気付いたのがエリオと言う事も…………。

 全部手遅れなのだ。

 「う……うぁ、うぉおおおおおぉおおおっおおおおおおおおおっ!!!」

 先に動いたのはエリオのすぐ隣に居たガタイの良い隊員の一人だった。失速させる為に切り離した車両を捕まえている元凶を打ち倒そうと、瞬速で飛翔してデバイスを突き立てながら突貫した。

 もっとも、その雄叫びが断末魔に変わるのに二十秒も掛らなかったのもまた事実……。

 遠目でも分かる……あの黒い剛腕で何の感慨も無く、モグラ叩きみたいに軽々しく、頭蓋と脊髄が連続して割れる音を響かせながら顔面を殴打して瞬間に絶命したのだと。僅かに残っていた意識が激痛の叫びを上げていたが、それも長くは続かず、事切れた体が重力に従ってそのまま路線の上に落ちた。死体は動かない。だが自分達の居る車両は今も牽引されて動いていた。まぁ、後は言わずもがな……

 四散。車輪に押し潰された反動で飛び散った肉と骨、そしてまだ原型を保っていた内臓の一部が飛沫と化して生き残り達の顔を濡らした。今さっき……ほんの三十秒か一分前までは共に死線を抜けて来ていたはずの同志……その体を構成していた汚らわしいモノが体一杯にブチ撒けられた。

 「え……? あ、えぇ……うっ」

 一番事態を飲み込めていなかったキャロだったが……自分の足元に転がるモノを見た時に頭の奥で何かが弾けるのを覚えたと、後で語る事になった。

 眼球──。

 「きゃぁああああああああああああああああああああああぁあああっ!!!」

 絶叫が幕開けとなったのはまた乙なモノなのだろうが、これはフィクションでは無い、現実だ。バインドを別の場所に括り付け、跳躍して来た戦闘機人を息が掛かる程の間近で見つめる事となった。

 紫苑の髪。

 白磁の肌。

 金色の眼。

 紺を基調とした防護ジャケット。

 四肢に装着した鋼鉄の武装。

 そして、全身を陽炎のように覆い尽くす紅い魔力の奔流……。



 ナンバーズNo.13『Treize』。



 「……どけ。俺は、この先に、用がある」

 秘匿された機兵との車上での再会は、またもやトレーゼ側に有利な状況のままで開始された。

 構えた漆黒の槍が変形して紅い刀身を持つ大剣に変化し、それを振り被る。

 眼前の『障害物』を一気に薙ぎ払う為に──。










 数分前、まだ後部車両が切り離されていない列車の真上にて──。



 「フッ!!」

 ライドインパルスの高速移動で一気に2000の距離を急降下して来たトーレが降り立ったのは未だに走行を続ける列車の天井。着地と同時にすぐ横の路線を特急が通過して風に煽られ掛けるが何とか耐える。まずはこの作戦を指揮している実行隊長に会わねばならない……今すぐにこの車両を止めなければならないのだ。

 相手がわざわざ向かい側から特急に牽引されると言う形で襲来して来たのには理由がある。もちろん、その時に放った攻撃がどうしてわざわざ軌道を逸らしてまで撃つ必要があったのかも……。

 こちらの目を特急から遠ざける為だ。あれ程の威力のモノがまさか真正面から飛んで来たなどと、中に居る隊員達には夢にも思わないだろう。案の定中の隊員達の警戒の視線は側面に移ると共に、被害にあった車両を放棄する為に真後ろに行ってしまう。その隙に相手は特急の速度を利用して堂々と真正面から殴り込みに来ると言う訳だ。誰も思わない……そんな手の込んだ大胆で緻密で姑息な正攻法で来るなんて、誰も考えやしない。

 「……我が『弟』ながら無茶な事をするな」

 まさか二十年近くになる自身の身内との再会がこんな場所でこんな形になるとはと思いつつ、彼女は下に入る為のハッチに手を掛けた。ちなみにこのハッチは中からしか開かないが、そこは戦闘機人と言う利点を利用して力任せに開けるに決まっている。当然の如く十秒も経たない内にハッチが徐々に歪みだし、あともう少しで隙間が開けられると言う所まで引き上げた。

 しかし──、

 「──ッ!? 何者ォ!」

 背後から接近する気配を読み取った彼女は相手がリーチに入った事を確信して遠心力満点の回し蹴りを繰り出した。その瞬間に見えた相手の両足……確実にこちらの有効圏内に入っている、当てられる。だがそれにしてもおかしい。トレーゼは単独行動でこちらに仕掛けて来ると予想されていたはずなのに、何故もう一人の気配があるのか? クアットロではないのは確かだ……あれは未熟なので自分に気配を読ませる事無くここまで接近して来るのは出来ないはず。なら一体誰?

 そんな事を考えていた彼女は、自分の足がちっとも相手に当たっていない事に気付かされた。

 「な……!?」

 確かに相手はこちらのリーチ内に確かに居た、両足を着けて立っていた。なのに何故当たっていない? 簡単だ、そこから離脱されたからだ。だがどうやって? 脅威的な瞬発力でステップを踏んだのであればその姿はまだ見えるはずだが、それすらも消えて見えない。少なくともこの場に居ないと言う事は、逃げた場所はたった一つ……。

 「上か!」

 この間約0.2秒。相手が空戦能力を持っているなら対抗出来ない訳は無いが、ここで足止めを喰らうのは確実……どうすれば良い?

 だが、彼女のそんな戦闘の熱は相手の姿を見た瞬間から一気に冷める事となった。

 「お、お前……まさか──!!」










 あともう少しでもバックステップが遅ければ、間違い無く上半身と下半身は泣き別れしていたはずだった。

 ザンバーフォームのバルディッシュに変形したデバイスを大きくスイングした敵は、車両ごとこちらを切断しようとして来たのだ。まさか剣圧だけであそこまでの風圧を発生させるとは思っていなかったが、六課時代から訓練を重ねているエリオは相手が振り被ったのを見た瞬間にストラーダの切っ先を自分の背後に向け、即座にジェット推進で回避しつつ、ショックで蹲っていたキャロを回収して逃げた。鍛えられた反射神経と卓越した肉体能力があったからこそ拾えた命であった。

 しかし他の隊員は全滅した。刃の範囲内に居た隊員達はエリオのような反射神経に頼る事も出来ず、痛みも感じない速度でまとめて両断されてしまった。鮮血と内臓が飛び散り、その惨い光景を目にしたキャロが耐え切れずに胃の内容物を全て吐き出す。現場には血液の生臭さと胃液の刺激臭が入り混じり、その瘴気に当てられたエリオの意識は心とは関係なく混濁しつつあった。

 尋常じゃない……とても正気とは思えない!

 眼前の狂気の塊とも言うべき存在を前にしながらも、勇猛にもエリオは得物の先端を向けた。これ以上近付けば討つと言う意思表示の表れ……宣戦布告の合図だ。ここで刺し違えてでも敵を討つのが使命なら、今が間違い無くその時なのだ。せめてキャロ達が逃げ果せるだけの時間は稼がなければならない!

 だがそんな少年の健気な決意とは対照的に、トレーゼの方は全くの無関心だった。両目はエリオではなく車両内全体を見渡しており、常にその視線の先が動いて何かを探していた。何を探しているかは言わなくても分かる事……。

 「ウーノは、どこだ? 隠したな?」

 ここで言う『隠す』とは即ち結界系の魔法で隠蔽した事を指している。ここに目的のモノがある事を彼は知っているのだ。だが彼はそれを見つける事が出来ない……そこに意識を向けられないから……そこに目を向けた瞬間に無意識に意識を逸らされるから……隠されている側が動きを見せない限りは発見に至る事は出来ない。

 「出さないと殺す……なんて事は言わないんですね」

 「脅しは、貴様には通用しない……。貴様の精神は、余計な所で、図太いからな」

 「けっこう高く買ってるんですね」

 強がりを言えるだけの余裕はあるようだが、それもいつまで続くか分からない……それを見抜いていたトレーゼはわざわざ目の前の少年少女に見えるように武器を納め、まるで戦意は無いとでも言うように半歩退て見せた。

 「どう言う事ですか?」

 「『交渉』しよう、エリオ・モンディアル……。簡単な、交換条件だ」

 「言いたい事は分かってます……。ウーノさんを出さなかったら殺して、出してくれたら見逃すって言うんでしょう?」

 「否、少し違う」

 わざとらしく立てられた人差し指を軽く振って回答を訂正するトレーゼ。そしてその指はゆっくりとエリオに向けられた。いや……良く見ればその先は彼ではなく、僅かに脇へとずれた──、

 「逆らえば、ルシエを殺す」

 意識が朦朧としてしまっているキャロに向けられていた。そう、彼はただの脅迫では動じないと始めから分かっていて、それでキャロを楯にして交渉材料にして来たのだ。今この瞬間こそエリオがキャロを守っている状況だが、その気になれば実力的に彼を無視してでも容易に殺せる程の力を有しているのはトレーゼの方だ。一瞬でも気を緩めればその瞬間にキャロは命を落とす……エリオにとって最も耐え難く、最も避けたいはずの事態が突き付けられると言う事になるのだ。そして……今のエリオには彼女を確実に守り通せるだけの実力が無い。

 「どうする? 素直に、ウーノを出せば、ルシエとその竜だけは、見逃してやる。貴様は、殺すがな……これ以上、介入されては、こちらも余裕が無い」

 「……………………」

 「さぁ、選べ。ここで全員死ぬか、それともそいつだけ助けるか……」

 「くっ……!」

 「選ばないか…………なら、仕方ないな」

 キャロを指していたトレーゼの指が上がる。思わず身構えるエリオだが、彼の予想に反して変化自体はその背後からやって来た。

 紅い光点。

 「!?」

 闇夜に浮かぶホタルのような淡く、それでいて凶悪さを秘めた紅い光がユラユラをエリオの脇を通り過ぎ、そのままトレーゼの指先に留まった。針金のような細い六本の肢と小さな本体……インゼクトだった。

 「っ!!」

 電流が走るとはこの事か! 事態を把握したエリオは自分達の背後に隠したはずのウーノの安否を確認しようとして──、



 気を緩めてしまった。



 腹に重い一撃を受けたと気付けたのは自分の小さな体が天井に叩き付けられた時になってからだった。手に握っていたはずの相棒の警告の声も聞こえないまま床に背中から落下し、肉体の両面から激痛が走り抜けた。腹を蹴り上げられた所為で内臓の一部が傷付いたのか、大量の血液が喉の律動によって体外に飛び出すのを抑えられず、全身に力を入れる事も出来ないままにエリオは無様に伏せた。

 一瞬の気の緩み……たったそれだけでも勝敗や生死を別つ理由には充分過ぎているのだ。走行中に車内に入り込んでいた蟲の本当の役目……それは車内のどこかに居るはずのウーノを探し、その体表のどこかに取り付く事だった。戦闘機人と常人の違いは外見では分からないが、その内部にジェネレーターを抱えた体の熱量は常人の比ではない……それを探知されれば幾ら変装していたり人混みに紛れていても意味を成さない。そのウーノに取り付いていた一匹が出て来た時に隠蔽の結界は内側から破られ、トレーゼに勘付かれる結果となってしまった。

 「せめて、背後を気にしていなかったなら、まだ長生き出来たのにな……。どけ、お前では、俺を殺せない」

 「あうっ!」

 エリオの代わりに立ち上がり掛けたキャロの足を軽く払い、デバイスの柄の先端に引っ掛けて端に追いやった。付き従っていたフリードもその圧倒的な覇気に気圧されて怖じ気付き、そそくさとエリオ達の陰に逃げ込む始末……。だがこれでトレーゼと目的の人物を阻む者は居なくなった……



 だから呼ぶ……。



 「ウーノ……。出て来てよ、ウーノ、居るんでしょ?」

 優しい声──。さっきまで二十人も人間を殺して来たとは思えない……とても優しい声。

 それで呼ぶ──。狭い所に逃げ込んでしまった飼い猫を誘うようにして……ゆっくりと。

 そして──、

 「…………トレーゼ」

 内側から荷物をどけて出て来る妙齢の女性の姿……。そしてそれを待ち焦がれていた一人の少年……。まるで二人が本当の姉弟である事を示すような金色の眼が互いを捉え、認め、そして確信し合った。

 互いに本物なのだと。

 「何年振りかしら?」

 「17年……。トーレは?」

 「健在よ。それより、話し方変わった?」

 「あの老いぼれに、頭を弄られた、からかな……? あまり、良く覚えていない」

 「そう…………ねぇ、貴方を送り出してしまった事を、恨んでるかしら?」

 その問いに対するトレーゼの答えは『ノー』だった。ゆっくりと頭を左右に振って否定の意思を示した彼の表情は──、

 笑っていた。

 凍りついていたはずの彼が……数十人もの人間を殺し、数百にも上る物を破壊して来てもただの一度とてその鉄面皮を崩す事のなかったはずのあのトレーゼが…………微笑んでいるのだ。男でありながら聖母像のように柔和な微笑みを浮かべるその光景に、蚊帳の外だったエリオとキャロもただ惚けて……否、見惚れていた。それほどまでに彼が見せる表情は柔らかく、底知れない優しさに満ち溢れているモノだったのだ。

 「行こう、ウーノ」

 差し伸べられた手をウーノが凝視する。先程殺した隊員の鮮血に塗れたそれをしばらく見つめていた後、彼女は──、

 「ウーノさん!!」

 その手を取ろうと自分の右手を恐る恐る伸ばし、その黒い血塗られた手に触れた。冷たくヌルヌルした感触が伝わるも不快には思わない……むしろ逆に、眼前で自分を求めている愛しい『弟』を引き寄せたい一心だった。だがその気持ちを堪え、唇を噛み締めて押し殺したのを確認してからウーノは息を大きく吸い、そして吐いた。そして微笑みを見せるトレーゼとは対照的な固い表情を見せた後に口を開き──、



 「今です──、お嬢様ッ!」



 刹那、ウーノが何の前触れも無くトレーゼを全力で突き飛ばした。車外に落ちる事は避けたが、体勢を崩し掛けたのを見逃さずに……

 「ガリュー、お願い」

 全身を黒い甲殻に覆われた巨躯の怪人が飛び蹴りの追い撃ちを喰らわせた。いや、正確には怪『人』ではなく、肉体の各部位が高度に発達した二足歩行を可能とする人型の蟲だった。黒光りする頑丈な外骨格と、辺りをギョロギョロと見回す四つの複眼はまさに蟲のそれで、人間では決して辿りつけない域にまで鍛えられた筋肉が封入されている事を誇示していた。

 不意打ちにより完全に車外に体が飛び出してしまったトレーゼは空中で体を捻じって反転させ、手から出現させたバインドを壁に結び付けて事無きを得た。その表情は再びいつもの凍りついた顔に戻っていたが、金色の双眸だけは違っていた。空気を振動させて肌をチリチリと焼くような怒気を発しており、自分の姉との再会を阻んだ乱入者の存在を確認していた。

 確認した乱入者の数は『二つ』……。一方はさっき自分を蹴り飛ばした巨大な人型蟲。自然界に存在する蟲の中でも特に発達した種だと判断出来た。

 そしてもう一方はその背後……。小さな身長に似合わない菫色の長髪、黒を基調としたゴシックなバリアジャケットに、両手に嵌められたグローブ状のデバイス……。トレーゼは自分の記憶に目の前の人物についての記録がある事を思い出した。かつて、自分の主の計画に参加し、騎士ゼストと共に計画成就に助力しながら、敗北後は無人世界に母親と一緒に島流しにされていたはずの召喚士の少女──、

 「ルーテシア…………ルーテシア・アルピーノ!」

 「…………うん、そうよ」

 単純に自分の名を呼ばれたのに対して返事をしただけなのだろうが、その瞬間に彼女の足元に召喚魔法陣が展開……自分の手と同じ位の大きさはある甲虫を数十匹も召喚した。凶暴な羽音が車輪の騒音と入り混じって鼓膜を打つ中で、ルーテシアは自分の相対する敵を指でさし、信頼している相棒に指令した。

 「追い払って、ガリュー」

 言葉を聞き届けた忠実な蟲は跳躍し、手に仕込まれている内骨格の変化した棘を剥き出しにした。甲虫達もそれに引き続いて飛翔し、たった一人の敵目掛けて一斉攻撃を敢行する。

 「……蟲風情が、戦闘機人に敵うと、思うなよ!」

 マキナを収納した直後、トレーゼの両手の鉤爪の先端から紅い魔力ブレードが出現し、迎撃態勢を取る。ほぼ同時に飛び上がった機人と蟲は彼女らの見ている目の前で、血で血を洗う死闘を開始した。



 ゴングは……もうとっくに鳴っている。



[17818] それもどうでも良い出来事に過ぎず……
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:73ca1900
Date: 2010/12/13 22:08
 転轍機、と言うモノがある。

 名前だけ聞いただけではピンと来ない人も多いだろうが、実際に目にした事がある人が多いのは事実だろう。鉄道路線の枝分かれした線路にある、あの切り換えポイントの装置の事だ。あれがあるからこそ、今日の鉄道はその複雑な路線を走る列車やリニアなどを衝突させる事無く運行させる事が出来るのだ。

 かつて、複線鉄道が敷かれて間もない頃はレバー型だった転轍機を人力で動かしていたが、文明と技術が発達した今日この頃では全て電気による機械操作で切り換えを行っている。それはもちろん、地球以上に発達しているミッドでも例外ではない。駅長室などの離れた場所から管制して定時通りにスイッチを押し、通過リニアなどが別の路線やホームに入ってしまわないように常に気を配っているのだ。

 当然の事ながら、今日もいつものようにして担当の操作員が時刻通りにスイッチを操作して転轍機を動かし、通過リニアの通る道を正確に合わせていた。特に昼前の時間帯は西部方面に向かう下りのリニアや逆に同じ方面からの上りが多く、幾つもの装置を何度も動かさなければならず、耳で聞く以上の激務でもあるのだ。

 だが何故か今日は事情が違っていた……。

 「路線の変更……ですか?」

 その日、担当員に言い渡されたのは通過リニアの行先変更の指令だった。東部から中央駅を通り、そのまま西部支部に下って行く回送車両の進行方向を連絡にあった通りのレールに変更すると言うものだ。この駅を通過する時の時刻は午前11時17分……つまりその前に転轍機を操作して車両がそのレールに乗るようにすれば良いのだが──、

 「ですが、首都中央駅からの報告では西部方面から貨物車両が通過すると……。この進路では明らかに…」

 だがそんな彼の懸念はすぐに払われる事になった。手渡された紙面に書かれているのは印刷された簡易路線図……そこには当初連絡にあった貨物車両が予定を変更し、途中で枝分かれした路線を通って南部方面に向かうと言う事が記されていた。紙面の脇には駅長のサインが振ってあったので恐らく事実なのだろうと、担当員は紙面を受け取りながら了承の返事をした。

 「分かりました。では連絡通りに、11:04通過の車両を提示された路線に切り替えます」

 彼は職務に忠実だった……。忠実であるが故に言われた通りに行動し、何の疑いも持たずにそのままにしておくただの指示待ち人間でしかなかった。










 午前10時43分、暴走中の貨物車両にて──。



 トレーゼは駆逐していた。自分と姉を隔てる憎い蟲を睨みつけ、一刻も早くそれを潰すべく四肢を武器にして駆逐しようとしていた。飛来して来る甲虫を叩き飛ばし、ガリューの放つ鋭い刺突を寸前で回避しつつカウンターを繰り出そうとする。だがそれは相手の反射神経と強固な外殻によって深く入らず、大したダメージも与えられないまま時間だけが過ぎて行く一進一退の状況が続いていた。

 「……ッ!」

 右手の爪から伸びる魔力刃を収納し、腰に携えていたブレードを引き抜いてリーチを広げる。更に左手にもレヴァンティンに変形したマキナを携え、こちらを楯代わりにして猛攻に転じた。かと思えば、時間を置かずに両手に持っている武器をクロスミラージュに変えて遠距離戦に転じ、空中を飛び回る甲虫を一気に撃墜しつつ召喚主であるルーテシアに狙いを定める。

 今まで戦って来たどの相手にも無い変則的な動きに、ガリューも寡黙な雰囲気を保ちながらも内心では焦っていた。地面、壁、天井、空中の四つを足場にして戦う敵は、時に叩き潰した甲虫の残骸を目潰し代わりに投げつけたり、こちらが見せた僅かな隙を目聡く見つけては主であるルーテシアに攻撃を加えようとしたりと容赦無かった。今現在では硬い外殻に覆われている分は防御力でガリューに分があるようだが、それもいつ覆されるかは分からない……。さっきのエリオのように一分の隙を突かれて大敗する恐れもある。

 「──!?」

 ふと、ガリューはこの死闘の空間に起こっている異常に気付いた。それまで絶え間無く背後の主が敷いているはずの召喚陣から大量に呼び出されていたはずの甲虫が突然出て来なくなっているのだ。あの蟲は召喚魔法によって別空間から直接呼び出しているので数が尽きる事は無い……行使者であるルーテシアの魔法が阻害されていない限りは。

 「ッ!?」

 まさかと思い背後を見やる。幸いにもガリューの眼球は複眼……蟲特有の広い視界によって首を振らずとも背後を確認するには事足りた。だが少なくとも想像していたような最悪の事態にはなってはいなかった……だが──、

 「ルーちゃん!」

 叫んだキャロ達の視線にあるモノ……それは、紅い半透明な箱──小型結界の中に囚われているルーテシアの姿だった。結界と言う密閉された空間に閉じ込められた事により、召喚に必要な『開けた空間』から隔絶されてしまい、彼女の足元に展開されていた魔法陣は掻き消されてしまっていた。その周囲では必死にエリオとキャロが結界を解こうと躍起になっているが、見た目によらず強固な為に傷一つ付ける事は出来なかった。だが、一体いつの間に……? ついさっきまでトレーゼはガリューと相対していたはず……ルーテシアには文字通り指一本も触れさせてはいないし、結界を施すような素振りも見せていなかったはずだ。一帯どうやって……。

 「表情を、変えない蟲でも、分かるぞ……。お前が今、戸惑っているのがな」

 トレーゼが銃口を降ろし、講釈を垂れるような口振りでガリューに言い寄る。武器を降ろしたと言う事は通常の戦いにおいては戦意が無い事を示すものだが、殊更この戦闘機人に関して言えばそれは当て嵌まらない……勝利と結果を得る為には如何なる卑怯な手段でも平気で実行する存在だ、警戒を解かない方が良いだろう。

 「安心しろ、今だけは何もしないでやる……今だけはな。周りを確認しろ」

 そう言って一歩退くトレーゼ。どうやら本当に戦意は無くなったようだと判断し、ガリューは主の安否を確かめるべく結界に駆け寄った。

 「ガ……リュ……」

 密閉されている所為か声が聞き取り難い……自慢の腕力で抉じ開けようとするも全く歯が立たず、怨敵である機人を恨めしく睨みつけた。だが当のトレーゼはそんな蟲の視線などどうでも良いと言わんばかりにそっぽを向き、窓から差し込む太陽に眼をやっていた。だが、不意に何かを思い出したように再びガリューに向き直るとこう付け足した……。

 「言い忘れた…………その結界、空気を遮断するからな」

 「──ッ!!」

 「保っても、あと少しで酸欠だ……。無闇に動かない方が──」

 そこから先の言葉を放つ事は出来なかった。鉄で出来た床を破らんばかりの脚力で飛び掛かって来たガリューをブレードで押し止めるのに全力を尽くしたからだ。外骨格の下に隠された筋肉を最大限に引き絞り、目と鼻の先で無感情に立ち尽くす怨敵を一刻も早く抹殺せんとする殺気を伴い、突き出した棘を剥いてトレーゼに迫って来ていた。筋力はほぼ互角……科学の粋を決した増強筋肉と、何万年にも渡る進化の過程で培った人外の筋肉が真正面から拮抗し合い、一方は排除しようと、もう一方はそれを踏み止まらせようとして見事なまでに互いの力を相殺し合う図が完成していた。だがガリューの複眼が全てトレーゼを捉えているのに対し、やはり彼の方はまるで関心が無いと言う様に空で輝く冬の太陽を見つめていた。

 「……それ以上は、踏み込むなよ? 貴様の首を、自分で絞める事になる」

 「────」

 「怒るな……貴様の為に言っている」

 一応は忠告の言葉のはずだった……。彼なりにチャンスを与えたつもりだったのだろう……墓穴を掘らないで済むチャンスを。だが頭に血が昇ると考える範囲が狭くなってしまうのは人間も蟲も同じなのか、その言葉を気に入らなく思ったガリューは更に怒り、このまま敵を車外に押し出すべく足を踏み出し──、



 トレーゼの右足が乗っていた場所に足を置いてしまった。



 「言ったぞ……? 踏み込むな、とな」

 ガリューの足元が光り輝くのと、そこから煙の如く撒き上がった無数のバインドが全身を拘束するのにタイムラグは無かった。人間と違って外骨格に覆われた分、柔軟性に欠ける彼らを拘束するには関節を抑えるだけで事足り、ガリュー自身もその例外ではなかった。立ったままで全身を磔にされ、眼球だけが鼻先で鉄面皮を保ったままの戦闘機人を捉えていた。

 だがこれで分かった事がある……どうやってトレーゼが人知れず結界を張れたのか、その秘密についてだ。バインドはガリューがトレーゼの足があった場所を踏む事によって発動した事を考えると、恐らくは自分の場所に踏み込んで来る事を予想していたトレーゼによって予めに足元に魔力を滞留させられ、ある一定以上の刺激を与えると発動する仕組みになっていたのだろう。冷静になって考えれば、今ルーテシアが居るポイントは先程までトレーゼとウーノが邂逅していた場所……あの時から既に先手は彼の手にあったと言う事になる。

 しかし、分からない事もある。一度リンカーコアから分離してしまった魔力の減衰は早く、弾丸のように特別なコーティングをしていないと三十秒も経たずに消滅してしまう…………だが、この足場から彼が足を離していたのは明らかにそれより長く、ルーテシアの結界に至っては五分は離脱しているはずだ。なのに魔力は減衰するどころか健在を保っている……途中で補給をしている素振りは──、

 ……いや、していた!

 足だ! 接地している床面を媒介し、常に電流の様に魔力を送り続けていたのだ。大して難しい事ではないが、電気と同じで物体を挟んでの魔力供給は抵抗が加わってコントロールが悪くなる上に、分散してしまうので必要以上に量を消費してしまうので熟練した魔導師でも忌避するやり方だ。それを同時に二つ……! 常人のやり方ではない事だけは確かだ。

 過程はどうであれ、これで早くも再びトレーゼの前を阻もうとする者は居なくなってしまった。戦いにおいて一度傾いた状況を押し戻すのはそう簡単ではない……ましてや、それがこちらの流れと思っていながらにして変えられたのなら尚更だ。

 「く……っ!」

 「やめろ、モンディアル……貴様では、殺せない」

 ブレードの刃を首筋に当て、起き上がろうとしたエリオの動きを先に封じる。高エネルギーの塊である刃は熱を持ち、チリチリと彼の皮膚を焼こうとしてその凶暴な熱を放出していた。だがこれはあくまで牽制でしか無い事をエリオは重々承知していた……。本当の狙いはキャロとルーテシア、そして本懐であるウーノだ。前者二人はエリオとガリューにとっての人質と言う意味だ……ここに居る誰よりも弱いキャロと、召喚を封じられた事により戦闘力を失ったルーテシアではトレーゼの隙を尽く事も出来ず、ましてやルーテシアの方は完全に動きを封じられた始末だ、敵うはずが無い。

 「戦いの場に、弱い奴を、連れるな……。そうだ、取り引きしないか、蟲?」

 「──?」

 「今一度、貴様の拘束を解く。その代わり、ウーノを、こちらに渡せ……貴様の主を、死なせたくなかったらな」

 鉄砲に象った指を結界に囚われているルーテシアに向け、その先に紅い魔力を集中させ始めた。元を正せば彼の魔力で作られた結界……その向かい側に居る対象に干渉するのは訳無い事だ。

 「──ッ! ッ!!」

 「焦るな、猶予はやる。ほら……ウーノを、こっちに……」

 あれだけ全身を拘束していたバインドが一瞬で解け、ガリューは体勢を崩し掛けながらも踏ん張って堪え、掴み掛ろうとする憤怒を必死で押さえ込みながら主の状態を確認した。密閉空間に残されている酸素量は残り少なく、小さなルーテシアの体が酸欠一歩手前の危険な状態にまで追いやられている事が見ただけでも分かった。だがこの状況で逆らおうものなら、それこそ命の保証は無い……かと言って、ここで言う通りにしたからと言っても素直に解放してくれると言う保証も無い事も事実だ。だが確かに言えるのは、このまま放置すればルーテシアは確実に死に至ると言う事だ……外気を吸い込んでも肺が満たされず、顔面を蒼白にさせながら酸素を求めて舌を突き出し、やがては全身が酸素を欠いた事による血色悪化で惨たらしく死ぬのだ。そうなれば単純に戦力としての頭数が減るだけでなく、使い魔としての一面もあるガリューは魔力供給を受けられないばかりか、最悪の場合には契約が切れたと見なされてこの空間から強制送還される事も有り得る。そうなれば再びこの場の戦況はエリオとキャロだけで切り抜けなければいけなくなってしまい、そうなってしまえば自分達が派遣されて来た意味も無くなってしまう……。

 「さぁ、どうする? 貴様も、バカじゃないだろ……。良く考えろ、どちらが、貴様にとって……この場にとって、得策なのかをな」

 そう言いながらトレーゼの両足が車両の床を離れ、バインドで繋がれている前方車両に飛び、その紅い手綱を握り取って機人の剛腕でこちらの車両を引き寄せ始めた。徐々に車体が引き寄せられるが、後三メートルと言う所まで来てから不意に牽引を停止し、またその端を車両の連結部分に結び付けた。

 「選べ、選択しろ……生きていたいならな」










 時を遡って午前9時30分、ナカジマ宅にて──。



 「それじゃあ行って来るけど、ちゃんと大人しく留守番してるのよ?」

 「昼には帰って来れるようにするから、冷蔵庫の中を漁るなよ。太るからな」

 玄関で靴を履きながら、居間でくつろぐウェンディとディエチに注意を促しつつ、チンクとギンガは先に外に行ったスバル達を追うようにドアを開けて出た。ドアを開けた瞬間に流れ込む真冬の冷気が防寒着の間をすり抜けて体を縛り上げ、二人とも思わず身を縮めた。これから彼女らはリニアに乗ってある程度の距離を移動して目的の病院にまで行くのだが、今日は日取りが悪いのか午前中は閉業している病院が殆どであり、わざわざ午前開業している病院を求めてリニアを乗り継がなければならない程に遠くまで行かないといけなかった。昨日と比べてスバルもなんとか体力を回復したようなのだが、出来るだけ無理はさせたくないと近場を探したのだが、結局はここしか見つけられなかったのだ。

 いや……取り合えず、見つからなかった『と言う事にしたかった』のだ。

 「おいスバル……本当に大丈夫かよ」

 「うん…………大丈夫だよ、ノーヴェ」

 普段は決してしないレベルの厚着で膨れ上がって見える体を揺すりながら、スバルは垂れ流れる鼻水を啜りあげた。確かに昨日と比べれば幾分体力は戻ったはずなのだが、寒気が吹き荒れる冬の外を歩くには少々厳しいようでもあった。歩くのが億劫なら流石にタクシーでも捕まえるつもりだが、本人が大丈夫だと言える内は何とかして歩いてもらうつもりだ。

 「取り合えず、何とも無い事を祈るしかないわね……」

 「まさかあれから本当に風邪をこじらせるとはな……存外、私達の体も弱く出来ているものだ」

 溜息混じりに皮肉を漏らすチンクの心中も分からないではない……常人よりも物理的に強度を高められているはずの戦闘機人が、よりにもよって失恋紛いの心理的ショックで体調を崩すなどとは……スカリエッティが知ればそれこそ科学者として嘆くだろう。

 (いや、ドクターならきっと戦闘機人の心理的状態と体調管理について原稿用紙500枚ぐらいに研究をまとめるだろうな……)

 生粋のマッドサイエンティストがその程度の事実で引っ繰り返るはずも無いか……。

 などと考えていたチンクはふと──、

 「……………………」

 「…………(コクッ)」

 隻眼を横に流し、さり気なくギンガとアイコンタクトを交わした。ギンガもそれを無言で受け取り、そっと手をポケットに入れてある物に触れた。布の下で少し指を動かしてそれを操作した後、彼女はまた何事も無かったように振舞い始め、前を歩く妹達に目を戻した。

 人はそれを“監視”と言う……。










 同時刻、クラナガンのとある街中にて──。



 「……動いたのね」

 懐から取り出した携帯電話の画面を確認するティアナ……そのディスプレイには着信メールの内容を確認するページが開いており、丁度今その内容を見ていた。だがその内容を見終えるのに時間は全く掛らなかった。何故なら、そのメールはタイトルも本文も全く無い俗に言う空メールであったからだ。普通なら悪戯か何かだと思える代物だが、今の彼女にとってはある意味待ち望んだモノでありながら、その一方では送られて来て欲しくなかったモノでもあった。

 「…………私もさっさと移動した方がよさそうね」

 現在彼女が歩いているのは駅のプラットホーム……リニアに乗ってここまで移動して来て、今から改札を抜けて外に出る所だ。早朝の通勤ラッシュから一段落したとは言え、向かい側の上り線が通っているホームではまだ少し人通りが目立ち、自分も今からその人の流れに混じって改札を潜らねばならなかった。人混み自体は別に良い……問題はそこから先にあるのだ。ある意味ではここから先は、進み方によっては後戻り出来ない修羅の道でもある……だが今更戻れるならと甘い考えは持ってはいないし、腹も括っているつもりだ。

 「何とかなる……そう思いたいわね」

 もうすぐ改札だから人の流れもここで少し増える。ポケットの中の定期券を握り締め、ティアナもその流れに加わるべく少しだけ足早に進み出した。そしてカードを取り出し、改札の読み取り機の挿入口にそれを入れようとした時──、



 自分の背後を“何か”が通り過ぎたのを感じた。



 「な……っ!!?」

 職業柄、どうしても文字の羅列している紙面の内容と、自分の背後の気配だけは必要以上に警戒してしまう癖があるのは自認しているつもりだが、今回のこれは明らかにレベルが違っていた。まるでそこだけが深海の水圧がそのまま移って来たかのようなネットリとした感覚……戦意でも敵意でも無く、ましてや殺気でも無く、ただ単にそこに居ると言うだけで圧力になってしまうような圧倒的存在感の塊だ。日常ではもちろん、戦いの場でもなかなか居ないはずの存在……そんなモノが今、確かに、自分の真後ろを横切った。横切ったのだ! 冬の気温にも関わらず嫌な冷や汗を流させるだけのドス黒いモノが、すぐそこを通らないと分からない位の隠密性を以てして自分の背後に居たのだ。そしてそれはあろう事か堂々と自分の通り過ぎ──、

 振り向いてもそれらしい影は見当たらなかった。

 「はぁ……っ! はぁ……」

 フルマラソンを走り込んだような倦怠感と疲労感がティアナに重く圧し掛かる……。気のせいだ、きっと疲れているんだ……そう思い込みながら、彼女は忌まわしいその場所を先程以上の速さで抜け出した。



 この時、彼女が振り向くのがほんの少しでも早かったなら、きっと見えていたはずだ……。



 人混みに紛れて移動する、全身を真っ白な服で包んだ少年の後姿が──。










 再び時間を戻して午前10時47分、都心に向かって暴走する貨物車両の中にて──。



 「選べ、選択しろ……生きていたいならな」

 都心までにはそんなに余裕は残されていない……既に車外の風景も発車した頃の自然風景はいつの間にか消え去り、灰色のビルが目立ち始めるようになっていた。このままの速度を維持して行けば、都心に突っ込むのも時間の問題だ。それがこのトレーゼの狙いだったとしたなら、今まで犠牲になって来た隊員達は彼の手の平の上で無様に踊らされていたと言う事になってしまう。

 ガリューは迷走していた。己の主人の命か、それとも作戦成就と言う大義か……今その決断を迫られていた。戦士としてなら迷う事無く後者を選ぶのが当然だろう……。ここでトレーゼを捕えるか、あるいは仕留めさえすれば明日のミッドの平和は約束されるだけではなく、この作戦に参加するに当たっての条件だった刑期短縮なども獲得出来るのだ。だがそれもルーテシアを見殺しにしてしまっては意味を成さなくなってしまう。幼い頃から彼女を見守って来たと言う一人前の情念が、その心に後者を選ばせる事を躊躇わせていたのである。だがこうして迷い悩んでいる間にもそのルーテシアの息の根は徐々に絞めつけられている……。

 「────────」

 ウーノを見やる。この場に居る者達の中で一番困惑しているのは彼女だと言う事は承知していた。かつて、目の前の戦闘機人が彼女らナンバーズ上位三人にとって何にも変え難い存在であった事は既に聞き及んでいる……特に三番目の姉とはとても懇意にしていた事も、当然聞いている。つい数分前にこの列車上部に乗り込んだ彼女を追い返したのは他でもない自分達だが、わざわざ戦力になる彼女を説得して追い返したのにも訳がある。と言っても、それは自分達がそう危惧してそうしたのではなく、単純に事前に命令されていたのだ。



 トーレとトレーゼを決して接触させるな、と……。



 始めはその命令の内容が理解出来ておらず、ただ言われるままにそうして彼女を追い返したのだ。貴重な戦力になり得たはずの彼女を……。

 その結果がこれだ。ここはやはり多少命令に背いてでも彼女を引き留めておくべきだったかも知れないが、それも今となっては詮無き事でしか無い。今重要なのは、この状況をどう乗り切るかだ。

 「おい、猶予はもう無いぞ。早く決めろ……俺は、そんなに気が、長い訳じゃない」

 そうだ、時間が無い。このまま車両が首都圏に突っ込むのが先か、それとも酸欠でルーテシアが死ぬのが先か……あるいはこのままタイムアップを迎えたトレーゼの行動によって壊滅するのが先なのかだ。

 どうする?

 どうする?

 どうする?

 どうする?

 発達した脳でも導き出せない結論を必死になって手繰り寄せようとガリューは頭を抱え出し、遂に熱暴走しそうな頭の回路が目の前の戦闘機人と刺し違えてでも、と言う血迷った結論に行こうとしていたその時──、

 「もう……充分です」

 背後から声……。肩にそっと置かれた手を見れば、それはウーノの細腕だった。薄紫の長髪に隠れた双眸は悲しみに伏せられており、震える肩を押さえ込むように堪えながらガリューを差し置き、一歩前に進み出た。だがその歩みは固い決心に満ちており、それを誰も止める事も出来ないままに遂にその両足が車両の縁に差し掛かった。

 「最初から素直にこうしていれば……誰も犠牲にならなくて済んだのに……」

 三メートル……非戦闘型とは言え、戦闘機人にとっては跳躍出来ない距離ではない。少し大きく息を吸い込んだ後、ウーノは膝を折り曲げ、エリオが制止の声を張り上げるその前に──、

 対岸で待つ『弟』の所へと飛んだ。

 「……ウーノ、行こうか」

 冷たく血に濡れた金属の手に握られ、ウーノはトレーゼと共に前方車両を目指した。ただ引かれるままに……17年振りに再会した変わり果ててしまった『弟』に手を引かれ、自分の為に戦ってくれていた者達を後にした。自分より歳も背も小さな彼を前にしながら、彼女は感慨深くこう思っていた。



 昔は自分が手を引いていたのにな……。



 その直後、車両を繋いでいたバインドとルーテシアを覆っていた結界が解け、彼らを乗せた車両はあっという間に置き去りにされてしまった。










 時を遡り午前10時30分、クラナガンの繁華街にて──。



 狂っている……。

 それがクラナガンの街に来たセッテの最初の感想だった。

 最初に感じたのは熱気だった。冬の寒さの裏側に隠れた街の人間達の淀んだ熱気……それが初めて街に来たセッテが最初に感じた感覚だった。それは街の中を歩く距離が長くなればなるほど、時間が経てば経つほどに強くなり、少しずつ彼女の中の何かをすり減らし始めていた。

 そして、煩い……。単純に戦闘機人として増強された聴覚がそう感じさせているだけなのかも知れないが、周囲に飛び交う雑音や通行人達の会話、身に付けている携帯電話の着信音から歩行中の落とし物の音までもが全て煩く鼓膜に響き、脳を掻き毟られるような不快感を催す。もう歩いていてすれ違ったり追い越したりするだけでも強烈なプレッシャーが圧し掛かり、セッテは段々目の前を歩く人間達が度し難い別次元の存在に思えるようになって来ていた。他人との接触が殆ど無かった人間が一度の大量の他人と接触した時に見られるヒステリーのようなモノだが、苛立ちが徐々に不快感になり、その不快感が更に憎悪にも似た得も言われぬドス黒い感情の渦になるのにそう時間は掛らなかった。その内付き添いの担当員も雰囲気が違う事に気付き始めたのか……

 「大丈夫ですか? 顔色悪いみたいですけど……」

 「……………………」

 いけない、顔を覗かれただけで察知されるとは、どうやら相当ヤバイらしい。すぐに取り繕って大丈夫と言おうとしたのだが、すぐ横を通り過ぎた見ず知らずの女性の所為でその心は打ち消されてしまった。問答無用で漂って来た体臭と香水や化粧が入り混じった悪臭……胃が引っ繰り返る感覚とは良く言ったモノだが、実際にそれを経験するとこれ程までに気色の悪いモノだったとは思いもしなかった。その人だけではなく、この場に居る全員……今すれ違った者、目の前からやって来る者、そしてこれから自分を追い越すはずの者までの全てが、一気に醜く見えてしまう。これが今自分の居る世界……更正施設の清潔で精錬された壁で囲まれた空間とのギャップに彼女の精神は悲鳴を上げかけていた。

 狂っている、何もかもが等しく激しく……。こんな汚れた世界で生きている人間と、こんな世界を作り上げた人間の妄執と狂気……そして、自分の姉妹達はこんな不思議で不可解な世界でも平気で生きていると言う事実が、彼女にとっては耐え難いモノでしかなかった。同時に自分の精神の脆弱な部分が曝け出される焦りにも似た感覚が徐々に込み上げ、それが彼女に辛うじて平静を保たせている要因でもあった。

 「セッテさん、駅はこっちですよー。ぼーっとしてると置いて行きますよ?」

 「……すぐに」

 置いて行く、などと言ってはいるが、実際にはぐれたりセッテの方から姿を暗ましたりしてもすぐに発見されるだろう。彼女の左腕に掛けられた腕時計……実際に時計としての機能もあるが、内部に入れ込まれた発信機が常に装着者の位置を通信衛星越しに知らせているのだから。

 今からセッテと担当員の二人はリニアに乗って街を移動するのだが、当然鉄道関係を含んだ乗り物に乗った経験などセッテには無く、これは社会に出た時に活かせる経験として覚え込ませると言う意味合いもあった。単純に街中を移動するだけなら通常の乗用車でも事足りるのだが、それでは人との触れ合いが無いと言う事でこうして今切符を購入し、改札を潜ろうとしていた。ちなみにミッドでは地球同様、電子マネーを利用したICカードなどが主流だが、当然セッテはそんな物など持っていない。

 だが、ここからセッテは生まれて初めて地獄を見る羽目になる……。

 「話には聞いていましたが……本当に人が多いですね…………吐き気がします」

 鉄筋コンクリートを舗装した空間を歩く大量の人間……人、人っ、人!! 雑音と悪臭を撒き散らしながら狭い空間を何も知らない凡愚達が歩く光景は更にセッテを追い詰め、彼女はふらつく体を律してなんとか耐えた。ここが戦場で、彼女に自分が敵と認めた者に対する殺傷許可が出ていたなら、セッテはとっくにここに居る人間を付き添いの担当官含めて皆殺しにしていただろう……。それだけ彼女にとってこの光景が異常だったと言う事だ。

 駅はデパートと一体化している為に人通りが非常に多く、単純な買い物客だけでも相当な数があった。出入り口から改札までは距離があり、そこを一直線に駆けようとするが、如何せん人の流れが邪魔でちっとも前に進め無い事に苛立ち始めた彼女は徐々に歩幅と速度がエスカレートし……。

 「邪魔です……!」

 追い抜かす者もすれ違う者も関係無しに突き進み、何の遠慮も無しにただ一直線に他人を押し退けて進み、気付けば彼女はガムシャラに目的の場所を目指していた。歩いていたのが小走りになり、小走りが駆け足になり、遂には──、

 「ちょ、ちょっとちょっと! セッテさーん!?」

 背後から聞こえる担当官の言葉がドップラー効果で尻すぼみに聞こえるが、それを無視して彼女は走り出していた。もうここまで来ると異常だ……朱に交われば何とやら、どうやら彼女の精神はとっくに周囲の毒気に汚染され、狂気に塗れ始めていたようだった。もう何も聞こえない……聞きたくない!

 「先に……行ってます」

 「ダメですってば! ちゃんと私の傍を──」

 追い付いてきた担当員が思わず背後からセッテの腕を掴み上げた。少々頼り無い感が否めないが、これでも一応は荒くれ者が山ほどやって来る更正施設の職員なので、そう言った連中を諌める為の体術の一つや二つは修得していた。単に腕を掴むのではなく、関節を押さえ込む掴み方でセッテの動きを止めようとしていた。

 だがタイミングが悪過ぎた。

 「ワタシに…………っ!!」

 見えるモノ、漂うモノ、そして聞こえるモノ……自身の精神の許容量を大きく越えたそれらを受け入れられずに混乱しながらも何とか最後の一線を保ち続けていたセッテは──、



 ここで決壊してしまった。



 「ワタシに触れるなぁ!!」

 関節を押さえられようが関係無いと言わんばかりに、彼女は持ち前の怪力で担当員を突き離した。当然、往来の真ん中でそれをやったのだから突き飛ばされた余波で周囲にも被害が及んだ……将棋倒しのように数人の通行人達が巻き込まれ、そこでやっと周囲の者達にも物々しい緊張が走った。数百もの視線が一斉に長身の少女の姿を捉え、その醸し出される気迫にザワザワと一様に動揺が走った。奇異な目、忌避する目、興味本位の目……様々な視線がセッテの全身に突き刺さる。大抵の人間ならここで周囲の様子を確認してある程度の落ち着きを取り戻す……俗に言う、空気を読む状態になり、その視線が行動を諌めるのに一役買ってくれるのだ。

 しかし、それも彼女にとっては逆効果でしかなかった……。

 「や……やめ…………!」

 常人には囁きでしかない小声も、彼女には何を言っているのかが全て筒抜けになって聞こえてしまう……怨嗟や猜疑、根拠の無いあからさまな疑念の声が全て聞こえてしまうのだ。衆人の狂った視線と声……否、もう自分が狂っているのか、それとも周囲がそうなのかさえも分からない……。疑心暗鬼の心はいつの間にか周りではなく自身の内側に向けられており、惑星が重力崩壊するのと同じようにして彼女の心は……

 内側に折れた。

 「やめてぇええええええええええええええええええっ!!!」










 午前10時52分、暴走車両にて──。



 「…………セッテの混乱が、少し落ち着いたか」

 「分かるの、そんな事?」

 「分かる……一応、妹だからな」

 「そうなの……」

 路線を一直線に突っ切る貨物車両の一室でトレーゼはウーノの肩に寄り添うようにして座り込んでいた。光の宿らぬ両目を閉じ、ベッドに横になるみたいにしてリラックスしている彼の頭を、ウーノの手が優しく撫でる。それに満足しているのか、彼の方も軽く擦りつけるように頭を肩に当て、甘えるような仕種を繰り返していた。

 「あの子の……セッテの製造経歴を知ってるのね」

 「ああ、知ってる。ラボの資料を、読んだ」

 「No.7『Sette』……。貴方の細胞から抽出した“無限の進化”を司る部分のDNAを組み込んで生み出した、唯一のナンバーズ……。言うなら、貴方の『後継機』ね。ドクターが貴方の量産化を諦められなくて、トーレと同じ目的で、トーレとは違うコンセプトで開発したのがあの子だったわ」

 「そして、俺に対して、与えられた、役目は、『ソード』……『ジャベリン』のトーレに及ばずも、現時点でも、それなりに充分な、実力を持っている」

 「あの子を戦いに連れ出すのね」

 「今のあいつには、それしか利用価値が無い。全てが終われば、あいつも、ナンバーズ足り得る者として、迎えるつもり。でも……」

 「?」

 「ドクターを除けば、ウーノ、トーレ、セッテ……それだけが、ナンバーズ足り得る者だ。後は、堕落したと見なし、処分する」

 「な、何を言って……!?」

 『弟』の口から飛び出した発言に、それまで冷静さを欠かなかったウーノが狼狽した。トレーゼの言葉をそのまま解釈するならば、残り八人の姉妹達は身捨てるのか、あるいは抹殺すると言う事になってしまう。始めは何かの冗談かと思いたかったが、薄く開かれている目の奥にはそう言ったふざけているような雰囲気はまるで無く、顔つきも決意に満ちているのではなく、そうであって当然と言うような澄ました表情を浮かべているだけだった。

 「自分が何を言ったのか分かっているの!?」

 「理解している……。残りのクズ八人を、殺す事だ」

 「クズって……自分の妹でしょ!」

 「違う。あんな奴ら、もう同じナンバーズとは、思わない……。トーレの言っていた基準に、奴らは達していない。自分達が何者かも忘れ、犬のように、のうのうと偽物の、時間を送っている…………狂ってるんだよ、あんな連中」

 狂っている──。ウーノにとってその言葉はまさに、今自分の真横に居るトレーゼにこそ言いたかった。かつて17年前の彼がまさかこんな言葉を口にするなどとは露とも思っていなかった彼女にとって、これは青天の霹靂どころか天変地異が起こったかのような衝撃を感じていた。誰も殺さず、何も壊さずに生きて来ていたはずの『弟』が、結果を得る為だけに他者だけではなく身内までも犠牲にするとは……信じたくはなかった。

 「だが、ノーヴェには、もう少し役に立ってもらう、つもりだ」

 「ノーヴェ……?」

 「奴に与えられた、俺に対する役目である、『シールド』は、決戦においても、重要な成果を期待できる……。使えるだけ使って、後は知らない」

 「使えるだけ使って……それじゃあまるで!」

 「まるで、じゃないよ…………捨て駒さ」

 「……………………」

 なんと恐ろしい事だ、最早この『弟』は自分の姉妹を削る事を犠牲とすら考えてはいなかった。“犠牲”とは大義を成し遂げる為に必要な礎を、死と損失を尊厳を以てして打ち立てる行為の事……。だが今彼ははっきりと『捨て駒』だと言い張った……捨て駒とは文字通り、本懐を成し遂げる為の布石の更に前座の当て馬、チェスで言うならキングを討ち取る為に様子見として放たれるポーン、飛車と角を引き付ける囮役の歩……礎を築く為の尊い犠牲とはまるで正逆のただの都合の良い使いパシリに過ぎないモノだ。それはつまり、都合が悪くなれば即座に何の感慨も無く切り捨てると言う意味でもある。

 「一体……何が貴方を変えてしまったの?」

 「いつからかな……起きた時から、もう……何も感じない。最初に見た局員も、顔を見た時に、思った…………あ、殺さないと、って。違和感も、異常も、抵抗も、何も感じなかった……それが当然だと、そう思えたから……。だから、自分の妹でも、こうするのが当たり前……そう感じているんだ。何でだろうな、もう、どうでも良い」

 「だからって…………」

 「今は、そんな事どうだって良い。それよりも──」

 寄りかかっていたトレーゼがスッと立ち上がりデバイスを構える。四肢の武装とマキナのカートリッジが自動で作動し、一気に十発近くの空薬莢が床に落ちてシャープな音を立てて部屋の隅に転がる。体の表面に紅い高濃度魔力が纏わり付き、トレーゼの全身が細胞レベルで臨戦態勢に入った事を示していた。魔法抜きの単体戦闘力ではほぼ互角であったはずのガリューに対しても軽くあしらう程度にしか力を見せなかった彼が、明らかな戦意と敵意を持っている……一体誰がそうさせているのか?

 その正体は自らの存在を隠す事も無く堂々と真正面からやって来た。

 「ほう、指揮官自らの、お出ましか……大儀な、ものだな」

 切り離した連結部分に立っているのは、このミッドチルダでは珍しいモンゴロイド系の顔立ちをした妙齢の女性だった。少なくとも、こんな静かな激戦区に足を運ぶ女性をトレーゼは数人しか知らず、ましてやこの状況下でここへ来る者ともなればそれは一人しか居なかった。

 「身内同士の語らいに不躾に入るんもナンやと思うたんやけど……別に遠慮は要らんなぁ」

 カーキ色の局員に身を包み、その布地と同じ位の濃さの短髪──。凛とした眼は隻眼で、眼帯に隠れた片目はかつての作戦で自分の妹が切り裂いた目であった。首元に掛けられているネックレスを外し取る……いや、良く見ればただの装飾品ではなく、剣十字を象った本体部分は紛う事無くアームドデバイスだと分かった。更にもう片方の手には革張りの魔導書が握られており、後はセットアップして騎士甲冑を纏うだけと言う状態にあり、健在な隻眼から発せられる気迫はそれだけでトレーゼに戦闘意欲を駆り立てる理由になっていた。

 「八神二佐っ!? どうして……!」

 「可愛い元部下がコテンパンにやられるのを見てて、つい頭に血が昇ってな…………ここまで飛んで来たのはええけど、指揮官失格やな」

 三角魔法陣が展開した直後、白銀の魔力光がはやてを包み、次の瞬間には両手に夜天の魔導書とシュベルトクロイツを構えて背中に漆黒の六枚翼を展開した完全態勢の彼女がそこに居た。並みの一兵卒であれば視界に入れた瞬間に尻尾を巻いて脱兎の如く逃げ去るような光景だが、それを真正面から受けているはずのトレーゼの顔は涼しいものであった。

 「ヤガミ……丁度良いから、ここで潰させて、もらうぞ。貴様の存在は、こちらにとって、有益ではないからな」

 構えられたマキナが形を変え、彼の両手にクロスミラージュの形となって収まる。だがこれだけでは終わらず、更に二丁に分化していたそれが互いに変形し、右手にストラーダ、左手にレヴァンティンと言う異質な武装形態となってはやての前に立ち塞がった。

 ふと、トレーゼがウーノの耳元に口を寄せ、短くもはっきりと言った。

 「二両目に、急いで……」

 「え?」

 「早く」

 どうやらここから退避する事を進めているようだ。確かにここに居ても自陣敵陣関係無く戦闘の邪魔になると判断したウーノはトレーゼに促されるままに背後のドアを開けて二両目車両を目指した。

 「…………これで心置きなく戦えるっちゅう事か」

 「勘違いするな……ウーノはこちらにとって、重要な戦力となるからな……今は退かせただけだ」

 「姉を戦力単位でしか見てへんのかいな、あんたは」

 「戦場に出れば、個人と言うモノは、無くなり、代わりに駒となる。俺も、貴様も、それは同じ事だ」

 「そこだけは同感やな。やけど、退避させても無駄かも知れんで? 私はこの車両ごとあんたをブッ飛ばすつもりやから」

 「出来るか……貴様に」

 「試してみ」

 「……………………」

 「……………………」

 車輪がゴトゴト回転する音だけが響き、両者の間に重く冷たく、そして暗い沈黙が横たわる。どちらが先に動こうが後に動こうが関係無い……全てはタイミングと運の問題だ、それが全てを左右する。自身の呼吸と心音がうるさく耳に残る感覚が長く続き、先に動いたのは──、

 「ミストルティン!!」

 「ッ!!」

 二人の居た車両が一瞬で巨大な石と化した。










 午前10時58分、クラナガンのとある駅前総合病院の玄関前にて──。



 「まさか行って診てもらうだけでこんな時間が掛るなんてなぁ」

 診察を終えたスバルと共に出て来たナカジマ姉妹の面々は厚着を整えて再び冬の街に帰路についた。診断結果は季節風邪……冬の気温と雑菌にあてられたのだろうと医者に言われ、小さな紙袋に錠剤を入れられて来た帰りだった。

 「この季節は風邪や流行病が多いから、あの待合の方々もきっとそうなのだろう」

 「それにしたって、ただの風邪で良かったじゃないスバル。これで何かの病気だったら入院しなきゃいけなかったかも知れなかったわよ?」

 と、ギンガは半分冗談交じりに言って話を振ったが……

 「……うん……そうだね」

 返事は痩せこけていた。ここへ来る間も一応は何とも異常無く来れたのだが、特に目立つ異常が無かったと言うだけで実際はずっと何か気休めに話し掛けてもさっきのように生返事だけで、風邪で火照った顔を伏せるだけでまともに会話も出来ていなかった。歩ける所を見れば体力はそれ程低下していないはずにも関わらず、彼女のいつもの元気さはまだ帰って来ていないのだ。

 「元気出せってぇの! お前らしくねーぞ」

 ノーヴェも励ましの言葉を掛けるが、実はそれが中身の無い在り来りな言葉を並べているだけと言うのは本人が一番良く分かっていた。だが今はこうする事で少しでも調子を取り戻せるなら、今はそれに賭けて見たい気持ちも強かった。

 それからしばらく歩いていた彼女らは、ここら辺の地理に詳しいと言うギンガの案内で駅までの近道を行く事にした。行きには通らなかったはずのその道を……。

 「…………人、あんまり居ないね」

 「そうね。寒いから、あんまり出たくないのかもねぇ」

 「でも昼だよ……?」

 「そう言う時もあるのよ、人間なんだし」

 「ふーん……………………ねぇギン姉」

 「なぁに? 待合で座ってて楽になったの? 結構喋れるようになったじゃない」



 「駅はあっちだよ?」



 スバルの指先と彼女らの足はまるで真逆の方向を向いており、ここまで来て初めてノーヴェもその事実に気が付く事が出来た。自分達が居るのはリニアが走る高架線の真下で、気付けばスバルは自分達が行きに乗って来た駅がある方向とは正反対のルートを歩かされていた。自分達の進む方向には数百メートルも行かなければ駅は無く、明らかに意図的に駅から遠ざかって人気の無いここまで連れて来られているとしか考えられなかった。

 「な、なぁ! どうしちまったんだよギン姉! いきなり方向音痴になっちまったのか? 駅はあっちなんだからさっ、早く行こうぜ。道間違えたんなら早いトコ言えば良いのによぉ、あは、あはは」

 少し気まずい雰囲気を察知したノーヴェが陽気に取り繕って一行の進行方向を反転させようと踵を返そうとする。

 しかし──、

 「悪いが、少し黙っていてくれないか、ノーヴェ。あと少し静かにしていてくれ」

 背中の防寒着越しに固い感触がノーヴェに突き付けられた。素肌から遠い部分に押し当てられているが、この感触の正体を彼女は知っている……チンクが好んで使うナイフ、その柄の部分だ。この状況で背後を取られて背中に武器を押し当てられているとなれば、考えられる事は限られて来る。

 「ノーヴェ!!」

 すぐに異常事態だと認識したスバルも反射的に左手を伸ばそうとしたが、背後を向いた瞬間に両腕とも後ろ手に掴まれ拘束されてしまった。当然彼女を拘束しているのはギンガである。

 「ごめんなさい、スバル……。今はこうするしか無いのよ」

 「何言ってるのか意味分かんないよ! ちゃんと説明してよ! ギン姉ぇ!!」



 「残念だけど、説明を要求されるのはあんたらの方よ」



 凛とした声が冷えた大気を通じてスバルとノーヴェに届く。その聞き覚えのある声の主はすぐ横のビルの陰から姿を現し、二人に相対した。夕日の太陽をそのまま映し取ったオレンジ色の長髪をなびかせるのは、間違い無く親友のティアナ・ランスターであった。

 「ティア……!?」

 「随分やつれたわね……。悪い虫に何かされた?」

 「どうしてお前がここに──」

 「質問を許した覚えは無いわよ」

 ティアナの右手が指鉄砲の形になり二人に狙いを定めた。突き出された人差し指の先に橙色の魔力が集中し、それが更にスバルとノーヴェの頭上にも三つずつ出現して彼女らの急所を捉える。

 「安心しなさい……非殺傷設定よ。それと、どんなに大声出したって誰も来ないわよ。この周辺のビルは工事中で、つい昨日まで居た土木作業員も今は居ないわ……強制的に退去させたから」

 「ティア……」

 「答えて欲しい質問は二つ……。その返答のしようによっては、あんたら二人を取り調べの名目で身柄を一時拘束する事になるわ。もちろん、任意じゃなく強制よ」

 「あたしらが一体何したって言うんだよぉ!!」

 「これを見てもまだ素面が通せるって言うのっ!」

 「っ!?」

 ティアナがポケットから取り出したるは一枚の写真……そう、あの写真だった。端正に作られたフランス人形のような白い肌、猛禽類から抉り取った金色の眼球、そして毒々しくも見方によっては艶やかな紫苑の髪……スバルもノーヴェも知っている、知っていなければおかしい人間がそこに写っていた。光りの無いにも関わらず、屍とは別の深い雰囲気を放つ視線を放つ写真の奥の彼はまっすぐにこちらを見つめ、それがスバルとノーヴェの抗議の叫びを打ち消すのに功を奏した。

 「何で……お前があいつの写真持ってんだよ?」

 「質問してるのはこっちよ! 答えて! どうして……どうして、あんた達はこいつと接触したの!?」

 「どうしてって……何言ってるのかさっぱり分からねぇよ! 確かにあたしはそいつと……トレーゼとは知り合いだけどさ……」

 「そんな事を聞いてんじゃないのよ。私が言いたいのはねノーヴェ、あんたら二人がこいつに加担してるって疑いが掛かってるって言いたいのよ」

 「疑い……? 加担? 何言ってんだよ、あたしは何も……!」

 「……………………」

 「……どうにも強情ね。あんたの方は込み入るだろうから、後で取り調べ室で会いましょう。代わりに……さっきからずっと黙ってるあんたに聞くわ」

 ティアナの意識が自分に向けられたのを察知したのか、スバルが体を震わせて過剰に反応する。マフラーの下に隠れた口元は緊張で荒くなった呼吸で湿気が溜まり、滝のように流れる脂汗が背後のギンガからも確認出来る程であった。あまりにも尋常ではないその反応をティアナは見逃さず、瞬時に脈有りだと判断した。

 「話して。知ってるんでしょ、こいつの事」

 「わ、私は…………何も……」

 「あんたには犯罪者に加担したって事で幇助罪の疑いが持ち上がってるわ……。いい加減にしないと、いくら私でも庇い切れなくなる」

 「知らな、知らないよ。私はもう……関係ないから」

 「お願い! 今なら情状酌量の余地って言うのがあるのよ! あんただって、知ってるはずよ! こいつは、このトレーゼって奴は────!」










 午前11時00分、駅デパートから少し離れた公園のベンチにて──。



 「少し落ち着きました?」

 「……………………」

 ベンチに蹲るようにして座り込むセッテ……大人の男性も顔負けな長身を折り曲げ、怯えた小動物の如くなりを潜めてしまっている彼女にいつもの毅然とした雰囲気はまるで感じられず、隣に腰を降ろした担当官が何を言っても顔を上げずに黙っているだけだった。

 あの後、パニックを起こしたセッテを止めるのに30分もの時間を要し、本来なら公衆の面前で複数の他人に迷惑を掛けたとして警察に引っ張られてもおかしくなかったのだが、初の外出がそんな事になってしまっては後々彼女にとって禍根になって更に心理的に悪影響を及ぼすだろうと判断した担当官の説得で、状況を把握した警備員によって裏口から出されて今に至ると言う状態だった。それにしても三十分にも渡る彼女の暴れようは酷い有様だった……。流石に周囲にある物体を破壊するとまでは行かなかったが、戦闘機人とは露とも知らない警備員達は彼女の剛腕に弾き飛ばされ続け、髪を振り乱しながら金切り声を上げるその姿に一般人の方も恐れを成してしまい誰も近付く事が出来なかった。結局、その区画のシャッターを全て降ろす事でセッテを閉じ込め、ヒステリーが収まったのを見計らってから彼女を引き摺り出すと言う方法で解決するしか出来なかった。

 それにしてもあの暴れ方は普通ではなかった……。恐らくは今まで閉塞した環境下で過ごした期間が長く、一度に大量の人間の視線を向けられたのが原因だと言えるだろう。ただでさえ長身痩躯の彼女の体躯は目立つが、もちろんそう判断する理由はそれ以外にもう一つあった……。彼女は戦闘機人、それも正規ナンバーズの中ではトーレに次ぐ実力を人為的に与えられた直接戦闘型だ。生まれついて意識を持ち得たその瞬間からその深層心理に他者を見れば敵として認識するように仕組まれており、特にそれは前衛に回る戦闘型であれば影響は色濃くなるとすれば、当然今回の様な人の密集している所では彼女らの精神は高揚し、急激な興奮状態に陥ると言う訳だ。もしあのまま対応が遅れていれば更に興奮状態が続き、いずれは暴力沙汰程度では済まなくなっていただろう。

 「……申し訳ありません……この様な醜態を」

 「気にしなくて良いんですよ。誰にだって……まぁ、誰しもにあるとは言えませんけど、そんなに恥ずかしがる事じゃないですよ」

 「別に恥ずかしがっている訳では……」

 「ちょーっとセッテさんは肩が固いんですよ。あ! 別に駄洒落言ったんじゃないんですよ!? 今のはちょっと身持ちや考え方が柔軟じゃないって言う意味で……!」

 「……続きを早く」

 「あー、はいはい! つまり何が言いたいかって言いますと……もうちょっとゆっくりしても良いんじゃないかなって事です」

 「ゆっくり……ですか?」

 「はい!」

 おかしな事を言う……自分はいつだって出来得る限りの余裕を持って行動しているつもりだ。そんな事を考えながらセッテは初めて顔を上げた。

 「多分私が言っているのと、セッテさんが考えているのは違いますよ。何て言ったら良いのか分かりませんけど……まぁそんなモノだと思ってもらえれば」

 「本当に意味不明ですから、ちゃんと順序立てて説明してください」

 「私は口下手ですから~。その内セッテさんも理解出来ると思います」

 「…………一生理解出来ない可能性が大きいです」

 そう、いつだって精神を引き締めると同時にある程度の余裕を持って行動していたはずだった。だからこそ作戦においてもミスをする事無く今まで指示通りにノルマを達成する事が出来ていたのだ。だがこれから先はそんなモノは必要とはされない……公私共に自己の意思が尊重され、更にはそんな概念に束縛される事の無い“日常”と言うモノまであるのだ。自己の意思など必要無い世界から、一気に自己の意思無くしては生きられない世界で生きる事を強いられるのだ。狂っている、『世界』と言う概念は二つも三つも要らない……時間と同じで不変にして絶対、絶対であるが故に複数も必要無いはずだ。セッテはそう考えている、そう──、

 あの兄のように、絶対の強さに満ちた存在こそがセッテにとっての“在るべき世界”なのだ。

 たった一人の個人と言う小さな存在で一つの巨大な世界を形成出来る存在……一にして全、全にして一とはあの事なのだろう。わざわざ無粋な言葉を交わさずとも分かる……あの兄の凄まじさと恐ろしさ、そして未だその足元にも届かぬ自分の非力さが。あの域に届く為には自分には強さを磨き積み上げるしかないとセッテは考え、そしてそれを覆すつもりも無かった。完璧でないから焦りが生じる……なら完璧になればそんなモノは無くなる、今日のような失態だってしなくて済んだはずだ。一刻も早くその高みに到達する為にはこれ以上の余裕と言って無駄な時間を浪費する訳にはいかない。故に、セッテにとって隣の担当官の言う事は理解出来ないのだ。

 もう良い、時間の無駄だ。ここでいつまで休んで居ても何の進展も期待は出来ない。そう思いながらセッテはベンチを立とうとし──、



 何か巨大な存在が通り過ぎるのを直感した。



 「これは……っ!!?」

 実体を持った物体が通ったのではない……そんな小さな器から漏れ出した純粋な存在感が大き過ぎる気配の波となってここまで飛んで来たのだ。ここまで、こんな遠くのこの場所に居る自分の所まで伝播して来たと言う事実が、セッテの背筋を興奮で震え上がらせた。恐らくここに居る誰もこの莫大な存在感に気付けていないだろう……気付いているのは自分だけ、その優越感にも似た興奮が彼女の冷めていたいたはずの頭を再び沸騰させるのに時間は掛らなかった。

 「済みませんが、ワタシは行かねばならない場所がありますので!」

 「ええぇーっ!? ちょっとセッテさーん! どこ行くんですかー!? 勝手な行動は慎んでくださいってあれほど……!」

 「失礼!」

 「と、飛んだー!? 市街地で勝手に飛行したらいけないんですってばぁ! いい加減にしないと、航空部署の人呼びますからねっ!」

 そう言いながら担当官は自分の左手に嵌めていた腕時計を操作し、内蔵されている通信機を利用して緊急時用の信号を発信した。これで恐らく五分も経たない内に航空部署から五人程度の隊員がセッテを取り押さえに来るだろう。

 もっとも、街の人間が唖然とする中で流星の如き速度で飛び去った彼女を捕まえられればの話が先だが……。










 同時刻、副都心に接近中の暴走車両にて──。



 「大口叩いた割には、大した事は無いな、ハヤテ・ヤガミ……。まだ、あのモンディアルの方が、マシだったな」

 殴り込みに入ったはやてと、迎撃に出たトレーゼの戦いの場は現在最後部車両となっている車両の天井に移っていた。はやてが空中から石化の矢を大量に掃射するのを、車両の上に陣取っているトレーゼがレヴァンティンで弾き返しつつ隙を見計らってストラーダでの突貫を仕掛けると言う一見一方的な構図が展開されていた。一見すれば爆撃を主体とする戦闘スタイルを持つはやてと接近戦用の武装のトレーゼとでは勝負が見えていると思えるだろうが、実際にはトレーゼの行動の殆どは上空から降り注ぐ石化の矢を弾き飛ばすと言うシンプルなものだけで、これはむしろ防衛戦の色が濃く見えていた。逆にはやての方はその戦闘スタイル故に距離を取るべく上空に上がったのは良いが、直線とは言え高速で移動する車両と並走するように飛行を続け、尚且つその上に居る動き回る標的を狙うのに集中力の大半を費やしてる状況だった。更に彼女は隻眼……砲撃手には必要不可欠な遠近感が絶対的に欠けてしまっているのではまともに狙いを定められず、見当違いの方向に飛んでしまう弾丸も多々見受けられた。

 「ええ加減こっちに投降する気にならんか!」
 
 「生憎、貴様らに垂れる頭など、持ち合わせていない。それに…………そろそろ、時間だからな」

 「時間? 何を言うて……」

 あまりにもあっさりとした物言いを不審に思ったはやては、そこで始めてトレーゼの視線が自分ではなく全く逆である車両の進行方向に向けられている事に気付いた。時速100㎞超過で走るこの貨物車両……その先に存在するものは──、

 「まずいっ!!」

 状況を理解すると同時に彼女は足元に魔法陣を展開させた。遠近感が掴めずとも分かる……前方から猛然と迫る危機、そしてここまで来て判明した敵の目的が彼女に衝撃を与えていた。

 まさか! そんな事を! でも! 現実に! 

 混乱仕掛ける頭を律しつつ、彼女はシュベルトクロイツの切っ先を足下の車両に向ける。ベルカ式魔法陣が回転し、それに同調するかのように開いた夜天の書が刻まれた文字を白銀の光りに染めながらページを猛烈な速度で捲り上げて行く。何としてもこの車両を停止させなければならない! だがその為にはこの車両を線路ごと破壊するよりも車両のみを石化魔法で封じ込めた方が被害も少ないだろうと判断し、はやては今現在自分が持ち得る限りの魔力の全てをデバイスに注ぎ込もうとしていた。トレーゼにも弾き返せない威力を内包した石化の矢を自らの頭上に出現させ、それを車両の中央に狙いを定めた。

 だが、ここで彼女はまた一つ不審な点を見つけた。目の前の車両に陣取って居るトレーゼが何の抵抗もして来ないのだ。車両の天井に両足を着け、上空を飛行しているこちらを見上げているだけであり、術の発動を阻止しようとする動きが全く見られなかった。否、単純にこちらを見上げているだけならまだしも、良く見ればその両手に構えていたはずのデバイスをいつの間にか取り下げ、完全に交戦の意思を無くしてしまっていた。そして……その金眼から向けられる視線はそれまで見て来たはずのどの感触よりも冷やかで──、

 笑っていた。

 実際に口元を歪めて笑っているのではない……向けられているその視線が、その感じが、明らかにはやてを嘲笑しているのだ。その視線に彼女は憶えがあった……。いつだった幼い頃、まだ両足が健在だった幼少の時に外に出て遊んでいたら、足元に一匹のアリが歩いていた。そのアリは顎で噛みついた餌を巣穴に持って帰ろうとしていたが、如何せん自分の小さな体に見合わないサイズを運ぼうとしているので少しも肢は動かず、いつまで経ってもそこにへばり付いていた……。あの時、幼くて無邪気で残酷だった自分はそんな小さな生き物を指先で軽々しく弾いて……

 笑っていたのだ。

 無駄な労力を使ってまで自分の能に適わぬ事を成そうとして躍起になる小さなモノを嘲笑う……今のトレーゼの視線はまさにそれだった。

 「な、何がおかしいんやっ!」

 「……別に………………ただ、哀れだな、と思っただけ」

 「何を言うてんのや。狂っておんのと違うか」

 「なら撃って見せろ」

 「何ィ!?」

 「撃てよ……それで、どっちが狂っているのか、ちゃんと分かる…………ほら、さっさとやれ」

 明らかな挑発。挑発と言う行為には必ず裏があり、相手をそれに引っ掛けるのを目的でそうしているのが定石だ。今のトレーゼの言動もそう言う意味で確実に彼女を誘っているのは傍から見ても重々分かる事のはずだった。だが既に頭に血が昇っていたのと、何としても車両を止めねばならないと言う責務の念が彼女を思い留まらせる事を止めさせていた……。

 「どうなっても……どうなっても知らんからなぁぁぁっ!!!」

 石化の矢をトレーゼに向け、投擲の姿勢を取り……はやてはそれを豪快に放つ──、










 「IS、No.13……『────』発動」










 彼に言われた通りに先頭から二両目の車両に身を潜めていたウーノは、突然外気の流れが変化するのを感じた。大気に流れが生まれたと言う事はつまり、この空間が外と繋がったのだろうが、彼女には既にドアを開けて中に入って来た者が誰なのかぐらいの予想はついていた。

 「終わったよ、ウーノ」

 「……そう。意外とすぐに終わったのね」

 「予想通り、と言って欲しい。期待に答えるのが、俺の役目だからな」

 「そうね……貴方はいつだって、褒められるのが大好きだった……」

 トレーゼがウーノの体を包み込むようにして抱きかかえ、自分達の周囲に薄い球状の魔力膜を展開した。道路を走る乗用車の衝突程度なら余裕で耐久出来るその小規模結界の中で、トレーゼは彼女を守ろうとしていた。

 もうすぐ来るであろう衝撃に備えて……。










 あの後何があったのかなんてのは全く憶えていない……。気付いた時には左手をノーヴェに引っ張られるままに人通りの多い街の方に出て来てしまっていた。路地を突っ切って街道に飛び出した時に少し周囲の目を引いたが、自分達が衆人に紛れて移動を再開するのには支障無かった。

 「くっそ! 一体何がどうなってやがんだよ!」

 あの時、あの場に居た全員の視線が詰問されていたスバルに向けられていたほんの一瞬の隙を突き、チンクから奪い取ったナイフをノーヴェがギンガに投げつけ、その時に離されたスバルの手を取ってここまで逃げて来たと言う訳だ。陸戦特化型戦闘機人の彼女の速度に対し、完全に気を取られていたティアナ達は当然追い付けるはずもなく、なんとかここまで逃げ果せられたのは良いのだが……

 「これからどうするつもり……?」

 「あぁん? どうするもこうするも、逃げるしかねぇだろ」

 「逃げてたって、どうせ捕まるよ…………。それに……どっちかって言うと逃げるのは私の方かな……」

 「アホかおめぇは! 何だって悪ぃ事もしちゃいねーってのにお前がんな事言ってんだよ。て言うか、あたしだって何もしてねーんだけどよ」

 人混みが丁度良い垣根となっているのを良い事幸いにし、二人は徐々にティアナ達が居た場所から距離を置く事に成功していた。行く当てなんてのは始めから無きに等しい状況だが、少なくともこんな状況に自分達が陥っている原因がある人物にある事をノーヴェは確信していた。

 トレーゼ──。ティアナが突き出したあの写真に写っていたのは間違い無く彼だった。何故その写真をティアナが持っているのかは全く分からないが、事の発端に彼が関わっているのは疑い様の無い事実だろう。問題は、彼の何が自分達と関わっているのかだ。制服を着ていた所を見れば、ティアナが局員としての仕事でこちらに接触を試みていたのは確実……管理局が動かなければならないような事態にトレーゼが関与していると言う事にもなる。しかもそれが末端の取り締まり部署ではなく、法規的権限を有している執務官が動いているともなれば事態はもっと深刻だ……場合によっては広域指名手配が掛けられている事も充分考えられる。

 だが、ノーヴェはそんな自分の考えをすぐに振り払った。彼は自分の友人だ、その友人を根拠も無しに疑うのはどうかしている……そう言う良心が彼女にその考えを捨てさせていた。

 「きっと……きっとなんかの間違いだよな。そうだよ、そうに決まってら」

 「…………そうだね……そうだったら良かったのにな……」

 「うん? 何か言ったか?」

 「ううん、別に……。もう……どうでもいい」

 無知が幸せだと言う言葉をこれ程までに痛感した事が今までにあっただろうか……。今こうして手を引っ張ってくれているこの妹は、自分の気苦労も心配も、何一つ理解していないまっさらな身も心も軽い状態……羨ましい、せめて自分も何も知らないままだったなら──、



 「ノーヴェ・ナカジマとスバル・ナカジマだな?」



 何が間抜けって言うなら、突然掛けられたその言葉に反応して逃げるのではなく、それより先に頭の中で確認の言葉ではないと考えて行動が出遅れた事と……実はその前にとっくに自分達が囲まれていたと言う事実に気付けていなかった事実だった。首を振って周囲を確認する隙も与えられないまま冷たいアスファルトに二人揃って叩き伏せられ、衆人環視の中で彼女らは拘束されてしまった。頭を押さえられる前にノーヴェが確認すると、自分達を取り押さえた四人組は全員が私服姿であり、一目で逃げ出した自分達を待ち伏せしていたのだと分かった。もっとも、既に捕まってしまった今となっては遅いのだが……。

 「離せコラぁっ!! ブッ飛ばすぞテメェ!」

 暴れ馬の如くはね回るノーヴェではあるが、そんな彼女とは対照的にスバルの方は糸の切れた人形のように静かに地に伏しているだけだった。始めから彼女の方には逃走の意思は無く、ただ無気力に連れられるままにされていただけに過ぎなかった。

 「まったく……! あんた達も世話焼かせないでよね。後始末すんのはみんな私なんだから」

 追い付いてきたティアナが歩み寄って来た。後ろにはギンガとチンクも同伴しており、困惑している通行人達に事情を説明している最中だ。取り押さえていた覆面捜査官達に指示を出し、無理矢理にスバル達を立たせて顔を自分に向けるように言った。

 「もうすぐ車が来るけど、車内で暴れないでよ。オシャカにしたら始末書と修理費は私が出すんだから」

 「おい! 何かの勘違いだって! あたしらが何したって言うんだよっ!!」

 「…………二日前、ここからかなり離れた区画でヴィヴィオの魔力反応が検知されたわ」

 「ヴィヴィオの……?」

 二日前と言えば丁度デートがあったあの日だ。あの日はほぼ一日中、スバルとギンガを除くナカジマ姉妹の面々はティアナと行動を共にしていた。だがあの後彼女は自分が不貞寝をしている間に出て行った……まさかあの時に──。

 「チンクから聞いて無いの? あの後、私を含む数名の執務官とで現場に向かってヴィヴィオの捜索と保護に当たったけど……私を除いた全ての執務官が殺害されたわ。現場に僅かに残っていた魔力残滓を測定した結果、殺害した犯人は一連の事件の首謀者の“13番目”による仕業って事で捜査が進んでる……」

 「そ、それがスバルやあたしとどう関係してるってんだよ!?」

 「二日前の話だけに限って言えば、少なくともあんたの方は何の問題も無いわ。けど……スバルの方は身に覚えがあるはずよ。殺害現場の一つ、その付近の地面に付着してた吐瀉物に含まれていた胃液から検出されたDNA……あんたのだったわよ」

 「……………………」

 「それだけじゃない。現場に僅かに残留していた魔力の中にあんたの魔力が紛れ込んでいたわ。私が言いたい事分かるわよね?」

 「ちょ、ちょっと待てよ! スバルが人殺ししたって言いてぇのかよ!」

 「悪いけど、今はあんたは黙っててくれない。私はあんたの何倍もこいつと付き合いが長いの。こいつはバカだからいつも私の予想外の事を仕出かしてくれるけど、飛び抜けたバカって事も分かってる……。こいつはどんな仕打ちをされたとしても他人を殺すようなガラじゃない事は一番良く知っている」

 「じゃあ……!」

 「でも! スバルが人を殺していないのと、“13番目”に加担していないと言うのはイコールにならない。二日前の一件でこいつには殺人幇助罪の疑いが持ち上がってんのよ……あのトレーゼって奴に関わっているから」

 「だからっ、そっからどうしてトレーゼの名前が出てくんだよぉ!!」

 噛み付かんばかりの勢いで食い下がるノーヴェを軽く無視しつつ、ティアナは向こうから車が来た事を確認して周囲の人々に道を譲るように促した。事の成り行きに興味を抱きつつも厄介事には関わりたくないと言う意思の強い衆人は即座に道を開け、それがより強い者はとっくの昔にこの野次馬の場から離れていた。

 「良かったわね、帰りの切符は買わなくても良いわよ。でも、当分自宅には帰れないかもしれないけど……」

 前部座席の助手席にティアナが座り、取り押さえていた捜査官達がスバルとノーヴェを挟むようにして後ろの座席に入り込んだ。その間もずっとノーヴェはどうにかして逃げ出そうと踏ん張っていたが、今度はチンクとギンガの意識がこちらに向けられている故に全く逃げ出す隙を見つけられていなかった。結局成す術も無いままに二人揃って車内に押し込まれ、とうとうドアを閉められてしまった。

 「そっちの青いのは調子が悪いそうだから、丁寧に扱いなさい」

 「分かりました」

 逃走した二人を追う間にギンガから診断の結果を聞いていたティアナは背後の捜査官にそう言い残し、隣の運転手に指示して車を発車させようとした。

 ハンドルのクラクションを鳴らして前方の人間をどけ──、

 ギアを操作してエンジン出力を調整し──、

 ブレーキから足を離してアクセルを踏み込み──、

 しっかりと前方の道路を見据え──、





 前方の道路にリニアが降って来るのを見た。










 結局その時に何が起きたのかについてだが、その一部始終を見ていた当時の生き残りはこう語る。



 「あれはですねぇ~、今になってからだから言えるんですけど…………やっぱり言える事って言うのは、『何が起きたのか分からなかった』って言う事は確かです」

 「多分俺だけじゃなかったと思います、はい。だってだって! あれですよ? リニアっ! 線路走ってるあれ!!」

 「あれが! 高架線から! 落ちて来て! グシャって、グシャですって! マンガみたいに……ぽーんって、道路に、まだ歩いてる人とかが居るのに……!」

 「えぇ、俺もそこに居ましたよ。そこって言うか、始めは、居たじゃないですかあの取り押さえられてた二人組! ちょっとの間それを野次馬で見てたんですけど、何か関わらない方が良いかなってんで離れてたんですよ」

 「そしたらドーンって……。さっきも言ったけど、驚いたって言うかもう本当に『え、何これ?』って感じでしたよ。みんな揃ってシーンってなって……それが、えっとぉ、五分……ぐらいだったかな? あの場所に居た人間全員そんな感じで固まってましたよ……体中飛び散った血とかでベトベトになって」

 「今だから笑って済ませられるのかも知れませんけど、あの時はマジで酷かったですよ……。半年ぐらいは肉が喉を通りませんでした……」

 「あ! さっき俺、驚いたって言うよりはって話ししましたよね? あれ……実はちょっと違うんです」

 「あの後…………降って来たリニアが二つ三つはあったんですけど、その内の一台……もう何かグシャグシャになって形無くなってるそこから、出て来たんですよ、人が」

 「あれは驚い──、あ、いや違うか、あれも驚いてたんじゃない……あれは──」

 「怖かったんだ……!」










 午前11時07分、混乱と戦慄が走る街の往来にて──。



 取り合えず相方の無事は確認した。事前に展開させていた小型簡易結界が衝突時の衝撃と落下時の崩壊から身を守り通し、双方共に無傷で済んでいた。

 「ウーノは、ここで待ってて」

 「…………えぇ」

 僅かに生き残っていたスペースに姉を押し込めるように隠し、トレーゼは衝撃で歪んだ金属板を引き剥がしてゆっくりと外にその姿を晒した。真昼の街道とは思えないような静けさが目の前の凡夫達の間に横たわっているのを興味無さ気に黙認しつつ、彼は段差を飛び降りて亀裂の入っているアスファルトの地面に降り立った。

 「……?」

 足元から湿った音……。落下して来た車両の下敷きとなった不幸な人間の変わり果てた姿がそこに転がっていた。ざっと数えて五人分、良く見れば周囲の人間達の顔や体が血塗れなのは飛び散った臓物の所為である事が窺い知れた。一様に皆が一言も喋らないのは、突然の事態に頭が混乱していると言った所だろう。通常ならその混乱が醒めない内にここから離脱するのが得策だが……

 今回はその逆が望ましい。

 「汚いな……ウーノが通るには、相応しくない……」

 右足を上げ、足の裏に魔力を集中させて筋力を増強させる……引き締まった筋組織のキリキリとした緊張が脳に伝達され、それが最高潮を迎えた瞬間に──、

 振り下ろす!

 地面から剥がれたアスファルト層の部分が散弾銃の弾丸の如く踏み付けられた部分を起点として周囲に飛散した。拳大の小さな物から頭大のサイズまで、大きさに関わらず全ての破片がスポーツに使われる砲丸の倍以上の速度で飛び散ったのだ。当然、その延長線上に居る不特定多数の衆人の何人かは……

 その詳細は沈黙を破った複数の絶叫が代弁してくれた。










 危なかった……あとほんの少しでも発車していたタイミングが早かったら自分達はこの車ごと圧壊していたに違いない。九死に一生とはこの事か!

 だが今はそんな事よりも重要な事があった……。

 「ランスター執務官! あれは……!」

 原型を失ったリニアの中から何者かが出て来るのを見ていたティアナはその目を引ん剥いた。間違い無い、今この場に姿を現した奴は自分が持っている写真に写る人物と同じ人間……戦闘機人、ナンバーズの秘匿された十三番目、トレーゼだった。

 今すぐにでも捕えようと彼女はドアに手を掛けたが、すぐにそれを引っ込めると猛然と背後のスバル達に向かって──、

 「伏せてぇぇっ!!」

 次の瞬間、フロントガラスを突き破って飛んで来たアスファルトの破片が彼女らの頭上を通り過ぎ、それと入れ替わるように車外に居る通行人達から阿鼻叫喚の絶叫が響いてきた。外の光景は予想通りの事態であり、弾丸の速度で飛来した破片を喰らって数人が絶命したのを皮切りに、恐怖に汚染された人々が当ても無く散り散りに逃げ惑う地獄絵図が展開されていた。前を走る者を押し倒し、左右に曲がる為に真横の人間を殴り飛ばし、転んだ者の上を踏みながら走り去る……誰も自分以外の事なんて考えていない、ただ自分が生き延びる為だけに他人を蹴落とすと言う社会の縮図のような光景だった。

 その災禍の中心に、一寸も動じぬ存在有り。この地獄絵図を描き上げた張本人、トレーゼその人だ。防護ジャケットの上に羽織ったシルバーケープをはためかせ、揺れ動かぬ瞳でじっとガラス越しの自分達を睨んでいた。こちらの行動を待っているようだ……自分を拘束する為にこっちからアクションを見せるのを待っているのだ。

 「……貴方はここで後ろの二人が出ないように見張ってて」

 「しかし、それでは格好の的です」

 「大丈夫よ……あいつは多分、この車は狙わない……。残りは私と一緒に。あの澄まし顔にアタックを仕掛けるわ」

 懐から出したるは銃器型のデバイス。慣れたクロスミラージュではないのが心許ないが、今はこれで挑むしかない。捜査官の一人を車内に見張りの為に残し、ティアナはそれを構えて外に出た。背後から置いて来ていたチンクとギンガが走って来る気配を感じつつ、正面の不動の敵を見据えた。

 「あれが……“13番目”」

 「そちらは見るのはこれが初めてですよね。私の方も顔を直接見るのは初めてです」

 チンクがナイフを取り出し、ギンガが隠し持っていたブリッツキャリバーを起動させてバリアジャケットとリボルバーナックルを左手に構えた。頭数だけで言えばこちらの方が有利……だがその実力差は簡単に埋められるものではない事は確かであり、個々の実力と比較してしまえば天と地の差が開いている事も分かる。

 「…………チンクか」

 「初めまして。兄上殿……とお呼びした方がよろしいのか?」

 「俺は、貴様を妹などと、認めはしない。それと……そこに居るのは、タイプゼロ・ファーストか」

 「普通にギンガ・ナカジマと呼んで欲しいですね」

 「阿呆が。戦闘機人に、名は不要。不要な呼び名は、偽名と同じだ」

 それにしても、と言葉を続けながらトレーゼはゆっくりとこちらに歩み寄って来た。

 「まさか、こんな所で、貴様らと鉢合わせるとは…………これは、幸運か、それとも不幸か……。いずれにせよ、こちらの段取りが、狂ったのに変わりは無い。まぁ、狂ったと言っても、『前倒し』と言う意味だがな」

 両腕のナックルからカートリッジが排出され、体に纏っていた魔力が急増する。警告と威嚇を兼ねてティアナが銃口を向けるのも構わず彼の足はまっすぐにこちらを目指し、既に相対距離は五メートルにまで迫って来ていた。

 捜査官の一人が前に進み出て、銃口を向けて警告を促した。

 「これ以上接近するなら捜査官権限で発砲する! 直ちに武装解除し、両手を頭の上に挙げろ!」

 「……はぁ?」

 「聞こえないのか!! 武装解除しろと言っているんだぞ!」

 「実力に、訴えて見せろ……」

 眼前の捜査官の言う事を軽く無視し、トレーゼは更に距離を詰める。ここまで来れば公務執行妨害及び認可されていない武装を携行していると言う名目で警告の後に発砲が可能になる……そして、その警告はとっくに無視された後だ、つまり威嚇射撃が許される状況にある。

 照星に目を合わせて狙いを定め、引き金に人差し指が掛かり、銃身に魔力が込められ──、



 発砲された。



 撃ち出された魔力弾はまっすぐ射線上の彼の眉間に吸い込まれ……。



 そしてそれをトレーゼも涼しい顔をして待ち受け────、










 「…………なぁ、教えてくれ……。今撃たれた魔力弾は、どっちだった────────セッテ」

 彼は立っていた。その体には銃痕はどこにも無く、冬の寒風に揺れる前髪を手櫛で整えながらトレーゼは自身の前に立ち塞がった長身の妹に訊ねた。

 「非殺傷設定です」

 突き出された右拳の指の間からは蒸気が立ち込めており、飛来した魔力弾を握り潰したと言う事が容易に分かった。目の前のティアナ達が驚愕の表情で混乱しているのも全く意に介さずセッテは背後の兄に、撃ち出された魔力弾が物理破壊設定ではない事を伝えた。すると、それまで鉄面皮を保っていたはずのトレーゼの眉尻が反応し、途端に彼の纏う雰囲気が機嫌の悪いモノへと変化するのを感じた。

 「情けないな……。管理局の、人間は、敵一人も、射殺出来んのか? 常識だぞ」

 足元に転がっていた親指大のアスファルト片を拾い上げ、それを指の腹で転がす。

 「警告を無視すれば、即射殺……こんな具合にな」

 親指がバネの要領で弾け、黒い小さな石ころをライフル弾顔負けの速度で撃ち出し、自分に銃口を向けながらも射殺のチャンスを自ら放棄した愚か者の眉間にヒットさせた。脳漿と血液が入り混じった液体が零れ出すが絶命の断末魔は聞こえず、その捜査官はそのまま事切れた。

 「セッテ……! 何であんたまでここにっ!」

 ティアナの耳に入った情報が正しければ、確かに目の前の長身痩躯の麗人は更正プログラムの一環で今日が外出予定ではあったが、こんな所を移動する予定は全く無かったはずだ。例えそうでなかったとしても、何故彼女がトレーゼを庇うのか? そんな事をしても何の利益も見返りも無い……ただ一点の可能性だけを除いては、だが。

 そう──、

 彼女がトレーゼに与する者ならば何の矛盾も無くなる。

 「まさか……あんたが“裏切りの使徒”だったなんてね。まんまとハメられてたって事かしら」

 「発言内容が若干理解出来ませんが、今現在ワタシが貴方達と敵対していると言うのだけは確実かと……」

 まずい、これは非常にまずい状況だ。こちらの戦力は車内に置いて来たスバルとノーヴェを入れてもたったの八人……対してあちらは武装隊一個大隊とも引けを取らない猛者だ、こちら戦力を削り取るのに三分と掛らないだろう。更にあちらは戦闘機人だ、こちらが散開して消耗戦に打って出たとしても、持ち前のスタミナは常人とは計り知れない上に索敵能力も抜群……最悪の場合、この街の区画が丸ごと焦土と化すのも考えられるだろう。いくら考えても最善の策が出て来ないこの絶体絶命の窮地に晒され、ティアナの精神は徐々に擦り減らされ始めていた。どうする……どうする……どうする…………駄目だ、どんなに考えてもこの状況を打破出来る解決策が浮かんで来ない……。かつて、ナンバーズ三人をたった一人で全員捕縛すると言う大立ち回りを演じて見せた事はある。だがあれは相手の行動パターンにポイントがあったのと、頭数で自分達が絶対的に有利だと油断していたからこそその隙を突けたのだ。その点で言えば今回は明らかに分が悪過ぎた。確かにトレーゼもセッテもこちらが格下だとナメている……だが、油断はしていない、明らかにこちらの事を自分達より弱いと確信しながらも、その心の奥底では決して慢心してはいないのだ。これは下手に調子に乗られるよりもずっとタチが悪い。

 「……おい」

 「何?」

 「この場を、穏便に済ませたいか?」

 「何言ってんのよ。交渉でもするつもり?」

 「馬鹿言え、交渉なんか、誰がやるか……。これはな、“譲歩”だ」

 抑揚の無い声で終始尊大な態度を取り続けるトレーゼは、前衛をセッテに任せてリニアの残骸に腰掛けた。四肢が紅い光に覆われた後、彼の両腕両脚に装着されていたデバイスが消え、代わりに右手の人差指と中指に黒い指輪が嵌められていた。

 「今、その車に居るはずだ……ノーヴェがな」

 「言っておくけど、そっちに譲り渡す事は不可能よ」

 「俺が、そんな小さな、存在に見えるか? 欲しいモノは、欲しい時に、手に入れる……今はまだ、欲しくない。だから、車から、出すだけで良い」

 「一人だけ? もう一人の方にも……用があるんじゃないの?」

 二日前の一件を見る限りでは、明らかにノーヴェよりもスバルの方と繋がりが深かったのは確定的に明らか……。だがその彼女を差し置いてノーヴェだけを指名するのは何か意図があっての事なのか? 二人呼び出す事も出来たはずだ。何かの意図があってならば必ず裏がある……そう考えて探りを入れたティアナであったが──、

 その問いに対する返答は彼女の予想の斜め上を行っていた。

 「もう一人……? 誰の事だ? 知らないな、そんな奴」

 シラを切っていると言う事は明白だった。と言うより、トレーゼの口調がわざとらしく芝居掛ったモノだったので、彼自身がスバルの存在をこの場の会話から弾き出そうとしている事は容易に想像出来た。つい二日前までは並んで街を歩いていた二人が、あの後雨の降る街中で何があったかは知らないが……今はそんな事はどうでも良い事だ。少なくともこの戦闘機人は嘘をつかない事も想像出来た……今ここで彼の言う通りにさえすればこの場は丸く収まる……そう思えたのだ。

 「…………連れて来て」

 「おい!」

 チンクとギンガから抗議の声が上がる前にティアナの指示は早く、指示を受けた捜査官の一人がフロントガラスの砕け散った車に寄り……

 ドアを開けた。

 「……………………よう……この姿で会うのは、久し振りか? No.9」








































 「なぁ……何かの冗談だよな…………トレーゼ?」




















 「……………………もうなぁ……貴様と話すのも、飽きた」




















 「なっ、何バカ言ってんだよ! ハハハ……て言うか、セッテとそんなに仲良かったっけかな、お前」




















 「………………………………………」




















 「その格好だってよぉ……あれだろ!? 今流行ってるコスプレとかって奴だよなッ? 上手く出来てんな~……あはは」




















 「……………………ふざけるなよ……ふざけるな、No.9! 耳を覆う手を、どけろ!」




















 「……やめて、やめてくれよ…………聞きたくない……聞きたくないんだってばぁ……!」




















 「俺はナンバーズの、No.13……偉大なる創造主、スカリエッティが生み出した、戦闘機人の最高傑作……トレーゼだ」




















 「やめ……やめて……!」




















 「貴様らが“13番目”と呼ぶ、最後のナンバーズ……つまり────」




















 「やめてくれぇぇぇぇええええええええええっ!!!」




















 「俺は貴様の兄、貴様は俺の妹…………つまりは、そう言う事なんだよ」




















 「知らないっ! あたしは知らないっ!!」




















 「知らないから、教えてやっている……。貴様が俺に向ける視線…………あれは何て、言うんだろうな」




















 「言うなぁっ!! 言うなぁぁ!!!」




















 「礼を言うぞ。貴様が、そんな安っぽい感情で、俺に懐いてくれたお陰で……俺はここまで、事を運べたんだ」




















 「うあ、うわぁああぁぁァあああぁああぁあアアアアアアアァッ!!!」




















 「ありがとう、好きなままでいてくれて……………………俺は──」




















 「ああ……ああああああっ!!?」




















 「大嫌いだったがな!」








































 この日を境に、ある一人の少年が狙い澄まして修羅となり、ある一人の少女が図らずも大人となってしまった。残酷な世界を渇いた心で渡り歩き続ける……そんな大人に、彼女はなってしまった。

 それを物陰で見守る別の少女は、泣き崩れる自分の妹の背中を見つめながらこう思った。



 せめて、あの場所に居るのが自分だったら──、と。



 だがそれは決して哀れみや自己犠牲の精神が代弁しているのではなく、むしろその逆……

 どこかさもしい嫉妬にも似ていた。



[17818] 引き返せない道──宣戦布告
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:73ca1900
Date: 2010/12/13 22:11
 新暦86年某月某日、無限書庫の司書室にて──。



 「あれはパフォーマンスだよ。世間に対して自分を宣伝する意味を込めた盛大なパフォーマンスさ」

 椅子に座る無限書庫司書長のユーノの前には、デスク一杯に広げられた資料の山があり、それらを一人で処理しながら彼は言葉を紡ぎ続けていた。今彼が話しているのは、今から数年前にクラナガンで起こった未曾有の大事件……「T・S事件」の事についてだった。第二のスカリエッティと称されるまでに巧妙であったとされる主犯のトレーゼ・スカリエッティ……11月9日にクラナガンに訪れてからただの一度も公にその姿を晒さなかったはずの彼が、何故11月21日に発生した首都圏リニア幹線貨物車両襲撃事件においてその姿を見せたのか? 彼の持つ戦略頭脳と戦術眼を以てすれば、わざわざ公に自分の姿を晒さなくて済んだのではないのか?

 と言う疑問が当時の管理局捜査課やメディアの情報局で多く発生していた。

 「僕の仮説で構わないなら、あれは多分彼にとっては予定通りだったのかも知れないね。あの日の彼の本来の計画は恐らく、『自分の存在を広く認知させる』と言う事だったと思うんだ。街中で暴れ回るか、あるいは通行人を狙っての大量虐殺に出るか……その二つのどちらかを行えば、それまで彼の存在を隠蔽し続けて来た管理局も流石に世間に対して真実を隠し通せなくなるって事さ」

 書類の隅にある欄にサインと印鑑を捺して、それを別のスペースに安置しながら彼の話はまだ続く。

 「でも、彼にとって予定外だったのが二つあった……。それはあの日にウーノさんを使っての誘い出し作戦があった事と、リニア衝突を利用しての落下地点付近にスバルとノーヴェが居た事……この二つ。前者の方は上手い事利用されて、マスコミに糾弾される良い材料にされちゃったけど……もう一方の方は内心本当に予想外だったらしいよ」

 ふう、っと一息つき、ユーノは席を立って湯気を出しているポットに歩み寄った。間を置かずにコーヒーの香ばしい香りが部屋一杯に充満し、砂糖とミルクを少量入れてから再び戻って来た。

 「あぁ~、なのはのキャラメルミルクが飲みたいなぁ。ああ、そうそう! キャラメルミルクと言えば、最近スバルも桃子さんみたく美味しいのが作れるようになったんだっけ。あれを毎日飲めるのかぁ……本当に一尉が羨ましいよ」

 あのハラオウン提督でない限りは誰だって苦いコーヒーよりもそっちの方が良いだろう……。

 「ああ、ごめんね、話が逸れちゃったかな。えーっと、どこまで話したっけかな? あー、そうだった! そのトレーゼって戦闘機人が以後どうなったかについての質問だったね。あの後、翌日の11月22日の深夜、遂に彼は地上本部に対して真正面から喧嘩を挑んで来た。俗に世間で機人戦争って揶揄されている事件がクラナガンのど真ん中で発生したんだ。その事件の顛末は君も存じているだろうけど、その裏側の事情を知っているかな?」

 飲み掛けのコーヒーを置き、ユーノは再び書類との格闘に移った。その間も彼の口から出る言葉は留まる事を知らず、そのまま講釈を続けた。

 「その夜間戦闘中、ある一つの情報が発覚してね……事態が急転したんだ。それから二十四時間以内に色々あって────」



 「次の日の11月23日……トレーゼ・スカリエッティはこのミッドから忽然と姿を消したんだ」




















 絶叫──。

 誰かが泣き崩れて地に伏す音が聞こえた。その人は全身の水分が出尽くすのではないかとも思える位の大声で泣き叫び、アスファルトの黒い大地に涙を落としていた。誰もそれを咎める事も慰める事も出来ず、彼らの視線はその元凶を作り上げた張本人に向けられていた。

 「無様だな……。だが、もう遅い……貴様は、俺に心を許し過ぎた」

 涙と鼻水で濡れた顔を地に伏せているノーヴェにトレーゼの人差し指が向けられ、足元に真紅のテンプレートが展開された。相手がノーヴェに対して何か仕出かそうとしていると感じ取ったティアナはすぐさまその間に割って入り、銃口を突き付けた。

 「止めておけ、ランスター。貴様では、俺を殺せん」

 「試してみる? 私だって執務官よ! 抵抗した犯罪者の一人や二人、始末出来る自信はあるわ!」

 「だが、殺した経験は無い……それが、貴様と俺の、決定的な差だ。その、紙一重の差が、貴様と俺の、優劣を分けるんだよ」

 トレーゼが指を降ろし、足元の疑似魔法陣も消える。そしてそのまま興味を失したとでも言う様に残骸の中に置いてきたウーノの許へと足を進めた。

 「そうだ、お前に、初仕事をやろう、セッテ……」

 不意に、言い忘れた事を付け足すような軽い口調で彼はセッテの背中に言葉を投げ掛けた。

 「始末しろ」

 「了解」

 正確には単なる言葉ではなく、戦いの火種だった。

 ほぼノーモーションで何の勢いも付けずにいきなり初速からの踏み込みでセッテは懐に入り込み、反応し切れずに回避が遅れた捜査官の首を──、

 「失礼」

 左手で肩を、右手で耳を掴み上げ、それを軸にして脊髄を捻じり切った。ゴリンッと言う鈍い音が周囲の大気を振動し、バックステップで回避したティアナの鼓膜にまで届いて来た。

 「くっ! いつまでやってんの、死にたいの!!?」

 地に伏したまま動こうとしないノーヴェを引き摺り、ティアナと既に二人にまで減った捜査官はナンバーズ準最強の実力者から距離を開け、代わりに同じ戦闘機人であるチンクとギンガが前に進み出た。

 「セッテ! これ以上の罪を重ねてどうするつもりなんだ!」

 「すぐに投降して! 今ならまだ貴方を庇う事だって出来るのよ」

 警告を含んだ言葉が投げ掛けられるも当のセッテ本人は全く聞く耳持たず、接近戦を得手としないチンクに殴り掛かった。単純なリーチの差かそれとも妹への情が邪魔するのか、投げつけるナイフもカンシャク玉程度の爆発しか起こせず、ギンガからのサポートを受けているはずなのに徐々に押され始めていた。逆に接近戦の傾向が強いギンガに対しては終始蹴りの応酬で彼女を寄せ付けず、自分の身体的利点を最大限に活用した戦闘方法で二人を圧倒していた。

 「どうだ、セッテ? 自分が強くなっていると、実感出来ているか?」

 「……………………」

 背後で見物に徹している兄からの言葉も聞き流し、セッテは純粋に自分の状況から与えられる刺激と興奮を享受していた。

 これだ! この戦闘による熱と興奮、そして収まる事を知らない高揚感……これが自分の求めていた環境だ。白い壁に閉ざされた閉塞的なモノでもなく、大量の人間達の中で燻っている退廃的な熱でもなく、生と死を懸けた一線の上で自分は生きていると言う実感が持てるこの状況こそ、彼女がこの三年間焦れ続け、そして忘れてしまっていたモノだった。その感覚を再び取り戻せた事に彼女の戦闘意欲を刷り込まれた肉体は悦びに震え、全身の骨格と筋肉が今この瞬間の戦いの為だけに全力を振るっていた。

 「良い戦い振りだ、セッテ。そのまま、行動を、続行しろ」

 リニアの残骸の上に腰掛け、高見の見物を決め込み続けるトレーゼは事の成り行きをそのまま自分の妹に一任したのか、その戦いに決して手出し口出しをする気配を見せなかった。たまに自分の方向に飛んでくる魔力弾を指先で弾き飛ばしながらも、彼はその場を一歩も動かず戦いの場を静観していた。

 ふと、彼の視線が冬の寒空に向けられた。見つめるその一点の先には何やら黒い小さな点がワラワラとこちらに向かって来ているのが確認出来た。カラスではない……両目の望遠機能で確認すると──、

 「航空武装隊……セッテを追って来たか」

 脱走した彼女を追って武装隊が向かって来たのだろう。あの人数を見る限りでは、この場に自分が居ると言う事実はまだ知られていないらしい。それが彼らにとっての不運だとも知らないで……。

 「丁度良い。あれを、試すか」

 右手の指に指輪型となって待機していたマキナが再び起動し、黒いレイジングハート・エクセリオンの形状となってトレーゼの両手に収まった。周囲の警戒の視線が一斉に彼に注がれるが、如何せんその間をセッテが死守している所為で手出し出来ず、当てずっぽうに撃ち出した弾丸も全て分解され吸収されるに終わってしまった。そして、そんな無駄な抵抗を続ける敵を放置し、彼は三叉の切っ先をこちらに向かって来る武装隊の一団に向けた。

 「マキナ、高濃度魔力圧縮バレル展開。同時に、DMFを最大出力で、周囲に発動」

 『Yes,my lord. Exceed Charge.』

 杖先に環状魔法陣が三本展開され、トレーゼの足元にも真紅のミッド式魔法陣が出現する。それと同時に、それまで必死の抵抗を続けていたティアナ達にも異変が現れ始めていた……。

 「こ、これは……! 一体……!?」

 「魔力が、根こそぎ……!」

 魔力が吸い取られている。それも尋常な量ではなく、DMFが発動すると同時に全身を脱力感が押し潰そうとした所を見ると、恐らくはリンカーコアにまで侵食している程の出力で周囲一体に展開されている事が見て取れた。発動から10秒と経たずに戦闘機人であるチンクとギンガ、ノーヴェを除いた全員が地に両膝を着き、自分の生命力を徐々に削り取られるのを感じながら意識を闇の中に封じ込めてしまった。しかしそれでも吸収は止まらず、吸い出された魔力はキラキラと輝く粒子となって宙に舞い、空間のある一点を目指して浮遊していた。その一点とは──、

 トレーゼのリンカーコア! 魔力精製及び増幅器官であるリンカーコアに集結した大量の魔力はそこで更に増殖し、腕部の魔力回路を通じてマキナへと注がれる。先端に圧縮集積された魔力が球電現象の如く蓄積し、展開されていた環状魔法陣の回転のギアが上がる。やがて真紅の魔力の塊は人間の頭大のサイズにまで膨れ上がり──、

 「魔力充填率、99.98%。相対距離、690。命中精度、誤差0.2から0.6、約97%……。行けるな、マキナ?」

 『Alright.』

 「なら、問題無い」

 航空隊の一団に向けて杖先を構え直し、彼はトリガーに指を掛けた。

 「あ、あれは……」

 ティアナには見覚えがあった……今トレーゼが放とうとしているこの魔法、自分の師である砲撃の天才が幼き日に自ら編み出したとされる、彼女の知る限りにおいては最強の集束砲撃魔法……いや、違う! これはあの魔法とは違っていた。

 「スターライトブレイカー……その発展形……ナノハ・タカマチですら、完全には実現出来なかった、集束砲撃の真髄を、見せてやる」

 杖の先端に三枚のエネルギー翼が発生し、遂に魔力のパワーが最高潮に達した。

 「スターダスト……デヴァステイター」

 『Stardust Devastater.』



 この日、上空で花火の如く爆散した凶暴極まりない輝きはクラナガン全域で視認され、天体観測所ではマイナス27等星の光を放つ太陽よりも多くの光を放っていたと観測された。










 結論から言えば、八神はやては生きていた。しかし、その状態を語る前に『辛うじて』と言う前置きが要る状況ではあるが……。

 「ごほっ……が、ウゥ、がは!」

 運行が途絶えた線路の上で彼女は激痛に身悶えていた。周囲のレールや枕木は彼女の脇腹から流れ出す血液で生々しく陽光を照り返しており、彼女の体が横たわっている場所には既に小さな血溜まりが形成されるほどの血が出ていた。このまま何の処置も成されずに放置されれば当然彼女の命は危ういが、そこは仮にも幾つもの修羅場を潜り抜けているだけあって、すぐに負傷箇所に魔力を流し込む事で細胞の活性を促して傷口を塞ぎにかかった。行動が早かったお陰で今の時点で出血は収まる兆しを見せており、なんとかすれば上体を起こせるまでには回復する事が出来た。

 だがゆっくりはしていられない。さっき空を覆った紅い光……空そのものが劫火で焼けた様な禍々しい光が街の方から見えた。恐らくでもなくとも、あのトレーゼが暴れているのだろう。今まで自らの存在をひた隠しにして来た彼が今更そんな事をして何を考えているのかは分からないが、作戦が失敗に終わった以上はいつまでも放置してはおけない。しかし、傷口を塞いだだけであり、貫通創である為に内部はまだ完全に修復出来ておらず、飛行をするにはまだ支障がある状態なので大人しくヘリを待つより仕方なかった。一応ヘリに居るヴァイスに安否報告を入れておこうと回線を開き、映像を繋いだ。

 「こちら八神はやて二等陸佐……なんとかやけど、一応生きとるよ」

 『単身で殴り込みに行った割には手酷い姿じゃないかな、二佐? 私は止めたはずだよ?』

 間髪入れずにスカリエッティの嫌味な声が届いて来るが、今はそれだけでも生きていると言う事が実感出来た。脇腹を手で押さえつつ下半身の力だけで端へ移動し、そのまま背を預けて一息入れる。

 「ヴァイス陸曹、さっきのあれ見たやろ?」

 『は、はい! 何なんすかあれは! 空がバァーッて真っ赤に……!』

 「多分、敵さんの撃った砲撃魔法……それも広範囲に効果をもたらす爆撃作用付きのでっかい奴やろな……」

 『発射予測地点の割り出し完了! って、これ思い切り街のど真ん中じゃねーかよ! あんなもん街中で撃ったら……』

 「落ち着き。空が真っ赤になったって事は、上空に向けられて撃たれとる。空に上がったらあかん! ヘリの高度を落とすんや!」

 『りょ、了解!』

 あれだけの砲撃が上空で炸裂したと言う事は、敵の視線はまさに空に向けられているはずだ。そんな所へ障害物の無い高度をヘリが一機で飛行していれば鴨討ちも良い所、撃墜されれば落下地点にも被害が及んでしまう。

 「エリオ達は?」

 『生存報告あり。後でフリードに乗っかってこっちに向かって来るそうっす!』

 良かった……あの小さな騎士達も無事だったようだ。生きていたと言う結果だけ見れば、あのトーレの予見もあながち的外れではなかったようだ。だが問題はある……餌であるウーノをまんまと奪取されたのだ。この作戦は如何なる損害を出そうとも、ウーノを死守すると同時に“13番目”を封じ込める事が出来たらこちらの勝利となるはずだった。それがまさか最悪なパターンに転がり込んでしまうなどとは……。

 「くっ!」

 自分の血で濡れた線路を憎らしく睨みつけるはやて。上りの貨物列車と下りの回送リニア……二つの車両の相対速度は時速200㎞超過、それが真正面から衝突したとなれば相当のエネルギーが衝突面から弾け飛んだと言う事になる。相手はその衝突時のエネルギーと、車両全体への衝撃の伝播具合を利用したのだ。複数の車両を連結したリニアが障害物と衝突した場合、先頭車両はほぼ例外無く後続車両からの運動エネルギーによって圧壊するが、二両目もしくは三両目は先頭が衝突した時に発生する反発力と後続からの慣性が合わさる地点である為、最も力場が集中するポイントとなる。今回の場合、正面衝突によって発生したエネルギーによって車両が浮き上がり、後は重力に従うままに高架線へと落下したと言う事だ。普通、どんな頭のキレる輩でもここまでの無茶はしない……それも計算込みでやるとなれば相当の博打打ちとなる。

 だが相手は普通ではないのだ。

 『ところで、こうなったからには何かしらの手は打ってあるのだろうな、八神二佐?』

 「…………一人……一人だけ、陸士部隊から融通してもろた隊員がおる。今現場に急行しとるはずや」

 『その陸士隊員が如何ほどの実力の持ち主かは知らないが、単騎で向かわせると言うのは幾らなんでも無茶が過ぎないかね? 君ですら深手を負わされたのだよ?』

 「何言うてん……義理やけど、私の弟やで……信用し。あー……陸曹、本部に連絡取って資料請求してもらえる?」

 『何の資料ですか?』

 「…………始末書。作戦失敗の責任取らなアカンやろ?」










 「そう言えば、どこかで、見た顔だと思っていたんだ、貴様ら」

 不意にそう言ったトレーゼの視線は以外にも、セッテ相手に善戦する二人の捜査官に向けられていた。私服でカモフラージュしているその姿に見覚えがあるのか、しばし凝視した後に……

 「あぁ、貴様ら確か、あの駅に居た、覆面局員か」

 「なっ!? どうしてそれを! まさか、あの時あの場所に……!?」

 「お前も、あそこに居たのか、ランスター。丁度良い……セッテには、悪いが、ここで始末させて、もらおう」

 そう言って彼は自分の右手をゆっくりと上げた。親指と中指で輪を作るように構え、中指の筋肉を最大限に緊張させて放つのは……

 指鳴らし。乾いた破裂音にも似た音が彼の右手から響いた瞬間、それを合図に二人の捜査官の体に撃ち込まれていた魔力片が体内で異常増殖し、魔力回路を一瞬で焼き切りながら全身を駆け巡った後、人体で最もデリケートな部分が詰め合わさった頭部に到達し──、

 ボンッ!

 水風船が割れるような感じで彼らの頭が粉微塵に内部から吹き飛んだ。骨片と血肉がドバドバと周囲に散乱し、四つの眼球が地面に落下して潰れてガラス体が滲み出る。

 「悪いな、セッテ。お前の相手、先に始末した」

 「いいえ、問題ありません。最初から彼らなど眼中にありませんでしたから」

 「なら良い。さっさと、No.5とゼロ・ファーストを、排除しろ。ランスター程度なら、いちいち警戒しなくとも、始末出来るな?」

 「そこで見ていれば分かる事です」

 互いに軽い憎まれ口のようなものを叩き合いながら兄妹は再びそれぞれの持ち場に着き直った。セッテが屠殺し、トレーゼがそれを静観しながらウーノを守護する……いや、実際は違う、彼は何かを待っていた。既に航空部隊を殲滅したにも関わらずその視線は時折上空を見上げてはしきりに何かを探しているようであり、いずれ来るはずの何かを待っているようでもあった。始めは作戦指揮を執っているヘリが向かって来るのを待っているのかとも考えたティアナだったが、彼の見上げている方向はそれとはまるで逆の方角なので不自然だった。追加の航空戦力の迎撃……? 否、ウーノを手中に入れた今となっては、これ以上ここで長居する理由がそもそも無いはずだ。となれば、敵以外で空からやって来る『何か』を待ち構えている……自分の利益を生んでくれるその『何か』を。

 「あんた……一体何考えてんのよ!?」

 「思考もせずに、すぐ疑問を他人に、投げ掛ける……脳の表面積が、狭い人間らしい、行動だな、ランスター」

 そう言ってまた視線が上空に注がれた。どうやら本当に何かがこちらに来るのを予見して、それをここで待ち構えているようだ。つまりそれは──、

 目的のモノが来るまではここを動かないと言う事でもある!

 ここを動けないと言う事であれば仕留める確率は例え微々たるものであったとしても上がる……ならばその小さな好機を逃す事は出来ない。倒せずとも、せめて奴からウーノを奪い返す事が出来れば……。

 そう考えたティアナの行動は早かった。セッテの目が自分に向いていないのを良い事に、持っていた銃器型デバイスのカートリッジを連続ロードして魔力を充填……イチかバチかの博打に打って出た。慣れたクロスミラージュではない上に銃口は一つしかないので威力は望めないが、彼女の熟練した技術を以てすればこの名も無いストレージデバイスであっても最大攻撃魔法を放つ事は可能だろう。そう、師の高町なのはから受け継いだあのスターライトブレイカーをこの至近距離で放とうと言うのだ。

 「お願い……気付かないで!」

 トレーゼの視線は上を向き、セッテはチンクとギンガが引き付けてくれているので完全にこちらに注意を向けられない状態……このチャンスを逃す訳には行かない。魔力充填率は六割と言った所だ。通常の相手であればこの程度でも充分過ぎるぐらいの威力が望めるが、相手が相手なので念を押すに越した事は無い。遂に魔力充填が七割を突破した時、トレーゼの視線が地上に戻される兆しが見受けられた。これ以上の充填はあちらに気付かれてしまう……ここが限界だ。

 「っ!?」

 阿吽の呼吸でギンガとチンクが距離を置いた事で、それまで戦闘に没頭していたセッテはその時点でようやく自分が射線上に誘導されていた事に気付いた。すぐさま回避行動を取ろうと両足に力を入れるが──、

 もう遅い。

 「ブレイカァァァァァァッ!!」

 オレンジ色の魔力の奔流が銃口から放たれ、セッテの肉体と真正面から激突した。辛うじて障壁を展開して防いでいるようだが、タイミングが悪かった……放射される魔力が防御のエネルギーを上回っている事は最早誰の目から見ても明らかで、そのまま彼女の体を突破するのも時間の問題のはずだった。

 だが──、

 「く……ぐぐっ、ぬああっ!!」

 何故耐えられる!? 充填が完璧では無かったとは言え、エネルギー比率はティアナの方が上だったはず。それを真正面から受けているにも関わらず、セッテはその場から一歩も退こうとする気配を見せなかった。両足に力を入れて大地にしがみ付き、必死の形相で凶暴な砲撃を全身で受け止めているのだ。やがて銃口から魔力の放出が止まり、結局彼女は最後まで片膝すら地に着けずにその場で全てのエネルギーを防ぎ切って見せたのだ。呆れる……いくら戦闘機人とは言えどもあれだけの攻撃を逃げもせずに真っ向から受け切るなど、到底考えられる事ではない。腕にしていた時計は弾け飛び、服の端々も焦げて素肌を晒してしまっている箇所があるのに彼女は一歩も動こうとしなかった……一体何故だ?

 答えは彼女の背後にあった。

 「耐えたか……流石だな、セッテ。身を挺して、俺を守るとはな」

 トレーゼ……セッテが一歩も動かなかったのは、自分の背後に居る自分の兄を守っていたのだ。リニアの残骸の上に腰掛ける彼は一切の防御体勢を取っておらず、始めからセッテが自分を守護してくれる事を踏んでいたのだ。ふと、重い腰を上げた彼は満身創痍になったセッテの背後まで来ると……

 「良くやった……流石は、俺の妹だ」

 その背中を優しく撫でた。彼が自分の同族だと認めた者にのみ掛けられるその柔らかい言葉を背に受け、セッテは遂に緊張が解けて膝を着いた。トレーゼは外し取ったシルバーケープを脱力した彼女の背に掛け、そのままゆっくりとティアナ達の所に向けて歩み出した。遂に敵の親玉が自ら動き出したかと身構える彼女らだが……

 「トレーゼっ!!」

 いつの間に正気を取り戻していたのか、下がらせていたはずのノーヴェがトレーゼの前に駆け寄っていた。まだ涙の跡が残る泣き腫らした顔で彼女はトレーゼの胸倉を掴んで必死に叫んでいた。

 「なんでっ、何で騙してたんだよぉ! どうして……いつも何も言ってくれないんだよぉ!!」

 「……………………」

 「答えろよ! なぁっ! 返事してくれって────」

 「鬱陶しいんだよ、いい加減」

 反論の声はノーヴェの口からは出なかった。代わりに聞こえて来たのは、喉を握り潰さんばかりに締め上げられた事による呻き声が途切れ途切れに聞こえて来るだけだった。

 「ノーヴェ!」

 ギンガがすぐさま助けに駆け付けるが、その足元をセッテが光弾で牽制して近付けさせない。それはチンクとティアナに対しても同じ事で、三人は黙ってノーヴェがいたぶられる様を見ているしか出来なかった。金属の脊髄が埋め込まれているはずの喉が剛腕に捻じ伏せられて形を変える様は見ていて決して気持ちの良いモノではなく、徐々に気道が閉ざされる感覚にノーヴェ自身も無意識に酸素を求めて息を荒くしていた。

 「貴様、まだ俺の事を、『良い人』だとか、思っているんじゃなかろうな? だとしたら、お笑いだな」

 「ト……レーゼぇ……!!」

 「目の色を、見れば分かる。貴様が、まだ俺に期待して、いるのがな。せめて、芯だけは、残しておいてもと、思ったが……どうやら、精神そのものを、粉砕した方が、良いらしいな」

 苦しみに喘ぐノーヴェを顔を首を絞めたままぐっと自分の方に近付ける……その瞬間、彼の足の下に紅い疑似魔法陣が出現した。彼の持つ十五の特殊技能の何かが発動したのだ。そしてその能力を目の前の哀れな妹に対して行使しようとしている……。何かヤバいものを感じ取ったのか、ティアナ達三人はセッテの牽制を潜り抜けようとして一斉に走り出した。

 「させないっ!!」

 チンクの鋭い投擲によって一本のナイフがトレーゼの顔面に向けて飛翔した。コースはノーヴェの右耳を僅かに逸れる形でトレーゼの顔面に続いている……セッテはそのナイフに手を伸ばすが、柄の短いスティンガーを掴み取る事は至難の業だ。

 だがコースは分かっている。手で掴むのが無理ならば──、

 「うっ……!」

 ナイフの刃は差し伸ばされたセッテの右手の平に深く突き刺さり、その動きを止めた。だが先のティアナの砲撃の余韻がまだ残っているのか、そのまま彼女は刃の突き刺さった右手を庇いながらまた地に伏した。

 「何してんの! 早く起爆させなさい!」

 「しかし……!」

 チンクの金属物爆破の能力を用いれば、セッテの手に刺さったナイフを爆発させる事は容易い事……起爆させた瞬間に右腕が吹き飛ぶ事は避けられないだろう。だが短い期間とは言え自分の妹として接していた者の腕を奪うと言う行為を、チンクは内心では避けようとしていた。ただ一回、軽く自分の指を鳴らすだけで簡単に吹き飛ぶ腕一本……セッテを止める為にはそれしか無いと頭では理解していながらも、優し過ぎるその情が最後の一手を邪魔していた。だがここは身内の情念よりも大義が優先される場だ、ティアナの怒号に後押しされるように彼女は自分の右手を上げ──、

 ──パチッ!

 乾いた音が響いた……指の先で回転している疑似魔法陣から発せられた信号がナイフに届けば、瞬時に分子構造が変化して爆発物へと姿を変える……そうしてセッテの右腕は木端微塵に……

 「起爆……しないだと!?」

 「そんな……っ! そんなバカな事が!」

 否、爆発などしなかった。

 チンクが何度指を鳴らそうとも同じだった、しっかり疑似魔法陣が展開されてISが発動されているはずなのに、セッテの手に刺さったナイフは全く爆発する気配を見せていなかった。まさかISの不調? いや、ISは魔法と同じで術者の体調やモチベーションが著しく低い場合でない限りは発動に支障が出ないはずなのだ。そうこうしている間にセッテが刺さっていたナイフを引き抜き、自分達の目の前にもう一度立ち塞がった。そんな妹に満足気な視線を送りながらトレーゼは鼻先でチンクを笑う。

 「馬鹿が。そこで、見ているんだな……自分の愚妹が、心身ともに、砕け散る瞬間を」

 疑似魔法陣の光が強くなり、目も開けていられなくなるにまでなった。

 「あ……あぁ、あああっ」

 「受け止めろよ? ここまでするのは、貴様が初めてだからな……俺自身、どうなるか分からん」

 そう言ってトレーゼは更にノーヴェとの距離を縮め始めた。

 やがてその相対距離は吐息を肌で感じる隔たりを越え、前髪が触れ合う距離と額がぶつかる幅を同時に通り越し──、



 互いの唇が触れ合った。



 涙で湿ったノーヴェと鉄面皮の渇いたトレーゼ、両者の唇がぴったりと確かに触れ合った瞬間、二人の足元で回転していた疑似魔法陣の回転数が急上昇し、既に眩いその魔力光がさらにその輝きを増した。黒いアスファルトも、茶色い街路樹も、灰色のビルも、青天の空でさえもがその狂気の紅に侵食されて全て同じ色に染まり上がった。その中心に居る二人は固められたように微動だにせず、ただそこで無防備に立ち尽くしているだけだった。

 「ノーヴェええええええっ!!」










 気付けばノーヴェはこの世ではない場所に居た。別に冥土とか死後の世界と言う奴ではない……ただ単純且つ漠然と、ここが現実世界ではないと言う事を無意識に理解していた。簡単に言えば夢を見ている状態だ。凄まじくリアリティに溢れる世界だが、見ているこちらからはそれが夢だと分かってしまうあの感覚に似ていた。

 「どこだよここ? あたし何でこんなとこなんかに……」

 一面真っ白、見渡す限り無色純白の空間に彼女は一人だけで突っ立っていた。風も吹かなければ音も聞こえず、そして白いこの空間を満たしている光すらどこから来たものなのか分からず、彼女はその場に立っていた。どうして自分がこんな殺風景な場所に居るのか、あるいは連れて来られたのかも分からないままに……。

 「そ、そうだ! トレーゼ、トレーゼはどこに居るんだよ!」

 ついさっきまで自分の目の前に居た少年の姿が消えてしまっている事に気付き、彼女は周囲を見回した。だがいくら辺りを見回してもトレーゼの姿は確認出来なかった。

 「何だよ……何なんだよ! どこなんだよここはぁ!!」

 抜け口も道も無いただただ平坦なだけのこの空間に囚われた彼女の精神は徐々に理性と冷静さを欠き始めていた。このままここに居ては自分の心が保てない……焦りを感じていた彼女は必死になってここから抜け出る方法を探していた。

 ふと──、

 そんな彼女を嘲るように、どこからともなく……

 『ここがどこかなんて、分かり切っている事を聞かなくても良いだろう』

 声。

 この声には聞き覚えがある……いつものあの途切れ口調ではないが、何の感情も感慨も込められていないこの声の主をノーヴェが聞き間違えるはずもなかった。

 「トレーゼ!? どこに居るんだよっ、なぁ!」

 『どこも何も、ここは貴様の中だ、他に行ける所などどこにも無い』

 「あたしの……中? 一体、何言って……」

 『無駄話は無用だ。来るぞ』

 その言葉が言い終わるか終わらぬ内に、この白い世界にある一つの“変化”が現れた。否、ただ口で一言に変化と言い表すには生温いモノが、彼女に押し迫って来たのだ。

 そう、迫って来た!

 「何だよ……あれ」

 ノーヴェの視線の先、白い世界の遥か彼方にある地平線らしき線の更に向こう側が──、

 紅かった。夜明けの大地を照らす朝陽の輝きと違って禍々しく、かと言って災禍の大火の揺らめく陽炎とも違う神々しさを秘めた真紅の光が……その向こう側から彼女に津波の様に押し迫って来た。

 「うああぁ、あぁあああぁ!!」

 空を、大地を、気流でさえもその色に蹂躙しながら、まるで山火事の炎が朽木を簡単に燃やすようにして瞬時に彼女の面前にまでやって来た。彼女の小さな体はその暴力的な紅い波に呑まれ、遂にこの空間から白い部分が完全に消え去ってしまった。何もかもが血のように、炎のように、全てを塗りつぶした紅の色の餌食となって消えてしまった。呑まれた瞬間に彼女が感じたのは焦りと恐怖……紅い波が打ち付ける度に感じるのは、自分の中の何かが音も無く崩れて消え去る様な不気味な感覚、自分の中の大切なモノが根こそぎ凌辱されるその感覚に彼女は恐怖した。

 「やめ、やめろ……やめろぉおおおおおおおおおおおおおぉっ!!」

 膝を屈して地に伏せるノーヴェ……そんな彼女の叫びもその流れの中に消え、小さくなった彼女の体もその流れに埋もれていった。抱えた頭を何の意味も無く必死に振り回して何かを振り払おうとするが、彼女を苛む『何か』は更にその勢いを増し、その精神を……心を踏み躙って行った。

 「あたしの……あたしの中に、入って来るなぁあああああああああっ! あたしの心を汚さないで!!」

 『無様だな。No.9』

 蹲っていたノーヴェの前に人影……紅い光を背に立っているその者は、紛う事無くさっきまで彼女が探していたトレーゼだった。こちらをただ無感情な冷えた目で見降ろし、何か汚いゴミか小さな虫を見つめるような視線を弱々しくなったノーヴェに向けていた。

 『分かっただろう? 俺の中に貴様と言う存在は、最初から居なかったんだよ。この俺の本質を受け入れられないのが何よりの証拠だ。全部貴様だけで盛り上がっていた一人芝居……もう邪魔なだけだ』

 トレーゼの右手がノーヴェの頭に触れられた。それは決して優しいモノではなく、その手はそのまま彼女の頭を──、

 粉砕した。

 ノーヴェの体にガラス細工のようにヒビが入り、徐々に形を失い遂には砕け散って形を無くした。



 この日、ノーヴェ・ナカジマの心は徹底的に否定された上に凌辱され、その脆弱な心は死滅してしまった。










 ノーヴェが、自分の妹が拘束を解かれ地面に倒れるまでの瞬間を、スバルはずっと車内から見ているだけだった。飛び出そうと思えば飛び出せた、もう既に車内には自分を見張っていた捜査官は居らず、左手でドアを開けるだけで簡単に出られるはずだった。

 だが彼女は出ようとはしなかった。砕け散ったフロントガラスの破片が散乱する座席の陰で、身を竦ませてじっとしているだけだった。

 別に怖いわけじゃない……例え怖かったとしても、自分の身内が惨い目に合っている事を考えればそれは大した事ではない。かつてギンガが拉致された時に頭に血が昇ったのと同じように、今もノーヴェが虐げられたのを見てその心に沸々と怒りの火種が燻り始めたのも事実だった。

 しかし、結果的には助けに行けなかった。

 いや……行けなかったと言うより、『行かなかった』と言い表すのが正しかった。彼女は無意識に自分の義妹を助けに行く事を自ら拒んでいたのだ。

 彼女がそうしなかった理由の一つに、この間のトレーゼとのやり取りが影響していた。相互不可侵の取引……互いに干渉せず、そして何の利害のやり取りもしないと取り決めた契約の所為で、彼女はトレーゼの前に出る事を躊躇ったのだ。普段のスバルであればその様な脅迫に屈する事は無いだろうが、相手はあのトレーゼだ……彼を敵として認識するのに、彼女の心には戦いを拒絶するだけの情が生まれてしまっていたのだ。

 そしてもう一つ、これも非常に個人的……いや、考え方によってはこっちの方が個人的な理由だと言えよう。彼女は自覚していないのかも知れないが、彼女の中にあるノーヴェに対する感情の一つが、その行動に自制を掛けていた。

 嫉妬。

 恐らくこの世で最も浅ましく、最も卑下たる感情でありながら、どんな清らかな者の心の中にも必ずある悪徳の心。

 トレーゼとノーヴェが互いに密接に接触したのはここからも見えた。紅い光に包まれ、それから五秒も経たずに首を離されたノーヴェが倒れる瞬間までの様子をスバルはずっと見ていた。あれを見た時、彼女は自分の胸の内に何か強い意思を持つ何かが込み上げて来るのを感じて、それが彼女の足枷となったのだ。何で自分が行けなかったのかは自覚しない限りは決して分からないだろう。

 「どうしちゃったんだろう……私」

 分かろうとしない気持ちがあるのも気付かないまま……。










 「急いでフリード!」

 切り離された車両を放棄したエリオ達はフリードの背に乗って上空を移動していた。三人乗りの脇を並行にガリューも飛行しており、三人と二頭は紅い光が上がった場所へと急行していた。ヘリに居るヴァイスからの報告でリニア同士が衝突し、それが高架線下の街道に落下したと言うところまでは聞き及んでいた。これ以上街の一般人達に危害が及ぶ前に対処しなければ……その一念が彼ら三人を突き動かしていた。

 動きが遅いフリードの代わりに先遣としてルーテシアがインゼクトを放っており、現在その蟲から送られて来る情報を元に敵の動きを確認していた。ホログラム映像の画面に出たレーダーを見ると、一際強い魔力反応の周囲に魔力資質を持った人間が全部で三人と、リンカーコア反応はあるが資質を持っていない者が四人、そして最も離れたポイントで様子見を行っている者の反応が一人分……敵を含めて計九名の存在が確認されていた。街の者の反応は迅速な行動を取ってくれたのか周囲には無く、既に避難は完了しているようだった。

 だが、ここでレーダーに変化が現れた。

 「何だろう、これ? 何かが移動してるみたいだけど……」

 レーダーに突如映り込んだ移動する熱源……始めはヴァイス達の乗るヘリが接近しているのかと思ったが、方角はまるで逆であり、それらが一斉に三つも迫って来ているのだ。

 管理局の航空戦力? 否、相手が魔力資質を持っている相手と言う情報は伝わっているはずだ。部隊を送るなら空戦可能な魔導師部隊を送り込んで来るはず……。

 「まさかっ!?」

 エリオの一瞬の閃きが全ての解を導き出した。敵の真の目的を彼は究明したのだ。

 わざわざリニアの落下地点を街中にしたのも恐らくは……。

 「早くしないと……!」










 「ノーヴェに何をした!」

 解放されたノーヴェはどこかおかしかった。全身をガクガクと痙攣させて力が抜けたまま意識がはっきりせず、両目の焦点も合っていなかった。半開きになった口は打ち揚げられた魚のように締まったり緩んだりを繰り返し、だらしなく流れた唾液がその身を支えてくれているチンクの腕を濡らした。完全に廃人状態……もはやその肉体と言う器にまともな精神が入っているかどうかさえ怪しくなっていた。

 「別に……ほんの少し、精神の中枢を、折ってやっただけだ」

 「貴様ぁ!」

 「悪いが、貴様と長話している、暇は無い…………もう、時間だ」

 冷やかな一瞥を送った後、トレーゼは上空を見上げた。真冬の快晴の空には雲一つ無く、肌に痛い寒風が吹き荒れていた。いや、良く見れば空には雲ではないモノが映り込んでいた。

 「あれは……」

 ヘリだ、三機のヘリがまっすぐこちらに向かって飛んで来ているのだ。管理局が所有している輸送用の大型ヘリではなく、プロペラが一組しかない民間で良く見かける通常のヘリだった。

 「民間用…………そうか、そう言う事だったのね!?」

 こちらに向かって飛んで来るヘリを見たギンガの頭に閃いたモノ、それは敵の真の目的。わざわざリニア落下地点を街の真ん中になるように計算した上に、その気になれば自分達を蹴散らせるだけの実力を持ちながら長時間に渡ってこの場に留まり続けて一般人を無作為に殺害したその本当の理由……それがようやく分かったのだ。だがここで恐ろしいのはその目的の内容ではなく、その計算高さ……我が身を姉の身を危険に晒してまで本懐を成し遂げるその豪胆さ……肉も切らせず相手の骨は愚か、その髄まで抉り取って行く戦法、否、殺法とも言うべきそのやり方にギンガは人知れず恐怖していた。

 「ではな、チンク、ゼロ・ファースト……いずれ、また……」

 そう言ったトレーゼは地面からゆっくりと浮上して空へと上がった。セッテは兄の姿を見送り、残骸の中に隠れたウーノも弟の行動をただ見守るだけしか出来なかった。後に残されたティアナ達三人も成す術無く彼の行動の一部始終を歯噛みしながら静観しているしかなかった。

 そんな眼下の者達に一切の関心を向ける事無くトレーゼは悠然と浮上を続け、遂に周囲のビルよりも高い位置にまで到達した所でそれを停止、足元に疑似魔法陣を展開させた。別にISを発動させている訳ではなく、これはあくまで視覚効果……ただのエフェクトに過ぎなかった。

 誰に対する? そんなもの決まっている。



 マスメディアだ。










 「えー、番組の途中ですが、ここで緊急速報です。さきほど午前11時10分前、クラナガン西部の商業地帯にて発生したリニア衝突事故のニュースが入って参りました。現場中継の映像を回してもらいましょう」

 『はーい! こちら事故現場の上空です! えー、御覧の通り、高架線から落下したリニアが地面に当たってグシャグシャに潰れております! 一台、二台……全部で四台分の車両が落下しております。災害救助隊はまだ出動していないのか、現場に既に人の影は無く────いえ、ちょっと待ってください! カメラ、カメラこっち向けて!!』

 「ん? どうしました? 映像が乱れているようですが……」

 『人ですっ! ヘリのすぐ下を人が浮いています! 魔導師隊の……いいえ、違います!! これは──!』

 「カメラさーん? ノイズがちょっと激しくて映像が上手く流れてませんが……?」

 『────────ザザッ────ガーッ────!』

 「砂嵐ですね~。映像が回復してから後ほどお伝えしましょう。それでは、引き続き番組をお楽しみ────」



 『ミッドチルダの諸兄、御機嫌よう』










 「本日は、平和な日々をお過ごしの、皆様方にご挨拶と同時に、この場を借りてでしか、挨拶出来ない非礼を、詫びさせて頂きたい。既に、この映像は、テレビを始めとした、各情報媒体に向けて、全世界同時発信されている……誰もが、皆等しく情報を、手にする事が、可能となっているので、ご安心を」

 事故現場を追って飛んで来たヘリ……その内の一機の内部に大胆不敵にも侵入したトレーゼは同席していたカメラマンとキャスター、そして操縦席の人間を脅して堂々とその座席に乗り込んで膝を組んで座っていた。カメラをしっかりと自分の方に向けて一言も喋らないように圧力を掛け、自身はレンズの先に繋がっているクラナガンのテレビ局に向けてメッセージを伝えていた。

 「さて……私の姿を見て居る、皆様方の中には、この姿形に、見覚えがあると言う方も、いらっしゃるかと存じます。あるいは、管理局勤務の方は、説明しなくとも、充分承知かと」

 親指で自分の防護ジャケットを指し示しながら、彼は凍り付いた鉄面皮でその先を続けた。

 「そう、かつて三年前、このミッドを震撼させ、管理局のかざす正義の、名の下に厳罰に処された、稀代のマッドサイエンティスト…………ジェイル・スカリエッティの、戦闘機人集団、『ナンバーズ』の、最後の一人であります。私の言葉に、嘘偽りが無い証拠として、これを御覧になられれば、よろしいかと」

 そう言って指先に浮かぶのは疑似魔法陣……特殊能力を授けられた戦闘機人にのみ備わるその輝きは、例え民間人には馴染みが薄くても、これを同じように見ている管理局員には充分な物的証拠の証明となり得た。これで世間は彼をナンバーズの名を借りただけの陳腐な愉快犯ではなく、確かにかつて最悪の事件を起こした集団の一派であると言う事をはっきりと認知しなければならなかった。

 「単刀直入に、言いますが、このリニア衝突事件……そして、落下付近の、無差別大量殺人の全ては、私が単独で実行したものです。リニア衝突は、同胞を救う為……落下後の殺人は、それを実行するにおいて、必要だと判断しての、行動です。しかし、ご安心を……現在、これを御覧になっている、皆様には、何一つの被害は、加えないと、宣誓しましょう……今の内は」

 さて、と言う言葉を続け、彼はカメラマンに映像をズームするように指示した。今頃家庭のテレビの画面にはトレーゼの顔が大きく映り込んでいるはずだ。

 「ですが、ここでお伝えしたいのは、そんな事ではありません……。実は、私は今から約二週間前の、11月9日の時点で、このクラナガンに進入し、既に行動を、起こしておりました。今、先程の発言を聞いても、ピンと来ない方が、非常に多いのではないかと、予想しております。特に民間の方々は、皆無かと。しかし、それも詮無き事……民間の方々の無知は、致し方の無い事です。何故なら……」

 一拍置いて調子を合わせた後、彼は吸った息に乗せて先を続ける。

 「何故なら、私に関する情報の全ては、時空管理局の指針によって、全て黙殺されたからで、あります。11月9日の、地上本部襲撃に始まり……皆様方の、記憶にも新しい、聖王教会壊滅や、St.ヒルデ学院女子生徒誘拐事件まで……その全てが、私の犯行による、行動の結果です。だが、貴方がたはそれを、知らない……隠蔽されていたから、誰も知らなくて、当然です。管理局は、一連の事件に、スカリエッティ一派の、生き残りが、関与していると知って、自分達に非が及ぶのを恐れ、それを隠した」

 今頃地上本部の連中が情報規制に躍起になっているだろうがもう遅い、これは既にネット配信もされている上にシルバーカーテンの効果で外部からの電子干渉を全く受け付けないようにしている。十分もしない内にマスコミや民間報道企業からの情報開示を要求する電話が殺到するだろう。

 「ですが、私は決して、管理局の行為を、非難しようと言うのでは、ありません。むしろ、そんな事は、どうでも良い…………。今、この場を借りて、はっきりと、全世界に向けて、申し上げましょう。私の目的は、ただ一つ……我が創造主、スカリエッティの、全面無条件釈放、及びその肉体と精神の、完全なる解放と自由! それだけです。引き渡しは、明日の11月22日の夜、午後21時00分……北西ベルカ自治領の、自然公園の、丘陵地帯にて、身柄の引き渡しを、決行します」

 これで聖王教会の方にもマスコミがたかるだろう。

 「ですが…………仮に、局の方が、この取引を拒む時は、こちらも、それ相応の行動を、取らせて頂く事になります」

 カメラが今度は眼下の街の風景を映し出した。映像の隅にトレーゼが映っており、彼はしっかりカメラに見えるように右手を外に差し伸べて……

 紅い魔力弾を撃ち込んだ。

 ビルの一つに着弾し、あっという間に一棟が崩壊、その周辺に居た不幸な犠牲者達の悲鳴が届いて来た。それを終えると再びカメラを向けさせ、まるで何事も無かったと言うような抑揚の無い口調で先を続けた。

 「取引に応じない場合、このクラナガンは、何人たりとも生きられぬ、地獄に変貌するでしょう。そして、こちらには、そうするだけの、力があります……。これを見ている、管理局の、英断を願って、以上を、ナンバーズNo.13、トレーゼからの、宣戦布告と、させて頂きます。あぁ、それとあともう一つ……」

 ヘリを生身で降りようとしていた彼はまたカメラを強引に向けると、言い忘れそうになっていた事実を公表した。

 「かつて、三年前に作戦に参加した、私の元同胞の何人かが、犯行後に保護され、管理局の寛大な処置で、更正を受けて社会復帰を目指した事は、ご存知であると、思いますが…………実は、既に更正を終えて、社会に溶け込んでいる事を、ご存知でしたか? ですが、その事は人権問題に関わると、局は彼女らがどのようにして、社会に順応しているかを、公表してはいません。場合によっては、実刑判決を、受けても不思議ではない犯罪者が、たった三年で、貴方達の生きる社会に、溶け込んでいるのです…………それも、一言も知らされずに」

 ですので──、そう言った彼はその先の言葉を何の抵抗も無くすらっと言い放って見せた。

 「彼女らのパーソナル情報を、詰め込んだメモリを、現在これを流している、ミッドチルダ中の、放送局に送りました。今頃、届いている頃ですので、後はそれらを、どのように使って頂いても、構いません。横流しでも、公表でも、コピーしてばら撒くなり、好きにして頂いて結構です」










 「くそっ!! やられた、いっぱい喰わされたっ!!」

 管理局にある自分の事務室のデスクに拳を振り降ろしながら、いつも冷静な面持ちを崩さなかったはずのクロノ盛大に焦りを感じていた。彼の言う様に、自分ら時空管理局はたった一人の敵を相手にしてまんまと裏を斯かれ、逆にこちらの醜態を全て丸裸にされてしまったのだ。放送ジャックから数分も経っていないにも関わらず、デスクに座っている彼には各民間報道団体や企業からの情報開示を求める電話の対応についての報告が大量に殺到しており、情報規制は無意味な段階にまで来てしまっている事を示していた。これが敵の真の目的、こちらを社会的に追い込む事で余裕を無くさせるのがこの僅か二週間で“13番目”が仕組んだ戦略だったのだ。常にスキャンダルに飢えるエゴ塗れの民衆の心を巧みに利用したこの作戦に、流石のクロノ言えどもデスクの上で頭を抱えているしか出来なかった。

 「これから管理局は……一体どうなってしまうんだ!?」

 画面の向こうでこちらを見つめる金色の瞳の輝きは、まるでこちらが自分を見ている事を見透かしているような不敵な色を湛えていた。










 「ご苦労さまです」

 「ああ。慣れない、喋り方は、するものではないな……」

 本懐を成し遂げて地上に戻って来た兄をセッテが出迎えた。既に彼らの上空にはテレビ局のみならず、クラナガンに本社を置く数多の新聞社からも取材のヘリが飛び交い、乗っているカメラマンやジャーナリスト達の視線はとっくにリニア衝突事故から、突然の放送ジャックを敢行したスカリエッティ一派の生き残りを名乗った少年へと向けられていた。向けられているのは好奇の視線……彼らは民衆の代弁者、言うなればこの世のエゴと言うエゴを一気に塗り固めたような存在だ。より世間の興味をそそるモノが目の前に居るなら何を置いてでもそちらに喰らい付くのは自明の理……そして、情報を提供される側の市民達もそれを餌に熱狂するのだ。常にエゴに生きる彼らの熱を利用すれば、いずれこの情報は管理局の規制を破って世界中に広まるはずだ。

 「ウーノ、行こうか」

 「……もう、いいのね?」

 「ああ、もうここに、用は無い……。お前も、共に来い、セッテ」

 足元にミッド式魔法陣を展開して転移の準備に入ったトレーゼから差し伸べられた手……この手を握れば次の瞬間に彼ら三人はトレーゼが根城にしているラボへと転移し、首謀者らを欠いたこの空間には混乱と狂気の熱だけが残る事になるだろう。こうして彼が手を差し伸べていると言う事は彼自身はセッテを同志と認めている訳であり、セッテの方もこの手を握り返せば彼の意志に賛同の意を示したと言う事になる。彼女はほんの少しその手を凝視して考え込むような反応の後、ゆっくりと自分の右手を差し出すように伸ばし──、

 「まずいな……! セッテ、ウーノを連れて、俺から離れろ」

 折角出した腕を払われ、セッテは背中を押されるままに姉のウーノの所へと突き出された。顔色には出さないが今のトレーゼが焦っている事ぐらい彼女にも分かっていた……でなければ真っ先に姉と妹を庇うような行動を彼が取るはずが無い。しかも彼は自分から距離を置くように言った。これは即ち、これから迫り来るはずの脅威が彼の付近で発生すると言う事でもある。ここまで彼の様子に焦りが見て取れるのは異常な事だ。彼に不安を感じさせる程の脅威……一体何が起ころうとしているのか興味があるが、ここを離れろと言われたセッテは余計な事は考えずにウーノと共に彼から距離を置いた。

 「どこだ……どこに居る…………」

 トレーゼが感じていたのは視線……遠くから自分達を監視している確かな視線だった。途中から加わって来た気配だったのなら彼もここまで警戒する事は無かっただろう。彼の警戒心をここまで駆り立てている要因は二つ……一つは、自分が今まで気付けなかっただけでその気配が実はずっと前から向けられていた事。遠くに身を潜めている事を差し引いたとしても、常人とは遥かに掛け離れた索敵性能を誇るはずの戦闘機人の網にそれまで引っ掛からなかったと言う事は、こちらの索敵網よりも相手の隠密性が上回っていると言う事実に他ならない。今まで不意討ちをしてこなかったのが不思議だが、更なる問題はそれ以外のもう一つの要因の方にあった。敵の気配が一人分しか感じられない。まさかこれ以上の隠密行動が出来る者は居ないだろうから、本当に相手は単独でここへ来ていると言う事になる。こちらの実力を知らないでもないだろうに。

 だがしかし、現に相手は一人……遠過ぎてどこから見ているか気配だけでは分からないが、殺気を感じさせて来たからには確実に仕留める為に動き出したはずだ。相手が本格的に攻撃を仕掛けて来る前にこちらも奴を発見しなければ!

 そう思って彼が両目の望遠機能を使用しようとした時──、

 「……?」

 自分の足元のアスファルトに亀裂が走っているのを見つけた。別に単に亀裂が入っているだけなら気にも留めなかっただろう、リニアの落下した衝撃で辺りの地面には大抵ヒビや亀裂が走っているから。だがここで彼が気になったのは……



 どうして自分の足の裏を基点として亀裂が走っているのか、であった。



 「…………存外、なかなかやるな」

 そう呟いた次の瞬間、トレーゼの体は上から落ちて来た見えない力に押し潰された。










 「……………………」

 目標からおよそ1000メートルも離れた地点で隻眼の双剣騎士カインは敵の押し潰しに掛っていた。そう、押し潰し……宇宙と言う絶対の空間に存在する天体が持っている根源の力、重力を利用した彼にしか出来ない抹殺方法で敵を倒そうとしていた。局部的にその周囲一帯の重力をゼロからほぼ無限大近くにまで調整できる彼のレアスキルは、現在20Gの重力をトレーゼの真上に掛けていた。人間は5Gか6Gで気を失い、特殊な措置をしている場合にのみ限って10Gの瞬間重力になんとか耐えられる。だが今カインが行っている重力増加度はその限界値の二倍……戦闘機人でなければとっくに圧壊していた頃だ。

 本当はその傍に居たウーノやセッテもろとも潰すのが本来彼に課せられた任務だったが、術式を発動させる寸前にこちらの殺気を読まれてしまったのか、二人に距離を取られてしまった為に結局トレーゼ一人しか狙えなかった。だがこの任務の抹殺優先度で言えばその方が良いのは分かっている。

 「……………………っ!」

 更に重力を30Gにまで引き上げた。なんとか地に両手が着きながらも踏ん張っていたその体が一気にカエルを潰したように扁平に広がった。生命反応はまだあり、絶命するにはあと少し時間を掛ける必要があると見たカインは更に重力を上げようとした。

 だが──、

 「…………?」

 おかしい、一度は無様に地に伸びたはずの奴の体が再び立ち上がろうとして四肢に力を入れているのだ。筋肉を緊張して膝と肘を折り、ゆっくりと、しかし確実に天体の重力に逆らっているのだ。有り得ない……重力の調整を誤った? それは無い、この重力操作のレアスキルはカインの意思、指一本で発動出来るのだ。現在の重力度は紛う事無く30……小動物ならとっくに煎餅になっているはずの加重だ。

 だが現に相手は生きている。そればかりか、こちらの力に屈する事無く立ち上がろうとしている始末だ。

 「ッ!!」

 重力を遂に50Gに引き上げた。50だ! 木星の表面重力の二倍以上の重力をまともに受ければもはや原形を保っている事は不可能のはず! アスファルトの地面が円形に陥没し、断面から飛び出した水道管からの飛沫が周囲に飛び散る様子を遠目で確認しながらカインは対象の絶命を確信していた。死んだと思いたかった。

 だが、この後すぐ彼は自分のしていた行為が無為に終わった事を悟ってしまった。



 『もう、アレは人の形をした別のモノだな。と、我がマスターは申しております』










 急に目の前の地面がごっそり陥没した時、セッテは自分の兄の死を予見していた。一体どんな攻撃魔法が飛んで来ているのかは知らないが、天から繰り出された目に見えない鉄槌をまともに受け、ここまでされて尚生きている事は流石のトレーゼ言えども不可能だと考えていたのだ。

 しかし──、

 彼女のみならず、次の瞬間、この場に居た全員は自分の目を疑った。

 「トレーゼ……?」

 ウーノの語尾が思わず疑問形になってしまったのも仕方の無い事だろう……まだ敵の術式が作動しているはずなのに、陥没した地面の底からトレーゼがゆっくりと登って来たのだ。しっかりと両足で立ち、一歩を踏み出す度に足元のアスファルトの塊が加重された体重で砕け散るのも気にせず、彼は確かに歩いていた。そしてその一歩一歩が自分の帰還を待つウーノとセッテの所へと近付いていた。

 「…………兄さん?」

 何かしらの異常を感じ取ったセッテの声もどこかしら上擦っていた。自分の兄の足が大地を自重で踏み砕きながら少しずつこちらに近付いて来ているのを見た彼女は凶暴な重力圏から彼を引き上げるべく腕を伸ばしたが──、



 トレーゼの両目が紅くなっているのを見てしまった。



 その次の瞬間に取った自分の行動に関して、セッテは何も違和感も感じなければ当然の如く恥じる事もしなかった。何故なら、そんな余計な事を考えている余裕など無かったからだ。

 彼女が取った行動……それは『逃走』だった。生まれながらにして徹底的に鍛え抜かれた自分の両脚、それをフルに活用して彼女はバックステップの後に背後のウーノを回収、そのまま自分のテリトリーである上空に逃げ場を見出してそこに飛び上がった。戦う事を前提として生み出されている彼女は、基本的に主が命令を下さない限りは戦術的撤退は認められておらず、自身の肉体が物理的に限界を越えるその瞬間まで四肢を武器にして戦い続けるように設定されているはずだった。それはスカリエッティの支配を受けていないはずの今であっても深層心理に刻まれた暗示となって彼女を縛っているはずだった……。そんな状態の彼女が相手の……しかも自分の同胞である兄の姿を一瞬見ただけで何も言わずに逃亡と言う行動に出たともなれば、これは相当な衝撃を受けていたと言う事が垣間見える。しかも、脇に抱えられたウーノですらその行動に対して何も言わなかったと言う事は、彼女ですらその行動を正当なものだと無意識に感じてしまったと言う事だ。

 「何なんですか……アレは……!?」

 その疑問に隣のウーノが答えられるかどうか怪しかった。と言うよりも、ウーノですらそれと全く同じ疑問を浮かべているところだった。もうすぐ六十倍にもなる倍化重力下で、平然と二足垂直歩行を行っているトレーゼの全身からは紅い魔力が陽炎の如く立ち昇り、地獄の瘴気が地を這い回る。伏せられた両目の目蓋の奥で鈍く輝く紅い色は、さながら血塗られた冥界の獄卒の眼球そのもの……その変わり果てた姿にウーノとセッテは驚愕を通り越し──、

 恐怖、ただただその姿に恐怖を感じていた。

 今までも、そしてこれからも絶対に自分が如何なる相手にも恐怖を感じる事は無いと思っていただけにセッテの衝撃は計り知れないモノであった。目の前の兄が一歩こちらに接近するごとに、自分が無意識に後ろに退いてしまっている事実も彼女にとっては自分の事ながら理解し難いものだった。

 だが、この異常事態を逆に好機と捉える『愚か者』も居た……。

 「ファントムブレイザー……最大出力!」

 不用心に背を向けた敵を倒すべく銃口を向けるティアナ……。デバイスの先端には【スターライトブレイカー】の時とまでは行かないにしろ、あの時と同じように大量の魔力が撃ち出されるのを今か今かと待ち構えていた。照星は確実にトレーゼの背中の丁度心臓のある位置を狙っており、引き金に指を掛けるティアナは震える指先をなんとか律しようとしていた。執務官と言う職務上、社会と管理局の規律を乱す何人もの輩に銃口を突き付けて引き金を引いて来た事はあるが、確実に殺そうとする意思を持って銃口を向けた事は無かった。もしこの撃った魔力弾が命中すれば、理由や立ち場はどうあれ自分は殺人者になってしまう……その心の中の最後の一線が彼女に引き金を引く事を躊躇わせていた。

 「……教えてあげるわよ、今まであんたがクズ呼ばわりしてた私達の意地を!」

 最終的に彼女を突き動かしたのは私怨、目の前の怨敵が今まで自分達にして来た事の数々に対する憎しみだった。結局人間の全ての行動原理は自分の感情一つ……そう言う人間の闇が垣間見えた瞬間でもあった。

 人差し指が絞られ、いよいよ撃ち出されると言う瞬間になって、目の前のトレーゼの首がこちらを振り向く動きを見せた。こちらの動きに気付いたのだろうが今更このタイミングではどうする事も……



 「あ……っ!」



 刹那、ティアナが銃口を逸らしたのはある意味では正解だっただろう。戦いの場に置いて、銃口や切っ先を相手に向けると言う事はそれだけで戦意の意思表示に繋がってしまう……そして、彼女は自分が銃口を向けているのを目の前の“それ”に見られるのを避けようとしてデバイスを逸らしたのだ。何故そうしたのかと問われた所で、彼女は「分からない」と答えるだろう……それは彼女が理性で行動した訳ではないからだ。あくまで本能、無意識にそうしなければ生きられないと直感したからだ。あれと戦ってはならないと……。あれとは戦いにならないと細胞レベルで本能が警告を発したから。

 だが遅かった──。

 狂気に満ち満ちた紅の視線はまるで神話に登場する石化の魔眼を持った怪物そのもの……人知で捉えられる領域をとっくに超越し突破したその存在の視線を真っ向から受け、ティアナは自分の精神の奥底に介在している何かが音を立てて崩れ落ちるのを感じた。背後の事までは注意が回らなかったが、恐らくはギンガとチンクも同じモノを感じ取っていたはずだ……でなければ、ここまで全身の筋肉が恐怖で痙攣するはずがない。人間は得体の知れぬ存在に恐怖すると言うのなら、その説はきっと正しいのだろう……今さっきまで目の前に居た者の正体を把握していたからこそ、脅威こそ感じたが恐怖を感じるまでにティアナが至らなかったのはその為だ。だが、その認識は“それ”の変貌を目にしてしまった事で消し飛んだ。

 これは一体何だ!?

 その問いに答えてくれるなら彼女は悪魔に魂さえ売っただろう。知る事でこの恐怖を乗り切れるなら、彼女は知りたかった、目の前に居る“それ”の正体を……。

 だがこの時彼女はある一つの事実を見落としてしまっていた……それは他でもない自分自身の事だった。敵意を見せない為に銃口を逸らしたのは良い……だが、問題はその銃口をよりにもよって左斜め上に向けてしまった事と、恐怖に震えていた彼女の指先がまだ引き金に当たっていたと言う事実だった。魔力弾を撃ち込む寸前で射線を逸らした為に指は引き金を引き終わる一歩手前の状態……当然、震える指先がそのギリギリの状態をこの極限の心理状況で維持出来る訳も無く──、

 「しまっ……!!」

 慌てて指を離そうとしたティアナではあるが、時既に遅く、引き金を引かれたと認識したデバイスのAIは持ち主の指示通りに……

 一棟のビルに向けてそれを撃ち出してしまった。










 いきなり自分達の方向に魔力弾が撃ち込まれた瞬間は驚いたが、その軌道が自分達ではなく大きく上方に逸れているのを見切った時は一瞬だけ隙が生まれてしまった。セッテの実力を考えれば本調子ではない【ファントムブレイザー】程度の射撃魔法であれば真正面から受け流す事も充分可能だっただろう。実際彼女はそうするつもりで居たのだが……事態は彼女の予想の斜め上を行っていた。

 自分達の右横に大きく逸れる形で飛翔した魔力弾はそのまま上空に消えるのではなく、その障害として立ち塞がっていたビルに命中してしまったのだ。コンクリートの塊が幾つも自分達の丁度真上から降り注ぐのを見てセッテはすぐに回避行動を取ろうとしたが、飛行能力を持たないウーノを抱えた状態で瓦礫の絨毯爆撃を回避するのは至難の業……一瞬躊躇してしまったその僅かな隙が彼女に回避行動を取る事を許さなかった。大き目の瓦礫の幾つかは避けられる自信はあったが、この相対距離と瓦礫のサイズではどれか一つかは自分かウーノに当たってしまう事をセッテの優秀な頭脳は導き出していた。かと言って、専用武装も無い片手一本ではこれらの弾幕を捌く事は不可能……このまま万事休すかとも思われた。



 だがそうはならなかった──。



 突然横っ腹に激突した強い衝撃にセッテとウーノの体は一瞬で慣性によって吹き飛ばされ、延長線上の道路に路上駐車されていた乗用車のフロントガラスをクッション代わりにしてようやく停止した。すぐに何が起こったのかと目の前を見ると、既に落下した瓦礫が粉塵をもうもうと立てて山を形成していた。

 突き飛ばされたのだ。一体誰になんて下らない疑問が湧くはずも無く、状況を瞬時に把握したセッテは勢い良く飛び起きて瓦礫の山に飛び込んだ。

 「兄さん! 兄さん!!」

 積み上がった瓦礫の僅かな隙間から覗いている白い手……それを渾身の力で引き上げれば、出て来たのはやはり兄のトレーゼだった。自分達を庇って負傷した彼には先程の様な禍々しい雰囲気はどこにも無く、これまでに見慣れた鉄面皮の冷たい表情で出迎えてくれた。だが瓦礫の幾つかを頭に受けたのか、こめかみの辺りからは大量の鮮血が赤々と流れ出て防護ジャケットを濡らしていた。

 「セッテ……無事か?」

 「はい」

 「そうか……。ウーノは?」

 「あちらに」

 「いい子だ…………さぁ、行くぞ。くっ……!」

 そう言って肩を支えようとするセッテを突き離して歩き出すトレーゼだったが、頭部に受けた衝撃が強過ぎたのか足元は千鳥足になり、高圧重力から解放された所為で平衡感覚も麻痺している彼はものの十歩も歩かない内に地面に座り込んでしまい、大量の吐瀉物を地面にブチ撒けた。軽い脳震盪を起こしているのか、両目の焦点はまるで合っておらず、短い時間で一気に体力を消費してしまった事で与えられた疲労により呼吸は荒くなっていた。どうやら、あの魔力の放出には多大なリスクが伴うらしい。

 もちろん、この機会を逃すはずも無く──、

 「チンク!」

 「承知した!」

 チンクのナイフがセッテを牽制して彼女の動きを止め、その一瞬の隙を突いてギンガが疲労困憊のトレーゼの前に飛び出した。高速回転するリボルバーナックスのスピナーが唸りを上げ、鋼鉄の拳をその無防備な頭部に狙いを定めて振り上げる……当たれば間違い無く死亡、頭蓋ごと脳髄が粉砕されるだろう。仕事上とは言え、初めて手に掛ける相手が自分の同類と言う事実がギンガの心に圧し掛かったが、彼女はすぐにそんな余計な考えを振り切り、迷う事無く自分の拳を真っ直ぐに──、

 振り下ろした。










 ヘリに回収され、やっとの思いで現場に辿り着いたはやては言葉を失った。被害を受けた街の往来の状態ももちろんの事だったが、その上空を飛び交う報道機関のヘリの数に圧倒されていた。自分達の乗るヘリの他に全部で六機ものヘリが街の上空を所狭しと飛び交っている様子は、まるで砂糖に群がるアリを連想させた。そう、彼らは例外無く今回の事件の犯人をこの目で見たいが為にここへ駆け付けたアリ、或いはハゲタカだった。今頃はこのミッドチルダ中に管理局の醜態が報道されているだろう……。

 「ヴァイス陸曹、現場の状況は?」

 奥の座席に横になってスカリエッティの治療を受けていたはやては地上の状況の報告を促した。当然だが脱線したリニアが道路に落下している所までは予想出来ていた。

 だが──、

 「あ、あれってティアナ達じゃねーか!? 何だってこんな所に!」

 「何やて!?」

 ティアナがここに居ると言う事はギンガとチンクも一緒だろう。彼女ら三人はスバルとノーヴェの確保の為に同行していたはずだった。と言う事はまさか……!

 「ノーヴェも居ます! でも、何だか様子がおかしい……」

 「スバルは! スバルは居るか!?」

 本人の状態は何であれノーヴェも居るならスバルも居るはず……そのはずだった。

 「おいおいおいおい、どう言うこったよこれはよぉ……!!」

 「どないしたん!?」

 「映像回します!」

 いつもの飄々とした雰囲気を崩して珍しく焦っているヴァイスを見てはやてもただ事ではないと予想はしていた。きっととんでもない惨事が展開されているのだろうと。

 だが……

 「なんや……これ?」










 何が起きたか分からなかった……

 ただはっきりとしているのは、自分達は背後からの不意討ちをまともに喰らって無様に薙ぎ飛ばされたと言う事だけだった。

 「な、何が……!」

 一瞬でビルの壁に叩きつけられたギンガとチンクは自分達の状況を把握するのに手一杯で、敵の様子を確認するにまで気が回らなかった。幸いにも敵の首魁が本調子を出せていなかったので命拾いしたが、たった一瞬の攻撃で削られた自分達の体力は半端無く大きく、戦闘機人のスタミナを以てしても立ち上がる事さえ出来ずに居た。それでも持ち前の根性でなんとか体勢だけは整えた後、互いに肩を支えながら敵の前に相対した。

 周囲の状況は凄惨を極めていた……。半壊したビルは未だに崩れかけのコンクリートがボロボロと落下しており、落ちて来たそれらは陥没したアスファルトの地面に開いた穴の底へと消えて行く……破裂した水道管からは大量の水が剥き出し、底の方はちょっとした池のように水が溜まり込んでいた。ガス管は既に異常を察知した会社によって供給を断たれているので爆発の危険性だけは無いようだ。そして、周囲の最低限の安全を確保した二人は遂に眼前の敵に向き直り──、

 「ちょっと……冗談にも程があるわよ……!?」

 愕然とした。

 目の前に居る敵の数は“四人”……。

 自分達と彼らの間を妨げる空色の障壁…………ウィングロード──。

 そして……傷付いたトレーゼを自らの方に引き寄せて治癒魔法を施す──、



 自分達の妹、スバル。



 「庇う相手が違うだろ、スバルっ!!」

 チンクの怒号もまるで意に介さず、当の本人はトレーゼの頭部裂傷を左手からの魔力放射で細胞活性を促し、黙々と治癒を続けていた。その表情は真剣そのものであり、治りたての足でウィングロードを行使してしまった事による激痛の為か、額には玉のような脂汗が滲み出ていた。しかしそれを拭う間も惜しいのか、スバルはただ目の前の少年の傷を癒す事だけを考えていた。

 「ごめんギン姉……ごめん、ごめん……。でも私は……!」

 「馬鹿! 謝るんだったら今すぐそいつから離れなさい! 今なら撃てるのよ!!」

 ティアナが銃口を向け、正確にトレーゼの頭部に狙いを定めた。だがその射線上にスバルの背中が立ちはだかった……トレーゼの頭を抱きかかえるようにして彼の楯になろうとしているのだ。これには流石のティアナですら言葉を失ってしまった。

 だが優秀な彼女はすぐに凛とした表情に戻ると、再びその銃口を向け直した。当然、スバルの背に向けてだ。

 「警告よ、退きなさい。撃つわよ」

 「…………撃てるの?」

 「警告その二、あくまで退かないって言い張るんだったら、残念だけどあんたと一緒にそいつを射殺するわ。カートリッジ分の魔力を足せば、あんたの背中ぐらい余裕よ」

 「ティアには悪いけど、私は退けない……逃げられない」

 「警告その三、出来れば弱ってるそいつをこっちに引き渡しなさい。そうすれば、あんたはそいつを連れて来る為に接触したって事に出来るわ」

 「私は……そんなつもりでこうしてるんじゃない」

 「最終通告……………………お願いよ、戻って来て。あんたはそっちに居る人間じゃないのよ……分かるでしょ」

 最後の最後、今まで三年間にも渡って苦楽を共にして来たと言う事実がティアナの心に最後の情として重く圧し掛かった。腐っても鯛と言うのなら、目の前に居るのは腐れ縁でも自分の親友なのだ……それをどうして好き好んで撃てようか。

 だからこれが最後の譲歩……もしこれが拒否されれば、双方共に待った無しの状況に追い込まれる……。即ち、どちらかが殺し、どちらかが殺されるのだ。友を殺めたくはない、だが友を殺められるのは今自分しか居ないのだ。身内である隣の二人に妹殺しはさせられない……それならいっそどこまで行っても他人である自分が引き金を引くより他は無いではないか。

 だから!

 「撃たせないで……私はあんたを撃ちたくない!」

 プライドが高い彼女が見せた涙は頬を濡らし、顎先を伝い落ちて冷たい地面に弾けた。もう懇願するしかない……それで自分の友がこちらへ戻って来るのなら、彼女は地に額を擦り付ける事だって平気で出来ただろう。震える両手を必死に押さえながら彼女は待った……友がこちらに来てくれると信じて。

 でも……

 「ごめんね、ティア…………私、わがままだから」

 「そうね……あんたはいつも自分の事しか考えてなかった……………………………………………………………………………………さよなら」

 ヴァリアブルシュート……多重弾殻射撃に用いられる複数の魔力の殻を纏った魔力弾が形成され、銃口に出現する。第一層がスバルの肉体を突き破り、本命がトレーゼの頭部を打ち砕く……途中でセッテが介入しても問題無いように自身の持ち得る全ての魔力を注ぎ込み、圧縮──、指先サイズとなったそれを狙い定めてティアナは親友だった者の背中に向けて無慈悲に徹して撃ち込んだ。

 飛び出した弾頭は真っ直ぐ飛翔してスバルの無防備な背中を襲撃し、間に入ろうとしたセッテの手を掠りもせずにすり抜けた後、防寒着の布地を焼き切りながら突き進み──、



 瞬間、その体が大きく痙攣した。




















 新暦86年某月某日、深夜22時28分、都内某所の住宅にて──。



 「へぇ~、そんなことがあったんだぁ」

 「うむ、あの頃はお前の父上殿と共に大暴れしたものだ。思えば懐かしい……今になって見れば、あの頃が我らが最も活き活きとしていられたと言うものよ。それをあの主殿は不意にしよって……全く忌々しい!」

 「あはは。ん……ふ、ふぁぁ~あ」

 「ハハハ、母上殿も言っておられたぞ、塵あく……じゃなかった、良い子は寝る時間だとな」

 「うん……トイレ行ってから寝るー。おやすみなさぁい」

 「うむ、おやすみヒツキ。……………………………………………………………………………………やっと行ったか」

 「お勤めご苦労さまです。結構板についてましたよ」

 「ぬかせ。貴様、人に厄介事を押し付けておいてどこをほっつき歩いておった?」

 「いえ、電話で奥様に頼まれてちょっとそこの売店まで食材を買いに。ここら辺も二十四時間営業の売店が増えましたから」

 「フン! すっかり下衆な塵芥共に飼い慣らされよって! うぬは本当に気楽なものだな…………えーっと、何だった?」

 「リズです。いい加減名前覚えてください。まさか自分の名前まで忘れたとか言うのではないですよね?」

 「阿呆、名前と言う本来有りもしないモノに括られよって、馬鹿馬鹿しい。少しはこのクランを見習え!」

 「覚えてるじゃないですか。それはそうと、フォスはどちらです? 私が買い物に行く前は一緒だったはずでは?」

 「あやつならとっくに寝た。今頃は主殿の『中』に『戻って』おるだろう」

 「相変わらず好き勝手なスタイルですね。とても私達と同じモノから生まれ出た存在とは思えません」

 「まぁ、元を正せば我らは本来はただ消え行くだけの矮小な存在……それをあの阿呆な主殿が変な気を利かせたが故にこうして形を保っているに過ぎんのだがな」

 「その点はご主人様に感謝しなければいけませんよ。私は奥様に買い物の連絡の後で『戻り』ますから、貴方もいい加減テレビばかり見てないで早く寝た方が良いですよ」

 「わざわざ節介を焼かんでも分かっておる。我らが主殿はああ見えて寂しがり屋だからな…………」





 「誰が寂しがり屋だ……」



[17818] ZIGZAG
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:ca17e16b
Date: 2010/12/26 10:14
 倒れたのはティアナの方だった。抉り取られた自分の右肩を押さえながら後ろ向きに倒れ込み、その手からデバイスが放り出された。事の流れを静観していたはずのチンクとギンガでさえ一体何が起きたのか把握出来ておらず、痛みに悶える彼女を庇って後ろに下がるだけだった。

 「見たか、セカンド……貴様の友は、貴様を殺そうとしたぞ」

 倒れ込んだ彼女とは反対に、立ち上がる者の影があった。スバルの場違いな献身の成果あったのか、傷の塞がった部分を擦りながらトレーゼが立ち上がって見せたのだ。気絶しているスバルを突き離し、傍で控えていたセッテを引き連れて彼女らの前に立ち塞がる。見慣れた不動の佇まいからは戦闘意思や敵意と言ったものが感じられないが、その鋭い氷の視線は明らかに相対するティアナ達の急所をに狙いを澄ましており、一瞬でも気を緩めた次の瞬間には既に絶命させられていると確信してしまう程の圧力があった。

 やがて双方の睨み合いが十数秒続いた後……

 「……行くぞ、セッテ」

 「はい」

 とうとう一切の手を出す事もせずに彼は悠々と敵であるはずのティアナ達に踵を返して背を向けた。三人もの敵性対象を前にしながら少しも臆する事無く背を向けると言うその行為自体が既に常軌を逸しているが、トレーゼ自身の実力を考えれば何の不自然も無い。歯痒く感じながらも圧倒的な実力差に気圧されて動く事さえ出来ないティアナ達は、自分のすぐ前を歩く怨敵の無防備な背中に一発も不意討ちを入れる事無く黙って見送るだけだった。力無く地面に尻もちついているウーノの手を取るトレーゼと、その背後から大人しく付き従うセッテ……街の上空を飛び交うヘリの爆音をBGMにして、三人の戦闘機人は戦意を喪失した者達の眼前で堂々と凱旋帰還を行っていた。

 ふと、トレーゼの視線が足元でのびているスバルに向けられた。死んではいない、ただ単に魔力の大半をトレーゼに奪われてしまった所為で気絶しているだけだ。と言っても吸収した本人としてはそこまでするつもりでやった訳ではない……治りたての魔力回路で無理な魔法を行使した上に、頭部の傷を早急に治療する為だけに自分の危険も顧みず大量の魔力を放出していたからだ。仮にトレーゼが魔力を吸収していなかったとしても、治療が終わった後で立ち上がるだけの体力が残っていたかどうかも怪しいかっただろう。

 馬鹿な奴……。

 それが地面で倒れているスバルを見た彼の感想だった。関わるなとあれほどに釘を刺したと言うのに……。

 「…………おい、ランスター。聞いているか?」

 「な、何よ!?」

 「貴様は、何か勘違いを、しているらしいから、この際はっきり言っておこう。俺と、この出来損ないの間には、協力関係なんかありはしない」

 「それじゃあ、あんたが今までに何度も接触してたのはどうやって説明してくれるってのよ?」

 「質問を許した覚えは無い。それとも、何か……? やはり、口先だけでは、信用ならないか? ならば、こうしようか……」

 そう言いながら彼はぐったりと横たわっているスバルの体を爪先で転がし、仰向けにさせた。蒼白な顔をしながら虫の息となっている彼女を見降ろし、ティアナ達三人がしっかりこちらを見ていると確認した後──、



 脇腹を蹴飛ばした。



 「何してんのよ!?」

 「見て分からんか? 証明だよ、こいつが、俺の敵だと言う、最も分かり易い証明……。よりにもよって、こんな奴と同列に、見られていたとはな」

 そう言いながらもトレーゼの足蹴は止まらない。アームドデバイスを装着した鋼鉄の脚で何度も何度も衰弱しているスバルを蹴り続ける。そしてその顔面は当然の如く今まで通りの凍りついた鉄面皮……何度も脇を蹴り、何度も腹を踏み潰し、何度も頭を叩き回しても尚その表情が揺らぐ事は無く、ただ自分と彼女との間に関わりが無い事を証明すると言う“作業”を何の抵抗も感慨も無く延々と繰り返すだけの静かな狂気。ものの三十秒も経たずにスバルの顔面は鼻血に濡れ始め、痛みに背中を丸めて必死に一方的な虐げに耐える仕種を見せ始めた。だがトレーゼの猛攻は止まらなかった。

 「表面積の、小さな脳で考えて見ろ……互いに与する者が、こんな事をするか?」

 「それは……っ!」

 「良いのか? 貴様が判断するまで、俺はこれを止めるつもりは、毛頭無い。後二分もやっていれば、死ぬぞ、こいつ」

 「死ぬって……」

 「ああ、別に死んでも良いのか……。何せお前、殺そうとしたんだからなぁ、こいつを」

 「っ!」

 殺したくは無かったなどと言う言い訳は通用しない、誰の目から見ても明らかにティアナは自分の友人をその手で殺めようとしたのだ。確かに彼女自身の感情としてはこの場で銃を下ろして情状酌量の余地に懸けたい気持ちの方が強かったのは隣のギンガも承知の事実……。だが自分達には大義があり、その大義を全うさせる為には私情を持ち込む事は断じて許される事ではなかった。疑わしい者はその場で処分する……例えそれが身内や親友であったとしても、これだけは変わらぬ不文律なのだ。

 「さぁ! どうなんだ? これでもまだ、俺とこいつは、繋がっていると、そう言い張るのか?」

 「…………」

 「どうなんだ?」

 「…………スバル……スバル・ナカジマと“13番目”は……互いに協力関係にあるものとして捜査を進めていたが……」

 「それで?」

 「……………………誤認、結果はただの誤認。双方には敵対関係しか存在していなかった!」

 「そうだ、それでいい」

 吐きつけるように事実を認めたティアナの言葉を満足気に噛み締め、トレーゼはようやく虐げを止めた。痛みに震えるスバルの襟首を掴んで無理矢理起こし上げ、彼は自分とティアナ達を隔てる陥没した地面の前まで足を運ぶと、おもむろに息も絶え絶えなスバルの顎を引っ掴んで視線を前方に向けさせた。痛みに衰弱した虚ろな視線を向けられてティアナ達三人はそれぞれ目を逸らす。だがそんな相手の事情など知った事ではないとトレーゼはスバルの顎を掴んで離さず、ふとその耳元に口添えした。

 「見ろ、セカンド……あれが、貴様を殺そうとした、愚か者の顔だ。貴様の友だ、貴様が心から信頼していた、貴様の友だぞ。隣に居るのは、貴様の姉だ。笑えるだろう? 笑えよ、自分が今まで信じて来た、薄っぺらい絆と言う奴をな。貴様を敵でないと、認識した以上、きっとあいつらは、今までと同じように接してくるだろうなぁ…………。面白い、こんなに面白く感じたのは、今まで無かった。俺が言ったのは、正しかった……例え肉親であっても、」

 ひとしきりそうやって笑った後、彼は再びスバルを吊り上げ……

 「情けを掛けるのは、これっきりだ…………セカンド」

 陥没した地面の穴へと投げ入れた。突き出した水道管やガス管に激突しながら落下して行ったスバルの体は程なくして水の溜まった底に墜落し、そのまま動かなくなった彼女を確認してからトレーゼは今度こそ本当に彼女らの前から姿を消した。何の憂いも恐れも無く、ただ堂々と己の庭を散歩しているかの様に堂々とした姿で、セッテとウーノの手を取った次の瞬間には彼らは遠く離れた自分達の根城へと転移した。紅い光の後には誰も残って居なかった……。










 報告──。



 作戦所要時間:9:00から11:24までの144分。

 作戦エリア:クラナガン西部方面から首都圏までのリニア路線上。

 警護対象:元ナンバーズNo.1『ウーノ』

 総動員数:二十三名。(フリード及びガリュー除く)

 被害者数(部隊):二十名。

 被害者数(民間):現在調査中。

 敵性対象数:一名。(セッテの介入により二名となる)

 作戦結果:警護対象を奪還された事により失敗。










 午後12時45分、管理局地上本部にて──。



 「失敗だな」

 「ああ、失敗だね」

 「そっちはどうだ?」

 「僕の所はまだ平和だよ。そっちは?」

 「情報開示を求める電話やメールが各報道企業から殺到している……。聞いた話では今夜中にでも記者会見を開くそうだ」

 「言い逃れは……出来ないか。事件の当事者からの情報だからね、こんなに確実な情報は無いから。それよりも教会の方はどうなのさ?」

 「最悪、としか言いようが無い。現在カリムが報道陣を捌くのに躍起になっている最中だ…………っと、相変わらず美味くないコーヒーだ」

 飲み干した空き缶をゴミ箱に投げ入れクロノはベンチの上で大きく背伸びをした。現在彼とユーノは休憩所で互いに休息中……ではなく、回線越しでは話せそうにない情報のやり取りの為に互いに時間を見つけてここで落ち合っているのだ。

 「敵があの時どさくさに紛れて元ナンバーズ更正組の個人情報を流出させたのは何故だと思う?」

 「憶測や仮説になるかも知れないけど、恐らくは管理局と聖王教会の二つを混乱させた上で二つの組織の連携を寸断する事だと思う」

 「何故?」

 「ミッドチルダを震撼させた未曾有の大事件の元実行犯…………局内はもちろんの事、民間では未だに彼女達の事を快く思っていない人達が大勢居る。三年前の一件に関しては戸籍登録する際に年齢を未成年って事にしてスルーしてたけど、もしそうしてなかったら今頃彼女達の居場所なんて無かっただろうね」

 「なるほどな。未成年と言う事にしておけば法律と言う名の権力において庇護出来るからな。更正施設を出所しても個人情報保護の名目で報道は控えられて来たしな」

 「ゴシップ好きの一部の民間人はその情報管制に納得していなかったけどね」

 「今回はそう言った連中の影響力を良いように利用されたと言う事か……」

 ゴシップ丸出しの民間人と、それを餌に食いつくマスコミ程に怖いモノは存在しない……施設を出所したと言う情報は新聞の三面記事ぐらいにしか掲載されず、当然氏名は伏せられている上に写真や画像なども出回らないように規制を掛けていた。全ては彼女らが未成年だからと言う理屈の名の下で行われていたのだが、ユーノ達の言うように一部の民間の中で異常な程に興味を示した者達は半ば面白半分、或いは自分達のエゴを満たす為に彼女らの周囲を執拗に嗅ぎ回ろうとしていたのも事実である。もし規制を厳しくしていなければ彼女らの人権は不当に無視された上に世間の晒しモノにされてしまっていただろう。

 そしてまさに今、その危機に直面していた。正確に言えば、彼女らの存在を利用して世間の批判の石つぶては管理局と聖王教会に向いていた。かつてこの世界を震撼させた凶悪事件の実行犯がたったの三年で社会に復帰し、あまつさえその彼女らを裁いていたはずだった管理局が彼女らを局員として雇用していると知れれば、当然マスコミが騒がないはずがない。しかも最悪だったのは更正した彼女らが管理局だけではなく、局と繋がりを持つ聖王教会にも身を置いていたのがいけなかった。トレーゼの暴露によって更正した彼女らをネタにしたマスコミは非難の矛先を教会本部にまで向け始めたのである。結果、ミッドチルダに存在する二つの組織はその対応に追われ、24時間後に迫っているはずの“13番目”との接触どころではなくなってしまった。

 「まさか……そこまで考えていたなんてね」

 「それだけじゃない、今回の作戦が失敗した事で出てしまった民間側の被害者だが、今現在報告に入って来ている限りでも死傷者は三十名を下らないそうだぞ」

 「今日の作戦も民間には全く知らせていないのが痛いなぁ。まったく……自分で自分の首を絞めているようなもんだ」

 「本当だな。世界は……」

 「『こんなはずじゃない事ばかり』……だろ?」

 「人の台詞を取るな。だが、僕達がこうして『こんなはずじゃない』事ばかりを押しつけられていると言う事は、逆にあいつは全部思い通りになっているんじゃないかって思えてしまう……」

 「誰かの幸運は誰かの不幸……逆もまた然り、世界って言うのは上手くバランスが取れてるものさ。もしそれを無視したり、通用しなかったりする人が居るんだったら、それは人間じゃなくて神様だよ」

 「神様か……。なれるものなら僕もなって見たいな」

 「提督って職に就いて好き勝手してるクセに」

 「男って言うのはいつでも好き勝手したいものなのさ」

 「例えば?」

 「そうだな…………例えば、クリスマスには何の面倒事も無く実家に帰れるように、とかな」










 「始末書の提出が拒否された?」

 「そうや……」

 医務室のベッドで寝ていたはやての言葉にシャマルは首を傾げた。始末書とはつまり、職場にて仕事上での損失を生み出す不手際があった場合に書く事を義務付けられる用紙及び書類の事である。自分の犯したミスを全面的に認める内容をしたためた反省文であり、同時に寛大な処置を願って陳情する嘆願書でもある始末書…………もちろん、寛大な処置と言っても大抵は降格か左遷であり、内容によっては当然クビも有り得る。今回彼女は指揮を任されていた作戦を失敗した事により、事態の経緯詳細を記した顛末書と責任を取ると宣言する始末書の二つを書かされたのだが、いざその二つを提出するとなった時──、

 「始末書だけが取り合ってもらえなかったって……それじゃあ!」

 「責任問題には問われへんだって事や……」

 「よ、良かったじゃないですか! 責任問われないって事ははやてちゃんは悪い様にはならないって事────」

 「これがええ訳あるかぁっ!!!!」

 はやてが怒号を上げた次の瞬間、医務室一杯に彼女が怒りに任せて壁を叩く音が響いた。せっかく閉じていた脇腹の傷が開くのも忘れる程に彼女の憤りの念は抑え難く、震えるその肩を見たシャマルの方が思わず逃げ出しそうな気迫に満ちていた。

 「責任を問われへんだって事はなぁ……この作戦が無かった事にされとるって事なんや! 始めから作戦なんて無かった…………死んでった隊員さん達はただの事故死って処理されて、街の人らも私らの作戦やなくて敵が暴れたからって事にされてしまう……………………私は、私はっ、自分のケツを自分で拭く事も許されへんかった……!」

 「はやてちゃん……」

 「確実に成功する作戦やとは思てなかった。失敗した責任取って、降格やろが免職やろうが受けるつもりでおった……それやのに、私の指揮に従ってくれた人らの死まで踏み躙られて…………何で私だけ何にも無しなんよ、不公平やんかぁ……」










 午後12時53分、地下ラボにて──。



 「成功だ……疑い様も無く、紛う事も無く、確実で不変な、成功だった」

 研究室のハンモックで体を揺らしながら休息を取るトレーゼは今日の成果の余韻を噛み締めていた。遂に明日になれば計画の最終段階に到達する事が出来、目覚めるまでの17年と目覚めてからの半月にも渡る苦労がここでようやく報われるのである。その為に必要な駒も布陣も完璧と言えるまでに準備して整っている……ほぼ九分九厘成功すると断言出来る状態にまで事を運べていた。

 「腕の調子は、どうだセッテ?」

 自分を庇って右手の平に深い傷を負ったセッテを気遣うように彼は映像回線越しのセッテに確認を取った。

 『問題ありません。処置が迅速でしたので、回復自体に支障は無いかと思われます』

 「なら良い。明日の作戦は、お前にも参加してもらうつもりだ……期待しているぞ」

 『ワタシでよろしいのですか?』

 「むしろ、俺とお前だけで行く」

 『たった二名で……ですか?』

 「何か不服か?」

 二名……全次元世界を統括する一大組織に対して喧嘩を売るには余りにも少な過ぎる頭数である。彼の性格を良く知るセッテは薄々ながらも明日の夜に彼が自ら提示した取引に応じる姿勢が無い事を察知していた。そうなれば地上本部との交戦は必至、その時になって彼は自分達を押し潰さんと迫る魔導師の軍勢とどう渡り合うつもりなのだろうか。流石のトレーゼとセッテと言えども一個中隊ならまだしも地上本部に所属する全部隊を相手取れと言われたら簡単には行かないだろう。

 『兄さんの実力を知らない訳ではありませんが、その…………取引に応じる気は無いのですよね?』

 「無いな。そして、管理局側も、そんな俺の行動を、予測しているだろう」

 『だとしたら、幾らワタシと兄さんでも地上本部全体を敵に回すのは……』

 「いいや、俺達が相手をするのは、たったの八人……いや、七人か。大した数ではない上に、実力も雑魚だ、案ずる事は無い」

 兄の言う七人が誰なのかは大方見当がついているが、最も気になっている部分について聞けていない。

 『残りの数千は居る武装局員をどう対処するつもりなのですか?』

 「その点も、問題は無い、手は打ってある……。お前は、何も心配せずに、俺の後をついて来れば良い……」

 『委細承知。全ては兄さんの言う通りに』

 「分かっていれば、それで良い。今は休んでおけ……と言いたい所だが、クアットロに代わって、“聖王の器”の管理を、頼みたい。正直言って、あいつは使えない」

 『はい。承知致しました』

 回線が閉じて部屋の中に静寂が戻った後、トレーゼは床の資料や論文の山を上手くかわしながらラボに続くドアを開けてだだっ広いラボに出て、そこで待たせておいたウーノの傍へと寄り添った。年の小さな弟が姉に甘えるような仕種で寄って来た彼を優しく迎えるウーノではあったが、その表情は限り無く暗いものだった。犬や猫が自分の匂いを付ける為に体を擦りつけるみたいにして積極的に彼女に触れていたトレーゼも、そんな様子の彼女を見兼ねたのか一旦離れてしまった。

 「昔のように、頭を撫でては、くれないんだね……」

 「あなたは昔とは違う……変わってしまった」

 「変わったから、してくれないんだ…………何で変わってしまったか、自分でも、良く分かってない。でも、こうしないと、いけないって、漠然と思っているのは、断言出来る。『私』であるな、『公』であれ……17年前は、分からなかった、トーレの言葉が、今なら理解出来る」

 「私達姉妹が誰もなれなかった正真正銘の機兵に……なってしまったのね……。出来たら貴方にはなって欲しくはなかったのに…………あっ」

 トレーゼの頬に伸ばされたウーノの手だったが、その氷のような温度に思わず手を引っ込めてしまった。手で触れた瞬間に伝わって来た痛覚にも似た強烈な冷気……まるで体温を失くしてしまった死体のようなその冷たさをまともに感じてしまったウーノの胸中に、あの時のトレーゼの姿が去来した。あの紅い魔力に覆われた得も言われぬおぞましい姿を……。

 近寄りたくない!

 そんな強い拒絶の意思が無意識に込み上げるのを自覚した時、彼女は目の前の弟の様子がおかしい事に気付いた。

 「ごめん、ウーノ……」

 「トレーゼ?」

 光の宿らぬ目を力無く伏せて頭を下げる弟……あともう少しで逃げ出しそうになっていたウーノよりも先に彼は距離を置き、頭を下げて謝罪の意を示した……。ウーノはすぐに理解した、自分の弟が恐怖の色を露わにした自分の事を気遣ってくれたのだと……血は繋がっておらずとも信じる姉を気遣ってくれているのだ。ウーノは自分の事を恥じた……目の前の彼は今も昔も変わらず自分を信じてくれているのに、よりにもよってそんな弟に恐怖してしまった自分の事が許せなかった。

 「いいよ……明日で、何もかも終わる。そうしたら、また皆で、昔と同じように、していられるから……。だから、待っていて」

 「貴方は……一体何をしようとしているの?」

 「…………今は、まだ言えない……。強いて言うなら……」

 「?」

 「“脱皮”……かな」

 そう言う弟の表情がどこかしら悲しげな色を湛えていたのをウーノは見逃さなかった。

 見逃さなかったが……それ以上の言葉は口から出なかった。だから──、

 「ごめんなさい……貴方にばかり辛い思いをさせてしまって……」

 冷たいその体を抱き締めた……今度はしっかりと、離さずに。



 17年振りの抱擁は不本意な虚しさと言い表せない悲しみで彩られていた。










 「ワタシはあの人が怖い」

 ヴィヴィオとの会話で開口一番にセッテが口にしたのはそんな言葉であった。培養液の入れ替え作業でシリンダーから出されていたヴィヴィオは彼女に体を拭いてもらいながら、そんな独白を聞いて首を傾げた。

 「あの人?」

 「兄さんです」

 彼女の言う「兄さん」がトレーゼの事を示しているのはヴィヴィオも予想出来たが、その彼が怖いとは一体何なのか? 確かに個人で凶暴な力を秘めている彼をヴィヴィオも一度は恐怖させられたが、それを身内であるはずのセッテ自身が感じていると言うのがまだ幼いヴィヴィオには理解出来なかった。

 「あの人の持つ力が怖い……ワタシの理解の外に位置しているあの強さが果てしなく怖い。生を受けて初めて感じた恐怖…………聞けば陛下はクアットロに暴行を受けたとか……その時の恐怖に近いかと」

 「それは……怖いですね」

 「ですが、近いと言うだけで恐らく陛下が想像なさっている恐怖とは違います」

 「へ? じゃあどんな事が怖いんですか?」

 「全てが怖い…………。あの力が、あの力に押し潰されないか……押し潰されたらどうなってしまうのか……それがワタシが感じたあの人に対する恐怖です」

 街中で暴走し掛けたトレーゼの姿を見てしまったセッテからすればあれは確かに恐怖の対象足り得る存在だったのは間違いないだろう。彼の事を良く知っているはずのウーノですら動揺を隠せなかった程の狂気に塗れたあの姿に恐怖しない者は恐らく同族であるナンバーズでもそうそう居ないだろう……たった一人を除いては。

 「ですが、一番怖いのはそんな事ではないのかもしれません……。ワタシにとって最も恐ろしく回避したくてたまらないモノ……それは、あの人に見限られてしまう事です」

 「見捨てられるって事ですか?」

 「ええ。『見捨てられる』と言う結果は様々な意味を含んでいます……多くは単純に使えない者として切り捨てられてしまう事を指しますが、ワタシが思っているのは違います。見捨てられると言う事は、つまり可能性を否定されると言う事なんです。可能性……自身と言う個体が持つ確率を真っ向から否定するのが『見捨てる』と言う行為だとワタシは考えています」

 「……………………」

 「可能性を否定されたと言う事は、価値が無いと判断されてしまう事です。価値が無いと言う事はつまり、そう判断されてしまった者は死んでしまったのと同義なのです…………ワタシは死にたくはありません」

 「セッテさん……」

 「存在しているのに死んでいる……そんな矛盾した結末をワタシは認めたくはありません。だから、認めてもらいたいのです────ワタシの“可能性”を」

 「え?」

 「何でもありません。陛下、そろそろ培養液の入れ替えが終了しますのでご用意を」

 促されるままにヴィヴィオは酸素吸入マスクを装着すると、再びシリンダーの中に入らされた。温かい培養液が足元から湧き出て来るのを見ながら彼女はガラス越しのセッテの口元が微かに言葉を紡いで動いているのを見逃さなかった。

 声こそ聞こえなかったが、その唇はこう言っているようだった。



 「正確に言えば、認めさせたいのです」



 嗚呼……似ている、この兄妹は似ているんだな。

 そんな感想を抱きながらヴィヴィオは事前に打ち込まれた睡眠薬の効果により、眠気に逆らう事もせずそのまま目蓋を閉じた。










 診断結果は『傷痕が残る程度』との事だった。敵の射撃をその右肩にまともに受けてしまったティアナだったが、奇跡的に骨や重要な神経や血管などは傷付けておらず、過度に動かしたりしない限りは日常生活においても支障は無いと判断されたのである。

 「それにしたって敵もなかなか器用な芸当をしてくれたな」

 「ええ。まさか私が撃つのを見越してスバルの背中に魔力コーティングを施していたなんて……」

 あの時、ティアナがスバルの背中に向けて発射した魔力弾は確かに命中していた。だがスバルの皮膚の表面に密かに展開されていた魔力コーティングの所為で彼女の魔力弾はほんの少し肉を抉っただけで一旦停止し、そして反射されたのだ、鏡面が光りを跳ね返すような要領で……。結果として反射した魔力弾は撃った本人の肩を抉り抜き、まんまとしっぺ返しを喰らわされてしまうと言う戦士としては恥晒しな負け方をしてしまったのである。

 「スバルとノーヴェの容態は?」

 「全身の疲労が著しいそうだ。無理にウィングロードを発動させてしまったのが祟ったのだろう。ノーヴェは……」

 「……ノーヴェは今誰も接触出来ない状態だって聞いたわ。診察しようとしたらしいんだけど、誰かがちょっとでも近付くと凄く暴れて……手が付けられないって」

 現在二人とも医務室のベッドで眠っている状態だが、ノーヴェの方は疲労で倒れたスバルとは違い、鎮静剤で無理矢理眠らせたのだ。そうでもしないとチンクの言う通り手が付けられず、一歩でも自分の傍に近寄って来る人間を片っ端から撥ね退けて大暴れし、手当や取り調べどころの話ではなくなっていた。その暴れ方たるや凄まじく、奇声を上げて髪を振り乱しながら手当たり次第に物を投げつける姿はまさに羅刹そのものだった。薬の効果が切れる頃合いを見計らって様子を確認するそうだが、医師の見立てでは精神状態が回復する見込みは今のところは無いらしい。

 「あの時に何かの精神汚染を受けたらしいと医務室の方は言っていたが……あの芯の強いノーヴェがここまで……」

 「芯が強い人ならそっちの方が簡単に折れるものよ。…………あの、ギンガさん……私、その……」

 「言わなくても良いわ……スバルの事でしょ」

 「は、はい」

 「ありがとうね」

 「へ?」

 「あの時ティアナが撃たなかったら……多分、私とチンクのどっちかが手を下してた…………妹を殺さないといけなかった……。だからね、こんな事言うのはおかしいって分かってるんだけど…………ありがとう、私達の代わりに撃とうとしてくれて」

 疑わしきは始末する、それが戦場でのルールだ。実の家族を殺める……例えそれが状況的に見てそうしなければならなかったとしても、彼女達にとっては苦渋の決断を迫られた瞬間だったのは事実だ。ギンガが撲殺するか、それともチンクが爆殺させるか……暗黙の了解が二人を縛っていた所に進み出たのがティアナであった。彼女は二人に家族を殺めると言う悲しみを背負わせまいと率先して銃を向けてくれた……自分の親友を撃たねばならない悲しみを必死に押し殺してまで、その親友の姉妹にそれを背負わせない為だけに。

 「ありがとう…………本当に、ありがとう……っ」

 感謝の言葉がこれほど強く胸に突き刺さった事がかつてあっただろうか……。だが決してティアナは二人とは違って涙を見せなかった……今泣いて良い人間は自分ではないから。










 「…………これからどうなるんでしょうね」

 「んな事、お姉ちゃんが知る訳ないだろ……。今分かるのはこのミッドがとんでも無い事になっちゃってるって事だけだよ」

 ゲストルームの豪華なソファに腰掛ける三人の少女達は溜息混じりに窓の向こうに広がる灰色の街を眺めていた。セインを始めとする元ナンバーズ教会組がここへ連れて来られたのはつい一時間前の出来事で、放送ジャックを見ていたカリムの迅速な判断で急遽こちらに匿ってもらう事にされたのだ。車に乗り込むのがあとほんの少しでも遅かったら今頃は教会に押し寄せたマスコミの食い物にされていただろう。取り合えずの措置としてこの部屋に誘導された後、彼女らはクロノから大まかな事情を聞かされた……鹵獲作戦の事、ノーヴェとスバルに犯罪幇助の疑いが掛かっている事、市街地での戦闘でセッテが介入した事、そしてそのまま姿を暗まされた事も。

 「訳が分からないよ……。あのノーヴェとスバルが敵に加担するわけないじゃないか!」

 「ですが全ての状況証拠が不利な方向に働いています。スバルの方は現場で射殺処分されるところだったとか……」

 「それにセッテもセッテだよ。何だって“13番目”と通じていたんだよ? まさか……地上に降りて来た時から!?」

 「それは無いのでは? 拘置所の中に幽閉されている囚人は関係者でも簡単には接触出来ない絶縁状態にあると聞きます。どう考えてもこちらに来てから接触したとしか……」

 「そうだとしても動機が、従う理由が無い。セッテは教育者のトーレじゃないと言う事を聞かないはずなのに」

 「いや……意外とそんな損得勘定で動いてる訳じゃないかも知れない」

 「え?」

 意味深な発言をした姉にオットーとディードの視線が釘付けになった。知ってか知らずか、時折この姉は似合わない知的な事を言うので油断ならない。セインの視線の先にある街の風景の一角からは不穏な黒い煙が立ち昇っているのが見えた……丁度戦闘があった市街地の周辺からだ。

 「局と教会の連携がズタズタにされた今……一体どうやって敵を迎え撃ったら良いのか……」

 「そのズタズタにするのに私らがネタにされてるってのが何かなぁ」

 「騎士カリムには迷惑をお掛けしてばかりですね……本当に申し訳ない限りで……」

 自分達の潔白を証明する為に今頃必死になってマスコミを相手取ってくれているであろうあの優しい女性を思い浮かべながら、三人はやっと黒煙が収まった街の様子を眺めていた。どことなく室内に暗い雰囲気が漂う……それを敏感に察知したムードメーカーのセインがすぐに気を利かせて努めて明るい声で場を和ませようとした。

 「…………これが無事に解決したら皆でどっか行きたいね。久し振りにチンク姉達とか誘ってさ!」

 「旅行ですか? フフ、それも良いですね……。ミッドチルダには観光地が幾つもありますしね」

 「他の世界の観光地も行ってみたいけど、私達はまだ次元世界を渡航するには制限が設けられていますから……」

 「イイじゃんイイじゃん。そんなすぐじゃなくたって良いんだよ。いつか皆で一緒に行けるからさ……楽しみって良いじゃない」

 そう言ってセインは妹二人の頭をクシャクシャと撫で回した。いつもなら嫌がってすぐに抜け出すオットーとディードなのだが、今日だけは大人しく姉のされるがままになっていた……二人とも薄らとその顔に笑みを浮かべて。

 と、そんな風に感傷に浸っていた時──、

 「失礼する」

 ドアが開いて誰かが入室して来た。その人物はセイン達の良く知った者で……と言うより、知っていて当然の人間だった。

 「チンク姉様?」

 「久し振りだな、ディード……。セインとオットーも何とか息災そうだな。姉は安心したぞ」

 「そんな事よりもチンク姉! 一体何がどうなってんだよっ、教えてくれよ!」

 「あのー、その事なんスけど……実は私らもあんまし詳しい事は教えてもらってないんスよね~」

 「ウェンディ! ディエチ!」

 チンクの後ろから続く形でゾロゾロと見知った妹達が部屋に入って来た。情報流布によって不当に晒し物にされるのを回避する為に局内で保護されると言う流れになったが、これでノーヴェを除く全ての元ナンバーズが一堂に会したと言う事になる。

 「済まないが、皆に会ってもらいたい御仁が居る。いや……会ってもらいたいと言うか、会わなければならない」

 「会わないといけないって……一体誰?」

 「ここで言うより実際に見た方が信じられるだろう。私について来てくれ」

 そう言って早歩きで目的の場所まで移動するチンクを五人の妹達が背後から数珠繋ぎとなって後に続いた。道中で話を聞いたところ、ウェンディやディエチもチンクの言った人物は全く知らされておらず、また心当たりも無いらしい。さっき彼女が無意識に「御仁」と言う敬語を使った所を見る限りでは、少なくともその人物はチンクにとっての直接の上司か私的に頭の上がらない者なのだろうが……。

 「着いたぞ」

 「って、えぇ! 近っ!?」

 セインが思わずそう言ったのも当然で、彼女らの居たゲストルームからほんの十数歩歩いただけの別のゲストルームの前まで連れて来られただけだった。意外に思っていたのは彼女だけではないらしく、それまでにチンクの指示に従っていたディエチ達も言葉にせずとも驚きが表情に表れていた。

 「こちらに居られる……。くれぐれも失礼の無いようにな」

 「一体どんなお偉いさんがいるんスかね?」

 「いや……実を言えば、お前達も良く知っているお方なのだがな」

 「私達の知ってる人? うーん、誰だろ?」

 「…………あんまり期待しない方が良いぞ……」

 億劫そうにそう言ったチンクは半ば諦めたような感じでインターホンを鳴らして入室を知らせ、自動ドアが開くのを待ってから部屋の中へと足を踏み入れた。










 「この本……まだ持っていてくれたのね」

 そう呟いたウーノの手に握られていたのは一冊の赤い本。ここへ来た時からトレーゼが保管していたあの革張りの古ぼけた本だった。破れかけの背表紙を愛おしげに指の腹でゆっくりとなぞり上げると、僅かにボロボロになった紙の一部が粉状となってこびり付いた。

 「てっきり捨ててしまったかと思ってたわ」

 「捨てないよ。それは、俺達四人……ウーノと、ドゥーエと、トーレと、俺の物だから。俺の一存では、どうにも出来ない」

 「あなたは変なところで律儀ね……。ああ、懐かしい……」

 ボロボロになってしまったページを破らぬようにしながら彼女は本を捲り始めた。その紙面を心の底から懐かしむかのように、ゆっくりと、摘んだ紙の感触を一枚一枚確かめるようにして捲り続け、頬は無意識の頬笑みで緩んでいた。やがてページにある全てを見終えたのか、閉じたその本をトレーゼに手渡すと、自分より小さい彼の肩を抱き寄せた。

 「ねぇ教えて……あなたの本当の目的は一体何? 私に……いいえ、誰にも言って無い何か大事な事を隠していない?」

 「…………言えない……例えウーノでも、今は言えない。言っては、いけない」

 「否定しないのね……あなたの言う『計画』が本当は別の意図がある事を」

 血の繋がりは無いとは言え姉は姉で、如何に感情を表に出さない弟の嘘でもとっくに見抜いていた。この無機質な弟は自分を慕う妹達にですら打ち明けていない何かしらの重要な事実、或いは真意を隠し持っている……そう勘付いていたウーノの予感は的中していた。途端に再発するトレーゼに対する恐怖心……。彼の奥底で燻ったまま燃焼もせず鎮火もしない不透明な意志の焔がいつ自分達の向けられてしまうのか、そう考えてしまったのである。

 「計画の本当の目的…………全てが終われば、分かる事だから」

 「それまでに何をするつもりなの? ドクターとトーレの奪還以外に何をする必要があるの!?」

 “脱皮”……彼が自らの計画を揶揄した言葉がふと脳裏を横切った。そのワードに何かしらの危惧を感じ取っていたウーノは更に詰め寄る姿勢を強めた。このままトレーゼを放任して見過してしまえばとんでもない事が起こる、起きてしまう! ならそれを止めるのがナンバーズを指揮するNo.1としての役目であり、長姉である個人としての役目でもあるのだから。

 「教えて……何をしようとしているの? 何が目的なの? あなたは一体どこへ向かおうとしているの?」

 「……………………俺は……『失敗した成功作』」

 「え?」

 「まずは、『成功した失敗作』を、引き入れる。全ては、そこからだ」

 自分の肩を掴む手を優しく振り解き、トレーゼは踵を返して立ち去ろうとした。呆然としたまま掛ける言葉も見つけられない姉を一瞥すると──、



 「お願いだから、後ろから、撃たないで」










 『アクセル! マキシマムドライブ!』

 『トライアル! マキシマムドライブ!』

 「ふむ、メモリとドライバー共に問題無しか。最終調整は整った、これでやっと依頼通りに送り届けられる。それにしても相変わらず彼女の技術力には驚かされるなぁ。この技術をデバイス工学に活かせられれば、もはやベルカ式カートリッジなど前時代の代物になるだろうな」

 満足気な笑みを満面に浮かべながらスカリエッティは預かっていた品々を緩衝材を詰め込んだダンボールに入れる作業をしていた。『A』の文字が刻印された赤いUSBメモリらしき物体と、バイクのハンドルのような装置……それと『T』が刻印されているカウンター機能が付いた小型装置をその隣に入れており、ダンボールの表面に『割れ物注意』と書き込み、蓋をガムテープで縛って厳重に封を完了した。そしてそれを呼び出しておいた局員に手渡すと、刑期を終えていない受刑者とは思えないくらい堂々とした口振りで命令した。

 「ではさっき言った次元世界へ特急便で送ってくれたまえ。くれぐれも損失しないように細心の注意を払って欲しい、私の友人が直々に調整を依頼して来たモノだからなぁ……何かあれば信用問題に関わる」

 「か、かしこまりました」

 「よろしい。では行きたまえ、ほら早く早く!」

 急かされるままに荷物を預けられた局員はゲストルームを飛び出して早急にそれを送り出す作業に取り掛かった。恐らく、今後一切スカリエッティはあの箱の中の物品、及びそれに関する事物とは関わらないだろう……。

 無事に局員が部屋から出たのを確認した後、上座にどっしりと腰掛けていたスカリエッティが立ち上がり部屋を徘徊し始めた。腕組みをした仏頂面のトーレはそれを見ても特に何も言う事無く黙認したままで、そのままだんまりを決め込んだ。当のスカリエッティの方もそんな彼女を無視して部屋に置かれたソファの周りをしばらく回り続け、その間ずっと顔にいつもの三日月型に歪んだ口元を張り付けながら歩いていた。

 やがてその周囲を三周程したところでようやく元の場所に座り直し、大儀そうに頬杖を突きながらまだ笑みを浮かべていた。まるで上質なコメディでも見ているかのように……。

 「はてさて……これはこれで面白い、実に面白い! いやはや、あまりにも面白過ぎて面白いと言う感想以外に相応しい言葉が浮かんで来ないよ。ハッハッハ!」

 ひとしきり笑って満足した彼は足を組んで目の前の来客者達に向き直った。

 「さて、まず手始めに一体どこから聞きたい? 私の自慢のナンバーズ諸君」

 不敵な笑みの先にあるソファに座るトーレを含む七人の元ナンバーズの面々……チンクを除いた全員の顔には驚愕の相が張り付いており、陸に揚げられた魚みたいに言葉を失ってしまった口をパクパクと動かしているだけだった。あの常に落ち着きを見せている冷静なオットーとディードでさえもが幽霊か何かいけない物を見てしまったみたいに指を指して固まっていた。

 「な、何で……何でドクターが……?」

 「えっ!? だってドクターは拘置所にブチ込まれて……って、えぇ? ええっ!」

 「トーレ姉だってどうして!?」

 眼前の事態が理解出来ないのか、次第に混乱を極め始める彼女達を見て収拾がつかなくなる事を予測したチンクが立ち上がり、全員に分かり易い簡潔な説明をした。今回の事件の首謀者である“13番目”の正体がかつて一度会った事のあるトレーゼだと言う事……その彼がかつてスカリエッティの手によって造られたと言う事……当然の帰結としてその戦闘機人が自分達の兄に当たると言う事……その兄を止める為にウーノとトーレ共々管理局へと招集された事…………自分が知り得る事は全て話し、その上で理解と協力を妹達に求めた。始めは半信半疑だった彼女らだったが、実物が目の前に居るので次第にその事実を飲み込み始めた。その点については何よりもトーレの存在が大きかった……正規ナンバーズ最強の戦術性を持つ彼女までもが引っ張り出されていると言う事実が自然と彼女達の気を引き締めさせるのに一役買っていたのである。

 「まさかトレーゼさんが“13番目”だったなんて……! あの時からずっと騙されていたと言う事ですか!?」

 驚愕に震えるディードを始めとする教会組とトレーゼとの直接の面識は地上に降りて来たセッテに会いに行った11月13日……それ以降は一度ノーヴェと共にイクスの見舞いに訪れたとばかり思っていたのだが、その事実が本当だとするならば彼は教会を滅茶苦茶にした翌日に何食わぬ顔で再びやって来ていたと言う事になる。あの時にシャッハの手足を切り飛ばした仮面の男がまさかトレーゼだったなどとは俄かには信じ難かったが、スカリエッティが提示した写真とトーレの証言によって彼女らは事実と認めざるを得なくなった。

 「それで……久し振りの再会を皆で祝したい気持ちは山々だが、その前の一連の事件に関しての説明、或いは釈明云々をこの私に対して直に問い質したいと言う気持ちも無きにしも非ずのはずだ。幸いにもここは我々以外には水入らず……各々が好きな事を聞いてくれて構わない」
 
 「じゃ……じゃあ、まずは私からで良いかな?」

 「うむ、何かなセイン?」

 「何でドクターはその……“13番目”、て言うか兄ちゃんって言った方が良いのかな? 何でトレーゼを造ったのさ?」

 「愚問だなセイン。無論、この私がそう有れかしと望み、この有り余る頭脳と技術を用いて製造したに決まっているだろう」

 答えになっていないような回答にセインどころか全員がズッコケそうになるのを堪えた。まぁ確かにスカリエッティのコードネームは『無限の欲望』……自らが願い、望み、そして欲するモノをどこまでも貪欲に追い求め、脳髄と言う名の知識の胃袋に収めるまで止まる事を知らない歪み切った本能の持ち主だ。元々三年前に起きた事件も“ゆりかご”に対する彼の欲望が最高評議会の与えた使命を上回った事が原因なのを考えると、この様に「欲しいから造った」と言う言葉も嘘ではないのかも知れない。

 だが──、

 「と……言いたい所なのだがな、実際は違う」

 「え?」

 「あれはただの偶然……否、奇跡の産物だった。この私の頭脳を用いても辿りつけなかった『忘れられた都』以上の神秘……それが彼だった」

 「では、“13番目”はドクターが意図して生み出した訳ではないと仰るのですか?」

 「その通りだよチンク。この世に偶然など有りはしないと疑わなかった私が直面した生涯で唯一の奇跡…………そうだ、全ては二十年も昔に始まった……二十年前、私が初めて自分のラボ得た時に最初に行った研究から」

 遠い過去を思い出しているのかスカリエッティの目が遠くなり、僅かに微笑んだ。いつもの彼からは想像も出来ない様なその清々しい表情に一同は思わず見惚れてしまい、あのトーレですら驚きに目を見開く程であった。大きく吸い込んだ息を吐き、しばらく沈黙を預けた後、彼はふと真剣な面持ちとなり目の前に居る自分の娘達に向き直った。

 「一つ……昔話をしよう。物語の内容は今から二十年以上も昔に起こった出来事だ。誰も知らない…………知っているのは私だけ、私と彼以外には知る者は誰も居ない。聞きたいか? 聴衆が居るのなら語ろうともさ。そう、あれは……」



 「私が自分のクローンを生み出そうとした時の事だったなぁ……」










 「あ! 目が醒めました?」

 一番先に目を開けて見えた顔がシャマルだったのは幸運だっただろう。これでティアナと鉢合わせだったなら気まずいどころの話ではない……。独特のエタノール臭がするのを感じる限り、ここは医務室なのだろうとスバルはすぐに把握した。それは良いのだが……

 「あの……何で私、腹這いに寝かされてるんですか?」

 「背中の一部が少し抉れちゃってますから……。今仰向けに寝ちゃうと凄く痛いですよ」

 「あ、それ聞いたら痛くなって来た……」

 現在スバルは上着等を脱がされ、上半身は胸元のブラジャーだけの状態となってベッドに腹這いに寝かされていた。包帯や止血布のゴワゴワとした感覚が背中に圧し掛かり、少し窮屈な感じがするがやはり痛みには代えられないので我慢するより仕方無かった。そうこうして周囲をキョロキョロと見回している内にスバルの脳は徐々に交感神経に切り換わり、気を失うまでに一体何が起こっていたのかを少しずつ思い出し始めた。

 「ああ、そっか……私撃たれたんだ」

 家族の誕生日が今日だったと言うような気軽さで彼女はそっと呟いた。親友に背中を撃ち抜かれたと言う事実が意外にも彼女にとってはそれ程ショックな事ではなくなってしまっていたのだ。嫌に頭が冴えてしまってしょうがない……他でもない自分自身の事なのにまるで観客席からの視点みたいな他人事に思えてしまう。実際は無意識にそう思いたいとしているからそうなっているだけなのかも知れないが、今の彼女にとってはそれすらどうでも良い事だった。ただもう無気力……一度に多くの出来事と接触してしまった所為でスバルの生来タフな精神もすっかり疲労していた。

 「…………シャマルさん、私ってこれからどうなるんですか?」

 「うーん、そうですね……。ぶっちゃけて言っちゃうと、逮捕とかは免れられないかも知れません」

 「やっぱり?」

 「流石に背任罪は無いと思いますけど、今回の一件でスバルさんが“13番目”の正体を知っていたにも関わらず管理局に報告しなかったのは痛いですね~」

 「そうですか……」

 別に不安だった訳では無かったが自分の処遇について聞いてみたところ、意外とはっきりと包み隠さず答えられたので少し驚いた。と言ってもほんの少しの事で、また元の無関心な状態に戻ったスバルは何の当ても無くただ目の前の仕切りカーテンの布地を見つめるだけだった。

 「……聞くの遅れましたけど、あれからどうなったんですか?」

 「宣戦布告の後に逃走。転移魔法だったから足取りは掴めてないそうよ。市街地は今頃調査員と救助班とで入り乱れてるでしょうね……」

 「ノーヴェは?」

 「敵の攻撃で精神錯乱状態です。今は誰とも面会できません」

 「ティアは?」

 「右肩を損傷してますけど、傷が残るだけで大した事はありません」

 「これからどうなるんですか?」

 「明日の深夜にヴィヴィオを解放するらしいわ。スカリエッティ引き渡しを条件にね」

 「……………………私はこれからどうしたら良いんですか?」

 「それは自分で考えるべきよ」

 最後の質問に答えた後、シャマルはベッドの横の卓に何かを置いた。青いクリスタルの形を取って待機しているスバルの専用デバイス、相棒のマッハキャリバーだった。シャーリーの手によって完璧に修復されたその表面には傷一つ無く、使い手の体調さえ完全ならいつでも使用可能な状態にあった。

 「……いいんですか?」

 「私はベッドの上の患者を信頼している……患者が私を信じてくれているように、私にはあなたを信じる義務と権利があります」

 「シャマルさんは私が裏切って無いって思ってくれているんですか?」

 「うーん、まぁそれもあるんですけど、本当はどっちでも良いんですよ」

 「え?」

 「この先、あなたがどんな行動を起こしてどんな結果に至っても……それはあなたが望んで選んだ道、選択の結果です。残酷な言い方をすれば、そこから先は私にとっては関係の無い事なんです」

 「ばっさりですね……」

 「ええ、そうですね。だからこそ信じているんです……あなたが自分の選んだ道の先に見つけられるモノがあると、私は信じています。私達と同じように……」

 「シャマルさんも同じ事があったんですか?」

 「ええ。時間は掛りましたけど、私達は共通の『信じるもの』を見つける事が出来たその旅路を後悔はしていません」

 スバルには何となくだがシャマルの言わんとする事が理解出来た。闇の書に縛られて悠久の時を存在し続けた彼女らにとって、自分達の周囲は常に時の流れを移ろい、やがては消え行くだけの儚いモノに過ぎなかっただろう……信じるものはおろか、守るべきものにも先立たれる虚しさだけが残り続ける生き地獄を彷徨って来た彼女らは、ようやく手にする事が出来た希望の光を信じ、今を生きている。信じる事の大切さを知っている彼女だからこそ言える言葉がスバルの鼓膜を通して心に刺さった気がした。

 「前向きで生きてくださいなんて言いませんよ。むしろ、たまには後ろ向いてイジけても良いじゃないですか。でも絶対にこれだけは約束してください……後悔だけは絶対にしないと」

 「後悔……」

 「進んじゃった道は引き返せません……引き返そうとする行為が『後悔』なんです。自意識過剰になれなんて言いませんけど、自分の歩く道を常に信じて譲らないでくださいね?」

 信じる……自分の行いを、これからの道筋を。

 「…………こんなボロボロになった私でも……まだ出来る事があるなら……」

 やる事は一つしかない。










 夢を見ている……。そう、これは夢なのだとはっきり分かるあからさまな夢を。

 どっちが右でどっちが左か──、

 どこが上でどこが下か──、

 前を向いているのか後ろを向いているのか──、

 何もかもが全て曖昧な空間に彼女は漂っていた……深海の様な闇に覆われた虚空を宙に浮いてしまった自分の意識が確かにそこに存在していると感じながら。だが手が無い、足が無い、顔が無い、胴体も無い。まるで体から魂が抜けだした、いや、体から抜け出した魂そのものみたいな実体の掴めない感覚が彼女を満たしていた。確かにそこに存在しているはずなのに何も無い……煙よりも曖昧な状態だった。

 星の煌めき程の明かりも無い漆黒の闇の中を彼女は進んでいた。いや、実際は進んでいるのか昇っているのか、或いは堕ちているのか、それすらも分からなかった。ただ一つ確かなのは、止まってはいないと言う事。この何もかもが塗り潰された空間の中で自分は止まっていない、確かに動いているのだと言う自信があった。こんなおかしい空間で止まるはずもないのだが……。

 ふと、どう言う訳か突然彼女は自分の状況を恐れ始めた。それまで何の抵抗感も無かったはずのこの暗闇が次第に居心地の悪さを感じ始めたのがきっかけで、徐々に恐怖する心が芽生えて来たのだ。原始の時代から人間が恐怖する根源的事象、それが“暗闇”と呼ばれるモノ……。彼女は無意識に明かりを求めて闇の中を移動し続けた。

 やがてそれを求めてどれぐらいの時が過ぎたか、彼女は遠くに何かが輝くのを見つけた。見つけたと言うより、意図せず偶然そこにあったのを見てしまったと言うような感じだった。だが見つけられた明かりはとても弱々しく、蝋燭の火のように揺らめき、星の瞬きよりも微かなものでしかなかった。手を伸ばせばその微風でも消し飛ばしてしまいそうな程に……。

 でもそんな事は関係無い。今は一刻も早くあの光に縋ってここから脱したい気持ちだけで一杯で、それ以外の事なんて考える余裕すら無かった。

 そこから先は必死だった、走っているのか飛んでいるのかすら分からなくなった曖昧な自分を鞭打って、彼女はその光の許へと急いだ。あの光を得られれば自分はここから抜け出せる……根拠なんて無い、あるのは直感だけだ、いつだって自分はそうして来たのだ……そう信じて生きて来たのだ。これまでも、これからも……ずっと……。

 彼女は信じて進んだ……自分の光を得る為に!










 「だが、辿り着く事は出来ない。永遠にな」

 自分の体内を忙しく循環する自分の物とは別のリンカーコアを感じながらトレーゼは呟いた。リンカーコアの魔力色は黄金色……そう、あの時ノーヴェと接触した瞬間に彼女から切り離したリンカーコアの一部である。本来リンカーコアと言うのは分割不可能である……と言うのも、リンカーコア自体が実体を持たない魔力の圧縮体なので、切り離した瞬間こそエネルギーの塊として存在する事は可能だが徐々に自然消滅してしまうのが常識だ。

 だがこの場合は少し特殊だった。

 「まさかノーヴェちゃんの『心』を根こそぎ削り取るなんて……お兄様ったら、やる事がえげつないですわね。あぁっ、でもそんなお兄様が素敵!」

 「ドクターの、残した論文の中に、リンカーコアに関する記述が、幾つかあってな、その中に一つ、興味深いモノがあった」

 右手の指に嵌めていた指輪型に待機していたマキナが輝き、指先から蜘蛛の糸のような細い魔力糸が伸びて虚空に円を描く。その円の中に展開された亜空間にトレーゼが自身の左手を挿入した次の瞬間、その左手が他でもない彼自身の胸板から飛び出して来た。以前地上本部にティアナの姿を借りて侵入した時にシャマルと接触したついでに彼女の得意とする空間操作魔法【旅の鏡】を収奪していた。空間を歪める事によって遠くにある物体や体内の異物ですら取り出せるこの魔法を使って彼が取り出したるは、黄金色に輝く魔力の塊……ノーヴェの持つリンカーコアの一部だった。

 「ある学者が言うには、人間は肉体、幽体、霊体の、三つで構成されているらしい。肉体は身体、幽体は精神、霊体は生命力……分かり易く言えば、こうだ。そして、リンカーコアは、精神と生命の状態に、大きく左右される」

 「つまりぃ~、魔導的に言えばリンカーコアは幽体と霊体を兼ねてるって事ですのねぇ」

 「今日は、頭の回転が良いな。そうだ……ドクターの研究は、リンカーコアと精神の関連性、についてだった。人の精神は脳にある……精神状態に左右されるなら、リンカーコアは、脳と同じ働きを、行う部分があるのではないか、とな」

 「それでどうでしたの?」

 「一度、大量の魔力を、こちらから流し込み、相手のリンカーコアを浸食……浮き彫りになった、理性を司る部分を、一気に吸い取った。今のNo.9は、言わば自分の感情だけで、動いている状態、動物と全く同じだ」

 精神部分を司る部分を一緒に切り離された事により、魔力の性質よりも精神状態を保つ機能が優先された結果として収奪したノーヴェのリンカーコアは辛うじて形を保っていられているのだ。そしてその精神部分が分離されたと言う事は、脳で言えば前頭葉に異常が起こった状態と同義である。前頭葉の異常とは即ち脳細胞の委縮及び死滅……高度な思考と理性を司るその部分が死滅すると言う事は、物事を深く考えたり自分の行動に歯止めが利かなくなってしまうなど、トレーゼの言う様に正に感情と本能だけで動く動物と同じ状態になってしまうのだ。実際に脳が損傷して起こる同様の現象を『アルツハイマー病』と言うが、ノーヴェの場合は直接脳にダメージを負った訳ではないので回復の見込みはまだある……トレーゼが奪ったリンカーコアを戻せばの話しだが。

 「でもぉ~、どうしてそんな事をしたんですか? そんなまどろっこしい真似しなくったって殺しちゃえばよかったのに」

 「あいつは、まだまだ使える余地が、残っている。今捨て置くには、少々惜しい。それに…………」

 「それに?」

 「あいつの、本当の感情を、推し量りたかった。タマネギの皮の奥にある、芯がどんな色をしているか、知りたくなっただけだ。艶があるか、腐っているのか……それだけだ」

 左手を引っ込めて亜空間を閉じ、そのままハンモックに飛び移ると目を閉じる。明日の作戦に備えて今出来るのは充分な休息を摂って英気を養う事だ、今頃はセッテも別の部屋で同じように待機しているだろう。ちなみに明日の作戦はセッテとの二人だけで行うのでクアットロのサポートは必要としておらず、当日は適当な仕事を与えて自分達に関わって来ないようにする手筈だった。そうとも知らない本人は気楽なもので、床を埋め尽くす論文の山に腰掛けて鼻唄を歌っていた。

 「もうすぐ……もうすぐさ。また、あの時に帰る事が、出来るんだ」




















 新暦62年某月某日、第69管理世界『コクトルス』にて──。



 老人ハルト・ギルガスは大いに悩んでいた。同じ科学者仲間であるスカリエッティが開発に成功した四機の戦闘機人、その一体を貸与と言う形で受け渡してもらったのは良いが、既にこれを譲り受けてから一年、研究の進行状況はと言うと……

 「何故だっ!? 何が足りない? 何故足りない? 理論上は、計算では何の問題も無いはずなのに! 一体儂の頭脳の何が足りてないと言うのだ!!」

 芳しくはなかった。既にこれで通算何百回目になろうか……今まで行って来た彼の試みはことごとく全て失敗に終わり、最早何もかもが万策尽きかけた状態に等しくなっていた。人間ここまで企てが上手く行かないとモチベーションが下がるどころの話ではなくなり、白髪混じりの頭を乱暴に掻き回しながら彼はシリンダーの培養液に浮かんでいる少年を恨めしげに睨みつけた。そんな彼の視線に気付くはずもなく、培養槽のトレーゼは固く閉ざされた両目を開ける事も無く静かに眠りについていた。

 万事休す……このまま行っても成果は無いと判断していたハルトは早くも自分の研究に見切りをつけようとしていた。

 「最早儂に出来る事は全てやってのけた…………後はこれだけだ」

 そう言って彼が取り出したのは一枚のディスク、ある非合法研究のデータが納められた情報媒体だった。このたった一枚のディスクに封入されている情報こそが、今の困窮した彼の現状を打開する為の最後の切り札であった。実を言ってしまえば彼は最後までこれに頼りたくは無かった。と言うのも、記録された資料内容は彼自身の研究ではなく同じ科学者繋がりで入手した真偽の定かではない研究成果だからだ。出来る事なら純粋に自分の力だけで成し遂げたかったのだが……そう言っていられるほどの余裕がある訳でも無し、正に藁にも縋る思いとやらでこれに手を出す羽目になってしまったのである。

 「『プロジェクトF.A.T.E』……史上初となる記憶転写が可能な素体か。試してみる価値はあるやも知れん」

 風の噂で耳にしたある違法研究……人間の持つ記憶や人格をそのままデータとして保存し、培養した新たな肉体にそのまま移し替えると言う斬新を通り越して異常性しか感じない技術が最近になって一応モノになって来ているらしい。もちろん倫理的な問題やコスト面の面倒さから裏世界の研究者でもよっぽど狂っている連中で無い限りは手を出さないらしいが……既にその『狂った』一部のマッドサイエンティストの間では浸透しつつあるらしい。そしてそのある意味都市伝説にも近い技術の背後には、あのスカリエッティの影がちらついているとも……。

 「ならば……ジェイルには悪いがもうこの素体は用済みだな。悪く思うなよ、だが約束は果たすつもりだ……」

 そう言って彼の手がコンソールに伸びてコードを入力し始める。程無くして完全にコードが入力され、シリンダーに満たされていた培養液に目には見えぬ変化が表れ始めた。それまで鮮やかな蛍光色をしていた液が徐々に濁り始めた。液中の酸素が分解された事によって肉体の細胞が崩壊を起こし、滲み出た大量の血液が黒ずんだ墨のように見えていた。自身の肉体がボロボロと崩れて行くと言うのに、強制的に眠らされたままの本人は結局目覚める事無く──、

 遂に機械骨格だけが残った。だがそれらも用無しなのですぐに処分するつもりだ。今必要なのは……

 「これだ……」

 排水を完了したシリンダーから彼が取り出したるは、全身の骨格を人工物に置き換える戦闘機人が唯一手を付けない部分、即ち頭蓋骨であった。残りのフレームを全て除去し、彼はそれを宝物でも運ぶようにして抱えながらラボへと戻った。眼窩辺りに残っていた小さな機器を取り除くと彼はまだずっしりと重いそれをデスクの上に鎮座させると、彼はそこを一旦離れて──、



 無骨な金槌で頭蓋骨を頭頂から叩き割った。



 「こぉれだぁ~! これが欲しかったんだよォ!!」

 人体の最も大事な部分を守るだけに硬さは半端無く、亀裂が入って僅かに隙間が開いただけだった。だが彼にとってはそれで充分だった。

 「待っていろジェイル! 儂は必ずお前の頭脳に追い付いて見せるぞ! 進化だっ、もはや成長と言う域を越えた現象に儂は到達してみせるぞ!!」

 亀裂の奥からもぎ取った“それ”を高々と振り上げながら彼はラボ全体に響き渡るような大声で笑っていた。





 この時に彼が行った行動が17年後の11月22日にミッドチルダにて勃発した一つの波乱の火種になろうとは、当然ながらこの時は誰も想像していなかった。



[17818] 時来たれり
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:e8674b3f
Date: 2011/01/09 10:08
 「戦いに正義は無い……。つまりは、全てが正しい、と言う事でもある」

 いつものシミ一つ無い純白の服を着こなしながらトレーゼはそう呟いた。隣で読書していたセッテが反応して顔を上げるが、別に誰かに言い聞かせる為に言った言葉ではなく、ただ本当に何の感慨も無く口から出ただけの言葉だった。だがそんな事は露とも知らないセッテは一旦本を閉じるとハンモックで揺れる兄の許へと近寄った。

 「また何か考え事ですか兄さん?」

 「いや……。別に、何でも無いさ。ただな……」

 そう言って自分よりも長身の妹にも見えるように腕時計の文字盤を見せた。二つの針は寸分の狂いも無く真上の“12”の位置を指しており──、



 「今日は、作戦決行日だ」










 新暦78年11月22日、第一管理世界ミッドチルダ全域──。



 その日、ミッドチルダは怒号と罵声に彩られていた。原因はその昨日に起こったある一つの事件にあった。

 スカリエッティ一派の生き残りを名乗る一人の少年からの全世界に向けての犯行声明……それが三年間の平和を無為に享受していた者達の寝耳に掛けられた冷水だった。かつて三年前にクラナガンを中心にミッド全域を不安と恐怖で覆い尽くしたジェイル・スカリエッティの狂気が再来したと言う事実は瞬く間にミッドだけでなく他の次元世界にも知れ渡り、それらの世界を統括する管理局は焦りを感じずには居られなかった。残された猶予はたったの一日、その一日で対策立てる事は到底不可能……ただただ焦燥感だけが背後から押し迫るだけでしかなかった。

 だが彼らが抱える問題はそれだけでは済まされなかった。

 今度は全管理世界の民衆が敵に回ったのだ。原因は当然ながら情報規制による隠蔽行為、害悪を成す敵が自分達の住む社会に潜んでいたのを知っていながらそれを半月にも渡って公表しなかった事実が痛手となり、世間の反感の目は一気に管理局に向けられたのだ。管理局側としては社会に混乱と動揺を招かない為にと考えて行ったのだが、そんな言い訳は民衆には通用しなかった事は言うまでも無い。昨日の昼過ぎに開かれた記者会見は生放送で電波に乗せられてメディアに流れ、誰もが等しく自分達を守ってくれているはずの組織の醜態を目の当たりに出来たと言う訳だ。日付が変わった今日でも朝の特番からその時の映像が再度流されており、それをネタにして各メディアの有名なジャーナリストや評論家達が呑気に討論なんかしている。もはやそうしているだけで無為な時間を過ごしているとも知らずに……。

 しかし、泣き面に蜂とはこの事か、これだけでは収まりつかない事態までもが発生したのだ。

 放送ジャックによって公開された情報の中にはかつてのスカリエッティに与していた十二人の少女兵の情報もあり、更正して社会復帰した彼女らの私的情報までもが漏洩されたのである。これに猪の一番に喰らい付いたのがマスコミと一部の民間人だった。偏った正義感を振りかざして言及する者も居れば面白半分で情報を更に別のメディアなどに流通させる者も居たが、結局その全ての被害を受けたのは話題の渦中に居る元ナンバーズらと彼女らを保護する管理局と聖王教会だった。未曾有の大事件の実行犯をたった三年と言う短い期間で社会に放ち、あまつさえそれを秘匿していたと言う事実は民衆の中で消えかかっていた加虐と報復の炎を再び燃え上がらせる結果となってしまい、格好の餌に齧り付くハイエナのように人々は彼女らに非難の声を高々上げている状況を作り上げてしまった。

 人々の声高な誹謗中傷は一日が過ぎた今日になっても収まりを知らず、この状況こそ“13番目”が意図して作り出した悪循環の模型図だと誰も気付かないままに時だけが流れて行った。










 午前10時32分、地上本部ゲストルームにて──。



 「さて……時間は大して与えられんかったが、ある程度各々の意思は固まっただろう。今ここでそれらを聞かせて欲しい」

 上座のソファに頬杖つきながら座るスカリエッティが目の前に居る七人の娘達にそれぞれ問うた。ソファに並んで腰掛けているトーレを始めとするナンバーズの面々は皆揃って神妙な表情をしており、石の如く押し黙っていた。本来ならばここに顔を揃えていなければならない者が後三人いるのだが、ウーノは昨日の一件で奪還されてしまい、ノーヴェは病室で眠らされており、セッテに至ってはあろう事か敵側についてしまったので当然ここには居ない。事実上このメンバーが正規ナンバーズの生き残りと言う事になり、その彼女らが現在一様に思考している議題があった。それは──、

 「“13番目”……即ち君達の兄に当たる者について今後どうするか。それが先日の別れ際に私が提示した議題だったはずだ。僅か一日で結論を出させるのは早計かも知れないが、そこは了承して欲しい」

 「よろしいのでしょうか? その……こう言った事は厳粛な会議の下で行われるべきでは?」

 「昨日も言ったが何も恐れる事は無い。司令塔であるハラオウン提督殿からこの件に関しては我々の総意を今後の絶対の方針にすると正式に言い渡された。それに今となってはいちいち面倒臭い会議なんて開いている暇なんかどこにも無い、我々だけで気兼ね無く決める方がよっぽど効率が良いと私は思っているよ」

 「でもそれって私達の出した結論でどうにでもなっちゃうって事ッスよね?」

 「責任重大と取るかどうかは君達次第だが、少なくとも私にとっては他人事だ。むしろ楽しんでいると言っても良い」

 「ドクターは気楽で良いですよね~」

 「だからこそ君達に回答要求を突き付けられると言うものさ。さぁ、そろそろ本題に戻ろうか。もう一度問うが、この事件が終幕を迎えた後で“13番目”が捕縛されていた場合────」



 「“13番目”の殺処分に賛成の者、もしくは反対の者……双方のどちらに属するかここで表明して欲しい」



 ミッドチルダの管理局法上、如何なる罪状を持つ者であっても死刑判決は下されない。犯罪者に対しても人道的処置を求めるこの社会の六法全書には直接罪人を殺めて裁く『死刑』の二文字は無く、事実上の死刑である永久凍結刑を除いてはスカリエッティらが受けている無期懲役や終身刑などが最高刑となっている。これはまさに社会貢献の実力と意思さえ持っていれば誰もが機会を手にする事が出来ると言う実力社会の有り様を如実に表していると言っても良いだろう。

 だがしかし、この法には穴とまでは言わないがある決定的な特徴を持つ部分があった。

 それは、この法が人間のみに適用されると言う事だ。この魔法技術が日常においても目にするぐらいに発展した管理世界では、人間以外にも社会で生活を営む知的生命体が多く存在している。狼の使い魔アルフ、現在は英国にて隠遁中のリーゼ姉妹、守護騎士ヴォルケンリッター、ユニゾンデバイス、召喚蟲ガリュー……例を上げればきりが無く、これらは全員管理局の基準によって人間と変わらぬ生活を営め、更に人間社会に溶け込む上でも問題無いと判断される者とその候補である。使い魔に限って言えば基本的に契約主である魔導師に忠実なので殆ど有り得ないが、彼らが死罪に匹敵する罪状を作ってしまった場合は容赦無く殺処分が敢行されるのである。死刑にならないのはあくまで管理局によって純粋な人間と判断された者だけであり、それ以外であれば例え人の格好をしていたとしても無視されるだけだ。三年前の事件ではナンバーズの面々は『人間』と認定され、個々人に更正と黙秘の権利が認められたが……。

 「もし殺処分になったら私達は一体どうなのさ?」

 「今回の一件は特例中の特例として扱われるだけさ。君達ナンバーズとは別のモノとして情け容赦無く執行される」

 「そっか……」

 「して……結論から行こうか。順番に意思表明を頼む。なお、賛成か反対かについては個々人の感情一つで判断してもらいたい。その方が明確で良い」

 催促するスカリエッティとは対照的にナンバーズの面々は相変わらず押し黙ったままだった。この談義を要約すれば即ち多数決、七人しか居ないので必ずどちらかの意見が決定稿となるのだ。ただ単に自分がどちらに属してどんな理由でそこに属するかを明らかにするだけなのに、彼女らは戸惑い意味も無い腹の探り合いをするだけでしかなかった。一体誰がどんな感情を抱いているのか……一度疑問を覚えればそこから先は底無しなのが人間の性と言う奴だ。

 そんな永遠に続くかと思われた沈黙を最初に破ったのはトーレだった。それまでずっと伏せていた顔を上げると凛とした表情で挙手し、開口した。

 「私はあいつの『姉』で、あいつは『弟』だ。個人的な理由だがその『弟』が処理されるのは『姉』として辛抱ならない」

 トーレ、反対。

 最初の一人が表明してから先は簡単だった。沈黙を破ってもらったお陰で固い口が緩み、トーレの製造序列がこの中で最初期だった事もあって番号の順番で表明しようとする動きが暗黙の了解となって他の姉妹達を動かして行った。

 「確かに“13番目”は非人道的行為に手を染め過ぎてはいるが、かつての私達と同じナンバーズなら……更正可能な余地はあるはずだ」

 チンク、反対。

 「私は…………シャッハや騎士団の皆を傷付けたのがどうしても許せない! だから私は……殺しても良いと思ってる」

 セイン、賛成。

 「セインの言う様に、あの大量殺戮と破壊は許せる事じゃない……。単純な話になるかもしれないけど、生きていて償える事じゃない」

 オットー、賛成。

 「私達を騙してたのは許せないけど……殺したりなんかしたらノーヴェが悲しむから」

 ディエチ、反対。

 「同じ理由になるッスけど、スバルの泣いてる顔は貴重でも見たくないッス」

 ウェンディ、反対。

 「存在しているだけで被害が及ぶなら処分した方が確実です。例え冷酷だと言われても……」

 ディード、賛成。

 特に大した意見のぶつかり合いも無く、スカリエッティ含めたった八人の会議は反対多数と言う結論で一旦の閉会を迎えた。傾向としては“13番目”による被害を直接受けた教会組が賛成で、それを殆ど受けていないナカジマ家が反対と言う分かり易い分かれ方となった。

 「ノーヴェはどうなるんですか?」

 「平静を取り戻せば是非とも聞きたい所だが、生憎と敵はそれまで待ってはくれんだろう。何しろ相手はこちらの都合などお構い無しに突き進んで来るからなぁ」

 渦中のキーパーソンでありながら全く他人事のような気軽な口調で言ってくれるスカリエッティ。その軽い物言いに全員の呆れた視線が突き刺さるが当然気にするはずもない。

 「はてさて、ここから先は一体どうなることやら」










 午後12時03分、トレーゼのアジト──。



 「これで良し。ベッドを用意したから、あとはそこで、安静にしていろ」

 使い終わった応急処置キットをセッテに手渡しながらトレーゼはヴィヴィオを抱きかかえて予め用意しておいた簡素な作りのベッドに横たえた。培養液の細胞活性によって皮膚表面の傷がある程度修復した腕を固定する為にギプスや包帯の巻き付けをついさっきまでしていたのだが、予想以上の回復に隣で見ていたセッテの方が驚きを隠せていなかった。恐らく粉砕骨折した部分が再生するのにそれ程時間は掛らずに済むだろう。

 「気分は如何ですか陛下?」

 「セッテさん……。セッテさんも腕、大丈夫なんですか?」

 「問題はありません。既に傷口の修復は完了していますので」

 そう言ってセッテは包帯が巻かれた右手をヒラヒラと振って見せる。上手い具合にフレームを傷付ける事無くナイフが刺さった為、あとは戦闘機人の再生力で何とかなった。作戦開始時刻には傷痕すら残らないだろう。対するヴィヴィオの方は右腕全体をギプスでガチガチに固定し、器具を使って釣り下げている状態にしてあった。完全に骨格が再生修復するのにはまだ時間が掛かるがこのまま順調に行けば支障無く再生出来るだろう。

 「あの……ありがとうございます」

 「礼なら兄さんにどうぞ。ワタシはただの補助ですから」

 「あ、はい。ありがとう、トレーゼさん!」

 ベッドから顔だけ向けて礼を述べるヴィヴィオであったが、それを言われているトレーゼは聞こえているのかいないのか返事もせず読書をしていた。ぴったりと三十秒ごとにページを捲りながら一定の速度で読み進める彼の目は水晶のように透き通り、いつもと同じ何の輝きも宿さない目をしていた。

 ふと、しばらく黙々と本を読み進めていた彼だったが不意に立つとセッテに本を仕舞わせて部屋を出ようとした。

 「シュミレーションを、行うぞ、セッテ。先に、行っていろ」

 「了解しました」

 「あと、この部屋には、クアットロ避けに、結界を張る。後でウーノにも、伝達しておけ」

 「はい。それでは陛下、失礼します」

 兄の命令に従順なセッテは余計な口を挟む事もせず言われた通りに部屋を出ると目的の場所へと向かい始めた。部屋に残ったのはトレーゼとヴィヴィオのみ……幼いヴィヴィオには重苦しく感じられる沈黙が横たわった。その冷戦にも似た互いの沈黙がどれだけ続いたかは分からないが、先に口を開いたのはトレーゼの方だった。

 「何か、言いたい事が、ありそうだな」

 近くにあったパイプ椅子を寝ているヴィヴィオの枕元に寄せてそこに座ったトレーゼ。二人の視線が互いの眼を捉え、さっきとは違う感覚の沈黙が生まれた。どうせ何を言っても無駄だろうと諦めていたヴィヴィオは見透かすようなその一言で心を引き締めたのか、幼い年齢にそぐわない意を決した表情となってトレーゼとの対話を求めた。

 「戦うんですか?」

 「ああ、そうなるな」

 「っ!!」

 一分の迷いも無いその返答に危機感を覚えたのか、ヴィヴィオは必死になって食い下がった。

 「ダメっ! 絶対にそんな事しないで! しちゃいけないよぉ!」

 「何故?」

 「なんでって……! 何もいいことなんて無いよ……」

 「そうだ、単に戦っただけでは、得られるモノなど、何一つ無い……。良く分かっているじゃないか」

 そう……戦った先にあるのは“勝利”と“敗北”言う名ばかりで実の無い空虚なモノでしかない。そんなモノを得て天狗になるのは戦士だけだ、戦士は戦って戦って戦い続けて勝利の美酒を勝ち取り続ける存在だからだ。

 だが彼は違う。彼は戦士ではない……『狩人』なのだ。無益な戦いを避けて通り、確実に勝てる勝負でしか命を懸けず、勝利のその先にあるモノを奪い取る……猛獣を仕留めた猟師がその肉と毛皮を剥ぎ取るのと同じで、彼にとって勝利とは真の結果を得るまでの過程に過ぎない。故にこれから行う事も他人から見れば単なる大量殺戮と破壊の限りであったとしても、首謀者であるトレーゼ自身にとっては意味のある行為である事に変化は無い。幼子であるヴィヴィオの社会論をかざした正論では計り切れるものではない。

 それでもやはり割り切れるものではない!

 「みんな……みんな悲しむよぉ……」

 「悲しむ者など、誰も居ない。俺も、お前も…………あいつらも、誰も、悲しまない。そうだろう?」

 「そうじゃなくて……!」

 「ああ、そうか、お前の身内が、心配なのか。安心しろ、取り引きに、呼び出した奴は、始末しないで────」

 「そうじゃないっ!!!」

 部屋中に響いたその大声にトレーゼは思わず自分の体が驚きに跳ね上がるのを感じた。こんな年端も行かない小娘の体のどこにそんな声を出せるだけの力があるのか不思議になる程だったが、すぐに平静を取り戻すとトレーゼは興奮して息を荒くしているヴィヴィオと向き直った。その時の瞳はそれまでのような氷を削ったような無機質な色ではなく、真摯な感情を湛えた輝きを持っていた。

 「人殺しが、何故いけないと、思うんだ? 法律に、記してあるからか? 生来の、道徳心が、拒絶するからか? 周りの大人が、そう言い聞かせたからか?」

 「それは……」

 「お前達が、社会の規則を、正しいと思うように、俺もまた、自分の行いを、正義だと信じている。お前達が、声高に俺を批判しようと、俺の善悪は、俺が判断する……世界でもなく、お前でもなく、同じナンバーズでもなく、この俺が判断する」

 「自分勝手だよぉ……」

 「だが、悪ではない。俺にとっての、“悪”とは…………自らの行為を悪だと認めてしまう事だ。自ら行った、行動に、自信を持てず、社会の言われるままに、『自分は正しくなかった』と、挫折する事……善悪の概念で、括られなければ、自分を保てない、愚か者の思想だ」

 普段の彼からは想像もつかない力強さでそう言い切ったトレーゼは、ゆっくりと自分の右手をヴィヴィオの頭に置いた。そのまま少し軽く撫で上げ、ブロンドの髪に指を優しく梳き通した。人が変わってしまったようなその慈愛に満ちた行為にヴィヴィオは完全に惚けてしまった。だがそんな事も気にする事無くトレーゼは更に自分の言葉を連ねた。

 「俺は、いつだって、自分を信じて来た……自分の、信じるモノを信じて、ここまで来た。俺のこの行動も、一分の隙も無く、正しい正義だと、俺は確信している。そして、それを捻じ曲げる事は、誰にも不可能だ」

 「でも……でもっ!」

 「分かれ、とは言わん。分かって、欲しくもない……お前は黙って、成り行きを、傍観していれば、それで良いんだ」

 「……………………」

 「…………だが、俺の行動で、お前が悲しむ、と言うのなら……」

 「っ!?」

 「今夜の作戦内容……考えて、やらん事も無い」

 それまで頑なな態度を崩さなかったトレーゼの最大の譲歩にヴィヴィオの表情が輝いた。興奮で跳び起きそうになった体を自制し、彼女は必死になって訴える。

 「お願いです! もう誰も殺さないで!」

 「……それが、お前の要求か?」

 「もう……もう誰も傷付いてほしくない……ママも、スバルさんも、ノーヴェさんも…………これ以上はもう……」

 「…………………………………………よし、約束しよう」

 トレーゼが左腕を伸ばして来た。差し出された左手は握り拳に小指だけが立っており、どこで知ったかは不明だが地球の極東式口約束の方法だった。恐る恐るヴィヴィオも健在な左手を同じように小指だけ立てて出し、互いに小指を引っ掛け合った。

 「今夜、俺は、誰一人殺しは、しない。無血開城、させて見せる。お前のママも、その仲間も、絶対に殺しはしない」

 「……本当ですか?」

 「契約を違えたなら、針千本なり、万本なり、この体に刺せ……。俺は、有言実行だ、安心しろ」

 そう言いながら彼は指切りの左手を上下に揺らして約束した。

 とても不確かで曖昧で、他の誰が聞いても忘れてしまいそうなぐらいに儚い約束を交わした二人……。普通なら疑いの念を持ち続けたり、殆どが約束を交わす所まで到達せずに切り捨ててしまうのが常識だ。

 だが彼女は違った。

 紅翠双眼の少女はその者の心のどこかに信用に値する何かを見出していたのかも知れなかった。










 午後12時17分、地下施設内の訓練室にて──。



 「それで結局どうなされたのですか?」

 三年振りに着用した防護ジャケットの強度と柔軟性を確かめながらセッテはアップをしている兄に問うた。

 「所詮は、乳臭い子供だ……。こちらが、ほんの少し、甘やかしてやったら、すぐに大人しくなった。単純だな、呆れて言葉も無い」

 片手腕立て伏せに始まり二十のプロセスを経て今ようやく腹筋鍛錬連続50回を終えたトレーゼがセッテの前に立ち塞がる。鉄面皮の表情とは裏腹に準備運動を終えたその両肩は呼吸ごとに上下し、程良い調子に温まった頬は少し赤味を増していた。対峙し合う二人は互いに得物を構えておらず、制限時間二十分の間は徒手空拳で格闘訓練を行う予定だった。

 「残っていた、ジャケットを、適当に見繕った、だけだったが、サイズは合っていたようだな」

 「ほんの少しだけ小さな気もしますが、戦闘行動を取る上では問題ありません。それで……教えていただけませんか?」

 「何をだ?」

 「惚けないでください。貴方の本当の計画の目的をそろそろ教えてくれてもよろしいのではないですか?」

 「ウーノから、聞いたのか?」

 「いいえ、ワタシは貴方の妹ですから……」

 「なるほどな……聡い奴だ」

 観念したかのような感じでトレーゼは緊張を解くと、背中を壁に預けて腕組みの姿勢を保ちながらセッテと向き合った。セッテも同じように壁に背を預けて兄の横に並び立ち、これから兄が話してくれるであろう事実に耳を傾けて静かに待っていた。だがしかし、一度沈黙したトレーゼはずっと俯いたまま何も語ろうとする気配が無い……。

 「兄さん?」

 「……………………」

 彼の顔を覗き込むと、彼にしては珍しく思慮深く考え込むような表情をしているのに気付いた。話すべきか話さずに居るべきか……どうやらそれについて悩んでいるらしい。確かに姉であるウーノにすら明かさなかった事を考えればそう易々とは話してくれる事はまず無いだろう。元々口は固い方だ、これ以上言及したとしても収獲は無いだろう……そう思ってセッテが離れようとした時──、

 「蛇が脱皮するのは、どうしてか、知っているか?」

 「え?」

 「蛇だけ、ではない……水辺の甲殻類は、ほぼ例外無く、脱皮を繰り返して、成長する。何故、硬い殻を捨てて、再び形成されるまで、外敵だらけの世界で、柔肌を晒すのは、どうしてだと思う?」

 「堅牢な外骨格に覆われたままでは内側からの成長の妨げになります。一度外殻を脱ぎ捨て、表面が未成熟で柔らかい内に一気に拡大させる為です」

 「つまりは、そう言う事なんだよ」

 悟ったようにそう言うとトレーゼは両手を頭の後ろに組んでスクワットを始めた。五秒に三回のペースでそれを繰り返す彼を呆けたような表情でセッテは見つめる……未だにこの兄の真意が計りかねない事に少し不満を覚えたのか、彼女は腹いせするかのように軽くトレーゼの足を小突こうとして──、

 爪先を踏まれてしまった。

 「甘いな、不意討ちなら、本気で来い」

 「っ! ……っ!!」

 神経の集中する指先を正確に踏み潰されてしまったセッテはしばらく片足を押さえながら悶えていたが、やがて痛みに慣れると少し恨めしげな視線を兄に突き刺した。だがやはりそんな事も気にせず当の本人は再び温まった体の感触を確かめながら訓練室の中央まで戻った。

 「さて、今から行う、戦闘シュミレーションだが、一対複数の戦闘を、仮想して行う」

 そう言った次の瞬間に足元に魔法陣が展開され魔力を押し固めて生み出された実体を持つ幻影が二体現れた。鏡映しのように寸分の相違点も無い幻影は本体の動きに合わせて格闘の構えを取った。トレーゼの持つ膨大な魔力を利用して生成されたこの二体は物理的干渉力を持たない幻影の域を出ており、完全に実体化して質量もオリジナルとほぼ遜色無いレベルにまで達していた。操作自体は本体であるトレーゼ本人が行うのだろうが、セッテは実質三人も一度に相手取らなければならなくなったと言う事だ。

 しかし、ただの複数相手を想定した訓練ではない事は察しがついた。

 「ライアーズ・マスク……発動」

 疑似魔法陣の輝きと同時に三人のトレーゼの姿が一斉に変貌を遂げた。一方は髪が長くなり、一方は身長が短くなり、そしてまた一方では筋肉の量が大幅に変化して行くのが見て取れた。変化の結果は千差万別にも見えたのだが、実際の三体に共通していたモノがある、それは──、

 「なるほど、そう言う趣向ですか……」

 溜息を吐きながらもセッテも構えを取った。今彼女の眼前に居る兄の姿は完全変化の能力で姿形を原形とは掛け離れたものへと変えていた。身長……体重……髪型……体格……眼の色……そして──、

 性別。

 「そうがっかりしたような反応を返すな。姉は……いや、『兄』は悲しいぞ」

 「この訓練にはこうしたやり方が一番合ってるから仕方ないんだよ」

 「いいか、本気で行くからな! 気を抜いてるとブッ殺しちゃうかもよ?」

 目の前に居るのはセッテよりも先に生み出されたチンク、ディエチ、セインの姿だった。自分と同じように防護ジャケットを羽織るその容姿はもちろんの事、話し口調から佇まい、各々の一挙手一投足までもが何もかも完璧にコピーして再現されており、チンクに至っては眼帯までもが寸分違わぬ再現度を実現している程であった。

 今から行う戦闘訓練は今夜の作戦を想定している……と言う事はつまり、その為にわざわざ彼がこの三人の姿になったと言う事は即ち指し示す事実は一つだけだ

 「ワタシに姉殺しをしろと仰るのですか?」

 あの時彼が言っていた言葉……「戦う相手は七人で良い」と言っていたのはこの事だったのだろう。確かに現在管理局に属しているナンバーズは教会組の三人とナカジマ家の四人……今夜の作戦でこの兄が数千の武装局員の軍勢をどうにかする策とやらを用いれば、自分達二人が戦うのはその七人だけで済むと言う話だ。だがしかし、この兄がいざ戦闘になって相手を根絶やしにしないはずがない……きっと有無を言わせぬ内に同胞であった者でも躊躇せず排除するだろう。

 「いいや、あくまでお前は兄の補助だ」

 「セッテが前衛に回ってる間に私が撃つ……」

 「簡単だろ? でも責任重大だからな?」

 そっくりそのまま姉の姿を模したトレーゼの言葉にセッテは徐々に戸惑いを覚え始めた。

 あまりにも精巧に複製された三人の姿……偽物だと頭で分かっていても、その姿、その声、その仕草の一つひとつが本物以上の存在感を醸し出している所為でセッテの頭は混乱し始めていた。今目の前に居るのは本物の姉なのか? それともさっきまでのあの兄の姿こそが紛う事無く本物の姿なのか……。

 分からない、どんどん分からなくなってしまう!

 頭を軽く押さえて落ち着こうとするが苛立ちにも似たその思考の波は抑え難く、彼女は少しずつそれを隠し切れずに眉をひそめている自分が居る事に気付き始めた。

 「すみませんが、せめてその口調だけでも何とかしてもらえませんか? 集中出来ません」

 懇願するつもりの言葉だった。このままこれを続けたままで訓練に入ってもきっと彼女はまともに相手をする事が出来ないだろう……。だからこれはせめてもの頼みのつもりの言葉だった。

 だが──、

 「何を臆しているんだセッテ? これは今から行う訓練に必要不可欠な措置に過ぎない」

 「ですが────!」

 「もう一度言うよ? これは必要な事なんだって」

 ディエチの幻影が進み出て諭すようにそう言ったのをきっかけに、セッテの認識が大きくズレ始めた。一度そうなってしまうと止まり難いのが人間の部分の欠点だ。

 実体化した幻影だから本体は一人だけのはず……さっきのディエチの話し方はまるで人間が話しているようだった。だとすれば今はディエチの方が本体か? いいや、記憶が正しければ本体が変化したのは確かにチンクだったはずだ。だがさっきから不敵な笑みを浮かべているセインの方も怪しく思えて来た……。誰だ……一体誰が本物なのだ!?

 誰が本物かを見失ってしまったセッテの僅かな動揺を察したのか三人の幻影の足元に再び疑似魔法陣が出現した。はっとなるセッテに三人が三人とも含みのある笑みを浮かべており、程無くして全員の体がまたもや変貌を始めようと紅く光りだした。代わる代わる変化して行く様子を戸惑いながら見つめるセッテはいつしかその光景に得も言われぬ狂気を感じ始めていた。

 「いいか? お前は今よりも強くなる必要があるんだ」

 チンク──。

 「その為にはどうしてもこの方法が一番なんだよなぁ~」

 セイン──。

 「ひょっとして躊躇ってる? だとしたら何で?」

 オットー──。

 「まさかとは思うけどよ、お前ひょっとして相手があたしらだから殺せないなんてアホらしい事は言わないよな?」

 ノーヴェ──。

 「そうだとしてもセッテには殺すぐらいの気概でやってもらわないと困るから」

 ディエチ──。

 「真面目にやらなくったって別にいいッスよ。その時は後ろから撃つだけッスから」

 ウェンディ──。

 「それがお嫌だと言うのであれば、全力で臨んで欲しいです」

 ディード──。

 絶え間無く姿を変える三人の幻影はいつの間にかセッテの精神を追い詰めてしまっている事に気付かず、徐々に彼女を壁際へと追い込んで行った。始めは戸惑いの表情を浮かべながらも何とかその場に踏ん張っていたセッテではあったが次第に心が折れて行ったのか、やがてその端正に整った顔に焦りによる嫌な冷や汗が滲み出し、後ろ向きに一歩退いてしまったのを最初にして後は総崩れ……恥も外聞も関係無くただただ後ろへと逃げるだけだった。

 「あっ……や、やめ……っ!」

 窮鼠とはこの事か、壁に沿って徐々に徐々に追いやられ、いつの間にかセッテは自分が部屋の隅にまで逃げて来ていた事に気付いた。錯乱寸前にまで追い詰められた彼女に残された必死に腕を振って追い払う行動を示した。今の彼女はつい先日に駅構内で混乱した時と全く同じ心理的状況に立たされており、自らの感覚内に捉えたモノ全てを激しく拒絶し始めていた。強い拒絶の意思が込められたその行動にトレーゼと幻影は少し距離を置いたがそれも少しの間の事でしかなく、再び不定形生物の如く姿を変化させながら接近を再開した。

 もはや本人の意思など関係無い……拒絶の姿勢を見せるならそれを徹底的に否定して上書きすれば良いだけの話だ。トレーゼは自分の妹にそこまでして自分のやり方を強要した、しなければいけなかった…………そうしなければこの戦いには勝てないと知っていたからこそ、彼女にそれを強要しているのだ。

 だが──、

 「やめてぇぇっ!!!」

 「ム……!?」

 拒絶意思が臨界点を突破してしまったセッテの昂り過ぎた感情がエネルギーとなって体外に放出され、疑似魔法陣を介して飛び出した桜色のエネルギー奔流が颶風の如く訓練室全体を駆け抜けた。余りにも凄まじいその衝撃は魔力で形成されていた幻影は一瞬で消滅させ、トレーゼ本体のライアーズ・マスクまでもが強制的に解除される程の激しさであった。流石のトレーゼもこれには驚いたのか瞬時にバックステップで距離を取り、自身に異常が無いかどうかを確認した。戦闘機人の動力炉が内包するエネルギーを解放してしまえば小型の核兵器にも匹敵する出力が得られる……もし今のでリミッターが外れていたら転移魔法を発動させる間も無く一瞬でこの孤島全体が消えていたに違い無い。

 戦闘機人のシステムとして最後の奥の手と言う事で個々人の意思でのリミッター解除はある程度許容されてはいるが、感情の昂りだけでここまでのエネルギーをばら撒いて良い訳が無い。案の定、急激に自身の体力と気力、そして駆動系のエネルギーを全て消費してしまった所為でセッテはだらしなく膝をつき、そのまま一歩たりとも動けなくなってしまっていた。

 「まさか、自分のエネルギーの、扱い方まで、満足に出来ない、とはな……。お前には、再教育が必要だな」

 一歩間違えれば今夜の作戦どころか命までをも失い兼ねなかった事実にトレーゼは苛立ちを覚え、壁際にもたれ掛かってピクリとも動かない妹に詰め寄った。淡い桃色の長髪があられも無く振り乱されており、長いその髪に端正な顔もすっかり覆い隠されていた……まるで糸の切れた人形みたいに動かないセッテを怪しみ、トレーゼは乱暴に髪を引っ掴んで自分の方に引き上げようとして──、



 彼女の『異常』に気付いた。



 「……………………そうか、そうだったんだな」

 「あぁっ……ああ、うああ……」

 引き千切らんばかりの握力で掴んでいた髪を離すと、トレーゼは乱れている妹の髪を自ら整えその頬を優しい手付きで撫でた。小刻みに震え続ける肩に腕を回してそっと抱擁し、眠らない赤ん坊をあやすようにして背中を何度もゆっくり優しく叩いていた……少しでもこの妹が落ち着けるようにと。

 「済まない事を、してしまった。赦せ」

 「はぁ……はぁ……はぁっ」

 がっしりと自分の背にしがみ付く手の感触を確かめながら、トレーゼは彼女の頭を撫でる。ある程度落ち着きを取り戻してからそっと離れると横に並んで座り込み、脱力してもたれ掛かって来たその頭を抱きかかえた。寒さに耐えきれないように震えるセッテは長身を折り曲げて小さくなっていて、雷に怯える子供のように頭を抱えてただ震えているだけだった。そして……実際彼女は怯えており──、

 「そうか…………お前、人間が、怖いんだな?」

 見開かれた目からは今まで一度も流した事の無かった涙が溢れていた。










 午後12時35分、クラナガン医療センターのロビーにて──。



 「本当にすみません! 僕達がもっとしっかりしていたらこんな事には……!」

 「お役に立てなくてごめんなさい!」

 昨日の鹵獲作戦に参加したメンバーで生き残っていたのはたったの三人……エリオとキャロ、そして今回の一件で協力関係を結んだルーテシアの三人だけだった。幸いにも三人とも大して目立つ外傷は無かった事もあって回復も早く、直接戦闘を避けていたルーテシアも契約していた蟲の数匹を失っただけで済んでいた。あの大惨事とも取れる過酷な作戦を生き延びたのは喜ばしい事だったのだが、どうやら作戦が失敗に終わってしまった事が堪えていたようであり、医療センターで怪我の検診を受けていると聞いてせめて労いの言葉ぐらい掛けようと思って見舞いに来たはやては土下座せんばかりに頭を下げる二人と出会った。

 「ちょ、ちょっと二人とも! そない頭下げんでもええんやに!? 元々は指揮執ってた私の技量が足りやんかったからで……」

 「でも! 最後の最後でウーノさんを守っていたのは僕達でした! 僕達が頑張れなかった所為で……あんな事に……!」

 「エリオ……そないに気に病まんでもええんやに? あの“13番目”を前に逃げんかっただけでも充分やってくれたって思うてるよ……。ありがとうな」

 今自分が持ち得る最大級の賛辞と感謝の言葉を投げ掛け、はやては頭を下げたままの二人を優しく抱き留めた。まだ幼さ残るこの二人はこの利益無き戦いの最大の功労者だ、このまま頭を下げたままにさせておくのは忍びない上に二人自身にも失礼だと感じたのだろう。半ば強引ながらも顔を上げさせるとはやては少し恥ずかしそうに身を捩る二人の頭を撫で回した。

 「本当にありがとう…………」

 「はやてさん……」

 「うっ、ううっ……ご、ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 「謝らんといて。可愛い顔が台無しや」

 泣きじゃくるキャロを何とか落ち着かせた後で備え付けの長椅子に座った時、彼女は糸が切れたように眠りに落ちた。聞く所によると昨日は全く一睡出来ていないらしく、ずっと何かに怯えたような感じで夜を過ごしていたと聞いた。その理由は……

 「そうか、目の前で隊員が……」

 「僕とルーは何とか耐え切れましたけど、やっぱりキャロにはきつかったみたいです。主治医の方が内緒で言っていた事では、このままだと心に深い傷を残す可能性も……」

 「トラウマか……キツいなぁ。武装隊は殺し殺されが基本やからしゃーないって言えばそうなんやけど……」

 人間やはり自分と同じ種族を殺す事、もしくは殺される瞬間を目の当たりにする事に抵抗感を持たない者は少ないだろう。ましてやそれが本来であれば血生臭い出来事とは無縁のはずの十代前半の少女ともなれば尚更だ。眼前で人間が惨殺された上に丸ごと粉砕された光景を見れば大抵の人間は一生それを忘れられないに違いない。そしてそれはトラウマと言う精神障害となって表れてしまう……。

 はやてはか弱い彼女を戦場に駆り出してしまった事を後悔し、項垂れていた所──、

 「あの、はやてさん……」

 「……え、ああ、何?」

 「一つ確認しても良いですか?」

 「うん? 私に答えられる事やったら何でも聞いて。基本的にもうこの件で秘密にせなあかん事なんて何もあらへんで」

 「はい……えっと、その……」

 事実、“13番目”の存在を管理局が公に認めて公表した今、もはやその件で秘匿制限などの義務は無くなっているのでここで何を話そうがまるで問題は無い。だがそれを知っているのか知らないのか、エリオは自分から切り出したクセに奥歯に物が引っ掛かったみたいに歯切れが悪く、なかなか本題を話し出せないでいた。だがそれ以上の間を置く事無く意を決した表情になると、勢いを付けるようにはっきりと訊ねた。

 「スバルさんとノーヴェさんが“13番目”に加担してたなんて嘘ですよね?」

 「……あぁ、その事か……」

 エリオの訊ね方……『本当なんですか?』ではなく『嘘ですよね?』と聞く辺り、彼自身もまた彼女らが管理局を裏切るなどとは毛頭思っていないのが見て取れるだろう。ついぞ三年前まで寝食共にした仲間を疑いたくはないのはあの時のメンバーであれば誰でも同じ気持ちなのは当たり前だろう。はやてはエリオに事の顛末の全てを話し聞かせた。この二週間でスバルとノーヴェに共通の友人が現れた事……Dr.ギルガスの研究資料にあった写真からその友人が“13番目”だと発覚した事……その事実からスバルとノーヴェに幇助罪の疑いが持ち上がった事……事情聴取を行った時に逃走を図られて疑いが増した事……だがその疑念は“13番目”によって直接否定された事……しかしその否定はスバルのみだった事…………文字通り包み隠さず全てを話して聞かせた。

 「そうだったんですか……」

 「ノーヴェは今本部のベッドに縛り付けておるよ。誰とも会えへん状態やって聞いてる」

 医師の判断で睡眠薬を投与され強制的に眠らされていると言う彼女は、今はその精神に多大なダメージを負っているので本当に誰とも会えず、むしろ会わせてもらえない状態にあった。担当医の言う事によれば、現在認知されている如何なる精神攻撃の魔法を以てしてもここまでなる事は無いと言う話だった。

 「“13番目”の方針については?」

 「スカリエッティ曰く、今夜が最後の最後に残ってるチャンスらしい。イチかバチかの大博打……当たれば事件解決、外せば……」

 「外したら?」

 「このクラナガンはお終いや」

 その言葉にどんな真意が含まれていたのかエリオには薄らとしか理解出来なかった。敵の目的はスカリエッティの奪還以外には無いはず……もし仮に今夜の正念場でこちらが惨敗に喫しても、犯罪者一人を奪い返されたと言う事実以外には何も無いはずだ。“聖王のゆりかご”と言う究極の研究対象が消滅した今となっては彼らがこれ以上版図を広げる可能性は低いとも考えられる。それは管理局の誰もが分かっている事だ。

 だがはやてははっきりとこの機を逃せばお終い、つまり敗北にのみならずと言いた気だった。それ即ち、彼女は“13番目”の計画達成の余波はもっと他の所で発生すると予見している事になる。こちらの予想の斜め上、180度真逆の発想……そして導き出される結果と言うの名の解答。そのイコールの記号の先にあるモノが何なのか……今の状況では完全に解き明かす事が出来ないのが歯痒かった。










 「…………最初に感じたのは初めての出撃の時でした……」

 幾分か落ち着きを取り戻したセッテを抱き留めながら、トレーゼは静かに彼女の言葉に耳を傾けていた。彼女が自身の深層心理の中で人間を怖れる理由……人間を殺す事を目的に造られた戦闘機人として重症とも言える欠陥を抱えた妹の真意をトレーゼは推し量ろうとしていた。

 「予めトーレから戦技教導を受けていたワタシは絶対の自信に満ちていました。あの時、予定空域で待機していたワタシ達に課せられた任務内容は『航空勢力の速やかなる排除』……増援として向かって来る航空武装隊を迎撃して全滅させると言うモノでした」

 「……………………」

 「装備を持ったワタシはトーレと共に敵陣に突貫して……ワタシは教えられていた通りに彼らを撃墜しました」

 「……大したものだ」

 「トーレにも同じように褒められました。『上出来だ』って……。でも…………本当は違いました」

 「……………………」

 再び怯えに震え始めたセッテの体を強く抱き留める。氷のように冷たい腕を回されても彼女は抵抗どころか逆に自分よりも小さなその体に身を埋めようとして必死に震えを抑え込もうとしていた。

 「最初の一人を墜とした時に悲鳴が…………次はワタシに迫って来た人の雄叫び…………仲間を撃墜された人の激昂…………浮力を失って落ちて行く時の泣き声…………そして、ワタシに向けられていた全員の怨嗟の声……」

 「……聞こえ、過ぎていたんだな。殺す時に、非情に、徹し切れなかったから、断末魔に、惹かれて、恐れを成してしまった」

 「あれからワタシは複数人を相手に戦闘行動を取る事は……出来難くなってしまいました。一人なら問題は無いのですが…………あの時の何もかも入り混じった声や視線を二度と感じたくないんです……」

 死の間際に放たれる人間の強烈な思念の塊や渦とも言えるその奔流……それを真に受け止めてしまったとなれば人を殺める事に抵抗を覚えるのも無理無いだろう。恐らくこの先彼女は二度と大量の敵を相手取る事は不可能だろう。もし無理矢理にでもそうさせれば彼女の精神は病み続け、最後には内側から醜く歪んで朽ちて行くだろう。

 兵器でありながら一度に多くの人間を殺す事が出来ないとは落第点どころの話ではない。存在意義そのものが大きく揺らぎ崩れようとしていると言っても過言ではないのだ。三年前では地上本部襲撃以来は大多数と戦闘する機会が無かったので、恐らく教育者のトーレですらこの事実に気付いてはいないのだろう。否、むしろ同じ姉妹であった他のナンバーズらも知りもしないはずだ。

 そんな自分の膝の上で小さくなっているセッテを見つめながら、トレーゼはふと何気ないような口振りで質問を振った。

 「…………セッテ、お前は、何だ?」

 「え……?」

 「俺達、戦闘機人は、機械であり生物……。機械の精巧性と、人間の柔軟性……二つの、相反する面を、持ち合わせる、曖昧で、不安定な存在だ。そして、機械か人間か……そのどちらに、属しているかで、お前の在り方は、大きく違って来る。お前は、自分を、どちらだと、思っているんだ?」

 この質問は暗に自分にどちらの味方なのかを問うている事をセッテは察していた。人間として生きる事を選んだナンバーズは管理局に恭順して地上に降りた者達で、機械として存在する事を選んだ者はスカリエッティと共に拘置所に留まる事になった三人の事を指し示している。当然、管理局と敵対する事を選んだトレーゼは後者に当て嵌まっている。その彼が自分に『人間』なのか『機械』なのかを問う……つまり、今一度自分の置かれている立場を再確認する為のチャンスを与えてくれたのだ。従順な『機械』である事を宣誓すればそれで良いが、か弱い『人間』である事を認めてしまえば見限られてしまう。

 そうだ、最初からこの兄に自分をいたわる気持ちなど無かったのだ。この質問も精神的窮地に立っている自分を無理矢理にでも奮い立たせる為のモノ……そこに期待と言う輝かしい感情は全く無いに違い無かった。

 もしそうなれば自分は可能性を見捨てられた『死体』に成り下がってしまう事を怖れたセッテは、柄にも無く慌てた様子で飛び上がり、すぐさま弁解した。

 「ワタシは戦闘機人です。戦闘機人に求められる本分は兵器の『有用性』のみ……それ以外には何もありません」

 「つまり、お前は、機械である事を、選んだんだな?」

 「…………はい」

 「完璧だ。お前は、自分の役目を、しっかり把握し、理解している。では、作戦開始までの間────」

 強張ったセッテの肩に手を掛けてトレーゼは彼女をもう一度座らせた。鋼鉄の顔と氷の瞳は決意を示した妹の双眸をしっかりと捉えて離さず、その一律で強烈な眼光に半ばセッテは委縮しかけていた。

 そして、そんな彼女の頬に手を掛け──、



 「作戦まで、『人間』である事を、許そう」



 また再び頭を優しく抱きかかえた。

 「兄さん……?」

 「我が妹ながら、難儀なモノだな……。辛いぞ、『人間』の部分を、捨て去るのは、想像を絶する、苦痛がある。今すぐなれとは、言わないよ…………セッテ」

 「…………兄さん」

 「頼るな、縋るな、甘えるな…………それが、戦闘機人として、生まれた者の、鉄則だが……今だけは、それでも良い。甘えていろ」

 そう言って彼は冷たい手をセッテの頭の上に乗せ、何度も何度も桃色の長髪を普段の彼からは決して想像出来ない優しい手付きで撫でていた。この世に生を受けて早三年、それまで一度たりとも感じた事の無い感覚が胸の奥からじわりと去来したのか、無様に感涙している所を見られたくない意地でセッテはされるがままにその胸に顔を埋めた。溌水性に優れた防護ジャケットの表面を流れ落ちた滴が伝って行くのを見ながら、ふと今の自分がどんな顔をしているかと言う下らない疑問が浮かんだりする。だがそんな事はこの兄は気にはしないだろう……自分の事を真に妹だと認めてくれている彼ならば。

 「……どうして今日はそんなに優しいんですか?」

 「別に……。昔俺がされていた事を、お前にしてやっているだけだ。姉が弟を守るなら、兄が妹をいたわるのも、当然の事だ。あとそれと、俺は、優しくなんかない」

 「あなたにも……『人間』だった時期があったのですか?」

 「……………………俺は、あの人の背を追って、ここまで、やって来た。俺に出来て、お前に出来ん事は無い……お前は、俺の背を追っていれば良いんだ」

 「…………はい。心得ました」

 最初に会った時は培養槽のガラス越しだった……。まだ幼い彼女は自分の知る何物よりもか弱く、それでいて何にも染まっていない無垢なままだったあの頃の少女はいつの間にか自分と同じように自分自身をガラスの中に閉じ込めていた。氷の世界にたった一人で封じ込まれていた自分とは違い、周囲に頼れる者が居たはずなのに誰にもその闇を打ち明ける事無く生きて来た……なんと、なんと…………。

 なんと大義な事であろうか!

 トレーゼが過酷な孤独を乗り越えて機兵となったのであらば、彼女は正しく生まれながらの機兵……誰に言われるでもなく、誰に指図や命令される事も無く、自らの意思と判断でそうする事を選択したのだ。戦闘機人として生を受けたと言うたったそれだけの事実に従い自ら修羅の道を歩む事を決めていたこの妹こそ、遠い昔に自分が成し得なかった機兵の理想形そのものと言えると、この時トレーゼは確信した。ならば妹とは言えその決意と苦痛に敬意を払うのは当然の事……この優しさは言わばその報酬、褒美と言う訳だ。

 ふと、トレーゼは脳内に埋め込まれている通信用チップを起動させて疑似念話による通信を密かに開始した。連絡を取る相手はここより遥か遠くに位置する同胞──、

 ≪クアットロ、聞こえるか?≫










 「はぁ~い、お兄様。こちらクアットロちゃんでーす♪」

 「はい? 例の物でしたらしっかりと確保出来ましたぁ。今から予定ポイントまでお届けにあがりまぁ~す」

 「へ? まぁ別に構いませんけど……良いんですかぁ、面白味も何にも無くなっちゃいますけど……」

 「いえいえ! お兄様の言う事には絶対服従ですわっ! しっかりと心得ております!」

 「はいっ! それでは手筈通りに……!」










 午後13時35分、地上本部にて──。



 「クラナガン全域に避難命令!?」

 医療センターから帰って来たはやてを待ち受けていたのは上司クロノからのこの言葉だった。午後14時から六時間後の午後20時までに全てのクラナガン市民をシェルターに避難させる……前代未聞の極短時間強制避難作戦を急遽実行すると言う無茶なものだった。ミッドチルダに存在する主要都市の数々はどれもその人口的規模が著しく大きく、特に首都であるこのクラナガンは地球で言う所の日本の東京やアメリカのマンハッタン並みの人口でひしめき合っている程だ。その彼らを一度に、それも半日にも及ばぬ短時間の内に全員避難させるのはどう考えても不可能だろう。

 「…………提督はん、地上本部の地下シェルターの収容可能人数ってなんぼか知ってます?」

 「確か……20000人程度だったか」

 「全然足りませんやん! て言うか、何でそんな話しになってしもたんですか!? いくら何でも話しが急過ぎますやろ!?」

 クラナガン在住の市民を全て避難させるともなれば消費される費用と人員は半端なものではないはずだ。交通整備に始まり各所収容施設との連携、更には長期に渡って収容する可能性も考えればシェルター内に備蓄してある食糧の問題も浮上して来るだろう。それにこんな急に行動を取ったともなれば街の市民達の間で大規模な暴動が発生する事も……。

 「いや、暴動に関して言えばそれ程心配しなくても良いだろうな」

 「はい?」

 「既に市民達の間で避難したいと言う感情が高まりつつあると言う事だ。言葉で説明していても分かり辛いだろうから、こっちを見てくれ」

 そう言ってクロノが大き目の紙面を幾枚か手渡す。パソコン画面をそのまま印刷したそれらには打ち込まれた文字がびっしりと写されており、分かり易く蛍光ペンで目印をされた箇所に──、



 『本日午後21時00分、ミッドチルダ首都クラナガン中央部にて大規模進撃を強行する旨を伝えたし。────新暦78年11月22日。No.13より』



 「……なんや、これ?」

 良く見れば他の紙面にもペンで目印を加えられた部分があり、そこの部分には全て一様に同じ短文が書き込まれていた。最後の『No.13』と言う部分ではやてはすぐに“13番目”による犯行予告と言う線が頭に浮かび上がったが、それをすぐに否定した。昨日のマスコミのように一時的な風潮の乱れに煽られた人間が面白半分で行った事も考えられたからだ。

 しかし……。

 「書き込みされた時刻を確認して見ろ」

 「11・22、12:43…………って、全部同じ時間に書き込まれとる!」

 「この犯行予告はネット上に幾つか存在する掲示板や報道企業のホームページなどで同時多発的に書き込まれたものだ。個人の悪戯にしては手が込み過ぎている……十中八九、“13番目”の直々の犯行予告だろう。既にその事に気付いた市民達の間では各所施設に自主的に避難しようとする姿勢が見られている」

 「せやけど何でこんな土壇場になってから……? 昨日のテレビじゃ取引に応じやんだら襲撃するって言うとったはずやけど」

 「気が変わったか、或いはこちらの動揺と混乱を誘う為の作戦か……。どちらにせよ、“13番目”に首都陥落の意思があるのだけはこれで疑いようが無くなってしまったな。単なる脅しやはったりならこの件と言い昨日と言い、ここまでしつこく宣言するような事はしないだろう」

 「でも、それやったらヴィヴィオは……!」

 「最初から返還する気なんか無いと考える方が妥当だろうな。人質を取られている以上はこっちも迂闊には動けないと知っていてやっている……脅迫する奴らが良くやる手口だが、単純で効果的だ」

 なるほど、先に指定した取引はフェイクで本懐はこちら……即ち首都そのものを攻撃して地上本部全体を脅迫するのだ。無辜の民衆からの犠牲をこれ以上出したくなければ速やかにスカリエッティを解放しろ、と言う具合にだ。相手もこちらが簡単にスカリエッティを譲らないと分かっていてこの様な強行手段に出て来たのだろう。敵の考えが分かり易いと言うのは有り難い事だが、分かっているだけで何も対抗策が無いのでは戦況が変わるはずもないのは当然の事だ。

 「そんだけ分かってるんでしたら行動に移した方がええんとちゃいます?」

 「だからこその避難命令なんだ。流石に地上本部内のシェルターだとクラナガン全域の人口を入れるのは不可能だろうから、中央部に限定して行う」

 「残りの市民は?」

 「都営リニア首都環状線をフルに使って副都心の外側へと一時的に退避させる。朝の通勤ラッシュなんか目じゃない程の大混雑が起こる事は避けられないが今はこうするより方法は無い。それで無理なら地下鉄、空港、局が所持している輸送ヘリを全機使ってでもこの首都を無人状態にするしかない!」

 たった四半日程度でこの管理世界有数の大都市クラナガンから人々をヌーの大群の如く一斉に移動させる……クロノの事なのでこうしている間にも既に避難態勢を整えているだろうが、素人が見てもこれは不可能だと言うだろう。だが今は可不可を論議している暇なんかどこにも無い、常に最悪の状況を予測して行動しなければ生き残れない。

 「分かった……そいで、私は何したらええの?」

 「本局のコネを通じてこちらに人手を送るように確実なルートで要請して欲しい。戦闘員、救護班……誰でも良いからとにかく人手を寄越すように言うんだ!」

 「了解!」

 土壇場での戦況変化……もはやこれは事件ではない、戦力的に余りにも偏り過ぎた歪んだ“戦争”だ。どちらかが勝ち、どちらかが負ける……そうなれば結果的に勝った方が正義だ、如何に自分達の振りかざす言葉が正論でもそれを証明出来なかったとなれば正義は自然と離れてしまうだろう。法の秩序を守護する管理局としてはこれ以上無い屈辱的最後を迎える事になってしまう。

 ならばここが天王山! どちらがより早く勝利と言う名の山頂へと到達するか……。





 刻限まであと6時間15分……。









 「何やら騒がしい事になっているようだなぁ……」

 下の階から響いて来る喧騒をBGMにスカリエッティは優雅にグラスを空けていた。担当局員に言い付けて取り寄せた絶品の赤ワインを堪能しつつ、彼はふと自分の対になるソファで石像のように微動だにせず座っているトーレを盗み見た。響く喧騒や漂って来るアルコール臭などを全く気にする事無く、彼女はもはや定番となったその硬い佇まいを崩す事は無かった。姉妹達と三年振りの再会を果たしたと言うのに彼女らとは無駄口一切話さず、結局会議が終了して彼女らが別の部屋に戻ってからもずっとこんな調子だった。弟が弟なら姉も姉……なるほど、不動の二文字はこの姉弟の為にある言葉なのかも知れないだろう。

 だがそんな彼女に内心では痺れを切らし掛けていたのかどうなのか、スカリエッティの方から話しかけ始めた。

 「トーレは……このままトレーゼを捕縛出来たらその後どうするつもりかね?」

 「拘置所に戻るだけです」

 「そうではない、君ではなくトレーゼの処分について聞いているのだよ。捕まえておいてそれだけと言うのはお粗末だと思わんか?」

 「……それもそうですが、それはあいつが決める事です。私達がとやかく言う事ではありません」

 「相変わらず君は『弟』には弱いな。それではいずれ足元を掬われるのがオチだと思うがなぁ」

 「どう言う意味ですか?」

 「さてな。それと今夜の件だが私は色々と面倒事を任されているが、君はどうするのかね? このまま傍観するのか、それとも当事者の側に回るか」

 「是非も及ばず。私にも参戦の許可を」

 「許可など要らん。もうここまで来てしまえば止める道理も無い……全て君の好きなようにすれば良い」

 実際彼には止める理由も無かったし、最早彼女に制止の言葉を掛けたぐらいではどうにもならないと言う事ぐらい彼も重々承知していた。彼得意の放任主義、この先は何が起きても何を起こしてもそれらは全て当人達の責任と言う訳だ。

 そうでもしないとやって行けない……。

 最後の一滴を舌の上に垂らし、スカリエッティは別のグラスにワインを注ぐとそれをトーレに差し出した。

 「飲みたまえ。酒と言うモノは便利だ、それまでややこしく考えていた事を忘れさせてくれる」

 「…………いただきます」

 グラスを受け取った彼女はその中身を一気に飲み干し、そのままテーブルに置いて二度と飲もうとはしなかった。










 「これを、着ておけ」

 研究室の奥から引っ張り出して来た白衣をヴィヴィオの肌を覆うように掛けた。元々スカリエッティの所持品なのでサイズ自体は大きいが無いよりはマシだと考え、ヴィヴィオの方も特に抵抗する事も無く着てくれた。服を着せたと言う事はもう培養槽に入る必要性が無くなった事を暗に示しており、その事を勘付いていたヴィヴィオは不思議に思ったのか……。

 「もう良いんですか?」

 「ああ、ここよりも、確実性のある、場所へと、お前を連れて行く。そこなら、お前の腕も、完治可能だろう」

 「トレーゼさんはこれからどうするんですか?」

 「俺は……まだ、やる事が残っている」

 そう言うと彼は懐に手を入れ、その中からある物を取り出した。天井の照明の光を反射して鈍く黒光りする無骨なフォルム……L字形をしたその金属の塊を視界に収めた瞬間、ヴィヴィオは無意識に後ずさった、魔法文明を持つ管理世界では法的に所持する事が認められていない代物……ヴィヴィオ自身見るのは初めてだが、これは間違いなく──、

 「銃だ。お前も、予備知識ぐらいは、あるだろう? ここから出た銃弾が、対象を撃ち殺す……シンプルで、迅速且つ確実に、人間を屠殺出来る、兵器だ」

 銃座部分の蓋を開き銃弾を詰め込んだカートリッジを挿入すると、彼はセーフティーロックを掛けて再び懐に仕舞い込んだ。

 ふと、ここでヴィヴィオの脳裏にある一つの疑問が浮かび上がった。両手両足を加えれば総数五基にもなるデバイスを所持している彼が何故今更ここで銃器に頼ろうとするのかがどうしても納得行かなかったのだ。予備の装備と言う事も考えては見たが、明らかに彼の実力を考えれば武器なんか無くとも素手で人を始末出来そうなのは言うまでも無い事だ。だとすれば何故そんな物を……?

 「気になるか?」

 トレーゼもそんなヴィヴィオの疑問の視線を感じ取ったのか、銃をチラつかせながら彼女のもっともな疑問に答える姿勢を見せた。

 「これはな…………人殺しの、道具だ」

 「見たら分かります」

 「ただ殺すだけではない……これは、魔法を用いずに、殺さなければ、ならない者を、殺す為の道具だ」

 「魔法を使わないで……殺す?」

 「そうだ。数ある、人間達の中で、その人だけは……この手で、抹殺せねば、ならないのだ。これは、その為だけに、使う道具……」

 「ダメだよ、人殺しなんて…………約束、したよね?」

 「承知している。これは、あくまで、最終手段……討つか討たれるかの、瀬戸際でしか、使わない。約束しよう」

 白衣のボタンを一個ずつ留めてやりながらトレーゼは今一度この小さな少女との間に盟約を取り交わした。あの時と同じように左手の小指同士を絡み合わせ、お決まりの童謡を口ずさみながら他愛も無い空虚でしかないはずの約束を……。

 「それと、お前にこれを、渡しておく」

 「これって……」

 ヴィヴィオの小さな左手に乗せられたのは以前モニター越しでトレーゼに見せられた一枚の金属のカードだった。黒を基調としたメタリックカラーが目に眩しいそれを有無も言わぬ内にポケットに捻じ込まれた後、彼女はそのまま椅子に座らされた。戸惑う彼女を尻目にトレーゼの方は黙々とデバイスの最終調整を続行し、虚空に映し出した設計図映像や見慣れない機具などを扱いながら徐々にそれらの作業をこなして行った。その手捌きの迅速さや正確さは背後で彼の様子を見守っていたヴィヴィオも思わず見惚れるぐらいの手際の良さだった。時折調整中のそれらを装着して感触や稼働具合などをこまめに確認しつつたまに小休止を挟み、そして──、

 「デウス・エクス・マキナ、最終駆動調整、完了」

 それまでのプロセスを全て終了し、並べて鎮座されていたデバイスが一瞬にして変形を果たしてトレーゼの右手の人差し指と中指に収まった。それで成すべき事を終えたのか、彼はいそいそと身の回りの機具などを片付け始め……

 「行くぞ」

 「あ、はい!」

 左手を優しく引かれるままにヴィヴィオはトレーゼと共に部屋を後にした。大きな白衣を引き摺りながら移動する間ずっと二人の間には沈黙が流れるだけで、歩いている間彼女はずっと居心地の悪さを感じていた。やがて階段を何段くらい上がった所かで細長い通路に入り、二人はその先にある部屋へと入って行った。照明の光が目に痛いぐらいに強いその室内には先に先客が居り──、

 「お久しぶりです。陛下」

 「あなたは……確か、ウーノさん?」

 菫色の長髪が特徴的な妙齢のこの女性とは三年前に一度顔を見た程度でしかなかったが双方共に顔をしっかりと覚えていたようだった。現在外界との接触が完全に断たれているヴィヴィオにとってここにウーノが居る事自体が不可思議な事だったらしく、文字通り本当に小動物か何かのように首を傾げていた。

 「じゃあウーノ、後は手筈通りに……」

 「…………えぇ」

 「ではな、聖王。願わくば、この先、二度と相見る事の、無きように……」

 その別れの言葉を最後にして……トレーゼは姉にヴィヴィオを預けて何処へと去って行った。










 上層階のラボで彼の帰還を待っていたのはセッテとクアットロだった。セッテが壁際に背を預けて微動だにしないでいるのに対し、クアットロはさっきから何を良からぬ事を考えているのか常に気味の悪い笑みを浮かべていた。こうして見るだけでも性格の違いが如実に表れるとは……。

 「……………………」

 「……………………」

 妹二人は佇まいこそ相違あったが今だけはその行動は共通していた。『沈黙』……示し合わせたかのような沈黙がラボを流れ行くのを肌で感じつつ、トレーゼはそれを吟味するかの如くドアからの一歩一歩を重く踏み締めながら彼女らの前へと進み出て来た。彼女らの方も兄である彼がどのようにこの静寂を破るのかを心待ちにしており、クアットロの笑みはその興奮を隠し切れないのを表していたのである。

 やがてトレーゼは二人の前に立ち、何の感慨も感傷も感じさせず事も無げに──、

 「…………遂に、この時が、やって来た」

 容易く沈黙を破り始めた。

 「今更、どうのこうのと、下らぬ前口上は、不要だ…………本作戦では、各々の成すべき事を、忠実に実行すれば、それで構わん。当然だが、やるからには、全力で、一寸でも手を緩めずに、確実に実行しろ……終わり良ければ、全て良し、だ」

 詩を読み上げているかのような朗々とした口調で彼なりの激励の言葉が二人の妹達の胸に突き刺さった。たった三人の総力戦……物量的にも常識的にも圧倒的に不利としか見ようが無いこの戦いに臨む為の士気が、今の彼女らの絶対の自信に繋がっていた。自信の強さはそのまま実力の発揮具合にも直結する。今の三人は進めと言われれば前進し、殺せと言われれば全滅させる、そんな気迫がひしひしと滲み出ていた。

 「だがしかし……計画最終段階の、本作戦の実行について、一つだけ、大きな変更がある」

 突き立てられた人差し指に注目が集まる。特に彼と共に出撃する予定であるセッテの視線が強く注がれていた。

 「当初の予定では、無差別攻撃と、敵対勢力の、殲滅を、目的にしていたが…………少し、事情が変わった」

 「と言いますと……?」

 「来る者構わず、逃げる者追わず……それが、本作戦の指針だ。尚、これは、決定事項だ」

 兄の言葉に二人は訝しげな表情を浮かべた。彼の言った言葉をそのままの意味として受け取るならば、今夜行われる作戦は例え明らかな敵対行動を取って来た者であっても殺す事無く受け流そうと言っている事になってしまう。時間と労力こそ掛るが根絶やしにして行った方が相手への見せしめと言う意味も含めて効果があると言って譲ろうとしなかったのに、急にこの土壇場での手の平返し……事前に聞かされていない分、やはりそこに少しであっても疑念が浮かぶのは当然と言えば当然だった。

 「ですが、それでは防戦に徹する事になりますが?」

 「阿呆が……。誰が、防戦だと言った? 今回の作戦の、主旨はあくまで、侵略……前進し、前進し、制圧する。ただ前進あるのみ」

 「それはつまり……作戦完遂のみを最優先事項として行動せよ、と言う事ですね」

 「聡いな。そう…………今夜の目的は、たった一つだけ……それ以外には、何も無い。そして、その達成すべき、目標とは────」

 当然、創造主であるジェイル・スカリエッティの奪還……二人ともそう思って耳を傾けていた。と言うかそれ以外には何の目的も無いはずなのだ。トレーゼのみならず、自分達ナンバーズはスカリエッティの私兵として生み出されており、創造主の彼が窮地に立たされている場合には如何なる危険をも顧みずに救出する事が暗示的に義務付けられているのだ。三年前ならば十二人のナンバーズの胎内にコピーを宿す事も出来たのでそこまでの強制力は無かったのだが、それが無くなった今となってはオリジナルの本人を救出する以外に道は無く、苦節三年を経てようやくそれを実現にする事が出来るのだ。それ以外に何があろうか。

 だが──、

 「目標は……管理局に与する、ある人物の、抹殺だ」

 「!?」

 「まっさつぅ~? 別にお兄様の作戦にケチを付ける訳ではありませんけど、それって今やらなきゃいけない事なんですかぁ? 局員の一人ブチ殺す程度でしたら今日までに出来たはずでしょ?」

 「その者は、これまで、局の懐で、息を潜ませていた。だが、今夜の決戦で、その者は、表舞台に姿を見せるだろう……。好機は、その時だけだ」

 その言葉を言い終えるか終えない内に彼はマキナを起動させ、防護ジャケットに覆われた四肢を鋼鉄で固め、その右手にレイジングハート形態に変形した相棒を携えた。杖の切っ先を天に向けるその姿はまさしく、北欧神話に登場する戦士の神オーディン……ならばそれを仰ぎ見るセッテとクアットロはその忠実なるヴァルキリーと言ったところか。これが彼らのラグナロク、勝っても負けてもこれが最後……無論、負ける気なんか毛頭無い。

 「今宵殺すは、一人のみ…………そいつを、殺せなければ、この計画は根底から、瓦解するだろう」

 「それは……」

 「……責任重大ですわね~」

 「我々に、失敗と、後退は、決して許されない。そうだ、全ては……」

 「全ては……」

 「全ては……」



 「創造主スカリエッティの為に!」









 現在ヘリに乗り込んでいるのはヴァイスとティアナだけだ。それもそのはず、今の時刻は午後19時30分だ。“13番目”が指定した時刻にはまだ三時間以上も余裕があった。動ける者は全員がクラナガン市民の避難作業に徹しており、既に地上本部敷地内に設置されている地下シェルターには中央部に住まう一般市民達が大挙して押し寄せるように入り込んでいる真っ最中だ。基本的に徒歩などでこちらに移動して来るのでクラナガン全体の道路は車両の通行を全て停止させており、中央部以外の一般市民はリニアなどの公共車両を利用して街の郊外へと誘導避難させられていた。当然ダイヤも何もあったものではなく、とにもかくにも住民たちを街の外にある収容施設にまで運搬する事だけを最優先にしているので、当然の事ながら各駅構内はその人だかりで大混雑の様相を来たしており、誘導に駆り出されている局員達の報告からして状況はあまり滞り無く進んでいるとは言い難いようだった。暴動が発生していないのが奇跡にも思える。

 「それにしても提督さんは何考えてんだかな。都市から人間を丸ごと移動させるなんて、戦争じゃあるまいし」

 「じゃあ戦争なんですよ……。それも今までに無い様な大きな戦争」

 「うへっ、とんでもない時代に局員になっちまったな。お前は緊張してないのかよ?」

 「してるに決まってるじゃないですか。でも……何が来ても私は撃ち返すだけですから……」

 デバイスの銃倉にカートリッジを詰め込みながらティアナはこれから自分達を待ち受ける決戦に向けての覚悟を新たなものにした。隣のヴァイスも彼女の気迫を感じ取っていたのか、いつもの飄々とした感じを崩さずともその奥に確かな決心を腹に括っていた。ストームレイダーの銃身をいつも以上に丹念に調整しているのがその証拠だ。

 「なぁティアナ……」

 「何ですか?」

 「お前さ、やっぱりスバルの事で悩んでたりしてるのか?」

 「っ! ……悪いですか?」

 「いやいや! 別に悪くはねぇよ」

 「なら笑ってくださいよ。自分勝手な思い込みで友人を撃った馬鹿な女だって! 昔の自分と同じだなって……笑ってくださいよ……」

 「俺は別に何も言わねえよ。強いて年上の先輩って事でアドバイスぐらいならしてやれっけどな」

 「…………好きにしてください」



 「後悔はすんなよ? 絶対にな」



 「──え?」

 「お前がスバルを撃っちまったって事……お前が幾ら悩んでもお前の勝手だけど、絶対に後悔だけはすんな。自分のやっちまった事を後悔するとさ……昔の俺みたいになっちまうぞ」

 昔のヴァイス……それは彼が自分の妹を誤射してしまった事件の事を言っているのだろう。あの後彼は自暴自棄にやさぐれた挙句、最後には武装隊を除隊すると言う惨めな道を辿ってしまった。一度心の中で悔やみの感情が芽生えれば後は下り坂……自分の行為に後悔しかしなかった人間の悲しい性と言う奴だった。

 悩んでも、後悔するな……それが後悔の道を辿って来たヴァイスだからこそ言える教訓だった。

 「…………私は……陸曹ほど強くないですから無理です」

 「俺は別に強くなんかねえよ。俺だって振り切るのにシグナム姐さんやアルトに尻叩かれまくってようやく……ってもんさ。お前もそう言う時に無理矢理ケツ叩いてくれる連中が居るだろ? 辛い時はそうしてもらえ。何なら俺が叩いてやろうか」

 「セクハラですよ。でも……私もお尻叩かれるのはイヤですから、陸曹の言う通りに今後自分の行動に後悔しないように善処します」

 「おう! その意気だ。スバルの奴とはまた縒り戻せるだろうからさ……今はこっちに集中しようぜ」

 「……………………そうですね。じゃあ……」

 とす……。

 「お、おいおい……何だよお前、酔ってんじゃねえだろうなオイ?」

 いきなり自分の肩に寄り掛られた事に驚きつつヴァイスは彼女を拒もうとせずそのままされるままにしていた。と言うのも、今日の彼女はそれを躊躇うぐらいに弱々しかったからだ。伏せられた目は色々あった疲労からか気力に欠け、肩に感じる体重は人間の重さはこんなにまで軽いものなのかと思えるぐらいに軽かった。

 「……少しだけ……このままにさせてください」

 「…………あいよ。コーヒーの奢りだと思って好きにさせてやるよ」

 「それって、私が陸曹に奢ってるんですか? それとも私が陸曹に奢られてるんですか?」

 「どっちだっていいさ……」





 残り時間、あと3時間21分。










 「本局からの派遣魔導師は?」

 「陸空総勢169名……現在の状況で融通してもらえる人員の中でも選りすぐりの逸材だそうです」

 「地上本部との合計人数は?」

 「総戦力2192名。戦況を判断して東部、西部、南部、北部の四つの支部からそれぞれ200名ずつ増援予定です。あと、ミッドチルダ各地に散在している聖王教会からも可能な限り騎士団を派遣するそうです」

 「最終戦力は?」

 「4000名は下らんかと……」

 「四千か……これは本当に戦争だな。こちらが四千に対してあちらは首魁の“13番目”とクアットロ、そして先日陣営に加わったとされる“裏切りの使徒”セッテの三人のみ」

 「小学校のイジメみたいやな。頭数だけ見たら完璧にこっちが悪モンみたいやんか」

 「少年漫画の読み過ぎだ。勝てば官軍、負ければ賊軍……例えやり方は強引でも戦力を溜め込み最終的に勝った者が正義になるんだ」

 「分かってるって。スカリエッティには悪いけど……やるからには確実な手で行くだけや。私の留守中、指揮棒は任せましたよ?」

 「承った!」





 残り時間、あと2時間12分。










 「ああ? こっちはそれどころじゃねえんだよ。一般人を避難させんのに人手割いて、それが終わってからでないと誰も融通出来ねぇよ!」

 「ナカジマ三佐! こちらの地区の住民の避難は完了しました!」

 「おうそうか。これでまだ三つ目だってんだから気が滅入っちまうな。まぁそう言う訳だ。どうしてもって言うんだったら八神の奴が呼び寄せた本局の連中に頼んでくれ! 本当はこっちだって人が足りねえんだからよ」

 「通達にあった時間には間に合いませんよ。これはどう頑張っても予定より二時間以上は遅れてしまいます!」

 「くそっ! やっぱどうしても無理か。仕方無ぇ、D-22から何人かF-04に当たらせろ! お隣さんの部隊と上手く連携してとにかく避難させまくるんだ!」

 「了解!」

 「忙し過ぎだろ……。お前もんな下らねぇ事言ってないでさっさと手伝えっての!」





 残り時間、あと1時間24分。










 そして……





 無慈悲にも時計の針は進み続け……





 遂に……










 午後20時55分──。



 不夜城……今の地上本部を形容するにはまさに打って付けの言葉だ。地上に設置された展望塔の先にまで光が届くサーチライトが何十基も闇夜の上空を照らし出し、その先に浮かぶ輸送ヘリの数が全部で二十機以上……。

 総動員数2192名、陸上に1452と上空に740……上空からの襲来を予測した陸対空布陣が今、無人状態となったクラナガンに展開されていた。外だけではなく管制室でも万全な通信体制が整えられ、前回の襲撃の時の二の舞にならないようにスカリエッティの協力で対シルバーカーテン仕様のシステムを構築し、相手の対軍偽装能力を封じる作戦に出ていた。

 既に問題の取引現場には指定された五人を乗せたヘリが急行し、全ての準備は万全に整ったものだと思われていた。

 そのはずなのだが……

 「中央部に在住する市民の約三割が未だ避難完了出来ていません!」

 「可能なだけ陸士部隊を避難誘導に回せ! ガラ空きになった部分の補修も忘れるな!」

 「三番ゲートで暴動発生の兆し有りとの報告!」

 「結界魔法で隔離! そこで好きなだけ騒いでいてもらえ。今はとにかく全ての市民の収容だけを優先させろ!」

 中央部に住む人間の数を甘く見ていたのか、たった数時間しか無かった事を差し引いても未だに全ての市民を収容出来ていなかった。郊外の住民の避難もあと数%の人間を残しており、決戦を目前に控えたこの状況では後々痛く響いて来るかも知れない綻びとなっていた。今回の作戦の司令官に任命されたクロノ檄を飛ばすが、やはりここまで来た遅延は如何ともし難いようだった。

 「最終的にはクラナガン全域を結界で覆う事も視野に入れておいた方が良さそうだな……」

 封時結界を発動させれば結界内と外界は完全に隔絶されて内部での破壊行動は全く影響しない。だがそれ程の大規模なものともなれば結界の維持だけに大量の人員を割かねばならない……万が一にはそうする心算だが、今はそうならない事を切に願うしかない。



 「まぁ最終的はそれも辞してはならないだろうなぁ」



 急に自分の隣から聞こえて来た如何にも他人事だと言わんばかりの聞き覚えのある声にクロノははっとなって顔を上げ、そこを見やると──、

 「やぁ御機嫌よう。気分はどうかな? ハラオウン提督殿」

 「何している!?」

 局員に紛れ込んで隣の椅子にちゃっかり座って居るのはここから離れたゲストルームに居なければならないはずの人間……この事件の発端を文字通りの意味で造った男、ジェイル・スカリエッティその人がそこに居た。ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべながら軽く手を振っているその姿を見間違えるはずも無く、周りの局員が全く気付いた風も無い事を不思議に思いながらもクロノは彼に詰め寄り管制室から摘み出そうとした。

 「おやおや、確かに私は痩せている方だと自負しているが、ダンベルとして扱うには少々荷が重いのではないのかな?」

 「やかましい! ここは関係者以外立ち入り禁止だっ。と言うか何で貴方がこんな所に!」

 「トーレが居ないから暇でな。あと大変喉が渇いていたから自販機を探していたら何やら面白そうだったので覗かせてもらった」

 「外出する時は監視員との同行が義務付けられているはずだが……?」

 「はっ、君は意外と頭が鈍いな。私がそんなものと行動を共にすると?」

 「ここまでどうやって?」

 「人間、案外自分の身近に有名人が居るとは思わないものなのさ。そう言う心理的盲点を突けばここまで注目を集めずに来る事など容易い!」

 「ならその容易いスキルを使って今すぐここから出て行ってもらいたい!」

 「断る」

 「な……っ!?」

 意外にも強いその気迫に一瞬気圧されクロノはスカリエッティを掴んでいた手を離し、彼は乱れた服を整えた。

 「私も人の身……自身の造ったモノがどうなるかについては非常に抑え難い興味がある。それに私は劇は最前列の特等席で観賞するのが好きなのだ」

 「ここは最終防衛拠点だ。それに貴方は……!」

 「重々承知している。その上でここに居るのだよ」

 「……………………どうなっても知らないぞ」

 「それは許可と受け取ってもいいのだな」

 頑固なスカリエッティを摘まみ出すのに余計な労力を消費してはいけないと悟ったのか、クロノは諦めて長官席に腰掛け、隣の椅子に再びスカリエッティが座った。

 「はてさて、提督殿は相手が如何様な手段で攻め入るとお考えかな?」

 「布陣を見ての通りだ。上空からの侵入を想定して陸対空態勢で対応する予定だ」

 「結構結構。例の立会人に指定された五人はどうされた?」

 「もうとっくに現地に向かった。今頃は着いている頃だろう」

 「提督っ! 間も無く作戦開始時刻となります!」

 「カウント開始。地上の避難誘導に回っている者達も極力前線に移動させろ!」

 管制室全体にこれまでに無い程の緊張が走る……ただ一人スカリエッティを除いて皆モニターに映し出されるレーダー映像を食い入るように凝視し、来るべき決戦の相手を出来得る限りの万全な態勢で待ち受けていた。地上本部を中心に展開された2000以上の大部隊にも同じくその緊張と熱気が伝播し、混乱の中で一同の意思が一つに纏まろうとしていた。

 「カウント開始! 10……9……8……」

 作戦開始時刻の21時00分まで残り十秒を切った。いつ何が起こっても良い様にクロノが通信回線を全開にする。

 「7……6……5……」

 上空を旋回中のヘリが全機ハッチを開いて中に詰め込んでいた航空部隊が出撃のスタンバイを取る。既に地上を守る陸士部隊も総員デバイスを起動させた臨戦状態だ。

 「4……3……2……1……」

 作戦開始の合図を宣言するべくクロノは大きく肺に息を吸い込み──、

 そして──!

 「ゼロっ!!」



 時刻変更と同時に地上本部全体が大きく揺れた。










 遥か彼方より掃射された紅い閃光は内に抱えたる膨大且つ凶悪な熱量を周囲に撒き散らしながらただ一直線に冬の夜を駆け抜け、その先に聳え立っていた展望塔の先端を薙ぎ払って見せた。砕け散った瓦礫が次々と地上に降り注ぐ。幸いにも落下地点には避難中の一般人も居なければ部隊も展開されていなかったので人員的被害は皆無だったが、索敵範囲を優に越えたアウトレンジからの砲撃に戦慄を覚えぬ者は一人も居なかった。

 その閃光の撃ち出された地点……地上本部から遠く離れた海上には撃ち出された光線と同じ凶悪極まりない紅い光が浮かんでおり、それと双子星のように連なって輝く桜色の光点の二つが暗い海の上で浮遊してこちらを凝視していた。

 「命中を確認しました」

 「挨拶代わりには、少々派手、だったか」

 排熱孔から噴出した蒸気を周囲に漂わせ、ナンバーズ最後の生き残りであるトレーゼとセッテ兄妹が空を蹴って一気に飛翔した。四肢を鋼鉄で固め手に黒杖を携えたトレーゼが先行し、そのすぐ後からセッテが随行する。実に三年振りとなるブーメランブレードを両手に構え、防護用のヘッドギアの感触を確かめながらセッテは兄と共に決戦の舞台を目指して駆け抜ける。

 程無くして二人は港の上空を通過してから無人となった街の一角に降り立った。ここからは姿を暗ましながらの進行となる為、隠密行動が最重要課題となる。

 「まずは、相手の陣の、中心を目指して、突入する。そこから先は、俺に任せろ……お前は、露払いだけで、充分だ」

 「はい」

 「深追いは、決してするな。常に、俺の半径15メートル圏内を、キープしろ」

 「はい」

 「来る者は、全て受け流せ。あの数を、まともに相手している、時間は無い」

 「はい」

 「……最後に、一つ…………」

 前に立っていたトレーゼがその金色の眼をセッテの視線と重ね合わせた。セッテより身長が低い分どうしても見上げる形になってしまうが、今はそんな事は気にならない程の真剣さがいつもと変わらないはずのその双眸から彼女を見据えていた。何かとても重要な事を伝えようとしている……そう判断するのに時間が掛るはずもなかった。

 「ここから、先は……修羅の道、とか言う奴だ。一歩でも進めば、お前の後ろには、後退の道も、逃げ場も無い……孤立無援が、待っているだけだ」

 「今日はいつになく感情的ですね」

 「黙って聞け……。しかしながら、幸か不幸か、このミッドは、完全な実力社会……例え法的な罪を重ねて居ようが、更正さえしてしまえば、社会に認められる」

 「……何が言いたいのですか?」

 「最後の、チャンスだ。俺と一緒に、死地に赴くか……離脱して、あちら側に降るか…………。強制はしないし、ここで離反しても、後ろから撃ちはしない……好きに決めろ」

 「兄さん……」

 「お前は、損な性分だ……。機兵として造られ、機兵になる事を選びながら、本質が少しも、それに追い付けていない……故に無理をし、故に立ち止まり、故に挫けてしまう。勘違いするな、お前を案じて、いるのではない。生半可な覚悟だと、こちらの足枷になるから、下がるなら、さっさとそうしろと、言っているだけだ」

 「哀れんでいるのですね、このワタシを?」

 「悔しいか?」

 「いいえ、事実ですから。ワタシ一人では弱いままです……哀れに思われても仕方ないかと。ただ……」

 「……ただ……何だ?」

 「創造主が不在の今のワタシは誰かに付き従う事しか能がありません。そしてワタシはドクター奪還が成功するまでの間の主を貴方に定めた……それだけの事です。貴方の為に力を振るい、貴方の為に楯となり、貴方の為に剣になる……」

 「……それが、お前の選択か、セッテ?」

 「はい」

 どうやらこれ以上の揺さ振りは意味が無いと判断したのか、一瞥の後に踵を返すとトレーゼはマキナを操作してカートリッジを入れ替えた。空薬莢が固い地面に落ちて乾いたシャープな音をゴング代わりに、彼は黒杖を肩に構えた。その姿にセッテも呼応するようにブレードを構える。

 「…………セッテ、さっきも言ったが……俺の背後を、離れるな。お前が、前に出る必要は無い」

 「……………………」

 「お前は、楯にならなくて良い……お前は、俺の妹だ」

 「感謝します。それと兄さん……」

 「何だ?」

 「これが終わったらで構いませんので、手合わせに協力して頂けませんか?」

 「そう言えば、あのまま、うやむやだったな……。良いだろう、約束だ」

 「何ですかその小指は?」

 突き出された右手の小指を訝しげに見つめるセッテ。兄の真意を計り兼ねるのか首を傾げた。

 「ナノハ・タカマチの、記憶にあった……。口約束を交わす際の、儀式のようなモノらしい」

 「儀式……ですか。良いですよ」

 そう言ってセッテは自分の小指を絡ませた。結んだ指を中心に互いが腕を軽く上下させて契約が成ったのを確認した後──、

 「行くぞ!」

 「正面突破ですか?」

 「臆するな。あちらが、自分達を正義と、思うように、こちらにも、こちらの正義があるだけの話しだ。我々は堂々と、玄関から侵入すれば良い」

 「了解」

 二人の足元に真紅と桜色の疑似魔法陣が同時に展開、軽く飛翔した二人は自らの姿を2192名もの敵陣に晒して見せた。そこに恐れや臆する様子は露とも感じられず、冷徹な感覚の中に確かに存在していた威風堂々たる佇まいは逆に迎え撃つ武装隊員達を震え上がらせた。

 「IS発動……ライドインパルス」

 「IS発動、スローターアームズ」

 呼吸を整えて互いの息を同調させた後、武装を構えた二人は──、



 「アクションッ!!」



 宣言通りにクラナガンの交通の大動脈、首都メインストリートに沿って加速飛翔した。

 これが後に『機人戦争』と称される戦闘の開戦背景である。










 「ドクターの、奪還か…………果たして、そうなるかな?」



[17818] レッドライン
Name: 毒素N◆bf0a6bc4 ID:5d086e54
Date: 2011/01/27 00:08
 “私”であるな、“公”であれ──。

 “個”であるな、“隷”であれ──。



 これが戦闘機人の二訓……。










 他人の知識に頼るな──。

 他人の実力に縋るな──。

 他人の優しさに甘えるな──。



 これがトレーゼが掲げるナンバーズの三信……。幼き日に姉トーレから教え込まれたこの教訓は以後彼の『ナンバーズ観』とも言うべき観念に打ち込まれた大きな楔となり、ナンバーズは主に使われる感情を持たない機兵でなければならないと言う考えを深く植え付けた。始めはただの受け売りでしかなかったそれも、時が経つにつれて自分の状況を照らし合わせ、やがては自分の抱える信念となって深く心の中に根を張る結果となった。それは教育者であるトーレの教えの範疇を大きく越えていた。それと同時にこの教訓は氷の世界で不遇な処置を受けていた彼の精神を支える柱、不安定な砂の上で楼閣を支え続ける完全な土台となっていた。

 現在の彼を支える三つの土台……それは──。



 生まれついて与えられた自らの実力……。

 自分の前に立つ偉大な姉の姿……。

 自分の後ろに立つ不器用な妹……。



 戦闘機人の本質の中に僅かに残っていた人間としての意思……自らの能力への自負、トーレの『弟』であると言う誇り、セッテの兄であると言う義務感……とうの昔に人間の部分などどこかに置いて来たモノとばかり思っていたが、彼自身が自覚出来ていない部分では17年の時を越え未だに残り続けていた。

 僅かに己の中に残ったそれを道標に、覚醒からたったの二週間で彼はここまでやって来た。もう後戻りするつもりは無いし、する余地も無い。

 疾く──、

 疾く──、

 ただ疾く──、

 二十年近くに渡って目指したものが残り約百数十キロにまで迫っていた。










 11月22日午後21時08分、クラナガン首都メインストリートにて──。



 強制的に避難が完了されたこの首都の大動脈とも言えるこの道路を走る車は一台も無かった。眠らない街であるクラナガンの道路が無人になる事は普段の街の様子からは到底考えられないが、今現在この瞬間だけは確かに誰も居なかった。人が居なくなった事で建物の照明は残らず消え去り、道路の脇に等間隔に植えられた街路樹だけが葉を落とした枝を風に揺らせているだけだった。そんな誰の眼から見ても異常だと分かる光景が街の全域で発生している。

 だがしかし、街全体で起きている異常はこれだけではなかった。街のシンボルとも言える管理局地上本部の展望タワーの頂上付近が煙突の如く黒煙を上げていたるのが郊外からでも確認出来る。その周囲にはヘリが何十機も飛び交い、地上とヘリからのサーチライトの強烈な光が幾重にも重なり合いながら夜の街を真昼のように照らそうとしていた。飛んでいるのは何もヘリだけではなく、地上とヘリの中で待機していた数百もの魔導師達が諸手にデバイスを構えながら雲霞の如く夜の首都に展開していた。誰か第三者がこの光景を目にしていたら間違い無く戦争と言う言葉を口にしただろう。

 しかし、そんな事と比較してもこのメインストリートで発生している“異常”には敵わないだろう。

 「来るぞ、セッテ」

 「既に肉眼で捕捉出来ています」

 迫り来る魔導師達とは反対の方向から飛来する一組の男女……魔導師陣と同じく飛行しながら都心に向けて移動している姿がそこに確認出来た。二人揃って藍と紫を基調とした防護ジャケットを着用し、四肢を武装した紫苑の髪の少年が上になり、両手に円月型のブレードを構えた長身痩躯の少女が下になって少年に抱えられる形で追従していた。アスファルトの地面をスレスレの超低空飛行で一直線に侵略する彼らの視線はただ一点、進行方向の遥か先に聳え立っている時空管理局ミッドチルダ地上本部のみだ。真正面から面となって飛来する魔力弾の嵐に突貫……トレーゼが推進、セッテが舵取りと言う絶妙なコンビネーションで迫り来るそれらをかすりもせずに全弾回避し、更に終着点へとまっしぐらに駆ける。その速度は凄まじく、マッハ5の極超音速飛行の余波で生じた衝撃波が、通り過ぎただけの街路樹やビルの窓ガラスを次々と砕き飛ばす程だった。

 「間も無く前線部隊と接触します」

 「うむ……。セッテ、こちらに接近する、ヘリは何機だ?」

 「三機……いいえ、四機です。各機の高度は大差ありません」

 「尾翼を、狙え。お前の武装なら、行けるはずだ」

 「ですが……」

 「安心しろ、尾翼を失したぐらいで、ヘリは大破せん。それに、中の奴らも、墜ちるより先に、脱出する」

 「……了解」

 セッテは勢いを付けると両手のブレードを前方に向かって投擲した。そこから先の軌道は彼女の固有能力、武装遠隔操作の『スローターアームズ』でどうにでもなる……放たれた二つのブレードは彼女の意思通りに飛翔し、こちらに迫り来る敵のヘリの尾翼だけを切断して見せた。尻尾を切ったトカゲの様には上手く行かずバランスを失った機体は次々と不安定な蛇行軌道に陥り、安全に不時着可能な場所を探し求めて高度を下げ始めた。だがその時中で待機していた航空武装隊が脱出と出撃を兼ねて飛び出し、既に大群と化している部隊の流れに加わった。

 アウトレンジからの砲撃で混乱しているかと思ったが、陣形を崩す事無く迎撃態勢に入って来た所を見ると敵の指揮官はよほど優秀なのだろう……。それも全軍向かって来るのではなく接敵している部隊のみが前線に飛び出し、それ以外の陸士部隊を中心とする魔導師は全てが後方支援に回っていた。しかし、一見すると強力な火砲支援を行う為に微動だにしていないように見える後続部隊だが、それらの抱えた思惑の内容をトレーゼはとっくに予測済みだった。

 「少し、急ぐぞセッテ。奴らの懐に飛び込み、連中を引き摺り出せ」

 「了解」

 四肢に展開していたエネルギー翼が一回り大きくなり、次の瞬間にトレーゼとセッテはその速度を更に上昇させた。










 午後21時13分、地上本部管制室──。



 「結界だ! 地上本部を中心に半径200km圏内に封時結界を発動させるんだ!」

 クロノの命令がオペレーターを通じ最優先事項となって現場の部隊に通達される。一度結界を発動させれば地上本部及びそれを守護する部隊の全ては敵ごと外界から断絶され、脱出されない限りはこちらに物理的損害を被る事は防げるはずだ。後は自然と相手が体力気力を消費して疲労困憊になるのを誘うだけ……如何に相手が自他共に認める実力者とは言え、閉鎖空間でこれだけの戦力差をまともに相手にして覆せる訳が無い。彼らが相手にしなければいけない数量は2192……一人当たり約1100人も相手にしなければならない。更に戦況が長引くようであればミッドチルダ全域に展開している管理局地上支部や聖王教会から武装局員と騎士団の連合部隊が大挙して押し寄せる手筈にもなっている。最終的に4000名以上から成る大部隊がたった二人の外敵を追い詰めにこの首都までやって来るのだ。そうなれば一人当たり約2000人になり、まず対処不可能になる

 その為にはまず網を敷かねばならない。結界魔法の特徴は『進入は容易』でも『脱出は困難』と言う点にある。一度中に封じ込める事に成功すれば後は脱出する余裕を与えないように波状攻撃で包囲と追撃を加えつつ徐々に大部隊の懐に追い詰めて行く……そして後は時間の問題だ。一見単純な作戦ではあるが、本作戦の目的はあくまでトレーゼとセッテの鹵獲なのでとにかく相手を止める事だけを専念しつつ、こちら側の損害は極力抑えねばならないので司令塔と現場の重圧は計り知れない。だが一度結界を張ってしまえばその懸念も緩和される。既に迎撃部隊が前に出て敵の進行速度を落とそうとしているその背後では後続の結界発動要員達が急ピッチで術式の構築に尽力していた。

 「術式構築率は!?」

 「現在およそ五割がた作業が完了しています。あと十数分もあれば構築完了するとの報告です」

 「航空部隊は全部隊ヘリから出撃せよ! ヘリの中で待機していたら的にされるぞ!」

 「司令! 敵の進行速度、未だ落ちません!」

 「陸士部隊に通達! 火砲一点集中砲火! 相手は死力を尽くしている。拡散させて撃っても牽制にはならない! 上空の航空部隊と連携して撃墜させるつもりで迎え撃て!」

 「敵、進行方向上のビルを破壊!」

 「ビルぐらいで騒ぐな! そんな物は終わってからでも修繕出来る!」

 「通過された航空部隊、追撃不能! 相手が速過ぎます!」

 「無理に追うな! 引き離された部隊は本隊との合流を最優先に行動しろ! 単独で向かっても敵う相手ではない!」

 一歩間違えれば混乱の阿鼻叫喚が巻き起こり兼ねないこの状況を、長年提督として指揮能力を培って来たクロノの手腕が切り裂いて行く。オペレーターを介して現場から飛び込んで来る報告や指示要請を間髪入れずに全て捌き切り、的確な指令で敵を追い詰めようと部隊を操作する。先手を許しはしたがまだ焦る様な事態じゃない……報告では今の所人員的損害はゼロ、初手の砲撃もあくまで展望塔を狙っただけの威嚇に過ぎない。建物が幾ら壊れてもちょっとした災害が起こったのだと割り切れば復興も出来るが、人命を失ったのでは取り返しがつかなくなる。ならばその損害を出す前に決着をつけるのはもはや常識だ。長引かせれば不利になるだけだ。

 「術式構築まで残り四割を切りました」

 「そのままのペースを保て。焦れば相手の思うツボだ。合理的且つ確実に守れ、防衛戦は攻めれば負けだ!」

 「敵との相対距離、約92.2km。結界の効果範囲内です」

 「発動を相手に悟られるな。一度バレれば後は距離を置かれて遠距離から一方的に撃たれる。ギリギリの境界線を保ちつつ懐に捕え続けろ」

 敵性対象を表す赤い光点が猛烈な速度で部隊の青い光点の中を突っ走っている様子がレーダーでも確認出来る。その速度は音速を優に越えており、一度引き離された部隊を次々と背後に追いやりながら確実にこちらに向かって臆する事無く一直線に距離を詰めて来ていた。どうやらあくまでスカリエッティの奪還のみを最優先としているらしく、こちらの迎撃には目もくれてないようだ。

 「それで……提督殿はこの戦況の行方をどう見る?」

 自販機で購入して来た缶ジュースを開けてそれを飲みながら隣のスカリエッティが聞いて来た。前々から言ってはいたが、どうやら本当に他人事のように傍観を決め込んでいるらしい。

 「……こちらの損害はゼロ。それに直接迎撃に当たっているのは全体の三分の一、更に奴らが引き離した魔導師はたったの200程度……例え航空部隊全てを振り切ったとしても、地上から攻めるつもりでいれば1400人以上もの陸士迎撃部隊を真っ向から相手にしなければならないはず……」

 「一人当たり700人も相手しなければならないか。そうなれば流石にあの二人言えども時間を割かずにはいられないと、そうお考えなのかな?」

 「少数精鋭には数の暴力が効果的なのは子供でも分かる事……。“13番目”とNo.7がどれだけ個々では強大な力を有していようと、この戦力差を覆す事だけは容易ではない……必ず時間を食い潰し、体力も消耗させるはずだ」

 「ふむ、教本を暗記したような戦術だな。流石は優等生、無駄が無い。質実剛健と言われるのも頷けると言うもの」

 「こちらから仕掛けず相手が消耗するのだけを待つ……今はこの戦術だけが頼りだ。相手がどんな策を用いようとも絶対にこの差だけは引っ繰り返せない……」

 「絶対……か。果たしてそうかな?」

 「なに……?」

 「意外とその逆転劇は呆気無く来るかも知れんぞ。この世の出来事に『絶対』は無いのだからな」

 「ばっ……!?」

 馬鹿な、と言おうとしてクロノは固まった。確かに今自分達が相対している敵は今まで幾度もなくこちらの作戦を全て真正面から破って来た。完璧とまでは言わないにしろ本気で迎え撃とうとしたにも関わらず、その全ては無残に情けなく打ち倒されて来たではないか。そうだ、今更この場に限って『絶対』と言う事は有り得ない!

 「…………貴方は“13番目”の策について何か予測か何かは?」

 「分からん。ただ一つだけ分かるとすれば、彼は何らかの方法で敵陣を突破して私の許へとやって来ると言う事だけだ。…………或いは」

 「……或いは?」

 スカリエッティの顔に一瞬だけ陰が差すのをクロノは見逃さなかった。上に立つ者として人心を見抜く術を持っている彼にとってその表情の持つ意味を推し量る事は難しい事ではなかった。その表情は『不安』……何か得体の知れぬ何かが迫って来るのではないかと言う懸念が如実に表された瞬間だった。そして、その『何か』の正体は知る由も無い。

 「貴方でも何かを恐れる事があるのですね」

 「おや? 勘付かれてしまっていたか。顔には出さないようにしていたつもりなんだがな。まぁ、実を言えばあの“13番目”が如何様な実力を有しているのかは私の頭脳でも解明不可能だ。17年間で私の想像の範疇を遥かに越える変貌を遂げた彼の実力は、もはや未知数の領域にまで達してしまっている」

 「未知数か……。そうだっ、IS! “13番目”は貴方が造った最初期のナンバーズ……だとすれば、奴も何らかの固有能力を────」



 「無いよ」



 「…………無い?」

 「確かにトレーゼはこの私が最初に造り上げた零号機とでも言うべき存在だ。だが、元々偶然の産物に過ぎなかった彼を戦闘機人に改造する過程では色々と面倒があってな……結局、埋め込んだはずの因子が開花する事はなかった。その代わり、紛いなりにも私の持つ莫大な“欲望”を引き継いでいるのだ……それに見合うだけの能力を持ち合わせてはいる」

 「“無限の進化”…………アンリミトッドエヴォルヴ。オリジナルの貴方が本能的に自分の脳髄を知識で満たすように、常に筋肉、内臓、血管、細胞……遺伝子までもが変異を繰り返し全身を『強く』する為に進化し続ける……そう言う能力でしたね」

 「能力ではない。意図して進化しているのではないのだからな。私にとって知識の果て無き探求がそうであるように、彼にとっての進化と言うのもまた同じ……この場合は呼吸と同じで『生態』として認識した方が妥当だろう。今こうして我々が無駄話をしている間にも、彼の細胞は毎秒ごとに常人の数百倍以上もの早さで変異を続けているはずだ」

 「最終的に奴の進化は一体どこまで行く?」

 「それは分からん。だが進化の速度はかつて私が出した計算を遥かに上回っていた。昨日の市街地戦で加重力に耐え切っただろう? あれもまさに彼の進化の証だ。引き上げられて行く重力よりも、彼の細胞が高重力をも克服する状態にまで進化した事に他ならない。恐らく原発の融合炉から漏れ出た放射線が直撃した程度では死なんのではないだろうか」

 人間が人工的に生み出した最強の毒でさえも跳ね返す存在……。理論上では既に核兵器ですら通用しないレベルにまで進化してしまっている敵を相手取っていると言う事実が今更ながらクロノに重く圧し掛かる。

 現場からの報告が途絶えた。全滅した……とかではなく、前線の部隊が敵の姿を見失っただけらしい。完全偽装能力シルバーカーテンを使っている為かレーダーにも反応は無く、クロノは捜索行動に移っていた前線部隊に所定の位置に戻るように指示した。始めこそアウトレンジからの不意討ちがあったものの、ここまで正々堂々と真正面から来ておいて突然姿を消すと言うのは不自然極まりない。捜索で部隊の密度が粗くなった瞬間を突くと言う事も考えられるし、結界発動を察知して遠くからこちらの戦力を削るつもりとも考えられる。どちらにしても、相手の動きが分からない以上は下手に動くのは得策ではない……ここは一旦態勢を立て直して守りを固めるのが防衛戦の基本だ。

 「小休止がてらに何か策を練っているかも知れない。ここは後手に回っても相手が出て来るのを待つべきだ」

 「相対距離72.9kmか……。随分とまあ、接近を許したものだな」

 「司令! ベルカ自治領内の自然公園丘陵地帯に向かった八神二佐から緊急通信!」

 「回線繋げ!」










 午後21時18分、無人状態のビルディング内にて──。



 「まいたか?」

 「まけましたね」

 照明の落ちた暗黒の空間に潜む影が二人……時折届いて来る生き残りのヘリからのサーチライトを避けながら密かに機会を窺っていた。やがてヘリが離れ、空間が再び暗闇に包まれてからトレーゼとセッテは堂々と建物の中を闊歩し始めた。

 「ここからはどうするんですか?」

 「ここからは、進行速度を、格段に落とす。相手は今、結界を張ろうと、躍起になっている…………あれだけ動いていた、迎撃部隊が、すぐに退いたのが、その証拠だ。明らかに、こちらを、誘い出そうと、している」

 「ではすぐに撤退を……」

 「いや、今回の作戦に、撤退と言う選択肢は無い。一歩でも、退いてみろ……例えお前でも、撃つ。もう一度言う……この作戦に、撤退は、有り得ない」

 暗闇の中で光る兄の視線に射抜かれ、セッテは思わず後ずさる。そうだ、この作戦に撤退は無い。これは彼が待ちに待った最後にして最大の好機……退く事など無いのだ。セッテ自身、その兄の決断に従いここまで来た……であれば、彼女もここで退く事は罷りならない。善であれ悪であれ、一度確固たる決意の下に動いたのであれば、そこに逃げ道など存在しない。

 「…………分かったな?」

 「……了解」

 「良し。では、行くぞ」

 「ではワタシが先行しますから、兄さんはその後で……」

 「いや、その必要は無い。ここからは、飛行せずに、前進する。出来るだけ、体力は、温存させたい」

 そう言って部屋のドアを開けて建物の通路へと出るトレーゼを追い、セッテも続いてその別の場所へと向かった。エレベーターの隣にある非常階段を下りて地下に向かい、厳重に封をしてあったドアを蹴り破ったその先は──、

 「…………俺の言いたい事が、分かったか?」

 「ええ、分かりました」

 視線の先にあった物を見てセッテはトレーゼの言わんとする事を理解した。確かにこの方法ならば多少の困難さえ度外視すれば飛行に比べて体力を消費せずに進めるだろう。

 「既に準備は、整っている。先に、行け。俺は、少し用がある」

 「了解」

 詮索せずに命令通りに先行したセッテを見送るトレーゼ。やがて彼女が再出撃の準備に取り掛かったのを見計らってから彼は脳内通信による疑似念話を開始した。繋げる相手は──、

 ≪クアットロ、現在のそちらの状況について、分かり易く説明してやる≫










 午後21時28分、地上本部管制室──。



 『以上が報告内容です。こちらは現在二手に別れて行動中。高町一等空尉と八神二等陸佐の両名が先行して大至急そちらに加勢に向かいました。私達の方はヘリを使って向かいますから、そちらに帰還するのは少し遅くなります』

 「ご苦労だった、ランスター陸尉。引き続き輸送警護の任に当たってくれ。現場に到着次第、君にも戦線に加わってもらいたい」

 『了解しました、では失礼します』

 モニターに表れていた通信回線が切断され、画面に再び目標を失ったレーダー映像が映し出された。画面上で蠢く光点を見つめるクロノとスカリエッティの間に奇妙な沈黙が流れる……機器から鳴り響く電子音も、オペレーターからの定時報告も何もかもその間に割り込む事は出来ず、時が止まってしまったかのように微動だにしない彼らは全く同時に溜息を零した。

 「世はすべてこともなし……か。なかなかどうして、上手く言ったものだな」

 「…………今の気分は?」

 「別にどうと言う事も無い。悲しくも無い、辛くも無い、痛くも無いし、寂しくも無い…………ただ……そうだな、ほんの少しだけ虚しいような感じがするだけだ。特に大した役割を与えていた訳でもないはずなのに、いざ盤上からポーンが消えた時の様なあの感覚だ……。不思議だな、そんなに情を掛けていた訳ではないはずなのになぁ」

 「そうか……」

 クロノもそれ以上は何も言おうとはしなかった。男はたまにだが感傷に浸りたくなる時もある……大人である彼だからこそ分かる、そんな傍観がこの沈黙の結論だった。

 だがしかし、そんな感傷の沈黙すら破って遂に待ち構えていた報告が入って来た。

 「相対距離69.7km地点に反応! 時速約70km前後でこちらに向かってメインストリートを直進して来ます!」

 「哨戒部隊からの映像を回せ!」

 「はい!」

 オペレーターの操作でモニターに前線に出張っている部隊からのリアルタイム映像が届けられた。街灯すら全く点いてない暗黒の街を上空から映した映像……建物が乱立する中で地平線の向こうまで何も無い細長く続くスペースは恐らく問題のメインストリートだろう。その幅だけでも十数メートルはありそうな道路を突き進む一筋の光。始めは敵の魔力光かと思ったのだが、明らかに色が違っていた。トレーゼは紅でセッテは桜色だが、今画面に映っているそれは明らかに白色であり、その輝きも体内から放出されるエネルギーのそれとは大きく異なっていた。

 「あれは……!」










 風を切りながら突き進む……。周囲の暗闇の風景を全て置き去りにしながら二人は遠くに聳え立つ塔を目指して迂回する事無く一直線に走って行く。雲霞の如く押し寄せる武装局員の大群を真っ向から捉えながらもその速度を決して落とそうとせず、逆に速度を上昇させて対向した。

 「速度はこのままで良いのですね?」

 「ああ、問題無い。そのままを、維持しろ」

 「はい。ですが……この状態での移動は何かと不便があるのでは?」

 「現状では、これが最も、効率の良い、方法だ。それに、機動力も、優れているしな……この、バイクとやらは」

 二人が取った移動手段……それは自動二輪車、つまりはオートバイだった。凶暴なエンジンの爆音を撒き散らしながら後輪を猛烈に回転させて得た推進力で、他に車両が一台も無い無人の道路を突貫する一台のバイク。前屈姿勢でハンドルを握り締めて運転するセッテと、背後から彼女の肩に手を置いてバランスを取りながら掴まっているトレーゼ……。言うまでも無いが、二人の目指す地点は地上本部であり、その間には約2000以上にも及ぶ大部隊が彼らを迎え撃とうとしている。この数に物言わせる布陣を単車一台で突破しようと言う余りにも無謀な作戦を敢行する事にはセッテ自身も難色を示したが──、

 「問題無い。今から行うのは、突破ではなく、敵勢力の、完全無力化だ」

 「無力化……? あの数をですか?」

 「そうだ。不服か?」

 「いえ……あの、その…………あれをですか?」

 そう言ってセッテが指差すのは当然前方に展開されている大部隊だ。手に手に持ち構えたデバイスの先から放たれた魔力弾が早くも自分達の足元や髪をかすって飛来して来るが、それでもセッテは命令通りに絶対に減速せず、逆にアクセルを大きく捻って更に速度を上げた。速度が上がった事で狙いが逸れて一瞬命中度が下がったかのようにも見えたが、今度は対向車線上に展開している地上部隊からの弾幕が二人を襲撃する。何とかエネルギー防壁を前面に展開する事で直撃コースの弾丸だけを絞って防御してはいるが、相手の陣営に居る狙撃班が前輪をパンクさせようと執拗に撃って来るのでそちらにも気を配らねばならなくなっている。何とか蛇行運転を繰り返す事で陸空両方からの攻撃を回避し続けるが……

 「挟まれた」

 「はい……」

 それまでずっと前方上空に位置していた航空部隊が今や自分達の頭上に居る……。上空に回り込まれた事で遂に二人は絨毯爆撃の危機に晒される結果となってしまった。ここからは蛇行運転による回避行動もさして意味は無くなるだろう。

 だが──、

 「セッテ……命令だ、絶対に、アクセルを切るな」

 「了解っ……!」

 この危機的状況のど真ん中に立たされて尚、その表情に焦りを見せない余裕を湛えたままの兄の存在を背中に感じながら、セッテは最後の走破に向けて限界までアクセルを入れ込んだ。この大軍勢を前に撤退はしないと豪語する時点で既に気付いていなければならなかった……この兄が、秘匿されたナンバーズのトレーゼが何の自身も根拠も無しに物事を実行に移すはずが無いのだ。入念の上に更に入念さを重ね、万全と言えるだけの下準備の後に行動する彼が、一見窮地にも見えるこの状況下を完璧且つ確実に打破するだけの用意をして来ないはずがない!

 彼が無力化させると言えば、それはそうなるのだ。

 彼が撤退しないと言えば、それは有り得ないのだ。

 彼が成功させると言ったならば……。

 「前方から砲撃魔法が二つ! 回避不可能!」

 「地上本部との、相対距離は?」

 「およそ60km……!」

 「充分だ。セッテ……俺は、この作戦を 遂行するに当たり、三つの、『切り札』を、用意しておいた……………………今、その一つ目を、見せてやる」

 走行するバイクの車輪の下に巨大な真紅の疑似魔法陣が展開する。彼が保有する十以上もの特殊技能の一つ、今この状況を回避出来るものは──、



 其れは“王”を守りし鎧……。

 何人たりとも傷付ける事適わず……。



 古代ベルカの王、聖王の血族を最強たらしめたこの世で最も堅牢なる絶対防御能力──!

 「IS、No.15……『ハイリゲンパンツァー』発動」

 “聖王の鎧”。










 午後21時30分、管制室──。



 単車を二人乗りして飛び出して来た時には流石に面喰った。マッハ五にも及ぶ極超音速で飛襲して来たいたはずの敵が、一度姿を暗ましたかと思えば今度は格段と進行速度を落として出て来たのだ。この敵の意味不明な行動にはクロノのみならず、隣で事態の一部始終を観察していたスカリエッティも「ほほぅ!」と感嘆の声を上げる程だった。

 上空からの絨毯爆撃と真正面からの弾幕に自らを晒しながら突貫して来るその姿は今ではただ愚かだとしか感じられず、もはや完全に制圧してしまうのも時間の問題かとも思っていた。

 ところが──、

 「し、司令! 敵の周囲に高濃度魔力反応有り!」

 「詳細なデータを! 映像拡大! 出来るだけ解像度上げろ!」

 「了解!」

 魔力反応が検知されたのは言われずともレーダーを見れば分かる。敵勢力を示す赤い光点から魔力の放出を表す波紋が広範囲に広がっていた。指向性が無く円を描くようにして全体に波及している所を見る限りでは恐らく攻撃魔法ではないはずだが、確かにこの魔力量の数値は無視出来なかった。

 「なのはが撃つ砲撃魔法と同じ位の魔力量が全体に散布されている……。だがこの魔力波長……どこかで……」

 クロノの脳裏に引っ掛かる魔力放出パターン。過去にどこかで見た形跡があるそれは確か三年前に……

 「映像、拡大します」

 「…………何だこれは!?」

 ズームして映されたのはさっきと同じ夜の街を爆走するバイクだった。上空と地上からの迎撃に晒されながらも走り続けるその車両には傷一つ無く、乗っている二人も当然と言わんばかりに堂々と二人乗りして走行していた。確かにそれだけ見れば何の異常も感じないのだが……クロノに驚嘆の言葉を言わしめた要因が二つあった。

 一つは走行するバイクの真下に浮かび上がっている疑似魔法陣。

 そしてもう一つは──、



 車両全体が赤く燃え上がっていた事だった。



 爆走する二輪車がハンドルからタイヤ、排気ガスを吐き出すマフラーに至るまで、とにかく全体が轟々と揺らめく真紅の陽炎に覆い隠されており、劫火の塊となったそれに跨って二人の戦闘機人は夜の街道を走り続けていた。この世のものとは思えないその光景を見たクロノの脳裏に浮かんだのは、十数年前に日本の文化を学ぼうとして手に取った宗教関連の本に描かれていた地獄絵図……地の底に堕ちた亡者共を乗せて責め苦を負わせる化物、“火車”を彷彿させていた。

 その分厚い魔力防壁は真正面から飛来して来る弾幕を触れたその瞬間から掻き消して行き、二人を吹き飛ばすつもりで放たれた砲撃でさえもが鏡面を光が反射するように軌道を屈折され、軌道上のビルや地面を抉るだけに終わった。

 「ほう、そうか……。彼はこの為に“聖王の器”を……」

 「まさか『聖王の鎧』っ!?」

 「聖王一族を最強たらしめ、“ゆりかご”をも難攻不落にさせた究極の絶対防御スキル……まさかISとして取り込むとはな。この私も驚きを禁じ得ないよ」

 「感心している場合か! 全部隊に通達! 全ての攻撃を対象に集中させろ!!」

 「あの能力は使用されている魔力よりも多くの魔力をぶつけねばならない……。無駄だと思うがなぁ」

 「だとしてもっ、何もしない訳にはいかない!」

 クロノの通達が現場に届いたのか、迎撃部隊から放たれる魔力弾の火線が一点に集中し始めた。一発一発の威力は低かろうが集中させれば破る事は不可能ではないはず……そう希望を託す想いで彼は現場にただただ攻撃を集中させるように命令し続けた。その甲斐あってか、流石に打ち破るまではいかなかったようだったが、あまりの猛攻に屈し始めたらしくバイクの速度が徐々に失速を始めた事が確認出来た。この時点で本部との相対距離は60kmをとっくに切り、不動を守っている地上部隊の最前線とは既に20kmにまで迫っていた。

 当然、とうの昔に結界の効果範囲内だ。

 「結界準備!」

 「99%っ!! いつでもどうぞ!」

 「良しっ! 封時結界発動っ、カウント開始!!」










 バイクを急停止させ、トレーゼとセッテが同時に降りる。紅い焔とも見紛う“聖王の鎧”を身に纏った兄のすぐ背後からセッテが付き従う形でゆっくりと歩いて進行し、魔力弾が着弾した地面から飛び散る破片を気にもせずただひたすら前進した。真正面から飛来する弾幕は前を歩く兄の“鎧”に阻まれて消滅し、燃え盛る地獄の業火にも似たその姿形に徐々に恐れを成し始めた迎撃部隊の戦線が徐々に後退を開始する様子が確認出来た。

 だが、この後退が別の意味を含んでいる事を二人は見抜いていた。

 「前線が、必要以上に、退いている……。お前は、これをどう見る、セッテ?」

 「こちらが追い撃ちを掛ける為に陽動し、接近した瞬間を見計らって結界を発動させる算段でしょう。たった今通信を傍受して聞きましたが、もう秒読み段階に入っているものかと思われます」

 「是非も無い……このまま、前進あるのみ。あちらは、こちらを網に掛けた、つもりだろうが、その実は逆……こちらが、奴らを網に掛けたのだ」

 両脚装備のローラーが回転し、トレーゼが一気に加速し出した。それを追ってすぐにセッテも背後にぴったりとくっ付いて追従する。陽炎のように揺らめく魔力防壁で前も見えないが、これが今の自分達を守っている一枚の壁……一度これを解いてしまったら二人揃って鴨討ちにされる事は間違いないだろう。かと言ってこのままずっと徒歩で移動していてもどうする事も出来ない……。

 「何か策はあるのですか!?」

 「策が、あるのかだと……? では聞くが、セッテ……お前の兄は、何の策も無しに、敵陣に赴くような、愚か者か?」

 「ではどうやって……!」

 「見ていろ……じきに分かる」

 そう言いながら彼の指さす方向には未だにこちらに対して魔力弾の嵐を叩き込んで来る魔導師部隊の影……。こちらが守勢に回っているのを良い事にして絶え間なく射撃と砲撃の連射を行い続けながら、トレーゼの言う通りその前線が目に見える速度で後退を繰り返しているのが確認出来た。目測でおよそ1000m弱……狙撃技術を持っていない者では苦しい距離であるにも関わらず、前線は更に更に後退をして行く。それでもなお攻撃の手を全く緩めないのは既に彼らの狙いが牽制ではなく、こちらが反撃に転じて接近して来るのを誘っている陽動だと言うのもどうやら事実らしい。だが結界の発動を担当している魔導師達はその全員が地上部隊の壁に守られた奥に位置している為、排除するにはどうしてもその前の数百以上もの部隊を突破せねばならない。

 そして、今の二人にはそうするだけの猶予は残されていなかった。

 「距離的にも時間的にも厳しいです。ワタシが前線を引きつけている間に兄さんのライドインパルスで強襲……と言う手立てもありますが?」

 「お前が、前に出る必要は無い。それに、言ったはずだ……今夜殺すは、一人だけだと」

 「ですが……」

 「もう少し、待て。結界を発動させる時、奴らは、その一点にのみ、集中するはずだ……。その瞬間、僅かな隙が生まれる……その時を突けば、確実に、奴らを落せる」

 それだけ言ってトレーゼは待った。ただただ待ち続けた……いずれ来るその『最良の時』、その瞬間を──。

 上空を飛んでいた航空隊が徐々に高度を下げ始め──、

 展開していた陸士部隊の大群の後退速度が遅くなり──、

 魔力弾の弾道が低くなったその時──、



 全てが『止まった』。



 「来た!」

 敵の後退と弾幕、その二つが全く同時に静止したこの一瞬こそトレーゼが待ち望んでいた瞬間に他ならなかった。眼前に敵を目にしながらの攻撃中断は本来戦場では考えられぬ行動だ……その行動が表す意味はたった一つ……。

 攻撃よりも優先すべき事態が発生すると言う事だ。そしてそれはこの場合、このクラナガン全域を対象とした広域封時結界の発動に間違い無い。

 「セッテ、良く見ておけ……」

 「っ!?」

 それまでずっと展開されていたハイリゲンパンツァーが解除され、足元の疑似魔法陣も同時に消滅。しかし間を置かずに再び疑似魔法陣が出現するが、その場所は……

 「テンプレートが……頭に!?」

 頭頂。あたかも天使のリングの如く頭上で回転するそれにセッテは思わず見惚れ、そして確信した……今から自分の兄はとんでもない事を仕出かす、と。その姿にかつての教育者であるトーレにすら抱いた事の無い畏敬の念を感じながら、彼女はトレーゼの繰り出す二つ目の『切り札』をしかとその双眸に焼き付けようと目を見開いた。

 「これぞ、Dr.スカリエッティですら知り得ぬ、対魔導師及び騎士戦特化型戦闘機人の、真髄…………No.13『Treize』、最強の由縁……!!」

 結界の発動で周囲の景色が灰色に染まろうとしたその時──、トレーゼが両腕を天高くかざし鮮血の真紅の光が星の半球を真昼の如く浸蝕した。

 その輝きは【スターダストデヴァステイター】が炸裂した時の比ではなく、太陽どころか超新星の爆発を思わせる凶暴な煌めきが建物を、街路樹を、地上本部を、セッテを、そして敵対する2192名もの大軍勢を包み込んだその刹那──、





 「IS、No.13────発動」





 二度目の『停止』がクラナガンを制圧した。










 午後21時36分、管制室──。



 「な、何が起こったんだ……!?」

 天井の照明とモニターの電源が落ちて暗闇に囚われた管制室の中でクロノは努めて冷静になろうとしていた。つい今しがたまで映っていたはずのモニターはその全てが完全に機能を停止してしまっており、現場との連絡を取ろうと通信機器を作動させてみようとしたが……

 「動かない……! このタイミングで故障か?」

 いくら操作してもウンともスンとも言わないでいる機器を見てクロノは苛立ちを隠せずにはいられなかった。ここにある全ての機器が一斉に故障して使い物にならなくなるなどどう考えても不自然、有り得ない事態だ。闇に目が慣れ始め、周囲のオペレーター達も事態が完全に把握出来ていない所為で動揺が管制室全体を走った。どうやらモニターだけでなく各員のコンソールまでもが機能停止状態に陥っているようだった。

 「外部との通信手段を断たれたか……。誰か一名、管制室の外に行って外部の担当員と連絡を取ってくれ!」

 「では私が……!」

 出入り口の一番近くに居たオペレーターが挙手し、速やかに実行に移すべく自動ドアの前に立った。

 だが──、

 「あれ? ちょ、あれ、何で!?」

 「どうした?」

 「開かない……システムがロックされていますっ!!」

 「何だと!!?」

 本来自動ドアは何かしらの支障があって開閉機構が上手く作動しない場合は手動で開くように設計されているのだが、どうやらこれはそれすら無理なようであった。押しても引いてもと言うのはこう言う事を表すのだろう、実際三人掛りで開けようと試みているがビクともしない。

 「ちょっとどいていろ!」

 「待ち給え提督殿。今なにをしようとした?」

 「デュランダルを見て分からないか? 無理矢理突破するに決まっている!」

 「落ち着きたまえ。確かこう言う重要な部屋のドアと言う物は結構な強度があるらしいじゃないか。提督殿は一発で破れるだけの自信はあるのかな?」

 「一発で無理なら───」

 「加えて、君の魔力資質は『凍結』……君が鉄壁のドアに複数の魔力弾を撃ち込んで、ドアが破れるのと我々が爆散した冷気で凍死するのはどちらが早いかな……」

 「それは……っ!」

 「自信が無いなら止めておきたまえ。百害あって一利も無い。それよりも皆でこれを見ないか? リアルタイムのライブ映像だぞ」

 そう言って終始落ち着いた態度を一貫しているスカリエッティが出したるは……小型の携帯テレビ。前時代的な折り畳みアンテナを最大に伸ばすとその先を丁寧に調整しながら無線の受信状況を確認し始めた。

 「こんな事もあろうかと思って用意しておいて良かった。もし外部との通信が断絶した時の為にと、前線の地上部隊の一小隊にカメラを預けておいたんだよ。おお! 良い具合に映った」

 オペレーター達にシステムの復旧を任せ、クロノはスカリエッティと共にその小さな画面を食い入るように凝視した。時々画面がブレるのは映している隊員がカメラを手に持って移動しているからなのだろう……せめてこれが無線通信機だったならここから指示を出せるのだが、映像も音声も現場からの一方通行なので歯痒い事この上ないばかりだ。

 映像が大きくブレて天高く聳え立つ巨大なタワーを映した。地上本部を現場側から見た映像だが、上空を絶え間なく照らしていたはずのサーチライトが一基も作動していないのか全くの暗闇が広がっている様子が映されていた。その後映像の拡大機能を使って分かったのだが、あの700以上も居たはずの航空部隊が一人も上空を飛んでいなかった。

 「どう言う事だ? 上空の部隊が……消えただと?」

 本当に一人も居なかった。冬の夜の暗闇を差し引いたとしても魔力光の一つも見えないのはおかしい……まさか全員撃墜された!?

 「流石にあの一瞬であれだけの数を墜とすのは不可能だ。もっと別の方法があるにしても…………………………………………まさか!」

 「どうか……?」

 「いや、待て……そうだ、有り得ない。今までただの一度も…………まさかっ、“進化”したとでも言うのか!? …………違う、そうじゃない。……………………そうか、そうか! そう言う事か! そうだったのかっ!! この次元世界最高の頭脳を持つ、このジェイル・スカリエッティが…………ハメられた」

 「待て! 一人で先に状況の分析を進めないで────」

 「ハラオウン提督っ!!」

 「ぅお!?」

 がっしと肩を掴まれた事でクロノは大きく仰け反ったが、それ以上に驚愕したのは自分の肩を押さえるスカリエッティの表情……いつも蛇の様な気味の悪い笑みを湛えていた彼からは想像も出来ないような焦りに満ちた緊迫した表情がクロノを捉えて離さず、その慌て様を見てクロノの方もこの事態の重大性についてやっと理解が追い付き始めた。目の前に居る人類最高峰の頭脳を持つ男が恐怖する事態を……。

 「私は……たった一つだけ計算違いをしてしまっていた」

 「計算……違い?」

 「先程訊ねられたトレーゼの持つはずだったISの話しを覚えておられるか? あの時私は『彼にISは無い』と断言してしまったが…………すまない、あれは間違いだった。本当はただ単に発動しなかったのではなく、『今まで発動しなかった』だけだったんだ!」

 「今まではって……一度発動しなかったのならDNAそのものが変異しない限りは……………………そうか、そう言う事かっ!!」

 クロノもスカリエッティの言わんとしている事を把握し始め、どんどん顔が青褪め出した。

 スカリエッティのナンバーズ製造理論によれば、特殊技能を発現させる為に必要なIS因子は非常に制御が難しく、常人では上手くDNAに組み込めたとしても遺伝子そのものが発現条件を満たす最適な構造をしていない限りは決して発動しないようになっている。なので彼の場合は埋め込む因子を改良するのではなく、素体となる人間の肉体を改良する事で12人のナンバーズ全員にISを授ける事に成功したのだが……過去にトレーゼだけはどう言う訳か埋め込んだ因子が適合せず、結局彼の管理下に居た時には一度たりとも発動する事は無かったと聞いていた。他の姉妹が持つ因子を組み込んでも何の問題も無く発動する事に不思議を覚えなかった訳ではないが、ナンバーズの原初にして最高傑作でもあるトレーゼが秘める実力を過信してさえいたスカリエッティは微々たる損失だとしか思わずに放置し、そのまま“完成された未完成”のままDr.ギルガスに譲渡してしまった野だと言う。

 「因子の働きを潤滑にするクイント・ナカジマの遺伝子を以てしても発動しなかったはずなのに、17年もの歳月を経て肉体側が変異した…………通常なら有り得ない事だが、彼の持つ特性を考えれば頷けない話じゃない」

 「“無限の進化”……二十年近くの歳月を掛けて、ISを発動させるに適した状態にまで肉体を進化させたと言う事か」

 「いや、因子に肉体を合わせると言うだけで二十年も要する訳が無い! いやいや、そんな事はどうだって良い! マズい……実にマズいぞっ!!!」

 「待て待て! 一体何がまずいんだ? ちゃんと説明しろ!」

 「ナンバーズは元々何を目的にして造られたかは知っているな?」

 「確か、『対魔導師及び騎士戦特化型戦闘機人』……魔法技術を応用する我々に対抗する為に製造された戦闘機人だったか?」

 「トレーゼはその最高傑作……つまり、如何なる実力者であろうとも彼の前に立ったその瞬間から一気に弱体化させられてしまう。強制的に、そして確実にな」

 「一体……どんな能力なんだ」

 返事の代わりにさっきの小型テレビの画面が再び差し出された。画面はいつの間にか地上本部や街の光景から一転し、だだっ広いメインストリートを映している。普段は街の動脈とも言うべき大道路が今や敵の凱旋に使われ、迎撃の魔力弾が雨霰の如く着弾した所為でアスファルトの地面は土が剥き出しになる程に抉れていた。そして、その前方に向けられたカメラ先に映るモノ……それを拡大して映した瞬間──、

 「何だ……これは?」

 一瞬画面全体が真っ白になったのは、映したそれが物凄い光を発していたからに他ならない。カメラのレンズを介してこの眩しさ……恐らく暗闇に閉ざされたクラナガンの街もこの場所だけはまるで真昼の太陽に照らされたような明るさに満ち溢れているのだろう。ただし、太陽のような神々しい輝きではなく、辺り一面を血の海にしたような真紅の毒々しい輝きだが……。

 その輝きの中心……目を凝らせば僅かに見える人形のシルエットは紛う事無く最強の戦闘機人、トレーゼ。下げた両手の平を前に向け、静かに瞳を閉じている彼の頭上に眩く輝く真紅の疑似魔法陣……その姿はあたかも混沌としたこの地上に舞い降りた天使のようだったが、その実態は見た目には程遠いどころか正逆としか言い様が無い。たった二人の侵略軍に対しこちらは2200の軍勢を放ったにも関わらずその差は一瞬にして覆され、守るべき街の道路は彼らの凱旋道に利用されている……もはや動ける者は誰一人として居ない、敗北したも同然である。

 「そうか……発動してしまったのだな、完全に!」

 テレビを持つ手をわなわなと震えさせながらスカリエッティの興奮と焦燥が絶頂を迎える。画面から届く輝きに己以上の狂気を見出したのか、その表情はクロノが一度も見た事が無い恍惚とした、或いは驚愕、或いは恐怖、また或いは恐怖とも取れるような表情をしていた。

 「対魔導師スキルの最高峰…………『アブソリュート・ドミネイター』が!」










 同時刻、地上本部第一医務室にて──。



 「あ……あぁ…………」

 「────────」

 「ほ、本部……こちら第一医務室スタッフ……。異常事態発生……至急、応援を」

 「────────ウゥ!」

 「か、彼女が逃走してしまう! 早くっ!」

 「トレーゼ…………トレーゼぇ!!」

 「彼女が……ノーヴェ・ナカジマが脱走した!!」

 震えながら電話をする局員の視線の先には、竜をも昏睡させる麻酔薬をものともせずに覚醒し、仁王立ちとなったその全身から真紅の陽炎を噴出するノーヴェの姿があった。ベッドの上の拘束ベルトを引き千切った時に破れたのか服の所々は引き裂かれ、奥から束縛されて痕が付いた素肌が見え隠れするのも全く意に介さず、非常に興奮して肩を怒らせながら彼女は一歩を大きく踏み締めた。

 だがその次を固く閉ざされたドアが阻んだ。当然、本部全体がシステムダウンを起こした事など知りもしない上に、ほんの一欠片しかない理性で何とか精神を保っているだけの危うい状態のノーヴェが目の前の状況を冷静に分析出来るはずも無く……。

 「邪魔──すんなぁああああああっ!!!」

 何の遠慮も躊躇いも無くその鋼鉄のドアを蹴り破った。大の大人が三人掛かりで体当たりしても決して外れないドアが、たった一発の蹴りでアメ細工のように歪んで枠を飛び出し通路の壁に激突、豪快な音を立てて周囲の局員達を恐怖させた。

 これで彼女の進行を妨害するモノは消滅した……大きく息を吸ったり吐いたりして調子を整える仕種の後、大きく跳躍し──、

 真正面の壁をブチ破いた。

 「ガアアアアアアアッ!!!」

 獣が獲物を追い求めてささくれ立った藪を突っ切るように、眼前に立ち塞がる鉄筋コンクリートの壁を鉄拳、蹴脚、体当たりの三連撃で発泡スチロールを崩すようにして爽快さすら感じさせる速度で次々とブチ破って一直線に外へと向かって行った。砕け散ったコンクリ片には歪な拳の跡が刻み込まれ、彼女のモノではない紅い魔力が蒸気に混じって昇華する……。

 当然、もはや獣と化した彼女を止める事など誰にも出来なかった。










 『Absolute』……“絶対の~”。

 『Dominate』……“支配する”。

 直訳して“絶対支配者”……それが、一時は創造したスカリエッティ本人ですら諦めかけていた全ISの中で最高のスキル、トレーゼにのみ許された特殊技能である。

 最大の特徴はテンプレートの出現位置を置いて他には無いだろう。通常ISが発動によるエネルギー解放時に足元に疑似魔法陣が展開されるのに対し、この場合は頭の上……エンジェルリングの形となって出現するのが最大の特徴だ。そして第二の特徴はその光量の凄まじさ。白昼の太陽にも匹敵するであろう輝度は障害物さえ無ければ地平線、水平線の彼方にまで届くほどに眩しく、そしてその光の行き届く全ての空間がこの能力の効果範囲内となる。

 「……前線、撤退を開始しました。どうします? このままでは光の当たらない場所に避難されてしまいますが……」

 「愚かな。この輝きは、ただの光に、よるものではない。可視化するまでに、凝縮された、超高濃度電子粒子…………ナノサイズの、粒子一つひとつが、俺の意思に沿って動く、デジタルウイルスの、結晶体だ。光を浴びた全ての電子機器に介入、操作し、そして完全に制御化に置く能力…………それが、この『アブソリュート・ドミネイター 1stフェイズ』の、力だ。一度これに干渉されれば、ネットワークを媒介し、別の媒体へと影響する。理論上、この能力で、一つの次元世界を、完全掌握するのに要する時間は、たったの90分だ」

 「全ての電子機器……ですか。つまりそれは……」

 「そう……システムと名の付くモノ、プログラムと名の付くモノ、全てに例外無く干渉する。もちろん……デバイスのAIも例外ではない」

 トレーゼとセッテの視線の先──、

 紅い光が照らし出すその先で──、



 機能停止したデバイスを抱えて全力撤退する2200の武装局員があった。



 手に手に持ったデバイスはその全てが完全にAI作動を停止されており、持ち主の武装局員達が必死になって指示を出したりトリガーを引いたりしても決して動く事は無く、デバイスを強制停止された事で身に纏っていたはずもバリアジャケトまでもが跡形も無く消滅していた。魔法に適応しないデバイスなどマガジンの入っていない銃器も同然……武装解除された事によって魔法使用を大幅に制限された武装隊は、上空から落下して負傷した隊員達を抱えながら無様に敵に背を向けて逃亡を図ろうとした。当然、デバイスの演算機能に頼っていた結界班もAIが急停止した事で出鼻を挫かれ、首都は完全に丸裸にされる結果となった。

 「追いますか?」

 「放っておけ。俺がこのISを、解除しない限り、奴らに勝機は無い。この先、こちらが相手にするのは、たった『七人』だけだ」

 再び行軍を開始したトレーゼとセッテは穴だらけになったメインストリートを悠々と歩き始めた。だがその足取りはまるで観光地の市街を練り歩く様な緩やかなもので、武器さえ携えていなかったら一般人と何ら変わらない自然な空気が二人の間を流れていた。先に歩くトレーゼを半歩後ろから付き従って歩くその姿は、まるで完璧な統率の取れたツーマンセル……否、阿吽の呼吸を知り尽くしたただの兄妹だった。実態は鼠を追い詰める虎猫ながらもその双眸には決して戦闘の意思の光は無く、相手側から見れば完全なる侵略行為でしかないこの進行も二人にとっては単なる目的地までの移動でしかない……。何もしなければそれで良し、敢えて立ち向かって来たりなんかするから排除しなければならなくなるだけで、少なくともこの場に限って言えばトレーゼとセッテには侵略と言う考えは全く無い状態に等しかった。

 「…………兄さん」

 「……何だ?」

 「……………………いえ、何も……」

 「……歯切れが、悪いな、お前らしくない」

 「…………そのIS……ワタシには……」

 「ああ、分かっている。お前には、『使わない』」

 「…………感謝します」

 「頭を下げるな。分かっている……この能力、『2ndフェイズ』の力は、然るべき場面で、使う。今ここでは、使っても意味が無いし、お前には、使う必要が無い」

 「それはワタシが貴方の妹だからですか?」

 「勘違いするな。今の俺と、お前の関係は、単なる協力者……ギブアンドテイク、とか言う奴に過ぎない。俺はお前を、利用しているだけ……そして、お前も俺を、利用すれば良い。それだけで、互いの利益が、完璧に一致するのだ……これ以上無い、協力関係だと、思わないか。……………………おい、ちょっと」

 「?」

 小さく手招きされたのでセッテは小走りで兄の所まで駆け寄り、その右隣に付き従った。通信すればそれで済むのにわざわざ近くまで呼び寄せたからには何か重要な事を伝えるのだろう……そう思って耳打ちしようとしているトレーゼに顔を近付けると──、

 「離れ過ぎだ、用心しろ」

 「あ────!」

 セッテはこの時初めて気が付いた……自分と兄の間の距離がいつの間にか小走りしなければならない位にまで開いてしまっていた事に。戦闘中であれば埋められない間隔でもなかったが、これだけ離れていてはハイリゲンパンツァーの効果も及ばない……気の緩んでいたさっきの状態で万が一にも狙撃を受けていたなら絶命は免れなかったはずだ。

 「常に、意識を逸らすな。逸らせば、死ぬぞ。…………死んでしまってからでは、遅いからな」

 「肝に命じておきます。人工培養の強化臓器ですが……」

 「……………………」

 「……………………」

 「……………………フッ!」

 「…………あ、笑った」

 「今までに、聞いた中で、最高級のジョークだった…………才能あるな、お前」

 「才能……ですか。素直に喜べるものなのでしょうか」

 「むしろ、誇れ。毎日、聞いていても、良いくらいだ」

 「毎日ですか……。それも良いですね。ところで兄さん……分かっていると思いますが……」

 「ああ。さっきから気付いている」

 「……………………」

 「……………………」

 撤退して行く前線を傍観しながら移動していた二人はふと行軍を止めると互いの背中をぴったりと合わせて死角を埋めた。既に前線はとっくの昔に退却した……この無人状態での襲撃など有り得ないだろうが、トレーゼとセッテの鍛え抜かれた心眼は自分達に向けられて来る殺気をしっかりとキャッチしていた。だが遠過ぎるのか或いは相当の手錬なのか、届いて来る殺気はとてもか細く不確かで、攻撃がどこから飛んで来るのかをすぐに判断する事は出来なかった。

 だが相手に明確な攻撃意思はあるのならば、その瞬間には殺気が最高潮に達するはず……。その一瞬で敵の居所を掴んで制空圏から脱する!

 「どこだ……どこに居る……?」

 「ワタシの感覚領域では捉えられません。ですが思っているよりも近くに居るのではないかと」

 「近くか……だが、周囲に生命反応は……」

 精密機器によって高められた戦闘機人の視力は30.0、更にセンサー類が視界に取り込んだ物体を常に細分化した情報として取り込んで来るので視線の先にどんな物体があるのかなんて一目瞭然だ。だがそのセンサーにも敵影らしき情報は入って来ていない。

 前か? こちらの意識が前線に集中していたのは相手も知っているはず。となればそれは無い。

 後ろか? それこそ接近していたら気付くはずだ。

 上か? デバイスが起動しない今、補助も無しに飛行出来る手錬が居るとは思えない。

 となれば選択肢はたった一つ──、

 「下かっ!!」

 瞬間的に増幅した殺気を足元に感じて二人が上空へと飛び上がるのと、アスファルトを突き破って地下から白銀の剣山が飛び出すのはタッチの差だった。その飛び散るアスファルトと土の中にトレーゼとセッテは確かに見た……筋骨隆々の褐色の鋼の肉体と頭に付いた人外の耳、そして特徴的な蒼い尾……。

 「貴様っ!」

 「ここは通さん!! 『盾の守護獣』の名に懸けて死守するッ!!!」

 「犬畜生が」

 「犬ではない! 守護獣だぁああああっ!!!」

 突出した【鋼の軛】を足場に跳躍したザフィーラが一気に距離を詰める。突き出された鉄拳は確実にトレーゼの顔面を狙っており、このまま行けば直撃コースは必至だった。だが当然そんな事は傍に居たセッテが黙認するはずもなく、長身を活かした足技ですぐさまカットされてしまう。

 「くっ……!」

 迎撃を恐れたザフィーラは一旦地面に降り、展開させていた【鋼の軛】を消滅させ視界を保った。対するトレーゼらも突然の強襲に堂々とした感覚を崩す事も無く、悠然とザフィーラの前に降り立った。

 「戦闘機人に、接近戦を、挑むとは……笑止。だがしかし、中には貴様の様に、デバイスに頼らずとも、戦闘可能な輩が居るとはな……」

 「古代ベルカの戦士を甘く見ない方が良い。魔導師がデバイスと言う名の武器を手にする遥か以前から我々は己の身一つで侵略者どもを打ち倒して来た。もはやこの拳に砕けぬモノ無しっ! 貴様も同じだ、“13番目”!!」

 「躾がなってないな……どうやら、首輪を付けんと、実力差と言うモノが、理解出来んらしい…………。セッテ」

 「はい」

 「お前は先に行け。この負け犬を、倒した後で、すぐに追い付く。歩いて行けよ?」

 「了解です」

 「行かせると思うか!」

 「生憎、弱いモノいじめは、趣味ではない……二人で相手するのも良いが、貴様の負けは、確定だぞ」

 正面から堂々と侮辱された事がよほど悔しいのか歯ぎしりしながら怒りを耐え忍ぶザフィーラを余所に、セッテはその脇を無防備に通過して行った。管理局側の本懐はあくまでトレーゼの鹵獲のみ……ここでセッテを優先させる事は与えられた任務に反すると考えたザフィーラは、眼前の傍若無人な戦闘機人に向き直った。対するセッテの方は本当に徒歩で目的地に向かうらしく、穴だらけになった夜のメインストリートをゆっくりと前進し始めた。

 そして場にはザフィーラとトレーゼのみが残った。

 「さて……まず何から、教えて欲しい? お手? お座り? 何でも良いぞ」

 「貴様っ、守護騎士を愚弄するのもいい加減にしろ!」

 「そう、かっかするな。貴様と俺とでは、力量に差が、あり過ぎる……そうだな、ハンデを、設けてやる」

 無防備に一旦背を向けたトレーゼは大き目のアスファルトの塊を引っ掴み、そこに椅子代わりにして腰を下ろした。起動していたマキナを剥き出しの土の上に突き刺して頬杖をつき、完全に戦意喪失と言った戦いには似合わない崩れたスタイルで牙を剥く守護獣と向き合った。

 「……なんの真似だ?」

 「五分やろう。五分で、貴様が俺を、排除出来なければ……そこからは、俺が全力で、貴様を消し潰す。いいな?」

 「三分で充分だ!」

 「ま、精々頑張れ、犬」










 21時43分、地上本部シェルター連絡通路にて──。



 「……………………」

 「ナカジマさん、どうかしましたか?」

 「…………トレーゼ……」

 局員に連行されて暗闇の通路を避難していたスバルは不意に立ち止まると窓の外に広がる闇夜の空を見つめた。冬の澄んだ夜空には小さな星粒が輝き、立ち込めた暗雲が虫喰い穴のように空の星を覆い隠していた。そしてその雲さえも照らし出す地平線の向こうの紅い光……彼女の翠の眼はその凶悪な光に魅せられて釘付けになっていた。傍の付き添いが先を急ぐように促しても脚に根が生えたかのように微動だにせず、ガラスの外に広がっているこの世のものならざる光景を眺めていた。

 「……戦ってるんだね……みんな、必死に」

 本部の停電と同時に事切れた自分の相棒に目を移す。戦えない……利き腕を欠き、デバイスも動かず戦意すら湧いて来ない、そんな自分が行ったところでどうする事も出来ないのは自明の理……火を見るよりも何とやらと言う奴だ。既に自分よりも強い実力者達が一斉に撤退を始め、既にこの地上本部の手前の最終防衛ラインにまで逃げて来ている事も知っている。あれだけの大部隊が退けられた今、一介の警備隊の自分が出て行って何になろうか……そんな諦観の念が彼女に一線を踏み出すだけの勇気を抑え込んでいた。

 「私は……無力だよね、ほんと。もう自分で何したら良いのか全然分かんないよ……。行かなきゃいけないはずなのに……」

 やがて諦めの方が勝ったのかスバルは再び連行されるままにシェルターへと赴いた。だがその視線は未だに未練がましく窓の外を向いたままであり、地平線のビルの間から見える真紅の輝きに目を奪われたままだった。

 だが結局、後ろ髪引かれる思いで投げ掛けていた視線をようやく外し、彼女はシェルターへと続くドアを潜ろうとした。

 その時──、

 「…………な、に! これ!?」

 突然降り掛かってきた得も言われぬ重圧……全身が総毛立ち、嫌な冷たい汗が背中にジワジワと湧いては流れ落ちて行った。あの紅い光が夜空を埋め尽くした時には感じなかったはずの圧迫感が今のスバルを押し潰さんばかりに疲弊させていた。そして疲弊と同時に直感……何かとんでもない事が起きたか、或いは今から起こると彼女は本能的に察知した。だが周囲の者はこの事実を予想すらしていない。恐らく今この場に居る者の中で気付いているのもスバルただ一人……彼女しか気付けなかった。

 止めなきゃいけない! 動けない自分の代わりに誰かに危機を知らせねば!

 だが誰が今の彼女の言う事に耳を貸すだろうか……。既に幇助罪の疑いが掛けられている彼女は立派な重要参考人……どんなに喚き立てても意味は無いだろう。だが危機が刻々と迫って来ている事は事実だ。そしてそれを知り得たのは自分ただ一人……。

 ならばもう──、

 「ごめんなさい……!」

 「な、何を……ぉぐっ!?」

 振り向いた瞬間を見計らい健在な左手で鳩尾に一発、人間一人を気絶させるには申し分無い威力だった。担当の局員をその場に残し、スバルはマッハキャリバーを握り締め来た道を遡り始めた。起動しないデバイスなど装飾品にもなりはしないと分かっていながらも、彼女は外へと通じる道を探してひたすら駆けた。防火シャッターに阻まれた道を迂回し、制止の声を掛ける局員を無視して階段を飛び越し、ひたすら外を目指した。治りたての脚が悲鳴を上げるのも無視し、ずっと抑え込んでいた想いに突き動かされるままにスバルは誰にも止められる事も無く駆け抜ける。

 その甲斐あってか地上一階の東口玄関に到達するのに五分も掛らなかった。前線の撤退によって早くも玄関前は戦闘を続行出来なくなった部隊でごった返しており、誰も彼もが自分達の状況確認に必死であり突然飛び出して来たスバルの存在に気付く者は誰も居なかった。

 「……行けるよね?」

 現状ではどう言う訳か知らないがデバイスは使用不可能……だが魔法そのものが使えなくなってしまった訳ではない。マッハキャリバーの補助無しでどこまで行けるかは分からないが、飛行が出来ない以上は【ウィングロード】で一気に目的地まで駆け抜けるより方法は無いだろう。その際の両脚に掛る負担はさっきの比ではない事は明白だが、もはやここまで来て怖じ気付く事も許されない……ならばただ前進あるのみだ。

 誰の物かも分からないコートを羽織ると自分に注意が向いていない隙を見て駆け出す準備をする。だがその時になって彼女の眼にある物が留まった。

 「あれって……?」

 “それ”を目にした瞬間に閃いた妙案……実行に移すべく彼女は一気に駆けると──、

 “それ”に拳を突き刺した。










 「……ジャスト、180秒か。宣言通りだな、犬。貴様の負けだ」

 アスファルト塊に頬杖をつきながら座っていたトレーゼは退屈そうにそう言って立ち上がり、自分の目の前で倒れている守護獣の無様な姿を睥睨した。全身を満遍なく攻撃されてボロ布のように変色したそれは間違い無くザフィーラだったが、現在の彼はもはやとっくに虫の息となって地に伏していた。もう完膚無きまでに戦意を砕かれた誇り高き守護騎士が立ち上がる事は無く、その横を通ってトレーゼは一瞥もせずに先行させていたセッテの後を追った。

 歩かせていた事もあってセッテと合流するのに時間は掛らず、ごく自然に当たり前の様な感覚で二人は再び肩を並べた。

 「早かったですね」

 「躾のなってない、犬にしては、存外良くやった方だったが……如何せん、接近戦が能だけの、単純な奴だった。要は近付けさせなければ、良いだけの事だ」

 「あれ程の実力者を前にそんな事を言ってのけるのは兄さんぐらいでしょう」

 「本当は、お前に任せても、良かったんだがな……一人なら、問題無いのだろう?」

 「ええ。命令とあれば完全に遂行出来ます」

 「ならば、命令しよう、セッテ────」

 トレーゼの右手がすらりと挙げられ、鋼鉄に覆われたその指先が無人となったビルの一つを指差し……



 「引き摺り出せ」

 「了解」



 言葉が言い終わるのと全く同時に加速したセッテの肉体が一瞬の内にビルの壁を破砕して内部へと消えた。次の瞬間に噴煙の中から飛び出す三つの影があった。一つは突撃を敢行したセッテで、命令を忠実に実行した彼女は再び兄の一歩後ろに控えた。そしてそれとは別に飛び出した二つの影はセッテとは反対の方向に飛び去り、やがて煙が収まって行くと共にその全容がはっきりと見えて来た。

 「……ほう、貴様も居たか」

 トレーゼが意外そうな言葉と同時に黒杖を構え、セッテもブレードを構えて対峙した。対する潜伏者達も……

 「兄上、ここから先へは行かせられません」

 「悪いけど、二人ともお痛はそこまでよ。大人しく連行されるなら良し。さもなければ……」

 「さもなければ、何だ? ギンガ・ナカジマ。No.5」

 紫紺色のバリアジャケットと白銀の篭手を装備したナカジマ家長女と、同じく両手に起爆ナイフを構えた隻眼の戦士チンクが侵攻を繰り返すトレーゼ達の前に立ち塞がった。二人揃って並び立つその勇ましい姿は、我先にと撤退して行った前線部隊には無い気迫を感じさせていた。その鬼気迫る気迫の中には互いの妹を貶められた事への怒りの念も少なからずあったはずだ。

 だが当の敵意を向けられているトレーゼ自身はそんな事は知った事ではないと言わんばかりに受け流しており、そんな事よりも自分の前にギンガが出て来ている事実に興味があるようだった。

 「デバイスの補助も無しに、バリアジャケットを、維持するか……。果たして、どこまで保つかな」

 「試してみるかしら。殴られると痛いわよ」

 「ならば、叩き潰すまでだ。セッテ、殺さなくて良い、その一歩手前で、止めておけ」

 「了解。失礼します、チンク」

 ブレードを構えたセッテが一気にチンクとの距離を詰める。その際にブレードの一本をギンガに投擲して牽制する事も忘れない。流石のチンク言えどもナイフでは分が悪いと悟ったのか、隣のギンガと共に一旦距離を離して形勢の立て直しを図った。同様にギンガの武装も上手く機能していないブリッツキャリバーとリボルバーナックルと言う格闘戦一択の武装……デバイスの補助が期待出来ないこの状況下ではギンガに残されているのは近接格闘戦のみと言う絶望的な選択肢だけだった。更にギンガはナンバーズの雛形であり、この四人の中では最低スペック……つまりは燃費が悪く、持久力に欠ける可能性が大きい。もしそうなった場合チンク一人でギンガの援護とトレーゼらの撃退をこなすことは不可能となってしまうのは確実だ。つまりは短期決戦、どちらかがもう一方を狩るまで続くデスマッチ!

 「セッテ、ここはお前に、一任する。退けて見せろ……かつての姉を」

 「了解しました。チンク、ギンガ……悪いですが、お二人にはここで退場して頂きます」

 「出来るのか、お前に。姉に手を掛ける事が……!」

 「やりますよ。それが命令ならワタシは忠実に実行するまでです」

 「悪道に魅せられたかっ、セッテ!」

 投擲されたナイフが空中で爆散し視界封じと威嚇を同時にこなす。しかし、爆煙を恐れる事無く突っ切って来たセッテが大きくブレードを振り降ろし、ギンガもろとも弾き飛ばそうとして接近する。空を飛ぶ事も出来ない彼女らは二手に分かれてセッテを挟み込み、その注意を分散させる作戦に出る。

 「悪に魅せられて身を滅ぼした人達を私は今までに何人も見て来た。あなたもその道に進むと言うの!?」

 「今ならまだ……戻って来れる!」

 「戻る……? それを言うなら貴方こそ間違いです、チンク。所詮ワタシ達の生きる場所……存在する為に必要な環境はどう考えても“こちら側”です。それに気付かないフリをして“そちら側”に逃げ込んだのは貴方達です」

 「セッテ……」

 「ワタシは気付いた……ワタシの場所はここです。純粋な人間でもなく、完全な機械にもなれない曖昧な存在が生きる場所は“こちら側”なのだと気付いたのです。ワタシはもう……とっくに『戻って』いるのですよチンク」

 「それはあなた本人の意思なの? 違うでしょ? あなただって一度は人間として生きる事を望んだはず……」

 「有り得ない。ワタシは機兵……細胞が老化し、フレームが腐食するその日まで命令通りに動くだけの“奴隷”です。そしてワタシは奴隷である事を容認しています。…………もう良いでしょうか? あまり兄さんを長く待たせる事はしたくありません」

 ブレードが一閃、紙一重で回避したギンガの紫紺の髪の先を寸断し、その横に立っていた電柱ごと切り裂いた。電線を引き千切りながら倒れて来るその人工柱に巻き込まれまいとその近くから離れるチンクとギンガだったが、セッテはその先端を担ぎ上げると──、

 「フンっ!!」

 「冗談きついぞセッテ……!」

 即席の弩級コンクリートハンマー……トラックは容易に寸断するであろう破壊力を秘めた一本の電柱だった物が今では完璧に武器となって二人の頭上から襲来した。直撃すれば木端微塵、上手く防御したとしても攻撃を受けた部分が壊滅的ダメージを受けるのは必至。最悪なのはこの場合、既にもう直撃コースに入ってしまっていると言う事だ。

 「くっ……はあああっ!!」

 かざしたギンガの左手にベルカ式魔法陣が出現して電柱を食い止める。しかし、普段からデバイスの補助に頼った戦法を行っていた彼女にとってカートリッジリロードすら出来ないこの状態ではシールドが長続きするはずもなく、見る見る間に三角魔法陣の面積が小さく縮んで行くのが分かる。風前の灯、もはや彼女の命運もこれまで……



 「今だセイン!!」



 きっかけは一瞬だった。チンクの合図と共に横合いのビルから飛び出して来たセインがセッテを抱えて跳躍し、そのまま対向線上のビルの壁に向かって飛び込み、自分はディープダイバーで透過してセッテだけをコンクリートの壁面に埋め込むような形で封殺して見せた。いつかの日に聖王教会を襲撃したトレーゼに対して仕掛けようとした捕縛方法と同じものだ。壁面に取り込まれたセッテは持ち前の剛力で脱出を試みたが、如何せん肉体そのものが壁と密接に融合してしまっているので筋肉一本動かせないまま徒労に終わっただけだった。

 「ようしっ、一丁あがりぃ! どんなもんだい」

 「でかしたぞセイン。これで兄上の戦力は一人だけだ」

 「まさか、もう一匹、潜んでいたとはな……。ちぃ……!」

 「行かせない! オットー! ディード!」

 「なに?」

 セッテが捕えられているビルの上階から窓ガラスを突き破って双子のナンバーズが飛び出す。完全に意識がチンク達に集中していたトレーゼは更なる潜伏者の存在はノーマークであり、セッテの救出を断念した彼は上空に逃げ場を見出した。

 しかし──、

 「ウェンディ! ディエチ!」

 「空まで……!」

 ボードに乗って強襲するウェンディとビルの屋上から砲撃体勢を取っているディエチの姿を確認し、トレーゼは遂に観念したかのように地上に舞い戻った。地上に四名、空に二名……撤退させた二千名もの大軍勢と比較すると頼り無い数だが、その実力は折り紙付きだ。接近戦特化型からミドルレンジ、遠距離からの射撃や飛行強襲まで行える豪華な小隊は今の彼女らを除いて他には居ないだろう。

 六対一……個々人の実力差はともかく、これで数の上では完全にトレーゼとギンガ率いるナンバーズらの戦況は綺麗に逆転した事になる。

 「投降しなさい、トレーゼ!」

 「早く言う事聞いた方が身の為ッスよ~、お兄さん」

 「私達の総意で管理局は貴方を鹵獲する事を方針に定めています。今ここで大人しく投降するなら良し。そうでない場合には……」

 「ごめんなさい……実力行使で排除します」

 かつて妹だった……否、妹となるはずだった者達が一斉に各々の武装を構えてトレーゼと対峙した。身に纏うはナンバーズの証たる紺色の防護ジャケット……それぞれの名を表す番号が刻印されたプレートが足元に展開された疑似魔法陣の輝きによって照らし出され、彼女らの戦意を表すかのようにその光を反射していた。

 「…………貴様ら、誰の前に立っているのか、しっかり確認してから、モノを言えよ」

 刹那、エンジェルリングが一際大きな輝きを放ち世界を真紅に染め上げた。その暴力を体現した光の奔流に一瞬怖じ気付く様子を垣間見せたかのように見えたギンガ達だったが寸前で堪え、腰に力を入れ直して両足を地面に打ち付けるように据えた。

 「そうか……あくまで、退くつもりは無いか。良いだろう! ならば、退きたくなるように、するだけだ」

 「お覚悟を……兄上」

 「ほざけ。身のほどを、弁えろ、クズ共が」










 同時刻、地上本部のとある通路にて──。



 「謀られた……まさかあの時に睡眠薬が入っていたとは……」

 完全に覚醒し切っていない頭を何度も叩きながらトーレは暗闇に包まれた通路を壁伝いに歩いていた。あの時スカリエッティに進められて飲み干したグラス……あの中に含まれていた極微量且つ無味無臭の薬物が彼女の交感神経を浸蝕し、そのまま睡眠の涅槃に引きずり込んでいた。当然、こんな事をしたりするのは主のスカリエッティをおいて他に居るはずが無い。

 何故あの時グラスに薬物が入れられたのかは分からないが、少なくとも戦闘機人を数時間に渡って昏睡させるレベルの物を入れていたと言う事はそうするだけの理由があったと言う事にもなる。だが今はそんな些細な事はどうだって良い……それ以上に重要な事を成し遂げなければならないと言う使命感がトーレを突き動かしていたからだ。

 「ダメだ……あいつを、トレーゼを止められるのは私だけだ。私が行かなければならないんだ……!」

 目の前に立ち塞がる防火シャッターを睨みつけた瞬間、トーレは超高速移動のISを発動させエネルギー翼が展開された腕部を振り被り──、



 「今、行くからな!」



 大型車両の衝突にも耐え切るその鋼鉄の壁を拳一つで打ち払い、紫紺の翅を駆って彼女は夜のクラナガンへと飛び出した。



















 一人で戦う『友人』の場所を目指す“0番目”──。

 かつて『友だった者』を追い求めて駆ける“9番目”──。

 たった一人の『弟』と対峙すべく飛翔する“3番目”──。

 自分に真の居場所を与えた『兄』を見守る“7番目”──。

 そして、自分の妹達を退けるべくその手に武器を握った“13番目”──。



 血で血を洗う無血の戦い……矛盾するこの骨肉の戦いの渦中は更にカオスへと向かい、その流れはもう当事者であろうとも止められるものではなくなっていた。


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